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2009年02月28日

●やっとマリア灯篭発見

mariatourou.jpg
北野天満宮に梅を見に行って、やっと「マリア灯篭」を発見した。
下のほうにあるのがどうやらマリア像であるらしい。
まぁ聖母マリアだといわれれば聖母マリアだが、地蔵菩薩だと言われればそう思ってしまいそうではある。
正月に見つからなかった時はすごく残念だったけど、見つかってしまえば拍子抜けだというのは、世の中にある多くの謎だとか発見だとか知恵と同じである。
結局そういったことは努力したり目指すこと自体が一番大きな意味と価値を持っているのだろう。

しかし、いくら梅の名所だといっても、いくら梅にちょうどいい時期であっても、いくら受験シーズンだといっても、北野天満宮にこれほどの人が集まるのかととてもびっくりした。

2009年02月27日

●ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』

amazon ASIN:448866301X  しばらく私の本読みテーマは「SFを読もう」と言うことでSF界の名作であるジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』を読んだ。
ハードSFなる分類に入る硬派なSFという前知識で読んだけど面白くて二晩で読了した。

月面調査隊が月の洞窟内で赤い宇宙服を着た人間の死体を発見する。
科学者たちによる分析の結果、その死体は5万年前のものであることが分り、彼が身につけているものも現代の科学ではとても理解できないようなものばかりだった。
その死体と超文明の残骸を発見を切欠にあらゆる分野から集まった科学者たちは総力を結集して次々と現れる謎に挑んでゆくと言う感じのストーリーである。

戦闘シーンも恋愛描写も無く、ひたすら科学者たちが謎に向かって研究を進めて邁進して行く様が延々と描かれ、最期に「あっ」と言う驚愕の事実が姿を現すという心憎い作りである。

戦争があったり恋愛があったり友情があったりするような状況的なストーリーの展開ではなく、どんどん謎が明かされてゆく部分だけでストーリを展開してゆくのにびっくりした。
SFと言えどもぜんぜんスターウォーズ的ではなく、ひたすら謎を解いてゆくような作りであり、そのあたりがハードSFなる所以なのであろう。
映画でいうならアクションと言うよりはミステリーかドキュメンタリーであった。

科学者たちの必死の研究を描くような、綿密な下調べと知識と構成で論理的な破綻や矛盾の無いきっちりした設定と描きこみが素晴らしいのはもちろんであるけど、完全な想像の世界であるはずの描写がとても良かった。
私は基本的に宇宙好きではないけど、月面から崩壊する母星を眺めるシーンの美しさはなんとも言えないものがあった。
ハードSFとしての綿密な作りこみと設定だけでなく、そういった詩的というか文学的な雰囲気が多分に含まれているところがこの本が不朽の名作となった所以であろうと思った。

2009年02月26日

●ブラームスを聴き始めた

最近職場の人にCDをお薦めしてもらう事が多くなり、ダニエル・バレンボイムの演奏するバッハやブラームスのソナタなど、今まで聞かなかったような音楽を聴くことが多い。

私が偏屈なせいか、今まで誰にも聞くこと無く一人で聴く音楽を選んでいたけど、お勧めして下さるCDを聴いているうちに私は今までなんと暗くて深刻で思い詰めた様な音楽ばかり聴いていたのだろうかと思うようになった。
「深刻になることは必ずしも、真実に近づくことではない。」と村上春樹が言っていたけど、そんなものばかり聞いていてどこにたどり着けるというのだろうか。
深刻ではないけど、きりっとして上品で華やかな音楽の良さもあるなぁと思うようになってきた気がする。
amazon ASIN:B00000I7VT
と言うことで最近よく聴いているパールマンとアシュケナージのブラームス ヴァイオリンソナタ全集

2009年02月25日

●映画:バットマン ビギンズ /「井戸に入る」> 「ヒマラヤに登る」

amazon ASIN:B00067HDW0 この間「ダークナイト」を観てとても面白かったので、その前作である「バットマン ビギンズ」(2005/米)を観た。

ゴッサムシティの大富豪の一人息子だった男が、いかにしてバットマンとなってゴッサムシティを悪から守るために立ち上がったのか、そして何が彼をバットマンへと導いたのかという話であった。
バットモービルやバットスーツの開発の様子も見られるのがなかなか面白かった。

ティム・バートンのどこと無くコミカルでファンタジーな路線とは全く違う、ダークでリアルな作りが上手く働いていてとても面白かった。
そりゃこの映画観たら「ダークナイト」も観たくなるわな。
とはいっても、先に「ダークナイト」観てからでも全く問題の無いつくりになっていた。

ティム・バートンの「バットマン」で描かれるゴッサムシティは独特の装飾過多ないかにもティム・バートン雰囲気を持っていたけど、このクリストファー・ノーランの描くゴッサムシティはそんな雰囲気は全く無くなり、現代のどこの都市であってもおかしくないような雰囲気になっていた。
どこにでもあるような都市のどこにでもあるようなビル、そしてどこにでもいるような金持ちと貧乏人と悪人と善人が繰り広げる物語は突飛ながらももしかしたらありえるかもしれないようなリアルさをもっていたように思う。

ネット上では主人公バットマンは金持ちの道楽とかセレブ野郎とかアマちゃん過ぎてムカつくとか言われているけど、非の打ち所が無いながらも、悩み迷いつつ苦しみながらも正義のために身を尽くす事を決心したバットマンはなかなかに好感が持てた。
正義(的)行為にいそしむマイケル・キートンのバットマンはあまりにも人相が悪くて、歪んだ嗜好から暴力と嗜虐の正当化のために正義の味方をしているように見えなくも無かったのだが、このバットマンは爽やかで男前で強くて脆い所もありいかにもハリウッド映画的に良い感じである。

この映画の中で自己超克だとか意識改革だとかの手段として「ヒマラヤに登る」と「井戸に入る」の二つの手段が出てくるのだが、結局「井戸に入る」の方が自己に関する根本的な問題に近づけるとする方向性であるところが、いかにも今風なハリウッド的東洋思想やなぁと思った。

「ダークナイト」を観たときも感じたことやけど、あらゆる年齢のあらゆる客層に対したあらゆる要素を詰め込もうとする、全方向全要素的ハリウッド映画の最も典型的な面白さであった。
もうこのシリーズは新しく出るたびに観ずにはおれないだろうと思った。

2009年02月24日

●映画:ミヒャエル・ハネケ「ファニーゲーム」 / 怖いと言うより気分悪い映画

amazon ASIN:B000063CU6 ずっと前から観たかったのだが、レンタル屋さんに無かったので諦めていたミヒャエル・ハネケの「ファニーゲーム」(1997/オーストリア)をやっと見ることが出来た。
なんでも最近同じ監督によって「ファニーゲーム U.S.A.」としてリメイクされて現在公開中ということなので、レンタル屋さんに入ってきたのだろう。

夏休みを過ごすために湖のそばの山間の別荘にやってきた3人家族の下に、隣人の使いとして男が卵を貰いにやってきた。
卵を貰った男は立ち去る際に卵を落として割ってしまい、更に卵を要求する。
男の厚かましさと横柄な態度に家族が怒りを覚え、場が険悪になったところにもう一人の男が現れる。
なんということの無い楽しい夏休みの日常だったはずが、気づけば徐々に悲惨な状況に陥ってゆく。
と言う感じのストーリーである。

バックミュージックの無い、長回しを多用した静かな映像は否が応にも緊迫感を煽り立てる。後味の悪い怖くて救いの無い作風のハネケの映画の中でも有名なこの作品はやっぱり怖かった。
というよりも、そんな後味が悪いとか、救いが無いとか、いったものを超越しているところがある。
スプラッターで強烈なシーンは皆無なのにかかわらず、じわじわ来るような恐ろしさがたまらん。

普通の映画であれば映画が映画であることを忘れさせるようなつくりを目指すはずであるけど、この映画は逆に事あるごとにこれが映画でしかない作り物であることを観るものに強調して意識させるようなシーンが多い。
男の一人がカメラに向かって、つまり見ている我々に向かって話しかけたり、説明したり、同意を求めたりするごとに観ている方は「はっ」とこれが映画であることに気づく。
普通の映画ならそこで冷めるはずだが、この映画に関しては見ている我々までコントロールされているようでどこと無く嫌な気分になる。
最後の方には絶対現実では起こりええないようなシーンがあるのだが、そのシーンでさえ、見ている人の倫理的な充足感を谷底に突き落とすような方向性に働いていており、なんか「作り物の物語でも見ているあなたをこれだけ嫌な気分にさせることが出来ます。」とでも言っているようであった。
映画を観てその内容だけで単純に気分が悪くなるのじゃなく、その映画の内容と関係ない部分でまで観ているほうの神経を逆なでするようなところがある。
なんで映画観ながらこんな嫌な気分にならんとあかんねんと。
しかし、逆にこれが映画であることを意識ながらでないと怖すぎると言うこともあるのかもしれない。

