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2009年01月31日

●「活字ドラッグ」と「児童書」と「依存症」と私?

その場限りで後に引き摺らず、後遺症も残留物もないのが麻薬として良質なものだとされるけど、先日読んだジュール ヴェルヌの 『神秘の島』 を純粋な「活字ドラッグ」として見れば最高の部類に位置するだろう。
読んでいる最中のトリップ感と没頭感、そして読後感の爽やかさとなにものも心に残さないさっぱり感もすばらしい。
なるほど子供のうちにこういった良質な「活字ドラッグ」を体験させておけば、大きくなってもその味を忘れられないだろう。

今でこそそんなことはなくなったけど、若いころはその「活字ドラッグ」にドラッグとしての効き目の長さと強烈さだけでなく、日常からの逃避と、あわよくば自分の中身すら一変させてしまうほどの何物かを求めていた。

この場合は本であるにしても、よく考えれば外的な要因によってそういったものを求めるのは、薬物や苦行でも手段はなんでもいいから神秘体験に似たなにかを誘発し、それによって自己変革の一環とするような、ある特定の時代に流行ったサブカルチャーや、ある特定の宗教の持つ傾向となんら変わりないように思う。

よく考えればアブナイ話やなぁ…などと今更ながらに思うが、それでもそういった種類のものは人を依存させるほどのものを持っているのは確かだろう。
どう見てもアルコール依存症にしか見えない人が自分自身を「酒が好きなだけ」と言っているのを聞いて唖然とした事がある。
しかし、「寝る前に布団の中で本を読むのは幸せ」「可能な限り寝る前に本を読む」「私はただの本好き」と思っている私自身はどうなのだろう。
依存症とまでは言えないかもしれないけど、まったく依存していないとは言えないだろう。

日常生活や社会生活に支障が出ることが依存症が病気とされるかどうかの分かれ目であるそうだが、私自身はそれが何かの支障になるなどとは全く想像もせずにあまりにも長く続けてきた習慣なので、これが何かの支障になっていたのかどうか全くわからない。
本当に支障が出ていないと言い切れるだろうか?と考えるとなんともいえない恐怖が這い上がってくる。
私の今までの本読み体験によって、今の私の根本的な欠陥や欠損が形作られ増幅されてきたのだとしたら、日常生活や社会生活どころか、すでに人生すべてに支障が出ている、と言えるかもしれないのだ。
そう考えるのは異次元に開いている落とし穴に訳の分らないままに落ちてしまうような気持ち悪さを感じる。

そんな視点で周りを見回してみれば、そこかしこに開いている不可視の落とし穴から漏れて来る光や闇のなんと多いことか。
我々はなんと無造作にその上を歩いていることか。

2009年01月30日

●ジュール ヴェルヌ 『神秘の島』 / 漂流してるようには見えない遭難者 /

amazon ASIN:4834007278 amazon ASIN:4834007286
先日ジュール ヴェルヌの『海底二万里』(1869年)を読んで「ネモ船長」の運命と、なぜ彼がああいった人になってしまったのかがとても気になった。
その秘密が明かされる続編にあたるという1874年発表の『神秘の島』を読んだ。
読んだ本は少年少女向けの「福音館古典童話シリーズ」なる単行本のうちの二冊で分厚いハードカバーの挿絵入りであり、この本の日本語訳の完訳版の中では一番の豪華版であるらしい。
確かに子供時代にこの分量のこの分厚さの上下巻を読破するのはかなりの達成感があるやろうなと。

アメリカの南北戦争で南軍に捉えられた、技師とその従僕、新聞記者と水夫と少年の北軍6人が、嵐の夜に気球に乗って囚われの身から逃げ出したものの、無人島に不時着してそこで生き抜くことを余儀なくされる。
六人の男たちと一匹の犬と一匹のサルは、それぞれの特技と才能を生かして無人島で生き抜くだけでなく、暮らしやすい島へと作り変えて行く。といった感じのストーリーである。

『海底二万里』の続編にあたるといっても、直接的な続編ではなく、ネモ船長も最後のほうでチョイ役でしか出てこない。
無人島での漂流ものだという前知識で、なぜかネモ船長と乗組員が漂流する話しやと思い込んでいたけど、主人公たちは前作とまったく違う人物たちでちょっと拍子抜けした。
いつネモ船長が出てくるのかと思いながら読んでいたけど、物語としてとても面白かったので途中からそんなことはどうでもよくなって読んでいた。
それぞれ500ページほどある二巻組みのハードカバーの上巻を二日、下巻にいたっては一日で読んでしまうほどに、読み出すと止まらないほどに熱中した。
自分で意識して集中して読むのではなく、読まざるを得ないほどに集中させられたのは久しぶりであった。

物語としては一応「漂流記」やけど、墜落しそうな気球の高度を下げないようにありとあらゆるものを投げ捨てたという設定で、ナイフすらない状態から始まったのにもかかわらず、レンガを練ってかまどを作り、製材所は作るわ製鉄所は作るわ造船所は作るわ、しまいには粉引き風車や崖の砦を往復する水力エレベーターや電話線まで作るにいたっては、もう漂流しているようには見えなかった。
ガラスはすでに使っているのでその材料のケイ素を使ってシリコン系半導体を開発するのは時間の問題だろう。
後何年もすればウランの鉱脈でも見つけて、そのうちに核開発をして原子炉を作り、ついでにミサイル防衛網を築き、イージス艦まで配備してしまいそうな勢いである。

「漂流記」って言えば毎日が戦いで日々を生き抜くのに戦々恐々ってイメージがあるけど、この無人島で悠々自適に暮らす主人公たちは、無人島の暮らしがあまりにも快適すぎて「帰りたくない」ということまで言い出してびっくりである。
このままでは、漂流したけど、漂流生活が楽しくて帰りたくなくなって助け出されるのを拒否する。ってな意表をついたストーリー展開になりそうで、これは珍しそうやと期待していたけど、作者の最後に持ってきたオチはそんな期待を文字通り根底から突き崩すものであった。

映画でも小説でも、オチに困ると爆発や崩壊で収拾をつけてしまうのは昔からなんやなぁと妙に感心した。「爆発の美学」ってものは確かにあると思った。

2009年01月29日

●映画:「バットマン」 /異形崇拝とアメリカンドリームのハイブリッド

なかなか評判の良い2008年公開の「ダークナイト」を観るつもりなので、その予習がてらにティム・バートンの監督した初期二作の「バットマン」(1989/米)と「バットマン・リターンズ」(1992/米)を観た。
ということでまず「バットマン」の感想を書いてみる。

amazon ASIN:B00005HC6I  この映画化された「バットマン」はアメリカン・コミックスの原作や、そこからの直接派生であるアニメ版とはとはかなり違っているらしいけど、漫画もアニメも見たことが無いので違いは全くわからない。
それでもネットで調べてみた限りでは「スターシップ・トゥルーパーズ」の原作への冒涜加減なんかに比べればはるかに原作に忠実で、「スターシップ・トゥルーパーズ」と『宇宙の戦士』の関係に比べれば、演出レベルの違いといってもいいのかもしれない。まぁ比べるのも何やろうけど。

アメコミ原作という事で無駄に明るく無駄にハイテンションで無駄に勧善懲悪な物語だと言う先入観があったけど、ハイテンションなのは狂気なハイテンションなジョーカーだけで、映画全体に妙に重苦しい暗い雰囲気が立ち込めていてちょっと新鮮だった。

ネットでの情報によれば、この映画ではどうやら監督であるティム・バートンの『異形への愛』が多分に込められているらしい。見た目の意味だけでなく、狂気を内に秘めた「バットマン」と狂気を体現した存在である「ジョーカー」の対比がこの映画のキモなのだとされている。
しかし、彼らはただ虐げられて差別されるだけの「異形」ではなく、「異形」となることで何かしらの力が増幅されている。ジョーカーにしろバットマンにしろ、異形となることが彼らの本来の狂気や力を解放させるきっかけとなっていた。

合理科学的な文明が発達した今となっては「異形」はネガティブなマイナスイメージがあるけど、地域を問わず古くから「異形」は神の使いとして特別視されていたし、現在でもヒンドゥー教の影響が強い文化圏では奇形児が生まれたと聞くや、病院の機能が麻痺するほどに人々が殺到して拝み倒さん勢いである。
一般的に社会的な弱者になりやすい異形であることが神に選ばれた特別な存在である証拠だというのは、自分が異形であること、異形の子を生むこと、などに対して社会からの肯定的な価値を得られることによって、社会的な側面でも個人的な自意識の側面でも大きな意義があったのだろう。
しかしそんな価値が廃れた現在、この映画のように異形であることが自分の力や才能を開花させたり自分の殻を破るきっかけになるというのは、いわば異形崇拝的な側面と、自らの力で道を切り開く的なアメリカンドリーム志向な、一見合いそうにない二つのものの取り合わせのハイブリッドともいえるし、そんな考え方自体が「異形崇拝」と「アメリカンドリーム」のキメラという意味で異形であるともいえよう。

