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2008年08月31日

●映画:「ピアニスト」 ミヒャエル・ハネケ/ フランス風エロエロジュテーム映画暗黒系

amazon ASIN:B0000D8RO8 ミヒャエル・ハネケの2001年に公開されたフランス映画である「ピアニスト」を観た。
この監督は「セブンスコンチネント」を観てから大好きになった監督である。この映画は今までの映画とは違い、なんとなくそれなりにメジャー路線だったような気がする。

過保護で過干渉な母の下で、全てを犠牲にしてコンサートピアニストを目指すも、挫折してウィーンの音楽院のピアノ科の教授を細々と務める、シューベルトとシューマンが好きな中年女性の主人公に、理系で恰好良くてピアノも上手い若者が、正々堂々とピアノ科を受験して合格し、真正面から熱烈に言寄る。
そんな彼の熱意に、女である事を捨てたようにピアノ一筋で、隠された秘密を抱えて生きて来た主人公の心は揺らぎ始める。

って書くといかにもありがちな、おフランスな映画のように聞こえるし、実際パッケージもそれっぽい。
しかし、さすがはミヒャエル・ハネケ、この映画が「ラブロマンス」の棚ではなく「ミニシアター」にあるわけである。

次々と繰り出される常人には中々理解しにくいピアノ科教授の変態行為の数々は見事であった。理解しようと言う望みを度外してして観れば、彼女の行為は滑稽にしか見えない。そしてなによりその滑稽さこそが痛ましく哀しい。
経験の不足によって、どんどんエスカレートして行く知識の暴走は、結局、いざ実際に経験した行為と整合性が取れずに破綻する。
「もてない奴に限ってやたらと理想が高い」とか「経験が乏しい奴に限ってテクニカルで極端に走る」ってのがあるけど、まさにそれを更に極端にしたようなものである。

一人でも変態、彼氏が出来ても変態、母親にも変態、もはや変態でしか自己を表現出来ない域にまで来て後戻り出来なくなった彼女の悲惨さはちょっとありえん。
自分自身でそんな自分が理解出来ている所が余計に救いが無い。シューマンに自己を投影するもそれをちゃんと解消する方法を知らない姿が痛ましい。
おぉっ?とうとう二人の愛が成就するか?と思えば、「えぇーっ?」て言うくらいにエグく破綻する様はもう見事である。

主人公は変態であるからこそ悲しいし、主人公に言い寄る男はノーマルであるからこそ悲しい。お互いを理解しようとしても理解できず、理解されようとして理解されない、このあまりにフランス文学的に古典的な、フランス風いたちごっこは余りに哀れである。美しさの欠片も無い。
ここまで悲惨になるともう笑うしか無いのやけど、「Je t'aime」がここ々までエグく滑稽に空しく響くのは空恐ろしい。
言ってる事とやっている事だけをとれば「フランス風エロエロジュテーム映画(あるいは小説)」やねんけど、実際は全く逆というか、とことんまでそういう映画のパロディーのように馬鹿にしているとまで思えてくる。
実際は「フランス風エロエロジュテーム映画暗黒系」と言ったところか。

ハネケは結構ドキュメンタリーであるとか、ノンフィクションの題材を映画化する事が多い。そして自分の映画は娯楽では無いし、その映画に嫌悪を感じるのは何故かを考えて欲しいと言っている。そう言う事からも普通の映画ではない物を目指しているのは理解できる。
この監督はどの映画を観ても、やっている事自体をとって見れば全く理解できないのやけど、何でそう言う事をする事になったかという「気分」に関してはとても良くリアリティーを持って理解できるるように思う。あまりにも突飛で嫌悪感を抱かせる癖にやたらとリアル。もしかしたら自分もああなるかも。というはあまり気分の良い物では無い。

誰しも程度と方向の差はあれ、自分の変態性やとか、後戻りの出来なさやとか、相互理解の不整合に悩んだりするものである。
主人公が自分の生徒に向かって「ピアノの情熱はその程度のものか?」って言っていたような気がするけど、「お前こそシューベルトとピアノに対する情熱はその程度のものか?暴走の歯止めに屁のツッパリにもなってないピアノなんか止めちまえ!」と言いたくなった。
自分の良くわからない欲望と狂気の持つエネルギーの扱い方がわからず、その矛先を変えて、変換してしまう術を知らない人の悲惨さと言うのが痛いほど見えた映画であった。

2008年08月30日

●映画:「最後の戦い」 リュック・ベッソン / 殺伐とギスギスと爽やかに

amazon ASIN:B000228TV8 リュック・ベッソンの劇場用長編監督デビュー作であるらしい「最後の戦い」を観た。
世界崩壊後の、「北斗の拳」というよりは「アキラ」的な世界の中で、水や食料を巡って争う男達の戦いを描くものである。
台詞は無いけどドルビーサラウンドで、モノクロやけどシネスコサイズってのがちょっと可笑しい。
台詞が無い、というか登場人物たちが喋らないと言うのはわざと無声映画風にしてるのかと思っていたけど、一応「環境汚染で声帯がやられている」という設定があったのを映画を観終わった後に知った。

劇場用長編デビュー作やけど、既にジャン・レノも出てるし音楽もエリック・セラである。
リュックベッソンの映画に良く出てくる、「グラン・ブルー」や「レオン」で顕著な「何か突出した物を持っているけど根本的に間違っている男」の痛さはあまり無く、皆が健康的に荒くれていたし、全編がコミカルなテイストで統一されていた。

主役の男と共に戦う医者の相手であるジャン・レノがやっぱり良い感じであった。強くて凶暴なのやけど、どこと無く可笑しいのがとても良かった。
前半がかなり面白かったせいか、後半はちょっとだれたような印象を受けた。それでも、ギスギスした設定で殺伐とした事ばかり起こるけど、不思議と観終わった後はとても爽やかな感じのする映画であった。

2008年08月29日

●映画:デヴィッド・リンチ 「インランド・エンパイア」/悪夢そのものな映像/夢映画

amazon ASIN:B00104Y8W6 デヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」の五年後に公開された「インランド・エンパイア」 (2006/米=ポーランド=仏)を観た。

「デヴィッド・リンチの集大成」とか「マルホランド・ドライブに答えが出る」とかいう前情報があったものの、この監督やしどうせ訳わからんやろう。と思って観たが、やっぱりさっぱりわからんかった。
一応、ハリウッド女優が大役を射止めたけど、その脚本がいわくつきでどうしたこうしたというようなストーリーはあるけど、例の如くそんな事はこの映画には全く関係無かった。途中までは何とかストーリーのつながりを理解しようとしていたけど、そんな試みも途中で放棄。
いわゆる「リンチ・ワールド」が延々三時間続く、ある意味で苦行であった。
夜中に見たけど、寝そうで眠れないギリギリのラインをよろよろと飛ぶような映画であった。

この映画は、監督であるリンチが資金を出し、ちゃんとした脚本も無しにその日の思いつきで撮影した映像を繋ぎ合わせて作った、殆ど自主制作映画のようなものであるらしい。そう言う意味で、彼が自分のやりたい事だけをやったという映画なのだろう。

彼の映画を観ていると、「まるで夢を映像にしたようだ」と思ったものやけど、この映画は「まさに悪夢そのもの」と思った。
ストーリー的なつながりの無さとか、因果とか関係性を超越した出来事とか、意味のわからん、大げさすぎず小さすぎない恐怖とか、まさに悪夢そのものであったように思う。
ネットで見るとやたらとこの映画を褒める人が多くて「難解」とかいってやたらと小難しく扱って解釈を挑む人が多いけど、そういった行為にどれほど意味があるのか疑問である。夢を解釈するほど不毛な事はないんだもんよ。

映画にストーリや意味を求めたり、何かしらの爽快感や感情の高ぶりを求めるのではなく、ひたすら悪夢を楽しむ事が出来る人には楽しい映画かも知れない。
私は、本当ならそんな映画なんか観たくは無いと思う筈なのやけど、デヴィッド・リンチやし、ということでついつい観てしまい、ハァ?なんじゃこりゃ?と思いつつも、もしかしたら面白いかもしれない。と思う時点で、既に彼の術中にはまっているような気がする。
それに、悪夢そのものが映像化された物に近い映画だとしても、それはそれで珍しいかもしれない。
夢日記、というのはよくあるけど、これは夢映画みたいなもんやね。

