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<title>土偶StaticRoute</title>
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<title>酒井保 『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』 / 治療者と教育者 / 自閉症症から「人」を見る</title>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4569617077 先日このブログに書いた<a href="http://dogu.no-ip.org/archives/2009/10/post_967.php">笠原嘉『精神病』</a>の感想にキノコ先生がコメントを下さって、<a href="http://dogu.no-ip.org/archives/2009/10/post_967.php">笠原嘉『精神病』</a>がおもしろいならこの本も読んでみるがよい。とおっしゃるので「喜んで！｣と読んでみた。</p>

<p>2001年出版とちょっと古めの本であるけど、長年自閉症の子どもたちと治療者としての立場でかかわって来た著者による、サブタイトルである「心は本当に閉ざされているのか」という問いに「自閉症」とは心を閉ざして人との関わりを拒否してしまったのではなく、心を開いて触れ合いたいけど他人が怖いから可防衛になっている状態と捉えたうえで、自閉症とは何が起こっているのか、どう接すればいいのか、という事について書いてある本であった。<br />
本来は自閉症児の親やら兄弟やら学校の人やら、自閉症児となんらかの関係者である人たちをメインターゲットにしているようであるが、自閉症とは何の接点もない私が読んでも、一気に全部読ませるだけのものを持つ全編が温かいトーンで貫かれた本であった。</p>]]>
<![CDATA[<p>「統合失調症」が予後の良いほぼ完治する病気だというのとは対照的に、この自閉症はかなりの程度の影響をその人生に及ぼしてしまうとするところが以外であった。<br />
昔に『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102156119/dogunoiporg-22/ref=nosim">自閉症だったわたしへ </a>』という本を読んだことがあり、この本が売れに売れたので著者はその続編である『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102156127/dogunoiporg-22/ref=nosim">自閉症だったわたしへ2 </a>』を書いたのを知って、「心開きまくりやんけーお前絶対自閉症ちゃうやろ！」と図書館で突っ込んだことがあった。この人が自閉症でないとは言わないけど、ちゃんと結婚して本まで書いてしまうような事例は本当に特殊なのがわかった。</p>

<p>そして自閉症児は、精神と肉体が分離したような、大抵は肉体が切り離された精神だけの状態で肉体感覚が極端に少ない状態であることが多いというのがとても印象に残った。<br />
今まで怪我をしても痛がらず、風邪も引かなかった自閉症児の症状が軽くなってくると、とたんに風邪を引き始めるというのは、著者同様に人間の身体と心の不思議さを感じずにはいられない。<br />
彼が自閉症児の立場と視点に立って彼らの苦しみや悲しみを理解しようとする様は、心を打つし色々な意味で身につまされる思いであった。なんというか人との関わりについてとても考えさせられた。</p>

<p>彼は「<em>元来「普通」と呼ばれることとはまったく違った生き方しかできなかった自閉症の子どもたちが、とにかく皆と何とか共存できる程度になること、いわゆる「普通」といわれる生き方を身につけるということにすぎません。<br />
現在の自閉症治療においては、医学的治療が主体ではありません。子どもを育て教育すること、つまり療育が基本となっています。</em>」<br />
そして「<em>自閉症が治るかどうかを問うことよりも、子どもたちの育ちを見守ってゆくことがむしろ重要なことではないのかと思うに至りました。</em>」と言っており、彼の言うように教育者であることがいちばんの治療者であるということはなんとも含蓄がある。やっぱり臨床的な立場にいる人の重みは違うなと思う。</p>

<p>自閉症児は人との関わりに傷つき外界を恐れ、やがて誰も手を差し伸べなければ自分と世界を否定してしまう存在であった。<br />
自分を守るために人との関わりを避けるそんな自閉症児に対して、著者のように人と関わって生きることは楽しくて快いものだと伝えて教育してゆく事こそが治療だとする姿勢は、なんというかグッと来るものがある。<br />
治療者であるためには教育者であらねばならず、教育者として人との関わりと世界が肯定的であることを教えるためには、本当に自分が人との関わりと世界を素晴らしいものだと肯定していなければいけない。世界を否定するものに世界の美しさは語れないというわけである。<br />
そして、結局は、そんな子どもたちをより救うためには、自らが高まってゆくことが一番であるという結論に至らざるを得ないのかもしれない。</p>

<p>ニーチェさんの言うように<br />
「<em>医者よ、あなた自身を助けなさい。そうすれば、あなたはあなたの病人たちをも助けることになる。自分自身を癒す者を、目のあたりに見ることが、病人のなによりの助けとなるようにすればいい。</em>」<br />
ということであろうか。</p>

<p>この本を薦めてくださった大学教員で研究者という立場の某キノコ先生からすれば、本当に自分の問題として哲学を学ぼうとする学生に対して哲学を教える立場の教員として接する事は、ある意味ではこの著者と自閉症の子どもとの関わりに近いものがあるのかもしれない。そこでは教育者という立場はある意味では治療者にもなりうるのかもしれないなぁ。と思った。</p>

<p>語り口は柔らかくてふわふわと読み進んでゆくけど、読んでいると人間の精神と肉体についてだけでなく、教育や治療、そして生きることそのものといったことについてもなかなかに考えさせられたのであった。</p>

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<title>木村敏　『異常の構造』 / 医学系というよりは哲学系 /博士の異常への愛情 </title>
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<modified>2009-11-05T10:25:58Z</modified>
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<summary type="text/plain">ISBN-10: 4061157310 精神医学の本で、笠原嘉、中井久夫とくれば...</summary>
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<dc:subject>本</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4061157310 精神医学の本で、笠原嘉、中井久夫とくれば木村敏ということらしく、木村敏の中でなかなかに有名で面白いと評判の『異常の構造』を読んだ。1973年出版とかなり古い本である。</p>

<p>一応この人も笠原嘉、中井久夫同様に精神医学にかかわる人であるけど、読んでいてなんだか哲学書を読んでいるような感触であった。<br />
私の勉強不足であるのだが、この木村敏という人は精神医学者であるけど、時間論や関係論で人間の精神や精神医学について語る人で、ハイデガーなどと関連付けて言及されることも多いようだ。<br />
たしかに、笠原嘉や中井久夫の本とはまったく雰囲気の違う本で、「正常」と「異常｣についてひたすら根源的な問いを掘り下げてゆくような本であった。<br />
「正常」と｢異常｣や「合理性」と「非合理性」の概念を言語の意味で分解や分析したり、「一」と「全」の関係と自己の論理として展開するあたりは、もう哲学か言語学か或いは禅みたいな話であった。</p>]]>
<![CDATA[<p>彼は世界は非合理が前提であり、脆く危うく不安定な「合理性」を仮定した上になんとか「正常」を保っているに過ぎず、「正常」が「異常」を前提とした概念であるとしている。<br />
そしてそれを前提として、普段われわれが「正常」としているものが実はとても非合理的であり、そして異常とされる人の精神がとても合理性に基づいているとしている。<br />
人が異常とされるのは、論考するまでもなく自明とされている事を理解できずに行う言動が、人間関係の中で現象としてだけ現れて来ているだけであると。<br />
たとえば、統合失調症の父親が死期の迫った娘にクリスマスプレゼントとして棺桶を贈った事例を引き合いに出して、棺桶はもうすぐ死ぬ娘にとって役に立つという意味で合理性に適っているけど、非合理的な感情論で言えば異常である。としている。<br />
そういわれると確かに納得できるし、異様な理屈っぽさとか合理性のみを追求した姿勢ってのは確かに病的に見えることが多いものである。<br />
昔話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか」という話は、絶対的に合理的な理由は見つからないし、論考するまでもなく自明とされている、ダメだからダメ、としか言いようがないし、最近の「空気読め」の「空気」もそういった非合理的な自明な事実の部類に入るだろう。<br />
「合理性」が「異常」の側で、「非合理性」が「正常」の側であるという見解それこそが、我々が常々自明としていたものが実は不安定で危ういものでしかないことを暴露されてその存在を揺るがされるような、我々が異常者に対して抱く嫌悪や恐怖を抱かせるものなのかもしれない。</p>

