2009年11月03日

●ロフトでスポイトを買いそうになり、そして睨まれて「ぷぃっ!」とされる

ロフトに行くたびに「スポイト」を買いそうになるのは一体なぜだろう?
特に使う予定も無い、もしあれば何かの役に立つかもしれない、あっても邪魔になるわけでもない、限りなく手ごろな値段の、何処にでも売っているわけではない、それがスポイト。
目的を持たない「物欲のイデア」が純粋な形で結実した結果、私の中で「スポイトを求める」として現実化するのだろう。

ロフトでとても太った女性がレジに並んでいて、見るとも無くぼんやり見ていたら、めっちゃ睨まれて「ぷぃっ!」とされた。
「何や、感じ悪い人やなぁ」と思ったらその人は買うつもりらしい体重計を両手で抱きかかえるようにしてレジに並んでいたようだ。どうやら体重計を買うのが恥ずかしかったらしい。
彼女は家に帰ってお風呂上りに今日買った単行本より少し大きいくらいの体重計に乗って深い溜息をつくのだろう。
そう思った瞬間にちょっと胸がキュンとした。

2009年10月21日

●かっちゃん…

私がこのブログを始める時にこれだけは決してするまいと決意していた事があった。
それは「社会情勢を斬ったり時事ニュースに意見を述べる」という事なのだが、昨日は余りにも戸塚校長の意見に笑ってしまったので、つい出来心で時事ニュースすれすれに肉薄したことを書いてしまいかなり反省している。
しかし、今日もニュースを見て昨日以上に笑ってしまったので、もうその禁を破り時事ニュースそのものを扱ってしまう。
とりあえず、一応、ギリギリ踏みとどまってニュース内容そのものの転載は控える。
ニュース内容はこちらを見ていただこう。WEBニュースはすぐ流れて消えるので一応魚拓である。
どうだろう?一番ツボにはまるのは「おはよう かっちゃんです」のくだりであろうか?
刑事犯罪の容疑者を褒めるのもなんであるが、私はこのバカさ加減に感動すら覚えた。変態を自認する私ではあるが、この「かっちゃん」の変態度合いは私の想像できる範囲のはるか上空を舞っている。正に孤高としか言いようが無い。
なんというか、人間の欲望の広さと精神性の深さを痛感せざるを得ない、人間の可能性の無限の深遠が眼前に開いたのを見たかのようなニュースであった。彼は間違いなく他人が誰一人として理解できない超人への道を着実に歩んでおり、常人の理解できない最初の一歩だか最期の一歩だか踏み出してしまったのであろう。
最初「かっちゃん」という名を聞いて私の敬愛する勝山実氏かとギョッとしたのだがどうやら違ったようで一安心であった。

しかし、個人的経験からすると、「かっちゃん」という人間にはいろんな意味で偉人や異人が多いような気がする。とつくづく思ったのであった…

2009年10月20日

●ハートマンの罵倒の方がまだ愛が入っている!

荻上チキのTwitter
「数ある「いじめ必要論」の中でも、群を抜いてるな…。 http://bit.ly/44uCvw
と紹介されていたので、なんだろうと?開いてみて笑った。

まぁなんか言わんとすることは頑張ればなんとなく理解できるけど、根本的に何かが間違っているとしか思えないので、どう読んでもネタというか釣りで書いているようにしか見えないが、言ってる人が人なのでガチ正論のつもりで書いているのだろう。
私はええ年のオッサンであるからこれを読んでもバカだなぁとケラケラ笑えるけど、実際こんなことを胸を張って公衆の面前で言い切ってしまうオッサンが校長のヨットスクールに入校させられる子供たちは笑うどころかもう怖いしかないんやろうなぁ。
極限状態ってのはやむなく入ってしまうものであって、意図して作る必要なんか無いとつくづく思うのであった。

2009年10月14日

●安心感と魅力は別の話

hotcold2.jpg先日入れるところ間違えてるんではないか?と思った「冷たいほっとレモン」であるが、いつの間にか「あたたか~い」欄に入っていた。確かにこちらのほうがしっくり来る。
店員さんが「やっべ!間違えてた!」と入れ替えている様を想像すると「くすっ」とした。

しかし「つめた~いほっとレモン」があれほど飲みたかったのに対して、「あたたか~いほっとレモン」は全く飲みたいとは思わなかった。
なんであっても本来収まっているべきところに収まっているのは見ていて安心感があるが、それが魅力的かどうかとはまったく関係ない。
あれだけ面白かった底辺系や鬱系サイトの中の人がまともに就職したり普通の人になると途端に面白くなくなることが多いように、「ほっとレモン」が「あたたか~い」中に入っているのは何の違和感もないと同時に何の魅力もないなぁと感じるのであった。

2009年10月05日

●キノコの夢

三メートルくらい幅のある川の水面から二メートルほどの高さの、すぐ横が山肌になっている堤防を歩いていたら、崖から張り出している立ち枯れた木に大量のマイタケ状のキノコがびっしり張り付いていた。
私は基本的に食い意地が張っていて、とりあえず何でも食べてみるのだが、キノコだけは知識不足のために手を出せない。
でも「これ食べられるのかな?」と思って周りを見渡すと、一転してあたり一面見渡す限りのキノコ。
草間彌生ちっくにキノコがありとあらゆる空間にびっしり生えている風景になっていた。

という夢を見たのを、中井久夫の本を読んでいて「キノコ中毒学はすべて死体の上に築かれてきたといわれます。」という言葉を読んで思い出した。
しかし最近なぜかよく夢を見る。

2009年09月30日

●妄想ネスト

最近は思いつくひきこもり関連書籍をおおむね読み終わり、統合失調症の本を読みながら寝る事が多いせいか変な夢を見ることが多い。
夢の中で妄想を抱いているというのもおかしな話であるが、夢の中で見る電波系の妄想は現実としか思えないことが多くてとても気持ち悪い。
しかもその夢の中ではそれを妄想だと思う自分と現実だと思う自分が分離していてさらにややこしい。

統合失調症という病気は自分と自分の外の境目があいまいになる病気ということであるけど、夢の中にいること自体が現実と妄想が入り混じった状態であるから、その中でさらに妄想するということは妄想の中の妄想という状態である。
しかし、妄想と現実の関係は裏と表ではないから、嘘の嘘が本当であるように、妄想の妄想が現実であるという事は無いわけで、妄想の中の妄想は更に深い妄想でしかない。
妄想を根源とした妄想は余りにも理解の範囲を超えているけど、しかし、どう考えても妄想でしかいないような事が現実に起こりうるということもあるから更にややこしい。

我々は日常的に何の疑いも無く現実と妄想を区別しているけど、よく考えれば妄想と現実を区別する根拠を現実に置くというのは単なる相対的な比較の問題に過ぎず、かなり不安定な状態を前提にしているような気がする。
そう考えると、精神の均衡なんか本当に絶妙なバランスの上で成り立つ事で、ちょっとした事で狂ってしまう方が当たり前のような気もしてくる。

はっきり言って、世の中理不尽な事が多すぎる。色々な事に対して怒りがこみ上げる。自分に出来ない事が多すぎる。
表面的には平静を保っていても、内部ではざわざわと色々なものがうごめいている。
9月もこの日で終わり。そして驚くべき事に、一ヵ月後には10月の終わりが来るのだ。

2009年09月27日

●ホットでつめた~い罠

hotcold.jpgなんてことはない自動販売機に見えるものの、よーくみると「ほっとレモン」が「つめた~い」欄に並んでる。
一見して形容矛盾にも見える「つめた~いほっとレモン」であるが、これを買うと「よく冷えたほっとレモン」が出てくるのか、ほっととつめた~いが相殺されて「ぬるいほっとレモン」が出てくるのか、あくまでもほっとはHOTということで「温かいほっとレモン」が出てくるのかとても気になるところ。
自動販売機の前で考えること数秒、それを確かめるために危うく買ってみようかという考えが頭の中に浮かび、あわてて取り消した。
も、もしかしてこれは知的好奇心に訴えかけて購入を誘う新手の罠なのではないか??
いや~危ない危ない。世の中油断も隙もないという話。

2009年09月26日

●サイケデリック絵馬 / 強欲絵馬

ema20090928A.jpgema20090928B.jpg夜中にガラガラの伏見稲荷に行くのが好きである。
暗闇の中で常夜燈の薄明かりに延々浮かび上がる鳥居の列はこの世のではないどこかに繋がっているような気がする。
子供のころはクワガタ取りで来るのはとても怖かったけど、さすがにこの年になるとこのきりっとした空気が心地よい。

神社めぐりの醍醐味といえば、絵馬に書いてある願い事を読みながら人間の強欲さを笑ったり、願い事の無茶苦茶さに突っ込みを入れることであるが、ちょっと笑った絵馬を二枚紹介してみる。

この伏見稲荷の絵馬は表がきつねの顔になっていて裏に願い事を書くようになっており、赤い耳と斜めの黒線しかない表のきつねの顔をマジックで書き加えて各々がデフォルメしてあることが多い。
その中でこのサイケデリックな顔はなかなか怖かった。夜中の神社で見るとなかなかに来るものがある。
ちなみにその二つ左下の顔もなかなか凛々しい。

そしてその願い事であるが、「うんどうかいでいちばんになれますように」といった「ほのぼの系」、「○○の暴力が止まりますように」といった「切実系」、「商売繁盛、家内安全」といった「無難系」、「○○がX月X日からAAではじめるBBの売り上げが月250万を2年保てますように」といった「細かい系」、「お父さんが帰ってきませんように」「妹にとりついた○○が除霊されますように」などといった「ノーコメント系」、「集団ストーカーが止まりますように」「テレビで私の悪口を言う人が罰せられますように」といった「電波系」などといろいろあるが、大抵の「強欲系」の願い事、たとえば「世界征服がしたい」とか「宝くじに当たる」といったものはネタ的要素が多い割りに笑えもしないのである。
しかし、この「患者さんがたくさん来て繁盛しますように」と書かれた東京にあるらしい○○整体院の奉納した絵馬は「おいおい、これはいかんやろう(w」とストレートすぎて笑った。この○○整体院はある意味では「死の商人」に近いものがあるなぁ。
一応モザイクをかけたが、検索してみると実在するようだ。
ウケを狙っているのか、それとも反感を抱かれるととは思わずに本当に書いているのか?それとも東京やし大丈夫だろうと思っているのか?それともこの整体院を貶めるためにライバルの整体院が書いたのだろうか?

こんな医療従事者の風上にも置けんようなこんな願い事を聞いた「神的存在」は願いを却下するどころか逆にバチでもあててしまいそうであるが、しかし考えてみれば、真っ向からモラルに反する思いっきり我欲な願い事でも、とりあえずは聞いてもらえるってのは「神的存在」としては懐が深いのだろうか?

ちょっと不謹慎ではあるけど、意外に絵馬ってはブログのネタとして面白いような気がする。

2009年09月23日

●躁な人ごみ

そこら中で渋滞がえらいことになっているらしいので、車で出かけるのは止めて自転車で京都駅伊勢丹のラウル・デュフィ展に行った。
駅周辺も異様に人が多い。躁な人ごみを潜り抜けたあとの美術館「えき」の人の少なさと静かな雰囲気がやたらと心地よかった。

この人は顔料を透明にする薬品を共同開発するくらいで、「透明感」てのにやたらとこだわりがあったのだろう。晩年は油絵もパステルな水彩画のように明るく描く人だった。
彼のなかなか大変だった一生についてのパネルを読み、彼の若い頃から年取る時までの絵の推移を見ていると、このように世界を見たり捉えたりするのは生まれついてのものではなく、何かしらの習慣づけと努力の賜物なのだろうなと思った。

2009年09月12日

●銛の的としての魚、三味線の皮としてのネコ、そして私

「いらん子」として家に貰われて来たそこらじゅう故障だらけでだったサーブ君だが、数々の改造手術を施したお陰で「やれば出来る子」程度には生まれ変わった。とうことで休みになるとこのサーブ君に乗る機会が多い。出来の悪い子ほど可愛いというものだ。
先日、自動車用の工具を探しているうちに、はるか昔に買ったものの塗るのすら面倒臭くて放置していた「ガラコ」が発掘されたので、物は試しと戯れに窓に塗ってみた。
それから今日がはじめての雨だったのだが、80kmあたりを超えると宇宙空間を星が流れるかのごとくにフロントガラスに水滴が流れて、まるでワープ航行しているようだ!スクリーンセイバーのようだ!ペガサス流星拳!!

雨の道端に車にはねられたネコが横たわっていた。いつもなら「南無南無、キリエ・エレイソン」と通り過ぎるのだが、今日は某レディーが猫皮の三味線を欲しがっている事を思い出した。
道を通る人々に憐れみを受けながら雨に打たれて悲しげに横たわる茶トラのネコも、車に轢かれて一生を終えるのでなく、三味線として生まれ変われば嬉しいのではないだろうか?ネコ冥利に尽きるのではないだろうか?
このネコを回収して持って帰り、三味線レディーの家の玄関前に横たえて、「ネコ皮お持ちしました。この子の三味線としての第二の人生が幸せでありますように!」と書いてポストに投函しておこうかと思ったけど、コレじゃ単なる嫌がらせになるやんということで思いとどまった。

しかし、魚好きの私が水族館に行くと魚を見る目や価値基準が「これは夏が旬の美味しい魚」とか「これはキロ単価いくらくらい」とか「これは寄せに反応する魚」、「ここに銛突き刺すとベストのキルショット」などとちょっと周りの人と違うのだが、その猫皮の三味線を欲しがっている三味線レディーも、道を歩く猫を見た時には「あら、良い音のしそうなネコだこと」、ネコを撫でながら「ま~張りのある皮だこと。」等と頭の中で涎を垂らしながら思っているのだろうなと想像すると「ネコちゃん逃げて~!!」というよりも、世界と人間の多様性に眩暈すら覚えそうになる。
銛で突かれる対象でもなく、三味線の皮になる対象でもない私は、いったい何になるべきなのだろうと思う土曜の夜の丑三つ時であった。

2009年09月09日

●旬は過ぎたけど。

noripie.jpgちょっとだけクスッとした。
なぜか妙に男らしいフォント。
とりあえず食べる前には「いただきマンモス」と言っておいた。

2009年09月06日

●ひきこもり戦士による、ひきこもり戦争のための、ひきこもり塹壕戦

最近「ひきこもりについての本」「ひきこもりだった人が書いた本」「執筆当初も執筆後もひきこもりの人の書いた本」、そして名も無きひきこもりたちの書くブログばかり読んでいる。
なんというか、最大限にカッコよく言えば、彼らは新しい価値を模索しながら、消えつつもあり生まれつつもある価値を死守するために、既存の価値に戦いを挑み、これを破壊せんとしているように見える。
もっとも、一番破壊されているのは本人であると言うオチになるが、耐え切れずに塹壕から飛び出してバンザイ突撃し、銃座からの掃射になぎ倒されるがごとき姿がなんとも涙を誘う。

そう、ひきこもりは塹壕戦である。そして、ひきこもり当事者は既存の価値に終わりなき塹壕戦でもって既存の価値に戦いを挑む戦士である。

過去に既存の価値に戦いを挑んで散っていったものは多い。あれだけ難攻不落に見えた鉄壁の赤い要塞に居を構えていた、既存の価値に宣戦布告した○クス主義が、内部腐敗と資本主義イージス艦からの巡航ミサイル一撃で跡形も無く吹っ飛んだように、今時の戦争では要塞やトーチカなどはただの的である。たった一機の攻撃機からのたった一発の誘導ミサイルのたった一撃で殲滅される運命にある巨大な的でしかない。
これではいけない。既存の価値は戦うには余りにも巨大な敵である。
強固で透明性の無い枠組みの中にひきこもっていては戦いに勝てない。同じひきこもるにしても要塞やトーチカで無く塹壕である事に意味がある。
ゲリラ戦でも電子戦でも謀略戦でもない、そう、塹壕戦である。
17世紀後半の攻城戦に端を発する、第一次世界大戦からの古典的で伝統的な消耗戦、現代戦でも十分通用する塹壕戦であることに意味がある。
戦術核兵器でも容易に攻略できない塹壕での戦いは今でも通用する立派な「勝てる戦術」である。

この防衛線をなんとしても死守しようと、全世界のひきこもり戦士は日夜本当の敵が見えないまま、終わりなき塹壕戦に終わりが来る日を夢見て、砲撃と突撃ラッパの音、鼠と戦車の来襲、塹壕足とシェルショックにおびえる日々を過ごし、「兵士の仕事の8割が塹壕掘りである」といわれるように、毎日戦争そっちのけで塹壕を掘り進んでその勢力を伸ばしつつある。

とはいえ、塹壕戦がいくら防衛戦に強いとしても、根本的に塹壕に引きこもっているだけでは殲滅戦も掃討戦も吹っかける事が出来ず、防衛戦しか出来ないのは根本的な問題であろう。さらに、塹壕での長期間に及ぶ戦闘とその熾烈さによる心的外傷後ストレス障害や塹壕で日々を暮らす事自体の精神的肉体的健康面での非人間的な側面は有名な話でもある。
その上、ごくごく最近の戦争ではサーモバリック爆薬の発達により塹壕自体の存在意義が脅かされるというし、湾岸戦争ではブルドーザー戦車によって塹壕自体が埋め立てられる作戦が行われたという。
ひきこもり戦争にこの戦法が導入されれば、爆風で押しつぶされ、酸欠と一酸化炭素中毒で倒れ、熱で焼かれた死体が塹壕に累々と列を成し、そして塹壕ごと埋められることになるだろう。
なんとも恐ろしい話である。いや、もう、他人事ではございませんよ。

2009年09月03日

●親密であるとは

電話ではあるが、久しぶりに某氏と話した。時間的に、距離的にどんなに離れていようとも、一旦話し出すとすっと隣り同士に立っている感じがする。深いバカ話というのは良いものだ。

数年に一度会うか会わないかの中学時代からの友人がいる。
昔は家が近いせいでしょっちゅう一緒に釣りしたりグダグダしていたが、当時はお互い家が近い上にお互いヒマやからこの仲の良さなんだと言い合っていた。
しかしながら今、どれだけ遠くに住んでいても、どれだけ時間的に離れていても、どれだけ立場が変わろうとも、彼との繋がりに何らかの支障がある事は無いと私は確信している。多分彼もそうだろう。

常に連絡を取り合い、いつも一緒に遊んでいることだけが仲が良いのではない。結局は親密さというのは無条件的で潜在的で主観的で率直なものであるとつくづく思う。
今流行の「友愛」の情はコミュニケーションの頻度と量で示されるのではなく、単位あたりの主観的深度で感じられるのだろう。
それは時間、空間、状況、立場の制約を受けない個人と個人の親密さなのだろうなと思った。

2009年09月02日

●審議日和

「桜花」と大日本帝国海軍の作った世界唯一の人間爆弾とも言うべき、特攻航空兵器の名を関する店で、久しぶりにいつものヒトコト審議委員会京都本部のメンバーでもつ鍋を食べながら追加ヒトコトを採択した。

殆どネタ的に石川支局と東京支局に審議への参加要請を打電してみるも当然ながら不参加で残念(あたりまえか…)
とりあえず委員長である私の独断で「ファイティング、ニモ」と「○っさんまっさん」のヒトコト追加は保留しておく、今思いついたのだが、「まいっちんぐニモ」ってのはどうだろう?

帰り道、五名ほどのメンバーから構成される、顔が触れ合うくらいの距離で輪になっているネコ会議を目撃した。
私が見ると「あ、見られた!」とばかりにそそくさと解散して散り散りになったのだが、逃げる途中で各々振り返る彼らのなんとプリティーな事か。
しかし、どう見ても彼ら彼女たちは言語コミュニケーションをとっているようにしか見えなかった。
彼らもヒトコトを採択していたのだろうか。

2009年09月01日

●「それは仕様です」は救いとなるか?

