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2007年09月03日

●上野 修 『スピノザ―「無神論者」は宗教を肯定できるか』 (シリーズ・哲学のエッセンス)

amazon ASIN:4140093331 スピノザといえば『エチカ』というイメージがあるけど、この本はその『エチカ』ではなく『神学・政治論』の方をメインに解説した入門書である。

自由の国であったはずのオランダでの宗教と哲学の衝突を憂慮し、その混乱の解決を目指すべく著され、自然の世界と宗教の世界の分離をどちらも守る形で推し進めようとした『神学・政治論』の意図が分かったような気がする。

宗教は啓示と服従を、哲学は真理を解くもので、神学と哲学は全く相容れない全く独立したものであるべきであるというスピノザの主張が、聖書は論理も解さず啓示も得られ無い、哲学者でも預言者でもない一般大衆向けに伝承的に述べられたものであるから、哲学が扱うべき真理や論理とは無縁であり、預言者の得たものが隠されているわけでもなく、ただ啓示を示して神への服従を解いているに過ぎないという文脈で説明されていた。

確かに当時の彼が異端の無神論者とされたのは良く分かった。聖書はただの言葉に過ぎない。聖書は真理を述べていない。といえばそらもう恐ろしいことになるのは良く分かる。ゆえにでも聖書もキリスト教も必要である。と付け足したところで、何じゃそら。ということにしかならないだろう。

それでも、正統的なキリスト教的ではないにしろ、信仰心のようなものは彼の主張から強く感じるような気も個人的にはする。その信仰は恐らく『エチカ』で展開される「汎神論」といわれるものになるのだろうか。

キリスト教的な意味では無神論者と看做されるやろうけど、汎神論的な意味での信仰者であることを自認している感覚は、キリスト教的な服従という意味合いでの敬虔ではなく、理性によって感じられる大きなものの存在に対して敬虔さを抱く感覚であるだろう。
だからといってキリスト教的信仰を否定するのではなく、それは大いに肯定されるべきであると感じる感覚が、自己矛盾に陥っていると感じられないのは不思議といえば不思議やけど、感覚的には良くわかる。
敬虔であるとか信仰であるとかいった感情や状態に対する敬意を持つというのは、真面目な物に対する態度としてもっともまともな感覚じゃないだろうか?

哲学といえば、論理の正当性を前提にしているわけで、まぁ、論理に対する敬虔であるとか信仰であるといってしまっても完全な間違いではないやろう。
そしてそれを突き詰めてゆけば、世界を世界として成り立たせている自然法則や自然自体がその敬虔の対象になるであろうことは自然な流れであるような気もする。
「正しく行う人は、宗教に教えられてそうしようと、理性に教えられてそうしようと、隣人愛の教えにかなっているというだけで等しく敬虔なのである。」という言葉はまさにそれを言い表しているわけで、とても印象に残った救いのある言葉であった。

後に、スピノザをして『エチカ』で一般的に「汎神論」と呼ばれる思想がまとめられることになる必然性というか、動機の根のようなものがこの本でよくわかったような気がする。

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