<p>彼はこの本の中で一貫して「正常」であることが自然の中ではむしろ特異な状態であり、「異常」である方が自然に適った状態である。というところ繰り返し述べている。<br />
彼はこの本を「多数の分裂病患者たちへの、私への友情のしるし」と述べ「しょせん「正常人」でしかありえなかったことに対する罪ほろぼし」だとしており、この本の中には著者の精神病者への愛や憧れのようなものすら感じる。<br />
笠原嘉が治療者の立場を貫いていたのとは対照的に、この木村敏という人は「異常」側の患者の立場から「正常」を分析しつつ、「異常」と呼ばれる精神病患者をそのままで理解し、また彼らが世界をどう感じてどう見ているのかを知ろうとする方向性で「異常」を肯定的に書いた本とでも言おうか。<br />
異常者を正常者に戻すのではなく、異常者のままでの地位向上を目指しているようにも見える。<br />
この本が精神病である状態の苦しみや辛さにほとんど触れていないのは、彼が精神科医というよりは精神医学者であるからなのだろうなぁという気がしないでもない。</p>

<p>笠原嘉や中井久夫が健康的で安心感を感じるのに対して、この木村敏という人はひどく危うい感じがする。もし、こういった人が「異常」の側に傾いてしまったら誰が治療者としてかかわるのだろうか？それとも自分で治療ができるのだろうか？<br />
なんかちょっとこの人大丈夫なのかなぁ。と思った。</p>

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<title>高野文子『黄色い本　―ジャック・チボーという名の友人』</title>
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<summary type="text/plain">ISBN-10: 4063344886 黄色好きの私だから、ということでもないが...</summary>
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<dc:subject>本</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4063344886 黄色好きの私だから、ということでもないが、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4838706138/dogunoiporg-22/ref=nosim">『棒がいっぽん』 </a><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4592760166/dogunoiporg-22/ref=nosim">『絶対安全剃刀』 </a>に続いて高野文子の『黄色い本』の感想をば。<br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4838706138/dogunoiporg-22/ref=nosim">『棒がいっぽん』 </a>から8年後の2002年に発売された彼女の本の中では最も新しいもので、2003年に第7回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞しているらしい。</p>

<p>読む前に、何でも「読書体験を漫画化している」ということを聞いていて、いまいち意味が理解できなかったのだが、確かに読んでみると、これはもう確かに「読書体験そのものを漫画化している」としか言いようがない。<br />
ストーリーは、卒業間際の高校生が図書館から借りた<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560070385/dogunoiporg-22/ref=nosim">『チボー家の人々』 </a>を読み進んでゆく日々の日常が主人公の少女の目を通して淡々と描かれているだけなのだが、長編小説に没頭する日々の小説内の世界とリアル世界との距離感や関わり、主人公をめぐる色々な事が暖かく表されていて、読書好き、特に純文学好きの長編小説好きにはグッと来る内容であった。<br />
そして、逆に本を余り読まない人にとっては、本好きが没頭して本を読むというのはこういう経験なのかというところがお分かりいただけるだろう。</p>]]>
<![CDATA[<p>この主人公の少女を通して表現されている長編小説を読んでいる期間の心の揺れや現実感覚や世界の見え方、そして読み終わった時の達成感がありながらもどこか物悲しい感覚、自分で買った本ではなく、卒業間際で図書館から借りて、期限つきで急いで読んでいるという設定がまた良い。<br />
本を表現するのでもなく、読書を表現するのでもなく、抽象概念で修飾される抽象概念とも言うべき「読書体験そのもの」が本当に見事に表現されていると思う。</p>

<p>『棒がいっぽん』でも漫画でこういうことが表現できるのかと驚いたけど、この本でも本当に驚いた。主人公に対する感情移入ではなく、主人公の感覚や経験に対する感情移入という不思議な感覚である。<br />
高野文子はこの「ジャック・チボーという名の友人」の制作に3年を費やし、これを最後の作品にしようと考えていたらしい。<br />
たしかにそういって良いだけの渾身の素晴らしい作品であると思う。</p>

<div claas="photo">
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<title>ロフトでスポイトを買いそうになり、そして睨まれて「ぷぃっ！」とされる</title>
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<summary type="text/plain">ロフトに行くたびに「スポイト」を買いそうになるのは一体なぜだろう？ 特に使う予定...</summary>
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<dc:subject>日記/雑記/妄談</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ロフトに行くたびに「スポイト」を買いそうになるのは一体なぜだろう？<br />
特に使う予定も無い、もしあれば何かの役に立つかもしれない、あっても邪魔になるわけでもない、限りなく手ごろな値段の、何処にでも売っているわけではない、それがスポイト。<br />
目的を持たない「物欲のイデア」が純粋な形で結実した結果、私の中で「スポイトを求める」として現実化するのだろう。</p>

<p>ロフトでとても太った女性がレジに並んでいて、見るとも無くぼんやり見ていたら、めっちゃ睨まれて「ぷぃっ！」とされた。<br />
「何や、感じ悪い人やなぁ」と思ったらその人は買うつもりらしい体重計を両手で抱きかかえるようにしてレジに並んでいたようだ。どうやら体重計を買うのが恥ずかしかったらしい。<br />
彼女は家に帰ってお風呂上りに今日買った単行本より少し大きいくらいの体重計に乗って深い溜息をつくのだろう。<br />
そう思った瞬間にちょっと胸がキュンとした。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<div claas="photo">
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<title>高野文子『絶対安全剃刀』 / 「ふとん」はこの世で最も美しいものの一つ、だと思う</title>
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<issued>2009-11-02T12:59:01Z</issued>
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<summary type="text/plain">ISBN-10: 4592760166　最近、精神病だの自殺直前日記だのひきこも...</summary>
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<email>dogu@dogustat.com</email>
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<dc:subject>本</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4592760166　最近、精神病だの自殺直前日記だのひきこもりだのとやたらとヘビーな内容のエントリが続いたので、ちょっとライトに、でも限りなく美しい漫画の紹介である。<br />
先日、高野文子の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4838706138/dogunoiporg-22/ref=nosim">『棒がいっぽん』 </a>を読んで衝撃を受け、彼女の書いた単行本を全部買ったと書いた。<br />
とは言っても高野文子という人はキャリアのわりに寡作で全部で6冊しかないので集めやすくはあるのだが、その中のこの<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4592760166/dogunoiporg-22/ref=nosim">『絶対安全剃刀』 </a>は1982年に発行された彼女の初の単行本である。</p>

<p>この本は彼女の1977年から1981年までに発表された一作ごとにタッチが違う17作品で構成されている。どの作品もなんとも言えない雰囲気を持っているのだが、私は「ふとん」という作品が飛びぬけて尋常じゃなく大好きである。<br />
登場人物である「少女」と「観音」の会話、「少女」が「観音」に酌をするシーン、どのコマどの台詞をとってもすべて美しい。とてつもなく変なところにヒットして刺激するような美しさである。この『絶対安全剃刀』の「ふとん」はこの世の中で最も美しいもののひとつであると言っても良いと思う位である。</p>]]>
<![CDATA[<p>作家はデビュー作を超えられないとよく言う。この本は作品集なので厳密にはデビュー作ではないのだが、確かにこの「ふとん」だけでなくほかの作品にも高野文子という人のもっとも繊細な美意識と表現が純粋な形で現れている作品集であると思う。<br />
彼女はストーリー漫画ではなく短編ばかり書く人である。私は基本的に小説も漫画も長編が好きなのだが、この人の短編は、本当に短編であることの素晴らしさを教えてくれるような気がする。<br />
ストーリ漫画っていうのはある程度読んでしまえば終わりってところがあるけど、この高野文子の本は手元に置いていつでも読み返せるようにしておきたいと思わせる、「買わせる本」であると思う。</p>

<p>しかしこの人はCDジャケットや書籍のイラストレーションもしているようだが、これだけの寡作で専業作家として生活していけているのだろうか?<br />
逆にそこにこだわらないところが、彼女の作品のクオリティーの高さなのかもしれない。</p>

