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2008年07月31日

●戦後処理が始まる

色々な意味で色々な歴史の区切りの日であり、ある時代が終わった日である。
例えば、長年使っていたプロバイダーが廃業するため、この日をもって長年使っていたメールアドレスを無効にしたため、そのメールを私が受信する事は一生無くなった。など。

パワーバランスが変わり、戦後処理が始まり、やがてまた新たな秩序が形作られるのだろう。次にはどんな時代が来るのだろうか。

色々なものが流れて行く中、私はずっと同じ所に微動だにせず立っている。
その場で天上の高みを目指す、あるいはその場をひたすら掘ってゆくのならそれもまた意義があるかもしれない。それでも、淀むことなく留まり続けるのはとても難しい。
「不死」の辛さとは恐らくこういったものに類する感情なのだろう。

現在の時点での自分自身と、過去のある時点での自分自身の間に、おおよそ渡りえない溝が横たわっていたとしても、また過去のある時点では肯定されていた事物が、現在の時点で否定されていたとしても、過去に自分自身私がそう感じそう考えそう行動していた事実は否定できない。

過去の自分の感情や過去の自分の言動を間違っていたとして否定するのはたやすい。恐らくその「たやすさは」何物かを肯定するよりも否定する事の方が遥かに簡単であることに因るのだろう。
現在を肯定するために、過去に対する否定を根拠にしたところで、また同じ事を繰り返すだけのように思える。
そもそも、特定の事物に対する肯定と否定がめまぐるしく入れ変わる自分の精神を、信用出来る人などはたしているのだろうか。
「非自分」であるものへの徹底的な否定によって、相対的に自分を肯定している様は何とも醜いものである。

歴史解釈に人間や社会や時代に対する探求の意義があるとしても、我々個々が自分自身の問題として具体的に学び、現実的に得ることが出来る何かがあるとすれば、「過去の過ちを再び犯さない」なる教訓以外にないだろう。
とはいっても、歴史上の何かの過ちを見つめる事が、過去を全否定する歴史解釈につながってしまえば、そこからは何も生まれないに違いない。

お互いがお互いを否定するかに見える、過去のある段階では真実であった事と、現在の時点で真実である事のどちらをも肯定することから、一つの歴史の解釈が生まれるのではないだろうか。
過去の事物がもたらしたもの、現在の事物がもたらしたもの、そして過去と現在の事物の対立によってもたらされたもの、それらが肯定できれば、自分自身も肯定できるような気がした、7月最後の日であった。

2008年07月30日

●ルービックキューブを買おう

この日も送別会風飲み会に参戦した。またもや前とは違う、私の中では原節子のレディーにルービックキューブ6面完成で「きも~い」の言葉を頂く。
「ふはは!オレにとっては褒め言葉よ!!」といったところである。

ルービックキューブもどきを100円ショップで買っては配ってるけど、100円ショップのルービックキューブが面白く思えたら、ぜひ本物を買おう。
やっぱり本物のルービックキューブの回し心地は全然違う、色々なお店を見たけど、何気にアマゾンが一番安い。
スピードキュービングキットは2625のところがが1890円、
普通のルービックキューブが2,079円のところが1439円である。

私は「スピードキュービングキット」を買ったけど、軽くて回しやすく中々気に入った。
この軽さは悪く言うとスカスカとも言えるけど、センターキューブの蓋を開けてネジの締め具合を調整するギミックはメカ好きには中々楽しい。

アマゾンではいきなり蓋の爪が割れたとかあまり良い事が書いてないけど、ちゃんとエッジキューブを外して、センターキューブの蓋を丁寧に二つある爪と垂直に起こせば割れる気配はなさそうだ。評判の割には結構しっかりした作りの印象を受けた。

でも、特に回り具合の調節だのキューブの構造に興味が無い人は普通の3x3の方が良いと思う。重量感がありつつもサクサクと回る気持ち良さは中々のものである。
ただしアマゾンでは1439円でギリギリ送料無料にならない…
何かのついでに買うか、何かをついでに買うか、なら良いかも。みんみん

 

2008年07月29日

●ルービックキューブで無限と無と神と人を思う

またしてもルービックキューブの話である。

3x3のルービックキューブの配列の組み合わせが4,325京2,003兆2,744億8,985万6千通りなる天文学的な数字なのは、かなりびっくりする事実やけど、前日に上司より頂いた4x4のルービックリベンジの配列の組み合わせは740載119正6841潤5649溝186穣9874秭939垓7449京8574兆3360億となってもうエラいことになっているらしい。

数字で書くと3x3のルービックキューブが
43,252,003,274,489,856,000通り、
4x4のルービックリベンジが
7,401,196,841,564,901,869,874,093,974,498,574,336,000,000,000通り、
もう想像の範囲を完全に超越している。というのすら超越している。

これを具体的な数字と比較して表すと、3x3キューブの組み合わせは地球の全昆虫の推定数の43倍、
4x4キューブの組み合わせ数は地球上の水分子の14分の1の数となっているらしい。
そう書くとなんか解らないままに、ちょっとありえなくね?という数字なのは分かる。
ある一定以上の数はもう全部同じに感じられるにしても、なんとなく凄いらしいことだけは伝わってくる。

良く「星の数ほど」という表現をするけど、wikipediaによる観測可能な星の数である、7×10の22乗(10ゼタ:1ゼタ=1テラx1ギガ)を基準とすれば、3x3のルービックキューブの組み合わせ数は観測可能な星の数の1750分の1、4x4のルービックリベンジの組み合わせ数は星の数の100ゼタ倍であるらしく、何れにせよ現実的に無限であるといわざるを得ない。

この組み合わせ数から考えるに、ランダムにキューブを有限回数回して6面そろう確立など、現実的には完全なゼロであるはずやけど、実際はちゃんと揃ってしまう。
現実的に無限である組み合わせから、現実的にゼロである状態を作り出せるわけやから、人間の潜在能力ってのは恐るべきものである。
6面の解法なる人間の共通知にアクセスして我が物とする事で人間個体はそんなところまで到達出来るのだ。

そう考えると、あまりにも微小ではかない人間存在であるけど、事実上の無限から事実状の無をピックアップするほどの、神の領域に匹敵するような力を持ってるんやなぁと。
最近は人間の小ささとかか弱さを見たり意識したりする事が多かったけど、ルービックキューブを触っていると、人間は神の似姿である。ってことがなんとなく分かってきたような気がする。
人間って実は凄いんやなぁと。

ってルービックキューブを触ってそこまで言うとは大層やなぁ。と思った。みんみん

2008年07月28日

●ありがたや

rubik4x420080729.jpg
 ルービックキュー部の顧問としてキューブ調達から破損したキューブの修理、グリスアップから解法の手引きまでルービックキューブに関するあらゆる事を一手に引き受けていたのやけど、この日それらの功績を称えらて、副部長でもある上司からルービックリベンジなる4x4のルービックキューブをプレゼントされた。
いやーありがたき幸せである。
これからもルービックキュー部とルービックキューブの発展ために精進してゆく所存であります。

ということで、仕事後に参加した歓送迎会で散々自慢した後、家に帰ってから、とりあえずグリスアップとバリ取りのために分解したのだが、3x3とは似ても似つかない複雑な構造であった。
最初は分解写真でも撮るつもりやったけど、あまりの複雑さに元に戻せるか不安になり、それどころではなく組み立てるだけで大変。もう二度と分解したくない。

ということで朝の四時までかかってとりあえずの解法のパターンを覚えた。

2008年07月27日

●ゴーヤと少年カマキリ/誤変換

goya20080727.jpg kamakiri20080727.jpg ヘチマと一緒に植えていたゴーヤの実ができているのを発見した。ちっこいくせにゴーヤっぽいイボイボがすでについていてなんか妙にかわいい。
さらに少年カマキリがヘチマの葉陰でたたずんでいるのも発見。こちらも可愛い。
アリとヘチマはセットみたいなものやけど、じゃんじゃんヘチマの葉に卵を産みにくるエカキムシたるハモグリバエに対してそのアリさんパトロールが何の抑止力にも防衛にもなっていないように見える、
つうことでこの少年カマキリが片っ端からハモグリバエを捕獲してくれるのを期待。

恒例の「みたらし祭り」に浴衣を着て出かける。
「足つけ神事」前には長蛇の列だった人気のみたらし団子の出店だが、水から上がってみるとすっかり売り切れていたので、今年はみたらし団子を食べられなかった。残念。

「みたらし祭り」を変換したら「観たら死祭り」になって近年に無いナイス誤変換であった。
しかし凄そうなお祭りやなぁ「観たら死祭り」。

2008年07月26日

●淘汰

中学校時代に「魍魎戦記MADARA」なるゲームをやったことがあった。

ストーリーは、体の部品がまったく無い状態で生まれ、機械で体の機能を補いながら生きてきた少年が、強大な敵と戦いその敵を倒すことで欠けた体を取り戻してゆく。って感じであった。

