2009年10月27日

●グレン・グールド 「バッハ:フーガの技法、インヴェンションとシンフォニア 」

amazon ASIN:B00005HMOW 久しぶりに音楽のエントリを。
最近やたらとバッハが好きになってひたすら聞きまくっており、私の大好きなグレン・グールドが演奏する「フーガの技法、インヴェンションとシンフォニア」 が気に入っている。
グールドはフーガの技法をオルガンで、そのほかをピアノで演奏しているのが、グールドのオルガン演奏はちょっとレアな気がする。

しかし、バッハが楽器を指定していない「フーガの技法」であえてオルガンで演奏するところがグールドらしくひねくれていて良い。しかも、バッハのオリジナルの譜ではなくツェルニー校訂によるピアノ譜で弾くうえに、このおかしなオルガンの音は単に録音と音質が悪いだけかと思ったら、わざとこういう風に録音しているらしいという、念には念を入れたひねくれ度合いである。
演奏方法もとてもオルガン演奏とは思えないらしいのだがそのあたりは私には良くわからない。
「モーツァルトの悪い部分を直しながら弾いてやっている」と豪語するモーツァルト嫌いのグールドが、彼が好きな音楽の父たるバッハの残した辞世の曲をあまりにもひねくれた趣旨で弾いているのはどういつもりなのだろうか?

グレン・グールドの良いところは、既成の常識をはなから考慮に入れず、様々な部分から構成される感情や感覚の全てを、最終的には知性だけで何とか制御して表現しようとする方向性にある。といってもいいと思う。
もちろんそんなものは幻想だと言い切ってしまうのは簡単であるが、本当に先があるのかわからない細く危うい道を、一人の天才がクールに渡ってゆくところを見るのは心を打つものがある。
全てが理性で制御できて表現できる世界があるならぜひ行ってみたいと思わせる、そんな演奏である。

2009年05月18日

●バッハ:「主よ、人の望みの喜びよ」 by ワイセンベルク / 公人として、私人としてのバッハ

amazon ASIN:B000CSUXZW 一昨日に「主よ、人の望みの喜びよ」は誤訳ではないか?正確には「主よ、私の魂の喜びである貴方よ」とでもすべきである。ってな事を書いたので、ついでにマイラ・ヘスではない「主よ、人の望みの喜びよ」の紹介。
この「主よ、人の望みの喜びよ」が入ったこのアレクシス・ワイセンベルクのCDはバッハ好きにはたまらない全曲バッハ構成である。
タイトルになっている「主よ、人の望みの喜びよ」はマイラ・ヘスのひたすら内向するような演奏に比べて大分外交的というか「他人のために弾いている」という印象を受ける。
個人的にはこの曲に関しては曲の雰囲気から言って、井戸を掘るようなマイラ・ヘスの演奏が好みである。
しかし、BWV543のイ短調のプレリュードとフーガ、BWV855aのロ短調の「シャコンヌ」の演奏が熱い。これは熱すぎる。

バッハってのは宮廷の楽師長やら楽長やら合唱長なる地位を歴任して、社会的にはそれなりに不自由のない生活をした人である。
バッハのころは音楽家など芸術家ではなく召し使いであるとされていたころであるから、音楽家はパトロンやスポンサーの望む音楽を作る事が仕事であったはずで、バッハも少なくともそのことを納得してそのような仕事をしていたように思える。
しかしながら、バッハはそういったいわば注文制作の音楽に個人性を忍ばせて自己表現をしていた。と、私は思う。
彼の作るチェンバロ曲やヴァイオリン曲などのシンプルな構成の楽曲にはそういった雰囲気が現れているように思えるのだ。

で、このCDの話に戻るが、このアレクシス・ワイセンベルクの演奏はそういった公としてのバッハと個人としてのバッハの両方がよく引き立っているように思えるのであった。

2009年05月16日

●人の誤訳のグタグタよ

最近バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」のピアノ編曲版が聞こえてくることが多ったのだが、ふとこのタイトルの意味が良くわからないことに気づいた。

amazon ASIN:B0007INZPC この曲で一番メジャーなのはこのCDやね。
「主よ、人の望みの喜びよ」ってのは「主よ、人の望み(があることは)喜び(です)」なのか「主よ、(あなたが)人の望み(であるのは)喜び(です)よ。」なのか。それともまた別の意味なのか?
ということとでちょっと調べてみた。

元々この曲はバッハのマリアのエリサベト訪問の祝日の147番の教会カンタータ「口と心と行いと生命」のコラールの一部をマイラ・ヘスが編曲してメジャーになったものやけど、そもそも「マリアのエリサベト訪問の祝日」ってのは、聖母マリアがキリストを身ごもった喜びで主を称えた日の話である。

調べたところによると「主よ、人の望みの喜びよ」ってのは、ドイツ語からの英語訳である"JESU, JOY OF MAN’S DESIRING"を更に日本語に訳したものらしい。確かに直訳やね。
しかし、更にドイツ語の原文を調べてみると"Jesu, meiner Seelen Wonne"ということで、カンマ以前と以後は同格であるから、「主よ、私の魂の喜び(である主)よ」と二回呼びかけていることになるようだ。なるほどこれならちゃんと意味がわかる。

というか、これはこれは洗礼者ヨハネの母エリザベートの前で聖母マリアがキリストを称えて言った台詞、ルカ1・46~55の「マリアの讃歌」、いわゆる「マニフィカト」の「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」に対応している言葉であろうね。
となると日本語に訳す時に間違えたというよりは、英語訳がそもそも間違っているように見える。
しかし、ここの一番肝心な所を誤訳するとは、しかも原形をとどめないほどに誤訳するのはちょっといただけないと思う。

しかし、世の中にはこんな感じで誤訳がメジャーになったことって沢山あるのだろうなと。

2009年04月13日

●「ブラームス:チェロ・ソナタ第1番&第&番」ジャクリーヌ・デュ・プレ、ダニエル・バレンボイム

amazon ASIN:B0001O3Y8K 最近よく聴くのはコレ、バレンボイムが妻である夭折の天才チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレと競演した1967年録音のこのアルバム、「ブラームス:チェロ・ソナタ第1番&第2番」である。

ジャクリーヌ・デュ・プレって人は情緒的に感情的に演奏するタイプの人らしく、なるほどこの演奏を聴いているとそんな感じである。
新婚さんいらっしゃ~い。てな勢いで、天真爛漫に歌い上げているジャクリーヌ・デュ・プレに、「まぁまぁ」とちょっとだけ空気読まないような感じで入ってくるバレンボイムがとてもいい感じに噛み合っており、聞いているとなんとも心地いい。
なんというか「メロンに塩」といったところだろか。もちろんメロンがジャクリーヌ・デュ・プレね。

しかし一番の感想はこのジャケットを見て「バレンボイム若っ!しかも目つき悪っ!」であったりする。

2009年04月05日

●グレン・グールド「ブラームス:4つのバラード、2つのラプソディ、間奏曲集」

amazon ASIN:B0002ZEZVI ブラームスと言うとロマン派であるけど、昔からロマン派と呼ばれる作曲家のピアノ、しかもソナタでもコンチェルトでもないのは甘ったる過ぎてあまり好きではないので、このCDはグールドのCDの中ではゴールドベルグに次いで有名なものひとつであるけど、今まで聴いたことが無かった。
しかし、最近、ブラームスのピアノソナタとチェロソナタ、そして交響曲を聴いて、ブラームスのイメージが一変した上に、私の中では「わたしずるいんですの原節子」な某レディーのお気に入りの一枚でもあるということで、もうこれはぜひ聴いておかんとと言うことで聴いてみた。

このCDは「ロマン派」という括りで言及されるので、甘々なグールドなんか見たくないし甘々な曲なんか聴きたくないと多少覚悟して聞いたのだが、流石にグールドはそんな曲を弾く筈が無い。
確かにグールドにすれば甘い方やけど、甘すぎない甘みをちゃんと表現していてこれは心地よかった。
なんというか、生クリームと砂糖べったりのショートケーキではなく、サツマイモやかぼちゃの甘みがきっちり出ているパイと言う感じであろうか。

それに何よりグールドのCDの中で一番ジャケットが好きなのもこのCDである。ふんぞり返ったグールドがグールドらしくて良い感じである。
このCDの間奏曲が彼のピアニストのキャリアとしての最初期の録音で、「バラード集」と「2つのラプソディ」は彼の最後の録音ということであるけど、やっぱり「バラード集」と「2つのラプソディ」がきりっとしていて素晴らしい。
美しさが神経質さと同居しているようなグールド独特の雰囲気が良く出ているように思う。

2009年03月30日

●グレン・グールド「モーツァルト:ピアノソナタ集」

amazon ASIN:B0002ZEZVS 最近ちょっと自分の「音楽の聴き方」ってのにかなり疑問を持ち始めたと言うこともあって、印象とか感覚とかで持ってるCDについて感想を書いてみようと思う。

最近結構気に入って聞いているのが、私の好きなピアニストであるグレン・グールドの「モーツァルト:ピアノソナタ集」で、全編を通して、モーツァルトとして聞けば異様な雰囲気の漂っているCDである。

攻撃ヘリから軽機関砲の弾幕でベトコンの野営地をなぎ倒すようなイ短調K.310の第一楽章、それとは逆に異様にテンポが遅くて躓きそうで、アルペジオが更に異様な雰囲気をかもし出している「トルコ行進曲」が有名どころだろう。

モーツァルトのピアノソナタってなんとなく軽快なイメージがあるけど、異様に早かったり気色悪いほどに遅いグールドの演奏を聴いていると、なんかどこにもたどり着けず同じところをぐるぐる回っているような感覚に陥ってくる。
こんな事いうと怒られそうやけど、グールドと言う人間の救いの無さが良く現れているように思う。

しかし、グレン・グールド自身の救いのなさってのは、結局人間一般の救いの無さと、人生一般の救いの無さの一つの表現系であるだろう。
一人の孤独な男の陥った地獄を垣間見ることは、ある種の慰めになるように思う。
しかし、こんな音楽の聴き方はあまり一般的でないネクラ系の聞き方だろうなぁ。このCDを聴いていると、なんかつくづくグールドって寂しかったんやろなぁという気がするのであった。

2009年02月26日

●ブラームスを聴き始めた

最近職場の人にCDをお薦めしてもらう事が多くなり、ダニエル・バレンボイムの演奏するバッハやブラームスのソナタなど、今まで聞かなかったような音楽を聴くことが多い。

私が偏屈なせいか、今まで誰にも聞くこと無く一人で聴く音楽を選んでいたけど、お勧めして下さるCDを聴いているうちに私は今までなんと暗くて深刻で思い詰めた様な音楽ばかり聴いていたのだろうかと思うようになった。
「深刻になることは必ずしも、真実に近づくことではない。」と村上春樹が言っていたけど、そんなものばかり聞いていてどこにたどり着けるというのだろうか。
深刻ではないけど、きりっとして上品で華やかな音楽の良さもあるなぁと思うようになってきた気がする。
amazon ASIN:B00000I7VT
と言うことで最近よく聴いているパールマンとアシュケナージのブラームス ヴァイオリンソナタ全集

2009年02月09日

●エクスタシーの歌~ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの世界

amazon ASIN:B0014W8T1A 久しぶりにCDを買った。
「エクスタシーの歌~ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの世界」とちょっと怪しげなタイトルであるけど、一応ちゃんとした中世の宗教音楽である。

「中世ヨーロッパ最大の賢女」とも「ラインの女預言者」とも「ドイツ薬草学の祖」とも呼ばれる、中世ドイツの女子修道院長であるヒルデガルト・フォン・ビンゲンの宗教曲集で、「セクエンツィア」なる中世音楽アンサンブルによるものである。ドイツ・ハルモニア・ムンディの限定版で1000円ととても安かった。
単旋律の伴奏なしの殆どユニゾンと言うことで、ほぼ同時代のグレゴリオ聖歌と同じような作りやけど、このCDに入っている曲はほぼ高音域の女声が殆どでグレゴリオ聖歌とはかなり違った印象を受ける。
元々ルネッサンス期のオケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ギヨーム・デュファイなどの宗教曲が好きで良く聴いているけど、それより数百年前のビンゲンのヒルデガルトの音楽は、構成が単純な分だけよりトリップ感は大きいような気がする。

ビブラートしない女声の高音域で歌われる単純で綺麗な旋律を聴いていると、いつの間にかなんともいえない恍惚感に似た変なダウナー系トリップ感に結構深く入りそうになるのだが、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは幻視者でもあったということで、その幻視を垣間見たような気分になる。

男性がキリスト教の神に向かうのと、女性がキリスト教の神に向かうのとでは、若干信仰の形が違うと言うけど、なんかこれは男の宗教者にはない境地なんやろうな、となんとなく想像出来る様な気がする。
男である私にとってこのヒルデガルト・フォン・ビンゲンの音楽は、なんかちょっと見てはいけないものをふと見てしまったような、なんだかちょっと危険な香りがするのであった。

宗教的奇人風の幻視者でありながら、音楽にも文学にも科学にも秀でた知的に突出した面をもつ、このヒルデガルト・フォン・ビンゲンなる人物に興味が出てきたので、彼女が書いたものか、彼女についての本でも読もうかなと言う気になってきた。

しかし、今から910年ほど前の人が作った音楽が聴けるとは、考えれば気の遠くなるような話ではある。

2008年09月01日

●ベートーヴェン:最後期のピアノソナタ マリヤ・グリンベルク / 最後に地上に還る五つの変奏曲

amazon ASIN:B00005EZJ0 ちょうど100年前の1908年に生まれたロシアの女性ピアニストであるマリア・グリンベルクのベートーヴェンの最後期のピアノソナタを聴いた。
彼女はソ連のピアニストで初めてベートーヴェンのピアノソナタ全集を録音した人物であるらしく、このCDの曲はその一部だと思われる。

