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2008年09月30日

●欲望対象がインフレ

先日からルドルフ・オットーの『聖なるもの』を読み始めた。読み始めて直ぐ位は「むむむ…面白くない…参ったなぁ…」と思っていたのだが、三章に入ったあたりから俄然面白くなって来た。「被造物感」なる目新しい単語にメロメロである。

本は読みたいけど、ピアノも弾きたい。むむ…悩むところである。
他にも、コンピューターは触りたいし、映画は観たいし、ハンダ付けもしたいし、数学、世界史、物理、プログラミング、ナドナド等、勉強したい事も沢山ある。
遊びにも行きたいし、美味しいものも食べたいし作りたいし、海にも行きたいし、もう欲望のてんこ盛りである。
いわば欲望対象のインフレ状態やけど、対価として支払われる(ように見える)私の行動や行為や時間が過剰になって価値が下がるのは嫌やなぁ。
いや、私の行動や行為や時間は等量で増減しないから、獲得される欲望対象の質や量を低下させる事でバランスを保つのか?
と、やっぱりこの「器用貧乏」的な結論になるのだろうか…

2008年09月29日

●MIDI入力装置ではなく楽器

270MBを超える巨大サウンドフォントをインストールしてみたものの、ちゃんと再生されない。
古いSoundBlasterには「32MBの壁」ってのがあるらしく、同時に発音しているサウンドフォントのサイズが32MBを超えると音が鳴らないという現象が起こるらしい。
家の音楽pcのサウンドカードはかなり古いので、おそらくこれが原因であろうか。そのくせ120MBのピアノ専用サウンドフォントが鳴ったりするので謎…

ということで、サウンドフォント弄りはとりあえずこれくらいでピアノの練習をした。
ここ最近の電子ピアノは楽器ではなくMIDIコマンド入力インターフェイスになっていたので、ちゃんと弾くのは久しぶりである。
気づいたらあっという間に時間が過ぎていた。数時間練習して、変な筋肉や筋を使ったせいか腕が痛い。

バイエルは進んでいるもののまだまだ序盤。
ドラクエでいうと「こんぼう」を持ってスライムと戦っている位のレベル、スライムを数匹ボコボコにしたらフラフラで宿屋に帰って…というところであろうか。
早いとこキメラと戦えるくらいのレベルにはなりたいものだ。
両手を個別に法則性なく別々に動かす時に頭の中の回路が焼け切れそうである。

2008年09月28日

●あたし土偶、あたし貫之系、みたいな?

若人の
すなる
ケータイ小説

といふ
ものを

土偶も

して
みん
とて
するなり

てか
あたし貫之系?

いきなり
パクリですか?
みたいな

てか

この文体

書いてて息苦しい

みたいな

終わり



終わらない

でも

昔の
ヒト

土佐日記
by
紀貫之

ネカマ元祖
かつ
日記系ブロガー

みたいな?

ちがう?

ちがうよね。(´・ω・`)ショボーン


でも、
こんな文体
あり?
なし?

どっち?
あり?なし?なしあり?ありなしあり?

まぁ
どっちでも
いいよね
みたいな

こんどこそ終わり


って、読むのはしんどいけど、意外に書いて楽しいのがわかった。

2008年09月27日

●土曜日は寒かった

薄切りの豚肉をミルフィーユ状に重ね合わせて揚げたものを食べた。確かに美味しいけど、普通のトンカツの方が美味しいかも。まぁ、私がロースよりもバラ肉の方が好きなせいもあるかも知れんけど。
しかしこれは手間の割に得られるものが少なすぎるような気がする。そもそも何の為にそんな事をするのかが良く理解出来なかった。

久しぶりに『Tokyo graffiti』を買った。「人生最高の本! 映画! 音楽! 240人が選ぶ400作品!!」の特集に思わず釣られてしまった。

恋愛小説だの恋愛映画だのを人生最高の本だの映画だのにあげている人が、大抵「私もこう言う風に愛されたいっ!」って言っているのは微笑ましい。
微笑ましいのだが、自分の目標のようなものを、自分の努力ではあまりどうこう出来ない部分に置いてしまうと、結構辛いんじゃないだろうか。と思った。

恋愛に至上の価値をおく価値観はわかり易いようでいて、実は他人から見ればとてもわかりにくい。
なぜなら、恋愛ってのは、とてつもなく個人的なものであるし、個人にとっての恋愛は他人にとって何処にでもあるありふれた話であり、個人にとっての恋愛対象は他人にとってはどこにでもいるありふれた他人であるからだ。
赤の他人から見て、赤の他人が自身の恋愛に最大の価値を置いている合理的な理由など、絶対に見つからないと言い切れるだろう。
個人的な粋を絶対に出ない価値が、普遍的な価値の一つであるとして、半ば公認されているのは、考えて見ればとても不思議である。

2008年09月26日

●ドラゴンバスターの話を深読みし過ぎてみる。 / セカイ系ドラゴンバスター

やっとことさドラゴンバスターをクリア、やっとこさ姫を救出したと思ったら主人公のクロービス君は「まだこの王国の平和の復興には長い道のりがある。私は次の冒険に挑戦しなければいけない」とか言ってやがる。
これは裏があるな…このクロービスと言う男、普通の人間にしては強すぎる…恐らく…

王国の姫がドラゴンにさらわれ、姫を人質にドラゴン側が王国の統治権を要求する事件は、クロービスなる謎の愛国フリーター青年が王位簒奪者となろうとした相手方のドラゴンを殺害することであっけなく解決。これはあまりにも出来すぎている。

ドラゴン王国の行った拉致事件に関して、二つの国が外交努力で水面下の交渉が進みつつあるところに、この間までただの素浪人やった兄ちゃんがドラゴン王国に単身潜入、逮捕に現れた相手方の人間をことごとく垂直切りと兜割りで殺害して鍵や盾や剣やランプなどの所持品を強奪したうえに、首都に潜入して首謀者を惨殺したうえで拉致被害者を救出。気付けばめぼしい有力者は皆殺しになっている。この後、ドラゴン王国が国の体裁を維持する事は不可能だろう。
拉致事件に対する報復としてはあまりにもあまりである。

しかし、王国側からすれば、一介の素浪人が勝手にやった事と言い逃れできるから国の責任は問われない。王国の責任の範囲外で姫は戻るし、長年の仇敵だったドラゴン王国も壊滅でウハウハどころか併合のチャンスまで到来である。
無政府状態に陥っているドラゴン王国をこの王国が征服するのは容易い。しかし諸外国の目があるのでドラゴン王国の首都に自軍を送る事は出来ない。王国の第二女の拉致に対する報復行動だとしても、一国の国家を占領する動機としてはちょっと弱すぎる。そこでクロービスである。

謎の男クロービスが姫に言った謎の台詞が気になる。クロービスの次にする事は、恐らくドラゴン王国の国民への扇動とクーデターの画策だろう。
他の国の王族を拉致してその国の統治権を請求するような自国の政府に対して、政治に不満を持った特定の集団がクーデターを起こす。普段政治に不満を持っていた国民はそれを支持し、クロービスによって軍と政府の有力者を失っていた政府は対応しきれずクーデターは成功。
そして初の普通選挙が行われ、民主化したように見えるドラゴン王国は王国の傀儡国家と化す。というシナリオである。

恐らく、諸外国はこのクロービスがこの王国から非公式に密命を帯びた特殊部隊の構成員である事は予想しているだろう。王国のこの強引なやり口に危機感と不安感を持って当然である。
民主化したドラゴン王国が平定した後、クーデターによって失脚したドラゴン王国の残党たちは地下に潜って、ドラゴン王の血筋の生き残りの少年ドラゴンを擁立して、民主化を廃止して王国制復活のための内乱の機会を狙っていた。武器、資金、人材は王国のやり口と王国の領土拡大に危機感を持っていた諸外国が喜んで出していた。

恐らくそんな動きをクロービスは予想していただろう。長く王制を敷いて来た国家が簡単に民主化を受け入れる筈が無い。なんとしてもその動きを叩き潰す必要がある。
しかし、軍隊を出すのは国内政治と外交上の問題がある。政府による元王族に対する武力行使は、長い歴史を持つ国であればあるこそ、無血革命による民主化が成功した今となっては、理由はどうあれ国民の反感を買うだろう。
そしてそれが「民主化した国家での内乱」とまで発展してしまえば旧王国側どころか諸外国の思うツボである。諸外国は傀儡ドラゴン国政府を非難しやすくなるし、喜び勇んで内乱の平和解決の名目で平和維持軍として、この国に武装して雪崩れ込んで来るだろう。その後の分割統治の分け前にありつくために。
とにかくそんな事態だけは避けなければいけない。途中でいつの間にかシーフに剣を盗まれながらも、最後まで戦い抜いた悲惨で長い冒険が台無しである。

