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2009年04月23日

●映画:スパイダーマン2 / 素顔を晒しまくるヒーロー / オッサン化するスパイダーマン

amazon ASIN:B0001A7CZU 前作でスパイダーマンとして生きることを受け入れ、私人である事を犠牲にする覚悟を持った主人公であるけど、ニューヨークでのスパイダーマン人気が高まるのに引き換え、彼自身の生活はボロボロ。
スパイダーマンであることを優先するばかりに、大学、バイト、好きな女の子との関係、すべて上手くいかない。
自分がスパイダーマンであることに嫌気がさしつあるところに、主人公に愛想をつかした女の子が他の男と結婚することになり、危機を感じた主人公は、スパイダーマンであることを捨てて私人として生きる決意をする。

スパイダーマンを止めて生活のあらゆる面が好転し始めるものの、自分が一個の人間として人のために出来ることに限界を感じ、そしてスパイダーマンであることを要求される決定的な事件が起こり、彼は再びスパイダーマンとなることを決意するのであった。

ひたすらヒーローであることを疎ましく思い疑問を持ち続けている主人公のこの物語は、前作以上にヒーローものではない。
公私の乖離に悩み続ける主人公は、重要な役割をこなしている仕事での自分と、上手くいかない家庭でのギャップに悩むお父さん、というよりは、クラブや勉強と友達や恋の両立に深く悩む高校生のようであった。

スパイダースーツを着た青年であるスパイダーマンと、ただの青年であることは実は服を着ていることの差しかないはずなのに、全く違う存在であるように見える。
しかし、スパイダーマンが暴走する列車を必死で止めようとするシーンで晒す素顔が、スパイーダーマンの一皮下が生きることに悩む青年でしか過ぎないことを思い起こさせてくれる。

ヒーローであることに悩むヒーローは他にもいても、愛する人だけでなく市民にすら、苦しみ絶叫する素顔を晒してしまうヒーローは皆無ではないだろうか。
そういう意味で今まで以上に感情移入度の高いヒーローであろう。

公私のどちらかだけを取るということは実際のところ安楽な道を選ぶことであり、結局、長期的には選んだ方すら破綻することが多いということをオッサンになるとなんとなく理解できてくる。
だからこそオッサンは私人として生きつつも、社会に属して働き生きるのである。
この主人公も苦難の多い両立の道を選ぶというオッサンな道を歩みだすのであった

2009年04月22日

●映画:「スパイダーマン」/ 第2.5次性徴 / 蜘蛛男的教養小説

amazon ASIN:B0009J8ESC 先日「ダークナイト」を観てからアメコミ原作映画って面白いやんということで、「スパイダーマンシリーズ」の三つを見た。
ということでまず「 スパイダーマン」(2002/米)の感想から。

一応「スパイダーマン」なるヒーロー物なので、それらしいヒーローな映画だと思っていたのやけど、メインストリームにいないオタ系理系青年の青春ラブコメ物語がどこまでも続いていて、「主人公がうじうじ」と聞いていたがここまでとはちょっとびっくりした。
青春物語の要素の入ったヒーローものというよりは、ヒーロー物要素の入ったアメリカンな青春物語と言ったほうが妥当かもしれない。
なんというか、ビッチ臭のするキルスティン・ダンストも妙にリアルでアメリカンな青春物語にぴったりであった。
確かに彼女は、遠くから見てあこがれるのではなく、ずっと隣に住んでいてずっと好きだったってタイプやなぁ。

ということで、「ヒーロー物要素の入った青春物語」としてみてゆくと、これは典型的な教養小説的な主人公の成長物語でもあるように見えてくる。
白い糸を出すスパイダーマンは性的な象徴だ!というネットの感想を見てちょっと感心したのだが、たしかに、スーパースパイダーに噛まれる事によって遺伝子的変異を起こしてスパイダーマンへと成長するあり方は、思春期に第二次性徴によって自我の確立に悩む青年のようであった。
そして、敵対勢力との抗争や町や地球の防衛についてよりも、個人的な悩みの方がはるかに重いとする、非ヒーロー的な「スパイダーマンであることの悩み」はシリーズを通しての一番のメインテーマとなってゆくわけである。