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<title>山田花子『自殺直前日記 完全版』 / 自殺企図への抑止力</title>
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<modified>2009-11-04T16:37:19Z</modified>
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<summary type="text/plain">ISBN-10:4872334191 ネットを見ているとひきこもり系の人々がこぞ...</summary>
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<![CDATA[<p>ISBN-10:4872334191 ネットを見ているとひきこもり系の人々がこぞって我が事のように語り、コアな人気と共感でもって語られることの多い、山田花子の『自殺直前日記 完全版』を読んだ。<br />
24歳の若さで自殺して死んでしまったマイナー漫画家の山田花子の自殺する前日までの日記やメモをその父親が出版したのが1996年で、その後1998年に出版された「完全版」では新たに発見された日記と、読者からの手紙が追加されている。<br />
表紙には葬式の棺桶の写真やら棺桶越しの顔写真まで載っているというなんともぷっとんだ装丁である。<br />
娘が自殺した父親の気持ちってのはもう完全に想像力の範囲外にあるけど、所々に現れる父親の文章は何とか世界に絶望して詩を選んだ娘をとにかくどんな形でも世界に知らしめたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。<br />
年間三万人いる自殺者のなかで自殺者の一人に過ぎない山田花子という人物は氷山の一角どころか大河の一滴に過ぎないのだろうが、彼女のような人格が現在の自殺者のある種の典型の一つとして捉えられているのはこの本の影響が大きいのだと思う。<br />
実際、私は山田花子の漫画を読んだことがないのに、ある種のカリスマとしてこの名を知っているのはこの本のおかげであるだろう。</p>]]>
<![CDATA[<p>読み出した最初のほうは、自分に向けられる感情を全て悪意で受け取った卑屈な被害妄想とか思えない内容に「こいつはいったい何を言うとんねん」という感じであった。<br />
感じたままが何らかのフィルタを通り抜けずにダイレクトに表現されているように感じられて、文学的な深みはないけど、そのぶんシンプルで明確でやたらとリアルで生々しい。<br />
もともと公表するつもりで書かれた文章ではないぶん、純粋な叫びや苦しみや呪詛の言葉が現れているというところであろう。<br />
しばらくは「まいったなぁ」という感じに読んでいたけど、半分に指しかかろうとするあたりから俄然面白くなってきた。言っている事自体はそれほど大したことはないけど、それを徹底してまとまった量を突きつけられるとやたらと説得力が増してくる。言い方は悪いけど、質より量の問題であろうか、彼女の思考や感性のパターンに乗ってしまうと不思議な没入感があり一気に読んでしまった。</p>

<p>北海道でライブに行くために吹雪の中を道に迷い、泣きながらラブホテルの受付で道を尋ねて親切に教えてもらう。という心温まるエピソードがあったくらいで、日記やメモのほとんどがネガティブな言葉で埋め尽くされている。<br />
メモ魔であった事とか、日記やメモの中に現れる雰囲気からも、彼女が強迫神経症的な精神状態にあったように見える。ただ日常を生きることがどれだけ苦しかったのかと思う。何とか彼女が救われる道があったのではないかという気がしない。</p>

<p>「<em>心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とされよ。</em>」と遺書を残して死んだ江藤淳の自殺に関して、<a href="http://kokoro.squares.net/depstd.html#%E8%87%AA%E6%AE%BA%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%A8%E3%81%95%E3%81%8D">ネット上で有名な精神科医の書いた意見</a>に、これを諒とするかしないかは誰に対する言葉かということになる。本人に対するメッセージであれば「諒」とするしかないし、同じように悩んでいる人には「諒とするな」と言うしかない。というような文章があった。</p>

<p>この『自殺直前日記』を読む限り、山田花子に対して彼女の自殺は「諒」とするしかないだろう。<br />
しかしながら、彼女と同じように感じ共感する自殺予備軍の人々に対して、彼女のような自殺を「諒としない」と言うにしても、この「諒としない」理由を赤の他人に対して証明する論理はない用に思える。個人的感情や宗教を持ち出さずしてそれに意味を与えることは不可能であるように思える。</p>

<p>そこで「自殺を諒としない」一つの見方として、そういった状態、自殺企図は文学的であったり哲学的な問題なのではなく、単純に何らかの精神器質的な疾病状態であるとして治療の対象と断じてしまう精神医学的な見方も、当事者たちがもっとも嫌がりそうなある種のファシズム臭を感じながらも、とりあえず自殺企図への抑止力への効果を第一義としてみれば、一つの有効な立場なのかもしれないと思った。</p>

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<title>梨木 香歩 『西の魔女が死んだ』/ 女の子的冒険物語 / ターシャ・テューダー解釈 / ひきこもりへの分かれ道  / 反『シンセミア』的物語</title>
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<modified>2009-11-04T16:08:24Z</modified>
<issued>2009-10-31T10:03:38Z</issued>
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<summary type="text/plain">ISBN-10: 4101253323 梨木 香歩 『西の魔女が死んだ』を読んだ...</summary>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4101253323 梨木 香歩 『西の魔女が死んだ』を読んだ。<br />
ネットであろうが周りであろうが、どこを見てもこの本を褒める人ばかりでこれをけなすのは人の道に外れるような空気が漂っている。これは「千と千尋の神隠し」の時の空気と似ているような気がする。<br />
一応この本は出版当初は「児童文学」だったはずである。それが売れに売れて映画化までされて一般文学のような扱いになっているということであろう。<br />
確かに本の中に出てくる人物や設定やストーリーや単語はわかりやすくはっきりしており、確かに子供に向けて書かれたのだという印象を受ける。<br />
この 『西の魔女が死んだ』が児童文学としてすばらしいのはよくわかる。しかし、子供の文学は子供が読んで感じたり考えるべきものであって、子供を差し置いて大人中心にうだうだいうものではないはずである。<br />
子供がこの本を読む前に、この本を一般的な文学として読んだ私のようなおっさんの書いた、ひねくれにひねくれた感想を読んでしまえばどうなるだろう。<br />
子供がある本を読む前に大人によって変な先入観を植え付けられるのは、その本がよい本であればあるだけよくないことであるだろう。この本で素晴らしいとされることが受け付けられないと感じる個性もあってしかるべきである。</p>

<p>本来児童文学であったものを大人向きの文学として扱うことは、私のようなひねくれた人間に変な読み方をされる恐れが十分にある。<br />
以下でこの 『西の魔女が死んだ』を最高の悪意でもってひねくれにひねくれた感想を述べればどうなるかの実例を示してみたいと思う。</p>]]>
<![CDATA[<p>この物語は構造的にはフォースとジェダイの騎士の使命やロトの血統と勇者の使命に目覚めるルーク･スカイウォーカーやローレシア王子の物語と同じである。<br />
魔女の血を受け継ぐ「まい」は「西の魔女」から愛と修行を授けられて魔女になり、「世界」をサバイバルする術を学ぶのである。<br />
この『西の魔女が死んだ』は『スター・ウォーズ』や『ドラゴン･クエスト』的な冒険物語を、女の子的語彙と文法で女の子的文脈に置き換えた冒険物語と言えるのかも知れない。<br />
『スター・ウォーズ』や『ドラゴン･クエスト』は選ばれた血筋の勇者が真の力に目覚め、修行と冒険と仲間たちとの友情によってその力を高め、諸悪の根源である皇帝パルパティーンやゾーマといった敵を討ち、世界平和と名声を手に入れる、あらゆる意味で男の子的な過食系物語であった。<br />
同様にこのまいの物語は女の子としての戦いを戦い抜き、魔女の力に目覚め、女の子が手に入れるべきものを手に入れる、女の子的冒険物語なのである。<br />
そして、この物語は実際に大なり小なりこのおばあちゃん的な存在がいた人が読んで感動する本なのだと思った。</p>

<p>しかし、確かに面白く感動する物語ではあるけど、そこまで騒ぐほどのものかという印象はぬぐえない。<br />
自然に暮らすおばあちゃんと、「俗」を拒否する少女、そして魔女と森と野苺とジャムとハーブといった小道具立てだけで売れていると口の悪い人はいうけど、世の中そんな小細工だけで通用するほど甘くない。この物語にこの女の子的語彙と文法と道具立てを超えてがっちり読者の心をつかむなにものかがあるのだろう。それが何か、ただのおっさんである私にはいまいちよくわからない。</p>