情報部員からの情報提供によって資金の流れも武装の規模も人材の流入も完全に把握していたクロービスは、今こそドラゴンの血筋を根絶やしにするチャンスと確信して、単独行動による主要者の暗殺を選択した。
そしてもう一度自ら単身敵の潜伏場所に侵入する。なんとか敵が武装蜂起して決起する前に敵の残党を殲滅する必要があるのだ。
この作戦行動の成功を持って、完全に王国によるドラゴン王国の征服が完了するだろう。

そのあたりがエンディングでクロービスの言っていた話の裏である。彼の言う「次の冒険」とはドラゴン王の血筋とドラゴン王国の残党たちを根絶やしにする冒険である。

しかし、単身で一個の国家を征服してしまう「最終兵器クロービス」或いは「汎用人型決戦兵器クロービス」の目指すところはもっと先である。全世界を征服することこそ、世界を救う事になるのだ。

とはいっても、そんなややこしい話にはもう付き合ってられん!!(ややこしくしてるのは私だが…)つーかこんな難しいゲームもうやりたくない。裏面に挑戦するのは放棄した。

で、次は「アルゴスの戦士」か「メトロイド」やな。

2008年09月25日

●リアルタイムカーネルでMIDI / パソコンってスゲー

先日ソフトウェアシンセで音飛びするとか言ってた「ubuntu studio」で作った音楽用PCであるけど、ジャンクで買い叩いた、古いけど結構良い、SoundBlaster系のサウンドカードが搭載されているので、ハードウェアシンセとして動作するはず。って事を書いた。
つうことで何とか音飛びしないMIDI再生環境を構築すべく、ネット上を彷徨っていると、私のカードに対応しているMIDIの再生方式に関係して「サウンドフォント」なる概念を知った。

色々な音色データーを指定された音色に合わせて再生する機能を持ったものがMIDI音源(シンセサイザー)だとしたら、MIDI音源をソフトでエミュレートすればソフトウェアMIDI、ハードウェアとして機能すればハードウェアMIDIということになる。
MIDI音源と一口にいっても、再生システムとしての機能と、その機能によって鳴らされる音色の部分に別れるわけで、その音色の部分がサウンドフォントとなるわけである。
私のサウンドカードは音色データーであるサウンドフォントを用意すれば、カード内に搭載された「再生システム」からそれを鳴らす事でMIDI音源として動作するようだ。

今まではその「再生システム」の部分もTiMidity++なるソフトウェアで動作させていたけど、これをハードに任せる事でシステムのリソースの消費を抑えると言った考え方である。
ということで、SoundBlaster系のカードでサウンドフォントを使用するためのドライバパッケージ「awesfx」をaptでインストール、インストール後に「/usr/bin/asfxload /usr/local/share/sounds/sf2/8MBGMSFX.SF2」等とasfxloadコマンドにサウンドフォントを指定して起動させたのち、MIDI再生時にしかるべきMIDIポートの出力先を指定してやると、見事に音飛びなしで再生される。やったー。
この「/usr/bin/asfxload /usr/local/share/sounds/sf2/8MBGMSFX.SF2」なるコマンドは起動時に自動で設定されるように/etc/rc.localにでも書いておく。

私のサウンドファイルに対応したサウンドカードは音色を内蔵したMIDI音源としてのハードウェアシンセではないけど、逆にそのサウンドフォントをとっかえひっかえする事で色々な音色を楽しむ事が出来るわけである。
先ほど指定した「8MBGMSFX.SF2」はSoundBlasterのCDに入っている8MBのサウンドフォントであるけど、まぁ音としては標準的である。世の中には色々なサウンドフォントが出回っており、色々な音色が入っている物や珍しい楽器の音色、さらにはドラム専用のものやピアノ専用のもの、サイズも数百KBから数百MBのものまでさまざまである。
色々聞き比べて見た結果、私が良く聴くのはピアノであることもあり、YAMAHA Clavinova CVP-205 からサンプリングしたらしい、120MBのピアノ専用サウンドフォントが結構気に入った。

しかし、MIDIファイルの再生だけにこのサウンドフォントを利用したMIDIのシステムを使うのではなく、電子ピアノの鍵盤から入力されたMIDIデーターを、サウンドフォントを指定したMID出力で鳴らせば、私の電子ピアノがありとあらゆるサウンドフォントで再生されるわけである。
鍵盤での入力と発音のズレが全く無い。これはいい感じだ。ここに来て始めてリアルタイムカーネルの威力が発揮されたような気がする。

家のはCASIOの低価格帯の電子ピアノやけど、今一番気に入っている先ほどのサウンドフォントで高級クラスのYAMAHA Clavinova CVP-205の音を鳴らすのはもちろん、ベーゼンドルファーのImperial からサンプリングしたらしい「Realistic Piano」なる19.90ユーロサウンドフォントを使えば、二千万円オバーのピアノの音まで鳴るわけで、何とも凄い話である。
なんか久しぶりにパソコンてスゲーなーって思った。
しかし、ベーゼンドルファーインペリアルの音がするサウンドフォント、19,90ユーロで買おうかな…
と書くと妙に貧乏臭いなぁ…

ソフトウェア音源として使っていた「TiMidity++」もWindows版があるので、興味を持たれてSoundBlaster系のカードを使っていない方もサウンドフォントをとっかえひっかえ試して遊んでみるのはいかがだろうか?

2008年09月24日

●apache-tomca+apacheで web+Java Servletを作る

先日仕事でJava Servletが動くサーバーを作ったのだが、実行環境であるapache-tomcat自体はバイナリパッケージを落としてきて展開するだけ、と激しく簡単である。
しかしこれではapacheと同じポートで同時に使えない。
どうせなら同時にapacheも使いたいので、apacheとTomcatを連携させるために、ネット上の情報を探したのだが、apache-tomcatを使うだのjakarta-tomcatを使うだのと二通りの情報が錯綜していて良くわからんかった。
そもそもapache-tomcatとjakarta-tomcatの違いがはっきりしなかったのやけど、色々調べた結果、結局この二つは同じ物を指していて、apache-tomcatの古い呼び方がjakarta-tomcatであると便宜的に理解しておいても大丈夫そうだ。

ややこしい話やけど、apache内のjakartaプロジェクト内のtomcat製作プロジェクトで作られたものがjakarta-tomcatで、後にtomcatプロジェクトが格上げされてapache直下のjakartaプロジェクトと同じ位置に来たのでapache-tomcatとなったと言う事らしい。どちらも作っているものは同じである。
apache-tomcatもjakarta-tomcatもどちらもJava Servletである。

で、apacheとTomcatを連携させて同じポートで動かす、つまり、apacheの特定のディレクティブだけtomcatで動作させるためには、apache + Tomcat Connectors + Tomcat(apache-tomcat)という構成すれば良い。
イメージとしては、apacheとtomcatが個別に動いていて、apacheへの特定のディレクティブへのアクセスを、apacheのモジュールであるTomcat Connectorsがリバースプロキシの様な働きをしてTomcatの特定のポートから転送するといった動作のようだ。(想像)

環境は OpenSolaris 200805
コンパイラはsunstudioexpress(SunStudio11ベース?)
apache_1.3.41 apache-tomcat-6.0.18 tomcat-connectors-1.2.26
apacheとtomcat-connectorsのみソースからインストール

とりあえずapacheを

./configure --enable-rule=SHARED_CORE --enable-module=so --prefix=/usr/local/apache
って感じの --enable-module=so つきでコンパイル、ポート80で動かす。

Tomcatをどこぞに展開して、bin/startup.sh で起動、
server.xmlのAJPプロトコルのバージョンと動作ポートを確認、
<!-- Define an AJP 1.3 Connector on port 8009 -->
 <Connector port="8009" protocol="AJP/1.3" redirectPort="8443" />
 
なのでajp13 ポート8009となる。


どちらもちゃんと動いていればtomcat-connectorsのインストール

tomcat-connectors-1.2.26-srcのコンパイル

$ cd tomcat-connectors-1.2.26-src/native/
$./configure --with-apxs=/usr/local/apache/bin/apxs
$make
#make install
とすれば
apacheのlibexecディレクトリにモジュールmod_jk.*がインストールされる

ただし、solarisの場合、
/usr/ccs/bin/make
/opt/SUNWspro/bin/dmake
/opt/SunStudioExpress/bin/dmake
では如くコンパイルエラーが出るようだ。
gnuのmakeを使えばちゃんと通るので入ってなければ入れる。


apacheのconfディレクトリに移動
httpd.conf に以下を追加


LoadModule jk_module libexec/mod_jk.so

<IfModule mod_jk.c>
  JkWorkersFile conf/tomcat.conf
  JkLogFile logs/mod_jk.log

#Tomcatの/examples以下を転送
  JkMount /examples/* tomcat

</IfModule>

tomcat.conf を新規作成して以下を追加


worker.list=tomcat
worker.tomcat.port=8009
worker.tomcat.host=localhost
worker.tomcat.type=ajp13

apche再起動
tomcat再起動

2008年09月23日

●リアルタイムカーネルでMIDI (ソフトウェアシンセ)

