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2008年12月31日

●ベートーヴェン漬けの大晦日

このエントリーが2008年最後のエントリーであると同時に、日付詐称はあれど丸3年目のエントリとなる。よく続いたものだ。感心するやら呆れるやら…

年末になるとこの一年はどうだったとか、次の一年はどうしたいなどということを良く書くが、死ぬまで永遠に生きるかのような暮らしをしている我々は、その死ぬまでの永遠の生に何かしらの区切りを引きたい欲求があるのだろう。
はるか昔、私が卒論でニーチェについて書いていた時、ハイデガーの言うニーチェの永劫回帰は将来と過去の衝突である現在の瞬間に関する思想である。ってところの「将来と過去の衝突」の捉え方にやたらと苦労して、結局ちゃんと納得した答えを出せなかったのだが、最近では例えば年末とか誕生日とかの何かしらの区切りになる日にこの「将来と過去との衝突」を感じることが多い。ああ、これは私がいることで起きている衝突なのだなと。

学生時代に理解できなかった筈の事が感覚として自分の中にあるのはとても不思議である。
なんというか、学生時代に自分自身で問題として取り上げ、必死で書いた卒論のテーマがこの年になっても自分の生の中で何かしらのテーマとして問題意識の中にあり続けているということは中々に素晴らしいことであると思う。

現在卒論を書いている貴方、これを一生の宿題と受け取るか一生の呪いと受け取るかはわからんけど、とにかく行き詰れば、自分の中にある問題意識に沿って、自分が問題に思うことについて書いてみれば突破口は開けるはずである。健闘を祈る。

朝から起きて部屋の掃除をし、昼が過ぎてから霙が降る中を自転車に乗って町に出て8GBのmicroSDHCを1490円で買った。安くなったものだ。
マンガン電池を買い、ワインを買い、本屋とCD屋を冷やかして、家に帰って音楽を聴く。
先日ベートーヴェン本を読んだこともありひたすらピアノソナタを聴きまくり、大晦日ということで恒例のN響の第九をテレビで観た。
ベートーヴェン好きの私は年末に限らずこの曲をCDやらMP3やらで聴く事は多いのだが、映像で見る第九は合唱隊の前にいるトライアングルの人と第三楽章中ずっとと第四楽章の殆どを座ってじっとしている独奏者が気になって仕方ないのだった。

この2008年はいろいろな意味で「老い」を感じた年であった。今の私の年はまだまだ若い内に入ると言う人も多いけど、力だけで押したり物量で押したりする古式ゆかしい兵法にはっきりした限界を感じた。これからは変革ではなく発展が求められているような気がする。
村上春樹はデビュー作で「もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。」と言っていたけど、これが本当に一般論でしかないことをつくづく感じた年であった。

私事以外で言えば、社会的に2008年は中々大変な年であったらしい。
2006年の最後にも同じようなことを書いたけど、2009年が希望に満ちた年になり、2009年のブログもそんな楽しいエントリを提供したいと願いつつ、ベートーヴェンの交響曲第九番、作品番号125の第四楽章のバリトンのレチタティーヴォを2008年の最後の言葉としたい。

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
(おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか)

ということで、旧年中は大変お世話になりました。
来年も、土偶StaticRouteと土偶をなにとぞよろしくお願い申し上げます。m(__)m

2008年12月30日

●下から目線のissue

なぜか街中に人が少ない。元々席と席の間が広く取ってある、満席でも快適であろうお店が更に空いていてとてもとても快適であった。
その広々したお店でスパゲティーとピザを食べ、今年の夏の海で作って食べた「サザエとカニとわさび風味アオサの白ワインベースの海水茹でスパゲティー」の美味しさは異常だったと思う。

デザートにエスプレッソを飲みながらケーキを食べ、買ってきた『ビッグ・イシュー』を読む。
定価300円のうち160円が販売人であるホームレスの人々の収入となるこの雑誌は、ホームレスに収入源を提供し、彼らの自立を支援するコンセプトで刊行されたものであるからして、どんな雑誌にも無い目線と価値観で溢れている。
販売人であるホームレスのおっちゃんへのインタビューとスペイン人ハリウッド女優のペネロペ・クルスへのインタビューがほぼ同じ扱いとして読めてしまうバランス感覚は中々お目にかかれない。
この雑誌を読んで、今年大きな問題となった問題を思い、自分が恵まれていることに感謝するだけではまだまだ足りないのだ。と思った。

2008年12月29日

●青木やよひ著『 ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究 決定版』 / 新しいベートーヴェン像(私にとっては) / フェミニズム視点からの〈不滅の恋人〉の探究

amazon ASIN:4582765998 年末年始の長期貸し出しということで借りてきた中の一冊、青木やよひ著『 ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究 決定版』を読んだ。

ベートーヴェンの死後に秘密の引き出しから発見された有名なラブレターの宛先である〈不滅の恋人〉が誰であるのかは、昔から研究の対象になってきた。
タイトルの通りこの本は〈不滅の恋人〉に対する今までの研究の歴史的な概略を示し、現在ではほぼ定説となっている著者が世界で始めて提示した〈不滅の恋人〉をアントニーア・ブレンターノとする説の根拠を、実際に現地に赴いて調べた証拠と共に示すものである。

2001年に同じ著者によって講談社現代新書として『ベートーヴェン<不滅の恋人>の謎を解く』 が出版されたが、そのすぐあとに著者の説を裏付ける新事実が発見され、この本はその講談社現代新書に書かれた内容に、新しく発見された資料を論考の対象に加えた形で加筆したもので、2007年に平凡社ライブラリーとして刊行されている。

著者の「青木やよひ」という人は現在でこそベートーヴェン研究の本を沢山出版しているけど、1970年代からフェミニズムの分野で、上野千鶴子と喧嘩したりする勢いで活躍してきた人らしい。
このフェミニズムな視点で「〈不滅の恋人〉研究」を見ることで、裕福なイタリア出身の豪商に嫁ぎ子供を沢山生んだアントニー・ブレンターノはモラルある幸福過ぎるほど幸福な人であるから、あえてベートーヴェンと不倫の恋に落ちる必然性が無かったということでずっと〈不滅の恋人〉候補から除外されて来た定説を、実は彼女はイタリアンファミリーなしがらみと夫との関係で決して幸福ではなく、モラルがあるからこそベートーヴェンとのプラトニックな恋を公に出来ず結局夫の下に帰った。という見方によって覆すことが出来たのだろう。
著者がずっと携わってきたフェミニズムの視点が、全く別ジャンルであるベートーヴェン研究に革命的な新風を吹き込んだ事実に心躍ったり励まされたりである。

この本の中で、日本ではロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』の影響が余りに大きくこの本の中でのベートーヴェン像が定着していると述べていたけど、確かに私自身もその本を読んで、音楽だけに全生涯を捧げ、恋愛も生活も余りに不器用で、余りに個性が強すぎて周りに嫌われて孤独のうちに死んだベートーヴェン像を抱いていた。
しかし、この本で描かれるベートーヴェンは彼に心酔する人だけでなく友人も多く、孤独ながらもちゃんと社会生活を営んでいたようであるし、何よりも彼の個性の際立った点はその高い倫理観にあったといえるだろう。
そしてベートーヴェンが苦悩に真正面から向き合い、責任を果たしつつ避けることなく、自らの欲求ではなく「道徳」を規範として選ぶ様はなんとも心を打つ。

この本は<不滅の恋人>アントニーア・ブレンターノとベートーヴェンの関係をただのパパラッチ的な視点で描くのではなく、そんな倫理規範の高いベートーヴェンがアントニーアとの成就されなかった恋愛を如何に乗り越えて彼女と新たな関係を結び、そのことが彼の芸術にどのような影響を及ぼしたのかという視点を貫いていたのがとても良かった。
ベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタがブレンターノ家の思い出に深く結びついていることは有名らしいけど、あのグレン・グールドでさえ限りなく美しいと称えたNo30のop109がアントニーアの娘であるマクシミリアーネ・ブレンターノに、当初アントニーアに献呈されるはずだったけど結局献呈なしで出版されたNo31のop110を挟んで、私が大好きなNo32のop111のロンドン版だけがアントニーアに献呈されている。
このソナタが完成する十年位前のアントニーアと恋愛真っ盛りの時期に、ベートーヴェンは彼女とイギリスに移住することを本気で考えていたらしいけど、最後のピアノソナタのイギリス版だけが彼女に献呈されていることは「私としてはそこに深い含意を感じないではいられない」と言う著者の意見に私も同意である。
そう思って聴くとまたこの最後の三つのピアノソナタも違ったように聞こえるのであった。

例えば恋愛、家庭のなんやかんや、病気やトラブル、その他もろもろの苦しみや喜びは、言ってしまえば限りなく個人的なものでしかない。
そんなことは当事者にとっては一大事でも、他人にとってはありふれたどうでも良い出来事のひとつに過ぎないし、社会や世界から見ればほぼゼロに等しい出来事である。
しかし、それでも人間であれば避けることの出来ないそんな苦悩や喜びを乗り越えた先に、こんな素晴らしいものが生まれたり、こんな境地にたどり着くのであれば、限りなく個人的で個別的なものが普遍の一端を担う可能性があるのなら、人間であることも捨てたものではないと思わせるなにものかを、ベートーヴェンはやっぱり持っていると言う思いを強くした。

2008年12月28日

●年賀状定型句「おもちを食べすぎないようにね!」の真意

家に引きこもって、音楽聴く、本読む、ネット巡回、ルービックキューブ、を繰り返して一日を過ごしていると気づけば直ぐにご飯の時間になる。しかもご飯の間にはおやつをポリポリ…ということでこの二日間食べてばかりいたような気がする。
で、夕方から久しぶりに外に出たのだが、それもちょっとしたお料理+パン食べ放題のために出かけたのである。家にいても食べ、外に出ても食べ、私は生きるために食べているつもりやったけど、実は食べるために生きているのだろうか?という疑問が心の中に芽生える勢いである。

