2009年11月06日

●酒井保 『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』 / 治療者と教育者 / 自閉症症から「人」を見る

amazon ASIN:4569617077 先日このブログに書いた笠原嘉『精神病』の感想にキノコ先生がコメントを下さって、笠原嘉『精神病』がおもしろいならこの本も読んでみるがよい。とおっしゃるので「喜んで!」と読んでみた。

2001年出版とちょっと古めの本であるけど、長年自閉症の子どもたちと治療者としての立場でかかわって来た著者による、サブタイトルである「心は本当に閉ざされているのか」という問いに「自閉症」とは心を閉ざして人との関わりを拒否してしまったのではなく、心を開いて触れ合いたいけど他人が怖いから可防衛になっている状態と捉えたうえで、自閉症とは何が起こっているのか、どう接すればいいのか、という事について書いてある本であった。
本来は自閉症児の親やら兄弟やら学校の人やら、自閉症児となんらかの関係者である人たちをメインターゲットにしているようであるが、自閉症とは何の接点もない私が読んでも、一気に全部読ませるだけのものを持つ全編が温かいトーンで貫かれた本であった。

「統合失調症」が予後の良いほぼ完治する病気だというのとは対照的に、この自閉症はかなりの程度の影響をその人生に及ぼしてしまうとするところが以外であった。
昔に『自閉症だったわたしへ 』という本を読んだことがあり、この本が売れに売れたので著者はその続編である『自閉症だったわたしへ2 』を書いたのを知って、「心開きまくりやんけーお前絶対自閉症ちゃうやろ!」と図書館で突っ込んだことがあった。この人が自閉症でないとは言わないけど、ちゃんと結婚して本まで書いてしまうような事例は本当に特殊なのがわかった。

そして自閉症児は、精神と肉体が分離したような、大抵は肉体が切り離された精神だけの状態で肉体感覚が極端に少ない状態であることが多いというのがとても印象に残った。
今まで怪我をしても痛がらず、風邪も引かなかった自閉症児の症状が軽くなってくると、とたんに風邪を引き始めるというのは、著者同様に人間の身体と心の不思議さを感じずにはいられない。
彼が自閉症児の立場と視点に立って彼らの苦しみや悲しみを理解しようとする様は、心を打つし色々な意味で身につまされる思いであった。なんというか人との関わりについてとても考えさせられた。

彼は「元来「普通」と呼ばれることとはまったく違った生き方しかできなかった自閉症の子どもたちが、とにかく皆と何とか共存できる程度になること、いわゆる「普通」といわれる生き方を身につけるということにすぎません。
現在の自閉症治療においては、医学的治療が主体ではありません。子どもを育て教育すること、つまり療育が基本となっています。

そして「自閉症が治るかどうかを問うことよりも、子どもたちの育ちを見守ってゆくことがむしろ重要なことではないのかと思うに至りました。」と言っており、彼の言うように教育者であることがいちばんの治療者であるということはなんとも含蓄がある。やっぱり臨床的な立場にいる人の重みは違うなと思う。

自閉症児は人との関わりに傷つき外界を恐れ、やがて誰も手を差し伸べなければ自分と世界を否定してしまう存在であった。
自分を守るために人との関わりを避けるそんな自閉症児に対して、著者のように人と関わって生きることは楽しくて快いものだと伝えて教育してゆく事こそが治療だとする姿勢は、なんというかグッと来るものがある。
治療者であるためには教育者であらねばならず、教育者として人との関わりと世界が肯定的であることを教えるためには、本当に自分が人との関わりと世界を素晴らしいものだと肯定していなければいけない。世界を否定するものに世界の美しさは語れないというわけである。
そして、結局は、そんな子どもたちをより救うためには、自らが高まってゆくことが一番であるという結論に至らざるを得ないのかもしれない。

ニーチェさんの言うように
医者よ、あなた自身を助けなさい。そうすれば、あなたはあなたの病人たちをも助けることになる。自分自身を癒す者を、目のあたりに見ることが、病人のなによりの助けとなるようにすればいい。
ということであろうか。

この本を薦めてくださった大学教員で研究者という立場の某キノコ先生からすれば、本当に自分の問題として哲学を学ぼうとする学生に対して哲学を教える立場の教員として接する事は、ある意味ではこの著者と自閉症の子どもとの関わりに近いものがあるのかもしれない。そこでは教育者という立場はある意味では治療者にもなりうるのかもしれないなぁ。と思った。

語り口は柔らかくてふわふわと読み進んでゆくけど、読んでいると人間の精神と肉体についてだけでなく、教育や治療、そして生きることそのものといったことについてもなかなかに考えさせられたのであった。

2009年11月05日

●木村敏 『異常の構造』 / 医学系というよりは哲学系 /博士の異常への愛情

amazon ASIN:4061157310 精神医学の本で、笠原嘉、中井久夫とくれば木村敏ということらしく、木村敏の中でなかなかに有名で面白いと評判の『異常の構造』を読んだ。1973年出版とかなり古い本である。

一応この人も笠原嘉、中井久夫同様に精神医学にかかわる人であるけど、読んでいてなんだか哲学書を読んでいるような感触であった。
私の勉強不足であるのだが、この木村敏という人は精神医学者であるけど、時間論や関係論で人間の精神や精神医学について語る人で、ハイデガーなどと関連付けて言及されることも多いようだ。
たしかに、笠原嘉や中井久夫の本とはまったく雰囲気の違う本で、「正常」と「異常」についてひたすら根源的な問いを掘り下げてゆくような本であった。
「正常」と「異常」や「合理性」と「非合理性」の概念を言語の意味で分解や分析したり、「一」と「全」の関係と自己の論理として展開するあたりは、もう哲学か言語学か或いは禅みたいな話であった。

彼は世界は非合理が前提であり、脆く危うく不安定な「合理性」を仮定した上になんとか「正常」を保っているに過ぎず、「正常」が「異常」を前提とした概念であるとしている。
そしてそれを前提として、普段われわれが「正常」としているものが実はとても非合理的であり、そして異常とされる人の精神がとても合理性に基づいているとしている。
人が異常とされるのは、論考するまでもなく自明とされている事を理解できずに行う言動が、人間関係の中で現象としてだけ現れて来ているだけであると。
たとえば、統合失調症の父親が死期の迫った娘にクリスマスプレゼントとして棺桶を贈った事例を引き合いに出して、棺桶はもうすぐ死ぬ娘にとって役に立つという意味で合理性に適っているけど、非合理的な感情論で言えば異常である。としている。
そういわれると確かに納得できるし、異様な理屈っぽさとか合理性のみを追求した姿勢ってのは確かに病的に見えることが多いものである。
昔話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか」という話は、絶対的に合理的な理由は見つからないし、論考するまでもなく自明とされている、ダメだからダメ、としか言いようがないし、最近の「空気読め」の「空気」もそういった非合理的な自明な事実の部類に入るだろう。
「合理性」が「異常」の側で、「非合理性」が「正常」の側であるという見解それこそが、我々が常々自明としていたものが実は不安定で危ういものでしかないことを暴露されてその存在を揺るがされるような、我々が異常者に対して抱く嫌悪や恐怖を抱かせるものなのかもしれない。

彼はこの本の中で一貫して「正常」であることが自然の中ではむしろ特異な状態であり、「異常」である方が自然に適った状態である。というところ繰り返し述べている。
彼はこの本を「多数の分裂病患者たちへの、私への友情のしるし」と述べ「しょせん「正常人」でしかありえなかったことに対する罪ほろぼし」だとしており、この本の中には著者の精神病者への愛や憧れのようなものすら感じる。
笠原嘉が治療者の立場を貫いていたのとは対照的に、この木村敏という人は「異常」側の患者の立場から「正常」を分析しつつ、「異常」と呼ばれる精神病患者をそのままで理解し、また彼らが世界をどう感じてどう見ているのかを知ろうとする方向性で「異常」を肯定的に書いた本とでも言おうか。
異常者を正常者に戻すのではなく、異常者のままでの地位向上を目指しているようにも見える。
この本が精神病である状態の苦しみや辛さにほとんど触れていないのは、彼が精神科医というよりは精神医学者であるからなのだろうなぁという気がしないでもない。

笠原嘉や中井久夫が健康的で安心感を感じるのに対して、この木村敏という人はひどく危うい感じがする。もし、こういった人が「異常」の側に傾いてしまったら誰が治療者としてかかわるのだろうか?それとも自分で治療ができるのだろうか?
なんかちょっとこの人大丈夫なのかなぁ。と思った。

2009年11月04日

●高野文子『黄色い本 ―ジャック・チボーという名の友人』

amazon ASIN:4063344886 黄色好きの私だから、ということでもないが、『棒がいっぽん』 『絶対安全剃刀』 に続いて高野文子の『黄色い本』の感想をば。
『棒がいっぽん』 から8年後の2002年に発売された彼女の本の中では最も新しいもので、2003年に第7回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞しているらしい。

読む前に、何でも「読書体験を漫画化している」ということを聞いていて、いまいち意味が理解できなかったのだが、確かに読んでみると、これはもう確かに「読書体験そのものを漫画化している」としか言いようがない。
ストーリーは、卒業間際の高校生が図書館から借りた『チボー家の人々』 を読み進んでゆく日々の日常が主人公の少女の目を通して淡々と描かれているだけなのだが、長編小説に没頭する日々の小説内の世界とリアル世界との距離感や関わり、主人公をめぐる色々な事が暖かく表されていて、読書好き、特に純文学好きの長編小説好きにはグッと来る内容であった。
そして、逆に本を余り読まない人にとっては、本好きが没頭して本を読むというのはこういう経験なのかというところがお分かりいただけるだろう。

この主人公の少女を通して表現されている長編小説を読んでいる期間の心の揺れや現実感覚や世界の見え方、そして読み終わった時の達成感がありながらもどこか物悲しい感覚、自分で買った本ではなく、卒業間際で図書館から借りて、期限つきで急いで読んでいるという設定がまた良い。
本を表現するのでもなく、読書を表現するのでもなく、抽象概念で修飾される抽象概念とも言うべき「読書体験そのもの」が本当に見事に表現されていると思う。

『棒がいっぽん』でも漫画でこういうことが表現できるのかと驚いたけど、この本でも本当に驚いた。主人公に対する感情移入ではなく、主人公の感覚や経験に対する感情移入という不思議な感覚である。
高野文子はこの「ジャック・チボーという名の友人」の制作に3年を費やし、これを最後の作品にしようと考えていたらしい。
たしかにそういって良いだけの渾身の素晴らしい作品であると思う。

2009年11月02日

●高野文子『絶対安全剃刀』 / 「ふとん」はこの世で最も美しいものの一つ、だと思う

amazon ASIN:4592760166  最近、精神病だの自殺直前日記だのひきこもりだのとやたらとヘビーな内容のエントリが続いたので、ちょっとライトに、でも限りなく美しい漫画の紹介である。
先日、高野文子の『棒がいっぽん』 を読んで衝撃を受け、彼女の書いた単行本を全部買ったと書いた。
とは言っても高野文子という人はキャリアのわりに寡作で全部で6冊しかないので集めやすくはあるのだが、その中のこの『絶対安全剃刀』 は1982年に発行された彼女の初の単行本である。

この本は彼女の1977年から1981年までに発表された一作ごとにタッチが違う17作品で構成されている。どの作品もなんとも言えない雰囲気を持っているのだが、私は「ふとん」という作品が飛びぬけて尋常じゃなく大好きである。
登場人物である「少女」と「観音」の会話、「少女」が「観音」に酌をするシーン、どのコマどの台詞をとってもすべて美しい。とてつもなく変なところにヒットして刺激するような美しさである。この『絶対安全剃刀』の「ふとん」はこの世の中で最も美しいもののひとつであると言っても良いと思う位である。

作家はデビュー作を超えられないとよく言う。この本は作品集なので厳密にはデビュー作ではないのだが、確かにこの「ふとん」だけでなくほかの作品にも高野文子という人のもっとも繊細な美意識と表現が純粋な形で現れている作品集であると思う。
彼女はストーリー漫画ではなく短編ばかり書く人である。私は基本的に小説も漫画も長編が好きなのだが、この人の短編は、本当に短編であることの素晴らしさを教えてくれるような気がする。
ストーリ漫画っていうのはある程度読んでしまえば終わりってところがあるけど、この高野文子の本は手元に置いていつでも読み返せるようにしておきたいと思わせる、「買わせる本」であると思う。

しかしこの人はCDジャケットや書籍のイラストレーションもしているようだが、これだけの寡作で専業作家として生活していけているのだろうか?
逆にそこにこだわらないところが、彼女の作品のクオリティーの高さなのかもしれない。

2009年11月01日

●山田花子『自殺直前日記 完全版』 / 自殺企図への抑止力

amazon ASIN:4872334191 ネットを見ているとひきこもり系の人々がこぞって我が事のように語り、コアな人気と共感でもって語られることの多い、山田花子の『自殺直前日記 完全版』を読んだ。
24歳の若さで自殺して死んでしまったマイナー漫画家の山田花子の自殺する前日までの日記やメモをその父親が出版したのが1996年で、その後1998年に出版された「完全版」では新たに発見された日記と、読者からの手紙が追加されている。
表紙には葬式の棺桶の写真やら棺桶越しの顔写真まで載っているというなんともぷっとんだ装丁である。
娘が自殺した父親の気持ちってのはもう完全に想像力の範囲外にあるけど、所々に現れる父親の文章は何とか世界に絶望して詩を選んだ娘をとにかくどんな形でも世界に知らしめたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。
年間三万人いる自殺者のなかで自殺者の一人に過ぎない山田花子という人物は氷山の一角どころか大河の一滴に過ぎないのだろうが、彼女のような人格が現在の自殺者のある種の典型の一つとして捉えられているのはこの本の影響が大きいのだと思う。
実際、私は山田花子の漫画を読んだことがないのに、ある種のカリスマとしてこの名を知っているのはこの本のおかげであるだろう。

読み出した最初のほうは、自分に向けられる感情を全て悪意で受け取った卑屈な被害妄想とか思えない内容に「こいつはいったい何を言うとんねん」という感じであった。
感じたままが何らかのフィルタを通り抜けずにダイレクトに表現されているように感じられて、文学的な深みはないけど、そのぶんシンプルで明確でやたらとリアルで生々しい。
もともと公表するつもりで書かれた文章ではないぶん、純粋な叫びや苦しみや呪詛の言葉が現れているというところであろう。
しばらくは「まいったなぁ」という感じに読んでいたけど、半分に指しかかろうとするあたりから俄然面白くなってきた。言っている事自体はそれほど大したことはないけど、それを徹底してまとまった量を突きつけられるとやたらと説得力が増してくる。言い方は悪いけど、質より量の問題であろうか、彼女の思考や感性のパターンに乗ってしまうと不思議な没入感があり一気に読んでしまった。

北海道でライブに行くために吹雪の中を道に迷い、泣きながらラブホテルの受付で道を尋ねて親切に教えてもらう。という心温まるエピソードがあったくらいで、日記やメモのほとんどがネガティブな言葉で埋め尽くされている。
メモ魔であった事とか、日記やメモの中に現れる雰囲気からも、彼女が強迫神経症的な精神状態にあったように見える。ただ日常を生きることがどれだけ苦しかったのかと思う。何とか彼女が救われる道があったのではないかという気がしない。

心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とされよ。」と遺書を残して死んだ江藤淳の自殺に関して、ネット上で有名な精神科医の書いた意見に、これを諒とするかしないかは誰に対する言葉かということになる。本人に対するメッセージであれば「諒」とするしかないし、同じように悩んでいる人には「諒とするな」と言うしかない。というような文章があった。

この『自殺直前日記』を読む限り、山田花子に対して彼女の自殺は「諒」とするしかないだろう。
しかしながら、彼女と同じように感じ共感する自殺予備軍の人々に対して、彼女のような自殺を「諒としない」と言うにしても、この「諒としない」理由を赤の他人に対して証明する論理はない用に思える。個人的感情や宗教を持ち出さずしてそれに意味を与えることは不可能であるように思える。

そこで「自殺を諒としない」一つの見方として、そういった状態、自殺企図は文学的であったり哲学的な問題なのではなく、単純に何らかの精神器質的な疾病状態であるとして治療の対象と断じてしまう精神医学的な見方も、当事者たちがもっとも嫌がりそうなある種のファシズム臭を感じながらも、とりあえず自殺企図への抑止力への効果を第一義としてみれば、一つの有効な立場なのかもしれないと思った。

2009年10月31日

●梨木 香歩 『西の魔女が死んだ』/ 女の子的冒険物語 / ターシャ・テューダー解釈 / ひきこもりへの分かれ道 / 反『シンセミア』的物語

amazon ASIN:4101253323 梨木 香歩 『西の魔女が死んだ』を読んだ。
ネットであろうが周りであろうが、どこを見てもこの本を褒める人ばかりでこれをけなすのは人の道に外れるような空気が漂っている。これは「千と千尋の神隠し」の時の空気と似ているような気がする。
一応この本は出版当初は「児童文学」だったはずである。それが売れに売れて映画化までされて一般文学のような扱いになっているということであろう。
確かに本の中に出てくる人物や設定やストーリーや単語はわかりやすくはっきりしており、確かに子供に向けて書かれたのだという印象を受ける。
この 『西の魔女が死んだ』が児童文学としてすばらしいのはよくわかる。しかし、子供の文学は子供が読んで感じたり考えるべきものであって、子供を差し置いて大人中心にうだうだいうものではないはずである。
子供がこの本を読む前に、この本を一般的な文学として読んだ私のようなおっさんの書いた、ひねくれにひねくれた感想を読んでしまえばどうなるだろう。
子供がある本を読む前に大人によって変な先入観を植え付けられるのは、その本がよい本であればあるだけよくないことであるだろう。この本で素晴らしいとされることが受け付けられないと感じる個性もあってしかるべきである。

本来児童文学であったものを大人向きの文学として扱うことは、私のようなひねくれた人間に変な読み方をされる恐れが十分にある。
以下でこの 『西の魔女が死んだ』を最高の悪意でもってひねくれにひねくれた感想を述べればどうなるかの実例を示してみたいと思う。

この物語は構造的にはフォースとジェダイの騎士の使命やロトの血統と勇者の使命に目覚めるルーク・スカイウォーカーやローレシア王子の物語と同じである。
魔女の血を受け継ぐ「まい」は「西の魔女」から愛と修行を授けられて魔女になり、「世界」をサバイバルする術を学ぶのである。
この『西の魔女が死んだ』は『スター・ウォーズ』や『ドラゴン・クエスト』的な冒険物語を、女の子的語彙と文法で女の子的文脈に置き換えた冒険物語と言えるのかも知れない。
『スター・ウォーズ』や『ドラゴン・クエスト』は選ばれた血筋の勇者が真の力に目覚め、修行と冒険と仲間たちとの友情によってその力を高め、諸悪の根源である皇帝パルパティーンやゾーマといった敵を討ち、世界平和と名声を手に入れる、あらゆる意味で男の子的な過食系物語であった。
同様にこのまいの物語は女の子としての戦いを戦い抜き、魔女の力に目覚め、女の子が手に入れるべきものを手に入れる、女の子的冒険物語なのである。
そして、この物語は実際に大なり小なりこのおばあちゃん的な存在がいた人が読んで感動する本なのだと思った。

しかし、確かに面白く感動する物語ではあるけど、そこまで騒ぐほどのものかという印象はぬぐえない。
自然に暮らすおばあちゃんと、「俗」を拒否する少女、そして魔女と森と野苺とジャムとハーブといった小道具立てだけで売れていると口の悪い人はいうけど、世の中そんな小細工だけで通用するほど甘くない。この物語にこの女の子的語彙と文法と道具立てを超えてがっちり読者の心をつかむなにものかがあるのだろう。それが何か、ただのおっさんである私にはいまいちよくわからない。

かの有名なターシャ・テューダーという絵本作家がいるが、「まい」のおばあちゃんの「西の魔女」はこのターシャ・テューダーとリンクする要素がとても多いように思う。
恐らく私が思うに、そしてこの物語に激しく感動するかそうでないかは、ターシャ・テューダー的なものを傍観者として見るものだとして認識するか、実際に自分が行うものとして認識するかの違いではないかと思われる。
言い換えれば、ターシャ・テューダーのような生き方をただ自然に溶け込んだ美しい理想的なものとだけ見て単純に感動するか、逆に自分の現実に即して考えてしまい、それが美しく理想的である反面、とてつもなく贅沢で頑な誤解を招く生き方で、その生活を選んで維持するために払われるであろう努力と苦労を見てしまい、自分の個性を貫くただそれだけことが如何に苦難の道のりかということに思いを馳せるかの差ではないだろうか。

最近私の中で熱いひきこもり問題と関連付けて見れば、突然学校に行けなくなった少女の心の揺れは、ひきこもり状態に入る直接的なきっかけでもある。嫌な言い方をすれば適応障害の一歩手前の状態であるといえるだろう。
この「西の魔女」のいう「なんでも自分で決めること」は、斎藤環の脱ひきこもりの指標として「自分の人生を自分の責任によって引き受ける決意」的なものと本質的には同じであるだろう。
このことを「西の魔女」は魔女云々という言い方で言って「まい」がそれを受け入れたということになり、この主人公の「まい」の適応障害への危機は「西の魔女」たる宗教的グルの存在とその指導によって回避されているといえる。
一般的な通常の社会に日常生活をおくっているだけで多大に受けてしまうストレスに対する回避方法を、「西の魔女」たるカリスマによって授けられる、「魔女」なる架空(であるといわざるを得ない)の前提を基にした考え方や捉え方などの精神論的な方向性のみで、しかも一ヶ月という短期間のうちに体得させてしまうのはある種のマインドコントロールといってもおかしくなく、とても危険であるといわざるを得ないだろう。グルの存在の消失によって再び適応障害に陥ることも大いにありうるように思う。

この本は極言してしまえば、ある一人の少女のひきこもり化や不登校化回避と何かしらの成長の過程の物語といえる。
彼女にとって「西の魔女」的存在が周りにいたという時点でとても幸運であったといえる。
しかし、たいていの適応危機におかれている子供たちの周りにはこういった「西の魔女」的存在はいない。魔女や魔法使いの血を引かないごく普通の凡庸な彼らは単身でその危機と直面せざるを得ないのである。
私が興味を惹かれるのは、こういった「西の魔女」的存在なしに、完全な孤独の中でどう社会や世界と折り合いをつけるのかということである。孤独な戦いをいかに戦うかというところにある。

私は主人公「まい」や「西の魔女」よりも邪悪で不潔で醜悪の象徴である「ゲンジさん」に肩入れして読んでしまった。たとえばこのような肯定的な要素が皆無である「ゲンジさん」はいかにして救われるべきか。という問題がある。
「まい」のように利発さと個性を持った子供らしい子供はあふれるばかりの未来と救いがあるが、この「ゲンジさん」のような醜悪でしかない存在の未来と救いのなさの方にこそ興味を感じるのだ。
「まい」のような少女も世間に揉まれて挫折と失望を繰り返すとゲンジさんのようになる可能性がある。その可能性と過程にこそ興味を覚える。そしてゲンジさんのようなおっさんのような存在にまでなってもなお、そこに救いと未来が存在するのかという事こそが問題である。
このゲンジさんも昔は「まい」のような少年だったと考えると、とたんにこの物語の根底がガラガラ崩れるような気がする。

人間は如何にして醜悪になるか、いかに醜悪であるか。というところを書く作家といえば阿部和重だろうか。この「ゲンジさん」は限りなく阿部和重の小説の主人公にふさわしい。
彼の傑作である『シンセミア』的にこの『西の魔女が死んだ』を解釈してみるとこうなる。

森に囲まれて朗らかに育った少年は町に出て結婚に失敗して一族の土地に舞い戻ってきた。もうすでに中年になっていた男は金に物を言わせて土地を買い漁ったイギリス人の余所者とその孫が森を我が物顔で歩き回るのを見て嫌な気分になる。男は自分の不甲斐なさと劣等感で屈折し、先祖からの土地で幸せそうに暮らす余所者二人に嫉妬と憎しみと羨望の入り混じった複雑な感情を抱く。
まるで昔の自分を見るかのような少女が自分を生理的に拒否することに、少女に対しての憎しみだけでなく自分自身への絶望までもが日々高まってくるのに苛立ちを感じる。イギリス人の余所者が「西の魔女」と呼ばれているらしい事を知り、わけもなくその苛立ちは頂点に達して、腹いせに鶏を犬に襲わせてしまう。
少女と「西の魔女」にそのことを感づかれたゲンジはしばらくおとなしくしていたが、やがて「西の魔女」の孫が都会に戻り「西の魔女」は一人になった。
この土地の誰もが貧乏にあえぎ、食うに困った上で受け入れた森の都市開発をこの「西の魔女」は感情論とモラルのみではねつけた事でこの土地の住民の「西の魔女」一族への憎悪が一気に高まった。どうやら「西の魔女」はその孫にも土地を与えているらしい。魔女一族はゆくゆくはこの土地一体を我が物として支配するつもりに違いない。
そしてこの土地への「西の魔女」と魔女一族の侵略を食い止めるために、この土地の最も古い一族が立ち上がった。その先頭に立つのは一族の使命に目覚めたゲンジである。興っては滅び、浮かんでは消えた様々な一族の血が深く染み付いたこの土地を守るために、最も古き血統の一族による現代の魔女狩りが密かに開始される。
やがてゲンジは衰えて力の鈍った魔女に、体の自由が失われた状態で長時間苦しみ続けて死に至る一族に伝わる毒草を飲ませることに成功した。「象徴的火あぶりに」なった魔女の死はどう見ても自然死にしか見えないだろう。
「西の魔女」の死を切欠に再びこの土地を侵略すべく舞い戻った「東の魔女」は大きく成長していた。彼女の力は並々ならぬものがあり、ゲンジにはゆくゆくは「西の魔女」をしのぐ魔女になるだろうと思われた。
「東の魔女」が本当の力に目覚める前に審問官たるゲンジは「東の魔女」を懐柔すべく罠にかけた。
魔女一族に正義の鉄槌を下し、魔女一族を正義の炎に投げ込むための第一歩である。
「東の魔女」率いる魔女一族を時間をかけて根絶やしにするための、この土地の最古の一族による本当の魔女狩りはここから始まるのであった。

といった『東西の魔女を滅ぼす』ともいうべき物語である。どうだろう?
『西の魔女が死んだ』をゲンジさん側からまったく裏返してみるとこうなる。つまり、『西の魔女が死んだ』はとても反シンセミア的なのである。

と、児童文学をおっさんが読むと、こんな妄想になるのであった。
この本の素晴らしさを認めた上でのただの言いがかりなので、ファンの方も気にしないでください…

いやしかし、いつの間にかこれだけ長い感想になってしまったということは、やっぱりそれだけのものがあるのやなぁ…

2009年10月30日

●『ひきこもりの家族関係』 / 斎藤環のマジメさが逆にわかった

amazon ASIN:4062720558 ひきこもり本として斎藤環のものばかり読んでいたので、ちょっとほかの人の本も読まねば、ということでそこそこ評価の高いようである田中千穂子『ひきこもりの家族関係』を読んだ。
この人はセラピスト的心理療法家ということで、立場的には斎藤環に近く、精神科医ではない。この本の趣旨として「ひきこもりという状態像の実態を解明する、あるいは概説をする、とうことでも、対処のための攻略本でもない」と言い切って、ひきこもり問題を人間存在の原点にかかわる深刻な問題で、現代の家族関係のコミュニケーションのズレの象徴として、関係性の再生とそのための問題定義と捉えて話を展開している。

著者が女性であるせいか、この本の具体例として登場するのは彼女のクライアントである女性のひきこもりの話がほとんどである。
しかし実際にはひきこもり現象はほとんど八割が男性の場合だといわれており、たしかにひきこもり女性はひきこもり男性とはだいぶ印象が違うように思えた。
しかしこれら女性の事例ばかりを集めたのは、特殊な事例としてのひきこもり女性についての話としてならば納得できるが、ひきこもりとしては特殊な事例ばかりを扱ったということになってしまい、ひきこもり一般としての資料的価値と意義はあまり無いように思うのだがどうなのだろう?