以下の動画はデヴィッド・リンチが60年代に撮ったものらしいけど、こんな短編映画撮る人を理解しようとするのが土台無理な話であるような気がする。
それでも理解できないながらも、やっぱり凄いなぁ。と思うのであった。

2008年08月28日

●攻撃に移る一瞬に隙がある? / 英雄に相応しからぬ子供

最近、とっいっても数日前からの話やけど、空いた時間にファミコンばかりしている。
しかも最近のゲームにはない、ひたすら攻撃本能と動体視力のみを刺激する男臭い硬派なゲームばかり。
まだ、ゲームセンターが殺伐として殺気に漲っており、ギャルなど一人もいなかった時代のゲームだ。

具体的に言うと、一昨日は「悪魔城ドラキュラ」を、昨日は「闘いの挽歌」をクリア、そして現在は「魔界村」に挑戦中である。
しかし昔のゲームは何でこんなに難しいのやろう。「悪魔城ドラキュラ」はまぁまぁ簡単にクリアできたけど、「闘いの挽歌」はかなり難しかった。ザコ敵でも囲まれると一瞬で体力半分は減るし、最後のボスなんかありえんくらいに強かった。一回攻撃されると体力が半分減る上に、リーチが長い上に動きが早くて近づけない。相手が剣を括り出す「溜め」の瞬間に懐に飛び込んで一太刀浴びせる。ってのを見つけるのに滅茶苦茶時間がかかった。

一見何の隙もないように見える敵は大抵攻撃に移る一瞬に隙があるってのは、ドラゴンボールからこういったゲームに至るまで、我々の少年時代にはありがちな設定であった。

しかし、ネット上で調べてみるに、ファミコン版「闘いの挽歌」はアーケード版のそれに比べて、家庭向けゲームに相応しい低難易度のような扱いを受けていた。
そういえば昔、アーケード版の「闘いの挽歌」をやってその難しさにもう一度やろうと言う気すら起きなかったような記憶がある。世界は広いなぁ。

こういったゲームのストーリーでありがちなのは、悪の帝王が世界を支配していて、圧政に
耐えかねた主人公が悪の帝王を倒しに行くパターンと、お姫様(もしくは恋人)が悪者にさらわれてそれを助けに行く。という二つの王道パターンであった。
苦難に苦難を重ねた道のりを走り切ってゲームクリアすることは、その世界の救世主となる事であり、または美しい姫を我が物とする事であったり、また、世界を救った上に美しい姫も手に入れるという盛りだくさんな事ことであったりもした。
自分が世界にとって何者でも無いながらも無根拠に自分は凄いと思っていたり、異性と付き合う事がまるで別次元の出来事であるかのように思われた、少年時代の心をなんともくすぐる設定であった。
いざゲームが始まってしまえばそんな設定なんか殆ど誰も気にしていないけど、ゲームのエンディングではそんなストーリーを結構意識させられたものである。

悪の帝王を倒す事は世界を救った英雄に相応しい行動であるし、さらわれた姫を助ける事はその姫を手に入れるに相応しい行動であった。ゲームをクリアすると言う事は少年にとっての貴重な英雄体験であったような気がする。
それでも、「そんな一人の男に軍ごと壊滅させられる程度の強さで良く世界を支配できなたなぁ」とか「自分が代わって悪の帝王になればいいのに」とか「荒くれ男達や魔物にさらわれて監禁されててタダでは済まなかったやろうなぁ…」「助けて帰って恥さらしになるよりはここで止めを刺してやったほうが良いかも」とか子供ながらに、とても英雄に相応しからぬ事を思っていたのも、今となれば懐かしい思い出である。

2008年08月27日

●Javaな密林に植林 / 時は既に新世紀

仕事でJava Servletで動作するWEBアプリケーションなサーバーを作る事になって、Apache Tomcatを触る必要が出てきた。
おまけにそのWEBアプリはPostgreSQLも必要とするらしい。

今まで私はApacheとPHPの人やったけど、仕事で今まであえて避けてきたMysqlやらtexやらを使う必要が出てきて、結果としてこれもまあまあ使えるようになった。
で、「mysqlとTexはまぁまぁ得意」と言えるようになったら、今度はまた避けていたJavaとPostgreSQLまで触ることになって、また密林の未体験ゾーンに足を踏み入れることになった。

いくらSolarisやらNetBSDやらが好きで、家で趣味の一環として色々なシステムを作ってみても、MysqlやTexには仕事の必要に駆られてしか手を出さなかった。
PostgreSQLはまだMysqlと同じ括りになるとしても、今回のJavaなどは一人では絶対手を出そうとしなかったもののひとつだろう。
Sun Microsystems は大好きやけど、その開発物であるJavaはあまり好きになれなかったのだ。

とりあえずよくわからんながらも、Webにあるマニュアルを見ながらApache TomcatとPostgreSQLなサーバーを作ったけど、動作原理がまったくわからんのでとてつもなく不安である。
こればっかりは勉強するしかない。
confがxmlで記述されているのはちょっとしたカルチャーショックであった。ってJavaの話と言うよりはTomcatの話やね…

「時は正に世紀末」と歌っていた人がいたけど、その世紀末は過ぎて新世紀である。
もう今時、Java周辺をちょっとでも齧っとかんとあかんやろうかなぁ、と思っていたところなので「渡りに船」ならぬ「WebサーバーにJava Servlet」、「SolarisにTomcat」と言ったところだろう。(意味不明)

最近、仕事で今まで手を出さなかった分野に投入されることが多く、大変ながらも中々刺激的で楽しい。
そのうちに組み込みアプリとかデバイスドライバの開発を頼まれるのではないかとビクビクしている。

2008年08月26日

●逆の意味で変な夢

前の日にやたらとよく寝たって事を書いたけど、よく寝たせいかやたらと夢を見た。
ギターを使って誰かを死にそうになるくらいまでボコボコにしたり、誰かに告白されそうな雰囲気になって話を必死で逸らしたり、私自身がIPv6対応のL3スイッチになって、いっぱいいっぱいになりながらパケットを転送したり、ヨーロッパの「狐狩り」のように草原で足のついた魚を追い回したり、なんか安部公房の短編集か「10ミニッツ・オールダー」のような夜であった。

おそらく日常的に欲望とか欲求を抑圧せずにストレートに表現しているゆえんであろうか、昔から私の見る夢は、いつも抱いている願望が直接的に表現されたり実行されたりと、「そのままやん」って感じが多い。

私の夢の中は、記憶の整理でも無意識下から要請でもなく、ひたすら自分の思いのまま欲望や欲求を爆発させて、夢の中特有の全能感で暴走する場である。
夢の中では追いかけることはあっても追いかけられることはないし、あり得んほどに攻撃的で、人間の域を超えた能力を持っている。

で、そういう今までの夢からすれば、前日の夢はちょっと毛色が違うように思える。日常の延長のようなリアルさを持った夢ってのは久しぶりなような気がする。

2008年08月25日

●見苦しいのはいけないと思います!

