≪ 2008年04月 | Top | 2008年06月 ≫

2008年05月31日

●優雅な引きこもり/餃子証拠写真

gyouza.jpg
この日は一日引きこもってカフカを読んでいた。音楽を聞きながらカフカ。カフカを読みながら音楽。 引きこもりは引きこもりでも優雅と言えば優雅。ということで優雅な引きこもり。 とは言っても、優雅に「引きこもる」から優雅なのではなく、「引きこもり」なる行為が優雅であるから優雅なのであると密かに思っている。

前日食べた第一弾の王将の餃子が四人前頼んだはずが三人前しか来ていないのではないか?という疑惑があったので証拠写真をアップ。
ちゃんと四人前ありますな。
いやしかし久しぶりに王将なんぞに行ったけど、さすがに「餃子の王将」というだけあって王将の餃子は美味しかった。おまけに独特の風貌の店員さんを評しての「奇面組」の言葉で腸捻転になりそうなほど笑った。
amazon ASIN:B0000C9VL3 amazon ASIN:B0015R3WAC amazon ASIN:4086177447

2008年05月30日

●ヴェルナー・ヘルツォーク 「神に選ばれし無敵の男」 (2001/独=英)

amazon ASIN:B0001N1QQI ヴェルナー・ヘルツォークの「神に選ばれし無敵の男」を観た。
予言と占いでオカルト好きのヒトラーに取り入って演説を指南したエリック・ヤン・ハヌッセンとユダヤ人社会で「現代のサムソン」として語り継がれる英雄であるらしい怪力のジシェ・ブライトバートという実在の二人の男の物語である。

ストーリーとしてはポーランドのユダヤ人街で怪力の鍛冶屋として働いていたジシェがちょっとした事からドイツ人のエージェントの目に止まり、ベルリンのハヌッセンが経営する「神秘の館」なる見世物小屋で働く事になる。というもの。
ナチスによる政権掌握前夜とも言うべき不安な時期のベルリンの、「神秘の館」なる上流社会の人々向けの見世物小屋で、ハヌッセンは千里眼を見世物に、ジシェは怪力を見世物にするわけで、何とも怪しい雰囲気が満開である。

ティム・ロス演じるハヌッセン以外の主要な登場人物は殆ど全て素人の役者であるらしく、主人公ジシェを演じているヨウコ・アホラなる人物は実際に石の玉を持ち上げたりトラックを引っ張ったりするような怪力コンテストで何度も世界タイトルを取っているそのスジでは有名な人で、一応ヒロインのピアニストも本物のピアニストらしい。
見世物としての怪力とピアノは確かにホンマモンがしているわけやから見ていて「おーっ」て感じやったけど、ティム・ロス演じる千里眼の見世物はなんとも言えんオカルトチックで胡散臭い怪しさ満開であった。
「正直で真っ直ぐな怪力男」と「ピアニストになりたいピアノ弾き」を演じる彼らは確かに役のままの人であったけど、考えてみれば「自分を偽って自分を作り上げて、怪しい力を持つ男を演じ続けていた男」を演じるティム・ロスも役のままといえるだろうし、その配役のおかげで見世物が嘘臭くなくて、ちゃんとした見世物になっていたんやなぁと。

邦題の「神に選ばれし無敵の男」はちょっと微妙な感じやけど、原題は「Invincible」ということで「無敵の」だけでなく「揺るぎない」の含意もある。
全般的にハヌッセンが目立ちすぎのような気もするけど、精神的に「Invincable」の男と肉体的に「Invincable」の二人の男の物語であった。
大量の蟹やとかクラゲとかの映像や多くのそれっぽい台詞なども含めて、中々不思議な雰囲気の後味のする映画であった。