ひきこもっている間を「意味ある時間」にする必要があるということがこの本の中で繰り返し述べられるが、それはどちらかというと「人生に無駄な時間はない」的な人生訓に近いようにも思える。
娘がひきこもったことによって、母親が自分の母親との関係も見直すきっかけになり、ひきこもりが個々の家族の生き方そのものをめぐる問題定義であったという話があったり、虐待やアルコール依存の世代間伝達の問題とひきこもり問題の関係に言及されたりと色々と面白い話題はあった。
それらは話としては面白かったけど、特にひきこもりと関連して述べる必要はないように思えた。非行でもアディクションでも大抵の思春期問題に当てはまるような気がする。
そして、ひきこもりの人に特有の何でも全てを言語化しようとする特徴を捉えて「言葉になる前のフィーリングを察する心をもう一度取り戻すのが大事ではないでしょうか?」という風に結論付けている。
じゃぁ一体どうすればいいねん?と言いたくなるし、ありがちな精神論的文化論な結論をオチにするのはいかがなものか。結局タブーであるはずの「犯人探し」の論理に堕ちているんじゃないかと。

なんとなく本全体の印象として、ひきこもりの話に引き付けて自論と正論を展開しているだけのような印象を抱いた。単なる読み物として考えればそれなりに面白いかもしれない。
本の最初に「ひきこもりという状態像の実態を解明する、あるいは概説をする、とうことでも、対処のための攻略本でもない」と断っているのが巧妙といえば巧妙で、これを単なる家族論やらコミュニケーション論として出版するのではなく、「ひきこもり本」としてひきこもり利権にたかる形で出版するのはいただけない。
ひきこもりの側に立って書いているように見えながら、実はひきこもり当事者が嫌うタイプの本なのではないだろうか。

そう考えると斎藤環はひきこもりの立場に立ったクールでかつ臨床的な立場で、実際に役に立たせようとして本を書いているのやなぁと思った。
彼の言う「ひきこもりシステム」がトンデモだという話もあるがそれはもう彼のマジメさとかを考えれば、誤差の範囲で良いんじゃね?と思った。

2009年10月29日

●『私がひきこもった理由』 / ひきこもりはカオスであることを知る本/ リアルひきこもりブッダ

amazon ASIN:4893083988 私の敬愛する勝山実氏がインタビューに答えているということで『私がひきこもった理由』を読んだ。2000年出版と結構古い本である。
この本は15人のひきこもり経験者や実践者の諸氏がインタビューに答える形で自分語りをする体裁になっているのだが、期待していた勝山実氏のインタビューは期待していた方向には面白くなかった。それでも現在「ひきこもり名人」「ひきこもりブッダ」の境地にいる彼に、過去にああいった修羅場フィールドに囲まれていた時代があったというのは驚きである。「ひきこもり名人」は最初から「ひきこもり名人」なのではなく、さまざまな修羅場と修行を潜り抜けた先に戦士の魂が眠るというヴァルハラのごとく見えてくるものであるということか。

この本にいる15人の人たちは多種多様の環境から多種多様の原因があったりなかったりして同じ「ひきこもり」状態に陥った。
ここに何かしらの共通点を見つけることは確かに可能なような気がするけど、それをいれば全ての人間に当てはまってしまうのではないだろうか、結果、ひきこもりは誰にでも起こってしまう要因をはらんでいると結論付けるしかないように思えた。ケーススタディではなくカオスであることを知るのである。

一番印象的だったのは一人の強迫神経症でひきこもってしまった男の話。この話は圧巻であった。
手が汚いと思ったら皮がむけても何時間も洗わずにはいられず、トイレで過ごすと決めてしまったらそうせずにはいられずトイレに閉じこもったままそこで食事を取って何日も暮らし、といったようなことを一歩も家を出ずに繰り返しているうちにあまりにも苦しくて死ぬしかないと決心する。
死に方も一番被害と影響の少ないエコな餓死を選び、ご飯を作ってくれていた母親に死ぬつもりだからご飯はいらないと告げて号泣される。
餓死もできず、追い詰めに追い詰められていざ死のうとした時に、どうやっても恐怖から死ねない自分に、「死ねないから生きるしかない」と思う。
インタビューを受けている時点では「今は生きているだけで幸せだと感じられるようになった」ということであるがこれはもうある種の悟りの境地であるとしか思えない。
どれだけひきこもりって極限状態やねんと。そらひきこもりブッダにもなるわな。と思った本であった。

このリアルひきこもりブッダの人の名前をネットで検索したりしてみたけどまったくヒットしない。彼は今一体どうしているのだろうか。

2009年10月28日

●笠原嘉 『軽症うつ病』 / ゼロからわかる「軽症うつ病」だけに留まらない深度

amazon ASIN:4061492896 最近お気に入りの人である笠原嘉の『軽症うつ病』を読んだ。ピンからキリまで、ちゃんとしたものからトンデモまで、世の中にいくらでもある「うつ病」に関する本の中では正統派の王道としてなかなかに評判が高い本のようである。
精神医学系の本というのは一般的には人気があっても臨床や治療の現場ではまったく役に立たないものが多いというけど、この本はうつで病院に行った時に医者から薦められることも多いらしく、一般的にも専門家からも評価の高い本ということになるだろう。

「うつ病」が起こるのは脳に原因があるものと心理的な悩みから起こるもの、そしてわけもなくある日に突然スイッチが入るような「内因性のゆううつ」があるらしく、この本では主に最後の「内因性のゆううつ」に端を発する、本の題名である「軽症うつ病」について書かれている。
「軽症うつ病」というとちょっとしたライトなプチうつな印象を受けるけど、何とか日常生活は可能でありながらも他人には病気と見えないだけに、常に真綿で首を絞められてゆくような、本人にとっては一番つらい状態であるようだ。

こういった本を読むにつけ本当はうつ病なのに本人もまわりも病気とはみなさず、性格と根性と気合の問題に還元されて一人で苦しんでいる人がいくらでもいるように思える。
「境界性人格障害」「自己愛性人格障害」や「アスペルガー症候群」への言及が、自分の気に食わない人を病気の型に押し込めるただの悪口の正当化である印象が多いのとは逆に、「軽症うつ病」は著者が「どいういうわけか実直な人に多い。実直な人が不幸になるのを座視したくない。それが本書を私に書かせる第一の動機です。」というように、うつの傾向にある人は確かにまじめで報われるべき人でなんとか楽になってほしいと思えることが多い。

新書という形態上、この本の内容はそれほど高度なものを扱うというよりは一般的な「軽症うつ」の判断や治療方法や治癒してゆく過程をを丹念に扱っているように思える。そして病気そのものだけでなく家族や職場のメンタルヘルスにも言及されており、うつ病の当事者やその周りの人々の視点に立って書かれた本であると言えると思う。
三寒四温を繰り返して徐々に治ってゆく、最後まで「おっくう感」が抜けない、といった標準的な治癒パターンは知らない人にはとても意外だし参考になったり励みになるに違いない。
そしてなによりもとても平素に丁寧に書かれておりとても読みやすく理解しやすい、うつ病はちゃんと治るのだという希望を抱かせるような温かみのある作りなのが良かった。
著者はこの本の中で「うつの人がうつの本を読むのは良くない」ということを言っているけど、この本なら大丈夫なんじゃないか?むしろ良いのじゃないか?とも思う。世の医者がこぞって薦めるくらいやしね…

何かしらの病気について話す場合、病人の代弁者として話すのか、治療者として話すのかでは大分印象が変わると思うのだが、この笠原嘉なる人は病人として病人面で語る事もなく、何処までも分限を守って治療者の立場として発言している。これはなかなか出来る事ではないと思う。
そして何よりも絶対に「善と悪」や「敵と味方」的な二分法で語ることが無いと言うのが良い。
先に読んだ『精神病』といい、この本といい、この笠原嘉なる人の書く一般向けの本はとてもわかりやすい上に、病気の人たちへの暖かい眼差しと弱さを認める優しさがあるように思うし、それでいて、患者にべったりしすぎない適度な距離感と一個の人間としての患者に対する敬意を感じるのも良い。

とかく精神医学系の本では診断や治療のために原因を探ると称して患者の無意識を暴いたりトラウマを掘り返したりする、精神的人体実験とでも言いたくなるような、ちょっと下品な趣味が横行しているように見える。
あまり何かに対して批判的な態度をとらない著者であるけど、おそらく、治療に来た患者に心理分析やら深層心理療法を求められたりすることが多いのかもしれないが、そういったことに対してほんの少し苦言を呈しているような部分がある。かなり心を打たれたので長いけど引用する。

「ものの本には、人間の心理的問題を扱う意思や看護者やコメディカルは患者さんの心の奥底まで知っていなければならないかのような書き方のものが少なからずあります。しかし、それは間違いです。すべての対象にいつもそうである必要はないのです。
また精神分析の書物とか臨床心理学の(すべてではないが一部の)書物には、いろいろと深層心理療法の事が書かれています。これらは、やむにやまれぬ理由があって何ヶ月から何年という長期間の治療を自費で受けようとなさる人のための特殊な治療の事で、そういう場合には生活史や家庭史が最初から治療者と非治療者との間の共有の関心ごとになるという暗黙の了解があり、ここでいううつ病の場合とは違います。
うつ病が慢性化したとき、生活史や家庭の話題を私が取り上げるのは、本人に自分の今までの生き方を少し縦断的にみてもらうためで、それ以上でも以下でもないのです。」

この笠原嘉という人は精神科医であるから治療に関わりのない、または逆に差しさわりの出るかも知れない個人の掘り起しなどは行わないのだろう。
たしかに合理的といえば合理的であるけど、謙遜で人道的であり、かつ患者を一個の人格として扱い敬意を持って接しているようにも見えるのがこの人の人徳と言おうか。

私は昔からちょっとしたギャグとして「ペニス羨望」「口唇期」などといった心理学系の単語は使っていたけど、実際に自分や他人の心にそういったものを適用して考えるのはあまりにも違和感があったし、とても品のない行為だと思っていた。
そして最近、誰か(や自分)の自己を心理学的にとか精神医学的にとか掘り下げて考えるような行為に心底疲れ果てたし、それに何の意味があるのやとウンザリしていた。
誰か(や自分)を掘り起こすことが未来に繋がらないのなら、それは更に苦しみを倍増させるだけじゃないのか?と。
もう、誰か(や自分)が苦しんでいるとした場合にも、誰か(や自分)を知ることと、誰か(や自分)が楽になることとはまったく別の問題であるから、もうこれは完全に分けて扱って考えようと思うようになった。
そう思うことは未来に対する過去からの何かしらの連続性を切り捨てるようでちょっとつらかったけど、そういった決心が上の著者の文章を読んで大いに力づけられたような気がする。
「うつ病」の本を読んでいて全然関係ないところから全く関係ないところにヒットして感動したり何かに気付いたりしそうになるというのも変であるが…

この人の本は本当に前知識なしでも読める平素さと簡単さという浅さから始まって、今のところ確立百パーセントで(2冊やし)自分の中を大きく揺さぶるほどの深さの、本の本来の大筋には関係ない話まで含まれている不思議な本なぁと思うのであった。

2009年10月26日

●笠原嘉『ユキの日記 病める少女の20年』 / 戦う少女の20年 / 逃げないカトリックはよく訓練されたカトリックだ

amazon ASIN:4622051370 なんやかんや言いながらもとても気に入った笠原嘉であるが、彼のの編集した『ユキの日記 病める少女の20年』 を読んだ。
この本は20歳で統合失調症を発症して28歳で心不全で死亡した「ユキ」なる女性の残した8歳から20歳までのノート60冊にも及ぶ膨大な量の日記を、彼女の統合失調症の最後の主治医であった笠原嘉が両親から見せられてとても感動し、編集しなおして出版したものである。
笠原嘉はこの本を、統合失調症を発症した女性のはるか過去まで遡った詳細な記録として「病跡学」の稀有な資料としての存在意義を世に示しているが、彼個人としては高い文学的価値を認めたことがその出版に対する直接的な動機だとこの本で語っている。
初版が出版されたのが1978年であるけど、2002年に新装版が出ていることからもこの本の人気と価値がわかるような気がする。
家族に出版の承諾をもらってから、選出と編集を経て出版に至るまであえて十年以上を費やしたように、この本は非常に時間とエネルギーをかけて出版された。確かにそこまでしてこれを世に出したいという気持ちを抱くに値する本であったと思う。

最初はこの本を統合失調症の少女の日記なのかと思って読み始めたけど、発症した二十歳のころにその特徴が見えるだけで、これは最初から最後まで純粋な日記系文学としか読めなかった。深い内省と明晰な知性、そして自分自身に対する容赦の無さはブレーズ・パスカルの『パンセ』を飽津とさせるものがある。
『アンネの日記』 から高野悦子の『二十歳の原点』 、そして山田花子の『自殺直前日記』 まで、死んでから残した日記が出版される事は多々あるが、この『ユキの日記 病める少女の20年』 はその中でもとても素晴らしい日記系文学の一つに入るだろうと思う。

敬虔なカトリックの上流階級の家庭に戦中戦後の時代に生まれ育ったたユキはエンジニアである父と教養高い母と二人の姉と弟に囲まれ、子供のころから喘息を患って病弱で、学校にも行かず友達もおらず、生涯のほぼすべてを孤独な病床の中で過ごした。
彼女はカトリックの信仰を持ち、ひたすら本を読み、音楽を聴き、様々なものを吸収しつつ考えて、逃げることなく真正面から自らを見つめて深く苦しんで悩みぬき、神に祈りつつ自分に対する孤独な戦いを延々と行ってきた。
教養高い母のおかげで、彼女はフランス語と英語をある程度使いこなせ、少女らしからぬ方向性を持った膨大な読書量と、一時期は作曲家を目指した音楽の専門知識をもとにして色々なことを考え抜く。
しかし、逆に彼女のこの知的資産が深い内省と自己洞察の道具となっていると同時に、自らを容赦なく攻める道具になっているのがとても痛ましい。
「人生は泣くべきものであり、悲しむべきものなのだ。」「私は自分の不完全に耐えられないのじゃないかということだ」「人生は実に逃避すべきものに過ぎないのではないか?」「マギの後姿をみながら思う。女の人は愛を胸に抱いて大人となる。私は虚無を抱いていつまでも子供だろう。」「悲しみによって私はかたくなである。孤独によって私は傲慢である。」
これが花咲く17、18の乙女の言葉だろうか?

私は読みながらずっとリジューのテレーズと彼女を重ね合わせて思い浮かべていたのだが、彼女は「小さき聖テレジアは勇気の無い時に勇気のあるごとくに行動した。これこそ真実の勇気だ。」と言及していたくらいでほとんど自己同一はしていなかった。
彼女はテレーズのように苦しみを神にささげるというよりも、ひたすら戦っていたように見えるし、その彼女が自分の内面を断罪して自分と戦う様は壮絶であるとしか言いようが無い。
彼女がこの孤独と葛藤と苦しみにここまで耐えられたのは彼女が信仰を持っていたからだと言えると思う。
結局彼女には助けが来なかったけど、信仰の力によって自らの地獄をここまで耐えて踏みとどまることができるのはちょっとした驚きであった。
しかし、逆に言えば、彼女をここまで追い詰めてしまったのはその信仰心からであったともいえるかもしれない。

一般的にこういった日記系文学で恋愛の悩みが出てくるととたんに面白くなくなってチープになるように私には思えるのだが、この本はそれをあまり感じなかった。
この思春期の年代の少女の恋愛での挫折経験が統合失調症発症の最初のトリガーとなるのはよくあることらしいけど、高野悦子にしろ、このユキにしろその後の周りの人々のアフターサポートが頂けなかった。
その恋愛での挫折を境にして、彼女は徐々に狂気に沈みこんでゆくわけであるが、最後の最後まで忍び寄る狂気の影を感じながらそれと戦う力を鼓舞するためにこの日記に書く言葉はなんともいえない凄みがある。その日記を必死で書いている彼女の気持ちはいかなるものだったのだろう。と思わざるを得ない。
そして彼女の後半の日記で彼女の母を「マモン」と書いている箇所がありとてもゾッとした。
マモンといえば「強欲」を司る悪魔であるけど、これは妄想?わざと?間違い?脚注にもネットにもそれに関する言及がまったく無いので非常に気になった。

一般的にアルコール依存症の家族で構成された機能不全家庭環境で育った人をアダルトチルドレンというように、絶対的な宗教的バックグラウンドをもとにした家族による機能不全家庭環境というジャンルがあるのを最近知ったのだが、なんとなくそのあたりにも関係があるようにも思えた。
家族や周りの人は善意と愛を抱きながらも結果として彼女を守りいたわるつもりで逆にユキを追い詰めることになってしまったように私には思えた。
もちろん今のようなちゃんとした治療環境があれば彼女はちゃんと治ったのだろうけど、そもそも今でこそ常識として授けられる精神医学的な知識が当時の家族にあればユキは発症すらしなかったかもしれない。

彼女のような深く高潔な知性と精神を持つ魂が狂気の淵に沈みこんで浮かび上がることなくこの世を去ったのはとても残念である。
たとえばうつ病という病気の苦しみのほとんどは、うつ病を理解しない人たちからもたらされるという事実があるように、こういった少女が孤独と狂気の淵に沈みこむことなく、幸せにその才能を開花させることができるなら、直接的な医学の進歩はもちろんのこと、精神医学に関する知識の社会に対する啓蒙は人道的に素晴らしいだけでなく、社会にとっても有用であると思ったのであった。

2009年10月25日

●中井久夫『最終講義 分裂病私見』 / 「統合失調症」を題材にした人間肯定の書

amazon ASIN:4622039613 統合失調症本の第二弾ということで中井久夫の『最終講義 分裂病私見』を読んだ。
この中井久夫という人は、ウィルス学から精神科に転向した、統合失調症を専門とする精神科医で、阪神大震災後に設立された兵庫県こころのケアセンターの初代所長でもある。
また、精神科医としてだけでなく、現代ギリシャ詩人カヴァフィスの全詩集翻訳によって読売文学賞受賞を受賞したくらいの、文学者としても名高い人であり、精神科医のカリスマともいうべき人であろうか。

この本はその中井久夫が神戸大学医学部を退官するときの最終講義を本にしたものである。
エラい先生の「最終講義」ってのはほとんどの場合何かしらのイベント的要素を含んだ外部向けの講義になるわけで、本来は精神医学の専門家して高度な授業をしてきたはずの著者は、この『最終講義』で彼の専門である「統合失調症」について一般向けの講義を行っているような体裁になっている。
この講義中、本来ならプロジェクターに投影された図や表をもとに詳しく説明する予定だったものが、会場が暗くて原稿が読めないので、彼はプロジェクターに表示されるものを手がかりにして思うがまま口に出るがままを語ったという。
そして、それこそがこの本の中に登場する様々な素晴らしい比喩やエピソードや言葉を引き出す要因になったのだろうと感じさせるものがある。

一応、本の難度としては一般向きということになっているけど、本文中では統合失調症の治癒してゆく過程や症状や現象が自明のものとして使われており、ある程度一般的な「統合失調症」の知識は前提となっているようだ。私は笠原嘉の『精神病』を直前に読んでいたおかげでちゃんと理解しながら読み進むことができた。

一応この本は一般向けのプチ医学入門書であるけど、私自身はこの本の内容を実際に役に立てたり対処するための知識を得るような医学的実用書的読み方ではなく、精神が病む状態である「統合失調症」を詳しく見てゆくことで人間の精神そのものの深さや謎を知りそれが人間理解につながるだろうという目論見の人文的な読み方をしたのだが、そういう読み方でもとても楽しくスリリングに読めた。
直前に読んだ笠原嘉『精神病』はちょっと退屈な部分があって読むのにちょっと時間がかかったにもかかわらず、同じ題材を扱ったこの本は小説を読むように一気に読み終えた。
著者の広くて深い知識と知恵からあふれ出るような言葉が、著者のお人柄とあいまって「統合失調症」を題材として展開され、とても読み応えのある人文的人間考察の書物となっている。
この本は一応精神病という人間の負の面についての本であるはずなのに、なぜか読後感は不思議な人間肯定的な気持ちに包まれてしまうくらいの勢いである。

統合失調症の患者の症状として、世の中身の回りすべてが完璧で緻密な法則性によって決められている確信を抱いてしまい、世界の閉塞感と圧迫感が苦しくてしょうがない状態を「心の自由度がゼロに近づくならば、外界も、自分がその中自由に動きまわり人や物と出会えるような空間でなくなって、すべてが恐ろしい”必然”と見えても不思議はありません。」という内容が印象に残っている。
なんというか統合失調症の辛さがひしひしと伝わってくる文章ではないか。これを読んで、ニーチェの「永劫回帰」や「運命愛」がこういった苦悩の苦肉の策として考え出されたのかもしれないなぁとぼんやりと思った。

ウィルス学と精神医学の専門家であり、「ヴァレリーの研究者となるか科学者、医者となるかかなり迷った」というくらい文学にも造詣の深い人であり、科学者や医者としての論理的な側面と、細やかな情緒を大事にする文学者の側面の二つが高度な位置で同時に生かされている個性から出てくる言葉はとても感動的である。
この本を読んでいろいろな人がこの中井久夫という人に熱い敬愛を抱くわけがよくわかった。こういった知性に激しい憧れを抱く気持ちはとても理解できる。確かにこの人の書くほかの本をずっと追いかけて読んで行きたいと思ったのであった。

2009年10月23日

●高野文子『棒がいっぽん』 / 「表現」のたどりつく一つの極

amazon ASIN:4838706138 最近同じ職場の某氏に色々と漫画を借りて読んでいるのだが、衝撃的だったものを一つ。高野文子の『棒がいっぽん』である。
この漫画は色々なところに発表された短編を集めたもので、ストーリー漫画性は全くといって良いほど無い短編集なのであるが、これを読んで漫画を含む「表現」というものでここまでのことが出来るのかととてつもなく驚いた本である。

この『棒がいっぽん』の中ではネット上で評判を見るに「奥村さんのお茄子」がダントツに評判が良いようだが、私にとっては「美しき町」と「私の知ってるあの子のこと」が衝撃的に素晴らしかった。
大恋愛や激しい欲求とは程遠い、お見合い結婚をして時に他人に振り回されながらも淡々と静かに平和に穏やかに同じ価値を共有して暮らす二人の夫婦の揺ぎ無い幸せを描く「美しき町」、何の問題も無い幸せな家庭に育つ少女の、問題児というマイノリティーへの憧れと、そのマイノリティーを少し理解する瞬間の心の揺れを描く「私の知ってるあの子のこと」、どちらも余りにも微妙でしかも美しい非言語領域を見事に表現していて素晴らしい。

余りにも素晴らしくて高野文子なる人物に心底から敬服したので、彼女の名による単行本をすべて買い集めてしまったくらいである。
この高野文子の本の中ではこの『棒がいっぽん』が一番素晴らしかったけど、その他の本もなかなか良かったのでまた紹介したいと思う。

2009年10月19日

●笠原嘉 『精神病』 /ゼロからの「統合失調症」について

amazon ASIN:4004305810 斉藤環の「ひきこもり本」を読んでいた時に、統合失調症から起こるひきこもり現象もあるということで、統合失調症の場合の引きこもりを見分ける為に統合失調症の特徴が書いてあった。
その特徴自体は「ひきこもり本」自体とはまったく関係なかったものの、なぜかその「統合失調症」の症状が妙に印象に残って猛烈に「統合失調症」について知りたくなった。
ということで、最近の本読みのテーマは「精神病」、中でも「統合失調症」である。
で、そのテーマに沿ってとりあず数冊読んだのだが、まず一番最初に読んだのがこの笠原嘉の『精神病』である。
『精神病』はタイトルこそ『精神病』であるけど、内容のほとんどすべてが「統合失調症」について、多くの治療例を引きながら解説している。

一般的には現在でも「統合失調症」になれば、わけのわからないことを叫びながら暴力的に暴れまわり、いったんそうなってしまえば人生が終わってしまう不治の病であるようなイメージがまだ残っているように思う。
しかし、この本のポイントは、心身症と神経症と精神病あたりの区分を前提にして、そんな世間的に偏見と誤解によるイメージ先行で形作られている一般的な「統合失調症」の概念を根本から覆し、現在の「統合失調症」についての医学的にも社会的にも正しい基礎的な知識と見方を紹介することにあるのだろう。

具体的にいえば「統合失調症」なる病気は、犯罪率が高くなるどころか逆におとなしくなったようにすら見えてしまう、本人にとってひたすら孤独で苦しい病気であり、現在では適切な治療を行えば、急激な症状と緩やかに続く症状を繰り返しつつも確実に快方に向かい、予後が良いちゃんと確実に治る病気である、というところであろうか。
1998年と「統合失調症」がまだ「精神分裂病」と呼ばれていた時代に書かれた本であるけど、現代ではさらに医療は進んでより治りやすい病気になっているだろうと思う。
それでも当然「統合失調症」についていままでほとんど知らなかった私にとってはイメージが覆されることばかりであった。

この本の後に読んだ中井久夫の『最終講義 分裂病私見』 に比べると、この本はクールで淡々とした記述的な文体であり、読み物として「読ませる」所はあまりないし、ドラマチックではない症例のあたりを読んでいるとちょっと退屈してくる。
しかしながら、著者の患者に対する目はなんとも優しいし、語り口が淡々としているが故にか、後からじわじわ湧き上がってくる印象がある。
それに何より「統合失調症」について自分だけの説や考え方ではなく、中立的にすでに確立された科学的な知識に基づいた事だけを書こうとするスタンスがとても信頼できる。
「精神病」や「統合失調症」についての知識がゼロからでもちゃんと読めるのではないだろうか?
ネットではこの本は精神病について概観するのに最も適した名著であるという評価が高いけど、確かにこれがとてもいい本だというのはうなづけるのであった。

一番印象に残った話は、自分が革命的に科学技術を変える発明のアイデアを持っていて、そのアイデアを影の組織に狙われて常にありとあらゆる手段で追われている。という、いわゆる「発明妄想」に取り付かれてしまった大学生の話である。
当初は大変な状態だった彼は治療を行って行くうちに落ち着いてきてそんな妄想を口にしなくなって退院し、症状も出ないので復学し、治癒後も病院に通いつつも卒業し、教師となって順調に人生を歩んでいた。
主治医とは医者と患者の関係はなくなったものの時々連絡は取り合う関係でおり、就職から数年後にちょっと複雑な結婚話が持ち上がった時になって「もしこの結婚が失敗しても、私は自分の秘密の研究でノーベル賞を目指すから大丈夫」と主治医に口にしたらしい。
主治医は口にされることが無くなって消えていたと思っていた妄想がまた口にされたのに非常に驚いたけど、結果として結婚は上手く行き、彼は教師としてそれからの二十年ほどを過ごした。
そしてある時に自分の定年後の生活について「定年後は秘密の研究に着手する」と語ってまた主治医を驚かせたらしい。
つまり、彼は「統合失調症」が治癒した後もずっとその妄想をある程度の形でもっていたことになる。
このことについて主治医である著者は、
「分裂病の人は現実世界と空想世界をまるで二重帳簿のように別々にもっている。しかし彼にとっては二世界が共存していただけではなく、発明妄想は彼を支える唯一の根源であって、もしこのいわゆる「妄想」をとりのぞくことを医療の目的として徹底すれば、恐らく彼の荷二十年の教師生活という現実は支えを失っただろう。」
と書いている。

無意味であったり、時には治療の対象にすらなる妄想が生きる支えになっていたというのはなんとも意味深いと思う。
現実とは程遠く逆に矛盾すらする信念とか妄想とか認識が、現実を生きる原動力になりえるということに人間の精神の不思議さを感じる。

「ひきこもり問題について考えるということは、結局人間関係そのものについて考えることなのだなという感触があった。」と前に書いたけど、この本に「分裂病の心理学が人間にとっての自己と非自己について考える機会を与えてくれる」とあるように、精神病の本を読むにつれ、精神病という人間の精神が病んだ状態の状態を見ることによって、逆に人間の精神の深さと不思議さを見ることになるのだと思った。

2009年10月08日

●斎藤環 『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』 / ひきこもりから「人間」を考える

amazon ASIN:4805830069 またしても斎藤環の「ひきこもり本」の『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』を読んだ。
社会的ひきこもり―終わらない思春期 』や「ひきこもり」救出マニュアル などの斎藤環のひきこもり本がほとんど2000年前後の古い時代に書かれているのに対して、この本の出版は2007年10月となかなかに新しい。

著者が言うにはこの本は今まで著者自身が書いてきた「ひきこもり本」は実践的なものでかつ古いものばかりだったが、この本は現在の段階での「ひきこもり」についての理論的な部分をテーマに書いたということである。
確かに『社会的ひきこもり―終わらない思春期 に比べて、ひきこもりは何が起こっているのかをはっきりさせて、ひきこもり当事者、ひきこもりの家族、ひきこもり当事者に治療者や第三者として関わる第三者、のそれぞれの立場でひきこもり問題をどう捉えるべきかが明確に示されていたように思う。

『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』なるタイトルは、なかなかに挑発的で絶妙なタイトルだと思う。
なぜなら、ひきこもりが「治る」とはどういう状態を指し、それがどのようなメカニズムで行われ、そしてそれが可能なのか?というところが含意されているからである。
それらの疑問を設定した上でそれに本の中で答えてゆきながら、世間的なステレオタイプでの「ひきこもりが治った」状態として想像される「ちゃんと就職して友達たくさん作って結婚して」的な、いわば社会的なビジョンを否定して解体し、引きこもりの治癒として社会的な側面でなく、あくまで心理的精神的な側面を重視しているところがポイントである。
彼は「ひきこもりが治る」ということはいろいろな価値や信条から「自由」になるということだという新しいヴィジョンとして定義している。具体的に言うと、自分の責任で自分の意思で自分の人生を選択してゆく決意をする自由でもって最初の一歩を踏み出した時点で、「ひきこもりが治る」とされることになるらしい。
ひきこもりから脱することを単なる社会参加や社会的ポジションの獲得といった社会的側面でなく、個人的な心理的精神的自由の側面として捉える捕らえ方は、ある意味で一般的な意味での「ひきこもりが治る」とされる状態を下方修正することなのかもしれない。
しかしこれはひきこもりの関係者ではなく、ひきこもり当事者にとって心理的にも精神的にも将来的にも一番よいとされる、一番辛いはずであるひきこもり当事者に寄り添った上でのヴィジョンであるところに意義があると思う。

ひきこもりを本人が怠けているせいだと断定したり、家族が甘やかすせいだと断定するような犯人探しの不毛さが事態を悪化させるだけだというのは確かに彼の言う「ひきこもりシステム」なるものからよく理解できるように思える。
つまり、ひきこもり当事者は「ひきこもりシステム」の一番負荷の高い歯車でしかないのだから、その歯車だけが変われば「ひきこもり」が解決するのではなく、「ひきこもりシステム」から抜け出すには関係者が全員「ひきこもりシステム」を放棄するために、人間関係のシステムを改善してゆく必要がある、といったところである。
しかし、ネット上ではその「ひきこもりシステム」なるものを疑問視している人も少なからずいるようなので、この「ひきこもりシステム」なるものは彼の持論であると思っておいたほうがいいのかもしれない。
しかし、私自身は現時点でひきこもり理解と対ひきこもり方策を切実に必要としているわけではなく、ただ本として読んでいるだけなので、話が本当に厳密であることよりも面白さを求めているわけであるから、そういう意味でとても面白い本であった。
しかしそれでも、これではあまりにも知識が偏りすぎるから、斎藤環以外のひきこもり本ももっと読んだほうがええなぁと思わないこともない。

いろいろなひきこもり本を読んで「ひきこもり問題」というのは本人だけでなく家族や社会や第三者の間での人間関係の問題でもあるというところがよくわかった。
そしてひきこもり問題について考えるということは、結局人間関係そのものについて考えることなのだなという感触があった。
ひきこもり関連書籍をまとめて読むことが、私にとって人間関係とか人生とか人間そのものについて結構考えるきっかけになったのは不思議といえば不思議なのであった。

2009年10月06日

●斎藤環『「ひきこもり」脱出マニュアル』 / 「ひきこもり」脱出支援マニュアル / 「ひきこもり」対応マニュアル

amazon ASIN:4569621147  斎藤環『「ひきこもり」脱出マニュアル』を読んだ。
1998年に出版された『社会的ひきこもり―終わらない思春期 』が「ひきこもり」について書いた本だったのに対し、この『「ひきこもり」脱出マニュアル』は「ひきこもり」を如何に解消するかに主眼を置いた本である。
社会的ひきこもり―終わらない思春期 』以後の著者の「ひきこもり」に関する何やかやの蓄積を元に、質疑応答の体裁をとったなかなかに分厚くて内実ともにボリュームある本であった。ボリュームだけでなく全編通してみなぎっている緊張して鬼気迫った思いつめたような雰囲気はなかなかヘビーであった。
内容自体は『社会的ひきこもり―終わらない思春期 』に書いてあることを踏襲しているように思うが、『社会的ひきこもり―終わらない思春期 』がどちらかといえばひきこもり現象とそれに対するスタンスについて書いた本であるのに対して、この本はその内容を元に具体的にどう対処すればいいのかについてのいわば実用的な内容となっていたように思う。

とはいっても、私自身はなんとなく繰り返しや重なる部分が多かったりして、この本をそれほど面白く読めたというわけではなかったけど、現在の時点でのひきこもり当事者がお勧めの本として挙げていることが結構多い。つまり彼らにとって、このように対処されることが好ましいと思えるのだろう。

というわけで、これはひきこもり当事者やひきこもりを理解したいと願う人よりは、ひきこもりの周りにいる、たとえばその親にとって意義のある本なのだろう。そういう意味でこの本は『「ひきこもり」脱出マニュアル』というよりは「「ひきこもり」脱出支援、「ひきこもり」対応マニュアル」と言ったほうがいいかもしれない。

2009年09月21日

●三島由紀夫:『三島由紀夫レター教室』/乙女のための本?

amazon ASIN:4480025774 毎週木曜日は職場の近くのスーパーで古本市が開催されるので、気が向くと仕事帰りに冷やかしている。
最近は「ひきこもり」だとか「統合失調症」だとかちょっとしんどい本ばかり読んでいたので、この前に箸休めに読むつもりでホメーロス『オデュッセイアー 』と一緒に買ってきていた、三島由紀夫の『三島由紀夫レター教室』 を読んだ。

この本は、五人の登場人物がそれぞれ色々な人物に手紙を書いて、その手紙だけでストーリーが進んで行く面白い構成であった。
色々なシチュエーションで書かれる五人の登場人物の手紙、例えば「肉体的な愛の申し込み」「処女でない事を打ちあける手紙」「恋敵を中傷する手紙」「心中を誘う手紙」等などの30通の手紙でストーリーを進行させながら、同時にその手紙は文例集にもなっている。と言う事らしい。
面白おかしくさっぱり読めた上に三島テイストも入っていてとても面白かった。

昔は電話が普及して手紙がさっぱり書かれなくなったと言ったものやけど、そんな時代を通り過ぎたあと、パソコンや携帯電話の普及のお陰で日常になった電子メールが手紙文化を復活させつつあるように思う。
個人と個人をつなぐメールはコミュニケーションの形を一変させたなぁとつくづく思う。
電子メールだけで構成される小説ってのもそのうち出てくるだろう。ってもうあるのかな?