<p>かの有名なターシャ・テューダーという絵本作家がいるが、「まい」のおばあちゃんの「西の魔女」はこのターシャ・テューダーとリンクする要素がとても多いように思う。<br />
恐らく私が思うに、そしてこの物語に激しく感動するかそうでないかは、ターシャ・テューダー的なものを傍観者として見るものだとして認識するか、実際に自分が行うものとして認識するかの違いではないかと思われる。<br />
言い換えれば、ターシャ・テューダーのような生き方をただ自然に溶け込んだ美しい理想的なものとだけ見て単純に感動するか、逆に自分の現実に即して考えてしまい、それが美しく理想的である反面、とてつもなく贅沢で頑な誤解を招く生き方で、その生活を選んで維持するために払われるであろう努力と苦労を見てしまい、自分の個性を貫くただそれだけことが如何に苦難の道のりかということに思いを馳せるかの差ではないだろうか。</p>

<p>最近私の中で熱いひきこもり問題と関連付けて見れば、突然学校に行けなくなった少女の心の揺れは、ひきこもり状態に入る直接的なきっかけでもある。嫌な言い方をすれば適応障害の一歩手前の状態であるといえるだろう。<br />
この「西の魔女」のいう「なんでも自分で決めること」は、斎藤環の脱ひきこもりの指標として「自分の人生を自分の責任によって引き受ける決意」的なものと本質的には同じであるだろう。<br />
このことを「西の魔女」は魔女云々という言い方で言って「まい」がそれを受け入れたということになり、この主人公の「まい」の適応障害への危機は「西の魔女」たる宗教的グルの存在とその指導によって回避されているといえる。<br />
一般的な通常の社会に日常生活をおくっているだけで多大に受けてしまうストレスに対する回避方法を、「西の魔女」たるカリスマによって授けられる、「魔女」なる架空（であるといわざるを得ない）の前提を基にした考え方や捉え方などの精神論的な方向性のみで、しかも一ヶ月という短期間のうちに体得させてしまうのはある種のマインドコントロールといってもおかしくなく、とても危険であるといわざるを得ないだろう。グルの存在の消失によって再び適応障害に陥ることも大いにありうるように思う。</p>

<p>この本は極言してしまえば、ある一人の少女のひきこもり化や不登校化回避と何かしらの成長の過程の物語といえる。<br />
彼女にとって「西の魔女」的存在が周りにいたという時点でとても幸運であったといえる。<br />
しかし、たいていの適応危機におかれている子供たちの周りにはこういった「西の魔女」的存在はいない。魔女や魔法使いの血を引かないごく普通の凡庸な彼らは単身でその危機と直面せざるを得ないのである。<br />
私が興味を惹かれるのは、こういった「西の魔女」的存在なしに、完全な孤独の中でどう社会や世界と折り合いをつけるのかということである。孤独な戦いをいかに戦うかというところにある。</p>

<p>私は主人公「まい」や「西の魔女」よりも邪悪で不潔で醜悪の象徴である「ゲンジさん」に肩入れして読んでしまった。たとえばこのような肯定的な要素が皆無である「ゲンジさん」はいかにして救われるべきか。という問題がある。<br />
「まい」のように利発さと個性を持った子供らしい子供はあふれるばかりの未来と救いがあるが、この「ゲンジさん」のような醜悪でしかない存在の未来と救いのなさの方にこそ興味を感じるのだ。<br />
「まい」のような少女も世間に揉まれて挫折と失望を繰り返すとゲンジさんのようになる可能性がある。その可能性と過程にこそ興味を覚える。そしてゲンジさんのようなおっさんのような存在にまでなってもなお、そこに救いと未来が存在するのかという事こそが問題である。<br />
このゲンジさんも昔は「まい」のような少年だったと考えると、とたんにこの物語の根底がガラガラ崩れるような気がする。</p>

<p>人間は如何にして醜悪になるか、いかに醜悪であるか。というところを書く作家といえば阿部和重だろうか。この「ゲンジさん」は限りなく阿部和重の小説の主人公にふさわしい。<br />
彼の傑作である『シンセミア』的にこの『西の魔女が死んだ』を解釈してみるとこうなる。</p>

<p>森に囲まれて朗らかに育った少年は町に出て結婚に失敗して一族の土地に舞い戻ってきた。もうすでに中年になっていた男は金に物を言わせて土地を買い漁ったイギリス人の余所者とその孫が森を我が物顔で歩き回るのを見て嫌な気分になる。男は自分の不甲斐なさと劣等感で屈折し、先祖からの土地で幸せそうに暮らす余所者二人に嫉妬と憎しみと羨望の入り混じった複雑な感情を抱く。<br />
まるで昔の自分を見るかのような少女が自分を生理的に拒否することに、少女に対しての憎しみだけでなく自分自身への絶望までもが日々高まってくるのに苛立ちを感じる。イギリス人の余所者が「西の魔女」と呼ばれているらしい事を知り、わけもなくその苛立ちは頂点に達して、腹いせに鶏を犬に襲わせてしまう。<br />
少女と「西の魔女」にそのことを感づかれたゲンジはしばらくおとなしくしていたが、やがて「西の魔女」の孫が都会に戻り「西の魔女」は一人になった。<br />
この土地の誰もが貧乏にあえぎ、食うに困った上で受け入れた森の都市開発をこの「西の魔女」は感情論とモラルのみではねつけた事でこの土地の住民の「西の魔女」一族への憎悪が一気に高まった。どうやら「西の魔女」はその孫にも土地を与えているらしい。魔女一族はゆくゆくはこの土地一体を我が物として支配するつもりに違いない。<br />
そしてこの土地への「西の魔女」と魔女一族の侵略を食い止めるために、この土地の最も古い一族が立ち上がった。その先頭に立つのは一族の使命に目覚めたゲンジである。興っては滅び、浮かんでは消えた様々な一族の血が深く染み付いたこの土地を守るために、最も古き血統の一族による現代の魔女狩りが密かに開始される。<br />
やがてゲンジは衰えて力の鈍った魔女に、体の自由が失われた状態で長時間苦しみ続けて死に至る一族に伝わる毒草を飲ませることに成功した。「象徴的火あぶりに」なった魔女の死はどう見ても自然死にしか見えないだろう。<br />
「西の魔女」の死を切欠に再びこの土地を侵略すべく舞い戻った「東の魔女」は大きく成長していた。彼女の力は並々ならぬものがあり、ゲンジにはゆくゆくは「西の魔女」をしのぐ魔女になるだろうと思われた。<br />
「東の魔女」が本当の力に目覚める前に審問官たるゲンジは「東の魔女」を懐柔すべく罠にかけた。<br />
魔女一族に正義の鉄槌を下し、魔女一族を正義の炎に投げ込むための第一歩である。<br />
「東の魔女」率いる魔女一族を時間をかけて根絶やしにするための、この土地の最古の一族による本当の魔女狩りはここから始まるのであった。</p>

<p>といった『東西の魔女を滅ぼす』ともいうべき物語である。どうだろう？<br />
『西の魔女が死んだ』をゲンジさん側からまったく裏返してみるとこうなる。つまり、『西の魔女が死んだ』はとても反シンセミア的なのである。</p>

<p>と、児童文学をおっさんが読むと、こんな妄想になるのであった。<br />
この本の素晴らしさを認めた上でのただの言いがかりなので、ファンの方も気にしないでください…</p>