「セブンス・コンチネント」然り「ベニーズ・ビデオ」然りこの「ファニーゲーム」然り、この監督はほんまに怖い、というより気分悪い嫌な映画作るなぁ。(褒め言葉)

リメイクされたほうは、ティム・ロスとナオミ・ワッツが夫婦役らしいが、ナオミ・ワッツのぶっ飛んだ発狂系な演技が凄そうな気がする。
というか、この映画であまりにスケスケで笑ってしまった、意味無いやん!ブラじゃないよ!と突っ込んでしまいそうなブラもリメイクされてナオミ・ワッツが着るのかどうか楽しみである。

2009年02月23日

●映画:「まぼろしの市街戦」 / 琴線直撃映画 / 自己実現の悲しさ

amazon ASIN:B0000CD7LK フィリップ・ド・ブロカなる監督のフランス映画、「まぼろしの市街戦」 (1967/仏=伊)を観た。

第一次世界大戦末期、ある北フランスの小さな町でドイツ軍が町のどこかに時限爆弾を仕掛けて撤退した。
スパイからその情報を得たイギリス軍は一兵卒の男に斥候として爆弾無効化を命じる。
男が町に入るとすでに、住人たちは全員逃げ出していたが、精神病院に入院していた患者たちが町の中で優雅に楽しく暮らしていた。
患者たちにその町の王に祭り上げられた男は爆弾を探しながらもその町での生活を満喫し始める。
という感じである。

原題は「Le Roi de coeur」英題の「King of Hearts」の通り、主人公が王と見なされる切欠となったトランプの「ハートのキング」である。
邦題の「まぼろしの市街戦」は現代とまったく違うけど、なかなかうまい事つけたなぁとおもう。

誰もいなくなった町で、患者たちがそれぞれが勝手に貴族や将軍や司祭になったり、親や子になったり、娼館を経営したりするのだが、自分のなりたい人間になり、着飾って町を練り歩き、思う存分やりたいことをする彼らの繰り広げる生活がとても素晴らしい。
衣装も美術もとてもいい感じであるし、何よりもコメディータッチであるところがたまらん。

娼館を営む女主人とその情夫の将軍がベッドに並んでいう台詞「男の子が生まれたら将軍に、女の子が生まれたら娼婦にしましょう!」 がとても素晴らしかった。
このように何の迷いもなく、自分のなりたいものになり、自分の生きたいように生き、自分の一番の価値を正義とし、子供たちにもそれを授けるできることの幸せは素晴らしい。

爆弾が仕掛けられたがゆえに無人となりった町で、無人になったがゆえに町に出て思い思いに暮らすことのできる患者たちは、ただ狂っているのではなく、自分たちの立場や状況をはっきりわきまえている。
外の世界が広大であることを知りながらも、閉じた狭い世界で、時間的にも空間的にも限られた範囲で満足し、閉じた世界を至上のものとする彼らの生き様は悲しくも脆く儚い美しさがあった。

この映画の中で、登場人物たちは限定的ではありながらも、ある意味で自己実現を完了している。
彼ら、自己実現を完了し目的地に到達した人たちは、これから先に目指す高みや彼方もない。
彼らにとっての未来はそれを失うことしかないわけである。
本人たちは幸せそうなのだが、それをはたから見ているとえもいわれぬ悲しみがある。
この映画に漂う雰囲気はそういった所から来ているように思う。なんか心の中の変な琴線をダイレクトに直撃するような、なんとも素晴らしいおとぎ話の様な映画であった。この映画大好きである。

2009年02月22日

●映画:「風が吹くまま」 / 文芸書のような映画

amazon ASIN:B00005NS2W  「桜桃の味」が有名なアッバス・キアロスタミの「風が吹くまま」(1999/仏=イラン)を観た。
現代イラン映画を代表する多くの作品を撮った、イラン映画の中では有名な監督であるらしいけど、この監督の作品を見るのは初めてである。

テヘランからおよそ700キロ離れた地方に奇妙な葬式の風習が残る村があり、そこに住む一人の老婆が危篤だということでテレビのクルーはその老婆の葬式を取材をするために村に出かける。
村に到着したディレクターは村で生活しつつ老婆に死が訪れるのを待つが、徐々に悪くなっていたはずのはずの老婆の様態は彼が到着してから日に日に良くなってゆく。
そんな中でディレクターが複雑な気持ちを抱きながら日々を送ってゆく様が淡々と描かれるという感じでの映画ある。

主人公のディレクターは老婆の死を待ちながら村で暮らすが、待つだけの毎日に退屈極まった取材のクルーと、時折携帯電話に電話をかけて来る上司との板ばさみに合いつつも、村の人たちとの交流してゆく。
視聴者に対するサービスは控えめで、物語は何の事件も起こらずに淡々と続いてゆくので見ているとひたすら眠たくなる。まったく面白くないというわけじゃないけど、とても面白いとは言いがたい。
主人公以外のクルーは姿を見せず、携帯電話で話すために近所の丘に車で走って行ったり、亀や穴を掘る男など、なんとなく象徴的なシーンや台詞が多くて比喩に富んだ作りである。
この映画を観るのは私小説とか一人称小説とかいったものを読んでいるような感覚に近いかもしれない。
良い言い方をすれば観ている人に媚びていないが、嫌な言い方をすれば視聴者に優しくない作りである。

私にとって映画なるメディアは本などと比べた場合、一方的に情報が送られてくるようなプッシュ型的なコンテンツなのだが、この映画は本のように映画を観ているほうの立場で多くを汲み取ってやる必要があるように思う。
この映画の評価が結構真っ二つに分かれているのはそこのところがあるからだろう。
この映画が作られたイランってのはなかなかの映画大国らしいのだが、そんなイランではこの映画を文芸書を読むような感覚で観ているのかもしれないなと思った。

2009年02月21日

●映画:いのちの食べ方 / 中立的な食ドキュメンタリー

amazon ASIN:B001F8ROI2 レンタル屋さんの新作の棚に並んでいて思わず借りてしまった。
豚、牛、鶏、野菜、魚などがどうやって生産されて加工され、食料品として食卓まで来ているのかというドキュメンタリーである。塩を掘る映像まである。
食べられるための動物たちの誕生、そして殺されて肉として加工されるまでの一部始終の、そして野菜を育てて収穫し刈り取るまでの、台詞も説明も演出も無い淡々とした映像が続く。
全く説明が無いので何をしてるのか全くわからないシーンもある。

大抵こういった映像は見るものの加害者意識を煽って人間の業の深さとか命の大切さとかいったありきたりな方向性のメッセージ性を忍ばせている事が多いけど、どの立場にも組しない映像は中々好感が持てた。
牛を殺すシーンも吊るされた豚の腹を割くシーンも、アスバラガスを掘るシーンも塩を掘るシーンも同等に扱われているのがよかった。

見方を変えれば、膨大な生産力と加工力を持つ機械化されて練された工場が如何に効率よく大量の食物を大量の人々に供給しうるかについてのドキュメンタリーととることもできるし、「命」が如何に「モノ」であるかを知る映像でもあるともとることが出来る。
牛や豚や鶏が殺されて吊るされてベルトコンベアを流れるうちに、最後には肉の塊にまでなっているシュールさは、なんだかカフカの小説を読んでいるようでもあった。エグいとか残酷というよりは「すげー」と感心して見られた。

牛が筒状の銃を眉間に向けられた時の自分の死を悟っているとしか思えない暴れ方と、動脈を切った時の血の量、それからひよこの頑丈さが印象に残っている。

屠殺や加工や収穫など、本来なら肉や野菜を食べる我々自身がするべきことは見て理解しておくべきだという意見は一般的に受け入れられている考え方であるように思う。
その考え方からすれば我々の生活を支えている半導体とか電気とか化石燃料の成り立ちや仕組みも、ただのブラックボックスにしておくのではなくもっと理解されようとして然るべきではないだろうか。
肉や野菜がどうやって作られているのかを知るべきであるのなら、同様にコンピューターや電力がどうやって動作して作用して我々の役に立っているのかも知るのも悪くないのではないだろうか。