先日ubuntuをインストールしてaptでもってubuntu studioってマルチメディア系のパッケージセットを入れた。
しかし、調べると、このubuntu studioってのはソフトウェア群としてのパッケージというよりは、どちらかとubuntuベースのマルチメディア系に特化したディストリビューションであるようだ。

ディストリビューションであるからにはカーネルも用意しており、音声処理に効果を発揮するリアルタイムカーネルが入るらしい。
Rosegardenでソフトウェア音源使ったMIDI再生でも音ずれしなくなるんか?ということで、イメージをDVDに焼いてインストールしてみた。

ところが、ソフトウェア音源でのMIDI再生のパフォーマンスは全く変わらない。orz
/etc/security/limits.conf でpamの設定をしてリソースとプロセスの占有の設定をしてみても変わらず。むむむむ…

リアルタイムカーネル→音声処理が凄い→ソフトウェア音源でのMIDI再生がイイ!!→ウマー
って安直に想像してたけど、良く考えれば、リアルタイムカーネルってのはレイテンシが低くなってハードやリソースからの応答速度が速くなるのを目指してるだけやねんから、処理落ちするほどの高負荷が軽減される訳では無いやん…

なんか無理やりソフトウェアシンセで鳴らそうとしてるけど、良く考えれば、昔は結構高かったサウンドカードなので、カードに音源を搭載しているはずである。
こいつを何とか使えるようにすればサウンドカードでのMIDIは上手く鳴るんじゃないだろうか。

って、本来は電子ピアノを外部MIDIとして使うだけの予定やったのに、どんどん話が違う方向に行っているような…

2008年09月22日

●OpenSolarisで鯖立て準備

土偶家のサーバーはnetra T1 105っていうsparcマシンで動いているのだが、このブログのサーバーとメールサーバーを外のレンタルサーバーを借りて移動したので、そろそろnetraを引退させようと言う事を以前に書いた。

結局余っていたPentiumⅢ800のPCにコンパクトで省電力な電源を接続して、ただのsolarisでは面白みが無いので、OpenSolaris 2008.05 を突っ込んだのだが、まさに名ばかりカーネルばかりのsolarisとでも言おうか。

ファイルシステムのZFSやパッケージシステムのIPS(Image Packaging System)ってのはsolaris11の方向性なのやろうけど、/bin/shが/sbin/shのシンボリックリンク、/sbin/shが外部ライブラリにリンクしまくりのksh93へのシンボリックリンクであるのに愕然とした。
でも良く考えれば、ファイルシステムがマウントできず、シングルユーザーで起動して/sbin/shを最後の砦としてグリグリするような状況ってのは、ZFSでは起こり得ないということなのだろう。

最近の肥大化したSolarisと全く違うコンパクトな構成であり、gccやgmakeが入っていない割には、結構、各種ヘッダを取り揃えております。って感じで、IPSでSunStudioをインストールすれば結構色んな物のコンパイルが気持ち良く通る。
デフォルトで起動しているデーモンも少なく、余計な物は全く入っておらず、以外にサーバーOSとして良いんじゃないだろうか。

明らかにubuntuを意識していると言われて、unix初心者向きの方向性に見せかけながら、結構作り込みはエグイと感じた。
一番びっくりしたのが、IPSで全てを自動でアップデートしたら、カーネルのアップデートも入って、まともに起動しなくなった事である。
アップデート後にブートセクタに対して、アップデートされたカーネルで起動するように設定されたGrubを手動で書きこんでやる必要があるようだ。ってそんなん自動でやってくれよ。と。

初心者やったらその時点でアウトやぞーと思ったけど、初心者やったらカーネルのアップデートなんかやらんわな。と納得した。

2008年09月21日

●MIDIケーブルを作る

いくら家を探してもMIDIケーブルが見つからなかったので、雨の間を縫って買いに出かけたが、今時どの店もMIDIケーブルなんか置いていない。最近はUSBで音源接続するもんなぁ。
やっと見つけた店でも一本が1800円ほどと高くてとても買う気になれ無いので、5ピンのDIN端子と5芯のケーブルを買ってきて作った。
そういえばハンダ付けも結構久しぶりのような気がする。いつやっても、ハンダがぶわっと溶けて銅の網線に染み込み、すっと金属部分を覆って行く様は、何とも癒される。
ハンダ付けが終了した時点でハウジングと熱収縮チューブをケーブルに通しておくのを忘れた事に気付いて「がーっ!」となる。
とはいっても、ハウジング無しの端子むき出しで使うのも嫌なので、嫌々ながら付け直した。
ハンダ付け楽しいねんから喜んでやり直せばいいのに、生産性と関係ないハンダ付けは面倒くさいとしか感じられないのは不思議である。

ソフトウェア音源ではあれほどアップアップしていたMIDI再生も、外部MIDIとして繋いだ電子ピアノに出力してやるとサクサクであった。まぁ当たり前やけど。
MIDIと言えども、大好きな曲が、自分の電子ピアノから鳴っているのはちょっとした感動であった。

2008年09月20日

●ubuntuで音声系マルチメディア環境を

家で余っていた部品で電子ピアノと繋ぐ為の専用PCを作った。
要求仕様は、各種音声ファイル再生と録音と外部MIDI入出力、そして楽譜を表示するためのPDFビューアのみ。わざわざこれだけの為にwindowsのライセンスを使うのは余りに勿体無い。ということで必然的にフリーなOSの導入となる。
Solarisはドライバの対応状況とソフトウェアの充実度合いに難があるので、ここは無難にLinuxを入れることに。

ディストリビューションは以前からイメージキャラクターがラブリーなカメレオンというだけで使っていたSUSEを、最近カメレオンの露出度が低くなったという理由で却下。
今回はSUNがオフィシャルにサポートしているubuntuを採用してみた。
しかし今時イメージキャラクターが動物でないプロジェクトも珍しい。このロゴはいったい何や?有機化合物?ベンゼン環に分子が三つ?トリアジン
ubuntulogo.png Triazin.png

インストール後にソフトウェアやらプラグインやらを追加する。aptパッケージシステムなのでらくちん。
Linuxのパッケージシステムは良くできてるなぁ。そらSolarisなんかつかわへんわなと納得だ。

とりあえず良くわからんので、ネットの情報通り、aptのレポジトリを追加して、「Ubuntu Studio」なるマルチメディア系のパッケージと「KMid」なるパッケージを導入すれば、環境は整い、デフォルトでは再生されなかったMIDIとmp3はプラグインやドライバのインストール後には再生できるようになっていた。
しかしながら、電子ピアノと接続するためのMIDIケーブルが見つからないので、ソフトウェア音源だけのMIDI環境である。

Duron 1.3GHZ 768MBなubuntuマシンでシーケンサーソフトであるRosegardenでmidiファイルをALSAのソフトウェア音源で再生すると再生が結構もたつく。
私的には結構高いスペックのつもりなのだが、ソフトウェア音源でこんなに負荷がかかるとはびっくりである。
ん~何か間違ってるのか?

2008年09月19日

●もつ鍋とカニバリズム

先日行ったモツ鍋屋さんはかなりの人気があるようで、土日は予約が出来ず、二時間待ちは当たり前、かといって平日に予約しようとしても、常に予約が埋まった状態で、かなり先の予約しか出来ないらしい。

モツ鍋屋さんに人が殺到して順番待ちしてるのは、なんか提供が追いつかない臓器移植を待ち続ける患者の群れに混ざったような気がする。
で、やっとのことでドナーから提供された臓器であるので、謹んで私のモツに納めた。〆のとろろ&高菜のうどんの量がかなり多くて大変であった。

特定の内臓の部位が、食べ物であるモツとして呼ばれる場合に、日常使わない単語になるとリアルさが薄れるような気がする。
大動脈、気管、大腸と呼ぶよりは、コリコリ、ウルテ、テッチャンと呼ぶ方が食べやすいような気もする。
またフォアグラは人為的に脂肪肝だか肝硬変だかにした内臓脂肪満載のガチョウの肝臓なので、その世界三大珍味のひとつも「メタボリック脂肪肝のテリーヌ」というと、食べる人なんかほとんどいなくなるだろう。
逆に、医者にあなたのレバーとかあなたのバラ肉と言われたりするのも気分のいいものじゃない。

食べ物の話を医学や生物学の単語で、また医学や生物の話を食べ物の単語で言うのは趣味の良い事じゃないけど、これほど極端に気分の良いもので無くなるのは不思議と言えば不思議である。