ベートーヴェンの最後の三つのピアノソナタ、特に32番のハ短調は私が最も好きな曲のひとつで、今までいろいろな人の演奏を、アシュケナージ、グルダ、バックハウス、アラウ、内田光子、ケンプ、グールド、シュナーベル、ポリーニ、ギレリス、(他にもいたかな?)などを聴いてきた。そしてその中での私の基準演奏は、始めて聴いてベートーヴェンに開眼したアシュケナージの演奏である。

このグリンベルグのピアノはとにかくパワフルで、私の中の基準であるアシュケナージはもとより、今まで効いた誰よりもエネルギーに溢れる演奏であったような印象を受けた。
彼女のこの演奏からすれば、アシュケーナージの演奏はとても女性的で線の細いように思えるくらいである。

主題と五つの変奏曲からなる32番の第二楽章やけど、今まで誰の演奏を聴くにしても、第四変奏は現実離れしてるほどに端正すぎてそれほど好きでなく、一番好きな第三変奏に至る過程にばかりに注目して聞いていた。
でもこのグリンベルクの第四、第五変奏は今までに無いくらい人間臭い演奏でとてもびっくりしたと同時に、この曲の捉え方ががらっと変わった。

この曲を評する時に誰しもが「広大な世界に精神を開放して高揚するかのような第二楽章」というニュアンスの事を言うけど、その遠い世界に飛び立った最たる部分が第四変奏であろう。
しかしグリンベルクの演奏は、第四変奏で高く飛びながらも人間味を残し、他の演奏家では別の世界に到達したかのように聴こえる第五変奏を、厚みを増してこの世にちゃんと戻ってきたかのよう弾いているように思える。

今までこの曲は、精神が苦悩とか欲望を超越して完全に別の世界に行ってしまうからこそ好きなんやったけど、最近はそう言う感覚がちょっと無くなって来た事もあり、好きな曲と言いつつもあまり聴いてなかった。
でも、久しぶりにこの演奏家の演奏するこの曲を聴いて、とても感動したし、この曲の捉え方ががらっと変わった。

前からピアノを弾けるようになりたいなぁとはぼんやり思っていたけど、このグリンベルクの演奏を聴いてますますその思いは強くなった。
とはいっても家にはピアノどころかキーボードすらないので何も出来ないところが悲しい。
とりあえずなんか適当な電子ピアノ見繕って、バイエルから始めようかなと、かなり本気で思うようになった。

2008年05月19日

●ベートーヴェン:最後の三つのピアノソナタ : グレン・グールド

amazon ASIN:B000ULLNQ4 音楽カテゴリに、しかも私の愛するグレン・グールドとベートーヴェンとその最後の三つのピアノソナタについてのエントリにコメントを頂いたので、持っているCDから一枚紹介してみる。

あの強烈なデビュー作である55年版ゴールドベルグ変奏曲によってグレングールドの名は世界に知られたわけやけど、彼がその興行的な大成功の次に録音する事を望んだのがこのCDの三曲、ベートーヴェンの最後の三つのピアノソナタであった。
一般的にこのベートーヴェンの30番、31番、32番の三つのピアノソナタは重くて深刻で天上の高みにあるとも言われて、余りに大層な扱いやら有難がられ方をするものやけど、グールドはそんな扱いに疑問を抱き、新しい解釈を世に問いたかったのかもしれない。

30番は彼自身が第1楽章の美しさを褒め称えていたらしい割には余りに溜め無しにあっさり弾いてしまう、なんというかツンデレな30番である。
それに引き換え31番はテンポが遅い目やけどなんとなく不自然なくらいに丁寧な印象を受ける。彼の丁寧な演奏と言うのはちょっと薄気味悪いけど、次の32番はこれでもかと言うくらいの怒涛のテンポで繰り出されて殆ど適当とも言えなくも無い演奏である。

初めて聴いた時は私の大好きな32番の第二楽章の五つの変奏の適当さと、31番の第三楽章後のフーガのわざとらしさに怒りさえ覚えたけど、今となればこのぶっ飛び加減がとても素晴らしい。

今までの重々しい深刻な解釈と真っ向から対立するような演奏で、ジャケット写真のようなうっとりグールドでやっぱりベートーヴェンと言うよりはグールドという雰囲気満点である。

京都のラーメン好きは「天下一品のラーメンはラーメンではなく天一という食べ物である。」という事をよく言うけど、同様にグールドはバッハを弾こうがモーツァルトやベートーヴェンを弾こうが、グールドにしか聞こえない。
以前から私は以上のような根拠で「グールドは天一」という説を唱えているけど、このCDは「グールドは何を弾いてもグールド」というところを余す事無く示してくれるCDでは無いだろうかと思う。
何気に密かに私の中々の愛聴版である。

2008年03月15日

●ジャック・ルーシェ 「ゴルトベルク変奏曲」

amazon ASIN:B00005FEJ6 ゴールドベルグ変奏曲が好きなんかグレン・グールドが好きなんか分からん状態やけど、ゴールドベルグ変奏曲を見るとついつい反応してしまう。
ということで「プレイ・バッハ 」が有名なバッハ弾きのジャズピアニストであるジャック・ルーシェのジャズとして演奏される「ゴールドベルグ変奏曲」を聞いた。

ジャズでクラッシックの曲と言えば私の中では「オイゲン・キケロ・トリオ」なのやけど、ジャズとして比べると彼らのパワフルで畳み掛ける様な演奏とは違い、ジャクル・ルーシェ トリオの演奏はとても端正な感じである。
グールドのように暑苦しくなく、マイスキーのようにウェットでもない演奏は、ネット上でよく言われているように「余り面白くない」という事になるのかもしれない。

ピアノトリオの割にドラムもベースも殆ど目だって無いのもちょっとなぁ。クラシックではないけど、ジャズといえばちょっと違うような気もする。中途半端と言えばそうなのかもしれないけど、この立ち位置はなかなか良いと思う。特に第四変奏なんかはジャズやけどゴルトベルク変奏曲やという感じがして中々好きである。

2007年12月24日

●年中行事

クリスマス・イヴに過剰に反応する人間はアレだという事で。過剰に反応してみる。
そこらじゅうがLEDやらムギ球やらでギラギラして眩しい。やたらとフェラーリーが街中を徐行しているのを見た。やたらとサンタ帽子を被った異邦人を見かけた。
そんな何やかやは、クリスマスを宗教行事ではなく年中行事だと捉えれば何の問題も無く理解できる。
年中行事の一環として、サンタさんが各家庭の子供たちにプレゼントをばら撒く事になっているのだと。
しかし、サンタさんがなぜそんな事をする必要があるのか、なにがそんな事をするほどめでたいのか。ってところに疑問を持ってしまうと年中行事だけは根拠として薄すぎるから、やっぱり宗教行事にしかならんやんつうことか?
しかし、なんだか街中はやたらと人が少なくガラガラだった。何故に??

amazon ASIN:B000065E7L 折角なので、J.S.バッハ「クリスマス・オラトリオ」の「クリスマス第1日礼拝のためのカンタータ」 を聴いた。
キリストが生まれたからって、幾らなんでもそれはちょっと喜び過ぎじゃね?と思った。宗教曲でビブラートさせる唱法はあまり好かんなぁ。モーツァルトのオペラやとノリノリやねんけどね。
そういうことで、宗教曲と言うよりはオペラっぽく聴こえた。そういう風に聴くといいかも。

2007年11月21日

●マウリツィオ・ポリーニ 「ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ集」

amazon ASIN:B00005Q7R3 マウリツィオ・ポリーニの「ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ集」を聴いた。
ミラノ生まれのポリーニの弾くピアノは技術的に完璧すぎて冷たいとかサイボーグとか言われることが多いらしい。
18歳でショパン国際ピアノコンクールで全員一致で優勝をした後、直ぐ演奏活動に入らずに10年近く勉強を続けたらしいというエピソードからも、彼は一般的なイタリア人のイメージにない真面目さと勤勉さを持っているような印象を受ける。
一方ベートーベンの28番から始まる後期ピアノソナタはベートーヴェン的、ドイツ的深刻さと重々しさを突き詰めた先にある音楽のような気がする。言うまでもなくイタリア的で連想されるものとは遠い位置に在る深刻で重い音楽であろう。

そして、そんなポリーニのキャラクターとベートーヴェンの後期ピアノソナタははとてもあっているように思えるのだ。

ポリーニがベートーヴェンのピアノソナタの全集録音を始めるにあたって一番最初に録音したのが、この重い重い最後のピアノソナタ群で、それがこのCDである。
確かにサイボーグ的で冷たいという見方もあるけど、個を捨てて演奏機械となることで譜面から伝わるベートーヴェンの息吹を最優先するという側面もあるような気がする。
全てを自分の音楽として弾くグレン・グールドとは全く逆の方向性やけど、「ベートーヴェンの音楽を聴く」という意味ではとても素晴らしいと思う。

何らかの感情が芸術として表現される場合には知的な制御が不可欠であるとする立場を突き詰めたような演奏であると思った。
それでいて、ラテン的な明るさも忘れていないところが最高に知的であると思った。

この音源はポリーニが33歳から35歳にかけて録音したものであると言うところも私のツボである。

2007年11月12日

●グレン・グールドのベートーヴェン三大ピアノソナタ/パンセを読み始める

amazon ASIN:B00005GB4M
グレン・グールドの演奏するベートーヴェンのピアノソナタ23番はとても遅くて、全然「熱情」に聞こえないけど、これもアリアリ。
しかしながら8番はベタベタにとってもいい感じ。こういう内向的で自己愛に満ちたような演奏は彼向きだ。

グレン・グールドの引くベートーヴェンは全然ベートーヴェンという感じがしない。
それでも、ベートーヴェンでなくグレン・グールドの演奏とだけ思えば、何ともいい感じである。
ベートーヴェンだからといって物怖じするどころか、逆に大暴れするような彼の演奏の弾けっぷりが素晴らしい。
でも、大好きなグレン・グールドが、大好きなベートーヴェンのピアノソナタを弾いたからといって、私にとってベストにはなり得ないところが人間の不思議さである。

ようやくにしてパスカルの『パンセ』を本格的に読み始めた。
口を開けば罵詈雑言なニーチェをして「血をもって書いたもの」と言わしめただけあって、何とも重い本である。彼の真摯さや真剣さがひしひしと伝わってくる。
とりあえず第1と第2章を読んだけど、一度にがーっと読むような本じゃないや。これは

2007年11月02日

●ベートーヴェン:最後の三つのピアノソナタ バックハウス、内田光子

amazon ASIN:B000CBNZ5O amazon ASIN:B00005FLK0 ベートーヴェンの最後の三つのピアノソナタ、30、31、32番を満を持して録音された内田光子の演奏と、古典的名演であるバックハウスの二回目の全集録音で聴いた。

内田光子の演奏は全体的に没入感と感情移入たっぷりでとても雄弁な感じがする。とても丁寧で気を使っているのが感じられ、ちょっと端正過ぎるような気もするけど32番の第2楽章はこんな風な演奏にとても合ってて良い感じやった。

バックハウスの弾く後期ピアノソナタを初めて聴いたけど、余りにあっさりさっぱりしていてびっくりである。
これだけ感情とか情緒を極限まで省いた最後の三つのソナタが演奏されるとは思わんかったし、さらにはそうであるからこそ32番がこんなにノリノリな音楽になっていてびっくりである。
しかしながら何度も聴いているうちにクールな演奏の底から浮かび上がってくる何ものかが胸を打つ。演奏家の持ち味と言うよりは曲の持つ力を意識した演奏であることがわかって妙な感動を覚えるのだ。
演奏当時の80才に近づこうとするバックハウスの謙遜さはどうだろう?たしかにこの録音が名演と呼ぶにふさわしいのが良くわかる。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。

2007年10月30日

●ジョスカン・デ・プレ 「ミサ:舌よ、ほめたたえよ」

amazon ASIN:B00005ATCX なんとなくミサ曲が激しく聴きたくなったのでイギリスの声楽アンサンブル、タリス・スコラーズが歌うルネサンス期のフランドル派の作曲家ジョスカン・デ・プレのミサ曲の二つ「Pange lingua」「La sol fa re mi」を聴いた。
このCDに入っているミサ曲の録音は1987年の英グラモフォン誌Record of the Yearに選ばれた(らしい)というだけあって確かに素晴らしく、聴いているといつの間にか引き込まれてしまう。

ルネサンス期の教会音楽は私の好きな音楽のジャンルの一つなので、無伴奏の聖歌やミサ曲というだけでついつい聴き惚れてしまうのやけど、その事を度外視しても、彼らのビブラートしないストレートな発声によって繰り出される和音はなんともたまらん。
聴いていると自分の中にある黒々とした欲求やら煩悩やらが溶けていくようである。確かに「memento mori 」から導かれる方向性の一つであることを感じる。
もちろんそんな気分に聴いている間だけなると言うだけやけど…

2007年10月25日

● 『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』ミッシャ・マイスキー弦楽三重奏

amazon ASIN:B000HOJDGG 去年の終わりころに十字屋の視聴コーナーで聴いてたまらんかったCDをやっとちゃんと聴く機会に恵まれた。
弦楽三重奏に編曲された、J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲、ミッシャ・マイスキーがチェロ、ジュリアン・ラクリンがヴァイオリン、今井信子がヴィオラである。

グレン・グールドの演奏する「ゴルトベルク変奏曲」は「天一のラーメンはラーメンではなく天一という食べ物」であるように、「グールドのゴルドベルク変奏曲」でしかないわけやけど、この弦楽三重奏はヴァイオリニストのシトコヴェツキーがグレン・グールドの演奏を聴いて感動して彼に捧げるべく編曲したらしく、聴いていると確かにグールドっぽい感じはする。前聴いたアンドラーシュ・シフの「ゴルトベルク変奏曲」はバッハな方向性やけど、この弦楽三重奏はやっぱりグールドな方向性であるように思う。

しかしながら1981年版のグールドの演奏よりも更にテンポがゆったりとしており、演奏も丁寧な印象を受ける。
55年のグールドの演奏時間が38分、81年が51分、そしてこの弦楽三重奏の演奏は80分と時間的にもぜんぜん違う。