で、感想を検索していると一乗寺の恵文社で「乙女のための本」として紹介されていてちょっとびっくりした。
しかし考えれば考えるほど、三島由紀夫はなぜか乙女によく似合う気がする。そして中でもこの本を乙女のための本として選出するのは渋いなぁと恵文社に感心したのであった。

2009年09月15日

●勝山実:『ひきこもりカレンダー』/ ひきこもりシャウト / ひきこもりアフォリズム / ひきこもりニルヴァーナへ

amazon ASIN:4890361243 最近ひきこもり関連書籍ばかり読んでいるが、続いて読んだひきこもり本は2001年の始めに出版された勝山実:『ひきこもりカレンダー』である。

この本の3年前に出版された『社会的ひきこもり―終わらない思春期』の斎藤環がひきこもりを治療者から見た立場で、この本のおよそ一年後に出た『「ひきこもり」だった僕から』の上山和樹が元ひきこもりの立場から書かれた本だとしたら、この勝山実の『ひきこもりカレンダー』は現役ひきこもりが書いた本だという位置づけになろうかと思う。

ひきこもり経験者である上山和樹の『「ひきこもり」だった僕から』が、ひきこもりで(あった)自分の心の中を分析的に客観的であるよう心がけて表現しれいるのが伝わってくるのに引き換え、この『ひきこもりカレンダー』は自らの心の中を可笑しさを交えて自らの中にある不満とルサンチマンを力の限りに叫んでいるような印象を受ける。
基本的に何かしらのまとまった書籍であるというよりは、ブログを本にしたような感じといっていいだろうか。彼は自らのひきこもりを「親のせい」だと断言し、心の叫びをこれでもかと本にぶつけている。

いわゆる「まともな社会人」の感覚を持った人がこれを読むと、子供が好き勝手言ってるように聞こえ、怒鳴りつけたくなるような嫌悪感を抱くらしい。
「専業子供」「不登校は本人不在の大騒ぎ」「親とは血がつながっているんだから、お金もつながっていると思えばいいんです」などと、本のそこかしこに散りばめられた箴言のような言葉が「オトナ」達の神経を逆撫でして、「オトナ」達の古傷を貫き、「オトナ」たちが必死に否定しようとするものを堂々と肯定し、必死に肯定しようとしている物を笑い飛ばす。
しかし、逆に「オトナ」をここまで苛立たせて怒らせることができるというのは、彼らの怒りのポイントをつく何物かがあるのだろう。
この本のあとがきで斎藤環が彼のことを評して「トリックスター」といっているのだが、まさにぴったりと言う感じである。
彼のアフォリズム溢れる言語感覚が面白いのは彼が「ひきこもり」だからというよりは、彼自身のキャラクターによるだろう、現在の彼のブログはこの本を読むよりもあらゆる意味で洗練されて面白い。

この本が出版されてすでに8年が過ぎたが、著者はいまだにひきこもりである。
彼はひきこもりを脱する気持ちは無く、ずっとひきこもりを続けるつもりであるようだ。
考えてみれば上山和樹がひきこもりでなくなったのに引き換え、彼がまだひきこもりであるというのは意義が大きいと思う。
世間一般だけでなくひきこもり当事者のほとんども「ひきこもり」が救いを得るには「ひきこもり」を脱して「ひきこもり」でなくなる事だと思っているが、彼は「ひきこもり」のままでの救済を追求しているように見えてしょうがない。
望む望まざるにかかわらず、もはや彼は本当の意味で「ひきこもり」の可能性を試す存在であるだろう。

彼は自分自身で半ば冗談のように「ひきこもり名人」「ひきこもりブッダ」と名乗っているし、さらに、

「ボクはひきこもることで世の中が変わると信じる。
ひきこもりの人は自分は何もしていないなんて、間違っても思わないでください。ボクらが一番ハードにこの世の中と戦っている人間なのだから。」

とも言っている。彼は冗談や皮肉や自棄になってそう言っているのではなく、まじめにそう言っているのである。

彼が目指す「ひきこもりニルヴァーナ」とも言うべき場所に到達する人が現れれば、つまり「ひきこもり」を脱することなくそのままで「救われた」人が出てくるということは、「ひきこもり」のネガティブイメージは一掃されて、「ひきこもり」がひとつのカルチャーとなるであろう。
そうなれば今の価値は確実に揺るぎ、世界は確実に変わるに違いない。

2009年09月13日

●上山和樹:『「ひきこもり」だった僕から』 / ひきこもり追体験ブック / 世界の中心で「だが断る」を叫ぶひきこもり

amazon ASIN:4062110725 2001年に出版された上山和樹『「ひきこもり」だった僕から』を読んだ。先日読んだ斎藤環の『社会的ひきこもり―終わらない思春期』がひきこもり経験を持たない医者である著者の視点から書かれたのに引き換え、この本はひきこもりを脱した(とされる)ひきこもり当事者によって書かれた本であるというところに大きな意義があるらしい。
現在の著者はひきこもり経験をもとにした講演や著作活動を行っている人であり、一般的にはどちらかというと文化人的なポジションを獲得して脱ひきこもりを果たした人といううことになる。
この本の前半は「これまで(自分へ)」として彼が生まれて育ち、引きこもりになり、ひきこもりがこじれにこじれてしまい、それから今に至るまでの彼の人生を、そして後半の「いま(いまから)」の章は現在の彼が講演のような形式で、ひきこもりについて、またひきこもりをどう理解すれば良いのかについての彼の思いを語っている。
この前半の章ははたから見ればただブラブラだらだらグダグダしているようにしか見えない(らしい)ひきこもり当事者の心の中がどのような地獄絵図になっており、日夜どのような責め苦に休むことなく苛まれ、自ら苛んでいるのかがよくわかる。「ひきこもり」がそれ自体で心的外傷となる所以がよく理解できよう。
そして後半は彼が「ひきこもり」を社会に対する問題定義で、世界と人間に対する意味論の文脈での問いであると捉え、そこからの脱出を巷にあふれる精神論でなくリアルな方法論で述べている。

これだけリアルに赤裸々に語られる彼のひきこもり体験が妙な感動を呼ぶのは、「人の苦しみは尊い」という大前提があるかもしれない。そして何よりもこれだけ自らを語ってしまう作者に敬意を表したいと思う。
作者は「秘密のマネジメント」として、ひきこもり属性の人は他人に何を何処までしゃべって良いのか判断しづらいという興味深い見解を上げている。一般的に一般書籍でここまで自分をさらけ出すのは相当勇気がいったと思うが、逆にそうする事でこの著者にとって色々な事が上手く回り始めたように見える。その「秘密のマネジメント」の不得意さは欠点ではなく長所では無いのかなと個人的には思う。
前半を読むのは心的外傷としての「ひきこもり」を追体験するくらいの辛さであったし、経験の無い人にとってもそれがどれだけの辛い経験になるのかがわかるかも知れない。
この本の前半のそういったひきこもり体験ブックな側面は実体験としてのひきこもり理解に意義があると思う。

例のごとく、元当事者である私にとって、この本は読みながら笑ってしまいそうな位に共通点が多く「お前は俺か!」と突っ込みたくなるくらいの共感を全編にわたって感じた。
この本の著者は大真面目に自分の問題として哲学的問いと呼ばれるものを発して自ら考え込んで、古今東西の文学と哲学の本を乱読しはじめ、自らのひきこもり行為を哲学的知的追求の機会として正当化しようと試みる、ある一つのひきこもりのタイプの典型であろうか。
彼がこの本でここまで自らの苦しみを開示して見せたのは、純粋な自己表現欲求や彼自らが発言する事でひきこもりの人の役に立てば良いと思う気持ちだけでなく、なによりもひきこもり自体をネガティブに捉えず、ひきこもりを一つの自己表現として捉え、自らがひきこもることで発した問いを、正当なものとして世界に向けて問い直したいというポジティブなところによるのではないだろうか?
この立場は治療者や支援者では決して持てない、当事者でしかとりえない立場であろうと思う。
ひきこもり当事者は自らのひきこもりを恥じることなく、自らの疑問を自らに対してだけ問うのではなく、世界に対して問うことで、何かしらの苦しみの救済への試みになるのかもしれない。

そしてこの本の後半ではひきこもりから見えてくる社会の問題と、ひきこもり自身の彼らが如何にその苦しみから脱するかという二つのテーマでひきこもりについて論じている。
彼はひきこもりを社会や世界の現状の矛盾や問題をみずからに背負ってしまったような「弱すぎて負けてしまった正義」として捉えている。世界の正義で価値だと呼ばれる様々な「建前」と、実際にそこにいる人自身が苦しんで嫌がっているという「事実」のダブルバインドに疑問を持って引き裂かれ混乱していると言うとわかりやすいだろうか。
彼はひきこもりに関連したもっとも重要なテーマの一つとして

「世界を意味で縛り付けることなしに、どうやって自分なりの正しさを生きるか」というふうにまとめられると思います。そしてここにさらに、「それを、経済生活と両立させながら」と項目が加わる。
教義やイデオロギーに縛れることなしに自分なりに「正しい」と思えることを実行していて、それでいて経済生活も成り立たせること

と言っている。そしてまた

実は「信仰」の問題は、個別具体的な宗教の問題とは別に、「ひきこもり」の根本テーマだと思っているんです。
ひきこもりにおいては、この「日常生活における努力を支える信仰のようなもの」が、崩れてしまっていると思うんです。

とも言っている。
これらは現在ひきこもり状態に無い元ひきこもりである私にとっての現在のテーマでもあるし、誰にとってもテーマとなりうるだろう。更に言えば、ニーチェが神の死んだ現代で世界に問うた「実存」に関わるテーマでもある。
「ひきこもり」の持つ疑問が「ひきこもり経験者」だけでなく人間にとって普遍的な問いである事を認識する事がひきこもりに対する理解のだ一歩になるのかもしれない。

先日読んだ斎藤環の『社会的ひきこもり―終わらない思春期』が「社会的ひきこもり」を「六ヶ月以上を自宅にひきこもっていて且つ全く社会との繋がりを持てていない者」と定義して、家族以外の誰かと親密な関係を持つ事が出来るようになる事で治癒としていた。
しかしこの本ではその斎藤環の定義を踏襲した上で

仲間とバカ話や飲み会ができるのは大きな進歩ではある。でも、実は引きこもり問題の最大のハードルは「そこから」にあるのです。つまり、「親密な仲間ができた」状態から、「独立した経済生活」のハードルが、実は一番高い。

とかなりリアルな見解と実態に沿った目標設定をし、彼自身が行っているひきこもりを現代思想とかで論じられているような問題とか考え方の構図でとらえることについては、「そのほうが、苦痛除去に効果的だと思うから」と述べている事にとても好感を覚えた。

この本の前半にも共通する事かもしれないけど、彼は自らの経験を人前で話すことを切っ掛けに「脱ひきこもり」の機会をつかんだ。彼の「ひきこもり行為」そのものが彼が「ひきこもり状態」から脱する原因となったのが皮肉といえば皮肉かもしれないが、彼がひきこもり当事者としてこういった本を出版し、あちらこちらで講演し始めたりするようになったこの本の出版当時、彼はこういった活動の中に自らの社会的存在意義と価値を見出して社会と関わりを持ち始めた。
しかし、この本の中で彼は、依然として彼の両親は彼のこういった活動を「脱ひきこもり」とみなさず、彼にちゃんとした会社に就職するように勧めたり、求人広告の切抜きを渡したりするという事を書いている。
これは私にとってかなり衝撃的な内容であったし、これが彼にとってどれだけの苦しみと痛みになるのかがよく理解できる。しかし一方で、両親のそんな行為を軽く受け流す事が出来るようになっている事に彼の「脱ひきこもり」の真意を見たような気もした。
ひきこもりが自らを否定することなくひきこもりを脱するのは、自らが取り囲まれ自らに押し付けられる様々な価値や論理や倫理を確かにそれが有用で意義のある事を認めつつも、岸辺露伴のように「だが断る」と発語することではないか。

この岸辺露伴が最も好きな事のひとつは
自分で強いと思ってるやつに「NO」と断ってやる事だ…

2009年09月11日

●村上春樹:『1Q84』 / あっさりな、余りにあっさりな /「デタッチメント」から「コミットメント」への移行

amazon ASIN:4103534222 amazon ASIN:4103534230 限られた狭い範囲内で「図書館戦争」と呼ばれるものの先陣を切って首を取り、村上春樹の『1Q84』 を読むことができた。
巷では発売当初に売り切れるほどの勢いで売れに売れたこの本の評判を聞いて、まるでいつの間にかメジャー路線の老若男女を集客しているヱヴァンゲリオンのようだと思ったのは私だけではあるまい。
最近、本にしろ映画にしろ売れるものは極端に売れて、売れないものはまったく売れないという二極化が加速しているような印象を受ける。
売れているらしいものに人が飛びつくことで指数関数的にその勢いがどんどん加速されるという構造は、自分自身でモノを見て選択する目がなくなったというよりは、極端にハズレを引くのが恐ろしいという心理であるように思うのだが如何だろう。
まず統計的情報ありきで次に自分の判断が入るのは良くも悪くもネット時代、というよりは、単に不景気だからかなという気もする。
というのが『1Q84』 の売れ行きを見た感想であるけど、以下からはやっと本についての感想を…

この村上春樹の『1Q84』 はあえてまったく本の中身に関する情報や感想を見ることなく、まっさらな前知識なしの状態で読み始めた。一気に二日か三日で上下巻 (BOOK1 BOOK2)を読んだのだが、確かにストーリーテーリングの巧みさでぐいぐい引っ張って行き、一気に読ませる面白さはあった。
読後感は「あ~面白かった」であるけど、逆にそれだけしかない。長大な長編小説を読み終えた後に特有の何かが残る感覚はあまりない。読んでいて印象的な言葉や文がとても多かっただけに、不思議な読後感である。

読み始めてすぐに村上春樹的な比喩と言い回しがブイブイ出てきて「うわっ春樹臭!」と思わせたところでそれをすぐにひっくり返されて圧倒された。「どひゃ~参りましたハルキ様m(__)m」てな具合である。もう、つかみで読者は村上春樹の思うが侭にコントロールされることを受け入れてしまうのである。
で、この本はガーッと自動著述マシーン的に物語が溢れるままに書いた勢いを感じるというよりは、短編的な構造を緻密に構成した精巧な物語であるように見える。全編を通して彼の短編を読んだ時のような上手いな~という印象である。自分の書きたいことを思いのままに書いたというよりは、自分の書くべきことを考えて抜いて書かれた。という感じであろうか。
「何じゃこれ?」的な前作『アフターダーク』の三人称のリアリズム小説の手法というやつも、「はは~ん、これがしたかったんやな。」と思わせるところが多かったし、手法的な意味で今までの彼の小説の集大成的な部分は感じられたような気がする。
村上春樹を長編小説よりも短編小説で評価する人も多いけど、この1Q84は彼の短編小説的な手法で組み立てられた長編小説ということになるのではないだろうか。そしてそのテクニカルな部分の組み立て方は読者に対してわかりやすいという親切設計である。見栄えのあるショーを披露した後にちょっとだけタネをばらして客を楽しませる手品師のような感じか。

とは言っても、私は昔から村上春樹が好きなので、彼に多大な期待を抱いているがゆえの感想なのかもしれないが、この1Q84は長編小説としては冗長で無駄が多すぎるような気がする。つまり、内容の割りに長すぎる。
さらに言えば、村上春樹は登場人物をとても丁寧に造形したらしいけど、キャラクターの重みや魅力や存在感が少なすぎるように感じられたのは決定的なダメージであるように思う。個性ある脇役はもちろん、主人公の二人でさえ薄っぺらい印象、特殊能力があったり個性的であるだけで魅力や惹きつけられるものを感じない。
特殊能力はないけど魅力あふれ過ぎるカラ兄のキャラクターたちと雲泥の差である。あのキャラクターが濃いはずの牛山でさえあっさりしすぎて、スメルジャコフの足元にも及ばない。
まぁ、カラマーゾフの兄弟と比べるのは酷なのかもしれないということで、この1Q84と同じ構成の村上春樹自身の1985年の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 と比べてみた場合でも、「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の二つの物語がはっきりと静と動の関係になってコントラストとなっていたのに対して、「青豆の物語」と「天吾の物語」はあまりメリハリを感じないダラダラした印象を受けた。
更にトリックスター的な「ハードボイルドワンダーランド」の「ピンクの太った娘」のキャラクターに引き換え「天吾の物語」の「ふかえり」はあまりにもあっさりしている。なんとも悪い意味でアヤナミ的である。逆にアヤナミ好きならツボにはまるのか?よく分からない。
そして『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 での「やみくろ」に読者が抱くであろう強烈な存在感と印象は、この1Q84の「リトル・ピープル」に全く感じなかった。そして「ピンクの太った娘」がやみくろの巣の中心部で「ピンクの歌」を歌うような、あまりにも美しくて印象に残るシーンも1Q84には無い。
つまり、『1Q84』 はストーリー的にもキャラクター的にも波乱万丈の構成にもかかわらず、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 に比べてあまりにもあっさりとした印象を受けるのだ。

『カラマーゾフの兄弟』に代表される長編小説が方向性としては「こってり系」であることに異論のある人は無かろう。そのカラ兄がこってり系であるがゆえに、長編小説もこってり系であれ。ということになっているのかもしれない。
情熱が強すぎる事で社会からの軋轢に苦しむ時代はもう過ぎたのかもしれない、今の時代は逆に情熱が無さ過ぎることで社会の底辺に埋没しそこであえぐ人が多い時代である。
とても好意的に捉えれば、そういう意味で、このあまりにも「あっさり系」の1Q84はこってり系マンセーな旧時代的長編小説に現代的な「あっさり系」で勝負を挑んだ小説であるといえよう。
また更に言えば、現代の危機というものは、今までのようにやみくろ的な「こってり」とした構造で襲ってくるのではなく、リトル・ピープル的な「あっさり」とした文脈で捉えられるものでしかないということも言えるのではなかろうか?そして村上春樹はそんな現代的な「あっさり」な危機を描いたのだと。言い過ぎ?

青豆の物語の最後がああなることで不満を炸裂させてる人が多いようであるが、そんなものは予想された範囲内での出来事であるように思う。もしBOOK3が出ることになっても、やろうと思えば『魁!!男塾』的に「お、お前はーっ!」で事態は回収できるではないか。
しかし私にとってそれ以上の驚きは、それだけはありえんやろうと思っていた「天吾」と「ふかえり」の関係が最後にああいうことになったことである。
私はとてもびっくりした。そうする必然性も蓋然性も偶然性も全く何もないではないか。
熱湯の入ったバスタブに腰掛けた状態での「押すなよ!押すなよ!絶対に押すなよ!」があらゆる文脈で「押してくれ!」の合図でしかないとされるように、読者が「それだけはありえん」と感じていた。というだけの理由でそれが行われたようにしか見えない。
しかし、逆にそれは「おれたちにできない事を平然とやってのけるッ!そこにシビれる!あこがれるゥ!」と評価してもいいのではなかろうか。

この本で一番印象に残った言葉は、青豆が社会正義(と思われるもの)として行おうとしている行為に対する報酬を断ろうとした時に、老婦人が青豆に対して柳屋敷で言ったこの台詞だと思う。

BOOK1 P330
混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。ですからあなたはその気持ちを、気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎとめておく必要があります。

この言葉は個人的に色々な意味で心に染みた。恋愛にしろボランティアにしろ人助けにしろ社会活動にしろ、純粋な愛情や憐憫や正義感のみで動くのは着地地点が見つからないどころか危険ですらあることが多い。そんな純粋な感情は何かしら社会的で即物的な利益と結びついてこそちゃんと実を結ぶのだなと深く自戒を込めて思った。まぁ往々にして「自戒」と言うのはすでに遅すぎる段階で行われるのであるが…
また、それとは別に、多分この上の台詞が村上春樹の思う社会との係わり方の基本的な考え方であるだろう。
彼が最近執拗にあからさまにノーベル文学賞受賞に向けてパフォーマンス活動をしているように見えるのにちょっとした違和感を抱いていたけど、この箇所にそんな考えに対する彼の釈明を見た気がした。彼自身の社会的意義や貢献を求める純粋な気持ちは、ノーベル文学賞を受賞することで、彼自身の即物的な利益や地位を増加させるだけではなく、より小説家として彼の物語を世界に広める事の出来る動力や環境となる側面もあるだろう。
日本の文壇から背を向けていた村上春樹なる孤高の異端児は、今や日本の枠をはるかに超えて、世界的に強力な商業的、社会的、文化的影響力を持つ存在となった。
そんな彼がこの本で「物語」なるものの役目について天吾の台詞を介してではあるが、直接的に語っているところにかなり驚いた。なぜならそれは彼自身が小説家として「物語」を書くことの意義を語る事と同義でもあるからだ。

BOOK1 P318
物語の役目は、大まかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、回答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には断たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。

デビューからしばらくはデタッチメントな文脈で自分の語りたい個人的な問題を一個の個人として自己表現の一環として書いていた彼は、この本では個人として社会とコミットした状態から社会の問題を「物語翻訳」して別の物語として提示している事になるのだろう。
彼は彼なりに物語を書く小説家の社会的な意義を見出して、それにのっとって小説を書くことで社会的にリアルにコミットしているという事になる。
この小説の根底に震災とオウム問題が流れている事を否定する人はあまりいないと思う。そういう意味でこの本は小説家村上春樹にとって今まで短編やノンフィクションで言及することで整理してきたオウム問題や震災に関するひとつの(物語的)回答なかもしれない。

村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』 の発表当時、今までは「デタッチメント」がテーマだったが、今は「コミットメント」に変わってきている旨の発言をしている。
デビューしてからしばらくの彼の「デタッチメント」な作品群に共感を覚える読者は「コミットメント」後の村上春樹を受け入れられないと良く言うけど、そもそもの物語る動機も目的も違うのであるから、違和感を抱いて当然と言えば当然かもしれない。
つまり、『ねじまき鳥クロニクル』 以降で村上春樹と上手く同調して「デタッチメント」から「コミットメント」にシフトできなかった読者は、そこで置き去りにされたような感覚を抱くのだ。

しかしこの物語は物語全体として見れば社会にコミットした文脈で語られる社会の問題についての物語でありながら、登場人物個人の単位で見れば、色々な物からデタッチすることでサバイバルしてきた青豆や天吾が世界や人にコミットする事を決意する過程を描く物語でもあった。
村上春樹自身にとって「デタッチメント」が「コミットメント」に変わる引き金がオウムや震災なのだとしたら、この小説は青豆や天吾の「デタッチメント」から「コミットメント」へのシフトを描くことで、色々な意味で彼が置き去りにしてきた「デタッチメント時代」の読者と、現在の「コミットメント時代」の読者の両方を統合するような試みもあるかもしれない。と思った。
でもまぁ、それも村上春樹を読んで来た読者に対する話で、この本で初めて彼の小説を読む人には関係のない話ではある。
村上春樹好きとしてこの『1Q84』を村上春樹をほとんど読まない人に薦めるかといえば、もっとほかに読むべき本はあると思う。
私のとってあらゆる意味での村上春樹の最高の物語が『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 であり、最高の小説が『風の歌を聴け』であるのは変わらないが、個人的には村上春樹の新作が読めるだけでそれはそれで満足というところはある。

と、村上春樹というだけでついつい興奮して長々と書きすぎた割に、面白そうなテーマは練りきれてないし掘り下げていないような気がする。また書き直すか新たにテーマを発展させてエントリを作るかもしれない。
とりあえず今日はこれまで。

2009年09月08日

●荻上チキ:『ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性』 / もう何書いても炎上すらしないブログへ

amazon ASIN:4480063919 荻上チキ『ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性』 を読んだ。ブログやBBSなどの「炎上」を代表とする、ネット上でよくありがちな現象をベースにネット特有の人間心理や行動パターン、そしてサイバースペース自体のあり方を、サブタイトルにあるように「ネット群集の暴走と可能性」として捉えた本である。

いつもブログを読んでいるひきこもりの人がこの本を絶賛するので読んでみたのだが、言われているほどめちゃくちゃ面白いとは思えなかった。 それでも刺激的ではあったし、こんがらがっていた物がスカッと見通せたような気になる、爽快感溢れる切れ味の良い本であった。

とはいっても、私がそう感じたのは恐らく今までちゃんと名づけられて来なかったけど、なんとなく知覚されていたいろいろな概念が単語として整理されたことによるような気がする。たとえば、ざっと上げると「サイバーカスケード」「確証バイアス」「セレクティブメモリ」「協調フィルタリング」「ハイパーリアリティ」などと言ったところか。
こういった単語を手がかりにネット群集の暴走と可能性をビシビシと切り分けてゆくのであるが、本自体の結論としては、
これまで起こってきた現象が、これからも形を変えて起こり続ける。
これまで起こってきた現象が、これからは形を変えて起こり続ける。
と、いたって無難そうに見える。
しかし、ネット上で起こる悪いことは、すべてネットから生まれてネットへと現象する、特殊で異常な環境と状況であるとするような論調が多い中、ネット上の現象は今まで起こってきたものがネットに上噴出しているに過ぎない、とすることは大きな意義があるように思える。
しかし、この著者である荻上チキって人が基本的にはネット上の人だということで、「ネットの人がネットのことを語ってる」と捉えられるかもしれないのがちょっと残念なような気がする。

関係者と内輪だけが理解できる憎しみと怒りで、全世界に公開した状態で罵倒と呪詛が飛び交うブログや日記サイトは、読んでいてなんとも微笑ましいが、これはこの本から言えば「炎上」とは呼ばない。ただの私怨による喧嘩に過ぎない。
第三者が祭り上げるだけの意義と価値があるブログへの、第三者の参戦があって初めて「炎上」となるのだ。

いつも読んでるだけでハラハラする、燃料十分で導火線まであっていつ炎上してもおかしくなさそうなブログが荒れることなく難を逃れているのは、結局そのブログを書いている本人が色々な意味で小さな存在で小さな火種でしかない上に、生暖かく見つめて華麗にスルーしてくれる読者のお陰である、という事実は嬉しいような悲しいような…である。
「何を書いても炎上すらしないブログ」というのは確かにある。
しかし、それは、いと小さき存在でしかない人間の儚さや脆さが愛おしさにもなると言う事を教えてくれる貴重な存在である。と思った。

2009年09月07日

●中島梓:コミュニケーション不全症候群 / 生き難い現代への適応の一つの形

amazon ASIN:4480031340  小説家としてのグイン・サーガの作者である栗本薫の評論を書く時のペンネームである中島梓名義で1991年に出版された『コミュニケーション不全症候群』 をずっと読みたかったのだがなぜか機会がなく、彼女の死去を機に読んでみた。
今で言う腐女子、つまりはヤオイだとかショタだとか(正確にはJUNE系というらしい)の文化の基礎を構築しただけでなく、自ら先頭に立って牽引し続けてきた著者によるこの本は思ったとおり中々に鬼気迫るものがあった。

