≪ 2009年10月 | Top

2009年11月17日

●東の小悪魔(直接的な意味で)が逮捕された / 「直接的な意味で」の弁論術

先日婚活サギというかもうほとんど婚活殺人の話をしていて、もうこれは歴史に残るレベル、小悪魔とか悪女とか可愛いもんじゃなくて、直接的な意味で小悪魔で悪女やな。
などと話していたのだが、なんでも人やものを比喩的に表す言葉の前や後ろに括弧でくくったりして「直接的な意味で」とつけると凄く馬鹿にしているような気がする。

たとえば、「彼女は直接的な意味で小悪魔である」を筆頭に「彼は危険なオトコなの(直接的な意味で)」「あの女性は直接的な意味で妖精のようだ」「あの人はまるでトトロのようだわ(直接的な意味で)」
となると言われた本人は腹立つやろうなぁ…
一般的には肯定的な意味での比喩的表現として使われる言葉を、逆に直接的表現として否定的な意味合いを持たせて使うというのは、なかなかにハイレベルな弁論術だと思った。

2009年11月16日

●ネタバレの惑星の黄色いハンカチ (ネタバレ映画パッケージその2 )

amazon ASIN:B000NIVIXM 先日レンタル屋さんでDVDを見ていたら、ストーリーの説明からオチの説明までが記載されている壮大なネタバレパッケージである「幸福の黄色いハンカチ」 を見つけて驚き、これはぜひとも報告しなければ!と、そのこと書いたのだが、今度はアマゾンを見ていたらまたネタバレパッケージを見つけた。

猿の惑星 」のパッケージであるが…いかがなものだろう。
今までこの映画を見たことない人がこのパッケージを見て「自由の女神がどうしたって?」と見始めて、最後のシーンでどう思うのだろうか…うーん。
ネタバレの惑星やねこれは…

2009年11月15日

●押入り漬物店員 / バイオレンスな夢

久しぶりにストーリと脈絡のある夢を見た。

奥の部屋に入ると、怪しい男がいた。
男はこっちを見ると「漬物屋です!電話借ります!」といって電話をどこかにかけている。
いかにも怪しく、空き巣だと確信したので、窓を開けて「警察呼んでください!!泥棒です!!」と叫んだ。
それを聞いた男は受話器を置いて振り向き、憤怒の形相で「漬物屋やって言ってるやろ!!」と叫び、左手で胸倉をつかもうと手を伸ばしてきた。
とっさに左手で相手の左手首をつかみ、体を開きつつ右手の脇で相手の肘を極め、床に倒しつつ脇固め。完璧に極まった。動画で見ると大体こんな感じ。
男は動けないながらもやたらと叫ぶので「黙らんと折るよ、警察が来るまでじっとしてろ」と言ってみる。
男は苦しみながらも「漬物屋や言ってるやろ!折れるもんなら折ってみろ!!漬物屋やって!漬物屋!!」と言って一向に黙らないので、腕はちょっとあれやし指にしとくか、と相手の中指をつかんで思いっきり捻って逆に曲げてみる。
バキバキ言うた上に男の痛がりっぷりが凄いのでどうやら折れたっぽい。
男は滅茶苦茶に叫びだして「痛い!!おとなしくするから離してくれ!」と懇願するので、「絶対抵抗しない?」と聞き、男が逃げたり抵抗したりしないと約束したので腕を離す。
男は立ち上がって折れた指を痛がっていたけど、やおら右手で胸ポケットから何かを出した。どうやら飛び出しナイフっぽい。

男は下に向けて刃を出してこちらに向けて勝ち誇っように笑う。
それを見て私も一緒に笑う。「わはははナイフてはははははは」
男が「何笑ってるねん!」と言ったところで、私は笑い止んでジャケットの下から小型拳銃をを取り出して男に向ける。もちろんP230
男は驚いてナイフを捨てて両手を上げたけど、気にせずスライドを引いて初弾を薬室に装填、男の右足の甲を撃つ。
足の甲から血しぶきが上がり、男はたまらず倒れて足を押さえて叫んでいる。もう床が血らだけ。おびえた顔でこちらを見る男に銃を向けると男は必死で命乞いをしながら後ろに後ずさる。
銃を突きつけながら壁まで追い詰めて額にサイティング、指をトリガーにかける。
ゆっくりとトリガー引いてハンマーが落ちる瞬間右に20センチずらす、弾は男の顔のすぐ横の壁にめり込み、穴からパラパラと粉が落ちている。
「びっくりした??」
男ががくがく震えながら頷いたのを確認して、ハンマーをデコッキングして銃を下ろしたところに制服警官登場、あっけにとられてポカーンとしている。
「何これ??血??泥棒??被害者??」
私は「強盗がナイフを出したので、壁に向けて一発威嚇射撃してナイフを捨てるように言いました。それでも男はナイフを捨てずに向かってきたのでやむなく足を撃ちました。」と言って男を警察に引き渡す。

警察の取調べの結果、男は本当に漬物店の店員だったらしく、店の金を使い込んで逃亡中、ここに空き巣に入ったらしい。電話の相手は年老いた父親だったようだ。
銃を所持していた私は何故かお咎めなし。