グールドはひたすら形振りかまわず内向するような演奏やけど、三人の調和ししつつも刺激しあいつつも軽快さと丁寧さを忘れない控えめでエレガントな演奏はとても良い感じ。第4変奏や第10変奏の微妙なバランスなどどうだろう。そして終わりを惜しむかのような第30変奏から最後のアリアへといたるところはもうたまらん。お風呂で聴いているととてつもなくトリップした。

2007年09月07日

●クラシック界、前代未聞の驚異の1枚(らしい)

amazon ASIN:B0000C4GKA サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院聖歌隊の『グレゴリアン・チャント・ベスト』を聴いた。
このCDは「ベスト」と銘打ちながらも、15年ほど前に大ベストセラーになった、発売からわずか3ヶ月で25万セットを売りつくしたという「クラシック界では前代未聞の驚異の1枚」であるらしい『グレゴリアン・チャント ~グレゴリオ聖歌』 の全ての14曲と、そのCDから三枚目のCDにあたるクリスマス聖歌の収められた『チャント・クリスマス(グレゴリオ聖歌)』 から11曲が収められたとてもお得なCDである。

プロではないスペインの聖地の修道士たちが歌う和音無し一旋律のユニゾンはストイックでありながらも不思議な没入感を生み出す。
音楽にしろ何にしろ、激しく訴えかけようとするものばかりに溢れた世の中で、まったく押し付けがましさのない確信と平安に満ちたこの信仰の音が受け入れられたのは良く分かるような気がする。
抑制と熱狂の中庸、抑制寄りというスタンスはそうそう見られるものじゃない。

夜中の1時からいつものメンバーで海に行くという事で、このCDを聞きながら少しだけ寝ておいた。

2007年09月04日

●ローランド・カーク 『溢れ出る涙』

amazon ASIN:B000IJ7IYY ローランド・カーク『溢れ出る涙』を聴いた。
このローランド・カークって人は盲目のマルチ・リード奏者で、一度に三本のリード系楽器を咥えて吹き、更に鼻でホイッスルを鳴らし、時には歌ったり唸ったりと、グロテスク・ジャズやとか言われて、奇人変人の類にカテゴライズされることが多いようだ。
この人の他のアルバムは私の中では思い出深いものにカテゴライズされている『ドミノ』 というの持っているのやけど、それに比べてこの『溢れ出る涙』は彼の変人度が低いような気がする。

このアルバムの中にはいわゆる「ジャズ」っぽいのもが入っていて、そういうのと一緒に「息継ぎ無しの三本同時吹き歌入り」なんてのを聴くと、それなりにまともな人がちょっと変わった事をしてみたようにも聞こえない事もない。

しかしながらこの人はまったくまともじゃない。
この人のぶっ飛び具合が奇をてらって人と違うことだけをするのを目的としたものでないのは聴いていると良く分かるし、生まれながらの変人は美しいとすら思える。
アルバム名にもなっている「The Inflated Tear」はどうだろう。情念と言うか叫びと言うか訳の分からないものが彼の溢れているように聞こえる。
これが彼の言う涙なのか?

なんというか、こういうのを聴いていると俺はいったい何をしているのだろうとつくづく思う。

2007年08月22日

●フリードリッヒ・グルダ「悲愴」 (アマデオ盤)

amazon ASIN:B0009N2VFU フリードリッヒ・グルダの演奏するベートーヴェンの表題付きピアノソナタを聴く。アマデオ盤の全集録音の中から8番、14番、23番、26番の入ったCDである。
グルダは自分のコンサートでベートーヴェンやモーツァルトと一緒に自分の作曲した曲を演奏したり、アンコールで客からのリクエストを受けたり、後年にはジャズへと傾倒して演奏までした異端児であった。
変人好きの私としては、グレン・グールドのように立ち昇るほどの生き辛さの悲壮感を漂わせる変人でなく、完全な変人でありながらちゃんと世間に順応した天才でもあったグルダの立ち位置がとてつもなく眩しいのである。
彼の演奏するベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタをこの間聴いてかなりよろしかったので、有名どころの初期と中期の傑作である「悲愴」と「熱情」を聴きたかったのだ。

で、グルダの演奏の特徴とされるとおりに、どれも明るくはっきりした素晴らしい演奏で良い感じだった。特に8番「悲愴」の第二楽章の若者特有の深刻すぎないあこがれ感が良い感じに出ていたように思う。このCDは愛聴盤になりそうな予感である。

2007年08月16日

● 『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』アンドラーシュ・シフ

アンドラーシュ・シフの『ゴルトベルク変奏曲』を聴いた。
グレン・グールドでない『ゴルトベルク変奏曲』を始めてちゃんとゆっくり聴いたのだが、『ゴルトベルク変奏曲』についてはネット上でいろいろな人が色々な演奏家の物を聴き比べて色々な評をしているけど、このシフの演奏についても大体私もたいてい言われるような印象を持った。
つまりグールドのものと比べて、変な緊張感とか切迫感とか差し迫った所は無く、とてもまろやかでエレガントで、聴き疲れしないということである。
音と音が繋ぎ目無く綺麗に敷き詰められて、反響音が大きく、刺激的な音は少ない。グールドの演奏とはまったく違う印象である。
まったく違う印象ではあるけど、とても心地よい。

amazon ASIN:B0000QWZPM しかしながらやっぱり個人的にも世間的にも『ゴルトベルク変奏曲』についてはグールドの演奏が基準になっているので、「グールドの演奏と比べて・・・」という評価が多くなってしまうけど、この曲はもともと不眠に悩まされていた貴族が聴いている内に眠くなるように作られた曲であるので、シフのこの演奏は本来の曲のコンセプトに沿っているのかもしれない。
こうったリラックスした心地よい演奏は、この曲はもともとこういう曲なんじゃないかと思わせるところがあった。

シフの演奏したり発表したりしている録音やライブのリストを見れば彼がバッハ弾きであるのは良く分かるし、彼のまろやかでエレガントな演奏は宮廷音楽家であったバッハ的と言えばバッハ的なのかもしれないけど、私にとってのこの曲はやっぱり強烈に情念的なグールドのピアノになじみすぎていて、シフの演奏を「この演奏は違う」と思ってしまう。
グールドの亡霊の憑依がいかに強力であるのかが良く理解できた。

グールドの演奏は常に自分自身をしか意識せず自己表現に徹しているけど、このシフの演奏はとてもバッハを意識しているような気がする。何度も何度も聴いていると、グールド的ではない、この曲自体が本来持つ素晴らしさが染み込んで来る。

「天下一品のこってり」がラーメンででありながら「ラーメン」でなく「天一」とカテゴライズされるように、グールドの弾く『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』や『モーツァルト:ピアノソナタ第8番イ短調』は『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』や『モーツァルト:ピアノソナタ第8番イ短調』ではなく「グレン・グールド」でしかありえないのだ。

そういう意味でこのシフの演奏は『ゴルトベルク変奏曲』をじっくり味あわせてくれる、グールドの亡霊を成仏させるにふさわしい端正で素晴らしい演奏である。
もちろんグールドの演奏は変わらず大好きやけどね。

2007年08月03日

●バッハ:主よ、人の望みの喜びよ マイラ・ヘス

マイラ・ヘスという人のピアノを始めて聴いたけど、なんというか、内向的やけど後ろ向きじゃなくって、前向きやねんけど外交的に押し付けがましくない。前向きに内向するような演奏がなんとも良い感じである。

私の中でバッハと言えばグレン・グールドという事になってるんやけど、彼女の弾くバッハもいい感じで、また彼女の弾くベートーヴェンも良い感じ。
私の好きなベートーヴェンとバッハといった、ちょっと毛色の違う作曲家の曲の両方を良い感じに聞かせてくれる人ってそれほど多くないんじゃないかと思った。

amazon ASIN:B0007INZPC 一曲目の「主よ人の望みの喜びよ」はバッハの教会カンタータ147番「口と心と行いと生命」のコラール部分の旋律を彼女自身が編曲したものらしいふーん。という予備知識はまったく関係なしにしても、ネット上でこの演奏に言及するたいていの人がとても感動しているのよく分かった。なんだかとても深い部分で自分の中の感動中枢を揺さぶられるような気がするのだ。

そしてベートーヴェンのピアノソナタ30番と31番は私の大好きな曲であり、端正で内向的な演奏がとても気に入った。
そして次の曲、久しぶりに、イ短調のバガテル「エリーゼのために」を聴いて、なんかとてつもなく変なところにヒットした。

2007年07月13日

●Eric Dolphy at the Five Spot, Vol2

以前感想を書いた「Eric Dolphy at the Five Spot, Vol1」と同じ時に録音された「Eric Dolphy at the Five Spot, Vol2」を聴く。

一曲目の「AGGRESSION」が良い感じ。ブッカー・リトルが作曲したこの曲自体はロボットアニメのテーマソングのごとく中々かっちょ良くメロディアスな曲で、最初のブッカー・リトルのアドリブはオーソドックスで良い感じ。そして二番目のドルフィーのアドリブもドルフィーらしい馬の嘶きサウンドで申し分なく、次のマル・ウォルドロンのアドリブも「Vol1」の「Fire Waltz」に勝るとも劣らない良い出来である。
このライブが伝説であり、エリック・ドルフィーの一つの頂点であるように言われるのが良くわかる。

amazon ASIN:B000NO28XK エリック・ドルフィー、ブッカー・リトル、マル・ウォルドロンと当時の主流から少し外れて、ちょっと歪んだ様な人達が織り成すサウンドは素晴らしい。
エリック・ドルフィーとマル・ウォルドロンが一緒に演奏していると、彼らの混沌やズレっぷりを気にせずにそのままで楽しんでいるように聞こえる。
特に、マル・ウォルドロンがドルフィーと組んだ時のアドリブは素晴らしすぎる。

「俺これで結構楽しいもんねーこのままで行くもんねー直す気なんか無いもんねー」という人を見るのは中々勇気付けられる。
本来音楽というのはこういうもんでないかと思わなくも無い。

2007年06月21日

●ベートーヴェン:最後の三つのピアノソナタ フリードリヒ・グルダ

ウラジミール・アシュケーナジの演奏でベートーヴェンのピアノソナタに開眼した故に、ベートーヴェンのピアノソナタと言えばアシュケーナジが私の基準演奏である。
最近グルダの二回目の全集録音のCDがばら売りされている中で最後の三つのピアノソナタを買ったのだが、グルダの演奏を聴くと如何にアシュケナージの演奏が美しさと優しさに重点を置かれていたのかが良くわかったような気がした。この辺はアシュケナージがショパン弾きであるゆえんであろうか。

amazon ASIN:B00005FFPV このCDの録音は、今までの重苦しく深刻なベートーヴェンではなく、軽快で軽みのある生命力溢れる演奏だという世評らしく、確かに演奏は軽やかに駆け抜け、重苦しい間は少ない。
31番の第3楽章のがこんな軽やかで楽しげで力に溢れて鳴るとは思わなかった。

しかしながら、彼の弾くこういった生命力溢れる楽しげなベートーヴェンも、強い生命力でもって生き抜いたベートーヴェン自身と被ってくるように見えるのが不思議である。
ベートーヴェン弾きとして名高いグルダの演奏は、ある意味で最もベートーヴェン的である、生命力と生きる喜びに溢れたベートーヴェンの演奏であると感じた、夏至風が吹く夏の世の夢たる夏至の日であった。

2007年06月18日

●モーツァルト:ピアノソナタ第8番イ短調K.310 グレン・グールド

私は常々自閉的な人間に惹かれる傾向があるようで、このグレン・グールドなんかはそういう観点からいって最高に自閉的で魅力的なピアノを弾く人間やと思っている。
しかしながら自閉さえしてれば誰でも良いと言うわけでもなく、その自閉的な人が自分の中に持って閉じこもっている美しい世界をチラッと見せてくれて、それを我々が垣間見る瞬間が良い訳で、その各々の閉じこもっている世界が美しくないといけないのである。
例えば、このグレン・グールドやビョークやボリス・ヴィアンの世界は良いけど、猟奇的殺人などをやっちゃう人が閉じこもっているような世界はちょっと駄目である。となかなか難しい。(難しくもないか)

というわけで、このグレン・グールドといえばバッハ、しかもゴールドベルク変奏曲ということになるけど、今回は毛色が変わった彼の演奏するモーツァルトのピアノソナタ集のCDを聴いた。

amazon ASIN:B00005HMOZ グレン・グールドはモーツァルトのことを余り好きでなかったようで、「モーツァルトは早く死にすぎたというより、死ぬのが遅すぎた」とか「あんな退屈な作曲家はいない」とかボロクソである。
彼がモーツァルトを弾く時は「彼の悪い所を直してあげながら弾いている」とオレ様的に心がけているらしく、持っているクララ・ヴュルツのCDと聞き比べてみると、ワザと全然違うように弾いてるんと違うか?ってくらいに明らかにテンポが異様に速すぎで、モーツァルト好きが「モーツァルトへの冒涜」というのも良くわかる。
しかしながらもう「W.A.モーツァルト作曲 グレン・グールド編曲」とでも思って開き直って聴いてしまえば良いのではあるまいか。

で、このCDの聴き所は「ピアノソナタ第8番イ短調K.310」だろう。
モーツァルトのピアノソナタでたった二つの短調の一つであり、彼がパリで母を無くした時期に作られたとあってその悲しみが反映されているという事らしい。
激しく始まるイ短調の第一楽章はアレグロ マエストーソな激情で突っ走り、ヘ長調の第二楽章はコン・エスプレッシオーネな美しいメロディーがアンダンテ カンタービレにソナタ形式で展開して行く様はなんとも感動的である。再びイ短調に戻った第三楽章でプレストに曲がしめられる。

グールド臭はCD全体に漂っていて、聴けば、グレン・グールドの世界が充満する。グールド的心地良さに満ち満ちているCDである。何を弾いても自分色と自分味に染めてしまうあたりは、本当に感心する。
しかしながら、モーツァルト的な音楽的語彙でグレン・グールドの世界を語るのは以外にしっくりきているのではないかという気がするのも不思議なものである。