内臓や肉の部位の名称を自分にはあてはまらない単語で呼びかえると言う事は、食べるものは自分と関わりの無い事ですよ。という意識の現れであるし、逆に、食べるものを医療系に例えると言うことは、自分に食べられる対象としての食物と、医療でもって治癒される対象である自分を、同じ次元で捉えることでもあろうか。
それは自分自身が自分の食べているものと本質的に同じであり、自らもまた、何者かによって食べられる可能性のある存在であると言うことを認めることでもある。
自分が動物を殺して肉を食っている。という意識は、自分もより強いものに殺されて食われる。という意識と表裏一体であろう。

食べられるものとしての自分、なる認識は気分のいいものじゃないし、食べ物としての肉体は、自分の肉体とは関わりのないものであって欲しいと言う感覚は良く解る。
「食う食われる」は自然界では当然の話やけど、生態系の頂点である人間を日常的な蛋白源としている生物はいない。可能性として人間に対する捕食者となりえるのは人間だろう。

生態系の頂上に君臨する人間にとって、自分自身が食べられる可能性は、自分自身が人を食べる可能性につながってくる。食べ物を自分と同一視することの嫌悪感は、自分が食べられる事と、他人を食べる事に対する嫌悪感でもあるかもしれない。
人間が、自分が食べるだけの存在であって、食べられる存在ではない、と意識することは、カニバリズムをタブーとする感覚に密接にリンクしているのかもしれない。

などと言ったことを考えながら、もつ鍋を食べるととたんに美味しくなさそうになるだろうと思った。

2008年09月18日

●エリザベス キューブラー・ロス 『死ぬ瞬間の対話』

amazon ASIN:4643920548 先日エリザベス キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を読んだ後に、二作目を読むつもりが、間違ってシリーズ三作目である『続・死ぬ瞬間』を読んだのだが、やっとシリーズ二作目の『死ぬ瞬間の対話』を読むことが出来た。
一作目の『死ぬ瞬間』の内容は、末期患者が「死の受容への五段階」と言われるプロセスを通って死を受け入れることを実例を示して提示し、死をいかに迎え、いかに送るのが望ましいか。というところが骨子になっていたが、このシリーズ二作目は、一作目の「死の受容への五段階」を前提や共通の知識とした上で、実際の講演会やセミナーや勉強会で交わされた、医者や看護士や牧師や患者や患者の家族などの質問に、著者自身が答えてゆくといった、いわゆる「Q&A」形式で構成された本である。
とはいっても、ただ質疑応答を羅列するだけではなく、例えば「自殺と末期疾患」「延命」という風に、何かしらのテーマを提示してその問題点や背景を少し解説した後、そのテーマに即した質問と回答が集めてある。
これだけの量の質問とその回答があれば読者の感じる疑問や問題と近いものがひとつくらいはあるだろう。

大抵の本がそうであるように、シリーズ一作目は、何かしらの問題点と新しい方向性を示して、新しい動きを生み出そうとしていたような、どちらかと言うと著者から読者への新しい概念のプッシュであった。
一作目で展開された主張がかなり浸透して、限定的であれ特定の場所ではある程度当然で標準的なものとなった二作目の段階では、そういった主張自体ではなく、それに基づいて具体的な事例に対処しようとする方向性を、この本は持っているように思う。
そしてその方向性は、こういった抽象的な概念自体を言葉でウダウダいうだけでなく、実際の現実に即した適応性を発揮してこそ意味を持つ。といった著者自身の方向性をも現しているように見える。
結局、死の問題と言うのは、著者にとってとても身近で重要度の高い、自分自身の問題であると言うことなのだろう。

述べられる内容自体は一作目を踏襲したもので、そこからら発展した主張は展開されないけど、質疑応答という形式で末期患者や病院スタッフに答えるという構成上、死に臨む人と接する人に重点が置かれている。
テクニカルな面をもつプロフェッショナルであるよりも率直に一個の人間として接する事、五段階のステップアップよりも本人の望みを優先させる事、感情を抑えるのでなく存分に表現する方が望ましい事、などが特に強調されている。

この質疑応答を読む限り、彼女はこの段階で「死後の生」を確信しており、そういったことを含有して「死」を捉えていることが見て取れる。
後に展開されことになるらしい、「死後の生」や「神秘体験」などの、どちらかと言うと「あっちの世界」の話や、おおっぴらに言うと胡散臭く感じるような話はごく早くから彼女の中にあったのだろう。
しかし著者はここから先は自分だけの問題で、ここまでは誰にでも当てはまる問題であるという線引きをとても明確に出来る人であるように感じた。

一貫して著者は、特定の宗教や心情や「死後の生」はもちろんのこと、「死の受容への五段階」すら、患者や患者の家族に押し付けてはいけないし、そのステップを通ることが「誰にとっても最上の道」ではなく、「一般的に最上の道である場合が多い」と繰り返し主張している。
その人にとって一番苦しみが少なく幸せが多い道が最上である。と主張することは、当たり前なようでいて、彼女のような持論を持つ人にとって中々難しいと思う。

しかし、ネット上で集めた情報によれば、彼女は後年になると、終末医療だけでなく、「死後の生」や「神秘体験」と言った、どちらかと言うと、いわゆる「スピリチュアル」なる単語で表されるような、如何わしくて胡散臭い方向性の主張を展開したとされるようだ。

そういった主張を個人の信念として持っていることと、既成の宗教のバックボーンなしに、医療者としての彼女の立場で、公の場で真理として主張することは全く違う。
私は彼女がそういった主張を持っている事自体は素晴らしい事やけど、それを積極的に主張するようになった事は、どちらかと言うと残念な事として捉えている。

一冊目から三冊目までの本を読んだ限り、彼女個人がそういった信念を持っていても、そういったことを、彼女自身が直接的な個人的つながりの無い人に向かって声高に主張するとはとても思えない。
こういった微妙な事に関する情報はとかく誇張されがちでもあるので、彼女が本当にそういう人になってしまったのか、また彼女がどういったトーンでそういった事の述べたのか、自分自身で後年の本をもう一冊読んでみようと思った。

2008年09月17日

●「やおいちゃん」で象徴について考える

前回紹介した「やおいちゃん」であるが(未読の方はこちらを参照)、ネット上で色々と先行研究をあさったところ、思った以上に知名度が高い。
個人的にはデスピサロの第四形態に酷似している。という説に感心したけど、2006年度に生まれてからと言うもの、雑誌、テレビ、各メディアへの登場多数、グッズ展開されたものやDVD、書籍に至るまで中々に売れており、最近でも公認ブログのアニメ化が断念されたニュースが伝わるなど勢いは中々衰えていないようである。

この「やおいちゃん」は商店街のイメージキャラクターとして生まれたけど、これだけ話題になったおかげで商店街は賑ったのだろうか?という疑問が湧いてくる。

私はこの商店街の近所に住んでいるけど、お世辞にもこの商店街が前よりも賑っている印象は全く無く、私が学生時代の雰囲気となんら変わらないような気がするのだ。
この「やおいちゃん」の全国的な知名度と言及のされ方と、このどこにでもあるような商店街の雰囲気にかなりのギャップを感じるのである。

この私の印象はある程度正しいようで、一年以上前の記事ではあるが、各メディアで取り上げられて、それなりの知名度を誇るわりには、「商店街自体の売り上げが伸びたとか、来街者が目立って増えた、というところまではいっていない」と当時の同商店街振興組合理事長がコメントしている。
今の段階でどうなっているのかはちょっと調べ切れなかったけど、一番話題となっていた当時でそうなのだから、現在でもそうではないかと、ある程度の予想は出来る。
当然ではあるけど、このニュースから商店街のキャラクターの話題性と、商店街自体の商店街としての集客力とはまた別の話であることが読み取れる。

一般的に言って、ごく少人数の集団から国家に至るまで、何かしらの団体と、そのシンボル自体の価値の逆転現象が、良い状況を生み出すことは少ないように思われる。
イメージキャラクターは商店街の象徴に留まるべきであり、商店街自体がイメージキャラクターの付随品となってしまうのは、商店街にとって好ましい状況とは言い切れないのかもしれない。

また、私が「やおいちゃん」を知ったこの看板には「みその橋通りを美しく」と「飛び出し注意」の二つのメッセージが含まれている。
しかし、ひとつの看板に二つというメッセージの冗長さも加え、実際に我々がこの看板を見た時に受け取るのは、このイメージキャラクターの強烈な印象だけになってしまう。

文字の大きさと主張の正当性から考えるに、本来なら「やおいちゃん」は「みその橋通りを美しく」こそを主張したかったのではないだろうか。
しかし、彼は「飛び出し注意」とも言っている。
なぜこの「飛び出し注意」も主張する必要があったのかという疑問は、この看板を「みその橋通りを美しく」のみの主張で掲げた場合に、あまりにインパクトのあるこの看板が、前方不注意を大量に生み出してしまう原因となりうることは容易に予想できるわけで、自分の存在が潜在的に事故の原因となりうつことを理解しているからこそ、あえて冗長になるのを理解したうえで、飛び出しに注意しろと警告したのかもしれない。と想像できる。