タイトルである「コミュニケーション不全症候群」とは知り合いにはちゃんと接するのに、赤の他人にはまったく興味を示さないといった、知り合いでない他人を人間として知覚できなくなる知覚障害のことであるらしい。
これだけでは巷によくありがちな、これ以上精神病や神経症増やしてどうするねん的な「なんちゃら精神障害」や「なんちゃら神経障害」な話であるけど、この本ではそれをただ単に異常な状態としてとらえてそれに対する治癒を目標とするのではなく、著者自身がそうであるように、世界があまりにも生き辛いと感じる人々の現代に対する新しい適応の形だと前向きに捉えている所がとても良かった。
そしてそんな「コミュニケーション不全症候群」を発症した人々が、オタク的な閉じた自己や他人のイメージの中の幻想の中に生きようとするのだと。

この本は恋愛至上主義とも勝ち組至上主義とも相容れない閉じた世界とその中で生きることを決意した著者の自己肯定の叫びのように聞こえる。「他の人々を自分の存在の保証としてだけ見ることをやめなさい、と私は云いたい。」という言葉が、迷い悩む人々の背中を押すというよりも、階段から突き落とすくらいの勢いを持って言われているところがなんとも感動する。

この本の中で彼女は、社会を構成して動かす立場である大人でありながら、その社会を更新するのは役割としての子供であるというようなことを言っていた。そのような「オトナ子供」は現在「ひきこもり」に対する文脈で口にされる事が多い。
斎藤環も上山和樹も「ひきこもり」的な要素として、あまり親しくない人にも簡単に自分の内面をすべて見せてしまってすぐに傷ついてしまうメンタリティー。って事を言っていた。
栗本薫って人にもなんとなくそんな印象を受ける。あまりにも切羽詰ってあまりにも生々しい感情が作品を突き抜けて著者のものとして見えてくるように思う。
グインサーガのあとがきでもひたすら自分自身について語る様は、自身で「あとがき作家」というくらいに、冷静に考えればほかの作家にはありえない特徴である。

大病をして何かが吹っ切れた後の、作家だけでなくなった以降の栗本薫は世間的にほとんど無視されているように思える。私自身もまったく興味がなかったように、彼女の音楽活動だの演劇活動だのは正直内輪の自己満足的サークル活動のようにしか見えなかった。世間的に「暴走」と呼ばれるこれ以降の時期の彼女の電波ぶりは外から見てイタ過ぎて怖すぎたらしい。
私はグイン・サーガのあとがきの中の彼女しか知らないのでなんとなくしかわからないのだが、確かにそのイタさは当初より感じられた。グイン・サーガのあとがきの中で、読者から送られてきた登場人物へのバレンタインのチョコレートの数で盛上がっている作者の文章を読むにつけ、ちょっとついていけないものを感じてはいた。
なんというか、グイン・サーガに関しても、メジャーな商業ベースにありながら、批判を完全に無視して、ほとんど同人的な雰囲気で活動していたように見える。

栗本薫のオタク的内輪的世界とその外の世界という二分法で見てみれば、彼女は商業的にオタク世界だけで完結していたように見えるけど、実は『グイン・サーガ』で外貨を稼ぎ、その外貨をオタク的世界に流通させていたということになるのだろうか。
それでも、彼女は自分の閉じたオタク的世界を追求し続け、そのまま最後まで完走した、オタクにとってもっとも理想的な生涯を送った人ということになるだろう。彼女の生涯は同じ傾向性を持つ人にとって、大きな手本と救いとなるような気がする。
いや、でも、彼女の溢れる才能とエネルギーを考えれば、あまりにも特殊すぎてほとんど参考にはならないかもしれない。

しかし、この本のなかで、彼女はオタクとなるしかない「コミュニケーション不全症候群」への処方箋を書いて読者に提示している。
自分自身の問題としてオタクの生きる道を考えに考えて思いつめ、オタクでありながらオタクのままで世界を生き抜く術を説いた、著者のとても熱い思いが伝わってくる、オタクに勇気を与えるであろう評論であった。

2009年09月04日

●栗本薫 『ぼくらの時代』『ぼくらの気持ち』『ぼくらの世界』/ 若者の主張系ミステリ??

amazon ASIN:4062759330 amazon ASIN:B000J7WAUM amazon ASIN:4061840835 栗本薫の本ってのはグインサーガ以外読んだ事がないので、死去を機に色々と読んでみたのだが、その一番最初に読んだのが1978年に出版された江戸川乱歩賞を受賞したらしい『ぼくらの時代』 である。
私は本好きではあるが、ミステリってのはほとんど読まず、江戸川乱歩賞ということで硬派なミステリだと思ってずっと読み続けていたものの、最後の最後で若者の主張が飛び出してちょっとびっくりした。栗本薫は当時24歳だったらしい。大人vs若者の構図で世の中を眺める見方はちょっとノスタルジックであったけど、何かしら読むものの心を打つものがあった。ってこれはミステリなのか?
登場人物の一人による単独ストーリーが別にあるらしいけど、「ぼくら」シリーズは一応三部作ということになっているらしく、その続編にあたる1979年の『ぼくらの気持ち』 も乗りかかった船ということで読んでみた。
なんというか展開の無理矢理さにミステリとしてどうなんかな?という疑問を偉そうに抱いたのだが、さらにその続編である1984年の『ぼくらの世界』はなかなかに面白かった。

表紙の三人が徐々に年を取っていくように、基本的に「ぼくらシリーズ」の「ぼくら」ってのは主人公とその仲の良い友人二人を合わせた三人の話である。
『ぼくらの時代』 では三人が大学生の時代の話であり、『ぼくらの気持ち』 では一人がサラリーマンとして働き始めたくらいの三人が大学を卒業した直後の、三人が社会での位置を模索し始めたくらいの話、『ぼくらの気持ち』 ではそのサラリーマンの一人が結婚しようとするくらいの、三人が社会での方向性を固定し始めようとした時代の物語となっている。

登場人物である「栗本薫」は著者自身の分身として著者自身の言葉を代弁しているのだろう。
三部作の最期でミステリ作家として歩み始めた「栗本薫」が「大人社会の論理」と「コドモ世界の価値」を明確に対立するものとして、「大人社会の論理」を選択して自分から離れてゆくように見える友人二人をよそに、「コドモ世界の価値」を追求することを心に決める。
そのあたりは既に著者の『コミュニケーション不全症候群 』を読んでいたがゆえに、すっと心に染み入ったような気がする。
確かに、栗本薫らしいといえば栗本薫らしい本であった。

2009年08月29日

●本を読む事 / ユリシーズを読み始めた。

この夏は遊び呆けていてまったく本を読んでいなかったのだが、最近再び本読み期間に突入。読みに読みまくっている。
最近思うのだが、本を読むってのは自分の中にある何ものかが言語化されているのを発見し、確認する作業なのではないだろうか?
本でいろいろなものに触れるということは、本の中から何かしらを吸収的に得るというよりも、自己を再認識する作業なのではないかと。
ある種の本が、何度読んでも読むたびに新しい発見と学びがあるというのは、つまるところ読むたびに更新された自己が反映されているということなのではないか。私が定期的に『カラ兄』を読んでいる意義はまさにその部分にあるように思う。

amazon ASIN:4309202829 amazon ASIN:4309202888 で、最近はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を読み始めた。これこそ原文で読まないと意味のなさそうな本やけど、気にせず翻訳で。
同じくジョイスの『フィネガンズ・ウェイク 』を訳して日本翻訳文化賞を受賞した柳瀬尚紀訳のもの をとりあえず6章まで読んだのだが、18章あるうちの12章以外の7から18章がまだ刊行されていない事に気付いた。7章からはどうしたものか、とりあえず別の訳のものを読むかな…

とはいっても、日本語で読むならもうどれでも同じような気がする。
amazon ASIN:4087610047 とりあえず、出版されているものとしては、「集英社文庫ヘリテージシリーズ」のこいつ しかないのかな。

2009年08月28日

●斎藤環 『生き延びるためのラカン』 / 有効的な枠組みとしてのラカン / ラカン漫談

amazon ASIN:4862380069 以前読んだ『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 の著者である斎藤環の『生き延びるためのラカン』 を読んだ。
ラカンってのは精神の分野に無理やり数学やら図を持ち込んで、数学者からトンデモ扱いされた、フロイト系の思想化扱いされている心理学者で、なに言っているのかは知らんけど、ちょっと胡散臭い気がする。程度の殆ど何も知っていないに近い知識とイメージしかなかった状態で読み始めた。

この本の紹介として、
「心の闇」を詮索するヒマがあったらラカンを読め! そうすれば世界の見方が変わってくる。幻想と現実が紙一重のこの世界で、できるだけリアルに生き延びるための、ラカン解説書にして精神分析入門。
とあり、いつも読んでいるひきこもり(というよりニートか?)の人のブログにあったのを見てなんとなく読みたくなった。
思想や何かしらの学説の入門書は知的好奇心に応えたり純粋に初学者向けの方向性を目指したものが殆どであるけど、何かしらの思想を現実的な精神的サバイバルの手段として捕らえている入門書ってところがなんとなくツボに入った。
多分「ラカン」というよりは「生き延びるための」って所のみに反応したのかもしれない。

始終真面目なトーンだった 『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 に引き換え、ほぼその十年後に書かれたこの本は、最初から最後まで殆ど口語に近い口調で貫かれ、数時間で一気に読み通せたくらいに、文章としてはとても読みやすく面白かった。「日本一わかりやすいラカン入門」を目指したというのもうなづける。
ただ、全般的に「ラカンの言っていること」というよりも「著者の理解するラカン」が説明されているのじゃないかという気がしたし、まぁ厳密に言えばラカン以外にラカンについては語れないことになるけど、この本はラカンについて語るというよりは、ラカンをだしにして自分の言いたいことを言い放ってしまっているような印象を受けた。結局この著者を気に入るか気に入らないかでこの本の評価が分かれるような気がする。ふざけていると思えば否定的に見えるだろうし、面白い人やなぁと思えば楽しく読める。

最初に述べたように、今までラカンといえば実際には何の役にも立たない自己完結した胡散臭いトンデモ思想家に近い存在のように、殆ど偏見を持って考えていた。
しかし、シンクロニシティ的なものをユングのように意味論で捉えるのではなく、ラカンのように象徴界を介した転移として捉えれば技法論として有効になる。
って所に代表されるように、臨床の現場では精神や心の動きを捉えて分析するにはこのラカンの考え方がとても有効であるとされているのにはちょっと驚いた。
なんか世間的にラカンてのはあまりにも難しくて訳がわからん過ぎて、悪意でもって無茶苦茶言われているのかなぁ。という気もしてきた。
いくら精神や心の動きを理解するのにラカンの思想が有効な枠組みであるとしても、タイトルにある「生き延びるための」というほどの強さは感じられなかった。
結局「生き延びる」ためのラカンは書かれていなかったように思うけど、まぁちょっと面白いオッサンのラカンをネタにしたちょっとした漫談を聞いたと思えばとても楽しい本であった。

2009年08月27日

●加藤 忠史 『双極性障害―躁うつ病への対処と治療』 / 知による救いの可能性/ 自分が機械である事は福音か

amazon ASIN:4480064656 現在、理化学研究所脳科学総合研究センターで脳科学系チームのリーダーやらディレクターを務める著者による、『 双極性障害―躁うつ病への対処と治療』 を読んだ。
いわゆる躁鬱病のことを最近では双極性障害と呼ぶらしく、うつ病や躁病とは根本的に違い、躁状態とうつ状態が一定期間で切り替わるもので、うつ状態での苦しさは勿論の事、躁状態でのあまりにもぶっ飛んだ問題行動が人間関係やら経済状態やらを破壊して社会生活が崩壊してしまうのが症状として一番問題であるらしい。
ただ本人は躁状態は自分の本来のあるべき姿で、うつ状態のみを病気としてとらえて病院にかかることが多いらしく、うつ病に対する薬を処方した結果、強烈な躁になってしまいさらに病状が悪化したり問題が起こったりするらしい。
気分が落ち込んでいる時に限ってちょっとした楽しい事が異様に楽しく感じられて妙なテンションまで上り詰めてしまうということが自分自身にもあるような気がするゆえか、不謹慎ではあるけど、ちょっと笑ってしまった。
この手の「心の病」な本を読んでいていつも思うのは、まるで自分の事が書いてあるようで辛過ぎる。というものなのだが、この本に関してはあまりそうは思わなかった。自分は躁鬱病的なところがあるなぁ。とは思っていたけど、躁鬱病的と双極性障害であることはまったく違う。多分誰でも「心の病」的な側面は持っているだろうし、まぁその程度のものだろうと思った。

そしてこの本はそんな双極性障害について、如何に対処して治療してゆくかという部分に主眼を置き、私から見ればやたらと具体的に詳しく、そしてクールに書いてある本であった。
単純に興味本位の私のような人間に向けた本ではなく、実際に双極性障害の渦中にある本人やその周りにいる人向けの本であるような印象を受けた。(まぁサブタイトルを見ればそうやねぇ…)

双極性障害なる病気だけでなく、あらゆる心の病はカウンセリングやとか精神分析やとかそっちの方面で治療するようなイメージをなんとなく持っていたのやけど、この本を読んでそのイメージがまったく変わった。
単純に私自身の知識不足であるのかもしれないけど、そういった種の心の病が、単純にホルモンバランスや脳の障害やら遺伝子に起因する問題で、薬やら電気やらをつかったいわば機械的な治療が主流であることにちょっとしたカルチャーショックを受けた。
双極性障害であるというのがどういう状態であり、どういう不具合が出るのかというのを説明したあとは、ひたすら具体的な薬の名前だの治療法だのを出してそれがどういう効果でどういう影響を及ぼすのか、またどういう人のどういう症状に有効が説明してある。
このあたりは、実際その双極性障害への対処が身近な問題であり、その薬と効能の知識が必要である人でなければちょっと退屈するかもしれないが、読んでいると「ああ人間ってとことんまで有機機械なんかなぁ」とっちょした感慨を感じた。

そして、本人の性格の問題やと思われがちこういった病気が、機械的な意味での肉体が原因になっているという事実は、周りだけでなく、患者自身の偏見をなくして治療を受けやすくするものであるに違いない。
こういった本を読んで病気の人の周りにいる人が、「あの人が陥って引き起こしている問題は、あの人自身の肉体的な病気のせいであり、あの人の性格的な問題ではない。」と思ったり、病気の渦中にいる病人が、「この私の状態は私の性格に問題があって、私の性格を直すことで治るんじゃなく、肉体的な治療で改善するのだ。病気は私のせいじゃない。」と思えることは良い事であるに違いないと思う。
こういった本を読んで、病気について知ることは、知識とか知恵とかが、ちょっとした救いの力になる具体的な一例であろうなと思った。

人間の心で起こる現象を機械的に物質的にロジックとして記述することは、健康な心を持つ人にとってはちょっとした違和感や嫌悪感を抱かせるような気がする。
しかし逆にこのような病気で苦しんでいる人にとってはちょっとした福音であるに違いない。
「自分が機械である事を肯定的に捉える」という方向の可能性を今まで想像もしたことがなかったけど、確かにそんなこともあり得ると納得すると、そういった「反心」的な感覚を心が抱き得る可能性に、逆に人間の心の超論理性や懐の広さや可能性の大きさを感じるのであった。

2009年08月25日

●斎藤環 『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 /ひきこもりよ、ひきこもり利権を利用しろ

amazon ASIN:4569603785 斎藤環著の『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 を読んだ。
ひきこもり事例に精神科医として長年向かってきた著者による、1998年に出版された本であり、本の前半でひきこもりとは何か、ひきこもりとは何が起こっているのか。に焦点があてられて述べられ、後半では実際にひきこもりをどう克服するのかについての主に家族に対する基本的な対処のスタンスが述べられている。

以前から私はひきこもり属性であると言っているが、私はこの本を過去形ではあるけどひきこもり当事者として読んだ。
最初読み始めてまるで自分のことが書いてあるようで読んでて辛くて辛くてしょうがなかったけど、そこを抜けると面白くなって一気に読み通した。
自分自身も当事者ながら、なんとなく「ひきこもり」は本人の個人の問題という印象を持っていたのだが、この本ではひきこもりを精神疾患として、「ひきこもっていること」それ自体が外傷体験になる、主に嗜癖やら人格障害の方面から環境も含めた総合的な問題としてとらえる方法論がとても新鮮だった。
10年以上前に書かれた本であり、この手の本としては古いのかもしれない。しかしながら根本的なところは何も変わっていないのだろう。

この本のサブタイトルに「終わらない思春期」とあるように、この本の言おうとする所は、「ひきこもり」の根本的な原因は自分と家族と社会の関係、つまりは他者との関係不全の問題になってくるようにおもう。
他者との関わり方に問題が起こり、ひきこもっていること自体がまた問題を助長させるという風なシステム的な悪循環が「ひきこもり」であるというわけである。
ゆえに「ひきこもり状態」を解消するには、本人だけの努力でも家族だけの努力でも不可能で、社会的な接点が不可欠である。ということになる。

私が私自身の経験を振り返って考えてみるに、過去の私がひきこもり的状況から脱したのは大学に合格して大学に通うようになったからである。何かしらの劇的な精神的な変化など皆無であった。
そして、今まで、私の中でこの経験は、状況や環境が変わったから何らかの改善が見られただけで、私の中にある根本原因が改善されないままである。とずっと捉えられていた。
私は今まで自分の中にあるはずである「ひきこもり因子」やら「根本的な人格的欠点」を見つけ出して解消すべく結構な努力を費やしてきたように思う。
しかしながら、私はこの本を読んで、特に自分自身に原因があったのではなかったのかもしれない。と思えるようになった。

この本を読むにつれ、自分がひきこもりのほんの初期の初期段階に過ぎなかったことを知った。私はずっと自分自身を、過去にひきこもり経験を持つ、ひきこもり属性を持つ、ひきこもりの味方であると捉えてきた。しかし、この本を読んで「お前なんかひきこもりじゃねーよ」と言われたような一抹の寂しさを感じた。
しかし私がここで踏みとどまっていられたのは、当時一緒に遊んでくれた友と、私と関わりのあった幾人かとの繋がりのおかげであると思う。また私が引きこもりに戻らずにここまで来れたのは、私といつも遊んでくれる友人たちと、私を愛してくれる人々、そして私を必要としてくれた社会のおかげでもである。
プチひきこもりであった事自体は私にとって苦しい事であったけど、そのプチひきこもり期間で得たものはとても大きい。と今なら自信を持って言い切れる。

この本いろいろな感想をネット上で読んでいて「ひきこもり利権」という言葉を読んで思わず笑ってしまった。
今時は過去にひきこもり経験を持つ現在成功している人物はそれだけで何かしらの価値が生まれる世の中である。「ひきこもり」がいつか大逆転できるような世の中が来るかもしれない。
「ひきこもり利権」をひきこもった事も無いのにひきこもりだと名乗るような「似非ひきこもり」に渡してはならない。
ひきこもりであった人が、ひきこもりであった事を利用して、或いはひきこもっている間に得た何物かを持ってひきこもりから脱してゆく事を願わずにはいられない。

2009年06月16日

●『抱くことば』『ソフトウェア開発の名著を読む』 / 向上心は煩悩か

amazon ASIN:487257740X amazon ASIN:4774128511 グインサーガ127巻 を読んだ。
ダライ・ラマ14世の『抱くことば』 を読んだ。
技術SE新書、柴田芳樹の『ソフトウェア開発の名著を読む』 を読んだ。
寝る前読書として新潮文庫の『カラ兄』を読み始めた。
そして、なんとなく、今更ながらJAVAの勉強を始めた。

一日のうちで自分の自由になる時間と言うのはとても限られている。
雑多にあるやりたい事をその限られた時間に割り振るには、やりたい事の量は多すぎ、そのための時間は少なすぎる。
やりたい事、知りたい事、身につけたい事などいくらでもある。
これを向上心と捉えるか、煩悩と捉えるか、欲望でしかないとみなすかは紙一重であるような気がする。
下がりそうになる機首を上げるために腕が捥げそうになりながら必死で操縦桿を引く毎日であるが、もういっそ射出座席ごと飛び出したいような気もするのであった。

グインサーガ127巻 :読み進めるたびに、どんどん深まってゆく謎が解明される事は無いのだろうと思うととても残念である。スカールとヨナ、イシュトヴァーン父子、グインとケイロニア、ミロク教と中原、そしてリンダとパロの運命や如何にである。

ダライ・ラマ14世 『抱くことば』 :さまざまなインタビューからの抜粋されたダライ・ラマ14世のことばと写真から構成された本。
本屋さんで立ち読みしていて「私たちの苦しみの多くは、私たちが考えすぎることに由来します」という一文を読んで購入を決意した。

技術SE新書、柴田芳樹 『ソフトウェア開発の名著を読む』 :ソフトウェア開発に関する名著と呼ばれる書籍の紹介である。
これをよんでちゃんとした技術書を読み込む習慣をつけんといかんなぁ。と思った。

2009年06月11日

●「カラ兄スイッチ」が入る / ミニチュア・リアルとしてのカラ兄

amazon ASIN:4102010106 ここしばらくずっと本を読んでなかったけど、以前に買って積読状態になっていた新潮文庫の原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』を読みはじめた。
米川正夫訳は何度も、亀山郁夫訳はこの間一度読んだ事あるけど、原卓也訳は始めてである。

冒頭の文章を読んで、ドストエフスキーがその死によって未完のままこの本を終わらせる事によって語ることがなかった、アリョーシャに訪れるはずであった「悲劇的な謎の死」に思いを馳せる。彼にいったい何があったのだろう。
ゾシマ長老の死が決して美しいものではなかったように、アリョーシャの死も悲劇的で謎でしかなかったのだろうか。

思えば私は未完で終わるものに惹かれるような気がする。栗本薫の死によってグイン・サーガも未完で終わってしまった。結局「豹頭王の花嫁」を読む事が出来なかったのはとても残念である。物心ついたころからずっと読み続けてきたグイン・サーガの唐突な完結について思う事はいくらでもある。まだその事実を受け止め切れていないところがあるけど、また、いずれここで書いてみたい。

ふと頭の中で『カラ兄』が読みたくなる瞬間がある。「カラ兄スイッチ」としか言えないものが頭の中で入る瞬間がある。
或いはなにかしらの逃避なのかもしれない。しかし、それでも現実の世界に比べて『カラ兄』の世界が美しかったり素晴らしかったりするわけでは決してない。カラ兄の世界は現実同様、或いは現実以上に醜く混沌と矛盾した世界である。しかしそれでも『カラ兄』の中の美しい点は気の遠くなるほど美しいと思う。

結局カラ兄の素晴らしさはここにあるのだろう。醜く混沌で矛盾に満ちた世界から気の遠くなるほどに美しいものが生まれる実感。あるいは希望と言っても良いかもしれない。
カラ兄的世界からカラ兄的美が生まれるのなら、こんな世の中からでも、こんな世界からでも同じような事が起こるかもしれない。たぶん私はそう思いたいのだろう。

とは言っても、何かを求めて、いや、答えを求めて本を読むのは単純なスケベ根性である。
更に、頭の中で考えられて自分の言葉として述べられるさまざまな考え方や結論は、自分自身のあり方とは全く無関係である。
頭に中にある事は今私の中にあるだけの事で、私自身を表しているわけではない。
私自身が私自身として示し、人から私として捉えられるのは、生活の中、習慣の中で行動する私だけである。
とカラ兄を読もうとする自分自身に言い聞かせておこう。

2009年06月08日

●『聖女ヒルデガルトの生涯』 ゴットフリート修道士

amazon ASIN:4752101068 この本はヒルデガルドと同時代のゴットフリート修道士が書いたヒルデガルドの伝記的な『生涯』と呼ばれる本の翻訳であるけど、その『生涯』だけでは文章としての量はそんなに多くないので、それに加える形で訳者がヒルデガルドについて書いた文章と合わる形で構成されている。
1147年にヒルデガルドの幻視が文章として表現された『道を知れ』が教皇のお墨付きを受けて公表を許可されたことにより、一躍有名人となったヒルデガルド自身に興味が向いたのは当然の流れであろうし、そんな要求とそれに答える使命感から書かれた本であろうと推測される。

発行は1998年であるけど、オリジナルはヒルデガルドがまだ生きていた1173年から執筆されたものであり、後の人々がさまざまな資料から研究、再構築したヒルデガルド像ではなく、当時のヒルデガルドを直に知っている人たちが書いているというところが現代にとってのこの本のポイントであろう。
この『生涯』がヒルデガルドと同時代に書かれたものだということで、ヒルデガルド研究の一次資料的な意味合いを持つ書物であろうけど、『生涯』自体を読み物として扱えば、先に読んだ『ビンゲンのヒルデガルト―中世女性神秘家の生涯と思想』の方が面白く読めると思う。

ヒルデガルドが幻視を見て、彼女がそれを世界に語らないで自分の中で留めていると神が彼女に痛みを与えて世に公表するように要求した。というのはヒルデガルドとその幻視について語る上での重要な要素のひとつであろうけど、この『生涯』はその「痛み」がどれだけ強烈でつらいもので、どれだけ長期にわたってヒルデガルドの全生涯にわたって影響を与え続けたかについてやたらと書かれていたような印象を受けた。
この本が書かれたヒルデガルドの時代の神は、新約聖書的な優しい父ではない旧約聖書的な怖い神であり、いわゆる敬虔だけでない畏怖も感覚も強い「ヌミノーゼ」な神であったのがわかるような気がする。

ヒルデガルドに関する本を二冊読んだのでもう予備知識はありということで、次はヒルデガルド自身の手による『道を知れ』を読もう。

2009年04月06日

●新谷 かおる 『エリア88』

amazon ASIN:4840109028 amazon ASIN:4840109362 エリア88を全巻読み終わった。
もう古典ともいうべきなあまりにも有名な漫画で、外人部隊に所属する戦闘機乗りの傭兵の話、という予備知識のみで読み始め、当初は単純に戦闘機がドッグファイトするだけの話しかと思っていた。
しかし、植民地化からの独立した教育程度の低い国家の悩みや統治の難しさ、軍需産業を傘下に収める巨大企業による原油産出国の乗っ取りだの、外資による日本企業買収に対する防衛だの、国際政治や戦争やら経済がらみなどの渋い話もとても多かった。

当初は中東の王国の内戦の為に傭兵として戦争をしていたはずが、物語の終盤では「プロジェクト4」なる世界を股にかけた巨悪と戦うことになるのだが、エリア88の兵士達が直接的に戦争するだけで無く、シンの恋人とその友人たちも巨大企業として社会的に政治や経済の方面で圧力を掛けて戦っているところがとても熱かった。
戦闘機同士の対決から、傭兵たちの悲哀、そして国際政治や経済や戦争の問題まで、子供からおっさんまで楽しめる懐の深い本であった。

良い本の条件として、読後に自分の悩みや恨み辛みがあまりにもちっぽけに感じる爽快感。てなものがあると個人的に思っているのだが、この本の読後感もまさしくそんな感じだった。
しかし、ラストは予想以上に強烈で辛いものがあった。

私と同じくらいの年代の人は恐らく中学くらいでこの漫画を読んだことになると思うけど、もう一度読んでみると又違った感動があるはずである。
全国の傭兵諸君、傭兵としての誇りを持とうではないか。


いきつく先は
炎の地獄か血の海か…

高度計の針は
弱く震える…
ここはエリア88…


2009年03月25日

●『ビンゲンのヒルデガルト―中世女性神秘家の生涯と思想』

amazon ASIN:476426630X 先日、中世音楽アンサンブルのセクエンツィアが唄う「エクスタシーの歌~ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの世界」なるCDを買ってから、その作曲作詞者であるヒルデガルト・フォン・ビンゲンなる人物に興味を持ったので、この人物に関する『ビンゲンのヒルデガルト―中世女性神秘家の生涯と思想』なる解説書(或いは研究書)を読んだ。

私が始めてビンゲンのヒルデガルドを知ったのはCD屋さんであるがゆえに、私は彼女を音楽家として捉えていた。しかし、一般的に彼女は生きていた当時から今まで、預言者に近い「幻視者」としてみなされているようである。
何千年にも及ぶカトリックの歴史の中で、先駆者も後継者もいないと言われる、全く特異な突然変異のごとき存在であるヒルデガルドがどういった生活を送り、何をなし、何を言っていたのかについて解説された本である。

著者のH.シッペルゲスなる人は、哲学の博士号も持っているけど、本業は神経科と精神医学の専門医である。
本の内容の大筋はカトリック的な教義と照らし合わせた上での話しになるけど、神学者でしかなかったり、哲学者でしかない人が、こういった事について述べるのではなく、医者の立場として「癒し」について述べる視点が面白かった。

彼女が幻視としてヴィジョンを見てそれを預言だとするのは、その現象をだけとって見れば神秘主義的というかグノーシス的な印象を受ける。
しかし、そのヴィジョンの内容自体は異端とされるどころか当時から今に至るまで伝統的で正当な教義に則っているとされているのがびっくりである。
大抵こういった人は、現実から乖離しすぎて異端扱いされてえらい目にあうのが常であるが、若くして修道院に入った彼女は修道院長として現実的に手腕を発揮する実務タイプの人であった。
彼女は色々な人と、教皇や皇帝とまで手紙のやり取りをして尊敬を集めていたようであるけど、それは彼女の幻視者=預言者としてのおかげも多々あるように思う。
当時、女性は学問的な領域から完全に閉め出されており、思想家として神学的な方向性の議論や意見を述べることが出来たのは男性しか出来無かったはずである。
しかし彼女の神学的な見解や意見が重要視されて神学的な議論や検討の壇上に上がっていたのは、彼女が思想家ではなく幻視者であったからだと言うのは面白い。
そして幻視者であるがゆえに思想家や著述家ではたどり着けない、現実的な影響力を発揮できる高みに立っていた事実は、よりいっそう彼女の実務の手腕を高めていたのだろう。