2007年06月10日

●モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 内田光子

このCDは世界的に実力者として有名な内田光子の出世作となったモーツァルトのピアノ協奏曲の全曲録音のひとつ。このシリーズ録音を機に内田光子は一気にブレイクしたらしい。
内田光子の出世作であると同時に、モーツァルト弾きの彼女にとっては代表作のひとつだろう。
この人がテレビ喋るのを初めて見た時は「音楽家っておかしな人種やなぁ…」と思ったけどやっぱり変ながらもとてつもない魅力のある人であり、その辺のビジュアル系クラシック演奏家と一味も二味も違う。

モーツァルトのピアノ協奏曲で短調であるものは、この間感想を書いた20番とこの24番の二つだけである。
Wikipediaで『多くの人がイメージするような「モーツァルトらしい」明るい曲ではなく、暗く情熱的な作品である。しばしば「ベートーヴェン的な」作品と言われる。』というように、20番同様この24番のハ短調も、モーツァルトらしい旋律と言うか音楽的な語彙も存分に含まれている、20番よりも深刻で内省的で情熱的でかつ個人的な曲であるように思う。

amazon ASIN:B0009N2VE6 深刻で不安げなハ短調アレグロの第一楽章、弦楽器と管楽器で盛り上げておいてゆっくりと入るピアノソロが何ともたまらん。
第二楽章の変ホ長調のロンドがラルゲットに演奏される様は何とも内向的な広がりを感じる。妙な落ち着きと透明な孤独さというか諦念のようなものが漂っていて何とも心が洗われる。
第三楽章は一転してアレグレットなハ短調の変奏曲である。提示された主題が徐々に変奏されつつ高まって行く様はなんとも言いがたい感動を覚える。

モーツァルトの20番以降のピアノ協奏曲について言われる事やけど、モーツァルトがどこぞの貴族に「こんな感じでお願い」って依頼されて書いたのではなく、これは自分の書きたいように自分の思うままに自分が演奏する為に書いて作られた曲である。
前にどこかで書いたような気もするけど、この曲を聴いていると、ベートーヴェンがモーツァルトに繋がる系譜である事をとてもよく感じた。

2007年06月04日

●バッハ:イタリア協奏曲 グレン・グールド

グレン・グールドと言えばバッハ弾きでまぁ間違いないけど、ゴールドベルク変奏曲のイメージが強烈に焼きついているせいもあり、その逆命題である「バッハ弾きといえばグレン・グールド」という回路も俺の頭の中で出来上がっている。
そういうわけで、古楽器でもチェンバロでもない、グレン・グールドのピアノでバッハを聴くのは俺の中ではありありである。

このCDでバロックの舞曲(らしい)をグレン・グールドが弾いているわけやけど、舞曲という事で同じ事の繰り返しの多いシンプル曲調が、彼のいかにも内向的な様をありありと示しているようで、なぜかとても落ち着く。ただし鬱な時に聴くと心地よすぎて抜け出せないかも。

amazon ASIN:B0002ZEZU4  CD全体がダウナー系なトリップに誘うかのような趣があるのやけど、特にイギリス組曲イ短調の2番がなんともたまらん、内向的に自分の中に向かって行くかのような演奏は、見えないほどに深い螺旋階段をどんどん下に下りて行くかのようである。

彼のピアノを聴くたびにいつも思うのだが、ちゃんと自己表現として伝わるほどに、自分以外の作曲家が作った曲を弾いているピアニストって余りいないのではないかと思う。

2007年05月31日

●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 グルダ アバド ウィーンフィル

今までモーツァルトはオペラしか聴かなかったのやけど、職場の某兄にモーツァルトのピアノコンチェルトの20番以降は中々宜しいよ。と教えてもらったので早速聴いてみた。

この曲に関してはピアニストとオケと指揮者がうんたらと言うレベルに至っていないので、とりあえずamazonでも評価が高い定番らしいのを選んでみる。
フリードリヒ グルダ,クラウディオ アバド, ウィーンフィルという面子でなかなかに強そうだ。

amazon ASIN:B0001FADHY モーツァルトって短調のイメージが全く無かったけど、20番のピアノ協奏曲ニ短調は中々いい感じ。
第一楽章アレグロ、第二楽章ロマンツェ、第三楽章ロンド:アレグロ・アッサイの通り、切迫感のある早くてドラマチックな第一楽章と第三楽章の間に、正にロマンツェな美しい旋律の第二楽章がはさまれる形となる。
モーツァルトらしくない(と俺が思っていた)深刻で内省的な音やけど、モーツァルトらしい旋律と言うか音楽的な語彙も存分に含まれている。
聴いてるとなんかモーツァルト的な劇場的で大風呂敷な感覚と、個人的な弱さとか情念が染み込んで来る感じ。
頼まれ物の能天気な曲ばかりじゃなくって、こういう個人的な曲も書いたんやと、なんかちょっとモーツァルトを見直した。えらそうな言い分やけど。

2007年05月28日

●バイロイトの第九 フルトヴェングラー指揮

第九のCDは掃いて捨てるほどあるけど、その中でも中で12を争うほどに名盤の誉れが高いのは「フルトヴェングラー指揮のバイロイトの第九」である。
1951年に第二次世界大戦後のドイツで初めて開催されたバイロイト音楽祭でのライブ録音ということで、ナチスと戦争に抑圧されてていた楽団と指揮者と客のテンションはこれでもかというほど高い。
しかしながらそこはプロの音楽家ということで、抑えるべきところは抑えてクールに繊細に演奏したりもするわけで、逆にそれが弾けた時のパワーはもう凄い事になってる。特に第四楽章の乗りに乗ってるスピード感は聴いていると完全に引き込まれる。第九のエネルギーとかパワーの要素が最も表されている演奏であろうかと思う。

あまりにも名高い録音なので、色々なバージョンのCDやレコードが次々発売され、例えば、オリジナル盤に何処のテープを使うとか、どういうフィルタをかけてノイズを消したとか、擬似ステレオになっているとか、足音が入っているとか、拍手のバージョンが何であるとか、そういったバリエーションをつけたCDがやたらと多い録音でもある。
そういうニーズがあるくらいなのでこの録音に対するマニアがいるほどで、ネット上に色々なレーベルや趣向で発売されたこの演奏のCDの聞き比べた感想を載せたサイトが存在し、このCDの音は厚みがあるだの、このCDの音は透明感があるだのという情報には事欠かない。

amazon ASIN:B0000TCM3O 私が持っているのは東芝EMIのCE28-5577で、世界初のCD化された録音の再販バージョンであるらしい。
このCDはある人によればなかなか評価の高い「響きや楽器のニュアンスもある程度保たれている」CDであり、ある人によれば「音は広がってしまい、スカスカ」ということやけど、録音の良し悪しのレベルの話をしたら1951年のライブ録音であるというレベルでアウトやし、アルトゥル・シュナーベルの録音のように明らかに聞きづらいことはないので全然問題なし。
良い音質を求めるのがオーディオマニアで、良い演奏を求めるの音楽ファンだとしたら、私は音楽ファンオーディオマニア寄り、という所だろう。
多分、特にオーディオにこだわってない人はどののCD聞いてもそれほどの違いはないかと思われるので、どのCDが良いとか気にせずにこの良い演奏を聞いておいて損はないやろうと思われる。

2007年05月09日

●交響曲第9番ニ短調「合唱付」 作品125

この日もなんじゃこりゃな暑さ。
仕事後にラジオでシチェルバコフが弾く、リストが編曲したピアノのみのベートーヴェンの第九ってのを初めて聴いた。
一万人の第九ってあるけど一人の第九ってのはやっぱりなんとなく無理矢理感が感じられるような気がした。

そう言うわけでオケの第九が聴きたくなったので風呂にLine inにipodを接続したお風呂ラジオを持ち込んで聴く聴く。

amazon ASIN:B0002CHOIC 第九と言えばフルトヴェングラーからカラヤンまで数多くの名盤があるけど、ベーム最後の録音となったこのCDは十年以上昔になんとなく買って以来、私の中では第九の基準の演奏となっている。もうCDが焼け切れるくらい聴いている。

今から思えば、ゆっくりめの演奏でなんとなくまろやかでソフトな印象を受けるけど、楽曲の持つ勢いやエネルギーよりも美しさに主眼を置いたような演奏は、この曲がニ短調である事を思い出させてくれる。
なんというか、無理矢理外部から揺さぶられると言うより、中から自然に揺れて来るという感じで、独自の解釈や独自オーケストレーションのヒステリックに感情的な暴走機関車のような第九に食傷気味な耳には良いかも知れない。

この演奏は第九としても、カール・ベームとしてもどちらかと言うとマイナーな版やけど(たぶん)、土偶にとっては色々な意味で思いで深いCDなのであった。

2007年04月22日

●J.S.バッハ 「ブランデンブルク協奏曲」

昨日買ったCDを聴きながら本を読む。
音楽と言うものはすべからく「感情」を刺激する側面があるわけやけど、「聴いた時」の心情的な状態もその刺激の大きな要因となるので、特定の音楽が、特定の人や状態や場所と結びつくという事が起こりうるのだろう。
そういうわけで、何年か過ぎればこの「ブランデンブルク協奏曲」も多分特定の何かに結びついた音楽という事になるような予感がする。

J.S.バッハが作曲し、ブランデンブルク公クリスチャン・ルートヴィヒに献呈された、6曲の合奏協奏曲を総称してブランデンブルク協奏曲と呼ぶらしく、このCDは6曲全てが入っている。
私がこのCDを買ったのは単純に1575円という安さやったという理由やけど、 このバウムガルトナー指揮、ルツェルン弦楽合奏団の1978年に録音されたブランデンブルク協奏曲といえば枯れに枯れまくった名盤という扱いらしい。
最近は輸入版を買うのが殆どやったので、日本語のライナーノーツが入っているのが何とも嬉しかった。

amazon ASIN:B000JVS3NQ バッハと言えば、宮廷に使えた召使としての音楽家であり、貴族の食事や舞踏会のバックミュージックとして明るく朗らかな雰囲気の曲を多く作る事が多かったけど、そんな中にも巧妙に自己表現であるとか何ともいえない悲哀を忍ばせている。というイメージを持っている。
んで、このブランデンブルク協奏曲で一番気に入ったト長調の4番はそんな私の思う「バッハらしさ」が一番全面に出ているように思う。
ト長調の第1楽章、独奏楽器のリコーダーのどことなく悲哀を含んだようなアレグロが何ともいい感じ。そしてホ短調の第2楽章はアンダンテでちょっと落ち込み、ト長調に戻った第3楽章のプレストで復活してシャキっと締める。もう文句無しやん。

しかし、職場の某兄に言わせれば、バッハはアーノンクール指揮の古楽器演奏が逆に新鮮で最高らしい。今度聞いてみよう

2007年04月15日

●ベートーヴェン チェロソナタ Pierre Fournier & Wilhelm Kempff

この日もいい天気だったが、一日引き篭もっていた私には直接的な恩恵は無し。
引き篭もりつつ本を読み音楽を聴き、ウトウトして目を覚まし、本を読みつつ音楽を。

こういう休日の過ごし方を、どれくらい繰り返しているのだろう。誰とも接しないでひたすら内へ内へと内向する。自分の井戸を掘ったところでどこにたどり着けると言うのだ?
某レディの「外に出ないと!」という言葉が頭に木霊する。

しかし、開けっ放した窓からは爽やかな風が吹き込み、部屋には好きな音楽が満ち、目を下ろせば好きな本がある。
もう、私の人生これで十分と言えば十分である。他に、この私に、一体何が望めよう?

amazon ASIN:B000001GY1 ここしばらく弦楽四重奏ばかり聴いていたけど、先日からベートーヴェンのチェロソナタばかり聴いている。
聴いているのはピアノがケンプでチェロがフルニエと、ガメラ対ゴジラのごとき豪華キャストなドイツ・グラモフォンの名盤であり、二枚組みで5つのチェロソナタの全てが入ってる中々お得なCDである。

焼けきれるほど聴いた懐かしいCDで、私の中で余りにも特定の人と時間に関連付けられた音楽やけど、聴いているうちにそんな感覚も解けてくる。痛みを伴った懐かしさを心地よく感じる年になった事を嬉しく思う。

ベトベンのチェロソナタと言えば3番が有名やけど、今は作品102-2の5番が一番好きである。
弦楽四重奏の15番にも通じるような、静謐、ドラマチック、そして内向的と三拍子そろって文句なし。第3楽章のフーガがもうたまらん。
そして、如何にも「ドイツ」なケンプのストイックなピアノと、いかにも「フランス」らしいフルニエの華麗なチェロの相性もばっちりである。

2007年02月14日

●風向きが変わる

今日は何とかデーという事で亡霊どもがまわりをウロウロ歩き回っており(もちろん比喩的な意味で…)そんなもの見たくも聞きたくも無いので、ヘッドフォンを被ってひたすらSUSKE-QUARTETTの演奏するルートヴィヒの後期弦楽四重奏を聞きまくる。
もうたまらんね。ああたまらん。ほんまにたまらん。マジたまらん。もうはんぱねぇたまらん。特に15番の第三楽章。
このニ長調の最初の一小節ほどの価値がある人間なんかどこに存在するのだ?

いくら世界がこれほど醜くてもこれほどまでに美しいものがあれば、世界にとってそれで十分とだ感じさせてくれるし、この音楽の価値に比べれば、私に属するすべてのものなど余りに些細過ぎる問題でしかないように感じる。
自分の価値の無さが心地よく感じられる稀有の音楽であり、少なくともベートーヴェンが一人でも偉大であれば世界にとってそれで十分でないのか?