こういった映像を見て「動物さんたちが私に命を!」とか言って加害者意識に酔う傾向は、自ら酔うために他人に対してわざわざ加害者になろうと試みる意識がチラチラ見えることが多く、基本的に危ない方向性やなぁと思うのだが、かといって「私のために肉になって当たり前」とか言ってしまう方向性も十分危ないと思う。
知の観点から感情的な部分を揺さぶられるのもどうかという見方もあるわけで、それなら最初から近づかないのも実は謙遜で賢明な選択なのではないかと思った。

2009年02月20日

●ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』

amazon ASIN:4150103453 先日『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読んでSFが読みたくなったので、SFの名作に必ず名があがってくるロバート・A・ハインラインの『夏への扉』を読んだ。
1957年に出版されたこの本は、ガンダムのモビルスーツの概念の原型で、スターシップ・トゥルーパーズの原作であるハードなイメージのあるSF『宇宙の戦士』を書いた作者の柔らかい目の物語であり、「猫SF」や「猫小説」の代表作でもあるらしい。

友人や恋人に裏切られて失意の底にあったエンジニアで発明家の主人公は、莫大な費用を払って未来に目覚めるべくコールドスリープに入いろうとする。
という感じで物語が始まる。

1957年当時、あまり一般的では無かったようなタイムパラドックスやコールドスリープ、家事ロボットのロジックとその記憶媒体などの概念は、それだけで本の面白さにとって大きな要素だったと思われる。
今となってはSFでなくても当たり前のように本や漫画や映画やゲームに出てくる概念が、陳腐化したり古臭く感じないというだけで凄いのかもしれないが、そういった概念や小道具が新鮮に感じられない分、物語としてはSFの範疇に入るライトノベルのような印象を受けた。
SF入門書というよりも、いったん読み出せばストーリーと展開でどんどん読者をドライブしてゆくような、中高生向けの本読みの楽しさを覚えるための「本読み入門」という感じであろうか。
1957年当時のこの本の中での現在である1970年、そして未来である2001年が、過去となってしまった今から見ても余りにも輝かしい未来に見える。
出てくる人も良い人ばかりでこの年のひねくれたオッサンにはちょっと眩し過ぎた。
ユートピア的な未来像を持ったSFの代表ということでいいのだろうか。
というよりも、なぜSFといえばハードなものだと思い込んでいたのだろうと不思議に思った。

2009年02月19日

●映画:「ロック・ユー!」 / カンタベリーなある騎士のまさにロックな物語

amazon ASIN:B00005USPO  ダークナイトのジョーカー役のヒースレジャーが主演である「ロック・ユー!」(2001/米)を観た。

貴族のみが出場できる、庶民の娯楽と騎士の栄誉の場であった馬上槍試合に、優勝を目前に急死した主人とすりかわって従者の一人が身分を隠して出場する。
出場を機に平民だった従者は騎士として成り上がるために、仲間たちと共に貴族に成りすまして馬上槍試合に出場してゆく。

物語中で「フランス人が教皇だ」なる台詞が出てくるので、アヴィニョン捕囚の時期の14世紀くらいを想定しているようであるけど、その中世の物語の音楽としてロックミュージックが使われているのが斬新なのだろう。
たしかに、ランスを構えた騎士が馬上ですれ違いざまに、その武器が砕けるほどに突き合うシーンのバックにロックがかかるのはなかなか良い感じである。
誰にも安心して観ていられる良い映画であった。

「ロック・ユー!」なる邦題は微妙な気がするけど、原題は「A Knight's Tale」で、この映画中にも主人公の従者として登場するジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の『The Knight's Tale』にかけているのだろうが、邦題にすると「ある騎士の物語」くらいの意味になって全くインパクトがなくなるうえに、『カンタベリー物語』との関連性もちょっとでも文学に詳しい人じゃな限り分りにくすぎる。
ということで、Queenの「We Will Rock You」が冒頭にかかる(らしい)こともあるし、イギリスで労働者階級が自分の階級から成り上がるにはサッカー選手になるかロックミュージシャンになるしかないという話もあるくらいで、カウンターカルチャーとしての「ロック」の意義も踏まえて、「ロック・ユー!」と言うタイトルは意外になかなか良い題かもしれない。

映画の中でも貴族と一般庶民の間に強烈な身分関係があったり、身分が越えられない壁であるとするようなモチーフはとても多かった。
庶民たちが自分たちの味方であり、自分たちに近いと感じる、貴族の騎士たちを次々となぎ倒し、自身の誇りある行動によって騎士という称号は貴族と言う身分の問題でなく、気高い心のありようであるという一種の価値転換を身をもって示した彼は、労働者階級から爵位を授かって貴族となった(一代限りであるけど)ポール・マッカートニーやエルトン・ジョンのように、労働者階級の英雄であると言う意味でロックスターであった。

階級闘争であるとか、労働者階級の悲哀であるとか、そういった話はともかく、この映画は週刊ジャンプ的「友情・努力・勝利」の少年漫画三原則を地でいくようなベタベタで面白くて爽快感あふれる良い映画だった。

2009年02月18日

●映画:アンドレイ・タルコフスキー「ノスタルジア」 / 良い意味で激しく眠たい映画

amazon ASIN:B00006S25R アンドレイ・タルコフスキーの映画の中で一番の傑作であると言う声が高い「ノスタルジア」(1983/伊)を観た。
彼はこの映画の製作のために出国し、完成後そのまま亡命したらしい。
ロシア人作家の主人公が、故郷ロシアに帰れば農奴になることが分っていながら帰国して自殺した音楽家の取材のために、通訳の女性を伴ってイタリアを旅していた。
旅の最終地である温泉街で主人公は、終末が来ると信じて世界を救うために日々を生きているという、周囲から狂人扱いされている男と出会い、彼に興味を引かれてゆくというもの。
「ノスタルジア」の題名どおり、監督のタルコフスキー自身の故郷に対する思いが色濃く反映された映画である。
とにかく、ひたすら美しい映画であった。

周りからはまったく理解されないけど、本人は世界のために家族と自分を犠牲にしてまで命をささげている、狂人にしか見えない人物の中にある真摯さは妙に心に響くものがある。
彼は、一滴の水滴が二つ合わさって一滴の水滴になる、いわゆる「1+1=1」の論理を説いていたけど、彼はまさに世界に影響を与える一滴の水として、世界と混ざり合ったということなのだろうか。
後半のカンピドリオ広場のマルクス・アウレリウス像上での演説は、今となれば使い古されてしまったような雰囲気と語彙であまりにも胡散臭く感じてしまうだろうなと思えるのがちょっと残念であった。

今までに見たタルコフスキーの映画と同じく、映画の半分までは耐え難いまでに眠たい。しかし、半分を過ぎるとトーンも全く変わらないのに眠たくなくなり、映画に引き込まれてゆくのは本当に不思議な感覚である。
映画としては、この映画の次に作られた、前に見た「サクリファイス」の方がはるかに感動したけど、この映画はタルコフスキーののシンボルである「水」を基調にした映像が本当に美しかった。
いわゆるハリウッド系の「映画らしい映像」というのは今まで映像化できなかったものを映像化する方向性の試みの、どちらかといえばアッパー系な方向性が多いように思うけど、このタルコフスキーの撮る映像が絶賛されるのは、ほかの何のメディアでは決して表現できない、映画でしかなしえない美しさでダウナーなトリップ感に陥るところにあるのだろうと、この映画を観てつくづく思った。
ネット上でこの映画に対して、「映画が芸術であることのもっとも有効な証拠である作品」とまで言う人がいうくらいであり、そういう意味で映画にしかできない表現の一つの方向性の、何かしらの極致とされるのもうなづけるような気がした

2009年02月17日

●世界の中心で愛を叫んだけもの / SF開眼?

amazon ASIN:4150103305 先日ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』を読んで、家に読まれずに転がっている短編集を読んでみようと言う気になったので、大学生だったころから友人に借りっぱなしの形になっている、SF界で有名なハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読んだ。
短編集の割には400ページ超のなかなかに分量のある本だった。

日本語訳が1979年に出たこの本は、オリジナルが1971年にアメリカで出版され、この本の中に入っている短編の多くはヒューゴ賞やネビュラ賞などのSFの文学賞を数多く受賞している。
背表紙の本の内容説明には「ウルトラ・ヴァイオレンス」とか書いてあるけど、1971年当時はともかく現代の小説や映画や漫画に比べれば、とくに強烈な暴力描写があるようには思えなかった。
この本が殆ど40年近く前に書かれたにもかかわらず、この本の中に描かれている未来世界やその内容、何よりも本自体が全く陳腐化していないのは凄い事だと思う。

