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2009年08月31日

●八月最期の日に欲望について思う

昨日遅くまで起きていて異様に眠たいのだが、なぜか寝られない。
結局寝られずにブログを書いている。

昨日琵琶湖からの帰りの車の中でずっと選挙速報をラジオで聞いていた。
そういえば昔、選挙は一つのちょっとしたイベントだった。友人と一緒にテレビで開票速報を見ながらなんやかんやと言いながら楽しんだものだ。
当時、我々は何も持っていなかった。しかし、一方であらゆる可能性があるような気もしていた。
日々をよくわからない自我とよくわからない欲望をどう扱っていいかわからずもてあまし気味に生きていた。ベクトルのように方向を持たず、ただ量だけのスカラーのような存在であった。しかし、欲求の可能性を知らぬ我々は何かしら満たされないながらも、唯毎日を生きてそれだけで楽しかった。
最近、日々の暮らしであるとか人間関係であるとか仕事であるとかそういったものの何かしらはすべからく何処かを目指すべきであり、方向性を持たないスカラー量しかない状態は良くない事だと感じるようになってきていたのが、それが偏見でしかないという事を自分に言い聞かせている。

心の中に様々なものが渦巻く。そして、結局それらすべてが根ざしている先はどこに行き着く事の無い欲望でしかありえないと考えると可笑しくなってくる。
ような気がした。

2009年08月30日

●久しぶりのバス / ドイツのソーセージは世界一ィィィ?

本日も琵琶湖へカフェ土偶へと繰り出して、ついでに久しぶりにルアーを投げてみた。
夕暮れの琵琶湖への流れ込みの見渡す限りの藻場である。普通なら無難にワームで攻めるところだが、私はワームでの釣りが今一つ好きではないので、私は昔からこういう状態では水面を覆う藻の切れ目にポッパーやらペンシルを投げる事にしている。
私のお気に入りのルアーの一つがTIFAのMICHAELであるが、私が持っているこいつはありとあらゆる魚に噛まれたりコンクリートに叩き付けられたりで、目がもげて体中ボロボロである。マイケルだけに何度整形してやろうかと思ったけど、名誉の負傷ということでこのままにしてある。
kobass01.jpgということで、久しぶりのトップウォーターでつれたのがこの小バス。
小さいバスに限って水面のルアーへのアタックは派手な気がするのだが、このバスは小さすぎるせいかとても小さな「ちゃぽん」級のあたりであった。
一呼吸おいて合わせる為に糸を送っている間、「もしかしてデカイ?」とドキドキだったのだが、釣れたのがこれでびっくりした。今までこのルアーでバスからナマズから雷魚やニゴイまでもう何十匹釣ったかわからないけど、今日釣れたこの小バスが恐らくこのルアーで釣れた最小のものであろう。
ルアーの大きさと比べていただければ、どれだけ食い意地張ってるねんというところがご理解いただけよう。

Wurst01.jpg明治屋でドイツのソーセージを買ってきてブタンガスのストーブで炙って食べたけど、なかなかの良い値段の割りに値段相応の味ではなかったような気がしてちと残念であった。ドイツのソーセージは世界一だと聞いていたのだが…
ソーセージの上に写っているのはソーセージにされたブタさんの霊ではなく、飛び跳ねる瞬間のバスである。

2009年08月29日

●本を読む事 / ユリシーズを読み始めた。

この夏は遊び呆けていてまったく本を読んでいなかったのだが、最近再び本読み期間に突入。読みに読みまくっている。
最近思うのだが、本を読むってのは自分の中にある何ものかが言語化されているのを発見し、確認する作業なのではないだろうか?
本でいろいろなものに触れるということは、本の中から何かしらを吸収的に得るというよりも、自己を再認識する作業なのではないかと。
ある種の本が、何度読んでも読むたびに新しい発見と学びがあるというのは、つまるところ読むたびに更新された自己が反映されているということなのではないか。私が定期的に『カラ兄』を読んでいる意義はまさにその部分にあるように思う。

amazon ASIN:4309202829 amazon ASIN:4309202888 で、最近はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を読み始めた。これこそ原文で読まないと意味のなさそうな本やけど、気にせず翻訳で。
同じくジョイスの『フィネガンズ・ウェイク 』を訳して日本翻訳文化賞を受賞した柳瀬尚紀訳のもの をとりあえず6章まで読んだのだが、18章あるうちの12章以外の7から18章がまだ刊行されていない事に気付いた。7章からはどうしたものか、とりあえず別の訳のものを読むかな…