2008年05月29日

●アレハンドロ・ホドロフスキー 「エル・トポ」(1969/メキシコ)

amazon ASIN:B00009CHBW 偶然レンタル屋さんでであった某氏に薦められて観た。調べてみると「カルト映画の開祖にして金字塔」と呼ばれる程に世評の高い伝説的なカルト映画ということになっているらしい。
公開当初は配給元がつかないほどやったものの、著名人やらアーティストと呼ばれる人たちが絶賛したおかげで有名になり、最終的には興行的にも成功したようだ。

黒装束に身を包んだいかにも怪しげな男がすっぽんぽんの子供を後ろに乗せた馬で現れて、その子供にもう一人前だと言う事で母の写真と人形を砂漠の砂に埋めさせるところから映画は始まる。
主人公の男はマカロニウェスタンな西部劇のように拳銃を撃たせたらむやみに強く、通りすがりの村が賊に全滅させられたと知るや単身で賊に襲撃をかけて復讐を果たす。ちょっとした北斗の拳とケンシロウのようなものだ。銃で撃ち殺すわけなので「邪魔するヤツは指先一つでダウンさ」というのもまぁ正しい。
主人公の名でもあるタイトルの「El topo」はスペイン語でモグラであり、冒頭でそのモグラについて言及されていた。モグラは太陽を探して地面を掘っているが、地面の外に出て本当に太陽を目は光を失う。ふーん

で、旅を続けているうちに砂漠に住む銃の名手四人を殺すために砂漠の中を探し回る羽目になるのやけど、四人とも明らかに自分より強いので、男はあまりにも姑息な手段で4人に勝負を挑む。
村を襲った賊という、いわば雑魚相手にはケンシロウのごとき強さを見せつけたエル・トポも、実力では絶対に勝てない砂漠の四人の名手に対してはジャギのように騙し討ちと奇策のみで戦うところが可笑しい。
そしてその四人がガンマンと言うよりは宗教者であり、またそれぞれに魅力的で個性的で面白い。
この四人と彼らとの対決が中々の見せ場になるのやけど、その対決の後から今までのストーリーとは全く違う、この映画の後半が始まる。
前半、エル・トポは賊の前で「私は神だ」と言っていたけど、後半彼は「私は神ではない、ただの人間だ」と言っており、確かに前半と後半の違いが一言で表わされているような気はする。

一人目に対して発砲した瞬間、動物の鳴き声を発する二人目の親子、大量のウサギの死体の中で行われる三人目との決闘、そして四人目との決闘はどれも息を飲むような映像であった。
またどの場面やどのシーンをとっても無駄の無いような良い映画であったと思う。

2008年05月28日

●Live CD solaris 「OpenSolaris 2008.05」

以前、OpenSolarisベースのLive CDで起動する「Indiana」なるプロジェクトの派生物であるSolarisがSunのサポートの下で「OpenSolaris 2008.05」として配布開始になったっつんでダウンロードしようと「Get OpenSolaris」なページに行ったのやけど、英語ページなんで適当に読みながらそれらしいリンクを突付いているうちに住所を聞かれたりしたので「ふーんダウンロードするのにそんな事も聞くんや」と思いながら入力していたら、最後の送信ボタン押した段階で「航空便で送るから、後3,4週間ほどかかる」って言われて、えっ?ダウンロードじゃなかったの?とびっくりした。英語やったからほんまにそう言っていたのか半信半疑やったのやけど…
結局別のリンクからISOファイルをダウンロードしてCDに焼いて使っているものの、今日本当に航空便で届いてしまった。なかなか可愛らしいメディアである。opensolaris0805media.jpg

ダウンロードすれば使えるけど、「Get Free Media」って書いてあるし、メディアが欲しい人は申し込んでみると良いかも。Sunがわざわざ航空便で送ってくれます。

このOpenSolaris自体はLive CDなのでクライアント使い向きやけど、Atokが入っていないのはデスクトップSolarisとしては致命的、それならknoppixでええやん。ということになる。

しかしながらHDDにインストールするとなるとGUIとXアプリがしょぼくてAtokが入っていないということが、逆に通常のSolaris10の「開発者サポート」よりコンパクトにまとまっているわけで、実はサーバー構築向きのディストリビューションでないかと思う。ファイルシステムもZfsやしね。一台にインストールしてSolaris10でコンパイルしたバイナリ動かしてみたけどちゃんと動いた。まぁ当然か。

SunブランドでリリースされるSolarisが今までの「Free solaris10」と「Solaris Express」に加えて「OpenSolaris」で三つとなった事はとても良い感じである。

2008年05月27日

●フンガーフンガー疫病神?