2009年04月21日

●映画:「モンテ・クリスト伯 」/エデはどうした、エデは?

amazon ASIN:B00008NX3I アレクサンドル・デュマの同名の小説を原作とした「モンテ・クリスト伯 」(2002/米=英=アイルランド)を観た。
原作があまりにも長大な超大作なので、131分という時間に収まるのか?と思ったけど、かなり端折ったうえに原作と違う話になっていたけど、それでもなかなかいいバランスに出来上がっていた。
モンテ・クリスト伯アナザーストーリーといったところか。
物語の圧縮率が高いので、中だるみなしで一気に駆け抜けるような感覚があった。

でかいレンタル屋さんでなくちっこいレンタル屋にしかなかったので観る前は多分微妙な映画やと思っていた。
しかし、個人的には「エデ」が欠片も登場しなかったのがちょっと残念であったものの、デュマの小説を読んでるような疾走感と爽快感は十分にあった。ストーリーは違うもののストーリーテラーとしてのデュマっぽさをとても感じる面白い映画であった。

2009年04月20日

●神託が太陽を買う/沈まない太陽/MySqlが沈む太陽に見える

oraclebuysun.jpgちょっと前にIBMと買収交渉に入ったらしいと言う噂のあったSUNであるけど、とうとうオラクルが買ったらしい。
SUNのトップページにもでかでかと載っている。
なんというか、昔から憧れていた人がとうとう結婚しちゃったような感覚である。
オラクルってお硬く真面目なイメージがあったけど、そんなに儲かってたんやなぁ。と言うのに驚いた。

この間SUNがMySqlを買収したところやけど、そのSUNをオラクルが買収したって事でMySqlが目指していたエンタープライズ向けのDBMSの道は完全に閉ざされたことだろう。
ORACLEとMySqlはバーバリーとバーバリーブルーレーベルのような関係になったわけだが、そういえばORACLEがBerkeley DBを買ってから、MySQLやMovable TypeがBerkeley DBへのサポートを廃止したけど、MySqlの運命やこれ如何に。

ORACLEがSUNを買ったことで、SolarisはもちろんJAVAをオラクルに親和性の高い方向に誘導できるって事は、JAVA+DBMSなプラットフォームにORACLEを強烈に売込みができるようになるだろう。
環境としてのSolarisのOS、システムとしてのORACLEのDBMS、そしてインターフェイスやロジックとしてのJAVAをすべて傘下におくのは、製造から販売までを自社でするといった今時ではない方向性かもしれない。
それでも高い金を払ってもいいから、高信頼性を買いたいという場合にはとても魅力的に見えるだろう。
ORACLE、SUN、JAVAのブランド力ってのはやっぱり強力である。SolarisにOracleを乗せるってのは一昔前ならアルマーニを着てランボルギーニを運転するような金持ち感があったけど、これからのORACLE+SUNはエンタープライズ向けに注力してゆくのだろう。

個人的にはIBMがSUNを買うってのは、IBMがSUNから顧客を奪って潰すようなイメージがあったけど、OracleがSUNを買うのは相補的により高い目標を目指すところの方向が判りやすい気がする。
SUNの買収そのものが不可避なのであったら、IBMに買われるよりはよっぽど良かったように思う。
沈む太陽に見えたSUNがORACLEに買われてまた上ることを期待したい。

今までMySqlは仕事でサルのように使ってきて、SUNに買収された時はそこはかとなく嬉しかったのだが、MySqlが沈む夕日の様に見える今となっては、ちょっとOracleでも使ってみるかなと言う気になった。
これからはフリーSolarisにはOracleのフリー版のExpress Editionがプリインストールされることになるのか?それはちょっと楽しみである。