某氏の頭の中で「右から左へ受け流す」がぐるぐる回っているように、頭の中で「大フーガ」の主題がカノンになってぐるぐる回っている。
私もノイローゼである。色々なものに起因する色々なものに対するノイローゼである。

今日になって色々な風向きが一気にがらっと変わった。
背中に風を受けた瞬間怖気づきそうになったくらいの風である。
大海へ漕ぎ出し大空へ飛び立つのに、この追い風を使わない手は無い。

結局最後には何とかする土偶に不可能は無いはず。タイタニック号やツェッペリン号や戦艦大和のように前進あるのみである。
失敗したところで沈没したり炎上するくらいのものだ。

モノを作った人がモノを欲しがっている人にそれを売って、買った人も売った人も作った人も幸せになる。
モノを売ったりサービスを提供したりといったビジネスであるとか商売であるとかは「狐と狸の化かし合い」でも「大農園主が小作人を搾取する」でも「チンピラが金持ちを強請る」でも「ダニが巨象に寄生する」でもなくって「みんなが幸せになる」が根本原理であるのを、当たり前ではあるけど忘れがちである。

これは私の社会経験の少なさに起因する事なのやろうけど、俺たちはこれだけお前を利用したんやから、お前も俺たちを利用しろ。という意思表示をする誠意というのはあまり接した事が無かった。
出来そうの無い事を言って期待を持たせたりせず、嫌われてもいいからきっぱりと言い切る誠意、自分の立場で出来る範囲で最大限に考えてくれ、自分が相手を利用した分は相手も自分を利用してくれという、なんというかクールな優しさも良いものだ。大人というのはこういう事を言うのかなと思う。
なんにせよ人との縁てのは有難いものである。ナムナム。

というところで、さぁ戦じゃ戦じゃ!!

2006年10月09日

●5拍子

ネットを巡ってるだけで特に興味の無い情報が勝手に押し付けられてくる。
興味のある事を読んだり調べたりしてるつもりやのに、いらん事がどんどん頭に入ってくる。
インターネットが情報過多で収拾がつかんという事を昔から言うけど、なんか久々にそういうのんを痛感した。
記憶力とか情報処理能力とかは有限やねんから、なるべく知りたくも興味も無いどうでも良い事は頭に入れたくは無いのだが、それでもちょっと面白いのもあった。
日本には「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」ってのがあるらしく、
その中に「核爆発を生じさせた者は、七年以下の懲役に処する。」って条文があるようで読んだ瞬間ちょっと笑った。

amazon ASIN:B000002AGN 同じ本ばかりを読み返すタイプではないけど、音楽に関しては最近同じ曲ばかり聴いている。
有名やけどほとんど聴かんと言うのも沢山あるわけで、そういうのもちゃんと聴いてやろうと言うことで、Dave Brubeck Quartetの 「Time Out」 を聴く。
これは一回聴いただけで聞き返すことは無いもんの代表でないかい?
かの有名な「Take Five」の入ったアルバムでそのイメージしかないけど、聞いてみたら他のんもなかなか良かった。
本流から外れた良さと言うのもまたある。

今日も早起き。タバコ止めてから不思議に早起きになってような気がするが、単純に年のせいだという意見もある。
早く起きた分夜は早く眠くなるのが道理で、このアルバムを聴いてたら寝そうになった。
だからと言って退屈だったとか馬鹿にしてるとか言ってる訳じゃ無く、それほどリラックスできたと言うことで。

2006年09月16日

●九月の連休初日

昼からCDを鳴らしながら掃除に励む。
部屋中に散らばったものをしかるべき場所に詰め込み、はたきをかけて埃を払い落とし、掃除機で床の埃とゴミを吸い取り、雑巾までかける。
雑巾がけなんかどれくらいぶりだろうか?

箪笥の夏服を奥に仕舞って秋冬服を前に持ってきた。
敷布団を増やして掛け布団を厚いものに替えた。

思いのほか掃除にてこずってぜんぜん本が読めなかった。
急に涼しくなって風邪を引きそうだった。
雨が降っていたので自転車を洗えなかった。

amazon ASIN:B0000046ND Helen Merrill「Helen Merrill with Clifford Brown」を聞いた。
夜に聞いたけどやっぱりいかにも「夜」な感じのするアルバムである。
「昔聴いたスタンダードをもっかい聴き直してみよう期間」はまだまだ継続中でこれも「ド」がつくほどのスタンダード。
JAZZをあんまり聞いたことがない人がJAZZと言えばこういうなんを想像するのではないだろうか?

ヘレン・メリルの声とクリフォード・ブラウンのトランペットが何ともいえん雰囲気をかもし出して歌う。
大体みんながこのアルバム褒める時はこの二人とクインシー・ジョーンズのアレンジを褒めるけど、ジミー・ジョーンズのピアノとオスカー・ペティフォードのベースもなかなかいい感じ。
かの有名な「You'd Be So Nice to Come Home To」はピアノソロがあってこそやし、「Falling in Love With Love」のベースソロも素晴らしいぞ。
皆が一丸となって「音」を作ってる感じが何とも心地いい。

2006年09月14日

●Cookin' 3,151→3.32 三段飛ばしで駆け上がる

前に進もうとするのは良いにしても、階段を三段とばしくらいで駆け上がろうとするのはよろしくない。
もし足を踏み外したり転んだりしたら、怪我をするだけならまだしも、今まで登ってきたのを下まで転げ落ちてまた最初から。って事になりかねん。
慌ててもろくな事はない。

ふと思い立ってこのブログの環境である「Movable Type」を 3.151-jaから3.32-jaにアップグレードした。
まぁ、作業自体は屁みたいなもんで、アーカイブ展開して上書きしてリビルド。アップグレード自体は一瞬で終わる。

しかしながら3.151時に特定のタグを(例えばMTIfCommentsActiveなどを)閉じてない状態にするとビルドが通り、そのタグをちゃんと閉じるとエラーでビルドが止まる不具合のようなものがあって気持ち悪くてしょうがなかったのだが、3.32-jaではちゃんとFIXされていた。
あとデフォルトのプラグインでコメントとトラックバックのスパムフィルタが入っているので、以前のscodeを外してこのプラグインで対処する事にしてみた。
スパムは無条件で拒否るのではなく、未承認状態になるよう設定できるので、スパムは表示されないけど、どれくらい来てるかは解ると。ちょっと楽しみ。
更に投稿する段階で気づいたが、複数のカテゴリを選択するのがとても便利になっている。
うむ。満足満足。

amazon ASIN:B000000Y7F Miles Davis「Cookin'」を聴いた。
マラソンセッションでの音源で、1曲目の「My Funny Valentine」に代表されるようなバラード主体のアルバム。
人はこれを「甘くない」と言うが、十分甘いと思う。
甘いのは良くないから「甘くない」というけど、大体誰が「甘い」のが悪いと決めたのだ?
甘くてもええじゃないか。
ええじゃないか、ええじゃないか。

2006年09月13日

●暗い題名の曲ばかり集めたアルバムは如何なものかと。

小雨の中出勤し、小雨の中帰ってくる。
さすがに半袖では寒かった。

「昔聴いたスタンダードをもっかい聴き直してみよう期間」ということで、二十歳くらいの時に非常に良く聴いたMal Waldronの「ALL ALONE」を聴く。

アメリカを捨ててヨーロッパに渡り、やっとの事で現地のマイナーレーベルでレコーディングするチャンスを得たものの、当日トリオを組むはずのドラマーとベーシストが現れずにやむなくピアノソロで吹き込んだ、全て彼自身の作曲によるアルバム。
日本ではアホみたいに売れたようだ。
当時はともかくとして、このアルバムは今でもスタンダードな扱いなのか?

amazon ASIN:B0000568JS で、このアルバムはダウナーもダウナ、とてつもなく暗い。
孤高の孤独ではなく、夢も希望もあったもんじゃない打ちひしがれた庶民の不幸と言った感じ。
訥々としたピアノがたどたどしく聞こえ、なんかやたらと生々しい。
そうこれは津軽三味線と同じ音だ。「情念」と呼ぶに相応しい。

「A VIEW OF ST. LUCA」や「BLUE SUMMER」で芽生え始めた「明るい」とか「希望」みたいなトーンが展開するまもなく崩れ、気づけば全く別の黒いトーンになっている様は目眩を覚えるようだ。
こんなアドリブする奴は相当性格暗いと思うぞ。
しかし、こういう深い所に引き摺り込まれてゆくようなトーンは彼しか出せんやねと思う。

若い二十歳そこらの頃、このアルバムを聴いて、何かを表現する場合に、テクニカルでない事が逆に武器になる事を知ったような気になっていたのを懐かしく思い出した。
彼はピアニストであるけど、作曲家でもあると言う事を当時は意識してなかったけど、今更ながらに意識した。

2006年09月12日

●黄金クインテットの「間」を聴け

前に進み出すという事は、現時点や過去の自分を否定する側面を持っている。
否応なく前に進み出す予感は、一方で失われ、あるいは失おうとしている自分というものに対する憐憫をかきてる。
そういった予感が身近なものとなった時に、個人的な意味合いで失われつつある自分のルーツみたいなもんを振り返って確認したくなる事があるけど、何か最近そういう感じになっている。
新しく生まれた、前に進もうとする内燃機関を持つ部分と、古い消えつつある機関の二つのものが分裂した状態としてある。
「新しいの」が前に進もうと躍起になっているのを「古いの」が「まぁまぁ落ち着け、慌てんでも直ぐに無くなるから」となだめながらゆっくり後ろを振り返っている。

そう。慌てる事はない。今度は間違いなく前を向いている。ゆっくり歩けばいい。

そういうわけで突然思い立って今日から「昔聴いたスタンダードをもっかい聴き直してみよう期間」と言う事になった。
1枚目は我が敬愛するMiles Davisの「Round About Midnight」このおかげでMilesが好きになったというレコードである。

amazon ASIN:B00005B58W 某氏が「タモリ?」とのたまったけど、なかなか有名なジャケットのCBS移籍の第一弾。
CBS移籍第一弾ってみんな言うけど、これはPrestigeとの契約ノルマ達成の為のかの有名なマラソンセッション以前にこっそりCBSに吹き込んだ音源であるからして、どっちかというとPrestige時代のものでCBS時代のものとは違うぞといつも思うのだが。
まぁ、細かい事はええとしても、録音はPrestige時代で発売はCSB時代と言ったって混乱するだけやしね。
今録音して数年後に売ってもちゃんと売れるというのは今ではちょっと想像しがたい。今そんな事出来る奴おるんやろうか?
というか、数年寝かせておいて小出しにしながら発売してもちゃんと売れたMilesが凄いんやね。

話が飛びすぎたのでこのアルバムの話に戻すと、
個人的にはこの時代の前後のMilesが、というかJohn Coltrane,Red Garland ,Paul Chambers, Philly Joe Jonesのいわゆる「黄金クインテット」時代が一番好き。もうメンバー全員が完璧。
このアルバムの「All Of You」「Bye Bye Blackbird」で繰り出される「計算し尽くされたハートウォーミング」にわかっていてもやられる。
尖りつつもしっとりしたミュートの高音域が、まったりしたピアノが奏でるブロックコードが、訥々としたテナーの誠実さが、毛羽立ったりささくれたりした気分とか心とかに染みこんでいく。

レコードで聴くMilesのミュートトランペットの音色は素晴らしい。
それがガーランド節、コルトレーン節と絡んでますます良いものになっている。
このアルバムは黄金クインテットの繰り出す「間」を聴くアルバムだ。

2006年09月03日

●Bill Evansな日曜

Bill Evans 「His Last Concert in Germany」を聴いた。

この頃の彼は最悪の健康状態であり、ボロボロの体で医者にかかるのを拒みながらドラッグで気を張って演奏を続けていたようで、この録音のほぼ一ヵ月後、彼は演奏中に倒れてそのまま回復することなく死亡してしまった。
なんか遠まわしな自殺じゃね?という印象がするけど、こういう死に方は彼の望む所やったろうし、そういう死に方はピアニスト冥利に尽きるやろう。

彼の半身の如きベーシストのスコット・ラファロが事故でこの世を去り、離婚した彼の妻が地下鉄に飛び込み、アルバムを献呈した実兄が拳銃自殺したりといったことが起こる中で、彼の死に対する感覚は常人と異なっていったのかもしれないし、それは自分の体と命を粗末に扱い、ピアニストを貫き通した彼の生き様を作り出したのかもしれない。

amazon ASIN:B0000281SS マイルスやコルトレーンのように多くのミュージシャンが自己変革を重ねてそのスタイルを大きく変えていった中で、彼がそのスタイルを殆ど変えていないというのは有名な話である。
結局彼は「自分」だけを表現し「自分」だけを見つめ続けた音楽家であり、彼が絶大な人気を誇るのも、不完全で病的であるのを超越した彼の「自分」の魅力による物だろう。

彼が生涯変わることなく抱いていた感覚は「クールに感じなければ、知性的に捉えなければ、何よりもロマンチストとして見なければこんな世の中やっていけないや」と言うところだろう。
死の一ヶ月前の1980年に録音されたこのアルバムも、1960年代前半の録音も彼のスタイルはそれほど変わっていないし、彼のそんな無常観に近いトーンは確信的により研ぎ澄まされ、色濃く漂ってる死の予感とあいまって不思議な感動を覚える。
「命を燃やす演奏」と言う感じが伝わってくるし、こういう瞬間を自分で作り出すことが出来るなら一個の人間の命の価値など軽いものやという(恐らく彼が考えていたであろう)感覚が良くわかる。
最後の「Walts For Debby」が「Walts For Debby」に聞こえないけど、やっぱり「Walts For Debby」でBill Evansでしかありえんねんなと変に納得した。

2006年07月12日

●Goldberg

今日は今ツール初めての山岳ステージ。長い大逃げが決まって良い感じ。
逆登るのは嫌いやけど、見てる分にはおもろいわな。
いやーツールはおもろいなーって実は無理矢理思いこんでるような気がしてきた。
それでも熱中してる間は余計な事考えないので良いとしよう。

最近はグレン・グールドのゴールドベルク変奏曲ばかり聴いている。

amazon ASIN:B0000025TP これは彼自身のデビュー作とも言える、1955年の初アルバム録音のものになる。以前のエントリで紹介した1981年録音のものとはやっぱり全然違う。
こっちの方が1981年のより唸り声が聞こえる。って当然そういう違いだけじゃないけど。

変奏曲ってのは同じ主題が繰り返して変奏されるわけで、ずっと聴いているうちに変にトリップしてしまう要素は満載だ。
なんかええ感じに凹むけど、凹みきらんところがよい。
聴いてるうちに傷に薬が染みこんでゆくような、何しても大した違いは無いわな的な、そんな感じの感覚がなんとも心地良い。

2006年07月04日

●クンデラ的不滅的問題

依存性を減らしてゆく事が前進なのか?
依存性を獲得してゆく事が前進なのか?
それとも依存性の種類を変えてゆく事が前進なのか?

