≪ 2008年09月 | Top | 2008年11月 ≫

2008年10月31日

●ぬるま湯金曜日

家に帰ってだらだらピアノ弾いてヤフオク冷やかした後、本とアドエスを持って風呂に。
風呂につかりながら音楽を聴きながら本読みながらネットで調べ物をしたり巡回サイトをチェックしたり。
ぬるま湯につかりすぎてふやけそう。
とても直接的な意味で。

金曜日の仕事後の開放感は何とも言えない。
しかし、これから死ぬまで金曜日の仕事後を楽しみに生きてゆくのかと思うと頭がくらくらして気が遠くなりそうである。

「何かを楽しみに生きる」のが正当なことだとしても、「何かを楽しみに生きる」のが当たり前だと前提したり、「何かを楽しみに生き」ねばならならないとしてしまうと話がややこしくなる。
「生きがい」やとか「生きる意味」なんてものを持っていない人間は生きてはいけないのか?つー話に似たところがあるやね。

2008年10月30日

●ホップ、ステップ、トドメ からHDD秘孔を一突きへ / 死ぬまでに一度見たいもの

仕事で廃棄するPCのデータ消去をする必要があった。
本来なら土偶自ら手塩にかけて作ったHDDをゼロフォーマットするようなブートCDとかFDから起動してHDD真っ白に燃え尽きさせてやるのだが(お好みによってはランダムデーターで埋め尽くしてもやるぞ!)、今回は既に俗に言う「死体置き場」に大量のPCが積んである状態なので一台ずつ起動させるにはちと手間がかかる。
ということで、HDDの物理破壊と相成った。(本当の所はHDDをぼっかんぼっかんハンマーで叩き壊したいという心暗い欲望も渦巻いていたのだが…)

早速、勤務先のビルメン部隊からハンマーとタガネを借りて片っ端からHDDにアタック。ガンガン、ボカボカ、あー気持ち良いの何の。

しかし真正面からHDDを叩いてもガワが凹むだけで見た目のインパクトもダメージも低い。甲冑の兜を棒で殴るようなものである。
という事で、効率よく確実にHDDの息の根を止める為に、張り合わせたケースの二つのパーツの間にタガネを打ち込んで隙間を開け、そこからマイナスドライバーをプラッタの間に入るように差し込んで捻りながらディスクをえぐって傷つける。太刀で鎧を押し上げて、出来た隙間に短刀を突き刺して内臓を抉るようなものである。

ケース蓋を外す、タガネを打ち込んで隙間を開ける、隙間にドライバーを差し込んでプラッタを抉る。の三工程を手際の良い虐殺のように、「ホップ、ステップ、トドメ!」とばかりに行っていたのだが、しばらくするとHDDに経絡秘孔とも言うべき部位があるのを発見した。

HDDによってまちまちであるけど、薄いアルミであったり、シールであったり、とにかく簡単に突き破れるような材質でのみ覆われているだけの部分があるのだ。
そこにドリルやマイナスドライバーやタガネを突き立てると一撃で「ザクッ」と気持ち良い音を立ててプラッタ全てを一気に貫通して突き刺さるようになっている。
恐らくそれは物理破壊をするために設計された構造であろうけど、その用意された秘孔を一突きすれば、それまでの苦労が嘘のように軽快にHDDは「あべし!」「たわば!」「ひでぶ!」と息絶えるのだ。
しかし、HDDにタガネの突き刺さった様の可笑しい事可笑しい事。中々見られるものじゃない。
むぅ、これは気持ち良い。これは色々と遊びたくなる。

数台のPCを並べて手裏剣や飛苦無を放ってHDD秘孔に突き立てたり、次々とベアリング弾を装填したガスガンの銃口をHDD秘孔にあててゼロ距離射撃したりすれば、さぞかし爽快であろう。

しかし、最も見てみたいのはちゃんとWindowsなりLinuxなりがパソコンとして動作している状態でHDD秘孔を一突きするところである。
OSが動作している最中にHDDが一瞬にして破壊されればれば、OSどんな止まり方をするのだろう?いくらSolarisといえ完全に沈黙するだろう。

巨大なディレクトリ構造を丸ごと圧縮したり展開させ、HDDが最も早く回っている状態でHDD秘孔にタガネを撃ち込む。
毎秒7200回転以上の勢いで回っている状態のプラッタにいきなり何ものかが貫通する様はさぞかしの見物であろうぞ。
死ぬまでに一度は観て見たいものよのう。

まぁ一度見れば満足して何度も見たいとは思わんやろう程度のものやろうけどね。

2008年10月29日

●眠たい固有名詞

最近寝る前にル・クレジオの『歌の祭り』なる本をを読んでいるのやけど、これが妙に退屈ですぐに眠たくなってしょうがない。
今読んでいるところは延々とインディオ達の神話が書いてあるのだが、読みなれない見慣れない音の神やとか人やとかが出てきて訳がわからん。
昔、「Age of Empires II」ってゲームで、「我が名はクアウテモック。テノチティトランの鷲の戦士。」なるアステカの戦士の台詞があってちょっと恰好良かったのだが、彼らの信仰する神の名前が「ケツァルコアトル」ということで、もう音だけでどれが人の名前か神の名前かと土地の名前か聞いただけで全く区別がつかん。
聴き慣れない、読みなれない、見慣れない音の固有名詞の羅列を目で追っているとやたらと眠たくなるのだ。

ロシア文学初心者がイワンとワーニャが同一人物だと認識できなかったり、マクシーモフとサムソーノフの区別がつかなかったりして混乱するのはこんな感じなのだろう。

スペインやポルトガル系でない南米文学を読むにはクアウテモック、テノチティトラン、ケツァルコアトルと聞いて、どれが人っぽいとか神っぽいとか土地っぽいとかいう感覚を養わんとあかんのやろうねぇ。
って、ル・クレジオってばフランス文学じゃないのか?

2008年10月28日

●映画:「ラストデイズ」 / 真綿で首を絞める系?

amazon ASIN:B000GPIHF4 ガス・ヴァン・サント監督の撮った映画を2002年の「ジェリー」、2003年の「エレファント」と観た後に、次に撮った「ラストデイズ」 (2005/米)も観た。
有名なロックバンド「ニルヴァーナ」のリーダーである「カート・コバーン」をモデルにして、彼が麻薬の矯正施設から抜け出して自殺するに至る最後の二日感を描いたもの。ということらしいけど、恥ずかしながら私は「ニルヴァーナ」も「カート・コバーン」も知らなかった。

手法としては前作の「エレファント」と同じく主人公と主人公を取り巻く人達の視点から観た、同じ事実を並列的に映像として見せるものであるけど、前作の描いていたものが視点となった人の日常であったのに対し、この映画で個々の人の視点で描く対象となっていたのは明らかに主人公であるところが違う。
主人公の視点で主人公を見た視点はやたらと内向的でナイーブな中々に辛そうなところを感じるのやけど、主人公に対する興味の無さがはっきり伝わってくるような、周りの人の主人公を観る視点のあまりのあっさりさのコントラストとあいまってからやたらと迫ってくる。

主人公と主人公を取り巻く人達のモデルとなっている「ニルヴァーナ」と「カート・コバーン」にそれなりに詳しかったり好きだったりする人は、中途半端に彼に似せているところが気に入らんかったり面白く無かったりするようやけど、私は全く知らなかったのでそんな事は何も感じなかった。

主人公のどん詰まり感と、彼を取り巻く人々の視点の冷たさとかどうでもいいや度が妙にリアルだったし、
ひたすらダウナー系の海の底テンションで最初から最後まで徹底していた。
やたらと静かで画面の切り替りが少なく長回しの多い映像が、妙にじわじわと迫ってきて息苦しい緊迫感のある映画であった。