しかし、放題という事で放題してるようではイカン。このままでは正月明けにはプクプクになってしまうという危機感から、かなり抑え目に腹八分目に、抑えに抑えて食べたつもりであった。
しかし、私自身が自分で思った「腹八分目」の食べ方は、はたからみると「片っ端から食べていた」ように見えたらしい。

主客の見解の分裂がここまでになってしまうともう何が真実かすらわからん。
今の私の胃にとっては八分目なのやろうけど、一般的にそれは八分目とされる量を大きく逸脱しているのだろう。
自らの食のリミットすら簡単に踏み越えさせてしまう勢いを持っている、年末年始の食のインフレに恐怖を感じたのであった。

そういえば、小学生のころ年賀状に「おもちを食べすぎないようにね!」とよく書いてあり、子供ながらに「正月早々なんでそんなこと言われなあかんねん。しかも何故に餅?」となんとなく違和感を感じていたのだが、その意味が今になって理解できた。

「おもちを食べすぎないようにね!」は単純に警告の意味だけではなく、人間の弱さや醜さ、そして人間の限界や可能性にまで言及した、中々含蓄深い言葉なのだと思った。

2008年12月27日

●この日もカシャカシャカシャ(キーボードを洗った)

うちでメインに使ってるキーボードは時々画像で登場するSUNのTYPE6キーボードなのだが、サブのキーボードである昔から使っているHappy Hacking Keyboard Lite2が異様に汚れていたので、キートップとガワを全てはずして、基盤部分を除いて全ての部品を洗剤とお湯で丸洗いした。
washedkey.jpg流し台でバラバラになったキートップに洗剤とお湯を振り掛けてカシャカシャカシャ、アライグマのように洗いまくる。
ひとしきり洗えばとりあえず洗剤を洗い流した後、洗面器に溜めたお湯の中で完全に洗剤を落とすべく再びカシャカシャカシャ。
気が済めばザルにあけてファンヒータの前でカシャカシャゆすって乾燥させる。
洗う前に組み立てるときの参考にするためにデジカメで写真を撮っておいたのだが、洗い終わる前と比べて見るとびっくりするほど綺麗になっていた。洗う前の画像も乗せようと思ったけど、余りに汚かったので自粛しておく。
組み立て時にキーの稼動部にシリコングリスでも塗ろうかと思ったけど、埃を吸いそうなのでやめておいた。
しかし、組み立て後は見違えるほどにキータッチが軽快になっていた。見た目もキータッチも新品同様である。
ということで、皆様も大掃除の一環として、ぜひともキーボードを洗ってみましょう。

suntype6us.jpgこの勢いでメインのSUNのType6も洗おうかと思ったけど、やたらと何に使うのかよくわからないキーがー多いこともあり、組み立て時の苦労を考えてやめておいた。ちょっと前に買ったばっかりでまだまだ綺麗やしね…

2008年12月26日

●カシャカシャカシャな晩餐会

wcube.jpg
いつものメンバーでの食べ飲み会で某氏に2X2X2の2連キューブを頂いた。いやーありがたやありがたや。
で、皆が喋っている所を横目に一人で黙々とカシャカシャカシャ…時々話の輪の中に入るもすぐにカシャカシャカシャ…
「全部完成させてから話に加わるぞー」と意気込みながら合わせようと試みるも、食べ飲み会中には完成せず。
結局殆どカシャカシャやっていた…
私は一体何しに来てるねんと。こんな私でも生暖かく見守ってくれてありがたい話である。

家に帰って落ち着いて挑戦してみたらあっさり全部そろった。二つのキューブの連結部分を真っ黒なキューブと捉えれば、2X2X2と同じ解法で解けるのであった。

しかし、この会でのこの私の行動は、何気にこの一年を象徴しているようでもあると思ったりした。

2008年12月25日

●銀色のルービックキューブを触った

ミラーブロックス2ミラーブロックス 職場の枝豆一号君に「RUBIK’S ミラーブロックス 」で遊ばせてもらった。
形状を見ればご理解いただけるように、通常の3X3のルービックキューブを色ではなく形や高さであわせてゆくものであるから、基本的には3X3の解放で解ける。
しかし、しばらくルービックキューブを触っていなかったせいで解法を殆ど忘れていたので結構苦労した。

現代アートなら「人を想う心」とか「夏の海の誘惑」なる題でもつけられそうなぐしゃぐしゃになった形状の立体物が立方体になるのは、通常のルービックキューブのように混ざった色の粒がそろってゆくのとはまた別の心地よさがあった。ということで、思わず家に帰ってamazonで注文してしまった。

しかし、ルービックキューブの解法はあれだけ体が覚えていたのに、しばらく触っていないとすっかり忘れそうになっていたのに自分で驚いた。
ピアノでも何でも毎日触るのが大事だというけど、余りにいろいろなことを覚えようとしてしまうと、それらを覚えるだけでなく、覚えたことを維持するだけで大変やなぁとつくづく思った。
しかし、逆に忘れたころにもう一度触ると新鮮に感じるものでもあることもよくわかった。

2008年12月24日

●クリスマスの宵山でええじゃないか?

「わかりやすさ」というのは一つの価値であると同時に一つの罠としても優秀であるように思う。なんとなれば「わかりやすさ」が目立つばかりにその陰に隠れた落とし穴に気づきにくいからである。
また、なんらかの「象徴」は「象徴」となる事物そのものに価値があるのではなく、「象徴」の対象となる概念に価値があってこそ価値が生まれることが多いと思う。大抵の場合「象徴」となる物自体に価値があることなど殆ど無いのだ。

そして、クリスマスで連想される殆どのものがこれらの範疇に入るように思う。それらは「クリスマス的な物」の「わかりやすい」「象徴」であり、殆どのものは本質的にチープである。おまけにそれらの多くはそれにプラスして「わざとらしい」まで加わっているように見える。
「クリスマス」と聞いて拒否反応を脊髄反射で示してしまう人種はここらあたりに過敏反応しているのではないだろうか。

冬至や土用、彼岸などの日本の年中行事は、南瓜やウナギやおはぎなど、意味を持たせた食べ物と関連付けられている場合が多く、食べ物とセットになって覚えられることが多い。逆に言えば食べ物に関連付けられた年中行事は忘れられにくいともいえるだろう。
しかし、「クリスマス」に関する食べ物、ケーキや七面鳥などは本来「クリスマス」自体に何の関係もない。
西洋的な文化からすればそれらはただ何かを祝うためのパーティー料理に過ぎなかったケーキや七面鳥(鳥の腿肉)は、そういった祝い事にそういったものを食べる文化の無かった日本では、パーティー料理という意味あいではなくクリスマスの食べ物としてクリスマス性を獲得したのだろう。
そして食べ物とリンクした年中行事はいったん定着してしまうと中々消えることは無いのである。

しかし、元来の年中行事ががっちりと根を張っているキリスト教国でもない日本の風土で、「クリスマス」が年中行事としてこれほど定着していることは本来不思議なことであるといえば不思議であるかもしれない。
「クリスマス」がそうなることは消費行動の増大という意味からすれば商業的にとても魅力のある現象であるけど、節分の太巻きが寿司屋の陰謀であるとか言うように、単純に「クリスマス」が何らかの商業的な意図でもって情報操作や扇動によって煽り立てられたものであると言い切ってしまうのも間違いであるように思う。
例えば、以前からアメリカではなかなかのイベントである「ハロウィン」を定着させようとする商業的な意図が完全に失敗しているところを見ると、いくら情報操作されやすい国民性といっても、全く土壌の無いところにとってつけたようなイベントは定着しないのである。
クリスマスが日本に定着したのはそれなりの必然性とか理由があるように思われる。

キリスト教的な視点から見た「クリスマス」が日本の現状の「クリスマス」と乖離している一般的な事実は、日本の現状の「クリスマス」がキリスト教的な本来の「クリスマス」を祝っていない事を表しているのは明らかであるし、そのことは「クリスマス」がただの切っ掛け、言い換えればダシに過ぎないということをも表しているように思える。
キリストの誕生というまぁ祝って害の無い妥当な出来事をだしにして騒ぎまくるのは、「クリスマス」が日本的とも言える「村祭り的ハイテンション欲求」の絶好のターゲットとしてそのはけ口になっているからではないだろうか。
本来の意図を度外視した騒ぎぶりはなんとなく「ええじゃないか」運動に似ているように見えてしょうがない。「クリスマスでええじゃないか」というわけである。

「ええじゃないか」ではないけど「村祭り的ハイテンション欲求」に関して「同じ阿保なら踊らにゃ損々」という言い方があるけど、「同じ阿呆なら踊ったら損」という見方もあっていいのではないかと思った。

2008年12月23日

●映画:「KEN PARK」 / 主張しすぎはいただけない / 監督は大事

amazon ASIN:B0009J8G4Y 最近とてもお気に入りの監督であるハーモニー・コリンが脚本を書いた映画である「KEN PARK」(2002/米=仏=オランダ)を観た。
監督であるラリー・クラークとは「KIDS」に引き続き二作目のコンビであるということらしい。

スケートボードのメッカである中産階級の町で、表面的には平和に見えながらも、中に入ればドロドロとした問題と狂気を抱える家族の狭間で鬱屈して救いの無い毎日を送る高校生たちの物語である。
本国アメリカをはじめ世界中で上映禁止となったほどのいわくつきの映画らしいが、確かにやってる事もその映像も中々にエグいものがある。

ストーリーであるとか登場人物たちの置かれる状況ってのは、確かにハーモニー・コリンっぽい。
しかしながらこの映画は、彼が同じようなストーリーで脚本を書き、監督までした作品である「ガンモ」や「ジュリアン」とは全く違うようにみえた。

この監督はこの映画について「若者のリアルを伝えたい」という感じのことを言っているそうであるけど、この映画にはその意図が前に出すぎていたように思う。
この映画で印象に残った、性的なシーンをなるべく美しく撮ろうとするような絵作りも「若者の感覚」としてこの監督が意図していることなのだろう。