仕事後に百円ショップに向かうも到着した瞬間に電気が消えた。ん?あ、閉店…
後五分早ければ…とがっくししながら、レンタル屋さんに向かう。
DVDを返し、店を出て自転車を漕ぎだすと変な感触。地面がやたらとゴリゴリする。ん?これは…む…やっぱりパンク…
あーもう今日はダメな日やと半ばあきらめながら、応急処置のタイヤ交換をする。人通りが多いので皆がじろじろ見ている。あー恥ずかしい。でも換えタイヤを持っていたのは本当に不幸中の幸いである。

家に帰り、ご飯を食べ、ブログを更新した後に、今日パンクしたものをちゃんとしたタイヤに交換する。
交換ついでにハブのグリスアップ、ハブの玉あたり、サドルの高さ調整等をしていて気がつくと11時前。
先週から楽しみにしていたNHKのグレングールド特集を見逃した事に気付く…

気がつくと「フンガー!!」とフランケンシュタインの怪物のように一人で悶えていた。なるほど何処に向けたら良いのかよく分からない怒りは自然と「フンガー!!」の叫びになる事がよく分かった。

2008年05月26日

●ギャスパー・ノエ 「カノン」 (1998/仏)

amazon ASIN:B00005L8UN ギャスパー・ノエの「カノン」を観た。
新鋭の映画監督であるギャスパー・ノエなる人物はこの映画で始めて知ったけど、ネットで妙にエグいと評判なうえに、ヴェルナー・ヘルツォークを好きな人が同様にこの監督を好きなパターンが多いようなので観てみた。

話としては「馬肉屋三部作」なるものの二番目で、ストーリー的には前作の「カルネ」の続きであり、次作「アレックス」の間であるらしい。本当なら「カルネ」から観るべきなのやろうけど、レンタル屋さんになかったものはしょうがない
前作の「カルネ」を観てこの監督を気に入ったアニエス・ベーがこの作品の製作を全面的にサポートしているらしく、10年前の映画やけど、本国フランスでは前作同様にちょっとオサレで前衛的であるような扱いを受けていたようだ。

冒頭は「前回までのあらすじ」のように静止画のスライドショー式に「カルネ」の内容が説明されるのだが、それ込みでなかなか面白かった。娘を施設に放り込んで酒場の女とフランス北部に逃げた男が、今度は女から逃げ出してパリに戻ったものの、仕事も見つからず金も失って徐々に追い詰められて行き詰るさまが描かれるのやけど、映画の中のほとんどが、小心者で気の弱いその男が頭の中だけで展開している、周りに対する毒々しい罵倒や攻撃的な独白や妄想で埋め尽くされている。

冒頭で世のモラルは金持ちが貧乏人を搾取するためだと罵倒し、そんなものは否定してやるとばかりに世界に喧嘩を売る男が銃をちらつかせながら息巻くシーンから始まり、この映画の主題が提示されているような感じであった。
その主題どおり、世の中のもっとも下層にいる、何も持たない本当にどうしようもない50がらみの男が世界に絶望しつつも、モラルを踏み越えて自らの生きる意味を見出そうとするところは、一般的に思われるニーチェ的な考え方の、ある種のニヒリズムをどう受け入れるかという話であるのはわかりやすい。