とはいっても、日本語で読むならもうどれでも同じような気がする。
amazon ASIN:4087610047 とりあえず、出版されているものとしては、「集英社文庫ヘリテージシリーズ」のこいつ しかないのかな。

2009年08月28日

●斎藤環 『生き延びるためのラカン』 / 有効的な枠組みとしてのラカン / ラカン漫談

amazon ASIN:4862380069 以前読んだ『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 の著者である斎藤環の『生き延びるためのラカン』 を読んだ。
ラカンってのは精神の分野に無理やり数学やら図を持ち込んで、数学者からトンデモ扱いされた、フロイト系の思想化扱いされている心理学者で、なに言っているのかは知らんけど、ちょっと胡散臭い気がする。程度の殆ど何も知っていないに近い知識とイメージしかなかった状態で読み始めた。

この本の紹介として、
「心の闇」を詮索するヒマがあったらラカンを読め! そうすれば世界の見方が変わってくる。幻想と現実が紙一重のこの世界で、できるだけリアルに生き延びるための、ラカン解説書にして精神分析入門。
とあり、いつも読んでいるひきこもり(というよりニートか?)の人のブログにあったのを見てなんとなく読みたくなった。
思想や何かしらの学説の入門書は知的好奇心に応えたり純粋に初学者向けの方向性を目指したものが殆どであるけど、何かしらの思想を現実的な精神的サバイバルの手段として捕らえている入門書ってところがなんとなくツボに入った。
多分「ラカン」というよりは「生き延びるための」って所のみに反応したのかもしれない。

始終真面目なトーンだった 『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 に引き換え、ほぼその十年後に書かれたこの本は、最初から最後まで殆ど口語に近い口調で貫かれ、数時間で一気に読み通せたくらいに、文章としてはとても読みやすく面白かった。「日本一わかりやすいラカン入門」を目指したというのもうなづける。
ただ、全般的に「ラカンの言っていること」というよりも「著者の理解するラカン」が説明されているのじゃないかという気がしたし、まぁ厳密に言えばラカン以外にラカンについては語れないことになるけど、この本はラカンについて語るというよりは、ラカンをだしにして自分の言いたいことを言い放ってしまっているような印象を受けた。結局この著者を気に入るか気に入らないかでこの本の評価が分かれるような気がする。ふざけていると思えば否定的に見えるだろうし、面白い人やなぁと思えば楽しく読める。

最初に述べたように、今までラカンといえば実際には何の役にも立たない自己完結した胡散臭いトンデモ思想家に近い存在のように、殆ど偏見を持って考えていた。
しかし、シンクロニシティ的なものをユングのように意味論で捉えるのではなく、ラカンのように象徴界を介した転移として捉えれば技法論として有効になる。
って所に代表されるように、臨床の現場では精神や心の動きを捉えて分析するにはこのラカンの考え方がとても有効であるとされているのにはちょっと驚いた。
なんか世間的にラカンてのはあまりにも難しくて訳がわからん過ぎて、悪意でもって無茶苦茶言われているのかなぁ。という気もしてきた。
いくら精神や心の動きを理解するのにラカンの思想が有効な枠組みであるとしても、タイトルにある「生き延びるための」というほどの強さは感じられなかった。
結局「生き延びる」ためのラカンは書かれていなかったように思うけど、まぁちょっと面白いオッサンのラカンをネタにしたちょっとした漫談を聞いたと思えばとても楽しい本であった。