著者のハーラン・エリスンなる人物はユダヤ人家庭で生まれた札付きの不良少年として青年期までを過ごし、SF小説だけでなく編集者・批評家、テレビや映画の脚本家など、それらの世界でも才能を発揮している、SF界ではなかなかにカリスマ的な人気を持つようである。
著者はこの本の「まえがき」で著者は自作のこの本について、社会や神や政府が我々を守ってくれるという幻想が根本的に崩壊する確実に訪れるであろう我々の世界の未来の形を、貧者や虐げられた人に対して書いた。というような意味のことを書いている。
話半分に聞いたほうが良さそうなこんな大層な物言いにちょと驚きつつも、基本的には未来の話であるSFのひとつの捉え方にはっとしたような気がする。

読み始めてすぐに全く説明なしに一般名詞のような扱いでSF的な専門用語がぼんぼん飛び出すのにびっくりしたけど、慣れればたしかにそのほうがスピード感は感じる。
全体的に下層階級の人間が体制とか社会に押しつぶされそうになって、そのまま押しつぶされたり、一矢報いたり、成長して大きな力を得たりする物語であるけど、武装した車同士のハイウェイでの決闘、全人類の意識を監視して暴力衝動をなだめて未然に戦争を防いで600年間の平和を築いてきた存在、全宇宙的な支配者となって宇宙の平和を目指す惑星征服を請け負う傭兵、などなど単純に面白いだけでなく、特殊な設定にしたからこそ深くテーマに迫っているところもあるだろう。
乱暴に言ってしまえば、この本は暴力的なシステムに翻弄されるやくざなチンピラの暴力衝動と、やくざなチンピラによる暴力による世直しの物語に集約されるかもしれない。
国家なり政府なりを解体しようとする方向性を持った思想がひとつのムーブメントであるような風潮があった当時、その解体や解体後をテーマはその時代に沿ったテーマだったのだろう。
当時この本は実験的で風刺的なものだとされていたようであるけど、特にそのようには感じなかったし、どこが風刺的でどこが実験的なのかよく分らなかった。当時風刺されたものは現代にとっても根源的な問題であり続け、当時実験的だった手法は今となれば小説作法のひとつとして一般的になっているということなのかもしれない。
そういう意味でこの本は「エヴァンゲリオン」の最終話や「セカチュー」などで「タイトルだけの引用」をされることがなくても、SFの古典として生き残っていたに違いない。
高校くらいから殆どSFを読まなくなったけど、純粋に物語として面白かったし、とても刺激的だった。

それからちょっと不思議だったのが、初版が1979年に出たこの本に出てくるフレーズとか話の持って行き方がとても村上春樹っぽく感じたところである。
村上春樹とSFが関係が深いという話は聞いたことがないので、気になってネットでちょっと調べてみたら、村上春樹はそれなりにSFをたくさん読んでいるらしいという情報を見つけけて興味深かった。

こんな本が沢山埋もれているならSFももっと読まねば!と思った。とりあえず古典と呼ばれるSFを順番に読んでゆこうと決心したのであった。

2009年02月16日

●映画:「28週後...」 / ヨーロッパ史観ゾンビ映画 / 愛ゆえに!

amazon ASIN:B00165SDW0 「28日後...」 (2002/オランダ=英=米)の続編である、「28週後...」 (2007/英=スペイン)を観た。
人間を凶暴化させる血液と唾液によって感染する「RAGEウィルス」の感染者から身を潜めながら、生き残った人々と郊外の一軒家に非難していた男が、感染者達の襲撃から妻を見捨てて逃げ出しから28週後、感染者の死滅とウィルスの消滅によって安全宣言がされたロンドンの復興が始まっていた。
復興政府の重要なポストについていたその男はスペインに旅行していた息子と娘をロンドンに呼び寄せて新しい生活を始めるが、ちょっとしたきっかけによって、収束したはずのウィルス騒ぎが再燃し、ロンドンはパニックとなる。

イギリス映画的というのだろうか、やたらと暗い雰囲気の上にハリウッド的な要素も満載の面白い映画であった。
ゾンビ映画ってのは基本的に笑えるものであるけど、この映画はちょっと笑えない。
ネット上でもやたらと評判が高いのも納得である。

前作の「28日後...」でも「感染者」がすごい勢いで襲ってきた記憶があるけど、この映画の「感染者」はやたらと素早くダッシュで襲い掛かってくるイメージがある。この映画は前作に増して「ゾンビ」というよりは「エイリアン」に近いこの「感染者」の動きがやたらと印象深かった。
「感染者」は死体がよみがえったわけではないので正確には「ゾンビ」ではないのだろうけど、この「RAGEウィルス」への感染というのは「味方への敵対化」「他者への感染」という意味合いで「ゾンビ現象」と言えるだろう。

映画「ゾンビーノ」の感想を書いた時に、たいていのゾンビ映画に共通するゾンビ現象のもっとも不幸で悲劇となりうる側面として「家族や愛する人がゾンビ化して自分を襲い、ゾンビ化した自分が家族や愛する人を襲うところにある」と書いた。
ゾンビ化した肉親が自分を襲い、ゾンビ化した肉親を殺さずに見逃すことでさらに惨劇が広がり、政府が個人を無視して事態の収拾を図ろうとする状況の場合、大雑把に言ってしまうとハリウッド系シリアスはそういった状況を「個人的な感情としてシリアス」に描きがちだが、この映画は個人の感情に力点を置くのではなく「そういった状況自体がシリアス」として描いているような気がする。
ネット上でこの映画の歴史観がヨーロッパ的であるという感想を読んだのだが、たしかに自己実現と正義とヒーローとアメリカンドリームの国で作られた、個人が尊重される英雄的でハリウッド系な「バイオハザード」と比べて、「この28n後...」シリーズは、大きな力に大して個人がことごとく無力に押しつぶされ、ヒーローだったはずの人も故郷であった国も簡単に消えるような、戦争と侵略と滅亡と隆盛のヨーロッパの歴史観を感じさせられるものであるかもしれない。

この映画は市民の「愛」ゆえの行動がことごとく社会的な惨劇につながってゆく側面と、体制側が全体を守るために市民に対して過剰なまでの無慈な行動を選択する側面を持っていた。
正しいとされる感情に基づくの破滅的な現象の原因を作り出した主人公の一家の行動と、その行動を管理しきれなかった体制、そして破滅的な事態の収拾のために体制の取った手段と、その対象となる主人公一家、一つの事実を取ってみても立場によって受け取り方と正当性がまったく違う。
そういった歴史なり人間の持つ矛盾とか多義性とか重層性を感じさせるところがこの映画に深みを与えているところだろうと思った。

2009年02月15日

●HDDが壊れた

前日にHDDがクラッシュしたので買ってきた。
現在の相場は500ギガで5000円、1テラで8000円ほどであった。いつの時代のいつの時期でも言っているような気がするが安いなぁ。

壊れたSATAのHDDだが、前日までちゃんと動作していたものが次の日の起動時にいきなり認識しなくなったと。USB変換キットで繋いで見るもダメ。500ギガのデータが突然吹っ飛んだことになる。
一応モーターは回っているので、基盤部分を新品と交換すれば何とかなりそうな気もするが、そこまで手間をかける気もしないので新しいのを買った。

しかし、SATAのHDDはやたらと壊れるような気がする。仕事で触っているHDDも家で触っているHDDも人から聞いたことのあるHDDも凄い勢いで壊れている印象を受ける。
当然ちゃんと動いているのが大多数であるが、SATAというだけで信用しきれない。いったん失った信用を回復するのは大変である。

しかし、今のHDDはある日突然に決定的に壊れるような気がする。
昔のHDDは壊れそうな時はなんとなく雰囲気で「そろそろやばいかも」とわかったし、徐々に動きがおかしくなって徐々に壊れていった。
いったん故障フラグが立ってしまうと復活することは無かったけど、最後の力を振り絞ってデータを移動させるために一度だけデーターを読ませてくれる瞬間があったものだ。そしてその後、最後の力を使い果たして崩れるように壊れてゆくのを見送ったものだ。
昔のHDDはなんとも根性があったなぁ。それに比べて最近のHDDときたら。
と、最近のHDDを精神論で批判するのであった。

2009年02月14日

●映画 : 「ゾンビーノ」 / ゾンビの友情愛情物語 / 新しい奴隷制度「I'm ゾンビーノ」 / バイオハザードシリーズ最新作?