なんかすごいテクノロジーで作られた機械の体は、暗いところでも見えるわ腕は伸びるわ足は速いわといった特殊機能がついていて(いたような気がする)、あらゆる機械を体中に装備してそれらを駆使して戦う初期状態の主人公はやたらと強かったのやけど、ボスを倒して生身の体を取り戻すごとに、機械の体の特殊機能をひとつずつ失って機械の体に頼らず自分自身の力で闘わないといけない事になってくる。

結構暗い雰囲気のゲームで、「自分の空白を取り戻す」っていうモチーフと、進むごとにある意味で弱くなってゆく主人公に感情移入しながら中々楽しめた記憶があった。

で、古本屋でそのゲームの原作の漫画が大量に売られているのを発見して、面白そうなら買おうと立ち読みして、とりあえず最初の「耳」を取り戻すところまで読んだのやけどあまりにあっさりしすぎと言うか、初めて取り戻した自分の体の一部についてほとんどノーコメント。
かなり期待はずれでがっかりしたので買うのを止めた。

昔見たかったのに見逃してずっと見たいと思っていた「クライングゲーム」を先日見てかなり拍子抜けしたことがあったけど、やっぱり良いものはずっと残り、そうでもないものは時代に淘汰されて消えてゆくんやなぁと実感した。

とうとう「ルービックキューブ スピードキュービングキット 」をアマゾンで注文してしまった。私は何処へ行こうとしてるんやろうねぇ…

2008年07月25日

●「端から見たバカさ加減」と「当人達の面白がり加減」は比例する

前日に続きお魚居酒屋へ行く。この店は立地条件のせいか前日の店よりオヤジ度が高く、店の客全員が例外なくおっちゃんであった。
なんだかわからないテンションで盛り上がるおっちゃんたちをはたから見ていると、愛らしいような見苦しいような哀しいような不思議な気分になってくる。

ルービックキューブを全色揃える様をいかにも胡散臭げな顔で見て、六面完成させると「うわっほんまに揃った!キモっ!」とあるレディーに言われた。
私からすれば「ただの覚えゲーやし大した事ないぜよ」と言ったところやけど、彼女から見れば「おれは人間をやめるぞーーッッ!」と言ったところなのだろう。

妙なテンションではしゃぎ回るおっちゃんたち、ルービックキューブで全色揃える人、本人は楽しがっているけど、端から見ると明らかに異様に見えたりバカに見えたりする事は多い。
例えば、道を歩いている時に、ふとどこかの家の中に座ってテレビを見てる人が見えた時、彼らの頭の悪そうに見える度合いは尋常ではない。
テレビを見ている人も我々がテレビを見ている時も、この姿を家の外から見ればこれほどバカっぽく見えるとは予想もしていないだろう。
こと恋愛に関する事、排泄に関する事、食事に関する事、睡眠に関する事についてはその「端から見たときのバカさ加減」が高いような気がする。

これらの事実の集積から、はたから見るとこれだけバカに見えるねんから自分も気をつけよう。と言う結論を出すのはあまりに簡単である。
しかしながら、「端から見たときのバカさ加減」をゼロにする事はどう考えても無理だし、「「端から見るとバカ」から抜け出す事は不可能であると言わざるを得ない。
人間はその存在として「はたから見ればバカ」でしかありえないのだろう。

良く良く考えてみるに「端から見たときのバカさ加減」と「当人達の面白がり方度合い」は比例関係にあるような気がする。端から見ればバカに見えれば見えるだけ、当人たちは楽しいのである。
経験的に言って、若い頃を思い出して見ればその行為がバカであればあるだけ、その楽しさも大きな物として感じられるのは誰もが経験する事であろう。

ということで、端から見てバカに見えても、そのバカの分だけ本人は楽しいねんし、見てる自分でもそれは同じやねんからバカ扱いしてはいかんなと思ったお誕生会であった。みんみん。

2008年07月24日

●土用の丑の日/他人に帰するものを目的とする体系

この日は土用の丑の日、客がオッサンばかりの私が好きな美味しい魚を出すまぁまぁ安い(ココが大事)居酒屋に行く。
実は次の日も別の場所にある同じ系列の店に行く予定になっていたのやけど。

今まで、「この事については一生理解される事はないであろう」と自分の中で既に決定がなされていた事柄について、それがなんともたまらん苦しみの一つである事を説明するたびに、バカにされたり、否定されたり、怖がられたり、笑われたり、利用すべき弱みとして捉えられたりするのにはっきり言ってうんざりであった。なんで説明するだけでグサグサされんとあかんねんと。

ということで、その事についてはずいぶん前に処世術というか精神衛生上の問題から「そもそも理解されたところでどうなると言うものではないうえに、絶対に理解されないのだから説明を試みる必要もない」と既に結論が出ていたはずやった。

しかしながら「それが苦しみの一種である事」を初めて生身の人間に理解されたと感じた上に「それは最も苦しい事の一つである」というような意味の言葉まで聞いてとても嬉しかった。
自分自身がある程度まともな人間であると言う気もがしたし、心底ホッとした。
それに何より現実的に私と同じような意味で苦しんでいる人がいくらでもいると言う事実の提示は、なんとなく私を元気にしてくれるように思えた。
質問の意味自体が理解されない世界に慣れ過ぎていたせいで、このような事があろうとはよもや思っていなかった。

とはいっても、理解されると言う事は、ただ理解されたと言うだけで、理解された事についての問題が決して解決するわけではない。なんとなれば結局のところそれは自分自身の問題でしかないし、それと対峙するのも自分自身でしかないからだ。
それでも、「教育」ってのは何かを一方的に真実として教えるのではなく、自分ひとりで考える事が出来るような方向に導くのである。ってな良く言われるような「教育」なる力の根本的な一面を現実的な存在として垣間見たような気がする。
知識を伝える事で導く事もあれば、力づけたり一緒に悩んだり考えたり怒る事で導く事も出来るのである。

なるほど何かと必死に戦っている「被教育者」に対する「教育者」なる人種の力と言うか偉大さを知ったものの、その教育者自身は一体何を求めているのだろう?という問いに対する答えが激しく胸キュンであった。

胸キュンながらも他人に対する目標と自分自身の目標が循環して論理的に破綻しているようかに見えたのは、自分自身に帰するものだけが目的となりえる。とする前提から出発したゆえであった。
他人に関わるものである事を自己の目的とし、より他人が自己と関わる意味がある自己となるのを自己目的とする。他人に帰するものを目的とする体系があるのにはちょっと驚いた。
よもや本当にそんなものが存在しうるとは。

そういった教育者のあり方にとてつもない孤独を感じ見る私は恐らく考えすぎなのだろう。「他人に帰するものを目的とする体系」にあって、そういったあり方は孤独でもなんでもないのかもしれない。
そういえば、そう思って回りを見まわすと良く理解出来なかった友人の行動が「他人に帰するものを目的とする体系」に基づくものだと言う事が見えて見た。
「あいつが自分の人生から消えたところで何とも思わないけど、何故か相手をしてしまう。」事の理由は「他人に帰するものを目的とする体系」から解釈すれば納得できるのであった。んなるほどー

何れにせよこういった場にめぐり合わせてくれた「縁」なるものに感謝であった。
この「縁」だけでなく、私に関わる全ての「縁」なるものに幸多かれ。と祝福しよう。
みんみん(このフレーズ気に入った)

2008年07月23日

●土用の丑イヴ/多重人格探偵サイコ

「土用の丑イヴ」ということでウナギを食べた。
よくよく考えると鰻丼っていうのは鰻が美味しいのか出汁が美味しいのか解らなくなってくる。
「つゆレス鰻丼」でも駄目だろうし、「つゆ丼」に至ってはすでにどんぶりですらないだろう。
体で感じるべきものを頭で考え過ぎてしまうと何がなんだかさっぱり解らなくなるのであった。

鰻丼を平らげた後、『多重人格探偵サイコ』を貸してもらったので一気に読んだ。
読んでから気づいたのやけどまだ完結してないんやね。むぅ。続きが気になる。
でもこうやってまとまった量のマンガを読むのも久しぶりやなぁ。

最初の方は猟奇的家畜人ヤプーな変態さんが次々と出てきて「うひょー」と喜んでいたけど、話が進むにつれまともな奴ばかり出てくるようになったのでちょっと不満。おらーもっと変態出さんかー
しかし一気に読みすぎてストーリーがまったく理解できていない。