選挙ポスター、選挙カー、街頭演説、握手、スーツに襷と鉢巻、そしてバンザーイ、選挙に関わるあらゆるものは美的感覚から言って、オサレさんな文化圏の人たちやある種の美意識を持った人たちからすれば拒否感と嫌悪感を感じずにはいられない醜いものに見えるに違いない。
そういった人達にとって、こういったものに関わる事すら嫌なのではないだろうかと思う。
どうしてここだけはいつまでたっても同じなのだろう。同じような語彙が同じような文法で繰り返されるのは何故だろうと思う。

選挙にかかわるあらゆるものがそういうあり方をしていることがある種の美意識の人の嫌悪を誘うように、あるべきものがただそうあるというだけで特定の人々を拒否するようになっている構造というのは、基本的な世界の構造であるに違いない。
しかし、それは要求仕様として意図された構造ではなく、世界構造の運用上の必然的動作としての仕様である。と思う。
世界や社会がある種の人を積極的に拒否しているのではなく、最大多数の何物かを目指すならばそうならざるを得ない構造になっていると。
そしてそこにひとつの救い、あるいは妥協点があるように思う。

強くなりたい、受け入れたい、理解したい、と自分に対してそう願うことは偉大であると思う。
しかし、それは何かしらの手段となるべきものの一つであって、唯一の目的にするべきものではないと思う。
言い換えれば、自分がそうなってから初めて何かが始まるのではなく、何かを始めながら必要に応じてそれを身につけ実についてゆくものであろう。
そして、貴方がそういった切実な思いでニーチェを、道元を、そして脳科学の本を読み漁る事が、跳躍への試みではなく、結果として着実な一歩ずつの歩みとなるようにと願う。

2009年08月31日

●八月最期の日に欲望について思う

昨日遅くまで起きていて異様に眠たいのだが、なぜか寝られない。
結局寝られずにブログを書いている。

昨日琵琶湖からの帰りの車の中でずっと選挙速報をラジオで聞いていた。
そういえば昔、選挙は一つのちょっとしたイベントだった。友人と一緒にテレビで開票速報を見ながらなんやかんやと言いながら楽しんだものだ。
当時、我々は何も持っていなかった。しかし、一方であらゆる可能性があるような気もしていた。
日々をよくわからない自我とよくわからない欲望をどう扱っていいかわからずもてあまし気味に生きていた。ベクトルのように方向を持たず、ただ量だけのスカラーのような存在であった。しかし、欲求の可能性を知らぬ我々は何かしら満たされないながらも、唯毎日を生きてそれだけで楽しかった。
最近、日々の暮らしであるとか人間関係であるとか仕事であるとかそういったものの何かしらはすべからく何処かを目指すべきであり、方向性を持たないスカラー量しかない状態は良くない事だと感じるようになってきていたのが、それが偏見でしかないという事を自分に言い聞かせている。

心の中に様々なものが渦巻く。そして、結局それらすべてが根ざしている先はどこに行き着く事の無い欲望でしかありえないと考えると可笑しくなってくる。
ような気がした。

2009年08月30日

●久しぶりのバス / ドイツのソーセージは世界一ィィィ?

本日も琵琶湖へカフェ土偶へと繰り出して、ついでに久しぶりにルアーを投げてみた。
夕暮れの琵琶湖への流れ込みの見渡す限りの藻場である。普通なら無難にワームで攻めるところだが、私はワームでの釣りが今一つ好きではないので、私は昔からこういう状態では水面を覆う藻の切れ目にポッパーやらペンシルを投げる事にしている。
私のお気に入りのルアーの一つがTIFAのMICHAELであるが、私が持っているこいつはありとあらゆる魚に噛まれたりコンクリートに叩き付けられたりで、目がもげて体中ボロボロである。マイケルだけに何度整形してやろうかと思ったけど、名誉の負傷ということでこのままにしてある。
kobass01.jpgということで、久しぶりのトップウォーターでつれたのがこの小バス。
小さいバスに限って水面のルアーへのアタックは派手な気がするのだが、このバスは小さすぎるせいかとても小さな「ちゃぽん」級のあたりであった。
一呼吸おいて合わせる為に糸を送っている間、「もしかしてデカイ?」とドキドキだったのだが、釣れたのがこれでびっくりした。今までこのルアーでバスからナマズから雷魚やニゴイまでもう何十匹釣ったかわからないけど、今日釣れたこの小バスが恐らくこのルアーで釣れた最小のものであろう。
ルアーの大きさと比べていただければ、どれだけ食い意地張ってるねんというところがご理解いただけよう。

Wurst01.jpg明治屋でドイツのソーセージを買ってきてブタンガスのストーブで炙って食べたけど、なかなかの良い値段の割りに値段相応の味ではなかったような気がしてちと残念であった。ドイツのソーセージは世界一だと聞いていたのだが…
ソーセージの上に写っているのはソーセージにされたブタさんの霊ではなく、飛び跳ねる瞬間のバスである。

2009年08月29日

●本を読む事 / ユリシーズを読み始めた。

この夏は遊び呆けていてまったく本を読んでいなかったのだが、最近再び本読み期間に突入。読みに読みまくっている。
最近思うのだが、本を読むってのは自分の中にある何ものかが言語化されているのを発見し、確認する作業なのではないだろうか?
本でいろいろなものに触れるということは、本の中から何かしらを吸収的に得るというよりも、自己を再認識する作業なのではないかと。
ある種の本が、何度読んでも読むたびに新しい発見と学びがあるというのは、つまるところ読むたびに更新された自己が反映されているということなのではないか。私が定期的に『カラ兄』を読んでいる意義はまさにその部分にあるように思う。

amazon ASIN:4309202829 amazon ASIN:4309202888 で、最近はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を読み始めた。これこそ原文で読まないと意味のなさそうな本やけど、気にせず翻訳で。
同じくジョイスの『フィネガンズ・ウェイク 』を訳して日本翻訳文化賞を受賞した柳瀬尚紀訳のもの をとりあえず6章まで読んだのだが、18章あるうちの12章以外の7から18章がまだ刊行されていない事に気付いた。7章からはどうしたものか、とりあえず別の訳のものを読むかな…

とはいっても、日本語で読むならもうどれでも同じような気がする。
amazon ASIN:4087610047 とりあえず、出版されているものとしては、「集英社文庫ヘリテージシリーズ」のこいつ しかないのかな。

2009年08月26日

●文章を書くのが楽しい落とし穴 / 立場よりも視点

長らくブログをサボってほとんど放置していたけど、最近再び書くようになった。
放置期間は書きたいことは書くべきことではないという思いにとらわれ過ぎて全く書けなかったが、一旦書き出すといくらでも書ける。ちょっとした思考を糸口に勝手に文章があふれてくる。つくづく私は文章を書くのが好きなのだなと思う。
文章を書いている間、文章で表される私の思考と私の言葉には、明確な意味と整然とした論理があるように思える。
もっとも、村上春樹はそれが大きな落とし穴であると書いているのだが。

話は変わる。
現実的な経済的な理由は勿論の事、精神的にもただ一日を乗り切るだけで重労働であるような人々には、一日を精一杯生きている野生動物にのみあるような美しさというものがある。たとえばそのような見方からの意見は、とても上から目線であるように思う。
たとえそうである当人がそういったとしても、それが上から見下ろした言動であることには違いなく、他の当事者の心に響くことはないだろう。
発言する人の立場であるよりも、発言する人の見方であるとか視点のほうが大事な場合が多いのかもしれない。と思った。

2009年08月24日

●FMトランスミッター / サバイバル

最近新しい車を買った機会に、車に大量に積んでいたCDで音楽を聴くの止めてFMトランスミッターから古いipodを使って聴くようになった。
FMトランスミッターは音が悪いという先入観があったけど、それなりの製品を使えば文句なしのレベルの音になる。ちなみに私が車で使っているのはどこぞで格安で買ったコレ 黒いヤツ である。

車で使っているFMトランスミッターの音質が想像以上に素晴らしいということで、家でもFMトランスミッターを使うつもりで、過去にAppleストアで売っていたくらいだからApple公認の性能があるんだろうとitrip2 を買った。こちらは車で使っているBI-MIFMよりは雑音が入りやすいけどまぁ問題ないレベル、しかし家のオーディオセットのラジオからはいつからかガリ音が出るようになっていた事を忘れていた。
ということで、一昨日の土曜日にカフェ土偶のために琵琶湖に繰り出したついでに数百円で買い叩いてきたラックマウント仕様のやたらと立派なジャンクのラジオのチューナーが、アンテナ部分の端子の断線を直したくらいの小修理で動作したので、このitrip2でipodから音楽を飛ばして聴きまくっている。

大層なオーディオシステムでipodを、しかもFMトランスミッターで鳴らすのは激しく違和感があるが、CDを入れ替えることなく膨大な量のアルバムが入ったipodのみで操作できるのはとても便利である。
最近みっちりと集中して音楽を聴くってことが余り無くなったので、「ながら」で聞く分にはipodをソースとするのはとてもいい感じである。
ということで昨日の日曜日は久しぶりに一日中音楽をかけっぱなしにして過ごした。
アルバムごとのシャッフルにしてほおって置くと、時々自分ではあえてかけないやろなぁという曲がかかって面白い。
あまりにも古い、何かしらの記憶や思念や感触と濃厚に接続されている、もう聴かなくなっていた曲が不意に流れてんなんともいえない気分になる。

そういえば齢30にしてアイデンティティークライシスに見舞われた某氏は何らかの理解か境地に達したらしく最近落ち着いたように見える。しかしそれでも何かしらの問題が解決したわけではなく、ヤツがまだ出口の見えない闇の中にいるのはよくわかる。
ヤツの口から「結婚がしたい」という言葉を聴いて激しく驚いた。結婚という制度のメルヘンな部分をまったく無いものとして扱い、現実的な部分だけを見てサバイバルな文脈でそういう言葉を発している某氏はいったいどんな戦場を潜り抜けてきたのだろうかと思った月曜日であった。

2009年08月22日

●炎に飛び込む

傭兵仲間であった某レディーが結婚式を挙げているであろうまさにその時間、私は伸びきって箸でつまんだだけでブチブチ切れるようなうどんを食べていた。しかも釜揚げで。更には賞味期限を一日ばかりオーバーしている。
余りにも美味しくないので、天かすと白髪葱を大量に振りかけてごまかして食べていた。何故に私はこんな自分を痛めつけるような事をしているのだ?もう殆ど苦行ではないか。
片や結婚式、片やうどんに失礼なくらいに不味い釜揚げうどんを食べている私、この二つの間はおおよそ遠い距離で隔てられているように思う。「人生の不思議さ」で片付けてしまいたくないくらいの不条理さがそこにはあるような気がする。
とにかく、遠き地の新しき戦場へと向かう傭兵仲間に武運を、そして幸多かれと切に願う。

cafedogu01.jpg昼から久々のカフェ土偶に琵琶湖へ繰り出す。コールマンのガソリンストーブを買ってからというもの、昔から持っていたEPIgasのストーブとランタンは、高いガスカートリッジを使い捨てる無駄さ加減が気に食わず全く使っていなかったのだが、最近カセットコンロのボンベの液化ブタンを再充填する荒業を会得したので、手軽さと煤の出なさからこちらを愛用している。
今日のカフェ土偶は飲み物だけでなく、お湯を沸かしてスープ春雨を食べ、直火でソーセージを炙り、デザートにモンブランプリンとコーヒーと盛りだくさんであった。

夜は寒いとは言えまだまだ夏、ランタンとストーブに引き寄せられた羽虫が、あるものは羽を焦がして地上に墜落し、あるものは炎に巻かれて燃え尽きてゆくさまを眺めながらコーヒーを飲む。
我々は炎に突進して身を焦がして死んでゆく虫を果たして愚かだと言えるのだろうか?逆に、炎だと判っていてもなお飛び込む事こそ人生なのではないか?
などと思う、八連式の筒状の打ち上げ花火を肩に乗せてぼんぼん火の玉を琵琶湖に撃ち込みながら「お、俺だって、俺だって!」とガンキャノンごっこをする、今月半ばに誕生日を迎えたばかりのオッサンであった。

2009年08月21日

●大局と個別の間には笑えるポイントがある

前のエントリーで想像力が強すぎると、無駄に多くの他人の苦しみと同調して精神的な負荷が高いはずだ。という趣旨のことを書いた。
しかしそれは逆に言うと、当事者にとってはとても大事であるものの、他人からすれば余りに些細なことに過ぎないと感じられる事がとても多いからこそ、精神の安定を保っていられるのだとも言える。
たとえば赤の他人の恋愛や結婚や痴話喧嘩などは当人や関係者たちにとっては一大事であるけど、はたから見ると激しくどうでもいいように見える。
個人を識別できず個性として捉えられない他人の余りにも個人的な事柄は私にとって余りに関わりのないものに見えるのだ。

昨日「嗜癖」についてインターネットでいろいろと調べてリンクを飛び回っているうちに、気づくとセックスレス夫婦の悩み相談BBSのようなところを見ていた。

色々な人の色々なパターンの色々なセックスレスについての大量の悩みはどれも鬼気迫るものがある。そして色々な人が時に真剣に、時には明らかに興味本位と戯れとネタでその悩みに答えている。
当事者にとってこの世の終わりのような深刻さがそこから感じられるだけに、はたから見ていると、そこはかとない可笑しさもまた感じる。
元々表立った事ではないがゆえの表面的なわかり難さ、また当人たちの深刻さと赤の他人の感じる深刻さのギャップがこれほど激しい悩みも余り無いのではないだろうかと思った。

世の中にはありとあらゆる種類の悩みと嘆きと苦しみに満ち溢れている。
それらを遥か彼方から眺めてみれば余りにも些細で取るに足らないものに見えることがある種の救いである。とすることは余りにも一般的であるけど、そんな事が常人に出来るとはとても思えない。余りにも一般的過ぎてもう殆ど暴言である。
しかし、そこまで離れずに見てみれば、あらゆる人間一般の悩みと嘆きと苦しみが、笑えるものにしか見えないポイントというのもまたあるのでは無かろうか?と思った。

2009年08月20日

●想像力は貧困に保つべきか。

毎日の自転車での出勤コースの途中には警察署があって、タイミング的にその前で信号待ちになることがよくある。
信号に引っかかった日は自転車にまたがりながら、警察署に必ずといっていいほどある「昨日の交通事故」の掲示を必ず眺めずにはいられない。
そこには昨日起こった事故の数と負傷者数、そして死亡者の数が京都府下全体とその警察署の管轄区域ごとに三列二行の表で掲示されており、毎日その表を眺めていると、京都府下では毎日数十件の事故が起こり、少なからず負傷者がいることにちょっと驚く。そして時々ゼロではない数値になっている死亡者数の項目を見てちょっとだけドキッとするのである。

自殺者の数は事故による死者よりはるかに多いということは知識として知っていたものの、具体的な数字を知らなかったので調べてみると、年間の交通事故での死者(交通事故が発生してから24時間以内に死亡した人)、つまり警察署の掲示に発表される数は5744人(2007年)である。そして自殺者の数は33093人(2007年)となっており、おおよそ交通事故の死者として表される数の5.7倍の人間が自殺していることになる。
そう考えながら毎日の「昨日の交通事故」の掲示を見るとなんともいえない気分になる。
計算上ではおおよそ一日に90人の人が自殺していることになるが、統計上ではわかっていたつもりのものを毎日掲示として見ているとやたらとリアルに感じられるのである。

私は原付に乗っている時にしか事故を起こしたり巻き込まれたりしたことがないけど、事故の当事者になった時のブルーな気持ちや面倒臭さなどの精神的な負担はよくわかる。毎日数十件の事故が起こっているということは、毎日少なくとも数十人がそんな気分を味わっているということになる。そして時々は事故で人が死んでいるのである。
そしてその数の5.7倍の人間が自殺で自ら命を絶っているのである。自殺したいと思いつめるほどの苦しみは勿論の事、友人や恋人や肉親を自殺で失った友人も何人か知っているが、彼らの精神的な苦しみは私の想像しうる遥か彼方にあるように思える。

こんなことは今更言うまでも事なのかもしれないけど、私のあずかり知らないところでそんな精神的な苦しみを抱えて苦しんでいる人が毎日毎日生まれているということになる。
そう考えればなんか気が遠くなってくるけれど、毎日毎日発生しているであろう見ず知らずのそんな人たちの苦しみを想像して感情移入したり同情したりするのはとても精神的な負荷が高いだろう。
想像力やら妄想力が強すぎるとあることないことを気に病んで、可笑しい位に悩まなくてもいいことで悩んだりしているのは見ているだけで疲れる。
そう考えると、想像力を貧困に保つというのは精神衛生上の処世術となりえるのだと思ったりもした。

2009年08月19日

●「氷は水で出来ているけど、水は氷ではない」事について

ずっと更新をサボっていた。
いわゆる「リア充」になってブログ卒業。などというわけではなく、本当に書きたかったことが、公の場に書く意味の無い、しかも余りにも個人的過ぎるような事で、何かを表現しようとするとその事がアウトプットの回路につっかえて、それを外に出さないようにしているとそれとは関係の無いブログの文章も全く出て来なかった。という状態だったのだと思う。
コップを傾けて中の飲み物だけを中に浮いている氷はそのままで別の容器に移し替えるのと同様の難しさがそこにある。
氷を間違って別の容器に移してしまう事を絶対に避けたいがゆえに、飲み物を移すこと自体に躊躇を感じたのだ。

氷が溶けて周りに飲み物と混ざってしまえば、氷を別の容器に移してしまう事は無くなる。しかし当然氷は溶けて混ざってしまっただけで無くなってしまった訳で無い。
氷であったものはは氷としては存在していないけど、氷であったとは見えない形で回りに存在する事になる。
氷は水で出来ているけど、水は氷ではない。この二つには想像するよりはるかに深い深遠が口を開いているように思える。
そして、この事は希望の芽なのか絶望の始まりなのだろうか。と思った。

2009年07月29日

●ネコの惑星ニャー

「猿の惑星」なる映画があるが、「ネコの惑星」なるものは想像しただけで和む。
京都に住む人にとって「猿の惑星」といえば、京都のテレビ局の恒例行事ともいえるお正月の猿の惑星シリーズ全作一挙放映である。一つのテレビ局が丸々一日サルしか映っていないサルまみれの正月をプロデュースするという、なかなかに強烈なイメージを植えつけられたせいで、京都の人にとってこの映画はちょっとしたトラウマ映画である。
内容もどちらかというと毛だらけで殺伐とした陰鬱な映画であり、ほとんど唯一の恋愛要素も「ジーラ!」「コーネリアス!」と特殊メイクか着ぐるみかよくわからない毛むくじゃらの直立歩行するサル二匹のラブラブ加減を見せつけられて視聴者を失笑させるものであった。
しかし、その「猿の惑星」のサルをネコに入れ替えたとたんにありえないくらいの和み映画になってしまうのは驚きである。
ひたすらむさくるしい「猿の惑星」以外にも惑星のつく映画のタイトルは色々あるが、「恋する惑星」はタイトルを聞いた瞬間にぞわっとする拒否反応を覚えるし、「惑星ソラリス」ではタイトルを聞いただけで眠たくなる。
やはり、「ネコの惑星」と聞いただけで和みそうなゆる~い惑星などそうそうないだろう。
「ネコの惑星」だからといって何も「猿の惑星」のサルのように、「なめ猫」のごとく二足歩行でストーリを作ってゆく必要はまったくない。ネコはただそこにいればそれだけで価値がある存在である。

以下、私の想像する、「ネコの惑星ニャー」「The Nyah , planet of cats」のストーリーである。

宇宙船のトラブルにより地球に向かっていたはずの宇宙船が不時着した惑星にはネコしかいない。見渡す限りのネコがにゃーにゃー鳴いてゴロゴロしたりじゃれたりしている。
宇宙船が墜落してきて蜘蛛の子を散らすように逃げた猫たちもやがてまた集まってきて宇宙船のなるべく高い所に登ってニャーニャー、一番高い太陽光パネルの場所を巡ってネコパンチの応酬(シャー!)、外壁でバリバリ爪とぎ(コーティングが剥がれる!!)、無理やり狭い換気ダクトに入る(窒息する!!)
惑星の住人のネコたちは基本的に主人公を無視するが、気が向いたりお腹がすくとにゃーにゃー擦り寄ってくる。
主人公は足に絡みつくネコを振り払って宇宙船を降りて歩くが、見渡すばかりネコしかいない。そこらじゅうでゴロゴロしてニャーニャー言っている。
主人公は何とか地球に戻るべく手立てを探して歩き始めるが、ネコの海を渡って主人公がたどり着いたのは半ば傾いてネコまみれになった自由の女神であった…
呆然とする主人公は初めて自分からある一匹のネコに話しかける。
主人公:「この星は何という星ですか?」
ネコ:「ニャー!」
主人公:「そうか、ここは≪ニャー≫という星なのか…私はが不時着したのは≪惑星ニャー≫、しかしそれがどこにあるのかわからない。どうすれば地球に帰れるのだ!!ニャー!!」という感じのラストシーン。ってこんな映画どうやろう?