しかし、この監督が若者の立場で若者のリアルを伝えようとする意図を持って撮ったらしいこの映画は、私から見ればなんとなく不愉快な映像と物語でしかなかった。
若者の視点が不愉快なのではなく、若者と非若者に対するある種の決め付けと、逆説的な独善性が見え隠れするところがなんとなく気に食わない。
それに引き換え、ハーモニー・コリンの同じような脚本の同じような映画が、この監督とは逆に感動すら生むほど素晴らしく感じるのは、彼のどの立場にも立たない全てを受け入れたような彼自身の視点のなせる業なのだろう。
この映画を見て改めてハーモニー・コリンの素晴らしさがわかった。
こと映画に関しては、脚本より監督の方が大事なんだという事を改めて思った。

2008年12月22日

●イオナズンでは無くザラキ

久しぶりにテレビのニュースを見た。
文字で読んだり、人の話で聞いている限りでは「ひぇー世の中は大変なことになってるなぁ」って感じなのだが、実際に映像で悲惨なことになってる当事者の話を聞いていると鬱共鳴してしまいそうである。
いつも巡回して楽しみに見ている日記サイトの人が、ニュース番組でろくなニュースがやってなくて、見てるだけでグッタリしてくるから教育テレビばかり見ている。ってな事を書いていたのだが、なるほど納得である。
「格差ですらない絶対貧困」という言葉は破壊力満点である。「イオナズンでは無くザラキ」といった趣がある。
ネットで「そろそろリセット押しながら電源切ろうかな」という言葉を読むにつけ、わけのわからない、行き所の無い、なんとも表現しがたい、怒りに近い感情が湧き上がる。

何事にせよ、問題があろうが無かろうが対策が見えればまだいい。
それよりも「どうすればいいのかわからない」というのが一番の問題なのだろうなと思った。

2008年12月21日

●映画:「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」 / 映画的肉カレー天丼

amazon ASIN:B00016AWD8 「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」(2002/英=独)を観た。
この映画は15人の監督が「時間」をテーマにした10分間の作品を集めたディスク2枚にわたるオムニバス映画であるけど、私はそのうちの1枚のみを借りてきたので7人分だけ観たことになる。

ネットでは中々に評判が良いけど、たしかに10分間と言う区切りで、プロの映画監督の撮った10分に凝縮された映像が入れ変わり立ち代り現れる様はとてもテンポ良く、なんだかとても贅沢な感じがする。

これを観ようと思ったのはヴェルナー・ヘルツォークがその7人の中に入っていると言う理由なのだが、彼の作品は相変わらず密林、ジャングル、原住民、文化衝突、等などの、彼っぽい語彙満載であった。
十分と言う限定された時間の中で、戦いの踊りやエロ話を延々と映したりするあたりがヘルツォークっぽいと言えばヘルツォークっぽい。
しかし、それでもキンスキーのいないジャングルは水曜スペシャルとNHKスペシャルをあわせたような物語であった。期待が大きかった分いまいちだったかも。

しかし、ヘルツォーク以外の他の六人は、観るまでは全く名前の知らない人やったけど、いざ観てみるとどれも面白かった。こちらは期待していなかった分面白く感じられた。

非ハリウッド的などちらかといえばヨ-ロッパ系の監督たちのの濃かったり綺麗かったり面白かったりする映像が次々と現れる様は、コース料理のようであるけど、トータルで言えば「肉カレー天丼」のようでもある。
中でもヴィクトル・エリセの「ライフライン」はとても綺麗な映像で惚れ惚れであった。

2008年12月20日

●似て非なるものその名は「ピカ」

pika.jpg
またしても古本の児童書の絵本コーナーでの話。
絵本の棚でこんな感じに本が並んでいると、子供も大人も勘違いしてしまうのではないかと思った。

2008年12月19日

●映画:ハーモニー・コリン 「ジュリアン」 / 白痴系逆噴射家族 / ヘルツォーク、ヘルツォーク

amazon ASIN:B00005MIN7 ハーモニー・コリンの最新作である「ミスター・ロンリー」、デビュー作である「ガンモ」と二本の映画を見てこの監督がとても気に入ったので、「ガンモ」の次であり、「ミスター・ロンリー」の八年前の作品となった「ジュリアン」(1999/米)を観た。

統合失調症である主人公ジュリアンを中心にした、誰の子かよくわからない子を妊娠している姉、毎日訓練に明け暮れるレスリング青年の弟、死んだ母が忘れられず家族に当り散らしているばかりいる父親で構成される家族を描く物語で、パッケージの写真はジュリアンの姉である。

一応家族を描く物語であるけど、この映画も「ガンモ」と同様にいわゆる普通な人が全く出てこない。
家族がみんなおかしいだけでなく、そのほかの出演者すべてがそうである。
境界性人格障害、自己愛性人格障害、アスペルガー症候群などは具体的な例を挙げてあんな感じ。と想像できるけど、昔は精神分裂病と呼ばれていた統合失調症については実際がどんなものかをよく知らないので、この主人公の演技がリアルなのかどうはわからない。
それでも、このジュリアン青年の立ち振る舞いは見ていて鬼気迫るものがあった。

このジュリアン青年のようなタイプの白痴系キャラの主人公は、文学的にはたいてい美しいものとして描かれることが多い。しかしながらこの映画では、主人公のジュリアン青年はある種の美しさを持ちながらも見るに耐えない醜さと脆さも持っていた。確かにそれは変なリアルさを感じさせるものであった。

微妙でささやかなバランスの上に成り立っている家族と、その中で生きる息苦しさは、はたから見てるとなんともなんともたまらない。当人たちがそんな生活に慣れ切ってその生活を改善する気が無いところが余計にきついものがある。

この映画の構成だけを見れば、テーマも手法も前作でデビュー作である「ガンモ」の二番煎じであるように思えるのやけど、実際見ているとそんなことは感じない。
この映画が前作と全く違うのが、ある程度のストーリーが存在することである。
とはいっても、そのストーリーは物語を前に進ませる役を担っているのではなく、ただ家族の事態の変容としてのみ捉えられるだろう。
そしてその事態の変容としてのストーリーは、前作では終わらない閉塞感として描かれていたものが、破滅へと向かう閉塞感として描かれることに一役買っているという、なんともいたたまれないことになっていた。
前作では社会の中で閉塞的な息苦しさとして描かれていたものが、今回は家族の中にあるものとして描かれ、かつそれが破滅へと繋がっているように見える分だけ、より逃げ場と救いの無さが際立っていたように思う。

この映画の中で私の一番印象に残っているのがヴェルナー・ヘルツォーク演じる父親のぶっ飛びっぷりである。
ガスマスクをしてテレビを見て、娘と息子たちをヒステリックに罵倒し、息子に死んだ母のドレスを着て自分とダンスを踊るように懇願する。
ヴェルナー・ヘルツォークは私が大好きな映画監督なのだが、「ミスター・ロンリー」を観て役者としても良い感じだと思っていたのだが、この映画を見てその思いはより強いものとなった。この映画での彼の演技はとても素晴らしい。ますますヘルツォークが気に入った。

この映画を撮ってから、ハーモニー・コリンは次の映画を撮るまでに8年間沈黙してしまうのだが、この映画の中でやたらとカオスという単語を連呼する自作の詩を朗読するジュリアンに対して、父親が「カオスを繰り返すばかりで韻を踏んでいない。そんなのは芸術を気取っているだけだ」と罵倒するのだが、これは監督自身の自己批判であったり自虐的なところなのだろうなと思ったり。

2008年12月18日

●みんなみんな生きているんだ友達なんだ

自分のことを自虐的に「おっさん」と呼ぶおっさんってのは見ていて気分の良いものではない。
また、自分を「おっさん」とは思いたくなくないためにやたらと「おっさん」でないように振る舞うるおっさんも見ていて気分の良いものではない。
だからといって、どう見ても「おっさん」としか言いようのないおっさんを見ていることが気分が良いかと言えばそうでもない。
「おっさん」であることを受け入れつつも「おっさん」であることに甘んじない。といったことが「おっさん」であることの理想であろう。
ただ「おっさん」であることは状況にすぎないが、主体的に「おっさん」であるということはなかなかに難しいのである。

しかし、ここで前の文の「おっさん」を「人間」と入れ替えてしまうとどうだろう?

自分のことを自虐的に「人間」と呼ぶ人間ってのは見ていて気分の良いものではない。
また、自分を「人間」とは思いたくなくないためにやたらと「人間」でないように振る舞うる人間も見ていて気分の良いものではない。
だからといって、どう見ても「人間」としか言いようのない人間を見ていることが気分が良いかと言えばそうでもない。
「人間」であることを受け入れつつも「人間」であることに甘んじない。といったことが「人間」であることの理想であろう。
ただ「人間」であることは状況にすぎないが、主体的に「人間」であるということはなかなかに難しいのである。

これはこれでちゃんとした文になっていると同時に、「おっさん」のありかた = 「人間」のありかた
なる何ともイデア論的な興味深い結論が導き出されるのである。
「おっさん」であること、または「おっさん」になることは、直接的にも間接的にも、いろいろな意味で「人間」そのものになることなのである。

てなことを適当に口から出任せ書いてみたが、こういったよくわかったような、よくわからんようなことを言って、人を煙に巻いてプチ詐欺をはたらくのもオッサンの特徴なのでゆめゆめお気をつけ遊ばせ。

しかし、オッサンであることを受け入れるというのは本当に難しいし、同時に人間であることを受け入れるのも本当に難しい。

2008年12月17日

●映画:ハーモニー・コリン「ガンモ」 / 癒し系グロ映画 /デビュー作らしいデビュー作

amazon ASIN:B0000CCNG3 先日見たハーモニー・コリンの「ミスター・ロンリー」 がとても素晴らしかったので、同監督の初監督作品である「ガンモ」(1997/米)を借りてきて観た。
ピンクの「うさ耳」をつけた少年が便器に座ってアコーディオンを弾くポップな感じのパッケージだが、この映画は、このようなイメージから通常の思考回路で想像されるところからは遥かに隔たっている
ジャケ借りやジャケ買いした人はさぞかし驚いただろう。