前日が寝不足だったせいで、気付いたらすっぽんぽんで布団に包まって寝ていた。

道徳や倫理の根拠として、神やら仏やらの絶対者を設定した上で、誰の見ていないところで罪を犯したり善行をした場合に、「お天道様が見てござる」「神様は御存知」とかいう考え方があるけど、そんな考え方からすれば、誰も見てへんしええわーと言う事でそうしたけど、絶対者を設定してしまえばそんな行為もバレバレである。

昔、画伯氏に「昨日すっぽんぽんで寝た」と言ったら「そんな絵面の悪い事はやめなはれ」と言われて「確かにその通りだ」と納得した事があった。
すっぽんぽんで寝ている乙女であれば、薔薇でも添えて額にでも入れて飾っておきたくなるくらいに絵面的にも申し分ないけど、「すっぽんぽんで布団に絡みついて寝ている36歳の誕生日を向かえたばかりのオッサン」を「お天道様」や「神様」が見たら、「うわっ!きっつー。えらいもん見てもうた」という事で思わず天罰やら神罰を下してしまいそうになるかも知れない。

小学校の頃に読んだ『こどもの聖書』にモーゼの十戒が載っていて「殺すなかれ」「盗むなかれ」「偽証するなかれ」が「ころしてはいけません」「ぬすんではいけません」「うそをついてはいけません」になっているのは良いけど、子供にはちょっとわかりにくい「姦淫するなかれ」が「みぐるしいことをしてはいけません」になっていて笑ったのだが、昨日の私の寝方は「みぐるしいことをしてはいけません」にクリティカルヒットであろう。

そいうことでなるべく「見苦しい事をしてはいけません。」を深く自戒したけど、それよりなによりわざわざ自分の見苦しい所をブログに書いてしまうメンタリティーこそが一番の問題じゃないのだろうか?と思った。

2008年08月24日

●野蛮で魔法で戦国なコンピューター世界

家にインターネット環境が無い「IT弱者」ともいうべき人が、光回線を敷いて一気に「回線速度富豪」に躍り出るのは「インフラ下克上」とでも言うべきだろうか。

「コンピューターが日常生活に不可欠な時代になり、むしろ魔法の世界に逆戻りしたのではないか?」と言っていたのは、アラン・ケイかジェフリー・ディーヴァだったような気がする。
確かにコンピューターとネットワークを使うことで、今までとても時間がかかっていたことが一瞬で出来るになったり、今まで不可能だったことが可能になったりした。
ごく普通のユーザーからすれば、黒い画面のUNIXのシェルでコマンド操作している姿は呪文を唱えているように見えるらしいし、リモートから大量の端末に対して、ファイルをコピーしたり、ソフトをインストールしたり、はたまた動作原理の全くわからないシステムを構築したりする様は魔法のように見えるものだ。

コンピューター世界の中は魔法の世界だったり戦国時代だったりとなかなか野蛮でエキサイティングである。
「個体発生は系統発生を繰り返す」って言うけど、コンピューターの世界もまだまだ発展途上なんだなぁと最近よく思う。
深く入れば入るほど、コンピューターの世界の中でも、ほぼ近代化が終わったところもあれば、まだ中世のようなことをやっているところもあるなぁと思う。

2008年08月23日

●dogu.no-ip.org レンタルサーバーに移転

お試しに借りていたレンタルサーバーのスペースでメールもWEBも正常動作すると言う事で、とうとうお試し版から有料版に切り替えた。でもってメールサーバーだけでなく、dogu.no-ip.orgのwebサーバーもこちらに移転。
そういうことで、なんかブログの動作がおかしかったり、突っ込みどころがあれば教えてください。

私の借りているレンタルサーバーはシェルも使えるし、メールもFTPも仮想アカウント発行できるし、cronも使えるし、mysqlやpostgresqlどころかImageMagicまで入ってる。
どうしても無いバイナリがあれば、シェル使える上にgccも入ってるのでコンパイルすれば良いだけの話やし(一応したらあかんけど…)
唯一不満があるとすれば、メールでincludeが使えない事だけど、まぁこれは我慢できる。

ハード的な環境が大幅にアップしたのでとても動作が速いのが良い感じ。
目の前にあるサーバーよりも遠くにあるレンタルサーバーの方が動作が速い分、早くアクセスできると言うのは不思議と言えば不思議な感覚である。
インターネットが「距離」の感覚を変えたっていうのを再認識した。って何を今更…

サーバーダウンに怯えた日々よさようなら。ブログのエントリデータ消失のリスクが軽減されたのがなんとも良い感じ。
サーバーダウンを気にせず、気軽に自宅サーバーの再起動をしたり色んな物を入れてみたり出来るのがこんなに快適とは。

ファイルサーバーとドメインコントローラーさせるためにやっぱりSAMBAなお家サーバーは必要なような感じなのだが、でかくて重くて熱くてやかましい土偶家にあるサーバーのSun Netra t1 Model 105を引退させて、もう少しちっこくて静かなものに換えようと考えている。
今一番の候補は「玄箱」なのやけど、どうせサーバーを作るならSolaris、百歩譲ってNetBSDというこだわりがあり、SolarisもNetBSDも動かないハードを導入するのに躊躇している。
んんーお家サーバーの機器選定は難しい…省電力FAN無しパソコンにsolaris入れるのが一番無難かな。

2008年08月22日

●オライリーの表紙は可愛い

仕事でちょっとした待ち時間が出来たので、コンピュータ書籍でおなじみのオライリーのカタログを読んでいた。

オライリーの本ってのは、『詳解 Javaプログラミング 』などのメジャーなところから、『Solarisデバイスドライバ 』(本読んで書くつもりか?)や『入門 Kornシェル 』(あえてそこに入門するか?)などといったマニアックだったりニッチだったりするところまでカバーする、この業界では中々有名で評価の高い本屋さんである。

で、そのオライリーは「ラクダ本 」とか「バッタ本 」とかいって表紙の動物で本を呼んだりするくらいに、やたらとリアルな動物の表紙であるのがほとんどなのやけど、その動物の表紙がやたらとリアルで気持ち悪かったり、ちょっとクスッとしたりと言うのが結構ある。

やたらとリアルな クモ とかムカデ とか蛾の幼虫 の表紙の本ってのは嫌がる人はとことん嫌がりそうなので、それだけでも貴重である。

amazon ASIN:4873110130 しかしながらこの日にカタログで見つけた『C/C++による組み込みシステムプログラミング』はちょっとびっくりである。

これって「ツツガムシ」でないか?
もし違ってもダニである事は間違いないやろう。
これを「組み込みプログラミング」の表紙にするとはとんだアメリカンジョークである。

Pythonが蛇だったり 、『 WEBMASTER クイックリファレンス』が蜘蛛 だったり、ってのは「そのままやんけ!」だが、
IPv6 エッセンシャルズ 』の表紙がカタツムリで「えらい遅いIPV6やな…」
詳説イーサネット 』がタコで「タコ足配線?」
802.11無線ネットワーク管理 』が蝙蝠で「確かに無線…」
Win32/C++ マルチスレッドプログラミング詳説 』がカツオノエボシで「そんなに危険か?」
って感じにちょっとクスッとすることもある。

しかし、冒頭で紹介した『Solarisデバイスドライバ 』とか『初めてのFlash Video 』の表紙って何の生き物や?

クマムシの「ダウンしないサーバー構築」とかプラナリアの「マルチキャストネットワーキング」とか実際にあったら如何にも良い感じでない?

ちょっとネタに走って、忍者が表紙の「ロードバランシングテクニック」、鈴木宗雄が表紙で「実践システムログ管理」とかやってもよいではないか、よいではないか。

2008年08月21日

●土偶お天気サービス開始

レンタルサーバーのお試し版で丸一日お天気メールとメールサーバーを運用してみたが、ちゃんと設定した通りに動作する事が確認された。
現在は直接の友人に配信する為の「一言」であまりにも内輪ネタ過ぎるので、これを著名人の名言やとかそれらしいのを読み込むバージョンも作ればいいかもしれんね。

とりあえず、ブログのトップに出る言葉をランダム表示にしてみてこんな感じで良いかもしんない。
こう言うなんを配信すれば問題なかろう。

ということで専用サイト、tenki.dogustat.com の開始である。

2008年08月20日

●レンタルサーバーでメールサーバー運用

プロバイダを変えてから、自宅サーバーで運用していたメールサーバーがドコモやAU宛に送信する時に接続を拒否されるようになった。という事を以前に書いた。
本来ならプロバイダのSMTPを経由して送信するのがスジなんやろうけど、私が利用しているプロバイダはプロバイダのメールの利用がオプションだったので申し込まなかった。
プロバイダのSMTPが使えないので、普段メインで使っているgmaiのSMTPを経由するようにすると、どうもfromヘッダとは別に、senderヘッダにgmailの実アドレスが記載されてしまうようだ。

スパムっぽいメールに対するエラーメールにもこのsenderヘッダつきで送信するのは激しく微妙なので、携帯電話宛にメールを送信する必要がある場合のメールは新しく取ったドメインと、レンタルサーバーのお試し版で運用してみた。
このレンタルサーバーはcronも設定できるので、自宅で運用していたお天気メールを試しにこのサーバーから配信してみたが、ドコモ宛でもAU宛でもとりあえずちゃんと動作する。

お試し期間が終わって、有料で借りるとなれば年240円、月にすれば200円換算である。
メールサーバーもちゃんと動くし、Cronも使えるし、家の自宅サーバーより遥かに早いし、お試し期間中に動作確認して、ちゃんと動くようであれば有料で借りる事になるだろう。

ということで、この月200円を稼ぐために、このお天気メールを有料化しようかなと考え中である。
もちろん今利用しているユーザーは無料やけど、月に幾らか払ってくれても大歓迎やよ。
直渡しも可、イーバンクも新生銀行も口座持ってるので、払い込み手数料もただですえ?どう?