ポイントは主人公が無駄にシリアスでバカであること、主人公とネコの交流が皆無で、主人公が絶対にネコを可愛いとみなさない事、そして映像的にはひたすらゴロゴロする猫だけを映す事である。
この映画を見た観客の9割があまりにプリティーさに悶え苦しむこと請け合いである。

2009年07月28日

●「芽キャベツ」と「仕様と言い張るバグ」と「平和維持活動の形をとった侵略行為」

23種の野菜が入っているらしい野菜ジュースの成分表を見ていて、その中に入っているキャベツと芽キャベツに「ジュースにしたら一緒やんけー」と突っ込んでいたら、某氏に「いや、幼女と熟女の美味しさは違うはず」といわれて妙に感心した。
が、後から調べると、芽キャベツはキャベツの芽ではなくまったく別の種類だと判明。つまりは芽キャベツとキャベツは「幼女」と「熟女」の違いではなく、「めだか」と「くるよ」の違いであるのであった。

芽キャベツはキャベツの芽に似ているから芽キャベツと名づけられたのだろう。しかし本来「芽」は状態を表す言葉であって形態を表す言葉として使うのは妥当ではない。
たとえば「豆キャベツ」や「子キャベツ」とでもすべきであったものを、「芽」を形態として捉え、「生えてきたばかり」という本来の意味を除外した上で「芽キャベツ」と名づけたところに誤解の生まれる余地があったのである。

我々が何かしらの物や事を見る場合、対象そのものの本質的な状態を捉えずに形だけを捉えて判断しようとすることが多々ある。
そして形態に惑わされることでしばしば本質を見ることができない場合も多い。

例えば、平和維持活動の形をとった侵略行為であるとか、仕様と言い張るバグであるとか、はたから見るとただの不倫でしかない本人たちの言う愛であるとか、ブログ内の日記の形を取った特定の他人に対する罵倒であるとか。
本質と形態が矛盾した状態にあるものは思いのほか世の中に多く、往々にしてそれらはちゃんとした着地地点を見出しにくいものでもある。
最初から相応しい形を作ってその中で本質が出来上がるのが当然ベストであろう。しかし状況的にそれができない場合もある。
どんな形でも良いから枠となる形に入り、形がどうあれその中で本質が育ってしまえば、いくらその形が崩れ去ろうとも本質はずっと残るような気もする。
それらの外面的な見掛けがなくなって、侵略行為がただの侵略行為に、バグがただのバグになれば、世界は平和にはならないかもしれないけど、それでも状況の持つある種の純粋性は増すような気がする。
村上春樹は1Q84で「混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。」と言っている。
純粋であることは平和であることと真っ向から対立することでもあると思った。

そして、私の書くこのブログという形の中にいる文章の本質はいったい何なのだろう?
更に根本的なところを言えば、数々の外面的、内面的構造の矛盾を抱えたこの私の存在の中にあると思われる本質とは一体何なのであろうか?
そんな事を思った日だった。

2009年07月27日

●17世紀オランダの半田付け

全国巡業中であるルーブル美術館展のポスターになっている、あのダリ先生がベタ褒めしたフェルメールの《レースを編む女》が「半田付け」をしているようにしか見えない。と毒舌紳士が仰っていて笑った。
確かに手つきが半田付け以外の何物でもない。きっとこの絵のオランダの彼女は、膨らんできたコンデンサを交換しているか、ショートしっぱなしになったリードスイッチを張り替えているに違いない。
もうこれから一生この絵は半田付けしているようにしか見えないだろう。

人が食べているカレーが美味しそうに見えるのと同様に、他人の行っている半田付けは妙に楽しそうに見える。
ということで私も夜中に、手元にあった機器のボリューム抵抗の値に比例して照度が変わるような位置にLEDを半田付けしなおしたのであった。

2009年07月26日

●スポーツを見て熱くなるメンタリティーは健康か?

車が壊れてからずっと行っていなかった食べ物やさんに車を買ったので久しぶりに行ったら、店長自らニコニコのノリノリで席まで案内してくれ、おまけに椅子まで引いて座らせてくれたのだが、椅子を戻しすぎて膝カックンになって転びそうになった。

毎年ツール・ド・フランスと祇園祭は一緒にやってくるのだが、今年のツール・ド・フランスはとても面白かった。いきなりドーピングでいなくなる上位選手もいないし、復活したランスやら日本人選手二人の出場や私が密かに好きであるチームTTの復活など見所もたくさん。
リーダーのコンタドールとボスのランスを巡るリーダとボスのどっちが偉いねんやら色々やら、新城と別府の一桁台順位のゴール、シュレク兄弟の二人ジエットストリームアタックと、毎日新鮮なネタでワクワクのノリノリでストーリーミングを眺めていた。
そしてこの日の最終ステージはシャンゼリゼの巡回コースでのラスト一周にまでに及ぶ別府の逃げを、膝をバンバン叩き、ラップトップのモニターを両手でゆさゆさ揺らしながら見ていた。スポーツを見て熱くなるメンタリティーを持っている自分がちょっと嬉しかった。

2009年07月25日

●現在では餃子一日1756920個(1200000X1.10^4)くらい?

某氏が京都に出てきたというので皆で王将に行った。
餃子やら何とかチャーハンやら何とか冷麺とか何やら色々を単品で頼み、皆で突きつつ3時間くらいはうだうだしていたのだろうか?とにかくどんだけおるねんというくらいに長くいた。
我々が行ったのはちょっと早い目の時間だったけど、帰りぐらいには大量の人がルーマニア市民が大統領宮殿に押し寄せて革命と民主化を要求するがごとくの騒ぎで席が空くのを待っていた。
その人の多さと殺伐とした雰囲気にちょっとした恐怖を感じる。王将にこれだけ人が並ぶとは正直びっくりである。

王将は最近やたらと売り上げが伸びているらしく、2009年の六月の売り上げは前年の25%増らしい。
昔から王将は「餃子一日100万個」とか言っていたけど、2005年の時点で餃子一日120万個らしく、この時点からの2009年の一日の餃子の個数は120万x伸び率の4乗ということで、伸び率5%として「餃子一日145万個」、伸び率10%として「餃子一日175万個」ということになる。どっちにしても恐ろしい話やである。

店を出てからコーヒー屋さんに行ったのだが、ここでも「それどんな味?」「ちょっと飲ませてな」などと皆で回し飲みして、ちょっとこじゃれた風のこの場所でも王将ノリであった。

2009年07月19日

●足付け神事でタルコフスキーごっこ / ポロロッカ御手洗川

今年も浴衣を着て御手洗祭りに行った。祇園祭の浴衣人口は多いのに御手洗祭りでは極端に少ない。何故だろう?激しく不思議だ。
毎年思うことであるが、「足付け神事」でこの水の中にピラニアの一匹やワニの一匹でも紛れ込んでいればさぞやパニックになるだろうと思うと同時に、ミニスカートの女の子がざぶざぶ歩いているのはなんとも感じないが、浴衣の女性が御手洗川に入るために裾をめくっている様のエロさは尋常ではない。これぞ日本的チラリズムの極致であろうと思う。

amazon ASIN:B00006S25R 火をつけた蝋燭を持って川を歩き此方から彼方へと歩く。タルコフスキーのノスタルジアごっこ満喫である。
しかし、みんなそこらじゅうで蝋燭消しまくりなので、世界にこれだけ救いが無いのも納得である。

帰りに出町柳からバスに乗ったのだが、途中からスコールのごとき大雨に見舞われ、この豪雨の中、屋根の無いバス停に放り出されて川に落ちたのと変わらない状態になった。
先日ゲリラ豪雨で出来た水溜りに突っ込んで車を壊してからというもの、大雨はちょっとしたトラウマである。
しかし、この大雨の中も足付け神事は行われていたのだろうか?
御手洗川が異常に増水してポロロッカのごとき激流になっているのを想像するとちょっと可笑しかった。

2009年07月17日

●アイデンティティクライシスにうってつけの歳

古くからの腐れ縁としか言いようの無い友人(ら)とひたすらしゃべり続けた。
三十歳という年齢はアイデンティティクライシスにうってつけの歳なのかもしれない。しかもそれが女性ならなおさらなのだろうか。
自分が過去にしてきた事、自分の忘れていた過去の歴史を埋めるのに必死になっている様を見ると、そこに嘘情報を紛れ込ませてからかいたくなってくる。

美しくもなく肯定しようの無い現在から過去を見れば、過ぎ去ってしまった大抵の事は美化されて許されている事に気付く。
そこから考えると、今、現時点で起こっている醜く拒否するしかない大抵の事は、未来には許せて美しく見えるに違いないという事だ。しかし、だからといってそれがどうというのだろう。
「十年後か、二十年後か、五十年後からもどってきたんだよ今。」って有名なコピペがあるけど、未来から見て現在を過去にして語ってしまうってのは後出しジャンケンでしかないように思う。

2009年07月16日

●船鉾タイタニック

私の辞書に「公共交通機関をご利用ください」と言う文字は無い。といわんばかりに何処でも自転車で移動し、通勤ラッシュのバスや電車に乗るなら雨に打たれながら自転車に乗る方がいいというくらいに私は人ごみが嫌いなのだが、なぜか祇園祭の人ごみだけは大丈夫だったりする。
というわけで、2009年の宵山もいつものメンバーでマイナー鉾山巡り。フレスコの焼きそばも売り切れていなかった。

マイナー鉾ではないが、船鉾を見ながら
「おー、タイタニックや、タイタニック」
「そんなん言うたら保存会の人に怒られるで…」
などといいながら船の舳先の鷁と呼ばれる金色の鳥を撮ってみた。
titanic.jpggionntitanic.jpg
この鳥のポーズ、やっぱりどう見てもタイタニックやん…

いやいや、そうではない。
調べてみたところ、この船鉾の舳先のこの鳥は江戸中期の宝暦年間に作られた作であり、船鉾自体は応仁の乱以前からあったらしい、タイタニックの公開が1997だと言う事を考え合わせれば、あの有名な「タイタニックのポーズ」を見て「船鉾みたいやー」と言うべきなのだろう。
つまりいわゆる「タイタニックのポーズ」として世間に認知されているものは、本来「船鉾のポーズ」と呼ぶべきなのである。
この日マイナー鉾めぐりをした五人のうち3人はタイタニックを見ていないので、もしこれから観る機会があれば「船鉾のパクリやんけー」と突っ込もう。

2009年07月15日

●共感と集団ヒステリーは本能か

引きこもりの人が書くメンヘラなブログを読んでいて、まったく前触れ無く気分がどよーんと急降下している自分に気づき「気分の伝染」という言葉を思い出した。
「気分の伝染」ってのは、以前に「刷り込み」を発見した動物行動学が専門であるコンラート・ローレンツの『ソロモンの指輪』を読んだ時に知った言葉というか概念で、カラスの群れは強烈に感情を表す一個体の気分が群れ全体に伝染する事により帰巣したり攻撃を行うことで集団としての行動が統一される。って話であった。
当時は「気分の伝染」ってのがあまり科学的な感じではなく結構衝撃的だった記憶があるのだが、確かにわれわれにも気分の伝染だとしか思えない現象はとても多い。多分それは一般的に「共感」と呼ばれるものであるかもしれないけど。
特定の集団内で特定の一人が何かに対して強烈な不満と憤怒でプリプリ文句を言い出すと、その気分が結構簡単に集団内に感染したり、運転中の欠伸が感染したりなどは、「共感」ではソフトすぎるし「集団ヒステリー」と呼ぶとハードすぎるので、「気分の伝染」と言えばしっくりと理解できるような気がする。
「共感」と書くと無条件に肯定的なニュアンス感じるけど、「集団ヒステリー」と書くとそこには否定的なトーンしかない。しかし「共感」も「集団ヒステリー」も動物にもある「気分の伝染」なる本能の働きによるものであると考えると、性欲だとか食欲だとか睡眠欲同様、結局は使い方しだいやんと言う可も無く不可も無い結論に至るのであった…

「気分の伝染力」の強さは、その気分自体の正当性であるよりも、その気分の表現される強さであるとか勢いでしか無いのではないだろうかと思うことがよくある。
どう考えても間違っている意見が、主張の強さによってのみ集団の意見のようになったりすることはとても多い。
世の中というのは正義や主義であるよりも、我や主張の強さで決定されることがかなり多いのは、その「気分の伝染」なる人間の本能の働きだなぁと思うと、やっぱり微妙な気分ではある。

魚にしろ動物にしろ人間にしろ、本能を利用されて捕獲される様というのは、やっぱりどこか物悲しいものである。

2009年07月13日

●メガ穴子

また海に行った。
海岸でヤスを組み立て中にヤスのゴムを忘れてきた事に気付く。手ぶらでも何なので火薬の無い銃のごとき銛を持って海へ潜る。
「こういう時に限ってでかい魚と遭遇するものだ。」等と思いながら海中を散歩していたが、特に突けずに残念と思えるような魚とは出会わなかった。
手づかみで捕獲したガザミはカニミソが一杯詰まっていてとても美味しかった。

帰りに友人に教えてもらった食べ物やさんで一日限定15食らしい「濱の穴子丼」なる穴子丼を食べた。
anagodon-menu.jpganagodo-real.jpgメニューの写真と実物を比べていただければお分かりかと思うが、写真より実物の方がはるかに量が多くてびっくりした。
逆の良い意味で写真と違うやんけーと言う感じ。これはもうメガ穴子丼ですな。

メガ穴子と言えば、昔この海で私の中ではメガ穴子という位置づけの全長一メートルはあろうかと言う巨大なホタテウミヘビ砂から顔を出している様を良く見かけた。
私は食欲と攻撃本能に釣られてその可愛らしい喉元によくヤスを突き立てて彼らを穴から引きずり出したものだ。
文字通り煮ても焼いても食えないヤツだったので、ある時期を境に捕獲対象外になったのだが、そういえば最近全く見なくなった。彼らは一体どうしているのだろう。

2009年07月11日

●懐かしい京都駅 / 空母のようなケーキに特殊と一般を思う

久しぶりに、久しぶりに京都駅で遊んだ。直接の目的は「ミヒャエル・ゾーヴァ展」を見に行くことである。
私は「絵画」については純粋な「絵」である純粋芸術であるよりも、ポスターとか挿絵とか壁画とかのどちらかというと商業芸術寄り(言葉の使い方はあってるかな?)の方が好きであったのだが、それが何かしらの「意味」がつけやすからだということに思いあたった。
hangyojin.jpg何度も何度も上描きして描き直して、描きなおすたびに悪くなった(と本人が言っている)らしいこの絵がかなり気に入った。
部屋一歩外が荒れ狂う海になってるのは、むしろ私にとっては不安というよりは嬉しいけど、覗き込んでる半魚人のせいで「志村!後ろ後ろ!!」といった緊張感があっていい感じである。

それから、このエッグスタンドのヒヨコはとろけるそうになるくらい可愛いかった。
hiyoko.jpeg

京都駅で遊んだのは五年以上は確実なくらいの何年ぶりかわからないくらいに久しぶりである。なんか異様に懐かしかった。
何処もかしこもバーゲンなので、そこらじゅうに人があふれていた。「I love the smell of napalm in the morning.」という台詞を思い出す。
ポルタでコーヒー屋さんに入ってケーキを食べたのだが、出てきたケーキがあまりにも巨大すぎて唖然とした。
もしかしてとても近くにあるのか?と遠近感が狂ったかのように錯覚するほどの、F-14を満載した航空母艦のような、SUNのエンタープライズに積めるだけのメモリとCPUと電源を積んでOEMサポートでインストールしたSolaris10をそのまま動かしているような、私の握りこぶし三個分はあろうかという巨大な苺のミルフィーユであった。
しかし、初めて京都に来て始めてこの店に入ってこのケーキを食べた人は「京都のケーキは異様にでかいものだ」と一般化して思うに違いない。
特殊な例を一般化して覚えてしまうのはネタ的には面白い。
しかし、余りにも形式化した環境で個性を出すのは難しいし、その自らのかなり隔たった個性は最初から「これは個性ですよ」と主張しておかなければいらぬ心配を与えかねないと思った。

2009年07月05日

●「うしろのトトロ」「となりの百太郎」

「ウツは心の風邪」という言葉を始めて聴いて、とても感心した。なるほど。
風邪ってのはこれといった症状があるのではなく複合的なものであり、特定の原因や特定の症状があるというよりは状態やら環境であるからして、確かに、とても似ている。
さらに、風邪に関するさまざまな迷信や意見の類、たとえば、人にうつすと治る、天一を食べると治る、風邪とは友達以上恋人未満の距離でお付き合いしましょう!などもウツにあてはまりそうな気がする。もちろん気がするだけだが。

この日は街中に自転車で出かけたのだが、家からの行き帰りのタイミングだけ雨が止んでいた。その点だけをとっても「よかった探し」的にはベストの一日といえよう。
そしてまたモツ鍋を食べた。最近モツばっかり食べているような気がする。モツ in モツ。

「となりのトトロ」が大好きだというレディーと話をしていて、「そこでメイが男の子にオニギリもらって食べると会場がすすり泣くわけやね?」「猫バスの声は美輪明宏?」「いや、トトロ はとんでもないものを盗んでいきました!あなたの心です?」など、私はジブリの映画をちゃんとを見てないうえに混ぜて覚えていることが判明したので、ちゃんと「となりのトトロ」を借りて観るために帰りにレンタル屋さんに寄った。

いいオッサンが「となりのとっとろ~とっと~ろ」と鼻歌交じりにアニメコーナーのジブリの棚をあさっている姿は、まさか自分が観るためではなく、子供の為に捜しているように見えただろう。
捜索の結果4本ある在庫がすべて借りられていた。何とも「根強い人気」ってやつでちょっと驚いた。

amazon ASIN:4063754952 amazon ASIN:B00005NJLP しかし、借りられないとなると余計に何が何でも見たくなるもので「となりのトトロ」と語感が似ているという理由で「うしろの百太郎」でも借りておこうかと思ったけどDVDには無かった。
「ドラクエ2」を頼んだのに、買ってきたのは黄金に輝くソフト「ドラゴンバスター」だった、という心温まる話は昔からネットで有名だが、同様に「となりのトトロ」が無かったから「うしろの百太郎」を借りた、もしくは「となりのトトロ」と間違えて「うしろの百太郎」を借りた。といえばネタ的には面白かったような気がするので非常に残念である。
私にとっては、「トトロ」はちゃんわかっていない位置にいるから、「となり」ではなく「うしろ」である。
それに引き換え「百太郎」は何気に好きで読み込んでいたので、「うしろ」というよりは「となり」にいるような気がするのであった。
私にとっては「うしろのトトロ」「となりの百太郎」というところであろうか。