この「ラストデイズ」と前作の「エレファント」はパッケージの写真が良いやね。

2008年10月27日

●映画:「エレファント」 / 日常の延長としての惨劇 / 非社会派で非ワイドショーな真実では無い事実

amazon ASIN:B0002XG8KQ  先日ガス・ヴァン・サントの「ジェリー」 を見たけど、その次の年に公開された同監督の「エレファント」 (2003/米)を見た。
タイトルのエレファントは"Elephant in the room"なる慣用句や「群盲象を評す」なることわざを意識しているのだろう。
「コロンバイン高校銃乱射事件」をテーマにしたこの映画は、その事件の日の日常を事件に係わり合いになった加害者と被害者の人たちの視点で淡々と描いている。
とはいっても、被害者や加害者や傍観者などの特定の視点で固定されて描かれているのではなく、登場人物たちが、あるときは廊下で、あるときは図書館で、色々なところですれ違いながら事件に巻き込まれるひとつの事実を、登場人物たちの視点ごとに執拗に何度も繰り返えすような描き方である。

同じ事件をいろいろな人の視点から描いているという点では村上春樹が地下鉄サリン事件の被害者や関係者たちにインタビューした『アンダーグラウンド』に似ているけど、加害者の視点もあるだけでかなりん印象が違う。

この映画は、この事件に関する何らかの問題であるとかプロパガンダを訴えかけるような雰囲気は全く無く、ただ個人にとってその日に何があったのかという部分をのみ問題にしているように見える。
日常のまま襲撃計画を立てて武装した加害者たちが、同じく日常を送っている被害者たちと傍観者たちの前に現れる事で事件が起こる。
このような無差別殺人を行うからには常人を脱した何かがあるのかと想像されるけど、この事件の加害者は日常性の延長上でこのとてつもない未曾有の惨劇を行った。とこの映画では見ることが出来る。

加害者はいじめられっこで、ベートーヴェンのピアノと銃が好きな少年で、ネットで銃を買い、薪を試し撃ちする。とここまでの気持ちは大変良く理解できる。
映画では、ここから当たり前のように、バックに銃器を詰めて車で高校に赴いて図書館と食堂を襲撃するわけやけど、しかし、やっぱり、ここの部分だけは心情的にも感覚的にもかなりの飛躍がいるように思う。

こういった事件はとかく「事件の真実」なるものを探りたがる傾向が多いけど、どちらかというと、「真実」を探る事は放棄して、「事実」の羅列のみを提示することで何かをあぶりだそうとするような、一つの悲惨な事件の描き方としてはとても気に入ったし面白かった。

社会的で関心度の高そうな題材を描きながらも、社会派な匂いも物見高い匂いも全くしないところがとても良かった。

2008年10月26日

●手篭めと試斬のインフレでござる。の巻

amazon ASIN:4091922422  先日から『カムイ伝』を読んでいて、あと5巻と6巻のみ見つけて読めば全巻読破とういことで古本屋を巡っていたのだが、不意に全12巻の『カムイ外伝』が2巻から12巻まで売っているのを発見してしまった。
「むむ…これを買うと収拾つかなくなるやん…しかも一巻無いし…」と迷う事0.5秒であっさり購入決定!買い叩いて帰ってきた。

という事で2巻から読み出したのだが、いきなり2巻冒頭で知らん忍者が地面の上へ引っ繰り返って息絶え絶え、どうやらカムイにやられたらしく、下忍たちが右往左往して「あの天人さまが」とか言ってる。
うむむ…誰やねん天人様って…話がさっぱりわからん。参ったなぁ…

しかし、『カムイ外伝』は『カムイ伝』に比べると中々エグイ。凄い確立で町娘やくノ一は手篭めにされ、死体で試し斬りするのは当たり前の世界である。あーあ滅茶苦茶なぁもう(w

2008年10月25日

●映画:「ジェリー」 / 怖い自然だだっ広い系 / 陸の大海オーシャンズ2

amazon ASIN:B0007N3750 ガス・ヴァン・サント監督の「ジェリー」 (2002/米) を観た。
予備知識全く無しで観たのだが、何とも不思議な映画だった。というかさっぱり意味がわからなかった。
二人はお互いを「ジェリー」と呼びあい、否定的な状況とか何物かを「ジェリー」とか「ジェリった」などど呼ぶのやけど、結局タイトルの意味はさっぱりわからん。

冒頭にハイウェイを車で走っていたケイシー・アフレックとマット・デイモン演じる二人の若者が、車を止めて、荒野に向かって歩きだしひたすらうろうろしている。
二人はほとんど喋らない上に手ぶらなので、すぐに戻るのかと思えばそうでもなく、いつの間にか砂漠と荒野で遭難している。

日本で言えば、ちょっと山道に車を止めて山菜や花をを採っているうちに遭難。などというありがちな感じなのやろうけど、流石にアメリカは砂漠はあるわ、地平線は見えるわ、荒地の丘がボコボコそびえてるわと、スケールが違う。
そんな感じの人間の営みを超越したような絶景に徐々に追い詰められてゆくのは中々に怖いものがあるし、効果音とBGMの無い長回しが、余計にその恐怖だか緊迫感をあおっている。

「何が言いたかったのかわからん映画」でもそれなりに「これが見せたかったんやな」と思うシーンとか映像はあるものである。
この映画の言いたい事が「自然は怖い」ではない事は明らかやし、結局「何が言いたかったのか」はもちろんの事、「これが見せたかったんやな」と思うシーンも思い当たらない。あえて言えば、アメリカの荒野の絶景であろうか。

オーシャンズnなマット・デイモンとケイシー・アフレックが出演しているという事で、ある意味、陸の大海オーシャンズ2なる荒野の二人であり、それでも、同じような怖い自然を描いた「オープン・ウォーター」などと比べれば、遥かに映画として面白かった。

2008年10月24日

●「一人ケルン・コンサート」でなく「延々とカデンツァ」

前日に寝すぎたせいで体中がギシギシする。仕事から帰って久しぶりにピアノの前に座り、無間地獄の如きバイエルの練習曲を練習する。
よくよくこの練習曲集は退屈だと言う話を聞く。しかし、私にとってはちゃんと譜が読めずに指が動かない自分自身にこそ退屈を感じる。
私にとって、大抵の問題は、相手が問題であったと言うよりも自分に問題があったと言う事が往々にして多いのだ。

今日はそのバイエルを程ほどにして、延々と思いつくままピアノを弾き続ける。適当にどちらかの手で主旋律らしきものを弾いて、もう一方の手で適当に和音をつける。
昔キーボードを持っていた時に良くやっていた遊びだ。
これを延々数時間。
「一人ケルン・コンサート」みたいなものやな、と言いたいところやけど、自称クラッシックピアニストの卵と言張る事に決めたので「延々とカデンツァ」と言う事にしておけばそれらしく聴こえよう。
もちろん、それらしく聴こえる以上ものは全く何も無いが。

しかし、これは適当に弾いているだけやのに、結構その時の精神状態が出ていて面白いなぁ。
それに何よりも気が晴れるのであった。

2008年10月23日

●パラドックスのパラドックス

仕事から帰ってひたすら寝た。
何通かのメールを送り、何通かのメールを受け取り、電気もつけたまま、コンピューターの電源も入れたまま、布団にもぐりこんで、今年村上春樹の代わりにノーベル文学賞を取った小説家の本を読む。
現代文明の中で生きる事に疑問を持った男が、インディオ達との生活で新しくて古い価値を知る話だったような気がする。

布団の中で本を読んでいたつもりが気付いたら寝ていた。
正確に言えば気付いたら朝だった。実に色々な夢を見た。やたらとリアルでグロテスクな夢ばかりだった。いや、リアルだからこそグロテスクなのだろう。

こうして一日が過ぎる。1歳の365分の1の年を取る。もし私のが70歳で死ぬとしたら、余生の12410分の1の時間を使ったと言う事になる。
時間をどんどん分割して行く事で感じる徒労感は、飛ぶ矢が止まって見えたり、アキレスが亀を追い越せないように見えたり、とたちが悪い。
それでも、「そうである」とは関係ない「そう見える」にもそれなりの真実があるような気がする。