過去に竜巻に襲われて町中を破壊しつくされた、白人系の下層階級の人々が住む田舎町で、閉塞した日々を送る若者たちの姿を、空気銃を持ち歩き、殺した猫を肉屋に売って小銭を稼ぎ、シンナーを買ったり女を買ったりして暮らす少年二人を中心にして描かれる物語である。
ストーリーのようなものは全く無く、ただ町の人々の日常がドキュメンタリーのように切り貼りされて流される。
タイトルの「ガンモ」の意味はよくわからない。

いわゆる普通な人が全く出てこず、出てくる人全てが、精神的、肉体的、心情的、倫理的な人間の属性のどこかに欠陥がある人間ばかりであるし、映画に出てくる家のことごとくがゴミ屋敷であり、彼らは非生産的な遊びと非生産的な日常に明け暮れている。
映画の中のその欠陥のある人たちの暮らしが妙にリアルで、生活して生きることのグロテスクさが、強烈な濃さでこれでもかと映し出される。もうこれはある意味でグロ系映画といっても良いように思う。
そんな様々な欠陥のある人たちが寄り集まって、前に進むでもなくゆっくりと後退してゆくようななんともいえない閉塞感は観ていてとても息苦しかった。

一方でこんなにもグロい暮らしをする彼ら欠陥を持つ人々が、映画の中でなんと素晴らしい表情を見せることか。彼らに対する優しさや愛が無ければ、彼らのこんな素晴らしい表情を撮ることは出来ないだろうと確信する。
次々と繰り返される、彼らの目を背けたくなるようなグロい暮らしを、息の詰まりそうな閉塞した非生産的な暮らしを、ただそこあるものしてニュートラルに見せる事自体が、監督の視線の優しさであるだろう。
良いや悪いや肯定や否定といった価値判断を挟むのではなく、ただ事実をそのままに見ることや見せることの優しさというものもあると思う。
乳首に黒いガムテープを貼った三姉妹がベッドの上で飛び跳ねるシーン、マッチョ兄弟のじゃれあいが喧嘩に発展しそうになるシーン、父親から娘を買った少年がその娘と語るシーン、息子に銃を突きつけた母がタップダンスを踊るシーン、雨のプールで女の子と戯れるバニーボーイのシーンが大好きだ。
本当にこの監督はとても印象に残るシーンを多く撮るなぁと思う。

最初に「ミスターロンリー」を観た目からすれば、映画としては「ミスターロンリー」の方がはるかにすばらしいけど、この監督の人々を捉える捉え方やら、人に対する見方を凝縮したものがこの「ガンモ」になるのだろうなと思った。

映画としての総合的な完成度では、「ガンモ」よりも「ミスターロンリー」があらゆる意味で優れているけど、強烈さやインパクトと言う意味では「ガンモ」の方が強い。
正にそれでこそデビュー作らしいデビュー作なのだろう。
やっぱりこの監督はとても良い感じである。

2008年12月16日

●Stableだよ人生は

はまりにはまっていたLinuxでの無線アクセスポイント作成も、何とか解決した。

そもそもの起こりは、「Prism2.5」のチップを積んだノートPCを、既存ネットワークへのブリッジになる無線LANのアクセスポイントにするつもりでubuntuをインストールしたことに始まる。
インストールの時点では何の問題も無く、すでにデフォルト状態で無線LANのチップはhostapカーネルモジュールによってwifi0とwlan0として認識されている。
wifi0が物理デバイスで、wlan0がアクセスポイントに接続したりアクセスポイントになったりする仮想NICのようなものであろうか。

wireless-tools も既に入っているので、

iwconfig wlan0 essid "ESSID" key "s:key1234567890"
iwconfig wlan0 mode master
とでもすればとりあえずwepのアクセスポイントになるはずが、クライアントからは見えるものの全く繋がらない。
syslogにはカーネルログとして以下のような怪しい出力が…
月 日 時刻 ホスト名 kernel: [ 7076.343573] wifi0: invalid skb->cb magic (0x0000001e, expected 0xf08a36a2)

結局この時点で一週間ほど悩みに悩んで試行錯誤を重ね、「このハードではダメなんや」と殆ど諦めかけたころ、既に別のPCにインストールしていた古い「サーバー版」のubuntuで設定してみるとちゃんと動くことに気づいた。
「悪魔の証明」ではないが、動かない理由を探すより、こいつが動いている理由を探すのははるかに楽である。

デスクトップ版とサーバー版の違いなんか、入ってるソフト以外にカーネルにしかないので、カーネルモジュールやカーネル自体の問題であろうか?
ということで、デスクトップ版のカーネルとカーネルモジュールをaptでもってサーバーのものと入れ替えてみるも動作せず。うーん。

しかし、デスクトップ版が最新版の「Ubuntu 8.10」であるのに引き換え、サーバー版が長期サーポート版の「Ubuntu 8.04 LTS」ということなので、デスクトップ版とサーバー版のカーネルの違いではなく、単純にカーネルのバージョンの違いかもしれない、ということで、デスクトップ版の「Ubuntu 8.04 LTS」を入れてみると何事も無かったように、何の問題も無く動作した…
この二つのカーネルのバージョンの違いは2.6.27と2.6.24である。この微妙なバージョンの差でこれほどの違いがあるのだろうか?
恐らくカーネル自体というよりは、カーネルモジュールであるhostapのバージョンの違いであろう。

で、繋がらない時点では無茶苦茶難しく感じた、iwconfigでWEPなアクセスポイントの設定も、hostapdでのwpa2なアクセスポイントの設定も余裕であった。linuxってスゲーなー

ということで、Linuxというか少なくともカーネルくらいは最新版よりは安定版であるstableの方が無難だとつくづく思った。
人生もカーネルもOSもStableが一番である。
と無理やりまとめてみた。

2008年12月15日

●映画:ハーモニー・コリン「ミスター・ロンリー」 / 空飛ぶ修道女 / 自分で無い誰かである人たちの群れ

amazon ASIN:B0019EJWG4 なんとなくレンタル屋さんで見つけた新作「ミスターロンリー」 (2007/英=仏=アイルランド=米)を観た。

生まれてからずっとマイケル・ジャクソンとして生きてきた孤独な青年が、老人ホームでの仕事のパフォーマンスの最中に、胸が膨らんできてからずっとマリリン・モンローとして生きる女性に出会う。
ほんのりとした恋心を彼女に抱いたまま、彼女に誘われるまま、チャップリンやエリザベス女王やリンカーンなどのモノマネ人たちとスコットランドの古城に移り住んで共同生活をはじめる話と、南米らしき地域の神父と修道女の淡々とした生活のなかから突如として起こるある種の奇跡をめぐる物語が平行して進むというものである。

マイケル・ジャクソンとして生きる僕がマリリン・モンローとして生きる君に恋をした…って感じのパッケージの説明書きを読んで、キティ系映画?と脊髄反応して借りてきた。
まぁ予想通りある程度はキティ系であったけど、これはキティ映画としてではなく普通の映画として、とても面白かった。
ずっと印象に残りそうな映画である。

メインはマイケルとモノマネ人たちの古城での生活の話しやけど、折につれて挿入される神父と修道女の話もとても良かった。
空を飛びながら祈る、スカイダイブする修道女というモチーフだけで、個人的にはクラクラする。
神父役のヴェルナー・ヘルツォークがとてもいい味を出していた。彼が村の男に反省させてて許しを与えるシーンと、食料投下のために飛行機に乗り込んで、楽しそうに笑う修道女の顔がやたらと印象に残っている。

なりきった相手の名前で呼び合うモノマネ人たちの淡々とした古城での生活は、彼らにとってある種のユートピアであることは見ていても良くわかる。
しかし、物語自体から、というかモノマネ人なる存在そのものから湧き上がってくる痛々しいほどの孤独感が映画全体に漂っている。
サミー・デイヴィスJrが古城のテラスでタップを踏み、ビニール傘を差した「あかずきん」が逃げ場の無い切り立った崖に挟まれた線路を歩きながら歌を歌い、ローマ法王が物見の塔から殺されようとする羊の為に神に祈り、殺される羊たちの為にマイケルが海(湖?)を見下ろす岩の上で踊り、臭うローマ法王が泣きながら野外のバスタブで洗われ、深い森の中でマリリン・モンローのスカートが吹き上がる風になびくなど、はっとするほどに絵になるシーンがとても多い。

映像も綺麗だし、物語も面白いし、深い孤独に包まれた主人公のマイケルの独白も心に染みる、大好きな監督であるヴェルナー・ヘルツォークが役者として出演しているのも私にとってはとても良かった。修道女たちの表情もとてもすばらしい。
こういう映画だと大抵は恋愛が強力な救いになったり絶望になったりする原因やら引き金になるのやけど、映画全体として、明らかにマイケルとモンローの恋物語にほとんど主題を置いていないように見えるところが最高に良かった。