話は変わるが、この日、街中でカラオケ屋で順番待ちをしているブールス・キャンベル似の某氏と会ったのだが、外で見る彼は何気に男前で非常に腹が立った。ルサンチマンプンプン。
ということで、彼が出演している「死霊のはらわた」がまた突然観たくなったのでトロロも百太郎も無かったので借りてきた。そんな日曜日であった。

2009年06月16日

●『抱くことば』『ソフトウェア開発の名著を読む』 / 向上心は煩悩か

amazon ASIN:487257740X amazon ASIN:4774128511 グインサーガ127巻 を読んだ。
ダライ・ラマ14世の『抱くことば』 を読んだ。
技術SE新書、柴田芳樹の『ソフトウェア開発の名著を読む』 を読んだ。
寝る前読書として新潮文庫の『カラ兄』を読み始めた。
そして、なんとなく、今更ながらJAVAの勉強を始めた。

一日のうちで自分の自由になる時間と言うのはとても限られている。
雑多にあるやりたい事をその限られた時間に割り振るには、やりたい事の量は多すぎ、そのための時間は少なすぎる。
やりたい事、知りたい事、身につけたい事などいくらでもある。
これを向上心と捉えるか、煩悩と捉えるか、欲望でしかないとみなすかは紙一重であるような気がする。
下がりそうになる機首を上げるために腕が捥げそうになりながら必死で操縦桿を引く毎日であるが、もういっそ射出座席ごと飛び出したいような気もするのであった。

グインサーガ127巻 :読み進めるたびに、どんどん深まってゆく謎が解明される事は無いのだろうと思うととても残念である。スカールとヨナ、イシュトヴァーン父子、グインとケイロニア、ミロク教と中原、そしてリンダとパロの運命や如何にである。

ダライ・ラマ14世 『抱くことば』 :さまざまなインタビューからの抜粋されたダライ・ラマ14世のことばと写真から構成された本。
本屋さんで立ち読みしていて「私たちの苦しみの多くは、私たちが考えすぎることに由来します」という一文を読んで購入を決意した。

技術SE新書、柴田芳樹 『ソフトウェア開発の名著を読む』 :ソフトウェア開発に関する名著と呼ばれる書籍の紹介である。
これをよんでちゃんとした技術書を読み込む習慣をつけんといかんなぁ。と思った。

2009年06月11日

●「カラ兄スイッチ」が入る / ミニチュア・リアルとしてのカラ兄

amazon ASIN:4102010106 ここしばらくずっと本を読んでなかったけど、以前に買って積読状態になっていた新潮文庫の原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』を読みはじめた。
米川正夫訳は何度も、亀山郁夫訳はこの間一度読んだ事あるけど、原卓也訳は始めてである。

冒頭の文章を読んで、ドストエフスキーがその死によって未完のままこの本を終わらせる事によって語ることがなかった、アリョーシャに訪れるはずであった「悲劇的な謎の死」に思いを馳せる。彼にいったい何があったのだろう。
ゾシマ長老の死が決して美しいものではなかったように、アリョーシャの死も悲劇的で謎でしかなかったのだろうか。

思えば私は未完で終わるものに惹かれるような気がする。栗本薫の死によってグイン・サーガも未完で終わってしまった。結局「豹頭王の花嫁」を読む事が出来なかったのはとても残念である。物心ついたころからずっと読み続けてきたグイン・サーガの唐突な完結について思う事はいくらでもある。まだその事実を受け止め切れていないところがあるけど、また、いずれここで書いてみたい。

ふと頭の中で『カラ兄』が読みたくなる瞬間がある。「カラ兄スイッチ」としか言えないものが頭の中で入る瞬間がある。
或いはなにかしらの逃避なのかもしれない。しかし、それでも現実の世界に比べて『カラ兄』の世界が美しかったり素晴らしかったりするわけでは決してない。カラ兄の世界は現実同様、或いは現実以上に醜く混沌と矛盾した世界である。しかしそれでも『カラ兄』の中の美しい点は気の遠くなるほど美しいと思う。

結局カラ兄の素晴らしさはここにあるのだろう。醜く混沌で矛盾に満ちた世界から気の遠くなるほどに美しいものが生まれる実感。あるいは希望と言っても良いかもしれない。
カラ兄的世界からカラ兄的美が生まれるのなら、こんな世の中からでも、こんな世界からでも同じような事が起こるかもしれない。たぶん私はそう思いたいのだろう。

とは言っても、何かを求めて、いや、答えを求めて本を読むのは単純なスケベ根性である。
更に、頭の中で考えられて自分の言葉として述べられるさまざまな考え方や結論は、自分自身のあり方とは全く無関係である。
頭に中にある事は今私の中にあるだけの事で、私自身を表しているわけではない。
私自身が私自身として示し、人から私として捉えられるのは、生活の中、習慣の中で行動する私だけである。
とカラ兄を読もうとする自分自身に言い聞かせておこう。

2009年06月09日

●ハック四苦八苦

長らく漂流した後に艦船の乗組員となった人、そして自ら小船に乗って自らの手で大海へと漕ぎ出す事を決意した二人の人とそれなりに濃い話をした。
どのような道を歩んでもそれなりの苦しみはあるけど、それでも根源的な四苦を前にすると、日常の些細な悩みなど吹っ飛ぶし、八苦中の残りの四苦など取るに足りない問題のように感じられるものだ。

人の話を聞くと言うことは、すべからく人に自分の話をするという事でもある。
そして人に自分の話をすると言うこは、自分についてを自分自身に対して語って聞かせることでもある。
更に言えば、そうして人に自分を語ることで初めて見えてくる自分自身というものもまた多い。
久しく忘れていた自分自身の見方と自分自身への視点を思い出して、久しく粉々に崩れ去っていた「無根拠な自信」が「ちょっとだけ根拠のあるちょっとだけの自信」に再構築された。ような気がした。

コンピューター技術者の友オライリーでは「何とかhack」のHacksシリーズはぼんぼん出るし、数年前には「Lifehack」なる言葉も流行った。
何処と無く宗教的な匂いの漂うハッカー文化も、そろそろ既成宗教や既存哲学とは別のアプローチで「ハック四苦八苦」に着手する時代が来たのではないだろうか。

2009年05月12日

●プレデターが来た

ブログを殆ど放置していていた。
色々な人を送り、色々な人を迎え、色々な人を祝った、四月終わりから五月初めであった。
直接的な意味で、色々な種と苗を植えた。

predetor00.jpg家にプレデターが来た。ネットで買ったのだが、届いてみて思ったよりでかくてビックリした。
最先端のテクノロジーを持っていながらも、生身の肉体でもって戦う事を至上の価値とする彼らは、何かしらの技術者にとって理想的な存在であるように思う。

ブログに書くべき事はいくらでもあると思う。しかし、それが本当に書くべき事なのか?と考えると、本当に書くべき事など何も無いように思えてくるのであった。

2009年04月19日

●攻城戦は漢のロマソ

「攻城戦は漢のロマン」ということで日曜日は城攻めに。
初めて入るあまりにも広大な彦根城、城フェチのツアコンの如何にこの城が要塞として優れているかという構造的な解説を聞くにつれ、これが唯の観光地ではなく第一級の軍事的防衛施設でかつ城塞都市であったということにちょっと驚く。
ここまでして守らねばならないもの、また、ここまでのものを攻めてまで奪わねばならぬものが世の中にある人生を生きるとはいったいどんな気がするのだろう。
まさか城主の井伊直弼もこんな風に(音注意)ネタにされる日が来るとは思っていなかっただろう。
古代の難攻不落の軍事要塞で女の子がキャッキャッ言いながらはしゃぐ声は諸行無常の響きを、石垣に映えるカラフルなスカートの色は盛者必衰の理を表しているのだ。

そして、彦根城の後は「佐和山遊園」に。

不動産業と飲食業で財を成した翁が一人で現在も建造中であるらしいが、新しいものが作られるスピードより、今あるものが朽ちたり崩れてゆくスピードの方が速そうである。
もう道楽と言うよりは何かに取り付かれているようにしか見えない。

ぁゃιぃ域を超越した、生理的なワーニングが頭の中で鳴り響く不気味さを感じるこの庭園、日常的に宗教的な環境にあるお二方が早々に散策を拒否したほどの破壊力。なるほどその気持ちよく判るような気がする。
特に、城へと続く陸橋を渡る時は首の後ろの毛が逆立つような動物的な恐怖を感じた。
これはいつ崩れてもおかしくないという確信以上に、何かしら人間の業や欲望のもつ脆さを感じる橋である。

何から何まで本物の城を見た後にこれはなかなかきついものがある。ハリボテがハリボテでしかないままに崩れ朽ち果ててゆく様はあまりにも悲しい。
そして、そのハリボテに全身全霊をささげているように見える人はそれ以上に悲しい。

とはいっても、寝る時に彦根城で聴いたひこにゃんの歌がずっと頭の中で流れていた。

2009年04月18日

●個人主義と自己責任論と北山紅茶館

はるか昔に辻利でコーヒーを注文して店員さんに「えぇぇっ!」と驚かれた事がある私であるが、「北山紅茶館」でコーヒーを注文するのは、スターバックスでココアや紅茶を注文する以上には難易度の高い行為であるので、二回目のチャンスもコーヒーを注文することができなかったのは、私が年を取ってしまったからだろう。

世の中には上の例と同じような、例えば、天一で餃子とチャーハンだけを食べる、逆に王将でラーメンだけを食べる、といった風に、ここでそれを食べるか?といった行為が良くある。
「メニューにあるねんから気にせず頼めばええやん」といった考え方もあるけど、「本人が良いといって受け入れているからといって、どんな行為でも許されるわけではあるまい。」といった考え方もまたある。

「なんとか専門店」に行って、その専門のもの意外を要求するのは「個人としての主張」の範囲内であるのか、それとも「エゴの暴走」であるのか。
「なんとか専門店」がその専門以外のものを提供するのは本当にその人の自発的行為であるのか。それとも不当な欲求に答えざるを得ないだけなのか。

あまりにも行過ぎた個人主義と自己責任論が、突き詰めれば、弱い立場の人間の権利を強い立場の人間に集中させる方向に働いてしまうのは、ありとあらゆる主義主張自身の、それ自体に内包して起因すると思われる問題が、実は問題自身ではなく人間自身の問題でしかないことを表しているように思える。
結局のところ、何かしらの問題を抱えている人間自身があらゆる問題の原因であるということであるのだ。

と物事を中間点を考慮せず何でも二極化して考えてしまうと、とてつもない極論にたどり着いてしまう。
そして、極論というのは、往々にしてあまりにも当たり前で結局何も言っていない結論に着地せざるを得ないのに気づくのであった。

2009年04月14日

●狼バカバカ少年

バレンボイムを変換するとWindowsのIMEでは「場恋慕医務」になり、まるでどこぞの暴走族のようでちょっと可笑しい。
ちょっと前まではそれなりに賢かったWindowsのIMEが近頃とんとバカになって妙な変換ばかりしている印象があったのだが、これは酷い。
んじゃsolaris10のATOKならばちゃんと変換してくれるだろうと試してみたところ、「馬連簿医務」と大して変わらない。なんとなく「赤ひげ」っぽい獣医を連想させるなぁ。

ということで、ATOKで変換できない「バレンボイム」をIMEがちゃんとカタカナで固有名詞として変換できないのは、IMEがバカなのではなく、「バレンボイム」という単語が一般的でないだけであった。

「狼少年」ってのは嘘ばっかりついていると本当の事も嘘だと思われるという話やったけど、バカなことや凡ミスばっかり繰り返していると、本当に難しくて不可避なことでもそのバカさ加減のせいの凡ミスだとみなされてしまうわけで、怖い話やなぁと思った。

2009年04月12日

●桜の季節の人ゴミ

yataitakenoko.jpg前日に引き続き本日も桜を見に行くも、円山公園の巨大枝垂桜はすでに散っていた。
しかし、去年食べようと思ってタイミングを逃して食べられなかった、屋台で売っている煮焼き筍を食べることができたので満足である。

丸山公園は当然のこと、街中がありえん人ごみ、まさに人がゴミのようだ。本当に不景気なのか?
しかし不思議と皆が皆幸せそうに見えるのはこの国が平和だからだろう。
逆にこれだけの人がすべて不幸せそうに見える景色はさぞかし怖いに違いない。と思った。

2009年04月11日

●琵琶湖の桜

夜に琵琶湖岸に桜を見に行く。横に伸びて枝振りのいい桜をLEDの青い光で愛でる。

琵琶湖岸の六キロの距離を南北に伸びる桜並木の最北端と最南端では桜の咲き具合がまったく違い、最南端の桜は散り始めていたのに、最北端の桜はまたつぼみであった。
六キロの距離で季節が違うというのがとても不思議である。
隣同士の桜の咲き具合の違いなんか殆どわからないのに、端と端の桜はまったく違う。
人間の変化というのもおそらくこんな感じなのだろう。
一日一日の違いなんかまったくわからないのに、気がついたら咲いていた、あるいは気がついたら散っていた、という風に。

琵琶湖を見ると、いつもコーヒー沸かしセットと釣竿を忘れてきたことを後悔する。せめて釣竿くらいは車に積んでおくべきかもしれない。

2009年04月10日

●桜を見るために早起きする/精神的処世術

最近はずっといつもより15分早く起き、ちょっと遠回りして加茂川沿いの桜のトンネルを通って出勤している。

若いころは、時期的な鬱要素と、その要素と独立している、その季節のみの事象を混同して、鬱要素と関係ない事象そのものが鬱要素になるという逆のフィードバックが起こっていたものだが、おっさんになるとそのあたりは切り離して感じられるようになってきたと思う。

たとえ春が欝の季節であったとしても、春に咲く桜自体は鬱要素でもなんでもなく、春が我々にとって何であるかとは関わりなく綺麗な存在である。ということである。
つまり、たとえわれわれの気分がどうであっても、桜自体は独立して綺麗なのである。

モノそのものをすべての関係性から切り離して独立したものとして見るということは、ひとつの精神的処世術とも言えるかもしれない。

しかし、桜を見るために15分早く起きるなんてことは若い頃にはできなかった。
若い頃は朝の光の中で狂い咲く桜のトンネルを通ることよりも、朝の十五分の睡眠のほうがはるかに大事だった。と最近自分が年をとったことをつくづくと感じるのであった。

2009年04月09日

●二条城で可笑しかったこと

仕事後に二条城へ夜桜を見に行った。
平日の夜だというのに凄い人である。周りから聞こえてくる会話からするに、京都以外からの観光客が相当数含まれているようだ。
やはり、日本中から人が大挙して押し寄せるだけあって見事な夜桜であった。

皆が皆、口を半開きにしながら携帯電話で写真を撮っている姿は可笑しい。
そして、携帯電話で撮った、根元から天辺までをワンフレームに入れた夜桜が並ぶ、感度が高い分ノイズの多い写真は、それだけで心霊写真に見えてくるのが可笑しい。
そして何よりも、そんな中に自分がいるのが可笑しかった。

2009年04月08日

●ゲシュたる春

一旦崩れだすとそれを押し留めるのは非常に難しいのは何事も同じ。
毎日更新を続けていたこのブログも、その均衡が崩れて一気に更新頻度が少なくなった。

結局、何かを表現すると言うことは、未分化の状態に留まっていた何かを言葉でもって限定してしまうことなのだろうか。
実体化していなかった何物かを言葉でもって現実のものとしてしまうことなのだろうか。

しかし、一方で鼠は「問わず語らずに理解し合ったって何処にもいけやしない」とも言っている。
当たり前ではあるが、言葉に出して良くなる事もあれば悪くなることもあると思う。
それでも、言葉に出して悪くなるようなことが、果たして言葉に出さずに良くなる事があるのだろうか?とも思う。

今更ながら、世界にはありとあらゆる対立概念に満ち満ちていると改めて思う。

2009年03月24日

●ここはエリア88…砂漠にかこまれた灼熱の戦場…

もう私の人生から歩み去って消えてしまったのだと思っていた人から、先日ほぼ一年ぶりに電話があり、すこし会って話した。
傭兵先での給料明細が部品やらネジやらの発注だか受注だかの伝票と同じで、
「なんやー!私はネジとおんなじなんかー(`・ω・´)」と言っていて、「やっぱり上手いこと言うなぁ」と感心した。
最近古本屋で見つけ次第『エリア88』を買って読んでいるのだが、外人部隊の戦闘機乗りの傭兵として日々中東の戦場で暮らす彼らに、なんとなくシンパシーを感じるのであった。

おれたちは外人部隊…
紙切れよりも薄い己の命…
燃えつきるのに
わずか数秒…

などと、この漫画の台詞はちょっとポエムっていてかっちょ良い。

しかし、「誰かが私の人生から消えてしまった。」と私が考えることは、誰かが私の前から歩み去ってゆくのではなく、私自身がその誰かを消している。ということに気づいたのであった。

2009年03月23日

●レコーディングダイエットと無知の知の袋小路

先日クランプメーターを買ってから「なんでも数値化するとわかったような気になる」ということに気づいて、色々なものを計りたい衝動を内に秘めながら暮らしていたのだが、私が結構好きな人物であるオタキングの岡田斗司夫が書いた『いつまでもデブと思うなよ」』を最近お風呂で一気読みして、「レコーディングダイエット」なるものの第一段階を面白そうなので始めてみた。
食事制限もカロリー計算も一切なしで、毎朝体重と体脂肪率と体脂肪量を計り、食べたもの全てをメモするだけなのだが、自分が何を食べているのか殆ど意識していないことにかなりびっくりした。
食べた料理のメインの具材は覚えていても、つけあわせを殆ど覚えていない自分に気づくのは結構怖いものがある。

メモを取り始めて一週間もたっていないけど、それでも今まで統計の対象外であった「自分の食べたもの」がデータとして蓄積されるのは新鮮であるし、これだけの少量のデータでも改めて見返してみると自分がどれだけ色々なものを食べているのかに結構驚く。
そしてなによりも、こういったデータの羅列はなぜか妙な説得力を持っているように思えるのが不思議である。

しかし、そんな説得力も良く考えれば全く意味を成していないのがよくわかる。たとえ私の食べたものを全て分析しても、私と言う人間が少しでも理解できるとはとても思えない。
水分と気体を除いた、食物という物質的なインプットを全てデータ化したとしても、その物質で構成された存在の本質の一部でさえ全く理解できないというのは考えてみれば凄い事である。

「なんでも数値化するとわかったような気になる」のは確かだとしても、一つ何かをわかった様な気になればそれに隠れていたまた別の幾つもの謎や疑問が浮かび上がってくるのも確かである。

知れば知るほど、学べば学ぶほど、謎の深さと広さが拡大してゆく感覚が知のレベルでは当たり前のものだとしても、それを物質としての自分自身に感じるのはちょっと気持ち悪い。
自分を知る試みというのは、裏を返せば自分自身の知らない所と知りえない所を知る試みでもある。
知れば知るほど自分が他人になって行くのでは本末転倒ではないかと思わなくもないけど、なにかしらの真実に近づいているような皮膚感覚も無いことは無い。
「無知の知」とは良く言ったもので、自分の食べたものをメモっているだけでこんな袋小路に追い込まれるとは思わんかった…

2009年03月22日

●スイーツとゾンビ

甘いものを食べた後に観るのはゾンビ映画に限る。
手の込んだケーキを食べ、手をかけて作られた紅茶を飲み、そして死人たちが蘇って人を喰らう様を見てクスクス笑う。
退廃的なフランス貴族のような、carpe diemの方向性を持ったメメント・モリであろうか。
スイーツとゾンビは良く合う。というより、両極端のものはあまりにも離れすぎているがゆえに良く似合うのだ。