2008年10月22日

●「こやつ、やりおるわ」

最近ずっと『カムイ伝』を読んでいて、その中の登場人物の一人の台詞「こやつ、やりおるわ」というのが妙に気に入っている。
これは自分の方が上手だという含みを持たせながら、善戦する相手に余裕たっぷりに言う台詞なのであるが、これを事あるごとに頭の中で呟いている。
例えば、帰宅中の坂道の上りで私の自転車を電動自転車で追い抜いて行くおばちゃんに対して「こやつ、やりおるわ」、ご飯を食べていて中々つまめずにつるっと逃げる豆などに「こやつ、やりおるわ」などなど。
本当は完全にやられているのに、限りなく負け惜しみに近い状況で使うと、イライラしたり落ち込んだりせずに精神衛生上楽であろう。

そしてこの日は雨、例の如く私はレインスーツを来て自転車で出勤、帰りも雨の中レインスーツ。行きも帰りもべちゃべちゃである。
で、仕事帰りの土砂降りの雨の中で信号待ちをしていたら、目の前の車道を凄い勢いでママチャリで駆け抜けて行く高校生らしき制服を来た女の子、傘も差さずにずぶ濡れで凄い形相で車の流れに乗っている。
状況的には「こやつ、なかなかやりおるわ」と言いたいところであるが、女の子の発するあまりの気迫に、心情的には「むむ、ぬかったわ」というところか。

「こやつ、やりおるわ」は潜在的に「むむ、ぬかったわ」を含んでいると思ったぐしょ濡れの日であった。

2008年10月21日

●みかんVS土偶

職場であまり熟れていなくてやたらと皮の硬いみかんを頂いた。
食べようと皮を剥こうとするも、先日爪を切った時にやたらと深爪にしていたので爪が立たず中々皮が剥けない。
うーみかんみかんみかん。と、みかん相手に必死の私、何とか手をベタベタにしながら半分ほど剥いたけどこれ以上は無理と言う事で、露出した実の部分に「えいやっ」と噛り付いたら、皮の部分が唇と歯茎にがりっとあたって痛いのなんの。
なんぼ皮硬いねん。これホンマにみかんか?みかん風の皮を被ってみかんの味する栗とかじゃないやろうな?

しかし、みかん齧って口を怪我しそうって俺はスペランカーか?とこっそり一人で突っ込んでおいた。

2008年10月20日

●スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 / 愛ゆえにダース・ベイダー / 現代の神話として

amazon ASIN:B0000AIRN3 いよいよスターウォーズシリーズの最後の物語、クローン戦争末期、ジェダイ騎士団と共和国の消滅、それに伴う銀河帝国とダース・ベーダーの誕生、物語としてはエピソード4へと繋がる、2005年公開の「エピソード3/シスの復讐」を観た。

前作でどす黒い感情を見せてくれたアナキン君であるけど、そのどす黒さはますますアップ、能力と才能を持つ青年にありがちな、勘違い傲慢の道をまっしぐらであった。
彼自身がどす黒いのはいいとしても、本人がそれを正しいと思い込んでいるところがなんともいただけない。
彼が凡人ならなんの問題はなかったのやけど、彼が凄い力を持っていたことが彼の不幸でもあった。
アナキン君の葛藤は、選ばれた者の愛に満ちた青年の孤独な葛藤というよりは、欲望に正直な凡人が期せずにとてつもない力を持ってしまうと堕ちてしまう「勘違いダークサイド」としか見えなかった。

アミダラの死を避けるためにダークサイドに堕ちるアナキン青年の心情は、エピソード5でハン・ソロとレイアの危機を夢で知り、修行を放棄して彼らの下に向かうルークのメンタリティーとは全く違う。
仏教で言えばエロースで表される「愛」は煩悩のひとつで、アガペー的な「慈悲」と明確に区別されるわけやけど、ジェダイの教えである「執着を捨てる」を根拠とする恋愛の禁止を、アナキン青年は「他人を気遣う愛情」はジェダイに必要という事で、意図的にエロースとアガペーを混同した自己欺瞞で掟を踏み越えるわけである。
しかし当然、いったん一線を踏み越えてしまえば、後から収拾をつけるのはとても大変である。

アナキン青年のメンタリティーってのは求道的で僧のようなジェダイというダイエット系の方向性で無く、貪欲に力を欲する戦国武将のような過食系であろう。
彼の愛する人の死に対する予感の対処として「死なないようにする」って方向性で考えるのは、逃避でもなく対症療法でもない根本的な問題解決を目指しているわけで、問題解決の思考方法としては健康的であるけど、いかんせん誰もが避けることの出来ない「死」が相手では役に立たない。
なまじ力があったり能力があったりすると、受け入れるか諦めるしかないものを解決しようとして大変な労力を使って疲れ果ててしまう。
まるで、サークルとかバイトとかのぐちゃぐちゃになった人間関係で抜き差しなら無くなり、いくら頑張っても改善するはずも無く、そんなわけのわからんとこはさっさと辞めてしまえばええのに、無駄に抱え込んで独力でがんばってしんどそうにしている、真面目やけど要領の悪い青年のようでもあった。
そういう意味で、まだ若い身空で実に様々なしがらみと欲望と才能に取り囲まれ、それでもなお、真面目であるからこそ逆に一人で背負い込んで悩んでしまい、一杯一杯頑張っても、やることなすこと全て裏目に出てしまうアナキン青年はなんとも悲しすぎた。

当初彼の苦しみは恋愛の出来ない自らの境遇を省みた「ジェダイゆえに!私は苦しまねばならぬ!」であったけど、結局彼は愛する人をその手にかけてしまう。
彼が完全にダークサイドに堕ち切ったのは、愛する人を救うどころか彼自身が愛する人を殺すことになってしまったからであったのだろう。
最終的に彼の苦悩のと苦しみは、某聖帝サウザーの史上最高の名台詞「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!こんなに苦しいのなら、こんなに悲しいのなら・・・愛などいらぬ!!」に集約されることになる。
アナキン青年はジェダイなる人間を超える存在を目指すかのような道を選びながらも、余りに人間的であったところが彼の弱さでもあった。ダース・ベイダーがこれほど愛されるのは、彼がただ強いだけでなく、サウザーと同じく「愛深き故に愛を拒んだ男」でありつつも、最終的に愛を思い出した漢であったからだろう。
大きな力を持つという事は、どうしてもその力をコントロールする精神力と倫理観をも要求されるのは当然である。大きな力を持つ人に対しては、また期待も大きいのである。

このスターウォーズの世界観がコンピューター世界を支えるハッカー達の共有する世界観の一つとなっているのは、ただSF的な部分だけでなくこういった力と欲望のバランスと言ったテーマの側面が大きいのかも知れない。
コンピューター上の世界は個人が技術力を武器に強大な力を持ちえる場でもある。コンピューターネットワークが広がって、世界は再び魔法の世界になった。という見方があるけど、ひとかどのコンピューターとネットワークの技術を身につければ、1ユーザーからすれば魔法としか見えぬ力を発揮できる世界でもある。
ダークフォースに堕ちた強大な力を持ったクラッカーが何万と言うボットを従えて無差別に破壊活動を開始すれば、インターネット上はどうしようもない混乱に陥るだろう。
「ジェダイの掟」なる倫理観はハッカーたちの共有する倫理観と無関係でないように思う。

高度な技術を持ったハッカー達がジェダイの騎士であるがごとくに、コンピューターネットワークの世界の秩序と正義を守る義務を持っていると自負していたおかげで、インターネットがただの商業主義のネットワークに堕さず、ダークサイドはあるにしろ、基本的には自由な気風が漂う世界でいられることは間違いないだろう。

そういう意味で、ジョージ・ルーカス自らが「ダース・ベイダーの贖罪の物語」と呼ぶこの新旧合わせた6部作は、特定の個人と社会が強大な力を持ちうる現代に「現代の神話」として受け入れられたのだろう。などと思った。みたいな。

2008年10月19日

●スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃 / 着せ替えアミダラ / 私抜いたらスゴいんです

amazon ASIN:B000066I57 なんか最近スターウォーズの話でエントリを埋めているような気がするけど、気にせず…
大きくなったアナキン・スカイウォーカーの青年時代とクローン戦争勃発までの物語を描いた2002年公開の「エピソード2/クローンの攻撃」を見た。