2009年08月27日

●加藤 忠史 『双極性障害―躁うつ病への対処と治療』 / 知による救いの可能性/ 自分が機械である事は福音か

amazon ASIN:4480064656 現在、理化学研究所脳科学総合研究センターで脳科学系チームのリーダーやらディレクターを務める著者による、『 双極性障害―躁うつ病への対処と治療』 を読んだ。
いわゆる躁鬱病のことを最近では双極性障害と呼ぶらしく、うつ病や躁病とは根本的に違い、躁状態とうつ状態が一定期間で切り替わるもので、うつ状態での苦しさは勿論の事、躁状態でのあまりにもぶっ飛んだ問題行動が人間関係やら経済状態やらを破壊して社会生活が崩壊してしまうのが症状として一番問題であるらしい。
ただ本人は躁状態は自分の本来のあるべき姿で、うつ状態のみを病気としてとらえて病院にかかることが多いらしく、うつ病に対する薬を処方した結果、強烈な躁になってしまいさらに病状が悪化したり問題が起こったりするらしい。
気分が落ち込んでいる時に限ってちょっとした楽しい事が異様に楽しく感じられて妙なテンションまで上り詰めてしまうということが自分自身にもあるような気がするゆえか、不謹慎ではあるけど、ちょっと笑ってしまった。
この手の「心の病」な本を読んでいていつも思うのは、まるで自分の事が書いてあるようで辛過ぎる。というものなのだが、この本に関してはあまりそうは思わなかった。自分は躁鬱病的なところがあるなぁ。とは思っていたけど、躁鬱病的と双極性障害であることはまったく違う。多分誰でも「心の病」的な側面は持っているだろうし、まぁその程度のものだろうと思った。

そしてこの本はそんな双極性障害について、如何に対処して治療してゆくかという部分に主眼を置き、私から見ればやたらと具体的に詳しく、そしてクールに書いてある本であった。
単純に興味本位の私のような人間に向けた本ではなく、実際に双極性障害の渦中にある本人やその周りにいる人向けの本であるような印象を受けた。(まぁサブタイトルを見ればそうやねぇ…)

双極性障害なる病気だけでなく、あらゆる心の病はカウンセリングやとか精神分析やとかそっちの方面で治療するようなイメージをなんとなく持っていたのやけど、この本を読んでそのイメージがまったく変わった。
単純に私自身の知識不足であるのかもしれないけど、そういった種の心の病が、単純にホルモンバランスや脳の障害やら遺伝子に起因する問題で、薬やら電気やらをつかったいわば機械的な治療が主流であることにちょっとしたカルチャーショックを受けた。
双極性障害であるというのがどういう状態であり、どういう不具合が出るのかというのを説明したあとは、ひたすら具体的な薬の名前だの治療法だのを出してそれがどういう効果でどういう影響を及ぼすのか、またどういう人のどういう症状に有効が説明してある。
このあたりは、実際その双極性障害への対処が身近な問題であり、その薬と効能の知識が必要である人でなければちょっと退屈するかもしれないが、読んでいると「ああ人間ってとことんまで有機機械なんかなぁ」とっちょした感慨を感じた。

そして、本人の性格の問題やと思われがちこういった病気が、機械的な意味での肉体が原因になっているという事実は、周りだけでなく、患者自身の偏見をなくして治療を受けやすくするものであるに違いない。
こういった本を読んで病気の人の周りにいる人が、「あの人が陥って引き起こしている問題は、あの人自身の肉体的な病気のせいであり、あの人の性格的な問題ではない。」と思ったり、病気の渦中にいる病人が、「この私の状態は私の性格に問題があって、私の性格を直すことで治るんじゃなく、肉体的な治療で改善するのだ。病気は私のせいじゃない。」と思えることは良い事であるに違いないと思う。
こういった本を読んで、病気について知ることは、知識とか知恵とかが、ちょっとした救いの力になる具体的な一例であろうなと思った。

人間の心で起こる現象を機械的に物質的にロジックとして記述することは、健康な心を持つ人にとってはちょっとした違和感や嫌悪感を抱かせるような気がする。
しかし逆にこのような病気で苦しんでいる人にとってはちょっとした福音であるに違いない。
「自分が機械である事を肯定的に捉える」という方向の可能性を今まで想像もしたことがなかったけど、確かにそんなこともあり得ると納得すると、そういった「反心」的な感覚を心が抱き得る可能性に、逆に人間の心の超論理性や懐の広さや可能性の大きさを感じるのであった。