好きな映画は?と聞かれて答えの一つになるであろうほどに気に入った映画であった。

この映画はハーモニー・コリンなる監督の八年ぶりの作品であるらしいのだが、恥ずかしながら私はこの監督の作品を始めて観た。ぜひとも他のも観ようと思う。

2008年12月14日

●専用工具がまた増える/ギンナン割ります

私の家には、どの家庭にもある電子レンジや電気ポットが無かったりするわりに、例えばグラインダーやボール盤や自転車用のフリー抜きなどの、一般的に家庭に無い工具や道具が多いという妙な傾向がある。
料理に関しても、今まで百円ショップの「うろこ落とし」を使っていたのが、ちゃんとしたお店で手に入れたホンマモノの真鍮製の「うろこ落とし」の作りと使い心地に感動してからというもの、やたらとその用途に特化したほんものの道具に惹かれるようになった。

ginnanwari.jpgで、某氏から銀杏の実をいただくようになってギンナン消費量が飛躍的に増え、ホンマモノの「ぎんなん割り」がどうしても欲しくなった。
当初はこのタイプのギンナン割り を買おうとしていたのやけど、これは見た目は良いわりに、挟むポイントが先に無いので手返しが悪く大量のギンナンを割るのに非効率であろうということで、実店舗を数件回り、ネットで情報を集めに集めた末に出した結論がこのギンナン割りである。
挟む部分にアールがついている上に、ストッパーを適切な位置に設定すれば、ぐしゃっと力任せに握りつぶしても実が全く潰れなくて気持ち良い。
むぅこれはいいものだ。ギンナン美味しいなぁ。

2008年12月13日

●映画:「オズの魔法使」 / 痛娘ドロシー / 危ういジュディ・ガーランド / 緑

amazon ASIN:B00005HC5D  前からずっと観よう観ようと思っていたものの、中々機会が無かった「オズの魔法使」(1939/米)をやっと観た。

言うまでも無く、他の映画や小説やありとあらゆるメディアから引用される、カラフルでファンタジーでちょっとダークなディズニー的世界観に満ち溢れた名作で、心優しい少女ドロシーが家ごと竜巻に巻き込まれて魔法の世界に行き、家に帰るためにカカシとブリキ男とライオンと共に、ドロシーを襲う西の魔女から避けつつエメラルドの都を目指すと言う物語である。

が、いきなり登場するその「心優しい少女ドロシー」が痛い娘にしか見えなかった。
設定は13歳あたりらしいのやけど、どう見ても二十歳超えてるように見えたし、その二十歳超えた娘が働く大人たちの都合を考えず自分の話を一方的に喋り、聞いてくれないと怒り、しまいには豚小屋に落ちて自分では出られずに助けられる。
でもって突然「Somewhere over the rainbow …」とか歌いだすし、なんというかただのアブなくて可哀想な娘ではないか…

で、ドロシーは竜巻に巻き込まれて魔法の国に行くわけやけど、魔法の国への視界が開けたとたんに、今までモノクロだった映像がカラーになるのは知っていても「おーっ」という感じであったし、魔法の国で東の魔女の死を喜んでフリークス達の群れが舞い踊る様はアメリカ的ディズニー的ブラックさ満開であった。

頭に藁が詰まった案山子は知恵を、胸ががらんどうのブリキ男は心を、いつも怯えているライオンは勇気をもらうために、ドロシーだけは家に帰るために、共にパーティーを組んでエメラルドの都をスキップで目指すのだが、『どろろ』にしろ「オズの魔法使」にしろ、自分の欠けているものを探す旅ってのはおっさんの琴線にダイレクトに触れるのであった。
そしてお約束どおりドロシーは西の魔女にさらわれてしまうのだが、お供の三人組はドロシーを救うために、必死になって自分に欠けていた筈の知恵と心と勇気を発揮して彼女を救い出すところはなかなかぐっと来るものがある。

このドロシーを演じたジュディ・ガーランドはこの映画の撮影の時点で、当時は合法だったアンフェタミンを常用していたらしく、この映画内での異様なハイテンションさもこの覚醒剤のせいであるらしい。

この映画が公開されて大ブレイクした彼女は、アンフェタミンだけでなく睡眠薬も常用するようになり、典型的な薬物中毒と神経症となってしまう上に、セックスがらみのスキャンダルまで大っぴらに流布され、ハリウッドを憎みつつ若い生涯を終えることになる。

あくまでファンタジーなこの映画での役柄に引き換え、彼女はこの映画の後にその正反対であるような扱いを受けるのだと思えば、映画の中での彼女の危うさがなんとも悲しく見えるのであった。
色つきの夢である魔法の世界よりも、「There's no place like home.」「やっぱりお家がいちばん」と冴えない白黒の現実を望むのはなんともリアルであった。

今時はどうか知らないけど、アメリカ人の子供はこの映画の「西の魔女」を絶対的な恐怖の対象として見るらしい。
確かに異様なテンションで無闇に吼えまくる緑の顔色の魔女には、私のような年の人間に対してもそこはかとない生理的な嫌悪を抱かせる何ものかがある。
大魔王だったころのピッコロにしろ、硫化水素で自殺した人にしろ、緑の皮膚ってのは人間の形をしつつも、根本的に人間とは異なった存在であることの象徴のような気がする。

2008年12月12日

●ブラックアウト金曜日

細かいことの積み重ねで堆積していたものが、ふとした失態で精神的な視界のすべてに巻き上がり、妙なスイッチが入ってダウナー状態に移行する、感覚としてはブラックアウトに近いような事が時々ある。
こういった場合、表面的には「ふとした失態」ってのが直接的な原因に見えるけど、これは突発的な事項に過ぎず、意図して行うわけじゃないので反省する程度しか対策が無い。
それよりもちょっとしたきっかけて巻き上がってしまうほどに細かいことのなんやかんやを堆積させてしまうような、精神的な傾向の方こそを問題にすべきだろう。

ゆっくり自転車をこいで帰り、ゆっくりご飯を食べ、ゆっくりお茶を飲み、気づいたら寝入っていた。
夜中に目を覚ましたけど、やっぱり何もせずゆっくり風呂に入り、布団で歴史の参考書を読みながら寝た。チャンドラグプタが政治的にインドを統一し、ヒンドゥー教が社会的にも宗教的にもインドを覆いつくそうとしていた。

2008年12月11日

●傭兵、凶戦士、焼肉

制圧は簡単だろうと思い込んではじめた作戦行動が暗礁に乗り上げた場合、援軍も補給も期待できない孤立無援の傭兵は辛い。
あえて自ら設定して安請け負いしたターゲットとあればなおさらである。

ギリギリの前線まで出て銃を撃つ必要なんかどこにも無いと思いつつも、そこまでして完遂するほど意味のある作戦行動ではないと思いつつも、一度発砲が始まれば相手が死ぬか自分が死ぬかのどちらかしかない。と思う感覚は、傭兵のそれでも、兵士のそれでもなく、凶戦士であるとしか言いようが無いだろう。
未練がましく攻略を続けるために迂回路を探しつつ、地雷を埋めたり双眼鏡をのぞいたりするのはなんともいただけない。退路を断たれる前にさっさと撤退するに限る。

話は全く変わる。みんなで焼肉を食べに行くということで、昔通っていた道を、昔通っていた時間帯に走ったのだが、なんだかとても懐かしかった。

2008年12月10日

●もう「消費」すら快楽じゃない「市民」へ

奴隷制度の発達に伴ってギリシャやローマの民主(風)社会はその文化と社会を繁栄させたけど、ギリシアのポリス社会の衰退やローマの共和制の崩壊は、エスカレートした奴隷制度から生まれた歪が極端な貧富の差となって社会全体を覆ったものであると言える。
てな感じの事が「世界史B」の参考書に書いてあるので、恐らくこれはある程度一般的な歴史的な見方なのであろう。

奴隷は無給で奴隷として使うよりも、薄給と消費者の立場を与えたほうが資本家は潤うという試算からすれば、奴隷を所有するよりも使い捨てにする現代はより洗練された形の奴隷制度であるという意見は、なんとなく感覚としてよくわかるような気がする。

不景気でいろいろな社会体制や社会制度が危機に瀕しているといっても、それはギリシャやローマのように奴隷制度ともども社会が崩壊する前兆ではなく、逆に現代の奴隷制度はその奴隷制度をより強固なものにする方向へと向かっているようになんとなく思う。
執政官やら元老院は支配者としての、ポリス市民やローマ市民はより市民としての、奴隷はより奴隷としての自覚が深く意識されるようになるに違いない。

奴隷制度に肯定すべき点があるとしたら、ギリシャやローマがそうであったように、文化の発展以外に無いという見方がある。
現代はより激しい奴隷制度の社会へと移行するのやろうけど、現代の奴隷制度で生まれた余剰物を元に、現代の市民がまともな文化や価値を生み出せるとはとても思えない。
奴隷を「消費」し、奴隷制度すら「消費」した先にはいったい何があるのだろう?

などと、最近の社会情勢を人から聞き、寝る前に歴史の参考書を読んで思ったのであった。

2008年12月09日

●高校時代の勉強を今頃になってはじめる

昔から人間の歴史に興味がもてない、つまりは人間そのものに興味が持てない、とか言って「歴史」に興味が無いと言って来た。
しかし、今頃になってなんとなく歴史に興味が芽生えてきたのは、人間に興味が出てきたと言うよりは、ただ年を取ったせいなのだろう。
ということで、先日数学の参考書を買ったのと同様に歴史の参考書と年表を買ったものの、きっちり勉強する時間なんか中々取れない。
寝る前の本読みの時間を、歴史の参考書と年表を本として読むくらいのものである。
当たり前やけど、高校の時にはいくらでもあった時間はもう既に無い。やるべき時にやらずに後からやろうとするのは中々大変である。

最近、高校生が学校で習うレベルの知識があれば、何かしらの専門家が一般向きに書く啓蒙書や入門書の類を、知識のレベルで詰まらずに、それなりにすらすら読むことが出来るのだろうなと思うことが多い。
言い換えれば、高校生が学校で習うレベルの知識というのは、興味の湧いた事を、自分自身で一人で学ぼうとするための十分条件である。
高校時代の勉強ってのは知恵を得るための知識の裾野としてはかなり有用で実用的な気がする。