「シャレード」のオードリー・ヘプバーンのごとく、ひたすらナタリー・ポートマン演じるパドメ・アミダラの着せ替えをこれでもかと見せられる。これってスターウォーズ?って思うけど、これはこれで良し。美しいものは善である。
しかし、片時も離れないようにと言われて、こんな姫と二人きりで宇宙に放り出されたら、如何にアナキン君でなくともダークサイドに堕ちるのは簡単だろう。
でも、アナキン青年は最初にアミダラに会った瞬間に黒い欲望が噴出していたように見えたのやけど、アナキン君の言う「愛」がどす黒い欲望としか見えないのは私がどす黒いせいなのだろうか…

やたらと民主主義を連呼するのはさすがにアメリカやなぁとおもったけど、どちらの軍勢も自分たちが正義だと本気で思っているところが一筋縄ではないところ。

泥臭くてダサいジェダイや他のシス卿とは違い、ラテン系紳士のような渋さを持ったドゥークー伯爵が良い感じであった。さすがドラキュラ伯爵である。

また、杖ついてよろよろ歩くマスターヨーダがライトセイバーを抜いたとたん、なんと軽やかに舞いながら惚れ惚れする戦いを繰り広げることか。「私、抜いたらスゴいんです。」ってなものである。
見た目はヨボヨボやけど、剣を抜いたら強い典型的な老剣豪ではないか。
アナキン青年含め、出てくるジェダイの騎士がなんか弱いなぁと思っていたのやけど、みんなヨーダ師匠の引き立て役やったわけやね。

ヨーダ師匠の軽やかな舞いと、ドゥークー伯爵の渋さと、なによりもアミダラ姫の着せ替えを味わう、エピソード3の動機付けと導入部分となる映画であった。
ただ、私はこれを見終わってすぐにふんふーんとエピソード3を見られたから良かったけど、公開当時は3年待ったわけで、ファンの皆様はさぞかし辛かったであろうと思った。

この映画を観る前に「ジャンパー」を観ていたので、アナキン青年がジャンパーに見えてしょうがなかった。
このシリーズを見た人がジャンパーを見れば、彼がジェダイの騎士見習いに見えてしょうがなかっただろう。
でも良く考えれば、「ジャンパー」もスケールの小さい欲望でフォースの暗黒面に当たり前のようにどっぷり肩まで浸かって生活している青年の話である。
このヘイデン・クリステンセンなる役者は、欲望のまま暴走して堕ちる役のはまり役というところなのだろうか。しかし、それは嫌な性格俳優やなぁ…

2008年10月18日

●スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス / ネタバレありき

amazon ASIN:B00005NNBV  スターウォーズエピソード4から6の旧三部作を観たので、ダース・ベーダーがなぜ「ダース・ベーダー」となったのかが語られるという、エピソード1から3の新三部作を観た。
ということで、まず旧三部作から16年振りの1999年に公開された「エピソード1/ファントム・メナス」を。

タイトルの「Phantom Menace」は「見えざる脅威」やけども、その脅威とは後の銀河皇帝ダース・シディアスが色々と悪巧みを始めるところを指すのだろう。なんというか「通商連合」というところが、悪代官と悪徳商人的な雰囲気であった…
時代的にエピソード4の32年ほど前の話で、そのダース・シディアスの悪巧みと、ジェダイがまだ沢山いたころのジェダイ騎士団組織のシステム、そしてアナキン・スカイウォーカーの少年時代と彼が如何にジェダイに弟子入りするかという話であった。
ネットではなぜか面白くなかったと言う人が多かったけど、私はとても面白かった。

恐らくこのエピソード1に始まる新三部作を観る人は、このアナキン・スカイウォーカー少年、オビ=ワン・ケノービ、またはジェダイ騎士団と銀河共和国をはじめ登場人物達とその社会のたどる運命を殆ど知っているはずなので、この映画は構造的に映画としてはもっとも不利である筈の「ネタバレ」を前提として観られることになっている。
旧三部作の公開当初はダース・ベイダーの正体や、ダース・ベーダーの最期に、観客は驚いたり感動したりしたらしいけど、この新三部作は旧三部作の世界観が浸透しきった後に「ネタバレありき」でその過程を映像化されたようなものなので、旧三部作のような完全オリジナルの初出の脚本が映画化されるのではなく、「原作の映画化」に近いものがあるだろうし、そして、このアナキン・スカイウォーカーを中心とする新三部作は、見る人間に対して、スターウォーズを文字通りの国家間の「宇宙戦争」と捉えず、ダース・ベイダーの物語として捉える切り口を必然的に強要することになってしまうのだろう。

この旧三部作からの時間的な開きがこれだけ大きいと期待と妄想が膨らみに膨らむだろうし、また中心となる見方がある程度固定してしまったことも、批判が噴出した要因のひとつだろう。期待が大きければ大きいほど失望も大きいというわけである。

普通の一般人でしか無かった人が、いつの間にか祭り上げられて活躍してしまうような映画やら小説やらが多い中、絶対的で圧倒的な「選ばれた者」が一般人を巻き添えに立ち回る、旧式の神話的物語はやっぱりいいものだ。と思った。
旧三部作からすれば「スターウォーズ外伝」とも言うべき同人誌的な要素と、小学生でもわかるような娯楽映画の要素が上手くミックスされていたと思う。

2008年10月17日

●スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 /

amazon ASIN:B000GD7YKK エピソード5の後、スターウォーズシリーズの最終章である「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還」を観た。
公開された1983年当初はサブタイトルが「ジェダイの復讐」だったけど、後に「ジェダイの帰還」となったらしい。私は子供の頃に聞いた「ジェダイの復讐」なるタイトルを覚えていたのやけど、原題は「Return of the Jed」なので「帰還」に近いやね。
でもまぁ、「帰還」は「復讐」の要素を含んでいる事が多いと言う事で。

前作で炭素冷凍されたハン・ソロをいつものメンバーが助けた後、ルークはヨーダの下にジェダイの修行を完成させるために向かい、そのほかの仲間たちは、新たに建造されつつある最終兵器「デス・スター2」を破壊すべく作戦行動を開始する。というもの。

いつの間にか、ハン・ソロと前作で登場したランド・カルリシアンが将軍になっており、さらにはその将軍自ら先頭に立って戦闘を行う様は、なんだかデパートにいるという客の苦情にひたすら謝るだけの存在である「怒られ店長」を髣髴とさせる、「突撃将軍」とも言うべきものがあってなんだか悲しいものがあった。

物語は最終兵器のデス・スター2への直接攻撃と、その援護である地上のシールド施設破壊をその二人の「突撃将軍」率いる部隊が行いつつ、ルーク・スカイウォーカーは正体を知ったダース・ベイダーとの最後の結線に挑む。というところであろうか。
そしてエンディングはこういった健全SF世界観に相応しくドラクエのような大円団である。
個人的にはどっちかというと端役ながらも、着々とクールに任務をこなす戦闘機乗りのウェッジがとても渋かった。

ネットでこの「スターウォーズ」についてを調べてみると、やたらと細かい設定とやたらとコアなファンサイトが大量に目に付く。
この物語の映画内で語られている以外の、例えばライトセイバーの設計図や動作原理から一兵士に至るまでの名前から銀河の国々の歴史など、公式設定がやたらと多くあり、これがコアなマニアを引きつける一因となっているらしい。
なるほど、この物語がなぜこれだけ沢山の人に愛されるのか、「現代の神話」とも言われる程のものを持つのかがわかったような気がした。

しばらくこの映画のシリーズを観ていると、道で赤い光る棒を持って誘導しているおっちゃんがダース・ベイダーに見えてしょうがなかった。コーホー
結局ベーダー卿は何が楽しみで生きていたんだろうか…