彼女の言葉はとても激しく、神聖ローマ皇帝のバルバロッサに、彼の教会分裂に関する政策に関して、彼を非難して罵倒するような手紙を送りつけ、彼が態度を変えないのを確認すると「もしも生き長らえるおつもりならば。さもなくば私の剣が刺し貫くでしょう!」という内容の手紙を送りつける。
結果的にバルバロッサは破門された教皇アレクサンデル1世と和解して、彼女の意見したとおりの行動をとったことになるけど、今ではこれと同じ内容の文章をネット上に書いただけでも殺人予告として逮捕されるくらいの過激さである。
彼女は年老いてから説教旅行の旅に出るほどに、現実的な発言力と力と名声を持っており、現実的な助言や行動をとても精力的に行った人であった。
そんな彼女が同時に幻視者であり預言者でもあったと言うのはとても不思議である。全く正反対の両極にあまりにも突出した個性は、確かに「先駆者も後継者もいない」といわれるほどの強烈な個性である。

しかし、彼女が「先駆者も後継者もいない」とされるのは、彼女の唯の個性ではなく彼女の語る「幻視」としての神学的な思想によるものである。
彼女は「幻視」やヴィジョンとして神と世界の真理を、宗教的な根底に関する教義を、手紙やその著作の中で述べるわけであるけど、彼女の思想の一番の大きな特徴は、物質的な属性の重視と、それに伴った性的なイメージの重用である。
物質は忌むべきものではなく、精神による創造の対象たる素晴らしいものであるとみなされている。
物質や性的なヴィジョンを重視する宗教は原始宗教には沢山あるけど、一般的には物質と肉体よりも精神を重視する方向性を持っていると思われるキリスト教思想として、キリストの受肉、三位一体、アダムとイブから最後の日の救済、神の計画などありとあらゆるカトリック的語彙が、物質的でリアルな世界で展開されるのはかなりびっくりした。
物質を創造の対象として捉え、精神が自らの肉体を創造することで救いがもたらされるとする考え方はあまりも具体的で明確である。
こういった方向性を持ち始めて異端に流れてしまった人は数多いし、そういった胡散臭い「スピリチュアル」と一口で言ってしまえるようなものは多分とても簡単で安易な方向性なのだろう。
しかし彼女がそういった己の真理を私が発見したものとして予め言うのではなく、言葉を預かる預言者としてカトリックの教義と伝統を強化しようという意図で述べているのが、この本の著者の言うようにとても感動的な部分である。
これだけのことを言いながらも異端審問に問われることもなく危なげなしに宗教者の道を歩む様は見ていて惚れ惚れする。彼女からすれば、マイスター・エックハルトなんかとても危なっかしいくらいである。

彼女の捉える「自然」観は神の創造と救済の計画の成就する意味自体の存する場であり、彼女が12世紀当時に既に予言していた環境破壊に関する批判もこの方向性で神に対する冒涜としての文脈で行われる。
彼女の言う自然の価値と、それを根拠にした自然を守る意義の重要性からすれば、今時のエコロジーはいかに闇雲で無批判で無目的で無自覚に見えるだろうか。

彼女の「賢くあると言うことは、すべての生の訴えにさいして理性的であるということだ」という言葉は、欲望も理性も悪く言わず、欲望を抑圧するでなく欲望のままに生きるでもなく、理性だけでもなく理性なしでもない、誰でもが最も良いだろうと考える生活と生き方のスタンスについての、多分今まで聞いた中でもっとも絶妙な表現であるように思う。
とは言え「賢く」あろうとすることはやがて「可能な限り賢くあろうとする事」になってやっぱりいずれ極端に走るものでもある。
しかし彼女は「この宇宙全体の核心は愛であって、愛を正しく把握しようとするものは、高みにも広さの彼方にも行ってはならない。愛は常にその中心にあるのではないか。」と言うように、そこでも自分のいるべき場所をちゃんと指し示してくれているのである。

環境問題から経済問題、そして「神は死んだ」まで、現代に山積みになっている問題はとても多いけど、彼女の語る特異であるけどとても健康的に感じる思想はそれらの問題にちょっとした面白い視点で光を投げかけるように思える。
どちらかと言えばマイナーな人であるけど、幻視者としての創造と癒しの思想家として、ビンゲンのヒルデガルドがブレイクする日が来るかもしれない。

読んでて、なんか、ニーチェって本当はこういうことが言いたかったんじゃないかという気がした。

2009年03月08日

●フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 / SF教養小説

amazon ASIN:4150102295 SF読み幼年期と言うことで、次はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだ。
この本は以前に観たカルト的人気を誇る映画「ブレードランナー」の原作であるけど、大まかなストーリーと設定だけが同じで内容は全く別物であった。

人間たちの火星移住がほぼ完了した世界大戦後、荒廃しきった地球では生きた本物の動物を飼うことがステータスとなっていた。
機械の「電気羊」を飼いながらも、生き物を買って飼育するのに憧れる主人公は、高価な動物を購入するための資金を稼ぐために、奴隷として働いていた火星から逃げ込んできた人間のアンドロイドを処理する仕事を請け負う。
「ブレードランナー」の街のような未来像がディストピアという言葉で表現されることが多いけど、この小説の中の街は「ブレードランナー」のようなゴミゴミしながらも活気にあふれるような世界では全く無い、
無機物のゴミにまみれた殆ど人のいない、何もかもが死に絶えたような無機的な荒野のような世界で物語は進んでゆく。

虫であれ蜘蛛であれ生きている本当の生物であれば法によって厳重にその命を守られる社会の中で、人間と同じ見た目の同じ感情を持つ(ように見える)アンドロイドは何の躊躇も無く破棄されるわけで、アンドロイドの命よりも蜘蛛の命の方が比べようの無いくらいの重い世界を描くことで、そのあたりの人間とか命とかいった問題があぶりだされてくる。
アンドロイドと人間の区別をつけることが殆ど不可能であるにもかかわらず、その二つの間の存在価値は全く違うわけであり、そのテーマは結局、人間をアンドロイドだと思ったり、アンドロイドを人間だと思ったり、その違いが全く分らなくなって自分自身をすらアンドロイドではないかと一瞬疑ってしまう主人公を悩ますことになるテーマともなってくる。
更にはアンドロイドであることが判明した人物の方が自分にとって意味のある人物であることが多くなってくるに及び、彼は根本的な価値転換を迫られるのである。
こういったテーマはどちらかと言うと純文学的なテーマであるけど、SFという土壌で特殊な設定であるからこそただの思考実験で終わらずに生きてくるように思う。

歩く生きた蜘蛛を見つけてすごい感動を抱く男がいたり、主人公が自分の足元を生きたトカゲや虫が駆け抜けてゆくのを発見するといった幸せを一生のうちに一度でも体験できるのだろうかと夢見たりするシーンを美しく思った。
特徴的なタイトルのこの本はパロディ的なタイトルが量産されるほどに有名であるけど、SFとしてではなく純文学としても読めるなぁと思った。
アンドロイドを狩る賞金稼ぎの物語といかにもSF風な設定にもかかわらず、彼の精神的な成長と価値転換と世界との和解を描く純文学的な教養小説でもあった。乱暴に言ってしまうと構造としては夏目漱石の『三四郎』と同じである。
ほんまに純文学とかSFとかの垣根ってのは、SFと純文学の両方の読者の立場からすれば邪魔になることが多いなぁと思った。

2009年03月07日

●アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』 / 私はまだSF読み幼年期? /UFO党の言いたいことが分った

amazon ASIN:4150103410 SF史上の傑作として名高いアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』を読んだ。SF界に燦然と輝く傑作だと言われるだけあって文句なしに面白かった。
人類の進化と滅亡について書かれたこの作品は、映画やSFだけでなく純文学やなどを含む、後のさまざまなジャンルのさまざまな作品に抜きがたい強烈な影響を与えた作品であるらしい。
色々な出版社から色々な版が出ているが、私が読んだのはハヤカワ文庫のものであった。
最近はかの「光文社古典新訳文庫」からも新訳が出ているらしい。

アメリカとロシアの宇宙開発競争が頂点に達し、いよいよ人類が宇宙に飛び出そうかという瞬間、突如として地球上の大都市の上空に宇宙船が現れる。
彼らは何をするわけでもなく殆ど地球に干渉せずに浮かんでいるだけにもかかわらず、すべての面で地球人を上回る超科学を持った彼らを前にして、地球は急速に変わり始める。
50年が過ぎ、国境と貧困と宗教と戦争が消えてユートピアとして生まれ変わった地球の前に始めて彼らが降り立ち、地球のユートピア化は急激に進み始める。
一方、生活の保障がされている中、芸術を愛する人々は一つの島に集まって独自のコミュニティの中で共同生活とを営むが、彼らの中で大きな異変が起こり始める。
そしてそんな中宇宙から来た彼らの本当の目的が徐々に明らかにされる。と言う感じのストーリである。

ハーラン・エリスン、ロバート・A・ハインライン、ジェイムズ・P・ホーガンと読んで次にアーサー・C・クラークのこのあまりに有名『幼年期の終り』を読み始めてやっとSF読み幼年期といったところだろう。
次はフィリップ・K・ディックだな。

このアーサー・C・クラークが原作であるキューブリックの「2001年宇宙の旅」にスターチャイルドってのが出てきたけど、なるほどこの小説を読めば、それがなんであったのかが良く分った。
この人は過去の色々な歴史の流れを踏まえた上で、人間の種として進化とか、地球の行く末とかをSFを通して考えたり提示したりする人なのだろう。

科学的考証と前提に基づいてストーリーが展開してゆくのに、突然非科学的な部分がストーリーのポイントとして割り込んでくるのがとても面白かった。
合理的物質世界を極めた彼ら宇宙人と、その全く逆を行こうとする地球人の対比が面白かった。

昔、UFO党なる政党が地球人では地球を浴することは出来ないから、宇宙人に何とかしてもらおう。ってな事を言っていて(ような気がする)そのあまりに突飛な発想に大笑いした記憶があるのだが、この小説を読んでみると、今になってUFO党の彼らの言わんとすることが大変よく分った。
地球人に望みを失い、宇宙人に救いの手を差し伸べるというのは絶望の一つの形であったのだろう。
なるほど彼らの絶望の深さと、彼らの考え方にもちょっとだけシンパシーを抱いたのであった。
リンク:UFO党政見放送

2009年02月27日

●ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』

amazon ASIN:448866301X  しばらく私の本読みテーマは「SFを読もう」と言うことでSF界の名作であるジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』を読んだ。
ハードSFなる分類に入る硬派なSFという前知識で読んだけど面白くて二晩で読了した。

月面調査隊が月の洞窟内で赤い宇宙服を着た人間の死体を発見する。
科学者たちによる分析の結果、その死体は5万年前のものであることが分り、彼が身につけているものも現代の科学ではとても理解できないようなものばかりだった。
その死体と超文明の残骸を発見を切欠にあらゆる分野から集まった科学者たちは総力を結集して次々と現れる謎に挑んでゆくと言う感じのストーリーである。

戦闘シーンも恋愛描写も無く、ひたすら科学者たちが謎に向かって研究を進めて邁進して行く様が延々と描かれ、最期に「あっ」と言う驚愕の事実が姿を現すという心憎い作りである。

戦争があったり恋愛があったり友情があったりするような状況的なストーリーの展開ではなく、どんどん謎が明かされてゆく部分だけでストーリを展開してゆくのにびっくりした。
SFと言えどもぜんぜんスターウォーズ的ではなく、ひたすら謎を解いてゆくような作りであり、そのあたりがハードSFなる所以なのであろう。
映画でいうならアクションと言うよりはミステリーかドキュメンタリーであった。

科学者たちの必死の研究を描くような、綿密な下調べと知識と構成で論理的な破綻や矛盾の無いきっちりした設定と描きこみが素晴らしいのはもちろんであるけど、完全な想像の世界であるはずの描写がとても良かった。
私は基本的に宇宙好きではないけど、月面から崩壊する母星を眺めるシーンの美しさはなんとも言えないものがあった。
ハードSFとしての綿密な作りこみと設定だけでなく、そういった詩的というか文学的な雰囲気が多分に含まれているところがこの本が不朽の名作となった所以であろうと思った。

2009年02月20日

●ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』

amazon ASIN:4150103453 先日『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読んでSFが読みたくなったので、SFの名作に必ず名があがってくるロバート・A・ハインラインの『夏への扉』を読んだ。
1957年に出版されたこの本は、ガンダムのモビルスーツの概念の原型で、スターシップ・トゥルーパーズの原作であるハードなイメージのあるSF『宇宙の戦士』を書いた作者の柔らかい目の物語であり、「猫SF」や「猫小説」の代表作でもあるらしい。

友人や恋人に裏切られて失意の底にあったエンジニアで発明家の主人公は、莫大な費用を払って未来に目覚めるべくコールドスリープに入いろうとする。
という感じで物語が始まる。

1957年当時、あまり一般的では無かったようなタイムパラドックスやコールドスリープ、家事ロボットのロジックとその記憶媒体などの概念は、それだけで本の面白さにとって大きな要素だったと思われる。
今となってはSFでなくても当たり前のように本や漫画や映画やゲームに出てくる概念が、陳腐化したり古臭く感じないというだけで凄いのかもしれないが、そういった概念や小道具が新鮮に感じられない分、物語としてはSFの範疇に入るライトノベルのような印象を受けた。
SF入門書というよりも、いったん読み出せばストーリーと展開でどんどん読者をドライブしてゆくような、中高生向けの本読みの楽しさを覚えるための「本読み入門」という感じであろうか。
1957年当時のこの本の中での現在である1970年、そして未来である2001年が、過去となってしまった今から見ても余りにも輝かしい未来に見える。
出てくる人も良い人ばかりでこの年のひねくれたオッサンにはちょっと眩し過ぎた。
ユートピア的な未来像を持ったSFの代表ということでいいのだろうか。
というよりも、なぜSFといえばハードなものだと思い込んでいたのだろうと不思議に思った。

2009年02月17日

●世界の中心で愛を叫んだけもの / SF開眼?

amazon ASIN:4150103305 先日ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』を読んで、家に読まれずに転がっている短編集を読んでみようと言う気になったので、大学生だったころから友人に借りっぱなしの形になっている、SF界で有名なハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読んだ。
短編集の割には400ページ超のなかなかに分量のある本だった。

日本語訳が1979年に出たこの本は、オリジナルが1971年にアメリカで出版され、この本の中に入っている短編の多くはヒューゴ賞やネビュラ賞などのSFの文学賞を数多く受賞している。
背表紙の本の内容説明には「ウルトラ・ヴァイオレンス」とか書いてあるけど、1971年当時はともかく現代の小説や映画や漫画に比べれば、とくに強烈な暴力描写があるようには思えなかった。
この本が殆ど40年近く前に書かれたにもかかわらず、この本の中に描かれている未来世界やその内容、何よりも本自体が全く陳腐化していないのは凄い事だと思う。

著者のハーラン・エリスンなる人物はユダヤ人家庭で生まれた札付きの不良少年として青年期までを過ごし、SF小説だけでなく編集者・批評家、テレビや映画の脚本家など、それらの世界でも才能を発揮している、SF界ではなかなかにカリスマ的な人気を持つようである。
著者はこの本の「まえがき」で著者は自作のこの本について、社会や神や政府が我々を守ってくれるという幻想が根本的に崩壊する確実に訪れるであろう我々の世界の未来の形を、貧者や虐げられた人に対して書いた。というような意味のことを書いている。
話半分に聞いたほうが良さそうなこんな大層な物言いにちょと驚きつつも、基本的には未来の話であるSFのひとつの捉え方にはっとしたような気がする。

読み始めてすぐに全く説明なしに一般名詞のような扱いでSF的な専門用語がぼんぼん飛び出すのにびっくりしたけど、慣れればたしかにそのほうがスピード感は感じる。
全体的に下層階級の人間が体制とか社会に押しつぶされそうになって、そのまま押しつぶされたり、一矢報いたり、成長して大きな力を得たりする物語であるけど、武装した車同士のハイウェイでの決闘、全人類の意識を監視して暴力衝動をなだめて未然に戦争を防いで600年間の平和を築いてきた存在、全宇宙的な支配者となって宇宙の平和を目指す惑星征服を請け負う傭兵、などなど単純に面白いだけでなく、特殊な設定にしたからこそ深くテーマに迫っているところもあるだろう。
乱暴に言ってしまえば、この本は暴力的なシステムに翻弄されるやくざなチンピラの暴力衝動と、やくざなチンピラによる暴力による世直しの物語に集約されるかもしれない。
国家なり政府なりを解体しようとする方向性を持った思想がひとつのムーブメントであるような風潮があった当時、その解体や解体後をテーマはその時代に沿ったテーマだったのだろう。
当時この本は実験的で風刺的なものだとされていたようであるけど、特にそのようには感じなかったし、どこが風刺的でどこが実験的なのかよく分らなかった。当時風刺されたものは現代にとっても根源的な問題であり続け、当時実験的だった手法は今となれば小説作法のひとつとして一般的になっているということなのかもしれない。
そういう意味でこの本は「エヴァンゲリオン」の最終話や「セカチュー」などで「タイトルだけの引用」をされることがなくても、SFの古典として生き残っていたに違いない。
高校くらいから殆どSFを読まなくなったけど、純粋に物語として面白かったし、とても刺激的だった。

それからちょっと不思議だったのが、初版が1979年に出たこの本に出てくるフレーズとか話の持って行き方がとても村上春樹っぽく感じたところである。
村上春樹とSFが関係が深いという話は聞いたことがないので、気になってネットでちょっと調べてみたら、村上春樹はそれなりにSFをたくさん読んでいるらしいという情報を見つけけて興味深かった。

こんな本が沢山埋もれているならSFももっと読まねば!と思った。とりあえず古典と呼ばれるSFを順番に読んでゆこうと決心したのであった。

2009年02月12日

●ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』 / 短編集であるが故の構成

amazon ASIN:4102142118 「寝る前読書」でジュンパ・ラヒリのデビュー作の短編集『停電の夜に』を読んだ。
元は1999年にアメリカで出版され、それが2000年に「新潮クレストブック」として出たものであるが、私が読んだのはそれが文庫化されたものである。
この中に入っている『病気の通訳』で1999年にオー・ヘンリー賞、『停電の夜に』でヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞、ピューリッツァー賞などの文学賞をとって一躍有名になり、インドはもとよりアメリカでとても評価が高いようだ。

JhumpaLahiri00.jpg著者のジュンパ・ラヒリは、両親がカルカッタ出身のベンガル人で、アメリカで育ちの、文筆家と言うよりはインド映画の女優といった風貌の、いかにもインド風美人な女性である。
こんな写真が撮られるからにはビジュアル系な売出しもされているのであろう。
どちらかと言うと短編に定評があるようやけど、現在は短編だけでなく長編も発表しており、その中の一つの作品は映画化までされているようだ。

私は短編より長編の上手い小説家が好きで、殆ど短編を読まない。
私は好きな長編小説は沢山あるけど、好きな短編集はレベッカ・ブラウンの『私たちがやったこと』くらいしか思いつかない人であるが、このジュンパ・ラヒリって人は余りにも有名なので古本屋で見つけて反射的に買ってしまった。
更に私は図書館で借りた本は読むけど、古本屋で買った本はいつでも読めると安心して読まない癖があるので、買った時はこの本をちゃんと読むかどうか怪しかったのだが、ちゃんと最後まで読んだ。
私は短編小説に作家としての力とかエネルギーと言ったようなものではなく、物書きとしてのテクニカルな側面ばかりに目が行ってしまう上に、短編を読んでもその人が長編作家として素晴らしいかどうかは全くわからないという持論を持っている。
例えばサリンジャーなら、『ライ麦畑でつかまえて』の素晴らしさならいくらでも語れるけど、『ナイン・ストーリーズ』の良さはそれほどよくわからない。と言った具合である。
ということで、この短編を読んでこのジュンパ・ラヒリが長編小説家としてどうなのか全く分らない。たしかにこの短編集は確かに面白かったけど、無茶苦茶面白いと言うほどではない。それでもこの人の長編を読んでみようという気にはなった。

この本には短編として、在米インド人夫婦、アメリカ生まれの在米ベンガル人の少女とその家庭に家族の友人として入り浸っているベンガル人男性、アメリカ人女性とその不倫相手の在米インド人男性、アメリカ人少年と在米インド人ベビーシッターの老女、インド人の庶民同士のインドでの話、在米インド人夫婦とアメリカ人の老女、在米インド人夫妻とインド在住インド人のインドでの話、などのいろいろなタイプの在米インド人(やベンガル人)とアメリカ社会やインド文化との関わりの中での物語が描かれている。
それらの色々な立場や場所や階層のインド人の話を短編集として構成することで、本全体として彼らがアメリカで何を感じているのか、と言う雰囲気が伝わってくるような気がする。
こういう構成は短編集でしか出来ないし、今まで殆ど興味を持たなかった短編集なる形態をちょっと見直した。
とりあえず家で積読状態の有名な短編集も読んでみよう。

2009年01月30日

●ジュール ヴェルヌ 『神秘の島』 / 漂流してるようには見えない遭難者 /

amazon ASIN:4834007278 amazon ASIN:4834007286
先日ジュール ヴェルヌの『海底二万里』(1869年)を読んで「ネモ船長」の運命と、なぜ彼がああいった人になってしまったのかがとても気になった。
その秘密が明かされる続編にあたるという1874年発表の『神秘の島』を読んだ。
読んだ本は少年少女向けの「福音館古典童話シリーズ」なる単行本のうちの二冊で分厚いハードカバーの挿絵入りであり、この本の日本語訳の完訳版の中では一番の豪華版であるらしい。
確かに子供時代にこの分量のこの分厚さの上下巻を読破するのはかなりの達成感があるやろうなと。

アメリカの南北戦争で南軍に捉えられた、技師とその従僕、新聞記者と水夫と少年の北軍6人が、嵐の夜に気球に乗って囚われの身から逃げ出したものの、無人島に不時着してそこで生き抜くことを余儀なくされる。
六人の男たちと一匹の犬と一匹のサルは、それぞれの特技と才能を生かして無人島で生き抜くだけでなく、暮らしやすい島へと作り変えて行く。といった感じのストーリーである。

『海底二万里』の続編にあたるといっても、直接的な続編ではなく、ネモ船長も最後のほうでチョイ役でしか出てこない。
無人島での漂流ものだという前知識で、なぜかネモ船長と乗組員が漂流する話しやと思い込んでいたけど、主人公たちは前作とまったく違う人物たちでちょっと拍子抜けした。
いつネモ船長が出てくるのかと思いながら読んでいたけど、物語としてとても面白かったので途中からそんなことはどうでもよくなって読んでいた。
それぞれ500ページほどある二巻組みのハードカバーの上巻を二日、下巻にいたっては一日で読んでしまうほどに、読み出すと止まらないほどに熱中した。
自分で意識して集中して読むのではなく、読まざるを得ないほどに集中させられたのは久しぶりであった。

物語としては一応「漂流記」やけど、墜落しそうな気球の高度を下げないようにありとあらゆるものを投げ捨てたという設定で、ナイフすらない状態から始まったのにもかかわらず、レンガを練ってかまどを作り、製材所は作るわ製鉄所は作るわ造船所は作るわ、しまいには粉引き風車や崖の砦を往復する水力エレベーターや電話線まで作るにいたっては、もう漂流しているようには見えなかった。
ガラスはすでに使っているのでその材料のケイ素を使ってシリコン系半導体を開発するのは時間の問題だろう。
後何年もすればウランの鉱脈でも見つけて、そのうちに核開発をして原子炉を作り、ついでにミサイル防衛網を築き、イージス艦まで配備してしまいそうな勢いである。

「漂流記」って言えば毎日が戦いで日々を生き抜くのに戦々恐々ってイメージがあるけど、この無人島で悠々自適に暮らす主人公たちは、無人島の暮らしがあまりにも快適すぎて「帰りたくない」ということまで言い出してびっくりである。
このままでは、漂流したけど、漂流生活が楽しくて帰りたくなくなって助け出されるのを拒否する。ってな意表をついたストーリー展開になりそうで、これは珍しそうやと期待していたけど、作者の最後に持ってきたオチはそんな期待を文字通り根底から突き崩すものであった。

映画でも小説でも、オチに困ると爆発や崩壊で収拾をつけてしまうのは昔からなんやなぁと妙に感心した。「爆発の美学」ってものは確かにあると思った。

2009年01月22日

●ジュール ヴェルヌ 『海底二万里』(岩波文庫) / ネモ船長は正義か?

amazon ASIN:4003256948 amazon ASIN:4003256956 前からずっと読みたかった、ジュール ヴェルヌの 『海底二万里』をやっと読むことが出来た。
この少年少女向け冒険小説である『海底二万里』は様々な出版社から翻訳されて出版されているけど、私が読んだのは朝比奈 美知子訳の岩波文庫版である。
この岩波文庫版を選んだのはただ目に付いただけで特に理由は無い。岩波文庫のほかには創元SF文庫や集英社文庫、偕成社文庫等から出版されているようである。
ただし、この本には子供向けの簡略化されたものが多々あるようで、恐らく上下巻組ではない一巻構成のものがそうだろう。
大人になって今から読むのなら、当時そのままの挿絵がフルに入っているらしい、上中下の三巻組みの偕成社文庫のものが気合が入っていて良いかもしれない。

各国の海で光を放ち信じられない速度で動く巨大な生物が目撃される事件が頻発し、調査船に乗り込んだ海洋生物学者とその召使と銛撃ちの名人が、その生物と間違えられた潜水艦に乗り込むこととなる。
博識で地上の人間に深い憎しみを抱いた謎の男である潜水艦の船長と共に、その三人は潜水艦で世界各国の海底をめぐることとなるのだが、このノーチラス号での深海めぐりがこの本のメインストーリーであろう。

「潜水艦ノーチラス」と「ネモ船長」が余りに有名な、海洋SFの古典的な名作であるけど、私は子供時代に一度も読んだことが無かった。
原子力潜水艦の無かったこの時代にこの本に書かれていることがどれくらい驚くべきことかはなんとなく想像できるし、現代に読んでも、海好きとしてはノーチラスによる海の旅はいかにも冒険小説といった趣があってとても面白かった。
しかし、一応子供向けの本と言うことになってるのやけど、読んでいると殆ど邪悪ともいえるようなネモ船長が地上の人間に対して抱く強烈な憎しみが激しくブラックである。
しっかりした学識と知識を持ち、さらにそれを現実的に実践する知恵を持ちながらも、ただ地上世界を憎んで自ら関わりを断ち、全てをノーチラス内のみで完結させようとする彼の行動は、学者と常識人の代表のようなアロンナクス教授のいうように、余りにも自己完結的すぎるように見える。
殆ど説明しないままに自分に対する信用を要求し、自分の人格を全肯定するように要求する彼の性格は余りにも極端で、今から見れば何かしらの人格障害の一部のようにすら見える。

子供向け文学として、恐らくこのネモ船長は「正義」の側にいる人間なのかもしれないけど、果たしてこの船長が子供から見て理想的とされるのだろうか?と激しく疑問である。
それでも、ネモ船長がある種の魅力を持っているのは間違いないし、彼の理不尽にも思えるような憎しみと復讐心を正当化させ、彼をただの人格破綻者で終わらせないためにはよっぽどの悲劇が必要となってくるだろう。
この復讐心と憎しみと独善に燃えるネモ船長がどういった運命をたどってノーチラスの船長となり、この先どういった運命をたどるのか興味津々である。
それはこの『海底二万里』の続編である『神秘の島』で明かされるのだろうか?