判断を誤れば、成長しているつもりが実は後退していたという事も大いにありうる。
何かを目指していたつもりが全く見当違いだったと言うこともありうる。
俺には全く判らない。考えれば考えるほどわからない。

というよりも、依存性を前進か後退かという問題で捉えるのが間違っているのか?
それを苦楽の問題として取り扱うとしても、前進的な苦と後退的な楽を苦楽の基準のみで判断するのが妥当だとはどうしても思えない。
それとも、何でもかんでも、どちらかに振り分けようとするのが間違いなのか?
とにかく自分が何かしら混乱していると言うことだけは良くわかる。
こんな時に急いだところでロクな事は無い。
水を飲めゆっくり歩け。と言ったのは誰だったか?

amazon ASIN:B0000041LE Vladimir Ashkenazyの演奏する、ベートーヴェンの「表題つき」ピアノソナタを聴いた。
俺にとってアシュケナージの演奏がベートーヴェンのピアノソナタの基準となる演奏。もうCDが焼け切れそうなくらい聴いている。
聴けば聴くほど、つくづくルートヴィヒは苦悩の人だったのだと感じ、背筋が伸びる。
いくら時間が流れても変わらないものがある事を感じ、古典的不滅を愛する自分がいる事を感じる。
そう感じるのはなかなか心地良い物である。

2006年06月25日

●恐れるな若者よ

天気が悪いので今日も引きこもる。日曜日はオペラと言うことで大音量で聴きまくる。
オペラに関する素養が少なすぎるので、聴きながらもネットで色々調べ、冬眠前のリスのごとく色々な知識を溜め込んだ。
家にいながらもちょっとした調べ物なら問題なく出来る世の中と言うのは便利やなぁと改めて痛感。

しかしながらインターネットっつうのは、軽いレベルの共有知の裾野を広げると言う意味では個人の知を範囲を拡大したように思うけど、余りにも簡単に情報が手に入るので、個々の知識から導き出される知恵のレベルでは、個々をバカの方向に引っ張ってゆくんじゃないだろうか?
検索すれば大概のことはわかるけど、大体は表面的なことばかりで蓄積されるのは知識ばかり。何かをわかった様な気になるけど、気ばかりで知恵がついてこない。
考えなくても知識が手に入り、知識だけで事足りるような知しか使わないような生活をおくっていると、「知識バカ」になってしまいそうだ。
他から得た知識と言うのは道具に過ぎないのであって、ようはそれで何をするかが問題なのだ。

色々な物に対する知識の広さと量と正確さと、それらに対するアクセスビリティで言えば、紀元前のギリシャの哲人や19世紀ロシアの文豪より、21世紀に住むわれわれの方がはるかに勝っているのは間違いないだろう。
しかしながら、われわれが彼らより知恵があるのか?と言うことに関しては考える間でもなく明白だ。

情報や知識が多ければ多いほど知恵は育たなくなる。とまで言うつもりは無いけど、
いうまでも無く人間の脳のキャパシティーは有限である。
無駄な知識や情報を頭に詰め込むのだけに精進していては、知恵が生まれる時間も脳に知恵が宿る場所も無くなってしまうだろう。
流行やとか最新情報から遠ざかるのは怖いけど、要らない知識を身につけず、不必要な情報から遠ざかるあり方も検討されて良いのではないかと思った。

amazon ASIN:B000002RUE Otto Klempererが指揮するモーツァルトの「魔笛」を聴いた。
何でもこのCDは「台詞」の部分が無く、普通のオペラとは違う構成なのだそうだ。
いずれにせよ今まで聴いたオペラは「抜粋」なる「台詞」が無い物ばかりが殆どなので、違和感など全く感じなかった。
いかにもモーツァルトらしい派手な歌曲で安息日なる日曜日にふさわしい。
「夜の女王」役、Lucia Poppのソプラノが素晴らしい。一幕の「恐れるな若者よ」と二幕の「復讐の炎は燃えて」のアリアで繰り出される人間離れした高音がなんとも心地よかった。

2006年06月22日

●クロイツェる1日

いつの間にかもう木曜日。
出勤時に寝ぼけながら自転車で走っていて、土手から大通りにあがろうと減速しながらくさび型のコーナーを曲がったところ、不意に後輪がロックして前輪を軸に120度ほどテールが流れた。
びっくりして目が覚めると同時にかなり恥ずかしかった。何を大層なコーナリングしとんねん。絶対普通に曲がった方が早いし、タイヤにも地面にも優しいぞ。
でもちょっと楽しかったかも…
仕事中もなんか一日中バタバタしてた。幼稚園児やプリンタの相手のかたわら、新兵器の試射と仕込みを黙々と続ける。
仕事が終わってから職場の飲み会に参加。(全く飲んでないが…)
終了後に小雨の中を自転車で帰ってくる。
慎ましやかな小雨の中を走っていると、こっちまで何とも慎ましやかな気持ちになる。

最近はマダイやハマチなどデカい魚を見ると「ああこんなん突きたいなぁ」としか思わない。
もうある種の病気やろう。と自分でも思う。
趣味と言えばまだしも、依存と言ってしまえば聞こえが良かろう筈はない。
「趣味」と「依存対象」を明確に分けることなど不可能なのではないかと思ったりしてみた。

自分の中から色々なものをえぐり出し、えぐり出していけば、最後に何か残るのだろうかと不安に思う。

amazon ASIN:B000091LCD イツァーク・パールマンとウラディーミル・アシュケナージの演奏するベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調op.47「クロイツェル」を聴いた。
パールマンとアシュケナージが弾くヴァイオリンソナタと言えば、エアーウルフにナイト2000のコンピューター搭載したくらいの戦闘力がある。(若人にはわからんか?)
しかしこのCD版のジャケット、アシュケナージはともかくパールマンの写真は修正入りすぎでないか?まぁ良いけど。
このレコードを切っ掛けにルートヴィヒを聴き始めたけど、やっぱり今聴いても素晴らしい。
ビル・エヴァンスとスコット・ラファロなにものぞ!と言うほどの二人のセッションで、
とてつもないテクニックに裏打ちされた余裕ある演奏で、
過剰なまでのヴァイオリンとピアノの会話がなされるクロイツェルはとても心地よい。

2006年06月20日

●キリエ・エレイソン

今日も暑い。
帰りに20km/h以上をキープ!と必死に逆を登る登る。散歩中のおばあちゃんが足を止めて眺め、散歩中の犬が吠え掛かるくらいの必死さ。
なぜここまで必死になるのか時分でもよく解らない。ムルソー君的に言えば、もうすぐツール・ド・フランスが始まるからだろう。
この暑さの中これだけ自転車を漕いだのでオーバーヒートするかと思った。
暑ければ暑さに、寒ければ寒さに、雨なら雨に「かなんなぁ」と思うわけで、人間何とも理不尽で哀れなものである。

amazon ASIN:B000025WXF Deutsche Grammophonの二枚組CD「Gregorian Chants」を聴いた。
再現可能な最古のヨーロッパ音楽と言われるグレゴリオ聖歌は、音楽技法から見ればとても原始的で、楽譜は四線符やし旋律は一つで和音もなく、当然伴奏もない。
指揮、演奏はルチア−ノ・ミリアヴァッカ司教 / ミラノ大聖堂聖歌隊ということで、ブームに火をつけたサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院聖歌隊が繰り出す、耽美に甘い一般的なソレム唱法なるものではないらしい。
少なくとも甘くは感じんし、禁欲的な感じがすると言えばするかも。

ハーモニーなしの男声アカペラのユニゾンはとても単調に聞こえるけど、聴いていると不思議に引き込まれる。
謙遜で確信に満ちた雰囲気が何とも心地よい。
こういう風になりたいものだ。

2006年06月17日

●武装した人

今日も引き籠もって「カラ兄」を読みふける。
昨日の夜と今日の丸1日かかってちょうど半分を読み終える。
「カラマーゾフ万歳!」で幕を閉じるこの世界もたぶんあと1日で終わり。
もう半分か。と残念に思う気持ちと同時に、まだ半分ある。というちょっと嬉しい気持ちが入り交じった複雑な心境。

感想については通読してから書くので、1部から7部までの前半で印象に残った言葉を少しだけ。
かの有名な「大審問官」の章の少し前にイワンが世界と神の計画の理不尽さを述べた後に言った言葉。
「ぼくはずっと前から理解すまいと決心したのだ。何か理解しようと思うと、直ぐに事実を曲げたくなるから、それで僕は事実にとどまろうと決心したのだ」

続いて、ゾシマ長老が死に臨んで、庵室で同宿の僧たちに信仰のレベルでの裁きと許しについての話で出た言葉
「またかりに自分で罪を犯したとする、もしそれが数からなるさまざまな罪にもせよ、心ならず犯したただ一つの罪にもせよ、死ぬまでもその事を悔い悲しむような場合には、自分より他の人のことを思うて喜ぶがよい、よし自分が罪を犯したにもせよ、その代わり、ほかに正直な、罪を犯さぬ人がある、とこう思って喜ぶがよい」

信仰無しでたどり着ける場所があれば、信仰無くしてはたどり着けない場所もある。
信仰無くして決してたどり着けないように見える高みを、信仰無しで目指そうとするのは間違っているのだろうかと思う。

amazon ASIN:B0000060DB Ockeghem: Missa L'homme armeを聴いた。
ゾシマ長老やアリョーシャが属していた僧院やカラ兄の宗教観はカトリック的なものとは違う、ギリシャ正教の流れを汲むものであり、カラ兄で展開されるロシア正教から見たローマカトリック批判の言わんとする事はわからんでもないけど、日本人の俺からすれば、こういうとなんだが、どちらもたいした違いには見えない。
カラ兄を読みながらこのルネサンス期の教会音楽を聴いているとトリップ以上のものを味わう。

ミサ曲に「武装した人」と言うタイトルがついているのにいつも違和感を感じていたけど、それが大天使ミカエルを指しているとすれば判らんでもない。
キリスト教的な信仰の「意」のレベルでは毎日がサタンとのある種の戦いになるわけで、象徴的な意味での「武装」が必要である事はよく解る。
まぁ、どっちにしろなんか深いところに染みこんでいくようなアカペラの和音がなんとも心地よい。

2006年06月15日

●プレデター魂

土砂降りの中を帰ってくる。帰ってひたすら音楽を聴く。
浮かんでくる邪念に音楽でフタをし、解けてしまうまで待つ。

暴力的にまで執拗な雨だ。
屋根があると言う事は実に素晴らしい。

ネトラの脇に置いてある「ガジュマル」が異様に茂ってきた。
夏は近い。確実に夏は近づいている。
とりあえず今は夏と海さえあれば他には特に何もいらない。

海に潜りたい。
海に潜ってイシダイの鰓蓋にキジハタの脳天に銛を撃ち込みたい。
冷たい水とマイナス浮力と鰓から溢れて視界を奪う血煙に身をゆだねたい。
深度15mの海底で純粋な殺意と狩猟本能の塊となって岩にしがみついていたい。
何も考えず肉体感覚と肉体感覚外の本能にこの存在を明け渡したい。

amazon ASIN:B000056EVK Miles Davisの「Jazz at the plaza」を聴いた。
コルトレーンのテナーとキャノンボールのアルトがひたすら暑苦しい。
マイルスはもちろんの事、ビル・エヴァンスのソロまで暑苦しい。
炎天下でコタツに入ってどてらを着て鍋焼きうどんを食べているかのような、妙な連帯感で全員一丸となった暑苦しさがなんとも心地よい。

2006年06月12日

●既に梅雨入りという事になっているらしい

朝から遇う人遇う人に「お疲れですね」「まだ月曜日ですよ」などと言われる。
昨日あれだけダラダラしてたのに疲れている事はあり得ない。
俺はそんなに疲れて見えるのか?既に「くたびれた中年」をかもし出しているのか?
久々にロードで舗装道路を疾走。夜の風とペダルを踏み込むたびに感じる加速感が気持ちいい。
帰ってふと「ゴールドベルグ変奏曲」聴いて本気で凹みそうになった。いやぁ危ない危ない。

父がサッカーを見ていたので俺も見る。わずかに数人ほど知ってるのみで、もう誰が誰やらさっぱりわからぬ。慣れぬ事はせぬものだと反省。
散り出すと止まらぬ勢いに、なるほど日本の国花は桜であると納得した。

amazon ASIN:B00002MY2W 大西順子の「WOW」を聴いた。
一時期は「ジャズメッセンジャーズ」に入りかけた、京都府城陽市が生んだ最も偉大なピアニスト、世界の大西の初リーダーアルバム。
全く「泣き」が入らない、中低音を主体としてゴリゴリと弾くスタイルは、ロマンチシズムやリリカルなど犬に食われてしまえと言いたげで、饒舌に弾きまくる彼女はとても楽しそうで気持ちよさそうだ。
パワフルな彼女のピアノから出る音はなぜか濁って聞こえる事が多いのだが、しかし時折見せるクリアな高音にハッとさせられる。
垣間見えるツンデレが侠気溢れる演奏を引き立てて心地よい。

2006年06月11日

●さまよえるサマリア人

なぜか早くに目が覚める。
音楽を聴きながら1日を過ごし、午後には昼寝までする。
自ずから何かをするでなく、耳に入ってくる音楽にのみひたすら心を傾け、沸いてくる感情やら思念が語る言葉にのみ耳を傾ける。
目に見える「反応」も「行動」も何も無き廃人のごとき惚けた1日なれども、このような時間を送れる事はありがたきかな。などと思う。