2008年10月16日

●スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 / 短気は損気なベイダー卿

amazon ASIN:B000GD7YKA 前日にエピソード4を観たので次はエピソード6を。と思って観ていたのやけど、いきなりハン・ソロが化石みたいになってるし、解凍されたハン・ソロとレイヤがブチューっとキスしてるし、巨大なハテナマークを頭に浮かべながら見ていた。
しかし始めてヨーダが登場したもののいきなり死んだ場面を見て、これは違うと確信してDVDを見直すとエピソード6を観ていた…

ということで、エピソード6を観るのを中断して、 1980年に公開されたスター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 を見た。例の如く、デジタルリマスターの特別篇やけど。

前作でレイヤ姫に逃げられた上に、反撃された反乱軍に最終兵器「デス・スター」まで破壊されて散々な目にあった帝国軍が反乱軍に逆襲すると言う話。
物語の最後でダース・ベイダーの正体が明かされるけど、そんな事は映画を観る前から知っていたので全然驚けずにちょっと残念やった。

戦う相手が悪すぎるのか、へぼ過ぎるのかは微妙ながら、部下が作戦の失敗ばかりして、やたら怒るダース・ベイダーが笑えた。
ダース・ベイダー自身は部下に恵まれないと思ってるのやろうけど、上司としてはいかがなものか。
そのマスクの下でキーッと怒ってフォースを使ってリモートで部下の首を締めるベイダー卿がなんとも愛らしい。

しかし、ベイダー卿と呼ばれるダース・ベイダーは帝国の中でどういった位置にあるのだろう?ベイダー将軍でもベイダー大佐でもなくベイダー卿ということは、実は武官ではなく文官で、爵位でも持っていると言う事なのだろうか?という疑問を抱いた。

「スターウォーズ」と言えば、なんとなくフォースによって心眼と気を使うライトーセーバーを持ったジェダイの騎士の話の側面と、SF的な宇宙戦争の話やと思っていたのやけど、エピソード4を観て、ジェダイの騎士も宇宙船に乗って戦うんやーとちょっと驚いていた。
エピソード4はどちらかというとジェダイの物語と言うよりはSF寄りの物語やったけど、このエピソード5になってから、ジェダイの騎士はちゃんとフォースを使って戦う方向性になり、SF寄りの物語部分と求道的なジェダイの物語部分がはっきり別れて来たなと思った。

2008年10月15日

●スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望 / 全体と個

amazon ASIN:B000GD7YK0 前から「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」とか言っていたけど、そう考えていた映画の中の一つに「スターウォーズ」シリーズがあった。シリーズ6部作と中々に長大なのでちょっと躊躇していたけど、やっと見始めた。
6部作と言う事で物語の時間の流れの順番にエピソード1からエピソード6まであるけど、一番最初に「スターウォーズ」として1977年に公開された「エピソード4 新たなる希望 」から見始める事にした。
といっても、私の観たDVDは公開後にデジタル修復&デジタルリマスターされた「特別篇」なのやけど。

物語自体の内容は知らないながらも、あまりにも一般的になった世界観やらキャラクターを持った作品なので、ダース・ベイダーやらオビ・ワンやらの登場人物や、ジェダイの騎士とかフォースなる概念などはあらかじめ知っていたので、全く知らない物語を見るのではなく、既に知っているその登場人物やら概念やらのつながりを確認するような見方やったけどとても面白かった。

公開当時は内省的で暗いベトナム戦争を扱った映画が多かったせいもあり、健全な娯楽性を持ったこの映画は大ヒットした。
この映画のヒットのお陰で子供かマニア向けの低予算・低技術のB級映画としか成立しえなかった「SF映画」なるジャンルが、一気にメジャ一なものとなる一因となったようである。
さらに、この映画が完全オリジナルの脚本で作られた事は、今まで一般的であった文芸作品からの映画化と言った流れを変える事ともなったらしい。

ストーリーとしては1920年代の典型的なスペースオペラを踏襲しながらも、ハードSF的なリアリティーを持たせつつ、ただレーザーとバリアと宇宙船で戦うだけでなく、フォースやらジェダイの騎士なる概念が入っているところがとても面白く感じるのだろう。

小説でも映画でも、物語内での世界の技術やら社会制度やらが肥大してしまえばしまうほど、個人の持つ力は総体的にどんどん小さく見える傾向がある。
あまりにも発達した社会にとって個人は余りにも無力であるし、あまりにも発達したテクノロジーの前では、個人の持つ力などあまりにも小さい。
でも、この映画では発達したテクノロジーと宇宙間戦争といった科学や社会のなる舞台にいながらも、フォースやらと言った概念を使って個人が活躍する場が大きく残されている。
テクノロジーや世界観や社会と言った、全体としてのSFの追求と、フォースを拠り所としたジェダイの騎士やらダース・ベイダーなる個の追求の物語の調和がこのシリーズの面白さなんやろうなと思った。

2008年10月14日

●「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」 / 今更ながら「エヴァンゲリオン」について考えてみた

amazon ASIN:B0012V4WSM 本当なら劇場で見たかったのやけど、いつの間にか観る機会を逃していた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』 (2007/日)を今更ながらに観た。
話の内容としてはアニメ版の1~6話、第5使徒ラミエルと戦うところまで。
テレビ版の総集編のような感じやったけど、製作サイドは「新世紀エヴァンゲリオン」とは別物の全く新しいものだという認識でいるらしい。
使徒の番号がずれてるとか、いきなりターミナルドグマやリリスやカヲルが出てくるとかは確かに違う。

以前はある程度シンジに感情移入して観ていたけど、さすがにこの年になるとそういった見方は出来ないし、どちらかと言うとネルフの人間の立場の見方を考えてしまう。
昔にテレビ版を見た時はとても面白かったはずなのやけど、今になってみると以前ほどの面白さはないように感じた。

シンジのうじうじ度合いを始め、その他のレイやトウジなどの子供たちはいいとしても、ミサトやリツコやゲンドウのキャラクターにとても違和感がある。
ミサトを中心にしたネルフ職員がシンジを何とか初号機に乗せようと、褒めたりなだめたり怒ったり諭したりする様が全然リアルに感じられないし、必死で使徒と戦っているようにも見えない。
シンジに戦ってもらわないとどうしようもないのに、シンジの自由意志で乗れとか言ってるし、無理やりにでも乗せようとしないのが不思議でしょうがない。
大人ってのはもっとドロドロしてて賢くて複雑なものやと思う。
シンジではなく、ネルフの人間に感情移入して見てしまうと違和感ありありであった。

ネットのどこかで「エヴァンゲリオン」は「オリジナルなき世代の、引用とコピー(リミックス)にあふれた作品」だという意見を読んだけど、確かに最近色々な古い漫画や映画やアニメを読んだり観たりするようになって、エヴァンゲリオンでのあれのオリジナルはこれやったんか。と思うことがとても多い。

このアニメが社会的な現象となって、今までアニメに見向きもしなかったいろいろな人が言及するに及んだのは、逆に完全オリジナルではなく、今まではとても結びつくことの無かったさまざまなジャンルの複合体であったゆえんであるかもしれない。
過去のアニメは勿論、科学から映画、宗教、哲学、心理学など、今までのアニメに無かったような方面の語彙とシステムと考え方がちりばめられたこのアニメは、本当に色々な方面の色々な人がやたらと深読みしていた。
今となっては昔話やけど、ありとあらゆる解釈が世間に満ちていたのは当時結構びっくりしながらも面白かったり笑えたりしたものだ。

エヴァンゲリオンがアニメ史を変えたという言い方をよくするけど、それは、ガンダムが今までのロボットアニメを根底から覆したのとはまたタイプが全く違う。
どちらかと言うと、その色々なジャンルの複合体の形式としての「エヴァンゲリオン」は、メインカルチャーからサブカルチャー含む、一つの歴史解釈とも言える総決算の形だったのではないかと思った。
で、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」で始まるシリーズはそういった「新世紀エヴァンゲリオン」のまた一つの総決算と言うことになるのだろう。

「新世紀エヴァンゲリオン」を観たことのある人たちはそのストーリーにちゃんとついていけるけど、全く予備知識も無い人は果たしてちゃんとついていけるのだろうか?どうなのだろう?