2009年08月26日

●文章を書くのが楽しい落とし穴 / 立場よりも視点

長らくブログをサボってほとんど放置していたけど、最近再び書くようになった。
放置期間は書きたいことは書くべきことではないという思いにとらわれ過ぎて全く書けなかったが、一旦書き出すといくらでも書ける。ちょっとした思考を糸口に勝手に文章があふれてくる。つくづく私は文章を書くのが好きなのだなと思う。
文章を書いている間、文章で表される私の思考と私の言葉には、明確な意味と整然とした論理があるように思える。
もっとも、村上春樹はそれが大きな落とし穴であると書いているのだが。

話は変わる。
現実的な経済的な理由は勿論の事、精神的にもただ一日を乗り切るだけで重労働であるような人々には、一日を精一杯生きている野生動物にのみあるような美しさというものがある。たとえばそのような見方からの意見は、とても上から目線であるように思う。
たとえそうである当人がそういったとしても、それが上から見下ろした言動であることには違いなく、他の当事者の心に響くことはないだろう。
発言する人の立場であるよりも、発言する人の見方であるとか視点のほうが大事な場合が多いのかもしれない。と思った。

2009年08月25日

●斎藤環 『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 /ひきこもりよ、ひきこもり利権を利用しろ

amazon ASIN:4569603785 斎藤環著の『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 を読んだ。
ひきこもり事例に精神科医として長年向かってきた著者による、1998年に出版された本であり、本の前半でひきこもりとは何か、ひきこもりとは何が起こっているのか。に焦点があてられて述べられ、後半では実際にひきこもりをどう克服するのかについての主に家族に対する基本的な対処のスタンスが述べられている。

以前から私はひきこもり属性であると言っているが、私はこの本を過去形ではあるけどひきこもり当事者として読んだ。
最初読み始めてまるで自分のことが書いてあるようで読んでて辛くて辛くてしょうがなかったけど、そこを抜けると面白くなって一気に読み通した。
自分自身も当事者ながら、なんとなく「ひきこもり」は本人の個人の問題という印象を持っていたのだが、この本ではひきこもりを精神疾患として、「ひきこもっていること」それ自体が外傷体験になる、主に嗜癖やら人格障害の方面から環境も含めた総合的な問題としてとらえる方法論がとても新鮮だった。
10年以上前に書かれた本であり、この手の本としては古いのかもしれない。しかしながら根本的なところは何も変わっていないのだろう。

この本のサブタイトルに「終わらない思春期」とあるように、この本の言おうとする所は、「ひきこもり」の根本的な原因は自分と家族と社会の関係、つまりは他者との関係不全の問題になってくるようにおもう。
他者との関わり方に問題が起こり、ひきこもっていること自体がまた問題を助長させるという風なシステム的な悪循環が「ひきこもり」であるというわけである。
ゆえに「ひきこもり状態」を解消するには、本人だけの努力でも家族だけの努力でも不可能で、社会的な接点が不可欠である。ということになる。

私が私自身の経験を振り返って考えてみるに、過去の私がひきこもり的状況から脱したのは大学に合格して大学に通うようになったからである。何かしらの劇的な精神的な変化など皆無であった。
そして、今まで、私の中でこの経験は、状況や環境が変わったから何らかの改善が見られただけで、私の中にある根本原因が改善されないままである。とずっと捉えられていた。
私は今まで自分の中にあるはずである「ひきこもり因子」やら「根本的な人格的欠点」を見つけ出して解消すべく結構な努力を費やしてきたように思う。
しかしながら、私はこの本を読んで、特に自分自身に原因があったのではなかったのかもしれない。と思えるようになった。