最近、映画や本や趣味の世界のレビューや感想やコンピューター系の記事ばかりで、ずっと日記らしい日記を書いていなかった。
というよりもブログ自体を殆ど書いていなかった。
リアルな世界で色々あったり無かったり、悩んだり悩まなかったり、発狂したりしなかったり。
私にとって、ひたすら自分と向き合うというのはとてつもなく危険な行為でもある。
なぜなら、自分との折り合い、社会との折り合い、そして私を取り巻く色々なものへの折り合い、すべてが同時にベストな状態でありえる自分の位置というものがあると前提したうえで事に望むからである。
その位置がはっきりしない状態で、その位置の存在すら疑われる状態でどこにたどり着けよう。
結局一周して元の位置に戻ってきたような気がする。

しかし、一周したからといって元通りと言うわけではない、宇宙空間に浮かぶ人工衛星ではないのだから、大気の摩擦もあれば、エネルギーの消費もある。
エネルギーを消費し、色々なものを消耗して一周したと言うことはどこかにたどり着いたのを意味するのではない。色々なものを磨り減らした挙句に、ただもとの位置に戻っただけの話である。
それを消耗と捉えるか生還と捉えるかは見方次第である。

結局のところ出た結論はこういうことだ。
「今を否定する材料はいくらでもある、しかし、今を肯定しようと思えば材料はいくらでも見つかる。」
チープすぎる言い草ではあるけど、チープなことをちゃんと意識することは大事なことなのだ。 

2009年03月01日

●旧世界と新世界紀行

久しぶりに日本橋に行った。3、4年ぶり、いや5、6年ぶりくらいかもしれない。
ソフマップザウルスの前の通りが「オタロード」と呼ばれるようになり、街にメイドさんが溢れる様になって、昔のコンピューター街がオタ街と変貌した(らしい)後からは一度も行っていないので、さぞかし変わっているだろうと思っていたけど、思いのほか、というより殆ど変わっていなかった。
私がいつも巡回コースにして贔屓にしていたジャンク屋さんやら電子部品屋さんやら怪しいブツを売る店などのそれ系統の店は殆ど例外なく生き残っていた。
ある店は規模を縮小し、ある店は規模が大きくなりつつも、硬派でストイックな店たちがあまりにカラーの違う系統の店に囲まれながら営業している様を見ていると、あまりの懐かしさに目頭が熱くなりそうであった。

昔のようにジャンク箱からSUNのキーボードやネットーワーク機器を漁ったり、何に使うのか理解しがたいような部品を漁っているとなんだか時間の感覚がおかしくなって来る。
圧倒的な速度で変わる世の中で、こういった旧世界的な何かしらが息づいているのはなんだかとてもほっとする。ジャンク部品を漁りながら色々な意味でこの場所とこの雰囲気は今の私の一つの原点だったのだと思う。

そして、今まで堺筋の一本東の通りから通天閣を遠くに眺めることは何度もあったけど、今回は初めて通天閣のそびえ立つ新世界に足を踏み入れた。
長蛇の列に並び「ソースの二度漬け厳禁」の「だるま」の串カツを食い散らし、閉店間際に男四人が一列になってスマートボールを打ってきた。
なんだかよく分らないビギーナーズラックのままに玉五十個を弾き出して「とんがりコーン」をゲットしたのが思いのほか嬉しかった。
夜遅かったので大方の店が閉まっていたけど、初めて行く店や街、初めて遊ぶものなのにノスタルジックな感覚が始終付きまとっていたのは不思議であった。

新世界になった旧世界の残る日本橋、そして新世界という名の旧世界、なんだか知らんがめちゃくちゃ楽しかった。
失礼な大手家電店の販売員ギャルにめげず、怪しいものを売っているとしか思えない店舗ですらない店を冷やかしつつ、友人たちと妙なテンションで色々な店を巡りつつ一週間はブログのネタに困らなさそうな、色々なものを買い込んで来たのであった。

2009年02月28日

●やっとマリア灯篭発見

mariatourou.jpg
北野天満宮に梅を見に行って、やっと「マリア灯篭」を発見した。
下のほうにあるのがどうやらマリア像であるらしい。
まぁ聖母マリアだといわれれば聖母マリアだが、地蔵菩薩だと言われればそう思ってしまいそうではある。
正月に見つからなかった時はすごく残念だったけど、見つかってしまえば拍子抜けだというのは、世の中にある多くの謎だとか発見だとか知恵と同じである。
結局そういったことは努力したり目指すこと自体が一番大きな意味と価値を持っているのだろう。

しかし、いくら梅の名所だといっても、いくら梅にちょうどいい時期であっても、いくら受験シーズンだといっても、北野天満宮にこれほどの人が集まるのかととてもびっくりした。

2009年02月15日

●HDDが壊れた

前日にHDDがクラッシュしたので買ってきた。
現在の相場は500ギガで5000円、1テラで8000円ほどであった。いつの時代のいつの時期でも言っているような気がするが安いなぁ。

壊れたSATAのHDDだが、前日までちゃんと動作していたものが次の日の起動時にいきなり認識しなくなったと。USB変換キットで繋いで見るもダメ。500ギガのデータが突然吹っ飛んだことになる。
一応モーターは回っているので、基盤部分を新品と交換すれば何とかなりそうな気もするが、そこまで手間をかける気もしないので新しいのを買った。

しかし、SATAのHDDはやたらと壊れるような気がする。仕事で触っているHDDも家で触っているHDDも人から聞いたことのあるHDDも凄い勢いで壊れている印象を受ける。
当然ちゃんと動いているのが大多数であるが、SATAというだけで信用しきれない。いったん失った信用を回復するのは大変である。

しかし、今のHDDはある日突然に決定的に壊れるような気がする。
昔のHDDは壊れそうな時はなんとなく雰囲気で「そろそろやばいかも」とわかったし、徐々に動きがおかしくなって徐々に壊れていった。
いったん故障フラグが立ってしまうと復活することは無かったけど、最後の力を振り絞ってデータを移動させるために一度だけデーターを読ませてくれる瞬間があったものだ。そしてその後、最後の力を使い果たして崩れるように壊れてゆくのを見送ったものだ。
昔のHDDはなんとも根性があったなぁ。それに比べて最近のHDDときたら。
と、最近のHDDを精神論で批判するのであった。

2009年02月05日

●風邪のときに見る夢

この日は出勤する寸前まで休む気でいたけど、何かの拍子に何かが「ぱちっ」と一瞬で切り替わって出勤することにした。
体調が悪い時に出勤して思ったよりも弱っていて「休めばよかった」、あるいは休んでからあまり弱っていなかったことに気づき「出勤すればよかった」と思うことは多い。
しかしこの日は午前中はともかく午後からは思ったよりもふらふらになったけど「出勤して良かった。」な日であった。
そしてこの日から風邪で寝込んでいるときに見る夢を見なくなった。

ということで、今回の風邪で寝込んでいるときに見た夢を書いてみる。

その1:
べちゃべちゃの地面に鼓動にあわせてフラッシュのように縦、横と交互に白い光の亀裂が入り、その亀裂からどこかの町並みのようなものが透けて見えていた。なんかとってもタルコフスキーちっく。

その2:
たとえば「重力」や「質量」とか「力学」や「関数」などの実体がなく概念でしかないものの概念そのものが頭の中に直接流れ込んでくるけど、夢としてはそれらの概念が映像の次元との交点で影として映像化している。
具体的にはいろいろな太さや長さや厚みを持つ黒い線が灰色の背景を動き回っているような感じに見えるのだが、どちらかと言うとそういった「映像が見える」のではなく、脳が流れ込んでくる概念に反応して「映像として見える」と言った感じだろうか。
映像として見たものをすでに知っている何かに置きかえて理解するのでなく、頭の中にダイレクトに概念が伝わってきて、その反応として何かが見えるのは、入力装置を出力装置として使うような、いつも全く使わないような頭の使い方をしてとても気分が悪い。

普段はこんな夢は見ないのに、風邪を引いたり熱でうなされたりすると見る夢はほとんど同じで、物心ついたころから「概念の夢」はずっと見続けている。
ここ数年はずっと風邪を引いて寝込む事なんかなかったので、久しぶりにこの夢を見てちょっと新鮮だったうえにちょっとした懐かしさまで感じた、この夢を死ぬまで見続けることになると思うととても不思議である。
しかし、どうせ見るなら、理解できないままでなくちゃんと理解したいと思うのであった。

また、大抵の人は子供のころから見続けている夢を持っているようで、人によって全く違うそんな夢の話を聞くのはとても面白い。

2009年02月04日

●風邪をひく

久しぶりに風邪を引いた。
前日の昼くらいから倦怠感と頭痛でかなりふらふらで、この日は仕事を休んだ。前日の夜から風邪を引くと良く見がちなサイケデリックな夢に延々うなされ続けてうんざりである。

ちょうどキノコ先生のマスクの記事を読んで間もなかったので、喉と鼻の湿気を保つためにマスクをして前日の夜から丸一日寝ていたけど、葛根湯飲んで寝てれば直るだろうと言った希望的観測とは裏腹に熱は一向に下がらない。
前日から徐々に熱が上がり始め、夕方に38度を超えたので「これはもうインフルエンザかも」ということで病院へ。
家を出る前に38.2度あったはずの熱は病院で計るとなぜか37.4度だった。受付のお姉さんも微妙な顔。「38度越えているんです!インフルエンザかもです!」と力説していた私も嬉しいような悲しいような。
当然インフルエンザの検査も陰性で、この症状はどうやら扁桃腺への細菌感染によるものであるらしい。

実はこの日、友人たちと某レディのプチお誕生日会って事でご飯を食べに行く予定になっていたのだが、この風邪のため休むことになっていたけど、微熱をおして無理やり参加を決定する。いつもなら自転車で参加するところだが、それは流石に無理なので、友人に車で送り迎えしてもらった。ありがたや。

一応メニューにそれなりに風邪に良さそうな病院食っぽいのをチョイス。といっても、果物が入っているというだけだが。
オードブルは何とか完食したものの、メインをオレンジソースの鴨胸肉でデザートをリンゴのタルトにしたけど、流石に全部食べられず、鴨を三分の一、リンゴのタルトのタルト部分の半分を友人たちに食べてもらった。
ワインもグラスに一杯飲んだのだが、食後に酒と一緒に飲むなと書いてある薬を気にせずに飲んだがとくに何も無かったようで良かった。
ちゃんと古本屋で買い叩いてきたネタプレゼント(叶美香 写真集)を渡せて良かった。
amazon ASIN:4778803280 こんなん家にあっても困るしねぇ。

風邪で仕事を休んでおきながら、少し回復したからといって夜から友人たちと食べ会に出かけるような気概を持つ人間を私は愛する。ということで自分で自分を褒めてあげたいと思った。

ということで皆様風邪にお気をつけください。

2009年01月31日

●「活字ドラッグ」と「児童書」と「依存症」と私?

その場限りで後に引き摺らず、後遺症も残留物もないのが麻薬として良質なものだとされるけど、先日読んだジュール ヴェルヌの 『神秘の島』 を純粋な「活字ドラッグ」として見れば最高の部類に位置するだろう。
読んでいる最中のトリップ感と没頭感、そして読後感の爽やかさとなにものも心に残さないさっぱり感もすばらしい。
なるほど子供のうちにこういった良質な「活字ドラッグ」を体験させておけば、大きくなってもその味を忘れられないだろう。

今でこそそんなことはなくなったけど、若いころはその「活字ドラッグ」にドラッグとしての効き目の長さと強烈さだけでなく、日常からの逃避と、あわよくば自分の中身すら一変させてしまうほどの何物かを求めていた。

この場合は本であるにしても、よく考えれば外的な要因によってそういったものを求めるのは、薬物や苦行でも手段はなんでもいいから神秘体験に似たなにかを誘発し、それによって自己変革の一環とするような、ある特定の時代に流行ったサブカルチャーや、ある特定の宗教の持つ傾向となんら変わりないように思う。

よく考えればアブナイ話やなぁ…などと今更ながらに思うが、それでもそういった種類のものは人を依存させるほどのものを持っているのは確かだろう。
どう見てもアルコール依存症にしか見えない人が自分自身を「酒が好きなだけ」と言っているのを聞いて唖然とした事がある。
しかし、「寝る前に布団の中で本を読むのは幸せ」「可能な限り寝る前に本を読む」「私はただの本好き」と思っている私自身はどうなのだろう。
依存症とまでは言えないかもしれないけど、まったく依存していないとは言えないだろう。

日常生活や社会生活に支障が出ることが依存症が病気とされるかどうかの分かれ目であるそうだが、私自身はそれが何かの支障になるなどとは全く想像もせずにあまりにも長く続けてきた習慣なので、これが何かの支障になっていたのかどうか全くわからない。
本当に支障が出ていないと言い切れるだろうか?と考えるとなんともいえない恐怖が這い上がってくる。
私の今までの本読み体験によって、今の私の根本的な欠陥や欠損が形作られ増幅されてきたのだとしたら、日常生活や社会生活どころか、すでに人生すべてに支障が出ている、と言えるかもしれないのだ。
そう考えるのは異次元に開いている落とし穴に訳の分らないままに落ちてしまうような気持ち悪さを感じる。

そんな視点で周りを見回してみれば、そこかしこに開いている不可視の落とし穴から漏れて来る光や闇のなんと多いことか。
我々はなんと無造作にその上を歩いていることか。

2009年01月28日

●本についた血 

先日仕事帰りにジュール・ヴェルヌの『神秘の島』を市立図書館から借りてきた。
少年少女向けの位置付けの本なので児童書の棚を探したのだが、児童書の棚にあるその他の本のタイトルを読んでいるとなんと面白そうに見えることか。

で、夕食後に早速『神秘の島』を読み始めたのだが、子供ばかりが読んでいるのであろうせいか、やたらと本がボロボロなのはいいとして、なんかおやつの食べカスらしきものが本の間から出てくるのはちょっと嫌である。
ページにある染みも、チョコレートだろうなと想像できるのはまだ理解の範囲内にあるけど、明らかに血としか思えない染みがあるのは一体どうした訳だろう?
ちょっとしたホラーな本やったら血がついていると「ギャー!!」やろうけど、あまりにも健康的な冒険活劇な本なので「もしかして血?なんで?」としか思えない。
なぜ本を読んでいて血を流すようなことが起こり得るのだ?
子供が本読みながら血を流す状況をいろいろと思い浮かべてみるとなかなか可笑しいものがある。

そういえば、子供のころは何の脈絡もなく突然鼻血を流したり、いつの間にか怪我をして血を流していたりしたものである。
この本についていた血も深く考える意味もない、そういった特に意味をもたない血の一つであろう。

おそらく、私の前にこの本を読んだ子供たち、そして私の次にこの本を読む子供たちはこの本についた血なんかに疑問を持ったり意味なんか求めたりしないだろう。本についた染みを意に介さず、ただ本を本としてだけ読むに違いない。

本を読むだけでなく、本に挟まっている食べ物の欠片やチョコレートの染みや血痕まで本の一部として読み解こうとするのはおそらく子供のメンタリティーではないだろう。
大きくなると何でも意味を求めたがる。という方向性ではなく、何でも楽しんでしまおうとする意図を持てるようになることが、年を取る事で良い事の一つではなかろうかと思った。

2009年01月24日

●「何でも食べる」といふこと

この日、ずっと行きたかったお店にやっと行くことが出来た。
余り普段食べないようなものを食べたのだが、よくよく考えれば料理法も材料もよくわからない料理をよくわからないまま出されるままに食べるのはかなり奇妙な行為であるかもしれない。

例えば、よく食べられる割に食べている人が実態を知らないであろう生き物の中に舌平目なる魚がいる。この舌平目の中でも特に「シマウシノシタ」と呼ばれる種は魚好きの私が見てもかなりグロい。この魚の30センチを超えるものはもうほとんど妖怪である。

野生動物は何でも食べるようなイメージがあるけど、ここの種について冷静に考えてみれば、実は彼らの食に関する好みはとても偏っていることがわかる。
雑食と呼ばれる動物にしても、人間なる種に比べればはるかに偏食である。
「美味」なる絶対価値の旗の下に、得体の知れぬものを得体の知れぬままに食べる人間の生命力こそ、人間を万物の霊長として地球に君臨させた原動力ではないかとすら思えてくる。
ということで、美味しそうに見えて実際に美味しいけど、実は謎の料理を動けないくらいにお腹一杯に食べた、とてもとても寒い冬の日であった。

2009年01月23日

●戦争映画を鑑賞するおばあちゃん

例のごとく仕事帰りにいつも立ち寄るDVDのレンタル屋さんで、いかにも「よぼよぼ」といった感じのおばあちゃんが「戦争映画」の棚の前で何かのDVDのパッケージを繁々と眺めていた。
恐らく太平洋戦争時には青春真っ只中であったであろう年代のお年寄りである。
日本にとって汚点であるとされるような時代と思想で娘時代を駆け抜けた彼女にとって、戦争の持つ意味や重みは我々とは全く違うのだろう。などと思う。

しかし、「戦争映画の棚」といっても、「さらばラバウル」や「太平洋の翼」のありそうな日本映画でなく、「地獄の黙示録」とか「プライベート・ライアン」があるような洋画の棚の前に立っていた。
棚を間違えているのかな?ふと疑問に思ったところで、そのおばあちゃんはパッケージを見ていたDVDを借りることに決めたらしく、中身を抜き取ってケースだけを棚に戻した。

おばあちゃんが借りることに決めたDVDを見て、ごく控えめに言って私はかなりびっくりした。

amazon ASIN:B000064633 そのDVDは「ブラックホークダウン」であった。
「ブラックホークダウン」といえば、ソマリアでおこった米軍のデルタフォースと民兵やゲリラとの壮烈な武力衝突である「モガディシュの戦闘」を描いたリドリー・スコットの映画で、2時間20分に及ぶ映画の最初から最後まで延々とエグい戦闘シーンが続く、銃器オタの間でも「鬱映画」として名高い名作である。

この映画を観たいと思った戦争経験者であるはずの彼女の頭の中には一体何が渦巻いていたのだろうか?
と一瞬思ったが、このおばあちゃんは単純に戦争映画好きなのかもしれない。

普通我々はこの年代の戦争体験者であれば戦争に対して何かしらの深刻なスタンスや考え方を持っているはずだという思い込みがあるし、戦後に起こった強烈な価値の転換に引き裂かれてそのギャップに心密かに苦しんでいるはずだという思い込みがある。
しかし、どちらかといえば、我々はそういったお年寄りがそうであるのを経験的に知っているというよりも、そうあるべきであると思い込んでいるだけなのかも知れない。

もしかしたらこのおばあちゃんは家に帰って孫と一緒にこのDVDを観ながら、「今やーRPG撃てー」「おっしゃーBlackhawk going down!あっきゃっきゃー」とか言ってるかもしれない。

悲惨な戦争を潜り抜けてきた戦争経験者が、こういった戦争映画を現実のものであったり現実に起こりそうなことであるとは思わずに、ただ映画の中だけの話としてワクワクしながら観ることが出来ることは、ある意味で世の中が平和になったことの一つの印なのかもしれない。
などと思った。

2009年01月15日

●電気ゾンビはミラ・ジョヴォヴィッチの夢を見るか?