<p>いやしかし、いつの間にかこれだけ長い感想になってしまったということは、やっぱりそれだけのものがあるのやなぁ…</p>

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<title>『ひきこもりの家族関係』 / 斎藤環のマジメさが逆にわかった</title>
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<modified>2009-11-05T00:50:36Z</modified>
<issued>2009-10-30T13:51:35Z</issued>
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<summary type="text/plain">ISBN-10: 4062720558 ひきこもり本として斎藤環のものばかり読ん...</summary>
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<dc:subject>本</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4062720558 ひきこもり本として斎藤環のものばかり読んでいたので、ちょっとほかの人の本も読まねば、ということでそこそこ評価の高いようである田中千穂子『ひきこもりの家族関係』を読んだ。<br />
この人はセラピスト的心理療法家ということで、立場的には斎藤環に近く、精神科医ではない。この本の趣旨として「ひきこもりという状態像の実態を解明する、あるいは概説をする、とうことでも、対処のための攻略本でもない」と言い切って、ひきこもり問題を人間存在の原点にかかわる深刻な問題で、現代の家族関係のコミュニケーションのズレの象徴として、関係性の再生とそのための問題定義と捉えて話を展開している。</p>

<p>著者が女性であるせいか、この本の具体例として登場するのは彼女のクライアントである女性のひきこもりの話がほとんどである。<br />
しかし実際にはひきこもり現象はほとんど八割が男性の場合だといわれており、たしかにひきこもり女性はひきこもり男性とはだいぶ印象が違うように思えた。<br />
しかしこれら女性の事例ばかりを集めたのは、特殊な事例としてのひきこもり女性についての話としてならば納得できるが、ひきこもりとしては特殊な事例ばかりを扱ったということになってしまい、ひきこもり一般としての資料的価値と意義はあまり無いように思うのだがどうなのだろう？</p>]]>
<![CDATA[<p>ひきこもっている間を「意味ある時間」にする必要があるということがこの本の中で繰り返し述べられるが、それはどちらかというと「人生に無駄な時間はない」的な人生訓に近いようにも思える。<br />
娘がひきこもったことによって、母親が自分の母親との関係も見直すきっかけになり、ひきこもりが個々の家族の生き方そのものをめぐる問題定義であったという話があったり、虐待やアルコール依存の世代間伝達の問題とひきこもり問題の関係に言及されたりと色々と面白い話題はあった。<br />
それらは話としては面白かったけど、特にひきこもりと関連して述べる必要はないように思えた。非行でもアディクションでも大抵の思春期問題に当てはまるような気がする。<br />
そして、ひきこもりの人に特有の何でも全てを言語化しようとする特徴を捉えて「言葉になる前のフィーリングを察する心をもう一度取り戻すのが大事ではないでしょうか？」という風に結論付けている。<br />
じゃぁ一体どうすればいいねん？と言いたくなるし、ありがちな精神論的文化論な結論をオチにするのはいかがなものか。結局タブーであるはずの「犯人探し」の論理に堕ちているんじゃないかと。</p>

<p>なんとなく本全体の印象として、ひきこもりの話に引き付けて自論と正論を展開しているだけのような印象を抱いた。単なる読み物として考えればそれなりに面白いかもしれない。<br />
本の最初に「ひきこもりという状態像の実態を解明する、あるいは概説をする、とうことでも、対処のための攻略本でもない」と断っているのが巧妙といえば巧妙で、これを単なる家族論やらコミュニケーション論として出版するのではなく、「ひきこもり本」としてひきこもり利権にたかる形で出版するのはいただけない。<br />
ひきこもりの側に立って書いているように見えながら、実はひきこもり当事者が嫌うタイプの本なのではないだろうか。</p>

<p>そう考えると斎藤環はひきこもりの立場に立ったクールでかつ臨床的な立場で、実際に役に立たせようとして本を書いているのやなぁと思った。<br />
彼の言う「ひきこもりシステム」がトンデモだという話もあるがそれはもう彼のマジメさとかを考えれば、誤差の範囲で良いんじゃね？と思った。</p>

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<title>『私がひきこもった理由』 / ひきこもりはカオスであることを知る本/ リアルひきこもりブッダ</title>
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<modified>2009-11-05T00:54:19Z</modified>
<issued>2009-10-29T10:17:55Z</issued>
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<summary type="text/plain">ISBN-10: 4893083988 私の敬愛する勝山実氏がインタビューに答え...</summary>
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<dc:subject>本</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4893083988 私の敬愛する<a href="http://ponchi-blog.cocolog-nifty.com/blog/">勝山実氏</a>がインタビューに答えているということで『私がひきこもった理由』を読んだ。2000年出版と結構古い本である。<br />
この本は15人のひきこもり経験者や実践者の諸氏がインタビューに答える形で自分語りをする体裁になっているのだが、期待していた勝山実氏のインタビューは期待していた方向には面白くなかった。それでも現在「ひきこもり名人」「ひきこもりブッダ」の境地にいる彼に、過去にああいった修羅場フィールドに囲まれていた時代があったというのは驚きである。「ひきこもり名人」は最初から「ひきこもり名人」なのではなく、さまざまな修羅場と修行を潜り抜けた先に戦士の魂が眠るというヴァルハラのごとく見えてくるものであるということか。</p>

<p>この本にいる15人の人たちは多種多様の環境から多種多様の原因があったりなかったりして同じ「ひきこもり」状態に陥った。<br />
ここに何かしらの共通点を見つけることは確かに可能なような気がするけど、それをいれば全ての人間に当てはまってしまうのではないだろうか、結果、ひきこもりは誰にでも起こってしまう要因をはらんでいると結論付けるしかないように思えた。ケーススタディではなくカオスであることを知るのである。</p>]]>
<![CDATA[<p>一番印象的だったのは一人の強迫神経症でひきこもってしまった男の話。この話は圧巻であった。<br />
手が汚いと思ったら皮がむけても何時間も洗わずにはいられず、トイレで過ごすと決めてしまったらそうせずにはいられずトイレに閉じこもったままそこで食事を取って何日も暮らし、といったようなことを一歩も家を出ずに繰り返しているうちにあまりにも苦しくて死ぬしかないと決心する。<br />
死に方も一番被害と影響の少ないエコな餓死を選び、ご飯を作ってくれていた母親に死ぬつもりだからご飯はいらないと告げて号泣される。<br />
餓死もできず、追い詰めに追い詰められていざ死のうとした時に、どうやっても恐怖から死ねない自分に、「死ねないから生きるしかない｣と思う。<br />
インタビューを受けている時点では「今は生きているだけで幸せだと感じられるようになった」ということであるがこれはもうある種の悟りの境地であるとしか思えない。<br />
どれだけひきこもりって極限状態やねんと。そらひきこもりブッダにもなるわな。と思った本であった。</p>

<p>このリアルひきこもりブッダの人の名前をネットで検索したりしてみたけどまったくヒットしない。彼は今一体どうしているのだろうか。</p>

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<title>笠原嘉 『軽症うつ病』 / ゼロからわかる「軽症うつ病」だけに留まらない深度</title>
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<modified>2009-11-05T01:01:17Z</modified>
<issued>2009-10-28T12:11:00Z</issued>
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<dc:subject>本</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ISBN-10:4061492896 最近お気に入りの人である笠原嘉の『軽症うつ病』を読んだ。ピンからキリまで、ちゃんとしたものからトンデモまで、世の中にいくらでもある「うつ病」に関する本の中では正統派の王道としてなかなかに評判が高い本のようである。<br />
精神医学系の本というのは一般的には人気があっても臨床や治療の現場ではまったく役に立たないものが多いというけど、この本はうつで病院に行った時に医者から薦められることも多いらしく、一般的にも専門家からも評価の高い本ということになるだろう。</p>

<p>「うつ病」が起こるのは脳に原因があるものと心理的な悩みから起こるもの、そしてわけもなくある日に突然スイッチが入るような「内因性のゆううつ」があるらしく、この本では主に最後の「内因性のゆううつ」に端を発する、本の題名である「軽症うつ病」について書かれている。<br />
「軽症うつ病」というとちょっとしたライトなプチうつな印象を受けるけど、何とか日常生活は可能でありながらも他人には病気と見えないだけに、常に真綿で首を絞められてゆくような、本人にとっては一番つらい状態であるようだ。</p>]]>
<![CDATA[<p>こういった本を読むにつけ本当はうつ病なのに本人もまわりも病気とはみなさず、性格と根性と気合の問題に還元されて一人で苦しんでいる人がいくらでもいるように思える。<br />
「境界性人格障害」「自己愛性人格障害」や「アスペルガー症候群」への言及が、自分の気に食わない人を病気の型に押し込めるただの悪口の正当化である印象が多いのとは逆に、「軽症うつ病」は著者が「どいういうわけか実直な人に多い。実直な人が不幸になるのを座視したくない。それが本書を私に書かせる第一の動機です。」というように、うつの傾向にある人は確かにまじめで報われるべき人でなんとか楽になってほしいと思えることが多い。</p>