それならば最初から看板に出てこなければいいだけの話なのだが、どうせならこれだけメジャーなキャラクターなので使いたいし、「みその橋通りを美しく」も主張したい。
主張したいこともあるけど、自分が事故の原因になるのは心苦しい。それならば自らが原因になるであろう事態をあらかじめ警告しておこうと言うわけで、自己顕示欲やモラルや使命感などの、なんとも複雑な苦悩と葛藤がこの看板から読み取れる。

あまりにインパクトの強すぎるキャラクターはキャラクター自身しか注目されないようで、そのキャラクターの主張であったり、そのキャラクター自身が象徴しているそのものへ注目は逆にそれる傾向にあるのだろう。
「やおいちゃん」の看板から読み取れる苦悩や葛藤は、こういった、あまりにイメージキャラクターが先行しすぎたプロジェクトの持つ苦悩や葛藤をも表しているように思えた。

と、話が何処に行くのかわからなくなってきたので、
モーゼの十戒に「偶像を作ってはならないこと」とあるのは、中々意味深い話である。
と強引にまとめてみた…

2008年09月16日

●すごい名前にすごい顔のイメージキャラクター / シーラカンスを再発見

yaoichan200809171.jpg 家の近所の商店街のイメージキャラクターらしい。
万博キャラクターを品種改良しようとして凶暴化してしまったような風体といい、唐突に破壊力ある名前と言い、突っ込みどころが多すぎて逆に手が出ない。
等間隔に置かれた餌の間でどちらかを選べずに餓死するロバの気分だ。
以前から凶悪なイメージキャラクターやなーとは思っていたけど、最近名前を知ってますます驚いた。

「うぉーすげーもん見つけたー他に紹介してる人いるのかー?」と思ってネットで調べたらかなり有名なキャラクターだったようだ。雑誌、テレビはもちろん、グッズ展開は基本としてDVD化、書籍化までされていたらしい。
逆に全く知らなかった自分にちょっとびっくり。

「車輪を最発明する」という言い方があるが、なんだか「シーラカンスを再発見」した気分だ。

2008年09月15日

●カジュアル臨死

休みの間ずっと引きこもって大掃除と模様替えをして、力尽きたらキューブラー・ロスの『死ぬ瞬間の対話』を読みながら寝るという生活を続けていると、三日目には変なトリップの仕方をしていた。

部屋の汚さに辟易しながらも、部屋にみちあふれるモノ達に、「お前は要らない」「お前は必要」と宣告を下し、物達にとってすべきことを最優先にあるべき所に導き、眠りにつく前に死についての人の意見に耳を傾ける、ということばかりで埋め尽くされた二日間は精神衛生上健康的とは言いにくいように思う。
大掃除と模様替えが終了し、自分の部屋とは思えない綺麗な部屋でピアノを練習したりパソコンをしたり本を読んだり。
なんだか自分が自分で無いような、別世界に来てしまったような、とても不思議な感覚である。
余りに現実と乖離したようなこの感覚はなんだろう?これはちょっとした臨死体験に近いのではないか??

ってなんか大層な事言ってるけど、部屋が綺麗過ぎて落ち着かないだけやねんけどね…
二日がかりで部屋の模様替えと掃除を終えて燃え尽きた、片付きすぎて落ち着かない部屋の中心で呆然とする土偶であった。

2008年09月14日

●汚濁と浄化の48時間(ただの大掃除と模様替え) / 生きるって大変だ(笑)

この日より思いついて大掃除兼部屋の模様替えを始める。これが後に語り継がれることとなる「汚濁と浄化の48時間」の始まりであった。

amazon ASIN:4052005554 大掃除や模様替え中に卒業アルバムやら雑誌やらに見入ってしまうのは、誰にとってもありきたりの出来事である。

例に漏れず、私も、本棚の奥から発掘された、子供のころの愛読書である学習研究社の『飼育と観察』に、見入ってしまい、あるページで思わず笑ってしまった。

私の読んだのは1971年発行の物で、現在のものとは装丁からして違うようだが(こんなラブリーなものではない)、今でもこのページはあるのだろうか?

semi200809141.jpg 著作権の問題がありそうなので、ちょっとだけモザイクをかけて該当ページを公開してみる。これは「セミ」の一生を表しているのやけど、土の中であろうが外であろうが、飛んでいようが木に止まっていようが、成虫であろうが幼虫であろうが卵であろうが、ことごとく餌にされるセミの運命の過酷なこと過酷なこと。
特にセミだけでなく、大抵の野生生物はこうであろうけど、それでもこうやって改めて見ると、笑わずにはいられない。生きるって大変だ(笑)

私は『学研の図鑑』で育ったようなものであり、この本をはじめ、子供のころは虫関係の図鑑は暗記するほど読んでいたにもかかわらず、今改めてみると他の図鑑も他のページも新たな発見があって面白い。

などと面白がって読んでいるうち、気づけばかなりの時間が過ぎていた。
てなことも、掃除や模様替えの定番といえば定番の出来事であろうか。

一日目が終わり、まだ戦いは始まったばかりの、とんでもなく散らかった状態の腐海のような部屋で、ゴミとゴミのような何かの隙間に布団を敷いて寝る自分が余りにもかわいそうで、頭の中でナウシカの音楽(ラン、ランララランランラン~)が流れっぱなしであった。ああ生きるって大変。

それでも、いつでも餌にされるセミ達の運命を思うにつれ、ゴミの中の布団にくるまって幸せを噛み締めるのであった。

2008年09月13日

●浅く広くの力

昔からある、ぱっと見はちょっと怪しいながらも、タダの怪しいだけのサイトとは一線を引いたUMA関係のサイトの運営者が、ネット上のトラブルに巻き込まれて素性を明かした。

若い頃に医療団として世界各国を飛び回り、ガンや老化関係などが専門であるけど、趣味が高じてアンティコルム・オークションで査定を潜り抜けた盗品を発見し、淡水魚に関する長年定説だと思われていた学説を自宅水槽での実験で覆し、その淡水魚が産卵後に確実に死ぬ生態を利用して神経細胞の再回復治療に活路を開き、国家表彰(詳細は不明)を受けている人物であった。

色々な分野に一定以上の才能を発揮し、全く別の物を組み合わせる事で新しいものを生み出してゆく、金銭と地位への志向ではなく、人の為になる事と、自分の好きな事にひたすらつき進んで行くエネルギーにかなり感動した。

電子ピアノを買ってから、あまりにも乏しく有限な才能を多岐に分散させる事で、結局全て中途半端になるのを痛感して激しくうんざりしていた私であるけど、なんかこの人のサイトとサイトバトルのレポートを読んで吹っ切れるものがあった。

スケールと実力はとても比べるべくも無いけど、方向性だけはとても理解出来るし共感できる。色々なものに手を出すからこそ見えてくる組み合わせの妙というものもまたあるはずである。
中途半端でええやん、儲からんでええやん、面白そうな事はどんどんやってみよう。
他人の真似や模倣や命令や依頼でしか何も出来ないよりは、レベルは低くても創造的である事自体に価値があると思えるようになった。
なんか自分の信念と方向性に、また自分自身にもちょっとした自信が持ててとても嬉しかった。

また、時事性と個人性のみを価値とするようなブログ全盛の今時やけど、テキストサイトの底力というものを垣間見た時間でもあった。

2008年09月12日

●エリザベス キューブラー・ロス 『続 死ぬ瞬間』

amazon ASIN:4643990252 先日読んだ『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』の続々編である『続 死ぬ瞬間』を読んだ。
本当はこの本を『死ぬ瞬間』の続編だと思って読んだのだが、次に出版されたのは『死ぬ瞬間の対話』だったようで、この『続 死ぬ瞬間』はシリーズ(といっていいのか…?)三作目になるようだ。
それでも、全部読み終わって、この感想を書くために色々調べているうちにそのことに気づいたくらいなので、この三作目は一作目の話は前提にしていたけど、二作目を読まなければ三作目の話が全くわからないというような作りではなかったようだ。
例のごとくこの本も、旧訳と新訳があるようで、私が読んだのは1999年に発行された新訳の単行本の初版本であった。

シリーズ一作目である『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』が、末期患者が「死の受容への五段階」と言われるプロセスを通って死を受け入れることを、患者との対話や考察から説明してゆき、人はどのように死を迎えるべきで、死に対していかに対処するか、という方向性を持った本であったのに対して、シリーズ三作目であるこの本は一作目の主張を前提にして、自分自身の死が成長の最終段階である事、正確に言うと、自分の死を身近なものとして捉えて、そのことについてに深く考えてゆくことが大きな人間的な成長に繋がるという主張を主要なテーマとしている。