仕事帰りにレンタル屋さんに寄って、「そういえばバイオハザードって見たことないなぁ」となんとなくジョヴォヴィッチな気分になってきたのでついついシリーズ三作全てを借りてきて全部一気に観た。
夜の九時ぐらいに「Ⅰ」を見始めて、続けざまに「Ⅱ」を見た後、休むことなく「Ⅲ」を観て、すべて観終わったのが2時頃、ヘロヘロになってそのまま布団に這って行って寝たらなんかバイオハザードっぽい夢を見た。

と言ってもゾンビ化した人や犬に襲われるような直接的なものではなく、いつどこから何が襲ってくるかわからんといったような重苦しい雰囲気に包まれた夢であった。これは全く怖い夢を見ない私としては珍しいことである。
長時間映画を観てその世界に入ったまま寝てしまうと、眠っている中でもその世界を引きずったままと言うこともあるのかもしれない。

そういうわけで、一日の大半を何らかのトラブルや問題に対する対応で過ごしたとしても、いくら頭から離れない悩み事があったとしても、鬱真っ盛りでいようとも、そんな気分で寝てしまえば睡眠中に気の休まる暇が無いだろう。
せめて寝る前だけはそんな気分をリセットして、楽しくといかないまでも、安楽な気分で眠りに落ちることは精神衛生上大事なのやなぁと思った。

2009年01月08日

●イリューシャの石

この日で自転車で転んでから通っていた病院も最後の通院となった。
傷自体はもうずっと前に閉じていたのだが、傷跡の経過を見る為に通っていたのだ。
怪我してから半年、改めて考えれば生きていただけでもうけものである。傷跡が残った事などいかほどのことがあろうか。

「病」だけに限らず「生老病死」の全ての苦に当てはまる一般的なことだろうが、怪我や病気が人間にとって何かしら良い作用を及ぼす事があるとすれば、それは人間を謙虚にする事くらいだろうか。
大抵の人間が怪我や病気をすればなぜか自分の傲慢を悔いて謙虚な気持ちになるのはありきたりの出来事である。
しかし、そんな風に一時的に謙虚な気持ちになったところで、健康になれば大抵そんな事は忘れてしまうのも良くあることである。

カラ兄の終わりの「イリューシャの石」でのシーンではないけど、この傷跡を朝に毎日鏡で見るたびに、日々傲慢に暮らす私が、少なくともこの怪我をした一時点では、謙虚な気持であったことを思い出せたらいいのにな。と思った。

2009年01月07日

●冬眠から覚める / 反応形成

長い休みで久しぶりに仕事に行くために朝早く起きると、冬眠から覚めた動物になったような気がする。
冬眠から覚めた動物は餌を探すために動き出すのだ。

久しぶりに働くと家で使っているドメインのアカウントを職場のPCに入力して、返って来るエラーメッセージを見て反射的に「うっ!」となってしまうのだが、同時に自分の間違いも気づいているところが可笑しい。

エラーメッセージを見れば瞬間に障害の予感でアドレナリンが放出される反応形成はとてもわかりやすいけど、それとは独立してバックグラウンドジョブのように常にエラーの原因を探し続ける回路もまた反応形成されていることに気づく瞬間である。
精神の二重構造を感じるのは不思議なものだ。

2009年01月06日

●「キリシタン灯篭」を探す

ようやくにして正月らしく北野天満宮に出かけた。
引いたおみくじは「吉」、可もなく不可もなくといったところ。いかにも私らしくていい。などと自虐的なことを言ってみる。

本殿のガラガラ(鈴、鰐口と呼ぶらしい)の紐(鈴緒というらしい)が無くなっていてガラガラ出来なかったのがとても残念だった。
しかし、鈴はあるのに鈴緒がついていないのはあえてこうしてあるのだろうか?それとも誰かが引きちぎったのだろうか?とても気になった。

境内のどこかにあるらしい「マリア灯篭」あるいは「キリシタン灯篭」を探したのだがどこにあるのかさっぱりわからなかった。今度梅の季節にでもゆっくり探してみよう。

「キリシタン灯篭」を探すためにいろいろな灯篭を見ていたのだが、動物が彫ってある場合は龍だの玄武だのと神獣的なものが多い。
どういう意図でマリア像を灯篭に彫ったのかは良く分からないけど、八百万の神の感覚からすればマリアもその神の中の一つと言う事なのだろうか?

2009年01月05日

●試合に負けて勝負に勝つ?

毎年福袋に人が並んでいるというニュースを聞くたびに、私も好きな服屋さんの福袋を買いたいと思う。来年こそ買うぞと毎年思うのだが今まで一度も買ったことがない。
とここまで書くと、今年は買ったという話になって、その福袋購入のレポートを面白おかしく書くのが普通のブログなのやろうけど、結局今年も買わなかった。
自信を持って言えるが、おそらく来年も思うだけで買わないだろう。
久しぶりに外に出たのでちゃんとした服を着たのだが、なんだかズボンがきついような気がする。お正月はずっと家に引きこもって食べてばかりいたので太ってしまったに違いない。
この勢いで食べると危険やなぁと思いながら食べていたのだが、やっぱりそのとおりであった。

福袋を買いたいけど買えない、食べるとやばいなぁと思いつつ食べる。
こういった風に誰しも日夜欲望と戦っているわけやけど、この年になるとあえて欲望に負けて流されてみる。という選択肢もありなのではないか?
いうならば欲望に負けてやる。欲望に華を持たせてやるわけである。欲望との試合に負けることが欲望との勝負に勝つ。ということになりうるのではないか。
などと意味のわからない事を思った。

2009年01月01日

●謹賀新年

2009年になって初めてここに来られた方もいらっしゃるかと思いますので、年末のご挨拶に重ねて新年のご挨拶をば。

新年明けましておめでとうございます。本年も引き続きよろしくお願いいたします。
今までこのブログはごくごくローカルな個人ブログ的な位置づけだったような気がしますが、2009年からこのブログにはパブリックな土偶の側面も、いわゆるビジネスブログ的な要素も加えていくつもりです。
この「土偶staticroute」は一個人としての土偶の欲求と行動の紹介でありつつも、社会の一ユニットとしての土偶の宣伝と紹介にもなるような場にしたいと考えています。
と大げさな事をいっても、書く事は今までと全く変わらないと思いますが…

2009new.jpgということで、家でついた餅を鏡餅風に重ねてみた。裏白の代わりに南天の葉っぱやけど。橙の代わりにSUNキリンやけど。

2008年12月31日

●ベートーヴェン漬けの大晦日

このエントリーが2008年最後のエントリーであると同時に、日付詐称はあれど丸3年目のエントリとなる。よく続いたものだ。感心するやら呆れるやら…

年末になるとこの一年はどうだったとか、次の一年はどうしたいなどということを良く書くが、死ぬまで永遠に生きるかのような暮らしをしている我々は、その死ぬまでの永遠の生に何かしらの区切りを引きたい欲求があるのだろう。
はるか昔、私が卒論でニーチェについて書いていた時、ハイデガーの言うニーチェの永劫回帰は将来と過去の衝突である現在の瞬間に関する思想である。ってところの「将来と過去の衝突」の捉え方にやたらと苦労して、結局ちゃんと納得した答えを出せなかったのだが、最近では例えば年末とか誕生日とかの何かしらの区切りになる日にこの「将来と過去との衝突」を感じることが多い。ああ、これは私がいることで起きている衝突なのだなと。

学生時代に理解できなかった筈の事が感覚として自分の中にあるのはとても不思議である。
なんというか、学生時代に自分自身で問題として取り上げ、必死で書いた卒論のテーマがこの年になっても自分の生の中で何かしらのテーマとして問題意識の中にあり続けているということは中々に素晴らしいことであると思う。

現在卒論を書いている貴方、これを一生の宿題と受け取るか一生の呪いと受け取るかはわからんけど、とにかく行き詰れば、自分の中にある問題意識に沿って、自分が問題に思うことについて書いてみれば突破口は開けるはずである。健闘を祈る。

朝から起きて部屋の掃除をし、昼が過ぎてから霙が降る中を自転車に乗って町に出て8GBのmicroSDHCを1490円で買った。安くなったものだ。
マンガン電池を買い、ワインを買い、本屋とCD屋を冷やかして、家に帰って音楽を聴く。
先日ベートーヴェン本を読んだこともありひたすらピアノソナタを聴きまくり、大晦日ということで恒例のN響の第九をテレビで観た。
ベートーヴェン好きの私は年末に限らずこの曲をCDやらMP3やらで聴く事は多いのだが、映像で見る第九は合唱隊の前にいるトライアングルの人と第三楽章中ずっとと第四楽章の殆どを座ってじっとしている独奏者が気になって仕方ないのだった。

この2008年はいろいろな意味で「老い」を感じた年であった。今の私の年はまだまだ若い内に入ると言う人も多いけど、力だけで押したり物量で押したりする古式ゆかしい兵法にはっきりした限界を感じた。これからは変革ではなく発展が求められているような気がする。
村上春樹はデビュー作で「もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。」と言っていたけど、これが本当に一般論でしかないことをつくづく感じた年であった。

私事以外で言えば、社会的に2008年は中々大変な年であったらしい。
2006年の最後にも同じようなことを書いたけど、2009年が希望に満ちた年になり、2009年のブログもそんな楽しいエントリを提供したいと願いつつ、ベートーヴェンの交響曲第九番、作品番号125の第四楽章のバリトンのレチタティーヴォを2008年の最後の言葉としたい。

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
(おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか)

ということで、旧年中は大変お世話になりました。
来年も、土偶StaticRouteと土偶をなにとぞよろしくお願い申し上げます。m(__)m

2008年12月30日

●下から目線のissue

なぜか街中に人が少ない。元々席と席の間が広く取ってある、満席でも快適であろうお店が更に空いていてとてもとても快適であった。
その広々したお店でスパゲティーとピザを食べ、今年の夏の海で作って食べた「サザエとカニとわさび風味アオサの白ワインベースの海水茹でスパゲティー」の美味しさは異常だったと思う。

デザートにエスプレッソを飲みながらケーキを食べ、買ってきた『ビッグ・イシュー』を読む。
定価300円のうち160円が販売人であるホームレスの人々の収入となるこの雑誌は、ホームレスに収入源を提供し、彼らの自立を支援するコンセプトで刊行されたものであるからして、どんな雑誌にも無い目線と価値観で溢れている。
販売人であるホームレスのおっちゃんへのインタビューとスペイン人ハリウッド女優のペネロペ・クルスへのインタビューがほぼ同じ扱いとして読めてしまうバランス感覚は中々お目にかかれない。
この雑誌を読んで、今年大きな問題となった問題を思い、自分が恵まれていることに感謝するだけではまだまだ足りないのだ。と思った。

2008年12月28日

●年賀状定型句「おもちを食べすぎないようにね!」の真意

家に引きこもって、音楽聴く、本読む、ネット巡回、ルービックキューブ、を繰り返して一日を過ごしていると気づけば直ぐにご飯の時間になる。しかもご飯の間にはおやつをポリポリ…ということでこの二日間食べてばかりいたような気がする。
で、夕方から久しぶりに外に出たのだが、それもちょっとしたお料理+パン食べ放題のために出かけたのである。家にいても食べ、外に出ても食べ、私は生きるために食べているつもりやったけど、実は食べるために生きているのだろうか?という疑問が心の中に芽生える勢いである。

しかし、放題という事で放題してるようではイカン。このままでは正月明けにはプクプクになってしまうという危機感から、かなり抑え目に腹八分目に、抑えに抑えて食べたつもりであった。
しかし、私自身が自分で思った「腹八分目」の食べ方は、はたからみると「片っ端から食べていた」ように見えたらしい。

主客の見解の分裂がここまでになってしまうともう何が真実かすらわからん。
今の私の胃にとっては八分目なのやろうけど、一般的にそれは八分目とされる量を大きく逸脱しているのだろう。
自らの食のリミットすら簡単に踏み越えさせてしまう勢いを持っている、年末年始の食のインフレに恐怖を感じたのであった。

そういえば、小学生のころ年賀状に「おもちを食べすぎないようにね!」とよく書いてあり、子供ながらに「正月早々なんでそんなこと言われなあかんねん。しかも何故に餅?」となんとなく違和感を感じていたのだが、その意味が今になって理解できた。

「おもちを食べすぎないようにね!」は単純に警告の意味だけではなく、人間の弱さや醜さ、そして人間の限界や可能性にまで言及した、中々含蓄深い言葉なのだと思った。

2008年12月24日

●クリスマスの宵山でええじゃないか?

「わかりやすさ」というのは一つの価値であると同時に一つの罠としても優秀であるように思う。なんとなれば「わかりやすさ」が目立つばかりにその陰に隠れた落とし穴に気づきにくいからである。
また、なんらかの「象徴」は「象徴」となる事物そのものに価値があるのではなく、「象徴」の対象となる概念に価値があってこそ価値が生まれることが多いと思う。大抵の場合「象徴」となる物自体に価値があることなど殆ど無いのだ。

そして、クリスマスで連想される殆どのものがこれらの範疇に入るように思う。それらは「クリスマス的な物」の「わかりやすい」「象徴」であり、殆どのものは本質的にチープである。おまけにそれらの多くはそれにプラスして「わざとらしい」まで加わっているように見える。
「クリスマス」と聞いて拒否反応を脊髄反射で示してしまう人種はここらあたりに過敏反応しているのではないだろうか。

冬至や土用、彼岸などの日本の年中行事は、南瓜やウナギやおはぎなど、意味を持たせた食べ物と関連付けられている場合が多く、食べ物とセットになって覚えられることが多い。逆に言えば食べ物に関連付けられた年中行事は忘れられにくいともいえるだろう。
しかし、「クリスマス」に関する食べ物、ケーキや七面鳥などは本来「クリスマス」自体に何の関係もない。
西洋的な文化からすればそれらはただ何かを祝うためのパーティー料理に過ぎなかったケーキや七面鳥(鳥の腿肉)は、そういった祝い事にそういったものを食べる文化の無かった日本では、パーティー料理という意味あいではなくクリスマスの食べ物としてクリスマス性を獲得したのだろう。
そして食べ物とリンクした年中行事はいったん定着してしまうと中々消えることは無いのである。

しかし、元来の年中行事ががっちりと根を張っているキリスト教国でもない日本の風土で、「クリスマス」が年中行事としてこれほど定着していることは本来不思議なことであるといえば不思議であるかもしれない。
「クリスマス」がそうなることは消費行動の増大という意味からすれば商業的にとても魅力のある現象であるけど、節分の太巻きが寿司屋の陰謀であるとか言うように、単純に「クリスマス」が何らかの商業的な意図でもって情報操作や扇動によって煽り立てられたものであると言い切ってしまうのも間違いであるように思う。
例えば、以前からアメリカではなかなかのイベントである「ハロウィン」を定着させようとする商業的な意図が完全に失敗しているところを見ると、いくら情報操作されやすい国民性といっても、全く土壌の無いところにとってつけたようなイベントは定着しないのである。
クリスマスが日本に定着したのはそれなりの必然性とか理由があるように思われる。

キリスト教的な視点から見た「クリスマス」が日本の現状の「クリスマス」と乖離している一般的な事実は、日本の現状の「クリスマス」がキリスト教的な本来の「クリスマス」を祝っていない事を表しているのは明らかであるし、そのことは「クリスマス」がただの切っ掛け、言い換えればダシに過ぎないということをも表しているように思える。
キリストの誕生というまぁ祝って害の無い妥当な出来事をだしにして騒ぎまくるのは、「クリスマス」が日本的とも言える「村祭り的ハイテンション欲求」の絶好のターゲットとしてそのはけ口になっているからではないだろうか。
本来の意図を度外視した騒ぎぶりはなんとなく「ええじゃないか」運動に似ているように見えてしょうがない。「クリスマスでええじゃないか」というわけである。

「ええじゃないか」ではないけど「村祭り的ハイテンション欲求」に関して「同じ阿保なら踊らにゃ損々」という言い方があるけど、「同じ阿呆なら踊ったら損」という見方もあっていいのではないかと思った。

2008年12月22日

●イオナズンでは無くザラキ

久しぶりにテレビのニュースを見た。
文字で読んだり、人の話で聞いている限りでは「ひぇー世の中は大変なことになってるなぁ」って感じなのだが、実際に映像で悲惨なことになってる当事者の話を聞いていると鬱共鳴してしまいそうである。
いつも巡回して楽しみに見ている日記サイトの人が、ニュース番組でろくなニュースがやってなくて、見てるだけでグッタリしてくるから教育テレビばかり見ている。ってな事を書いていたのだが、なるほど納得である。
「格差ですらない絶対貧困」という言葉は破壊力満点である。「イオナズンでは無くザラキ」といった趣がある。
ネットで「そろそろリセット押しながら電源切ろうかな」という言葉を読むにつけ、わけのわからない、行き所の無い、なんとも表現しがたい、怒りに近い感情が湧き上がる。

何事にせよ、問題があろうが無かろうが対策が見えればまだいい。
それよりも「どうすればいいのかわからない」というのが一番の問題なのだろうなと思った。

2008年12月20日

●似て非なるものその名は「ピカ」

pika.jpg
またしても古本の児童書の絵本コーナーでの話。
絵本の棚でこんな感じに本が並んでいると、子供も大人も勘違いしてしまうのではないかと思った。

2008年12月18日

●みんなみんな生きているんだ友達なんだ

自分のことを自虐的に「おっさん」と呼ぶおっさんってのは見ていて気分の良いものではない。
また、自分を「おっさん」とは思いたくなくないためにやたらと「おっさん」でないように振る舞うるおっさんも見ていて気分の良いものではない。
だからといって、どう見ても「おっさん」としか言いようのないおっさんを見ていることが気分が良いかと言えばそうでもない。
「おっさん」であることを受け入れつつも「おっさん」であることに甘んじない。といったことが「おっさん」であることの理想であろう。
ただ「おっさん」であることは状況にすぎないが、主体的に「おっさん」であるということはなかなかに難しいのである。

しかし、ここで前の文の「おっさん」を「人間」と入れ替えてしまうとどうだろう?

