2009年08月23日

●映画:セルゲイ・パラジャーノフ「ざくろの色」 / ロシア的マジックリアリズム / 理解できないものは反体制か

amazon ASIN:B00023GSIS 2ヶ月ほど前に観たタルコフスキーと並び称される(らしい)旧ソ連の巨匠、セルゲイ・パラジャーノフの「ざくろの色」 の感想を今更ながら書いてみる。

映画の冒頭で「この映画はサヤト・ノヴァの生涯を描いたものではない。人類にとって記念碑的な価値をもって美しいサヤト・ノヴァの詩の世界を,映画という手段で表現することを試みたものである。」という説明がなされるとおり、そのサヤト・ノヴァの人生を幼年時代、宮廷詩人時代、晩年の修道院時代と移り変わってゆく様を8章に分け、それぞれのストーリーも何もあったものじゃない不思議な映像で構成された映画である。
途中何度も寝て、4度目ほど観直してやっと最期まで観通せたほどのある種の退屈さはあったけど、ロシアというより南米を思わせるような強烈な色使いと、胡散臭く宗教的で殆ど台詞のない饒舌さがとても強烈に印象に残っている。
なんというか、ロシア的マジックリアリズムともいえるような気がする。

この監督は生涯に4本の映画だけを作ったけど、こんな映画を作るたびに時のソ連の政府に反政府主義的だとして投獄されたらしい。
この映画に反ソ連政府主義的な要素を感じる事は私には出来ないけど、逆にこの映画に共産主義的な要素を感じる事も出来ない。というか、そんな次元は全く関係ないように思える。とにかくこの映画が一般的な映画的なものとはとは全く違うことは理解できる。
あらゆる映画的語彙と文法をを超越したこの映像がどんな考えと感性から来るのか全く想像できずに、このわけの判らなさは反体制的なものに違いない!と短絡してしまう気持ちもわからないでもない。

それだけにこの映画はそれだけの力を持っているともいえる。
確かにこの映画の余りにも異質な白昼夢のような、悪夢とも言えなくも無い映像は、観るものの内部を激しく揺さぶる。
この映画は、「映画」というメディアを利用した、映画ではないなにものかを表現した映像群であると思う。
そういうのが好きな人は観ていおいて損は無いどころか、とてもいい経験になるのではないだろうか。

理解できないものは反体制だった時代、この映画を作ったパラジャーノフは時の権力者に危険思想を持つものだとみなされ、実際そう扱われた。
とかく理解できないものは恐怖とそれに伴った攻撃の対象となりがちである。
どんなに素晴らしく美しく気高く見えるものを作ったとしても、それがその人の複雑さや、その人に対する理解の難しさを示す事になってしまえば、反X的なものだとして攻撃されるかもしれない対象になる可能性があるという事は現代でも同じであるような気がした。

2009年07月18日

●映画:「落下の王国」 / プラス側から見た妄想の映画化

amazon ASIN:B001KUP8W4 「ザ・セル2」を観て激しく微妙であったけど、今度こそターセム・シン監督の「ザ・セル」に続く二作目であり、衣装も石岡瑛子が担当している「落下の王国」を観た。
某レディに貸してもらわなければレンタル屋さんにあってもスルーしていたかもしれない。

数々の世界遺産でロケを敢行し、石岡瑛子のデザインした衣装がふんだんに投入されたことで、ひたすら衣装とロケーションが映える映像の連続である映画であった。実際のストーリーは特にどうと言うことは無いけど、ひたすら次々と飛び出してくる映像に「ほへーっ」と感心する事しきりであった。
なんというか、中南米のマジックリアリズムな雰囲気をベースにヨーロッパと東洋的な味付けを加味したような映像と言うか、綺麗と残酷が紙一重であることがなんとなくわかるような気がする映画であった。
そのあたりはなんとなくホドロフスキーの「サンタ・サングレ」に似ているような気がした。

この映画のメインである映像部分が、映画内の直接的なストーリーではなく、作中作であるということが何の違和感も無く無茶な設定も動きもストーリーを展開させることも観ているほうに受け入れさせることができたのだと思う。
そういえば「ザ・セル」で話題になった映像も映画の直接的なストーリーではなく、人の心の中の心象風景という設定だった。

基本的に映画ってのは何かしら仮想現実的の中で起こったことを虚構として映像化している事になるけど、このターセム監督の作る映像ってのは、仮想現実の中の人が心の中で思い描くものを映像化している。
普通の映画が仮想現実であるとすれば、この監督の映画はいわば仮想空想である。そう考えると二重にネストしたこの構成はなかなかに複雑である。
妄想というか夢というか心象風景の映像化といえばデヴィッド・リンチなイメージがあるけど、彼が心の醜い不合理な部分を闇の側から現実的な形で映像化したのと対照的に、このターセム監督はその妄想を綺麗な側から見て非現実的に映像化したように感じられる。

本来映画では扱う対象でないはずの仮想空想を巧妙にメインとして扱ってしまうところがこの映画のほかに無い特徴なのだろう。
この映画を観て、二次元にしか興味の無い、完全に三次元を自分には関わりの無いものとして捨てた男の心象世界(というか妄想)を映像化したものは、実はおぞましいものではなく、実はとても美しいのではなかろうかと思った。

2009年07月14日

●映画:「ザ・セル2」/前作からジェニファー・ロペスと石岡瑛子と予算を引いたような…

amazon ASIN:B001R0WCNK 馬の輪切り映像でお馴染みの「ザ・セル」の正統的な続編である「ザ・セル2」ってのを見た。
前作の「ザ・セル」はストーリー自体は特に可もなく不可もないものの、石岡瑛子の衣装とそれを身に纏ったジェニファー・ロペスが見所であり、彼女がいろいろなコスプレで色々な場所でポージングするのを「ほへー」と鼻の下を伸ばして見る映画であったのだが、つい出来心で借りてきた「ザ・セル2」は前作である「ザ・セル」からジェニファー・ロペスと石岡瑛子と監督のターセムと予算を引いたような映画であった…
よくわからなトラウマ持ちの超能力者がそのトラウマを克服して、そのトラウマの原因でもある犯人を逮捕する。と言う話であった。

よくわからない中途半端なSFとよくわからない中途半端なサスペンスが入り混じっていて、結局どっちを見せたくてどっちを本筋にしたいのかよくわからなかったけど、どっちも中途半端やから二つとも入れておけばいいかな?というかなり消極的な「平均点を目指す勉強」ような作りなのだと思い当たった。

心停止状態と蘇生を何度も繰り返す連続殺人鬼ってのは良いのに、そこが生かし切れていないのがとても残念なような気がする。
サイコメトラーでSF的な部分を捨ててサスペンスに徹すれば面白かったかもしれないけど、そうなると「ザ・セル」とまったく関係なくなるし…

全編を通してなんか残念な空気が漂っているのに、面白くないと言うことは無いという展開は、なんだか「スターシップ・トゥルーパーズ2」を思い出した。

2009年06月25日

●映画:「アンダーワールド」「アンダーワールド2 エボリューション」 / ゴシック青い怪物君 / 種族差より個人差

amazon ASIN:B0000YTR50 amazon ASIN:B000FUTUQK なんとなく「アンダーワールド」とその続編「アンダーワールド2 エボリューション」を観た。
吸血鬼であるヴァンパイアと狼男族であるライカンスロープの千年にもわたる抗争は現代でも続いており、優勢のヴァンパイア族はライカン族を絶滅に追い込むべく日々ライカン狩りを行っていた。
地下鉄で狩ろうとしたライカン族に激しい抵抗にあったヴァンパイア族の戦士である主人公は、彼らが地下で群れ紫外線弾などで武装する強力な組織になりつつあることを感じてヴァンパイア族の首領に一斉にライカン族を攻めるべきだと主張するも却下され、単独で捜索を開始するうちに彼らが何かしらの目的を持って動いていることを突き止める。
という感じで物語は始まる。
ヴァンパイアとライカンといえばなんとなく聞こえは良いけど、「吸血鬼」と「狼男」と書いてしまうととたんに「怪物君」を思い出すのは私の年代だからだけではないだろう。
いろいろな怪物が出てきて暴れまくる、ある意味「ゴシック青い怪物君」であった。

古典的で古い題材を使ったゴシックな雰囲気に青い画面でハイテク武器での戦闘の取り合わせが面白かった。
ヴァンパイアは「吸血鬼」、ライカンは「人狼」ではなく「狼男」と訳されているので「狼女」はいないのがちょっと残念といえば残念。ヴァンパイアもライカンも咬むだけで感染して種族を増やすことができるので有性生殖は必要ないということだろうか。

主人公が一応ヴァンパイアなので、ヴァンパイアを正義とした物語で話が始まるものの、ヴァンパイアとライカンの正邪が逆転するという単純な構造でなく、どちらが正義で悪か見分けがつかなくなるようなつくりが以外に面白かった。
とはいっても、主人公が正義であるのは映画的に前提条件くらいになっているのでそこがつまらんといえばつまらん。
結局、ヴァンパイアだのライカンだの人間だのといった種族の違いとか立場の違いというより、個人差とか個人の資質による差が一番大きいというのは我々の日常生活と同じである。

2009年06月24日

●映画:「ヒットマン」/ オッス!オラオレオレ暗殺者

amazon ASIN:B001WBXLYI 某レディーがオモロイオモロイというので「ヒットマン」を観た。
観てから知ったのだが、原作がゲームらしく、製作にリュック・ベッソンが関わっているらしいけど、まぁ映画としては可もなく不可も無くと言ったところ。
あれだけオモロイオモロイと言われていたので期待だけがやたらと高かったのかもしれない。
主人公の名前を持たないヒットマン青年が暗殺者の癖に異様に目立つスーツに赤ネクタイでスキンヘッドにバーコード姿なのが、自己顕示欲の強いオレオレ暗殺者って感じでちょっと可笑しかった。更に次期ボンドガールのオルガ・キュリレンコのビッチぶりがなかなかいい感じであった。

amazon ASIN:B001B6CE74 この映画もレンタルやさんで間違えて借りそうになった、バッタもん臭い「ザ・ヒットマン」ってのがあったのだが…
アマゾンの感想読んでると、なんでもかなりアルツハイマーが進行した殺し屋が主人公だそうで…なんかこっちも面白そうやん…

2009年06月23日

●映画:「ボーンアイデンティティー」「ボーンスプレマシー」「ボーンアルティメイタム」 / ボーン! x3 /オーシャンズ1

amazon ASIN:B00007G0LR amazon ASIN:B00067HDWK 某ごら氏お勧めのボーンシリーズ「ボーンアイデンティティー」「ボーンスプレマシー」「ボーンアルティメイタム」をボーン!ボーン!ボーン!と一度に観た。
特殊任務を帯びた特殊部隊の特殊セクションのエリートだった主人公が記憶を失い、自分自身の存在と自分自身を取り巻く陰謀と謎を追うという話ということで、一応スパイ系アクション映画というくくりになるのだろう。
amazon ASIN:B0011XVU8G 主人公のボーン氏は評判通り、大事故を起こしても「あーびっくりした」という顔で車から降りてくるし、銃で打たれても「イテテテテ」と走り去ってゆく位に頑丈で強すぎる。
しかし、ただハリウッド的アクション映画的強さだけでなく知的でクレバーで論理的で冷静なボーン氏もとても印象に残っている。
しかもそのボーン氏がその辺にいそうな兄ちゃん然とした風貌であるところが良い。
この映画と前後して「ダイ・ハード」の3と4を観たのやけど、その主人公の滅茶苦茶加減に引き換え、基本的に人殺しを避け、無駄に人を殺したり傷つけたりしないボーン氏はとても好感が持てた。
これは「ダイ・ハード」とは違い、ちびっ子にもこれがカッコええ男だ。と安心して見せることができよう。
強く賢くタフでもうオーシャンズ1なボーン氏であった。

銃器マニアとしては、この映画では私の好きな銃器メーカーのSIG Sauer社のものがよく使われていたのがなかなかポイントが高かった。貸金庫にはSIGPROを預けてあるし、遠距離からの狙撃するかもしれないミッションにはR93を選ぶなどとボーン氏はどうもSIGの銃が好きなようである。
その他にもP226、P225、P229、SP2022、SP2009、552、550と中々とSIG製銃器がよく登場しており、
2022-detail-L.jpg私が一番好きなポリマーフレームの銃がSIGPRO系なのだが、意外にメディア露出の少ないこの銃がバリエーション違いで出てきていたのがいい感じであった。

2009年06月22日

●映画:「バンテージポイント」 / 羅生門 でなくカーチェイス

amazon ASIN:B001AE6HFM だいぶ前の話であるが、「バンテージポイント」を観た。
前評判も見た後の感想も結構高いという話で、あるひとつの大統領暗殺事件を複数の目撃者から何通りにも解釈したような映画だという風な予備知識を持って観た。
勝手に黒沢的羅生門的にひとつの事実を複数の人がまったく違うように解釈して、真実がまったくわからんやんけーなストーリーを想像していたのやけど、ひとつの事件に対して目撃者から被害者から加害者までそれに関わった複数の人の視点の断片をつなぎあわせることで、事件全体の真実を浮かび上がらせるというものであり、羅生門の方向性とはまったく違ってとてもわかりやすいものだった。
最初はサスペンス系だと思って見ていたわりに、実際一番印象に残ったのはカーチェイスだったのがちょっと意外だったけど、映画としてはとても面白かった。

amazon ASIN:B001BWTVVK この映画が面白いらしいということを聞いてタイトルをうろ覚えでレンタル屋さんに行き、素で間違えて借りそうになったのがこれ。
並べてみるとやっぱり似てる。紛らわしすぎ…

2009年06月18日

●「ダイ・ハード3」「ダイ・ハード4.0」 / モラル的に13禁 / スッキリしてはいけない

amazon ASIN:B000PDZJDU amazon ASIN:B000VOCHR4  なんとなく観ていなかった「ダイ・ハード3」と「ダイ・ハード4.0」を一度に観た。
「ダイ・ハード3」はニューヨーク全土、「ダイ・ハード4.0」ではアメリカ全土と、シリーズ名というかメジャーバージョンアップする度に舞台が大きくなっている。

この映画を観る前に「ボーン・シリーズ」を観ていたのだが(感想はまた後で)、インテリジェンスな雰囲気のあるボーン・シリーズと比べて、このダイ・ハードシリーズの極端な勧善懲悪っぷりにちょっとだけ嫌悪感を覚えた。
相手が悪人であれば、堂々と対有色人種差別発言で罵倒し、躊躇無く殺しを楽しんで良いというのは如何なものだろう。中途半端なエロ映画や残虐映画よりも、この映画の方が子供の倫理的側面に悪影響を及ぼすのではないだろうか。

「映画だから」と割り切って観なければ正直辛い。この映画を観て「スッキリ」するメンタリティーは正直かなり怖いと思う。

この映画を、特に「ダイ・ハード4.0」の方を見て、一人のスーパーエンジニアに頼りきったシステム構築だとかシステム運用ってのはリスクでかすぎて当然やなぁとつくづく思った。
って、映画の話とは全く関係ないんやけどね。

2009年06月17日

●映画:「スパイダーマン3」 / 通過儀礼としてのダークサイドとの戦い

amazon ASIN:B0022F6LZ4 シリーズ通してサム・ライミが監督のスパイダーマン3を観た。
前作「スパイダーマン2」の最期でスパイダーマンでありながらもちゃんと個人として生きることを決意し、愛する彼女と結ばれた主人公であるが、スパイダーマンとしての名声も、学生としての成績も申し分ない生活を送っていた。
ノリノリでイケイケの主人公と引き換え、主人公の彼女は仕事も上手く行かず、主人公とすれ違うようになり、二人は険悪になってゆく。

自らの力が肥大して全能感が増すにつれ、自分のコントロール外にある自分にとって大事な部分と言うのが弱点となり、自分にとって耐え難い物となる。
自らのもつ力と、その部分への自分の無力さのギャップを埋めるため、大きな力を持つ自分はあらゆる人間の持つ制限を超越する権利を持つと考える事がダークサイドへ堕ちる動機となる。
ダークサイドとの戦いはヒーローの通るべき運命の一つである。
そして、この映画はスパイダーマンにとってのダークサイドとの戦いを描くものであり、そのことによってスパイダーマンが本当の意味でのヒーローになるという物語でもあった。

ルーク・スカイウォカー然りスパイダーマン然り、堕ちかけたダークサイドの誘惑から逃れる事はヒーローとなる条件であっても、ダース・ベイダーやニュー・ゴブリンのように、アンチ・ヒーローが堕ちたダークサイドから這い上がる事が結局は彼らの死を意味するというのはなかなかきついものがあるなぁと思った。

2009年04月23日

●映画:スパイダーマン2 / 素顔を晒しまくるヒーロー / オッサン化するスパイダーマン

amazon ASIN:B0001A7CZU 前作でスパイダーマンとして生きることを受け入れ、私人である事を犠牲にする覚悟を持った主人公であるけど、ニューヨークでのスパイダーマン人気が高まるのに引き換え、彼自身の生活はボロボロ。
スパイダーマンであることを優先するばかりに、大学、バイト、好きな女の子との関係、すべて上手くいかない。
自分がスパイダーマンであることに嫌気がさしつあるところに、主人公に愛想をつかした女の子が他の男と結婚することになり、危機を感じた主人公は、スパイダーマンであることを捨てて私人として生きる決意をする。

スパイダーマンを止めて生活のあらゆる面が好転し始めるものの、自分が一個の人間として人のために出来ることに限界を感じ、そしてスパイダーマンであることを要求される決定的な事件が起こり、彼は再びスパイダーマンとなることを決意するのであった。

ひたすらヒーローであることを疎ましく思い疑問を持ち続けている主人公のこの物語は、前作以上にヒーローものではない。
公私の乖離に悩み続ける主人公は、重要な役割をこなしている仕事での自分と、上手くいかない家庭でのギャップに悩むお父さん、というよりは、クラブや勉強と友達や恋の両立に深く悩む高校生のようであった。

スパイダースーツを着た青年であるスパイダーマンと、ただの青年であることは実は服を着ていることの差しかないはずなのに、全く違う存在であるように見える。
しかし、スパイダーマンが暴走する列車を必死で止めようとするシーンで晒す素顔が、スパイーダーマンの一皮下が生きることに悩む青年でしか過ぎないことを思い起こさせてくれる。

ヒーローであることに悩むヒーローは他にもいても、愛する人だけでなく市民にすら、苦しみ絶叫する素顔を晒してしまうヒーローは皆無ではないだろうか。
そういう意味で今まで以上に感情移入度の高いヒーローであろう。

公私のどちらかだけを取るということは実際のところ安楽な道を選ぶことであり、結局、長期的には選んだ方すら破綻することが多いということをオッサンになるとなんとなく理解できてくる。
だからこそオッサンは私人として生きつつも、社会に属して働き生きるのである。
この主人公も苦難の多い両立の道を選ぶというオッサンな道を歩みだすのであった

2009年04月22日

●映画:「スパイダーマン」/ 第2.5次性徴 / 蜘蛛男的教養小説

amazon ASIN:B0009J8ESC 先日「ダークナイト」を観てからアメコミ原作映画って面白いやんということで、「スパイダーマンシリーズ」の三つを見た。
ということでまず「 スパイダーマン」(2002/米)の感想から。

一応「スパイダーマン」なるヒーロー物なので、それらしいヒーローな映画だと思っていたのやけど、メインストリームにいないオタ系理系青年の青春ラブコメ物語がどこまでも続いていて、「主人公がうじうじ」と聞いていたがここまでとはちょっとびっくりした。
青春物語の要素の入ったヒーローものというよりは、ヒーロー物要素の入ったアメリカンな青春物語と言ったほうが妥当かもしれない。
なんというか、ビッチ臭のするキルスティン・ダンストも妙にリアルでアメリカンな青春物語にぴったりであった。
確かに彼女は、遠くから見てあこがれるのではなく、ずっと隣に住んでいてずっと好きだったってタイプやなぁ。

ということで、「ヒーロー物要素の入った青春物語」としてみてゆくと、これは典型的な教養小説的な主人公の成長物語でもあるように見えてくる。
白い糸を出すスパイダーマンは性的な象徴だ!というネットの感想を見てちょっと感心したのだが、たしかに、スーパースパイダーに噛まれる事によって遺伝子的変異を起こしてスパイダーマンへと成長するあり方は、思春期に第二次性徴によって自我の確立に悩む青年のようであった。
そして、敵対勢力との抗争や町や地球の防衛についてよりも、個人的な悩みの方がはるかに重いとする、非ヒーロー的な「スパイダーマンであることの悩み」はシリーズを通しての一番のメインテーマとなってゆくわけである。

2009年04月21日

●映画:「モンテ・クリスト伯 」/エデはどうした、エデは?

amazon ASIN:B00008NX3I アレクサンドル・デュマの同名の小説を原作とした「モンテ・クリスト伯 」(2002/米=英=アイルランド)を観た。
原作があまりにも長大な超大作なので、131分という時間に収まるのか?と思ったけど、かなり端折ったうえに原作と違う話になっていたけど、それでもなかなかいいバランスに出来上がっていた。
モンテ・クリスト伯アナザーストーリーといったところか。
物語の圧縮率が高いので、中だるみなしで一気に駆け抜けるような感覚があった。

でかいレンタル屋さんでなくちっこいレンタル屋にしかなかったので観る前は多分微妙な映画やと思っていた。
しかし、個人的には「エデ」が欠片も登場しなかったのがちょっと残念であったものの、デュマの小説を読んでるような疾走感と爽快感は十分にあった。ストーリーは違うもののストーリーテラーとしてのデュマっぽさをとても感じる面白い映画であった。

2009年04月07日

●映画:ヴィム・ヴェンダース「ミリオンダラー・ホテル」 / 脆さゆえの美しさ/足りないものと過剰なものとのコントラスト

amazon ASIN:B00005Q81H この間観た「ベルリン・天使の詩」(1987/独=仏)がとても面白かった、ヴィム・ヴェンダースが監督した「ミリオンダラー・ホテル」 (2000/独=米)を観た。

社会に適合できない狂人や変人達が住むミリオンダラーホテルで雑用をこなしながら生活する知的障害の青年が、ホテルの屋上から親友が転落死したのを切欠に、同じホテルに住む女性に心引かれてゆく。という話である。
基本的には恋愛映画やけど、ダメ系、キティ系の上に「ベルリン・天使の詩」のヴェンダースが監督、さらにミラ・ジョヴォビッチが出てるとなればこれはもう観るしかない。

なんとなく作りにあざといというかわざとらしいところがあったけど、プライベートライアンのアパム伍長のジェレミー・ディヴィスとミラ・ジョヴォヴィッチがとてもいい感じだった。

ミリオンダラーホテルの住人には、自分はビートルズの5人目のメンバーだったと主張して自分の失われた利益や不満をぶちまけてばかりいる男や、自分をネイティブアメリカンの族長だと思い込んでいる男など、いかにもそれらしい人もいて、結構こういった人を楽しみにこの映画を観たのやけど、この部分ではちょっと期待はずれ。

この映画全体に漂う「脆さ」がなんともたまらんかった。線が細くて、透明で、繊細で、純粋で、かつ複雑な構造をしたものの持つ「脆さ」がゆえの美しさがこの映画全体には漂っていたように思う。
ミラ・ジョヴォビッチとジェレミー・デイヴィスに代表される、足りないものの美しさから見て、メル・ギブソンに代表される過剰なものが如何に異質に見えるかというのが印象に残った。

しかしこんな感じの如何にも儚げで脆い役柄のミラ・ジョヴォビッチがとてもいい感じであった。

2009年03月21日

●映画:「ゾンビ」 / ゾンビショッピングセンター / 主人公たちが一番怖い

amazon ASIN:B0002CHNHO 最近ゾンビ映画がお気に入りなので、ゾンビ映画の伝説的な大傑作であり、後のゾンビ映画とゾンビの概念を決定的に基礎付けたという、ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」(1978/米=伊)を観た。
この映画はやたらとマニアが多く、色々なバージョンのDVDやらビデオやらLDが高値で取引されているらしいけど、私が見たのはそのなかでも一番評判がよさそうな「米国劇場公開版」というやつである。

死者が蘇ってゾンビとなり人間を襲って肉を食べる現象が起こり、街は壊滅的な状態になっていた。テレビ局の男女二人と軍人二人はヘリに乗って街から逃れるが、どこに行ってもゾンビばかり。
やがて見つけた巨大ショッピングセンターに篭城し、ゾンビたちを閉め出して何不自由ない生活をおくりはじめるが…と言う感じである。

やたらと良い評判ばかりを聞いていてとても硬派なひたすら怖いゾンビ映画だという思い込みでこの映画を観たけど、今の洗練されたゾンビ映画に慣れた目から見ればけっこう笑えた。
今時のゾンビ映画のようにひたすらホラーな路線を貫こうと言うよりも、恋愛や友情、社会批判やコメディーの要素が中途半端に入り混じっていてなんとなく散漫な印象を受けた。
このあたりの映画としての作りは1951年の映画「遊星よりの物体X」と似ている。
古い映画って言うのはこういう何でもかんでもいろんな要素を詰め込みたがるような作りで微笑ましいなぁ。

よく考えれば、かなり絶望的な状況やけど、ひたすら消費活動と破壊活動と殺戮活動にいそしむ主人公たちが良い者なのか悪者なのかがだんだん分らなくなってくるのが面白い。
当初主人公たちはゾンビの止めを刺すのに苦悶の表情で引き金を引いていたのに、いつの間にか楽しみながら満面の笑みでゾンビを虐殺し、欲望のままにショッピングセンターを略奪している。
ゾンビしかいない世界で役に立つのは銃と食料くらいのものやけど、それでも巨大ショッピングセンターで品物使い放題取り放題というのは、子供心の「これ全部俺のやったらなぁ!」なる稚拙な欲求にダイレクトに響く爽快感があり、実質的に役に立たない腕時計や家電品や服や札束を漁る彼らの気持ちは良く分る。
途中でショッピングセンターを襲う強盗団との戦闘になり、ホーラー映画の王道通りに「やっぱり人間が一番怖い!」て言うことになるのか?と思ったもののそうでもないままに終わった。
それでも、やっぱりこの映画で一番怖いのは人間を襲うゾンビではなく、そんなゾンビたちを虫けらのように撃ち殺して欲望のまま振舞う主人公たちであるから、「やっぱり人間が一番怖い!」ということになるのだろうか。