異形であることに価値が与えられていない現代では、いろいろな意味で自分を異形だと感じている人にとってそういった考え方は魅力的ですらあるだろう。
しかし、異形であることが点火剤として作用するためには、少なくとも増幅されたり開花されたりする必要のある才能なり力ないがないといけないというのはやっぱり世知辛い世の中だと思った。

2009年01月28日

●本についた血 

先日仕事帰りにジュール・ヴェルヌの『神秘の島』を市立図書館から借りてきた。
少年少女向けの位置付けの本なので児童書の棚を探したのだが、児童書の棚にあるその他の本のタイトルを読んでいるとなんと面白そうに見えることか。

で、夕食後に早速『神秘の島』を読み始めたのだが、子供ばかりが読んでいるのであろうせいか、やたらと本がボロボロなのはいいとして、なんかおやつの食べカスらしきものが本の間から出てくるのはちょっと嫌である。
ページにある染みも、チョコレートだろうなと想像できるのはまだ理解の範囲内にあるけど、明らかに血としか思えない染みがあるのは一体どうした訳だろう?
ちょっとしたホラーな本やったら血がついていると「ギャー!!」やろうけど、あまりにも健康的な冒険活劇な本なので「もしかして血?なんで?」としか思えない。
なぜ本を読んでいて血を流すようなことが起こり得るのだ?
子供が本読みながら血を流す状況をいろいろと思い浮かべてみるとなかなか可笑しいものがある。

そういえば、子供のころは何の脈絡もなく突然鼻血を流したり、いつの間にか怪我をして血を流していたりしたものである。
この本についていた血も深く考える意味もない、そういった特に意味をもたない血の一つであろう。

おそらく、私の前にこの本を読んだ子供たち、そして私の次にこの本を読む子供たちはこの本についた血なんかに疑問を持ったり意味なんか求めたりしないだろう。本についた染みを意に介さず、ただ本を本としてだけ読むに違いない。

本を読むだけでなく、本に挟まっている食べ物の欠片やチョコレートの染みや血痕まで本の一部として読み解こうとするのはおそらく子供のメンタリティーではないだろう。
大きくなると何でも意味を求めたがる。という方向性ではなく、何でも楽しんでしまおうとする意図を持てるようになることが、年を取る事で良い事の一つではなかろうかと思った。

2009年01月27日

●かわいそうな自転車

miserable_bike.jpg近所のスーパーの駐輪場で発見。
サドルの位置にハンドル、ハンドルの位置にサドルが!
どうやってる乗るのだ?

心なしか悲しそうに見えるのは気のせい?

2009年01月26日

●映画:アンドレイ・タルコフスキー「サクリファイス」 / 非ハリウッドなヒーロー

amazon ASIN:B000062VMC  アンドレイ・タルコフスキーの「サクリファイス」 (1986/スウェーデン=英=仏)を観た。
「惑星ソラリス」「ストーカー」についでタルコフスキーの映画を観るのは3本目であるけど、この映画は彼にとっては遺作となったらしい。
いずれ同監督の「ノスタルジア」も観るつもりだったので、どうせならこの遺作のほうは後から観ればよかった。

ストーリーは、自分の誕生日を祝うために集まってきた友人たちや家族と楽しい時間を過ごしていた男が、その席の最中に世界大戦の始まりを告げるテレビの報道を目にする。
ここ以外に安全な場所はどこにも無いと告げるテレビの放送が突如止まり、世界の終わりの予感に家族と友人たちはパニック状態に陥る。
絶望する家族や友人を見て、今まで無神論者であった男は、自分の全てを犠牲にしても世界が救われるように、必死で神に祈り続ける。祈り続ける彼はやがて祈りつかれて眠りに落ちてしまうが、そこで目を覚ますと…
と言う感じの話である。

英題の「The Sacrifice」の音をそのまま邦題にしたこの映画の原題は「Offret - Sacrificatio」で、スウェーデン語とラテン語で英題の「いけにえ、犠牲、 捧げ物」を差し出す行為を指しているようである。
タイトルどおり、一人の男が自分を犠牲にして世界を救う(と本人は思っている)話である。
とはいっても、ハリウッド的ヒーローによるヒーロー映画とは似ても似つかない、殆ど自己完結といっても良いほどのものであり、タルコフスキーっぽいと言うのだろうか、べちゃべちゃの地面に、小川のような水の流れ、そしてやたらと静かな雰囲気に包まれた映画であった。

この映画の前半はなんかよくわからんインテリ風の男がうだうだ言ってるだけで眠たくってしょうがなかったけど、ちょうど半分くらいの、男が祈り始めるところあたりから映画に引き込まれて目が離せなくなった。
映画自体のトーンは変わらないのに、がらりと変わったような気がするのは不思議と言えば不思議である。

最後のほうのシーンで彼が何をしようとしているのかに気づいた時から映画が終わるまで、じわじわ湧き上がってくるような静かな感動があった。うーん良い映画だった。
実はこの映画のように、世界は知らないままに何度も救われていたのだと思えば、未来は明るいかもしれない。と思った。

2009年01月25日

●映画:「ウィッカーマン」 / アンチ癒し系ケルト文化 / 交流せず不気味なものでしかない異文化

amazon ASIN:B0019HHBJQ 2006年にニコラス・ケイジ主演でリメイクされた、カルト映画として中々評判の良い古い映画「ウィッカーマン」 (1973/英)を観た。中々人気があるらしく、ずっとレンタルされていて中々借りられなかったのだがやっと観る事が出来た。

匿名の手紙による情報から行方不明の少女を追って敬虔なカトリックの警官がスコットランドのある島にやってくる。
警官は島を治める領主の元で太陽と自然を信仰する卑猥な原始宗教を信仰する島民たちに嫌悪を抱きながらも、何かしらの怪しさを嗅ぎ取って捜査を続けてゆくが…
てなストーリーである。

この映画の見所は、現代の我々から見れば下品で朗らかで開放的に過ぎる島の不気味さと、ネタバレパッケージとしてデカデカ載っているウィッカーマンの不気味さであろう。
大抵この映画を見る人は、この警官と同じ視点に立って少女を探して怪しげな島を見て回る事になるのやろうけど、観てゆくにつれちょっとした違和感がだんだん不気味な予感に変わってゆくような、だんだんと息苦しくなって来るような映画の作りは中々見事であった。
警官の視点で映画が進みながらも、島民でも警官でもないニュートラルな立場で淡々と描く作りが良い感じである。

ドルイドである領主を中心にして、ケルト神話に基づく自然崇拝の原始宗教の風習に則って暮らす島民たちの様は、調べてみた限りかなり正確なケルト系の原始宗教の考え方や風習を表しているように見えた。
しかし、この映画が変なリアリティーを持って現代人である我々に不気味なものとして迫ってくるのは、この映画で描かれる原始宗教の雰囲気がただリアルであるというだけではなく、一見外から見れば現代の我々の生活と溶け込んでいるように見えるけど、実はそうではない。というところが、彼らの住む島から感じる不気味さを更に引き立てているの所なのだろうと思う。

この映画は、ケルト系や北欧系に代表されるような、とかく「癒し系」だと扱われがちな原始的で素朴な宗教や神話が、表面的にはそう見えても、実は根本のところでは「癒し系」とは程遠い、如何に生贄大好きで血なまぐさくてエロい圧倒的に根源的な側面を持っているかと言うところらへんがとても現れていたように感じられた。映画内に漂う、この胡散臭くて怪しげな雰囲気は中々にすばらしい。

結局、ケルト的な島民とカトリック的な警官の二つの文化は最後まで全く交流せずにすれ違ったままである。
私が思うこの映画の一番の美点は、異文化だの異宗教だのの対立や交流などと言ったテーマを一切扱わずに、現代人である我々に原始的な異宗教から感じる不気味さを味あわせつつも、最後の最後のシーンで燃え上がるウィッカーマンから、その異文化の中にある、ある種の圧倒的な美しさを感じさせるところにあるだろう。

自分の中にある価値を前提とした物差しで異文化を計るのではなく、皮膚感覚として根源的な感覚で捉えられるような美を感じる事が、異文化に対する理解や肯定につながるのかもしれないと思った。

2009年01月24日

●「何でも食べる」といふこと

この日、ずっと行きたかったお店にやっと行くことが出来た。
余り普段食べないようなものを食べたのだが、よくよく考えれば料理法も材料もよくわからない料理をよくわからないまま出されるままに食べるのはかなり奇妙な行為であるかもしれない。

例えば、よく食べられる割に食べている人が実態を知らないであろう生き物の中に舌平目なる魚がいる。この舌平目の中でも特に「シマウシノシタ」と呼ばれる種は魚好きの私が見てもかなりグロい。この魚の30センチを超えるものはもうほとんど妖怪である。

野生動物は何でも食べるようなイメージがあるけど、ここの種について冷静に考えてみれば、実は彼らの食に関する好みはとても偏っていることがわかる。
雑食と呼ばれる動物にしても、人間なる種に比べればはるかに偏食である。
「美味」なる絶対価値の旗の下に、得体の知れぬものを得体の知れぬままに食べる人間の生命力こそ、人間を万物の霊長として地球に君臨させた原動力ではないかとすら思えてくる。
ということで、美味しそうに見えて実際に美味しいけど、実は謎の料理を動けないくらいにお腹一杯に食べた、とてもとても寒い冬の日であった。