この本を読むにつれ、自分がひきこもりのほんの初期の初期段階に過ぎなかったことを知った。私はずっと自分自身を、過去にひきこもり経験を持つ、ひきこもり属性を持つ、ひきこもりの味方であると捉えてきた。しかし、この本を読んで「お前なんかひきこもりじゃねーよ」と言われたような一抹の寂しさを感じた。
しかし私がここで踏みとどまっていられたのは、当時一緒に遊んでくれた友と、私と関わりのあった幾人かとの繋がりのおかげであると思う。また私が引きこもりに戻らずにここまで来れたのは、私といつも遊んでくれる友人たちと、私を愛してくれる人々、そして私を必要としてくれた社会のおかげでもである。
プチひきこもりであった事自体は私にとって苦しい事であったけど、そのプチひきこもり期間で得たものはとても大きい。と今なら自信を持って言い切れる。

この本いろいろな感想をネット上で読んでいて「ひきこもり利権」という言葉を読んで思わず笑ってしまった。
今時は過去にひきこもり経験を持つ現在成功している人物はそれだけで何かしらの価値が生まれる世の中である。「ひきこもり」がいつか大逆転できるような世の中が来るかもしれない。
「ひきこもり利権」をひきこもった事も無いのにひきこもりだと名乗るような「似非ひきこもり」に渡してはならない。
ひきこもりであった人が、ひきこもりであった事を利用して、或いはひきこもっている間に得た何物かを持ってひきこもりから脱してゆく事を願わずにはいられない。

2009年08月24日

●FMトランスミッター / サバイバル

最近新しい車を買った機会に、車に大量に積んでいたCDで音楽を聴くの止めてFMトランスミッターから古いipodを使って聴くようになった。
FMトランスミッターは音が悪いという先入観があったけど、それなりの製品を使えば文句なしのレベルの音になる。ちなみに私が車で使っているのはどこぞで格安で買ったコレ 黒いヤツ である。

車で使っているFMトランスミッターの音質が想像以上に素晴らしいということで、家でもFMトランスミッターを使うつもりで、過去にAppleストアで売っていたくらいだからApple公認の性能があるんだろうとitrip2 を買った。こちらは車で使っているBI-MIFMよりは雑音が入りやすいけどまぁ問題ないレベル、しかし家のオーディオセットのラジオからはいつからかガリ音が出るようになっていた事を忘れていた。
ということで、一昨日の土曜日にカフェ土偶のために琵琶湖に繰り出したついでに数百円で買い叩いてきたラックマウント仕様のやたらと立派なジャンクのラジオのチューナーが、アンテナ部分の端子の断線を直したくらいの小修理で動作したので、このitrip2でipodから音楽を飛ばして聴きまくっている。

大層なオーディオシステムでipodを、しかもFMトランスミッターで鳴らすのは激しく違和感があるが、CDを入れ替えることなく膨大な量のアルバムが入ったipodのみで操作できるのはとても便利である。
最近みっちりと集中して音楽を聴くってことが余り無くなったので、「ながら」で聞く分にはipodをソースとするのはとてもいい感じである。
ということで昨日の日曜日は久しぶりに一日中音楽をかけっぱなしにして過ごした。
アルバムごとのシャッフルにしてほおって置くと、時々自分ではあえてかけないやろなぁという曲がかかって面白い。
あまりにも古い、何かしらの記憶や思念や感触と濃厚に接続されている、もう聴かなくなっていた曲が不意に流れてんなんともいえない気分になる。

そういえば齢30にしてアイデンティティークライシスに見舞われた某氏は何らかの理解か境地に達したらしく最近落ち着いたように見える。しかしそれでも何かしらの問題が解決したわけではなく、ヤツがまだ出口の見えない闇の中にいるのはよくわかる。
ヤツの口から「結婚がしたい」という言葉を聴いて激しく驚いた。結婚という制度のメルヘンな部分をまったく無いものとして扱い、現実的な部分だけを見てサバイバルな文脈でそういう言葉を発している某氏はいったいどんな戦場を潜り抜けてきたのだろうかと思った月曜日であった。

2009年08月23日

●映画:セルゲイ・パラジャーノフ「ざくろの色」 / ロシア的マジックリアリズム / 理解できないものは反体制か

amazon ASIN:B00023GSIS 2ヶ月ほど前に観たタルコフスキーと並び称される(らしい)旧ソ連の巨匠、セルゲイ・パラジャーノフの「ざくろの色」 の感想を今更ながら書いてみる。