好きな曜日の好きな時間に何通でも、YAHOO天気予報が対応している地域なら何処の地方のお天気でもメール送りますえ?
送信時毎に変わる「一言」つきやで?どう?

2008年08月19日

●誕生日も過ぎて

8月の14日が誕生日だったのだが、冷静になるまでもなく、オッサン以外の何者でも無い、自分の年齢にちょっと引いている。
生まれてこの方ずっと自分自身の年齢と、自分自身のあり方にギャップを抱き続けてきたけど、この歳になっても依然として消える気配はない。
こういう事を言う人間は、恐らく一生同じ事を言っているのだろうなと、自分で思う。
自分で自分が見えたからと言って、見えただけで問題はなにも解決されないのは前からわかり切っているのだが。

「お誕生日おめでたうメール」を何人かの方から、またLAMYのSafariも頂いた。とても嬉しい。
私にそんな事をしてもらう価値があるのか?などと考えずに、そうされてしかるべき人間に成れる様に努力しよう。と思った。

safariyelow20080817.jpgSafariは前から欲しかったのでとても嬉しい。しかも黄色!とても良い感じにサクサクサラサラである。

2008年08月18日

●免許証更新 / グイン・サーガーに驚く / ハゲタカ刑事

朝から免許証の更新に繰り出す。やっとゴールドになったのは良いんやけど、何でこういう写真て例外なく変な顔になるんやろうなと思う。
昼にパン食べ放題。夜にカレーと大好きなものばかり食べた。

今月新刊の『グイン・サーガー 122巻』を読んだのだが、最後の一行に滅茶苦茶びっくりした。
シルヴィアとグインの話はどうなるのやろうと常々思っていたのやけど、まさかこういう展開になろうとは…エーッ!?
そういえばアニメ化されるようでちょっと複雑な気分。

amazon ASIN:4088616081 また漫画を買ってきた。今度は『ナマケモノがまた見てた』である。
腐った死体が大好きで、一番に現場に駆けつけてホトケを食べてしまう「ハゲタカ刑事」がオモロすぎる。

って書くと、とても忙しく色々な事をしたように見えるけど、実際はとてもまったりした日であった。

2008年08月17日

●ヘチマに雌花が咲いた

家に植えたゴーヤは二つ目を収穫して食べ、三つ目がそろそろ食べられるかな?という大きに育って来ているのだが、ゴーヤに引き換えヘチマが雄花ばかりで全然雌花が咲かず実が出来んやんけー。と思っていたらいつの間にか雌花が一つ咲いていた。
もう夏も終わりそうやのに、今更って感じもする。

いつも何時くらいに実が出来ていたのか全然覚えていないけど、ブログを見る限り、一昨年は九月の半ば、去年は10月の半ばにヘチマを収穫していた。
ということで、ヘチマの実が出来るのは思っているより結構遅いようである。

今実がなり始めたので、さすがに9月半ばから十月半ばには食べられるくらいの大きさになっているだろう。
しかし、なんか実が出来ると言うのはわくわくするなぁ。

2008年08月16日

●『火の鳥』 / ダコタ・ファニング VS テンテンちゃん

amazon ASIN:4041851017 前から手塚治虫の『火の鳥』が家にあったのだが、何故か13巻あるうちの3巻が抜けていたので、前日にその三冊を買ってきて、殆ど徹夜で通読した。
なんつーかスケールが大きすぎて、登場人物の個人性があまりにもさらっと流され過ぎに思った。良いように言うと交響曲全集のような漫画であった。
やっぱり鳳凰編の我王と茜丸の話は昔ファミコンのゲームにもなったくらいで一番面白かった。
ゲームは鬼瓦を作って効果的に足場や防御壁にする「鬼瓦アクション」が新鮮だった。
漫画は読んでいなかったながらもかなり熱中した記憶がある。
ゲームのストーリは漫画とは全然関係ないけど。

amazon ASIN:B000BIUDUI 『火の鳥』を読む前に、ロバート・デ・ニーロとダコタ・ファニングが出演している「ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ」を観たのだが、ストーリは良いとして、ダコタ・ファイニング主演で「カードキャプターさくら」を撮って、テンテンちゃんと戦うところを是非みてみたい。と思った。

2008年08月15日

●映画:「ハサミを持って突っ走る」 / 食傷気味な感じの物語 / ちょっと残念

原作がアメリカで中々のベストセラーになったらしい「ハサミを持って突っ走る」を観た。

amazon ASIN:B000VV1D18 自分は偉大な詩人だと確信する誇大妄想の母親にアルコール依存症の父が離婚して、やがて母からネグレクトされる子供が主人公である。
一人暮らしをする母は捨てた息子を信頼する精神科医に預け、主人公はそこで家族のように暮らすのだが、精神科医の家族も例外なく病んでいる。
ドッグフードを食べながら恐怖映画ばかり観る母親、小児性愛者克服の治療を受けているゲイの長男、ネコを飢え死にさせて葬式をする病的に潔癖な長女、その長女と衝突してばかりいる典型的なビッチ系のトラウマ少女な次女、そして家長にして一番狂っている精神科医の父である。
訳がわからない人たちに囲まれながらも、それなりに成長して行く少年の姿を描く教養小説的な作りの映画であった。

ちょっとおかしい人たちがドタバタするようなコメディを想像していたんやけど、笑いの要素は全く無く、延々と陰鬱で陰惨な話が続く物語である。
一応コメディーという事になっているらしいけど全然笑えない。
手法や映像はコメディーでポップやけどひたすらシリアスで重い雰囲気の映画であった。

原作はレビューや評判を読む限り、おかしな人達とのの交流や彼らなりの成長が描かれている面白おかしい物語であるような雰囲気なのだが、この映画の演出はただ登場人物の悲惨な境遇とその悲惨さを強調し、登場人物がひたすら叫ぶ物語である。
最近はこの手の演出の、精神の病だのトラウマだの幼児期の悲惨な体験だのを前面に押し出したような映画や物語に食傷気味であるし、この手の物語につきものの滅茶苦茶な言動の後に悲惨な幼児期の体験やトラウマや精神疾患を免罪符かの如くにして泣き落としにかかる人間にもうんざりぎみである。

そういった闇を抱える人にとって、ただそういったところを見せ付けられるの何の意味があるのだろう?
私としては、普通の人とは違っていても、普通の人と違う悩みを抱えていても、普通の人に理解されなくても、「別におかしくてもええやん」という方向性で自分なりの生き方を見つけて、一個の人間として自立して生きて行くような様が、世のマイノリティーやトラウマ少年少女や同じような闇を抱える人間を元気付けるような映画を期待していたのでちょっと残念であった。

2008年08月14日

●マイスター・エックハルト 『神の慰めの書』 訳:相原信作

amazon ASIN:4061586904 「やっと」と言うべきか、マイスター・エックハルトの『神の慰めの書』の感想を投稿する。
結構な時間をかけて読み、読んだ後もこの感想を書き始めるまで結構時間があった。
なんというかあんまり適当なことを書くわけにはいかんなぁという感覚が書くのを遅れさせていたように思う。とはいっても、時間をかけてゆっくり書けばそれなりの物が書けるという事も無いやろうし、観てすぐに書く映画の感想が適当と言うわけではないんやけど。

思想家としての神学者エックハルトは、プラトンやとかデカルトやニーチェといったメジャーな哲学者どころか、同じく神学者であるアウグスティヌスやトマス・アクィナスに比べても、一般的にマイナーであろうかと思うので、彼自身についてちょっと調べた所を書いてみる。

