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2009年05月30日

●エキサイティング海

古い友人と海へ釣りに行った。
朝の三時に家を出て夜明けから釣り始める。なんだろう。なんかこんな感覚は本当に久しぶりだ。

syorijou.jpg釣り場に到着して、そこにあった看板を見てぎょっとした。
犬熊処理場は犬や熊を処理する施設なのではなく、犬熊という土地にある処理場だと思い当たるまでの数秒間がとてもエキサイティングだった。

で、アオリイカかコウイカを釣ってやろうと意気込んでいたが全く釣れず。一度だけ巨大なスズキがエギを追いかけてきてアドレナリンを無駄に放出したのみ。エギのオーバーアクションでやたらと疲れた。
サビキに群れるグレの憎たらしい事憎たらしい事。友人がラインブレイクによりアミカゴを海底に沈めて前半戦はあえなくゲームセット。

砂浜に移動して釣り始めるも、友人の仕掛けにはシロギスが喰い付くのに、私の仕掛けにはヒトデしか喰いつかない。良くてネズミゴチ。二時間しか寝てない上にヒトデしか釣れない脱力感から桟橋の上で大の字になってフテ寝である。ああ人でなし。
しかし砂浜でヒトデが釣れるとは。海底の状態が全く想像できない。一体どうなってるのだ?

友人Cがアオイソメを使い果たし、アジの南蛮漬け食べたいべさ?ということで、アジを釣るためにアミカゴ+サビキセット+エサ購入のために小浜新港に移動する。
助手席の足元でたっぷんたっぷん揺れるオキアミバケツがとってもスリリング。こぼれそうでこぼれない、新車にオキアミはおおよそ対極に位置する取り合わせである。
だがそれがいい。

小浜新港で「鯖の竜田揚げ膳」を食べた。これはとても美味しかった。しかし、ネタで買ったワカメソフトクリームは後ろからトンビに半分持って行かれた。何すんねん!トンビソフトクリームの具ににしてやろうか?と心の中で罵倒しておいた。
戯れに撒いてみた餌のために持参したキビナゴに群がるトンビの怖い事怖い事、昔から小浜新港のトンビは人を全く怖がらないところがあったけど、最近はますます凶暴化しているようだ。ちょっと気の利いたトンビなら小型犬の一匹や二匹さらってエサにしそうだし、そのうちに乳児がトンビに連れて行かれてトンビに育てられたトンビ少年発見とかいう事件が起こるに違いない。
大人でもここでヒトデの桟橋のように大の字になって寝てしまうと、鳥葬のような事になってしまう可能性大である。いくら私が卒論で『ツァラトストラはこう言った』を書いたからといってそれはごめんこうむりたい。あなオソロシや。
もう、本当にワカメソフトクリームなんかより、トンビソフトクリームでも名物にすればいいと思うよ。

で、オキアミとサビキセットを購入し、満腹した後、最初の漁港に移動してひたすらアジを狙う。なかなかいい感じの南蛮漬けサイズのアジが釣れまくる。
昔からサビキ釣りってのはあまり好きじゃなかったのだが、オキアミが振ってきてパニックになって右往左往する小魚を見ながら「ふはははー死のダンスを踊るがいい」或いは「ふふふーお食べお食べー」と心の中でつぶやきながら、オキアミをまいて群れをコントロールするのはなかなか楽しかった。
しかし本当にグレの群れは憎たらしい。お前らアジより先に喰うなー!オキアミで寄せた群れにショットガンでも打ち込みたい気分である。

当初は昼までに帰る予定だったはずだが、夕方前に撤収。
しかし、途中でワラビ取りに夢中になって思わぬロスタイム。オッサン二人があひゃあひゃ言いながら山を駆け回る姿はさぞかし微笑ましかったに違いない。私の頭の中にはずっと「アホワラビの歌」が流れていたのであった。