『多重人格探偵サイコ』の「多重人格」とは「探偵」に対する修飾語としては中々無難なところで「探偵」としての資質をある程度増長している印象を受けるけど、ほかの色々な職業ではそうは行かないだろう。
例えば、「多重人格ネットワーク管理者サイコ」はちょっとパンチに欠けるなりにちょっと不安を感じるし「多重人格消防士サイコ」あたりでちょっとヤバそうな匂いがするし。「多重人格水道検針員サイコ」となるとかなりたちが悪そうな雰囲気がする。
逆に「探偵」の修飾語としては適当でない言葉もあるわけで、例えば「パニック障害探偵サイコ」や「社会恐怖探偵サイコ」とかなるとただ可哀想なだけやし、「過食症探偵サイコ」「露出症探偵サイコ」となると探偵と関係ないやん。という感じであろうか。

とか思った土曜の丑宵山であった。

2008年07月22日

●夜に鳴く蝉/笑ける基準で真偽判定

子供の頃はセミは昼間に鳴いているもので夜に鳴いているのを聞く事なんか殆どなかったような気がするのやけど、最近は夜に鳴くセミの声を聞く事が多い。

昼に聞くセミの声は暑苦しいけど、夜に鳴くセミ自体がそれほど多くないので夜のセミの声はより暑苦しいように思える。それにセミの鳴く夜はやたらと暑い事が多いような気もするのだ。
そしてこの日は家の近所で夜中にアブラゼミが二匹も鳴いていた。
一匹ならまだしも闇の中競い合うように鳴くセミの声と暑苦しさは中々のものであった。

ということで調べてみると、セミは昼に鳴くものやけど、温度や湿度や明るさの条件がそろえば夜に鳴く事もある。ということらしい。
夜に鳴くセミの声を聞くと「昼と夜と勘違いしてるねんな」と勝手に想像していたのはあながち間違いではなかったようである。

科学を筆頭とする学問は色々な謎に思える事を解き明かしているように見えて、実は見方を変えると無理矢理に色々な事を決め付けているとも言える。
夜にセミが鳴くのは「温度や湿度や明るさの条件によって昼と勘違いしているから」と言うのが真実だとしても、セミ自身が真実を理解しているかどうかと言う疑問は別にして、本当の所は鳴いてるセミ自身に聞く以外にないはずである。
実は真実を理解しているようで、一番真実らしいものを選んでいるに過ぎないのである。
それならばいっそ、夜にセミが鳴くのは「よっぽどモテないから」「昼夜逆転している」「単に働き者」「夜練」としたほうがちょっとはおかしみがある。

核分裂や免疫反応やイージスシステムや酵母菌の発酵などのシステムを上のように適当な理屈で解釈すると大変な事になるけど、セミが夜鳴く事についての真実を適当な理由で知る事が生活のレベルでどれほどの不具合が出てくるだろう?
エネルギー開発やら医療やら軍事などのなんたらクリティカルな事柄に対しては厳密な真実を追究するにしても、セミの夜鳴く理由などに関しては笑えるか笑えないかを真偽判定の基準にして「一番笑える理由が真実」としても何ら生活に不具合はないどころか、より生活が楽しくなるだろう。

「マイナスイオン」やとか「コラーゲン」などの効果についてやたらと「ニセ科学」と言って目の敵にして頭から否定してかかっていた私である。
先日父が「マイナスイオン放出扇風機」を買ってきた所で「なんじゃそらー青いLED光ってるだけやんけー」とブチ切れたのであるが、
私が「マイナスイオン扇風機の青いLED」を見てブチ切れた本当の理由は「似非科学を動作原理とする胡散臭い扇風機」に対する怒りではなく、「確かになんとなく効果ありそう…」と思った自分自身に対しての怒りなのであった。

そういうことで、一番笑える真実判定からすれば、胡散臭い扇風機も、胡散臭い扇風機を効果ありそうと思った自分も、両方許してやったらええやん。と思った。みんみん。

2008年07月21日

●海の日/大海

すっかり更新をサボっていてこれを書いているのは金曜日である。
毎日更新が一応のノルマなので記憶を元にエントリを埋める。
例のごとく自転車に載って出勤。なんだか道路も駅付近も人が少ないのは夏休みやし?
と思ったもののこの日は「海の日」で祝日らしい。

口では言い表せないくらいに海好きな私が「海の日」に働くってどうよ?
と思ったけど、海はそんなことは気にしない。
あらゆる不浄を受け入れてなお清くあるのが海であるのはニーチェさんも言うとおりである。
それでも「人間は汚れた流れである。それを受け入れて、しかも不潔にならないためには、我々は大海にならなければならない。」とまで言ってしまうと大げさやね。

2008年07月20日

●エックハルト/月と琵琶湖と花火/成長って?

昼、シャレのような暑さの中、数時間おきに水風呂に入りながらやっとの事でマイスター・エックハルト『神の慰めの書』を読み終わった。
「見てしまった人」の孤独を彼の文章からひしひしと感じつつ、それでもなお彼が保ち続ける熱意と欲望から発せられる言葉は、彼と同じ道を歩もうとする人に対してなんと優しさに満ちていることか。
彼曰く「神は私よりも私に近く在す」「神御自身がわれわれと共に悩み給うのである。」
絶対的な自己放棄をして初めて、神と同一化した自己を認識するというプロセスはとてもは感動的であった。

夜、琵琶湖畔で花火をして月明りの下で泳ぐ。いや正確には琵琶湖に浸かると言った方が良いか。
日本一大きい湖と同じ大きさの巨大なお風呂に使っているように空を見上げながら、遥か昔に友人とこの場所で釣りをした事を思い出す。

こんな月の出ていた夜、我々は若者特有の訳のわからない上に矛先の向け方と飼い慣らし方を間違っていた欲望を抱きつつ、無心に湖面に映る月に向かってルアーを投げていたものだ。
あの頃からあまりにも隔たっている自分を深く思う。

夜の海や夜の湖で泳ぐのが好きだ。夜に水の中で泳いでいると、おぼろげに見える自分の体と光る波間の境界線が限りなくあいまいに感じられるうえに、月明りに水と溶け込んで白く映る自分の体がまるで綺麗なものでもあるかのように見える。
体を撫でて行く黒い水から感じる、ぼんやりとした恐怖と心地よさのない混ぜになった感覚が心地よい。
暗闇と圧倒的な自然の象徴である黒い水は自分自身の卑小さを教えてくれる。

遥か昔、友人とこの場所でブラックバスを釣っていた頃、成長すると言う事は手の届かないモノに次々と手をかけて征服し、色々な欲望を満たしつつ上に上って行く事だと思っていた。そうはっきりと言葉にしないながらもぼんやりとこんな風な感覚を抱いていた。
当時、我々は何者でもなかったし何物も持っていなかったけど可能性だけはあったような気がする。その可能性と欲望だけで色々な事を思い描いていたのだろう。
いや、今思えば今は失われたとても素晴らしいモノをいくつも持っていたようにも思える。

しかし今、あまりに卑小な自分を知るにつれ、卑小な自分の抱きうる欲望や願望などたかが知れているし、それらがが叶えられようが叶えられまいが大した違いはないのではないかと思える。
「成長する」とは自身の望む何かを手に入れる力をつける事ではなく、その何かを望みつつも、それがあってもなくてもどちらでもいいようになる事ではないかと思うようになって来た。
願望や欲求を実現する事ではなく、それらを願望や欲望として抱いているということ、またその別の何かは願望や欲望として全く望んでいないことを事実として捉える事に意義があるのだろう。

何に対して欲望と欲求を抱きえるのか、という事と、その欲求や欲望をどう取り扱うのか、その二つは全く別の話であるけど、そのどちらもが大事であるところが難しい。
どちらが不足しても過剰でも、どちらかを拒食しても過食しても大変だもの。
とか思った、暑い暑い日曜日であった。

2008年07月19日

●映画:こねこ/猫がいっぱい!愛がいっぱい!オッサンのダメダメ加減もいっぱいいっぱい!

amazon ASIN:B00006JLHW 洋画では類を見ない「文部省選定映画」に選定され、ネコ映画の最高峰として名高いイワン・ポポフ監督「こねこ ~旅するチグラーシャ~」 (1996/露)を観た。
以前からずっと観たかったのだがやっと見る事が出来た。私が観たものは旧版のDVD でイメージソング「チグラーシャ」なる良くわからんシングルCDがついていた。
なんとなく「ロシア民謡コロブチカ」か「パルナスのCM」のようなのを期待していたのやけど、聞いてみるとNHK「みんなのうた」のような日本語の歌やった……
でも本編の音楽はいかにもロシアっぽくって良かった。