しかしこの夢は妙にリアルだった、指折ったときの感触、ガチャっというスライドの閉鎖音、撃った時のリコイル、足を貫通した時の血しぶき…
昔から私は何かを追いかけることはあっても、追いかけられたり何かから逃げる夢を見たことがない。しかも何故か夢の中では妙に強くてバイオレンスなのであった。

2009年11月12日

●鶴見済『人格改造マニュアル』 / 以外に真面目な本 / 一切皆苦へのひとつの回答

amazon ASIN:4872333098 私の敬愛する勝山実氏の推薦図書である鶴見済著『人格改造マニュアル』を読んでみた。著者の鶴見済という人はかの有名な『完全自殺マニュアル』 を書いた人でもある。
この本は1993年に出版された 『完全自殺マニュアル』 の三年後である1996年に出版と結構古い本であり、人間の人格を「明るい⇔暗い」、「元気・覚醒⇔落ち着く」の極に分けた上で、「明るく覚醒」「元気」「落ち着く」と自分の望む方向に自分の人格をコントロールするための、薬、ドラッグ、洗脳、サイコセラピー、心理療法、電気ショックなどの、様々な方向からの方法を効果と方向性と副作用や持続時間、それらを手に入れる方法など共に紹介している。

『完全自殺マニュアル』 は当時異様に話題になったのでほとぼりが冷めてから古本屋で二束三文で売られているのを買って読んだ記憶があるけど、この本は未読であった。本来なら完全にスルーするような本であるけど、勝山実氏の推薦図書であるということで読んでみた。そして、勝山実氏が推薦するだけあって、なかなかに面白かった。

著者は冒頭で 『完全自殺マニュアル』 の出版後にバッシングにあって落ち込み、いやな悪意あるインタビューを抗うつ薬で乗り切り、 『完全自殺マニュアル』 の出版前から決まっていたこの本の執筆自体をこの本の中に書いてあることを駆使して乗り切ったと書いている。
冒頭で著者は生き辛さを常に感じていたり生きることが楽しくなかったり、何かに集中したり打ち込めず挫折ばかりしているのが人格のせいであるなら、何らかの方法でそれを望む方向に脳をコントロールして心を軽くして人生をハッピーに過ごせば良いと主張している。
「明るい暗い」「積極的消極的」といった人格は薬やら何やらで脳をチューニングしてやれば簡単に変わるもので、本来的で普遍的なものではないと繰り返し強調しており、ある意味では 『完全自殺マニュアル』 同様に明らかなタブーの領域に踏み込んでいるように思う。
「クスリも飲まずに苦しいのに耐えているのなんか、歯医者にも行かず虫歯の痛みを我慢しているようなもの」という言葉が印象に残った。

本の内容はまぁそれなりに面白い、色々な薬や、サイコセラピーの章などは読み物として結構楽しめる。
しかし、この本が書かれたのは、一般的な世評や扱いのような、煽りやふざけたようなものではなく、いたって真面目で真摯な差し迫った動機や目的によるものであると思う。
彼の提示した方法や意見に全面的に賛同するつもりはないけど、それでも彼の心意気や姿勢には大いに賛同したのであった。

人生と生きることが苦でしかないと前提した場合の、ではどうやって人生を生きるのか、あるいはどうやって生きることを肯定するのか、そういった問い対するひとつの明確な回答ではあるだろう。

ネットを見る限りこの本のとおりにしたからといってそれほど簡単に明るくなったり積極的になったりすることはないということらしいけど、それでも、「明るい、暗い」「積極的、消極的」などといった性格なんかが薬やら何やらである程度は簡単に変わりうる程度の、ある方向から見ればとても流動的ですぐに変化する可能性のあるものなのだろう。
だとすれば「あの人は明るいから良い人」「あの人は積極的元気でステキ」などのように「明るい、暗い」「積極的、消極的」「元気、落ち着いている」などといった性格的な属性を人に対する評価や価値として使うのはその程度のあやふやなものでしかないのだなぁと思った。
そういう意味でこの本はちょっとだけ私の「人間観」や「性格観」を変えたような気がする。

2009年11月11日

●パンクも一日二回ではびっくりでござる / 雨に走れば / 自転車に乗ろう

昨日は夕方から雨らしいということを聞いていたので雨用自転車で出勤した。
以前から雨用自転車のタイヤのサイド部分がほつれて来ていて「そろそろタイヤ買い替えやなぁ」と思っていたのだが、出勤前に見たらほつれる程度だったものがすでに少し裂けており、ほとんど中のチューブが見えるくらいになっていた。
「これはやばいなぁ」と思いながらも、まぁ一日くらい大丈夫やろうと高をくくってその雨用マウンテンに乗っていったら、急激なブレーキング中に「ぷしゅー」と力の抜けるような音、案の定職場までの道半ばでパンクした。
あーやっぱりーとガックシしながら、道端でチューブ交換する。通学途中の女子中学生に胡散臭そうな目で見られ、集団登校の小学生の群れと暇そうなおばあちゃんにやいのやいの言われて慈愛の微笑を返しつつ心の中で「うるせー!!」と叫ぶ。
ロスタイム五分で職場までこぎつけ、帰りは帰り道の自転車屋さんで新しいタイヤを買って帰ろうと決心する。
そして仕事後、雨降る帰り道にまたしてもパンク、出勤時、もしくは帰宅時にパンクしたことはあるけど、行きと帰りの二回パンクしたのは始めてである。予備チューブがないので雨の中自転車を押しながらいつも行く自転車屋さんになんとか閉店間際に到着した。