2009年01月12日

●ジャン=アンリ・ファーブル 『ファーブル植物記』 / ただ知的好奇心のみ / サン・レオンの英雄

amazon ASIN:4582766242 amazon ASIN:4582766277 ジャン=アンリ・ファーブルの『ファーブル昆虫記』が世に出る10年以上前に、同じ著者による子供向けの啓蒙書として出版された『ファーブル植物記』を読んだ。
『昆虫記』が余りにも有名なので『植物記』の存在もちょっとした雑学的にそれなりに知られているけど、『昆虫記』がどちらかというと児童書的な扱いを受けているせいか、子供のころに『昆虫記』を読んだ人でも『植物記』も読んだという人は余り聞いたことが無い。
さすがに「平凡社ライブラリー」はニッチなところ突いて来るなぁと。

植物記といってもこのタイトルは『昆虫記』を意識してつけられた邦題のようで、フランス語での原題は『Histoire de la Bûche(薪の話)』 ということであるらしい。
上下巻に分かれていて意外にボリュームがあり、植物の茎と芽と葉と根、そして種をめぐって、植物が如何にがんばって戦略的に美しい秩序に則って生きているかという話が丁重にわかり易くメルヘンな比喩に満ち満ちて語られれていた。
全編が子供たちに優しく語り掛けるような文体で統一されており、ラテン語由来だのギリシャ語由来だのの学術的な専門用語を憎むべきものとして日常語で平素に平素に説明してゆく。
読んでいるとなんともほっこりする。余りにもほっこりするので布団で読んでいると直ぐに寝入ってしまうほどである。

想定している読者が子供だといっても話の内容が簡単すぎるということは無かった。内容としては高校で習う植物の組織と習性について、細胞レベル以下の話を除いたくらいの話であろうか。
それなりに生物とか植物が好きな人にとってはうろ覚えがはっきりする内容であり、余り詳しくない人にとっては勉強になるのではないだろうか。
訳者でもある日高敏隆が巻末の解説で述べていたように「植物がいかに一生懸命生きているか」がひしひしと伝わってくるし、まさしくそれを伝える事こそこの本の意図なのではないだろうか。

『ファーブル昆虫記』と『シートン動物記』はこのジャンルの児童書の双璧をなす本やけど、私が子供の頃は『シートン動物記』を読んでもあまり面白いと思わず、断然『ファーブル昆虫記』派であった。スカラベとか狩バチの話をそれこそむさぼるように読んだものである。

まぁ、私自身が「虫博士になりたいっ!」というくらい虫好きだったせいもあるやろうけど、今思えば『シートン動物記』が余り気に入らなかったのは、その動物達の演じるドラマがなんとなく人間臭く、動物の中で人間的な政治臭と歴史的で社会的な、なんとなくオッサン臭い視点を感じて気に入らなかったような気がする。漫画で言えば『カムイ伝』的な雰囲気であろうか。
それとは逆に、純粋な学者肌だったファーブル先生は『昆虫記』を、ひたすら植物なら植物、昆虫なら昆虫の習性と本能の秩序を解き明かしてゆくことだけに主眼を置いた、純粋な知的な驚きを原動力にした知的好奇心のみで書いていたような気がする。
昆虫や植物の世界が人間社会の縮図であるとか比喩であるとか、そこから何かを読み取ろうとか読み取らせようとかそういった意図が全く無いのが素晴らしい。

子供の頃にあれだけ『ファーブル昆虫記』を愛読した私が、この本を読んで初めて著者のジャン=アンリ・ファーブル自身についてちゃんと調べたのやけど、今までなんとなく持っていた、フランスの片田舎の裕福で安定した暮らしを送る退役した学校の先生が道楽で虫の研究をしていたようなイメージが根本的に覆った。
典型的なダメ親父の元で育った彼は、15歳の時に一家が離散したことを皮切りに、肉体労働をしながら独学で勉強して、奨学金などを取って学校に入学する。それなりに認められて教師になっても「おしべとめしべの話」を婦人方の前でしたせいで町からアヴィニオン捨囚とばかりに追放され、老後は貧しさにあえぎながらその生涯を終えたようである。
はたから見れば中々大変な波乱万丈の人生を送ったように見えるけど、その間彼の昆虫への情熱は消えることは無かった。彼の生き方だけをとってもなかなかに興味深いものがある。

今までは大らかで子供好きやけど、虫ばかり追いかけているちょっと変なおじいさんという子供の頃のイメージの延長で彼を見ていたけど、どんな状況でも昆虫や植物に対する知的好奇心を自分の中の欲求の一番においていた彼は、中々にかっこいいなぁというイメージが加わった。
こういう生き方も一つの英雄の形であろう。

昔『ファーブル昆虫記』を読んだからこそ『ファーブル植物記』を読んだし、ブログを書いていたからこそちゃんとした感想を書くためにファーブル自身について調べた。
そしてファーブルについて調べたから彼のような生き方を知ることが出来た。というのは中々に趣き深いなぁと思うのであった。

2008年12月29日

●青木やよひ著『 ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究 決定版』 / 新しいベートーヴェン像(私にとっては) / フェミニズム視点からの〈不滅の恋人〉の探究

amazon ASIN:4582765998 年末年始の長期貸し出しということで借りてきた中の一冊、青木やよひ著『 ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究 決定版』を読んだ。

ベートーヴェンの死後に秘密の引き出しから発見された有名なラブレターの宛先である〈不滅の恋人〉が誰であるのかは、昔から研究の対象になってきた。
タイトルの通りこの本は〈不滅の恋人〉に対する今までの研究の歴史的な概略を示し、現在ではほぼ定説となっている著者が世界で始めて提示した〈不滅の恋人〉をアントニーア・ブレンターノとする説の根拠を、実際に現地に赴いて調べた証拠と共に示すものである。

2001年に同じ著者によって講談社現代新書として『ベートーヴェン<不滅の恋人>の謎を解く』 が出版されたが、そのすぐあとに著者の説を裏付ける新事実が発見され、この本はその講談社現代新書に書かれた内容に、新しく発見された資料を論考の対象に加えた形で加筆したもので、2007年に平凡社ライブラリーとして刊行されている。

著者の「青木やよひ」という人は現在でこそベートーヴェン研究の本を沢山出版しているけど、1970年代からフェミニズムの分野で、上野千鶴子と喧嘩したりする勢いで活躍してきた人らしい。
このフェミニズムな視点で「〈不滅の恋人〉研究」を見ることで、裕福なイタリア出身の豪商に嫁ぎ子供を沢山生んだアントニー・ブレンターノはモラルある幸福過ぎるほど幸福な人であるから、あえてベートーヴェンと不倫の恋に落ちる必然性が無かったということでずっと〈不滅の恋人〉候補から除外されて来た定説を、実は彼女はイタリアンファミリーなしがらみと夫との関係で決して幸福ではなく、モラルがあるからこそベートーヴェンとのプラトニックな恋を公に出来ず結局夫の下に帰った。という見方によって覆すことが出来たのだろう。
著者がずっと携わってきたフェミニズムの視点が、全く別ジャンルであるベートーヴェン研究に革命的な新風を吹き込んだ事実に心躍ったり励まされたりである。

この本の中で、日本ではロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』の影響が余りに大きくこの本の中でのベートーヴェン像が定着していると述べていたけど、確かに私自身もその本を読んで、音楽だけに全生涯を捧げ、恋愛も生活も余りに不器用で、余りに個性が強すぎて周りに嫌われて孤独のうちに死んだベートーヴェン像を抱いていた。
しかし、この本で描かれるベートーヴェンは彼に心酔する人だけでなく友人も多く、孤独ながらもちゃんと社会生活を営んでいたようであるし、何よりも彼の個性の際立った点はその高い倫理観にあったといえるだろう。
そしてベートーヴェンが苦悩に真正面から向き合い、責任を果たしつつ避けることなく、自らの欲求ではなく「道徳」を規範として選ぶ様はなんとも心を打つ。

この本は<不滅の恋人>アントニーア・ブレンターノとベートーヴェンの関係をただのパパラッチ的な視点で描くのではなく、そんな倫理規範の高いベートーヴェンがアントニーアとの成就されなかった恋愛を如何に乗り越えて彼女と新たな関係を結び、そのことが彼の芸術にどのような影響を及ぼしたのかという視点を貫いていたのがとても良かった。
ベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタがブレンターノ家の思い出に深く結びついていることは有名らしいけど、あのグレン・グールドでさえ限りなく美しいと称えたNo30のop109がアントニーアの娘であるマクシミリアーネ・ブレンターノに、当初アントニーアに献呈されるはずだったけど結局献呈なしで出版されたNo31のop110を挟んで、私が大好きなNo32のop111のロンドン版だけがアントニーアに献呈されている。
このソナタが完成する十年位前のアントニーアと恋愛真っ盛りの時期に、ベートーヴェンは彼女とイギリスに移住することを本気で考えていたらしいけど、最後のピアノソナタのイギリス版だけが彼女に献呈されていることは「私としてはそこに深い含意を感じないではいられない」と言う著者の意見に私も同意である。
そう思って聴くとまたこの最後の三つのピアノソナタも違ったように聞こえるのであった。

例えば恋愛、家庭のなんやかんや、病気やトラブル、その他もろもろの苦しみや喜びは、言ってしまえば限りなく個人的なものでしかない。
そんなことは当事者にとっては一大事でも、他人にとってはありふれたどうでも良い出来事のひとつに過ぎないし、社会や世界から見ればほぼゼロに等しい出来事である。
しかし、それでも人間であれば避けることの出来ないそんな苦悩や喜びを乗り越えた先に、こんな素晴らしいものが生まれたり、こんな境地にたどり着くのであれば、限りなく個人的で個別的なものが普遍の一端を担う可能性があるのなら、人間であることも捨てたものではないと思わせるなにものかを、ベートーヴェンはやっぱり持っていると言う思いを強くした。

2008年12月02日

●ルードルフ・オットー 『聖なるもの』

amazon ASIN:4422130056 ルドルフ・オットーの『聖なるもの―神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について』を読んだ。本当は読み終わって一ヶ月くらいたっているけど、中々に格のある本なので中々に適当なことを書けずに今に至っている。
で、いったん書き始めるとやたらと長くなってしまった…

著者であるルドルフ。オットー(1869年~1937年)はドイツプロテスタントの神学者で、大雑把に言うとニーチェとヴィトゲンシュタインの間の時代の人、もう少し詳しく言うとフッサールとかベルクソンと大体同年代の人でアインシュタインが特殊相対性理論を発表したくらいに壮年期を過ごした人ということになるようだ。
そしてこの本は第一次世界大戦のさなかに出版された。

一応神学者ではあるけど、プロテスタントと言うこともあってか、彼の論調からか、バリバリの神学ではなく、哲学や宗教哲学のジャンルに区分されるようである。
彼はカントとフリースの研究から、崇高で聖なるものとは、という問題意識を持つようになって宗教哲学の研究に移行したらしく、この本は正にそのテーマを、つまり、宗教はその根本的な要素として「聖なるもの」に対する「畏怖」、つまりは恐怖の入り混じったような憧れなどの非合理的な要素によって成り立っている。とするものである。

キリスト教の教義を前提として、それに則ったいわゆる神学の立場ではなく、哲学的な手法で宗教にアプローチしようとすると、この本のようなオットーの見方にたどり着くといわれるらしい。
宗教について学ぼうとするものにとって、彼の思想は基本的な概念を構成するものであり、この本は古典中の古典として基本的な文献であるという扱いを受けているらしい。
やたらと「らしい」を連発しているのは、それだけ重要そうな位置にある人物と著書なのに、この本を読み始める前までは全くノーマークどころか殆ど全く知らなかったからである。覚えている限り聞いたことすら無かったと思う。

私の浅学のゆえだろうけど、少なくとも私にとって今までは全くなマイナーな人物だったし、言及されるのも殆ど聴いたことが無かった。
例えば、有名どころのアウグスティヌスやらカントやらニーチェがどれだけ哲学史の中で意義を帯びているかと言うのは、勉強したり色々な本を読んだりなんやらで端々に名前が出てきたり聞いたりするうちに、なんとなく感覚的に捉えられるようになっているような気がするけど、このルドルフ・オットーという人と『聖なるもの』と言う本は殆ど予備知識がなかったので、宗教学に関する古典中の古典であるとか、哲学としての方向性で宗教を見るとオットーに行き着く、とか言われても、聞いただけではピンと来るものが無かった。
ということで、先に例を挙げた人たちのような、思想史だけでなく世界史の文脈でも名が出てくるような主流の位置にあるのではなく、どちらかと言うとその道ではパイオニアで有名やけど、一歩その道から外れるととたんにマイナーになるような人であろうと捉えている。

しかし、世間的にはどちらかと言うとマイナーやけど、その道ではその人なしではありえないくらいの多大な影響を与えた人というのはとても多いわけで、このルドルフ・オットーという人は、一般的な目から見ればそういった位置づけになるのだろう。
と言うことで、どちらかと言うとニッチな分野で、学術的な興味の文脈で語られることが多そうな人物と書物であるけど、私の場合はそういったことは関係なく、単純に一書物として、読み物の一つとしての興味の対象として読んだ。
そしてなぜか一般的な岩波文庫の山谷省吾訳ではなく、華園聰麿訳の創元社のハードカバーで読んだ。これが良かったのか悪かったのかわからんけど。


この本で彼は、先にも述べたように「聖なるもの」や「畏るべきもの」に対して抱く敬虔な気持ちだけでなく、恐怖を含んだような畏敬の念などをあわせた、道徳や習俗や認識とは全く別の、非合理的なものこそが宗教の根本的な部分を形作っており、それを彼は「ヌミノーゼ」という概念で呼んでいた。
この「ヌミノーゼ」なる感覚それ自体をとって宗教的な構成要素の一部であると主張すること自体は、確かに特筆するほどのことはないよう思う。
しかし、彼はそれは一要素であるだけにとどまらず、それが殆どすべての宗教的な動機であると言っているところに意義があるのだろう。

たとえばその「ヌミノーゼ」は「聖なるもの」に対する愛やとか憧れやとか帰依の感情ではなく、余りにも絶対的なものを目前にした時の絶望感ににも似た、自分の小ささと無力さに震えるような、殆ど理不尽に近いような畏れの感覚であるというように、我々が一般的に想像しがちな「神」や「聖なるもの」に対して抱くであろうと予想する「愛」のような感覚とはかなり異なっている。
そしてその「ヌミノーゼ」の感覚は正義が守られたり、道義的な行為を目にした時に感じるような、いわゆる正義感とか倫理観、または自然や宇宙などの法則の美しさを目にした時に感じる高揚感とはまったく異なっている、合理的な知を越えた感覚でしかないとも言っている。

つまり、単純に宗教的なものであるとか宗教的な感覚というのは、ただ人間をはるかに超えた絶対的な大きなものに畏れを抱きつつも激しく惹かれる、完全に非合理的な感覚であり、倫理であるとか正義であるとか、はたまた世界の成り立ちであるとか世界の意味だとかいった、ある種の論理や合理性や認識の入る余地のあるものとは全く別である。と主張していることになる。

この主張は、我々が宗教を捉える時にするいろいろな見方をかなり根本のところから揺さぶるものであろう。
たとえば、宗教をモラリティーや何らかの規律の根拠として見る見方、世界解釈や世界の意味を与えるものとしての捉え方などは、宗教の根本の所とは関係ないということになるし、彼はその「ヌミノーゼ」なものは個人に帰する非言語的な感覚でしか言い得ないと言っている。

このあたりの部分は私にとって結構大きな驚きだった。
こういった「ヌミノーゼ」の感覚を取って「宗教的」であるとするならば、例えば「キリスト教的」でもなく「仏教的」でもない状態で十分「宗教的」でありえることも可能になる。
キリスト教にしろ、仏教にしろ、何かしらの対象、つまりはキリストであったり阿弥陀仏であったりに対する帰依の感覚をもって「キリスト教」であったり「仏教」と呼ぶのやろうけど、そういった具体的な帰依の対象のない私も「ヌミノーゼ」の感覚がとても痛いほどわかるし、そういった「ヌミノーゼ」な対象を何かしらの基準のように考えているという意味では「宗教的」であると言えるかもしれない。
例えば、「海に潜って魚を突く」というのは私にとって激しく「ヌミノーゼ」な行為なのだ。
限りなく死に近づきながら、純粋な殺意の塊となって、冷静に狙った獲物を殺す。というのは恐らくどんな宗教的なモラリティーから見ても道徳的な行為とは言い難いだろう。
しかしそれは激しく「ヌミノーゼ」で激しく「被造物感」を感じるという意味では「宗教的」な行為であると言える。

モラルに従う従わないを度外視した先にある、圧倒的な無力感と絶対感と一体感と拒絶感の入り混じったような、余りにも非合理的な「ヌミノーゼ」の感覚なんか誰しもが持っているのじゃないだろうか。
道徳的なところを踏み越えた先にこそ「ヌミノーゼという意味で宗教的」なものがある。などと言うつもりはないけど、「ヌミノーゼという意味で宗教的」であることは、必ずしも「キリスト教的」でもなく「仏教的」でもなくその他あらゆる既成宗教的でないこともありえると言うのは、ある種の人にとってとても救いになるのじゃないだろうか。


一般的な手法でもって「神」や「聖なるもの」について考えたり語ろうとするとどうしてもそれ自体を対象にしがちやけど、彼はそういった神や神的なものについて「神」や「聖なるもの」そのものを直接的に思考の対象として考えるのではなく、それと対峙した人間はどのような感覚を呼び起こされるのかと言う切り口で考える方法論を展開していた。
つまり、「聖なるもの」のひとつ下の次元で現象する「ヌミノーゼ」の更に一つ下の次元に現れる影としての我々の感情を語ることによって、「聖なるもの」についてではなく「ヌミノーゼ」について語ろうとするのである。
それはひとつ以上の上の次元のものを、それが見せる影によって語る数学的な手法に似ていた。言葉で語ることのできる次元を越えているような非言語的な領域を言語で語ろうとするには、やっぱり非言語的なものの見せる影について語るしかないのだろう。
そして、これが非言語的な概念である以上、理解できない人にはいくら言っても理解してもらえないし、理解する人は言わなくても理解ているであろうから、理解しているものとして話を進めると言うようなことを書いていてちょっと驚いた。

そういった何かしらの非合理的な経験や理解を相手が理解していると前提した上で論理を展開するのは、まさに、二乗してマイナスになる数である虚数が存在すると仮定してグラフを複素数に拡張するのと同じではないか。
理解できる論理でのみ表現されるものではなく、理解出来ないながらも直感できるもの、理解できないながらもそうでなければならないものが存在するものとして、考えることが出来る事こそ真に知的な行為なのやなぁとなんとなく思った。
そしてやっぱり宗教とは、そういった数次元上での現象であると言う意味で、知的な追求の限界を超えた先にあるものやねんなという思いを新たにした。


全体的な本の構成に対する感想を述べると、前半はそういった「ヌミノーゼ」が如何に宗教を構成する要素として唯一無二で、如何に重要なものであるかと言う部分が語られており、聴いたことのないような言葉や概念がボンボン飛び出して来て、読んでいてとてもスリリングで面白かった。
しかし、いかに宗教にとって「ヌミノーゼが」重要であるかを論じ終わった後の中盤から後半になると、今度は如何にキリスト教はヌミノーゼで優れているかというところに論点が移っていささか退屈であった。恐らくこの部分が、神学者である彼が最も言いたかった部分なのかもしれないけど。
それでも、宗教改革を行ったマルティン・ルターが如何に神を畏れ、如何にびくびくしながら生きていたのかと言うところが彼の「信仰義認」と「ヌミノーゼ」が関連付けられて述べられたところはとても面白かった。

2008年11月29日

●『素数の音楽』 マーカス・デュ・ソートイ (著) 

amazon ASIN:4105900498 最初は気軽に読むつもりで借りて来た『素数の音楽』やけど、借りてびっくりした。やたらと分厚い。もうカムイ伝一巻分よりも遥かに分厚い。
分厚い上に、小説のつもりで借りて来たけどノンフィクションだった事もあり、嬉しいような悲しいような気分で読み始めたもののとても面白かった。
本の大筋としては、「リーマン予想」をメインにした未解決の数論の問題を中心に据えた、「素数」を巡る数学者達の苦闘の歴史である。オックスフォード大学の数論研究者である著者が、一般向けに書いた、数学啓蒙書という位置づけであるようだけど、中々スリリングに最後まで読み進む事が出来た。

しかし、名前だけはメジャーな「リーマン予想」も実際これが何を意味しているのかはとてもわかりにくい、
zeta.png
と定義されるゼータ関数を複素数全体へと拡張した場合、-2、-4、-6…など、負の偶数の自明なものではないゼロ点s(自明で無いゼロ点s)は、全て実数部分が1/2の直線上に存在する。
というのが「リーマン予想」である。
恐らく高校でちゃんと真面目に数学をしなかった上に、もうすっかり忘れている私のような人はこういわれても「(゚Д゚)ハァ?( ゚д゚)ポカーン」なのだが、この本にはこの「リーマン予想」が定理として証明されると、どれだけのものが芋づる式にゾロゾロ出てくるかって所がわかりやすく書いてあった。

そして、リーマン予想だけでなく、全体を通して語られる「素数」の話で、数直線状の素数の出現が全く法則に則っておらず、これこれの数の中にこれこれの割合、と大雑把にしか言えないってな話が、量子力学の根底をなす不確定性原理と結び付けられ、さらに、数直線状の素数の偏差のスペクトルではなく、ゼータ関数の1/2線上のゼロ点のスペクトルが水素原子の振動数のスペクトルと殆ど同じになっているところは、素直にあひゃーっと驚いた。

リーマン予想自体をあまり良く理解出来て無くても、ランダムにしか見えなかった素数に秩序を与え、物質を形作る基本的な要素である水素原子を理解するのに着実な視点が得られるってところは、この「リーマン予想」を「リーマンの定理」にする事がどう凄いのかをよく教えてくれた。
「新しい世界への到達は、新しい知恵を獲得する事ではなく、新しい視点の獲得である事にこそ意義がある」って感じの事が書いてあったけど、まさにそんな感じであった。

数学の話だけでなく、ガウス、オイラー、リーマンなどの天才を筆頭に、一介の事務員だったラマヌジャンやら、サンスクリット語大好きなヴェイユやら、ついにおかしくなって悪魔に取り付かれたグロタンディークなど個性的な数学者達の話や、コンピューターでの暗号化の話が出てきたりで飽きる事無く読めた。

コンピュータを使っていれば、httpsやらssh接続で毎日常に鬼のようRSA暗号を使ってるわけやけど、このRSAについても因数分解と素数の話でとてもわかりやすく解説されていたので、これからはTLS接続も単なるブラックボックスではなくなってちょっとした親近感がわいたような気がする。

しかし、数学者っていう人種はやたらと数式やら数列やら関数に対して「美しい」とか「エレガント」とか使いたがる。まぁたしかにその美しさはわからんでもないにせよ、この美しさを表わす適当な言葉がないから便宜的に「美しい」や「エレガント」を使っていることを加味するにせよ、やっぱり我々一般人からすれば、はぁ?こいつら何言ってやがるんだ?ってなものである。
その点、やたらと小汚いプラモデルのモビルスーツを見て「美しい」とため息を漏らす人種や、殆どパンツが見えているようなフィギュアを見て萌え萌と興奮している人種、そしてSystem V initのブートプロセスはエレガントなどとうっとりするsolarisヲタも、オイラーの恒等式が美しすぎるとか素数定理なルジャンドルの式が醜すぎるとか言ってる数学者も大して変わらん同類やなぁと思った。

2008年11月14日

● ジャン・マリー・ギュスターヴ・ル・クレジオ 『歌の祭り』

amazon ASIN:4000222023 ジャン・マリー・ギュスターヴ・ル・クレジオの1997年にフランス語で発表されたものを翻訳して2005年に発表された、『歌の祭り』を読んだ。
このル・クレジオって人は、村上春樹が取ると噂されていた2008年度のノーベル賞を受賞したフランスの作家である。
1963年『調書』でデビューしてから、『発熱』(1965年)『大洪水』(1966年)などの初期の作品は言語実験的なものだったけど、1970年代半ばくらいから中南米への興味が高まって来たのと同時期に、いわゆる「後期」と括られるような平素でシンプルな文体やスタイルに移行して行ったという事らしい。

この本はそんな「後期」に属するもので、アメリカ大陸の先住民、インカやアステカなどのインディオの文化と北アメリカのアメリカ・インディアンの文明や神話を語る事で、彼らの文化が如何に自然と一体化した宗教感と世界観を持っており、それがどれだけヨーロッパのものと異なっているか。という話であった。
前半はちょっと退屈やったけど、後半は直前にルドルフ・オットーの『聖なるもの』を読んだせいもあり、「ヌミノーゼ繋がり」ということでとても面白く読めた。

マジックリアリズムのイメージがあった中南米文学やけど、この本は小説ではなくノンフィクションやったので、そんなものは毛ほども感じなかった。
それでも、あの世とこの世と現実と非現実が入り混じったインディオの文明がマジックリアリズムのベースになっているんやなぁと妙に納得した。
ヨーロッパ的プロパガンダでただの野蛮人と言う事にされていたインディオやインディアンの文明が如何に高度で、如何に成熟した社会システムと宗教観を持っていたかと言う事が良くわかった。それに引き換え金を取るだけの為に文明全てを破壊し尽くしたヨーロッパ人の如何に野蛮な事か。

しかし、この本を読んでも、この人のノーベル文学賞を取るほどの凄さと言うのは良く伝わってこなかった。、ノーベル文学賞の受賞理由「ヨーロッパ文明への批判的な視点と詩的な文章」の「ヨーロッパ文明への批判的な視点」というのはとても良く伝わってきたけど。

やっぱり彼は小説家なのでノンフィクションではなく、小説を読まんとダメなのだろうと。
でも、前期の代表作『調書』やはことごとく絶版になっているので参ったなぁ。図書館にも無いし。

2008年10月11日

●『AKIRA』大友 克洋 / 終末思想的終末ヴィジョン

amazon ASIN:4061037110  いい加減MTBのチェーンに噴いているオイルが砂埃を吸いに吸って大変な事になっていたので、自転車を洗った。
車と違って自転車は洗わないとちゃんと走らないのだ。

前日に東寺の近くの古本屋でB5版の『アキラ』全6冊を買い、10キロの道のりを背負って自転車で帰って来た。さすがに重たかった。
今まで映画は何度か観た事があったけど、漫画を読んだのは始めて。
以降の漫画やアニメに決定的な影響を与えた古典中の古典であるだけあってとても面白かった。
今となっては使い古されて当たり前になった表現やとか概念が満載やけど、流石に元祖だけあって今見ても全く色あせておらず、当時はどれだけ斬新だったのだろうかと思う。
当時に革命的だったものも、その以前にあったものからを影響を受けたり発展したりしているわけで、文化の積み重ねってものを感じた。
壊して一から作るのではなく、上に積み重ねて行く文化は、土台がしっかりしてこそなのだ。と思った。

この時期は「世紀末」だった事もあり、ハルマゲドン的なカタストロフィー以後のディストピアな未来を描く漫画が多かったような気がする。
こういった『アキラ』とか『北斗の拳』のような世界、つまりは、時代的には世紀末のカタストロフィー以後から新世紀が始まろうとするあたり、内容的には絶滅を免れた人間達のハードな生き方、を描くのは結局一つの終末思想というか「終末ヴィジョン」だったように思える。
肥大し過ぎた世界が世界大戦や核兵器などの大破壊の後にゼロから再生するっていうモチーフは、多くの少年たちにとって、結構リアルなものやったような気がする。

で、新世紀になった今、世界は全く変わらず、世紀末の不安を引き摺りながら、その延長線上にある。
世紀末が過ぎて振り返って思えば、漫画とかアニメってのは世界のヴィジョンを示すほどの影響力を持っていたんやなぁとしみじみ思う。

「新世紀エヴァンゲリオン」は「新世紀」と銘打ちながらも、世界の構造としては「アキラ」と全くかわらん。
これからのアニメとか漫画はカタストロフィーが無かった新世紀のヴィジョンをどう描くのだろう?