窓から見える満月が綺麗だ。
一流の音楽家が演奏する一流の音楽を聴きながら、俺もなにかしらで一流の人間になれたらどれだけ良いだろうかと思う。
普通では無いと言われるにしても、ただ普通でないだけではありたくない。
迷ってばかり、彷徨ってばかりではどこにもたどり着けない。
迷うほどに選択肢があるのか、彷徨うほどに道は広いのかと言うのは別にして、そもそも俺は何処を目指せばいいのかと思う。

amazon ASIN:B000000Y7P Eric Dolphyのリーダーアルバム 「Eric Dolphy at the Five Spot, Vol1」を聞いた。
Eric DolphyとBooker Littleという若くして死んだ二人の演奏はとりあえず置いとくとして、一曲目、Fire WaltzでのMal Waldronのアドリブを聴くために俺はこのCDをかける。
寡黙すぎず饒舌すぎず、ただただ語りたい事だけを訥々と語る彼のピアノが、DolphyとLittleに刺激されて彼なりに弾ける様が何とも言えず素晴らしい。
羽目を外してなお上品さと羞恥心を忘れない人を見るのは何とも心地良いものだ。

amazon ASIN:B00008KKTC Eric Dolphyの辞世のアルバムとなった「LAST DATE」をレコードで聴いた。
彼のバスクラリネットとフルートの音色に死の予兆を…などという人がいるけど、俺は全然そういう風に思わない。
いつものドルフィー節、いつもの「馬のいななき」、死の予感など微塵も感じない。
このアルバムを聴く度に死の訪れの突然さにただ驚くばかりで、いつ死んでも良いような生き方をしたいと切に願う。
迫り来る死を知る事もなく、彼の出す楽しげで自由奔放なバスクラの音が心地良く、孤高のフルートの音がどこか哀しい。

2006年06月07日

●咳とカメレオン

風邪は治ったものだと思いこんでいたがどうやらそうでもなかったらしく、90分にわたる「土偶ネットワーク寄席」ではやたらと喉がいがらっぽく、ひたすら咳が出て噛みまくった。「どめいんこんとろかふぁkっごあdfじゃlsk」
しかし咳すると今まで何を喋ってたのか7割方忘れてしまうんだなこれが…
咳と一緒になんか飛んで行ってるのだろうか。

ということで、今日は帰ったら早々に布団に潜り込んで本でも読んで早々に寝てしまおう。などと思っていたのだが、
mp3再生LinuxマシンをSUSE10.0→10.1にアップグレードしようか?いやいや、マイナーアップグレードでデスクトップのリアルカメレオン壁紙がなくなったらしい。やっぱり評判悪かったのか?でもリアルカメレオンでなくなったので止めておこう。
そしたらSUNが正式サポートしそうな勢いのubuntu Linuxに乗り換えるか?いやいや、やっぱりカメレオンも捨てがたいなぁ。どうしよう…
などと不毛な事を考えながらwebを彷徨っているうちにこんな時間になっていた。(現在午前2時)

amazon ASIN:B00005B58X 最近はMilesのLive音源ばかり聞いているが、今日もLive録音のMiles Davis のMiles Davis at Newport 1958を聞いた。
ミュートせずにご機嫌さんにオープンでブリブリ吹きまくるMiles。
一転してあちらの世界にいるかのような内向的なソロをとるBill evans。
そのソロに割り込むように自分のソロを始めるMiles。
消え入るようにリズムセクションに戻って行くBill Evans。
一見Bill Evansを虐めるように聞こえるが、Bill Evansをこちらの世界に連れ戻すかようなMilesの漢気溢れるトランペットが心地良い。

2006年06月05日

●落ちても墜ちない

なんだかこのBlogの左側の画像が表示されないなぁ。と思ったら、リンク元のimages-jp.amazon.comがダウンしていたようで、激しくimages-jp.amazon.comの中の人に同情した。
こんな「ビジネスライクにクリティカル」とか言われるようなサーバー落としたら悲惨やろうなぁ…
過去に職場できっちり11日周期でメモリリークするプロキシサーバーがおったり(結局俺が一から作り直した)、間違えてファイルサーバー再起動してもうた事(もう平謝りするしかなかった)があったけど、そんなんアマゾンのイメージサイト落とすのに比べたら遙かに可愛いもんやったなぁなどと思う。

死なない人間がいないように落ちないサーバーは無いわけで、落ちる事を前提に考えた方が良いんやろうね。ただ、死に際が大事なように、如何に落ちるか。と言うのが大事。
昔のNTサーバーはちょっとずつメモリ使い果たして何十日かで刺さるってバグがあったもんで定期的に再起動。ってのが基本やったけど、それも落ちる前に落とすと言う意味で良かったのかもしれん。
最近のサーバーOSは無駄に頑丈でちょっとやそっとでは落ちんけど、そのうち全ての出力がファイルシステムに行ったりしてデーターが全部消えても、メモリ内のカーネルだけで動いて絶対落ちんようなサーバーとか出てきたりして、個人的には「根性のあるサーバー」という意味合いで好きになれそうやけど、実際最悪やろうね。
データだけはなにがあっても死守せなあかん領域やから、昔風のオーバーフローしそうになったらとりあえずコア吐いて落ちる。と言う設計は、考えてみたらとても理にかなってる。
最近の世の中はサーバーダウンに神経質になりすぎでないかと思う。
ちょっとくらい落ちてもエエやんか。データー消えたり流失したりするよりよっぽどマシやん。
みんなどうかしてるよ。まったく。

amazon ASIN:B00009KU7L Miles Davis のIn Person Friday and Saturday Nights at the Blackhawk(DISK2)を聞いた。
世のMilesマニアには「ヌルい」「手抜きライブ」などと言われるけど、最先端を走り続ける緊張感ありありなスタジオ録音とは無縁のような、饒舌ゆるゆる吠え吠えで、ある意味無責任な吹きっぱなしMiles Toneがとても心地よかった。
そうそう、人間テキトウにやるのんも大事やんね。

2006年06月04日

●ルネサンスで風邪気味な日。

あれだけ寝たにもかかわらず、いつも通りに寝ていつも通りの時間に起きた。
昼夜逆転するかと思ったけど特にそういう事も無し。どうなってんのや?俺の身体は?と思ってたらなんだか風邪気味。
と言う事で引き籠もってうつらうつらしながら音楽を聴く。
今日の気分は、ルネサンス期の教会音楽、ということで、
オケゲム、デュファイ、ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナとかを聴きまくる。
まぁ、こういう音楽は「聴きまくる」類の物ではないとは思うが…

amazon ASIN:B0000013U6 パレストリーナの「聖木曜日のためのエレミア哀歌」を聴いた。
神の怒りに触れて滅亡したエルサレムを嘆き、罪に対する悔い改めの念と神への信仰告白の歌だと言うが、キリストの受難をエルサレム滅亡になぞらえて歌う深い哀しみが何ともたまらない。
俗人には至れない境地が見え隠れするこの曲がとても心地良かった。

2006年06月03日

●ゼロの発見、車輪の発明

起きたら夕方の六時。せっかくの休みがもったいないとかダメ人間まっしくぐらとか言う以前にただただ驚いた。
15時間もの間ひたすら惰眠を貪っていたという事になるし、何一つ見た夢を覚えていない。睡眠と言うよりは昏睡という方が近いかもしれない。

睡眠とか夢は体や脳を休息させると同時に記憶の整理を、いらない物は捨て、いる物は残してと言う感じで行っているらしいけど、これだけ寝ればせっかく覚えたり思いついた色んな事を「あーこんな余計なもんいらんいらんー」とばかりに脳が勝手に捨てたりしたのではないかと不安になったが、何を忘れたかを覚えている道理はないわけで、まぁ心配してもしょうがない。

最近大学院で研究生活に励んでおられる諸氏のホームページなどを読むにつけ「一つの事をゆっくりじっくり勉強するような事が無くなった。なるべく早く何かの結果を出してそれはそれで終わりと言う事ばかりだ」と思うようになり、その事を某氏に言ってみたところ「それはそういう事を求められているからではないか?」と言われ「うむぅなるほど」と思った。
確かに次々とこなすべき事が現れ、発生する問題に対処し、何ものかを創造し続ける仕事という物はある意味では「なるべく早くなるべく正確に」が求められるわけで、いくら大学という環境であってもある程度はそういう事になる。
そういう世界にいると「到達感」よりも「スピード感」に快感を覚えるようになるわけで、せめて仕事をしていない間はそういう風になりたくないなぁ。と思う。

言うまでもなく人間の記憶に使用できる領域は有限である。コンピューターを使う上での知識や記憶や知恵の方向性というものは、いかに有限の自分の記憶領域に余計なデータを置かずに、外部記憶領域のナレッジデーターベースに効率よくクエリを発行できるか。と言う事にあると思う。
余計な事は覚えるだけ損。使える知識と知恵は必要に応じて外部から持ってくる。車輪から発明する必要はない。頭は創造的な所に使おう。と言う事で言ってみればオブジェクト指向なんかな??
コンピューターの世界では何とかサーバーやなんとかシステムの構築にしろ、詳しいconfやパラメーターを暗記せずとも「マニュアルやwebで調べれば出来る」と言うレベルでもある程度「デキる」レベルに認定されるわけで、それは「細かい事はいちいち覚える必要はない」と言う事もあるけど、根本には「出来ればいい」という見方があるように思う。

しかし、日常生活や深い探求のレベルでオブジェクト指向であれば、それはただの受け売りとかパクりとか呼ばれるし、出来ればいいというレベルで片の付くような事は少ない。
「個体発生は系統発生を繰り返す」という真理もあるわけで、人間の成長とか精神の発達には、ゼロの発見、車輪の発明を自分の中で行う必要があるのだろう。

amazon ASIN:B00008KJU5 Keith Jarrettの「The Koln Concert」を聞いた。
コンサート会場での即興曲であるゆえの深い緊張感があったからこそ、深く内面に降りて行くかようなトーンが生まれた。
人間の哀しさと偉大さを体現するかのような、このピアノの音が大好きだ。

2006年05月29日

●拒食系入定ミイラとしてのゼバスティアン

前回に引き続きまた音楽の話やけど…
この間から別ジャンル開拓という事でオペラなんか聴き始めた訳やけど、そのついでに家にあるCDやらレコードを片っ端から聴くようになった。
一年ほど前からモーツァルトの曲が副交感神経と交感神経のバランスを保つとかいう、どちらかというとトンデモ系の説が出てきたりで、やたらと人気のないクラッシックの音楽業界でもモーツァルトだけは売れているらしい。
養豚場で豚たちにハイドン・セット聴かせたり、交響曲ジュピターが響き渡るビニールハウスでトマトなんか育ててみたりするのは有名な話だ。
ちなみにこの説ではベートーヴェンはモーツァルトとは全く反対の方向にあるらしく、ルートヴィヒ好きの俺が「そんなにモーツァルトええか??」などと思うのもトンデモ学説的にはそれなりに納得だ。

この間までオペラ聴いてたけど、今はバッハ(J,Sの方)ばかり聴いている。
amazon ASIN:B0000025PM 切っ掛けはグレン・グールドの弾くゴールドベルグ変奏曲。余りに名高い演奏で有名やけど、やっぱり凄いもんは凄い。ストイックな感じの演奏がもうたまらん。
これはどっちかっつーとグールドがすごいのか?って思ったけど、他のバッハの曲聴いてもモーツァルトなんかと比べてやっぱりストイックな感じがする。やっぱり教会のオルガン弾きや音楽監督やってたせいか??でも子供が20人もいたというのでストイックとはほど遠いのか??
まぁどっちでもええか。

どちらかというと俺は貪欲に色んなもんを取り込もうとする過食系の人間やと思うけど、聴く音楽とか読む本はストイックというより拒食系を好むらしい。
「即身仏」やとか「入定ミイラ」とかって何となく笑ける感じがすると同時に拒食とストイックさの極致な訳で、昔からこういった存在が気に入っていたのはそのせいかもしれん。
しかし、1750年半ばに死んだ作曲家(J,S,バッハ)の曲を今から20年ほど前に死んだピアニスト(グールド)が弾いているのを今聴いていると言う図式はなんか凄いなぁと思う。

ミイラになって世に残るってのもバッハやグールドと同じように後生に自分の証を残す一つの形なのかと思ったりもしてみた。
ジョスカン・デ・プレとか、ギヨーム・デュファイとかマニアックな初期ルネサンス期の音楽家は知らん人でも、それよりもっと昔の人であるツタンカーメンは知ってるもんなぁ。

2006年05月22日

●Bye Bye Blackbird

また一つ「ダメ系サイト」が閉鎖した。そこまで書くか?って感じの人やったし、しかも読者の善意を前提にして色々書いてたので、外からの悪意には脆そうな感じやった。
閉鎖したのはその辺の事があったのかもしれない。
んでもって適当にジャズが入ってるディレクトリをランダムに再生したら、
amazon ASIN:B000AMZ0WG アート・ペッパーがかかり、「おっ、久しぶりやん」って感じで聞いてたらなぜか凹んだ。油断してたら変な所にヒットした感じ。ウエストコーストやのに??マイルスのリズム・セクションやのに??