私の雨用自転車は、フレームの前三角が白で後ろ三角が赤いマウンテンバイクである。
前のタイヤはこの間交換したばかりの「そんなに安いのか!」と驚いた白いタイヤだったので、後輪もこれと同じタイヤの後ろ半分のフレームの色に合わせた赤か、前タイヤの色に合わせた白にするつもりであった。
店主に「これと同じタイヤの白か赤をよこすのじゃ」と申し渡す。店主は「ははーっ」と在庫確認に奥に引っ込む。
そしてしばらく後に二本のタイヤを持って戻ってきた店主の手には白とピンクのタイヤが。店主曰く「あったのはこれだけ、赤は売り切れにござります」
本来なら赤タイヤ取り寄せてもらうところであるが、とにかく今日乗って帰るためにはタイヤが必要である。
このどちらかを選ばなければいけない。本来なら迷うことなく最初から選択肢に入っていた白を選ぶはずの私であるが、何かが私を一瞬押しとどめ口から出た言葉は「大儀である。ではピンクをいただこう」であった。
店主は半ば驚いた顔で「ピンクですか!?」と絶句する。「あなたのようなオッサンがピンクのタイヤの自転車にお乗りになるので?」とでも言いたそうな顔であるが、武士に二言はないとばかりに鷹揚に頷いてみせる。

そしてそのピンクのタイヤをチューブと一緒に購入し、お店の中を借りてタイヤ交換した後自転車に装着してみると、これはこれは意外にプリティである。
ただ、店主の噛み殺した問いのように、これに乗っているのがオッサンであるという点だけが問題である。しかしこればかりはどうしようもない。

しかし漕ぎ出だしてしばらく走っていると、土砂降りの雨の中を後輪でくるくる回っているピンクのタイヤが何かの拍子に視界に入る度に妙な可笑しさがこみ上げてくる。回転するピンクのタイヤとはねる水飛沫の光学的な美しさが目に沁みる。

疋田智によって街町乗り自転車が一つのの思想やライフスタイルとも言うべき位置にまで押し上げられて久しい。雨用、遠乗り用、街乗り用と三つの自転車を乗り分けている私もその思想やライフスタイルに大いに賛同するものである。
街で自転車に乗ることの楽しさと言うのは、非日常的な強烈な経験によってもたらされるものであるというよりも、日々の変化を肌で感じ、流れる景色と時間と人々の営みの間を通り抜ける、日常的でどこからともなく込み上げて来るような自然な楽しさである。大げさに言えば生きる事そのものの楽しさの延長線上にあるように思う。
今日も出勤時は酷い雨だったのだが、このピンクのタイヤのお陰で楽しく自転車に乗れた。
まぁ、しばらくすればこのピンクのタイヤも見慣れてなんとも思わなくなるかもしれないけど、それでも、久しぶりに自転車ってば楽しいなぁと思わせてくれたピンクのタイヤであった。

2000円しない安価さと、自転車全体を見違えさせてしまうインパクトをもったこのタイヤは、MTB街乗りパイロットの諸氏、はたまた26インチのママチャリライダーの皆様に、自転車の楽しさを教えてくれる逸品としておすすめである。

2009年11月10日

●サウンド・オブ・ネコ / ニャーの歌

先日「猿の惑星」の猿をネコに入れ替えて「ネコの惑星ニャー」とでもすれば和み系映画になるということを書いたが、その「ネコの惑星ニャー」の話をしていて、「サウンド・オブ・ネコ」という映画はどうだろうということになった。
ストーリーは、拾われてきたネコが厳格な父の元で殺伐としていた家庭を和ませるも、忍び寄るナチスの影に家族はスイスへの亡命を決意する。
入念な計画の後、逃亡するために家を出た瞬間に家族はナチスの親衛隊に囲まれる。
絶体絶命のピンチにネコバスに変身した拾われてきたネコが現れ、ナチス親衛隊をネコキックとネコパンチのうえズタズタに食い殺し、家族を乗せて「ニャーの歌」を歌いながら血まみれでアルプスを越える。

「ド」はドーナツのニャー
「レ」はレモンのニャー
「ミ」はみんなのニャー

「ファ」はファイトのニャー
「ソ」は青いそニャー
「ラ」はラッパのニャー
「シ」はしあわニャニャー
さあ歌ニャニャニャー

以上が「ニャーの歌」であるが、自分勝手で我侭で非常にネコっぽくて良いと思うのだがどうだろう?

さらに「ニャンヌダルク -オルレアンのネコ-」というのも思いついたのだが…ストーリーは…
はい、もう良いですね…

2009年11月08日

●笠原嘉 『青年期―精神病理学から』 / 青年期は罠だらけ / 若者よりもオッサンオバハンが良い

amazon ASIN:4121004639 先日当ブログにコメントをいただいたhappyflightboyさんが若いころに読まれたらしい、笠原嘉『青年期―精神病理学から』が面白そうだったので読んでみた。
タイトルのとおり「青年期」と呼ばれる時代に特有の青年に特有な心の動きを精神病理学の立場から見て陥りがちな罠や疾病状態を示しつつ「青年期」を分析し概観する本で、「内なる対人恐怖」「我が身体との出会い」「現代のオブローモフたち」「アクティングアウト」「出立の病・分裂病」「青年VS成人」という6 つの章から成りたっている。