彼は、トマス・アクィナスが現役のパリ大学の教授で、日本では親鸞が死んだ1260年代の初めにドイツのチューリンゲンに生まれ、神学者の道をひた走って、学問的にも教父としても人々の尊敬を集め、神学教授としてのパリ大学での功績を認められて「マイスター」の称号を受けている。
しかし1326年に当時アヴィニョンにあった教皇庁から異端の告発を受け、審問を待つ間に彼は死んだものの、結局彼は異端の烙印を押されて全ての著作は焼かれて所持も刊行も禁止されてしまった。
彼に関する情報がことごとく意図的に消去されたおかげで、現在、彼のことはほとんどわかっていないらしい。
その後カトリック教会は彼の名誉回復を行って、彼を学聖として祝福したけど、彼自身の手によるといわれる著作物は殆ど全くと言っていい程残っていないらしい。
今世にある彼の著作と言われるものの殆どは彼の説話やエピソードを記録したような形の文章、又は教説に関しての口述筆記らしいものであるようだ。

そしてこの本もそんな教説集の一編である。ドイツで出版されていた二冊のテキストから訳者が選んで構成した物であるようだ。しかしこの本自体の表題にもなっている『神の慰めの書』はハンガリー王妃に向けた文章で、唯一の彼が直接書いた事が明らかになっている文章であるらしい。

異端とされた神学マイスターなる立場はなんとなく男心をくすぐる何物かを持っているけど、彼のそんな立場は関係無しに、彼は彼の教説からどちらかと言うと神秘主義者という位置づけるあるようだ。
聖書の「幸福なるかな、心の貧しい者」を、彼は自己を捨てた、仏教で言う無我のような物として考え、自身を無にすることで、自身に神を迎え入れるための存在となる取った事を説いている。
自身が無になり処女性を帯びる事で、処女受胎のように神を生む事が出来る。といったように、自分自身が神と一体化するような方向性をもった教義を述べているように思える。
彼が我々に言わんとする事を最も端的に言ってしまえば「自己を放棄して無になることで神と合一する」と言う事だろうし、確かにそこには「悟った」と言われるような人たちが口にする典型的なタイプの一つがあるように思える。
ここまでなら、彼の言っている事だけを取れば、頭でっかちの悟ったつもりの勘違いした自称宗教家、自称哲学者が言いそうな事と同じであろう。
口だけでは何とでも言えるし、問題はその言葉が真実らしく読む人の心に響くかどうかである。

世間では往々にしてそういった事を口にする人は胡散臭い人だったり、完全にに勘違いしているように見えるが多いようで、いわゆる「悟った」というか「見てしまった人」というのは、そうではない人とそういった事に関する事を話し合ったり主張したりせず、自分がそうである事を声高に述べないものであるような気がする。
世の中でそう言う事を口にするのは、語る本人にとっても、その語られる事どもにとっても、あまりにリスクが大きすぎるし、現にエックハルトはそのおかげで異端認定までされてしまっている。

しかし、彼がそういったリスクを負いながらもひたすら彼の到達地点と目指すところを語っていたのは、人に対する愛からではなかろうかと言う気がしてしょうがない。
自分自身が何とか乗り越えたり、乗り越えようとしている試練に、他の人たちが立ち向かっているのを見ていると、その試練に恐れる事無く立ち向かえるように言葉をかけずにいられないのではないだろうか。

彼が言う「無我による自己の放棄」とか「神と同一になることで自らが神性を帯びる」なる教説は、私からすれば単語レベルの言葉の意味として理解されうるのみで、自身の実感として理解するには遥か彼方にある境地である。
しかしながら彼が、私にも良く理解できる苦悩や欲望や罪、などあまりに人間的なものに対して言及する言葉はとても心に染みる。

「私はあえて、いかなる聖者も愛や悩みによって動かされない、程に偉大であった事はかつてなかった。と主張する」と彼が言うように、人間であれば愛や悩みなる欲望と苦悩から離れられないとでもいうところが彼の人間に対する認識の基本なのだろう。
「罪への傾向性は罪ではない。罪を犯す事を意志する。それが罪である。」として、欲望や罪の根となる「傾向性」自体が消えるのではなく、それと戦う事こそが尊い仕事であると説く。
苦悩と欲望との死闘が神への捧げものであるとするキリスト教的な価値観を、彼はなんと苦悩と罪に満ちた人間存在に対する同情と愛を持って語るのだろうと思う。

そういった苦悩と罪と一緒でしか存在し得ない人間なる基本認識を前提にして、「まことに私は、私の中の魂に徹頭徹尾神を受け入れるに十分な能力をもっている。私は、私自身生きている事を確実に知っているが、それと同じ程度の確実さを持って、何物も神ほどに私に近くない事を知っている。神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである」と言う事を誰でも同じですよ。というトーンで言っている。

自己を捨てれば捨てるほど神を認識して神が自分に合一化しやすくなるという、凡人からすればあまりにもぶっ飛んだ教説は、ここでエックハルトの愛と同情に満ちた人間観と一体化して、読むものにリアリティーと感動を引き起こすのである。
「我が苦悩こそ神なれ、神こそ我が苦悩なれ」「神御自身がわれわれと共に悩み給うのである。」なる言葉に至っては、神を信仰する人にとってとても慰めと力づけになる言葉である事は良くわかる。

また「酔える人マリア」と「働ける人マルタ」を比べて、観想的であるよりも活動的である事の方が良いとして、生活こそもっとも偉大な認識を与えるとしている事は、宗教者でも学者でもない我々にとって何と励みと救いになる事だろうか。

エックハルトの説く教説やとか説教はもちろん、悟ってもなお、凡人と同じ場所に立って、同情と愛に満ちた言葉を人にかけ続ける彼のお人柄も、彼が現在でも読まれる事の大きな一因ではないのだろうかと思った。
自分の信仰やとか知恵を誇るようなトーンが皆無で、人間に対する同情と愛に満ちながら、熱く熱烈に神の愛と神の国がどれほど素晴らしいかを語られると、さすがにそれは素晴らしそうやなぁという気になってくる。
結局、思想であるとか哲学であるとか宗教であるとか、そういったものはそれを持つ人がどういった人であるかと言う事、また語られる事と語っている人が切り離される事無くどれだけ素晴らしかったり、信頼できる存在であるかと言う事が、本当に大事なのではないかという思いを強くした。

個人とその思想は切り離されてしかるべきであるという事をヤスーパースが言っていたような気がするし、確かにそうであるべきなのやろうけど、それでももし私がなにものかの真理を目指して哲学する人間であるとしたら、私の言葉、私の行い、私の存在でその哲学なるものを貶めて汚す事のないように「あいつがあんな無茶苦茶やねんから、あいつのいう事もたぶんあんな無茶苦茶なんやで」などと言われないようにしたいなぁという思いを強くした。
そして逆に「あんなに素晴らしい人の言う事やから、きっとあんな人が目指すものも素晴らしいに違いない」と言われるようになればこれに勝る幸せは無い。
と思った。

って結構書いたなぁ。長い感想というかレビューになってしまった。皆読んでくれるか心配である。

2008年08月13日

●サザエご飯 VS 岩がき丼

sazaegohan20080813.jpg サザエ料理で前々日はスパゲティーの具だったが、この日は、何故か突如思いつた、"サザエの炊き込みご飯"を作った。
結論から言うと気を失いそうになるくらい美味しかった。というのは言いすぎにしても、たまらんくらいに美味しかった。

材料:
・サザエ
・人参
・干し椎茸
・アオサ
・米
・塩・醤油・料理酒・水

下ごしらえ:
サザエ、人参、アオサ:適当な大きさに刻んでおく
干し椎茸:コップに水を入れて干し椎茸を入れて日向にほおっておく。

サザエを細かく刻んで飯盒に入れ、酒と塩と醤油でちょっと煮る。
椎茸を戻し汁ごと投入し、ご飯と水を入れる。
醤油と料理酒と塩を入れてこの時点で味を見る。
どうせ煮詰まるだろうからちょっと薄い目の味付けで、通常の飯盒でご飯を炊くように炊く。
そろそろ蒸らしかな?と言うタイミングで一旦飯盒を火から下ろしてアオサを投入(最初から入れると変色しそうなので)
更に火に戻して一旦一煮立てさせた後、十五分ほど蒸らして、アオサをご飯に混ぜ込みながら湯気を飛ばして出来上がり。