2009年01月23日

●戦争映画を鑑賞するおばあちゃん

例のごとく仕事帰りにいつも立ち寄るDVDのレンタル屋さんで、いかにも「よぼよぼ」といった感じのおばあちゃんが「戦争映画」の棚の前で何かのDVDのパッケージを繁々と眺めていた。
恐らく太平洋戦争時には青春真っ只中であったであろう年代のお年寄りである。
日本にとって汚点であるとされるような時代と思想で娘時代を駆け抜けた彼女にとって、戦争の持つ意味や重みは我々とは全く違うのだろう。などと思う。

しかし、「戦争映画の棚」といっても、「さらばラバウル」や「太平洋の翼」のありそうな日本映画でなく、「地獄の黙示録」とか「プライベート・ライアン」があるような洋画の棚の前に立っていた。
棚を間違えているのかな?ふと疑問に思ったところで、そのおばあちゃんはパッケージを見ていたDVDを借りることに決めたらしく、中身を抜き取ってケースだけを棚に戻した。

おばあちゃんが借りることに決めたDVDを見て、ごく控えめに言って私はかなりびっくりした。

amazon ASIN:B000064633 そのDVDは「ブラックホークダウン」であった。
「ブラックホークダウン」といえば、ソマリアでおこった米軍のデルタフォースと民兵やゲリラとの壮烈な武力衝突である「モガディシュの戦闘」を描いたリドリー・スコットの映画で、2時間20分に及ぶ映画の最初から最後まで延々とエグい戦闘シーンが続く、銃器オタの間でも「鬱映画」として名高い名作である。

この映画を観たいと思った戦争経験者であるはずの彼女の頭の中には一体何が渦巻いていたのだろうか?
と一瞬思ったが、このおばあちゃんは単純に戦争映画好きなのかもしれない。

普通我々はこの年代の戦争体験者であれば戦争に対して何かしらの深刻なスタンスや考え方を持っているはずだという思い込みがあるし、戦後に起こった強烈な価値の転換に引き裂かれてそのギャップに心密かに苦しんでいるはずだという思い込みがある。
しかし、どちらかといえば、我々はそういったお年寄りがそうであるのを経験的に知っているというよりも、そうあるべきであると思い込んでいるだけなのかも知れない。

もしかしたらこのおばあちゃんは家に帰って孫と一緒にこのDVDを観ながら、「今やーRPG撃てー」「おっしゃーBlackhawk going down!あっきゃっきゃー」とか言ってるかもしれない。

悲惨な戦争を潜り抜けてきた戦争経験者が、こういった戦争映画を現実のものであったり現実に起こりそうなことであるとは思わずに、ただ映画の中だけの話としてワクワクしながら観ることが出来ることは、ある意味で世の中が平和になったことの一つの印なのかもしれない。
などと思った。

2009年01月22日

●ジュール ヴェルヌ 『海底二万里』(岩波文庫) / ネモ船長は正義か?

amazon ASIN:4003256948 amazon ASIN:4003256956 前からずっと読みたかった、ジュール ヴェルヌの 『海底二万里』をやっと読むことが出来た。
この少年少女向け冒険小説である『海底二万里』は様々な出版社から翻訳されて出版されているけど、私が読んだのは朝比奈 美知子訳の岩波文庫版である。
この岩波文庫版を選んだのはただ目に付いただけで特に理由は無い。岩波文庫のほかには創元SF文庫や集英社文庫、偕成社文庫等から出版されているようである。
ただし、この本には子供向けの簡略化されたものが多々あるようで、恐らく上下巻組ではない一巻構成のものがそうだろう。
大人になって今から読むのなら、当時そのままの挿絵がフルに入っているらしい、上中下の三巻組みの偕成社文庫のものが気合が入っていて良いかもしれない。

各国の海で光を放ち信じられない速度で動く巨大な生物が目撃される事件が頻発し、調査船に乗り込んだ海洋生物学者とその召使と銛撃ちの名人が、その生物と間違えられた潜水艦に乗り込むこととなる。
博識で地上の人間に深い憎しみを抱いた謎の男である潜水艦の船長と共に、その三人は潜水艦で世界各国の海底をめぐることとなるのだが、このノーチラス号での深海めぐりがこの本のメインストーリーであろう。

「潜水艦ノーチラス」と「ネモ船長」が余りに有名な、海洋SFの古典的な名作であるけど、私は子供時代に一度も読んだことが無かった。
原子力潜水艦の無かったこの時代にこの本に書かれていることがどれくらい驚くべきことかはなんとなく想像できるし、現代に読んでも、海好きとしてはノーチラスによる海の旅はいかにも冒険小説といった趣があってとても面白かった。
しかし、一応子供向けの本と言うことになってるのやけど、読んでいると殆ど邪悪ともいえるようなネモ船長が地上の人間に対して抱く強烈な憎しみが激しくブラックである。
しっかりした学識と知識を持ち、さらにそれを現実的に実践する知恵を持ちながらも、ただ地上世界を憎んで自ら関わりを断ち、全てをノーチラス内のみで完結させようとする彼の行動は、学者と常識人の代表のようなアロンナクス教授のいうように、余りにも自己完結的すぎるように見える。
殆ど説明しないままに自分に対する信用を要求し、自分の人格を全肯定するように要求する彼の性格は余りにも極端で、今から見れば何かしらの人格障害の一部のようにすら見える。

子供向け文学として、恐らくこのネモ船長は「正義」の側にいる人間なのかもしれないけど、果たしてこの船長が子供から見て理想的とされるのだろうか?と激しく疑問である。
それでも、ネモ船長がある種の魅力を持っているのは間違いないし、彼の理不尽にも思えるような憎しみと復讐心を正当化させ、彼をただの人格破綻者で終わらせないためにはよっぽどの悲劇が必要となってくるだろう。
この復讐心と憎しみと独善に燃えるネモ船長がどういった運命をたどってノーチラスの船長となり、この先どういった運命をたどるのか興味津々である。
それはこの『海底二万里』の続編である『神秘の島』で明かされるのだろうか?

2009年01月21日

●Solaris10の無線LANで WPA2-PSK/TKIPのアクセスポイントに接続する

この間Thinkpad X40を買って、そこにSolaris10 u6をインストールして、家にあるWPA2-PSKな無線LANに接続しようとしてネット上で情報収集したのだが、solarisで無線LANを使う場合に、共通キーでWEP認証し、通信に暗号化なしで利用する場合の設定はネット上を探せば結構載っているのやけど、WPAやWPA2認証を利用して、AESかTKIPを利用した場合の設定の仕方が全く載ってない。
私の探した限り日本語での情報は皆無であるような気がする。
solaris用の無線LANカードの配布元である、OpenSolarisのLaptopコミュニティで、wpa認証とTKIP/AES暗号化を実現する「wpa_supplicant」なるパッケージのページで手順は説明されてはいるのやけど、私なりにまとめてみた。

Thinkpad X40上のsolaris10 x86 u6 10/08で、mini-PCIのAtheros AR5BMB-44の無線LANカードを使い、認証にWPAパスフレーズでWPA2、暗号化にTKIP、DHCPサーバーからアドレスをもらう場合の設定を書いてみる。
いわゆるWPA2-PSK / AESというやつである。

ただし、ath0として認識するAtheros系のカードしかwpaで使えないらしい。私の場合はThinkpad X40に対応したIEEE802.1/gなmini-PCIのカードを買ったのでこれに該当した。

必須パッケージ:
ath driver: 入手先:OpenSolaris Laptopコミュニティー Solaris10ではバージョン0.5でしか動かない。
wpa_supplicant :入手先:OpenSolaris Laptopコミュニティー
wificonfig :入手先:OpenSolaris Laptopコミュニティー
Inetmenu :入手先:OpenSolaris Laptopコミュニティー
SUNWcryパッケージ(Solaris 10 Encryption Kit): 入手先:SUNダウンロードセンター

動作概要は、WPA/WPA2認証とTKIP/AES暗号化を実装するための核であるwpa_supplicantがデーモンとしてバックグラウンドで動き、wificonfigでしかるべきパラーメータを渡して、ath0で認識したNICをwpa_supplicantデーモン経由でアクセスポイントに接続する。(データリンク層なイメージ?)
接続が完了したらinetmenuでDHCPサーバーからアドレスをもらい、ネットワークの設定を完了する。
といったとろ。ただし、このwpa_supplicantデーモンはath0ドライバでしか動作しない。
Solaris 10 Encryption KitのSUNWcryは接続後にDHCPサーバーからアドレスをもらって通信する際に必要な暗号化キットであるということだ。本来ならSolarsiに入れておけばいいのやろうけど、暗号化技術の輸出規制のからみにより、ユーザーがー自分で導入する必要があるようである。

手順:

#wificonfig createprofile AP-WPA2-PSK-TKIP essid=SSID名 psk=パスフレーズ pairwise=TKIP group=TKIP proto=RSN
##まず、wificonfigで接続プロファイルを作っておく、プロファイル名は「AP-WPA2-PSK-TKIP」としておく。SSID名、PSKパスフレーズ、暗号化方式にTKIP、認証方式にRSN(WPA2)を指定している。
##一度プロファイルを作っておけば、次回からこのコマンドを入力することなくプロファイル名を利用できる。

##wpa_supplicantデーモンの起動 インターフェイス名を指定
#/usr/sbin/wpa_supplicant -i ath0
##デバッグモードでフォアグラウンドで動作させるには/usr/sbin/wpa_supplicant -i ath0 -dd -Fとする

##アクセスポイントに接続
#/usr/sbin/wificonfig -i ath0 connect AP-WPA2-PSK-TKIP
##「/usr/sbin/wificonfig: connecting to profile 'AP-WPA2-PSK-TKIP'」と表示されれば接続は完了

##ネットワークに接続
#/usr/bin/inetmenu -W KARM -i ath0 -p DHCP
##ifconfig ath0 plumb && ifconfig ath0 dhcp でもよいが、こちらはDNSの設定をしてくれないのでinetmenuを利用した。inetmenuはplumbもしてくれる。

上でwificonfigに必要そうなパラメーターを指定しているけど、基本的にはpskとssidの指定だけで、wpa_supplicantデーモンがアクセスポイントの認証方式と暗号化方式を自動的に認識して接続してくれる。
アクセスポイントがミックスモードで動作している場合、wpa_supplicantはAES>TKIPという優先順位で接続にいくようだ。
しかしながら、AES暗号化のアクセスポイントに接続しようとすると、wificonfigのメッセージでは正常に接続されたようでもいつまでたっても接続が完了しない。
wpa_supplicantをデバッグモードで動かしていると

WPA: Failed to set PTK to the driver.
wpa_supplicant_process_3_of_4: key_info=1ca gtk=0
なるログを延々と吐き続けているのが見える。
このあたりはwpa_supplicantがバージョンアップされて解消されるのを待つしかないのだろうか。

2009年01月20日

●映画 : ポイント45 / ビッチなミラ・ジョヴォヴィッチ / ビッチの痛々しさ啓蒙映画

amazon ASIN:B000RN3O0S ミラ・ジョヴォヴィッチつながりということで、「ポイント45」(2006/米)を観た。
バイオハザードを観たあとに色々とネットをさまよっているうちに面白いという評判があったので、んじゃみて観るかということで借りてきた。
スラム街で銃の密売で暮らしている激情型の男の情婦が彼の暴力に愛想を尽かし、最大限に女の武器を利用して彼の呪縛から抜け出す。というお話。

なんとなく「パルプ・フィクション」的な雰囲気を期待していたのだが特にそういった風もなく、個々の強烈なシーンの間にストーリーがあるといった感じである。
観る前は「彼の呪縛から抜け出す」というところをなぜか、訳のわからん生活から抜け出して社会的に成功する。と勘違いしていたのだが、本当に「彼の呪縛から抜け出す」ところまでしか描かれておらず、そのスケールの小ささにカタルシスも何もなかった。
ドメスティックバイオレンスから逃げ出すために、性的な魅力をのみ利用してほかの複数の人間を虜にする。って手段が、後々本当に本人のためになるのかどうかというのが、私としては激しく疑問であった。

しかし逆に、「私は女の武器で世間を渡るわよ♪」となどと恥ずかしげもなく堂々と言ってしまうような真正ビッチの痛々しさを白日の下にさらけ出すことで、そういった志を抱く少女を真っ当な道に引き戻し、そういったビッチに釣られる男どもの肩を叩くような、ある意味での啓蒙的な映画だとすれば良い出来なのかもしれない。
自分がビッチだからといって人を利用して良いというわけではないし、相手がビッチだからといって人を利用して良い訳でもないのだ。当たり前の話である。

ミラ・ジョヴォヴィッチが「hip lip tip」が武器よとのたまう正真正銘の「ビッチ」を演じていて、脚本も演出もイマイチながら、それでも頑張って演技する彼女に好感を持たざるを得ない。
物語の前半でミラ・ジョヴォヴィッチが情夫を蹴るシーンがあるのだが、その体重のまったく乗らない蹴りの不細工なこと不細工なこと。バイオハザードで人間の域を超えた人と同じ人物とは思えない。
ミラ・ジョヴォヴィッチって人は人気の割にはあまりいい役に恵まれないなぁと思った。

何でもいいからミラ・ジョヴォヴィッチ見たくてしょうがない、ビッチが見たくて見たくてしょうがない、という人にはお勧めかもしれない。

2009年01月19日

●SolarisでのCtrlとCapsLockキーがらみの設定

家ではAの横にCtrlがあるSunのType6とHHKのキーボードを使っており、猛烈にコマンドを打つ場合にAの隣のCtrlを押す癖がついているので、Aの横がCaps Lockになっているキーボードはついつい勢いで押し間違えてしまうことが多い。

と言うことで、Solarisをリモートから使う分には全く問題ないけど、ノートPCにクライアントとしてセットアップして使う場合に左CtrlとCapsLockキーを入れ替えたりCapsLockをCtrlキーにしたくなる場合がある。
一般的にこういった場合はCapsLockと左Ctrlを入れ替えて使う人が多いのだが、私はCapsLockを使うことが全く無いので、左CtrlとCapsLockを入れ替えずに、CapsLockをCtrlキーとして使っている。左Ctrlを押しても、CapsLockを押してもCtrlと言うわけである。
で、毎回ノートPCにセットアップするたびに検索してるので書いておく。

コンソール画面と、X上でそれぞれ違うシステムでキーボードマップを実現しているので、それぞれの設定が必要になってくる。

コンソール:キーテーブルを直接編集する
USキーボードなら/usr/share/lib/keytables/type_6/usに、
日本語キーボードなら/usr/share/lib/keytables/type_6/japan
に以下のコードを追加する。

#Caps Lockキーをctrlにする
key 57 all shiftkeys+leftctrl up shiftkeys+leftctrl
#左ctrlキーをCapsLockにする場合
#key 224 all shiftkeys+capslock

日本語キーボードならtype_6/japanと直感的にわかるけど、USキーボードだからと言って /usr/share/lib/keytables/type_101/usに設定してしまうとややこしいことになる。

X(ユーザーごと):xmodmapコマンドでの実装
ログイン時に自動実行された~/dtprofile スクリプトからxmodmapコマンドがrcファイルを読み込ませて呼ばれる
~/.xmodmaprc

!Caps Lockキーをctrlにする
remove Lock = Caps_Lock
keysym Control_L = Caps_Lock
add Lock = Caps_Lock
!左ctrlキーをCapsLockにする場合
!remove Control = Control_L
!keysym Caps_Lock = Control_L
!add Control = Control_L

~/.dtprofile

# swap ctrl and caps lock key
if [ -f ~/.xmodmaprc ] ; then
/usr/openwin/bin/xmodmap ~/.xmodmaprc
fi

2009年01月18日

●「バイオハザードⅢ」 / 綾波・ケンシロウ・ミラ・ジョヴォヴィッチ / 新旧ハイブリッドヒーロー像

amazon ASIN:B0012KL5B0 一年ほど前に公開されたばっかりの「バイオハザードⅢ」 (2007/=英=独=豪=仏)であるが、邦題にない原題のサブタイトル「Extinction」が示すように、文明が「消滅」した後の、人類がほぼ「絶滅」した世界での物語である。

「Ⅱ」の後、一都市だけに収まらななかったT-ウィルスが世界中に広がったことで、人類のほとんどがゾンビと化し、都市機能の停止した世界は壊滅状態にあった。
わずかに生き残った人たちは武装して寄り集まり、ゾンビの群れを避けつつ、食料やガソリンを探しながら砂漠化した町から町へと渡り歩く暮らしをしていた。
一方、アンブレラの監視網を避けながらひっそり暮らしていた主人公は生き残った人をアンデッド化したカラスの大群から救う為に「力」を使ってしまい、彼女をアンデッド化した人をコントロールするための切り札だと見るアンブレラの研究者に場所を特定されてしまう。
といった感じである。

非力ながらもマッドマックスや北斗の拳のような世界の中で必死でタフに生きる一般人に引き替え、ミラ・ジョヴォヴィッチはあまりにも強すぎて同じ人間に見えない。もう顔までCG処理したように見えてしょうがなかった。

「Ⅱ」で人間離れした体術と戦闘能力を発揮したセガールかターミネーターかカムイのごとき彼女は、「Ⅲ」になるに及んで人間の域を大きく超え、「気」を使うわ人工衛星は壊すわ、フォースに目覚めるわと、スーパーサイヤ人やアキラの世界になっていた。ヤムチャなら指先一つでダウンに違いないし、恐らくアキラのナンバーズの子供たちにも勝てるだろう。

マッドマックスや北斗の拳やアキラ的な古典的終末後の世界の古典的救世主でもあるミラ様は、一方で人間を滅ぼしたモノそのものと融合することで新しく進化しつつも、「代わりはいくらでもいるもの」的な絶対的アイデンティティーの根拠がない存在でもある。
ケンシロウや孫悟空の如き絶対的で圧倒的な能力と実力を持つヒーローでありながら、綾波レイのように、テクノロジーによって最も忌むべきモノとのハイブリッドとして、いくらでもスペアがいるような存在として生み出され、自分の存在を絶対的な根底から他人に与えてしまうような、今までにないタイプの救世主であるところが新しいといえば新しい。

セカンドインパクトを引き起こした「使徒」と「綾波レイ」が融合することで「人類補完計画」がうだうだ…といった比較的新しい終末後の救済観と、ケンシロウによる「世紀末救世主伝説」的な古典的救済観のハイブリッドになるのだろうか。「バイオハザードⅣ」では敵の諸悪の根源の大ボスを目指しつつも「人類補完計画」やら「サードインパクト」やらといったことになるのだろうか?