1977年出版と古い本であり、中で述べられている現代の若者として語られる若者像は少し古いが、著者の世代から見た私の親が若者だった世代の若者像は古いながらもリアルに感じられて、私が若者だった世代、そして今若者である世代と変化してゆく部分と、逆に全く変わらない若者特有の部分がより浮き彫りになっているように思えた。
一応「青年期」を精神病理学の立場から見た、あくまで医者の立場として解説している本であるはずが、最後の章では著者が教師の立場で立ち会った学園闘争に関係する学生についてほとんど個人的な感想としかいえない論調で語っているのがとても意外で面白かった。

青年期は自分自身の存在と向き合ってしまう時期であり、精神的な独立やら自分の肉体やら、初めて対峙するような色々なものと次から次へと出会ってとても混乱しやすい年代であることがこれを読んでいるととてもよくわかった。特に恋愛やら旅が日常と非日常や自分と他人の境界やらがあいまいになるようなかなり強烈な体験であり、これを切欠にさまざまな精神病やら神経症が起こってくることがありうるのがなるほどとても納得できる。
確かに恋愛やら旅を個人の全存在的体験として捉えているかそうでないかってのは、若者に見えるかそうでないかのかなり重要な境目であるように思う。
そういえば「愛と青春の旅立ち」って映画があったけど、その「愛」「青春」「旅立ち」って青年期の危機的状態をとても上手く表しているタイトルやねんなぁと思った。まぁ見たことも無いので勝手にそう思うだけだが…

私は「この間まで若者だった人」との立場でちょっと後ろを振り返るような形で読んでとても面白く読めたのだが、実際に「現在若者である人」や「いつか若者だった人」が読むとどう感じるのかちょっと気になる。
現在若者である人にとって、現在自分の抱いている悩みや迷いが、自分という特別の存在だけが抱くものでなく、誰でもが当たり前に抱くごくありふれたものだと認識させるような、自己の一般化のような見方を与えてしまうのはちょっと荒療法であるような気が個人的にはするのだが、自殺に関して著者が示す精神病理学的態度はもっとも自殺願望を示す若者にとってこそ伝えられるべきものであろうと思う。私が今まで聞いた中で最も上手く自殺の勿体無さを間接的に示したものではないかと思ったくらいである。
具体的に言うと、彼は青年の特性を同一対象に対して同時に相反する二つの感情をいだく両面性でとらえた上で、自殺をそのもっとも両面的な行為として捉えている。
「自殺こそは人間の示しうる最も矛盾的な行動形態だと私は思う。精神的心理的死から逃れるための肉体的死への逃避であり、自己支配を今一度死によって獲得しようとするあがきであり、忌むべき自己の抹殺と同時に新しい自己の出生願望であり、死によってしか他者の救いを求めることのできぬ悲劇であり、自己処罰を通じてなされる隠微な他者処罰であり、さらには醜であって美である。」
「自殺を心にえがくだけなら、それは高校大学年齢の比較的ありふれた体験である。しかし自殺を行為としてアクト・アウトするのは、ごく限られた数の人でしかない。死を想念の次元から行為の次元へ時間をかけてひっぱり出してくるのは、いま述べた多重の心理機制の連動だと私は思う。」

と彼は述べており、そしてそんな若者の自殺願望を一般化しながらも、周りにいる人たちには自殺未遂や狂言自殺をする若者に対して
「仮に今日の自殺未遂が狂言であったとしても、自殺という形でしか狂言をなしえない人間の悲劇性を考えれば、明日の彼に非狂言的に自殺がおこなわれる危険性を無視できない。」
と注意を呼びかけて、彼らに優しい目を注いでいるのがとても印象的であった。

私自身はずっと自分自身を「まだ若者」だとみなしてそういう気分でいたつもりだったのだが、読み進むにつれ自分がもうすでに若者でないことをつくづく思い知らされたような気がする。

「アイデンティティは論理によっては獲得できないということを論理的に説明する努力は、真面目にやればやるほど報いられない。」

なる、恐らく若者であれば絶対理解できないであろうこの言葉がストレートに直感的にとても良く理解できたのが自分でもとても驚きだった。
まぁ年から考えれば当たり前やねんけどね…

本の主題である青年期の話に限らず、他にもとても刺激的ではっとするような話も多かった。例えば「アクティング・アウト」という単語にしても意味はわかっていたつもりでも、ちゃんとそれをよくある現象だとして前提において周りを見回してみると色々な事が見えてくる。
誰かの不可解で不愉快でしかない言動も「アクティング・アウト」だとして捉えるととたんにすっと便宜的にでも理解できるような気がするし、許したり見逃したりする取っ掛かりにすらなりそうである。
著者は色々な人にこのアクティング・アウトの見方を適用しており、学校恐怖、スチューデント・アパシー、中毒者、職場恐怖まではまだいいとしても、脱サラ、蒸発者、性的倒錯までアクティング・アウトとして捉えてしまう健康的強引さにちょっと笑ってしまった。
最期の章の学生闘争に参加した若者たちに関する部分の話は、著者自身がその若者たちに抱いていた個人的な想いがストレートに出ていて、正に自分自身が若者時代に描きそして捨ててきたそのもの自身を突きつけられたときの彼の人間的な迷いとか心の揺れがとても伝わってきてある意味新鮮であった。