変な明るさとコメディタッチな雰囲気の中で、肉を食いちぎったり肉をちぎりとったりする描写が中々エグかったし、ハッピーエンドに見せかけたかなり悲惨な終わり方で、なるほどマニア受けする要素はたくさんあるなぁと思った。

2009年02月25日

●映画:バットマン ビギンズ /「井戸に入る」> 「ヒマラヤに登る」

amazon ASIN:B00067HDW0 この間「ダークナイト」を観てとても面白かったので、その前作である「バットマン ビギンズ」(2005/米)を観た。

ゴッサムシティの大富豪の一人息子だった男が、いかにしてバットマンとなってゴッサムシティを悪から守るために立ち上がったのか、そして何が彼をバットマンへと導いたのかという話であった。
バットモービルやバットスーツの開発の様子も見られるのがなかなか面白かった。

ティム・バートンのどこと無くコミカルでファンタジーな路線とは全く違う、ダークでリアルな作りが上手く働いていてとても面白かった。
そりゃこの映画観たら「ダークナイト」も観たくなるわな。
とはいっても、先に「ダークナイト」観てからでも全く問題の無いつくりになっていた。

ティム・バートンの「バットマン」で描かれるゴッサムシティは独特の装飾過多ないかにもティム・バートン雰囲気を持っていたけど、このクリストファー・ノーランの描くゴッサムシティはそんな雰囲気は全く無くなり、現代のどこの都市であってもおかしくないような雰囲気になっていた。
どこにでもあるような都市のどこにでもあるようなビル、そしてどこにでもいるような金持ちと貧乏人と悪人と善人が繰り広げる物語は突飛ながらももしかしたらありえるかもしれないようなリアルさをもっていたように思う。

ネット上では主人公バットマンは金持ちの道楽とかセレブ野郎とかアマちゃん過ぎてムカつくとか言われているけど、非の打ち所が無いながらも、悩み迷いつつ苦しみながらも正義のために身を尽くす事を決心したバットマンはなかなかに好感が持てた。
正義(的)行為にいそしむマイケル・キートンのバットマンはあまりにも人相が悪くて、歪んだ嗜好から暴力と嗜虐の正当化のために正義の味方をしているように見えなくも無かったのだが、このバットマンは爽やかで男前で強くて脆い所もありいかにもハリウッド映画的に良い感じである。

この映画の中で自己超克だとか意識改革だとかの手段として「ヒマラヤに登る」と「井戸に入る」の二つの手段が出てくるのだが、結局「井戸に入る」の方が自己に関する根本的な問題に近づけるとする方向性であるところが、いかにも今風なハリウッド的東洋思想やなぁと思った。

「ダークナイト」を観たときも感じたことやけど、あらゆる年齢のあらゆる客層に対したあらゆる要素を詰め込もうとする、全方向全要素的ハリウッド映画の最も典型的な面白さであった。
もうこのシリーズは新しく出るたびに観ずにはおれないだろうと思った。

2009年02月24日

●映画:ミヒャエル・ハネケ「ファニーゲーム」 / 怖いと言うより気分悪い映画

amazon ASIN:B000063CU6 ずっと前から観たかったのだが、レンタル屋さんに無かったので諦めていたミヒャエル・ハネケの「ファニーゲーム」(1997/オーストリア)をやっと見ることが出来た。
なんでも最近同じ監督によって「ファニーゲーム U.S.A.」としてリメイクされて現在公開中ということなので、レンタル屋さんに入ってきたのだろう。

夏休みを過ごすために湖のそばの山間の別荘にやってきた3人家族の下に、隣人の使いとして男が卵を貰いにやってきた。
卵を貰った男は立ち去る際に卵を落として割ってしまい、更に卵を要求する。
男の厚かましさと横柄な態度に家族が怒りを覚え、場が険悪になったところにもう一人の男が現れる。
なんということの無い楽しい夏休みの日常だったはずが、気づけば徐々に悲惨な状況に陥ってゆく。
と言う感じのストーリーである。

バックミュージックの無い、長回しを多用した静かな映像は否が応にも緊迫感を煽り立てる。後味の悪い怖くて救いの無い作風のハネケの映画の中でも有名なこの作品はやっぱり怖かった。
というよりも、そんな後味が悪いとか、救いが無いとか、いったものを超越しているところがある。
スプラッターで強烈なシーンは皆無なのにかかわらず、じわじわ来るような恐ろしさがたまらん。

普通の映画であれば映画が映画であることを忘れさせるようなつくりを目指すはずであるけど、この映画は逆に事あるごとにこれが映画でしかない作り物であることを観るものに強調して意識させるようなシーンが多い。
男の一人がカメラに向かって、つまり見ている我々に向かって話しかけたり、説明したり、同意を求めたりするごとに観ている方は「はっ」とこれが映画であることに気づく。
普通の映画ならそこで冷めるはずだが、この映画に関しては見ている我々までコントロールされているようでどこと無く嫌な気分になる。
最後の方には絶対現実では起こりええないようなシーンがあるのだが、そのシーンでさえ、見ている人の倫理的な充足感を谷底に突き落とすような方向性に働いていており、なんか「作り物の物語でも見ているあなたをこれだけ嫌な気分にさせることが出来ます。」とでも言っているようであった。
映画を観てその内容だけで単純に気分が悪くなるのじゃなく、その映画の内容と関係ない部分でまで観ているほうの神経を逆なでするようなところがある。
なんで映画観ながらこんな嫌な気分にならんとあかんねんと。
しかし、逆にこれが映画であることを意識ながらでないと怖すぎると言うこともあるのかもしれない。

「セブンス・コンチネント」然り「ベニーズ・ビデオ」然りこの「ファニーゲーム」然り、この監督はほんまに怖い、というより気分悪い嫌な映画作るなぁ。(褒め言葉)

リメイクされたほうは、ティム・ロスとナオミ・ワッツが夫婦役らしいが、ナオミ・ワッツのぶっ飛んだ発狂系な演技が凄そうな気がする。
というか、この映画であまりにスケスケで笑ってしまった、意味無いやん!ブラじゃないよ!と突っ込んでしまいそうなブラもリメイクされてナオミ・ワッツが着るのかどうか楽しみである。

2009年02月23日

●映画:「まぼろしの市街戦」 / 琴線直撃映画 / 自己実現の悲しさ

amazon ASIN:B0000CD7LK フィリップ・ド・ブロカなる監督のフランス映画、「まぼろしの市街戦」 (1967/仏=伊)を観た。

第一次世界大戦末期、ある北フランスの小さな町でドイツ軍が町のどこかに時限爆弾を仕掛けて撤退した。
スパイからその情報を得たイギリス軍は一兵卒の男に斥候として爆弾無効化を命じる。
男が町に入るとすでに、住人たちは全員逃げ出していたが、精神病院に入院していた患者たちが町の中で優雅に楽しく暮らしていた。
患者たちにその町の王に祭り上げられた男は爆弾を探しながらもその町での生活を満喫し始める。
という感じである。

原題は「Le Roi de coeur」英題の「King of Hearts」の通り、主人公が王と見なされる切欠となったトランプの「ハートのキング」である。
邦題の「まぼろしの市街戦」は現代とまったく違うけど、なかなかうまい事つけたなぁとおもう。

誰もいなくなった町で、患者たちがそれぞれが勝手に貴族や将軍や司祭になったり、親や子になったり、娼館を経営したりするのだが、自分のなりたい人間になり、着飾って町を練り歩き、思う存分やりたいことをする彼らの繰り広げる生活がとても素晴らしい。
衣装も美術もとてもいい感じであるし、何よりもコメディータッチであるところがたまらん。

娼館を営む女主人とその情夫の将軍がベッドに並んでいう台詞「男の子が生まれたら将軍に、女の子が生まれたら娼婦にしましょう!」 がとても素晴らしかった。
このように何の迷いもなく、自分のなりたいものになり、自分の生きたいように生き、自分の一番の価値を正義とし、子供たちにもそれを授けるできることの幸せは素晴らしい。

爆弾が仕掛けられたがゆえに無人となりった町で、無人になったがゆえに町に出て思い思いに暮らすことのできる患者たちは、ただ狂っているのではなく、自分たちの立場や状況をはっきりわきまえている。
外の世界が広大であることを知りながらも、閉じた狭い世界で、時間的にも空間的にも限られた範囲で満足し、閉じた世界を至上のものとする彼らの生き様は悲しくも脆く儚い美しさがあった。

この映画の中で、登場人物たちは限定的ではありながらも、ある意味で自己実現を完了している。
彼ら、自己実現を完了し目的地に到達した人たちは、これから先に目指す高みや彼方もない。
彼らにとっての未来はそれを失うことしかないわけである。
本人たちは幸せそうなのだが、それをはたから見ているとえもいわれぬ悲しみがある。
この映画に漂う雰囲気はそういった所から来ているように思う。なんか心の中の変な琴線をダイレクトに直撃するような、なんとも素晴らしいおとぎ話の様な映画であった。この映画大好きである。

2009年02月22日

●映画:「風が吹くまま」 / 文芸書のような映画

amazon ASIN:B00005NS2W  「桜桃の味」が有名なアッバス・キアロスタミの「風が吹くまま」(1999/仏=イラン)を観た。
現代イラン映画を代表する多くの作品を撮った、イラン映画の中では有名な監督であるらしいけど、この監督の作品を見るのは初めてである。

テヘランからおよそ700キロ離れた地方に奇妙な葬式の風習が残る村があり、そこに住む一人の老婆が危篤だということでテレビのクルーはその老婆の葬式を取材をするために村に出かける。
村に到着したディレクターは村で生活しつつ老婆に死が訪れるのを待つが、徐々に悪くなっていたはずのはずの老婆の様態は彼が到着してから日に日に良くなってゆく。
そんな中でディレクターが複雑な気持ちを抱きながら日々を送ってゆく様が淡々と描かれるという感じでの映画ある。

主人公のディレクターは老婆の死を待ちながら村で暮らすが、待つだけの毎日に退屈極まった取材のクルーと、時折携帯電話に電話をかけて来る上司との板ばさみに合いつつも、村の人たちとの交流してゆく。
視聴者に対するサービスは控えめで、物語は何の事件も起こらずに淡々と続いてゆくので見ているとひたすら眠たくなる。まったく面白くないというわけじゃないけど、とても面白いとは言いがたい。
主人公以外のクルーは姿を見せず、携帯電話で話すために近所の丘に車で走って行ったり、亀や穴を掘る男など、なんとなく象徴的なシーンや台詞が多くて比喩に富んだ作りである。
この映画を観るのは私小説とか一人称小説とかいったものを読んでいるような感覚に近いかもしれない。
良い言い方をすれば観ている人に媚びていないが、嫌な言い方をすれば視聴者に優しくない作りである。

私にとって映画なるメディアは本などと比べた場合、一方的に情報が送られてくるようなプッシュ型的なコンテンツなのだが、この映画は本のように映画を観ているほうの立場で多くを汲み取ってやる必要があるように思う。
この映画の評価が結構真っ二つに分かれているのはそこのところがあるからだろう。
この映画が作られたイランってのはなかなかの映画大国らしいのだが、そんなイランではこの映画を文芸書を読むような感覚で観ているのかもしれないなと思った。

2009年02月21日

●映画:いのちの食べ方 / 中立的な食ドキュメンタリー

amazon ASIN:B001F8ROI2 レンタル屋さんの新作の棚に並んでいて思わず借りてしまった。
豚、牛、鶏、野菜、魚などがどうやって生産されて加工され、食料品として食卓まで来ているのかというドキュメンタリーである。塩を掘る映像まである。
食べられるための動物たちの誕生、そして殺されて肉として加工されるまでの一部始終の、そして野菜を育てて収穫し刈り取るまでの、台詞も説明も演出も無い淡々とした映像が続く。
全く説明が無いので何をしてるのか全くわからないシーンもある。

大抵こういった映像は見るものの加害者意識を煽って人間の業の深さとか命の大切さとかいったありきたりな方向性のメッセージ性を忍ばせている事が多いけど、どの立場にも組しない映像は中々好感が持てた。
牛を殺すシーンも吊るされた豚の腹を割くシーンも、アスバラガスを掘るシーンも塩を掘るシーンも同等に扱われているのがよかった。

見方を変えれば、膨大な生産力と加工力を持つ機械化されて練された工場が如何に効率よく大量の食物を大量の人々に供給しうるかについてのドキュメンタリーととることもできるし、「命」が如何に「モノ」であるかを知る映像でもあるともとることが出来る。
牛や豚や鶏が殺されて吊るされてベルトコンベアを流れるうちに、最後には肉の塊にまでなっているシュールさは、なんだかカフカの小説を読んでいるようでもあった。エグいとか残酷というよりは「すげー」と感心して見られた。

牛が筒状の銃を眉間に向けられた時の自分の死を悟っているとしか思えない暴れ方と、動脈を切った時の血の量、それからひよこの頑丈さが印象に残っている。

屠殺や加工や収穫など、本来なら肉や野菜を食べる我々自身がするべきことは見て理解しておくべきだという意見は一般的に受け入れられている考え方であるように思う。
その考え方からすれば我々の生活を支えている半導体とか電気とか化石燃料の成り立ちや仕組みも、ただのブラックボックスにしておくのではなくもっと理解されようとして然るべきではないだろうか。
肉や野菜がどうやって作られているのかを知るべきであるのなら、同様にコンピューターや電力がどうやって動作して作用して我々の役に立っているのかも知るのも悪くないのではないだろうか。

こういった映像を見て「動物さんたちが私に命を!」とか言って加害者意識に酔う傾向は、自ら酔うために他人に対してわざわざ加害者になろうと試みる意識がチラチラ見えることが多く、基本的に危ない方向性やなぁと思うのだが、かといって「私のために肉になって当たり前」とか言ってしまう方向性も十分危ないと思う。
知の観点から感情的な部分を揺さぶられるのもどうかという見方もあるわけで、それなら最初から近づかないのも実は謙遜で賢明な選択なのではないかと思った。

2009年02月19日

●映画:「ロック・ユー!」 / カンタベリーなある騎士のまさにロックな物語

amazon ASIN:B00005USPO  ダークナイトのジョーカー役のヒースレジャーが主演である「ロック・ユー!」(2001/米)を観た。

貴族のみが出場できる、庶民の娯楽と騎士の栄誉の場であった馬上槍試合に、優勝を目前に急死した主人とすりかわって従者の一人が身分を隠して出場する。
出場を機に平民だった従者は騎士として成り上がるために、仲間たちと共に貴族に成りすまして馬上槍試合に出場してゆく。

物語中で「フランス人が教皇だ」なる台詞が出てくるので、アヴィニョン捕囚の時期の14世紀くらいを想定しているようであるけど、その中世の物語の音楽としてロックミュージックが使われているのが斬新なのだろう。
たしかに、ランスを構えた騎士が馬上ですれ違いざまに、その武器が砕けるほどに突き合うシーンのバックにロックがかかるのはなかなか良い感じである。
誰にも安心して観ていられる良い映画であった。

「ロック・ユー!」なる邦題は微妙な気がするけど、原題は「A Knight's Tale」で、この映画中にも主人公の従者として登場するジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の『The Knight's Tale』にかけているのだろうが、邦題にすると「ある騎士の物語」くらいの意味になって全くインパクトがなくなるうえに、『カンタベリー物語』との関連性もちょっとでも文学に詳しい人じゃな限り分りにくすぎる。
ということで、Queenの「We Will Rock You」が冒頭にかかる(らしい)こともあるし、イギリスで労働者階級が自分の階級から成り上がるにはサッカー選手になるかロックミュージシャンになるしかないという話もあるくらいで、カウンターカルチャーとしての「ロック」の意義も踏まえて、「ロック・ユー!」と言うタイトルは意外になかなか良い題かもしれない。

映画の中でも貴族と一般庶民の間に強烈な身分関係があったり、身分が越えられない壁であるとするようなモチーフはとても多かった。
庶民たちが自分たちの味方であり、自分たちに近いと感じる、貴族の騎士たちを次々となぎ倒し、自身の誇りある行動によって騎士という称号は貴族と言う身分の問題でなく、気高い心のありようであるという一種の価値転換を身をもって示した彼は、労働者階級から爵位を授かって貴族となった(一代限りであるけど)ポール・マッカートニーやエルトン・ジョンのように、労働者階級の英雄であると言う意味でロックスターであった。

階級闘争であるとか、労働者階級の悲哀であるとか、そういった話はともかく、この映画は週刊ジャンプ的「友情・努力・勝利」の少年漫画三原則を地でいくようなベタベタで面白くて爽快感あふれる良い映画だった。

2009年02月18日

●映画:アンドレイ・タルコフスキー「ノスタルジア」 / 良い意味で激しく眠たい映画

amazon ASIN:B00006S25R アンドレイ・タルコフスキーの映画の中で一番の傑作であると言う声が高い「ノスタルジア」(1983/伊)を観た。
彼はこの映画の製作のために出国し、完成後そのまま亡命したらしい。
ロシア人作家の主人公が、故郷ロシアに帰れば農奴になることが分っていながら帰国して自殺した音楽家の取材のために、通訳の女性を伴ってイタリアを旅していた。
旅の最終地である温泉街で主人公は、終末が来ると信じて世界を救うために日々を生きているという、周囲から狂人扱いされている男と出会い、彼に興味を引かれてゆくというもの。
「ノスタルジア」の題名どおり、監督のタルコフスキー自身の故郷に対する思いが色濃く反映された映画である。
とにかく、ひたすら美しい映画であった。

周りからはまったく理解されないけど、本人は世界のために家族と自分を犠牲にしてまで命をささげている、狂人にしか見えない人物の中にある真摯さは妙に心に響くものがある。
彼は、一滴の水滴が二つ合わさって一滴の水滴になる、いわゆる「1+1=1」の論理を説いていたけど、彼はまさに世界に影響を与える一滴の水として、世界と混ざり合ったということなのだろうか。
後半のカンピドリオ広場のマルクス・アウレリウス像上での演説は、今となれば使い古されてしまったような雰囲気と語彙であまりにも胡散臭く感じてしまうだろうなと思えるのがちょっと残念であった。

今までに見たタルコフスキーの映画と同じく、映画の半分までは耐え難いまでに眠たい。しかし、半分を過ぎるとトーンも全く変わらないのに眠たくなくなり、映画に引き込まれてゆくのは本当に不思議な感覚である。
映画としては、この映画の次に作られた、前に見た「サクリファイス」の方がはるかに感動したけど、この映画はタルコフスキーののシンボルである「水」を基調にした映像が本当に美しかった。
いわゆるハリウッド系の「映画らしい映像」というのは今まで映像化できなかったものを映像化する方向性の試みの、どちらかといえばアッパー系な方向性が多いように思うけど、このタルコフスキーの撮る映像が絶賛されるのは、ほかの何のメディアでは決して表現できない、映画でしかなしえない美しさでダウナーなトリップ感に陥るところにあるのだろうと、この映画を観てつくづく思った。
ネット上でこの映画に対して、「映画が芸術であることのもっとも有効な証拠である作品」とまで言う人がいうくらいであり、そういう意味で映画にしかできない表現の一つの方向性の、何かしらの極致とされるのもうなづけるような気がした

2009年02月16日

●映画:「28週後...」 / ヨーロッパ史観ゾンビ映画 / 愛ゆえに!

amazon ASIN:B00165SDW0 「28日後...」 (2002/オランダ=英=米)の続編である、「28週後...」 (2007/英=スペイン)を観た。
人間を凶暴化させる血液と唾液によって感染する「RAGEウィルス」の感染者から身を潜めながら、生き残った人々と郊外の一軒家に非難していた男が、感染者達の襲撃から妻を見捨てて逃げ出しから28週後、感染者の死滅とウィルスの消滅によって安全宣言がされたロンドンの復興が始まっていた。
復興政府の重要なポストについていたその男はスペインに旅行していた息子と娘をロンドンに呼び寄せて新しい生活を始めるが、ちょっとしたきっかけによって、収束したはずのウィルス騒ぎが再燃し、ロンドンはパニックとなる。

イギリス映画的というのだろうか、やたらと暗い雰囲気の上にハリウッド的な要素も満載の面白い映画であった。
ゾンビ映画ってのは基本的に笑えるものであるけど、この映画はちょっと笑えない。
ネット上でもやたらと評判が高いのも納得である。

前作の「28日後...」でも「感染者」がすごい勢いで襲ってきた記憶があるけど、この映画の「感染者」はやたらと素早くダッシュで襲い掛かってくるイメージがある。この映画は前作に増して「ゾンビ」というよりは「エイリアン」に近いこの「感染者」の動きがやたらと印象深かった。
「感染者」は死体がよみがえったわけではないので正確には「ゾンビ」ではないのだろうけど、この「RAGEウィルス」への感染というのは「味方への敵対化」「他者への感染」という意味合いで「ゾンビ現象」と言えるだろう。

映画「ゾンビーノ」の感想を書いた時に、たいていのゾンビ映画に共通するゾンビ現象のもっとも不幸で悲劇となりうる側面として「家族や愛する人がゾンビ化して自分を襲い、ゾンビ化した自分が家族や愛する人を襲うところにある」と書いた。
ゾンビ化した肉親が自分を襲い、ゾンビ化した肉親を殺さずに見逃すことでさらに惨劇が広がり、政府が個人を無視して事態の収拾を図ろうとする状況の場合、大雑把に言ってしまうとハリウッド系シリアスはそういった状況を「個人的な感情としてシリアス」に描きがちだが、この映画は個人の感情に力点を置くのではなく「そういった状況自体がシリアス」として描いているような気がする。
ネット上でこの映画の歴史観がヨーロッパ的であるという感想を読んだのだが、たしかに自己実現と正義とヒーローとアメリカンドリームの国で作られた、個人が尊重される英雄的でハリウッド系な「バイオハザード」と比べて、「この28n後...」シリーズは、大きな力に大して個人がことごとく無力に押しつぶされ、ヒーローだったはずの人も故郷であった国も簡単に消えるような、戦争と侵略と滅亡と隆盛のヨーロッパの歴史観を感じさせられるものであるかもしれない。

この映画は市民の「愛」ゆえの行動がことごとく社会的な惨劇につながってゆく側面と、体制側が全体を守るために市民に対して過剰なまでの無慈な行動を選択する側面を持っていた。
正しいとされる感情に基づくの破滅的な現象の原因を作り出した主人公の一家の行動と、その行動を管理しきれなかった体制、そして破滅的な事態の収拾のために体制の取った手段と、その対象となる主人公一家、一つの事実を取ってみても立場によって受け取り方と正当性がまったく違う。
そういった歴史なり人間の持つ矛盾とか多義性とか重層性を感じさせるところがこの映画に深みを与えているところだろうと思った。

2009年02月14日

●映画 : 「ゾンビーノ」 / ゾンビの友情愛情物語 / 新しい奴隷制度「I'm ゾンビーノ」 / バイオハザードシリーズ最新作?

amazon ASIN:B00148S74S ずっと前から観たかった「ゾンビーノ」 (2006/カナダ)をやっと観た。

放射性の粒子によって死体がゾンビ化する現象が起こり、世界中の死体が蘇って人々を襲い始めることで「ゾンビ戦争」が勃発した。
殺された人もゾンビとなって加わるゾンビの陣営が爆発的に増加する中、徐々に押されつつある悪い戦局を「ゾムコン社」がゾンビの弱点を発見して一気に解消した。
「ゾムコン社」はそのテクノジーを使ってゾンビがうろつく世界から人間達を隔離し、更にそのテクノロジーを民生化して「ゾンビが人を食べたくなる衝動を抑える首輪」を開発する。
死んだ人は自然に残留放射性粒子によってゾンビとして蘇り、また外の世界から捕囚してくればいくらでも供給されるゾンビを意のままにコントロールできるようにして労働力とし、より豊かな生活を営めるようになった世界から物語が始まる。
孤独な少年とペット用ゾンビとの心の交流、そしてそのゾンビと少年の母のほのかな恋の物語である。

この映画はゾンビ戦争やらゾムコン社のテクノロジーだけでなく、ゾンビは人間の敵で、征服されたゾンビは被差別階級として忌むべきものでありながらも、主要な労働力として使う社会体制が整っているような状況が前提されている。
設定上はパラレルワールド的な1950年代アメリカの郊外を想定しているらしいけど、そういった社会体制での「ゾンビ」のあり方は戦争に負けて捕虜にされたギリシャ・ローマ時代の奴隷のようなものである。
ゾンビをペットや労働力として使う社会システムは、戦争捕虜から人権を剥奪して純粋な労働力として使う、現代から更に進んだ奴隷制度であろう。

そんな社会で奴隷であるゾンビに友情や愛情を抱いたりするのは当然モラルに反する。
当然この映画でのメインのテーマはゾンビに友情と愛情を抱く少年とその母の、社会的なモラルと人間としての当然の感情の狭間で引き裂かれるありようとなる。
映画の最後は人間とゾンビの対等な関係としての社会の可能性が示される良い幕引きであった。
ローマで反乱を起こした剣闘士奴隷の映画で「I'm スパルタカス!!」なる心の叫びがあったけど、この映画では「I'm ゾンビーノ」いった所であろうか。
ただのコメディーの皮を被りながらも、人間だけではない「あらゆる存在の平等」のテーマに肉迫したなかなか含蓄深い映画であった。

わざとかたまたまかどうかは分らないけど、「放射線による粒子」のところを「人間に感染するウィルス」に、「ゾムコン社」を「アンブレラ」に置き換えれば、映画の「バイオハザード」の世界と全く同じである。
地上の殆どを占めるゾンビがひしめく荒野の一角に、金網で隔離された人間の居住区が存在するといった世界観は、「バイオハザード3」の設定そのままであるし、ゾンビをコントロールする全く同じような研究も「バイオハザード3」で既にアンブレラが行っていた。
この「ゾンビーノ」を「バイオハザード4」としても、ゾンビ系コメディ映画がバイオハザードシリーズであることは別にして、設定やストーリー的には全く違和感がない。

ゾンビ現象のもっとも不幸で悲劇となりうる側面は、家族や愛する人がゾンビ化して自分を襲い、ゾンビ化した自分が家族や愛する人を襲うところにあるだろう。これは「ゾンビーノ」含めありとあらゆるゾンビ映画に共通の項目である。
しかしこれは「ゾンビーノ」のテクノロジーで条件付ながらも解消されうるし、映画内では現に解消されていた。
バイオハザードではゾンビ化した人間は動かなくなるまで破壊する以外なかった。しかし「ゾンビーノ」ではそんなゾンビも社会の一員、家族の一員として暮らすことができるのだ。
この人間とゾンビの共存の可能性を探る方向性は、いずれ製作されるであろう本家の「バイオハザード4」よりもヒューマニズム溢れるベクトルを持っているのではないだろうか。