ある音楽家の家に買われて来たこねこの「チグラーシャ」は花瓶を割ったり書類をインクで汚したり大暴れ。
怒る父母となだめる祖母、そしてチグラーシャを庇って猫かわいがりする姉と弟。
チグラーシャがトイレを覚え、家族の怒りも解け始めたある日、チグラーシャは窓の外に見えるスズメを狙っているうちに窓の下のトラックの荷台に落ちてしまう。トラックはチグラーシャを乗せたまま走りだし、都会に一人で放り出されたチグラーシャの冒険が始まる。
と思った矢先、チグラーシャはネコ屋敷の独身男の所に転がり込む。
と言う感じのストーリーである。
見所は芸なんだか素なんだかわからないネコのプリティーさであろう。

サブタイトルは「猫がいっぱい!愛がいっぱい!」つーことで、最近は変態か殺伐としてるか人死にまくりか滅茶苦茶な映画ばかり見ていたのでこれは安心してほっこり観られるぞ。と思っていたけどちょっと甘かった。

チグラーシャと仲間のネコたちの話は良いのやけど、チグラーシャが転がり込んだ先のネコ屋敷の主の男がなかなかの曲者である。
友達はネコだけで、気になる女性もいるけど妄想に登場させる割にはネコをだしにしてしか話が出来ず好意を向けられても妙にそっけない、明らかに社会不適合臭プンプンの彼はネコのサーカスとそこで演技をする自分を白日夢に見ながら近所の雑用をしつつ何とか生活を保っていたのだが、とつぜんそこに地上げ屋が現れる。
地上げ屋に家を追われそうになり、地上げ屋の圧力で町の雑用を回してもらえなくなった彼はネコに芸をさせて金を稼ぎ、それもままならなくなりネコを売り払って金にしてしまう。更には地上げ屋に襲われたところをネコに助けられ、結局男はチグラーシャを音楽一家の元に返す事もない。
ネコをだしにして金を稼ぎ、ネコに助けられ、ネコにしか相手をされないどころかネコにおんぶに抱っこの男のダメさ具合が見ていて「アイタタ」と胃が痛かった…
どう見てもその男よりネコ達の方がしっかりしてるし、ネコたちが男を養っているように見える。典型的な「心だけ優しいダメ男」というやつである。
「猫がいっぱい!愛がいっぱい!」に加えて「いっぱいいっぱいのオッサンのダメダメ加減もいっぱい!」であった。

と、その「ネコ屋敷の男」に対して我々はそういった見方するかもしれないけど、恐らくロシアではこの男は虐げられた社会的弱者であるけど、ネコ好きの心優しい同情すべき男のある種の典型であるのだろう。
そう考えると、ロシアって寛容やなーと思った。

しかしこのダメ男を演じた人はロシア随一のネコ使いらしい。広いロシアの台地には「ネコ使い」なる人間もいるとは驚きである。
それと気になった点がもう一つ。我々は「チグラーシャ」と言うネコを呼ぶ場合、「ちぐらーしゃーー」と母音のaを伸ばして呼ぶ事が多いけど、ロシアで「チグラーシャ」を呼ぶ場合は、早口で「ちぐらしゃちぐらしゃちぐらしゃ」と呼んでいてちょっとびっくりした。

ネコ好きは何処の国でも同じやなーと思うと同時に、ネコの呼び方やら弱者への視線やら、ちょっとしたロシア文化を垣間見る事との出来る映画であった

2008年07月18日

●映画:黒澤明「影武者」/汎用ヒト型決戦兵器 「武田信玄」/任務とアイデンティティクライシス

amazon ASIN:B000UH4TUA 黒澤明が1980年度のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを取った作品である「影武者」 (1980/日)を観た。

武田信玄の弟で彼の影武者である武田信廉は、逆さ磔にかけられようとしていた信玄にそっくりの罪人を、彼の影武者として役に立つかも知れないと思い貰い受ける。
そして信玄が城攻めの際に一発の銃弾で怪我を負ったのを契機として、武田家の重臣たちは影武者を立てる必要に駆られてその罪人を影武者に仕立てるが…

という感じのストーリーであるけど、自分を捨てて影武者として生きる道を選んだ罪人の苦悩がメインの物語であろう。その辺りはその罪人の役名が個人の名前でなく影武者とか影法師でしかなく、映画の中でもそのようにしか呼ばれない程に徹底している。
またそれだけでなく、一介の罪人を影武者に立てるしかない重臣の葛藤であるとか、影武者を御屋方様として扱う小姓やおじじとして慕う孫や重臣たちとの交流も見所であるかもしれない。

フランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスが外国版プロデューサーに名を連ね、カンヌでのパルム・ドール受賞など、国際的にも評価が高い作品であるはずやけど、「用心棒」「七人の侍」「椿三十郎」等と比べると作りがあまりに大雑把なような気がするし、三時間と言うのはあまりに長すぎたように思う。
それにその影武者がその大役を引き受ける事になった一番の原因である「武田信玄への心酔」がリアルに伝わってこないのは、ネット上に多く見られた感想と同感である。

それでも、一介の小悪人でしかなかった男が、あまりにも人間としての格の違い過ぎる武田信玄を演じる事になって葛藤したり苦悩したりする様は、巨大ロボットに乗って「逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!」と連呼する少年ととても似ていた。
「武田信玄」が生きていると言うだけで、周りの敵たちへのとてつもない圧力となっていたくらいで、ある意味「武田信玄」なる存在は人造人間エヴァンゲリオンと同様に「汎用ヒト型決戦兵器」であると言う事が良く伝わってきた。

エヴァンゲリオンに乗る碇シンジや武田信玄の影武者をする罪人だけでなく、自分以外に出来ない、自分には荷が重すぎるように見える仕事をたった一人で突き詰めて行くと言うのは、自分の独自性を深めていっているようでいて、実は普遍性やとか流れのようなものと一体化すると言う意味で自己性の放棄の側面を持っている。
そのより大きな物への合一や統合による自己喪失をアイデンティティクライシスと受け取るか、何らかの「体験」として受け取るかで、仕事やとか生活やとかの受け取り方が全く違ってくるものである。

とか思った。

2008年07月17日

●山鉾手拭2008

昨日の宵山であるが、今年の祇園祭の趣向は「マイナー山巡り」ともう一つ、手ぬぐいフェチたる土偶は個人的に鉾町オリジナル手拭の購入を目指していた。
とはいっても各山鉾の手拭をコンプリートする暇も体力も資金もないので、見た中で気に入ったものを買うという感じやけど。

tourouyama20080716.jpg tokusayama20080716.jpg shijoukasaboko20080716.jpg

と言う事で買った三枚である。

蟷螂山:
ギクシャク動くカマキリおみくじに長蛇の列であった。
写真の手拭はメジャー山のせいか一色刷りで700円と強気の値段設定。
それでもココの山グッズは値段の価値は十分にあるデザインだと思う。
手拭は三種類程あったけどどれもいい感じのデザインでカマキリがカワユス。

木賊山:
土偶お気に入りの山である木賊山の手拭。
図柄はネコであるが、そのほかにもウサギなど三四種類ほどあってどれもいい感じのデザインで充実していたような気がする。値段もお求め易く500円

四条傘鉾::
「マイナー山巡り」の後に友人との待ち合わせ場所となった、鉾という割にはあまりにも山っぽい四条傘鉾で購入。三色の割りに400円と安かった。
本体は傘と言うよりは「ぼんぼり」。シンボルマークはアダムスキー型。

ということで、山鉾巡行のこの日は蟷螂山手拭を首に巻いて出勤した。

2008年07月16日

●祇園祭世界の終わり、宵山最果ての地を冒険する。の巻

毎年恒例の祇園祭に今年も繰り出した。宵山で雨の心配も無しと言う事で凄い人の出である。いつもはこっそり逆送するポイントも今年はムリムリであった。ashikariyama20080716.jpg

いつもの「ベーコンエッグタイヤキ」「フレスコのコロッケ」「玉こんにゃく玉三郎」であるけど、今年はいつもと歩くコースが違ったせいか結局「ベーコンエッグタイヤキ」に遭遇せず。
「玉三郎」もちょっと苦労して発見。

フレスコはわかりやすいけど、「ベーコンエッグタイヤキ」と「玉三郎」は毎年どこやったか迷っているうえに、毎年ココにあったのを覚えておこうとか言って、毎年忘れている。
毎年どんぐりを埋めて忘れるリスのような事をやっているので、来年こそちゃんと調べられるようにこに書いておく。

「ベーコンエッグタイヤキ」は蛸薬師新町の北観音山付近にあったはずやけど、今年は何故か見つからず、情報では六角室町の鯉山の近くにあったらしい。今となっては全くの謎である。
「玉三郎」は仏光寺新町の船鉾付近であった。

来年役に立つかな?