amazon ASIN:B00148S74S ずっと前から観たかった「ゾンビーノ」 (2006/カナダ)をやっと観た。

放射性の粒子によって死体がゾンビ化する現象が起こり、世界中の死体が蘇って人々を襲い始めることで「ゾンビ戦争」が勃発した。
殺された人もゾンビとなって加わるゾンビの陣営が爆発的に増加する中、徐々に押されつつある悪い戦局を「ゾムコン社」がゾンビの弱点を発見して一気に解消した。
「ゾムコン社」はそのテクノジーを使ってゾンビがうろつく世界から人間達を隔離し、更にそのテクノロジーを民生化して「ゾンビが人を食べたくなる衝動を抑える首輪」を開発する。
死んだ人は自然に残留放射性粒子によってゾンビとして蘇り、また外の世界から捕囚してくればいくらでも供給されるゾンビを意のままにコントロールできるようにして労働力とし、より豊かな生活を営めるようになった世界から物語が始まる。
孤独な少年とペット用ゾンビとの心の交流、そしてそのゾンビと少年の母のほのかな恋の物語である。

この映画はゾンビ戦争やらゾムコン社のテクノロジーだけでなく、ゾンビは人間の敵で、征服されたゾンビは被差別階級として忌むべきものでありながらも、主要な労働力として使う社会体制が整っているような状況が前提されている。
設定上はパラレルワールド的な1950年代アメリカの郊外を想定しているらしいけど、そういった社会体制での「ゾンビ」のあり方は戦争に負けて捕虜にされたギリシャ・ローマ時代の奴隷のようなものである。
ゾンビをペットや労働力として使う社会システムは、戦争捕虜から人権を剥奪して純粋な労働力として使う、現代から更に進んだ奴隷制度であろう。

そんな社会で奴隷であるゾンビに友情や愛情を抱いたりするのは当然モラルに反する。
当然この映画でのメインのテーマはゾンビに友情と愛情を抱く少年とその母の、社会的なモラルと人間としての当然の感情の狭間で引き裂かれるありようとなる。
映画の最後は人間とゾンビの対等な関係としての社会の可能性が示される良い幕引きであった。
ローマで反乱を起こした剣闘士奴隷の映画で「I'm スパルタカス!!」なる心の叫びがあったけど、この映画では「I'm ゾンビーノ」いった所であろうか。
ただのコメディーの皮を被りながらも、人間だけではない「あらゆる存在の平等」のテーマに肉迫したなかなか含蓄深い映画であった。

わざとかたまたまかどうかは分らないけど、「放射線による粒子」のところを「人間に感染するウィルス」に、「ゾムコン社」を「アンブレラ」に置き換えれば、映画の「バイオハザード」の世界と全く同じである。
地上の殆どを占めるゾンビがひしめく荒野の一角に、金網で隔離された人間の居住区が存在するといった世界観は、「バイオハザード3」の設定そのままであるし、ゾンビをコントロールする全く同じような研究も「バイオハザード3」で既にアンブレラが行っていた。
この「ゾンビーノ」を「バイオハザード4」としても、ゾンビ系コメディ映画がバイオハザードシリーズであることは別にして、設定やストーリー的には全く違和感がない。

ゾンビ現象のもっとも不幸で悲劇となりうる側面は、家族や愛する人がゾンビ化して自分を襲い、ゾンビ化した自分が家族や愛する人を襲うところにあるだろう。これは「ゾンビーノ」含めありとあらゆるゾンビ映画に共通の項目である。
しかしこれは「ゾンビーノ」のテクノロジーで条件付ながらも解消されうるし、映画内では現に解消されていた。
バイオハザードではゾンビ化した人間は動かなくなるまで破壊する以外なかった。しかし「ゾンビーノ」ではそんなゾンビも社会の一員、家族の一員として暮らすことができるのだ。
この人間とゾンビの共存の可能性を探る方向性は、いずれ製作されるであろう本家の「バイオハザード4」よりもヒューマニズム溢れるベクトルを持っているのではないだろうか。

と、ちょっと大げさすぎる感想を書いてみた。

2009年02月13日

●映画:「ベルリン・天使の詩」 / 天使視点の映像 / おっちゃんの姿をした天使

amazon ASIN:B000EGDDLI  ドイツ人監督ヴィム・ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」(1987/独=仏)を観た。

世界には人間の目に見えない天使たちが存在し、彼らは人に寄り添ってその悩みを聴き、共に悩んだり悲しみ、孤独や絶望に打ちひしがれている人々を人知れず力づけ癒し続けて来た。
ベルリンの町で人間の長い歴史を見続け、人々を励まし続けてきたそんな天使の一人は、サーカスの空中ブランコ乗りの少女に恋し、肉体を持って彼女を愛したいがために、人間として生きることを望むようになる。
ドイツ語の原題は「Der Himmel über Berlin」(ベルリンの上の天国?)、英題は「Wings of Desire」(欲望の翼)と、原題、英題、邦題のどれもいい感じである。

魂だけの存在であるおっちゃんの姿をした天使が、モノクロの世界の中で人々を励まし続ける様は物悲しくもあり、なんともいえない優しさにも溢れていた。
天使たちの存在、そして人間になろうとする主人公の天使、すべてが優しい文句なく良い映画であった。

天使の仕事は基本的に人の心の叫びに耳を傾けて慰めることであるらしく、地下鉄の中、家の中、ビルの屋上、どこにであろうが孤独や悲しみや絶望に悩む人があれば話を聞いて慰めている。
彼らが図書館に集まって自分の聴いた悩みや悲しみを発表しあったりしている様が良かった。
ビルから飛び降りようとする男に寄り添い励ますも男は飛び降り、天使が頭を抱えて叫ぶシーンもあったので、励ましに失敗することもあるようである。
永遠の命を生きる天使なので数え切れない励ましを行ってきたと想像されるけど、仕事に慣れきらず、現在も励ましが成功すると喜び、失敗すると悲しむ新鮮なモチベーションをもって仕事を続けているのはとても素晴らしい。

天使といえば一般的には子供だったり女性だったり優男風だったりするような、無垢な優しさをもつ存在としてイメージされるけど、この映画の天使たちはその辺のおっちゃんのような姿であった。
でもこの映画を観ていると、天使なる存在はおっちゃん姿でしかありえないように思えてくるのが不思議である。おっちゃんが天使的な属性を持っているとはちょっとした驚きである。

タルコフスキーの「ストーカー」、ディズニーの「オズの魔法使い」などカラーとモノクロの切り替わりが印象的な作品があったけど、この映画もモノクロとカラーの切り替わりがとても印象的だった。
今までモノクロの世界で暮らしてきた天使が、人間になってカラーの世界の美しさを褒め称える様はとても良かった。

天使の視点なる映像がちょっと新鮮で、映画全体になんともいえない優しい雰囲気が満ちている良い映画であった。

2009年02月12日

●ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』 / 短編集であるが故の構成

amazon ASIN:4102142118 「寝る前読書」でジュンパ・ラヒリのデビュー作の短編集『停電の夜に』を読んだ。
元は1999年にアメリカで出版され、それが2000年に「新潮クレストブック」として出たものであるが、私が読んだのはそれが文庫化されたものである。
この中に入っている『病気の通訳』で1999年にオー・ヘンリー賞、『停電の夜に』でヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞、ピューリッツァー賞などの文学賞をとって一躍有名になり、インドはもとよりアメリカでとても評価が高いようだ。

JhumpaLahiri00.jpg著者のジュンパ・ラヒリは、両親がカルカッタ出身のベンガル人で、アメリカで育ちの、文筆家と言うよりはインド映画の女優といった風貌の、いかにもインド風美人な女性である。
こんな写真が撮られるからにはビジュアル系な売出しもされているのであろう。
どちらかと言うと短編に定評があるようやけど、現在は短編だけでなく長編も発表しており、その中の一つの作品は映画化までされているようだ。

私は短編より長編の上手い小説家が好きで、殆ど短編を読まない。
私は好きな長編小説は沢山あるけど、好きな短編集はレベッカ・ブラウンの『私たちがやったこと』くらいしか思いつかない人であるが、このジュンパ・ラヒリって人は余りにも有名なので古本屋で見つけて反射的に買ってしまった。
更に私は図書館で借りた本は読むけど、古本屋で買った本はいつでも読めると安心して読まない癖があるので、買った時はこの本をちゃんと読むかどうか怪しかったのだが、ちゃんと最後まで読んだ。
私は短編小説に作家としての力とかエネルギーと言ったようなものではなく、物書きとしてのテクニカルな側面ばかりに目が行ってしまう上に、短編を読んでもその人が長編作家として素晴らしいかどうかは全くわからないという持論を持っている。
例えばサリンジャーなら、『ライ麦畑でつかまえて』の素晴らしさならいくらでも語れるけど、『ナイン・ストーリーズ』の良さはそれほどよくわからない。と言った具合である。
ということで、この短編を読んでこのジュンパ・ラヒリが長編小説家としてどうなのか全く分らない。たしかにこの短編集は確かに面白かったけど、無茶苦茶面白いと言うほどではない。それでもこの人の長編を読んでみようという気にはなった。