2009年04月19日

●攻城戦は漢のロマソ

「攻城戦は漢のロマン」ということで日曜日は城攻めに。
初めて入るあまりにも広大な彦根城、城フェチのツアコンの如何にこの城が要塞として優れているかという構造的な解説を聞くにつれ、これが唯の観光地ではなく第一級の軍事的防衛施設でかつ城塞都市であったということにちょっと驚く。
ここまでして守らねばならないもの、また、ここまでのものを攻めてまで奪わねばならぬものが世の中にある人生を生きるとはいったいどんな気がするのだろう。
まさか城主の井伊直弼もこんな風に(音注意)ネタにされる日が来るとは思っていなかっただろう。
古代の難攻不落の軍事要塞で女の子がキャッキャッ言いながらはしゃぐ声は諸行無常の響きを、石垣に映えるカラフルなスカートの色は盛者必衰の理を表しているのだ。

そして、彦根城の後は「佐和山遊園」に。

不動産業と飲食業で財を成した翁が一人で現在も建造中であるらしいが、新しいものが作られるスピードより、今あるものが朽ちたり崩れてゆくスピードの方が速そうである。
もう道楽と言うよりは何かに取り付かれているようにしか見えない。

ぁゃιぃ域を超越した、生理的なワーニングが頭の中で鳴り響く不気味さを感じるこの庭園、日常的に宗教的な環境にあるお二方が早々に散策を拒否したほどの破壊力。なるほどその気持ちよく判るような気がする。
特に、城へと続く陸橋を渡る時は首の後ろの毛が逆立つような動物的な恐怖を感じた。
これはいつ崩れてもおかしくないという確信以上に、何かしら人間の業や欲望のもつ脆さを感じる橋である。

何から何まで本物の城を見た後にこれはなかなかきついものがある。ハリボテがハリボテでしかないままに崩れ朽ち果ててゆく様はあまりにも悲しい。
そして、そのハリボテに全身全霊をささげているように見える人はそれ以上に悲しい。

とはいっても、寝る時に彦根城で聴いたひこにゃんの歌がずっと頭の中で流れていた。

2009年04月18日

●個人主義と自己責任論と北山紅茶館

はるか昔に辻利でコーヒーを注文して店員さんに「えぇぇっ!」と驚かれた事がある私であるが、「北山紅茶館」でコーヒーを注文するのは、スターバックスでココアや紅茶を注文する以上には難易度の高い行為であるので、二回目のチャンスもコーヒーを注文することができなかったのは、私が年を取ってしまったからだろう。

世の中には上の例と同じような、例えば、天一で餃子とチャーハンだけを食べる、逆に王将でラーメンだけを食べる、といった風に、ここでそれを食べるか?といった行為が良くある。
「メニューにあるねんから気にせず頼めばええやん」といった考え方もあるけど、「本人が良いといって受け入れているからといって、どんな行為でも許されるわけではあるまい。」といった考え方もまたある。

「なんとか専門店」に行って、その専門のもの意外を要求するのは「個人としての主張」の範囲内であるのか、それとも「エゴの暴走」であるのか。
「なんとか専門店」がその専門以外のものを提供するのは本当にその人の自発的行為であるのか。それとも不当な欲求に答えざるを得ないだけなのか。

あまりにも行過ぎた個人主義と自己責任論が、突き詰めれば、弱い立場の人間の権利を強い立場の人間に集中させる方向に働いてしまうのは、ありとあらゆる主義主張自身の、それ自体に内包して起因すると思われる問題が、実は問題自身ではなく人間自身の問題でしかないことを表しているように思える。
結局のところ、何かしらの問題を抱えている人間自身があらゆる問題の原因であるということであるのだ。

と物事を中間点を考慮せず何でも二極化して考えてしまうと、とてつもない極論にたどり着いてしまう。
そして、極論というのは、往々にしてあまりにも当たり前で結局何も言っていない結論に着地せざるを得ないのに気づくのであった。

2009年04月15日

●土偶家のエリア88

area88.jpg 最近エリア88を読んで戦闘機が好きになってきたので、思わず「チョコエッグ 世界の戦闘機シリーズ」をネットで買い込んでしまった。

大量にあるので、とりあえず、エリア88の主要メンバーの搭乗機で編隊を組ませてみたが、殿に一機だけ後方視野が抜群の変な機体が紛れ込んでいるぞ!
戦闘機でもなんでもないけど、ジェット推進力で進む生物なので、同じジャンルとしてV字編隊の後ろにおいてみたが、意外にしっくりきているような…