この本は一応エリザベス・キューブラー・ロス著という事になっているけど、どちらかというとエリザベス・キューブラー・ロス編、といった方が良い構成で、人間が死についてどのように捉えているのか、またどのように対処しているのかを、色々な宗教や民族、また色々な職業や立場やバックボーンを持つ個人の視点から、論じたり述べたりする文章が集められている。
例えば、ユダヤ教やヴェーダ思想やウパニシャッド哲学や、アラスカ・インディアンが死をどうとらえて、どう扱っているかを分析して考察した論文、また、死に瀕した患者自身や、子供を無くした親や、極限的な体験をした人々の手記や手紙(エリザベス・キューブラー・ロス自身の体験談もあった)などいった具合である。

この本に登場したり論じられたりする、それら色々な立場や生き方をして来た人々、また、色々な宗教や立場などは千差万別であるけど、誰もに共通している「死ぬ」を通して人間存在を見てゆけば、共通する部分はとても多いし、個人であろうが文化であろうが大した違いは無いということであろうか。

実際的な「死」だけではなく「死」を何らかの世界の移行と仮定することで、我々の環境や状況が変わることも「世界の移行」としての象徴的な「死」として成長の機会と捉える考え方が展開され、死ぬ本人と死ぬ本人の家族だけではなく、身近に死が迫っていない人も、死を思うことで自ら成長のきっかけとなると言った主張が、この本の骨子なのかもしれない。

子供たちや遺族なるべく死者を見せず、生きているかのように飾り立てて葬る習慣が、人が死に対する考えるきっかけを奪い、やがて直面する肉親や自分の「死」を前にすると大きなショックを受けて対処できなくなる傾向を作っている。という一作目の前提となっていたテーマは、より大きく主張されていたように思う。

特に、この本の中の、日常的に死に触れながらも、死を非日常として、遺族から遠ざけるのが正しい事だとして取り扱っていた葬儀屋さんの男性が、自分の父親の死を切っ掛けに、自分の仕事であった葬儀について考えさせられ、変わって行く話が特に印象深かった。

私自身も「死」と「死者」と「死ぬ事」については色々と経験したり、感じたり、考えたり思ったりした事があるのだが、また機会があれば書いてみたいなぁと思う。

2008年09月11日

●電子ピアノが来た日

piano200809131.jpg piano200809132.jpg家に電子ピアノが来た。
CASIO のPX-720なる機種である。

梱包財のいくつかが組み立てるための治具になっていて、組み立て時のネジの位置合わせがびっくりするほど簡単だった。
インパクトドライバーを使ったので組み立てはすぐに終わった。

とりあえずバイエルを進めて行く。物置にならないよう気をつけよう。

二番目の写真は死ぬまでに一度自分で弾きたい、ベートーヴェンの最後のハ短調のソナタ。
public domain な楽譜が手軽にダウンロードできるというのは、良い時代にいるなぁ。と思う。

2008年09月10日

●人生のコナミコマンド

「魔界村」の最後のボスを倒したら、「幻影だったのでもう一周」と言われて「やってられるかー」と思ったけど、気を取り直してもう一周してボスをボコボコにして姫を救出したので、今度はドラゴンにさらわれた姫様を助けるべく、「ドラゴンバスター」に挑戦中。

迷宮や洞窟を探検する為に必要となりそうな色々な技術はあるけど、結局、如何にに上手くダッシュながら二段ジャンプして垂直切りで敵の頭の上に落下するか、そこに集約されるゲームである。

進んでも進んでもどんどん先は長くなるような気がする。この徒労感は本当にどこかを探検しているようだ。客に媚びないどころか、客を選びに選ぶような作りである。
私の知っている限り、これを自力でクリアした人は皆無であるにもかかわらず、やった事のある人はたくさんいる。
本当に当時の子供たちはこれを楽しんでやっていたのだろうか?
それともこのゲームで人生やとか生きる事に含まれる徒労を学んだのであろうか?
人生なる迷宮を進んで、その中で出会う数々の敵に対しては、結局「ダッシュ+二段ジャンプ+垂直切り」的なものしか頼りにならない事を知るのであろうか?

しかし、何でこんな難しいねん!くっそー絶対最後まで行ってやる。最後まで行って姫見つけたら、ファイヤーボールで瀕死にして、ダッシュから二段ジャンプして垂直切りで串刺しにしてやる。と固く心に誓うのであった。

我々くらいの年代で、かつゲームをするする習慣を持っていた人には「コナミコマンド」と言えば通じる概念がある。
それはコナミという会社が作ったゲームでは上上下下左右左右BAと入力すると武器やオプションがフル装備になったり、残機数が増えたりと、いい事が起こる事の多い、隠しコマンドであるのやけど、ゲームばかりやっていると、「なんかこう、人生のコナミコマンドみたいなもんって無いもんかね?」など無茶な事を想像したりする。

ゲームと人生を関連付けて「人生がリセット出来たらどれだけ良いだろう?」などという話ですら無茶な扱いをされるのに、「人生のコナミコマンド」てどれだけ無茶苦茶やねんと。

しかし、「人生のコナミコマンド」があれば、「あーベヒシュタインのグランドピアノ欲しいなー。↑↑↓↓←→←→BA。っと。あ、銀行口座の桁の全てが全部9で埋まってるー」とか、「あーお腹すいたー、でも冷蔵庫に何も無いやん。↑↑↓↓←→←→BA。っと。冷蔵庫ぱかっ。おっ!梅酒と麦茶とアイスと茄子とハマチと豆腐があるやん。」などと私はええ年こいて何を言っているのだろう?

しかしコナミコマンドは、あるゲームでは自爆のコマンドになっていたりする事があるので(実話)、人生のコナミコマンドには要注意である。

2008年09月09日

●「デューン/砂の惑星」 TV放映長尺版???

amazon ASIN:B00006AUVP デヴィッド・リンチ監督作と言うことで、何度もテレビでやっていたけど見たこと無かった、中々有名な原作の映画化である「デューン/砂の惑星」を観た。つもりであった。

しかし、私がレンタル屋さんで借りて来て観たのは「デューン/砂の惑星 TV放映長尺版」というDVD二枚組みで、デヴィッド・リンチが映画のために撮った映像を、没になったシーンや映像も含めて、別の監督が繋ぎ合わせて編集しなおし、テレビ向けのストーリがわかりやすいものにしたらしい。
レンタル屋さんにはまた他にも良くわからんテレビシリーズがあったりともうわけわからん。なんかこの派生物の多さは「スターシップ・トゥルーパーズ」みたいやね。

デヴィッド・リンチを観るつもりで借りてきたものが、デヴィッド・リンチのノンクレジット作だったとはちょっとがっかりである。
冒頭いきなり映画の人物やら文化やらの背景説明が紙芝居のような静止画像で入り、あまりのちゃちさにちょっとびっくりしたけど、これがあったおかげでなんとなくストーリーはわかった。

本当の劇場公開版はこの紙芝居での説明なしにいきなり本編が始まり、原作を知らない人がポカーンとする中、いろいろな人が入れ替わり立ち代り現れてどんどん話が進んで行ったらしい。
確かに説明不足感というか意味の解らなさというか、視聴者置いてけぼりはリンチっぽいといえばそうやけど、こんな感じのストーリー映画でそれはいかんやろう。と言う気もする。

ストーリーの解りやすさから言えばこの「TV放送長尺版」やろうけど、私はリンチの撮った「劇場版」を観て「何じゃこらー?」と言いたかったのでちょっと残念であった。
とは言え、今「劇場版を観たいか?」と言われればちょっと微妙やなぁ。

2008年09月08日

●映画:アレハンドロ・ホドロフスキー 「ホーリー・マウンテン」 / 悪ノリバカ映画

amazon ASIN:B00009CHBX 先日観てとても面白かった「エル・トポ」を撮ったアレハンドロ・ホドロフスキーの監督作である「ホーリー・マウンテン」(1975/メキシコ)を観た。
この映画は「エル・トポ」の大ヒットにより脚光を浴びたホドロフスキーが、製作会社やら配給元やら(自分自身からも?)から大量の予算を得て製作されたらしい。

低予算映画の「エル・トポ」から一転して大量の予算を作って映画を撮るようになったけど、それでも基本的に「エル・トポ」とやってることは同じであるような気がする。
主人公達が目指すところは、悟りや解脱や生死の彼岸であるし、なんか良くわからん映像も相変わらずである。
低予算でアイデア勝負だったものに、大量の予算を投入して作られた映像は、エグさとか訳のわからなさがより増しているように見える。

この映画は全体的に「何じゃそのオチは?」という場面が多かった。
一つ一つのエピソードに一応のオチはあるのやけど、そのどれもが訳がわからない。
私が気に入ったのは、大量の着飾った本物のトカゲをアステカ調の舞台に配置し、スペイン風に武装させたカエルに攻めさせる、「メキシコ侵略の歴史劇」であった。
この劇のオチも某氏のフラッシュアニメを髣髴とさせるような「爆発」という無茶苦茶で中々笑えるものであったし、何よりもこの映画のオチ自体が「えぇ~っ?」という感じであった。