と、ちょっと大げさすぎる感想を書いてみた。

2009年02月13日

●映画:「ベルリン・天使の詩」 / 天使視点の映像 / おっちゃんの姿をした天使

amazon ASIN:B000EGDDLI  ドイツ人監督ヴィム・ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」(1987/独=仏)を観た。

世界には人間の目に見えない天使たちが存在し、彼らは人に寄り添ってその悩みを聴き、共に悩んだり悲しみ、孤独や絶望に打ちひしがれている人々を人知れず力づけ癒し続けて来た。
ベルリンの町で人間の長い歴史を見続け、人々を励まし続けてきたそんな天使の一人は、サーカスの空中ブランコ乗りの少女に恋し、肉体を持って彼女を愛したいがために、人間として生きることを望むようになる。
ドイツ語の原題は「Der Himmel über Berlin」(ベルリンの上の天国?)、英題は「Wings of Desire」(欲望の翼)と、原題、英題、邦題のどれもいい感じである。

魂だけの存在であるおっちゃんの姿をした天使が、モノクロの世界の中で人々を励まし続ける様は物悲しくもあり、なんともいえない優しさにも溢れていた。
天使たちの存在、そして人間になろうとする主人公の天使、すべてが優しい文句なく良い映画であった。

天使の仕事は基本的に人の心の叫びに耳を傾けて慰めることであるらしく、地下鉄の中、家の中、ビルの屋上、どこにであろうが孤独や悲しみや絶望に悩む人があれば話を聞いて慰めている。
彼らが図書館に集まって自分の聴いた悩みや悲しみを発表しあったりしている様が良かった。
ビルから飛び降りようとする男に寄り添い励ますも男は飛び降り、天使が頭を抱えて叫ぶシーンもあったので、励ましに失敗することもあるようである。
永遠の命を生きる天使なので数え切れない励ましを行ってきたと想像されるけど、仕事に慣れきらず、現在も励ましが成功すると喜び、失敗すると悲しむ新鮮なモチベーションをもって仕事を続けているのはとても素晴らしい。

天使といえば一般的には子供だったり女性だったり優男風だったりするような、無垢な優しさをもつ存在としてイメージされるけど、この映画の天使たちはその辺のおっちゃんのような姿であった。
でもこの映画を観ていると、天使なる存在はおっちゃん姿でしかありえないように思えてくるのが不思議である。おっちゃんが天使的な属性を持っているとはちょっとした驚きである。

タルコフスキーの「ストーカー」、ディズニーの「オズの魔法使い」などカラーとモノクロの切り替わりが印象的な作品があったけど、この映画もモノクロとカラーの切り替わりがとても印象的だった。
今までモノクロの世界で暮らしてきた天使が、人間になってカラーの世界の美しさを褒め称える様はとても良かった。

天使の視点なる映像がちょっと新鮮で、映画全体になんともいえない優しい雰囲気が満ちている良い映画であった。

2009年02月11日

●映画:デリカテッセン / フランス風カニバリズムと恋の物語 / フランス映画のクオリアは実はシンプル

amazon ASIN:B00005R237 『アメリ』(2001/仏)を撮ったジャン=ピエール・ジュネの『エイリアン4』(1997)を観たので、勢いで同監督の『デリカテッセン』(1991/仏)を観た。
核戦争後の近未来でパリの郊外に残った、肉屋が経営しているアパートに、男が住み込みの雑用係として引っ越してくる。
おかしな住人たちと暮らしつつ、アパートでの生活に慣れ始めたころ、彼は自分が肉屋に食肉として狙われていることに気づく。
という感じのストーリーであるけど、「核戦争後の近未来」「パリの郊外」ってのは解説文に書いてあっても映画内で説明されていなかったような気がする。

よく分らないままにカニバリズムと恋の話がミックスされつつ、やってることがエグい割りに軽いトーンで物語が進んでゆく。
軋むベッドに合わせて生活音をミックスしてリズムにしてみたり、鋸とチェロの二重奏を演奏したり、住人が家賃を払えずに食肉にされたりと、なんか如何にもフランス映画やなぁ。と思った。
結局訳の分らないままに映画は終わったのだが、このわけの分らなさもフランス映画であった。

しかし、改めて考えてみると「フランス映画のクオリア」ってのはちょっと考えるととても複雑そうであるけど、実は「赤のクオリア」とか「海のクオリア」と同じくらいにはっきり分りやすいんじゃないかと思った。

2009年02月10日

●映画 : 遊星よりの物体X /「アパッチ砦」+「カサブランカ」+「エイリアン」 / 次のリメイクは「遊星よりの物体X VS プレデター」?

amazon ASIN:B0000ABBXR 「遊星よりの物体X」(1951/米)を観た。有名やけど観た事ない上に、なんとなくパッケージが笑えたので借りてきた。
後に「遊星からの物体X 」(1982/米)としてリメイクされる古典的な名作の扱いのようである。

北極に未確認飛行物体が墜落し、調査に向かった軍人は生命体としての反応を見せる氷詰めになった「物体X」を基地に持ち帰る。
目覚めた「物体X」は基地を逃げ出し、調査チームは「物体X」が植物ベースの地球外生命体であることを突き止めたのもつかの間、「物体X」は通信を遮断し、燃料の供給をストップさせてたうえで、基地にいる人間を襲い始める。
と言う感じのストーリーである。

1951年とかなり古い映画で、確かに面白いのやけど、古い映画のせいか、まだこういったジャンルが定着していなかったせいか、映画としての構成がSFホラーと言うよりは西部劇かハードボイルドであるところが笑った。
「アパッチ砦」と「カサブランカ」と「エイリアン」を混ぜたような雰囲気である。
「物体X」が異星の生命体と言うよりはフランケンシュタインの怪物に近いけど、映画としてのジャンルは「エイリアン」とか「プレデター」とか同じくくりになるのが笑える。
基本的に「物体X」は植物なので細胞を土に植えると芽が出てくるのが可笑しかった。
トラップに乗せるために自分に投げられたもの避けるために、反復横とびで横に飛びのく「物体X」が可愛かった。

ホラー映画としてなかなか緊迫しつつも、時代のギャップでおかしみを感じる映画であった。
既に「遊星からの物体X 」としてリメイクされているので、常にプレデターと戦わせる相手を探している私としては、もうこれは「遊星よりの物体X VS プレデター」としてリメイクするしかないやん。と思うのであった。

2009年02月08日

●映画:エイリアン4 / 次回作は「シガニー・ウィーバー VS プレデター」?

amazon ASIN:B00005EYOY 「エイリアン3」を観てすぐ、立て続けに「エイリアン4」(1997/米)を観た。
エイリアンシリーズの一番新しい映画であるけど10年以上前の作品である。しかも監督が「アメリ」のジャン・ピエール・ジュネだということでちょっとびっくりした。

宇宙船内のエイリアンの研究施設内で、前作で死んだはずの主人公リプリーがエイリアンのDNSと融合した状態でクローンとして蘇える。
研究施設内から逃げ出したエイリアンが人々を虐殺する中、たまたま寄港していた密輸船との乗組員ともに、エイリアンの遺伝子を受け継いだリプリーは人間を超えた能力を発揮してエイリアンと戦いを始める。と言う感じのストーリー

リプリーのクローンの失敗作が出てきたり、自分の子供であるエイリアンを悲しみながらも殺したりと映画としてはなかなかブラックでいい感じである。とても10年前の映画とは思えない面白さであった。

次回作の「エイリアン5」も予定されているらしいけど、「エイリアン VS プレデター」のおかげでなかなか作れないと言う話を聞いた。もうこれは「プレデターVSシガニー・ウィーバー」にするしかないかもである。
プレデターとエイリアンの能力を受け継いだシガニー・ウィーバーならいい勝負になるに違いない。

エイリアンと融合したシガニー・ウィーバーがやたらと強いのやけど、まだまだ「バイオ・ハザード」シリーズでT-ウィルスと融合して最終的に「アキラ」か「ドラゴン・ボール」の世界になっているミラ・ジョヴォビッチよりは弱そうだ。
「プレデター VS ミラ・ジョヴォビッチ」あるいは「エイリアン VS ミラ・ジョヴォビッチ」にすれば圧倒的にミラ・ジョヴォビッチが強そうだ。
更にエイリアンとT-ウィルスのDNA情報をミラ・ジョヴォビッチに掛け合わせれば、いろいろな意味での最強クリーチャーが誕生するに違いないと、いい年こいて俺は何を言っているんだ?と思った。

2009年02月07日

●映画:エイリアン3 / 主人公こそエイリアン

amazon ASIN:B000MR9ALG 私が今小学生くらいの子供なら確実に卒業文集に「将来なりたいものはプレデター」と書くのだが、流石にこの年で「将来なりたいもの」とか言うのはおかしいので、「プレデターとしての老後」をとりあえず楽しみにしておこう。
てなくらいに私はプレデターが大好きなので「プレデター」シリーズと化した「エイリアンVSプレデター」は欠かさず観ているのだが、そういえばその「プレデター」の好敵手である「エイリアン」のシリーズを二作しか観ていない 。
これは観ておかねばと「エイリアン3」と「エイリアン4」を借りてきたので、まず、「セブン」や「ファイト・クラブ」のデヴィッド・フィンチャーが監督した「エイリアン3 」(1992/米)の感想を。

「エイリアン2」でエイリアンとの死闘を征して地球へと帰還中の宇宙船に例のごとくエイリアンが入り込んでおり、宇宙船は事故を起こして自動射出された脱出用ポッドが近くの流刑用の惑星に不時着する。
唯一生き残ったリプリーは囚人たちと暮らし始めるが、脱出用ポッドに乗り込んでいたエイリアンが惑星に逃げ出して人を襲い始める。エイリアンと戦いながらもリプリーは自分の体内に何ものかの存在を感じる。と言う感じのストーリーである。

公開当時はそれなりに話題になっていたことを覚えている。なんでもシガニー・ウィーバーがスキンヘッドになるって話題になったような記憶がある。
ネット上で見る限りあまり評判のいい映画ではないけど、ひたすら暗い雰囲気で、一人しか生き残らない(しかも主人公ではない)のは今見ても結構衝撃的やった。
人間としてはエイリアンを憎み続けていた主人公が、最後には個人として母として自分の胎内に宿ったエイリアンを愛しそうに抱いて溶鉱炉に落ちてゆく様がとても印象的やった。
とはいっても主人公は「エイリアン4」ではクローンとなって蘇るわけで、もうシガニー・ウィーバー自体がエイリアンになったというお話であった。

『ドン・キホーテ』の主人公を勝手に使われて偽の続編を作られたことに悲しんだ作者のセルバンテスは、『ドン・キホーテ』の後編の最後に二度とこの主人公を私以外の人に使わせないように殺してしまったけど、「エイリアン3」で死んだ主人公がクローン人間として蘇るわけでもう何でもありあり。
大ヒットした「エイリアン2」を観たのが中学生で、当時、友人たちの間で掃除の時間にほうきを小脇に抱えて蟹股で歩く「エイリアン2」の登場人物「バスケス」の物まねが流行ったのを思い出した。懐かしいなぁ。

2009年02月06日

●映画:「ダークナイト」 / 全年齢全方向全要素的娯楽大作 / 神なき(つまりは悪魔なき)時代の悪

amazon ASIN:B001AQYQ1M 面白いと評判の「ダークナイト」を観たが、確かに面白かった。

「バットマン」(1989/米)と「バットマン・リターンズ」(1992/米)を予習として見たけど、ストーリー的には全く関係なかった。
どうせなら「バットマン・ビギンズ」を観れば良かった。

この映画での一応の主役はバットマンであるけど、実際の主役はバットマンの敵役であるジョーカーである。
ジャック・ニコルソンのジョーカーはひたすら「狂気」であったけど、今回のヒース・レジャーのジョーカーは「狂気」とか「異形」とかいう次元を超越していてとても素晴らしかった。
ということで、このジョーカーをメインに感想を書いてみる。

彼は金銭を要求するでもなく、組織のトップに立ったり町を支配したりと権力を求めるわけでない。彼の求めるものはただゴッサムシティを混乱に陥れて既成の作られたモラルとか秩序を壊すことのみ。
しかもそれを一方的に上から災難が降ってくるようにするのではなく、市民自ら自らの意思と欲望で選択させるように仕向けるところがエグい。
彼の信念の中には、人間とは欲望にまみれた醜いものでしかなく簡単に悪の道に堕ちる。というのがあるようで、彼の破壊活動は町を彼の好む金のかからない「ダイナマイト、火薬、ガソリン」で外面的に壊すだけでなく、町の人の心の醜い欲望を煽り立てて内部から蝕んでゆくところがメインである。

金とか権力といった分りやすい欲望にのみ収束する人間が魅力的であることはほとんどないけど、彼はそんなものに興味を抱かないどころか、自らの力と主義が真実であることを確信し、自分の主義のために自分の死を全く恐れていないところが十分に魅力的である。
よれよれしたスーツから剥げかけたメイクまで細部にいたるまで隙のないすばらしい悪役であった。

自分の口の傷がなぜできたかについての話が毎回違うとことによって、彼が子供の頃のトラウマとか強烈な人間不信が原因で悪の道に落ちたとかとかいった分りやすい設定を真正面から拒否しているけど、彼をキリスト教圏にありがちな「純粋悪」とするのではなく、虚言癖を持つ根本的に我々と違う危ない人レベルにまで貶めているところが今時の映画であるような気がした。
つまり、ジョーカーは悪魔でも悪の化身でもなく、特別な存在ですらない、我々の間から時々生まれる絶対的に理解できない先天的な快楽犯罪者的な変態の一種としてみなしており、こういった「悪」にしか見えないものを解釈したり理解しようとするのではなく、ただ描くだけの方向性に好感を持った。

マイケル・キートンのバットマンは余りも人相が悪くて正義の味方に見えないところが良かったけど、私にとっては「リベリオン」なイメージのあるクリスチャン・ベールが、表の顔としてあまりにも典型的な金持ちっぷりと二枚目な爽やかっぷりを発揮していながらも、裏の顔であるバットマンで苦悩するところが、ジョーカーとのコントラストとしてとても良かった。

信念に沿って迷うことなく確信を持って突き進むジョーカーに対して、バットマンたちが迷い苦悩しながらボロボロになりながら戦うところが良かった。
「試合には負けたが勝負には勝った」と「試合に勝って勝負に負ける」ということで、どちらにとってもバッドエンド的であった。
しかし、今時に過剰な資金であらゆる年齢のあらゆる客層に対したあらゆる要素を詰め込もうとする、全方向全要素的なハリウッドな方向性を目指すとこのように映画になるのだろうか。
そしてそういった方向性で到達しうる最も高い点にある映画がこの「ダークナイト」ではないだろうか。

作品的にも商業的にも良きお手本と言うことで、多分しばらくはこんな感じの映画が量産されるのだろうなぁ…

2009年02月03日

●映画:「ハックル」 / ハンガリー農村的幻想

amazon ASIN:B0009KQPBE 「ハックル」(2002/ハンガリー)なる映画を観た。ハンガリーの映画で、もともとは監督が映画学校の卒業制作として作ったものが評判を呼び、そこらじゅうの映画賞を受賞しながら有名になって行き、やがては日本でも単館系公開されたと言う感じであるらしい。
本国はもとよりアメリカでも批評家筋にとても評判が良い映画であるようである。
レンタル屋さんで借りて来たのやけど、日本のアマゾンに無かったので海外のアマゾンにリンクしておく。
もともと台詞なし映画なので映画自体に海外版と日本版の違いなんか無いだろう。

動物や人間を同列に扱ってそれぞれの視点から農村の風景を描いているようなのだが、農村の人間と動植物を描いたドキュメンタリーのように始まり、いつの間にかサスペンスな要素が混ざっていたりと、とても不思議な映画である。

食物連鎖だけでなく、利用するされるの関係で複雑につながっている動植物から人間から機械へと順々に滑らかに視点が移ってゆく映像は、感覚的にはワンカットに見えてとても新鮮で、非常に不思議で変わった映画であった。
この作りはロマノフ王朝の栄枯盛衰をエミルタージュ美術館を舞台に描いた、前代未聞の90分ワンカットのアレクサンドル・ソクーロフの「エルミタージュ幻想」(2002/露=日=独)とどこか似ているような気がした。

ちなみに「ハックル」とはハンガリー語のしゃっくりの擬音語であるらしく、映画の冒頭で登場するしゃっくりの止まらなくなったお年寄りをさしているようである。
しかし、自然の中での生物間の関係ってのは、すべからく利用するされるや殺す殺されるの関係でかなりシビアやなぁ。と今更ながらに思った。

2009年02月02日

●映画:コード・アンノウン / 収束することなく発散する群像劇

amazon ASIN:B000LE136K 「セブンスコンチネント」がとても素晴らしかったミヒャエル・ハネケの監督作品「コード・アンノウン」(2000/仏=独=ルーマニア)をなんとなく観た。

邦題は英題そのままであるけど、フランス語の原題には「Code inconnu: Recit incomplet de divers voyages」とサブイトルがついていて、「いくつかの旅についての未完成の話」という感じだろうか。

サブタイトルのとおり、確かになんらかの「旅」に関わりのある、微妙に交差するいくつかの話が組み合わせれたいわゆる群像劇である。
しかし、事件が起こるわけでも、はっきりした物語が展開してゆくわけでも、群像劇がひとつに収束してゆくわけでもなく、どちらかと言えば発散して行っている。

この映画の中で語られる物語は人と人とのすれ違いの物語ばかりで、「CODE UNKNOWN 」と言う様に人と人との分りあいがいかに難しいかとかそういったことが言いたいのだろう。
言いたいことは良く分る。しかしこの延々とだらだらと続く物語はひたすら眠たくってしょうがなかった。

それにしても、「カフカの城」と言いこの映画と言いミヒャエル・ハネケって人はよっぽど「未完」の物語が好きなのだと思った。

2009年02月01日

●映画:「バットマン・リターンズ」 / 虐げられるものとしての異形の怒り

amazon ASIN:B00005HC7I 2008年公開の「ダークナイト」の予習のために観た「バットマン」(1989/米)と「バットマン・リターンズ」(1992/米)のうち「バットマン」の感想は先日書いたので、残りの「バットマン・リターンズ (1992/米)の感想を。

『異形への愛』がこめられたこのシリーズ二作目でバットマンと戦うことになる「異形」は「ペンギン」と「キャットウーマン」である。
ネットではこの映画こそがシリーズ最高傑作であるという声も多いように、ペンギンとキャットーウーマンの運命に始まり、独特の世界観に包まれたゴッサムシティーで繰り広げられる適度のアクションと陰謀で構成されたこの映画はとても面白かった。

前回の「ジョーカー」が異形となることで自らの力を解放して増幅させたのに引き換え、「ペンギン」は最初から異形として生まれたものであり、異形そのものが力へのきっかけになったというよりは、異形であることで虐げられ続けてきた事への怒りや悲しみが力になっていたと言う意味でどちらかと言うと我々にわかりやすくはある。
分りやすくあるからこそ彼の悲哀が悲哀として伝わってくるのだろう。
キャットウーマンもあまりにも地味でぱっとしない生活の上に人格が破綻して、そういったコンプレックスの反発としてキャットウーマンになったわけであるから、ペンギンと同様に自分が異形であることのコンプレックスからキャットウーマンとしての力を持ったわけで、なるほど彼女の感覚も確かによく理解できる。

この映画が前作と比べて良いとされるのはこの敵役二人の悲哀による部分が大きいようであるけど、それは「異形」であるが故に虐げられて苦しんで悲しみ、やがてそれが爆発して虐げたものに対して復習を開始する。と言ったような、我々にとてもわかりやすいキャラクター造詣であるからであろう。

前作のジャック・ニコルソンの「ジョーカー」はやることなすことの意味が全く分らなかった。異形になる前から訳が分らない人間で、偉業になることでさらに訳が分らなくなった。
彼は本当に我々の理解を超えたところにいると言う意味で異形なのであった。
この「バットマン・リターンズ」観ることで「バットマン」のジョーカーの異形っぷりがより強烈であったことを理解できるのであった。

しかし、キャットウーマンがバットマンに敵対する理由が最後まで分らなかったし今でも分らない。
キャットウーマンは味方であるペンギンの敵であると言う理由でバットマンを敵とみなしていたのだろうか?

2009年01月29日

●映画:「バットマン」 /異形崇拝とアメリカンドリームのハイブリッド

なかなか評判の良い2008年公開の「ダークナイト」を観るつもりなので、その予習がてらにティム・バートンの監督した初期二作の「バットマン」(1989/米)と「バットマン・リターンズ」(1992/米)を観た。
ということでまず「バットマン」の感想を書いてみる。

amazon ASIN:B00005HC6I  この映画化された「バットマン」はアメリカン・コミックスの原作や、そこからの直接派生であるアニメ版とはとはかなり違っているらしいけど、漫画もアニメも見たことが無いので違いは全くわからない。
それでもネットで調べてみた限りでは「スターシップ・トゥルーパーズ」の原作への冒涜加減なんかに比べればはるかに原作に忠実で、「スターシップ・トゥルーパーズ」と『宇宙の戦士』の関係に比べれば、演出レベルの違いといってもいいのかもしれない。まぁ比べるのも何やろうけど。

アメコミ原作という事で無駄に明るく無駄にハイテンションで無駄に勧善懲悪な物語だと言う先入観があったけど、ハイテンションなのは狂気なハイテンションなジョーカーだけで、映画全体に妙に重苦しい暗い雰囲気が立ち込めていてちょっと新鮮だった。

ネットでの情報によれば、この映画ではどうやら監督であるティム・バートンの『異形への愛』が多分に込められているらしい。見た目の意味だけでなく、狂気を内に秘めた「バットマン」と狂気を体現した存在である「ジョーカー」の対比がこの映画のキモなのだとされている。
しかし、彼らはただ虐げられて差別されるだけの「異形」ではなく、「異形」となることで何かしらの力が増幅されている。ジョーカーにしろバットマンにしろ、異形となることが彼らの本来の狂気や力を解放させるきっかけとなっていた。

合理科学的な文明が発達した今となっては「異形」はネガティブなマイナスイメージがあるけど、地域を問わず古くから「異形」は神の使いとして特別視されていたし、現在でもヒンドゥー教の影響が強い文化圏では奇形児が生まれたと聞くや、病院の機能が麻痺するほどに人々が殺到して拝み倒さん勢いである。
一般的に社会的な弱者になりやすい異形であることが神に選ばれた特別な存在である証拠だというのは、自分が異形であること、異形の子を生むこと、などに対して社会からの肯定的な価値を得られることによって、社会的な側面でも個人的な自意識の側面でも大きな意義があったのだろう。
しかしそんな価値が廃れた現在、この映画のように異形であることが自分の力や才能を開花させたり自分の殻を破るきっかけになるというのは、いわば異形崇拝的な側面と、自らの力で道を切り開く的なアメリカンドリーム志向な、一見合いそうにない二つのものの取り合わせのハイブリッドともいえるし、そんな考え方自体が「異形崇拝」と「アメリカンドリーム」のキメラという意味で異形であるともいえよう。

異形であることに価値が与えられていない現代では、いろいろな意味で自分を異形だと感じている人にとってそういった考え方は魅力的ですらあるだろう。
しかし、異形であることが点火剤として作用するためには、少なくとも増幅されたり開花されたりする必要のある才能なり力ないがないといけないというのはやっぱり世知辛い世の中だと思った。

2009年01月26日

●映画:アンドレイ・タルコフスキー「サクリファイス」 / 非ハリウッドなヒーロー

amazon ASIN:B000062VMC  アンドレイ・タルコフスキーの「サクリファイス」 (1986/スウェーデン=英=仏)を観た。
「惑星ソラリス」「ストーカー」についでタルコフスキーの映画を観るのは3本目であるけど、この映画は彼にとっては遺作となったらしい。
いずれ同監督の「ノスタルジア」も観るつもりだったので、どうせならこの遺作のほうは後から観ればよかった。

ストーリーは、自分の誕生日を祝うために集まってきた友人たちや家族と楽しい時間を過ごしていた男が、その席の最中に世界大戦の始まりを告げるテレビの報道を目にする。
ここ以外に安全な場所はどこにも無いと告げるテレビの放送が突如止まり、世界の終わりの予感に家族と友人たちはパニック状態に陥る。
絶望する家族や友人を見て、今まで無神論者であった男は、自分の全てを犠牲にしても世界が救われるように、必死で神に祈り続ける。祈り続ける彼はやがて祈りつかれて眠りに落ちてしまうが、そこで目を覚ますと…
と言う感じの話である。

英題の「The Sacrifice」の音をそのまま邦題にしたこの映画の原題は「Offret - Sacrificatio」で、スウェーデン語とラテン語で英題の「いけにえ、犠牲、 捧げ物」を差し出す行為を指しているようである。
タイトルどおり、一人の男が自分を犠牲にして世界を救う(と本人は思っている)話である。
とはいっても、ハリウッド的ヒーローによるヒーロー映画とは似ても似つかない、殆ど自己完結といっても良いほどのものであり、タルコフスキーっぽいと言うのだろうか、べちゃべちゃの地面に、小川のような水の流れ、そしてやたらと静かな雰囲気に包まれた映画であった。

この映画の前半はなんかよくわからんインテリ風の男がうだうだ言ってるだけで眠たくってしょうがなかったけど、ちょうど半分くらいの、男が祈り始めるところあたりから映画に引き込まれて目が離せなくなった。
映画自体のトーンは変わらないのに、がらりと変わったような気がするのは不思議と言えば不思議である。

最後のほうのシーンで彼が何をしようとしているのかに気づいた時から映画が終わるまで、じわじわ湧き上がってくるような静かな感動があった。うーん良い映画だった。
実はこの映画のように、世界は知らないままに何度も救われていたのだと思えば、未来は明るいかもしれない。と思った。

2009年01月25日

●映画:「ウィッカーマン」 / アンチ癒し系ケルト文化 / 交流せず不気味なものでしかない異文化

amazon ASIN:B0019HHBJQ 2006年にニコラス・ケイジ主演でリメイクされた、カルト映画として中々評判の良い古い映画「ウィッカーマン」 (1973/英)を観た。中々人気があるらしく、ずっとレンタルされていて中々借りられなかったのだがやっと観る事が出来た。