去年まではだらだらグタグタで良くわからん話しながらアヒャヒャヒャだけやったけど、今年はちょっと趣向を変えて「マイナー山巡り」を提案。

今まで行った事の無い辺境の地、主に南西にある四つの山を目指して、「マイナー山巡り」の冒険者達のパーティは歩む。
途中、普通に車が走っている道を黙々と歩き続け、辺りは祭りの雰囲気は皆無である。「本当にこの先に山があるのか?」と誰しもが不安を抱きかけたところで突如目に飛び込んできた闇夜に浮かぶ提灯の光の嬉しさは筆舌に尽くしがたい。

物心ついた頃から毎年祇園祭行ってるけど、宵山最果ての地、祇園祭世界の終わり、world's endを見たのは生まれて初めて。

「なんとも手作り感溢れる」「人が少なくて快適」「工具要らずで簡単に分解出来そう」「夜店がなくてとても涼しい」 「このショボさが素晴らしい」 「こじんまりしてて(・∀・)イイ!」などと惜しみのない賛辞が飛び交い、必然的にテンションは上がる。
長刀や月鉾を一瞥しかせず、メジャー山鉾に見向きもしない我々が、嬉々として携帯カメラでパシャパシャやっているのは最高に可笑しかった。
taishi20080716.jpg tokusayama2008071601.jpg aburanotenjin10080716.jpg
と言うわけでアドエスで撮った写真たちが上の四つである。
中でも特に木賊山はグッズの手拭と売り場の充実度と、サーカスかサイボーグのように歌い続ける童女、良くわからない山の上部にある真松っぽいゲートなど中々に頑張って凝っていて素晴らしかった。
山の「こじんまり度」も中々である。一気に木賊山ファンになった。

しかしマイナー山は良い味だしてるねー、いやー良い冒険であった、と言うわけで「マイナー山友の会」発足である。

私は基本的に人の多いところが嫌いなほうやけど、祇園祭だけは全く別なのは自分でも不思議だと思う。
祇園祭なんぞに絶対行きたくない人の気持ちも良くわかるし、祇園祭と言うだけでワクワクテカテカする人の気持ちも良くわかるのは良く考えれば不思議なようで、全然不思議でない事に気付くのであった。

2008年07月15日

●祇園祭とツール・ド・フランスが一緒にやってくる7月

「夏は盆と正月が一緒にやって来るような騒ぎ」と言う言い方をするけど、私の中で一年を通して大イベント中の大イベントの中の二つ、祇園祭とツール・ド・フランスは毎年一緒にやってくる。

気付けば宵々山、7月5日より始まっていたツール・ド・フランスも中日の休養日、毎日一応結果だけはチェックするだけで今年はそんなに熱心に追いかけていない。今年こそ知っている選手が殆どおらんもん。って毎年言うてるような気がする。
とりあえず私は、直線のスプリント勝負では頭突きと他チームトレインただ乗りで疾走するけど、山岳では最下位集団でポタリングする、ウィリーとバニーホップが得意なロードレーサー?な私と同い年のロビー・マキュアンのマイヨヴェール採りを応援しておこう。(って毎年応援しているけど。)
ついでに、彼のチームのサイレンス・ロットとそのリーダーのカデル・エヴァンスも応援する事にする。(って応援しなくても本命やけど。)

そして、明日は宵山、もう夏やね。

2008年07月14日

●映画:ピンクフラミンゴ/ポジティブ下品ピュア/マイノリティ?

amazon ASIN:B0014R2646 ジョン・ウォーターズが監督したピンク・フラミンゴ (1972/米)を観た。この監督は"filthy"なる「汚い、不潔、下品な、卑猥な、卑劣な」などの意味を持つ単語で表されるような悪趣味で下品な作風のカルト映画で有名で、特にこの作品は「史上最低の悪趣味映画」として彼の名声を高めることになったらしい。

お尋ね者となった巨漢で強烈な化粧と髪型の主人公(パッケージの人)は、何時もベビーベッドで卵ばかり食べている母と、覗きが趣味の同居人と、変態プレイ好きな息子と、郊外のトレーラーハウスに隠れ住んでいた。
しかし彼女が「世界でもっともお下劣な人間」としてタブロイド紙に報道されると、我々こそ「世界でもっともお下劣な人間」だと自負する露出狂の夫とドSの妻がその称号に嫉妬して彼女からその座を奪うべく彼女たちに襲いかかる。
かくして「世界でもっともお下劣な人間」の座を巡ったお下劣な攻防が勃発するのであった。と言う感じのストーリーである。

初めてこの映画を観たのだが、どうやら私が観たDVDはノーカットの無修正版らしく中々エグい事になっていた。
最初の方は時々ボカシがあるのである程度安心して観られるけど、突然素のままのエグい映像が飛び込んできてビックリである。
一応ボカシがあるシーンもあるのやけど、そこに無くていいのか?と首をひねるシーンが多い。というかボカシの意味ほとんど無いやん。

最高に下品やとか悪趣味やとか、最低映画とか言われるように、確かにこの映画は下品で悪趣味で最低である事には間違いないと思う。
それでも不思議と嫌悪感を抱いたり拒否反応を示したりせずに楽しく見る事が出来たのは、映画内に漂っている妙に明るいテンションと楽しげな雰囲気のおかげだろう。題材とやってる事は確かに下品で悪趣味やけど、全体としてはそれほど下品でも悪趣味でもないように思う。
あまりにも純粋なエネルギーに満ち溢れた下品さは下品とは又違う属性を帯び始めるような気がするのだ。
下品とか悪趣味とかいうのはどちらかとネガティブな概念やけど、それを思いっきりポジティブに表現されるとそういうものとして見えてくるから不思議である。

題材とやってる事が上品で良い趣味でも、どうしようもなく下品で悪趣味な映画などいくらでもある。そのあたりは人間のあり方と同じやし、この映画より下品で悪趣味な奴はいくらでもいるだろう。
聖なるものの存在を理解せず、天上の物を地上以下に引き下ろし、それらを下卑た物差しで計り、下卑た目的に使おうとする行為こそ本当に下品で悪趣味なものであろうし、そういったものは正視し続ける事すら出来ないものであろう。

自分に害が及んでこない限り、下品なことを下品なこととして誇りを持って楽しくやっている事を見ているのはとても楽しい。
そういう意味でこの映画は、ちょっとしたアート系の人たちが「この映画ってば最高に下品」と言いやすいポジションにある映画なのだろう。

この映画はfilthyであるだけでなく、登場人物たちの着ている服とか化粧とか髪型は結構良い感じやし、「たまごマン」に恋する卵好きの母親の可愛らしさはちょっと他に類を見ないし、「世界でもっともお下劣な人間」の称号を奪おうとする夫婦の家に乗り込んだ主人公親子が報復のために家中を舐め回すシーンはあまりにも訳がわからなくてあまりにもバカでとても大好きである。

監督のジョン・ウォーターズは保守的な街の裕福なカトリックの家庭で育ち、自分がゲイで問題児でまったく周りに理解されないことに苦しみ続けたことが、彼の人格形成に大きな影響を及ぼしており、この映画はそういったマイノリティーがマイノリティーなりの怒りとか不満を爆発させているのだ。ってな感じの事がどこかのサイトに書いてあったけど、そういった怒りや不満といったネガティブの面よりも、むしろ自分たちがマイノリティーであることをポジティブに捉えて振舞える開放感とエネルギーに満ち溢れているように見えた。

ということで、マイノリティーを嫌う人にとっては意味も面白さの欠片も無いやろうけど、ちょっと自分がマイノリティーであることを感じている人にとってはなんとも爽快感に溢れた映画であろう。と思った。

2008年07月13日

●オレオレイタリア料理店

溶けるような日差しの中、首に手拭を巻いて真黄色の自転車に乗って出かける。自転車だけでなくズボンのベルトと腕時計まで黄色である。

途中某氏と道で邂逅、彼が搭乗するは噂どおり文字通りのスーパーカー(自転車)であった。
あひゃースゲーと言いながら色々見せてもらったのだが、時間が無くてちゃんと見れなかったし乗せてもらう時間も無くて残念。
あーもっと見たかった。今度もっとじっくり見せてもらおう。
しかしながら、フルレコードの自転車を真近で見たのは生まれて初めてである。

「ねるねるねるね」と言い「フルーチェ」と言い「フルレコードの自転車」といい最近生まれて初めてが多いなぁ。
暑くて暑くて入った明治屋で、今日はワインの試飲をしていなくてがっかりであった。青汁の試飲はやってたけどイラネ。

あまりの街中の暑さにケーキとコーヒーを食しようと窓の広いピザやさんだかイタリア料理屋さんに入った。
飲食店に良くあるような、案内係の人が「X名様ご案内です」というと店の人が「いらっしゃいませー」と唱和するような感じで、なんかそれらしくイタリア語らしきものを喋っていたのだが、どう聞いても、案内係:「ボンゴレビアンコー」、その他店員:「オレオレー」としか聞こえなくて、オーレってイタリア語ちやうやんーでもボンゴレビアンコって。とお客さんが来る度に笑いを噛み締めていた。

とはいってもその店がイタリア料理屋さんなのでイタリア語だと推測しているだけで、本当はウズベク語やエスペラント語かも知れない。それが何の言語でも店員さんが呼び交わしている言葉は私にはさっぱりわからないことには変わり無い。
昔の上流階級の家庭では、召使に聞かれて困るような話はフランス語とかラテン語とかでしたと言う話やけど、なんかそういった気分の悪さを感じる。
私の教養が低いからだといえばそれまでやねんけど、店員が客のわからん言葉で大声で喋っているというのは気分の良い物ではない。
例えば、案内係:「どう見てもバカ3匹連行しましたー」、その他店員:「やーいバカバカー帰れー」とイタリア語で言われていたとしても全く分からないのである。
そういうわけでちゃんと日本語で喋れよコノヤロー。
などと思って回りも見回しても誰もそんな事思っていなさそうだ。まぁ思っていてもわからんけど。
まぁ大体私がそんな事を考えてるとも他の人にはわからんやろうからねぇ。
などと心の中で言い掛かりをつけておいた。

店もちょっとオサレやと思って良かれとやってるのかも知れんけど、こんな言い掛かりつけてくるようなヤツ(例えば私など)もおるから難しいなぁと思った。

2008年07月12日

●自力六面完成/小学生で無いのに気付いた/ルービックキュー部?