ネットでこの映画を「悪ノリ」と評している人がいたけど、なるほどこれはとんでもない悪ノリやなぁと思った。予算が多いだけにたちが悪い。
そして悪ノリというのは往々にしてやりすぎてしまうものでもある。もちろん、端から見る分には、やり過ぎでないくらいと、悪ノリは面白くないのやけど。

こういう映画を真面目に観てしまうと、感受性の見えない部分になにか決定的な損傷が加わってしまうような気がするけど、出てくる良くわからん悪ノリ映像を見ながら「あっはっはーアホやなぁー」と笑える人には刺激的であろう。
意味なんかたぶんもともと無いねんから、考えてもしんどいだけなので、予算を大量に使った悪ノリバカ映画として観ておくと中々楽しめるような気がする。

2008年09月07日

●エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』

amazon ASIN:4643920521 エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』を読んだ。
この本は、精神科医あるいは心理学者である著者が四人の神学生たちの「人生における危機」についての論文執筆のための要請に応じて、死に瀕している末期患者へインタービューを行い、彼らの反応と要求を研究する。といったゼミからスタートして、延べ200人の末期患者へのインタビュー行い、そのインタビューのいくつかの実例を具体的に取り上げて、そこから「死」にいたる人間の心の動きに迫ろうというものである。
インタビューするといっても、患者を患者として扱うのではなく、一人の人間として、患者がもうすぐ死ぬ事を前提として、一個の人間として何を感じ、何を思うのかを、患者を先に死に赴く教師として、とても個人的なレベルで話してもらうことで、個人にとって死とはどう受け止められるのか。という事を浮き彫りにしようとする方向性を持っている。

著者はこの本を、ただ死に臨んだ精神状態を分析するだけでなく、死に臨んだ人を、無駄に苦しめて延命させるのではなく、本人の望みと合致した形で如何に幸せに死なせてあげられるか。といった問題意識と目的意思識を持って書いている。
その目的と問題意識のゆえ、この本は末期患者だけではなく、その患者の家族や末期患者に対する精神療法の必要性にまで言及する、なかなかに盛り沢山な内容になっている。

そして、この本は1969年に出版されるや大きな反響を呼び、現在では、この本は「終末医療」や「ホスピス」なる概念を生み出したもとであり、そういった考え方のバイブルとも言われるほどの位置にあるようだ。

そのスジでは有名な本ではあるが、恥ずかしながら読んでいなかった。

私が図書館で借りて読んだこの装丁の本は1971年のもので、現在は新しく訳し直された新版が出ているらしい。私は借りてからその事を知った。
この1971年の旧版は訳が古くて訳出にもちょっとした問題があるらしい(と訳者が言っている)ので、私はこの本でも何の違和感も感じなかったけど、読んでみようと思った人は、新しい訳の物を読む方が良いかもしれない。

著者によれば、死に望んだ人は五つの段階を通って死に赴くらしい。
具体的に言うと、"私が死ぬはずが無い"や"診断は間違いに違いない"と思う「否認と隔離」の第一段階、そして次に"何故他の人間で無く私が死なねばならないのだ?"といった「怒り」の第二段階、そして"あと~ヶ月長く生きさせてもらえれば~する"と医者や神に要請する「取り引き」の第三段階を経て、あらゆる物に絶望してあらゆる力を使い果たしたような第四段階の「抑鬱」の状態に入り、最後に自身の死を受け入れる「受容」の五段階をたどると言う事らしい。
ただ、各段階は明確に別れるわけではなく、ある程度重なり合い、また一つ二つ前の段階の精神状態が時々出てきたりもするし、最後の段階に向かわずに死を向かえる人もいる。更には常に希望は全くなくならないところもミソであるらしい。
学術的なレベルでこの本を捉えると、著者の主張するこの「死の五段階説」がこの本の中で重要な部分になってくるのだろう。

しかし、単に純粋な興味で持ってこの本を読めば、そういった学術的な「死の五段階説」など関係なく、各段階で苦しんだり喜んだりする末期患者のリアルな叫びが伝わってくる。

我々は自分自身が確実に死ぬ事を知っているけど、実際に自分自身の死はリアルなものではないし、ある意味で自分自身を不死なものとして捉えているところがあるだろう。
大抵の場合、死は我々にとって自分の問題ではなく他人の問題として捉えられる。
しかし、この本の中では、死をリアルな自分の問題として捉えて苦しみ抜き、結局死んで行った人達の望みと言葉が載っている。そのリアルさと言うか悲痛さと言うか真剣さは、巷にはいて捨てるほど溢れている「死は生の同一線上にある」的な言い草が如何に薄っぺらい言葉であるかを思い知らせてくれる。

死ぬ事を受容し、この世に興味を失う状態は、本人にとってこの世に思い残す事が無い証拠であり、残された家族にとって喜ぶべき事である。という見方が心を打った。
そして、結局こういった「幸せな受容」に至る人の誰もが、宗教的であるか、限りなく宗教的であるものを通っている事に、なんとも心を動かされた。

2008年09月06日

●「ねこ踏んじゃった」恐怖症

バイエルを買ったは良いけど、ピアノが無いので何ともしようが無い。楽譜ばかり眺めていても「あー弾きたいー」とフラストレーションがたまるばかりである。
「バイエル教則本」のおまけとしてついていた鍵盤が印刷されている「紙鍵盤」でパタパタ練習なんて何ともいただけない。ピアノへの情熱はあるけど家が貧乏でピアノを買って貰えないかわいそうな子供みたいな事は、流石にこの歳になってやってられんやろう。
良い大人が紙鍵盤でバイエルの練習をする図ってのは端から見てる分には笑えるけど、それが自分になるのはごめんである。

っということで、色々ネットで調べた挙句、機器選定はほぼ終了した。
とはいっても、いくらネット上の情報を集めても実際に弾いて見ないと良くわからん。と言う事で電気屋さんに繰り出した。

ネットでは色々書いてあったけど、鍵盤のタッチの差なんて私にはほとんどわからん。
いや、正確に言うと、違いはわかるけど、どちらがより本物のピアノに近いのかが全く理解できん。大体本物のピアノを弾いた事自体があまり無いのである。
ばねを使わずハンマーでアクションさせているとか、グランドピアノのように高音になるほどタッチが軽くなるとかいわれてもへーっという感じ。
同じメーカでのグレード差による音の違いってのはつまるところアンプとスピーカー部分の話じゃね?ヘッドホンしたらかわらんし、アンプに入れたら同じやん。
つーか十万円クラス程度の電子ピアノなんかもうどれ弾いても大した違いなんか無いんじゃないかと思うようになって来た。

電気屋さんの電子ピアノコーナーにはちびっ子ばかりがいて、皆狂ったように「ねこ踏んじゃった」ばかり演奏しており激しく腹立たしい。
その中に一人、やたらと攻撃的に演奏する幼女がいて、それは「ねこ踏んじゃった」というよりは「ねこ踏んじゃおう!」じゃないのか?とか思っていた。
無秩序に鍵盤を叩きまくる幼女の群れに「えーいお前らやかましいー!お前ら全員ネコのかわりに踏み潰してやろうか!」と心の中で毒づきながらも、幼女たちに混ざって、難しい顔して真剣に一台ずつピアノを弾いているオッサンの姿はさぞかし気持ち悪かったであろう。

ちゃんと椅子に座って適当にゴルドベルグ変奏曲のアリアを耳コピで弾いていたら、隣にちびっ子が座ってまた「ねこ踏んじゃった」弾き始めた。もう良い加減にしてくれよ。と思いつつも、幼女としばらく連奏していた。
はたから見れば、幼女達に混じってねこ踏んじゃったに伴奏をつけるオッサンて激しく危ないのではなかろうか。

しかし、ピアノを練習する事を思いついたら、「とりあえずベーゼンドルファーのグランドでも一台買うかー」というような身分になりてーなーと思った。

2008年09月05日

●ミーハー対象としてのバイエル

ピアノを始める決心をしたけど、まずネットで情報収集を始めるのは今時のオッサンやなぁと。
昔からピアノの勉強と言えば『バイエル教則本』のイメージで固定されていたけど、『バイエル』も今となっては音楽教育にとって問題になる部分が多いと言う意見が主流のようである。
例えば、ヘ音記号が出てくるのが遅すぎて難しく感じてしまう、ハ長調を標準の調のような扱いをしているので、他の調性に対する扱いと調性に対する感覚がおかしくなる。などなど。
なるほどそういわれればそうなのかなという気もするけど、私にとってはヘ音記号どころかト音記号で既に難しそうやし、調性とか言われても頭でしか理解出来てない。
じゃぁ決定的な入門書があるのか?というとそうでも無い。という現状らしい。それにこれをあり難がって使っているのは日本だけらしいし。