<p>新書という形態上、この本の内容はそれほど高度なものを扱うというよりは一般的な「軽症うつ」の判断や治療方法や治癒してゆく過程をを丹念に扱っているように思える。そして病気そのものだけでなく家族や職場のメンタルヘルスにも言及されており、うつ病の当事者やその周りの人々の視点に立って書かれた本であると言えると思う。<br />
三寒四温を繰り返して徐々に治ってゆく、最後まで「おっくう感」が抜けない、といった標準的な治癒パターンは知らない人にはとても意外だし参考になったり励みになるに違いない。<br />
そしてなによりもとても平素に丁寧に書かれておりとても読みやすく理解しやすい、うつ病はちゃんと治るのだという希望を抱かせるような温かみのある作りなのが良かった。<br />
著者はこの本の中で「うつの人がうつの本を読むのは良くない」ということを言っているけど、この本なら大丈夫なんじゃないか？むしろ良いのじゃないか？とも思う。世の医者がこぞって薦めるくらいやしね…</p>

<p>何かしらの病気について話す場合、病人の代弁者として話すのか、治療者として話すのかでは大分印象が変わると思うのだが、この笠原嘉なる人は病人として病人面で語る事もなく、何処までも分限を守って治療者の立場として発言している。これはなかなか出来る事ではないと思う。<br />
そして何よりも絶対に「善と悪」や「敵と味方」的な二分法で語ることが無いと言うのが良い。<br />
先に読んだ<a href="http://dogu.no-ip.org/archives/2009/10/post_967.php">『精神病』</a>といい、この本といい、この笠原嘉なる人の書く一般向けの本はとてもわかりやすい上に、病気の人たちへの暖かい眼差しと弱さを認める優しさがあるように思うし、それでいて、患者にべったりしすぎない適度な距離感と一個の人間としての患者に対する敬意を感じるのも良い。</p>

<p>とかく精神医学系の本では診断や治療のために原因を探ると称して患者の無意識を暴いたりトラウマを掘り返したりする、精神的人体実験とでも言いたくなるような、ちょっと下品な趣味が横行しているように見える。<br />
あまり何かに対して批判的な態度をとらない著者であるけど、おそらく、治療に来た患者に心理分析やら深層心理療法を求められたりすることが多いのかもしれないが、そういったことに対してほんの少し苦言を呈しているような部分がある。かなり心を打たれたので長いけど引用する。</p>

<p><em>「ものの本には、人間の心理的問題を扱う意思や看護者やコメディカルは患者さんの心の奥底まで知っていなければならないかのような書き方のものが少なからずあります。しかし、それは間違いです。すべての対象にいつもそうである必要はないのです。<br />
また精神分析の書物とか臨床心理学の（すべてではないが一部の）書物には、いろいろと深層心理療法の事が書かれています。これらは、やむにやまれぬ理由があって何ヶ月から何年という長期間の治療を自費で受けようとなさる人のための特殊な治療の事で、そういう場合には生活史や家庭史が最初から治療者と非治療者との間の共有の関心ごとになるという暗黙の了解があり、ここでいううつ病の場合とは違います。<br />
うつ病が慢性化したとき、生活史や家庭の話題を私が取り上げるのは、本人に自分の今までの生き方を少し縦断的にみてもらうためで、それ以上でも以下でもないのです。」</em></p>

<p>この笠原嘉という人は精神科医であるから治療に関わりのない、または逆に差しさわりの出るかも知れない個人の掘り起しなどは行わないのだろう。<br />
たしかに合理的といえば合理的であるけど、謙遜で人道的であり、かつ患者を一個の人格として扱い敬意を持って接しているようにも見えるのがこの人の人徳と言おうか。</p>

<p>私は昔からちょっとしたギャグとして「ペニス羨望」「口唇期」などといった心理学系の単語は使っていたけど、実際に自分や他人の心にそういったものを適用して考えるのはあまりにも違和感があったし、とても品のない行為だと思っていた。<br />
そして最近、誰か（や自分）の自己を心理学的にとか精神医学的にとか掘り下げて考えるような行為に心底疲れ果てたし、それに何の意味があるのやとウンザリしていた。<br />
誰か（や自分）を掘り起こすことが未来に繋がらないのなら、それは更に苦しみを倍増させるだけじゃないのか？と。<br />
もう、誰か（や自分）が苦しんでいるとした場合にも、誰か(や自分)を知ることと、誰か(や自分)が楽になることとはまったく別の問題であるから、もうこれは完全に分けて扱って考えようと思うようになった。<br />
そう思うことは未来に対する過去からの何かしらの連続性を切り捨てるようでちょっとつらかったけど、そういった決心が上の著者の文章を読んで大いに力づけられたような気がする。<br />
「うつ病」の本を読んでいて全然関係ないところから全く関係ないところにヒットして感動したり何かに気付いたりしそうになるというのも変であるが…</p>

<p>この人の本は本当に前知識なしでも読める平素さと簡単さという浅さから始まって、今のところ確立百パーセントで(2冊やし)自分の中を大きく揺さぶるほどの深さの、本の本来の大筋には関係ない話まで含まれている不思議な本なぁと思うのであった。</p>

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<title>グレン･グールド 「バッハ:フーガの技法、インヴェンションとシンフォニア 」</title>
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<modified>2009-11-05T01:06:30Z</modified>
<issued>2009-10-27T10:11:50Z</issued>
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<summary type="text/plain">ASIN: B00005HMOW 久しぶりに音楽のエントリを。 最近やたらとバッ...</summary>
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<dc:subject>音楽</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ASIN: B00005HMOW 久しぶりに音楽のエントリを。<br />
最近やたらとバッハが好きになってひたすら聞きまくっており、私の大好きな<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005HMOW/dogunoiporg-22/ref=nosim">グレン･グールドが演奏する「フーガの技法、インヴェンションとシンフォニア」 </a>が気に入っている。<br />
グールドはフーガの技法をオルガンで、そのほかをピアノで演奏しているのが、グールドのオルガン演奏はちょっとレアな気がする。</p>

<p>しかし、バッハが楽器を指定していない「フーガの技法」であえてオルガンで演奏するところがグールドらしくひねくれていて良い。しかも、バッハのオリジナルの譜ではなくツェルニー校訂によるピアノ譜で弾くうえに、このおかしなオルガンの音は単に録音と音質が悪いだけかと思ったら、わざとこういう風に録音しているらしいという、念には念を入れたひねくれ度合いである。<br />
演奏方法もとてもオルガン演奏とは思えないらしいのだがそのあたりは私には良くわからない。<br />
「モーツァルトの悪い部分を直しながら弾いてやっている」と豪語するモーツァルト嫌いのグールドが、彼が好きな音楽の父たるバッハの残した辞世の曲をあまりにもひねくれた趣旨で弾いているのはどういつもりなのだろうか?</p>]]>
<![CDATA[<p>グレン・グールドの良いところは、既成の常識をはなから考慮に入れず、様々な部分から構成される感情や感覚の全てを、最終的には知性だけで何とか制御して表現しようとする方向性にある。といってもいいと思う。<br />
もちろんそんなものは幻想だと言い切ってしまうのは簡単であるが、本当に先があるのかわからない細く危うい道を、一人の天才がクールに渡ってゆくところを見るのは心を打つものがある。<br />
全てが理性で制御できて表現できる世界があるならぜひ行ってみたいと思わせる、そんな演奏である。</p>

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<title>笠原嘉『ユキの日記　病める少女の20年』 / 戦う少女の20年 / 逃げないカトリックはよく訓練されたカトリックだ</title>
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<modified>2009-11-05T01:09:01Z</modified>
<issued>2009-10-26T10:55:17Z</issued>
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<summary type="text/plain">ISBN-10: 4622051370 なんやかんや言いながらもとても気に入った...</summary>
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<name>dogu</name>