全く関係ない話やけど、映画を見ていてミラ・ジョヴォヴィッチが履いていたようなエンジニアブーツ風のブーツが猛烈に欲しくなった。

2009年01月17日

●「バイオハザードII アポカリプス」 / 最終兵器ミラ様/一人影の軍団 or 一人カムイ外伝

amazon ASIN:B000UCS6I6 バイオ・ハザードの二作目は「バイオハザードII アポカリプス」(2004/独=仏=英) となかなかご大層な「黙示録」なるサブタイトルが付いているが、これはもちろん、ヨハネの黙示録にあるような世界の破滅に再臨するキリストのごとく、救世主であるミラ・ジョヴォヴィッチ様が再臨なさるお話である。ということであろう。

「I」でアンブレラに身柄を確保された主人公が目を覚ました病院から抜け出すと、地上にT-ウィルスが漏れたことによって町はゾンビだけがうろつくゴーストタウンと化していた。
一方感染を防ぐために封鎖されてしまった町に閉じこめられた住人と取り残された戦闘員たちは、町を脱出するためゾンビの群れの中を進むこととなった。
という感じで話は始まるのだが、この映画は原作のゲームに出てくる登場人物たちもふんだんに登場しているらしいのだが、これも私はよくわからなかった。
そういえば確かに青いニットの隊員はCGのような顔だったし、なんかコスプレを見ているようでもあった。

ネット上ではミラ・ジョヴォヴィッチの異様で異常な強さを評して、スティーブン・セガール化しているとかターミネーター化しているという風な意見が多かったが、たしかに「Ⅰ」以後にT-ウィルスを投与されて身体的にも精神的にも進化を遂げたとう設定とはいえ、これはあまりにも強すぎた。
パッケージ写真のような鎖帷子といい、近接戦闘能力や体術といい、飛び道具の扱いといい、しまいにはロープ一本で壁まで走るに至ってはもうこれは忍者と呼ぶしかない。一人カムイ外伝、もしくは一人影の軍団と言ったところだろうか。

しかしながら、ほとんど銃も撃たず、ほとんどゾンビと戦わないホラー映画に見せかけたパニック映画である「Ⅰ」に比べれば、こちらはアクション映画路線満開の爽快感があふれてこぼれているような映画であった。

2009年01月16日

●「バイオハザード」 / ミラ様三角蹴り / 「ゾンビ」が出てる割にB級ぽくない / この映画はゲーム化すべき

amazon ASIN:B000V5J1T0 「バイオハザード」シリーズを一日で三本一気に観た。まずは一作目の「バイオハザード 」(2002/英=独=米)の感想から。

巨大複合企業アンブレラが秘密裏に地下の研究所で開発していたウィルスが漏れ出すバイオハザードが起こり、研究所のコンピューターは中にいた人をすべて殺して施設を封鎖するという惨事が起きる。
企業傘下の特殊部隊が事態を収拾するために研究所に向かうが、死んだはずの人々が群れをなして襲い掛かって来た。
という感じのストーリである。

原作のゲームを最後までやっていないので、原作と比べてどうとかいうことができない上に、原作に対しては「なんかウィルスがもれて人がゾンビになるらしい」という予備知識と、この映画に関しては「ミラ・ジョヴォヴィッチの三角蹴りが凄いらしい」という事しか知らずに観た。

ゾンビ系映画ということで大量のゾンビを素手でなぎ倒し、銃で撃ちまくる映画を想像していたけど、どちらかというと如何にゾンビを避けるかということになっていてちょっと残念だったし、ネット上では「ミラ様鑑賞映画」のような扱いを受けているけど、それにしてはミラ・ジョヴォヴィッチが格闘したり銃撃ちまくったりするシーンがあまりにも少なすぎた。

それでも、ゲームの映画化というだけでなんとなくB級だと思い込んでいたけど、いかにもB級というような作りではなかったように思う。
「ゾンビ」が出てくるというだけでB級以外に成り得ないような気がするけど、それにしてはよくできていたと思うし、同じくミラ・ジョヴォヴィッチの主演である「ウルトラ・ヴァイオレット」のB級感と適当感に比べれば、はるかにまともで映画らしい映画であった。

基本的に突然現れたり突然大きな音が鳴ったりするような、音と映像で脅かすような映画ではあったけど、思っていたよりもはるかにとても面白かった。

原作のゲームはあまりにも理不尽すぎて途中でやめてしまったのだが、この映画がゲームならとてもオモシロいはず。
というわけで、この映画は是非ゲーム化すべきである。あれ?

2009年01月15日

●電気ゾンビはミラ・ジョヴォヴィッチの夢を見るか?

仕事帰りにレンタル屋さんに寄って、「そういえばバイオハザードって見たことないなぁ」となんとなくジョヴォヴィッチな気分になってきたのでついついシリーズ三作全てを借りてきて全部一気に観た。
夜の九時ぐらいに「Ⅰ」を見始めて、続けざまに「Ⅱ」を見た後、休むことなく「Ⅲ」を観て、すべて観終わったのが2時頃、ヘロヘロになってそのまま布団に這って行って寝たらなんかバイオハザードっぽい夢を見た。

と言ってもゾンビ化した人や犬に襲われるような直接的なものではなく、いつどこから何が襲ってくるかわからんといったような重苦しい雰囲気に包まれた夢であった。これは全く怖い夢を見ない私としては珍しいことである。
長時間映画を観てその世界に入ったまま寝てしまうと、眠っている中でもその世界を引きずったままと言うこともあるのかもしれない。

そういうわけで、一日の大半を何らかのトラブルや問題に対する対応で過ごしたとしても、いくら頭から離れない悩み事があったとしても、鬱真っ盛りでいようとも、そんな気分で寝てしまえば睡眠中に気の休まる暇が無いだろう。
せめて寝る前だけはそんな気分をリセットして、楽しくといかないまでも、安楽な気分で眠りに落ちることは精神衛生上大事なのやなぁと思った。

2009年01月14日

●MACのOSX 10.5でシャットダウン時にプリンタのジョブを消す

MAC OSXをWindowsドメインで運用したりしてマルチユーザーで使っている場合、当然プリンタも共有なので、前のユーザーが印刷に失敗したジョブが残ったままだと、次の人がそのジョブを消せずに印刷できないことになる。
いちいち管理者ユーザーがログインして消すのも手間なので、シャットダウン時にそのジョブを消すために、cupsのスプーラーをクリアするよう以下のようなスクリプトを書いた。

rm -f /var/spool/cups/*
rm -f /var/spool/cups/cache/*
rm -f /var/spool/cups/cache/rss/*
rm -f /var/spool/cups/tmp/*

しかしSolarisやらLinuxと違ってランベルの概念がないMACなのでどこからこのコマンド郡を呼び出せば良いのかわからない。
ということで調べてみた。

ネット上の情報によるとMAC OSX 10.4では「/etc/rc.shutdown」がシャットダウン時に実行されるらしいけど、10.5ではそんなファイルはないし、新規作成しても実行されない。
ダメ元で「/etc/rc.shutdown」から呼ばれるらしい「/etc/rc.shutdown.local」に書いてみるとなぜかちゃんと実行された。

ということで、MACのOSX 10.5でシャットダウンスクリプトは「/etc/rc.shutdown.local」となるようだ。

OSX 10.4では「/etc/rc.shutdown」から呼ばれるこのスクリプトが、10.5ではどこから呼ばれているのか激しく謎である。
色々探してみたけど結局見つからず。恐らく前バージョンまでの互換性を保つために「/etc/rc.shutdown.local」の扱いを残しているだけと推測されるので、次期バージョンではこのコマンドは実行されないかもしれない。
そうなれば、ここに書いた情報も何の役にも立たなくなるのであった…

バージョンを上げるのは良いけど、マイナーバージョンアップでこう言ったレガシーな仕様がコロコロ変わるのは、直ぐに知恵や知識が陳腐化するので微妙やなぁとおもったけど、MAC OSXをUNIX風OSとしてレガシーに使うことの方が微妙なのだと言うことにちょっとだけ気づいた。

2009年01月13日

●映画:アレハンドロ・ホドロフスキー「サンタ・サングレ 聖なる血」 / グロ系愛の物語

amazon ASIN:B00009CHBY アレハンドロ・ホドロフスキーの「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」に続く第三作目の「サンタ・サングレ 聖なる血」 (1989/伊=メキシコ)を観た。