小説好きとしては、何としても漫画やアニメに負けないように、小説にも頑張って欲しい次第である。

2008年09月18日

●エリザベス キューブラー・ロス 『死ぬ瞬間の対話』

amazon ASIN:4643920548 先日エリザベス キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を読んだ後に、二作目を読むつもりが、間違ってシリーズ三作目である『続・死ぬ瞬間』を読んだのだが、やっとシリーズ二作目の『死ぬ瞬間の対話』を読むことが出来た。
一作目の『死ぬ瞬間』の内容は、末期患者が「死の受容への五段階」と言われるプロセスを通って死を受け入れることを実例を示して提示し、死をいかに迎え、いかに送るのが望ましいか。というところが骨子になっていたが、このシリーズ二作目は、一作目の「死の受容への五段階」を前提や共通の知識とした上で、実際の講演会やセミナーや勉強会で交わされた、医者や看護士や牧師や患者や患者の家族などの質問に、著者自身が答えてゆくといった、いわゆる「Q&A」形式で構成された本である。
とはいっても、ただ質疑応答を羅列するだけではなく、例えば「自殺と末期疾患」「延命」という風に、何かしらのテーマを提示してその問題点や背景を少し解説した後、そのテーマに即した質問と回答が集めてある。
これだけの量の質問とその回答があれば読者の感じる疑問や問題と近いものがひとつくらいはあるだろう。

大抵の本がそうであるように、シリーズ一作目は、何かしらの問題点と新しい方向性を示して、新しい動きを生み出そうとしていたような、どちらかと言うと著者から読者への新しい概念のプッシュであった。
一作目で展開された主張がかなり浸透して、限定的であれ特定の場所ではある程度当然で標準的なものとなった二作目の段階では、そういった主張自体ではなく、それに基づいて具体的な事例に対処しようとする方向性を、この本は持っているように思う。
そしてその方向性は、こういった抽象的な概念自体を言葉でウダウダいうだけでなく、実際の現実に即した適応性を発揮してこそ意味を持つ。といった著者自身の方向性をも現しているように見える。
結局、死の問題と言うのは、著者にとってとても身近で重要度の高い、自分自身の問題であると言うことなのだろう。

述べられる内容自体は一作目を踏襲したもので、そこからら発展した主張は展開されないけど、質疑応答という形式で末期患者や病院スタッフに答えるという構成上、死に臨む人と接する人に重点が置かれている。
テクニカルな面をもつプロフェッショナルであるよりも率直に一個の人間として接する事、五段階のステップアップよりも本人の望みを優先させる事、感情を抑えるのでなく存分に表現する方が望ましい事、などが特に強調されている。

この質疑応答を読む限り、彼女はこの段階で「死後の生」を確信しており、そういったことを含有して「死」を捉えていることが見て取れる。
後に展開されことになるらしい、「死後の生」や「神秘体験」などの、どちらかと言うと「あっちの世界」の話や、おおっぴらに言うと胡散臭く感じるような話はごく早くから彼女の中にあったのだろう。
しかし著者はここから先は自分だけの問題で、ここまでは誰にでも当てはまる問題であるという線引きをとても明確に出来る人であるように感じた。

一貫して著者は、特定の宗教や心情や「死後の生」はもちろんのこと、「死の受容への五段階」すら、患者や患者の家族に押し付けてはいけないし、そのステップを通ることが「誰にとっても最上の道」ではなく、「一般的に最上の道である場合が多い」と繰り返し主張している。
その人にとって一番苦しみが少なく幸せが多い道が最上である。と主張することは、当たり前なようでいて、彼女のような持論を持つ人にとって中々難しいと思う。

しかし、ネット上で集めた情報によれば、彼女は後年になると、終末医療だけでなく、「死後の生」や「神秘体験」と言った、どちらかと言うと、いわゆる「スピリチュアル」なる単語で表されるような、如何わしくて胡散臭い方向性の主張を展開したとされるようだ。

そういった主張を個人の信念として持っていることと、既成の宗教のバックボーンなしに、医療者としての彼女の立場で、公の場で真理として主張することは全く違う。
私は彼女がそういった主張を持っている事自体は素晴らしい事やけど、それを積極的に主張するようになった事は、どちらかと言うと残念な事として捉えている。

一冊目から三冊目までの本を読んだ限り、彼女個人がそういった信念を持っていても、そういったことを、彼女自身が直接的な個人的つながりの無い人に向かって声高に主張するとはとても思えない。
こういった微妙な事に関する情報はとかく誇張されがちでもあるので、彼女が本当にそういう人になってしまったのか、また彼女がどういったトーンでそういった事の述べたのか、自分自身で後年の本をもう一冊読んでみようと思った。

2008年09月14日

●汚濁と浄化の48時間(ただの大掃除と模様替え) / 生きるって大変だ(笑)

この日より思いついて大掃除兼部屋の模様替えを始める。これが後に語り継がれることとなる「汚濁と浄化の48時間」の始まりであった。

amazon ASIN:4052005554 大掃除や模様替え中に卒業アルバムやら雑誌やらに見入ってしまうのは、誰にとってもありきたりの出来事である。

例に漏れず、私も、本棚の奥から発掘された、子供のころの愛読書である学習研究社の『飼育と観察』に、見入ってしまい、あるページで思わず笑ってしまった。

私の読んだのは1971年発行の物で、現在のものとは装丁からして違うようだが(こんなラブリーなものではない)、今でもこのページはあるのだろうか?

semi200809141.jpg 著作権の問題がありそうなので、ちょっとだけモザイクをかけて該当ページを公開してみる。これは「セミ」の一生を表しているのやけど、土の中であろうが外であろうが、飛んでいようが木に止まっていようが、成虫であろうが幼虫であろうが卵であろうが、ことごとく餌にされるセミの運命の過酷なこと過酷なこと。
特にセミだけでなく、大抵の野生生物はこうであろうけど、それでもこうやって改めて見ると、笑わずにはいられない。生きるって大変だ(笑)

私は『学研の図鑑』で育ったようなものであり、この本をはじめ、子供のころは虫関係の図鑑は暗記するほど読んでいたにもかかわらず、今改めてみると他の図鑑も他のページも新たな発見があって面白い。

などと面白がって読んでいるうち、気づけばかなりの時間が過ぎていた。
てなことも、掃除や模様替えの定番といえば定番の出来事であろうか。

一日目が終わり、まだ戦いは始まったばかりの、とんでもなく散らかった状態の腐海のような部屋で、ゴミとゴミのような何かの隙間に布団を敷いて寝る自分が余りにもかわいそうで、頭の中でナウシカの音楽(ラン、ランララランランラン~)が流れっぱなしであった。ああ生きるって大変。

それでも、いつでも餌にされるセミ達の運命を思うにつれ、ゴミの中の布団にくるまって幸せを噛み締めるのであった。

2008年09月12日

●エリザベス キューブラー・ロス 『続 死ぬ瞬間』

amazon ASIN:4643990252 先日読んだ『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』の続々編である『続 死ぬ瞬間』を読んだ。
本当はこの本を『死ぬ瞬間』の続編だと思って読んだのだが、次に出版されたのは『死ぬ瞬間の対話』だったようで、この『続 死ぬ瞬間』はシリーズ(といっていいのか…?)三作目になるようだ。
それでも、全部読み終わって、この感想を書くために色々調べているうちにそのことに気づいたくらいなので、この三作目は一作目の話は前提にしていたけど、二作目を読まなければ三作目の話が全くわからないというような作りではなかったようだ。
例のごとくこの本も、旧訳と新訳があるようで、私が読んだのは1999年に発行された新訳の単行本の初版本であった。

シリーズ一作目である『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』が、末期患者が「死の受容への五段階」と言われるプロセスを通って死を受け入れることを、患者との対話や考察から説明してゆき、人はどのように死を迎えるべきで、死に対していかに対処するか、という方向性を持った本であったのに対して、シリーズ三作目であるこの本は一作目の主張を前提にして、自分自身の死が成長の最終段階である事、正確に言うと、自分の死を身近なものとして捉えて、そのことについてに深く考えてゆくことが大きな人間的な成長に繋がるという主張を主要なテーマとしている。

この本は一応エリザベス・キューブラー・ロス著という事になっているけど、どちらかというとエリザベス・キューブラー・ロス編、といった方が良い構成で、人間が死についてどのように捉えているのか、またどのように対処しているのかを、色々な宗教や民族、また色々な職業や立場やバックボーンを持つ個人の視点から、論じたり述べたりする文章が集められている。
例えば、ユダヤ教やヴェーダ思想やウパニシャッド哲学や、アラスカ・インディアンが死をどうとらえて、どう扱っているかを分析して考察した論文、また、死に瀕した患者自身や、子供を無くした親や、極限的な体験をした人々の手記や手紙(エリザベス・キューブラー・ロス自身の体験談もあった)などいった具合である。

この本に登場したり論じられたりする、それら色々な立場や生き方をして来た人々、また、色々な宗教や立場などは千差万別であるけど、誰もに共通している「死ぬ」を通して人間存在を見てゆけば、共通する部分はとても多いし、個人であろうが文化であろうが大した違いは無いということであろうか。

実際的な「死」だけではなく「死」を何らかの世界の移行と仮定することで、我々の環境や状況が変わることも「世界の移行」としての象徴的な「死」として成長の機会と捉える考え方が展開され、死ぬ本人と死ぬ本人の家族だけではなく、身近に死が迫っていない人も、死を思うことで自ら成長のきっかけとなると言った主張が、この本の骨子なのかもしれない。

子供たちや遺族なるべく死者を見せず、生きているかのように飾り立てて葬る習慣が、人が死に対する考えるきっかけを奪い、やがて直面する肉親や自分の「死」を前にすると大きなショックを受けて対処できなくなる傾向を作っている。という一作目の前提となっていたテーマは、より大きく主張されていたように思う。

特に、この本の中の、日常的に死に触れながらも、死を非日常として、遺族から遠ざけるのが正しい事だとして取り扱っていた葬儀屋さんの男性が、自分の父親の死を切っ掛けに、自分の仕事であった葬儀について考えさせられ、変わって行く話が特に印象深かった。

私自身も「死」と「死者」と「死ぬ事」については色々と経験したり、感じたり、考えたり思ったりした事があるのだが、また機会があれば書いてみたいなぁと思う。

2008年09月07日

●エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』

amazon ASIN:4643920521 エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』を読んだ。
この本は、精神科医あるいは心理学者である著者が四人の神学生たちの「人生における危機」についての論文執筆のための要請に応じて、死に瀕している末期患者へインタービューを行い、彼らの反応と要求を研究する。といったゼミからスタートして、延べ200人の末期患者へのインタビュー行い、そのインタビューのいくつかの実例を具体的に取り上げて、そこから「死」にいたる人間の心の動きに迫ろうというものである。
インタビューするといっても、患者を患者として扱うのではなく、一人の人間として、患者がもうすぐ死ぬ事を前提として、一個の人間として何を感じ、何を思うのかを、患者を先に死に赴く教師として、とても個人的なレベルで話してもらうことで、個人にとって死とはどう受け止められるのか。という事を浮き彫りにしようとする方向性を持っている。

著者はこの本を、ただ死に臨んだ精神状態を分析するだけでなく、死に臨んだ人を、無駄に苦しめて延命させるのではなく、本人の望みと合致した形で如何に幸せに死なせてあげられるか。といった問題意識と目的意思識を持って書いている。
その目的と問題意識のゆえ、この本は末期患者だけではなく、その患者の家族や末期患者に対する精神療法の必要性にまで言及する、なかなかに盛り沢山な内容になっている。

そして、この本は1969年に出版されるや大きな反響を呼び、現在では、この本は「終末医療」や「ホスピス」なる概念を生み出したもとであり、そういった考え方のバイブルとも言われるほどの位置にあるようだ。

そのスジでは有名な本ではあるが、恥ずかしながら読んでいなかった。

私が図書館で借りて読んだこの装丁の本は1971年のもので、現在は新しく訳し直された新版が出ているらしい。私は借りてからその事を知った。
この1971年の旧版は訳が古くて訳出にもちょっとした問題があるらしい(と訳者が言っている)ので、私はこの本でも何の違和感も感じなかったけど、読んでみようと思った人は、新しい訳の物を読む方が良いかもしれない。

著者によれば、死に望んだ人は五つの段階を通って死に赴くらしい。
具体的に言うと、"私が死ぬはずが無い"や"診断は間違いに違いない"と思う「否認と隔離」の第一段階、そして次に"何故他の人間で無く私が死なねばならないのだ?"といった「怒り」の第二段階、そして"あと~ヶ月長く生きさせてもらえれば~する"と医者や神に要請する「取り引き」の第三段階を経て、あらゆる物に絶望してあらゆる力を使い果たしたような第四段階の「抑鬱」の状態に入り、最後に自身の死を受け入れる「受容」の五段階をたどると言う事らしい。
ただ、各段階は明確に別れるわけではなく、ある程度重なり合い、また一つ二つ前の段階の精神状態が時々出てきたりもするし、最後の段階に向かわずに死を向かえる人もいる。更には常に希望は全くなくならないところもミソであるらしい。
学術的なレベルでこの本を捉えると、著者の主張するこの「死の五段階説」がこの本の中で重要な部分になってくるのだろう。

しかし、単に純粋な興味で持ってこの本を読めば、そういった学術的な「死の五段階説」など関係なく、各段階で苦しんだり喜んだりする末期患者のリアルな叫びが伝わってくる。

我々は自分自身が確実に死ぬ事を知っているけど、実際に自分自身の死はリアルなものではないし、ある意味で自分自身を不死なものとして捉えているところがあるだろう。
大抵の場合、死は我々にとって自分の問題ではなく他人の問題として捉えられる。
しかし、この本の中では、死をリアルな自分の問題として捉えて苦しみ抜き、結局死んで行った人達の望みと言葉が載っている。そのリアルさと言うか悲痛さと言うか真剣さは、巷にはいて捨てるほど溢れている「死は生の同一線上にある」的な言い草が如何に薄っぺらい言葉であるかを思い知らせてくれる。

死ぬ事を受容し、この世に興味を失う状態は、本人にとってこの世に思い残す事が無い証拠であり、残された家族にとって喜ぶべき事である。という見方が心を打った。
そして、結局こういった「幸せな受容」に至る人の誰もが、宗教的であるか、限りなく宗教的であるものを通っている事に、なんとも心を動かされた。

2008年08月14日

●マイスター・エックハルト 『神の慰めの書』 訳:相原信作

amazon ASIN:4061586904 「やっと」と言うべきか、マイスター・エックハルトの『神の慰めの書』の感想を投稿する。
結構な時間をかけて読み、読んだ後もこの感想を書き始めるまで結構時間があった。
なんというかあんまり適当なことを書くわけにはいかんなぁという感覚が書くのを遅れさせていたように思う。とはいっても、時間をかけてゆっくり書けばそれなりの物が書けるという事も無いやろうし、観てすぐに書く映画の感想が適当と言うわけではないんやけど。

思想家としての神学者エックハルトは、プラトンやとかデカルトやニーチェといったメジャーな哲学者どころか、同じく神学者であるアウグスティヌスやトマス・アクィナスに比べても、一般的にマイナーであろうかと思うので、彼自身についてちょっと調べた所を書いてみる。

彼は、トマス・アクィナスが現役のパリ大学の教授で、日本では親鸞が死んだ1260年代の初めにドイツのチューリンゲンに生まれ、神学者の道をひた走って、学問的にも教父としても人々の尊敬を集め、神学教授としてのパリ大学での功績を認められて「マイスター」の称号を受けている。
しかし1326年に当時アヴィニョンにあった教皇庁から異端の告発を受け、審問を待つ間に彼は死んだものの、結局彼は異端の烙印を押されて全ての著作は焼かれて所持も刊行も禁止されてしまった。
彼に関する情報がことごとく意図的に消去されたおかげで、現在、彼のことはほとんどわかっていないらしい。
その後カトリック教会は彼の名誉回復を行って、彼を学聖として祝福したけど、彼自身の手によるといわれる著作物は殆ど全くと言っていい程残っていないらしい。
今世にある彼の著作と言われるものの殆どは彼の説話やエピソードを記録したような形の文章、又は教説に関しての口述筆記らしいものであるようだ。

そしてこの本もそんな教説集の一編である。ドイツで出版されていた二冊のテキストから訳者が選んで構成した物であるようだ。しかしこの本自体の表題にもなっている『神の慰めの書』はハンガリー王妃に向けた文章で、唯一の彼が直接書いた事が明らかになっている文章であるらしい。

異端とされた神学マイスターなる立場はなんとなく男心をくすぐる何物かを持っているけど、彼のそんな立場は関係無しに、彼は彼の教説からどちらかと言うと神秘主義者という位置づけるあるようだ。
聖書の「幸福なるかな、心の貧しい者」を、彼は自己を捨てた、仏教で言う無我のような物として考え、自身を無にすることで、自身に神を迎え入れるための存在となる取った事を説いている。
自身が無になり処女性を帯びる事で、処女受胎のように神を生む事が出来る。といったように、自分自身が神と一体化するような方向性をもった教義を述べているように思える。
彼が我々に言わんとする事を最も端的に言ってしまえば「自己を放棄して無になることで神と合一する」と言う事だろうし、確かにそこには「悟った」と言われるような人たちが口にする典型的なタイプの一つがあるように思える。
ここまでなら、彼の言っている事だけを取れば、頭でっかちの悟ったつもりの勘違いした自称宗教家、自称哲学者が言いそうな事と同じであろう。
口だけでは何とでも言えるし、問題はその言葉が真実らしく読む人の心に響くかどうかである。

世間では往々にしてそういった事を口にする人は胡散臭い人だったり、完全にに勘違いしているように見えるが多いようで、いわゆる「悟った」というか「見てしまった人」というのは、そうではない人とそういった事に関する事を話し合ったり主張したりせず、自分がそうである事を声高に述べないものであるような気がする。
世の中でそう言う事を口にするのは、語る本人にとっても、その語られる事どもにとっても、あまりにリスクが大きすぎるし、現にエックハルトはそのおかげで異端認定までされてしまっている。

しかし、彼がそういったリスクを負いながらもひたすら彼の到達地点と目指すところを語っていたのは、人に対する愛からではなかろうかと言う気がしてしょうがない。
自分自身が何とか乗り越えたり、乗り越えようとしている試練に、他の人たちが立ち向かっているのを見ていると、その試練に恐れる事無く立ち向かえるように言葉をかけずにいられないのではないだろうか。

彼が言う「無我による自己の放棄」とか「神と同一になることで自らが神性を帯びる」なる教説は、私からすれば単語レベルの言葉の意味として理解されうるのみで、自身の実感として理解するには遥か彼方にある境地である。
しかしながら彼が、私にも良く理解できる苦悩や欲望や罪、などあまりに人間的なものに対して言及する言葉はとても心に染みる。

「私はあえて、いかなる聖者も愛や悩みによって動かされない、程に偉大であった事はかつてなかった。と主張する」と彼が言うように、人間であれば愛や悩みなる欲望と苦悩から離れられないとでもいうところが彼の人間に対する認識の基本なのだろう。
「罪への傾向性は罪ではない。罪を犯す事を意志する。それが罪である。」として、欲望や罪の根となる「傾向性」自体が消えるのではなく、それと戦う事こそが尊い仕事であると説く。
苦悩と欲望との死闘が神への捧げものであるとするキリスト教的な価値観を、彼はなんと苦悩と罪に満ちた人間存在に対する同情と愛を持って語るのだろうと思う。

そういった苦悩と罪と一緒でしか存在し得ない人間なる基本認識を前提にして、「まことに私は、私の中の魂に徹頭徹尾神を受け入れるに十分な能力をもっている。私は、私自身生きている事を確実に知っているが、それと同じ程度の確実さを持って、何物も神ほどに私に近くない事を知っている。神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである」と言う事を誰でも同じですよ。というトーンで言っている。

自己を捨てれば捨てるほど神を認識して神が自分に合一化しやすくなるという、凡人からすればあまりにもぶっ飛んだ教説は、ここでエックハルトの愛と同情に満ちた人間観と一体化して、読むものにリアリティーと感動を引き起こすのである。
「我が苦悩こそ神なれ、神こそ我が苦悩なれ」「神御自身がわれわれと共に悩み給うのである。」なる言葉に至っては、神を信仰する人にとってとても慰めと力づけになる言葉である事は良くわかる。

また「酔える人マリア」と「働ける人マルタ」を比べて、観想的であるよりも活動的である事の方が良いとして、生活こそもっとも偉大な認識を与えるとしている事は、宗教者でも学者でもない我々にとって何と励みと救いになる事だろうか。

エックハルトの説く教説やとか説教はもちろん、悟ってもなお、凡人と同じ場所に立って、同情と愛に満ちた言葉を人にかけ続ける彼のお人柄も、彼が現在でも読まれる事の大きな一因ではないのだろうかと思った。
自分の信仰やとか知恵を誇るようなトーンが皆無で、人間に対する同情と愛に満ちながら、熱く熱烈に神の愛と神の国がどれほど素晴らしいかを語られると、さすがにそれは素晴らしそうやなぁという気になってくる。
結局、思想であるとか哲学であるとか宗教であるとか、そういったものはそれを持つ人がどういった人であるかと言う事、また語られる事と語っている人が切り離される事無くどれだけ素晴らしかったり、信頼できる存在であるかと言う事が、本当に大事なのではないかという思いを強くした。

個人とその思想は切り離されてしかるべきであるという事をヤスーパースが言っていたような気がするし、確かにそうであるべきなのやろうけど、それでももし私がなにものかの真理を目指して哲学する人間であるとしたら、私の言葉、私の行い、私の存在でその哲学なるものを貶めて汚す事のないように「あいつがあんな無茶苦茶やねんから、あいつのいう事もたぶんあんな無茶苦茶なんやで」などと言われないようにしたいなぁという思いを強くした。
そして逆に「あんなに素晴らしい人の言う事やから、きっとあんな人が目指すものも素晴らしいに違いない」と言われるようになればこれに勝る幸せは無い。
と思った。

って結構書いたなぁ。長い感想というかレビューになってしまった。皆読んでくれるか心配である。

2008年08月02日

●手塚治虫 『どろろ』 / 「なんとかカルボナーラ」は当たりにくい

この日スパゲッティーを食べたのだが、メニューだけ見るととても美味しそうに見えて心惹かれる「何とかカルボナーラ」は大抵どれも同じ味で代わり映えしない事が多いなぁと思った。
それならあえてそれほど好きでもないカルボナーラーを選ばずとも他のものを食べとけばええやん。と。
これは美味しい!という「何とかカルボナーラ」や「カルボナーラー何とか風」があればぜひ知りたいものである。

amazon ASIN:425316997X この間、『魍魎戦記MADARA』を立ち読みしてちょっと期待外れやった。ってことをブログに書いたけど、それならばそういった系統のオリジナル作品を読もう。
ということで今勝手に名づけた「失われた空白を取り戻してゆく系」のはしりの漫画である、手塚治虫の『どろろ』を今更ながらに読んだ。

ストーリーを単純に言えば、父の天下取りの野望のため、その代償として妖怪に体の48箇所を奪われた状態で生まれてきた百鬼丸が、失われた体を取り戻すために妖怪と対決してゆくもの。
1967年から1968年まで少年サンデーに連載されていたらしいけど、あまりにも暗い内容で不人気でほとんど打ち切りのような形で終了したらく、かなり唐突な終わり方であった。
確かに少年漫画としては底に流れるテーマは重過ぎるし、ストーリも雰囲気も暗すぎるような気もする。少年ジャンプな少年漫画のテーマである「友情・努力・勝利」とはかけ離れた位置にあるだろう。

amazon ASIN:4253169996 amazon ASIN:4253169988 妖怪変化や侍や武士などの純日本的な設定の中、エディプスコンプレックスだのアイデンティティだのと、わかりやすいテーマは、意外に西洋的なものに端を発するものが多いようにみえるけど、どんな悪人にも妖怪にも同情する余地があり、絶対悪は存在せず、自らの幸せや欲求を追求することは他人の欲望や時にはその存在自体を犠牲にすることであるという感じのあまり西洋的とはいえないようなテーマが執拗に繰り返されていたあたりが、少年誌的には解りにくくあるけど、とても奥行きがあるように感じさせられるところであった。

出てくる妖怪がかなり不気味で、無闇に強い百鬼丸が格好良く、どんなことにも挫けない「どろろ」が可愛らしい、といったエンタメ的要素も多い。殺陣とか血の吹き出し方は黒澤明映画のようだ。
とはいっても百鬼丸が無敵の剣士というわけではなく、連れのコソ泥である「どろろ」や妖怪被害を被っていた村人たちに助けられて妖怪たちを倒すところが良かったし、妖怪と妖怪に操られる人々が人にとりついたり襲ったりするのにもやむにやまれぬ理由とそれにいたる悲しみがあるのが良かった。

村人の味方となって闘いながらも、結局は異形ゆえに妖怪の一味のような扱いをされて村から追い出される百鬼丸が、その事を当たり前として受け入れている様がなんともたまらんし、妖怪を見つけ次第ぶち殺してゆく百鬼丸やどろろであるけど、村人たちよりも妖怪に取り付かれた人の方により親近感を抱いている節があるのはわかるような気がする。

それでも、妖怪を殺して失われた体の部分を取り戻す度に、新しく得た器官で世界を賛美する百鬼丸と、どんな状況でもあきらめずに前向きな「どろろ」がとても清清しい。
何度も読み返したくなる漫画であった。

2008年06月23日

●『変身ほか (カフカ小説全集4)』フランツ・カフカ/池内紀 訳/手稿版

amazon ASIN:4560047049 昔からカフカといえば、難解な実存主義的な不条理文学であるという扱いで、意味が解らず小難しい文学者というイメージが一般的であるような気がする。
そういったカフカの暗く迷宮的なイメージの形成には、カフカを売り込もうとしてカフカの遺稿を整理して編集して発表した友人のマックス・ブロートの意図だけではなく、第二次世界大戦後にブームになるほどにもてはやされたきっかけとなった、実存主義者であるカミュやサルトルの影響が大きいだろう。

この間にミヒャエル・ハネケが映画化した「城」の事を調べるうちに、マックス・ブロートの手の入ったテキストでなく、そういった今までの影響を払拭してカフカのイメージを覆すとも言われる、カフカが書いたオリジナルの原稿から綿密に構成された「手稿版」と呼ばれる全集の存在と、そこから直接翻訳されたという日本語の全集も出ていることを知った。

私はカフカの小説を15年ほど前の若かりしころに新潮文庫で『変身』と『城』を、岩波文庫で『審判』と『流刑地にて』などの短編を、角川文庫で『アメリカ』を読んでいるけど、カフカ好きと任じて憚らない私なので、今までの暗くて迷宮的なカフカも好きやけど、今までとは一変したカフカも読んでみたい。ということで読んだ。

読んだのは「手稿版」から直接日本語に翻訳された、白水社から出版されている六巻構成の池内 紀訳の『カフカ小説全集』の中の4冊目、『変身ほか (カフカ小説全集)』である。
私の大好きな『流刑地にて』と『断食芸人』が入っていてかなりお得感があったので他の巻でなくこれにした。
巻の構成としては、カフカの小説としてメジャーな『変身』を筆頭とした、彼の生前に刊行されたものと刊行されるはずだった『断食芸人』などの短編を収録してあるものである。

「手稿版」でどれだけカフカのイメージが変わったのか結構楽しみにして読んだけど、良く考えればこの本のほとんど全てはカフカの生前に刊行されたものであるから、マックス・ブロートの手が入りようがないではないか。と気づいた…

カフカが生前に発表したものはこの本の中にある短編だけで、彼の代表作として名高い『城』『審判』『失踪者(アメリカ)』などはカフカが自分の死後に焼き捨てるように遺言していた遺稿を、マックス・ブロートが再編して世に出したからこそ日の目を見たわけである。カフカが生前に発表していたものだけでは彼はただの草小説家として歴史の中に消えていたに違いない。
マックス・ブロートの行動はカフカの遺言を守らなかったという意味では非難に値するかもしれないけど、結果的に20世紀を代表する文学者の一人を闇に埋もれさせなかったという意味で社会的な功績は大きいだろう。
このおかげでわれわれがカフカの著作を読めるわけであるけど、カフカが残った原稿を焼き捨てるよう指定していた事実に対しては、恐らくそれらの原稿が未完であるゆえだと思うけど、「何もそこまでしなくても」という違和感をずっと抱いていた。

この本に載っているカフカが生前に出版した『田舎医者』なる本の中の『家父の気がかり』という極短い章で、、何をしているのか、名前の意味も、死ぬのかどうかすら解らない、星型の生物のような、まったく捉えどころのない「オドラデク」というものの存在に対して不安を抱く様が描かれるのやけど、この抱かれる不安に対してもこの「オドラデク」が具合的に害のある存在でもないのに何がそんな不安なのかと違和感を感じた。
そしてその違和感が先に書いたカフカの遺言に対して抱いたものに似ているのに気づくに至り、カフカが「オドラデク」に対して抱く見方は、彼自身の自分の未完成の原稿に対する見方に似ているのではないかと思った。
『家父の気がかり』の中での「誰の害になるわけでもなさそうだが、しかし、自分が死んだあともあいつが生きていると思うと、胸をしめつけられるここちがする。」という文章はその事をとてもよく表しているように思える。
まったく捉えどころが無く、存在していることは確実でも存在の本質的なところは何もわからない。という風に自分の書いた未完成の原稿を見ていたのだとしたら、自分自身に対してもそのような見方をしていても何の不思議も無いだろう。

カフカの小説に漂っている不安と言うのは、何らかの存在を前提した上で、その存在の意味や意義が見つからないととったような、いわば実存主義的な根本的な不安に根ざしているように思う。
手稿版のカフカはどう違うのか。という当初のコンセプトでは読めなかったけど、この年になって読むカフカは中々にヘビーな物語であった。若いころには「ふーん」で見過ごしていたことも、この年になるとかなり目に付くことも多くなっているようで、『変身』などは主人公自身の変身に加え、家族の変身度合いも中々にきついものがある。いやこれはきついわ。

ってここまで書いて、私ってば結局従来のようにカフカと実存主義っぽいことを絡めてるやん…
新カフカはやっぱり別の本読まないとあかんかなぁ。と思ったけど、この歳になるとひたすら不毛でかつ未完の迷宮的物語である『城』とかを読む気合はあまり無いなぁ…

2008年05月23日

●マルクス・アウレーリウス 『自省録』

職場の新人さん歓迎会に出席するも、殆ど新人さんと喋っていない…でもまぁ出席して顔は見てもらったからええか。
「なぜ私には彼氏が出来ないのか?」と涙ながらに訴える某レディーを弄っているうちにそう言う話になり、「●●やんはそれ関係どう?」と問いかけられて「私には仏教がありますから」と手を合わせた某氏を初めて「恰好良い」と思った。

amazon ASIN:4003361016 家に帰ってカフカを読むつもりが、ふと本棚の片隅で目に付いたマルクス・アウレーリウスの『自省録』を思わずぱらぱら読みしていたら変なところにクリティカルヒットした。
当時、世界で最も権力と富と名誉を身に帯びていた者の一人である、ローマ帝国五賢帝の一人の余りに謙遜で真摯な言葉が、ただの一介のおっさんである私の胸にグサグサ突き刺さる。と言うのも考えてみれば不思議な話ではある。

「実るほど頭を垂れる稲穗かな」な人こそ本当に偉大だと最近よく思う。卑屈でもなく、自己否定的でも無く頭を垂れるのは本当に難しいと思う。

そういえば昔カフカを読んでいた頃にこの本も読んでいたなぁなどと思い出す。その頃の気分や精神状態と一緒に。
そういえば、そういえば、そういえば…

この本を読んでいた頃、当時はこの本がとても好きだった。殆ど人には言わないくらいに好きだった。今になって思えば、この本が好きだと言う自分なら好きになれると思っていたふしもあったような気がする。
年を取ればこのような立派な人間になれればどれだけ良いだろうと思った。しかしながら、現実はこうである。
しかし一方で、この年になった私がこう言う状態にあったであろう事を当時予想できたであろうか。
この本を読んでいた頃の私と今の私が時間的につながっていると言うのはとても不思議なような気がする。
と同時に、2世紀ローマの哲人皇帝の文章を今も昔も読んでいる事も、考えてみればかなり不思議な話である。

2008年05月09日

●ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟 1~5』 亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫

amazon ASIN:4334751067 amazon ASIN:4334751334 以前から事あるごとに読み直している『カラ兄』を光文社古典新訳文庫から出た亀山郁夫訳の新訳で結構な時間をかけて読んだ。もう何度目か分からん。

難解で長大な小説というイメージの『カラ兄』やけど、新しく出たこの新訳は今までの訳に無い読みやすさということで各メディアがこぞって取り上げ、各批評筋もそろって絶賛して、売れに売れて古典文学では異例のベストセラーになった。

評判をそこかしこから聞くにつれ『カラ兄』フェチの土偶としては是非とも読みたいなぁと思っていたのやけど、やっとこさ読む事が出来た。
訳出するにあたってのコンセプトは「流れ、勢いを損なわない」ということらしく、確かに物語のストーリー展開を重視したようなスピード感のある『カラ兄』だった。以前にこのブログで『カラ兄』については書いたので、ここでは『カラ兄』自体についてではなくこの亀山訳について書いてみたいと思う。

この訳はとても読みやすいという評判やったけど、私が今まで読んできた米川正夫訳と比べてこれが特に読みやすいとも思わなかった。
逆に言うと米川訳を読みにくいと思わないという事やけど、でもそれは私自身がある程度ロシア文学に慣れていてロシア文化とロシア文学の癖をある程度理解しているからこそであろう。
亀山訳はロシア文学で大抵最初に躓く、同じ人物に対する何通りもの呼び名と分かりにくい愛称を、本名やら愛称やら父称やらの何通りもの呼び方をなるべく1つにして分かりやすくする気遣いもなされているらしく、ロシア文学独特の他のごく普通の小説では躓きようの無い部分をなるべくそうならないようにしてあり、ロシア文学に親しみの無い人にとってもそのあたりでも読みやすさがあったのだろう。