映画の冒頭で「この映画はサヤト・ノヴァの生涯を描いたものではない。人類にとって記念碑的な価値をもって美しいサヤト・ノヴァの詩の世界を,映画という手段で表現することを試みたものである。」という説明がなされるとおり、そのサヤト・ノヴァの人生を幼年時代、宮廷詩人時代、晩年の修道院時代と移り変わってゆく様を8章に分け、それぞれのストーリーも何もあったものじゃない不思議な映像で構成された映画である。
途中何度も寝て、4度目ほど観直してやっと最期まで観通せたほどのある種の退屈さはあったけど、ロシアというより南米を思わせるような強烈な色使いと、胡散臭く宗教的で殆ど台詞のない饒舌さがとても強烈に印象に残っている。
なんというか、ロシア的マジックリアリズムともいえるような気がする。

この監督は生涯に4本の映画だけを作ったけど、こんな映画を作るたびに時のソ連の政府に反政府主義的だとして投獄されたらしい。
この映画に反ソ連政府主義的な要素を感じる事は私には出来ないけど、逆にこの映画に共産主義的な要素を感じる事も出来ない。というか、そんな次元は全く関係ないように思える。とにかくこの映画が一般的な映画的なものとはとは全く違うことは理解できる。
あらゆる映画的語彙と文法をを超越したこの映像がどんな考えと感性から来るのか全く想像できずに、このわけの判らなさは反体制的なものに違いない!と短絡してしまう気持ちもわからないでもない。

それだけにこの映画はそれだけの力を持っているともいえる。
確かにこの映画の余りにも異質な白昼夢のような、悪夢とも言えなくも無い映像は、観るものの内部を激しく揺さぶる。
この映画は、「映画」というメディアを利用した、映画ではないなにものかを表現した映像群であると思う。
そういうのが好きな人は観ていおいて損は無いどころか、とてもいい経験になるのではないだろうか。

理解できないものは反体制だった時代、この映画を作ったパラジャーノフは時の権力者に危険思想を持つものだとみなされ、実際そう扱われた。
とかく理解できないものは恐怖とそれに伴った攻撃の対象となりがちである。
どんなに素晴らしく美しく気高く見えるものを作ったとしても、それがその人の複雑さや、その人に対する理解の難しさを示す事になってしまえば、反X的なものだとして攻撃されるかもしれない対象になる可能性があるという事は現代でも同じであるような気がした。

2009年08月22日

●炎に飛び込む

傭兵仲間であった某レディーが結婚式を挙げているであろうまさにその時間、私は伸びきって箸でつまんだだけでブチブチ切れるようなうどんを食べていた。しかも釜揚げで。更には賞味期限を一日ばかりオーバーしている。
余りにも美味しくないので、天かすと白髪葱を大量に振りかけてごまかして食べていた。何故に私はこんな自分を痛めつけるような事をしているのだ?もう殆ど苦行ではないか。
片や結婚式、片やうどんに失礼なくらいに不味い釜揚げうどんを食べている私、この二つの間はおおよそ遠い距離で隔てられているように思う。「人生の不思議さ」で片付けてしまいたくないくらいの不条理さがそこにはあるような気がする。
とにかく、遠き地の新しき戦場へと向かう傭兵仲間に武運を、そして幸多かれと切に願う。

cafedogu01.jpg昼から久々のカフェ土偶に琵琶湖へ繰り出す。コールマンのガソリンストーブを買ってからというもの、昔から持っていたEPIgasのストーブとランタンは、高いガスカートリッジを使い捨てる無駄さ加減が気に食わず全く使っていなかったのだが、最近カセットコンロのボンベの液化ブタンを再充填する荒業を会得したので、手軽さと煤の出なさからこちらを愛用している。
今日のカフェ土偶は飲み物だけでなく、お湯を沸かしてスープ春雨を食べ、直火でソーセージを炙り、デザートにモンブランプリンとコーヒーと盛りだくさんであった。