2009年04月14日

●狼バカバカ少年

バレンボイムを変換するとWindowsのIMEでは「場恋慕医務」になり、まるでどこぞの暴走族のようでちょっと可笑しい。
ちょっと前まではそれなりに賢かったWindowsのIMEが近頃とんとバカになって妙な変換ばかりしている印象があったのだが、これは酷い。
んじゃsolaris10のATOKならばちゃんと変換してくれるだろうと試してみたところ、「馬連簿医務」と大して変わらない。なんとなく「赤ひげ」っぽい獣医を連想させるなぁ。

ということで、ATOKで変換できない「バレンボイム」をIMEがちゃんとカタカナで固有名詞として変換できないのは、IMEがバカなのではなく、「バレンボイム」という単語が一般的でないだけであった。

「狼少年」ってのは嘘ばっかりついていると本当の事も嘘だと思われるという話やったけど、バカなことや凡ミスばっかり繰り返していると、本当に難しくて不可避なことでもそのバカさ加減のせいの凡ミスだとみなされてしまうわけで、怖い話やなぁと思った。

2009年04月13日

●「ブラームス:チェロ・ソナタ第1番&第&番」ジャクリーヌ・デュ・プレ、ダニエル・バレンボイム

amazon ASIN:B0001O3Y8K 最近よく聴くのはコレ、バレンボイムが妻である夭折の天才チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレと競演した1967年録音のこのアルバム、「ブラームス:チェロ・ソナタ第1番&第2番」である。

ジャクリーヌ・デュ・プレって人は情緒的に感情的に演奏するタイプの人らしく、なるほどこの演奏を聴いているとそんな感じである。
新婚さんいらっしゃ~い。てな勢いで、天真爛漫に歌い上げているジャクリーヌ・デュ・プレに、「まぁまぁ」とちょっとだけ空気読まないような感じで入ってくるバレンボイムがとてもいい感じに噛み合っており、聞いているとなんとも心地いい。
なんというか「メロンに塩」といったところだろか。もちろんメロンがジャクリーヌ・デュ・プレね。

しかし一番の感想はこのジャケットを見て「バレンボイム若っ!しかも目つき悪っ!」であったりする。

2009年04月12日

●桜の季節の人ゴミ

yataitakenoko.jpg前日に引き続き本日も桜を見に行くも、円山公園の巨大枝垂桜はすでに散っていた。
しかし、去年食べようと思ってタイミングを逃して食べられなかった、屋台で売っている煮焼き筍を食べることができたので満足である。

丸山公園は当然のこと、街中がありえん人ごみ、まさに人がゴミのようだ。本当に不景気なのか?
しかし不思議と皆が皆幸せそうに見えるのはこの国が平和だからだろう。
逆にこれだけの人がすべて不幸せそうに見える景色はさぞかし怖いに違いない。と思った。

2009年04月11日

●琵琶湖の桜

夜に琵琶湖岸に桜を見に行く。横に伸びて枝振りのいい桜をLEDの青い光で愛でる。

琵琶湖岸の六キロの距離を南北に伸びる桜並木の最北端と最南端では桜の咲き具合がまったく違い、最南端の桜は散り始めていたのに、最北端の桜はまたつぼみであった。
六キロの距離で季節が違うというのがとても不思議である。
隣同士の桜の咲き具合の違いなんか殆どわからないのに、端と端の桜はまったく違う。
人間の変化というのもおそらくこんな感じなのだろう。
一日一日の違いなんかまったくわからないのに、気がついたら咲いていた、あるいは気がついたら散っていた、という風に。

琵琶湖を見ると、いつもコーヒー沸かしセットと釣竿を忘れてきたことを後悔する。せめて釣竿くらいは車に積んでおくべきかもしれない。

2009年04月10日

●桜を見るために早起きする/精神的処世術

最近はずっといつもより15分早く起き、ちょっと遠回りして加茂川沿いの桜のトンネルを通って出勤している。

若いころは、時期的な鬱要素と、その要素と独立している、その季節のみの事象を混同して、鬱要素と関係ない事象そのものが鬱要素になるという逆のフィードバックが起こっていたものだが、おっさんになるとそのあたりは切り離して感じられるようになってきたと思う。