本の構成としては1から4章までとエピローグが独立して一冊づつの5巻構成になっているのやけど、それぞれ1から4章までの各巻の解説は今までにありがちな重厚な問題に対する学術的な解説というよりは、『カラ兄』を物語として楽しむための当時のロシア文化案内的なところや当時の社会情勢の解説が多かった。例えばロシアの通貨単位から物価、モークロエで散在したといわれる3000ルーブルを現在の物価に直した額など、中々に良い感じであった。この解説のおかげでとても楽しく『カラ兄』が読めるだろう。
しかし、驚くべきはエピローグの5巻で、エピローグ自体の内容は前半40ページほどで、残りの300ページ超は訳者による各巻の解題・作品解説といった文章である。
ドストエフスキーの名を冠した本の360ページほどのうち9割近くがドストエフスキーではない訳者の文章であるという、かなり驚かされた構成やけど、中々に読み応えがあって面白かったのでそれはそれでとても良かった。もうこんな読ませ方は殆ど騙まし討ちやけど、こうでもして読まされる価値は十分にあるだろう。ドスト氏のポリフォニー性の話と、アリョーシャの悪魔性の話が面白かった。勢い余り過ぎて書かれなかった未完部分の第2部を予想しているのはちょっとやりすぎやんと笑いつつも『カラ兄』好きとしてはその気持ちはよーく分かる。

私が今まで読んできた『カラ兄』は米川正夫訳であったけど、それでも、いかにも重厚なロシア文学的な雰囲気が現代風になっているというくらいで、彼の訳と比べて全く違うものになっているとはとても思えなかった。全体としては大して変わらないような印象である。
それでも、当然違う点もあるわけで、一番私が違和感を覚えたのがゾシマ長老のキャラクターである。
亀山訳のゾシマ長老は妙に都会っぽい言葉遣いと雰囲気で、米川訳の田舎っぽく民衆に近い素朴で大らかな懐の広いゾシマ長老と大分違うような気がする。これは私のゾシマ長老像とかなり隔たりがあった。
後、これは訳者がアリョーシャの悪魔性を解説で書いていたので、恐らくそのニュアンスで訳しているのやろうけど、アリョーシャが天真爛漫で本当の「神の子アレクセイ」な米川訳に比べてちょっと切れ者で皮肉的なように描かれているような気がして微妙に違和感を感じた。それから米川訳で全編に漂っていた雰囲気である、私がドストエフスキー的でロシア的だと思っている、ロシアの民芸品マトリョーシカに通じるような、なんとも言いがたい回りくどくてしつこいような妙な間抜けさというかおかしみがかなり少なかったような気がする。
とはいってもその違和感もゾシマ長老は早々に死んで気にならず、アリョーシャの雰囲気にも慣れてしまった。回りくどくてしつこい間抜けさが少ないおかげでスピード感とシャープさが出ている。

以前の私のブログでも『カラ兄』を

<涙無しには読めない場面あり、もう呆れて笑うしか無い場面あり、気色悪くてぞくぞくするしかない場面あり、キスシーンすら出てこない健全さにもかかわらず、まともな奴は誰一人として出てこない、バカがバカを呼びキティーがキティーを呼ぶ至高の茶番劇『カラマーゾフの兄弟』おまけに「大審問官の章」もついてくるよ。>

という読み方をすれば、通説的な「大審問官」で表されるようなややこしいものではなく、現代にも通じる読み方が出来るだろうって書いたことがあるけど、この訳はまさにそういう読み方を目指したものであるのだろう。読みやすさというか、挫折せずに物語を楽しんで通読することに主眼を置いた訳者の意図は見事に果たされているのであろうし、古典という括りで沈んでしまいそうな『カラ兄』を再びメジャーな所に引き出した意義はとても多いだろう。
この亀山訳の『カラ兄』は最も現代に即した訳であろうし、やはり『カラ兄』やロシア文学を初めて読む人にとっては一番良いに違いないと思う。

ネット上では新訳を巡って旧訳まで巻き込んだ活発な議論がなされている。新訳の是非はそれこそ時間が結論付けることであろうけど、新訳が出ることで旧約の問題点も確かに浮かび上がっていることは良いことやし、新しい訳として何かしらの選択肢が増えることも良い事に違いない。何よりも何かしらカラ兄が話題になっていることはカラ兄フェチとしてはとても嬉しい。

最後に翻訳の話ではなく『カラ兄』そのものの話である。今までこの本をアリョーシャやゾシマ長老に着目して読むことが多かったけど、今回はイワンの色々なものに引き裂かれるがゆえの自分自身から来る辛さや苦しさをなんともいえない切迫感を持って感じた。
また、この本を読んでいる私自身がエピローグでイリューシャの運命に際して一瞬でも自分がこれだけ素晴らしい感情を抱きえた人間であった事を忘れまいとアリョーシャと共に誓い、コーリャや少年たちと共に「カラマーゾフ万歳!」を唱和することはやっぱり何かしらの確認作業であることを自覚的に意識した。
多分私はそれを再認識する為にこの本を繰り返し読んでいるような気がする。という事を今回読んで強く意識した。まさに「カラマーゾフ万歳」である。

って良く考えれば私は原卓也訳を読んでない。とりあえず読んでおかねば。

参考ページ:
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する @ ドストエーフスキイの会

2008年03月31日

●アウグスティヌス 『告白』 山田晶訳(世界の名著 14)

amazon ASIN:4124000944 古代から現在に至るまでのキリスト教の最大の教父であり続け、西洋世界に多大な影響を及ぼした偉大な神学者であるアウグスティヌスの自伝という事になるのやけど、当然「自伝」なるものに良くありがちな自己満足的で自己顕示的なものでない。
自分自身の幼年期から北アフリカの小さな町ヒッポの司教に至るまでの人生と罪をそして彼が今何を考えているかを神と人々の前で告白するという趣旨で書かれた本である。

全体としては十三巻の構成であり、私の読んだ山田晶訳の『世界の名著 アウグスティヌス』では上下二段の500ページ超ととても長く、更にその中のどの一センテンスも油断して読めないくらいに内容の濃い本であった。
アウグスティヌスの『告白』の日本語訳としては岩波文庫の服部 英次郎訳と世界の名著の山田晶訳が有名やけど、カトリック信者であり、かつ前に読んだ氏の著作がとても面白かった事もあり、入手のしにくさははちょっとあったけどあえてこのテキストを選んだ。
この山田晶訳の『世界の名著 アウグスティヌス』はアウグスティヌス自身の著作だけでなく、巻頭にあった山田晶の解説が以前読んだ『アウグスティヌス講話』並にとてもためになって面白いものであった。この前半の解説だけでもとても価値があるだろう。

アウグスティヌスの『告白』としての構成は内容的に大きく前半と後半の二つに分かれていると見なされるのが一般的であるようで、前半は彼がカトリックに帰依する事となりヒッポの司教として今に至る所までを、自分の行いと罪を告白するような形で書かれた十巻までを指し、後半は前半のような一般的な意味での告白ではない、主に創世記についての解釈と彼の解釈が語られる十一巻から十三巻までを指しているようだ。
とはいっても後の世の人がつけた区分である後半の部分も彼からすれば前半で述べられる自分の行いと思いと怠りで犯した罪の告白同様に、現在の彼が神とその言葉である聖書についてどう捉えているかと言う告白になるわけで、読んでいても大きく話が変わったと言う印象を持たなかった。
物語としてニュースソースとして彼の回りで実際に起こった出来事について事実関係のみを情報として得ようとする読み方をすれば前半と後半に大きな隔たりが見られるかもしれないけど、彼がこの書物を書くに至った本来の意図である「告白」として、世界の思想の根底の一角を担う余りにも偉大な彼が一個の弱い個人として語る言葉に耳を傾けるつもりで読めば違和感なくひとつながりの話として聴けるし、その前半部分あってこそ後半の考えに至ったんだと感動する事が出来た。

幼年期と少年時代に関する話の一巻、青年時代について書かれた二巻、カルタゴ時代の恋愛とマニ教へ入信する顛末について書かれた三巻、マニ教の熱心な信者として過ごした時代についての四巻、そして五巻ではそのマニ教の呪縛から脱してミラノに移ってアンブロシウスと運命的な出会いを果たしてもう一度洗礼志願者になろうと決心する様が語られる。三十歳になったアウグスティヌスはますますカトリックを深く理解しつつも、初めの女性との離別の後に見つけられた婚約者が結婚できる年齢に達するまで待つ間に他の女性と関係を持ってしまい、自らが肉欲に深くとらわれてとても醜く弱い存在でしかない事を確信するさまが六巻で語られ、七巻では三十一歳の彼が神については良く理解しながらもキリストについては正しく考えていなかった事が告白された後、八巻では信仰を求めてあがいていた三十二歳の彼が何人かの偉大な宗教者の回心と信仰の話を聴いて、激しい霊肉の闘争の末、導きによって完全に肉欲を捨てて修道士になる決心をする様が描かれる。恐らくこの本で最も感動的な涙なくしては読めない巻であろう。
そして九巻は山荘での信仰のみの生活と母モニカの死について語られ、十巻では現在での彼自身の信仰と自分自身について告白する。
十一巻からは創世紀についての解釈の試みであり、十一巻では「時」について、十二巻では「天と地」ついて、十三巻では主に「三位一体」について自分の知る事を告白する。というのが全巻を余りに短く説明してみた内容である。

冒頭の一巻で、子供の頃に勉強をサボって遊び呆けていました。と自分の罪として告白するところで結構驚いたと言うか、こんな偉大な人がこう言う事を言うのだととても微笑ましかったのだが、我々から見れば、彼が罪にまみれたと告白する時期、例えば遊び回っていた青年時代でさえそれなりの信仰を持っているように見えるのやけど、彼にとって信仰とは自分の存在全てで飛び込むものであると捉えられており、そう言う意味ではアウグスティヌスの捉える信仰とは我々の言うようなチャチな信仰とは桁が違う。
そんなアウグスティヌスが信仰の道に飛び込む事を躊躇させ、最後まで捨て切れなかったのが「性欲」であるところがまた何とも言えない。
山田晶が言うように、たしかに今の我々から見れば彼の告白する欲望としての恋愛は「純愛」に見えるし、彼が決定的に自分が弱い存在である事を確信し、神にすがる意外に道はないと確信するに至った自身の醜さである罪は、最初の「純愛」である女の人と別れ、社会的に地位を固めようと結婚するために婚約者が探されて、その婚約者が結婚できる年齢になるのを待つ間についつい他の女の人に手を出してしまった。と言う事実である。
一般的に今から言えば「ギリ浮気」位のレベルであり、この位どころかもっと見るに耐えない事をしながらも何の良心の呵責も感じず、更に自分の浮気や不倫を何か誉のように語る余りに見苦しい人々すらいるくらいで、今から言ってもアウグスティヌスはそれほど非難されるべきでないと言う考えは大きく賛同できる。

彼は若い頃に肉欲にまみれていたのではなく十分立派で好感の持てる成年であったし、ただ今の世ならスルーされるようなレベルの自分の肉欲と素直に徹底的に向きあったと言う事である。
偉大な人は小さな不幸や小さな罪から大きな事を学ぶし、愚かな人は大きな不幸や大きな罪からも何も学ばないものだ。と言う事であろうか。

彼の感じた良心の呵責と、彼の感じた自己否定と、彼の感じた自己の価値の無さは、まともな男性なら身につまされて感じ、また乗り越えられるべきものであると大いに共感できるであろう。
結局、偉大な思想家である彼の本を読んでみて一番印象に残っているのは彼の余りに偉大で余りに清らかで美しいお人柄と言うか魂である。

私の好きな文学作品の著者、例えばドストエフスキーやニーチェ(も文学者的に見ている)などの場合は、お世辞にも人格的に優れた人間であったとは言いにくいし、恐らくそこには著者を離れた物語性の介在する余地があるからではないかと思うのだが、著者と著作はある程度切り離されて独立しうるような気がする。
しかしながら直接的に自らの思想を語る思想家の場合、彼の思想と人格は密接にリンクしてるのではないか。
パスカルしかり、山田晶しかり、そしてこのアウグスティヌスしかり、偉大な思想家であればあるほどその人格もその思想同様に素晴らしいと最近思うようになった。

彼の余りに素晴らしい人格とあまりにも高潔な魂が、最後の最後まで例えば「性欲」といった余りに卑近でちっぽけに見える苦しみや欲求と戦い、とことんまで打ちのめされた末に神に頼る事で勝利を得た様は、彼が自分の告白で同じ意思に躓く人の助けになるようにと願ったように、多くの人に勇気と力を与えるだろうと思った。

最後に、ちょっと気になった事。十二巻の二十九章に「歌はひびくやいなや過ぎ去ってしまいます」と言う言葉がある。
これは有名なエリック・ドルフィーの台詞と同じのような気がするのやけど、エリック・ドルフィーはアウグスティヌスを引用してたのか?凄いなぁ。と思った。考えすぎ?

2008年01月27日

●ブレーズ・パスカル 『パンセ』 由木康訳

amazon ASIN:B000JBBMQ6 田辺 保『パスカル――痛みとともに生きる』野田又夫『パスカル』の二つの入門書で予備知識を仕入れた後、ブレーズ・パスカルの『パンセ』を読んだ。結構前、2007年の年末には読み終えていたのやけど、余りもヘビーな本やったので、感想を書くのがかなり遅れた。かなり長い上にまとまりが無い感想になった。と言い訳をしつつ書いてみる。

ブレーズ・パスカルの『パンセ』なる文書はパスカルの死後に大量に発見された遺稿の中から、いわゆる「護教書」のために書かれた文章をテーマに沿って編集しなおしたものであり、色々な学者の編集の仕方によって内容の違うポール・ロワイヤル版、ラフュマ版、ブランシュヴィク版などが存在するらしい。
私が読んだ『パンセ』は世界の名著シリーズの由木康訳のもので、現在最も一般的となっている「ブランシュヴィク版」からの翻訳である。

「パンセ」なる言葉自体はフランス語で「思想」や「思考」を意味しており、『パンセ』の邦題として『瞑想録』などを使う場合もある。またこの本の中に多く含まれてあちこちで引用されることの多い「名言」のせいで、この本は日々の思いを書き綴った随筆のようなものであるような捉えられ方がされることが多いように思う。
確かにそれは間違いではないけど、この本はただの随筆ではなく、既に信者の人にはその信仰をますます強めさせ、信者で無い人にはキリスト教に勧誘するのを目的として書かれた「護教書」のための草稿集であるということは結構大事な割に忘れられている場合が多いのではないのだろうか。

『パンセ』の初版の正式題名の和訳が『宗教および他のいくつかの問題に関するパスカル氏の諸考察 ― 氏の死後にその書類中より発見されたるもの』であるけど、今となってはその中の「パスカル氏の諸考察」だけがクローズアップされているように思われる。
彼の生涯を考えてみるに、若いころに天才として現代にも残るほどの功績と実績のあった自然科学よりも、人生を賭けて他の全てを捨てて全力で追求するに値するとしてキリスト教の道に踏み入ったわけであるから、彼の熱意は並々ならぬものがあるだろう。

そういう意味でこの『パンセ』を「護教書」であるとして見た場合、この本の内容は至ってシンプルな構成になって来る。簡単に言ってしまえば、世の中にどれほど醜さと苦しみと不条理しかないか、人間がどれだけ弱く、その理性が脆弱で感情が醜いのかを描き、そして神の偉大さと、その神の道を追求することがどれだけ素晴らしいか、そしてその神に人生全てを賭けることがどれだけ素晴らしいか、を語っている文書集ということになるだろう。

世界と人間への深い洞察から数々の名言が生まれ、それらを世界の人々が引用して利用しているということは、つまりはパスカルの世界や人間に対する見方の正当性を示すことにもなっているような気もする。
パスカルの場合はその世界と人への余りにも否定的な認識が神へと向かう原動力と根拠になったわけやけど、我々はその世界と人に対する認識に同意する事は出来ても、神へと向かう事に簡単に同意できるわけではない。このあたりはパスカルも言っていたように信仰に入るのも神の恩恵であると言う事なのだろうか。

パスカルの信仰の目を通して見た世界や人に対する見方は余りにも辛くて読んでいるほうも息が詰まりそうだった。一言で言えば「一切皆苦」であろう。
現在では一般的に良い事とされるような、自然科学や哲学などの学問の追及や特定の人間に対する愛でさえも苦しみや世の中の不条理さから「気を紛らわす」事に過ぎないというくらい、世の中に追求するべきものは何も無い空しい世界であると見なしているし、人間の人間に対する愛でさえ否定しており、人間に対してもその感性や理性や信仰に対してまでも絶望的と言って良い程の見方をしている。「われわれのあらゆる不分明から結論しうることは、われわれの無価値でなくして何であろうか。」という自虐系ダウナーニートブログあたりに良く見られそうな悲痛な言葉をパスカル自身が発している事はなんとも居たたまれない。
それは、信仰に入っても依然として苦しみはあるし、より苦しくなる事すらある事をリアルに表わしている。信仰に入ってしまえば全てが変わって世界は素晴らしいものになるといったような安直な見方を打ち砕くようなものでもあるだろう。

パスカルはこのような世界と自分のありように何らかの価値と意味を付与するには信仰しか無いと言ったわけであるけど、その信仰の対象としての神も、我々にもわかりやすいような「たんに幾何学的な真理や諸元素の秩序の創造者にすぎないような神」ではなく、贖罪の象徴であるキリストを有するキリスト教であるところに意味があると言う。そして人が信仰に入るのは神の恩恵意外に無いと言う事に対して、結局日本人に根付いているような「一切衆生・悉有仏性」な見方からすればなんかちょっと怖いものを感じた。

一旦信仰に入ってもその信仰を守るためにも色々苦労があるわけで、パスカルがそういった信者に対してミサに行ったり祈りを捧げたりと言った習慣的なものとても重視していて、何も考えずに自らに宗教的習慣を課す事で、肉体的な習慣性が精神的なものに結実するような事を言っていたけど、そのあたりの人間の信用の出来なさと無価値の認識が徹底してるなぁと思うと同時に「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」に通じるものがあるなぁと。
宗教となればキリスト教やろうが仏教やろうが相通じて似ているところがあるのは当然の話やけど、最も東洋的な部分と最も西洋的な部分が似ているのはちょっとした驚きやった。

たぶん「たんに幾何学的な真理や諸元素の秩序の創造者にすぎないような神」に対する信仰のようなものなら私も持っているだろう。しかしそういった神はパスカルがきっちり否定しているわけで、信仰に限りなく近いようなメンタリティーを持っていると思っている(と思っている)私が信仰に至らないのは結局神の恩恵が無いと言う事なのだろうか。
この本の世の中や人に対する見方は私にとっては痛いほど共感できるものだった。この本が「護教書」である事を冒頭で書いたけど、そのキリスト教への勧誘の書としての側面は、ここに来る気ならそれなりの覚悟で来やがれ。という風に読めた。しかしながら私は哲学的な救いがあるはずであるという感覚を捨ててはいないし、そこを目指す気概は残っている。
それでも、「プラトンが少数の選ばれた教養ある人士にさえ説得しえなかったことを、あるひそかな力がわずかな言葉によって幾百万とも知れぬ無知な人々に、したのである。」というパスカルの言葉には「うっ・・・」と詰まってしまうやね…

何れにせよ、「世と人に対するニヒリズム」への一人の偉大な男による一つの回答がここにあるだろう。

2008年01月04日

●山田晶 『アウグスティヌス講話』

amazon ASIN:406159186X いわずと知れたアウグスティヌスの『告白』を読む事にしたので、その前にそのアウグスティヌス本人と『告白』の入門書として名高い、某キノコ先生のwebページでも紹介されている 山田晶『アウグスティヌス講話』を読んだ。

去年最後に読破したのがパスカルの『パンセ』、去年から読み始めて今年に入って最初に読破した本がこれだったので、本来ならパスカルの『パンセ』が2008年の最初の本カテゴリのエントリに来るのやろうけど、余りの大作つーことでまだちょっとまとめ中の考え中なので、この山田晶『アウグスティヌス講話』の感想を先に書いてみる。

この本は1987年度の大佛次郎賞も受賞しており、今でこそちょっとマニアックな学術文庫やけど、一般書としても中々に評価されているのだろう。当時は違う出版社でもあったしね。
本来は書籍として書かれたのではなく、カトリック信者である著者がプロテスタントの北白川教会で講話として何度か話した内容を文章に起こして編集したものらしい。
そういうわけもありとても平素で読み易いうえにとても含蓄深く面白い本であった。アウグスティヌスの入門書のつもりやったけど、キリスト教全般の話としてもかなり良かったうえに、著者というか語り手の山田晶のお人柄で「ほんわか」とまでするとても素晴らしい本であった。

本の構成としては一回の講話を一話としてまとめ、それを六話まとめて一冊の本としてまとめたものである。
第一話から「アウグスティヌスと女性」「煉獄と地獄」「ペルソナとペルソナ性」「創造と悪」「終末と希望」「神の憩い」と中々興味深いお題が盛りだくさんで、それぞれの話が主に著者の専門であるアウグスティヌスに関連付けられてわかりやすく述べられる。

アウグスティヌスと言えば、「横に女が寝てないと眠れなかったくらいに遊びまくり」という何処からか聞いたイメージがあったけど、この本の一話で確かに彼が一途に一人の女性を愛した事と、たった一度の過ちで自分が淫蕩である事を認めて改心に至った事が良く分かった。
この本が大きな反響となったメインコンテンツでもある今までの一般的な「放蕩部類の徒」のアウグスティヌス像を覆すような一話の話を初めとして、
二話の「煉獄と地獄」の話では人間ごときが何をしても最後には救われるのではなく、自らの意思で罪をなして地獄に落ちる事も出来るほどの、自分の行為に責任を追った個人として認められていると言うところ、
三話の「ヒュポスタシス」なるギリシャ語に端を発する「ペルソナ」と言う言葉を西方教会が使う事で、東方教会と違った三位一体の教義が生まれ、そこから「理解し、愛する主体である」人格神たるペルゼーンリッヒな神の話になってゆくところはとても感心した。

四話の「創造と悪」では道元の「全てのものが仏性を持っているのになぜ修行する必要があるのか」と言う問いに対する「全ての中に私が入って私が成仏する」なる答えを引き合いに出して、まだ創造が続いている世界で神の意思で善をなし悪をも善用する事で自らが創造される世界の一部となり創造する。なる見地や、
五話の「終末と絶望」の話での世の終わりである世界の終末と、個人の死である個人の終末を、集団ヒステリー的なペンテコステ運動でも、世界と個人を切りななして個人にのみ耽溺するでもなく、目覚めて祈り、終末を待つ事自体で自身が浄められてゆくのだと言う話は感動的ですらあった。

最後の六話では「神の憩い」と題して創造の七日目で休んだ神を引き合いに出して、休みの日に予定を詰め込んだり、また働くための休息のみであるとして空間と時間を埋めるべくあくせくしている現代人を描いて見せ、日曜日に同じ神を信仰する人たちが集まって祈りを唱える事で空間と時間を使う事の素晴らしさを説いている。確かにそれはとても美しくて崇高やと思った。

最近は小説ではない思想系や宗教系のよく読むようになったけど、結局こういった類の本は文字の行間から漏れる著者のお人柄にかなり内容の受け取り方が左右されるなぁと思う。もちろんそれはそうあるべきではないのやろうけど。
例えば、むちゃくちゃな生活をしていたドストエフスキーは小説を書いたから良かったけど、思想書を書いていても「お前が言うな!」と言う感じやったやろう。

そういう意味で、この本の行間から見える著者の山田晶のお人柄はとても素晴らしかった。なんか『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老のようで本当にほっこりした。
「しかし、現実にわれわれ被造物の立場からいいますと」
というとてつもなく胸キュンな言葉を発する事が出来る人なんか世の中にどれだけいるだろう。

そういうわけで巷に蔓延するキリスト教に対する誤解をあたらめるにもぜひぜひお勧めの一冊である。

と、ついつい興奮して長いエントリになってしまった…

2007年10月24日

●ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前』

amazon ASIN:4488013511 amazon ASIN:448801352X ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』を読了した。

この本は1980年にイタリア語で出版された世界30ヶ国語以上に翻訳された大ベストセラーであり、中世末期の修道院を舞台にした連続殺人事件をミステリ仕立てにした内容を主軸に展開される物語である。

作者であるウンベルト・エーコの本業は構造主義の流れの上にある(らしい)世界的に有名な記号論の研究者で、ソシュールとパースをつなぐ指導的な立場にある(らしい)。また中世の美学も専門であるらしく、学者としての大雑把な括り方で言うと「哲学者」であろう。

で、私は殆どミステリを読まないけれど、哲学者が書いた中世末期の修道院を舞台にした小説。というだけで私にとってはツボである。更に異端審問、魔女、ヨハネの黙示録、禁書と異端書まみれの図書館なる小道具が加われば、もうそれだけでリビドー振り切れそうな勢いであるのだ。
そういうわけもあり、あまりにも面白くて殆ど一気に読んだ。読んでいた数日間はこの本のことばかり考えていたような気がする。
最近は哲学の入門書ばかり読んでいたけど、やっぱり小説の面白さというのはまた別やなと。

物語はヨハネの黙示録の天使の喇叭を合図に引き起こされるカタストロフになぞらえて起こる殺人事件を主題に展開するけど、そのミステリとしてのストーリーだけでなく、登場人物たちの交わす会話と彼らの問題意識もとても楽しく読めた。ストーリーをダシにして書きたい事を書く。とまでは言わないけど、それくらい殺人事件に直接的に関係ない話が面白かった。
読んでいるうちに中世終わりのベネディクト会の修道院にタイムスリップしたような気がしてくる。というベタな感覚は、エーコ自身が「私は中世について書いたのではなく、中世のなかで書いたのだ」と言っていた(らしい)ように作者の意図と姿勢そのままなのであろう。
この時代のこのような場所のこのような人たちのこのような状態な話がツボな人にはたまらん小説である。

「オッカムの剃刀」で有名なオッカムのウィリアムがモデルとされる探偵役の主人公ウィリアムが元異端審問官というのはデビルマン的立場というか改心した悪玉キャラであり、群を抜いた知的キャラであるにもかかわらずベネディクト修道会士でなくフランチェスコ修道会士というところが、論理一本槍でないというキャラ作りに一役買っていて、中々良い感じのヒーローに仕上がっていた。
彼が殺人事件の謎を解いてゆくたびに、謎の複雑さが明らかになるのではなく、前提も少なく謎も殆ど無かったことが明らかになってスカッとする様はオッカム的といえるけど、そのあたりも普通のミステリとちょっと違うところではないだろうか?

この時代を暗黒時代と言わしめた異端審問や魔女狩りがそもそもの初めには正義を動機にして行われていたわけで、清貧思想の過激派であるドルチーノ派の生き残りの告白は、ウィリアムの言う「悔悛への愛からも、この世を浄化したいという願望からも、流血と殺戮が生まれる」というテーマを生々しく迫力と説得力あるものにしていた。そしてそのテーマは最後のあの大ボスの話でカタストロフを引き起こす訳である。
彼らの本や知識に対する欲望は時代と状況のせいで更に掻き立てられ、その上で失われた謎の書物を中心に大きな陰謀が起こるわけであり、彼らの本に対して向ける熱意は並々ならぬものがある。
そう考えると、ウィリアムのような人々のお陰で暗黒時代が晴れ、図書館は万人に開かれて本は自由に読めるし、思考と思想は自由に羽ばたける今の世の中はありがたやありがたやである。
そして、最後に頼りとなるのは知性と理性の光であり、真理は開かれてあるべきというウィリアムの立ち位置は、そのスジの人には大きな救いとなるやろう。

しかしながら、いくらカトリック的倫理観ガチガチの中世修道会を描いていても、恋愛を宗教的な神秘体験になぞらえてみたり、正式な宗教的な討論会がつかみ合いに発展したりするのを当たり前に書いているところなどはやっぱり「イタリア的」やなぁなどと思った。
暗黒時代といわれるくらいの暗い時代の中でも更に一番暗そうな題材であるし、アメリカなら勧善懲悪正義が勝つ。なストーリで、日本なら全く救いが無い話になり、ロシアなら話が広がりすぎて収拾がつかなくなり、フランスなら異様にねっとりし過ぎるやろう。
こんな暗い題材が妙にさっぱりした読後感で終わるのはアメリカでもフランスでもロシアでも日本でもないイタリアな雰囲気のおかげであろうと思った。

さすがに大ベストセラーになるだけあって、いろんな読み方が出来る懐の深い良い小説であった。図書館で借りて読んだけど、また読むのは確実なのでとりあえず買っておいた。
いやー面白かった。

2007年10月15日

●野田又夫 『パスカル』

amazon ASIN:4004120217 以前読んだ『パスカル――痛みとともに生きる』に引き続き、某キノコ先生がお勧めするパスカルの入門書、 野田又夫『パスカル』を読んだ。
絶版になった古い本なので漢字が旧字体であり、頭で新字体に変換しながら読むので中々リズムが取れずちょっと苦労した。たとえば「辯證」が「弁証」だと気づくのに数テンポ遅れて「ん~??あ~ベンショウね」な具合である。

しかしながら内容のほうはとても良かった。著者のお人柄は前面に出さないけど、堅苦しくなりすぎない文章は中々良い感じである。特定の解釈を主張するのではなく、パスカルにとても好意を持ちながらも、なるべくフェアーに全体像を提示しようとするのに勤めているような印象を受けた。

前読んだ『パスカル――痛みとともに生きる』はパスカルの人生と信仰についてに重点が置かれていたけど、この本は数学者、科学者としての彼についても詳しく書いてあった。
その科学者としての彼の業績がとても偉大である事がちゃんと説明されていたからこそ、神の存在は理性には証明できず恩恵によって真実と知るしかない。といった他力的な言葉が重みを持って感じられたのだろう。
パスカルは世界を正義が成り立ち得ない苦しみだけの場として、そこに住む人間を悪でしかありえないとしたけど、そんな彼のペシミスティックな世界と人間の見方は読んでいてとても息苦しいほどに強烈である。
しかしながら、無信仰者を信仰に導くよう説得するために彼は著作を残そうとしたわけで、人間一般に対して何らかの愛を向けていたのだろう。そしてその愛はやっぱり神なる真実への信仰に基づいているところがこの本で良く見て取れたような気がする。
結局、パスカルの思想や人となりについて語ったり知ったりするにあたっては、彼の「信仰」は気っても切れないものであることが良くわかった。

そういうわけで、次はいよいよ『パンセ』かな。