夜は寒いとは言えまだまだ夏、ランタンとストーブに引き寄せられた羽虫が、あるものは羽を焦がして地上に墜落し、あるものは炎に巻かれて燃え尽きてゆくさまを眺めながらコーヒーを飲む。
我々は炎に突進して身を焦がして死んでゆく虫を果たして愚かだと言えるのだろうか?逆に、炎だと判っていてもなお飛び込む事こそ人生なのではないか?
などと思う、八連式の筒状の打ち上げ花火を肩に乗せてぼんぼん火の玉を琵琶湖に撃ち込みながら「お、俺だって、俺だって!」とガンキャノンごっこをする、今月半ばに誕生日を迎えたばかりのオッサンであった。

2009年08月21日

●大局と個別の間には笑えるポイントがある

前のエントリーで想像力が強すぎると、無駄に多くの他人の苦しみと同調して精神的な負荷が高いはずだ。という趣旨のことを書いた。
しかしそれは逆に言うと、当事者にとってはとても大事であるものの、他人からすれば余りに些細なことに過ぎないと感じられる事がとても多いからこそ、精神の安定を保っていられるのだとも言える。
たとえば赤の他人の恋愛や結婚や痴話喧嘩などは当人や関係者たちにとっては一大事であるけど、はたから見ると激しくどうでもいいように見える。
個人を識別できず個性として捉えられない他人の余りにも個人的な事柄は私にとって余りに関わりのないものに見えるのだ。

昨日「嗜癖」についてインターネットでいろいろと調べてリンクを飛び回っているうちに、気づくとセックスレス夫婦の悩み相談BBSのようなところを見ていた。

色々な人の色々なパターンの色々なセックスレスについての大量の悩みはどれも鬼気迫るものがある。そして色々な人が時に真剣に、時には明らかに興味本位と戯れとネタでその悩みに答えている。
当事者にとってこの世の終わりのような深刻さがそこから感じられるだけに、はたから見ていると、そこはかとない可笑しさもまた感じる。
元々表立った事ではないがゆえの表面的なわかり難さ、また当人たちの深刻さと赤の他人の感じる深刻さのギャップがこれほど激しい悩みも余り無いのではないだろうかと思った。

世の中にはありとあらゆる種類の悩みと嘆きと苦しみに満ち溢れている。
それらを遥か彼方から眺めてみれば余りにも些細で取るに足らないものに見えることがある種の救いである。とすることは余りにも一般的であるけど、そんな事が常人に出来るとはとても思えない。余りにも一般的過ぎてもう殆ど暴言である。
しかし、そこまで離れずに見てみれば、あらゆる人間一般の悩みと嘆きと苦しみが、笑えるものにしか見えないポイントというのもまたあるのでは無かろうか?と思った。

2009年08月20日

●想像力は貧困に保つべきか。

毎日の自転車での出勤コースの途中には警察署があって、タイミング的にその前で信号待ちになることがよくある。
信号に引っかかった日は自転車にまたがりながら、警察署に必ずといっていいほどある「昨日の交通事故」の掲示を必ず眺めずにはいられない。
そこには昨日起こった事故の数と負傷者数、そして死亡者の数が京都府下全体とその警察署の管轄区域ごとに三列二行の表で掲示されており、毎日その表を眺めていると、京都府下では毎日数十件の事故が起こり、少なからず負傷者がいることにちょっと驚く。そして時々ゼロではない数値になっている死亡者数の項目を見てちょっとだけドキッとするのである。

自殺者の数は事故による死者よりはるかに多いということは知識として知っていたものの、具体的な数字を知らなかったので調べてみると、年間の交通事故での死者(交通事故が発生してから24時間以内に死亡した人)、つまり警察署の掲示に発表される数は5744人(2007年)である。そして自殺者の数は33093人(2007年)となっており、おおよそ交通事故の死者として表される数の5.7倍の人間が自殺していることになる。
そう考えながら毎日の「昨日の交通事故」の掲示を見るとなんともいえない気分になる。
計算上ではおおよそ一日に90人の人が自殺していることになるが、統計上ではわかっていたつもりのものを毎日掲示として見ているとやたらとリアルに感じられるのである。