自分のことを自虐的に「人間」と呼ぶ人間ってのは見ていて気分の良いものではない。
また、自分を「人間」とは思いたくなくないためにやたらと「人間」でないように振る舞うる人間も見ていて気分の良いものではない。
だからといって、どう見ても「人間」としか言いようのない人間を見ていることが気分が良いかと言えばそうでもない。
「人間」であることを受け入れつつも「人間」であることに甘んじない。といったことが「人間」であることの理想であろう。
ただ「人間」であることは状況にすぎないが、主体的に「人間」であるということはなかなかに難しいのである。

これはこれでちゃんとした文になっていると同時に、「おっさん」のありかた = 「人間」のありかた
なる何ともイデア論的な興味深い結論が導き出されるのである。
「おっさん」であること、または「おっさん」になることは、直接的にも間接的にも、いろいろな意味で「人間」そのものになることなのである。

てなことを適当に口から出任せ書いてみたが、こういったよくわかったような、よくわからんようなことを言って、人を煙に巻いてプチ詐欺をはたらくのもオッサンの特徴なのでゆめゆめお気をつけ遊ばせ。

しかし、オッサンであることを受け入れるというのは本当に難しいし、同時に人間であることを受け入れるのも本当に難しい。

2008年12月17日

●映画:ハーモニー・コリン「ガンモ」 / 癒し系グロ映画 /デビュー作らしいデビュー作

amazon ASIN:B0000CCNG3 先日見たハーモニー・コリンの「ミスター・ロンリー」 がとても素晴らしかったので、同監督の初監督作品である「ガンモ」(1997/米)を借りてきて観た。
ピンクの「うさ耳」をつけた少年が便器に座ってアコーディオンを弾くポップな感じのパッケージだが、この映画は、このようなイメージから通常の思考回路で想像されるところからは遥かに隔たっている
ジャケ借りやジャケ買いした人はさぞかし驚いただろう。

過去に竜巻に襲われて町中を破壊しつくされた、白人系の下層階級の人々が住む田舎町で、閉塞した日々を送る若者たちの姿を、空気銃を持ち歩き、殺した猫を肉屋に売って小銭を稼ぎ、シンナーを買ったり女を買ったりして暮らす少年二人を中心にして描かれる物語である。
ストーリーのようなものは全く無く、ただ町の人々の日常がドキュメンタリーのように切り貼りされて流される。
タイトルの「ガンモ」の意味はよくわからない。

いわゆる普通な人が全く出てこず、出てくる人全てが、精神的、肉体的、心情的、倫理的な人間の属性のどこかに欠陥がある人間ばかりであるし、映画に出てくる家のことごとくがゴミ屋敷であり、彼らは非生産的な遊びと非生産的な日常に明け暮れている。
映画の中のその欠陥のある人たちの暮らしが妙にリアルで、生活して生きることのグロテスクさが、強烈な濃さでこれでもかと映し出される。もうこれはある意味でグロ系映画といっても良いように思う。
そんな様々な欠陥のある人たちが寄り集まって、前に進むでもなくゆっくりと後退してゆくようななんともいえない閉塞感は観ていてとても息苦しかった。

一方でこんなにもグロい暮らしをする彼ら欠陥を持つ人々が、映画の中でなんと素晴らしい表情を見せることか。彼らに対する優しさや愛が無ければ、彼らのこんな素晴らしい表情を撮ることは出来ないだろうと確信する。
次々と繰り返される、彼らの目を背けたくなるようなグロい暮らしを、息の詰まりそうな閉塞した非生産的な暮らしを、ただそこあるものしてニュートラルに見せる事自体が、監督の視線の優しさであるだろう。
良いや悪いや肯定や否定といった価値判断を挟むのではなく、ただ事実をそのままに見ることや見せることの優しさというものもあると思う。
乳首に黒いガムテープを貼った三姉妹がベッドの上で飛び跳ねるシーン、マッチョ兄弟のじゃれあいが喧嘩に発展しそうになるシーン、父親から娘を買った少年がその娘と語るシーン、息子に銃を突きつけた母がタップダンスを踊るシーン、雨のプールで女の子と戯れるバニーボーイのシーンが大好きだ。
本当にこの監督はとても印象に残るシーンを多く撮るなぁと思う。

最初に「ミスターロンリー」を観た目からすれば、映画としては「ミスターロンリー」の方がはるかにすばらしいけど、この監督の人々を捉える捉え方やら、人に対する見方を凝縮したものがこの「ガンモ」になるのだろうなと思った。

映画としての総合的な完成度では、「ガンモ」よりも「ミスターロンリー」があらゆる意味で優れているけど、強烈さやインパクトと言う意味では「ガンモ」の方が強い。
正にそれでこそデビュー作らしいデビュー作なのだろう。
やっぱりこの監督はとても良い感じである。

2008年12月12日

●ブラックアウト金曜日

細かいことの積み重ねで堆積していたものが、ふとした失態で精神的な視界のすべてに巻き上がり、妙なスイッチが入ってダウナー状態に移行する、感覚としてはブラックアウトに近いような事が時々ある。
こういった場合、表面的には「ふとした失態」ってのが直接的な原因に見えるけど、これは突発的な事項に過ぎず、意図して行うわけじゃないので反省する程度しか対策が無い。
それよりもちょっとしたきっかけて巻き上がってしまうほどに細かいことのなんやかんやを堆積させてしまうような、精神的な傾向の方こそを問題にすべきだろう。

ゆっくり自転車をこいで帰り、ゆっくりご飯を食べ、ゆっくりお茶を飲み、気づいたら寝入っていた。
夜中に目を覚ましたけど、やっぱり何もせずゆっくり風呂に入り、布団で歴史の参考書を読みながら寝た。チャンドラグプタが政治的にインドを統一し、ヒンドゥー教が社会的にも宗教的にもインドを覆いつくそうとしていた。

2008年12月11日

●傭兵、凶戦士、焼肉

制圧は簡単だろうと思い込んではじめた作戦行動が暗礁に乗り上げた場合、援軍も補給も期待できない孤立無援の傭兵は辛い。
あえて自ら設定して安請け負いしたターゲットとあればなおさらである。

ギリギリの前線まで出て銃を撃つ必要なんかどこにも無いと思いつつも、そこまでして完遂するほど意味のある作戦行動ではないと思いつつも、一度発砲が始まれば相手が死ぬか自分が死ぬかのどちらかしかない。と思う感覚は、傭兵のそれでも、兵士のそれでもなく、凶戦士であるとしか言いようが無いだろう。
未練がましく攻略を続けるために迂回路を探しつつ、地雷を埋めたり双眼鏡をのぞいたりするのはなんともいただけない。退路を断たれる前にさっさと撤退するに限る。

話は全く変わる。みんなで焼肉を食べに行くということで、昔通っていた道を、昔通っていた時間帯に走ったのだが、なんだかとても懐かしかった。

2008年12月10日

●もう「消費」すら快楽じゃない「市民」へ

奴隷制度の発達に伴ってギリシャやローマの民主(風)社会はその文化と社会を繁栄させたけど、ギリシアのポリス社会の衰退やローマの共和制の崩壊は、エスカレートした奴隷制度から生まれた歪が極端な貧富の差となって社会全体を覆ったものであると言える。
てな感じの事が「世界史B」の参考書に書いてあるので、恐らくこれはある程度一般的な歴史的な見方なのであろう。

奴隷は無給で奴隷として使うよりも、薄給と消費者の立場を与えたほうが資本家は潤うという試算からすれば、奴隷を所有するよりも使い捨てにする現代はより洗練された形の奴隷制度であるという意見は、なんとなく感覚としてよくわかるような気がする。

不景気でいろいろな社会体制や社会制度が危機に瀕しているといっても、それはギリシャやローマのように奴隷制度ともども社会が崩壊する前兆ではなく、逆に現代の奴隷制度はその奴隷制度をより強固なものにする方向へと向かっているようになんとなく思う。
執政官やら元老院は支配者としての、ポリス市民やローマ市民はより市民としての、奴隷はより奴隷としての自覚が深く意識されるようになるに違いない。

奴隷制度に肯定すべき点があるとしたら、ギリシャやローマがそうであったように、文化の発展以外に無いという見方がある。
現代はより激しい奴隷制度の社会へと移行するのやろうけど、現代の奴隷制度で生まれた余剰物を元に、現代の市民がまともな文化や価値を生み出せるとはとても思えない。
奴隷を「消費」し、奴隷制度すら「消費」した先にはいったい何があるのだろう?

などと、最近の社会情勢を人から聞き、寝る前に歴史の参考書を読んで思ったのであった。

2008年12月09日

●高校時代の勉強を今頃になってはじめる

昔から人間の歴史に興味がもてない、つまりは人間そのものに興味が持てない、とか言って「歴史」に興味が無いと言って来た。
しかし、今頃になってなんとなく歴史に興味が芽生えてきたのは、人間に興味が出てきたと言うよりは、ただ年を取ったせいなのだろう。
ということで、先日数学の参考書を買ったのと同様に歴史の参考書と年表を買ったものの、きっちり勉強する時間なんか中々取れない。
寝る前の本読みの時間を、歴史の参考書と年表を本として読むくらいのものである。
当たり前やけど、高校の時にはいくらでもあった時間はもう既に無い。やるべき時にやらずに後からやろうとするのは中々大変である。

最近、高校生が学校で習うレベルの知識があれば、何かしらの専門家が一般向きに書く啓蒙書や入門書の類を、知識のレベルで詰まらずに、それなりにすらすら読むことが出来るのだろうなと思うことが多い。
言い換えれば、高校生が学校で習うレベルの知識というのは、興味の湧いた事を、自分自身で一人で学ぼうとするための十分条件である。
高校時代の勉強ってのは知恵を得るための知識の裾野としてはかなり有用で実用的な気がする。

こういうことを高校生の時に知っていれば、私の人生もずいぶん違っていたのだろうなと思うけど、大抵の大事なことは過ぎ去ってから知るものでもある。

と、最近高校生の読者がいることが判明したので、かなり意識して、老婆心からこう書いておく。

2008年12月08日

●人生がゲームなのか、ゲームが人生なのか

先日、生まれて始めて「人生ゲーム」をやったのだが、中々シビアでリアルで空恐ろしいゲームであった。

ビジネスコ-スに行かず専門職コ-ス行ったものの、何の専門職にもなりそこねるとアルバイトとして社会に出ることになる。
嫁と子供を抱えて家もマンションも買えずに、車が家ですか?状態でアルバイトとして人生ゲームのコマを進む様は見ているだけで居たたまれない。

人生のドラマがありつつも、最終的に資産ですべてが計られるので、コマを進めてコマの指示に従いつつ、如何に資産をためつつ「億万長者の土地」を目指すかというところがこのゲームの要点になる。
gameoflie.jpg
子供が出来てお祝いをもらうとか、家を買うとかそれなりに人生っぽい指示がコマに書いてあるのだが、最後の最後のコマで余りにもめちゃくちゃなのがあって笑った。
「好きな家にタダで引っ越せる。(住んでいる人がいれば追い出してよい。)」
私もリアルでこんなコマに止まってみたいものである。

そしてゲームも最終盤、「決算日」たる最後の審判にも似た人生の最後の分かれ道で、約束手形が返せない、もしくは「人生最大の賭け」にチャレンジして失敗すると人生の敗者として開拓地に飛ばされることになる。
なんか「カイジ」みたいな話になってるのだが、これは昔は「貧乏農場」という名で、有刺鉄線の中で鍬を振るテレビコマーシャルが子供心にトラウマを植えつけるといういわくつきのものであったらしい。

最後で子供が金に換算されるルールも微妙に怖いので、もういっそのこと女の子なら二倍の価格で売り飛ばせる特殊ルールを採用して開き直るのが乙である。
また、単位がドルなのでなんか巨万の富が動いてるような気がするけど、ドルはドルでもジンバブエドルとか言っておき、なんとなく価値のない高額紙幣がそこらで飛び交うインフレ気分を味わうのも乙であろうか。

しかし、いずれにせよリアルで人生の荒波に飲まれそうになっているおっさんにとってはとても怖いゲームやなぁ…

2008年12月06日

●アニメじゃないアニメじゃないアニメのような事さ

昼と夜の二回に分けて自転車で走った。この冬一番の寒さは中々のもの。
特に日が暮れてからの寒さは尋常じゃなかった。

夜、歩道で信号待ちをしていたら、向こうの方から「ぎょぇ~」という奇声と共に女の子がママチャリに乗って突っ込んで来た。
普通避けるか止まるかやのに何で真っ直ぐ突っ込んでくるか?ビンディングをはずしてトップチューブに跨っている不自然な体勢なので避けようがない。
これは受け止めるしかないと身構えるところに「ひゃ~ブレ~キ~」といいながら迫る女の子。
前かごを止めようと手を伸ばしたところに寸前で停止。女の子はよろけて自転車を降りる。何とか衝突を免れた。
「すいません~ごめんなさ~い。ブレ~キが~手が~」という女の子の手は手袋なしで真っ赤。そりゃこの寒さで手袋無しやったら、手が麻痺してブレーキ握れんやろうなと納得。

これが漫画やアニメならきっちりぶつかって、次の日にでもばったり何処かで合って「あ~っ!昨日の~!」とか言うところなのやろうけど、現実はそんなにドラマチックじゃない。

「大丈夫~?手袋しとかんとやばいって~この手袋でも寒いねんから」とフリースに東ドイツ軍豚革グローブの二枚重ねの手を見せながら、現場すぐ近くにある99ショップで軍手でも買ってはめて帰るのをお勧めしておいた。

女の子は「ごめんなさい。そうしまーす。ありがとうございま~す」と逃げるように去っていったけど、私はこの寒さで長距離を走ったゆえに鼻水たらしながら涙目で喋っていたので、女の子からすればさぞかしキモかっただろうなぁ。

2008年12月05日

●言葉が適当なのではなく

「そうしょくけい」なる言葉を初めて聞いたのだが、聞いてすぐに意味がわからなかったので自動的に頭の中で「装飾系」と変換し、なんとなくアールヌーボーなクリムトやらビアズリーみたいなのだろうと推測して、そういうなのを想像しながら話をしていた。
時々「ん?」と思う事があっても特にそれほど違和感無く話が進んだのだが、殆ど話の終わり頃に「装飾系」ではなく「草食系」だという事に気付いた。
「装飾系」と「草食系」は音が一緒でもそれが指すものは全く違う。「草食系」を殆ど対立概念に近いような「装飾系」と入れ替えても殆ど話が通じてしまうとはびっくりである。

実際の「装飾系」と「草食系」の間に大きな違いがあるのだとしても、話の上、言葉のレベル上では「装飾系」も「草食系」も大した違いはない。
それが言葉自体の持つ曖昧さや適当さなのか、私の喋る言葉の曖昧さや適当さなのかは分からないけど、一体言葉でどれだけのものが伝わるのだろう。と思うことが最近多い。

言わなければ伝わらないことは多いけど、言っても伝わらないこともまた多い。その癖に言わなくても伝わることも多い。
この中途半端さというか限界は、言葉の特性というよりは、人間の特性なのだろうなぁと。

2008年11月21日

●祝うと呪う

更にドラゴンボールの話である…もうちょっとだけ続くんじゃ。

私が小さな頃からずっと心に残ってきたシーンがある。コミックスでいうと30巻での人造人間16号の言葉である。
ドラゴンボールを良くご存知で無い人に説明しておくと、人造人間16号はドクター・ゲロというマッドサイエンティストが作ったアンドロイドで、同じく17号、18号というアンドロイドと共に、この漫画の主人公である「孫悟空」を倒すべく開発された。
昔にレッドリボン軍の天才科学者であったドクター・ゲロは、軍を壊滅させた孫悟空に恨みを抱きその復讐の為に人造人間を作ったと言うわけである。

dragonball30.png で、孫悟空を倒すために旅を続けていたその人造人間達は、とんでもない戦闘力を持ちながらも、襲いかかってきた相手にしか手を出さず、戦っても相手を殺さず、世界制服にも人殺し自体にも興味は無い、今までの極悪非道の敵キャラとは一線を画していた。
クリリンがその人造人間達の性格に気付いて、孫悟空を倒すために旅を続ける彼らに、孫悟空を殺さないように頼んでみたのだが、そこで16号が言った台詞が「ムダだ オレたちは孫悟空を殺すためにつくられた」である。(画像はクリックで拡大)

鳥やら獣を愛し、弱者に優しい16号が、そんな優しい性格ながらも、自分の考えからすれば明らかに意味のないはずの生まれた理由とされている「孫悟空を殺す」にとらわれているのがやたらと印象に残っていたのであった。

一般的な我々のような普通の人間が自身の「生きる意味」とか「生まれた理由」なんてのをはっきりと認識していることなんか皆無であろう。
それは自分で意識できないからこそ様々な悩みの種となったり、何かしらの思考の対象となったりするわけである。

それでも、もし例えば、自分の親や社会から自分の生まれてきた理由を告げられればどうなるだろう?
人造人間16号がそうであったように、それがどんな恐ろしい事であってもバカバカしい事であっても、単純に無視する事は出来ないだろう。
16号が、その自分の生まれた理由が例えどれだけ意味のない馬鹿げたものであったとしても、それが自分が作られた理由であるという以上、それを無視する事は出来なかった。
「生きる意味」とか「生まれてきた理由」なるものは良い悪いとか意義の有る無しなど関係ない圧倒的な魅力と拘束力を持つのであろう。
オウム真理教はその信者に、誰も答える事の出来なかった「生まれてきた理由」を示し「生きる意味」を与えたという。信者たちがその初めて告げられた「生まれてきた理由」と「生きる意味」に抗うのは並大抵ではなかったのだろう。
今となれば、それらはカルトの典型的ないわゆる「マインドコントロール」の手法として一般的に認知されている。

また、今まであまり目にする事は無かったけど、最近やたらと私が身近なリアルな話として聞くようになったのは、その逆説的なパターン、生まれてきた理由を教えられるのではなく、生まれてきた事を否定されるパターンであろうか。
つまりは、お前が生まれてきた来た事に意味はない、お前はいらない子供である。という意味と理由の不在と否定の宣言である。
意味の内容を告げられるのではなく、意味が無い事を告げられるのである。
生まれてきた意味を告げられた事も無く、生きる意味を知っているわけでもない我々からすれば、何をそんなにええ歳までそんな事引き摺ってるねん。と思うわけであるが、これも、一種のそういった「マインドコントロール」ととれなくも無い。
本人がトラウマだとして抱え込んでいる以上、はたから見る以上に中々に根が深い問題なのであろう。

しかし、ここで良く考えれば、それらは全て、全ての人の各々に「生まれてきた理由」と「生きる意味」が存在していると言う前提の下に成り立っている話である。
それがあるとされるからこそ、それを激しく求めて得られず苦しみ、それが得られたと思うと安心し、それを求めない生活をする人を非難するのである。

もし、そのある筈だとされる「生まれてきた理由」やら「生きる意味」がそもそも無かったとしたらどうであろうか?
なんか実存主義みたいな話であるけど、我々が在る事と、我々のある事の意味が全く関係の無い話であったらどうであろう?

我々の存在が先天的に持つはずだった我々自身の存在の意味の存在を失ったからといって、いわゆる一般的に言うニヒリズムに走るのは分かりやすいパターンであるけど、逆に無いからこそ自分たちで作っても良いと言う考え方もあるのではなかろうか。

ある種の人を捕らえて放さない、この「生きる意味」と「生まれてきた理由」なる概念の色々な意味での隷属や呪縛は、そもそもそんなものは最初から存在しないと理解すれば何かしらの開放や自由が得られるのではなかろうか。
そもそもの最初から自分の存在に意味も理由も無い、それは悲しくはあれど単なる事実であるから諦めるしかない。
それを理解しつつも、どうしてもそれでもそれを欲するのなら、無いはずのものを探したり人から教えてもらおうとせずに、ただ単に自分で作ればいいだけの話である。
そういった状態を「人間は自由であるように呪われている」とか言うノーベル文学賞を辞退したフランス人がいた。
しかし、その台詞をかの有名な青木ケ原の樹海の落書きのように、もっとポジティブにとらえることができるだろう。
つまりは、「人間は自由であるように祝われている」とでも言い切ってしまえばよかろう。
である。

気付けばやたらと長い文になってしまった。最後まで読んでくれてありがとう。

2008年11月20日

●バカ映画、クソゲー、トンデモ本の意義

ネットでドラゴンボールを検索していて見つけた、ファミコン用の「タッチ」というゲーム。
いわゆるラブコメか野球もののゲームかと思いきや、「タッちゃんとカッちゃんが野球のボールを投げて敵と戦う横スクロールのアクションシューティング」であるらしい。
私はタッチを読んだ事も観た事もないので何も感じないが、激しく違和感だけは感じる。タッチファンはさぞかし大喜びであろう。
ゲームだけでもぶっ飛んでるのに、いきなり最強状態、全クリア直前で始まるらしい隠しパスワードが凄い。これは私自ら口にすると言う野暮はすまい。皆様ご自身で検索していただきたい。世の中には凄いゲームがあるなぁ…

そういうわけで、早速このファミコン版「タッチ」を入手してやってみた。当然パスワードは例のものをグヘグホグフ。

たしかに、何の説明も脈絡無く突然始まるゲームに唖然とする。
わけのわからない小人や小さい飛行機や謎のメカがが突然襲いかかってくるようなこの世界が「タッチ」の世界観と相容れない事はこの私にでもわかる。
のんびり恋の鞘当をしながら野球をしておればいいというわけにはいかない。敵を殺して謎の命の数値を稼ぎ、自らの謎の命の数値でアイテムを買い、謎の命の数値をゼロにして死んでしまわないよう、生きる為に戦わねばならないマッチョな世界である。
これは…これも最近読んだ『漂流教室』に似ている。どちらかというと『タッチ』が異空間に漂流した話である。「タッチ」版『漂流教室』である。
全く想像の域を超越した敵キャラやら南の台詞のぶっ飛びっぷりにとてつもない「狂気」を感じる。
ずっとコントローラを握っていると何やら薄ら寒い恐怖が底から湧き上がってくる。
これは恐ろしいゲームだ!クリアしてないけど。

原作を全否定してタダのバカ映画としてしまったもので有名なものの中に「スターシップ・トゥルーパーズ」がある。これは「機動戦士ガンダム」にも影響を与えた、ロバート・A・ハインラインのSF小説『宇宙の戦士』の映画化ということになっているけど、原作に対する冒涜であると言われるほどの無茶苦茶っぷりのバカっぷりは素晴らしい。
「タッチ」を「タッチ」として描いていただけでは歴史の波に消えてしまったに違いない。全く別物に作り変えてしまったからこそその馬鹿さ加減で歴史に名を残す事となったのである。