たとえ春が欝の季節であったとしても、春に咲く桜自体は鬱要素でもなんでもなく、春が我々にとって何であるかとは関わりなく綺麗な存在である。ということである。
つまり、たとえわれわれの気分がどうであっても、桜自体は独立して綺麗なのである。

モノそのものをすべての関係性から切り離して独立したものとして見るということは、ひとつの精神的処世術とも言えるかもしれない。

しかし、桜を見るために15分早く起きるなんてことは若い頃にはできなかった。
若い頃は朝の光の中で狂い咲く桜のトンネルを通ることよりも、朝の十五分の睡眠のほうがはるかに大事だった。と最近自分が年をとったことをつくづくと感じるのであった。

2009年04月09日

●二条城で可笑しかったこと

仕事後に二条城へ夜桜を見に行った。
平日の夜だというのに凄い人である。周りから聞こえてくる会話からするに、京都以外からの観光客が相当数含まれているようだ。
やはり、日本中から人が大挙して押し寄せるだけあって見事な夜桜であった。

皆が皆、口を半開きにしながら携帯電話で写真を撮っている姿は可笑しい。
そして、携帯電話で撮った、根元から天辺までをワンフレームに入れた夜桜が並ぶ、感度が高い分ノイズの多い写真は、それだけで心霊写真に見えてくるのが可笑しい。
そして何よりも、そんな中に自分がいるのが可笑しかった。

2009年04月08日

●ゲシュたる春

一旦崩れだすとそれを押し留めるのは非常に難しいのは何事も同じ。
毎日更新を続けていたこのブログも、その均衡が崩れて一気に更新頻度が少なくなった。

結局、何かを表現すると言うことは、未分化の状態に留まっていた何かを言葉でもって限定してしまうことなのだろうか。
実体化していなかった何物かを言葉でもって現実のものとしてしまうことなのだろうか。

しかし、一方で鼠は「問わず語らずに理解し合ったって何処にもいけやしない」とも言っている。
当たり前ではあるが、言葉に出して良くなる事もあれば悪くなることもあると思う。
それでも、言葉に出して悪くなるようなことが、果たして言葉に出さずに良くなる事があるのだろうか?とも思う。

今更ながら、世界にはありとあらゆる対立概念に満ち満ちていると改めて思う。

2009年04月07日

●映画:ヴィム・ヴェンダース「ミリオンダラー・ホテル」 / 脆さゆえの美しさ/足りないものと過剰なものとのコントラスト

amazon ASIN:B00005Q81H この間観た「ベルリン・天使の詩」(1987/独=仏)がとても面白かった、ヴィム・ヴェンダースが監督した「ミリオンダラー・ホテル」 (2000/独=米)を観た。

社会に適合できない狂人や変人達が住むミリオンダラーホテルで雑用をこなしながら生活する知的障害の青年が、ホテルの屋上から親友が転落死したのを切欠に、同じホテルに住む女性に心引かれてゆく。という話である。
基本的には恋愛映画やけど、ダメ系、キティ系の上に「ベルリン・天使の詩」のヴェンダースが監督、さらにミラ・ジョヴォビッチが出てるとなればこれはもう観るしかない。

なんとなく作りにあざといというかわざとらしいところがあったけど、プライベートライアンのアパム伍長のジェレミー・ディヴィスとミラ・ジョヴォヴィッチがとてもいい感じだった。

ミリオンダラーホテルの住人には、自分はビートルズの5人目のメンバーだったと主張して自分の失われた利益や不満をぶちまけてばかりいる男や、自分をネイティブアメリカンの族長だと思い込んでいる男など、いかにもそれらしい人もいて、結構こういった人を楽しみにこの映画を観たのやけど、この部分ではちょっと期待はずれ。