ホルモン焼き屋さんに行ったが、満席状態で一杯一杯になった店長らしき人がイライラして店員さんに辛く当たっており一触触発な雰囲気であった。
店としての段取りは昨日の店よりはこちらの方が良いのやけど、この殺伐さはちょっとかなんなぁ。まぁ客なので気にせず食べるだけなのやけど。

cube20080712.jpg
100円ショップのルービックキューブは回転中に引っかかったり、無理やり回しすぎてパーツが欠けたりと確かに100円クオリティなので、ちゃんとした本物のルービックキューブが欲しかった。 私が100円ショップで購入したものも前日に壊してしまったこともあるけど。

しかし正規品は2000円もする事に加えて、前日友人とビブレでサンプルを回して見て「微妙やなぁ」という結論に至ったので買わずじまい。
結局100円ショップの前日に壊した友人の分も含めて3つも買った。
でも、そのうちに正規品を買いそうな予感…

ルービックキューブ3日目のこの日、殆ど徹夜でなんとか六面を揃える手順を覚えた。
この非言語領域で手と感覚が文法を理解している感覚は新鮮だ。
何とか何も見ずに6面完成させる事が出来るようになった喜びはひとしおやけど、結局なぜこうなるのかは理解出来ないままである。
言うなれば各段階のそれぞれに設定された目標を目指す完全なパターン化である。
なんというかそういうのは「大人社会への適応」なる概念に似ているような気もする。
なぜそうなるかはわからないけど、設定された目標を目指す。と言う点で。
子供時代にこれを揃える気にならなかったのは、「なぜそうなるかはわからないけど」という手順を覚えるのが耐えられなかったのだろうな。と思う。

それでも小学生時代の自分からす見れば、このルービックキューブで6面揃えることの出来る自分は、ある種の超人的な人間になったように見えるだろう。
6面揃える事だけに限らず、小学生時代に比べて何かしら超人的に成長したことは多いはずである。しかしその事を意識する機会はとても少ない。
考えて見れば小学生の頃の私と今の私は全く違う人間になっている。当たり前と言えば当たり前やけど、考えれば驚くべき事でもある。
小学生の頃とは違う人間になったんだなぁと深く意識させてくれたルービックキューブであった。
と言う事で「ルービックキュー部」設立かな?

そして、この日、生まれて初めて「フルーチェ」を食べた。

2008年07月11日

●キュービックがループ

急遽決まったメシ部別働隊で出来たばかりの目標を急襲するも、砦は店主が一人だけで切り盛りしており、並んでいる客を誘導する事も食べ終わった食器を回収する事も洗う事も出来ず、ただひたすら一杯一杯になりながら料理を作り続けているのがかわいそうであった。
本当は嫁か彼女と二人でやっていたけど、あまりの忙しさに相方がブチ切れて帰って一人になったのかなーなどと想像。
しかしながらあのような一杯一杯の状況の中でパニック状態でありながらもイライラもせず機嫌も悪くならずに「参ったなぁ、忙しいなぁ」って感じで働いていたのは見習うべき点は多いだろう。

びっくりする程の待ち時間の間に友人のルービックキューブを回していたのだが、強引に回しすぎてパーツが欠けてしまった。大変申し訳ない。週明けにでも新しいのを持って行こう。

で、家に帰ってルービックキューブ二日目

ルービックキューブの六面の揃え方っていうのは

1、一面とそれに接する一列を揃える
2、1の一列上にもう一段、合計2列を揃える
3、上面を十字の形に揃える
4、上面四隅の色の三色の組み合わせを揃える。
5、上面の色を揃える
6、最後の仕上げ

という六工程に分かれる事は理解した。
しかしながら自力で可能なのは依然として3まで。手順としては4からがややこしい。
ネットを見ながらなら六面揃える事は出来るけど、見ながら出来るのと、何も見ずに出来るのでは雲泥の差がある。

この工程を手に覚えこませたいなぁなどと思いながら、少年のようにルービックキューブを握り締めながら寝た、35才の初夏の金曜日であった。

2008年07月10日

●ルービックキューブを買った

同僚の某レディーが100円ショップで衝動買いしたと言うルービックキューブを持ってきていて、昼休みに少し触らせてもらった。
これはとっても懐かしい。私も小学生時代に持っていたけど一面そろえるのが一杯一杯で、六面を頭で考えてそろえる事が普通の人間に出来るものだとはとても思えなかった。
六面全てを同時にそろえる事が出来るのは奇人変人の類か飛びぬけた数学的素養のある人間やと思っていた。
しかしながら当時の情報収集力がその程度だったと言う事で、今の世の中、インターネットで「ルービックキューブ」で検索すると六面のそろえ方がいくらでも出てくる。
と言う事で私も100円ショップでルービックキューブを購入。
とりあえず、一面とそれに接する一列を自力で揃えた後、ネットの通りに回して見ると確かに六面そろった。
うむ、これは嬉しい。嬉しいけども、これは完全にブラックボックス状態やな…
何がどうなったのかわからないままなので、ちょっと嬉しさも微妙である。

2008年07月09日

●本末転倒

スパムは来なくなったけど、個別エントリーページの「投稿」ボタンを動作確認の為にコメントアウトしただけのまま実運していた。
ってソースを見れば投稿ボタンありありやん。動作確認後に消すのを忘れていた…

Aをするために忘れないようにBしたまではよかったのだが、Bした時点で満足してすっかり本来のAと言う目的を忘れていた。ってコンピューター触っていると良くありがちはパターンやね。
何かを調べるために検索していたはずが、検索自体が面白くて何を調べるのか忘れていたりとか。

ということでコメントアウトしていたフォームの項目目掛けてスパムコメントを食らったので、コメントアウトしていたものをソースから削除した。ってこれ書いてるのは7月13日なのだが…

2008年07月08日

●人に優しくスパムに厳しく

コメント欄にあったcaptchaが激しく読みにくくてコメントが投稿できないという人が結構多かったので、captchaの入力なしで投稿できるようにした。
とは言っても、ただデフォルト状態に戻してなんでも受け入れるようにするコメントスパムの餌食になるだけなので、ネットをさまよって情報を集め、人間には優しいけどスパマーには厳しいような仕様にしてみた。
コメントいただける人には負担が無く、それでいてある程度のセキュリティーは保つというコンセプトである。ついでなのでコメントだけでなくトラックバックのCaptchaも廃止。

対策としては
1.コメント/トラックバックスクリプトのリネーム
2.コメント/トラックバックスクリプトへのGETメソッドの拒否
3.コメントフォームにhiddenなコードを埋め込んで追加時に送信して照合される機能を実装したSbcodeプラグインの導入
4.コメントはエントリーページから一旦確認ボタンを押した後にしか投稿できないように。
5.静的ページに見えるようなトラックバックURL
の5つであるけど、さすがにこれだけやると今のところスパムは一件も来ていない。
それにコメントとトラックバックのスクリプト自体を叩かれる事が無くなったのでネットワーク的にも負荷が減って良い感じである。

ということで、トラックバックとコメントをじゃんじゃんお待ちしております。

以下MovableType3.32-jaでの設定を書いてみる。

1.コメント/トラックバックスクリプトのリネーム
適当な拡張子の適当なファイル名に変更した後、
.htaccess なりhttpd.confで
AddType application/x-httpd-cgi .拡張子
としてリネームしたスクリプトをCGIとして動作させる。
さらに、
mt-config.cgi に


TrackbackScript スクリプト名.拡張子
CommentScript スクリプト名.拡張子

とMovableTypeにスクリプト名を教えてやる。

2.コメント/トラックバックスクリプトへのGETメソッドの拒否
これも.htaccess なりhttpd.confで


<Files ~ "\.拡張子$">
 <Limit GET>
  Order Deny,Allow
  Deny from All
 </limit>
</Files>

とする。

3.コメントフォームにhiddenなコードを埋め込んで追加時に送信して照合される機能を実装したSbcodeプラグインの導入
http://www.antimon2.atnifty.com/2007/02/sbcode.htmlのとおりに設置

4.コメントはエントリーページから一旦確認ボタンを押した後にしか投稿できないように。
個別エントリーアーカイブのコメント欄から「投稿ボタン」を消す。

5.静的ページに見えるようなトラックバックURL
ラックバックURL以降に何を書いてもちゃんと動作するということから
個別エントリーアーカイブの<$MTEntryTrackbackLink$>/<$MTEntryBasename$>.phpなどと追加して、それらしいURLにする。


参考サイト :
シンプル コメントスパム フィルター - SbCode プラグイン@ あんちもん2.Lab
スパマーにCGI叩かれたら負けかなと思っている。@Junnama Online (Mirror)

2008年07月07日

●ねるねるねるね?