<email>dogu@dogustat.com</email>
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<dc:subject>本</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4622051370 なんやかんや言いながらもとても気に入った笠原嘉であるが、彼のの編集した<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622051370/dogunoiporg-22/ref=nosim">『ユキの日記　病める少女の20年』 </a>を読んだ。<br />
この本は20歳で統合失調症を発症して28歳で心不全で死亡した「ユキ」なる女性の残した8歳から20歳までのノート60冊にも及ぶ膨大な量の日記を、彼女の統合失調症の最後の主治医であった笠原嘉が両親から見せられてとても感動し、編集しなおして出版したものである。<br />
笠原嘉はこの本を、統合失調症を発症した女性のはるか過去まで遡った詳細な記録として「病跡学」の稀有な資料としての存在意義を世に示しているが、彼個人としては高い文学的価値を認めたことがその出版に対する直接的な動機だとこの本で語っている。<br />
初版が出版されたのが1978年であるけど、2002年に新装版が出ていることからもこの本の人気と価値がわかるような気がする。<br />
家族に出版の承諾をもらってから、選出と編集を経て出版に至るまであえて十年以上を費やしたように、この本は非常に時間とエネルギーをかけて出版された。確かにそこまでしてこれを世に出したいという気持ちを抱くに値する本であったと思う。</p>]]>
<![CDATA[<p>最初はこの本を統合失調症の少女の日記なのかと思って読み始めたけど、発症した二十歳のころにその特徴が見えるだけで、これは最初から最後まで純粋な日記系文学としか読めなかった。深い内省と明晰な知性、そして自分自身に対する容赦の無さはブレーズ・パスカルの『パンセ』を飽津とさせるものがある。<br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167651335/dogunoiporg-22/ref=nosim"> 『アンネの日記』 </a>から<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101183015/dogunoiporg-22/ref=nosim">高野悦子の『二十歳の原点』 </a>、そして<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872334191/dogunoiporg-22/ref=nosim">山田花子の『自殺直前日記』 </a>まで、死んでから残した日記が出版される事は多々あるが、この<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622051370/dogunoiporg-22/ref=nosim">『ユキの日記　病める少女の20年』 </a>はその中でもとても素晴らしい日記系文学の一つに入るだろうと思う。</p>

<p>敬虔なカトリックの上流階級の家庭に戦中戦後の時代に生まれ育ったたユキはエンジニアである父と教養高い母と二人の姉と弟に囲まれ、子供のころから喘息を患って病弱で、学校にも行かず友達もおらず、生涯のほぼすべてを孤独な病床の中で過ごした。<br />
彼女はカトリックの信仰を持ち、ひたすら本を読み、音楽を聴き、様々なものを吸収しつつ考えて、逃げることなく真正面から自らを見つめて深く苦しんで悩みぬき、神に祈りつつ自分に対する孤独な戦いを延々と行ってきた。<br />
教養高い母のおかげで、彼女はフランス語と英語をある程度使いこなせ、少女らしからぬ方向性を持った膨大な読書量と、一時期は作曲家を目指した音楽の専門知識をもとにして色々なことを考え抜く。<br />
しかし、逆に彼女のこの知的資産が深い内省と自己洞察の道具となっていると同時に、自らを容赦なく攻める道具になっているのがとても痛ましい。<br />
「人生は泣くべきものであり、悲しむべきものなのだ。」「私は自分の不完全に耐えられないのじゃないかということだ」「人生は実に逃避すべきものに過ぎないのではないか？」「マギの後姿をみながら思う。女の人は愛を胸に抱いて大人となる。私は虚無を抱いていつまでも子供だろう。」「悲しみによって私はかたくなである。孤独によって私は傲慢である。」<br />
これが花咲く17、18の乙女の言葉だろうか？</p>

<p>私は読みながらずっとリジューのテレーズと彼女を重ね合わせて思い浮かべていたのだが、彼女は「小さき聖テレジアは勇気の無い時に勇気のあるごとくに行動した。これこそ真実の勇気だ。」と言及していたくらいでほとんど自己同一はしていなかった。<br />
彼女はテレーズのように苦しみを神にささげるというよりも、ひたすら戦っていたように見えるし、その彼女が自分の内面を断罪して自分と戦う様は壮絶であるとしか言いようが無い。<br />
彼女がこの孤独と葛藤と苦しみにここまで耐えられたのは彼女が信仰を持っていたからだと言えると思う。<br />
結局彼女には助けが来なかったけど、信仰の力によって自らの地獄をここまで耐えて踏みとどまることができるのはちょっとした驚きであった。<br />
しかし、逆に言えば、彼女をここまで追い詰めてしまったのはその信仰心からであったともいえるかもしれない。</p>

<p>一般的にこういった日記系文学で恋愛の悩みが出てくるととたんに面白くなくなってチープになるように私には思えるのだが、この本はそれをあまり感じなかった。<br />
この思春期の年代の少女の恋愛での挫折経験が統合失調症発症の最初のトリガーとなるのはよくあることらしいけど、高野悦子にしろ、このユキにしろその後の周りの人々のアフターサポートが頂けなかった。<br />
その恋愛での挫折を境にして、彼女は徐々に狂気に沈みこんでゆくわけであるが、最後の最後まで忍び寄る狂気の影を感じながらそれと戦う力を鼓舞するためにこの日記に書く言葉はなんともいえない凄みがある。その日記を必死で書いている彼女の気持ちはいかなるものだったのだろう。と思わざるを得ない。<br />
そして彼女の後半の日記で彼女の母を「マモン」と書いている箇所がありとてもゾッとした。<br />
マモンといえば「強欲」を司る悪魔であるけど、これは妄想？わざと？間違い？脚注にもネットにもそれに関する言及がまったく無いので非常に気になった。</p>

<p>一般的にアルコール依存症の家族で構成された機能不全家庭環境で育った人をアダルトチルドレンというように、絶対的な宗教的バックグラウンドをもとにした家族による機能不全家庭環境というジャンルがあるのを最近知ったのだが、なんとなくそのあたりにも関係があるようにも思えた。<br />
家族や周りの人は善意と愛を抱きながらも結果として彼女を守りいたわるつもりで逆にユキを追い詰めることになってしまったように私には思えた。<br />
もちろん今のようなちゃんとした治療環境があれば彼女はちゃんと治ったのだろうけど、そもそも今でこそ常識として授けられる精神医学的な知識が当時の家族にあればユキは発症すらしなかったかもしれない。</p>

<p>彼女のような深く高潔な知性と精神を持つ魂が狂気の淵に沈みこんで浮かび上がることなくこの世を去ったのはとても残念である。<br />
たとえばうつ病という病気の苦しみのほとんどは、うつ病を理解しない人たちからもたらされるという事実があるように、こういった少女が孤独と狂気の淵に沈みこむことなく、幸せにその才能を開花させることができるなら、直接的な医学の進歩はもちろんのこと、精神医学に関する知識の社会に対する啓蒙は人道的に素晴らしいだけでなく、社会にとっても有用であると思ったのであった。</p>

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<title>中井久夫『最終講義　分裂病私見』 / 「統合失調症」を題材にした人間肯定の書</title>
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<modified>2009-11-05T01:13:51Z</modified>
<issued>2009-10-25T04:35:58Z</issued>
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<summary type="text/plain">ISBN-10: 4622039613 統合失調症本の第二弾ということで中井久夫...</summary>
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<email>dogu@dogustat.com</email>
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<dc:subject>本</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4622039613 統合失調症本の第二弾ということで中井久夫の『最終講義　分裂病私見』を読んだ。<br />
この中井久夫という人は、ウィルス学から精神科に転向した、統合失調症を専門とする精神科医で、阪神大震災後に設立された兵庫県こころのケアセンターの初代所長でもある。<br />
また、精神科医としてだけでなく、現代ギリシャ詩人カヴァフィスの全詩集翻訳によって読売文学賞受賞を受賞したくらいの、文学者としても名高い人であり、精神科医のカリスマともいうべき人であろうか。</p>