現代でこそ人生の最も頂点の時代は青年期であとはずっと下降線であるような価値が優勢であるが、青年期を単純に成長期として捉えて、青年をいわばただの通過地点であり、オッサンすぎた今こそ人生は素晴らしいとでも言うような彼の言い分は、青年である事に悩む青年、はたまたとうの昔に青年を過ぎてしまったオッサンオバハンに希望を与え、そんなオッサンオバハンになることを真っ向から肯定するものであろう思う。
ということで、なんだか訳のわからないままに悩んでいる青年にも、そしてそんな青年と毎日顔を突き合わせて彼らが理解できない人たちにも、更にはもうとっくに青年期が終わってしまった人にもお勧めの本である。

2009年11月07日

●スコーピオンを買った / 一人武装グループ / 走ってゆくどこまでも

vz6101.jpg興味の無い人にはとことん「知らんがな」な話で恐縮であるが、マルゼンのガスブローバック、「VZ61スコーピオン」を衝動買いした。

実銃はチェコスロバキアのČZ社による9mmパラよりも小さい.32ACP弾を使うクローズド・ボルトのシンプル・ブローバック方式のマシン・ピストルであり、このマルゼンのガスガンはガス圧でのシンプルブローバックに近いクローズドボルト方式といえるだろう。
初めてガスブローバックのフルオートというものを買ったのだが、装弾数30のマガジンを二秒足らずで撃ち尽すサイクルの早いブローバックはたまらん。
もう気が向いたらバリバリ撃ちまくっているので、部屋中BB弾だらけである…裸足で踏むと結構痛い。
これこそ近所の人に見られないようにせんとなぁ…

fullauto.jpg不肖土偶は、一人武装グループとして、見えない治安部隊と日夜戦っているのであります。そう、画像の丸山氏のように(画像をクリックで拡大)

ってこの画像を載せたいがためにこのエントリを書いたような気もする…

見ない治安部隊に向かって♪見えない銃を撃ちまくる♪本当の声を教えておくれよ♪
土偶土偶走ってゆく♪土偶土偶どこまでも♪

東京マルイからこの銃の電動ガンが発売されているが、この昔からある銃の良さが今更ながらにわかった。

vz6102.jpg何よりも全弾撃ちつくすとちゃんとボルトストップしてエジェクション・ポートが空くのが気に入った。新しいマガジンに交換してコッキングノブを引いて次弾装填という一連の動きが楽しめる。
セミオートの「ガッ!」という切れも、ちゃんとハンマーが落ちて発射機構が働いている感触がするし、フルオート時の弾が線に見えるほどのサイクルと、ストックを伸ばして構えた時の肩に来る衝撃、それにマガジンを叩き込んだ時の音と感触も素晴らしい。これは電動ガンには無い撃ち心地であろう。
サバゲで道具として使うには集弾性と精度が高く、マガジンの冷えも無いマルイの方がはるかに良いだろうが、お座敷シューターにはこのマルゼンのブローバックするスコーピオンのほうが楽しいに違いない。
実銃同様アッパーレシーバーをぱかっと開けて通常分解できるのもいい。

私は銃の操作とメンテナンスが出来る事を、常々男子の教養として考えているのだが、このマルゼンのスコーピオンはそんな銃の操作を覚える為の教材としても良いだろう。

この銃でクローズドボルトのフルオートの楽しさがわかったので、次はオープンボルト方式のマシンピストルが欲しいなぁ。

2009年11月06日

●酒井保 『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』 / 治療者と教育者 / 自閉症症から「人」を見る

amazon ASIN:4569617077 先日このブログに書いた笠原嘉『精神病』の感想にキノコ先生がコメントを下さって、笠原嘉『精神病』がおもしろいならこの本も読んでみるがよい。とおっしゃるので「喜んで!」と読んでみた。

2001年出版とちょっと古めの本であるけど、長年自閉症の子どもたちと治療者としての立場でかかわって来た著者による、サブタイトルである「心は本当に閉ざされているのか」という問いに「自閉症」とは心を閉ざして人との関わりを拒否してしまったのではなく、心を開いて触れ合いたいけど他人が怖いから可防衛になっている状態と捉えたうえで、自閉症とは何が起こっているのか、どう接すればいいのか、という事について書いてある本であった。
本来は自閉症児の親やら兄弟やら学校の人やら、自閉症児となんらかの関係者である人たちをメインターゲットにしているようであるが、自閉症とは何の接点もない私が読んでも、一気に全部読ませるだけのものを持つ全編が温かいトーンで貫かれた本であった。

「統合失調症」が予後の良いほぼ完治する病気だというのとは対照的に、この自閉症はかなりの程度の影響をその人生に及ぼしてしまうとするところが以外であった。
昔に『自閉症だったわたしへ 』という本を読んだことがあり、この本が売れに売れたので著者はその続編である『自閉症だったわたしへ2 』を書いたのを知って、「心開きまくりやんけーお前絶対自閉症ちゃうやろ!」と図書館で突っ込んだことがあった。この人が自閉症でないとは言わないけど、ちゃんと結婚して本まで書いてしまうような事例は本当に特殊なのがわかった。