2008年10月13日

●ときめきスペランカーメモリアル

先日「メトロイド」をクリアした後、伝説のクソゲーである「スペランカー」に挑戦していたのだが、やっとのことで地下奥深くにあるピラミッドにたどり着いて財宝を手にした。

このスペランカーというゲーム、ご存知の方には説明するまでも無いほどの有名ゲームなのであるが、一応知らない人に説明しておくと、探検家である主人公が洞窟の奥深くの地底のピラミッドにある財宝を目指して探検するというものである。
まぁ、「インディージョーンズ」のようなイメージのゲームで、蔦を上り、蔦から蔦へと飛び移りつつ、邪魔な岩をダイナマイトで爆破し、襲い来る幽霊を銃で薙ぎ倒し、飛び回る蝙蝠をフラッシュで撃ち落し、隠された鍵を発見して、扉を開いて、洞窟の奥へ奥へと進み財宝を目指す、と、ここまでだと巷によくありそうなゲームなのだが、このゲームが他の同じようなゲームと比べてどう有名なのかと言うと、張り巡らされたトラップと個性溢れる敵キャラクターの多彩さ、などではない。
このゲームの主人公はゲーム史上最弱、あるいは病弱と言われるところがこのゲームが「伝説のクソゲー」たる確固たる地位を築いている所以である。
例えば、コウモリにフンを落とされて死亡、体ほど高さの段差から飛び降りると死亡、下りエレベーターでジャンプすると着地した時に死亡、と言うくらいの病弱さ。
もう地底なんか探検してんと引きこもっていた方がええんちやうかと。誰しもが突っ込みたくなるところである。

というわけで私は、ちょっとしたことが命取りになる、このゲーム史上最弱のヒーローを、ちょっとの段差にも躓かないように、勾配の強い坂道で転ばないように、ちょっとした風もあたらないように、腫れ物を触る如く、真綿で包むが如く、男に振られたばかりの思春期でかつ反抗期の女の子と話をするかの如くに操ってやっとのこと最深部のピラミッドまで連れて行って財宝を手に入れたのである。

たしかに、このゲームは難しかった。とはいってもこの難しさと言うのはメトロイドや魔界村などの普通のゲームの方向性とは一味違い、いかにソフトに主人公を操るかと言う、ちょっとそれは違うんやないか?という方向性なのだが、まぁ確かに達成感はあった。

で、財宝を手に入れて喜んだのもつかの間、次の瞬間、この最弱ヒーローはこの財宝に飽き足らずまた別の迷宮へと冒険に繰り出しているではないか。
こんな病弱な体で迷宮を潜り抜て死ぬことなく財宝を手に入れることが出来たのは殆ど奇跡だと言うのに、自分の力を過信しているとしか思えない。
こんな余りにも冒険とは程遠い主人公が探検を繰り返せばその先に待っているのは、坂道で転んで死亡するか、下りエレベーターでジャンプして死亡するか、蝙蝠のフンに埋もれて死ぬかといった散々な運命だけである。
身の程にあわない欲望の追求は破滅の道でしかないのである。

調べてみると、このゲームはエンディングが無く、ずっと同じ迷宮をさ迷い続ける仕様らしい。
しかも、二周目以降の難易度の上昇は敵が強くなるとか、トラップが激しくなるといったものではなく、「鍵が見えなくなる」といった方面で行われるということである。
このゲームの難しさは、敵の強さやトラップの激しさなどと言った方向性ではなく、いかに主人公を優しく扱うか、いかに見えないものを手に入れるかと言った方向性である。
これはどちらかというと、いわゆるアクション系のゲームのような「いかに喧嘩に勝つか」というよりは、ギャルゲー的に「いかに女の子を落とすか」に近いような気がする。
スペランカーはアクションゲームと言うよりはギャルゲーに近いのだ。

主人公の見の程をわきまえぬ欲望を直視しながらも、婦女子をたらし込むが如きの難しさがある、何とも含蓄深い不思議なゲームであった。

2008年10月12日

●「この橋渡るべからず」的良い訳

うちの車のボンネットと天井には、黄砂と良くわからない埃と水垢がこびりついていて、そこに近所のネコの肉球の跡が点々とついている。
ボンネットについた肉球の跡のプリティーなことプリティーなこと。

そういえば、この車はついこの間車検から帰ってきたのだが、今回のその前の車検の時以前から洗った記憶が無い。
少なくとも二回の車検を一度も洗車されずに通過する車と言うのは中々珍しいのではないだろうか?

しかしながら珍しいといって喜んでばかりはいられない、二度の車検を洗車なしで通過すると言うのは、
例えば、病院に行くけどお風呂に入らない。あるいはお風呂には入るけどパンツは履き替えない。と言ったような状況に似ている気がする。

自転車ばっかり洗ってんと車もたまには洗わんと。
しかし、洗車すればこの肉球の跡が消えるのがかなり残念である。
何とか肉球の跡を消さずに洗車をすることは出来ないだろうか?
一休さん的思考で考えるとこうなるだろう。「この車洗うべからず」と。
ということで、車を洗うのはまだまだ先になりそうである。

2008年10月11日

●『AKIRA』大友 克洋 / 終末思想的終末ヴィジョン

amazon ASIN:4061037110  いい加減MTBのチェーンに噴いているオイルが砂埃を吸いに吸って大変な事になっていたので、自転車を洗った。
車と違って自転車は洗わないとちゃんと走らないのだ。

前日に東寺の近くの古本屋でB5版の『アキラ』全6冊を買い、10キロの道のりを背負って自転車で帰って来た。さすがに重たかった。
今まで映画は何度か観た事があったけど、漫画を読んだのは始めて。
以降の漫画やアニメに決定的な影響を与えた古典中の古典であるだけあってとても面白かった。
今となっては使い古されて当たり前になった表現やとか概念が満載やけど、流石に元祖だけあって今見ても全く色あせておらず、当時はどれだけ斬新だったのだろうかと思う。
当時に革命的だったものも、その以前にあったものからを影響を受けたり発展したりしているわけで、文化の積み重ねってものを感じた。
壊して一から作るのではなく、上に積み重ねて行く文化は、土台がしっかりしてこそなのだ。と思った。

この時期は「世紀末」だった事もあり、ハルマゲドン的なカタストロフィー以後のディストピアな未来を描く漫画が多かったような気がする。
こういった『アキラ』とか『北斗の拳』のような世界、つまりは、時代的には世紀末のカタストロフィー以後から新世紀が始まろうとするあたり、内容的には絶滅を免れた人間達のハードな生き方、を描くのは結局一つの終末思想というか「終末ヴィジョン」だったように思える。
肥大し過ぎた世界が世界大戦や核兵器などの大破壊の後にゼロから再生するっていうモチーフは、多くの少年たちにとって、結構リアルなものやったような気がする。

で、新世紀になった今、世界は全く変わらず、世紀末の不安を引き摺りながら、その延長線上にある。
世紀末が過ぎて振り返って思えば、漫画とかアニメってのは世界のヴィジョンを示すほどの影響力を持っていたんやなぁとしみじみ思う。

「新世紀エヴァンゲリオン」は「新世紀」と銘打ちながらも、世界の構造としては「アキラ」と全くかわらん。
これからのアニメとか漫画はカタストロフィーが無かった新世紀のヴィジョンをどう描くのだろう?