tyouka20090530.jpgということで、雑魚で小魚ばかりのエモノである。潜って魚を突くのが如何に効率が良いかというのがしみじみ判った。

2009年05月18日

●バッハ:「主よ、人の望みの喜びよ」 by ワイセンベルク / 公人として、私人としてのバッハ

amazon ASIN:B000CSUXZW 一昨日に「主よ、人の望みの喜びよ」は誤訳ではないか?正確には「主よ、私の魂の喜びである貴方よ」とでもすべきである。ってな事を書いたので、ついでにマイラ・ヘスではない「主よ、人の望みの喜びよ」の紹介。
この「主よ、人の望みの喜びよ」が入ったこのアレクシス・ワイセンベルクのCDはバッハ好きにはたまらない全曲バッハ構成である。
タイトルになっている「主よ、人の望みの喜びよ」はマイラ・ヘスのひたすら内向するような演奏に比べて大分外交的というか「他人のために弾いている」という印象を受ける。
個人的にはこの曲に関しては曲の雰囲気から言って、井戸を掘るようなマイラ・ヘスの演奏が好みである。
しかし、BWV543のイ短調のプレリュードとフーガ、BWV855aのロ短調の「シャコンヌ」の演奏が熱い。これは熱すぎる。

バッハってのは宮廷の楽師長やら楽長やら合唱長なる地位を歴任して、社会的にはそれなりに不自由のない生活をした人である。
バッハのころは音楽家など芸術家ではなく召し使いであるとされていたころであるから、音楽家はパトロンやスポンサーの望む音楽を作る事が仕事であったはずで、バッハも少なくともそのことを納得してそのような仕事をしていたように思える。
しかしながら、バッハはそういったいわば注文制作の音楽に個人性を忍ばせて自己表現をしていた。と、私は思う。
彼の作るチェンバロ曲やヴァイオリン曲などのシンプルな構成の楽曲にはそういった雰囲気が現れているように思えるのだ。

で、このCDの話に戻るが、このアレクシス・ワイセンベルクの演奏はそういった公としてのバッハと個人としてのバッハの両方がよく引き立っているように思えるのであった。

2009年05月16日

●人の誤訳のグタグタよ

最近バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」のピアノ編曲版が聞こえてくることが多ったのだが、ふとこのタイトルの意味が良くわからないことに気づいた。

amazon ASIN:B0007INZPC この曲で一番メジャーなのはこのCDやね。
「主よ、人の望みの喜びよ」ってのは「主よ、人の望み(があることは)喜び(です)」なのか「主よ、(あなたが)人の望み(であるのは)喜び(です)よ。」なのか。それともまた別の意味なのか?
ということとでちょっと調べてみた。

元々この曲はバッハのマリアのエリサベト訪問の祝日の147番の教会カンタータ「口と心と行いと生命」のコラールの一部をマイラ・ヘスが編曲してメジャーになったものやけど、そもそも「マリアのエリサベト訪問の祝日」ってのは、聖母マリアがキリストを身ごもった喜びで主を称えた日の話である。

調べたところによると「主よ、人の望みの喜びよ」ってのは、ドイツ語からの英語訳である"JESU, JOY OF MAN’S DESIRING"を更に日本語に訳したものらしい。確かに直訳やね。
しかし、更にドイツ語の原文を調べてみると"Jesu, meiner Seelen Wonne"ということで、カンマ以前と以後は同格であるから、「主よ、私の魂の喜び(である主)よ」と二回呼びかけていることになるようだ。なるほどこれならちゃんと意味がわかる。

というか、これはこれは洗礼者ヨハネの母エリザベートの前で聖母マリアがキリストを称えて言った台詞、ルカ1・46~55の「マリアの讃歌」、いわゆる「マニフィカト」の「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」に対応している言葉であろうね。
となると日本語に訳す時に間違えたというよりは、英語訳がそもそも間違っているように見える。
しかし、ここの一番肝心な所を誤訳するとは、しかも原形をとどめないほどに誤訳するのはちょっといただけないと思う。

しかし、世の中にはこんな感じで誤訳がメジャーになったことって沢山あるのだろうなと。

2009年05月15日

●プレデターがまた来た

predetor01.jpgBE@RBRICKプレデターが家に来た。
仲間が増えたので、心なしか巨大プレデターも喜んでいるようだ。

2009年05月12日

●プレデターが来た

ブログを殆ど放置していていた。
色々な人を送り、色々な人を迎え、色々な人を祝った、四月終わりから五月初めであった。
直接的な意味で、色々な種と苗を植えた。

predetor00.jpg家にプレデターが来た。ネットで買ったのだが、届いてみて思ったよりでかくてビックリした。
最先端のテクノロジーを持っていながらも、生身の肉体でもって戦う事を至上の価値とする彼らは、何かしらの技術者にとって理想的な存在であるように思う。

ブログに書くべき事はいくらでもあると思う。しかし、それが本当に書くべき事なのか?と考えると、本当に書くべき事など何も無いように思えてくるのであった。