実の娘を性的な対象と捉え、自分の子を孕んでいる女の腹を執拗に殴り、自分以外のものはすべて見下して否定し、弱いものに対する場合と頭の中だけで強気で暴力的な、なぜか自分だけはモラルを超越する権利を有するように思っている、この映画で描かれるような男に対しては、殆どの人が嫌悪感しか抱かないだろう。
男が醜ければ醜いほど、どうしようもなければどうしようもないほど男の追い詰められ方は激しく、自業自得ながらもその絶望はリアルである。こんな風に死んでいった人がたくさんいるのだろうなと想像できる。
最も最低な男の辿り得る、最も最低な形での絶望にどうオチがつくのか。というところがこの映画の見所かもしれない。

この映画の後半、感受性を損なう恐れがあるから、見たくない奴は見るな。的な警告の後のカウントダウンに続くシーンはなかなか来るものがあった。気持ち悪いものを見ると吐きそうになるという表現があるけど、なんかそういう感じの嘔吐感を伴った気持ち悪さやった。
なかなかにエグいシーンを見せられた後にあー良かったーと思わせておいて「まさか…えーっ?」とまたひっくり返す展開はかなりびっくりである。
結局男は冒頭のようにモラルを破壊し、利己性に則って自己を追及したわけだ。なんとも激しく後味の悪い映画やったけど、とても分かりやすく考えさせる映画でもあった。この位の分かりやすさは珍しいんじゃないだろうか?

タイトルの「カノン」が作中にかかるパッヘルベルのカノンだけでなく、音楽的には同じ主題の異なる展開を表す手法であり、宗教的には正典を指す言葉であることからそこのところを意識したのかへーっとか思ったけど、原題は「Seul contre tous」ということで「仏和辞典Web」やらWEB翻訳で調べてみると「一人で全てに反抗して」とか「Only against all」ということで、全然関係なしやん…

2008年05月25日

●山田洋次 「馬鹿が戦車でやって来る」 (1964/日)

amazon ASIN:B0009G3F4I 公開当時は娯楽映画やったはずやけど、今となればそれなりの「カルト映画」扱いをうけているらしい「馬鹿が戦車でやってくる」を観た。
一応「馬鹿シリーズ」最高傑作の第三作目と言う事らしいけど、前二作は観ていない。

村外れのあばら家に住む、村中から忌み嫌われて馬鹿にされている一家の長男のハナ肇演じるサブと言う男が、村中にコケにされて暴れて留置場に入れられている間に村会議員から畑を騙し取られる。
留置場から出たサブはそれを知って怒り狂い、少年兵時代に持ち帰った戦車を暴走させて村を襲う。というもの。
なんかよく似たような事件がこの間アメリカであったような。武装装甲シャベルカーで建物を破壊したとか何とか。

なんとなくコメディータッチな喜劇っぽい作りやけど、ムラ社会でスケープゴートに祭り上げられて笑い物にされる一家の扱いが何ともエグい。よくよく考えれば最後の最後まで救いが無い。
村唯一の味方である筈のお嬢さんですら、自分の言動のの責任を取らなさ過ぎる上に全ての騒動のトリガーとなっているわけで、実は一番の食わせ物である。
考えれば考えるほど「ほのぼの」とは凡そ対極にあるような、陰惨なムラ社会の悪い所だけを集めたような映画であった。こんなトーンであるだけに余計性質が悪いなぁ。

2008年05月24日

●「フランケンシュタイン」(1931/米) 「フランケンシュタインの花嫁」(1935/米)

amazon ASIN:B0002J50ZE amazon ASIN:B000QJMBAW かの有名な「フランケンシュタイン」とその続編である「フランケンシュタインの花嫁」を観た。
一応シリーズものということで続きも後四作ほどあるらしいけどそちらはまだ見ていない。

良家の跡取りである科学者のヘンリー・フランケンシュタインは生命の創造に魅せられ、墓地や刑場などから盗んできた死体の器官をつなぎあわせて命を与える実験を行う。やがて実験は成功して死体は動き出したが、それは人を襲う凶暴な怪物だった。という感じが「フランケンシュタイン」のストーリーである。
で、続きの「フランケンシュタインの花嫁」は前作の続き、科学者を引退したフランケンシュタイン男爵の下にまたもマッドサイエンティストが現れて人造人間の創造をそそのかし、前作の「フランケンシュタインの怪物」の花嫁を生み出そうとする話である。