かなり昔、恐らく私が高校生くらいの頃に、魔女の恰好をした老婆が食品とは思えない毒々しい色をした粉末を実験かなんぞののように混ぜて「うまいー!」とか言って食べる「ねるねるねるね」なるお菓子のコマーシャルをテレビてやっていたのだが、どう見ても「美味しそう」どころか食べ物には見えなかった。
それでも何かにつけカレーやヨーグルトや納豆などを混ぜる時に「ねるねるねるね!!」とか言ってネタにはしていたのだが、最近その「ねるねるねるね」がまだ売っているという事を知ってからと言うもの、考えれば考えるほど「ねるねるねるね」っては実は凄いんじゃないか?と思うようになって来た。

まず「ねるねるねるね」なる安直に冗長すぎる名前のインパクト、そして毒々しい色と良くわからん粉末を混ぜて練るという食品の概念を打ち破るような造形、そしてなによりも食べ物でありながら美味しそうに見せようと言う意図を完全に放棄したかのような逆向きのベクトルである。そういったお菓子なる概念と全く反対方向のものばかりを持ちながらも、「お菓子」の枠組の中で一定の地位を築いているそのポジションと言うか生き様はどこか男心をくすぐるものがある。

粉と水を混ぜて色が変わるネバネバといった子供騙しでしかなかったものが、歴史の選択によって生き残り、お菓子であることを超越しつつもお菓子であるという実存を獲得するほどのなにものかが隠されているのではないかと。
と言う事で生まれて初めて「ねるねるねるね」を食べた。

まず開封してパッケージの説明どおりに、1の粉を入れ、三角カップ一杯の水を入れた後に、2の粉を投入、すかさず小スプーンでねるねるねるね…
と言う事で生まれて初めての「ねるねるねるね体験」の始まりである。

確かにこの作業自体は楽しいものがあるけど、うーん、やっぱり食べ物には見えん…
いやいや、見た目で判断してはいかん。実はとっても美味しいかもしれん。
ということで「色がかわるまでよくまぜよう」なるパッケージの指示通り、色が変わるまでひたすらねるねるねるね…

そして色が変わった後に、3の粉(ラムネ)をトレイに開けて練ったネバネバをそのラムネにつけて食べるわけやけど…うーん微妙…
というか、見た目で想像される通りの味である。ある意味期待を裏切らないと言うかなんと言うか…

特に不味くは無いけど、特に美味しくも無い。あえてこれを食べ物として食べようと言う気にはならなさそうだ。
食べ物を頭で考えて判断してもほとんど意味は無かったし、結局食べ物は食べて判断するしかないなと、そういうことを教えてくれたねるねるねるねであった。
(と、無理やりまとめてみた)

2008年07月06日

●映画:ブリキの太鼓/大人の醜さ/子供のままである事の醜さ

amazon ASIN:B0010B8AYQ ブリキの太鼓(1979/独=仏=ポーランド=ユーゴスラビア)を観た。ドイツの小説家ギュンター・グラスのノーベル文学賞対象作品である同名の小説の映画化であるらしい。映画化といっても小説では第一章の部分だけになるらしいのやけど。

ナチスが台頭する直前のダンツィヒ自由市で暮らす少数民族のカシュバイ人の母とドイツ人の父を持つ子供が、自宅で催されたパーティで大人の醜さを垣間見て成長を止める事を決意して階段から転げ落ちる。
三歳で成長が止まり、叫び声で物を破壊する超能力を身につけた彼はブリキの太鼓だけを友人とし、のべつ幕なしに太鼓を叩きまくり、気に入らない事があると叫んで物を壊すわがまま少年のまま年だけをとって行く。
第一次大戦前の放火犯と祖母の間に母が生まれたエピソードからポーランド人の従兄と不倫を続ける母の行動、そしてナチスのユダヤ人迫害とポーランド侵攻、それに続くソ連によるドイツへの侵攻までの長い時間をその少年の目から描いている。

公開当時のグロテスクなシーンとエロいシーンで物議を醸したらしいけど、今となればエロもグロもそれほど大した事は無い。とはいってもそのエログロは映像としては大した事無くても人間のモラリティーな部分を逆なでするような気分の悪さがある。

印象に残るシーンはとても多く、特に本編とは直接の関係が無いナチスの集会でのマーチが「美しき青きドナウ」に変わって舞踏会になるシーンが良かった。恐らく原作にはこういった良いシーンがたくさんあったのだろうと想像されるし、原作の出来の良さを感じる。

海に投げ入れた牛の首でウナギ漁をするするシーンから、従兄と不倫し続けてとうとう妊娠してしまった母親がおかしくなってニシンの缶詰や生魚を食べまくるシーンまでの一連の流れのエグさは素晴らしい。
母にとって魚とは生理的な欲望と欲望の醜さを同時に象徴する物だったのだろう。その魚をひたすら食べ続けたのは、自分の中の醜い欲望の代替品としたのか、それとも欲望に対する敗北の表現だったのか。

何れにせよこの母親の運命は中々のものだし、そんな母の醜さを見て育ってきた少年が成長を拒否してしまいたくなるのは良くわかる。
しかし成長しなくなったのではなく自ら成長を拒否したこの少年は子供の持つ特有の醜さだけが際立つ事になってしまったように思う。無邪気さを装った悪意があまりにも邪悪である。
そしてパッケージの写真のような気の触れたような目つきで太鼓を叩きながら叫ぶ少年の演技が鬼気迫って素晴らしい。この顔だけでも一見の価値ありである。

確かに少年の拒否したような欲望にまみれた大人は醜い。しかし少年のように子供のままであり続ける事も同様に醜いと思う。
大人の持つ欲望と、大人になりたくない欲望はどちらも理解出来るものであるけど、人が醜いかどうかはその欲望がどう現象するかによるだろうし、大人の醜さとこの少年の醜さは質が違うだけのように見える。
たとえ欲望自体が醜いのだとしても我々からそれが無くなる事は決して無いだろう。欲望を無くす方向性の修行が無益である事は数々の過去の偉人の言う通りなのであろうと今は思う。
劇的で神がかり的で神秘体験的で神智的な一瞬による自らの覚醒やとか変化など幻想に過ぎないのだろう。
結局自分の欲望が醜く思えてそれをゼロにする事が出来なければ、それがゼロであるかのように生活して、習慣が自らを無意識でそういうものであるかのように振舞えるようにするしかない。と言うのもまた数々の過去の偉人の言うとおりであろう。

などと、欲望とその醜さについて思いを馳せた、まぎれも無い名作の映画であった。
これはぜひ原作読まんとね。

2008年07月05日

●MovableTypeで同じカテゴリの前後エントリーへのリンクを作るPHP版(複数カテゴリ対応)

以前にMovabletypeで同カテゴリの前後エントリーへのリンクを作る」と言うエントリーで同じカテゴリ内の前と次のエントリーのリンクを表示される方法を書いた。
しかしながらこれは「エントリーをphpで作っている人」「phpでpassthru()が使える。」「CGIからシェルスクリプトが実行できる。(shスクリプト)」とかなり限定された環境でしか動かず、私が新しくXREAのアカウントを取って動作させてみたところエラーが出て動かなかった。
ということで、従来シェルスクリプトで動作させていたところをPHPで動作させるように書き換えた。ちゃんとXREAで動くのを確認しております。
とりあえず MovableType 3.32-jaで動作確認していますが、単純にPHPを使っているだけなので他のバージョンでも動作するかと。