こういうことを高校生の時に知っていれば、私の人生もずいぶん違っていたのだろうなと思うけど、大抵の大事なことは過ぎ去ってから知るものでもある。

と、最近高校生の読者がいることが判明したので、かなり意識して、老婆心からこう書いておく。

2008年12月08日

●人生がゲームなのか、ゲームが人生なのか

先日、生まれて始めて「人生ゲーム」をやったのだが、中々シビアでリアルで空恐ろしいゲームであった。

ビジネスコ-スに行かず専門職コ-ス行ったものの、何の専門職にもなりそこねるとアルバイトとして社会に出ることになる。
嫁と子供を抱えて家もマンションも買えずに、車が家ですか?状態でアルバイトとして人生ゲームのコマを進む様は見ているだけで居たたまれない。

人生のドラマがありつつも、最終的に資産ですべてが計られるので、コマを進めてコマの指示に従いつつ、如何に資産をためつつ「億万長者の土地」を目指すかというところがこのゲームの要点になる。
gameoflie.jpg
子供が出来てお祝いをもらうとか、家を買うとかそれなりに人生っぽい指示がコマに書いてあるのだが、最後の最後のコマで余りにもめちゃくちゃなのがあって笑った。
「好きな家にタダで引っ越せる。(住んでいる人がいれば追い出してよい。)」
私もリアルでこんなコマに止まってみたいものである。

そしてゲームも最終盤、「決算日」たる最後の審判にも似た人生の最後の分かれ道で、約束手形が返せない、もしくは「人生最大の賭け」にチャレンジして失敗すると人生の敗者として開拓地に飛ばされることになる。
なんか「カイジ」みたいな話になってるのだが、これは昔は「貧乏農場」という名で、有刺鉄線の中で鍬を振るテレビコマーシャルが子供心にトラウマを植えつけるといういわくつきのものであったらしい。

最後で子供が金に換算されるルールも微妙に怖いので、もういっそのこと女の子なら二倍の価格で売り飛ばせる特殊ルールを採用して開き直るのが乙である。
また、単位がドルなのでなんか巨万の富が動いてるような気がするけど、ドルはドルでもジンバブエドルとか言っておき、なんとなく価値のない高額紙幣がそこらで飛び交うインフレ気分を味わうのも乙であろうか。

しかし、いずれにせよリアルで人生の荒波に飲まれそうになっているおっさんにとってはとても怖いゲームやなぁ…

2008年12月07日

●映画:「エクソシスト」 / 「エクソシスト」と「積み木くずし」 / 「悪魔祓い」と「赦し」

amazon ASIN:B0002T20MK 昔から何度もテレビでやっていたけど今まで一度も観たことがなかった「エクソシスト」(1973/米)をレンタル屋さんで借りて来て観た。
私が借りたのは有名なスパイダー・ウォークなどの未公開シーンが入った「ディレクターズカット版」だったらしいけど、元々オリジナル版を観たことがないのでどこが違うかはよくわからない。
それでもスパイダー・ウォークは怖かった。カサカサカサ(ブリッジで階段を下りる)どっばぁー(口から血)「ひぃ~~っ」(私)という感じだった。このシーンがカットされていたとはもったいないなぁ。

映画女優の12歳になる娘が、かわいらしく利発な性格から一変して、突如口汚い言葉を吐いて暴れ、他人や自分を傷つける言動を繰り返すようになった。日に日にエスカレートしてゆく娘の奇行に困り果てた母は病院に連れて行きさまざまな検査を受けさせるが、神経科的にも精神科的にも全く正常としか見えない。
困りきった精神科の医者の言った、悪魔祓いを行うことで、少女は自分に憑いている悪魔が祓われたと思い込んで治癒する可能性がある。なる言葉の通り、母は精神科医であった神父に悪魔祓いを依頼する。
神父は元精神科医の立場として会うだけならと引き受けるが、本当に少女に悪魔がとり憑いているのではないかと思うようになり、教会からの全面サポートを得て、昔から数多くの悪魔祓いを手がけてきた神父と共に悪魔祓いに取り組むことになる。
ってところが一般的なストーリーになるのやけど、私はこの悪魔憑き親子の物語と平行して語られる元精神科医の神父の運命こそ、この映画のメインストリームだと思う。

彼はずっと面倒を見続けてきた母を不本意な形で死に追いやってしまったことで悩み、自己嫌悪やら葛藤やらで自分の信仰すら揺らごうとするところに、件の悪魔憑き親子の話である。
自分の問題で精一杯だったはずの彼は神父として悪魔と戦う羽目になり、悪魔にその弱さをもろに突かれながらも見事に戦い抜いた。少女から悪魔を追い出すという観点からすれば、結果的には勝利であるといえるだろう。
自分の母親の葬式のミサをあれだけ穏やかに捧げ、何事にも激昂することのなかった彼が、神の代理者のしての神父の立場ではなく、激情と怒りに駆られつつも理性を持った人間として悪魔に打ち勝って少女を守ったのが良かった。
彼の最期の時に、親友の神父が彼の「告解」を聴き「赦しの秘蹟」を授けるところは激しく感動した。
悪魔憑き少女の不気味さとぶっ飛び加減をスパイスに、変に悲しみを背負った神父の苦悩の物語であった。


ネットでこの映画の感想や批評を見ていて面白かったのが、悪魔が憑く事でおとなしかった少女が突如悪魔のようになる。というモチーフは「積木くずし」に代表される反抗期の非行少女モノと同じではないかという意見である。
不良少女になったからといって緑の吐しゃ物を吐いたり、首が360度回転したり、ブリッジで階段を駆け下りたり出来るようになるわけではないけど言いたいことはわかる。
確かに、今まで良い子だった娘が、強烈な化粧をして派手な服を着て悪態をつき暴れに暴れて夜な夜な遊び歩けば、親御さんが理解できずにパニックになるのは容易に想像できる。その愛娘が似ても似つかない姿になり似ても似つかない言動を繰り返す様は、少女に悪魔が憑いたと理解するのが一番わかりやすいだろう。
非行少女が非行で破滅を道を歩むのは、少女自身の性根が腐っているからとしては余りにも救いがない。
そうではなく、少女自身ではない外的な何者か、例えば少女のトラウマであったり少女をないがしろにする家庭環境であったり少女を悪の道に誘う男であったりとを悪魔的なモノとすることで、それに対する祓いによって少女は本来の姿に戻るという構造である。
一度憑いた悪魔はちょっとのことでは離れない。そして、映画エクソシスト同様、悪魔を祓うための戦いは壮絶なものとなるのである。

しかし、罪にまみれて奇行を繰り返す人を指して、悪魔憑きとするのはある種の優しさを含んだ行為であるとも言える。
その人の奇行は憑いた悪魔によるもので、その人自身に責任があるのではないとする事は、その人を罪人とせずその人を引き上げる数少ない手段の一つであろう。

考えてみれば、悪魔がとり憑くことのなくなったこの世の中は、自分自身の罪をすべて自分自身で負わなければいけない世の中でもある。
悪魔が憑いてそれを追い出すことで問題が解決した時代というのは、実は中々に大らかで人の弱さに寛大な時代だったんではなかろうかと思った。

さらに、この悪魔祓いであるエクソシストについて調べていて、現代でもローマ・カトリックは悪魔祓いと悪魔祓いを行う人であるエクソシストをちゃんときっちりと組織している事実にちょっと驚いた。
現代でも正当な宗教的な秘蹟の一環として悪魔祓いを受けられるというのは、とても大きな救いと喜びをもたらすであろう事は容易に想像できる。
なんかこの事実を見るにつけ「悪魔祓い」と「赦し」は微妙なところで密接に関係しているような気がした。

まぁ、映画のエクソシストとは関係ない話やけど…

2008年12月06日

●アニメじゃないアニメじゃないアニメのような事さ

昼と夜の二回に分けて自転車で走った。この冬一番の寒さは中々のもの。
特に日が暮れてからの寒さは尋常じゃなかった。

夜、歩道で信号待ちをしていたら、向こうの方から「ぎょぇ~」という奇声と共に女の子がママチャリに乗って突っ込んで来た。
普通避けるか止まるかやのに何で真っ直ぐ突っ込んでくるか?ビンディングをはずしてトップチューブに跨っている不自然な体勢なので避けようがない。
これは受け止めるしかないと身構えるところに「ひゃ~ブレ~キ~」といいながら迫る女の子。
前かごを止めようと手を伸ばしたところに寸前で停止。女の子はよろけて自転車を降りる。何とか衝突を免れた。
「すいません~ごめんなさ~い。ブレ~キが~手が~」という女の子の手は手袋なしで真っ赤。そりゃこの寒さで手袋無しやったら、手が麻痺してブレーキ握れんやろうなと納得。

これが漫画やアニメならきっちりぶつかって、次の日にでもばったり何処かで合って「あ~っ!昨日の~!」とか言うところなのやろうけど、現実はそんなにドラマチックじゃない。

「大丈夫~?手袋しとかんとやばいって~この手袋でも寒いねんから」とフリースに東ドイツ軍豚革グローブの二枚重ねの手を見せながら、現場すぐ近くにある99ショップで軍手でも買ってはめて帰るのをお勧めしておいた。

女の子は「ごめんなさい。そうしまーす。ありがとうございま~す」と逃げるように去っていったけど、私はこの寒さで長距離を走ったゆえに鼻水たらしながら涙目で喋っていたので、女の子からすればさぞかしキモかっただろうなぁ。

2008年12月05日

●言葉が適当なのではなく

「そうしょくけい」なる言葉を初めて聞いたのだが、聞いてすぐに意味がわからなかったので自動的に頭の中で「装飾系」と変換し、なんとなくアールヌーボーなクリムトやらビアズリーみたいなのだろうと推測して、そういうなのを想像しながら話をしていた。
時々「ん?」と思う事があっても特にそれほど違和感無く話が進んだのだが、殆ど話の終わり頃に「装飾系」ではなく「草食系」だという事に気付いた。
「装飾系」と「草食系」は音が一緒でもそれが指すものは全く違う。「草食系」を殆ど対立概念に近いような「装飾系」と入れ替えても殆ど話が通じてしまうとはびっくりである。