「フランケンシュタイン」を観たときは有名なわりにあまりに面白くなかったので、次作の「フランケンシュタインの花嫁」もあまり期待しなかったのやけど、これが意外に面白かった。二つ続けてみるといいかもしれない。

一応ホラー映画というか恐怖映画でありつつも、人造人間のアイデンティティーやら悲哀がうんたらかんたらな映画やという、ちょっと悲しい物語だと先入観をもって観たけど、「フランケンシュタイン」の方はあまりそういう雰囲気を感じなかった。例えば、少女と無邪気に遊んでいるうちにもののはずみで殺してしまう有名なシーンがあるけど、可哀想というよりはアホやなーという味付けであるように感じた。でも、醜い怪物が少女に花を差し出しているシーンは確かに絵になる。
当時「フランケンシュタイン」はホラーのつもりで作ったのやろうけど、さすがに今となれば怖くない。
怖くないホーラはやっぱり中途半端な感じがするけど、「フランケンシュタインの花嫁」の方はホラー色をちょっと抑えて人造人間の悲哀とやらが前面に押し出されていておりなかなかの人情話に仕上がっていた。

「研究室のドアを開けて話を聴け」とか「研究を止めて結婚しろ」とか「もう一度人造人間を作ろう」など、しょうもないことから大事なことまで、最初はやたらと断るけどすぐに折れて言うことを聞いてしまうフランケンシュタイン若男爵の説得されやすさが可笑しかった。
盲目のヴァイオリン弾きと怪物の友情話が伏線でもなんでもなかったのが可笑しかった。
最初の友人のことなどすっかり忘れて、「フンガー!!働けー!!寝るなー!!フンガー!!」と若伯爵に脅しをかけて自分の嫁を作るのを急かせる色ボケ気味の怪物くんが可笑しかった。
そして自爆装置が設置してある研究所も可笑しかった。

2008年05月23日

●マルクス・アウレーリウス 『自省録』

職場の新人さん歓迎会に出席するも、殆ど新人さんと喋っていない…でもまぁ出席して顔は見てもらったからええか。
「なぜ私には彼氏が出来ないのか?」と涙ながらに訴える某レディーを弄っているうちにそう言う話になり、「●●やんはそれ関係どう?」と問いかけられて「私には仏教がありますから」と手を合わせた某氏を初めて「恰好良い」と思った。

amazon ASIN:4003361016 家に帰ってカフカを読むつもりが、ふと本棚の片隅で目に付いたマルクス・アウレーリウスの『自省録』を思わずぱらぱら読みしていたら変なところにクリティカルヒットした。
当時、世界で最も権力と富と名誉を身に帯びていた者の一人である、ローマ帝国五賢帝の一人の余りに謙遜で真摯な言葉が、ただの一介のおっさんである私の胸にグサグサ突き刺さる。と言うのも考えてみれば不思議な話ではある。

「実るほど頭を垂れる稲穗かな」な人こそ本当に偉大だと最近よく思う。卑屈でもなく、自己否定的でも無く頭を垂れるのは本当に難しいと思う。

そういえば昔カフカを読んでいた頃にこの本も読んでいたなぁなどと思い出す。その頃の気分や精神状態と一緒に。
そういえば、そういえば、そういえば…

この本を読んでいた頃、当時はこの本がとても好きだった。殆ど人には言わないくらいに好きだった。今になって思えば、この本が好きだと言う自分なら好きになれると思っていたふしもあったような気がする。
年を取ればこのような立派な人間になれればどれだけ良いだろうと思った。しかしながら、現実はこうである。
しかし一方で、この年になった私がこう言う状態にあったであろう事を当時予想できたであろうか。
この本を読んでいた頃の私と今の私が時間的につながっていると言うのはとても不思議なような気がする。
と同時に、2世紀ローマの哲人皇帝の文章を今も昔も読んでいる事も、考えてみればかなり不思議な話である。