匿名の手紙による情報から行方不明の少女を追って敬虔なカトリックの警官がスコットランドのある島にやってくる。
警官は島を治める領主の元で太陽と自然を信仰する卑猥な原始宗教を信仰する島民たちに嫌悪を抱きながらも、何かしらの怪しさを嗅ぎ取って捜査を続けてゆくが…
てなストーリーである。

この映画の見所は、現代の我々から見れば下品で朗らかで開放的に過ぎる島の不気味さと、ネタバレパッケージとしてデカデカ載っているウィッカーマンの不気味さであろう。
大抵この映画を見る人は、この警官と同じ視点に立って少女を探して怪しげな島を見て回る事になるのやろうけど、観てゆくにつれちょっとした違和感がだんだん不気味な予感に変わってゆくような、だんだんと息苦しくなって来るような映画の作りは中々見事であった。
警官の視点で映画が進みながらも、島民でも警官でもないニュートラルな立場で淡々と描く作りが良い感じである。

ドルイドである領主を中心にして、ケルト神話に基づく自然崇拝の原始宗教の風習に則って暮らす島民たちの様は、調べてみた限りかなり正確なケルト系の原始宗教の考え方や風習を表しているように見えた。
しかし、この映画が変なリアリティーを持って現代人である我々に不気味なものとして迫ってくるのは、この映画で描かれる原始宗教の雰囲気がただリアルであるというだけではなく、一見外から見れば現代の我々の生活と溶け込んでいるように見えるけど、実はそうではない。というところが、彼らの住む島から感じる不気味さを更に引き立てているの所なのだろうと思う。

この映画は、ケルト系や北欧系に代表されるような、とかく「癒し系」だと扱われがちな原始的で素朴な宗教や神話が、表面的にはそう見えても、実は根本のところでは「癒し系」とは程遠い、如何に生贄大好きで血なまぐさくてエロい圧倒的に根源的な側面を持っているかと言うところらへんがとても現れていたように感じられた。映画内に漂う、この胡散臭くて怪しげな雰囲気は中々にすばらしい。

結局、ケルト的な島民とカトリック的な警官の二つの文化は最後まで全く交流せずにすれ違ったままである。
私が思うこの映画の一番の美点は、異文化だの異宗教だのの対立や交流などと言ったテーマを一切扱わずに、現代人である我々に原始的な異宗教から感じる不気味さを味あわせつつも、最後の最後のシーンで燃え上がるウィッカーマンから、その異文化の中にある、ある種の圧倒的な美しさを感じさせるところにあるだろう。

自分の中にある価値を前提とした物差しで異文化を計るのではなく、皮膚感覚として根源的な感覚で捉えられるような美を感じる事が、異文化に対する理解や肯定につながるのかもしれないと思った。

2009年01月20日

●映画 : ポイント45 / ビッチなミラ・ジョヴォヴィッチ / ビッチの痛々しさ啓蒙映画

amazon ASIN:B000RN3O0S ミラ・ジョヴォヴィッチつながりということで、「ポイント45」(2006/米)を観た。
バイオハザードを観たあとに色々とネットをさまよっているうちに面白いという評判があったので、んじゃみて観るかということで借りてきた。
スラム街で銃の密売で暮らしている激情型の男の情婦が彼の暴力に愛想を尽かし、最大限に女の武器を利用して彼の呪縛から抜け出す。というお話。

なんとなく「パルプ・フィクション」的な雰囲気を期待していたのだが特にそういった風もなく、個々の強烈なシーンの間にストーリーがあるといった感じである。
観る前は「彼の呪縛から抜け出す」というところをなぜか、訳のわからん生活から抜け出して社会的に成功する。と勘違いしていたのだが、本当に「彼の呪縛から抜け出す」ところまでしか描かれておらず、そのスケールの小ささにカタルシスも何もなかった。
ドメスティックバイオレンスから逃げ出すために、性的な魅力をのみ利用してほかの複数の人間を虜にする。って手段が、後々本当に本人のためになるのかどうかというのが、私としては激しく疑問であった。

しかし逆に、「私は女の武器で世間を渡るわよ♪」となどと恥ずかしげもなく堂々と言ってしまうような真正ビッチの痛々しさを白日の下にさらけ出すことで、そういった志を抱く少女を真っ当な道に引き戻し、そういったビッチに釣られる男どもの肩を叩くような、ある意味での啓蒙的な映画だとすれば良い出来なのかもしれない。
自分がビッチだからといって人を利用して良いというわけではないし、相手がビッチだからといって人を利用して良い訳でもないのだ。当たり前の話である。

ミラ・ジョヴォヴィッチが「hip lip tip」が武器よとのたまう正真正銘の「ビッチ」を演じていて、脚本も演出もイマイチながら、それでも頑張って演技する彼女に好感を持たざるを得ない。
物語の前半でミラ・ジョヴォヴィッチが情夫を蹴るシーンがあるのだが、その体重のまったく乗らない蹴りの不細工なこと不細工なこと。バイオハザードで人間の域を超えた人と同じ人物とは思えない。
ミラ・ジョヴォヴィッチって人は人気の割にはあまりいい役に恵まれないなぁと思った。

何でもいいからミラ・ジョヴォヴィッチ見たくてしょうがない、ビッチが見たくて見たくてしょうがない、という人にはお勧めかもしれない。

2009年01月18日

●「バイオハザードⅢ」 / 綾波・ケンシロウ・ミラ・ジョヴォヴィッチ / 新旧ハイブリッドヒーロー像

amazon ASIN:B0012KL5B0 一年ほど前に公開されたばっかりの「バイオハザードⅢ」 (2007/=英=独=豪=仏)であるが、邦題にない原題のサブタイトル「Extinction」が示すように、文明が「消滅」した後の、人類がほぼ「絶滅」した世界での物語である。

「Ⅱ」の後、一都市だけに収まらななかったT-ウィルスが世界中に広がったことで、人類のほとんどがゾンビと化し、都市機能の停止した世界は壊滅状態にあった。
わずかに生き残った人たちは武装して寄り集まり、ゾンビの群れを避けつつ、食料やガソリンを探しながら砂漠化した町から町へと渡り歩く暮らしをしていた。
一方、アンブレラの監視網を避けながらひっそり暮らしていた主人公は生き残った人をアンデッド化したカラスの大群から救う為に「力」を使ってしまい、彼女をアンデッド化した人をコントロールするための切り札だと見るアンブレラの研究者に場所を特定されてしまう。
といった感じである。

非力ながらもマッドマックスや北斗の拳のような世界の中で必死でタフに生きる一般人に引き替え、ミラ・ジョヴォヴィッチはあまりにも強すぎて同じ人間に見えない。もう顔までCG処理したように見えてしょうがなかった。

「Ⅱ」で人間離れした体術と戦闘能力を発揮したセガールかターミネーターかカムイのごとき彼女は、「Ⅲ」になるに及んで人間の域を大きく超え、「気」を使うわ人工衛星は壊すわ、フォースに目覚めるわと、スーパーサイヤ人やアキラの世界になっていた。ヤムチャなら指先一つでダウンに違いないし、恐らくアキラのナンバーズの子供たちにも勝てるだろう。

マッドマックスや北斗の拳やアキラ的な古典的終末後の世界の古典的救世主でもあるミラ様は、一方で人間を滅ぼしたモノそのものと融合することで新しく進化しつつも、「代わりはいくらでもいるもの」的な絶対的アイデンティティーの根拠がない存在でもある。
ケンシロウや孫悟空の如き絶対的で圧倒的な能力と実力を持つヒーローでありながら、綾波レイのように、テクノロジーによって最も忌むべきモノとのハイブリッドとして、いくらでもスペアがいるような存在として生み出され、自分の存在を絶対的な根底から他人に与えてしまうような、今までにないタイプの救世主であるところが新しいといえば新しい。

セカンドインパクトを引き起こした「使徒」と「綾波レイ」が融合することで「人類補完計画」がうだうだ…といった比較的新しい終末後の救済観と、ケンシロウによる「世紀末救世主伝説」的な古典的救済観のハイブリッドになるのだろうか。「バイオハザードⅣ」では敵の諸悪の根源の大ボスを目指しつつも「人類補完計画」やら「サードインパクト」やらといったことになるのだろうか?

全く関係ない話やけど、映画を見ていてミラ・ジョヴォヴィッチが履いていたようなエンジニアブーツ風のブーツが猛烈に欲しくなった。

2009年01月17日

●「バイオハザードII アポカリプス」 / 最終兵器ミラ様/一人影の軍団 or 一人カムイ外伝

amazon ASIN:B000UCS6I6 バイオ・ハザードの二作目は「バイオハザードII アポカリプス」(2004/独=仏=英) となかなかご大層な「黙示録」なるサブタイトルが付いているが、これはもちろん、ヨハネの黙示録にあるような世界の破滅に再臨するキリストのごとく、救世主であるミラ・ジョヴォヴィッチ様が再臨なさるお話である。ということであろう。

「I」でアンブレラに身柄を確保された主人公が目を覚ました病院から抜け出すと、地上にT-ウィルスが漏れたことによって町はゾンビだけがうろつくゴーストタウンと化していた。
一方感染を防ぐために封鎖されてしまった町に閉じこめられた住人と取り残された戦闘員たちは、町を脱出するためゾンビの群れの中を進むこととなった。
という感じで話は始まるのだが、この映画は原作のゲームに出てくる登場人物たちもふんだんに登場しているらしいのだが、これも私はよくわからなかった。
そういえば確かに青いニットの隊員はCGのような顔だったし、なんかコスプレを見ているようでもあった。

ネット上ではミラ・ジョヴォヴィッチの異様で異常な強さを評して、スティーブン・セガール化しているとかターミネーター化しているという風な意見が多かったが、たしかに「Ⅰ」以後にT-ウィルスを投与されて身体的にも精神的にも進化を遂げたとう設定とはいえ、これはあまりにも強すぎた。
パッケージ写真のような鎖帷子といい、近接戦闘能力や体術といい、飛び道具の扱いといい、しまいにはロープ一本で壁まで走るに至ってはもうこれは忍者と呼ぶしかない。一人カムイ外伝、もしくは一人影の軍団と言ったところだろうか。

しかしながら、ほとんど銃も撃たず、ほとんどゾンビと戦わないホラー映画に見せかけたパニック映画である「Ⅰ」に比べれば、こちらはアクション映画路線満開の爽快感があふれてこぼれているような映画であった。

2009年01月16日

●「バイオハザード」 / ミラ様三角蹴り / 「ゾンビ」が出てる割にB級ぽくない / この映画はゲーム化すべき

amazon ASIN:B000V5J1T0 「バイオハザード」シリーズを一日で三本一気に観た。まずは一作目の「バイオハザード 」(2002/英=独=米)の感想から。

巨大複合企業アンブレラが秘密裏に地下の研究所で開発していたウィルスが漏れ出すバイオハザードが起こり、研究所のコンピューターは中にいた人をすべて殺して施設を封鎖するという惨事が起きる。
企業傘下の特殊部隊が事態を収拾するために研究所に向かうが、死んだはずの人々が群れをなして襲い掛かって来た。
という感じのストーリである。

原作のゲームを最後までやっていないので、原作と比べてどうとかいうことができない上に、原作に対しては「なんかウィルスがもれて人がゾンビになるらしい」という予備知識と、この映画に関しては「ミラ・ジョヴォヴィッチの三角蹴りが凄いらしい」という事しか知らずに観た。

ゾンビ系映画ということで大量のゾンビを素手でなぎ倒し、銃で撃ちまくる映画を想像していたけど、どちらかというと如何にゾンビを避けるかということになっていてちょっと残念だったし、ネット上では「ミラ様鑑賞映画」のような扱いを受けているけど、それにしてはミラ・ジョヴォヴィッチが格闘したり銃撃ちまくったりするシーンがあまりにも少なすぎた。

それでも、ゲームの映画化というだけでなんとなくB級だと思い込んでいたけど、いかにもB級というような作りではなかったように思う。
「ゾンビ」が出てくるというだけでB級以外に成り得ないような気がするけど、それにしてはよくできていたと思うし、同じくミラ・ジョヴォヴィッチの主演である「ウルトラ・ヴァイオレット」のB級感と適当感に比べれば、はるかにまともで映画らしい映画であった。

基本的に突然現れたり突然大きな音が鳴ったりするような、音と映像で脅かすような映画ではあったけど、思っていたよりもはるかにとても面白かった。

原作のゲームはあまりにも理不尽すぎて途中でやめてしまったのだが、この映画がゲームならとてもオモシロいはず。
というわけで、この映画は是非ゲーム化すべきである。あれ?

2009年01月13日

●映画:アレハンドロ・ホドロフスキー「サンタ・サングレ 聖なる血」 / グロ系愛の物語

amazon ASIN:B00009CHBY アレハンドロ・ホドロフスキーの「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」に続く第三作目の「サンタ・サングレ 聖なる血」 (1989/伊=メキシコ)を観た。

ナイフ投げの名人のサーカス団の座長である浮気性の父と、両手を切断された後にレイプされて殺されて聖なる血を流した乙女を狂信的に信仰する母をもつ息子の少年は、浮気しようとする父と嫉妬で狂った母の惨劇を目撃して精神を病んでしまう。
ある日収容されている病院から母の姿を見つけた彼は、病院から抜け出して母の下に向かい、母の両腕として生きてゆく事を決意するが…
という感じの話である。

ネット上では、彼の作品としては一番わかりやすいと言われる事が多いように、「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」と比べた場合に映画の中にちゃんと一本のストーリーが通っていた。
彼の作品やからどうせわけわからんやろう。とたかをくくって観始めたのでかなりびっくりしたけど、映画としてはとても面白かった。
まさかこんな愛の物語やとはまったく思っていなかった。

ホドロフスキー的な映像の連続やけど、ストーリーがしっかりしてるので印象は前作二つとはまったく違う。
前の二作同様に大量の血やとか残虐シーンやとかフリークスな登場人物といった彼らしい映画的語彙はそのままやったけど、この映画ではそれがストーリを前に進めてゆく原動力として使われていたように思うし、前作と前々作と比べて、達観やら諦観したようところが少なかったせいか、薬物と禅を結びつけるような昔のヒッピー的な胡散臭さというよりは、とてもラテンアメリカ的なマジックリアリズム風味の雰囲気がずっと漂っていた。

しかし、なによりもヒロインの女の子がとても良かった。まったく美人ではないヒロインの発する魅力が全くあざとくなく、とても自然に描かれている映画ってのはそんなに多くないと思う。
普通の映画としても観る事ができるし、ホドロフスキー的映像美も味わえるなかなかすばらしい映画であった。

2009年01月11日

●映画:ミヒャエル・ハネケ「タイム・オブ・ザ・ウルフ」 / アンチ北斗の拳的世紀末、あるいは根暗系ディストピア未来像

amazon ASIN:B000LE1374 「セブンス・コンチネント」がとても面白かったミヒャエル・ハネケの「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003/仏=オーストリア=独)を観た。
ヒットした彼の「ピアニスト」(2001/仏=オーストリア)の後に撮られた映画であるけど本当は「ピアニスト」の前に撮りたかったらしく、それが叶わずに「ピアニスト」のヒットによってようやく撮る事が出来たようだ。

壊滅的な災害か戦争か何かが起こった(らしき)状況で、機能が停止した都市から逃げ出した(らしき)家族が別荘に向かう。
しかし別荘には既に銃で武装した別の家族が住みついていた。
家族は秩序と機能を失った社会の中でのタフでハードな生存競争に否応無く巻き込まれてゆく。
と言った感じであろうか。

「らしき」という言葉を使ったけど、何によってこの状況が起こったのか、実際何が起こっているかというのは全く説明されない。ただひたすらだんだんと行き詰って行く状況を描いているだけである。
「行き詰まり感」といえばハーモニー・コリンやけど、ハネケ的な行き詰まり感は明るい要素が無くひたすら暗い。「ピアニスト」でマッドなピアノ教師を演じたイザベル・ユペールがこの映画でもお母さん役を演じており、いつキレるかハラハラと良い感じであった。

典型的なディストピア未来世界で、ポール・オースターの『最後の物たちの国で』のようでもあるけど、生き残るために疑心暗鬼なりながら気の休まることの無い集団生活を送る人々の閉塞感は観ていてとても息苦しい。
この息苦しさは、集団の秩序をなんとか維持したいと考える感情と、なんとかお互い出し抜こうとしている個人の感情のせめぎあいから来るような気がする。
誰が味方か誰が敵かわからない上に、ちょっとした事で敵も見方も簡単に入れ替わり得る状況ってのはとても精神的にハードである。
こんなのに比べれば「北斗の拳」の「ヒャーッハ!ここは通さねぇ!」的な世紀末観は、白黒はっきりしてて人間として解り易く、ある意味で明るく健康的やなぁと思うのであった。

2009年01月10日

●映画:スターシップ・トゥルーパーズ3 / 今日はバカ映画日和 / すべてがバカになる

amazon ASIN:B001GC1564 私の大好きなバカ映画「スターシップ・トゥルーパーズ」の第三弾である「スターシップ・トゥルーパーズ3」をやっと見ることが出来た。
本当は映画館でクスクス笑いながら観たかったのだが、京都ではやってなかったのでDVDを借りた。

監督は一作目からずっと脚本を書いているエドワード・ニューマイヤーが勤め、製作総指揮には一作目の監督であるポール・バーホーベンがついているということで期待大である。

長引いたバグズとの戦争の中、反戦運動を行う「平和テロリスト」を片っ端から処刑して秩序を保つ連邦政府は対バグズに新型爆弾を開発していた。
一方、一作目の主人公であるジョニー・リコ率いる最前線の砦の地上部隊に歌手でもある総司令官が視察に訪れ、そのタイミングで大量のバグズが砦に襲い掛かることでこの戦争の戦局を大きく左右することになる戦いの戦端が開かれることになる。といった感じだろうか。

一作目のハイテンションな軍国主義は、古代ローマとギリシャのスパルタと現代アメリカのバカそうなところを合わせたように極端になっており、映画全体に一作目のバカバカしさが充満していて可笑しかった。友情や愛情や恋愛、戦争や平和、宗教や社会、軍国主義に民主主義、更には「命の尊さ」までバカにする勢いは良い感じである。
戦争に反対してデモや集会や街頭演説などの平和運動を行う「平和テロリスト」と、キスシーンのバックで惑星を丸ごと破壊するシーンが可笑しかった。

人気歌手でもある総司令官が歌うプロパガンダな曲、「今日は死に日和」と訳されていた”It's A Good Day To Die!”が主題歌のような扱いになっているのだが、この歌のバカさ加減がこの映画のすべてを表しているといっていいだろう。
「死霊ののはらわた」同様に皆が楽しんで撮っている様が感じられた。現場はさぞかし楽しかったろうなと思った。

この映画をスターウォーズとかスタートレックのように硬派なSFとしてまじめに見た人はことごとくこき下ろすけど、まぁそれは当然だろう。なにしろこの映画がバカにしているものにはそういったSF映画も含まれているのである。
とはいっても、総司令官と提督の陰謀と策略の応酬、そしてどんでん返しは以外に「普通の映画」していた。最初からB級バカ映画としてみていたので、これには感心した。

一応シリーズ三作目のこの作品でで完結編になるらしいけど、映画の最後にやっと原作の重要な要素である「パワードスーツ」が出てきた。
これに乗ってありとあらゆるものをバカにし続ける「スターシップ・トゥルーパーズ4」を期待したい。
B級バカ映画のシリーズがこれで終わるのはなんとも残念である。

2009年01月04日

●映画:「アンダーグラウンド」 / 亡き王国のためのパヴァーヌ

amazon ASIN:B00005LJV6 アンダーグラウンド (1995/独=仏=ハンガリー)を観た。
南スラブ人たちの統一国家であり、今は分裂によって消えてしまったユーゴスラビアを舞台にした物語で、第一章「戦争」、第二章「冷戦」、第三章「戦争」といった三部構成の、1941年の第二次世界大戦前夜から、ユーゴが決定的に分裂してしまう原因となったユーゴ内戦の始まった1991年あたりまでの話である。
パルチザンとしてドイツに抵抗していた共産党員の詩人が市民を地下活動に匿って武器を作らせ、ユーゴが第二次世界大戦を独力で独立という勝利で終えても、政府の用心になった彼は、まだ地下にいる人たちにまだ地上にドイツ軍がいると良い含めて武器を作らせて巨万の富を築く。
戦争と内戦を繰り返すユーゴの歴史に翻弄されながら人々がタフに生きてゆく様を描く。と言う感じ。

民族紛争という渋すぎる背景を持ちながらも、ミニシアター的な美的な映像と寓話的な物語で構成されている。

この内戦である「ユーゴスラビア紛争」中に撮られたこの映画は、映画全体に生きるエネルギーが満ち溢れていて、このユーゴスラビア紛争が何かしら良い風に解決すれば良いという祈りのようなものが伺えるけど、結局、紛争の末の2003年に「ユーゴスラビア」は「セルビア・モンテネグロ」となって国名自体が消滅してしまい、2006年には「セルビア・モンテネグロ」がそれぞれ独立することで完全に共和国としての形は解体してしまうことなる。南無。

地下の結婚式のシーンと最後の結婚式のシーンがなんとも素晴らしいのが、暗くなりがちなこういった映画を完全に暗いところに貶めないゆえんであろう。
それでも、侵略者であるドイツとパルチザンとして戦っていたはずが、気づけば民族同士で分裂を加速するために殺しあっている状況や、詩人だった男がいつの間にか政府の要人になり、気づけば武器商人になってその民族同士の殺し合いを煽り立てているといった状況は中々悲しいものがある。
南スラブ人の統一国家というおそらく当初は悲願であった国家体制が、同じ民族同士の対立によって跡形もなく分裂して消え去ってゆく状況の中で、ひたすら明るくタフに踊りまくり騒ぎまくる、ハイテンションな物語の裏に隠れたテーマがとても重かった。
この映画を観て「ユーゴスラビア」の歴史を調べ、紛争と分裂の末に国が消滅すると言ったなかなかに大変な歴史を知ったのだが、監督にとってはこの映画を撮ってユーゴスラビアについて知る人が増えることこそ願ったり適ったりなのだろうなと思った。

2009年01月03日

●映画:「ヴァージン・スーサイズ」 / 見た目が10割 / この橋渡るべからず

amazon ASIN:B00005HTH1 ソフィア・コッポラのデビュー作である「ヴァージン・スーサイズ」(1999/米)を観た。
原作は中々有名な本である『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』であるけど、映画の邦題は原題そのままの「The Virgin Suicides」となっている。監督のソフィア・コッポラはゴッドファーザーと地獄の黙示録のフランシス・フォード・コッポラを父に持ということでデビュー当初は明らかに親の七光り的な扱いをされたらしいけど、「ロスト・イン・トランスレーション」(2003年)、「マリー・アントワネット」(2006年)の二本を撮った今となっては監督としての実力も認められているようだ。

ストーリーは、高校のアイドルとも言える美しいブロンドの5人姉妹の末っ子が手首を切り、彼女を主役にしたはずのパーティで窓から飛び降りて外の柵に突き刺さって死んでしまう事をきっかけにして、その父母と4人姉妹となった家庭の歯車が狂い始める。
学校一の人気者である男が姉妹の一人を好きになって、姉妹とその男の友人たちはパーティに行くことになり、歯車もちゃんと回り始めたかと思ったが、結局残った4人の姉妹も「自殺」と言う道を選ぶ。と言う感じである。

と書くと陰惨な話に聞こえるけど、物語の殆どは五人姉妹が眩しくてしょうがないといったステレオタイプな青春ドラマのような感じ。
大抵のこういった悲惨な事件を扱った映画では自殺や惨劇の原因であるとか、その背景であるとかを見せたり考えたりする意図が感じらるのだが、この映画はそんなことよりも如何にこの姉妹が美しくて、如何に眩しい青春を送っているかと言うところをひたすら描いていた。しかも、内面的な部分ではなく見た目だけのレベルで描いているところが潔かった。

この映画は基本的には学園もので綺麗な少女たちをひたすら描いていると言う意味で、「ピクニック at ハンギング・ロック」に似ているけど、「ピクニック at ハンギング・ロック」が寄宿生のお嬢様女学校だったのに対して、こちらは普通の共学の高校なので雰囲気がぜんぜん違う。
恐らく、この映画は共学の高校ということで、どこかしら感情移入して見る場合が多いのやろうけど、恋にパーティーにとメインカルチャー街道ど真ん中をまっしぐらなこの映画の高校生とは、およそ真逆のアンダーグラウンドな高校生活を送っていた私にとっては余りにも遠い世界であり、感情移入する隙が無かった…
余りにもキラキラしている高校生活エンジョイな彼らの価値観が眩しすぎて、私のルサンチマン精神性からすれば彼らのような道を「このはしわたるべからず」と言われているようだった。

それでも、「The Virgin Suicides」と言うだけあって、無垢であるがゆえの自殺を選んでしまうのwなんとなく理解できるような、この年代の少女の不安定さや脆さが判ったような気になった。

2009年01月02日

●映画:「ピクニック at ハンギング・ロック」 / 美少女と美少女の神隠し

amazon ASIN:B0006HJ0V2 正月だらだら生活の中、「ピクニック at ハンギング・ロック (1975/豪)」を観た。
この映画は「いまを生きる(1989/米)」「トゥルーマン・ショー(1998/米)」などを撮ったピーター・ウィアーがのその名を世界に知らしめる事となった最初期の作品であり、1900年に実際に起きた、女学院の学生と女学生と女教師の失踪事件をもとに映画化されたものであるらしい。

ストーリーは、1900年の聖バレンタインの日に、寄宿制女学院の女生徒と女教師が「ハンギング・ロック」と呼ばれる岩山地帯にピクニックに出かける。
生徒たちが草原で昼寝をする中、散歩に出かけた仲良しグループの3人と女教師の一人が岩山に引かれるように姿を消し、町は大騒ぎとなる。という感じである。

パッケージの写真とあらすじ紹介から期待される通りの耽美な映像を楽しみに借りてきたけど、中々期待を裏切らない映像であった。
同じような寄宿制女学校モノである「小さな悪の華」とか「ミネハハ」よりははるかに綺麗な映像であった。比べるのも何やけど…