この本には短編として、在米インド人夫婦、アメリカ生まれの在米ベンガル人の少女とその家庭に家族の友人として入り浸っているベンガル人男性、アメリカ人女性とその不倫相手の在米インド人男性、アメリカ人少年と在米インド人ベビーシッターの老女、インド人の庶民同士のインドでの話、在米インド人夫婦とアメリカ人の老女、在米インド人夫妻とインド在住インド人のインドでの話、などのいろいろなタイプの在米インド人(やベンガル人)とアメリカ社会やインド文化との関わりの中での物語が描かれている。
それらの色々な立場や場所や階層のインド人の話を短編集として構成することで、本全体として彼らがアメリカで何を感じているのか、と言う雰囲気が伝わってくるような気がする。
こういう構成は短編集でしか出来ないし、今まで殆ど興味を持たなかった短編集なる形態をちょっと見直した。
とりあえず家で積読状態の有名な短編集も読んでみよう。

2009年02月11日

●映画:デリカテッセン / フランス風カニバリズムと恋の物語 / フランス映画のクオリアは実はシンプル

amazon ASIN:B00005R237 『アメリ』(2001/仏)を撮ったジャン=ピエール・ジュネの『エイリアン4』(1997)を観たので、勢いで同監督の『デリカテッセン』(1991/仏)を観た。
核戦争後の近未来でパリの郊外に残った、肉屋が経営しているアパートに、男が住み込みの雑用係として引っ越してくる。
おかしな住人たちと暮らしつつ、アパートでの生活に慣れ始めたころ、彼は自分が肉屋に食肉として狙われていることに気づく。
という感じのストーリーであるけど、「核戦争後の近未来」「パリの郊外」ってのは解説文に書いてあっても映画内で説明されていなかったような気がする。

よく分らないままにカニバリズムと恋の話がミックスされつつ、やってることがエグい割りに軽いトーンで物語が進んでゆく。
軋むベッドに合わせて生活音をミックスしてリズムにしてみたり、鋸とチェロの二重奏を演奏したり、住人が家賃を払えずに食肉にされたりと、なんか如何にもフランス映画やなぁ。と思った。
結局訳の分らないままに映画は終わったのだが、このわけの分らなさもフランス映画であった。

しかし、改めて考えてみると「フランス映画のクオリア」ってのはちょっと考えるととても複雑そうであるけど、実は「赤のクオリア」とか「海のクオリア」と同じくらいにはっきり分りやすいんじゃないかと思った。

2009年02月10日

●映画 : 遊星よりの物体X /「アパッチ砦」+「カサブランカ」+「エイリアン」 / 次のリメイクは「遊星よりの物体X VS プレデター」?

amazon ASIN:B0000ABBXR 「遊星よりの物体X」(1951/米)を観た。有名やけど観た事ない上に、なんとなくパッケージが笑えたので借りてきた。
後に「遊星からの物体X 」(1982/米)としてリメイクされる古典的な名作の扱いのようである。

北極に未確認飛行物体が墜落し、調査に向かった軍人は生命体としての反応を見せる氷詰めになった「物体X」を基地に持ち帰る。
目覚めた「物体X」は基地を逃げ出し、調査チームは「物体X」が植物ベースの地球外生命体であることを突き止めたのもつかの間、「物体X」は通信を遮断し、燃料の供給をストップさせてたうえで、基地にいる人間を襲い始める。
と言う感じのストーリーである。

1951年とかなり古い映画で、確かに面白いのやけど、古い映画のせいか、まだこういったジャンルが定着していなかったせいか、映画としての構成がSFホラーと言うよりは西部劇かハードボイルドであるところが笑った。
「アパッチ砦」と「カサブランカ」と「エイリアン」を混ぜたような雰囲気である。
「物体X」が異星の生命体と言うよりはフランケンシュタインの怪物に近いけど、映画としてのジャンルは「エイリアン」とか「プレデター」とか同じくくりになるのが笑える。
基本的に「物体X」は植物なので細胞を土に植えると芽が出てくるのが可笑しかった。
トラップに乗せるために自分に投げられたもの避けるために、反復横とびで横に飛びのく「物体X」が可愛かった。

ホラー映画としてなかなか緊迫しつつも、時代のギャップでおかしみを感じる映画であった。
既に「遊星からの物体X 」としてリメイクされているので、常にプレデターと戦わせる相手を探している私としては、もうこれは「遊星よりの物体X VS プレデター」としてリメイクするしかないやん。と思うのであった。

2009年02月09日

●エクスタシーの歌~ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの世界

amazon ASIN:B0014W8T1A 久しぶりにCDを買った。
「エクスタシーの歌~ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの世界」とちょっと怪しげなタイトルであるけど、一応ちゃんとした中世の宗教音楽である。

「中世ヨーロッパ最大の賢女」とも「ラインの女預言者」とも「ドイツ薬草学の祖」とも呼ばれる、中世ドイツの女子修道院長であるヒルデガルト・フォン・ビンゲンの宗教曲集で、「セクエンツィア」なる中世音楽アンサンブルによるものである。ドイツ・ハルモニア・ムンディの限定版で1000円ととても安かった。
単旋律の伴奏なしの殆どユニゾンと言うことで、ほぼ同時代のグレゴリオ聖歌と同じような作りやけど、このCDに入っている曲はほぼ高音域の女声が殆どでグレゴリオ聖歌とはかなり違った印象を受ける。
元々ルネッサンス期のオケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ギヨーム・デュファイなどの宗教曲が好きで良く聴いているけど、それより数百年前のビンゲンのヒルデガルトの音楽は、構成が単純な分だけよりトリップ感は大きいような気がする。

ビブラートしない女声の高音域で歌われる単純で綺麗な旋律を聴いていると、いつの間にかなんともいえない恍惚感に似た変なダウナー系トリップ感に結構深く入りそうになるのだが、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは幻視者でもあったということで、その幻視を垣間見たような気分になる。

男性がキリスト教の神に向かうのと、女性がキリスト教の神に向かうのとでは、若干信仰の形が違うと言うけど、なんかこれは男の宗教者にはない境地なんやろうな、となんとなく想像出来る様な気がする。
男である私にとってこのヒルデガルト・フォン・ビンゲンの音楽は、なんかちょっと見てはいけないものをふと見てしまったような、なんだかちょっと危険な香りがするのであった。

宗教的奇人風の幻視者でありながら、音楽にも文学にも科学にも秀でた知的に突出した面をもつ、このヒルデガルト・フォン・ビンゲンなる人物に興味が出てきたので、彼女が書いたものか、彼女についての本でも読もうかなと言う気になってきた。

しかし、今から910年ほど前の人が作った音楽が聴けるとは、考えれば気の遠くなるような話ではある。

2009年02月08日

●映画:エイリアン4 / 次回作は「シガニー・ウィーバー VS プレデター」?

amazon ASIN:B00005EYOY 「エイリアン3」を観てすぐ、立て続けに「エイリアン4」(1997/米)を観た。
エイリアンシリーズの一番新しい映画であるけど10年以上前の作品である。しかも監督が「アメリ」のジャン・ピエール・ジュネだということでちょっとびっくりした。

宇宙船内のエイリアンの研究施設内で、前作で死んだはずの主人公リプリーがエイリアンのDNSと融合した状態でクローンとして蘇える。
研究施設内から逃げ出したエイリアンが人々を虐殺する中、たまたま寄港していた密輸船との乗組員ともに、エイリアンの遺伝子を受け継いだリプリーは人間を超えた能力を発揮してエイリアンと戦いを始める。と言う感じのストーリー

リプリーのクローンの失敗作が出てきたり、自分の子供であるエイリアンを悲しみながらも殺したりと映画としてはなかなかブラックでいい感じである。とても10年前の映画とは思えない面白さであった。

次回作の「エイリアン5」も予定されているらしいけど、「エイリアン VS プレデター」のおかげでなかなか作れないと言う話を聞いた。もうこれは「プレデターVSシガニー・ウィーバー」にするしかないかもである。
プレデターとエイリアンの能力を受け継いだシガニー・ウィーバーならいい勝負になるに違いない。