チャーリー・パーカーといい、ビル・エヴァンスといい、このアート・ペッパーといい死ぬまで麻薬に依存してた人間の演奏を聴くのは最近結構しんどいかもしれん。
弱すぎたり脆すぎたり細すぎたりするもんを真っ正面から見るのは、自分のそういうトコを見せつけられているようでちょっと辛いかも。

やっぱりマイルスとかコルトレーンとかの確信に満ちたようなんが今の俺には心地良い。
しかしマイルス聞いてると「帝王は、引かぬ、媚びぬ、顧みぬ。」というサウザーの言葉を思い出すやね。
更にコルトレーンのシーツオブサウンドなソロを聴いていると「あーこの人ホンマに聖者になりたがったはるわーマジもんやー」ってビシビシ伝わってきて背筋が伸びる。

帝王道をひた走り、聖者への道を邁進する二人のセッションを聞いていると、自分の執着だとか弱さだとかが余りにもバカバカしい事のように思えて心地よさを感じる、月曜日の夜であった。

2006年05月15日

●楽聖ルートヴィヒは仏陀となり涅槃へ?

iPod shuffleを触っていて久しぶりにルートヴィヒのピアノソナタを聴いた。最近はずっと弦楽四重奏ばかり聴いていたけど、ピアノソナタに出ているルートヴィヒの個人性に久しぶり触れた気がする。
彼は古典派からロマン派へと繋ぐ位置にいるような事を言われるけど、古典派のように権威寄りではなく、ロマン派に感じるような剥き出しの自我でもなく、様式美にそって表される抑制された「個」はどちらにもない魅力を感じるのだが、結局の所、俺はベートーヴェン個人に魅力を感じているのやと再認識した。

彼はピアニストとして音楽活動を開始し、最後のピアノソナタの二つである31番と32番を死ぬ5年前に書いた訳やけど、聴けば聴くほどその二つのソナタで彼は個人としての何らかの結論というか認識に達したように思えてしょうがない。
彼が死ぬ一年前、病気がちで殆ど死にかけていたような状態で作られた後期弦楽四重奏群は余りにも完成度が高すぎ、余りに高みに登りすぎてちょっと不気味な感すらある。彼特有の泥臭さは殆ど感じないし、余りの純度の高さに違和感を覚える。
限りなく澄んだ諦念の塊のような感じで、本人は平気やけど見ている方はもうどうしようもなく悲しい。これは完全に倒錯した美やと思う。はっきり言ってなんかもうこの世のものとは思えない。なんというか彼が余りにも遠く感じるのだ。
この純粋な精神体のような状態が彼の精神状態だとしたら、これはもうある種の悟りと言ってしまっても良いのではないか?言うまでもなく、普通の人間には遠すぎる。
ピアノが彼にとって特別な楽器だというのは有名な話やけど、俺にとっても彼のピアノソナタは特別であり、彼が死ぬ5年前という微妙な時期にそのピアノを使った最後の二つのソナタで何を言い切ってしまったのか、彼が人間としてどんな認識に達したのか、それをとても知りたい。
それでも、その結果後期の弦楽四重奏のような精神状態になり、悟りのような認識に到達するのだとしたら、そんな事は余り楽しい事でもなさそうやし、ルートヴィヒ本人も余りに人に勧めたりしないやろうなぁなどと思った。

悟った人にとっては「悟ったところでどうと言う事はなかった。別に悟らんでも良かった」と言う事になるらしいけど、なるほどそういう事の一端をかいま見たような気がする。

2006年02月26日

●SUSKEカルテットの正体

今日部屋の掃除&整理をしていたらベートヴェーンの弦楽四重奏7~9番の入ったCDを見つけた。
アマデウス弦楽四重奏団てのが1959年に録音した、ドイツグラモフォンのCDだ。
で、掃除&整理を一時中断して早速聴いてみたけど…
俺が持ってる以前のエントリに書いたSUSKE-Quartettなる謎の弦楽四重奏団の演奏に比べてどうなのだ?
なんというか音の艶がSUSKEの方が良いように聞こえるのは錯覚か?アマデウス某のやつらのヴァイオリンはやかまし過ぎひんか?つかどう聞いてもSUSKEの方が凄いぞ。アマデウス弦楽四重奏団がしょぼ過ぎるのか?SUSKE-QUARTETTって意外にすごいやつらなのか?
ということで本格的に調べてみた。もちろんグーグル先生で。

で、結果は以外や以外、SUSKEカルテットってのは日本で言うベルリン弦楽四重奏団にあたるらしく、向こうでSUSKE-QUARTETTと呼ばれている団体を日本ではベルリン弦楽四重奏と呼んでいるというだけの話のようだ。
確かにズスケカルテットと呼ぶよりはベルリン弦楽四重奏団の方がかっこよさげやし売れそう。俺やったらズスケとベルリンならやっぱりベルリン買うもん。
つーか大体ドイツ語読みの発音て間抜けっぽいもんなぁ。鈴木和歌子とかドイツ語読みすると凄い事になってるというのはドイツ語一年目で習うくらいやし。

で、更に、俺が十字屋のワゴンに捨てられているのを買い叩いてきたCDは、

CDではベルリン弦楽四重奏団の演奏が孤高の地位を築いている。どの曲においても妙な力みも衒いもなく虚心に演奏したベートーヴェンで、これほどの演奏にはCDをいくら買い込んでもまずお目にかかれない。世評が高いアルバン・ベルク四重奏団もこの高度な演奏に比べるとうるさいだけの演奏に聴こえてしまう。

と某サイトで評価されているほどのものらしい。
しかも日本盤じゃなくてその評価の高いCDのドイツオリジナル盤…
ん~、計らずも俺は凄いCDを買っていた訳か…しかも格安で…
以前のエントリで「ベートーヴェンの弦楽四重奏については「ベルリン弦楽四重奏団」か「ラサール弦楽四重奏団」が上手いらしい。「SUSKE-Quartett」でこれだけやねんから、ベルリン~とかラサール~とかの演奏はさぞかし凄いのだと予想される。」って書いたけど、そら確かに感心するわな。SUSKE=ベルリンやねんもん。
気がつかないうちに掘り出し物を格安で買っていたのはラッキーやけど、もっと凄い演奏があるのかーと楽しみにする気分が失せた事はちょっと残念。いや~でもよかったよかったー

ってふと気づけば、掃除そっちのけでCD聴いたり調べものしたりして部屋がえらい事になってるやん…どうすんねん…

2006年02月06日

●津軽三味線とボサノバ(ジャズとしての)

久しぶりにまともな服着てまともな靴履いて四条にでも行くかと起床するも、部屋の窓からの景色を埋め尽くす勢いで降る雪に愕然とする。
そいういう訳で本日も引きこもり決定。
いい加減Solarisばかりでは脳味噌が腐るので今日は趣向を変えてひたすら音楽を聴く。趣向変えついでに今日はクラッシックなしでジャズばかりを聞くことに。
家にあるCDとレコードを片っ端からかけて、耳についたものを後からもう一度聞くというやり方。
その中で今の季節と今の気分に前向きな意味でヒットしたものを二つ紹介してみる。

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ハイ・サウンド / 高橋竹山



津軽三味線の孤高のカリスマ、高橋竹山の76年に行われた渋谷でのライブの音源と81年のスタジオ録音が入っている。

窓から降りしきる雪を眺め、寒さに震えながら火鉢で手を炙り、鉄瓶で沸かした白湯を飲みながら聞いていると、「津軽三味線」という音楽の底力を感じるような気がする。こういう音楽は決して南国では生まれないし、「人生は苦である」とも言うべき感覚を前提としたような音楽は津軽という地方の場の持つ力があったからこそ生まれたものだということを感じる。

さらにその津軽三味線に高橋竹山という独特な個性がプラスされることで津軽三味線であることを超えた独特の表現がでていると思う。なんと言っても「即興曲岩木」これに尽きる。

知らない人は全く知らないと思うので、高橋竹山について少し書と、1910年に生まれた彼は二歳にして麻疹によって半失明状態となり、小さい頃からそのことでいじめられる。学校には行かず15歳で家々で門付けして托鉢によって生計を立てる「ボサマ」に弟子入りし、独立後十年間程「門付け」で生計を立てる。

太平洋戦争が終わった頃くらいから注目されだし、渋谷でのライブや各地での演奏会などメディア露出が多くなる。1997年、満87歳で喉頭癌のために死去。

津軽三味線を世に知らしめた一番の功労者であり、メジャー化させたカリスマでもあるけど、彼の嫁の職業が「イタコ」であるというのが俺にとってのツボ。嫁はイタコです。素晴らしい。

津軽三味線がジャズか?というツッコミはあろうが、セロニアス・モンクのソロプレイよりは感覚的にはジャズらしいと思うし、少なくともクラッシックではないので…



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Dippin' / Hank Mobley



65年に録音したこのアルバムはジャズ喫茶の人気盤だったらしい。なんといっても二曲目のボサノバを取り入れた「Recado Bossa Nova」のためのアルバムだと言われることが多いようだ。

アルバム自体もノリノリの軽いものとして扱われがちやけど、決してそんな事はないと俺は思う。各曲ともテーマの提示から各パートによる数小節ずつのアドリブ、そしてテーマのユニゾンで終了。というジャズの王道の構成でそれぞれのアドリブもどうしてなかなかすごいと俺は思う。好い意味でジャズとしてすごく明快で判りやすい。ジャズ通からすればその判りやすさがダメダメやということになるのやろうけど、判りやすいということは大事な事やと思うぞ。

B級テナー奏者と言われるHank Mobleyと職人的トランペット吹きと呼ばれるLee Morganはそれぞれ同時代の巨匠であるJohn ColtraneとMiles Davisの威光の後ろに甘んじるしかなかったわけで、百年後、マイルスとコルトレーンは人々に記憶されているやろうけど、正直モブレイとモーガンは微妙やな。という気がしないでもない。

彼らのアドリブからふとした時に「どうせ俺らは二番目以降だもんよ。越えられない壁があるんだもんよ」という悲しさが伝わってくるような気がする。モブレイとモーガンの「Recado Bossa Nova」のアドリブはどうだろう?音自体はボサノバやけど、なんかやりきれん悲しさで泣きが入っていると感じるのは俺だけだろうか?ただ泣きが入るだけでなく、それをちゃんと昇華しようとしているところが素晴らしい。

黒人であるという事と、ジャズ界で決して超一流とは言えないポジションから上がることができないという彼らの状況は、同情とシンパシーを感じずにはいられないわけで、マイルスやコルトレーンに無いメンタリティーとテーマが今日は心地よく響いた。


2006年01月12日

●弦の音は脳に染みる。何?SUSKE?

昨日が延々と誰かに何かを説明し続けたのに引き換え、今日は一人で殆ど誰とも喋らず黙々と作業。なんと言うか落差が激しい。
サーバ作りながらその合間にバッチ書いたり、なんやかんや解析したり。複数の作業を同時進行でオラオラオラと、詳しく書くとアレなのでこれくらいしか書けませんが…
いくら古いPCだといえコンピューター相手だと反応が早いので思考を停止させている暇がない。一日中何かに追いまくられている感じ。コンピューターはうまくいっても喜んでくれへんし、暖かい言葉の一つもかけてくれへん。「パソコンに使われる」とかよく言うけど、まさにこのことやろう。
まぁ、こういうのが「楽しい」とある程度は思えなければこの仕事は務まらんのやろうけどね。
デスマーチとは程遠いけど、それでもさすがに疲れた。しかも変な疲れ方。ということが言いたかった。
で、ここからが本題。

そういう感じに疲れて家に帰ってご飯食べてからベートーヴェンの弦楽四重奏の14~16番を聴いた。演奏してるのはSUSKE-Quartetって誰も話題にせんような弦楽四重奏団。十字屋のワゴンに捨てられてた、異様に安いという理由で買ったCD。三枚組みで1500円くらいやったはず。演奏者に疑問は持ったけど、そもそも俺はカルテットていうてもMJQくらいしか知らんしまぁええかということで。第一安いし。
ドイツの輸入版で解説はおろか曲名まですべてドイツ語、しかも「弦楽四重奏の何番」とは書いてなくて、作品番号と何の短調か長調か、としか書いてない。作品番号と照らし合わせてみると、一枚目に11番と13番、二枚目に12、14番、三枚目に15,16番が入ってる。って順番に入れろや!多分いろいろな演奏家を聞いてみたいという欲求のみ満足させるための、ベートーヴェンオタのドイツ人をターゲットにしたCDやと予想される。そんなもん日本では売れんやろうし、当然のことながら俺にはあまりに敷居が高すぎる…
で、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏は「シンフォニーとピアノソナタと並んで彼の深淵と思想を反映する最もシリアスで重要な音楽」というようなことがよく言われてるけど、実際このCD聴いて「ふーん、そんな言うほどええもんかいねー」てな感想やった。
いつもやったら大体本読みながらかパソコンしながら音楽聴く事が多いけど、今日は変な疲れ方してたもんやから、スピーカーと俺で二等辺三角形を作るようなちゃんとしたリスニングポジションに座布団ひいてそこで聴いてみた。
俺が変な疲れ方してたせいもだいぶあると思うけど、改めてちゃんと聴いてみるとやっぱり凄い音楽やというのがよくわかった。
この辺は作曲家の個人性やろうけどアンダンテになってもぜんぜん甘くない。これは気に入った。さすが癇癪持ちドイツ人の作る音楽。こういう言い方が適当なのかわからんけど絢爛豪華さとは程遠い切実さがある感じ。なんつーか大げさに言うとこれはもう「純粋経験」やね。
今までピアノソナタばっかり、シンフォニー時々って感じで聴いてたけど、たとえば何小節にもわたって同じ音を同じ音量で鳴らし続けるってのはピアノには無理なわけで、当然ながらピアノには絶対できない表現てのが弦楽器にはある。まぁもちろん逆もあるけど。
今日初めてシンフォニーとピアノソナタと弦楽四重奏がベートーヴェンの三本柱といわれる理由がなんとなくわかった。正確には弦楽四重奏の良さが、やね。
シンフォニー的、ピアノソナタ的、弦楽四重奏的と、他には絶対できず、それしかできない表現てのが確かにある。今日はその弦楽四重奏的ってのにちょっと開眼した。
ネットで調べてみたところ俺の聞いた「SUSKE-Quartet」ってのは叩き売りされるくらいやから少なくとも日本ではかなりマイナーなようだ。そいつらがどのへんのポジションにあるのかすらわからんかった。
ベートーヴェンの弦楽四重奏については「ベルリン弦楽四重奏団」か「ラサール弦楽四重奏団」が上手いらしい。「SUSKE-Quartet」でこれだけやねんから、ベルリン~とかラサール~とかの演奏はさぞかし凄いのだと予想される。すぐにほしい情報が入るとはいい世の中だ。まぁとりあえず次はそれを聴いてみよう。
他にこいつらの演奏がええよとか「SUSKE-Quartet」ってこういうやつらですって情報をお持ちの方、よろしければご教示ください。m(__)m

ってここまで書いて「何?サスケ?」ってフレーズが頭に浮かんだ。
知ってる人いるんやろうか…