<p>この本はその中井久夫が神戸大学医学部を退官するときの最終講義を本にしたものである。<br />
エラい先生の「最終講義」ってのはほとんどの場合何かしらのイベント的要素を含んだ外部向けの講義になるわけで、本来は精神医学の専門家して高度な授業をしてきたはずの著者は、この『最終講義』で彼の専門である「統合失調症」について一般向けの講義を行っているような体裁になっている。<br />
この講義中、本来ならプロジェクターに投影された図や表をもとに詳しく説明する予定だったものが、会場が暗くて原稿が読めないので、彼はプロジェクターに表示されるものを手がかりにして思うがまま口に出るがままを語ったという。<br />
そして、それこそがこの本の中に登場する様々な素晴らしい比喩やエピソードや言葉を引き出す要因になったのだろうと感じさせるものがある。</p>]]>
<![CDATA[<p>一応、本の難度としては一般向きということになっているけど、本文中では統合失調症の治癒してゆく過程や症状や現象が自明のものとして使われており、ある程度一般的な「統合失調症」の知識は前提となっているようだ。私は笠原嘉の『精神病』を直前に読んでいたおかげでちゃんと理解しながら読み進むことができた。</p>

<p>一応この本は一般向けのプチ医学入門書であるけど、私自身はこの本の内容を実際に役に立てたり対処するための知識を得るような医学的実用書的読み方ではなく、精神が病む状態である「統合失調症」を詳しく見てゆくことで人間の精神そのものの深さや謎を知りそれが人間理解につながるだろうという目論見の人文的な読み方をしたのだが、そういう読み方でもとても楽しくスリリングに読めた。<br />
直前に読んだ笠原嘉『精神病』はちょっと退屈な部分があって読むのにちょっと時間がかかったにもかかわらず、同じ題材を扱ったこの本は小説を読むように一気に読み終えた。<br />
著者の広くて深い知識と知恵からあふれ出るような言葉が、著者のお人柄とあいまって「統合失調症」を題材として展開され、とても読み応えのある人文的人間考察の書物となっている。<br />
この本は一応精神病という人間の負の面についての本であるはずなのに、なぜか読後感は不思議な人間肯定的な気持ちに包まれてしまうくらいの勢いである。</p>

<p>統合失調症の患者の症状として、世の中身の回りすべてが完璧で緻密な法則性によって決められている確信を抱いてしまい、世界の閉塞感と圧迫感が苦しくてしょうがない状態を「心の自由度がゼロに近づくならば、外界も、自分がその中自由に動きまわり人や物と出会えるような空間でなくなって、すべてが恐ろしい”必然”と見えても不思議はありません。」という内容が印象に残っている。<br />
なんというか統合失調症の辛さがひしひしと伝わってくる文章ではないか。これを読んで、ニーチェの「永劫回帰」や「運命愛」がこういった苦悩の苦肉の策として考え出されたのかもしれないなぁとぼんやりと思った。</p>

<p>ウィルス学と精神医学の専門家であり、「ヴァレリーの研究者となるか科学者、医者となるかかなり迷った」というくらい文学にも造詣の深い人であり、科学者や医者としての論理的な側面と、細やかな情緒を大事にする文学者の側面の二つが高度な位置で同時に生かされている個性から出てくる言葉はとても感動的である。<br />
この本を読んでいろいろな人がこの中井久夫という人に熱い敬愛を抱くわけがよくわかった。こういった知性に激しい憧れを抱く気持ちはとても理解できる。確かにこの人の書くほかの本をずっと追いかけて読んで行きたいと思ったのであった。</p>

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<title>バッハとガスガン、そして怪しい私</title>
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<modified>2009-11-05T01:19:50Z</modified>
<issued>2009-10-24T08:09:53Z</issued>
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<summary type="text/plain">最近やたらとバッハがお気に入りで、もうバッハばかり聞いている。 天気が良かったの...</summary>
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<email>dogu@dogustat.com</email>
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<dc:subject>趣味</dc:subject>
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<![CDATA[<p><span class="photo"><a href="http://dogu.no-ip.org/archives/img/p226norail00.jpg" rel="lightbox[EntryImg]" title="レールなしマルイP226"><img alt="p226norail00.jpg" src="http://dogu.no-ip.org/archives/img/p226norail00-thumb.jpg" width="140" height="104" /></a></span>最近やたらとバッハがお気に入りで、もうバッハばかり聞いている。<br />
天気が良かったので部屋の掃除中をしながらグレン・グールドのインヴェンションとシンフォニアを大音量で聞いていたのだが、部屋に転がっているBB段を拾っているとガスガンが撃ちたくなってきて部屋の壁に取り付けられた的を「ガガッ！ガガッ！」と機嫌よくダブルタップで撃っていたまでは良かった。<br />
ワンマガジン撃ちつくしてスライドストップがかかって、ふと視線を感じて窓から下を見下ろすと家の裏に向かって全開にしていた窓越しに、ぽかんとした顔で私を見る見慣れない若夫婦と目が合ってしまった。どうやら家の裏に引っ越してきたようだ。<br />
お互い慌てて会釈を交わしたものの、ブローバックするガスガンに大音量のグールドのバッハ、絶対怪しい人やと思われてるやろうなぁ。<br />
いや、怪しい人に思われる、じゃ無くって怪しい人そのものか…確かにはたから見たら怪しいのは自分でも認める…ワグナーとかよりバッハのクラヴィーア曲のほうがある意味で怖い。<br />
後から引越しの挨拶に来られたらしいのだが、さぞかし怖かったに違いない。</p>

<p>引っ越してきて早々にこれで、えらいところに引っ越して来たなぁと思ってるやろうなぁ…気の毒なことした。と思った土曜日であった。</p>]]>
<![CDATA[<p>という事で、写真は<a href="http://dogu.no-ip.org/archives/2009/03/p226.php">この状態になったマルイのP226</a>から更にレールをパテで埋めてサンドペーパーで均し、再塗装したものである。<br />
<a href="http://dogu.no-ip.org/archives/img/maruip226-00.jpg" rel="lightbox[EntryImg]" title="マルイ P226">この最初の状態</a>と比べると大分変わった。</p>

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<title>高野文子『棒がいっぽん』 / 「表現」のたどりつく一つの極</title>
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<modified>2009-11-05T01:24:35Z</modified>
<issued>2009-10-23T14:08:04Z</issued>
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<summary type="text/plain">ISBN-10: 4838706138  最近同じ職場の某氏に色々と漫画を借りて...</summary>
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<dc:subject>本</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ISBN-10: 4838706138  最近同じ職場の某氏に色々と漫画を借りて読んでいるのだが、衝撃的だったものを一つ。高野文子の『棒がいっぽん』である。<br />
この漫画は色々なところに発表された短編を集めたもので、ストーリー漫画性は全くといって良いほど無い短編集なのであるが、これを読んで漫画を含む「表現」というものでここまでのことが出来るのかととてつもなく驚いた本である。</p>

<p>この『棒がいっぽん』の中ではネット上で評判を見るに「奥村さんのお茄子」がダントツに評判が良いようだが、私にとっては「美しき町」と「私の知ってるあの子のこと」が衝撃的に素晴らしかった。<br />
大恋愛や激しい欲求とは程遠い、お見合い結婚をして時に他人に振り回されながらも淡々と静かに平和に穏やかに同じ価値を共有して暮らす二人の夫婦の揺ぎ無い幸せを描く「美しき町」、何の問題も無い幸せな家庭に育つ少女の、問題児というマイノリティーへの憧れと、そのマイノリティーを少し理解する瞬間の心の揺れを描く「私の知ってるあの子のこと」、どちらも余りにも微妙でしかも美しい非言語領域を見事に表現していて素晴らしい。</p>]]>
<![CDATA[<p>余りにも素晴らしくて高野文子なる人物に心底から敬服したので、彼女の名による単行本をすべて買い集めてしまったくらいである。<br />
この高野文子の本の中ではこの『棒がいっぽん』が一番素晴らしかったけど、その他の本もなかなか良かったのでまた紹介したいと思う。</p>

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