寄宿学校で目を覚ましたブロンド少女たちが身づくろいを済ませて白いヴィクトリア調な服に着替え、連れ立って馬車に乗って「ハンギング・ロック」へピクニックに出かけるまでの映像はなんともクラクラする。
当初はこんな映像だけ見られたら十分やと思っていたけど、少女達が靴と靴下を脱ぎ捨てて何かに憑かれて引かれる様に岩山を目指すあたりの映像はなんとも不思議な雰囲気を漂わせていた。
美しい少女たちと学識の深そうな女教師が岩山で忽然と姿を消す、「神隠し」と呼ぶしかない禍々しくて荘厳な原始的で根源的な、畏怖と敬虔が入り混じったようなヌミノーゼと呼ぶのが相応しい雰囲気がとてもよく現れていたように思う。

綺麗な映像だけではなく、単なる「失踪」ではなく、違う世界に消えたとしか思えない「神隠し」と呼ぶしかないものを中々上手くあらわしていた様に思う。

今になってこのパッケージ写真を見れば「ボッティチェリの天使」と呼ばれたこの少女が、岩山の間に姿を消す雰囲気がよく表されてるなぁと感心した。

2008年12月23日

●映画:「KEN PARK」 / 主張しすぎはいただけない / 監督は大事

amazon ASIN:B0009J8G4Y 最近とてもお気に入りの監督であるハーモニー・コリンが脚本を書いた映画である「KEN PARK」(2002/米=仏=オランダ)を観た。
監督であるラリー・クラークとは「KIDS」に引き続き二作目のコンビであるということらしい。

スケートボードのメッカである中産階級の町で、表面的には平和に見えながらも、中に入ればドロドロとした問題と狂気を抱える家族の狭間で鬱屈して救いの無い毎日を送る高校生たちの物語である。
本国アメリカをはじめ世界中で上映禁止となったほどのいわくつきの映画らしいが、確かにやってる事もその映像も中々にエグいものがある。

ストーリーであるとか登場人物たちの置かれる状況ってのは、確かにハーモニー・コリンっぽい。
しかしながらこの映画は、彼が同じようなストーリーで脚本を書き、監督までした作品である「ガンモ」や「ジュリアン」とは全く違うようにみえた。

この監督はこの映画について「若者のリアルを伝えたい」という感じのことを言っているそうであるけど、この映画にはその意図が前に出すぎていたように思う。
この映画で印象に残った、性的なシーンをなるべく美しく撮ろうとするような絵作りも「若者の感覚」としてこの監督が意図していることなのだろう。

しかし、この監督が若者の立場で若者のリアルを伝えようとする意図を持って撮ったらしいこの映画は、私から見ればなんとなく不愉快な映像と物語でしかなかった。
若者の視点が不愉快なのではなく、若者と非若者に対するある種の決め付けと、逆説的な独善性が見え隠れするところがなんとなく気に食わない。
それに引き換え、ハーモニー・コリンの同じような脚本の同じような映画が、この監督とは逆に感動すら生むほど素晴らしく感じるのは、彼のどの立場にも立たない全てを受け入れたような彼自身の視点のなせる業なのだろう。
この映画を見て改めてハーモニー・コリンの素晴らしさがわかった。
こと映画に関しては、脚本より監督の方が大事なんだという事を改めて思った。

2008年12月21日

●映画:「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」 / 映画的肉カレー天丼

amazon ASIN:B00016AWD8 「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」(2002/英=独)を観た。
この映画は15人の監督が「時間」をテーマにした10分間の作品を集めたディスク2枚にわたるオムニバス映画であるけど、私はそのうちの1枚のみを借りてきたので7人分だけ観たことになる。

ネットでは中々に評判が良いけど、たしかに10分間と言う区切りで、プロの映画監督の撮った10分に凝縮された映像が入れ変わり立ち代り現れる様はとてもテンポ良く、なんだかとても贅沢な感じがする。

これを観ようと思ったのはヴェルナー・ヘルツォークがその7人の中に入っていると言う理由なのだが、彼の作品は相変わらず密林、ジャングル、原住民、文化衝突、等などの、彼っぽい語彙満載であった。
十分と言う限定された時間の中で、戦いの踊りやエロ話を延々と映したりするあたりがヘルツォークっぽいと言えばヘルツォークっぽい。
しかし、それでもキンスキーのいないジャングルは水曜スペシャルとNHKスペシャルをあわせたような物語であった。期待が大きかった分いまいちだったかも。

しかし、ヘルツォーク以外の他の六人は、観るまでは全く名前の知らない人やったけど、いざ観てみるとどれも面白かった。こちらは期待していなかった分面白く感じられた。

非ハリウッド的などちらかといえばヨ-ロッパ系の監督たちのの濃かったり綺麗かったり面白かったりする映像が次々と現れる様は、コース料理のようであるけど、トータルで言えば「肉カレー天丼」のようでもある。
中でもヴィクトル・エリセの「ライフライン」はとても綺麗な映像で惚れ惚れであった。

2008年12月19日

●映画:ハーモニー・コリン 「ジュリアン」 / 白痴系逆噴射家族 / ヘルツォーク、ヘルツォーク

amazon ASIN:B00005MIN7 ハーモニー・コリンの最新作である「ミスター・ロンリー」、デビュー作である「ガンモ」と二本の映画を見てこの監督がとても気に入ったので、「ガンモ」の次であり、「ミスター・ロンリー」の八年前の作品となった「ジュリアン」(1999/米)を観た。

統合失調症である主人公ジュリアンを中心にした、誰の子かよくわからない子を妊娠している姉、毎日訓練に明け暮れるレスリング青年の弟、死んだ母が忘れられず家族に当り散らしているばかりいる父親で構成される家族を描く物語で、パッケージの写真はジュリアンの姉である。

一応家族を描く物語であるけど、この映画も「ガンモ」と同様にいわゆる普通な人が全く出てこない。
家族がみんなおかしいだけでなく、そのほかの出演者すべてがそうである。
境界性人格障害、自己愛性人格障害、アスペルガー症候群などは具体的な例を挙げてあんな感じ。と想像できるけど、昔は精神分裂病と呼ばれていた統合失調症については実際がどんなものかをよく知らないので、この主人公の演技がリアルなのかどうはわからない。
それでも、このジュリアン青年の立ち振る舞いは見ていて鬼気迫るものがあった。

このジュリアン青年のようなタイプの白痴系キャラの主人公は、文学的にはたいてい美しいものとして描かれることが多い。しかしながらこの映画では、主人公のジュリアン青年はある種の美しさを持ちながらも見るに耐えない醜さと脆さも持っていた。確かにそれは変なリアルさを感じさせるものであった。

微妙でささやかなバランスの上に成り立っている家族と、その中で生きる息苦しさは、はたから見てるとなんともなんともたまらない。当人たちがそんな生活に慣れ切ってその生活を改善する気が無いところが余計にきついものがある。

この映画の構成だけを見れば、テーマも手法も前作でデビュー作である「ガンモ」の二番煎じであるように思えるのやけど、実際見ているとそんなことは感じない。
この映画が前作と全く違うのが、ある程度のストーリーが存在することである。
とはいっても、そのストーリーは物語を前に進ませる役を担っているのではなく、ただ家族の事態の変容としてのみ捉えられるだろう。
そしてその事態の変容としてのストーリーは、前作では終わらない閉塞感として描かれていたものが、破滅へと向かう閉塞感として描かれることに一役買っているという、なんともいたたまれないことになっていた。
前作では社会の中で閉塞的な息苦しさとして描かれていたものが、今回は家族の中にあるものとして描かれ、かつそれが破滅へと繋がっているように見える分だけ、より逃げ場と救いの無さが際立っていたように思う。

この映画の中で私の一番印象に残っているのがヴェルナー・ヘルツォーク演じる父親のぶっ飛びっぷりである。
ガスマスクをしてテレビを見て、娘と息子たちをヒステリックに罵倒し、息子に死んだ母のドレスを着て自分とダンスを踊るように懇願する。
ヴェルナー・ヘルツォークは私が大好きな映画監督なのだが、「ミスター・ロンリー」を観て役者としても良い感じだと思っていたのだが、この映画を見てその思いはより強いものとなった。この映画での彼の演技はとても素晴らしい。ますますヘルツォークが気に入った。

この映画を撮ってから、ハーモニー・コリンは次の映画を撮るまでに8年間沈黙してしまうのだが、この映画の中でやたらとカオスという単語を連呼する自作の詩を朗読するジュリアンに対して、父親が「カオスを繰り返すばかりで韻を踏んでいない。そんなのは芸術を気取っているだけだ」と罵倒するのだが、これは監督自身の自己批判であったり自虐的なところなのだろうなと思ったり。

2008年12月15日

●映画:ハーモニー・コリン「ミスター・ロンリー」 / 空飛ぶ修道女 / 自分で無い誰かである人たちの群れ

amazon ASIN:B0019EJWG4 なんとなくレンタル屋さんで見つけた新作「ミスターロンリー」 (2007/英=仏=アイルランド=米)を観た。

生まれてからずっとマイケル・ジャクソンとして生きてきた孤独な青年が、老人ホームでの仕事のパフォーマンスの最中に、胸が膨らんできてからずっとマリリン・モンローとして生きる女性に出会う。
ほんのりとした恋心を彼女に抱いたまま、彼女に誘われるまま、チャップリンやエリザベス女王やリンカーンなどのモノマネ人たちとスコットランドの古城に移り住んで共同生活をはじめる話と、南米らしき地域の神父と修道女の淡々とした生活のなかから突如として起こるある種の奇跡をめぐる物語が平行して進むというものである。

マイケル・ジャクソンとして生きる僕がマリリン・モンローとして生きる君に恋をした…って感じのパッケージの説明書きを読んで、キティ系映画?と脊髄反応して借りてきた。
まぁ予想通りある程度はキティ系であったけど、これはキティ映画としてではなく普通の映画として、とても面白かった。
ずっと印象に残りそうな映画である。

メインはマイケルとモノマネ人たちの古城での生活の話しやけど、折につれて挿入される神父と修道女の話もとても良かった。
空を飛びながら祈る、スカイダイブする修道女というモチーフだけで、個人的にはクラクラする。
神父役のヴェルナー・ヘルツォークがとてもいい味を出していた。彼が村の男に反省させてて許しを与えるシーンと、食料投下のために飛行機に乗り込んで、楽しそうに笑う修道女の顔がやたらと印象に残っている。

なりきった相手の名前で呼び合うモノマネ人たちの淡々とした古城での生活は、彼らにとってある種のユートピアであることは見ていても良くわかる。
しかし、物語自体から、というかモノマネ人なる存在そのものから湧き上がってくる痛々しいほどの孤独感が映画全体に漂っている。
サミー・デイヴィスJrが古城のテラスでタップを踏み、ビニール傘を差した「あかずきん」が逃げ場の無い切り立った崖に挟まれた線路を歩きながら歌を歌い、ローマ法王が物見の塔から殺されようとする羊の為に神に祈り、殺される羊たちの為にマイケルが海(湖?)を見下ろす岩の上で踊り、臭うローマ法王が泣きながら野外のバスタブで洗われ、深い森の中でマリリン・モンローのスカートが吹き上がる風になびくなど、はっとするほどに絵になるシーンがとても多い。

映像も綺麗だし、物語も面白いし、深い孤独に包まれた主人公のマイケルの独白も心に染みる、大好きな監督であるヴェルナー・ヘルツォークが役者として出演しているのも私にとってはとても良かった。修道女たちの表情もとてもすばらしい。
こういう映画だと大抵は恋愛が強力な救いになったり絶望になったりする原因やら引き金になるのやけど、映画全体として、明らかにマイケルとモンローの恋物語にほとんど主題を置いていないように見えるところが最高に良かった。

好きな映画は?と聞かれて答えの一つになるであろうほどに気に入った映画であった。

この映画はハーモニー・コリンなる監督の八年ぶりの作品であるらしいのだが、恥ずかしながら私はこの監督の作品を始めて観た。ぜひとも他のも観ようと思う。

2008年12月13日

●映画:「オズの魔法使」 / 痛娘ドロシー / 危ういジュディ・ガーランド / 緑

amazon ASIN:B00005HC5D  前からずっと観よう観ようと思っていたものの、中々機会が無かった「オズの魔法使」(1939/米)をやっと観た。

言うまでも無く、他の映画や小説やありとあらゆるメディアから引用される、カラフルでファンタジーでちょっとダークなディズニー的世界観に満ち溢れた名作で、心優しい少女ドロシーが家ごと竜巻に巻き込まれて魔法の世界に行き、家に帰るためにカカシとブリキ男とライオンと共に、ドロシーを襲う西の魔女から避けつつエメラルドの都を目指すと言う物語である。

が、いきなり登場するその「心優しい少女ドロシー」が痛い娘にしか見えなかった。
設定は13歳あたりらしいのやけど、どう見ても二十歳超えてるように見えたし、その二十歳超えた娘が働く大人たちの都合を考えず自分の話を一方的に喋り、聞いてくれないと怒り、しまいには豚小屋に落ちて自分では出られずに助けられる。
でもって突然「Somewhere over the rainbow …」とか歌いだすし、なんというかただのアブなくて可哀想な娘ではないか…

で、ドロシーは竜巻に巻き込まれて魔法の国に行くわけやけど、魔法の国への視界が開けたとたんに、今までモノクロだった映像がカラーになるのは知っていても「おーっ」という感じであったし、魔法の国で東の魔女の死を喜んでフリークス達の群れが舞い踊る様はアメリカ的ディズニー的ブラックさ満開であった。

頭に藁が詰まった案山子は知恵を、胸ががらんどうのブリキ男は心を、いつも怯えているライオンは勇気をもらうために、ドロシーだけは家に帰るために、共にパーティーを組んでエメラルドの都をスキップで目指すのだが、『どろろ』にしろ「オズの魔法使」にしろ、自分の欠けているものを探す旅ってのはおっさんの琴線にダイレクトに触れるのであった。
そしてお約束どおりドロシーは西の魔女にさらわれてしまうのだが、お供の三人組はドロシーを救うために、必死になって自分に欠けていた筈の知恵と心と勇気を発揮して彼女を救い出すところはなかなかぐっと来るものがある。

このドロシーを演じたジュディ・ガーランドはこの映画の撮影の時点で、当時は合法だったアンフェタミンを常用していたらしく、この映画内での異様なハイテンションさもこの覚醒剤のせいであるらしい。

この映画が公開されて大ブレイクした彼女は、アンフェタミンだけでなく睡眠薬も常用するようになり、典型的な薬物中毒と神経症となってしまう上に、セックスがらみのスキャンダルまで大っぴらに流布され、ハリウッドを憎みつつ若い生涯を終えることになる。

あくまでファンタジーなこの映画での役柄に引き換え、彼女はこの映画の後にその正反対であるような扱いを受けるのだと思えば、映画の中での彼女の危うさがなんとも悲しく見えるのであった。
色つきの夢である魔法の世界よりも、「There's no place like home.」「やっぱりお家がいちばん」と冴えない白黒の現実を望むのはなんともリアルであった。

今時はどうか知らないけど、アメリカ人の子供はこの映画の「西の魔女」を絶対的な恐怖の対象として見るらしい。
確かに異様なテンションで無闇に吼えまくる緑の顔色の魔女には、私のような年の人間に対してもそこはかとない生理的な嫌悪を抱かせる何ものかがある。
大魔王だったころのピッコロにしろ、硫化水素で自殺した人にしろ、緑の皮膚ってのは人間の形をしつつも、根本的に人間とは異なった存在であることの象徴のような気がする。

2008年12月07日

●映画:「エクソシスト」 / 「エクソシスト」と「積み木くずし」 / 「悪魔祓い」と「赦し」

amazon ASIN:B0002T20MK 昔から何度もテレビでやっていたけど今まで一度も観たことがなかった「エクソシスト」(1973/米)をレンタル屋さんで借りて来て観た。
私が借りたのは有名なスパイダー・ウォークなどの未公開シーンが入った「ディレクターズカット版」だったらしいけど、元々オリジナル版を観たことがないのでどこが違うかはよくわからない。
それでもスパイダー・ウォークは怖かった。カサカサカサ(ブリッジで階段を下りる)どっばぁー(口から血)「ひぃ~~っ」(私)という感じだった。このシーンがカットされていたとはもったいないなぁ。

映画女優の12歳になる娘が、かわいらしく利発な性格から一変して、突如口汚い言葉を吐いて暴れ、他人や自分を傷つける言動を繰り返すようになった。日に日にエスカレートしてゆく娘の奇行に困り果てた母は病院に連れて行きさまざまな検査を受けさせるが、神経科的にも精神科的にも全く正常としか見えない。
困りきった精神科の医者の言った、悪魔祓いを行うことで、少女は自分に憑いている悪魔が祓われたと思い込んで治癒する可能性がある。なる言葉の通り、母は精神科医であった神父に悪魔祓いを依頼する。
神父は元精神科医の立場として会うだけならと引き受けるが、本当に少女に悪魔がとり憑いているのではないかと思うようになり、教会からの全面サポートを得て、昔から数多くの悪魔祓いを手がけてきた神父と共に悪魔祓いに取り組むことになる。
ってところが一般的なストーリーになるのやけど、私はこの悪魔憑き親子の物語と平行して語られる元精神科医の神父の運命こそ、この映画のメインストリームだと思う。

彼はずっと面倒を見続けてきた母を不本意な形で死に追いやってしまったことで悩み、自己嫌悪やら葛藤やらで自分の信仰すら揺らごうとするところに、件の悪魔憑き親子の話である。
自分の問題で精一杯だったはずの彼は神父として悪魔と戦う羽目になり、悪魔にその弱さをもろに突かれながらも見事に戦い抜いた。少女から悪魔を追い出すという観点からすれば、結果的には勝利であるといえるだろう。
自分の母親の葬式のミサをあれだけ穏やかに捧げ、何事にも激昂することのなかった彼が、神の代理者のしての神父の立場ではなく、激情と怒りに駆られつつも理性を持った人間として悪魔に打ち勝って少女を守ったのが良かった。
彼の最期の時に、親友の神父が彼の「告解」を聴き「赦しの秘蹟」を授けるところは激しく感動した。
悪魔憑き少女の不気味さとぶっ飛び加減をスパイスに、変に悲しみを背負った神父の苦悩の物語であった。


ネットでこの映画の感想や批評を見ていて面白かったのが、悪魔が憑く事でおとなしかった少女が突如悪魔のようになる。というモチーフは「積木くずし」に代表される反抗期の非行少女モノと同じではないかという意見である。
不良少女になったからといって緑の吐しゃ物を吐いたり、首が360度回転したり、ブリッジで階段を駆け下りたり出来るようになるわけではないけど言いたいことはわかる。
確かに、今まで良い子だった娘が、強烈な化粧をして派手な服を着て悪態をつき暴れに暴れて夜な夜な遊び歩けば、親御さんが理解できずにパニックになるのは容易に想像できる。その愛娘が似ても似つかない姿になり似ても似つかない言動を繰り返す様は、少女に悪魔が憑いたと理解するのが一番わかりやすいだろう。
非行少女が非行で破滅を道を歩むのは、少女自身の性根が腐っているからとしては余りにも救いがない。
そうではなく、少女自身ではない外的な何者か、例えば少女のトラウマであったり少女をないがしろにする家庭環境であったり少女を悪の道に誘う男であったりとを悪魔的なモノとすることで、それに対する祓いによって少女は本来の姿に戻るという構造である。
一度憑いた悪魔はちょっとのことでは離れない。そして、映画エクソシスト同様、悪魔を祓うための戦いは壮絶なものとなるのである。

しかし、罪にまみれて奇行を繰り返す人を指して、悪魔憑きとするのはある種の優しさを含んだ行為であるとも言える。
その人の奇行は憑いた悪魔によるもので、その人自身に責任があるのではないとする事は、その人を罪人とせずその人を引き上げる数少ない手段の一つであろう。

考えてみれば、悪魔がとり憑くことのなくなったこの世の中は、自分自身の罪をすべて自分自身で負わなければいけない世の中でもある。
悪魔が憑いてそれを追い出すことで問題が解決した時代というのは、実は中々に大らかで人の弱さに寛大な時代だったんではなかろうかと思った。

さらに、この悪魔祓いであるエクソシストについて調べていて、現代でもローマ・カトリックは悪魔祓いと悪魔祓いを行う人であるエクソシストをちゃんときっちりと組織している事実にちょっと驚いた。
現代でも正当な宗教的な秘蹟の一環として悪魔祓いを受けられるというのは、とても大きな救いと喜びをもたらすであろう事は容易に想像できる。
なんかこの事実を見るにつけ「悪魔祓い」と「赦し」は微妙なところで密接に関係しているような気がした。

まぁ、映画のエクソシストとは関係ない話やけど…

2008年12月04日

●映画:パゾリーニ「デカメロン」 / ほのぼの系イタリアンエロ / やっぱりラブユー貧乏臭い

amazon ASIN:B0000844EN 「ソドムの市」と「王女メディア」を観て「わかった!パゾリーニってのは貧乏臭いんや!」というファンに怒られそうな結論になった。と先日このブログ書いたのだが、ついついなんとなく出来心で彼の「生の三部作」と呼ばれて世界的にヒットしたらしい「デカメロン」を観た。
一応、原作はイタリア・ルネッサンスの名作であるボッカチオの『デカメロン』であるけど、原作の100ある話の内のいくつかが、この映画内でオムニバス形式として映画化されているという事になろうか。

パゾリーニの映画ということでそんなに期待せずに見たのだが、意外に面白かった。
「ソドムの市」ほどの一方的意味不明エロではなく、「王女メディア」ほどヤレヤレな貧乏臭さも無く、一般大衆のほのぼのエロ満喫映画という感じだろうか。
イタリア男と言えばなんとなくみんなイケてるイメージがあるけど、この映画はイケてないイタリア人ばかり出て来て、そういう意味で珍しいと言えば珍しいかも。
この映画はそういった町の人々の、よくて町の金持ちレベルの、エロや小金を巡る下品でスケールの小さい、妙に楽しそうな物語がメインである。

そういった一般大衆の話や物語や役者は中々良くできているように感じるけど、荘厳さを感じさせなければいけないシーンはことごとくダメダメであるのが痛いところ。
例えば、映画の中の壁画を描く画家のエピソードで彼が天使たちが居並ぶ天国の夢を見るのだが、そのシーンが、小学校か中学校の学芸会を髣髴とさせるようなちゃっちさで笑える。
このお陰で時々見られる荘厳そうなシーンはどこかに着地するどころか、飛びたてもしないような状態であるのやけど、それはそれで可笑しい。

「ソドムの市」で4人の最高権力者を、「王女メディア」で王女と王国を巡る物語を映像にしたパゾリーニはその映像を持ち前の貧乏臭さで染めてしまっているけど、この「デカメロン」では一般大衆の物語が貧乏臭さに染められることで良い風に作用していた用に思う。
この人は貴族とか王族とか権力者を撮るよりも、これといった取り柄の無いぼんやりした一般大衆を撮った方が安心して観ていられる。
今流行らしい『蟹工船』とかをこの監督が映画化すれば面白いのではないだろうか。
いや、やっぱり『蟹工船』はちょっとシビア過ぎて笑えないから、江戸時代の町人の話の落語の映画化とかがいいんじゃないだろうか。

2008年12月01日

●映画:パゾリーニ 「王女メディア」 / 濃いだけのマリア・カラス / ラブユー貧乏臭さ

amazon ASIN:B00005FX1D 先日はじめてみたパゾリーニの映画がかの有名な「ソドムの市」だったのだが、なんかおっさんが一方的にやりたい放題してる割には、エロ話を披露するおばちゃんが一番楽しそうやったなぁ。というよくわからん感想を持ったのだが、絶対この映画ってこの監督の映画の中では特殊な位置にある奴やから、もう少し普通のも観た方がええんじゃないか?ということで同監督の「王女メディア」 (1970/伊)を借りてきた。

『王女メディア』といえばエウリピデスが作った古代ギリシアの悲劇やけど、この映画の大まかなストーリーもそれに則っている。もちろん台詞とかはぜんぜん違うので、大まかな筋に沿ってパゾリーニが作り変えたってことになるのやけど。

で、この映画の一番のウリは、マリア・カラスが主役の王女メディアを演じていることで、その次のウリはなんかとんでもない辺境の地でロケをした。ということであるらしい。

当時のカラスはオペラ会を追放され、追いかけた男にも愛想をつかされて失意の底にあったということらしい。ってこれは「王女メディア」そのままやね。その自分の状況を演技にぶつけてかどうかは知らんけど、メディアを演じるカラスは中々に鬼気迫るものがあった。
しかし、マリア・カラスって言えば伝説的なソプラノやのに、この映画ではそんなオーラはまったく無く、なんか濃い人やなぁという印象でしかなかった。
さらに、伝説の英雄であるはずのイアソンがやたらと小者臭漂うあんちゃんで妙に貧乏臭かったし、メディアが王女として収めていたコルキスも王国というよりは未開の部族って感じでちょっと貧乏臭かった。
辺境でロケしたっていうことやけど、これは世界の終わりという意味での辺境ではなく、悪い意味でのイナカという風にしか見えない。

パゾリーニって言えばイタリア映画の巨匠で難解ってされているけど、単に人間が生来持つ貧乏臭さを通して人間を見せているだけのような気もする。
そういえば、「ソドムの市」でのおっさんたちの所業は貧乏臭さの極みではないだろうか?
まさか大金かけて映画作って、「テーマは貧乏臭さです!」ってことは無いと思うもんなぁ。普通は。

そういうわけで、これから私はパゾリーニって言えば「貧乏臭ささ」って思うことにする。

2008年11月30日

●映画:「エロス+虐殺」 /自由主義による浮気主義映画 / たしかに映画としてはアナーキー

amazon ASIN:B000BKJJ6U 先日、吉田喜重の「煉獄エロイカ」を観て、映像は気に入ったもの映画としては激しくつまらんかった。
それでも映像が気に言ったのは確かなので、もう一つ同じ監督の映画を観てみようと言う事で「エロス+虐殺」(1970/日)を借りて来た。

映画の内容としては、アナーキストで革命家を自称する大杉栄が、妻がありながらも別の女性を愛人にしていたところに、更にもう一人愛人が出来て、そうこうするうちに話がこんがらがって来て、最後には痴話喧嘩の末に愛人に刺される。って感じである。
映画としてはこの大杉栄の話ではなく別のことも主題にあるのやろうけど、見ている分にはこの大杉栄の間抜けさしか目に入らんかった。

大杉栄は、私はアナーキストの自由主義者だから恋愛も自由なのだ。と言張って、妻にも愛人にももう一人愛人を作ると開き直って告げるのだが、これが端から見てるとあまりにも子供っぽくってムリヤり感があって可笑しかった。自分の欲望を思想やら主義のせいにせんと、自分で負って自分で責任を取れよと。