ナイフ投げの名人のサーカス団の座長である浮気性の父と、両手を切断された後にレイプされて殺されて聖なる血を流した乙女を狂信的に信仰する母をもつ息子の少年は、浮気しようとする父と嫉妬で狂った母の惨劇を目撃して精神を病んでしまう。
ある日収容されている病院から母の姿を見つけた彼は、病院から抜け出して母の下に向かい、母の両腕として生きてゆく事を決意するが…
という感じの話である。

ネット上では、彼の作品としては一番わかりやすいと言われる事が多いように、「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」と比べた場合に映画の中にちゃんと一本のストーリーが通っていた。
彼の作品やからどうせわけわからんやろう。とたかをくくって観始めたのでかなりびっくりしたけど、映画としてはとても面白かった。
まさかこんな愛の物語やとはまったく思っていなかった。

ホドロフスキー的な映像の連続やけど、ストーリーがしっかりしてるので印象は前作二つとはまったく違う。
前の二作同様に大量の血やとか残虐シーンやとかフリークスな登場人物といった彼らしい映画的語彙はそのままやったけど、この映画ではそれがストーリを前に進めてゆく原動力として使われていたように思うし、前作と前々作と比べて、達観やら諦観したようところが少なかったせいか、薬物と禅を結びつけるような昔のヒッピー的な胡散臭さというよりは、とてもラテンアメリカ的なマジックリアリズム風味の雰囲気がずっと漂っていた。

しかし、なによりもヒロインの女の子がとても良かった。まったく美人ではないヒロインの発する魅力が全くあざとくなく、とても自然に描かれている映画ってのはそんなに多くないと思う。
普通の映画としても観る事ができるし、ホドロフスキー的映像美も味わえるなかなかすばらしい映画であった。

2009年01月12日

●ジャン=アンリ・ファーブル 『ファーブル植物記』 / ただ知的好奇心のみ / サン・レオンの英雄

amazon ASIN:4582766242 amazon ASIN:4582766277 ジャン=アンリ・ファーブルの『ファーブル昆虫記』が世に出る10年以上前に、同じ著者による子供向けの啓蒙書として出版された『ファーブル植物記』を読んだ。
『昆虫記』が余りにも有名なので『植物記』の存在もちょっとした雑学的にそれなりに知られているけど、『昆虫記』がどちらかというと児童書的な扱いを受けているせいか、子供のころに『昆虫記』を読んだ人でも『植物記』も読んだという人は余り聞いたことが無い。
さすがに「平凡社ライブラリー」はニッチなところ突いて来るなぁと。

植物記といってもこのタイトルは『昆虫記』を意識してつけられた邦題のようで、フランス語での原題は『Histoire de la Bûche(薪の話)』 ということであるらしい。
上下巻に分かれていて意外にボリュームがあり、植物の茎と芽と葉と根、そして種をめぐって、植物が如何にがんばって戦略的に美しい秩序に則って生きているかという話が丁重にわかり易くメルヘンな比喩に満ち満ちて語られれていた。
全編が子供たちに優しく語り掛けるような文体で統一されており、ラテン語由来だのギリシャ語由来だのの学術的な専門用語を憎むべきものとして日常語で平素に平素に説明してゆく。
読んでいるとなんともほっこりする。余りにもほっこりするので布団で読んでいると直ぐに寝入ってしまうほどである。

想定している読者が子供だといっても話の内容が簡単すぎるということは無かった。内容としては高校で習う植物の組織と習性について、細胞レベル以下の話を除いたくらいの話であろうか。
それなりに生物とか植物が好きな人にとってはうろ覚えがはっきりする内容であり、余り詳しくない人にとっては勉強になるのではないだろうか。
訳者でもある日高敏隆が巻末の解説で述べていたように「植物がいかに一生懸命生きているか」がひしひしと伝わってくるし、まさしくそれを伝える事こそこの本の意図なのではないだろうか。

『ファーブル昆虫記』と『シートン動物記』はこのジャンルの児童書の双璧をなす本やけど、私が子供の頃は『シートン動物記』を読んでもあまり面白いと思わず、断然『ファーブル昆虫記』派であった。スカラベとか狩バチの話をそれこそむさぼるように読んだものである。

まぁ、私自身が「虫博士になりたいっ!」というくらい虫好きだったせいもあるやろうけど、今思えば『シートン動物記』が余り気に入らなかったのは、その動物達の演じるドラマがなんとなく人間臭く、動物の中で人間的な政治臭と歴史的で社会的な、なんとなくオッサン臭い視点を感じて気に入らなかったような気がする。漫画で言えば『カムイ伝』的な雰囲気であろうか。
それとは逆に、純粋な学者肌だったファーブル先生は『昆虫記』を、ひたすら植物なら植物、昆虫なら昆虫の習性と本能の秩序を解き明かしてゆくことだけに主眼を置いた、純粋な知的な驚きを原動力にした知的好奇心のみで書いていたような気がする。
昆虫や植物の世界が人間社会の縮図であるとか比喩であるとか、そこから何かを読み取ろうとか読み取らせようとかそういった意図が全く無いのが素晴らしい。

子供の頃にあれだけ『ファーブル昆虫記』を愛読した私が、この本を読んで初めて著者のジャン=アンリ・ファーブル自身についてちゃんと調べたのやけど、今までなんとなく持っていた、フランスの片田舎の裕福で安定した暮らしを送る退役した学校の先生が道楽で虫の研究をしていたようなイメージが根本的に覆った。
典型的なダメ親父の元で育った彼は、15歳の時に一家が離散したことを皮切りに、肉体労働をしながら独学で勉強して、奨学金などを取って学校に入学する。それなりに認められて教師になっても「おしべとめしべの話」を婦人方の前でしたせいで町からアヴィニオン捨囚とばかりに追放され、老後は貧しさにあえぎながらその生涯を終えたようである。
はたから見れば中々大変な波乱万丈の人生を送ったように見えるけど、その間彼の昆虫への情熱は消えることは無かった。彼の生き方だけをとってもなかなかに興味深いものがある。

今までは大らかで子供好きやけど、虫ばかり追いかけているちょっと変なおじいさんという子供の頃のイメージの延長で彼を見ていたけど、どんな状況でも昆虫や植物に対する知的好奇心を自分の中の欲求の一番においていた彼は、中々にかっこいいなぁというイメージが加わった。
こういう生き方も一つの英雄の形であろう。

昔『ファーブル昆虫記』を読んだからこそ『ファーブル植物記』を読んだし、ブログを書いていたからこそちゃんとした感想を書くためにファーブル自身について調べた。
そしてファーブルについて調べたから彼のような生き方を知ることが出来た。というのは中々に趣き深いなぁと思うのであった。

2009年01月11日

●映画:ミヒャエル・ハネケ「タイム・オブ・ザ・ウルフ」 / アンチ北斗の拳的世紀末、あるいは根暗系ディストピア未来像

amazon ASIN:B000LE1374 「セブンス・コンチネント」がとても面白かったミヒャエル・ハネケの「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003/仏=オーストリア=独)を観た。
ヒットした彼の「ピアニスト」(2001/仏=オーストリア)の後に撮られた映画であるけど本当は「ピアニスト」の前に撮りたかったらしく、それが叶わずに「ピアニスト」のヒットによってようやく撮る事が出来たようだ。

壊滅的な災害か戦争か何かが起こった(らしき)状況で、機能が停止した都市から逃げ出した(らしき)家族が別荘に向かう。
しかし別荘には既に銃で武装した別の家族が住みついていた。
家族は秩序と機能を失った社会の中でのタフでハードな生存競争に否応無く巻き込まれてゆく。
と言った感じであろうか。

「らしき」という言葉を使ったけど、何によってこの状況が起こったのか、実際何が起こっているかというのは全く説明されない。ただひたすらだんだんと行き詰って行く状況を描いているだけである。
「行き詰まり感」といえばハーモニー・コリンやけど、ハネケ的な行き詰まり感は明るい要素が無くひたすら暗い。「ピアニスト」でマッドなピアノ教師を演じたイザベル・ユペールがこの映画でもお母さん役を演じており、いつキレるかハラハラと良い感じであった。

典型的なディストピア未来世界で、ポール・オースターの『最後の物たちの国で』のようでもあるけど、生き残るために疑心暗鬼なりながら気の休まることの無い集団生活を送る人々の閉塞感は観ていてとても息苦しい。
この息苦しさは、集団の秩序をなんとか維持したいと考える感情と、なんとかお互い出し抜こうとしている個人の感情のせめぎあいから来るような気がする。
誰が味方か誰が敵かわからない上に、ちょっとした事で敵も見方も簡単に入れ替わり得る状況ってのはとても精神的にハードである。
こんなのに比べれば「北斗の拳」の「ヒャーッハ!ここは通さねぇ!」的な世紀末観は、白黒はっきりしてて人間として解り易く、ある意味で明るく健康的やなぁと思うのであった。