というのが理想的な段取りやけど、今回は途中でコンロのガソリンが切れて再給油の間に時間が開いている。
それでも美味しかった。本来ならミツバを使うところやけど、その辺に生えてるアオサを緑に使うところが土偶風である。
「炊き込みご飯は下品なくらいの濃い目の味が良い」とどこかで聞いたような気がするのやけど、贅沢すぎるほどのサザエが投入されているので、薄味にしておいて、塩を振って食べるととても美味しかった。

その辺にいる白身魚でも捕まえて来て、澄し汁の具にでもすれば良かったやん。とこれを書いている時点で思いついた。シロギスやネズミゴチなら何ぼでもいるのに。残念。

iwagakidon20080813.jpg 夜に「岩がき丼」というのを食べた。これはこれでとても美味しかったけど、はっきり言って「サザエご飯」の方が美味しかった。

2008年08月12日

●肉じゃがジェラート / 癒し系フナムシパラダイス

「肉じゃがジェラート」なるものを食べた。
殺す気か?っていうほどの日差しの中の朦朧とした意識の中では「あっ、ほんまに肉じゃがの味するわ」っとしか思えなかった。
でも、冷静に考えれば、決して美味しいは言えず、食べられないほど不味くはない。というラインをギリギリ維持して低空飛行するような食べ物であった。ような気がする。

しかし、なぜこのような食べ物を作ろうと思ったのか甚だ謎である。
巷に良くあるような、間違って醤油をかけてみたら意外に美味しかった。とか、幽霊の絵に間違えてお茶をこぼしたら足がぼやけて意外にいい感じだった。の様に、間違えて肉じゃがにアイスクリームを落として、食べてみたら美味しかった。という感じなのだろうか?
というような疑問を持ったけど、最初から食べ物としての美味しさを追求するのを放棄して、何とか食べられる。を目指したようなベクトルをもったこの「肉じゃがジェラート」は、"はじめに肉じゃがありき"なのだろう。
パンフレットにはどこにも「美味しい」とは書いておらず「不思議な味」としか書いていないのが正直で笑った。

この「肉じゃがジェラート」のように、はじめに肯定しなければいけない無理な前提があると、どうしても言ってる事とやってることに無理が出てくる。
「私は正しい」を前提で物を言ったり行ったりする人間の言動が支離滅裂で無茶苦茶なのと同じである。
最初は物珍しさで人は寄ってくるけど、一度実情を知ると普通の人ならかかわり合いになりたくないと思うし、相当できた人でも距離を置くようになるだろう。ただ自分の被害の及ばないところから見ている分には面白いかもしれない。

とはいっても、この「肉じゃがジェラート」は単独でこれしか売ってなという状態で売られているのではなく、「肉じゃがまん」「肉じゃがコロッケ」などの順当に美味しそうな「肉じゃが」をコンセプトとした食べ物の一環として売られているので、物珍しさ目当ての客だけでなく、美味しいものを食べたい客も拾う構造になっていた。

物珍しさで客を惹きつけておいて、ちゃんとした美味しい食べ物で釣る。という構造はなかなかに考えられているのではないだろうか。さすが海の町だけあってカツオや鯛の一本釣りと同じ漁法である。
いやいやお見事であった。

そして日が傾き掛けた頃から私の大好きなフナムシパラダイスで潜る。
イシダイもチヌもキジハタもまったく見当たらず、突きたくなるようなカワハギ君すら出合わず。透明度まで低かった。
いったい今年はどうしたのだろう?

結局、一度もヤスを撃たずに終わった。
よっぽど、ちらちらと視界に入る40cmクラスのグレを撃とうかと思ったけど、流石に止めておいた。

それでも、一人ですばらしい景色と海と太陽の中で、何の気がかりも無く純粋に海底で水圧を受けながら純粋な殺意の塊となって魚を探していると、まるで自分が海に溶け出して、海が自分に染み込んで来るような感覚に陥る。
この感覚を感じると又一年巡ってきたなぁ。と言う気がする。

2008年08月11日

●初海 / 白ワインベースのサザエとカニとわさび風味アオサのスパゲティー

今年の初海である。しかしながら透明度は低く魚影も薄すぎでダメダメである。
キジハタの影もなくカワハギ君すらいない。

pasta20080811.jpg ということで、作りたかった浜辺でパスタを作った。
白ワインベースのサザエとカニとわさび風味アオサのスパゲティーである。

材料:
・買い立てのまだぴちぴちのサザエ
・その辺で捕まえてきたイシガニ(ガザミが良かったけど見つからず…)
・その辺で採ってきたアオサ
・塩、胡椒、大蒜、鷹の爪、白ワイン、ワサビ、オリーブオイル
・海水

下ごしらえ:
サザエ:サザエが油断している隙をついてナイフを蓋の間から突き入れて貝柱の部分で二等分、残った実は指を入れて貝柱を切って実を抜き、ざく切りにしておく。
カニ:かじり易い大きさに割っておく。胴体で二等分か四等分やね。
アオサ:適当な大きさに刻んでおく。

海水に少し水を足したものでパスタを茹でる。
フライパンにオリーブオイルを温めて、鷹の爪とニンニクを炒め、ニンニクが色づいてきたらカニを投入する。
カニが赤くなったら白ワインをどぼどぼと入れ、サザエのワタの部分を潰しながら煮る。
塩胡椒で味を調え、いい感じに煮詰まってきたらパスタを投入して絡める。
堅いめでフライパンから出して皿に盛っておく。
オリーブオイル、多い目の白ワインでアオサを煮て、変色しないうちに塩胡椒とワサビで味を調えて、盛ったパスタにかけて出来上がり。

サザエのワタの苦さとワサビっぽいアオサとサザエの身のコリコリ感が美味しい。
ニンニク風味のカニを初めて食べたけど、これは美味しい。しかも脱皮してそんなに間がなさそうなちっこいカニだったので、殻が柔らかくボリボリいけた。
これは美味しかった。しかし海水で茹でたパスタはとても美味しいなぁ。

ヤスを撃ち込みたい魚には出会えなかったけど、海と太陽と美味しい料理で幸せ過ぎる海日和であった。

2008年08月10日

●錆びるヤス / キャッチ アンド ストマック

去年から洗っても洗っても、塩抜きしても塩抜きしても、いつの間にか尋常ないくらいに錆びてくる二股ヤスのジョイント部分を抜いてみたら中に海水が入っていた。そりゃ錆びるわな…
と言う事で本格的に塩抜きして、ジョイント部分のパーツを交換した。
でもって、研ぎ研ぎ使ってきたヤス先ももう限界である。ちゃんと研ぎなおしたら、かえし部分がなくなった状態になってしまった。
魚には優しいかも知れんけど、突いた魚の回収率が下がる事は本当に魚に優しいのかどうか微妙である。
突いた魚は確実に取り込んで胃袋に治めてあげんとね。

バス釣りとかマス釣りなスポーツフィッシングな文化圏では、「キャッチ アンド リリース」とか言って釣った魚はすぐ逃がすのが良しとされているけど、、私の場合は捕まえた魚は食べ尽くす「キャッチ アンド ストマック」である。

2008年08月09日

●ビニールハウス育ち

部屋で昼寝をしていて、あまりの暑さに生命の危険を感じた。
丸一日このまま寝ていたらミイラになっていたかもしれない。
まさか家の中でこのような事があろうとは、世の中何処に落とし穴があるかわかったもんじゃない。

某レディがあまりに暑い自分の部屋を指して「温室」、そこに住んでいる自分を指して「温室育ち」と言っていて上手いなぁ。と常々感心していた。

で、そういう言い方からすれば、私の部屋の場合は「ビニールハウス」みたいなものである。
私は甘やかされているのか、過度の負担をかけられているのか、よくわからないようなビニールハウスで育った、季節外れで無駄にでかかったり異様な形状をしていたりと、見るものを引かせる野菜みたいなもんやね。