実際の「装飾系」と「草食系」の間に大きな違いがあるのだとしても、話の上、言葉のレベル上では「装飾系」も「草食系」も大した違いはない。
それが言葉自体の持つ曖昧さや適当さなのか、私の喋る言葉の曖昧さや適当さなのかは分からないけど、一体言葉でどれだけのものが伝わるのだろう。と思うことが最近多い。

言わなければ伝わらないことは多いけど、言っても伝わらないこともまた多い。その癖に言わなくても伝わることも多い。
この中途半端さというか限界は、言葉の特性というよりは、人間の特性なのだろうなぁと。

2008年12月04日

●映画:パゾリーニ「デカメロン」 / ほのぼの系イタリアンエロ / やっぱりラブユー貧乏臭い

amazon ASIN:B0000844EN 「ソドムの市」と「王女メディア」を観て「わかった!パゾリーニってのは貧乏臭いんや!」というファンに怒られそうな結論になった。と先日このブログ書いたのだが、ついついなんとなく出来心で彼の「生の三部作」と呼ばれて世界的にヒットしたらしい「デカメロン」を観た。
一応、原作はイタリア・ルネッサンスの名作であるボッカチオの『デカメロン』であるけど、原作の100ある話の内のいくつかが、この映画内でオムニバス形式として映画化されているという事になろうか。

パゾリーニの映画ということでそんなに期待せずに見たのだが、意外に面白かった。
「ソドムの市」ほどの一方的意味不明エロではなく、「王女メディア」ほどヤレヤレな貧乏臭さも無く、一般大衆のほのぼのエロ満喫映画という感じだろうか。
イタリア男と言えばなんとなくみんなイケてるイメージがあるけど、この映画はイケてないイタリア人ばかり出て来て、そういう意味で珍しいと言えば珍しいかも。
この映画はそういった町の人々の、よくて町の金持ちレベルの、エロや小金を巡る下品でスケールの小さい、妙に楽しそうな物語がメインである。

そういった一般大衆の話や物語や役者は中々良くできているように感じるけど、荘厳さを感じさせなければいけないシーンはことごとくダメダメであるのが痛いところ。
例えば、映画の中の壁画を描く画家のエピソードで彼が天使たちが居並ぶ天国の夢を見るのだが、そのシーンが、小学校か中学校の学芸会を髣髴とさせるようなちゃっちさで笑える。
このお陰で時々見られる荘厳そうなシーンはどこかに着地するどころか、飛びたてもしないような状態であるのやけど、それはそれで可笑しい。

「ソドムの市」で4人の最高権力者を、「王女メディア」で王女と王国を巡る物語を映像にしたパゾリーニはその映像を持ち前の貧乏臭さで染めてしまっているけど、この「デカメロン」では一般大衆の物語が貧乏臭さに染められることで良い風に作用していた用に思う。
この人は貴族とか王族とか権力者を撮るよりも、これといった取り柄の無いぼんやりした一般大衆を撮った方が安心して観ていられる。
今流行らしい『蟹工船』とかをこの監督が映画化すれば面白いのではないだろうか。
いや、やっぱり『蟹工船』はちょっとシビア過ぎて笑えないから、江戸時代の町人の話の落語の映画化とかがいいんじゃないだろうか。

2008年12月03日

●RC版はRC版です。(ISC DHCPの4.1.0rc1の不具合)

土偶家のネットワークは繋いできたPCに対してDHCPサーバーからIPアドレスを割当てるようになっているのだが、新しく作ったサーバーでコンパイルしたdhcpdがまともに動いていなかったことに気づいた。
デーモン自体は特に問題なさそうに起動しているものの、クライアントを変えても、confを変えても駄目。
エラーログを吐くでもなく、パニックして落ちるでもなく、クライアントはアドレスをもらえない。
dhcpd -f -d でフォアグラウンドで起動しつつ、ログをファイルでなく標準エラー出力に出すように設定してデバッグするも特に怪しいところは見つからない。
一応クライアントが繋ぎに来ると

Dec 3 00:22:39 サーバーホスト名 dhcpd: [ID 702911 daemon.info] DHCPDISCOVER from 00:80:45:XX:XX:cd via dmfe0
Dec 3 00:22:40 サーバーホスト名 dhcpd: [ID 702911 daemon.info] DHCPOFFER on 192.168.X.xxx to 00:80:45:XX:XX:cd (クライアントホスト名) via dmfe0

と応答しているっぽいのだが、クライントPCのIPアドレスは更新されない。なんでやねん。
わかりにくさという点で一番性質の悪い不具合である。

数日考えに考えたけど全くわからない。
ということで、試しに、枯れに枯れてバグとセキュリティフィックスしかされないことが宣言されている古いバージョンをコンパイルして、生成されたdhcpdだけをコピーして動作させてみると、まともに動くではないか。
ちゃんとIPアドレスも割当てられ、DNSにも登録された。
ちなみに動かなかったのはisc-dhcpのバージョン4.1.0rc1で、動いたのはバージョン3.0.7である。
動かなかった4.1.0rc1はrc版ということで不具合があるかもという位置づけやけど、ここまで動かないのは珍しいのではないだろうか?

と言うことで、正常に動作するときのログはこんな感じ。

Dec 3 00:48:52 サーバーホスト名 dhcpd: [ID 702911 daemon.info] DHCPDISCOVER from 00:80:45:XX:XX:cd via dmfe0
Dec 3 00:48:53 サーバーホスト名 dhcpd: [ID 702911 daemon.info] DHCPOFFER on 192.168.X.xxx to 00:80:45:XX:XX:cd (クライアントホスト名) via dmfe0
Dec 3 00:48:53 サーバーホスト名 dhcpd: [ID 702911 daemon.info] DHCPREQUEST for 192.168.X.xxx (192.168.Y.yyy) from 00:80:45:XX:XX:cd (クライアントホスト名) via dmfe0
Dec 3 00:48:53 サーバーホスト名 dhcpd: [ID 702911 daemon.info] DHCPACK on 192.168.X.xxx to 00:80:45:XX:XX:cd (クライアントホスト名) via dmfe0

動作しないときのログと、動作するときのログの違いを見る限り、クライアントからの要求であるDHCPREQUESTがサーバーに届いていないようだ。
調べてみるとこのDHCPREQUESTはブロードキャストで送られるらしく、クライアントがパケットを送っていないというのは考えにくいので、サーバーがブロードキャストのパケットを受け取っていないということになりそうだ。

家のDHCPサーバーになっている新ソラリス君は物理NICが二つ搭載されており、一方がもうひとつのフェイルオーバーとして動作する設定にしているので、二つの物理NICでIPアドレスが三つ、更にsolarisコンテナ内の一つのゾーンにIPアドレスが二つ割り当ててあるので、合計5つのIPアドレスが割当てられた仮想NICが動いているという微妙に複雑な構成になっている。
dhcpdのデバッグ中にこの仮想NICの一つを待ち受けインターフェイスにしようとしてもならず、物理NICでしか待ち受け出来なかったので、恐らく、DHCPサーバーの待ち受けていない仮想NICが一番にブロードキャストを受け取ってしまったりするような類の問題が起こっているのだろう。

と言うことで、フェイルオーバー動作、solarisコンテナを使っている場合のDHCPサーバー作りには注意である。

しかしこの顛末で、やっぱりベータ版とかrc版てのはあくまでテスト版やねんから、ちゃんと使うには向いてないことを改めて痛感したのであった。

2008年12月02日

●ルードルフ・オットー 『聖なるもの』

amazon ASIN:4422130056 ルドルフ・オットーの『聖なるもの―神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について』を読んだ。本当は読み終わって一ヶ月くらいたっているけど、中々に格のある本なので中々に適当なことを書けずに今に至っている。
で、いったん書き始めるとやたらと長くなってしまった…

著者であるルドルフ。オットー(1869年~1937年)はドイツプロテスタントの神学者で、大雑把に言うとニーチェとヴィトゲンシュタインの間の時代の人、もう少し詳しく言うとフッサールとかベルクソンと大体同年代の人でアインシュタインが特殊相対性理論を発表したくらいに壮年期を過ごした人ということになるようだ。
そしてこの本は第一次世界大戦のさなかに出版された。

一応神学者ではあるけど、プロテスタントと言うこともあってか、彼の論調からか、バリバリの神学ではなく、哲学や宗教哲学のジャンルに区分されるようである。
彼はカントとフリースの研究から、崇高で聖なるものとは、という問題意識を持つようになって宗教哲学の研究に移行したらしく、この本は正にそのテーマを、つまり、宗教はその根本的な要素として「聖なるもの」に対する「畏怖」、つまりは恐怖の入り混じったような憧れなどの非合理的な要素によって成り立っている。とするものである。

キリスト教の教義を前提として、それに則ったいわゆる神学の立場ではなく、哲学的な手法で宗教にアプローチしようとすると、この本のようなオットーの見方にたどり着くといわれるらしい。
宗教について学ぼうとするものにとって、彼の思想は基本的な概念を構成するものであり、この本は古典中の古典として基本的な文献であるという扱いを受けているらしい。
やたらと「らしい」を連発しているのは、それだけ重要そうな位置にある人物と著書なのに、この本を読み始める前までは全くノーマークどころか殆ど全く知らなかったからである。覚えている限り聞いたことすら無かったと思う。

私の浅学のゆえだろうけど、少なくとも私にとって今までは全くなマイナーな人物だったし、言及されるのも殆ど聴いたことが無かった。
例えば、有名どころのアウグスティヌスやらカントやらニーチェがどれだけ哲学史の中で意義を帯びているかと言うのは、勉強したり色々な本を読んだりなんやらで端々に名前が出てきたり聞いたりするうちに、なんとなく感覚的に捉えられるようになっているような気がするけど、このルドルフ・オットーという人と『聖なるもの』と言う本は殆ど予備知識がなかったので、宗教学に関する古典中の古典であるとか、哲学としての方向性で宗教を見るとオットーに行き着く、とか言われても、聞いただけではピンと来るものが無かった。
ということで、先に例を挙げた人たちのような、思想史だけでなく世界史の文脈でも名が出てくるような主流の位置にあるのではなく、どちらかと言うとその道ではパイオニアで有名やけど、一歩その道から外れるととたんにマイナーになるような人であろうと捉えている。