2009年01月10日

●映画:スターシップ・トゥルーパーズ3 / 今日はバカ映画日和 / すべてがバカになる

amazon ASIN:B001GC1564 私の大好きなバカ映画「スターシップ・トゥルーパーズ」の第三弾である「スターシップ・トゥルーパーズ3」をやっと見ることが出来た。
本当は映画館でクスクス笑いながら観たかったのだが、京都ではやってなかったのでDVDを借りた。

監督は一作目からずっと脚本を書いているエドワード・ニューマイヤーが勤め、製作総指揮には一作目の監督であるポール・バーホーベンがついているということで期待大である。

長引いたバグズとの戦争の中、反戦運動を行う「平和テロリスト」を片っ端から処刑して秩序を保つ連邦政府は対バグズに新型爆弾を開発していた。
一方、一作目の主人公であるジョニー・リコ率いる最前線の砦の地上部隊に歌手でもある総司令官が視察に訪れ、そのタイミングで大量のバグズが砦に襲い掛かることでこの戦争の戦局を大きく左右することになる戦いの戦端が開かれることになる。といった感じだろうか。

一作目のハイテンションな軍国主義は、古代ローマとギリシャのスパルタと現代アメリカのバカそうなところを合わせたように極端になっており、映画全体に一作目のバカバカしさが充満していて可笑しかった。友情や愛情や恋愛、戦争や平和、宗教や社会、軍国主義に民主主義、更には「命の尊さ」までバカにする勢いは良い感じである。
戦争に反対してデモや集会や街頭演説などの平和運動を行う「平和テロリスト」と、キスシーンのバックで惑星を丸ごと破壊するシーンが可笑しかった。

人気歌手でもある総司令官が歌うプロパガンダな曲、「今日は死に日和」と訳されていた”It's A Good Day To Die!”が主題歌のような扱いになっているのだが、この歌のバカさ加減がこの映画のすべてを表しているといっていいだろう。
「死霊ののはらわた」同様に皆が楽しんで撮っている様が感じられた。現場はさぞかし楽しかったろうなと思った。

この映画をスターウォーズとかスタートレックのように硬派なSFとしてまじめに見た人はことごとくこき下ろすけど、まぁそれは当然だろう。なにしろこの映画がバカにしているものにはそういったSF映画も含まれているのである。
とはいっても、総司令官と提督の陰謀と策略の応酬、そしてどんでん返しは以外に「普通の映画」していた。最初からB級バカ映画としてみていたので、これには感心した。

一応シリーズ三作目のこの作品でで完結編になるらしいけど、映画の最後にやっと原作の重要な要素である「パワードスーツ」が出てきた。
これに乗ってありとあらゆるものをバカにし続ける「スターシップ・トゥルーパーズ4」を期待したい。
B級バカ映画のシリーズがこれで終わるのはなんとも残念である。

2009年01月09日

●ノートPCを買う / ジャンク魂

家にあるパナソニックのCF-02なるノートPCは、今はもうどこも作っていないトラックボールを搭載したB5ノートで、かなり使い勝手が良くて気に入っていた。
しかし如何せん古く、CPUがCeleron 300MHzということで今時余りにも遅すぎる。このノートPCよりも私の持っているPHSのCPUの方が早いくらいでもうすっかり時代に取り残されている。
ということで、特にノートPCを使うような状況もないので、トラックパッド嫌いの私としては、どうせ買うならトラックポイントなThinkpadと思いつつも、特に今まで買うこともなくすごしてきたのだが、お正月についつい勢いでThinkpadがまだIBMの時代のX40なるB5の薄型ノートを買ってしまった。B5のTinkpadの上に英語キーボードだったので我慢できなかったのだ。

買ったのは中古で、なんかやたらと安くて、何か裏があると不安に思いつつ買ったのだが、買ってからなぜ市場価格が安いのかが理解できた。
このPCのHDDは3.3V駆動の1.8インチなる特殊な規格の日立のHDDのを利用しており、これは当時は普及すると思われたものの、現在は全く製造されていないらしく、それが市場価値を下げている原因であるようだ。
つまり、HDDが壊れればもう新品は流通在庫しか手に入らない。
しかもそれらは殆どプレミア価格のようなもので、私が買った本体価格よりも高いのである。

買ってしばらくは「あちゃー勢いでえらいもん買ってしまったなー」と思っていたのだが、調べれば調べるほど改造しがいのある素材と言うことがわかってきた。
問題の特殊規格のHDDに関する問題も、さすがにネット上の先人たちが色々な道を切り開いており、HDDの代わりにCFを使ったり、Flash SSDを使ったり、ZIFコネクタの1.8インチHDDに変換ソケットを経由させて動作させたりとHDDを規格外のもので動作させる道もあるようである。
「ついカッとなってやってしまったが、今は全く後悔していない」と言ったところであろうか。

とりあえず今のところはボトルネックであると評判のHDDの遅さも全く気にならず、容量不足でもないので、HDDを交換する必要性は全く無いのだが、こういった、ハード改造の楽しげなレポートを読んでいると、意味も無く改造したくなる気持ちがムラムラと湧き上がってくるのであった。

2009年01月08日

●イリューシャの石

この日で自転車で転んでから通っていた病院も最後の通院となった。
傷自体はもうずっと前に閉じていたのだが、傷跡の経過を見る為に通っていたのだ。
怪我してから半年、改めて考えれば生きていただけでもうけものである。傷跡が残った事などいかほどのことがあろうか。

「病」だけに限らず「生老病死」の全ての苦に当てはまる一般的なことだろうが、怪我や病気が人間にとって何かしら良い作用を及ぼす事があるとすれば、それは人間を謙虚にする事くらいだろうか。
大抵の人間が怪我や病気をすればなぜか自分の傲慢を悔いて謙虚な気持ちになるのはありきたりの出来事である。
しかし、そんな風に一時的に謙虚な気持ちになったところで、健康になれば大抵そんな事は忘れてしまうのも良くあることである。

カラ兄の終わりの「イリューシャの石」でのシーンではないけど、この傷跡を朝に毎日鏡で見るたびに、日々傲慢に暮らす私が、少なくともこの怪我をした一時点では、謙虚な気持であったことを思い出せたらいいのにな。と思った。

2009年01月07日

●冬眠から覚める / 反応形成

長い休みで久しぶりに仕事に行くために朝早く起きると、冬眠から覚めた動物になったような気がする。
冬眠から覚めた動物は餌を探すために動き出すのだ。

久しぶりに働くと家で使っているドメインのアカウントを職場のPCに入力して、返って来るエラーメッセージを見て反射的に「うっ!」となってしまうのだが、同時に自分の間違いも気づいているところが可笑しい。

エラーメッセージを見れば瞬間に障害の予感でアドレナリンが放出される反応形成はとてもわかりやすいけど、それとは独立してバックグラウンドジョブのように常にエラーの原因を探し続ける回路もまた反応形成されていることに気づく瞬間である。
精神の二重構造を感じるのは不思議なものだ。

2009年01月06日

●「キリシタン灯篭」を探す

ようやくにして正月らしく北野天満宮に出かけた。
引いたおみくじは「吉」、可もなく不可もなくといったところ。いかにも私らしくていい。などと自虐的なことを言ってみる。

本殿のガラガラ(鈴、鰐口と呼ぶらしい)の紐(鈴緒というらしい)が無くなっていてガラガラ出来なかったのがとても残念だった。
しかし、鈴はあるのに鈴緒がついていないのはあえてこうしてあるのだろうか?それとも誰かが引きちぎったのだろうか?とても気になった。

境内のどこかにあるらしい「マリア灯篭」あるいは「キリシタン灯篭」を探したのだがどこにあるのかさっぱりわからなかった。今度梅の季節にでもゆっくり探してみよう。

「キリシタン灯篭」を探すためにいろいろな灯篭を見ていたのだが、動物が彫ってある場合は龍だの玄武だのと神獣的なものが多い。
どういう意図でマリア像を灯篭に彫ったのかは良く分からないけど、八百万の神の感覚からすればマリアもその神の中の一つと言う事なのだろうか?

2009年01月05日

●試合に負けて勝負に勝つ?