個別エントリーページを表示した際、上部に「 「前のエントリ」|TOP|「次のエントリ」 」とリンクが表示されているが、これは投稿した時間順に並べたものである。
このリンクでのナビゲーションは投稿された順に見てゆく場合には都合が良いけど、例えば本の感想だけ、ソラリスカテゴリだけ、いきものカテゴリだけ見たいという人にとっては不便なので、見ているエントリーが属しているカテゴリ内のエントリーを投稿した順番に並べて、個別のエントリーにつき「同じカテゴリの前のエントリ」と「同じカテゴリの次のエントリ」てな感じのリンクを表示出来るようにすれば便利に違いないという事で調べてみた結果、「Previous and next in category」なるプラグインを使った方法を見つけた。
しかしこれは「画像」と「日記」などのように二つのカテゴリに属しているエントリーではメインカテゴリしか表示されない。実装は簡単なのだが惜しい。
何とか複数カテゴリで表示できるものは無いか?無いものは作ってしまえという事で作ったので以下の通り公開して見る。

1
MTの「テンプレート」→「アーカイブ」→「テンプレートを新規作成 」
「テンプレート名」を「カテゴリエントリリスト」として以下の内容で作成する。

<MTEntries><!-- <$MTEntryID$> --><a href="<$MTEntryPermalink$>"><$MTEntryTitle$></a>
</MTEntries>

2
MTの「設定」→「公開(詳細モード)」→「アーカイブ・マッピング 」→「カテゴリー」→「マッピングの新規作成」で
「アーカイブの種類」に「カテゴリー」、「テンプレート」に先ほど作成した「カテゴリごとエントリリスト」を指定して「追加」
追加されたら、「出力フォーマット」から「カスタマイズ」を選び「 cat-id<$MTCategoryID$>.php 」とする。

3
MTの「テンプレート」→「テンプレートを新規作成」→
テンプレート名:カテゴリごとの前と次のエントリ
出力ファイル名catlist.php

テンプレートの内容 :

<?

$list = file_get_contents("/アーカイブ・パス/cat-id{$cid}.php");

$line = split("\n", $list);
foreach($line as $key => $a) {
 if (ereg("<!-- $eid -->" , $a)){
  $contline[key]=$key ;
  $prvkey= $key -1 ;
  $nextkey= $key +1 ;
 }


 $content = "<dl><dt>Previous</dt>"
          . "<dd>&laquo;"
          . " $line[$prvkey]"
          . "</DD>"
          . "<dt>Next</dt>"
          . "<dd>&raquo;"
          . " $line[$nextkey]"
          . "</DD></Dl>" ;
}
print $content ;

として保存


4

MTの「テンプレート」→「アーカイブ」→「個別エントリーアーカイブ」を選び、挿入したいサイドバーの位置に以下のコードを挿入

<!-- 同じカテゴリエントリ -->
<MTEntryCategories>
<div class="sidetitle">
「<$MTCategoryLabel$>」<br />
category's entry
</div>
<div class="side">
<? $eid = "<$MTEntryID$>"; $cid = "<$MTCategoryID$>" ;
include "/アーカイブ・パス/catlist.php" ;?>
</div>
</MTEntryCategories>
<!-- 同じカテゴリエントリ -->

5
エントリーを再構築して終了

2008年07月04日

●土偶statドットコム

なんとなくドメインを取ってみた。フリーのdogu.no-ip.orgがあるから別に無くてもいいんやけど、年1000円以下で取れるのでまぁ勉強も兼ねて。

ドメイン名は netstatやiostatとかのstat系コマンドみたいなイメージで「dogustat.com」とした。
http://www.dogustat.com や http://blog.dogustat.com でこのブログに飛ぶようになっている。dogustat.comあてのメールも家のメールサーバーが受け取るようにした。そのうちにDNSも自宅に立てたいなと。

レジストラというか、ドメイン運用の統合サービス会社はドメイン維持費が年990円のVALUE-DOMAIN.COM にした。
年770円のLinkclub Domain Parkingなる格安業者と迷ったけど、設定項目が多岐にわたっているのでこちらを選択。
Dynamic DNSに対応しており、DNSのレコードを編集できるのが決定的だった。

私はWEBサーバーとメールサーバーを自宅サーバーのDDNS運用にしたけど、これはたぶん特殊な例であろう。
通常はどこかレンタルサーバーを借りるかWEBスペースを借りて使うのやろうけど、VALUE-DOMAIN.COMと同じ系列のXREAのレンタルWEBスペースはCGI モジュールPHP、MYSQLだけでなくシェルまで使える。私の知る限り無料WEBサービスで最強のような気がする。
VALUE-DOMAIN.COMでドメインを取るとこのXREAでの無料版が借りられるので、WEBスペースとメールが年990円で持てると言う事になりこれは中々お得ではないだろうか。
無料XREAの利用できる容量は50MBと少ないけど、私のブログのミラーサイトにしてみたらすぐに50MBを超えたので、300MBへの増量をお願いして見たら数時間で受理された。対応も中々早いと思うです。

WEBサーバーもメールサーバーも自前の自宅サーバーで運用するようにしたけど、WEBサーバーはXREAの方が遥かに早い。
もう自宅サーバーは勉強の意味しかないわなぁ…
と最近は時代の流れを感じるのであった。

「メシ部.jp」 「メシ部.com」「meshibu.com」開いてるよ…

2008年07月03日

●SUN手拭とそのほかSUNグッズ

sungods.jpg
SUNの手拭を手に入れた。 以前から土偶と言えば自転車と手拭とソラリスという自己像を持っているのだが、このSUN手拭を首に巻いて自転車に乗れば完璧だ。

ただ手拭の写真だけ載せるのはつまらないのでその他のお気に入りSUNグッズ、折りたたみ式SUNうちわ、二カ国表示SUN腕時計、膝にワークステーションなSUNキリンも一緒に撮ってみた。

2008年07月02日

●平和だと戦争したくなる気持ち

最近の仕事は特に急を要するようなトラブルもなく中々にちゃんとまわっており平和である。
国で言えば国内の反体制分子もそれなりにコントロールされ、隣国が国境を侵す事も無いといったところだろうか。
もちろん私の直接関わる範囲に限って言えばであり、国交の無い所で広がっているなかなかにエグい戦火が自国に同及ぶとすればどのような形か?と言った視点で眺めていた。

しかしこれだけ平和だと戦争がしたくなってくるのもまた事実。国内が平定し富に富んだのでよその国に侵略にでも出かけるか。という発想はとても良くわかった。そしてそう言う切羽詰らない軽い感覚で行われる事こそが一番たちが悪い事も。

平和を戦争状態と比べる事無く価値あるものだと感じるのはとても難しい。激烈な戦争の合間にある平和こそ甘美である。
「よい戦争はあらゆる目的を神聖にする」と某ニーチェさんは言ったけど、平和を味わうために戦争をする人などいないし、例えそうだとしても、目的が神聖になっても戦争自体はどうすれば神聖になるのだろうかという疑問が残るのだ。

まぁ平和だからと言って侵略戦争になど出かけないで、社会サービスの増強や内需の拡大に向けて力を注ごうと思った。

2008年07月01日

●映画:ミケランジェロ・アントニオーニ 「欲望」/ギンギラギンにわざとらしく

amazon ASIN:B000IU3AE0 ミケランジェロ・アントニオーニ 「欲望」(1966/英)を観た。DVDのパッケージになっているポスターは私でも見た事あるくらいなので中々有名なのであろう。

このポスターと「欲望」というタイトルから勝手に想像して猟奇的カメラ小僧の話だと思い込んでいたのやけど内容は全く違った。

美人は飽きたとのたまう売れっ子ファッションカメラマンの話で、前半はその男の何ともいけすかん日常が描かれるけど、中盤に入って何気なく公園のカップルを撮影したところからストーリーが一変する。

邦題は「欲望」やけど原題は「Blowup」で写真の引き伸ばしとか言う意味である。
たしかに写真を引き伸ばしたところから映画の流れが変わるし、それにいろいろ引き伸ばしている事は間違いないだろう。それに引き換え邦題の「欲望」はどこからそうなったのか良くわからん。

ストーリーが変な方向に向かいだしたその中盤から後半にかけて、今までのストーリーはなんやってん?と言うくらいに訳がわからなくなり、最後はもう全く理解の範囲を完全に超えていた。パントマイムのテニスと観客?

世評ではとても評価が高いようで、60年代イギリスな雰囲気や、なんやらと言うロックバンドの演奏シーンやらハンコックの音楽の評価以外に、どうやら何か芸術やらなんやらに関する比喩に満ち溢れてるとかそう言う話もあるようやけど、いかにも比喩ですよと言うような、比喩以外に取りようが無いですよ、って感じの雰囲気がやたらと鼻についた。
さりげなさが全く無かったし、やたらとぎらぎらしていたように見えた。

八方美人の映画の感想を書いているけど、この映画はちょっとダメなタイプでした。