エイリアンと融合したシガニー・ウィーバーがやたらと強いのやけど、まだまだ「バイオ・ハザード」シリーズでT-ウィルスと融合して最終的に「アキラ」か「ドラゴン・ボール」の世界になっているミラ・ジョヴォビッチよりは弱そうだ。
「プレデター VS ミラ・ジョヴォビッチ」あるいは「エイリアン VS ミラ・ジョヴォビッチ」にすれば圧倒的にミラ・ジョヴォビッチが強そうだ。
更にエイリアンとT-ウィルスのDNA情報をミラ・ジョヴォビッチに掛け合わせれば、いろいろな意味での最強クリーチャーが誕生するに違いないと、いい年こいて俺は何を言っているんだ?と思った。

2009年02月07日

●映画:エイリアン3 / 主人公こそエイリアン

amazon ASIN:B000MR9ALG 私が今小学生くらいの子供なら確実に卒業文集に「将来なりたいものはプレデター」と書くのだが、流石にこの年で「将来なりたいもの」とか言うのはおかしいので、「プレデターとしての老後」をとりあえず楽しみにしておこう。
てなくらいに私はプレデターが大好きなので「プレデター」シリーズと化した「エイリアンVSプレデター」は欠かさず観ているのだが、そういえばその「プレデター」の好敵手である「エイリアン」のシリーズを二作しか観ていない 。
これは観ておかねばと「エイリアン3」と「エイリアン4」を借りてきたので、まず、「セブン」や「ファイト・クラブ」のデヴィッド・フィンチャーが監督した「エイリアン3 」(1992/米)の感想を。

「エイリアン2」でエイリアンとの死闘を征して地球へと帰還中の宇宙船に例のごとくエイリアンが入り込んでおり、宇宙船は事故を起こして自動射出された脱出用ポッドが近くの流刑用の惑星に不時着する。
唯一生き残ったリプリーは囚人たちと暮らし始めるが、脱出用ポッドに乗り込んでいたエイリアンが惑星に逃げ出して人を襲い始める。エイリアンと戦いながらもリプリーは自分の体内に何ものかの存在を感じる。と言う感じのストーリーである。

公開当時はそれなりに話題になっていたことを覚えている。なんでもシガニー・ウィーバーがスキンヘッドになるって話題になったような記憶がある。
ネット上で見る限りあまり評判のいい映画ではないけど、ひたすら暗い雰囲気で、一人しか生き残らない(しかも主人公ではない)のは今見ても結構衝撃的やった。
人間としてはエイリアンを憎み続けていた主人公が、最後には個人として母として自分の胎内に宿ったエイリアンを愛しそうに抱いて溶鉱炉に落ちてゆく様がとても印象的やった。
とはいっても主人公は「エイリアン4」ではクローンとなって蘇るわけで、もうシガニー・ウィーバー自体がエイリアンになったというお話であった。

『ドン・キホーテ』の主人公を勝手に使われて偽の続編を作られたことに悲しんだ作者のセルバンテスは、『ドン・キホーテ』の後編の最後に二度とこの主人公を私以外の人に使わせないように殺してしまったけど、「エイリアン3」で死んだ主人公がクローン人間として蘇るわけでもう何でもありあり。
大ヒットした「エイリアン2」を観たのが中学生で、当時、友人たちの間で掃除の時間にほうきを小脇に抱えて蟹股で歩く「エイリアン2」の登場人物「バスケス」の物まねが流行ったのを思い出した。懐かしいなぁ。

2009年02月06日

●映画:「ダークナイト」 / 全年齢全方向全要素的娯楽大作 / 神なき(つまりは悪魔なき)時代の悪

amazon ASIN:B001AQYQ1M 面白いと評判の「ダークナイト」を観たが、確かに面白かった。

「バットマン」(1989/米)と「バットマン・リターンズ」(1992/米)を予習として見たけど、ストーリー的には全く関係なかった。
どうせなら「バットマン・ビギンズ」を観れば良かった。

この映画での一応の主役はバットマンであるけど、実際の主役はバットマンの敵役であるジョーカーである。
ジャック・ニコルソンのジョーカーはひたすら「狂気」であったけど、今回のヒース・レジャーのジョーカーは「狂気」とか「異形」とかいう次元を超越していてとても素晴らしかった。
ということで、このジョーカーをメインに感想を書いてみる。

彼は金銭を要求するでもなく、組織のトップに立ったり町を支配したりと権力を求めるわけでない。彼の求めるものはただゴッサムシティを混乱に陥れて既成の作られたモラルとか秩序を壊すことのみ。
しかもそれを一方的に上から災難が降ってくるようにするのではなく、市民自ら自らの意思と欲望で選択させるように仕向けるところがエグい。
彼の信念の中には、人間とは欲望にまみれた醜いものでしかなく簡単に悪の道に堕ちる。というのがあるようで、彼の破壊活動は町を彼の好む金のかからない「ダイナマイト、火薬、ガソリン」で外面的に壊すだけでなく、町の人の心の醜い欲望を煽り立てて内部から蝕んでゆくところがメインである。

金とか権力といった分りやすい欲望にのみ収束する人間が魅力的であることはほとんどないけど、彼はそんなものに興味を抱かないどころか、自らの力と主義が真実であることを確信し、自分の主義のために自分の死を全く恐れていないところが十分に魅力的である。
よれよれしたスーツから剥げかけたメイクまで細部にいたるまで隙のないすばらしい悪役であった。

自分の口の傷がなぜできたかについての話が毎回違うとことによって、彼が子供の頃のトラウマとか強烈な人間不信が原因で悪の道に落ちたとかとかいった分りやすい設定を真正面から拒否しているけど、彼をキリスト教圏にありがちな「純粋悪」とするのではなく、虚言癖を持つ根本的に我々と違う危ない人レベルにまで貶めているところが今時の映画であるような気がした。
つまり、ジョーカーは悪魔でも悪の化身でもなく、特別な存在ですらない、我々の間から時々生まれる絶対的に理解できない先天的な快楽犯罪者的な変態の一種としてみなしており、こういった「悪」にしか見えないものを解釈したり理解しようとするのではなく、ただ描くだけの方向性に好感を持った。

マイケル・キートンのバットマンは余りも人相が悪くて正義の味方に見えないところが良かったけど、私にとっては「リベリオン」なイメージのあるクリスチャン・ベールが、表の顔としてあまりにも典型的な金持ちっぷりと二枚目な爽やかっぷりを発揮していながらも、裏の顔であるバットマンで苦悩するところが、ジョーカーとのコントラストとしてとても良かった。

信念に沿って迷うことなく確信を持って突き進むジョーカーに対して、バットマンたちが迷い苦悩しながらボロボロになりながら戦うところが良かった。
「試合には負けたが勝負には勝った」と「試合に勝って勝負に負ける」ということで、どちらにとってもバッドエンド的であった。
しかし、今時に過剰な資金であらゆる年齢のあらゆる客層に対したあらゆる要素を詰め込もうとする、全方向全要素的なハリウッドな方向性を目指すとこのように映画になるのだろうか。
そしてそういった方向性で到達しうる最も高い点にある映画がこの「ダークナイト」ではないだろうか。

作品的にも商業的にも良きお手本と言うことで、多分しばらくはこんな感じの映画が量産されるのだろうなぁ…

2009年02月05日

●風邪のときに見る夢

この日は出勤する寸前まで休む気でいたけど、何かの拍子に何かが「ぱちっ」と一瞬で切り替わって出勤することにした。
体調が悪い時に出勤して思ったよりも弱っていて「休めばよかった」、あるいは休んでからあまり弱っていなかったことに気づき「出勤すればよかった」と思うことは多い。
しかしこの日は午前中はともかく午後からは思ったよりもふらふらになったけど「出勤して良かった。」な日であった。
そしてこの日から風邪で寝込んでいるときに見る夢を見なくなった。

ということで、今回の風邪で寝込んでいるときに見た夢を書いてみる。

その1:
べちゃべちゃの地面に鼓動にあわせてフラッシュのように縦、横と交互に白い光の亀裂が入り、その亀裂からどこかの町並みのようなものが透けて見えていた。なんかとってもタルコフスキーちっく。

その2:
たとえば「重力」や「質量」とか「力学」や「関数」などの実体がなく概念でしかないものの概念そのものが頭の中に直接流れ込んでくるけど、夢としてはそれらの概念が映像の次元との交点で影として映像化している。
具体的にはいろいろな太さや長さや厚みを持つ黒い線が灰色の背景を動き回っているような感じに見えるのだが、どちらかと言うとそういった「映像が見える」のではなく、脳が流れ込んでくる概念に反応して「映像として見える」と言った感じだろうか。
映像として見たものをすでに知っている何かに置きかえて理解するのでなく、頭の中にダイレクトに概念が伝わってきて、その反応として何かが見えるのは、入力装置を出力装置として使うような、いつも全く使わないような頭の使い方をしてとても気分が悪い。