私は原付に乗っている時にしか事故を起こしたり巻き込まれたりしたことがないけど、事故の当事者になった時のブルーな気持ちや面倒臭さなどの精神的な負担はよくわかる。毎日数十件の事故が起こっているということは、毎日少なくとも数十人がそんな気分を味わっているということになる。そして時々は事故で人が死んでいるのである。
そしてその数の5.7倍の人間が自殺で自ら命を絶っているのである。自殺したいと思いつめるほどの苦しみは勿論の事、友人や恋人や肉親を自殺で失った友人も何人か知っているが、彼らの精神的な苦しみは私の想像しうる遥か彼方にあるように思える。

こんなことは今更言うまでも事なのかもしれないけど、私のあずかり知らないところでそんな精神的な苦しみを抱えて苦しんでいる人が毎日毎日生まれているということになる。
そう考えればなんか気が遠くなってくるけれど、毎日毎日発生しているであろう見ず知らずのそんな人たちの苦しみを想像して感情移入したり同情したりするのはとても精神的な負荷が高いだろう。
想像力やら妄想力が強すぎるとあることないことを気に病んで、可笑しい位に悩まなくてもいいことで悩んだりしているのは見ているだけで疲れる。
そう考えると、想像力を貧困に保つというのは精神衛生上の処世術となりえるのだと思ったりもした。

2009年08月19日

●「氷は水で出来ているけど、水は氷ではない」事について

ずっと更新をサボっていた。
いわゆる「リア充」になってブログ卒業。などというわけではなく、本当に書きたかったことが、公の場に書く意味の無い、しかも余りにも個人的過ぎるような事で、何かを表現しようとするとその事がアウトプットの回路につっかえて、それを外に出さないようにしているとそれとは関係の無いブログの文章も全く出て来なかった。という状態だったのだと思う。
コップを傾けて中の飲み物だけを中に浮いている氷はそのままで別の容器に移し替えるのと同様の難しさがそこにある。
氷を間違って別の容器に移してしまう事を絶対に避けたいがゆえに、飲み物を移すこと自体に躊躇を感じたのだ。

氷が溶けて周りに飲み物と混ざってしまえば、氷を別の容器に移してしまう事は無くなる。しかし当然氷は溶けて混ざってしまっただけで無くなってしまった訳で無い。
氷であったものはは氷としては存在していないけど、氷であったとは見えない形で回りに存在する事になる。
氷は水で出来ているけど、水は氷ではない。この二つには想像するよりはるかに深い深遠が口を開いているように思える。
そして、この事は希望の芽なのか絶望の始まりなのだろうか。と思った。

2009年08月12日

●数年ぶりに食べたキジハタ

akou01.jpggasira01.jpg
また海に。
今回は本気で潜らずにヤスを短くして水深4メートル程度の浅場でカサゴとメバルとカワハギと遊び、塩焼きサイズを数匹捕獲した。
今年はなかなかに魚影が濃い。もうお魚パラダイスである。
去年殆ど見かけなかったキジハタを頻繁に見かけた。水中で見るキジハタのオレンジの斑点はとても鮮やかで美しい。なんというか、海の底まで何処まででも追いかけて行きたくなるほどの魅力があるような気がする。
とはいっても老成魚は見当たらないので、とりあえず25センチ程度の一匹を捕獲。刺身にして残りのアラで赤だしを作った。これは美味しすぎる。キジハタを食べるのは数年ぶりである。
「海の底にいるときは辛い。上にあがる理由が見つからないから」という映画グラン・ブルーの台詞は魚好きの素潜り好きの魚突き好きといった傾向を持つ人にとっては永遠のテーマであるが、このキジハタの刺身と赤だしは、この難問に対する一つの回答でもあるだろう。
すべてが噛み合わさったような感覚の多幸感に包まれた海底からもぎ離されて、一切皆苦たる地上に戻ってくるだけの理由が、そのキジハタの刺身と赤だしにあるような気がした。