小説好きとしては、何としても漫画やアニメに負けないように、小説にも頑張って欲しい次第である。

2008年10月10日

●見ザク、言わザク、聞かザク

慈恩弘国なるお好み焼き屋に行ったのだが、噂どおりのお店だった。
10人で押しかけたので、店主のランバラル大尉に店の奥の別室「アバオアクー」に通され、連邦軍の制服を来た捕虜のフラウボウさんがお料理やらカクテルやらソフトドリンクやらを運んでくれた。
捕虜のフラウボウさんは、「座苦焼き」と「具腐焼き」が同時に運ばれてきて、我々が「どう違うねん?」と言っていた時には、こっそり「ザクとは違うのだよ!ザクとは!」と言ってくれたし、緑色のカクテルを指しての「この緑のなんですか?」の問いには「量産型です」と答えてくれた。

正直、来る前は味なんか殆ど期待していなかったのだが、意外にもちゃんと真面目に作られた美味しいお好み焼きだったし、ビグザムのメガ粒子砲やボールに利用されるたこ焼きも、ちゃんとタコ焼き器で焼かれていた。
ガツガツした金儲けの雰囲気なんか全然見られず、お店の人もお客さんも皆楽しそうな、とても良いお店だったと思う。
仕事ってのはこう言う風に関わる皆が幸せでなくっちゃなぁと思った。
とはいっても、奥の「アバオアクー」の部屋だった事もあり、食べ物やさんに来たというよりは、ツレの家に遊びに来たようなまったり具合であったけど。

という事で、お店にあったシャアザクで「三猿」ならぬ「三ザク」を。
20081010zaku.jpg

2008年10月09日

●毎年この時期になると思いだされる村上春樹

今年も村上春樹はノーベル文学賞を逃した。きっと彼は「そうかもしれない日本の私」なる記念講演の原稿を書いて待っていたに違いない、あるいは、あえて空気を読まず「~~日本の私」以外のテーマで来たかもしれない。
はたまた関西生まれ関西育ちの彼の事であるから、川端康成の「美しい日本の私」、大江健三郎の「あいまいな日本の私」と来た次に壮大な三段落ちを持ってくる事も期待できよう。

何れにせよとても残念である。彼がノーベル賞を取れば、「エロ小説家」「ただの流行作家」などという罵声を浴びながらも頑なに読み続けて来た甲斐が実り、堂々と胸を張って昔からの村上春樹好きを公言できるってものである。
来年こそは!

村上春樹の小説に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 』という小説がある。
その中で、「やみくろ」なる怪しく不気味な存在の支配する地底の奥深くを歩きながら、恐怖やら絶望やらと戦う武器として楽しい事を考えるために、主人公の連れのピンクが良く似合う女の子が「自転車の唄」を歌うシーンがある。
詳しくは書かないけど、ちょっと理不尽なくらいに悲惨な状態の中の地底の奥深くで、ピンクの服を着た女の子がピンクの自転車に乗って森に出かける唄を歌うシーンのなんと美しい事か。

そのあたりのシーンは私が色々な小説を読んで来た中で、最も好きなシーンの一つである。
このシーンのお陰で私は村上春樹を読み続けていると言っても良いと思う。

現在は凄い長編を書いているらしく完成が楽しみである。

2008年10月08日

●違和感のあるサブタイトル

昨日メトロイドをクリアしたので、次は昔ゲーセンで渋くて難しかった「アルゴスの戦士」でもやるかと思ってネットで調べたのだが、ファミコン版のアルゴスの戦士はとてもびっくりするようなサブタイトルがついていた。その名も「アルゴスの戦士 はちゃめちゃ大進撃」というらしい。
むむむ…確かにはちゃめちゃな大進撃なんやろうけど、それでも、このサブタイトルはあまりにも「アルゴスの戦士」につくものとしては違和感がありすぎる。

「アルゴスの戦士」をゲーセンで見た事の無い人にはこの衝撃は伝わりにくいけど、例えて言うなら、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第10番変ホ長調「コアラのマーチ」、あるいは、ゴルゴ13 第9999話 「花のルンルン武器庫」位の違和感があるのだ。
という事でアルゴスの戦士は諦めて、みっちり本を読んだ。お陰で読みかけのオットーの『聖なるもの』も残すところわずかとなった。

ついでに、ルドルフ・オットー『聖なるもの』に「アルゴスの戦士 はちゃめちゃ大進撃」風なサブタイトルをつけるとしたら、『聖なるもの -うきうきこわごわ、あぁっ神さまっ!- 』ってところだろうか…って怒られるで…

2008年10月07日

●メトロイド

やっとの事でメトロイドをクリアした。最後のボスはマザープレインなる巨大コンピューターなのだが、本体が巨大な脳だったのがあまりにもそのままでびっくりした。
いかにSFといえど、「わかりやすさ」の誘惑はとても強いということだろうか。

このゲームが発売された当時、私は中学生で、クワガタを捕るために山を歩きながら友人がこの話をしていたのをよく覚えている。
私はこのゲームをしていなかったので「スクリューアタックがうんたらかんたら」「エネルギータンクがうんたらかんたら」「主人公の正体は…」という話を一方的に聞くだけで、ちょっとした疎外感を感じていたのだが、やっと今になって話の輪に入れるぞ。
「最後はヘルメット脱いでたー」「メトロイドはエチゼンクラゲ」などと。

しかしこのゲームはめちゃくちゃ難しかった。中学時代に私の同級生はこのゲームをちゃんとクリアしていたので、考えればすごい話である。
そして、当時は手を出さなかったゲームに20年以上たった後に挑戦してクリアすることになろうとは…人生の不思議さを妙に感じるメトロイドであった。

2008年10月06日

●黄色い乾燥機

kansouki20081008.jpg数ヶ月前から新たに別の出勤ルートを一つ増やしたのだが、通り道にあるコインランドリーの乾燥機が、なんとなく原子力潜水艦の炉を思わせる風貌(想像)でちょっと恰好いい。
ボディーカラーも黄色という事で、「外で見つけた黄色いモノ」の一環として写真を撮ってきた。
赤が「通常の三倍」を表わす色なら、黄色は私にとって「通常の1.3倍くらい」かな。

しかし画像を良く見ていると青いプレートに「SONY」って書いてあった。ネットを調べてもSONYが業務用の乾燥機を作っている情報は無かったのだが、なんなんだろう?

この乾燥機の性能の指標としては「毛布なら一度に4枚 ワイシャツなら40枚 …」などと書いてある。
40枚のワイシャツというのは想像の範囲外にあるけど、40枚のシャツがこの中でぐるぐる回転している様は何とも凄そうだ。

昔から濡れたネコを乾かすために電子レンジに入れると言う話は良く聞くけど、乾燥機に入れると言う話は聞かない。恐らく当たり前のように乾いてしまうからあえて言及する必要すらないという事だろう。

この乾燥機にかかれば、ネコの数十匹を一度に干物にするはもちろんの事、中学生位のサイズの人間の一人や二人をミイラにしてしまうくらい簡単だろうし、苦行者の一人や二人を即身成仏と変えてしまうくらい朝飯前のはずである。
そう考えると、なんだかとても危険で凄い機械に思えて来た。

間違って乾燥機の中に入ってしまわないように注意注意!!

2008年10月05日

●きんし丼 / ラジコンという異世界 / 原色 海水魚ストラップ

明治の初めからあるらしい古いうなぎ屋さんで、うな丼の上に巨大な出汁巻きが乗っている「きんし丼」を食べた。
かなり有名な店で、この店が有名である事を中学生くらいの時から知っていたけど、なぜか今まで一回も行った事がなかった。
滅茶苦茶美味しいって事はなかったけど、突飛で刺激の強い変わったものを「美味しい」とする風潮からすれば逆に新鮮であった。
刺激物は慣れれば魅力が無くなるけど、こういった質実剛健な味こそ飽きが来ないのだろう。

madai20081008.jpg 大の大人たちが巨大商業施設のラジコン屋さんの一角に設えられたコースで黙々とラジコンの自動車を走らせている光景は明らかな異世界の趣がある。
日常的にほとんど目にする事の無い、ボールベアリング、ギア、金属シャフトなどの商品が延々と陳列されている横で大人たちが嬉々としてラジコンカーを走らせている。そんな場所にしばらく身を置いていると自分の中にある通常性の感覚が狂って来るような気がした。

ゲーセンで「原色 海水魚ストラップ」を買った。
出てきたのはマダイのメス。何気に尾鰭の先でアドエスのタッチパネルが押せるしいい感じである。とは言いつつも、本当はマアナゴが欲しかった。
しかし、ネットで調べてみると、シークレットは「ゴンズイ玉」らしい、むぅ、これは欲しいぞ…あんまり触りたくないけど…