そして自閉症児は、精神と肉体が分離したような、大抵は肉体が切り離された精神だけの状態で肉体感覚が極端に少ない状態であることが多いというのがとても印象に残った。
今まで怪我をしても痛がらず、風邪も引かなかった自閉症児の症状が軽くなってくると、とたんに風邪を引き始めるというのは、著者同様に人間の身体と心の不思議さを感じずにはいられない。
彼が自閉症児の立場と視点に立って彼らの苦しみや悲しみを理解しようとする様は、心を打つし色々な意味で身につまされる思いであった。なんというか人との関わりについてとても考えさせられた。

彼は「元来「普通」と呼ばれることとはまったく違った生き方しかできなかった自閉症の子どもたちが、とにかく皆と何とか共存できる程度になること、いわゆる「普通」といわれる生き方を身につけるということにすぎません。
現在の自閉症治療においては、医学的治療が主体ではありません。子どもを育て教育すること、つまり療育が基本となっています。

そして「自閉症が治るかどうかを問うことよりも、子どもたちの育ちを見守ってゆくことがむしろ重要なことではないのかと思うに至りました。」と言っており、彼の言うように教育者であることがいちばんの治療者であるということはなんとも含蓄がある。やっぱり臨床的な立場にいる人の重みは違うなと思う。

自閉症児は人との関わりに傷つき外界を恐れ、やがて誰も手を差し伸べなければ自分と世界を否定してしまう存在であった。
自分を守るために人との関わりを避けるそんな自閉症児に対して、著者のように人と関わって生きることは楽しくて快いものだと伝えて教育してゆく事こそが治療だとする姿勢は、なんというかグッと来るものがある。
治療者であるためには教育者であらねばならず、教育者として人との関わりと世界が肯定的であることを教えるためには、本当に自分が人との関わりと世界を素晴らしいものだと肯定していなければいけない。世界を否定するものに世界の美しさは語れないというわけである。
そして、結局は、そんな子どもたちをより救うためには、自らが高まってゆくことが一番であるという結論に至らざるを得ないのかもしれない。

ニーチェさんの言うように
医者よ、あなた自身を助けなさい。そうすれば、あなたはあなたの病人たちをも助けることになる。自分自身を癒す者を、目のあたりに見ることが、病人のなによりの助けとなるようにすればいい。
ということであろうか。

この本を薦めてくださった大学教員で研究者という立場の某キノコ先生からすれば、本当に自分の問題として哲学を学ぼうとする学生に対して哲学を教える立場の教員として接する事は、ある意味ではこの著者と自閉症の子どもとの関わりに近いものがあるのかもしれない。そこでは教育者という立場はある意味では治療者にもなりうるのかもしれないなぁ。と思った。

語り口は柔らかくてふわふわと読み進んでゆくけど、読んでいると人間の精神と肉体についてだけでなく、教育や治療、そして生きることそのものといったことについてもなかなかに考えさせられたのであった。

2009年11月05日

●木村敏 『異常の構造』 / 医学系というよりは哲学系 /博士の異常への愛情

amazon ASIN:4061157310 精神医学の本で、笠原嘉、中井久夫とくれば木村敏ということらしく、木村敏の中でなかなかに有名で面白いと評判の『異常の構造』を読んだ。1973年出版とかなり古い本である。

一応この人も笠原嘉、中井久夫同様に精神医学にかかわる人であるけど、読んでいてなんだか哲学書を読んでいるような感触であった。
私の勉強不足であるのだが、この木村敏という人は精神医学者であるけど、時間論や関係論で人間の精神や精神医学について語る人で、ハイデガーなどと関連付けて言及されることも多いようだ。
たしかに、笠原嘉や中井久夫の本とはまったく雰囲気の違う本で、「正常」と「異常」についてひたすら根源的な問いを掘り下げてゆくような本であった。
「正常」と「異常」や「合理性」と「非合理性」の概念を言語の意味で分解や分析したり、「一」と「全」の関係と自己の論理として展開するあたりは、もう哲学か言語学か或いは禅みたいな話であった。

彼は世界は非合理が前提であり、脆く危うく不安定な「合理性」を仮定した上になんとか「正常」を保っているに過ぎず、「正常」が「異常」を前提とした概念であるとしている。
そしてそれを前提として、普段われわれが「正常」としているものが実はとても非合理的であり、そして異常とされる人の精神がとても合理性に基づいているとしている。
人が異常とされるのは、論考するまでもなく自明とされている事を理解できずに行う言動が、人間関係の中で現象としてだけ現れて来ているだけであると。
たとえば、統合失調症の父親が死期の迫った娘にクリスマスプレゼントとして棺桶を贈った事例を引き合いに出して、棺桶はもうすぐ死ぬ娘にとって役に立つという意味で合理性に適っているけど、非合理的な感情論で言えば異常である。としている。
そういわれると確かに納得できるし、異様な理屈っぽさとか合理性のみを追求した姿勢ってのは確かに病的に見えることが多いものである。
昔話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか」という話は、絶対的に合理的な理由は見つからないし、論考するまでもなく自明とされている、ダメだからダメ、としか言いようがないし、最近の「空気読め」の「空気」もそういった非合理的な自明な事実の部類に入るだろう。
「合理性」が「異常」の側で、「非合理性」が「正常」の側であるという見解それこそが、我々が常々自明としていたものが実は不安定で危ういものでしかないことを暴露されてその存在を揺るがされるような、我々が異常者に対して抱く嫌悪や恐怖を抱かせるものなのかもしれない。