毎年福袋に人が並んでいるというニュースを聞くたびに、私も好きな服屋さんの福袋を買いたいと思う。来年こそ買うぞと毎年思うのだが今まで一度も買ったことがない。
とここまで書くと、今年は買ったという話になって、その福袋購入のレポートを面白おかしく書くのが普通のブログなのやろうけど、結局今年も買わなかった。
自信を持って言えるが、おそらく来年も思うだけで買わないだろう。
久しぶりに外に出たのでちゃんとした服を着たのだが、なんだかズボンがきついような気がする。お正月はずっと家に引きこもって食べてばかりいたので太ってしまったに違いない。
この勢いで食べると危険やなぁと思いながら食べていたのだが、やっぱりそのとおりであった。

福袋を買いたいけど買えない、食べるとやばいなぁと思いつつ食べる。
こういった風に誰しも日夜欲望と戦っているわけやけど、この年になるとあえて欲望に負けて流されてみる。という選択肢もありなのではないか?
いうならば欲望に負けてやる。欲望に華を持たせてやるわけである。欲望との試合に負けることが欲望との勝負に勝つ。ということになりうるのではないか。
などと意味のわからない事を思った。

2009年01月04日

●映画:「アンダーグラウンド」 / 亡き王国のためのパヴァーヌ

amazon ASIN:B00005LJV6 アンダーグラウンド (1995/独=仏=ハンガリー)を観た。
南スラブ人たちの統一国家であり、今は分裂によって消えてしまったユーゴスラビアを舞台にした物語で、第一章「戦争」、第二章「冷戦」、第三章「戦争」といった三部構成の、1941年の第二次世界大戦前夜から、ユーゴが決定的に分裂してしまう原因となったユーゴ内戦の始まった1991年あたりまでの話である。
パルチザンとしてドイツに抵抗していた共産党員の詩人が市民を地下活動に匿って武器を作らせ、ユーゴが第二次世界大戦を独力で独立という勝利で終えても、政府の用心になった彼は、まだ地下にいる人たちにまだ地上にドイツ軍がいると良い含めて武器を作らせて巨万の富を築く。
戦争と内戦を繰り返すユーゴの歴史に翻弄されながら人々がタフに生きてゆく様を描く。と言う感じ。

民族紛争という渋すぎる背景を持ちながらも、ミニシアター的な美的な映像と寓話的な物語で構成されている。

この内戦である「ユーゴスラビア紛争」中に撮られたこの映画は、映画全体に生きるエネルギーが満ち溢れていて、このユーゴスラビア紛争が何かしら良い風に解決すれば良いという祈りのようなものが伺えるけど、結局、紛争の末の2003年に「ユーゴスラビア」は「セルビア・モンテネグロ」となって国名自体が消滅してしまい、2006年には「セルビア・モンテネグロ」がそれぞれ独立することで完全に共和国としての形は解体してしまうことなる。南無。

地下の結婚式のシーンと最後の結婚式のシーンがなんとも素晴らしいのが、暗くなりがちなこういった映画を完全に暗いところに貶めないゆえんであろう。
それでも、侵略者であるドイツとパルチザンとして戦っていたはずが、気づけば民族同士で分裂を加速するために殺しあっている状況や、詩人だった男がいつの間にか政府の要人になり、気づけば武器商人になってその民族同士の殺し合いを煽り立てているといった状況は中々悲しいものがある。
南スラブ人の統一国家というおそらく当初は悲願であった国家体制が、同じ民族同士の対立によって跡形もなく分裂して消え去ってゆく状況の中で、ひたすら明るくタフに踊りまくり騒ぎまくる、ハイテンションな物語の裏に隠れたテーマがとても重かった。
この映画を観て「ユーゴスラビア」の歴史を調べ、紛争と分裂の末に国が消滅すると言ったなかなかに大変な歴史を知ったのだが、監督にとってはこの映画を撮ってユーゴスラビアについて知る人が増えることこそ願ったり適ったりなのだろうなと思った。

2009年01月03日

●映画:「ヴァージン・スーサイズ」 / 見た目が10割 / この橋渡るべからず

amazon ASIN:B00005HTH1 ソフィア・コッポラのデビュー作である「ヴァージン・スーサイズ」(1999/米)を観た。
原作は中々有名な本である『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』であるけど、映画の邦題は原題そのままの「The Virgin Suicides」となっている。監督のソフィア・コッポラはゴッドファーザーと地獄の黙示録のフランシス・フォード・コッポラを父に持ということでデビュー当初は明らかに親の七光り的な扱いをされたらしいけど、「ロスト・イン・トランスレーション」(2003年)、「マリー・アントワネット」(2006年)の二本を撮った今となっては監督としての実力も認められているようだ。

ストーリーは、高校のアイドルとも言える美しいブロンドの5人姉妹の末っ子が手首を切り、彼女を主役にしたはずのパーティで窓から飛び降りて外の柵に突き刺さって死んでしまう事をきっかけにして、その父母と4人姉妹となった家庭の歯車が狂い始める。
学校一の人気者である男が姉妹の一人を好きになって、姉妹とその男の友人たちはパーティに行くことになり、歯車もちゃんと回り始めたかと思ったが、結局残った4人の姉妹も「自殺」と言う道を選ぶ。と言う感じである。

と書くと陰惨な話に聞こえるけど、物語の殆どは五人姉妹が眩しくてしょうがないといったステレオタイプな青春ドラマのような感じ。
大抵のこういった悲惨な事件を扱った映画では自殺や惨劇の原因であるとか、その背景であるとかを見せたり考えたりする意図が感じらるのだが、この映画はそんなことよりも如何にこの姉妹が美しくて、如何に眩しい青春を送っているかと言うところをひたすら描いていた。しかも、内面的な部分ではなく見た目だけのレベルで描いているところが潔かった。

この映画は基本的には学園もので綺麗な少女たちをひたすら描いていると言う意味で、「ピクニック at ハンギング・ロック」に似ているけど、「ピクニック at ハンギング・ロック」が寄宿生のお嬢様女学校だったのに対して、こちらは普通の共学の高校なので雰囲気がぜんぜん違う。
恐らく、この映画は共学の高校ということで、どこかしら感情移入して見る場合が多いのやろうけど、恋にパーティーにとメインカルチャー街道ど真ん中をまっしぐらなこの映画の高校生とは、およそ真逆のアンダーグラウンドな高校生活を送っていた私にとっては余りにも遠い世界であり、感情移入する隙が無かった…
余りにもキラキラしている高校生活エンジョイな彼らの価値観が眩しすぎて、私のルサンチマン精神性からすれば彼らのような道を「このはしわたるべからず」と言われているようだった。

それでも、「The Virgin Suicides」と言うだけあって、無垢であるがゆえの自殺を選んでしまうのwなんとなく理解できるような、この年代の少女の不安定さや脆さが判ったような気になった。

2009年01月02日

●映画:「ピクニック at ハンギング・ロック」 / 美少女と美少女の神隠し

amazon ASIN:B0006HJ0V2 正月だらだら生活の中、「ピクニック at ハンギング・ロック (1975/豪)」を観た。
この映画は「いまを生きる(1989/米)」「トゥルーマン・ショー(1998/米)」などを撮ったピーター・ウィアーがのその名を世界に知らしめる事となった最初期の作品であり、1900年に実際に起きた、女学院の学生と女学生と女教師の失踪事件をもとに映画化されたものであるらしい。

ストーリーは、1900年の聖バレンタインの日に、寄宿制女学院の女生徒と女教師が「ハンギング・ロック」と呼ばれる岩山地帯にピクニックに出かける。
生徒たちが草原で昼寝をする中、散歩に出かけた仲良しグループの3人と女教師の一人が岩山に引かれるように姿を消し、町は大騒ぎとなる。という感じである。

パッケージの写真とあらすじ紹介から期待される通りの耽美な映像を楽しみに借りてきたけど、中々期待を裏切らない映像であった。
同じような寄宿制女学校モノである「小さな悪の華」とか「ミネハハ」よりははるかに綺麗な映像であった。比べるのも何やけど…

寄宿学校で目を覚ましたブロンド少女たちが身づくろいを済ませて白いヴィクトリア調な服に着替え、連れ立って馬車に乗って「ハンギング・ロック」へピクニックに出かけるまでの映像はなんともクラクラする。
当初はこんな映像だけ見られたら十分やと思っていたけど、少女達が靴と靴下を脱ぎ捨てて何かに憑かれて引かれる様に岩山を目指すあたりの映像はなんとも不思議な雰囲気を漂わせていた。
美しい少女たちと学識の深そうな女教師が岩山で忽然と姿を消す、「神隠し」と呼ぶしかない禍々しくて荘厳な原始的で根源的な、畏怖と敬虔が入り混じったようなヌミノーゼと呼ぶのが相応しい雰囲気がとてもよく現れていたように思う。

綺麗な映像だけではなく、単なる「失踪」ではなく、違う世界に消えたとしか思えない「神隠し」と呼ぶしかないものを中々上手くあらわしていた様に思う。

今になってこのパッケージ写真を見れば「ボッティチェリの天使」と呼ばれたこの少女が、岩山の間に姿を消す雰囲気がよく表されてるなぁと感心した。

2009年01月01日

●謹賀新年

2009年になって初めてここに来られた方もいらっしゃるかと思いますので、年末のご挨拶に重ねて新年のご挨拶をば。

新年明けましておめでとうございます。本年も引き続きよろしくお願いいたします。
今までこのブログはごくごくローカルな個人ブログ的な位置づけだったような気がしますが、2009年からこのブログにはパブリックな土偶の側面も、いわゆるビジネスブログ的な要素も加えていくつもりです。
この「土偶staticroute」は一個人としての土偶の欲求と行動の紹介でありつつも、社会の一ユニットとしての土偶の宣伝と紹介にもなるような場にしたいと考えています。
と大げさな事をいっても、書く事は今までと全く変わらないと思いますが…

2009new.jpgということで、家でついた餅を鏡餅風に重ねてみた。裏白の代わりに南天の葉っぱやけど。橙の代わりにSUNキリンやけど。