2008年08月08日

●なぜ私はかくも図書館に惹かれるのか

昨日の昼休みに、家に無かった事が発覚してからとたんに猛烈な勢いで読みたくなってきたエリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』を職場の図書館で借た。そして昼休みの残り時間中、図書館を物色する。
昔から図書館なる存在に対しての心惹かれ方は、私が単純に本好きであるという理由だけで説明できる粋を超えているような気がするし、図書館で働いたり図書館と関わりのある仕事をするのは昔から夢の一つであった。
図書館の魅力についてならいくらでも語れる自身があるけど、何がこれほどまでに昔から私を図書館に惹きつけるのか今だに理解出来ない。

そういうわけで、普段あまり本を読まない友人を図書館に案内し、一緒に本を選んだり本を借りたりするのは何とも嬉しいものであった。
私の気に入っている野原を案内し、花を愛で、苺を摘んでいるような気分である。

借りてきた『死ぬ瞬間』であるが、昨日半分、今日残り全部を読んだ。なんか久しぶりに本を読んだような気がする。
多くの人が口先だけで概念としての死を語るのに引き換え、本当に死に臨んだ末期患者がリアルな自分の問題としてダイレクトに語る「死についての言葉」に圧倒された。

2008年08月07日

●病院で人を理解したり人に理解されたりする事を思う

朝、病院に寄ってから出勤する。いつも思う事やけど、病院には何と人が溢れている事か。ここにいる皆がそれぞれ何かしらの病気を抱えていると考えれば何とも不思議な気がする。
それぞれの病気と心配事を抱えて病院に集う人たちを傍観者として見ていいても、そんな事は何も伝わってこない。
個別性なんてものが自分ではないものに理解される事が幻想でしかないように見えてくる。
恐らく自分が自分自身を理解して捉える事でさえそうなのだろうと思う。私の事を一番良く知っているのが私自身であるという当たり前のような話ももたぶん幻想なのだろう。
そういうわけで、他人に理解されなくて当たり前、他人を理解出来なくて当たり前である。と言えよう。

他人を理解し、または他人に理解されるのは殆ど不可能であるのかも知れない。
しかし、無限の可能性からゼロを選ぶに等しいルービックキューブの6面合わせが確実に可能なように、人間にとってそれは不可能であるとも言えない。

はたから見れば凡そ現実の物とは思えない6面合わせが、訓練と習慣付けによって簡単に習得出来るように、自分が理解されたり他人を理解したりする事も意外に簡単に習得できるのかも知れない。

考えてみれば、他人の理解や自分が理解されるというのは最終的な目的ではない。何らかの目的に向かうための条件であり手段であるはずである。
他者の理解と自分が理解される事で何を目指そうとしているのかこそが重要であろう。

他人に理解されず、他人を理解できないからといって、そこに留まるのはあまり得策ではない。
往々にして嘆けば嘆くほど相互の不理解は深まるばかりである。

相互理解そのものが最終目標である事は殆ど無いだろうし、一旦それを保留してそう言うものとしておき、別の道や手段でもって目指すものへ向かう事も大事やなぁと。

でもそれはどちらかと言うと、人間に対する信用の問題になってくるんやろうなと思った。

2008年08月06日

●ある世界での臨死

やっとのことで、生き残っていた旧世代のOSを全部入れ替えた。教室二つで作業時間は二時間半である。
我ながらなんと段取りのいい事か。と思う。
これで「特殊用途」でない通常利用の端末全ての足並みが揃った。

それに伴い、初夏の頃に、突然のひらめきと思いつきから「夏休みの宿題」として自分に課していたサーバーの構築が本日をもって終了した。
私の管轄する全てのクライアントを統べるべく開始させたサービスも、順調に動き始めている。
懸念事項の一つであったセキュリティ的な問題もこれでとても大きな進展を得た。
大きな気がかりだった事が一つ解消され、回る物と回らせるものと回り続ける所、やっと全ての環境が揃った。
地味ではあるけど、これは悲願であった。私にとっての一つの到達点である。

今まで私が介入する事で回っていた世界は、これからは私の介入無しに自立的に回り始めるだろう。
私がいなくなったこの世界が、より素晴らしい秩序を持った世界に取って代わられるまで、自己修復と自己超克と自己防衛を自立的に繰り返しながら存在し続ける可能性を持ったと思えばとても嬉しい。

あまりにもひっそりとした世界の完成は世界の終わりにとても似ている。
私がいなくなった後の世界の事を考え、そのための準備をするのは、何かしら死の準備に似ている。
わかりやすい自己存在のの意味でもって自身と世界の関わりを計り、そしてその価値を他に分け与える事で自身の存在の意味を世界から剥奪する。
私が死んだ後も世界から何も失われないように。

この世界の完成、あるいはこの世界の終わりによって、私の存在はこの世界での価値を失う。そしてそれはこの世界での私の死でもある。
今までの私が死んだ今、私はこの世界と今までとは違う関わり方で関わる事にならざるをえないだろう。それがどんな関わり方かは想像はつかないけど。


と、コンピュータを世界に例えるのはとてもたやすい。
世の中の複雑さと不条理さに比べれば、コンピューターの世界の秩序など何と理解しやすい事か。
世の中で頻繁に起こるトラブルや災難に比べれば、コンピューター世界での危機回避や問題解決が何と容易く迅速に行われる事か。
全ては原因と結果、一つの目標とそれに到達する幾つもの道が存在するだけ。全ては論理の世界である。
往々にして陥りやすいコンピューター世界での全能感の根がそこにある。

それでも、依然として、コンピューターが一つの世界である事は間違いない。と私は思う。
そしてコンピューター世界での経験を現実に活かせない人間こそ、コンピューター世界を貶めるものであると思う。

まぁ、コンピューターの世界に限った事では無いやろうけどね。

2008年08月05日

●「葛藤」ならぬ「糸苦」

goya20080805.jpg
ゴーヤは次々と雌花が膨らんでくるけど、ヘチマは雄花ばっかりで全然実がならん。ゴーヤとヘチマが絡みついて大変な事になっている。むぅ。
先日写真をUPしたゴーヤが気付けばこんなに大きくなっていた。手のひらを伸ばしたより少しい大きいくくらい。
でも写真でみるとなんか意外にグロテスクやなぁ。後ろに映っている黄色い花はゴーヤの雄花ですな。

もっと大きくなるのを待ちたいけど、早くゴーヤチャンプルにして食べたい。ってな葛藤と日々戦っている。
「葛藤」って言葉は葛と藤が絡まる状態を指しているので、この場合は糸瓜と苦瓜が絡まっているので「糸苦」と言うところか。

2008年08月04日

●夏向きの本

『カラ兄』の原卓也訳の新潮文庫版を買った。米川正夫訳、亀山郁夫訳と読んだのでどうしても読んでおきたかったのだ。しかしこのクソ暑さのなか『カラ兄』を読むのはあまりに暑苦し過ぎる。

8月3日にアレクサンドル・ソルジェニーツィンが死んだらしい。彼のデビュー作『イワン・デニーソヴィチの一日』はとても面白く読んだのだが、『煉獄のなかで』 『ガン病棟』 『収容所群島』は本棚に入ってる割には読んだ事が無い。折角やし読んでみようかなぁ。と思うだけ。

で、結局、恥ずかしながら未読だったエリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』を読もうとしたら、家にあったのはその続編チックな『死ぬ瞬間の対話』だった…続編を先に読むのもなんやし。
むぅ、無いとなると余計に読みたくなってきたなぁ。
暑い夏には息が凍るようなシベリアの話が合うかと言えばそうではない。
強烈な生をイメージさせる「夏」には逆にコントラストとしての「死」が強く意識されるのだ。

って本読む前にエックハルト『神の慰めの書』の感想書かんとね。

2008年08月03日

●映画:サウンド・オブ・ミュージック / 「ド」はどうしてもっと早く観なかったんやろうの「ド」?

amazon ASIN:B0014B8A7O 今更ながらに初めて「サウンド・オブ・ミュージック」を観た。
1938年のナチスによる併合前夜のオーストリアのザルツブルグを舞台に、お転婆で天真爛漫がゆえに修道院で浮いた存在であった主人公マリアが、7人の子供たちの住み込みの家庭教師としてトラップ家を訪れ、歌でもって子供たちとご主人トラップの心を開いてゆくというもの。