この映画全体に漂う「脆さ」がなんともたまらんかった。線が細くて、透明で、繊細で、純粋で、かつ複雑な構造をしたものの持つ「脆さ」がゆえの美しさがこの映画全体には漂っていたように思う。
ミラ・ジョヴォビッチとジェレミー・デイヴィスに代表される、足りないものの美しさから見て、メル・ギブソンに代表される過剰なものが如何に異質に見えるかというのが印象に残った。

しかしこんな感じの如何にも儚げで脆い役柄のミラ・ジョヴォビッチがとてもいい感じであった。

2009年04月06日

●新谷 かおる 『エリア88』

amazon ASIN:4840109028 amazon ASIN:4840109362 エリア88を全巻読み終わった。
もう古典ともいうべきなあまりにも有名な漫画で、外人部隊に所属する戦闘機乗りの傭兵の話、という予備知識のみで読み始め、当初は単純に戦闘機がドッグファイトするだけの話しかと思っていた。
しかし、植民地化からの独立した教育程度の低い国家の悩みや統治の難しさ、軍需産業を傘下に収める巨大企業による原油産出国の乗っ取りだの、外資による日本企業買収に対する防衛だの、国際政治や戦争やら経済がらみなどの渋い話もとても多かった。

当初は中東の王国の内戦の為に傭兵として戦争をしていたはずが、物語の終盤では「プロジェクト4」なる世界を股にかけた巨悪と戦うことになるのだが、エリア88の兵士達が直接的に戦争するだけで無く、シンの恋人とその友人たちも巨大企業として社会的に政治や経済の方面で圧力を掛けて戦っているところがとても熱かった。
戦闘機同士の対決から、傭兵たちの悲哀、そして国際政治や経済や戦争の問題まで、子供からおっさんまで楽しめる懐の深い本であった。

良い本の条件として、読後に自分の悩みや恨み辛みがあまりにもちっぽけに感じる爽快感。てなものがあると個人的に思っているのだが、この本の読後感もまさしくそんな感じだった。
しかし、ラストは予想以上に強烈で辛いものがあった。

私と同じくらいの年代の人は恐らく中学くらいでこの漫画を読んだことになると思うけど、もう一度読んでみると又違った感動があるはずである。
全国の傭兵諸君、傭兵としての誇りを持とうではないか。


いきつく先は
炎の地獄か血の海か…

高度計の針は
弱く震える…
ここはエリア88…


2009年04月05日

●グレン・グールド「ブラームス:4つのバラード、2つのラプソディ、間奏曲集」

amazon ASIN:B0002ZEZVI ブラームスと言うとロマン派であるけど、昔からロマン派と呼ばれる作曲家のピアノ、しかもソナタでもコンチェルトでもないのは甘ったる過ぎてあまり好きではないので、このCDはグールドのCDの中ではゴールドベルグに次いで有名なものひとつであるけど、今まで聴いたことが無かった。
しかし、最近、ブラームスのピアノソナタとチェロソナタ、そして交響曲を聴いて、ブラームスのイメージが一変した上に、私の中では「わたしずるいんですの原節子」な某レディーのお気に入りの一枚でもあるということで、もうこれはぜひ聴いておかんとと言うことで聴いてみた。

このCDは「ロマン派」という括りで言及されるので、甘々なグールドなんか見たくないし甘々な曲なんか聴きたくないと多少覚悟して聞いたのだが、流石にグールドはそんな曲を弾く筈が無い。
確かにグールドにすれば甘い方やけど、甘すぎない甘みをちゃんと表現していてこれは心地よかった。
なんというか、生クリームと砂糖べったりのショートケーキではなく、サツマイモやかぼちゃの甘みがきっちり出ているパイと言う感じであろうか。

それに何よりグールドのCDの中で一番ジャケットが好きなのもこのCDである。ふんぞり返ったグールドがグールドらしくて良い感じである。
このCDの間奏曲が彼のピアニストのキャリアとしての最初期の録音で、「バラード集」と「2つのラプソディ」は彼の最後の録音ということであるけど、やっぱり「バラード集」と「2つのラプソディ」がきりっとしていて素晴らしい。
美しさが神経質さと同居しているようなグールド独特の雰囲気が良く出ているように思う。