普段はこんな夢は見ないのに、風邪を引いたり熱でうなされたりすると見る夢はほとんど同じで、物心ついたころから「概念の夢」はずっと見続けている。
ここ数年はずっと風邪を引いて寝込む事なんかなかったので、久しぶりにこの夢を見てちょっと新鮮だったうえにちょっとした懐かしさまで感じた、この夢を死ぬまで見続けることになると思うととても不思議である。
しかし、どうせ見るなら、理解できないままでなくちゃんと理解したいと思うのであった。

また、大抵の人は子供のころから見続けている夢を持っているようで、人によって全く違うそんな夢の話を聞くのはとても面白い。

2009年02月04日

●風邪をひく

久しぶりに風邪を引いた。
前日の昼くらいから倦怠感と頭痛でかなりふらふらで、この日は仕事を休んだ。前日の夜から風邪を引くと良く見がちなサイケデリックな夢に延々うなされ続けてうんざりである。

ちょうどキノコ先生のマスクの記事を読んで間もなかったので、喉と鼻の湿気を保つためにマスクをして前日の夜から丸一日寝ていたけど、葛根湯飲んで寝てれば直るだろうと言った希望的観測とは裏腹に熱は一向に下がらない。
前日から徐々に熱が上がり始め、夕方に38度を超えたので「これはもうインフルエンザかも」ということで病院へ。
家を出る前に38.2度あったはずの熱は病院で計るとなぜか37.4度だった。受付のお姉さんも微妙な顔。「38度越えているんです!インフルエンザかもです!」と力説していた私も嬉しいような悲しいような。
当然インフルエンザの検査も陰性で、この症状はどうやら扁桃腺への細菌感染によるものであるらしい。

実はこの日、友人たちと某レディのプチお誕生日会って事でご飯を食べに行く予定になっていたのだが、この風邪のため休むことになっていたけど、微熱をおして無理やり参加を決定する。いつもなら自転車で参加するところだが、それは流石に無理なので、友人に車で送り迎えしてもらった。ありがたや。

一応メニューにそれなりに風邪に良さそうな病院食っぽいのをチョイス。といっても、果物が入っているというだけだが。
オードブルは何とか完食したものの、メインをオレンジソースの鴨胸肉でデザートをリンゴのタルトにしたけど、流石に全部食べられず、鴨を三分の一、リンゴのタルトのタルト部分の半分を友人たちに食べてもらった。
ワインもグラスに一杯飲んだのだが、食後に酒と一緒に飲むなと書いてある薬を気にせずに飲んだがとくに何も無かったようで良かった。
ちゃんと古本屋で買い叩いてきたネタプレゼント(叶美香 写真集)を渡せて良かった。
amazon ASIN:4778803280 こんなん家にあっても困るしねぇ。

風邪で仕事を休んでおきながら、少し回復したからといって夜から友人たちと食べ会に出かけるような気概を持つ人間を私は愛する。ということで自分で自分を褒めてあげたいと思った。

ということで皆様風邪にお気をつけください。

2009年02月03日

●映画:「ハックル」 / ハンガリー農村的幻想

amazon ASIN:B0009KQPBE 「ハックル」(2002/ハンガリー)なる映画を観た。ハンガリーの映画で、もともとは監督が映画学校の卒業制作として作ったものが評判を呼び、そこらじゅうの映画賞を受賞しながら有名になって行き、やがては日本でも単館系公開されたと言う感じであるらしい。
本国はもとよりアメリカでも批評家筋にとても評判が良い映画であるようである。
レンタル屋さんで借りて来たのやけど、日本のアマゾンに無かったので海外のアマゾンにリンクしておく。
もともと台詞なし映画なので映画自体に海外版と日本版の違いなんか無いだろう。

動物や人間を同列に扱ってそれぞれの視点から農村の風景を描いているようなのだが、農村の人間と動植物を描いたドキュメンタリーのように始まり、いつの間にかサスペンスな要素が混ざっていたりと、とても不思議な映画である。

食物連鎖だけでなく、利用するされるの関係で複雑につながっている動植物から人間から機械へと順々に滑らかに視点が移ってゆく映像は、感覚的にはワンカットに見えてとても新鮮で、非常に不思議で変わった映画であった。
この作りはロマノフ王朝の栄枯盛衰をエミルタージュ美術館を舞台に描いた、前代未聞の90分ワンカットのアレクサンドル・ソクーロフの「エルミタージュ幻想」(2002/露=日=独)とどこか似ているような気がした。

ちなみに「ハックル」とはハンガリー語のしゃっくりの擬音語であるらしく、映画の冒頭で登場するしゃっくりの止まらなくなったお年寄りをさしているようである。
しかし、自然の中での生物間の関係ってのは、すべからく利用するされるや殺す殺されるの関係でかなりシビアやなぁ。と今更ながらに思った。

2009年02月02日

●映画:コード・アンノウン / 収束することなく発散する群像劇

amazon ASIN:B000LE136K 「セブンスコンチネント」がとても素晴らしかったミヒャエル・ハネケの監督作品「コード・アンノウン」(2000/仏=独=ルーマニア)をなんとなく観た。

邦題は英題そのままであるけど、フランス語の原題には「Code inconnu: Recit incomplet de divers voyages」とサブイトルがついていて、「いくつかの旅についての未完成の話」という感じだろうか。

サブタイトルのとおり、確かになんらかの「旅」に関わりのある、微妙に交差するいくつかの話が組み合わせれたいわゆる群像劇である。
しかし、事件が起こるわけでも、はっきりした物語が展開してゆくわけでも、群像劇がひとつに収束してゆくわけでもなく、どちらかと言えば発散して行っている。

この映画の中で語られる物語は人と人とのすれ違いの物語ばかりで、「CODE UNKNOWN 」と言う様に人と人との分りあいがいかに難しいかとかそういったことが言いたいのだろう。
言いたいことは良く分る。しかしこの延々とだらだらと続く物語はひたすら眠たくってしょうがなかった。

それにしても、「カフカの城」と言いこの映画と言いミヒャエル・ハネケって人はよっぽど「未完」の物語が好きなのだと思った。

2009年02月01日

●映画:「バットマン・リターンズ」 / 虐げられるものとしての異形の怒り

amazon ASIN:B00005HC7I 2008年公開の「ダークナイト」の予習のために観た「バットマン」(1989/米)と「バットマン・リターンズ」(1992/米)のうち「バットマン」の感想は先日書いたので、残りの「バットマン・リターンズ (1992/米)の感想を。

『異形への愛』がこめられたこのシリーズ二作目でバットマンと戦うことになる「異形」は「ペンギン」と「キャットウーマン」である。
ネットではこの映画こそがシリーズ最高傑作であるという声も多いように、ペンギンとキャットーウーマンの運命に始まり、独特の世界観に包まれたゴッサムシティーで繰り広げられる適度のアクションと陰謀で構成されたこの映画はとても面白かった。

前回の「ジョーカー」が異形となることで自らの力を解放して増幅させたのに引き換え、「ペンギン」は最初から異形として生まれたものであり、異形そのものが力へのきっかけになったというよりは、異形であることで虐げられ続けてきた事への怒りや悲しみが力になっていたと言う意味でどちらかと言うと我々にわかりやすくはある。
分りやすくあるからこそ彼の悲哀が悲哀として伝わってくるのだろう。
キャットウーマンもあまりにも地味でぱっとしない生活の上に人格が破綻して、そういったコンプレックスの反発としてキャットウーマンになったわけであるから、ペンギンと同様に自分が異形であることのコンプレックスからキャットウーマンとしての力を持ったわけで、なるほど彼女の感覚も確かによく理解できる。

この映画が前作と比べて良いとされるのはこの敵役二人の悲哀による部分が大きいようであるけど、それは「異形」であるが故に虐げられて苦しんで悲しみ、やがてそれが爆発して虐げたものに対して復習を開始する。と言ったような、我々にとてもわかりやすいキャラクター造詣であるからであろう。

前作のジャック・ニコルソンの「ジョーカー」はやることなすことの意味が全く分らなかった。異形になる前から訳が分らない人間で、偉業になることでさらに訳が分らなくなった。
彼は本当に我々の理解を超えたところにいると言う意味で異形なのであった。
この「バットマン・リターンズ」観ることで「バットマン」のジョーカーの異形っぷりがより強烈であったことを理解できるのであった。

しかし、キャットウーマンがバットマンに敵対する理由が最後まで分らなかったし今でも分らない。
キャットウーマンは味方であるペンギンの敵であると言う理由でバットマンを敵とみなしていたのだろうか?