自分の欲望を、思想的な根拠から出た主義主張やらで正当化する(ように見える)人間ほどアホっぽく見えるものは無い。
しかし、ここのところの「自由」を「自らの欲望で暴走する自由」として真顔で言い張る彼は逆に清々しくもある。
大杉栄は妻にも愛人にもそこの所を言うて聞かせて納得させてると言うてるけど、嫁も愛人も明らかに嫌がってるし、彼女たち同士が出会うと一瞬にして修羅場な雰囲気になる。
こういうのんは大抵の問題がそうであるように、自分が言張れば済む問題ではなくって相手がどう考えてどう感じるかの方が問題なのやろうね。
そして、なによりも、概してこういった大杉栄みたいなタイプがたらともてるのが理解できるだけになんかムカつくのである。

革命家でアナーキストで同士達と活動を企て、それらしく小難しい風の物言いが多かったけど、結局は最初から最後まで四角関係を見せられたと言う印象だった。例のごとく舞台のような構図で舞台のようにしゃべるシーンも多数あってもうわけがわからん。
期待した映像も「煉獄エロイカ」ほどのインパクトは全く無かった上に、何よりも辛かったのは、この映画が「エロス+虐殺」ロングバージョンということで前編後編あわせて三時間半もあったことである。これはきつすぎる…

なんでもこの監督の撮る映画は「反映画」であるらしく、既存の映画のあり方を否定する運動の一環であるらしい。
確かにそういえばあらゆる意味で今までの映画とは違っている。面白いかどうかは別にして、確かに違っていることだけは確かや。主人公同様に映画としてはアナーキーであった。
はいはいアナーキーアナーキー。

でも、そんなこといわれても、私は普通の面白い映画を見たいので、こんなんを見せられてもちょっと困るのであった。(私が借りて来たのやけど…)
反物質とか虚数の存在ってのは物理学や数学には不可欠やけど、反映画が映画の存在にとって必要なのかどうかは微妙なところやなと思った。

2008年11月23日

●映画:岡本喜八「赤毛」 / 三船敏郎主演の非侍三船映画

amazon ASIN:B000BVKFTO 岡本喜八が監督した「赤毛」 (1969/日)を観た。
刀を持った三船敏郎が主演でかつ岡本喜八が監督と言う事で、レンタルやさんで見つけて喜んで借りてきた。

江戸時代の最後の年、京へと進軍する官軍赤報隊の部隊長から、故郷の町の先方に隊長として赴く許可を得た百姓侍は、隊長の証である赤毛を被って意気揚々と乗り込む。
しかし、時代は江戸から明治に変わろうとする中、昔と同じ悪代官と悪徳商人は百姓を搾取している。
怒りに怒った赤毛の隊長である百姓侍は、官軍の部隊の隊長として、虐げられる人々を解放し、悪徳商人と悪代官に報復を加えようとするが、同時に町に潜り込んでいた官軍を討とうする組織も活動を始める。
という感じのストーリーである。

見終わった後にネットで調べてみるとやたらと評価が高い。
あんまり詳しく書くとネタバレるので詳しく書かないけど、確かに過去に見た「肉弾」や「血と砂」などの岡本喜八映画と同じく、時代の流れに否応なく巻き込まれる一兵卒や一般市民の悲しさをひしひしと感じさせる映画であった。

主演は三船敏郎やけど、周りの脇役が例外なく良い感じである。みんながみんな典型的なタイプとしてキャラが立ちつつもしっくりきていて何ともすばらしい。
三船敏郎は大根やとよく言われるけど、確かに上手い脇役たちと演技している彼の演技はやたらわざとらしく大げさに見えた。
素浪人なら棒読みでわざとらしい台詞回が渋く見えても、隊長がそうあってもそう見えるとは限らない。
この映画の脇役が良かっただけに逆にその三船敏郎の大根っぷりが目立ったような気がする。
三船敏郎は大根であるのが問題にならないくらいの華があるけど、大根であること自体がいいことであるはずない。

観る前から赤毛の三船敏郎がばたばたと刀で人を薙ぎ倒す様を期待してこの映画を観た。
しかしながら彼は明らかに剣の達人に見えず、ただのお調子者に見える。主役の彼はあまり表に出ず、殆ど刀を抜くこともなく、脇役中心で話は進む。
確かに、映画としてはとてもおもしろかった。岡本喜八らしい悲壮感あるコメディーだった。
しかし、三船敏郎が大好きな私にとって、三船敏郎は無闇に強くて無駄に刀を振り回しているべきなのであるし、そういう意味で、この映画は三船敏郎のチャンバラ映画としてはいまいちだった。彼が人を斬るどころか、そもそも刀を抜くシーン自体がほとんどなかったのだ。

ディズニー映画、ハリウッド映画など、一つのジャンルを構成する要素があるけど、この映画を観るにつけ、三船敏郎の侍は、侍三船映画という一つのジャンルを構成する一つの要素やねんなぁとつくづく思った。
この映画は映画としてはとてもおもしろかったけど、三船敏郎が好きなだけに侍三船映画としてはいまいちに感じた。
それでも三船敏郎が特に好きだということはない人にとってはおもしろい映画であろう。

2008年11月15日

●ピエル・パオロ・パゾリーニ 「ソドムの市」 / エログロ金字塔バカ映画

amazon ASIN:B000083YCJ ピエル・パオロ・パゾリーニの遺作である「ソドムの市」(1975/仏=伊)を観た。
マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を原作とするエログロ満開の映画であり、原作の18世紀のスイス山奥の城館の設定を20世紀のイタリアとしてある。

大統領・大司教・最高判事・公爵の最高権力者の四人が新しく強引に制定した条例によって町中の美男美女を集め、その中から更に選りすぐった9人ずつの男女が秘密の館につれてゆかれ、4人の権力者のために、三人の語り婆、一人のピアニスト、数人の少年警備員と共にあらゆる淫蕩と変態行為の対象となる。てな話である。

映画の中ではエログロの方向性でかなり名高い作品であり、観るに耐えん、吐きそう、気分が悪い、カレーが食べられなくなる。などなどある意味では有名な作品である。前からどうすっかなーと思ったいたのだが、とりあえずある方向性では有名やんねんから見ておくかということで頑張って借りてきた。
大抵こういう系統の映画を真面目に観てしまうと面白くないばかりか嫌な気分になるだけなので、最初からコメディーとしてみる自己防御が必要だろう。なら観るな、という気がしないでもないけど…

しかし、「少年少女と4人の高貴な人を興奮させるため」という趣旨で行われる語り婆の語りが中々わらける。
濃い化粧と派手なドレスに身をつつんだおばちゃんが、バックのピアノにあわせて踊りながらエロ話を披露するのやけど、もう笑けて笑けて。
なかでも 第二章の「変態地獄」ヴァッカーリ夫人の満面の笑みから繰り出されるエロ話と踊りが笑けてしょうがない。
第三話「糞尿地獄」のマジ夫人と、第四話「血の地獄」のカステリ夫人の話は踊りながらなに言うてんねんという状況で笑えるけど、話自体がちょっとエグいのでいまいち。
しかしこのお三方がエロ話をするときのなんと楽しそうなことか。

映画は結局、何じゃそら?という終わり方をするのやけど、最初は、おっさん4人と少年少女たちが秘密の館でエロを満喫するのだと勝手に思っていたところ、少年少女たちは最後の最後まで嫌がっていた。このあたりはなんともいただけないし、おっさん4人は何をするにも語り婆やら少年警備隊にやらせて、結局人に頼らんとなんも出来んのかと。
結局おっさんたちは楽しそうなんか苦しそうなんか良くわからんかったし、一番楽しそうなのはピアノに合わせて踊りながらエロ話を披露するおばちゃんたちだったような気がする。

なんかこの権力者四人と少年少女たちは、搾取する物とされるものの関係を暗喩しているとか何とかネット上に書いてあったけど、そりゃそのままやん。
全体的に見てなんか良くわからん映画やった…

2008年11月12日

●映画:吉田喜重「煉獄エロイカ」(1970/日) / ニセ天然系ギャルのような /

amazon ASIN:B000B63FXC 吉田喜重「煉獄エロイカ」(1970/日)を観た。
前からタイトルが印象に残っており、なんとなく、レンタル50円引き割引券もあることもあり、殆ど予備知識なしに借りた。
ストーリーは一応、反資本主義と反米の革命運動の組織がなんやかんやと内部対立するような話だったような気がするけど、現在と過去と現実と空想が頻繁に切り替わったり入り混じったりするようなシーン構成だったようなこともあり、他の事をしながら観ていたのも相まってストーリは全くわからなかった。
登場人物が登場人物同士喋るのではなく、観客に向かって演劇のような口調で喋っているような印象で、映画というよりは舞台演劇を観ているような気になるうえに、どうしてもこの棒読みと言うか、わざとらしいような口調に最後までなじむことが出来なかった

しかし、映像としてはとても面白かった。
やたらと露出オーバーな真っ白な画面は別としても、冒頭の広いビルのフロアを歩くシーンは「おーっ」という感じであったし、全編にわたって斬新で面白い映像が多かった。
更に、ちょうど時代が2回ほどりしたのか、今見ると森英恵の衣装は中々良い感じである。

しかし、斬新であると言うだけでは価値なんかほとんど無い。
「変わっている」と「個性的」と「魅力的」の全てを混同しているニセ天然系ギャルのようなものである。
何かが斬新であるから価値があるのではなく、斬新である何か自体に価値があるかどうかが問われるのだろう。
しかし、この映画の製作サイドが自ら、この映画は娯楽映画ではなく前衛映画である。というようなことを言っているらしいので、それはそれでもいいのかもしれない。

映像がとても気に入っただけに、そのほかの作りが気に入らないのがとても残念である。
この監督の最高傑作であると言われる、「エロス+虐殺」も観て見るかなと。ただしやたらと長いらしいけど。

この映画に限らず、こういった反体制、反権力の革命運動の組織なるものは、行き詰ったり閉塞感にとらわれてしまうと、その内部に鬱積したエネルギーを対決すべき体制や権力への闘争に使うのではなく、無意味な内部闘争に使ってみたり、一般市民を巻き添えにする方向に使ってしまう事が多いなぁと思った。
まぁ気持ちや気分は判らん事も無いけど、それでは何も成し遂げられんやろうと。

2008年11月06日

●映画:デヴィッド・リンチ 「ワイルド・アット・ハート」 / 恋愛至上なバカップル童話

amazon ASIN:B00005R232 前日に感想を書いた「X-312 フライト・トゥ・ヘル 」と一緒に借りて来た「ワイルド・アット・ハート」(1990/米)を観た。
私の観た同監督の作品の公開時期としては1986年の「ブルーベルベット」と1997年のロスト・ハイウェイの間という事になる。
デヴィッド・リンチの映画ってのは絶対見ても訳わからんわと思いつつも、見つけるとついつい借りて見てしまう。
しかしながらこの映画は訳のわからなさはほとんど無く、ストーリはとてもわかりやすい。

ストーリーは恋人のパーティとの帰りにナイフで襲ってきた傍観を逆に返り討ちにして殺してしまったニコラス・ケイジ演じる主人公が、出所後にやたらと自分と別れさせて娘を束縛しようとする恋人の母から逃れるべく、恋人と車に乗って遠くへ走り続けるといったロードムービーな感じの、頭の悪いバカップルの逃避行の物語で、全体を通して「オズの魔法使い」のモチーフが一杯である。

流石にデヴィッド・リンチっぽく、頭のおかしな人たちがそこかしこに出てくる。
主人公たちもおかしいと言えばおかしいけど、どちらかと言うとおかしいというよりは頭が悪そう、という感じであろうか。
登場人物は誰一人として普通で無く、全員が何らかの方向に極端に偏っていて、主人公とその彼女を除く全ての人が狂っているのはすばらしい。
主人公二人がバカながらも、欲望の方向だけでなく倫理的にもかなりまともであるのがこの映画のバランスを保っていたのだろう。彼らまで狂人であったら本当に収拾のつけようもなさそうだ。

主人公達の恋愛"だけ"を至上のものとする、平安時代の和歌の如き価値はとてもわかり易い。
この映画が全編を通して「オズの魔法使い」のモチーフに満ちていたけど、この映画も同じように恋愛を至上とする一つの童話とも言えるだろう。
狂気とか夢とか人間の複雑さを描く事の多いリンチやけど、この映画は逆に人間の単純さが良く現れていたように思う。
しかしながら、デヴィッド・リンチの描く狂気が大好きだ。

2008年11月05日

●映画:X-312 フライト・トゥ・ヘル / フライト・ウィズ・適当

amazon ASIN:B0000BI53C ジェス・フランコなる監督の「X-312 フライト・トゥ・ヘル」(1971 / 独/スペイン)なる映画を観た。
前日に仕事帰りに寄り道して『カムイ外伝 1巻』を買ったが、そのついでに普段行かないレンタル屋さんに寄って借りてきたDVDである。
パッケージには「金塊を乗せた飛行機がジャングルに墜落。生き残った乗客たちは、金塊を巡り骨肉の争いを繰り広げ……。再評価著しいカルト映画の巨匠、ジェス・フランコが挑んだサバイバル・アクション!」
って書いてあり「カルト映画の巨匠」って所とB級感溢れるパッケージに惹かれて借りてきたのだが、あまりにも適当に作られた感溢れる映画で唖然とした。
ストーリも盛り上がらん盛り下がらんだらだらした上に、アクションらしきものも適当、どんでん返しらしきものも適当、中でもやたらとズームで寄って行くカメラワークがあまりにも素人臭く適当でやれやれである。
この監督は猟奇エログロなB級作品を得意とするのだが、猟奇もエロもグロもナッシングであった。いや、エロだけはほんのちょっとだけあったかな。
始終「参ったなぁ…」と言う感じで見ていた。

パッケージやネット上のストーリー説明に「金塊を乗せた」「金塊を巡り」と書いてあるが、金塊なんか最初から最後まで出てこなかった。うーん、監督だけじゃなくって売ってる方も適当や、気持ちはわからんでも無いけど…

2008年10月28日

●映画:「ラストデイズ」 / 真綿で首を絞める系?

amazon ASIN:B000GPIHF4 ガス・ヴァン・サント監督の撮った映画を2002年の「ジェリー」、2003年の「エレファント」と観た後に、次に撮った「ラストデイズ」 (2005/米)も観た。
有名なロックバンド「ニルヴァーナ」のリーダーである「カート・コバーン」をモデルにして、彼が麻薬の矯正施設から抜け出して自殺するに至る最後の二日感を描いたもの。ということらしいけど、恥ずかしながら私は「ニルヴァーナ」も「カート・コバーン」も知らなかった。

手法としては前作の「エレファント」と同じく主人公と主人公を取り巻く人達の視点から観た、同じ事実を並列的に映像として見せるものであるけど、前作の描いていたものが視点となった人の日常であったのに対し、この映画で個々の人の視点で描く対象となっていたのは明らかに主人公であるところが違う。
主人公の視点で主人公を見た視点はやたらと内向的でナイーブな中々に辛そうなところを感じるのやけど、主人公に対する興味の無さがはっきり伝わってくるような、周りの人の主人公を観る視点のあまりのあっさりさのコントラストとあいまってからやたらと迫ってくる。

主人公と主人公を取り巻く人達のモデルとなっている「ニルヴァーナ」と「カート・コバーン」にそれなりに詳しかったり好きだったりする人は、中途半端に彼に似せているところが気に入らんかったり面白く無かったりするようやけど、私は全く知らなかったのでそんな事は何も感じなかった。

主人公のどん詰まり感と、彼を取り巻く人々の視点の冷たさとかどうでもいいや度が妙にリアルだったし、
ひたすらダウナー系の海の底テンションで最初から最後まで徹底していた。
やたらと静かで画面の切り替りが少なく長回しの多い映像が、妙にじわじわと迫ってきて息苦しい緊迫感のある映画であった。

この「ラストデイズ」と前作の「エレファント」はパッケージの写真が良いやね。

2008年10月27日

●映画:「エレファント」 / 日常の延長としての惨劇 / 非社会派で非ワイドショーな真実では無い事実

amazon ASIN:B0002XG8KQ  先日ガス・ヴァン・サントの「ジェリー」 を見たけど、その次の年に公開された同監督の「エレファント」 (2003/米)を見た。
タイトルのエレファントは"Elephant in the room"なる慣用句や「群盲象を評す」なることわざを意識しているのだろう。
「コロンバイン高校銃乱射事件」をテーマにしたこの映画は、その事件の日の日常を事件に係わり合いになった加害者と被害者の人たちの視点で淡々と描いている。
とはいっても、被害者や加害者や傍観者などの特定の視点で固定されて描かれているのではなく、登場人物たちが、あるときは廊下で、あるときは図書館で、色々なところですれ違いながら事件に巻き込まれるひとつの事実を、登場人物たちの視点ごとに執拗に何度も繰り返えすような描き方である。

同じ事件をいろいろな人の視点から描いているという点では村上春樹が地下鉄サリン事件の被害者や関係者たちにインタビューした『アンダーグラウンド』に似ているけど、加害者の視点もあるだけでかなりん印象が違う。

この映画は、この事件に関する何らかの問題であるとかプロパガンダを訴えかけるような雰囲気は全く無く、ただ個人にとってその日に何があったのかという部分をのみ問題にしているように見える。
日常のまま襲撃計画を立てて武装した加害者たちが、同じく日常を送っている被害者たちと傍観者たちの前に現れる事で事件が起こる。
このような無差別殺人を行うからには常人を脱した何かがあるのかと想像されるけど、この事件の加害者は日常性の延長上でこのとてつもない未曾有の惨劇を行った。とこの映画では見ることが出来る。

加害者はいじめられっこで、ベートーヴェンのピアノと銃が好きな少年で、ネットで銃を買い、薪を試し撃ちする。とここまでの気持ちは大変良く理解できる。
映画では、ここから当たり前のように、バックに銃器を詰めて車で高校に赴いて図書館と食堂を襲撃するわけやけど、しかし、やっぱり、ここの部分だけは心情的にも感覚的にもかなりの飛躍がいるように思う。

こういった事件はとかく「事件の真実」なるものを探りたがる傾向が多いけど、どちらかというと、「真実」を探る事は放棄して、「事実」の羅列のみを提示することで何かをあぶりだそうとするような、一つの悲惨な事件の描き方としてはとても気に入ったし面白かった。

社会的で関心度の高そうな題材を描きながらも、社会派な匂いも物見高い匂いも全くしないところがとても良かった。

2008年10月25日

●映画:「ジェリー」 / 怖い自然だだっ広い系 / 陸の大海オーシャンズ2

amazon ASIN:B0007N3750 ガス・ヴァン・サント監督の「ジェリー」 (2002/米) を観た。
予備知識全く無しで観たのだが、何とも不思議な映画だった。というかさっぱり意味がわからなかった。
二人はお互いを「ジェリー」と呼びあい、否定的な状況とか何物かを「ジェリー」とか「ジェリった」などど呼ぶのやけど、結局タイトルの意味はさっぱりわからん。

冒頭にハイウェイを車で走っていたケイシー・アフレックとマット・デイモン演じる二人の若者が、車を止めて、荒野に向かって歩きだしひたすらうろうろしている。
二人はほとんど喋らない上に手ぶらなので、すぐに戻るのかと思えばそうでもなく、いつの間にか砂漠と荒野で遭難している。

日本で言えば、ちょっと山道に車を止めて山菜や花をを採っているうちに遭難。などというありがちな感じなのやろうけど、流石にアメリカは砂漠はあるわ、地平線は見えるわ、荒地の丘がボコボコそびえてるわと、スケールが違う。
そんな感じの人間の営みを超越したような絶景に徐々に追い詰められてゆくのは中々に怖いものがあるし、効果音とBGMの無い長回しが、余計にその恐怖だか緊迫感をあおっている。

「何が言いたかったのかわからん映画」でもそれなりに「これが見せたかったんやな」と思うシーンとか映像はあるものである。
この映画の言いたい事が「自然は怖い」ではない事は明らかやし、結局「何が言いたかったのか」はもちろんの事、「これが見せたかったんやな」と思うシーンも思い当たらない。あえて言えば、アメリカの荒野の絶景であろうか。

オーシャンズnなマット・デイモンとケイシー・アフレックが出演しているという事で、ある意味、陸の大海オーシャンズ2なる荒野の二人であり、それでも、同じような怖い自然を描いた「オープン・ウォーター」などと比べれば、遥かに映画として面白かった。

2008年10月20日

●スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 / 愛ゆえにダース・ベイダー / 現代の神話として

amazon ASIN:B0000AIRN3 いよいよスターウォーズシリーズの最後の物語、クローン戦争末期、ジェダイ騎士団と共和国の消滅、それに伴う銀河帝国とダース・ベーダーの誕生、物語としてはエピソード4へと繋がる、2005年公開の「エピソード3/シスの復讐」を観た。

前作でどす黒い感情を見せてくれたアナキン君であるけど、そのどす黒さはますますアップ、能力と才能を持つ青年にありがちな、勘違い傲慢の道をまっしぐらであった。
彼自身がどす黒いのはいいとしても、本人がそれを正しいと思い込んでいるところがなんともいただけない。
彼が凡人ならなんの問題はなかったのやけど、彼が凄い力を持っていたことが彼の不幸でもあった。
アナキン君の葛藤は、選ばれた者の愛に満ちた青年の孤独な葛藤というよりは、欲望に正直な凡人が期せずにとてつもない力を持ってしまうと堕ちてしまう「勘違いダークサイド」としか見えなかった。

アミダラの死を避けるためにダークサイドに堕ちるアナキン青年の心情は、エピソード5でハン・ソロとレイアの危機を夢で知り、修行を放棄して彼らの下に向かうルークのメンタリティーとは全く違う。
仏教で言えばエロースで表される「愛」は煩悩のひとつで、アガペー的な「慈悲」と明確に区別されるわけやけど、ジェダイの教えである「執着を捨てる」を根拠とする恋愛の禁止を、アナキン青年は「他人を気遣う愛情」はジェダイに必要という事で、意図的にエロースとアガペーを混同した自己欺瞞で掟を踏み越えるわけである。
しかし当然、いったん一線を踏み越えてしまえば、後から収拾をつけるのはとても大変である。

アナキン青年のメンタリティーってのは求道的で僧のようなジェダイというダイエット系の方向性で無く、貪欲に力を欲する戦国武将のような過食系であろう。
彼の愛する人の死に対する予感の対処として「死なないようにする」って方向性で考えるのは、逃避でもなく対症療法でもない根本的な問題解決を目指しているわけで、問題解決の思考方法としては健康的であるけど、いかんせん誰もが避けることの出来ない「死」が相手では役に立たない。
なまじ力があったり能力があったりすると、受け入れるか諦めるしかないものを解決しようとして大変な労力を使って疲れ果ててしまう。
まるで、サークルとかバイトとかのぐちゃぐちゃになった人間関係で抜き差しなら無くなり、いくら頑張っても改善するはずも無く、そんなわけのわからんとこはさっさと辞めてしまえばええのに、無駄に抱え込んで独力でがんばってしんどそうにしている、真面目やけど要領の悪い青年のようでもあった。
そういう意味で、まだ若い身空で実に様々なしがらみと欲望と才能に取り囲まれ、それでもなお、真面目であるからこそ逆に一人で背負い込んで悩んでしまい、一杯一杯頑張っても、やることなすこと全て裏目に出てしまうアナキン青年はなんとも悲しすぎた。

当初彼の苦しみは恋愛の出来ない自らの境遇を省みた「ジェダイゆえに!私は苦しまねばならぬ!」であったけど、結局彼は愛する人をその手にかけてしまう。
彼が完全にダークサイドに堕ち切ったのは、愛する人を救うどころか彼自身が愛する人を殺すことになってしまったからであったのだろう。
最終的に彼の苦悩のと苦しみは、某聖帝サウザーの史上最高の名台詞「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!こんなに苦しいのなら、こんなに悲しいのなら・・・愛などいらぬ!!」に集約されることになる。
アナキン青年はジェダイなる人間を超える存在を目指すかのような道を選びながらも、余りに人間的であったところが彼の弱さでもあった。ダース・ベイダーがこれほど愛されるのは、彼がただ強いだけでなく、サウザーと同じく「愛深き故に愛を拒んだ男」でありつつも、最終的に愛を思い出した漢であったからだろう。
大きな力を持つという事は、どうしてもその力をコントロールする精神力と倫理観をも要求されるのは当然である。大きな力を持つ人に対しては、また期待も大きいのである。

このスターウォーズの世界観がコンピューター世界を支えるハッカー達の共有する世界観の一つとなっているのは、ただSF的な部分だけでなくこういった力と欲望のバランスと言ったテーマの側面が大きいのかも知れない。
コンピューター上の世界は個人が技術力を武器に強大な力を持ちえる場でもある。コンピューターネットワークが広がって、世界は再び魔法の世界になった。という見方があるけど、ひとかどのコンピューターとネットワークの技術を身につければ、1ユーザーからすれば魔法としか見えぬ力を発揮できる世界でもある。
ダークフォースに堕ちた強大な力を持ったクラッカーが何万と言うボットを従えて無差別に破壊活動を開始すれば、インターネット上はどうしようもない混乱に陥るだろう。
「ジェダイの掟」なる倫理観はハッカーたちの共有する倫理観と無関係でないように思う。

高度な技術を持ったハッカー達がジェダイの騎士であるがごとくに、コンピューターネットワークの世界の秩序と正義を守る義務を持っていると自負していたおかげで、インターネットがただの商業主義のネットワークに堕さず、ダークサイドはあるにしろ、基本的には自由な気風が漂う世界でいられることは間違いないだろう。

そういう意味で、ジョージ・ルーカス自らが「ダース・ベイダーの贖罪の物語」と呼ぶこの新旧合わせた6部作は、特定の個人と社会が強大な力を持ちうる現代に「現代の神話」として受け入れられたのだろう。などと思った。みたいな。

2008年10月19日

●スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃 / 着せ替えアミダラ / 私抜いたらスゴいんです

amazon ASIN:B000066I57 なんか最近スターウォーズの話でエントリを埋めているような気がするけど、気にせず…
大きくなったアナキン・スカイウォーカーの青年時代とクローン戦争勃発までの物語を描いた2002年公開の「エピソード2/クローンの攻撃」を見た。