2008年10月04日

●『カムイ伝』を読み始めた

amazon ASIN:4091920314 最近、昔から読みたかった『カムイ伝』を読み出した。全15巻もあるので一度に買うと結構お高いゆえに、古本屋で安く叩き売りされているのを見つけると買っている。
1巻から4巻、7、8巻、そして13、14巻と飛び飛びに読んだがまぁなんとなくストーリーはわかる。
江戸時代の身分制度の最底辺に住む人達の悲惨な生活と自由への戦いが描かれている。

中学校の日本史で、江戸時代の身分制度は、被支配層の人々をいがみ合わせ、支配者層への不満を、身分が下の対象への差別意識と攻撃性へ転化させるシステムである。って習ったけど、実際にこの漫画を読んで見ると中々見事に強烈にエグイ。

江戸時代は中々に完成された豊かな時代であったと言う話を聴くけど、この漫画を読んで最下層の人々の生き様を見る限り、とてもそういう風には思えない。

豊かであると言う事が、富が多い状態を指すのだとしても、富の絶対量は一定で、新たに生み出される事なんか無いんじゃないかという印象を受ける。
結局、絶対量は変わらない富を集中させるか分散させるかしかないのだろうか?我々は一定の量の富を奪い合う事しか出来ないのだろうか?

富の総量を増大させるのではなく、搾取によって自らの下に集中させようとする支配階級に引き換え、主人公の一人の正助は、テクノロジーの発展や社会改革によって、自ら富を生み出し、そのの総量を増大させようとする方向性を持っている。
なんか彼の努力も徒労に終わりそうな雰囲気がするけど、創造的な人間と言うのはやっぱり見ていて気分が良い。

2008年10月03日

●マイノリティ

仕事後に職場の同じチームの人たちとヤキトリを食べた。有意義で楽しい会合であった。

higanbana20081002.jpg毎年、所々に咲いていた白い彼岸花が今年も咲いていた。今年は「咲いていた」という控えめなものではなく、群落になって特定の一体を埋め尽くしていた。ここまで咲き乱れていると全然ありがたくも何とも無い。
マイノリティだったはずのものが多数派になっている状態ってのにはちょっとした違和感を感じる。
そして大抵の場合、そのマイノリティだった価値は消費し尽くされてしまうのだ。
来年、ここはどうなっているのだろう?と余計な心配をする。
群落から外れてぽつんと咲いており、一本首が折れていた、この写真のものにちょっとした親近感を覚えた。

2008年10月02日

●病院でMemento mori

朝、仕事前に病院に行く、二ヶ月ぶりくらいである。
流石にもう終わりだろうと思っていたら、「そろそろ傷跡が馴染み始める頃」らしい。人体と言うのは思ったよりも気の長いスパンで時間が流れているものであると思う。
前に病院に行った二ヶ月ほど前がかなり昔に思える。さらにこの怪我をした四ヶ月前が遥か昔に思える。

この四ヶ月、自分はかなり変わったように思えて喜ばしかったり、また全然変わっていない事に気付いてうんざりしたりした。
でも傷跡が馴染み始めるのでさえこれくらいかかるのである。そんなに簡単に人間が変わろう筈も無い。

病院と言う場所にいると引き摺り込まれそうになるくらいに落ち着く自分を再認識すると同時に「Memento mori」を思わずにはいられない。
病院でそんな事口にするとボコボコにされそうやけどね…

2008年10月01日

●FONと「共有」の考え方

二年ほど前に、スペインのベンチャーがgoogleやskypeなどの出資を受けて無線LANを利用してインターネット回線を共有するシステムである、FONなるサービスが日本でもサービスインしていたけど、今更ながらにこのFONのシステムを利用するための「FON La Fonera」なる無線ルーターを買った。

この無線ルーターを家の回線に接続する事で、自分のインターネット接続回線を他のFON会員にパブリックな公衆無線LANして提供し、その代わりに自分も市中にあるFONのアクセスポイントを利用出来るようになる。
街中に遊びに行ったりすれば、無線LAN端末でタダでFONのアクセスポイントが利用できるわけである。

この無線ルーターはそのFONアクセスポイントしてのパブリックなアクセスポイントだけでなく家庭内専用のプライベートなアクセスポイントとしても利用できる。当然、接続して来たFON会員から家庭内のネットワークは完全に遮断されているのでセキュリティ的にも安心である。

いわゆる一般的な「無線ブロードバンドルーター」にFONアクセスポイント機能をつけたといった感じである。

この無線LANルーターの扱うネットワークは、WAN側(有線)、プライベート側(無線)、パブリック側(無線)とそれぞれ別のセグメントとして構成された3つのネットワークインターフェイスであり、無線アクセスポイント内にインストールされているファイアーウォールによって、パブリックなセグメントからWANのセグメント、パブリックなセグメントからプライベートなセグメントはドロップされている。
パブリックなセグメントからはWANセグメントのゲートウェイから外のインターネット回線にしか、パケットは転送されない構成である。

私がこの機器を買ったのは、1980円の激安という事もあったけど、何よりもこの無線ルーター自体がオープンソースのソフトウェア群で構成されたLinuxノードであると言う事である。言い換えれば、いくらでもカスタマイズできると言う事である。

本来ならWEBインターフェイスしかないところを、スクリプトインジェクションの手法でコマンドが混入されたポストデーターを送りつけてsshのポートをバックドアとしてこじ開ければ、ログインして好きなようにカスタマイズできる。典型的なハッカーやクラッカーがどこぞのサイトに進入して乗っ取る手法と同じである。
一旦ログインの方法さえ手に入れば、ファームウェア(Linuxカーネル)の書き換えさえ可能になるという中々楽しい仕様であり、ネット上にはそういった情報が満載である。これはおもろいなぁ。

オープンソース、フリーソフトウェアの考え方は、技術やテクノロジーはみんなの共有物であり広く開放されて広く使われるるべきであるという「共有」の考え方に基づいている。
色々な技術やテクノロジーや情報が様々な別の技術のの叩き台にされるのは勿論の事、そんな技術的な事に興味が無かった人までが使うようになると、今まで考え付かなかった方向や対象にその技術や情報が拡大されることも多い。
結局それは、それに関わった皆の幸せにつながる事となるし、今までの価値である金儲けの為の技術ではなく、技術による可能性とか利便性に価値を置いた視点であろう。
この流れは後に歴史的な大きな思想の流れの一つとして捉えられるほどの威力と魅力を持っているのではないかと個人的に思う。

そして、このFONなるインターネット回線の共有の考え方もその「共有」の考え方に基づいているのやろうし、こういったサービスにインターネットを使って貰えて何ぼのgoogleやskypeが出資する意図も大変良く理解できる。
今となっては生活のインフラともいえるようなインターネット接続環境をより当たり前のものにするためにもFONの考え方は面白いし支援したい。

当然そういったインフラにただ乗りする人、「共有」物」を消費するだけの人はたくさん出てくるだろう。
濡れ手に粟な価値観を至上とし、自ら種を蒔く事無く実だけを刈り取ろうとし、何も生み出さず何も表現せずに公共物を消費だけする輩の多さにはもううんざりであるけど、結局彼らは積極的に害を成さないだけまだましである。と思うしかない。

このFONなるシステムは「FONシステム」としての考え方としても、「FON無線ルーター」の作りとしても興味深い。
思想だけ魅力があってもただそれだけやし、実際それと関わるモノ自体の魅力もとても大事であろう。
訳のわからんとても関わりたくないような胡散臭い奴が、いくらそれらしい思想を語っても、その思想が冒涜されているようにしか見えんし、その思想を良く知らない人は逆に避けてしまうのと同じであろうか。

FONシステムの考え方が面白いのは当然として、FONの無線ルーターの作りを、誰でもが簡単に使えるインターフェイスにしておくの同時に、私のようなコンピューターオタの欲望に訴えかけるような仕様にしておくのも戦略の一つやなぁと思った。

参考サイト :
FON
FrontPage - FoNまとめwiki