「名作」と呼ばれるような正当に素晴らしいものは、とくに何もしなくてもその名声は必然的に残って行く。
しかしながら名声と実質的なものはまた別である。
良い映画を良い映画として、良いゲームを良いゲームとして、良い本を良い本として受け取るためには、大量のバカ映画とクソゲーとしょうもない本が必要なのである。
こういったクソゲーやバカ映画は逆の意味で名作が何故名作と言われるゆえんを持つかのその素晴らしさを教えてくれるものである。
インターネットにはバカ映画やクソゲーやトンデモ本を専門的に紹介するサイトが沢山あるが、そういう意味で、あまりにもバカなものこそを歴史を超えて語りついで行くという傾向や趣向は中々に知的に高度なムーブメントであると思った。

2008年11月19日

●ドラゴンボールを読破して少年時代の終わりを感じる

amazon ASIN:4088518314 amazon ASIN:4088510909 今更ながらドラゴンボールを全巻読破した。
昔読んでいた頃は、人造人間が出てきた位から「はぁ?」という感じになり、セルが出てきて更に萎え、魔人ブウが出てきそうになったあたりで完全に読む気を失ってしまった。

ドラゴンボールで代表されるようなどんどん強い敵が出ていてそれを倒すたびに又出てくるという展開を「パワーインフレーション」と呼ぶらしいけど、昔はこの強さのインフレが私とってリアリティーを持ったのはフリーザのあたりまでだった。
何で宇宙で一番強い生物(フリーザ)が、地球人の作ったアンドロイド(人造人間)に、はたまたバイオテクノロジーで作られた生物(セル)より弱いねんと。
昔はそう思って一気に読む気を失ったのだった。
今思えば、ドラゴンボールにリアリティーを求めて読んでいたとは中々私もかわいらしかったなぁと。

しかし、Wikipedia情報によると、このドラゴンボールを作者の鳥山明はもっと早くそこそこで終わらせたかったらしいけど、あまりにも経済効果や社会に対する影響が高くなりすぎ、終わるに終われなかったらしい。
そういえば、余りにも何でもありになった展開を、作者人が自虐的に語っているように見えるところが漫画の端々に出ていたように思う。
界王神がぼんぼん死んだ人生き返らせて秩序も何もあったもんじゃないと嘆いてみたり、ブルマが「もはやあなたなんでもありね」と言ってみたり。

昔は「何じゃそら?」と思って途中から読む気を失ってしまったけど、そういう事情もあってんなぁと、最後の魔人ブウの決着のつき方も少年漫画らしく中々いい感じだった。

少年時代やら青年時代やらが終わったなと感じる出来事や経験っていうものが誰の中にもあるだろう。何かの時代を決定的に隔てる経験であったり出来事であったり知恵であったりがそれである。
ドラゴンボールなる漫画は私の少年時代の文化のかなり大きなウェイトを占めていたわけもあるのだろうか、全巻読み終わって、なんか少年時代が終わったような気がした。
というか、この歳になってそんな事を思ってとてもびっくりした。

2008年11月16日

●ざわ・・・ざわ・・・カイジっ…!

amazon ASIN:4063366081 amazon ASIN:4063368327  ちょっと前から漫画ばかり読んでいる、以前からやたらとダメ系サイトの住人達から言及されるだけでなく、彼らのバイブルの如き扱いを受けている、ずっと読みたかった漫画である『賭博黙示録カイジ』を読んだ。
確かに人気あるだけあって面白かった。

その他の漫画でありがちな要素は全く無い上に、人間の欲求を金だけに集約したものの見方はとてもわかりやすいし、女性キャラが一人も出てこないのが感心した。
格闘するでもなく冒険するでもなく恋愛するでもない漫画と言うのは今更ながら新鮮だった。

しかし…船の上で4時間がかりでジャンケンするだけに…5巻を…鉄骨を渡りカードをするのに…8巻を消費するとはっ…!驚きだっ…!

2008年11月10日

●懐かしい尽くし数学

また古本屋での話なのだが、ふと古本屋さんで高校数学の参考書が目に止まった。
私の時代は、代数幾何、基礎解析、確率統計、微分積分、等と別れていたけど、今は数学Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、A、B、Cと別れているようだ。
で、その微分積分の問題を探して見てみたのやけど全くわからん。
微積どころか数学一般が全くわからんくなってる…

これは結構ショックだった…今を遡る事20年ほど前に出来た事が出来ないとはかなり辛いものがある。
私は無駄に年取ってるんか?どっちかっていうと退化してるんちゃうか?
ということで、もう一度高校数学を勉強したくなったので、とりあえず数学I、数学Ⅱ、数学A、数学Bの「チャート式 解法と演習」いわゆる「黄チャート」を衝動的に買ってきた。

いやーしかし「黄チャート」って単語懐かしいなぁーこれも20年ぶりくらいに使う単語じゃね?

家に帰って読むとなんか懐とてもかしい感覚だ。
あひゃー加法定理とか組み立て除法とかコーシー・シュワルツの不等式とか漸化式とか因数定理とかあったなー懐かしー。とまるで卒業アルバムでも見ているような気分である。
日常生活ではほとんど見る事の無いシグマ君やとかインテグラル君なんかも久しぶりに見た。

ひとしきり懐かしがった後、満足して問題を解く事も無く既に積読状態。
参考書を買った時点で既に安心してしまうとは、高校時代から何も変わっていない自分に気付いたのであった。

しかし、三角形の五心てなんかおっさんが結婚式とかで言いそうな話やなと。
例えば、「人生の三角形には五心と言うものがあります。重心、外心、垂心、内心、傍心…」とかなんとか。いや、言ったところで全然ありがたくも何とも無い話やけどね…

2008年11月09日

●笑える児童書

最近漫画を求めて巨大チェーン店の古本屋さんに行くことが多いのだが、何気に児童書の棚が面白い。

amazon ASIN:4876995559 amazon ASIN:4265033415 例えばこれ、『シベリア抑留って? 』や『ぼくらは知床探検隊』という絵本である。
そんなんいきなり子供に教えてどうすんねん。ものの順序と言うものがあるやろう。などと思うのやけど、意外に大人の趣味丸出しのやたらとニッチな方向性を持った、タイトルだけで笑える児童書が多い。

inflationdet.jpgそれからこれもちょっと笑えた。これだけまとめて並べるとインフレ度合いがよく出てる。そらびっくりマークもつくわ。
個人的には『牛若丸は名探偵!』というのが無理やり感が出ていて一番可笑しい気がするのだが、著者には『ワトスン君は名探偵』とか『スケキヨは名探偵』とかちょっとありえんのにチャレンジして欲しいところである。

2008年11月08日

●溶けつつある小説脳

最近、映画と漫画ばかり見ていたうえに、やたらと気合入れないと読みにくい本ばかり読んで小説を殆ど読んでいない。
ル・クレジオ『歌の祭り』 も読み終わったことやし、手慣らしがてらに久しぶりにさらさらっと読める本を物色、本棚にあった村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 』を読む読む。

この本は村上春樹嫌いが嫌悪する言葉遊びの部分がやたらと鼻につくけど、私が村上春樹の中で殆ど一番好きな小説である。やっぱり読めば読むほど凄いなぁとつくづく思う。
じっくり考えようと思えば考えられるし、物語が自分を通り過ぎるにまかせることも出来る。やっぱり小説はこうでないと。
いやーやっぱり小説はええなーと言うことで小説読むべさ、と思いつつ市立図書館で予約したのは、前から気になっていた新潮クレスト・ブックスの『素数の音楽 』である。
どんな小説かなー♪って検索してみたらノンフィクションらしい。小説ちゃうやん…

2008年11月07日

●やっぱり金曜日はぬるま湯

金曜日。
先週と変わらずヤフオクを冷やかして本とアドエスを持って風呂に入る。
風呂につかりながら音楽を聴きながら本読みながらネットで調べ物をしたり巡回サイトをチェックしたり。
ということでル・クレジオの『歌の祭り』をやっとこさ読み終わった。退屈な前半とは裏腹にスペインのコンキスタドールがインディオ達の国に攻め込む後半のあたりから俄然面白くなって一気に読んだ。

月曜日から木曜日は来るべき金曜の夜を楽しみに生きている。
しかし、先週と変わらない金曜日。読んでいる本が違うだけ。
先週これが一生続くのかと考えると「頭がくらくらして気が遠くなりそう」である。と書いた。
しかし、続くものならこれが一生続けば良いのになと思った。

2008年11月04日

●毒ガス風呂

某レディーの家のドアの動きが硬いだか音がするという事でKURE 5-56を貸してあげたら、お礼に別府温泉の湯の花の入浴剤を頂いた。ありがたや。

早速その「某レディーの粉」を風呂に投入して入った。匂いは温泉だけど、お湯が泥沼のような色に。
色が泥沼とはいえさすがは温泉の素、泥沼の如く這い上がれないくらいに気持ちいい。お風呂好きにはたまらん。
つうことで前日に某氏から情報を頂き、仕事帰りに古本屋に寄って買ってきた『カムイ外伝 1巻』を浸かりながら読む。ふーむ、二巻の冒頭で息絶え絶えになっていた天人様の話の顛末がやっとわかった。

しかしこの湯の花、ちょっと前に流行った自殺に使われるあの気体を発生させる主原料になるのではなかろうか?サンポールなんかを注げばブクブク発生するのではなかろうか?
中学の時に硫化鉄に塩酸を加えて発生させる「卵の腐った匂い」の、作り方を致死量の目安と共にインターネットに載せるとどこからか圧力がかかって削除を要請されるらしいアレである。

しかし、良く考えれば一般的に「硫黄の匂い」と呼ばれるこの匂いは、硫黄自体は無臭であるからして硫黄ではなく硫化水素の匂いである。

大量に吸い込めば死に至るガスも、少量だと臭いながらも気持ち良く感じるのだ。
そういえば世の中そんなものばっかりやなぁ、などと硫化水素の匂いのする風呂でしみじみ思った。

2008年11月03日

●『カムイ伝』が全巻揃う

カムイ伝の5と6巻をやっと買った。買ったのはアマゾンの中古である。本体価格1円で送料340円。それが二冊で合計682円だが、私の買った所は二冊目から送料100円引きなので合計582円。
結局、二冊買って本体価格2円で送料580円である。
うぬぬ、何ものかが根本的に間違っているような気はすれど、ここが一番安いので致し方あるまいて。

長時間風呂に入ってその買ってきた5巻6巻を読む。この壮大な徒労の物語には人の心を聴きつけるなにのものかがある。

成功に意味を見つけるのはあまりも簡単だ。しかし、徒労から何物かを学び取ってこそ人生は徒労では無くなるのかもしれない。
逆に言えば、徒労に見えた事から学ぶ人がいればそれは本当の意味での徒労ではなかったと言う事になる。
学びは徒労に救いを与える。それはどこか祝福に似ていると思った。

2008年11月02日

●手水おにゃのこ/メシ部スイーツ課

howutotemizu.jpg メシ部ラーメン課、チャリ部の活動でラーメン課課長のお膝元に出陣した。
ラーメン課らしく「つけ麺」を食べた後自転車でうろうろ。課長のアタックに反応したり、課長のビアンキが引くトレインから自転車部のシマニョーロ兄弟が勝手に発射して遊ぶ。
初めて長岡天満宮に行ったのだが、手水の使い方の看板に目を奪われた。このようなおにゃのこを看板に使う必然性は??

自転車で走り回って良い具合に血糖値も下がってくたびれた後に和風仕立てのカフェに行く。
メシ部はラーメン課、餃子課、たこ焼き課、バーベキュー課などのハードボイルドな課ばかりで構成されているが、今回から新たに「スイーツ課」が設置される運びとなった。
35オーバーのオッサンだけでスイーツ課の活動もどんとこい。スイーツ!

で、そのカフェの箸袋に書いてあった右近の和歌
「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」
改めて読むとええ歌やんー見方を変えればかなり怖いけど。

2008年10月31日

●ぬるま湯金曜日

家に帰ってだらだらピアノ弾いてヤフオク冷やかした後、本とアドエスを持って風呂に。
風呂につかりながら音楽を聴きながら本読みながらネットで調べ物をしたり巡回サイトをチェックしたり。
ぬるま湯につかりすぎてふやけそう。
とても直接的な意味で。

金曜日の仕事後の開放感は何とも言えない。
しかし、これから死ぬまで金曜日の仕事後を楽しみに生きてゆくのかと思うと頭がくらくらして気が遠くなりそうである。

「何かを楽しみに生きる」のが正当なことだとしても、「何かを楽しみに生きる」のが当たり前だと前提したり、「何かを楽しみに生き」ねばならならないとしてしまうと話がややこしくなる。
「生きがい」やとか「生きる意味」なんてものを持っていない人間は生きてはいけないのか?つー話に似たところがあるやね。

2008年10月30日

●ホップ、ステップ、トドメ からHDD秘孔を一突きへ / 死ぬまでに一度見たいもの

仕事で廃棄するPCのデータ消去をする必要があった。
本来なら土偶自ら手塩にかけて作ったHDDをゼロフォーマットするようなブートCDとかFDから起動してHDD真っ白に燃え尽きさせてやるのだが(お好みによってはランダムデーターで埋め尽くしてもやるぞ!)、今回は既に俗に言う「死体置き場」に大量のPCが積んである状態なので一台ずつ起動させるにはちと手間がかかる。
ということで、HDDの物理破壊と相成った。(本当の所はHDDをぼっかんぼっかんハンマーで叩き壊したいという心暗い欲望も渦巻いていたのだが…)

早速、勤務先のビルメン部隊からハンマーとタガネを借りて片っ端からHDDにアタック。ガンガン、ボカボカ、あー気持ち良いの何の。

しかし真正面からHDDを叩いてもガワが凹むだけで見た目のインパクトもダメージも低い。甲冑の兜を棒で殴るようなものである。
という事で、効率よく確実にHDDの息の根を止める為に、張り合わせたケースの二つのパーツの間にタガネを打ち込んで隙間を開け、そこからマイナスドライバーをプラッタの間に入るように差し込んで捻りながらディスクをえぐって傷つける。太刀で鎧を押し上げて、出来た隙間に短刀を突き刺して内臓を抉るようなものである。

ケース蓋を外す、タガネを打ち込んで隙間を開ける、隙間にドライバーを差し込んでプラッタを抉る。の三工程を手際の良い虐殺のように、「ホップ、ステップ、トドメ!」とばかりに行っていたのだが、しばらくするとHDDに経絡秘孔とも言うべき部位があるのを発見した。

HDDによってまちまちであるけど、薄いアルミであったり、シールであったり、とにかく簡単に突き破れるような材質でのみ覆われているだけの部分があるのだ。
そこにドリルやマイナスドライバーやタガネを突き立てると一撃で「ザクッ」と気持ち良い音を立ててプラッタ全てを一気に貫通して突き刺さるようになっている。
恐らくそれは物理破壊をするために設計された構造であろうけど、その用意された秘孔を一突きすれば、それまでの苦労が嘘のように軽快にHDDは「あべし!」「たわば!」「ひでぶ!」と息絶えるのだ。
しかし、HDDにタガネの突き刺さった様の可笑しい事可笑しい事。中々見られるものじゃない。
むぅ、これは気持ち良い。これは色々と遊びたくなる。

数台のPCを並べて手裏剣や飛苦無を放ってHDD秘孔に突き立てたり、次々とベアリング弾を装填したガスガンの銃口をHDD秘孔にあててゼロ距離射撃したりすれば、さぞかし爽快であろう。

しかし、最も見てみたいのはちゃんとWindowsなりLinuxなりがパソコンとして動作している状態でHDD秘孔を一突きするところである。
OSが動作している最中にHDDが一瞬にして破壊されればれば、OSどんな止まり方をするのだろう?いくらSolarisといえ完全に沈黙するだろう。

巨大なディレクトリ構造を丸ごと圧縮したり展開させ、HDDが最も早く回っている状態でHDD秘孔にタガネを撃ち込む。
毎秒7200回転以上の勢いで回っている状態のプラッタにいきなり何ものかが貫通する様はさぞかしの見物であろうぞ。
死ぬまでに一度は観て見たいものよのう。

まぁ一度見れば満足して何度も見たいとは思わんやろう程度のものやろうけどね。

2008年10月29日

●眠たい固有名詞

最近寝る前にル・クレジオの『歌の祭り』なる本をを読んでいるのやけど、これが妙に退屈ですぐに眠たくなってしょうがない。
今読んでいるところは延々とインディオ達の神話が書いてあるのだが、読みなれない見慣れない音の神やとか人やとかが出てきて訳がわからん。
昔、「Age of Empires II」ってゲームで、「我が名はクアウテモック。テノチティトランの鷲の戦士。」なるアステカの戦士の台詞があってちょっと恰好良かったのだが、彼らの信仰する神の名前が「ケツァルコアトル」ということで、もう音だけでどれが人の名前か神の名前かと土地の名前か聞いただけで全く区別がつかん。
聴き慣れない、読みなれない、見慣れない音の固有名詞の羅列を目で追っているとやたらと眠たくなるのだ。

ロシア文学初心者がイワンとワーニャが同一人物だと認識できなかったり、マクシーモフとサムソーノフの区別がつかなかったりして混乱するのはこんな感じなのだろう。

スペインやポルトガル系でない南米文学を読むにはクアウテモック、テノチティトラン、ケツァルコアトルと聞いて、どれが人っぽいとか神っぽいとか土地っぽいとかいう感覚を養わんとあかんのやろうねぇ。
って、ル・クレジオってばフランス文学じゃないのか?

2008年10月26日

●手篭めと試斬のインフレでござる。の巻

amazon ASIN:4091922422  先日から『カムイ伝』を読んでいて、あと5巻と6巻のみ見つけて読めば全巻読破とういことで古本屋を巡っていたのだが、不意に全12巻の『カムイ外伝』が2巻から12巻まで売っているのを発見してしまった。
「むむ…これを買うと収拾つかなくなるやん…しかも一巻無いし…」と迷う事0.5秒であっさり購入決定!買い叩いて帰ってきた。

という事で2巻から読み出したのだが、いきなり2巻冒頭で知らん忍者が地面の上へ引っ繰り返って息絶え絶え、どうやらカムイにやられたらしく、下忍たちが右往左往して「あの天人さまが」とか言ってる。
うむむ…誰やねん天人様って…話がさっぱりわからん。参ったなぁ…

しかし、『カムイ外伝』は『カムイ伝』に比べると中々エグイ。凄い確立で町娘やくノ一は手篭めにされ、死体で試し斬りするのは当たり前の世界である。あーあ滅茶苦茶なぁもう(w

2008年10月24日

●「一人ケルン・コンサート」でなく「延々とカデンツァ」

前日に寝すぎたせいで体中がギシギシする。仕事から帰って久しぶりにピアノの前に座り、無間地獄の如きバイエルの練習曲を練習する。
よくよくこの練習曲集は退屈だと言う話を聞く。しかし、私にとってはちゃんと譜が読めずに指が動かない自分自身にこそ退屈を感じる。
私にとって、大抵の問題は、相手が問題であったと言うよりも自分に問題があったと言う事が往々にして多いのだ。

今日はそのバイエルを程ほどにして、延々と思いつくままピアノを弾き続ける。適当にどちらかの手で主旋律らしきものを弾いて、もう一方の手で適当に和音をつける。
昔キーボードを持っていた時に良くやっていた遊びだ。
これを延々数時間。
「一人ケルン・コンサート」みたいなものやな、と言いたいところやけど、自称クラッシックピアニストの卵と言張る事に決めたので「延々とカデンツァ」と言う事にしておけばそれらしく聴こえよう。
もちろん、それらしく聴こえる以上ものは全く何も無いが。

しかし、これは適当に弾いているだけやのに、結構その時の精神状態が出ていて面白いなぁ。
それに何よりも気が晴れるのであった。