「シャレード」のオードリー・ヘプバーンのごとく、ひたすらナタリー・ポートマン演じるパドメ・アミダラの着せ替えをこれでもかと見せられる。これってスターウォーズ?って思うけど、これはこれで良し。美しいものは善である。
しかし、片時も離れないようにと言われて、こんな姫と二人きりで宇宙に放り出されたら、如何にアナキン君でなくともダークサイドに堕ちるのは簡単だろう。
でも、アナキン青年は最初にアミダラに会った瞬間に黒い欲望が噴出していたように見えたのやけど、アナキン君の言う「愛」がどす黒い欲望としか見えないのは私がどす黒いせいなのだろうか…

やたらと民主主義を連呼するのはさすがにアメリカやなぁとおもったけど、どちらの軍勢も自分たちが正義だと本気で思っているところが一筋縄ではないところ。

泥臭くてダサいジェダイや他のシス卿とは違い、ラテン系紳士のような渋さを持ったドゥークー伯爵が良い感じであった。さすがドラキュラ伯爵である。

また、杖ついてよろよろ歩くマスターヨーダがライトセイバーを抜いたとたん、なんと軽やかに舞いながら惚れ惚れする戦いを繰り広げることか。「私、抜いたらスゴいんです。」ってなものである。
見た目はヨボヨボやけど、剣を抜いたら強い典型的な老剣豪ではないか。
アナキン青年含め、出てくるジェダイの騎士がなんか弱いなぁと思っていたのやけど、みんなヨーダ師匠の引き立て役やったわけやね。

ヨーダ師匠の軽やかな舞いと、ドゥークー伯爵の渋さと、なによりもアミダラ姫の着せ替えを味わう、エピソード3の動機付けと導入部分となる映画であった。
ただ、私はこれを見終わってすぐにふんふーんとエピソード3を見られたから良かったけど、公開当時は3年待ったわけで、ファンの皆様はさぞかし辛かったであろうと思った。

この映画を観る前に「ジャンパー」を観ていたので、アナキン青年がジャンパーに見えてしょうがなかった。
このシリーズを見た人がジャンパーを見れば、彼がジェダイの騎士見習いに見えてしょうがなかっただろう。
でも良く考えれば、「ジャンパー」もスケールの小さい欲望でフォースの暗黒面に当たり前のようにどっぷり肩まで浸かって生活している青年の話である。
このヘイデン・クリステンセンなる役者は、欲望のまま暴走して堕ちる役のはまり役というところなのだろうか。しかし、それは嫌な性格俳優やなぁ…

2008年10月18日

●スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス / ネタバレありき

amazon ASIN:B00005NNBV  スターウォーズエピソード4から6の旧三部作を観たので、ダース・ベーダーがなぜ「ダース・ベーダー」となったのかが語られるという、エピソード1から3の新三部作を観た。
ということで、まず旧三部作から16年振りの1999年に公開された「エピソード1/ファントム・メナス」を。

タイトルの「Phantom Menace」は「見えざる脅威」やけども、その脅威とは後の銀河皇帝ダース・シディアスが色々と悪巧みを始めるところを指すのだろう。なんというか「通商連合」というところが、悪代官と悪徳商人的な雰囲気であった…
時代的にエピソード4の32年ほど前の話で、そのダース・シディアスの悪巧みと、ジェダイがまだ沢山いたころのジェダイ騎士団組織のシステム、そしてアナキン・スカイウォーカーの少年時代と彼が如何にジェダイに弟子入りするかという話であった。
ネットではなぜか面白くなかったと言う人が多かったけど、私はとても面白かった。

恐らくこのエピソード1に始まる新三部作を観る人は、このアナキン・スカイウォーカー少年、オビ=ワン・ケノービ、またはジェダイ騎士団と銀河共和国をはじめ登場人物達とその社会のたどる運命を殆ど知っているはずなので、この映画は構造的に映画としてはもっとも不利である筈の「ネタバレ」を前提として観られることになっている。
旧三部作の公開当初はダース・ベイダーの正体や、ダース・ベーダーの最期に、観客は驚いたり感動したりしたらしいけど、この新三部作は旧三部作の世界観が浸透しきった後に「ネタバレありき」でその過程を映像化されたようなものなので、旧三部作のような完全オリジナルの初出の脚本が映画化されるのではなく、「原作の映画化」に近いものがあるだろうし、そして、このアナキン・スカイウォーカーを中心とする新三部作は、見る人間に対して、スターウォーズを文字通りの国家間の「宇宙戦争」と捉えず、ダース・ベイダーの物語として捉える切り口を必然的に強要することになってしまうのだろう。

この旧三部作からの時間的な開きがこれだけ大きいと期待と妄想が膨らみに膨らむだろうし、また中心となる見方がある程度固定してしまったことも、批判が噴出した要因のひとつだろう。期待が大きければ大きいほど失望も大きいというわけである。

普通の一般人でしか無かった人が、いつの間にか祭り上げられて活躍してしまうような映画やら小説やらが多い中、絶対的で圧倒的な「選ばれた者」が一般人を巻き添えに立ち回る、旧式の神話的物語はやっぱりいいものだ。と思った。
旧三部作からすれば「スターウォーズ外伝」とも言うべき同人誌的な要素と、小学生でもわかるような娯楽映画の要素が上手くミックスされていたと思う。

2008年10月17日

●スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 /

amazon ASIN:B000GD7YKK エピソード5の後、スターウォーズシリーズの最終章である「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還」を観た。
公開された1983年当初はサブタイトルが「ジェダイの復讐」だったけど、後に「ジェダイの帰還」となったらしい。私は子供の頃に聞いた「ジェダイの復讐」なるタイトルを覚えていたのやけど、原題は「Return of the Jed」なので「帰還」に近いやね。
でもまぁ、「帰還」は「復讐」の要素を含んでいる事が多いと言う事で。

前作で炭素冷凍されたハン・ソロをいつものメンバーが助けた後、ルークはヨーダの下にジェダイの修行を完成させるために向かい、そのほかの仲間たちは、新たに建造されつつある最終兵器「デス・スター2」を破壊すべく作戦行動を開始する。というもの。

いつの間にか、ハン・ソロと前作で登場したランド・カルリシアンが将軍になっており、さらにはその将軍自ら先頭に立って戦闘を行う様は、なんだかデパートにいるという客の苦情にひたすら謝るだけの存在である「怒られ店長」を髣髴とさせる、「突撃将軍」とも言うべきものがあってなんだか悲しいものがあった。

物語は最終兵器のデス・スター2への直接攻撃と、その援護である地上のシールド施設破壊をその二人の「突撃将軍」率いる部隊が行いつつ、ルーク・スカイウォーカーは正体を知ったダース・ベイダーとの最後の結線に挑む。というところであろうか。
そしてエンディングはこういった健全SF世界観に相応しくドラクエのような大円団である。
個人的にはどっちかというと端役ながらも、着々とクールに任務をこなす戦闘機乗りのウェッジがとても渋かった。

ネットでこの「スターウォーズ」についてを調べてみると、やたらと細かい設定とやたらとコアなファンサイトが大量に目に付く。
この物語の映画内で語られている以外の、例えばライトセイバーの設計図や動作原理から一兵士に至るまでの名前から銀河の国々の歴史など、公式設定がやたらと多くあり、これがコアなマニアを引きつける一因となっているらしい。
なるほど、この物語がなぜこれだけ沢山の人に愛されるのか、「現代の神話」とも言われる程のものを持つのかがわかったような気がした。

しばらくこの映画のシリーズを観ていると、道で赤い光る棒を持って誘導しているおっちゃんがダース・ベイダーに見えてしょうがなかった。コーホー
結局ベーダー卿は何が楽しみで生きていたんだろうか…

2008年10月16日

●スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 / 短気は損気なベイダー卿

amazon ASIN:B000GD7YKA 前日にエピソード4を観たので次はエピソード6を。と思って観ていたのやけど、いきなりハン・ソロが化石みたいになってるし、解凍されたハン・ソロとレイヤがブチューっとキスしてるし、巨大なハテナマークを頭に浮かべながら見ていた。
しかし始めてヨーダが登場したもののいきなり死んだ場面を見て、これは違うと確信してDVDを見直すとエピソード6を観ていた…

ということで、エピソード6を観るのを中断して、 1980年に公開されたスター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 を見た。例の如く、デジタルリマスターの特別篇やけど。

前作でレイヤ姫に逃げられた上に、反撃された反乱軍に最終兵器「デス・スター」まで破壊されて散々な目にあった帝国軍が反乱軍に逆襲すると言う話。
物語の最後でダース・ベイダーの正体が明かされるけど、そんな事は映画を観る前から知っていたので全然驚けずにちょっと残念やった。

戦う相手が悪すぎるのか、へぼ過ぎるのかは微妙ながら、部下が作戦の失敗ばかりして、やたら怒るダース・ベイダーが笑えた。
ダース・ベイダー自身は部下に恵まれないと思ってるのやろうけど、上司としてはいかがなものか。
そのマスクの下でキーッと怒ってフォースを使ってリモートで部下の首を締めるベイダー卿がなんとも愛らしい。

しかし、ベイダー卿と呼ばれるダース・ベイダーは帝国の中でどういった位置にあるのだろう?ベイダー将軍でもベイダー大佐でもなくベイダー卿ということは、実は武官ではなく文官で、爵位でも持っていると言う事なのだろうか?という疑問を抱いた。

「スターウォーズ」と言えば、なんとなくフォースによって心眼と気を使うライトーセーバーを持ったジェダイの騎士の話の側面と、SF的な宇宙戦争の話やと思っていたのやけど、エピソード4を観て、ジェダイの騎士も宇宙船に乗って戦うんやーとちょっと驚いていた。
エピソード4はどちらかというとジェダイの物語と言うよりはSF寄りの物語やったけど、このエピソード5になってから、ジェダイの騎士はちゃんとフォースを使って戦う方向性になり、SF寄りの物語部分と求道的なジェダイの物語部分がはっきり別れて来たなと思った。

2008年10月15日

●スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望 / 全体と個

amazon ASIN:B000GD7YK0 前から「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」とか言っていたけど、そう考えていた映画の中の一つに「スターウォーズ」シリーズがあった。シリーズ6部作と中々に長大なのでちょっと躊躇していたけど、やっと見始めた。
6部作と言う事で物語の時間の流れの順番にエピソード1からエピソード6まであるけど、一番最初に「スターウォーズ」として1977年に公開された「エピソード4 新たなる希望 」から見始める事にした。
といっても、私の観たDVDは公開後にデジタル修復&デジタルリマスターされた「特別篇」なのやけど。

物語自体の内容は知らないながらも、あまりにも一般的になった世界観やらキャラクターを持った作品なので、ダース・ベイダーやらオビ・ワンやらの登場人物や、ジェダイの騎士とかフォースなる概念などはあらかじめ知っていたので、全く知らない物語を見るのではなく、既に知っているその登場人物やら概念やらのつながりを確認するような見方やったけどとても面白かった。

公開当時は内省的で暗いベトナム戦争を扱った映画が多かったせいもあり、健全な娯楽性を持ったこの映画は大ヒットした。
この映画のヒットのお陰で子供かマニア向けの低予算・低技術のB級映画としか成立しえなかった「SF映画」なるジャンルが、一気にメジャ一なものとなる一因となったようである。
さらに、この映画が完全オリジナルの脚本で作られた事は、今まで一般的であった文芸作品からの映画化と言った流れを変える事ともなったらしい。

ストーリーとしては1920年代の典型的なスペースオペラを踏襲しながらも、ハードSF的なリアリティーを持たせつつ、ただレーザーとバリアと宇宙船で戦うだけでなく、フォースやらジェダイの騎士なる概念が入っているところがとても面白く感じるのだろう。

小説でも映画でも、物語内での世界の技術やら社会制度やらが肥大してしまえばしまうほど、個人の持つ力は総体的にどんどん小さく見える傾向がある。
あまりにも発達した社会にとって個人は余りにも無力であるし、あまりにも発達したテクノロジーの前では、個人の持つ力などあまりにも小さい。
でも、この映画では発達したテクノロジーと宇宙間戦争といった科学や社会のなる舞台にいながらも、フォースやらと言った概念を使って個人が活躍する場が大きく残されている。
テクノロジーや世界観や社会と言った、全体としてのSFの追求と、フォースを拠り所としたジェダイの騎士やらダース・ベイダーなる個の追求の物語の調和がこのシリーズの面白さなんやろうなと思った。

2008年10月14日

●「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」 / 今更ながら「エヴァンゲリオン」について考えてみた

amazon ASIN:B0012V4WSM 本当なら劇場で見たかったのやけど、いつの間にか観る機会を逃していた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』 (2007/日)を今更ながらに観た。
話の内容としてはアニメ版の1~6話、第5使徒ラミエルと戦うところまで。
テレビ版の総集編のような感じやったけど、製作サイドは「新世紀エヴァンゲリオン」とは別物の全く新しいものだという認識でいるらしい。
使徒の番号がずれてるとか、いきなりターミナルドグマやリリスやカヲルが出てくるとかは確かに違う。

以前はある程度シンジに感情移入して観ていたけど、さすがにこの年になるとそういった見方は出来ないし、どちらかと言うとネルフの人間の立場の見方を考えてしまう。
昔にテレビ版を見た時はとても面白かったはずなのやけど、今になってみると以前ほどの面白さはないように感じた。

シンジのうじうじ度合いを始め、その他のレイやトウジなどの子供たちはいいとしても、ミサトやリツコやゲンドウのキャラクターにとても違和感がある。
ミサトを中心にしたネルフ職員がシンジを何とか初号機に乗せようと、褒めたりなだめたり怒ったり諭したりする様が全然リアルに感じられないし、必死で使徒と戦っているようにも見えない。
シンジに戦ってもらわないとどうしようもないのに、シンジの自由意志で乗れとか言ってるし、無理やりにでも乗せようとしないのが不思議でしょうがない。
大人ってのはもっとドロドロしてて賢くて複雑なものやと思う。
シンジではなく、ネルフの人間に感情移入して見てしまうと違和感ありありであった。

ネットのどこかで「エヴァンゲリオン」は「オリジナルなき世代の、引用とコピー(リミックス)にあふれた作品」だという意見を読んだけど、確かに最近色々な古い漫画や映画やアニメを読んだり観たりするようになって、エヴァンゲリオンでのあれのオリジナルはこれやったんか。と思うことがとても多い。

このアニメが社会的な現象となって、今までアニメに見向きもしなかったいろいろな人が言及するに及んだのは、逆に完全オリジナルではなく、今まではとても結びつくことの無かったさまざまなジャンルの複合体であったゆえんであるかもしれない。
過去のアニメは勿論、科学から映画、宗教、哲学、心理学など、今までのアニメに無かったような方面の語彙とシステムと考え方がちりばめられたこのアニメは、本当に色々な方面の色々な人がやたらと深読みしていた。
今となっては昔話やけど、ありとあらゆる解釈が世間に満ちていたのは当時結構びっくりしながらも面白かったり笑えたりしたものだ。

エヴァンゲリオンがアニメ史を変えたという言い方をよくするけど、それは、ガンダムが今までのロボットアニメを根底から覆したのとはまたタイプが全く違う。
どちらかと言うと、その色々なジャンルの複合体の形式としての「エヴァンゲリオン」は、メインカルチャーからサブカルチャー含む、一つの歴史解釈とも言える総決算の形だったのではないかと思った。
で、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」で始まるシリーズはそういった「新世紀エヴァンゲリオン」のまた一つの総決算と言うことになるのだろう。

「新世紀エヴァンゲリオン」を観たことのある人たちはそのストーリーにちゃんとついていけるけど、全く予備知識も無い人は果たしてちゃんとついていけるのだろうか?どうなのだろう?

2008年09月09日

●「デューン/砂の惑星」 TV放映長尺版???

amazon ASIN:B00006AUVP デヴィッド・リンチ監督作と言うことで、何度もテレビでやっていたけど見たこと無かった、中々有名な原作の映画化である「デューン/砂の惑星」を観た。つもりであった。

しかし、私がレンタル屋さんで借りて来て観たのは「デューン/砂の惑星 TV放映長尺版」というDVD二枚組みで、デヴィッド・リンチが映画のために撮った映像を、没になったシーンや映像も含めて、別の監督が繋ぎ合わせて編集しなおし、テレビ向けのストーリがわかりやすいものにしたらしい。
レンタル屋さんにはまた他にも良くわからんテレビシリーズがあったりともうわけわからん。なんかこの派生物の多さは「スターシップ・トゥルーパーズ」みたいやね。

デヴィッド・リンチを観るつもりで借りてきたものが、デヴィッド・リンチのノンクレジット作だったとはちょっとがっかりである。
冒頭いきなり映画の人物やら文化やらの背景説明が紙芝居のような静止画像で入り、あまりのちゃちさにちょっとびっくりしたけど、これがあったおかげでなんとなくストーリーはわかった。

本当の劇場公開版はこの紙芝居での説明なしにいきなり本編が始まり、原作を知らない人がポカーンとする中、いろいろな人が入れ替わり立ち代り現れてどんどん話が進んで行ったらしい。
確かに説明不足感というか意味の解らなさというか、視聴者置いてけぼりはリンチっぽいといえばそうやけど、こんな感じのストーリー映画でそれはいかんやろう。と言う気もする。

ストーリーの解りやすさから言えばこの「TV放送長尺版」やろうけど、私はリンチの撮った「劇場版」を観て「何じゃこらー?」と言いたかったのでちょっと残念であった。
とは言え、今「劇場版を観たいか?」と言われればちょっと微妙やなぁ。

2008年09月08日

●映画:アレハンドロ・ホドロフスキー 「ホーリー・マウンテン」 / 悪ノリバカ映画

amazon ASIN:B00009CHBX 先日観てとても面白かった「エル・トポ」を撮ったアレハンドロ・ホドロフスキーの監督作である「ホーリー・マウンテン」(1975/メキシコ)を観た。
この映画は「エル・トポ」の大ヒットにより脚光を浴びたホドロフスキーが、製作会社やら配給元やら(自分自身からも?)から大量の予算を得て製作されたらしい。

低予算映画の「エル・トポ」から一転して大量の予算を作って映画を撮るようになったけど、それでも基本的に「エル・トポ」とやってることは同じであるような気がする。
主人公達が目指すところは、悟りや解脱や生死の彼岸であるし、なんか良くわからん映像も相変わらずである。
低予算でアイデア勝負だったものに、大量の予算を投入して作られた映像は、エグさとか訳のわからなさがより増しているように見える。

この映画は全体的に「何じゃそのオチは?」という場面が多かった。
一つ一つのエピソードに一応のオチはあるのやけど、そのどれもが訳がわからない。
私が気に入ったのは、大量の着飾った本物のトカゲをアステカ調の舞台に配置し、スペイン風に武装させたカエルに攻めさせる、「メキシコ侵略の歴史劇」であった。
この劇のオチも某氏のフラッシュアニメを髣髴とさせるような「爆発」という無茶苦茶で中々笑えるものであったし、何よりもこの映画のオチ自体が「えぇ~っ?」という感じであった。

ネットでこの映画を「悪ノリ」と評している人がいたけど、なるほどこれはとんでもない悪ノリやなぁと思った。予算が多いだけにたちが悪い。
そして悪ノリというのは往々にしてやりすぎてしまうものでもある。もちろん、端から見る分には、やり過ぎでないくらいと、悪ノリは面白くないのやけど。

こういう映画を真面目に観てしまうと、感受性の見えない部分になにか決定的な損傷が加わってしまうような気がするけど、出てくる良くわからん悪ノリ映像を見ながら「あっはっはーアホやなぁー」と笑える人には刺激的であろう。
意味なんかたぶんもともと無いねんから、考えてもしんどいだけなので、予算を大量に使った悪ノリバカ映画として観ておくと中々楽しめるような気がする。

2008年08月31日

●映画:「ピアニスト」 ミヒャエル・ハネケ/ フランス風エロエロジュテーム映画暗黒系

amazon ASIN:B0000D8RO8 ミヒャエル・ハネケの2001年に公開されたフランス映画である「ピアニスト」を観た。
この監督は「セブンスコンチネント」を観てから大好きになった監督である。この映画は今までの映画とは違い、なんとなくそれなりにメジャー路線だったような気がする。

過保護で過干渉な母の下で、全てを犠牲にしてコンサートピアニストを目指すも、挫折してウィーンの音楽院のピアノ科の教授を細々と務める、シューベルトとシューマンが好きな中年女性の主人公に、理系で恰好良くてピアノも上手い若者が、正々堂々とピアノ科を受験して合格し、真正面から熱烈に言寄る。
そんな彼の熱意に、女である事を捨てたようにピアノ一筋で、隠された秘密を抱えて生きて来た主人公の心は揺らぎ始める。

って書くといかにもありがちな、おフランスな映画のように聞こえるし、実際パッケージもそれっぽい。
しかし、さすがはミヒャエル・ハネケ、この映画が「ラブロマンス」の棚ではなく「ミニシアター」にあるわけである。

次々と繰り出される常人には中々理解しにくいピアノ科教授の変態行為の数々は見事であった。理解しようと言う望みを度外してして観れば、彼女の行為は滑稽にしか見えない。そしてなによりその滑稽さこそが痛ましく哀しい。
経験の不足によって、どんどんエスカレートして行く知識の暴走は、結局、いざ実際に経験した行為と整合性が取れずに破綻する。
「もてない奴に限ってやたらと理想が高い」とか「経験が乏しい奴に限ってテクニカルで極端に走る」ってのがあるけど、まさにそれを更に極端にしたようなものである。

一人でも変態、彼氏が出来ても変態、母親にも変態、もはや変態でしか自己を表現出来ない域にまで来て後戻り出来なくなった彼女の悲惨さはちょっとありえん。
自分自身でそんな自分が理解出来ている所が余計に救いが無い。シューマンに自己を投影するもそれをちゃんと解消する方法を知らない姿が痛ましい。
おぉっ?とうとう二人の愛が成就するか?と思えば、「えぇーっ?」て言うくらいにエグく破綻する様はもう見事である。

主人公は変態であるからこそ悲しいし、主人公に言い寄る男はノーマルであるからこそ悲しい。お互いを理解しようとしても理解できず、理解されようとして理解されない、このあまりにフランス文学的に古典的な、フランス風いたちごっこは余りに哀れである。美しさの欠片も無い。
ここまで悲惨になるともう笑うしか無いのやけど、「Je t'aime」がここ々までエグく滑稽に空しく響くのは空恐ろしい。
言ってる事とやっている事だけをとれば「フランス風エロエロジュテーム映画(あるいは小説)」やねんけど、実際は全く逆というか、とことんまでそういう映画のパロディーのように馬鹿にしているとまで思えてくる。
実際は「フランス風エロエロジュテーム映画暗黒系」と言ったところか。

ハネケは結構ドキュメンタリーであるとか、ノンフィクションの題材を映画化する事が多い。そして自分の映画は娯楽では無いし、その映画に嫌悪を感じるのは何故かを考えて欲しいと言っている。そう言う事からも普通の映画ではない物を目指しているのは理解できる。
この監督はどの映画を観ても、やっている事自体をとって見れば全く理解できないのやけど、何でそう言う事をする事になったかという「気分」に関してはとても良くリアリティーを持って理解できるるように思う。あまりにも突飛で嫌悪感を抱かせる癖にやたらとリアル。もしかしたら自分もああなるかも。というはあまり気分の良い物では無い。

誰しも程度と方向の差はあれ、自分の変態性やとか、後戻りの出来なさやとか、相互理解の不整合に悩んだりするものである。
主人公が自分の生徒に向かって「ピアノの情熱はその程度のものか?」って言っていたような気がするけど、「お前こそシューベルトとピアノに対する情熱はその程度のものか?暴走の歯止めに屁のツッパリにもなってないピアノなんか止めちまえ!」と言いたくなった。
自分の良くわからない欲望と狂気の持つエネルギーの扱い方がわからず、その矛先を変えて、変換してしまう術を知らない人の悲惨さと言うのが痛いほど見えた映画であった。

2008年08月30日

●映画:「最後の戦い」 リュック・ベッソン / 殺伐とギスギスと爽やかに

amazon ASIN:B000228TV8 リュック・ベッソンの劇場用長編監督デビュー作であるらしい「最後の戦い」を観た。
世界崩壊後の、「北斗の拳」というよりは「アキラ」的な世界の中で、水や食料を巡って争う男達の戦いを描くものである。
台詞は無いけどドルビーサラウンドで、モノクロやけどシネスコサイズってのがちょっと可笑しい。
台詞が無い、というか登場人物たちが喋らないと言うのはわざと無声映画風にしてるのかと思っていたけど、一応「環境汚染で声帯がやられている」という設定があったのを映画を観終わった後に知った。

劇場用長編デビュー作やけど、既にジャン・レノも出てるし音楽もエリック・セラである。
リュックベッソンの映画に良く出てくる、「グラン・ブルー」や「レオン」で顕著な「何か突出した物を持っているけど根本的に間違っている男」の痛さはあまり無く、皆が健康的に荒くれていたし、全編がコミカルなテイストで統一されていた。

主役の男と共に戦う医者の相手であるジャン・レノがやっぱり良い感じであった。強くて凶暴なのやけど、どこと無く可笑しいのがとても良かった。
前半がかなり面白かったせいか、後半はちょっとだれたような印象を受けた。それでも、ギスギスした設定で殺伐とした事ばかり起こるけど、不思議と観終わった後はとても爽やかな感じのする映画であった。

2008年08月16日

●『火の鳥』 / ダコタ・ファニング VS テンテンちゃん

amazon ASIN:4041851017 前から手塚治虫の『火の鳥』が家にあったのだが、何故か13巻あるうちの3巻が抜けていたので、前日にその三冊を買ってきて、殆ど徹夜で通読した。
なんつーかスケールが大きすぎて、登場人物の個人性があまりにもさらっと流され過ぎに思った。良いように言うと交響曲全集のような漫画であった。
やっぱり鳳凰編の我王と茜丸の話は昔ファミコンのゲームにもなったくらいで一番面白かった。
ゲームは鬼瓦を作って効果的に足場や防御壁にする「鬼瓦アクション」が新鮮だった。
漫画は読んでいなかったながらもかなり熱中した記憶がある。
ゲームのストーリは漫画とは全然関係ないけど。

amazon ASIN:B000BIUDUI 『火の鳥』を読む前に、ロバート・デ・ニーロとダコタ・ファニングが出演している「ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ」を観たのだが、ストーリは良いとして、ダコタ・ファイニング主演で「カードキャプターさくら」を撮って、テンテンちゃんと戦うところを是非みてみたい。と思った。