今となってはバイエルもなんか地に落ちたような雰囲気やけど、それでも、私が小学校時代には、同級生たちがバイエル何番まで行ったとか、何番が難しいとか言っている話を聴いて、なんとなくハイソな雰囲気を感じて、憧れ半ば畏怖半ばの不思議な感情を抱いていたものである。

ネットを徘徊するに、私と同じような、こんな風なバイエルに対する感覚を子供の頃に抱いていて、大きくなってからピアノを始めて、『バイエル』に対するちょっとした歪んだ憧れからバイエルを勉強する人も多く、私もこの考え方に結構賛同した。
「バイエルに対するミーハー心」である。

amazon ASIN:4111010202 ネット上にMIDIデーターは落ちているし、それをお手本としながら練習して行けば、ある程度独学でバイエルを進めて行く事も可能かもしれない。
という事で、全音楽出版社『全訳バイエルピアノ教則本』なるものを買ってきた。
これはどうやら『標準バイエルピアノ教則本』の対訳つきのものであるらしく、日本語の説明と英語の説明とドイツ語の説明が同時に書いてある。
音楽と同時に、英語とドイツ語まで学べるお得な一冊である。とも言える。

最初の方は確かに今でも弾けそうだ。しかし最後の方を見るとちょっとありえない事になっている。
人間がこんなものを弾く事が出来るとは改めて驚く。人間の可能性など捨てたものじゃない。

って、こんなものより電子ピアノを手に入れる方が先やんか。

2008年09月04日

●器用貧乏と中途半端貧乏とピアノ

多分私には、あまり一般的なものではないにしろ「趣味」と呼ばれるものは多いかもしれない。しかしそれに向ける時間の少なさの故か、あるいは私の本質的な性向や私自身の才能の故か、どれ一つとして誇れるほどに仕上がったものなどありはしない。

趣味としてある一時期打ち込んだら「その道で何もやっていない人よりは詳しかったり得意」なのはあたり前の話で、その「脱初心者」程度のレベルを超える事なんか殆ど無い。その道の中では自分のあまりにも低いレベルに愕然としたりうんざりしたりするのだ。

器用貧乏の傾向はあれども、傾向だけでそれほど器用でも無く、色々な事に手を出すけど全て中途半端で、言って見れば中途半端貧乏の状態である。
自分自身では「狭く深く」を目指したいのに、気付けば「浅く広く」になっている傾向性を持った自分が嫌で嫌でしょうがないけど、それでもそんな事にお構いなく欲望や興味は沸いて来る。
なんと世界には魅力のあるものが多い事か。

結局折り合いがつくのは「一つ深いものがあればええやんか?」というところなのやろうけど、私に深いものなどあるのだろうか?という問題は残る。
「自分に何か深いものが無いといけない」と思う事自体は多分悪い事ではないのやろうけど、そういった価値の方向性は反作用として「深いものが無い人や、深い所を目指そうとしない人に価値は無い」といった発想が生まれやすい。この傲慢さは危ないねぇ。実に危ない。

それに良く考えてみれば、自分の中で他には無いほどに深いものはこれです。と自信を持って言えるものを持っている人なんかどれだけいるだろう?
そういったものを自分自身として捉えるのは、あまりにもわかりやすいけど、あまりにも不安定な前提の上に立った、あまりに脆いアイデンティティーとなるのではないだろうか。
そういうものが何も無くても、ちゃんと自分自身を捉えられる方向にこそ、自己意識は訓練されるのが望ましいのやろうね。

って、最初は、どうせ中途半端の中途半端ですぐに止めてしまうから、ということで手をつけていなかったピアノを、別にすぐにやめてもええやんか、ということでとりあえず始めてみる決心をした。
という事を書こうとしたのやけど、気付くとうだうだと書いたなぁ。

2008年09月03日

●あ~あ、かぐや姫

kaguyahime20080902.jpg 先日母がパック入りの竹の子の水煮を買ってきて「安いと思ったら中国産やったorz」とか言っていたのだが、私はそのパッケージを一目見た瞬間とても感動してしまった。

筍の水煮が竹の皮の着物着てて、名前が「かぐや姫」、しかもこの色白さと言い形と言いなんかとってもかぐや姫っぽい。
凄くない?たかが筍の水煮のパッケージにここまでするか?
惜しみ無い賛辞を筍の水煮の「かぐや姫」に送っている私に母が一言。
「このかぐや姫、左前着てる」

んー確かに…詰めが甘い上に、ちょっとブラックや…

2008年09月02日

●黄色いゴーヤは黄色かった

yellowgohya20080902.jpg 家に出来たゴーヤを蔓にぶら下がったままほうって置いたらいつの間にか熟れて黄色くなってきていた。
なんかちょっとゴーヤとは思えんし、というか食べ物とも思いにくい不気味な見た目である。
いくら私が黄色好きといっても、喜んでばかりはいられない。
このまま更に放置しておいて赤くなったり紫になったりしたらますます気持ち悪くなる。という事で慌てて収穫した。

ちょっと食欲を誘うような見た目ではないけど、とりあえずゴーヤである事は間違いないねんし食べてみようと言う事で、ゴーやチャンプルにしてみた。
もしかしてこの黄色いところ甘かったりしたらどうしようーなどとドキドキしながら。

で、食べてみる。
黄色い部分が妙にブニブニして、なんか豆腐と卵とゴーヤが一体化して、出来上がりの見た目は微妙である。

恐る恐る食べてみたけど味自体は緑のと変わらない、苦いゴーヤの味で美味しかった。
美味しくて良かったのやけど、見た目で散々凄い味を想像して、「ドヒャァァー凄い味ィィィーー」などというリアクションが出来るのを楽しみにしていたので、ちょっとだけ残念であった。

このゴーヤを食べた限り、黄色いゴーヤがただ黄色いだけであると言う事、つまりは熟れて見た目が毒々しくなり、それでも特に中身は何も変わらん。というのは言い事なんか悪い事なんかよくわからん。
少なくとも期待は裏切る存在ではあるけど。

2008年09月01日

●ベートーヴェン:最後期のピアノソナタ マリヤ・グリンベルク / 最後に地上に還る五つの変奏曲

amazon ASIN:B00005EZJ0 ちょうど100年前の1908年に生まれたロシアの女性ピアニストであるマリア・グリンベルクのベートーヴェンの最後期のピアノソナタを聴いた。
彼女はソ連のピアニストで初めてベートーヴェンのピアノソナタ全集を録音した人物であるらしく、このCDの曲はその一部だと思われる。

ベートーヴェンの最後の三つのピアノソナタ、特に32番のハ短調は私が最も好きな曲のひとつで、今までいろいろな人の演奏を、アシュケナージ、グルダ、バックハウス、アラウ、内田光子、ケンプ、グールド、シュナーベル、ポリーニ、ギレリス、(他にもいたかな?)などを聴いてきた。そしてその中での私の基準演奏は、始めて聴いてベートーヴェンに開眼したアシュケナージの演奏である。

このグリンベルグのピアノはとにかくパワフルで、私の中の基準であるアシュケナージはもとより、今まで効いた誰よりもエネルギーに溢れる演奏であったような印象を受けた。
彼女のこの演奏からすれば、アシュケーナージの演奏はとても女性的で線の細いように思えるくらいである。

主題と五つの変奏曲からなる32番の第二楽章やけど、今まで誰の演奏を聴くにしても、第四変奏は現実離れしてるほどに端正すぎてそれほど好きでなく、一番好きな第三変奏に至る過程にばかりに注目して聞いていた。
でもこのグリンベルクの第四、第五変奏は今までに無いくらい人間臭い演奏でとてもびっくりしたと同時に、この曲の捉え方ががらっと変わった。

この曲を評する時に誰しもが「広大な世界に精神を開放して高揚するかのような第二楽章」というニュアンスの事を言うけど、その遠い世界に飛び立った最たる部分が第四変奏であろう。
しかしグリンベルクの演奏は、第四変奏で高く飛びながらも人間味を残し、他の演奏家では別の世界に到達したかのように聴こえる第五変奏を、厚みを増してこの世にちゃんと戻ってきたかのよう弾いているように思える。

今までこの曲は、精神が苦悩とか欲望を超越して完全に別の世界に行ってしまうからこそ好きなんやったけど、最近はそう言う感覚がちょっと無くなって来た事もあり、好きな曲と言いつつもあまり聴いてなかった。
でも、久しぶりにこの演奏家の演奏するこの曲を聴いて、とても感動したし、この曲の捉え方ががらっと変わった。

前からピアノを弾けるようになりたいなぁとはぼんやり思っていたけど、このグリンベルクの演奏を聴いてますますその思いは強くなった。
とはいっても家にはピアノどころかキーボードすらないので何も出来ないところが悲しい。
とりあえずなんか適当な電子ピアノ見繕って、バイエルから始めようかなと、かなり本気で思うようになった。