昔、中学の友人の家に「サウンド・オブ・ミュージック」と書かれたビデオテープがあって、実はそのタイトルはダミーであり中身は実にエロエロなビデオだったという何とも心温まるエピソードがあったのだが、今まで「サウンド・オブ・ミュージック」と聞くとなんとなくその事を思い出してちょっと笑いを誘うようなイメージがあった。
しかしながら、初めてこのエロビデオではない「サウンド・オブ・ミュージック」を見てとても感動し、そんなイメージは一変した。
今までミュージカルなんかほとんど見た事の無い私であるけど、これは文句なしに素晴らしい映画である。

冒頭のアルプスからの俯瞰から高原で踊るマリアへのズーム、そしてマリアが全身で歌いだす「The Sound of Music」でいきなり「(´;ω;`)ウッ」と来るものがあった。
まだストーリーが始まりもしていない冒頭でいきなりこれは度肝を抜かれた。なんやねん。ただ歌ってるだけやのに…(;つД`);

物語はとても健全に、とても順調に予定調和の路線をひた走って行く。
主人公マリアに懐く子供たちの主人を信頼し切った子犬のような目に笑え、あまりにご都合主義で勧善懲悪な展開にちょっと不安を抱くけど、それは私が自然な演技とリアリティーを追求した映像を良しとする現在の映画に慣れているからだろう。

ミュージカル映画と言う事もあるのだろうか、自然さとかリアリティーの追求など意に介さず、様式美やイデア的な純粋性を志向したような物語とか映画の作りは、逆に人間存在の美なるものに一直線に切り込むようで、とても真っ直ぐで気持ちが良い。

どの歌も中々に良かったけど、それぞれの歌がほぼ二回ずつ出てくるところが言い感じである。
冒頭しばらくしてのマリアの性格をからかう歌の「Maria」が二度目に流れる時は彼女が一人でバージンロードを歩く時であるところ、大佐が子供達の前で初めて歌った「Edelweiss」がオーストリア市民の前で歌った時に愛国歌的に合唱になるシーンなどなど。
中でも修道院長がマリアを修道院から送り出すために唄う「Climb Every Mountain」がなんともたまらんかった。(´;ω;`)ウッウッ

そういうわけで、ザルツブルグの自然と歌と人の純粋さがとても美しい、感情にダイレクトに浸透する歌の力見せ付けてくれる、文句なしの名作であった。

かの有名な作中の「ドレミの歌」(Do-Re-Mi)の替え歌風に言うと、

「ド」は、どうしてもっと早く観ておかなかったんやろう。の「ド」
「レ」は、ハレンチなシーンは全然無いよ~。の「レ」
「ミ」は、とりあえず観て無い人はさっさと観ようぜ。の「ミ」
「ファ」は、ファシズム批判なんて野暮ったい事は言わないでござる。の「ファ」
「ソ」は、それにしても長女が16歳って設定は無理ないか~。の「ソ」
「ラ」は、まさかそっちのラブロマンスになるとは思って無かったぜよ。の「ラ」
「シ」は、やっぱりマリアはとんでもない破戒シスターやんけー。の「シ」
さぁ歌いましょ~♪

と言ったところか。もっと早く観ておけば良かった。

2008年08月02日

●手塚治虫 『どろろ』 / 「なんとかカルボナーラ」は当たりにくい

この日スパゲッティーを食べたのだが、メニューだけ見るととても美味しそうに見えて心惹かれる「何とかカルボナーラ」は大抵どれも同じ味で代わり映えしない事が多いなぁと思った。
それならあえてそれほど好きでもないカルボナーラーを選ばずとも他のものを食べとけばええやん。と。
これは美味しい!という「何とかカルボナーラ」や「カルボナーラー何とか風」があればぜひ知りたいものである。

amazon ASIN:425316997X この間、『魍魎戦記MADARA』を立ち読みしてちょっと期待外れやった。ってことをブログに書いたけど、それならばそういった系統のオリジナル作品を読もう。
ということで今勝手に名づけた「失われた空白を取り戻してゆく系」のはしりの漫画である、手塚治虫の『どろろ』を今更ながらに読んだ。

ストーリーを単純に言えば、父の天下取りの野望のため、その代償として妖怪に体の48箇所を奪われた状態で生まれてきた百鬼丸が、失われた体を取り戻すために妖怪と対決してゆくもの。
1967年から1968年まで少年サンデーに連載されていたらしいけど、あまりにも暗い内容で不人気でほとんど打ち切りのような形で終了したらく、かなり唐突な終わり方であった。
確かに少年漫画としては底に流れるテーマは重過ぎるし、ストーリも雰囲気も暗すぎるような気もする。少年ジャンプな少年漫画のテーマである「友情・努力・勝利」とはかけ離れた位置にあるだろう。

amazon ASIN:4253169996 amazon ASIN:4253169988 妖怪変化や侍や武士などの純日本的な設定の中、エディプスコンプレックスだのアイデンティティだのと、わかりやすいテーマは、意外に西洋的なものに端を発するものが多いようにみえるけど、どんな悪人にも妖怪にも同情する余地があり、絶対悪は存在せず、自らの幸せや欲求を追求することは他人の欲望や時にはその存在自体を犠牲にすることであるという感じのあまり西洋的とはいえないようなテーマが執拗に繰り返されていたあたりが、少年誌的には解りにくくあるけど、とても奥行きがあるように感じさせられるところであった。

出てくる妖怪がかなり不気味で、無闇に強い百鬼丸が格好良く、どんなことにも挫けない「どろろ」が可愛らしい、といったエンタメ的要素も多い。殺陣とか血の吹き出し方は黒澤明映画のようだ。
とはいっても百鬼丸が無敵の剣士というわけではなく、連れのコソ泥である「どろろ」や妖怪被害を被っていた村人たちに助けられて妖怪たちを倒すところが良かったし、妖怪と妖怪に操られる人々が人にとりついたり襲ったりするのにもやむにやまれぬ理由とそれにいたる悲しみがあるのが良かった。

村人の味方となって闘いながらも、結局は異形ゆえに妖怪の一味のような扱いをされて村から追い出される百鬼丸が、その事を当たり前として受け入れている様がなんともたまらんし、妖怪を見つけ次第ぶち殺してゆく百鬼丸やどろろであるけど、村人たちよりも妖怪に取り付かれた人の方により親近感を抱いている節があるのはわかるような気がする。

それでも、妖怪を殺して失われた体の部分を取り戻す度に、新しく得た器官で世界を賛美する百鬼丸と、どんな状況でもあきらめずに前向きな「どろろ」がとても清清しい。
何度も読み返したくなる漫画であった。

2008年08月01日

●新プロバイダ

この日からネット環境の回線業者が変わり、新しいプロバイダになった。
自宅サーバーのダウンタイムは約半日。上出来と言えば上出来かも知れない。

自宅土偶サーバーではどこぞのお天気情報ページからダウンロードして整形したお天気情報を、自宅サーバーから友人充てに配信するサービスを行っているのだが、今までのプロバイダでは「Outbound Port25 Blocking」対策として、プロバイダの用意するSTMPサーバーをリレーする事で、遅延するながらもとりあえずは配信出来ていた。

新しいプロバイダになって「Outbound Port25 Blocking」の制限が無くなり、土偶サーバーから直接メールを配信する事が出来るようになったのやけど、今度は逆に土偶サーバーからドコモのメールサーバーへの接続だけが拒否されるようになった。

現在のプロバイダにも当然SMTPサーバーがあるのやけど、メールの利用は有料オプションだったので、gmailを使用している私は申し込まなかった。
ということで適当なSTMPリレーサーバーが見つからずドコモ充てのメールのみ配信出来ない。という状況になっていた。

最近、ドメインを取った時にWEBとメールのレンタルサーバーのお試し無料版のようなものを借りてみたのやけど、自宅のnetraよりも遥かに早いしIPアドレスも固定やし、自宅サーバーで一番ネックになるメール送信でトラブルもなさそうで、とても快適であった。
自宅サーバーは電気代もかかるしやかましいし暑いしドコモにメール送られへんし、レンタルサーバーでも借りるかなーと最近思っている。

でも私がsolarisやらunixライクシステムやらに詳しくなったのは自宅サーバーを運用しているおかげである。
そう考えると…自宅サーバーを運用しつつ、レンタルサーバーも借りると。それが良いような気がしてきた。