彼はこの本の中で一貫して「正常」であることが自然の中ではむしろ特異な状態であり、「異常」である方が自然に適った状態である。というところ繰り返し述べている。
彼はこの本を「多数の分裂病患者たちへの、私への友情のしるし」と述べ「しょせん「正常人」でしかありえなかったことに対する罪ほろぼし」だとしており、この本の中には著者の精神病者への愛や憧れのようなものすら感じる。
笠原嘉が治療者の立場を貫いていたのとは対照的に、この木村敏という人は「異常」側の患者の立場から「正常」を分析しつつ、「異常」と呼ばれる精神病患者をそのままで理解し、また彼らが世界をどう感じてどう見ているのかを知ろうとする方向性で「異常」を肯定的に書いた本とでも言おうか。
異常者を正常者に戻すのではなく、異常者のままでの地位向上を目指しているようにも見える。
この本が精神病である状態の苦しみや辛さにほとんど触れていないのは、彼が精神科医というよりは精神医学者であるからなのだろうなぁという気がしないでもない。

笠原嘉や中井久夫が健康的で安心感を感じるのに対して、この木村敏という人はひどく危うい感じがする。もし、こういった人が「異常」の側に傾いてしまったら誰が治療者としてかかわるのだろうか?それとも自分で治療ができるのだろうか?
なんかちょっとこの人大丈夫なのかなぁ。と思った。

2009年11月04日

●高野文子『黄色い本 ―ジャック・チボーという名の友人』

amazon ASIN:4063344886 黄色好きの私だから、ということでもないが、『棒がいっぽん』 『絶対安全剃刀』 に続いて高野文子の『黄色い本』の感想をば。
『棒がいっぽん』 から8年後の2002年に発売された彼女の本の中では最も新しいもので、2003年に第7回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞しているらしい。

読む前に、何でも「読書体験を漫画化している」ということを聞いていて、いまいち意味が理解できなかったのだが、確かに読んでみると、これはもう確かに「読書体験そのものを漫画化している」としか言いようがない。
ストーリーは、卒業間際の高校生が図書館から借りた『チボー家の人々』 を読み進んでゆく日々の日常が主人公の少女の目を通して淡々と描かれているだけなのだが、長編小説に没頭する日々の小説内の世界とリアル世界との距離感や関わり、主人公をめぐる色々な事が暖かく表されていて、読書好き、特に純文学好きの長編小説好きにはグッと来る内容であった。
そして、逆に本を余り読まない人にとっては、本好きが没頭して本を読むというのはこういう経験なのかというところがお分かりいただけるだろう。

この主人公の少女を通して表現されている長編小説を読んでいる期間の心の揺れや現実感覚や世界の見え方、そして読み終わった時の達成感がありながらもどこか物悲しい感覚、自分で買った本ではなく、卒業間際で図書館から借りて、期限つきで急いで読んでいるという設定がまた良い。
本を表現するのでもなく、読書を表現するのでもなく、抽象概念で修飾される抽象概念とも言うべき「読書体験そのもの」が本当に見事に表現されていると思う。

『棒がいっぽん』でも漫画でこういうことが表現できるのかと驚いたけど、この本でも本当に驚いた。主人公に対する感情移入ではなく、主人公の感覚や経験に対する感情移入という不思議な感覚である。
高野文子はこの「ジャック・チボーという名の友人」の制作に3年を費やし、これを最後の作品にしようと考えていたらしい。
たしかにそういって良いだけの渾身の素晴らしい作品であると思う。

2009年11月03日

●ロフトでスポイトを買いそうになり、そして睨まれて「ぷぃっ!」とされる

ロフトに行くたびに「スポイト」を買いそうになるのは一体なぜだろう?
特に使う予定も無い、もしあれば何かの役に立つかもしれない、あっても邪魔になるわけでもない、限りなく手ごろな値段の、何処にでも売っているわけではない、それがスポイト。
目的を持たない「物欲のイデア」が純粋な形で結実した結果、私の中で「スポイトを求める」として現実化するのだろう。

ロフトでとても太った女性がレジに並んでいて、見るとも無くぼんやり見ていたら、めっちゃ睨まれて「ぷぃっ!」とされた。
「何や、感じ悪い人やなぁ」と思ったらその人は買うつもりらしい体重計を両手で抱きかかえるようにしてレジに並んでいたようだ。どうやら体重計を買うのが恥ずかしかったらしい。
彼女は家に帰ってお風呂上りに今日買った単行本より少し大きいくらいの体重計に乗って深い溜息をつくのだろう。
そう思った瞬間にちょっと胸がキュンとした。

2009年11月02日

●高野文子『絶対安全剃刀』 / 「ふとん」はこの世で最も美しいものの一つ、だと思う

amazon ASIN:4592760166  最近、精神病だの自殺直前日記だのひきこもりだのとやたらとヘビーな内容のエントリが続いたので、ちょっとライトに、でも限りなく美しい漫画の紹介である。
先日、高野文子の『棒がいっぽん』 を読んで衝撃を受け、彼女の書いた単行本を全部買ったと書いた。
とは言っても高野文子という人はキャリアのわりに寡作で全部で6冊しかないので集めやすくはあるのだが、その中のこの『絶対安全剃刀』 は1982年に発行された彼女の初の単行本である。