しかし、世間的にはどちらかと言うとマイナーやけど、その道ではその人なしではありえないくらいの多大な影響を与えた人というのはとても多いわけで、このルドルフ・オットーという人は、一般的な目から見ればそういった位置づけになるのだろう。
と言うことで、どちらかと言うとニッチな分野で、学術的な興味の文脈で語られることが多そうな人物と書物であるけど、私の場合はそういったことは関係なく、単純に一書物として、読み物の一つとしての興味の対象として読んだ。
そしてなぜか一般的な岩波文庫の山谷省吾訳ではなく、華園聰麿訳の創元社のハードカバーで読んだ。これが良かったのか悪かったのかわからんけど。


この本で彼は、先にも述べたように「聖なるもの」や「畏るべきもの」に対して抱く敬虔な気持ちだけでなく、恐怖を含んだような畏敬の念などをあわせた、道徳や習俗や認識とは全く別の、非合理的なものこそが宗教の根本的な部分を形作っており、それを彼は「ヌミノーゼ」という概念で呼んでいた。
この「ヌミノーゼ」なる感覚それ自体をとって宗教的な構成要素の一部であると主張すること自体は、確かに特筆するほどのことはないよう思う。
しかし、彼はそれは一要素であるだけにとどまらず、それが殆どすべての宗教的な動機であると言っているところに意義があるのだろう。

たとえばその「ヌミノーゼ」は「聖なるもの」に対する愛やとか憧れやとか帰依の感情ではなく、余りにも絶対的なものを目前にした時の絶望感ににも似た、自分の小ささと無力さに震えるような、殆ど理不尽に近いような畏れの感覚であるというように、我々が一般的に想像しがちな「神」や「聖なるもの」に対して抱くであろうと予想する「愛」のような感覚とはかなり異なっている。
そしてその「ヌミノーゼ」の感覚は正義が守られたり、道義的な行為を目にした時に感じるような、いわゆる正義感とか倫理観、または自然や宇宙などの法則の美しさを目にした時に感じる高揚感とはまったく異なっている、合理的な知を越えた感覚でしかないとも言っている。

つまり、単純に宗教的なものであるとか宗教的な感覚というのは、ただ人間をはるかに超えた絶対的な大きなものに畏れを抱きつつも激しく惹かれる、完全に非合理的な感覚であり、倫理であるとか正義であるとか、はたまた世界の成り立ちであるとか世界の意味だとかいった、ある種の論理や合理性や認識の入る余地のあるものとは全く別である。と主張していることになる。

この主張は、我々が宗教を捉える時にするいろいろな見方をかなり根本のところから揺さぶるものであろう。
たとえば、宗教をモラリティーや何らかの規律の根拠として見る見方、世界解釈や世界の意味を与えるものとしての捉え方などは、宗教の根本の所とは関係ないということになるし、彼はその「ヌミノーゼ」なものは個人に帰する非言語的な感覚でしか言い得ないと言っている。

このあたりの部分は私にとって結構大きな驚きだった。
こういった「ヌミノーゼ」の感覚を取って「宗教的」であるとするならば、例えば「キリスト教的」でもなく「仏教的」でもない状態で十分「宗教的」でありえることも可能になる。
キリスト教にしろ、仏教にしろ、何かしらの対象、つまりはキリストであったり阿弥陀仏であったりに対する帰依の感覚をもって「キリスト教」であったり「仏教」と呼ぶのやろうけど、そういった具体的な帰依の対象のない私も「ヌミノーゼ」の感覚がとても痛いほどわかるし、そういった「ヌミノーゼ」な対象を何かしらの基準のように考えているという意味では「宗教的」であると言えるかもしれない。
例えば、「海に潜って魚を突く」というのは私にとって激しく「ヌミノーゼ」な行為なのだ。
限りなく死に近づきながら、純粋な殺意の塊となって、冷静に狙った獲物を殺す。というのは恐らくどんな宗教的なモラリティーから見ても道徳的な行為とは言い難いだろう。
しかしそれは激しく「ヌミノーゼ」で激しく「被造物感」を感じるという意味では「宗教的」な行為であると言える。

モラルに従う従わないを度外視した先にある、圧倒的な無力感と絶対感と一体感と拒絶感の入り混じったような、余りにも非合理的な「ヌミノーゼ」の感覚なんか誰しもが持っているのじゃないだろうか。
道徳的なところを踏み越えた先にこそ「ヌミノーゼという意味で宗教的」なものがある。などと言うつもりはないけど、「ヌミノーゼという意味で宗教的」であることは、必ずしも「キリスト教的」でもなく「仏教的」でもなくその他あらゆる既成宗教的でないこともありえると言うのは、ある種の人にとってとても救いになるのじゃないだろうか。


一般的な手法でもって「神」や「聖なるもの」について考えたり語ろうとするとどうしてもそれ自体を対象にしがちやけど、彼はそういった神や神的なものについて「神」や「聖なるもの」そのものを直接的に思考の対象として考えるのではなく、それと対峙した人間はどのような感覚を呼び起こされるのかと言う切り口で考える方法論を展開していた。
つまり、「聖なるもの」のひとつ下の次元で現象する「ヌミノーゼ」の更に一つ下の次元に現れる影としての我々の感情を語ることによって、「聖なるもの」についてではなく「ヌミノーゼ」について語ろうとするのである。
それはひとつ以上の上の次元のものを、それが見せる影によって語る数学的な手法に似ていた。言葉で語ることのできる次元を越えているような非言語的な領域を言語で語ろうとするには、やっぱり非言語的なものの見せる影について語るしかないのだろう。
そして、これが非言語的な概念である以上、理解できない人にはいくら言っても理解してもらえないし、理解する人は言わなくても理解ているであろうから、理解しているものとして話を進めると言うようなことを書いていてちょっと驚いた。

そういった何かしらの非合理的な経験や理解を相手が理解していると前提した上で論理を展開するのは、まさに、二乗してマイナスになる数である虚数が存在すると仮定してグラフを複素数に拡張するのと同じではないか。
理解できる論理でのみ表現されるものではなく、理解出来ないながらも直感できるもの、理解できないながらもそうでなければならないものが存在するものとして、考えることが出来る事こそ真に知的な行為なのやなぁとなんとなく思った。
そしてやっぱり宗教とは、そういった数次元上での現象であると言う意味で、知的な追求の限界を超えた先にあるものやねんなという思いを新たにした。


全体的な本の構成に対する感想を述べると、前半はそういった「ヌミノーゼ」が如何に宗教を構成する要素として唯一無二で、如何に重要なものであるかと言う部分が語られており、聴いたことのないような言葉や概念がボンボン飛び出して来て、読んでいてとてもスリリングで面白かった。
しかし、いかに宗教にとって「ヌミノーゼが」重要であるかを論じ終わった後の中盤から後半になると、今度は如何にキリスト教はヌミノーゼで優れているかというところに論点が移っていささか退屈であった。恐らくこの部分が、神学者である彼が最も言いたかった部分なのかもしれないけど。
それでも、宗教改革を行ったマルティン・ルターが如何に神を畏れ、如何にびくびくしながら生きていたのかと言うところが彼の「信仰義認」と「ヌミノーゼ」が関連付けられて述べられたところはとても面白かった。

2008年12月01日

●映画:パゾリーニ 「王女メディア」 / 濃いだけのマリア・カラス / ラブユー貧乏臭さ

amazon ASIN:B00005FX1D 先日はじめてみたパゾリーニの映画がかの有名な「ソドムの市」だったのだが、なんかおっさんが一方的にやりたい放題してる割には、エロ話を披露するおばちゃんが一番楽しそうやったなぁ。というよくわからん感想を持ったのだが、絶対この映画ってこの監督の映画の中では特殊な位置にある奴やから、もう少し普通のも観た方がええんじゃないか?ということで同監督の「王女メディア」 (1970/伊)を借りてきた。

『王女メディア』といえばエウリピデスが作った古代ギリシアの悲劇やけど、この映画の大まかなストーリーもそれに則っている。もちろん台詞とかはぜんぜん違うので、大まかな筋に沿ってパゾリーニが作り変えたってことになるのやけど。

で、この映画の一番のウリは、マリア・カラスが主役の王女メディアを演じていることで、その次のウリはなんかとんでもない辺境の地でロケをした。ということであるらしい。

当時のカラスはオペラ会を追放され、追いかけた男にも愛想をつかされて失意の底にあったということらしい。ってこれは「王女メディア」そのままやね。その自分の状況を演技にぶつけてかどうかは知らんけど、メディアを演じるカラスは中々に鬼気迫るものがあった。
しかし、マリア・カラスって言えば伝説的なソプラノやのに、この映画ではそんなオーラはまったく無く、なんか濃い人やなぁという印象でしかなかった。
さらに、伝説の英雄であるはずのイアソンがやたらと小者臭漂うあんちゃんで妙に貧乏臭かったし、メディアが王女として収めていたコルキスも王国というよりは未開の部族って感じでちょっと貧乏臭かった。
辺境でロケしたっていうことやけど、これは世界の終わりという意味での辺境ではなく、悪い意味でのイナカという風にしか見えない。

パゾリーニって言えばイタリア映画の巨匠で難解ってされているけど、単に人間が生来持つ貧乏臭さを通して人間を見せているだけのような気もする。
そういえば、「ソドムの市」でのおっさんたちの所業は貧乏臭さの極みではないだろうか?
まさか大金かけて映画作って、「テーマは貧乏臭さです!」ってことは無いと思うもんなぁ。普通は。

そういうわけで、これから私はパゾリーニって言えば「貧乏臭ささ」って思うことにする。