2008年08月15日

●映画:「ハサミを持って突っ走る」 / 食傷気味な感じの物語 / ちょっと残念

原作がアメリカで中々のベストセラーになったらしい「ハサミを持って突っ走る」を観た。

amazon ASIN:B000VV1D18 自分は偉大な詩人だと確信する誇大妄想の母親にアルコール依存症の父が離婚して、やがて母からネグレクトされる子供が主人公である。
一人暮らしをする母は捨てた息子を信頼する精神科医に預け、主人公はそこで家族のように暮らすのだが、精神科医の家族も例外なく病んでいる。
ドッグフードを食べながら恐怖映画ばかり観る母親、小児性愛者克服の治療を受けているゲイの長男、ネコを飢え死にさせて葬式をする病的に潔癖な長女、その長女と衝突してばかりいる典型的なビッチ系のトラウマ少女な次女、そして家長にして一番狂っている精神科医の父である。
訳がわからない人たちに囲まれながらも、それなりに成長して行く少年の姿を描く教養小説的な作りの映画であった。

ちょっとおかしい人たちがドタバタするようなコメディを想像していたんやけど、笑いの要素は全く無く、延々と陰鬱で陰惨な話が続く物語である。
一応コメディーという事になっているらしいけど全然笑えない。
手法や映像はコメディーでポップやけどひたすらシリアスで重い雰囲気の映画であった。

原作はレビューや評判を読む限り、おかしな人達とのの交流や彼らなりの成長が描かれている面白おかしい物語であるような雰囲気なのだが、この映画の演出はただ登場人物の悲惨な境遇とその悲惨さを強調し、登場人物がひたすら叫ぶ物語である。
最近はこの手の演出の、精神の病だのトラウマだの幼児期の悲惨な体験だのを前面に押し出したような映画や物語に食傷気味であるし、この手の物語につきものの滅茶苦茶な言動の後に悲惨な幼児期の体験やトラウマや精神疾患を免罪符かの如くにして泣き落としにかかる人間にもうんざりぎみである。

そういった闇を抱える人にとって、ただそういったところを見せ付けられるの何の意味があるのだろう?
私としては、普通の人とは違っていても、普通の人と違う悩みを抱えていても、普通の人に理解されなくても、「別におかしくてもええやん」という方向性で自分なりの生き方を見つけて、一個の人間として自立して生きて行くような様が、世のマイノリティーやトラウマ少年少女や同じような闇を抱える人間を元気付けるような映画を期待していたのでちょっと残念であった。

2008年08月03日

●映画:サウンド・オブ・ミュージック / 「ド」はどうしてもっと早く観なかったんやろうの「ド」?

amazon ASIN:B0014B8A7O 今更ながらに初めて「サウンド・オブ・ミュージック」を観た。
1938年のナチスによる併合前夜のオーストリアのザルツブルグを舞台に、お転婆で天真爛漫がゆえに修道院で浮いた存在であった主人公マリアが、7人の子供たちの住み込みの家庭教師としてトラップ家を訪れ、歌でもって子供たちとご主人トラップの心を開いてゆくというもの。

昔、中学の友人の家に「サウンド・オブ・ミュージック」と書かれたビデオテープがあって、実はそのタイトルはダミーであり中身は実にエロエロなビデオだったという何とも心温まるエピソードがあったのだが、今まで「サウンド・オブ・ミュージック」と聞くとなんとなくその事を思い出してちょっと笑いを誘うようなイメージがあった。
しかしながら、初めてこのエロビデオではない「サウンド・オブ・ミュージック」を見てとても感動し、そんなイメージは一変した。
今までミュージカルなんかほとんど見た事の無い私であるけど、これは文句なしに素晴らしい映画である。

冒頭のアルプスからの俯瞰から高原で踊るマリアへのズーム、そしてマリアが全身で歌いだす「The Sound of Music」でいきなり「(´;ω;`)ウッ」と来るものがあった。
まだストーリーが始まりもしていない冒頭でいきなりこれは度肝を抜かれた。なんやねん。ただ歌ってるだけやのに…(;つД`);

物語はとても健全に、とても順調に予定調和の路線をひた走って行く。
主人公マリアに懐く子供たちの主人を信頼し切った子犬のような目に笑え、あまりにご都合主義で勧善懲悪な展開にちょっと不安を抱くけど、それは私が自然な演技とリアリティーを追求した映像を良しとする現在の映画に慣れているからだろう。

ミュージカル映画と言う事もあるのだろうか、自然さとかリアリティーの追求など意に介さず、様式美やイデア的な純粋性を志向したような物語とか映画の作りは、逆に人間存在の美なるものに一直線に切り込むようで、とても真っ直ぐで気持ちが良い。

どの歌も中々に良かったけど、それぞれの歌がほぼ二回ずつ出てくるところが言い感じである。
冒頭しばらくしてのマリアの性格をからかう歌の「Maria」が二度目に流れる時は彼女が一人でバージンロードを歩く時であるところ、大佐が子供達の前で初めて歌った「Edelweiss」がオーストリア市民の前で歌った時に愛国歌的に合唱になるシーンなどなど。
中でも修道院長がマリアを修道院から送り出すために唄う「Climb Every Mountain」がなんともたまらんかった。(´;ω;`)ウッウッ

そういうわけで、ザルツブルグの自然と歌と人の純粋さがとても美しい、感情にダイレクトに浸透する歌の力見せ付けてくれる、文句なしの名作であった。

かの有名な作中の「ドレミの歌」(Do-Re-Mi)の替え歌風に言うと、

「ド」は、どうしてもっと早く観ておかなかったんやろう。の「ド」
「レ」は、ハレンチなシーンは全然無いよ~。の「レ」
「ミ」は、とりあえず観て無い人はさっさと観ようぜ。の「ミ」
「ファ」は、ファシズム批判なんて野暮ったい事は言わないでござる。の「ファ」
「ソ」は、それにしても長女が16歳って設定は無理ないか~。の「ソ」
「ラ」は、まさかそっちのラブロマンスになるとは思って無かったぜよ。の「ラ」
「シ」は、やっぱりマリアはとんでもない破戒シスターやんけー。の「シ」
さぁ歌いましょ~♪

と言ったところか。もっと早く観ておけば良かった。

2008年07月19日

●映画:こねこ/猫がいっぱい!愛がいっぱい!オッサンのダメダメ加減もいっぱいいっぱい!

amazon ASIN:B00006JLHW 洋画では類を見ない「文部省選定映画」に選定され、ネコ映画の最高峰として名高いイワン・ポポフ監督「こねこ ~旅するチグラーシャ~」 (1996/露)を観た。
以前からずっと観たかったのだがやっと見る事が出来た。私が観たものは旧版のDVD でイメージソング「チグラーシャ」なる良くわからんシングルCDがついていた。
なんとなく「ロシア民謡コロブチカ」か「パルナスのCM」のようなのを期待していたのやけど、聞いてみるとNHK「みんなのうた」のような日本語の歌やった……
でも本編の音楽はいかにもロシアっぽくって良かった。

ある音楽家の家に買われて来たこねこの「チグラーシャ」は花瓶を割ったり書類をインクで汚したり大暴れ。
怒る父母となだめる祖母、そしてチグラーシャを庇って猫かわいがりする姉と弟。
チグラーシャがトイレを覚え、家族の怒りも解け始めたある日、チグラーシャは窓の外に見えるスズメを狙っているうちに窓の下のトラックの荷台に落ちてしまう。トラックはチグラーシャを乗せたまま走りだし、都会に一人で放り出されたチグラーシャの冒険が始まる。
と思った矢先、チグラーシャはネコ屋敷の独身男の所に転がり込む。
と言う感じのストーリーである。
見所は芸なんだか素なんだかわからないネコのプリティーさであろう。

サブタイトルは「猫がいっぱい!愛がいっぱい!」つーことで、最近は変態か殺伐としてるか人死にまくりか滅茶苦茶な映画ばかり見ていたのでこれは安心してほっこり観られるぞ。と思っていたけどちょっと甘かった。

チグラーシャと仲間のネコたちの話は良いのやけど、チグラーシャが転がり込んだ先のネコ屋敷の主の男がなかなかの曲者である。
友達はネコだけで、気になる女性もいるけど妄想に登場させる割にはネコをだしにしてしか話が出来ず好意を向けられても妙にそっけない、明らかに社会不適合臭プンプンの彼はネコのサーカスとそこで演技をする自分を白日夢に見ながら近所の雑用をしつつ何とか生活を保っていたのだが、とつぜんそこに地上げ屋が現れる。
地上げ屋に家を追われそうになり、地上げ屋の圧力で町の雑用を回してもらえなくなった彼はネコに芸をさせて金を稼ぎ、それもままならなくなりネコを売り払って金にしてしまう。更には地上げ屋に襲われたところをネコに助けられ、結局男はチグラーシャを音楽一家の元に返す事もない。
ネコをだしにして金を稼ぎ、ネコに助けられ、ネコにしか相手をされないどころかネコにおんぶに抱っこの男のダメさ具合が見ていて「アイタタ」と胃が痛かった…
どう見てもその男よりネコ達の方がしっかりしてるし、ネコたちが男を養っているように見える。典型的な「心だけ優しいダメ男」というやつである。
「猫がいっぱい!愛がいっぱい!」に加えて「いっぱいいっぱいのオッサンのダメダメ加減もいっぱい!」であった。

と、その「ネコ屋敷の男」に対して我々はそういった見方するかもしれないけど、恐らくロシアではこの男は虐げられた社会的弱者であるけど、ネコ好きの心優しい同情すべき男のある種の典型であるのだろう。
そう考えると、ロシアって寛容やなーと思った。

しかしこのダメ男を演じた人はロシア随一のネコ使いらしい。広いロシアの台地には「ネコ使い」なる人間もいるとは驚きである。
それと気になった点がもう一つ。我々は「チグラーシャ」と言うネコを呼ぶ場合、「ちぐらーしゃーー」と母音のaを伸ばして呼ぶ事が多いけど、ロシアで「チグラーシャ」を呼ぶ場合は、早口で「ちぐらしゃちぐらしゃちぐらしゃ」と呼んでいてちょっとびっくりした。

ネコ好きは何処の国でも同じやなーと思うと同時に、ネコの呼び方やら弱者への視線やら、ちょっとしたロシア文化を垣間見る事との出来る映画であった

2008年07月18日

●映画:黒澤明「影武者」/汎用ヒト型決戦兵器 「武田信玄」/任務とアイデンティティクライシス

amazon ASIN:B000UH4TUA 黒澤明が1980年度のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを取った作品である「影武者」 (1980/日)を観た。

武田信玄の弟で彼の影武者である武田信廉は、逆さ磔にかけられようとしていた信玄にそっくりの罪人を、彼の影武者として役に立つかも知れないと思い貰い受ける。
そして信玄が城攻めの際に一発の銃弾で怪我を負ったのを契機として、武田家の重臣たちは影武者を立てる必要に駆られてその罪人を影武者に仕立てるが…

という感じのストーリーであるけど、自分を捨てて影武者として生きる道を選んだ罪人の苦悩がメインの物語であろう。その辺りはその罪人の役名が個人の名前でなく影武者とか影法師でしかなく、映画の中でもそのようにしか呼ばれない程に徹底している。
またそれだけでなく、一介の罪人を影武者に立てるしかない重臣の葛藤であるとか、影武者を御屋方様として扱う小姓やおじじとして慕う孫や重臣たちとの交流も見所であるかもしれない。

フランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスが外国版プロデューサーに名を連ね、カンヌでのパルム・ドール受賞など、国際的にも評価が高い作品であるはずやけど、「用心棒」「七人の侍」「椿三十郎」等と比べると作りがあまりに大雑把なような気がするし、三時間と言うのはあまりに長すぎたように思う。
それにその影武者がその大役を引き受ける事になった一番の原因である「武田信玄への心酔」がリアルに伝わってこないのは、ネット上に多く見られた感想と同感である。

それでも、一介の小悪人でしかなかった男が、あまりにも人間としての格の違い過ぎる武田信玄を演じる事になって葛藤したり苦悩したりする様は、巨大ロボットに乗って「逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!」と連呼する少年ととても似ていた。
「武田信玄」が生きていると言うだけで、周りの敵たちへのとてつもない圧力となっていたくらいで、ある意味「武田信玄」なる存在は人造人間エヴァンゲリオンと同様に「汎用ヒト型決戦兵器」であると言う事が良く伝わってきた。

エヴァンゲリオンに乗る碇シンジや武田信玄の影武者をする罪人だけでなく、自分以外に出来ない、自分には荷が重すぎるように見える仕事をたった一人で突き詰めて行くと言うのは、自分の独自性を深めていっているようでいて、実は普遍性やとか流れのようなものと一体化すると言う意味で自己性の放棄の側面を持っている。
そのより大きな物への合一や統合による自己喪失をアイデンティティクライシスと受け取るか、何らかの「体験」として受け取るかで、仕事やとか生活やとかの受け取り方が全く違ってくるものである。

とか思った。

2008年07月14日

●映画:ピンクフラミンゴ/ポジティブ下品ピュア/マイノリティ?

amazon ASIN:B0014R2646 ジョン・ウォーターズが監督したピンク・フラミンゴ (1972/米)を観た。この監督は"filthy"なる「汚い、不潔、下品な、卑猥な、卑劣な」などの意味を持つ単語で表されるような悪趣味で下品な作風のカルト映画で有名で、特にこの作品は「史上最低の悪趣味映画」として彼の名声を高めることになったらしい。

お尋ね者となった巨漢で強烈な化粧と髪型の主人公(パッケージの人)は、何時もベビーベッドで卵ばかり食べている母と、覗きが趣味の同居人と、変態プレイ好きな息子と、郊外のトレーラーハウスに隠れ住んでいた。
しかし彼女が「世界でもっともお下劣な人間」としてタブロイド紙に報道されると、我々こそ「世界でもっともお下劣な人間」だと自負する露出狂の夫とドSの妻がその称号に嫉妬して彼女からその座を奪うべく彼女たちに襲いかかる。
かくして「世界でもっともお下劣な人間」の座を巡ったお下劣な攻防が勃発するのであった。と言う感じのストーリーである。

初めてこの映画を観たのだが、どうやら私が観たDVDはノーカットの無修正版らしく中々エグい事になっていた。
最初の方は時々ボカシがあるのである程度安心して観られるけど、突然素のままのエグい映像が飛び込んできてビックリである。
一応ボカシがあるシーンもあるのやけど、そこに無くていいのか?と首をひねるシーンが多い。というかボカシの意味ほとんど無いやん。

最高に下品やとか悪趣味やとか、最低映画とか言われるように、確かにこの映画は下品で悪趣味で最低である事には間違いないと思う。
それでも不思議と嫌悪感を抱いたり拒否反応を示したりせずに楽しく見る事が出来たのは、映画内に漂っている妙に明るいテンションと楽しげな雰囲気のおかげだろう。題材とやってる事は確かに下品で悪趣味やけど、全体としてはそれほど下品でも悪趣味でもないように思う。
あまりにも純粋なエネルギーに満ち溢れた下品さは下品とは又違う属性を帯び始めるような気がするのだ。
下品とか悪趣味とかいうのはどちらかとネガティブな概念やけど、それを思いっきりポジティブに表現されるとそういうものとして見えてくるから不思議である。

題材とやってる事が上品で良い趣味でも、どうしようもなく下品で悪趣味な映画などいくらでもある。そのあたりは人間のあり方と同じやし、この映画より下品で悪趣味な奴はいくらでもいるだろう。
聖なるものの存在を理解せず、天上の物を地上以下に引き下ろし、それらを下卑た物差しで計り、下卑た目的に使おうとする行為こそ本当に下品で悪趣味なものであろうし、そういったものは正視し続ける事すら出来ないものであろう。

自分に害が及んでこない限り、下品なことを下品なこととして誇りを持って楽しくやっている事を見ているのはとても楽しい。
そういう意味でこの映画は、ちょっとしたアート系の人たちが「この映画ってば最高に下品」と言いやすいポジションにある映画なのだろう。

この映画はfilthyであるだけでなく、登場人物たちの着ている服とか化粧とか髪型は結構良い感じやし、「たまごマン」に恋する卵好きの母親の可愛らしさはちょっと他に類を見ないし、「世界でもっともお下劣な人間」の称号を奪おうとする夫婦の家に乗り込んだ主人公親子が報復のために家中を舐め回すシーンはあまりにも訳がわからなくてあまりにもバカでとても大好きである。

監督のジョン・ウォーターズは保守的な街の裕福なカトリックの家庭で育ち、自分がゲイで問題児でまったく周りに理解されないことに苦しみ続けたことが、彼の人格形成に大きな影響を及ぼしており、この映画はそういったマイノリティーがマイノリティーなりの怒りとか不満を爆発させているのだ。ってな感じの事がどこかのサイトに書いてあったけど、そういった怒りや不満といったネガティブの面よりも、むしろ自分たちがマイノリティーであることをポジティブに捉えて振舞える開放感とエネルギーに満ち溢れているように見えた。

ということで、マイノリティーを嫌う人にとっては意味も面白さの欠片も無いやろうけど、ちょっと自分がマイノリティーであることを感じている人にとってはなんとも爽快感に溢れた映画であろう。と思った。

2008年07月06日

●映画:ブリキの太鼓/大人の醜さ/子供のままである事の醜さ

amazon ASIN:B0010B8AYQ ブリキの太鼓(1979/独=仏=ポーランド=ユーゴスラビア)を観た。ドイツの小説家ギュンター・グラスのノーベル文学賞対象作品である同名の小説の映画化であるらしい。映画化といっても小説では第一章の部分だけになるらしいのやけど。

ナチスが台頭する直前のダンツィヒ自由市で暮らす少数民族のカシュバイ人の母とドイツ人の父を持つ子供が、自宅で催されたパーティで大人の醜さを垣間見て成長を止める事を決意して階段から転げ落ちる。
三歳で成長が止まり、叫び声で物を破壊する超能力を身につけた彼はブリキの太鼓だけを友人とし、のべつ幕なしに太鼓を叩きまくり、気に入らない事があると叫んで物を壊すわがまま少年のまま年だけをとって行く。
第一次大戦前の放火犯と祖母の間に母が生まれたエピソードからポーランド人の従兄と不倫を続ける母の行動、そしてナチスのユダヤ人迫害とポーランド侵攻、それに続くソ連によるドイツへの侵攻までの長い時間をその少年の目から描いている。

公開当時のグロテスクなシーンとエロいシーンで物議を醸したらしいけど、今となればエロもグロもそれほど大した事は無い。とはいってもそのエログロは映像としては大した事無くても人間のモラリティーな部分を逆なでするような気分の悪さがある。

印象に残るシーンはとても多く、特に本編とは直接の関係が無いナチスの集会でのマーチが「美しき青きドナウ」に変わって舞踏会になるシーンが良かった。恐らく原作にはこういった良いシーンがたくさんあったのだろうと想像されるし、原作の出来の良さを感じる。

海に投げ入れた牛の首でウナギ漁をするするシーンから、従兄と不倫し続けてとうとう妊娠してしまった母親がおかしくなってニシンの缶詰や生魚を食べまくるシーンまでの一連の流れのエグさは素晴らしい。
母にとって魚とは生理的な欲望と欲望の醜さを同時に象徴する物だったのだろう。その魚をひたすら食べ続けたのは、自分の中の醜い欲望の代替品としたのか、それとも欲望に対する敗北の表現だったのか。

何れにせよこの母親の運命は中々のものだし、そんな母の醜さを見て育ってきた少年が成長を拒否してしまいたくなるのは良くわかる。
しかし成長しなくなったのではなく自ら成長を拒否したこの少年は子供の持つ特有の醜さだけが際立つ事になってしまったように思う。無邪気さを装った悪意があまりにも邪悪である。
そしてパッケージの写真のような気の触れたような目つきで太鼓を叩きながら叫ぶ少年の演技が鬼気迫って素晴らしい。この顔だけでも一見の価値ありである。

確かに少年の拒否したような欲望にまみれた大人は醜い。しかし少年のように子供のままであり続ける事も同様に醜いと思う。
大人の持つ欲望と、大人になりたくない欲望はどちらも理解出来るものであるけど、人が醜いかどうかはその欲望がどう現象するかによるだろうし、大人の醜さとこの少年の醜さは質が違うだけのように見える。
たとえ欲望自体が醜いのだとしても我々からそれが無くなる事は決して無いだろう。欲望を無くす方向性の修行が無益である事は数々の過去の偉人の言う通りなのであろうと今は思う。
劇的で神がかり的で神秘体験的で神智的な一瞬による自らの覚醒やとか変化など幻想に過ぎないのだろう。
結局自分の欲望が醜く思えてそれをゼロにする事が出来なければ、それがゼロであるかのように生活して、習慣が自らを無意識でそういうものであるかのように振舞えるようにするしかない。と言うのもまた数々の過去の偉人の言うとおりであろう。

などと、欲望とその醜さについて思いを馳せた、まぎれも無い名作の映画であった。
これはぜひ原作読まんとね。

2008年07月01日

●映画:ミケランジェロ・アントニオーニ 「欲望」/ギンギラギンにわざとらしく

amazon ASIN:B000IU3AE0 ミケランジェロ・アントニオーニ 「欲望」(1966/英)を観た。DVDのパッケージになっているポスターは私でも見た事あるくらいなので中々有名なのであろう。

このポスターと「欲望」というタイトルから勝手に想像して猟奇的カメラ小僧の話だと思い込んでいたのやけど内容は全く違った。

美人は飽きたとのたまう売れっ子ファッションカメラマンの話で、前半はその男の何ともいけすかん日常が描かれるけど、中盤に入って何気なく公園のカップルを撮影したところからストーリーが一変する。

邦題は「欲望」やけど原題は「Blowup」で写真の引き伸ばしとか言う意味である。
たしかに写真を引き伸ばしたところから映画の流れが変わるし、それにいろいろ引き伸ばしている事は間違いないだろう。それに引き換え邦題の「欲望」はどこからそうなったのか良くわからん。

ストーリーが変な方向に向かいだしたその中盤から後半にかけて、今までのストーリーはなんやってん?と言うくらいに訳がわからなくなり、最後はもう全く理解の範囲を完全に超えていた。パントマイムのテニスと観客?

世評ではとても評価が高いようで、60年代イギリスな雰囲気や、なんやらと言うロックバンドの演奏シーンやらハンコックの音楽の評価以外に、どうやら何か芸術やらなんやらに関する比喩に満ち溢れてるとかそう言う話もあるようやけど、いかにも比喩ですよと言うような、比喩以外に取りようが無いですよ、って感じの雰囲気がやたらと鼻についた。
さりげなさが全く無かったし、やたらとぎらぎらしていたように見えた。

八方美人の映画の感想を書いているけど、この映画はちょっとダメなタイプでした。

2008年06月30日

●少年と自転車/日本の自転車泥棒

amazon ASIN:B0013E14SO 家に帰って片付けの続きをしながら「日本の自転車泥棒」を観た。

ぼそぼそと聴き取りにくい冒頭のナレーションで萎えたたところに、いきなり脈絡も無く雪の中でのたうち回るオッサンにドン引き。

主人公のオッサンは何かに取り憑かれたように立ち上がってそのへんにあった自転車を盗み、叫びながら走り出す。

自転車が壊れるごとに新しく盗んで乗り換えながら、無意味に叫び続け、人とのつながりを拒否し続け、ひたすら利己的に走り続けた7日間の話ということになる。

八年前に岡山の高校生がいじめを受けていた後輩に復讐すべく、殺すつもりで金属バットで殴って怪我を負わせ、「母に殺人者の自分を見せて心配をかけたくなかったから」と言う事で今度は母親を殴って殺害し、その後自転車に乗って逃亡して、16日後に1000キロ離れた秋田で逮捕されたと言う岡山金属バット母親殺害事件」なる事件があった。
少年の逃亡中の16日の事を思うと何とも胸キュンな事件で印象深くてずっと心に残っており、この映画はこの事件のようなテイストかと思っていたのやけど全然違った。

感情移入どころか理解の手がかりすらない。一体これはなんなんや?
ネット上では素晴らしい風景のロードムービーとか書いてあったけど、特に風景が綺麗だとは思わなかった。
若い頃の挫折とか敗北とか苦難をちゃんと乗り切っていないオッサンは年とってから爆発すると言う事でオケ?

で、映画は置いておいていてこの事件を調べてみた。

TOPIC No.2-96 岡山・高3バット殴打事件 @ Yellow Hiro の 独り言

岡山金属バット母親殺害事件 @ wikipedia

2008年06月28日

●映画:「狼/男たちの挽歌・最終章」/性欲レス理想像様式美

amazon ASIN:B00013F5G0 ジョン・ウー「狼/男たちの挽歌・最終章 」(1989/香港)を観た。邦題に「男たちの挽歌」が入っているけど、そのシリーズとは全く関係ない別物である。しかしながらこの映画をジョン・ウーの香港ノワールで一番だと言う人も多いらしい。
もうタイトルだけで恥ずかしいけど、内容もそれに劣らず恥ずかしい。ツイ・ハーク、ジョン・ウー、チョウ・ユンファとくれば内容はもう観なくてもわかるようなもんである。

一度は引退した殺し屋が最後の仕事の時に巻き添えにして目を怪我させてしまった女性の為にもう一度仕事を請け負ったものの陰謀に巻き込まれ、そこに地元の警察も絡んできてなんたらかんたらという感じのストーリー。
殺し屋だのヤクザだのマフィアだの警察だの、仁義だの友情だの愛だのともう暑苦しい上に恥ずかしい。冒頭から最後までハンドガン両手持ちで撃ちまくりで血しぶき飛びまくりである。

ティ・ロンやディーン・セキのいる「男たちの挽歌」と比べて彼らのような脇役の渋みが少ないけどその分チョウ・ユンファが目立ってる。そして全体的に「男たちの挽歌」よりも妙な濃さがある。

この映画唯一のロマンスの当人であるチョウ・ユンファが性欲など微塵も見せずにあまりにもプラトニックなので逆に余計に暑苦しすぎる。
主役級の弾の当たらなさと弾の無くならなさと、ワンマグくらい撃ちこまれながら踊るように倒れるあまりに射撃の下手なザコ敵など、もう完全な様式美である。

なんつーか無駄に強くて熱くて冷静で情に深い愛に満ちた性欲レスなチョウ・ユンファってのは、ジョン・ウーだかツイ・ハークだかにとって、またこの映画を観て熱くなるような人間のある種の男の理想像なん