この本は彼女の1977年から1981年までに発表された一作ごとにタッチが違う17作品で構成されている。どの作品もなんとも言えない雰囲気を持っているのだが、私は「ふとん」という作品が飛びぬけて尋常じゃなく大好きである。
登場人物である「少女」と「観音」の会話、「少女」が「観音」に酌をするシーン、どのコマどの台詞をとってもすべて美しい。とてつもなく変なところにヒットして刺激するような美しさである。この『絶対安全剃刀』の「ふとん」はこの世の中で最も美しいもののひとつであると言っても良いと思う位である。

作家はデビュー作を超えられないとよく言う。この本は作品集なので厳密にはデビュー作ではないのだが、確かにこの「ふとん」だけでなくほかの作品にも高野文子という人のもっとも繊細な美意識と表現が純粋な形で現れている作品集であると思う。
彼女はストーリー漫画ではなく短編ばかり書く人である。私は基本的に小説も漫画も長編が好きなのだが、この人の短編は、本当に短編であることの素晴らしさを教えてくれるような気がする。
ストーリ漫画っていうのはある程度読んでしまえば終わりってところがあるけど、この高野文子の本は手元に置いていつでも読み返せるようにしておきたいと思わせる、「買わせる本」であると思う。

しかしこの人はCDジャケットや書籍のイラストレーションもしているようだが、これだけの寡作で専業作家として生活していけているのだろうか?
逆にそこにこだわらないところが、彼女の作品のクオリティーの高さなのかもしれない。

2009年11月01日

●山田花子『自殺直前日記 完全版』 / 自殺企図への抑止力

amazon ASIN:4872334191 ネットを見ているとひきこもり系の人々がこぞって我が事のように語り、コアな人気と共感でもって語られることの多い、山田花子の『自殺直前日記 完全版』を読んだ。
24歳の若さで自殺して死んでしまったマイナー漫画家の山田花子の自殺する前日までの日記やメモをその父親が出版したのが1996年で、その後1998年に出版された「完全版」では新たに発見された日記と、読者からの手紙が追加されている。
表紙には葬式の棺桶の写真やら棺桶越しの顔写真まで載っているというなんともぷっとんだ装丁である。
娘が自殺した父親の気持ちってのはもう完全に想像力の範囲外にあるけど、所々に現れる父親の文章は何とか世界に絶望して詩を選んだ娘をとにかくどんな形でも世界に知らしめたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。
年間三万人いる自殺者のなかで自殺者の一人に過ぎない山田花子という人物は氷山の一角どころか大河の一滴に過ぎないのだろうが、彼女のような人格が現在の自殺者のある種の典型の一つとして捉えられているのはこの本の影響が大きいのだと思う。
実際、私は山田花子の漫画を読んだことがないのに、ある種のカリスマとしてこの名を知っているのはこの本のおかげであるだろう。

読み出した最初のほうは、自分に向けられる感情を全て悪意で受け取った卑屈な被害妄想とか思えない内容に「こいつはいったい何を言うとんねん」という感じであった。
感じたままが何らかのフィルタを通り抜けずにダイレクトに表現されているように感じられて、文学的な深みはないけど、そのぶんシンプルで明確でやたらとリアルで生々しい。
もともと公表するつもりで書かれた文章ではないぶん、純粋な叫びや苦しみや呪詛の言葉が現れているというところであろう。
しばらくは「まいったなぁ」という感じに読んでいたけど、半分に指しかかろうとするあたりから俄然面白くなってきた。言っている事自体はそれほど大したことはないけど、それを徹底してまとまった量を突きつけられるとやたらと説得力が増してくる。言い方は悪いけど、質より量の問題であろうか、彼女の思考や感性のパターンに乗ってしまうと不思議な没入感があり一気に読んでしまった。

北海道でライブに行くために吹雪の中を道に迷い、泣きながらラブホテルの受付で道を尋ねて親切に教えてもらう。という心温まるエピソードがあったくらいで、日記やメモのほとんどがネガティブな言葉で埋め尽くされている。
メモ魔であった事とか、日記やメモの中に現れる雰囲気からも、彼女が強迫神経症的な精神状態にあったように見える。ただ日常を生きることがどれだけ苦しかったのかと思う。何とか彼女が救われる道があったのではないかという気がしない。

心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とされよ。」と遺書を残して死んだ江藤淳の自殺に関して、ネット上で有名な精神科医の書いた意見に、これを諒とするかしないかは誰に対する言葉かということになる。本人に対するメッセージであれば「諒」とするしかないし、同じように悩んでいる人には「諒とするな」と言うしかない。というような文章があった。

この『自殺直前日記』を読む限り、山田花子に対して彼女の自殺は「諒」とするしかないだろう。
しかしながら、彼女と同じように感じ共感する自殺予備軍の人々に対して、彼女のような自殺を「諒としない」と言うにしても、この「諒としない」理由を赤の他人に対して証明する論理はない用に思える。個人的感情や宗教を持ち出さずしてそれに意味を与えることは不可能であるように思える。

そこで「自殺を諒としない」一つの見方として、そういった状態、自殺企図は文学的であったり哲学的な問題なのではなく、単純に何らかの精神器質的な疾病状態であるとして治療の対象と断じてしまう精神医学的な見方も、当事者たちがもっとも嫌がりそうなある種のファシズム臭を感じながらも、とりあえず自殺企図への抑止力への効果を第一義としてみれば、一つの有効な立場なのかもしれないと思った。