2008年05月22日

●固定ギア三日目とか

固定ギア三日目の出勤。大分慣れてきた。、確かに面白い乗り心地ではある。
よく固定ギアの自転車を「一体感」で表現する人がいるけど、なるほど言わんとする事は分かる。でも今の所私にとっては「一体感」というよりは、「逃げ道のなさ」を感じる事の方が大きいような気がする。

毎日の生活の中での刺激の多さがそのものの充実度と比例している。と考えたり感じたりしてしまうと、自らあえてややこしい状況を選んでしまうような気がする。例えば仕事、例えば本、音楽、食べ物、遊び、恋愛、などなどなど。
微弱な刺激であっても、刺激の量で無く質こそを選びたいものだと思う。と思うのは年のせいだろうか。

仕事後に家に帰ってちょっと横になってみただけの筈が、そのまま寝てしまった。映画も観ず、本すらも読まずに寝てしまった。

2008年05月21日

●カフカ/過負荷

職場の図書館で池内紀訳のカフカを借りて読み始める。マックス・ブロートが出版のために編纂した版ではなく、カフカの手稿に近いテキストから直接訳出したもので、従来のカフカ像とかなり違う、カフカ自身の意図やら方向性に沿ったものらしい。と言う事やったけど、とりあえず私が好きな『変身』『流刑地にて』『断食芸人』を読んでみたが、特に何が変わったと言う感じはせんかった。
しかしカフカ読むのなんかどれくらいぶりやろう?よく覚えて無いけど確実に十五年は昔やと思う。
良いオッサンになってから読むカフカは中々に強烈やなぁ。なんか妙に身につまされる…

固定ギアのピストで出勤し、家に帰る。思い立ってブレーキレバーの黒い台座を黄色く塗装してみる。白を薄く吹いてから黄色を吹いたので発色が良い感じだ。
バックを踏む足と体を固定するために突っ張る腕が痛い。

2008年05月20日

●固定ギアに乗ってみる。

SURLYの19Tの固定ギアを手に入れたので仕事後に取り付けて一時間ほど乗ってみる。
以前、DURAの15Tがついていた時は余りにも恐ろしくて乗れず、フリーホイールをつけてやっと乗れていたのやけど、乗ってみると意外に乗れるもんだ。

乗る前は「どうやって漕ぎ出すんや?」「どうやって降りるんや?」と想像してたけど、乗って見ると意外や意外に考えるまでも無く体が勝手に反応してくれる。
ペダル回しながらトークリップを足に入れ、ストラップを引っ張って靴を締め付けて固定する。ってのも意外に走りながらでも出来るもんだ。

しばらく走ってみて「バックを踏む」という感覚が理解出来た。確かに街中をとろとろ走る分にはブレーキレバー握らずに速度が調節できるのが良い感じやけど、これがブレーキとして機能するとはとても思えない。しばらくは恐ろしくてスピードは出せないなぁ。
常に「固定に乗っている」と意識している分には良いけど、ふとした拍子に足が止まって後ろから上がって来るペダルに突き上げられるのがちょっと怖い。でもまぁそれも慣れそうな気もする。ようは慌てずにそのままバランスを取れば良いだけだ。
しばらく乗ってみてトップチューブにプロテクターを巻いている人が多い理由がわかった。あそこに座ると変なペダル位置でも車体をコントロールしつつ足を出しやすいんやね。

コグを取り付けてどれだけの強さで締めたら良いのかわからなかったので適当に締めておいたら、強く踏み込んだ時にコグが「ずるっ」と螺子方向に締まり、強くバックを踏むと「ずるっ」と緩むほうに回って滅茶苦茶怖かった。とりあえず一度ギアを外して焼き付き防止にグリスを大量に塗ってから力いっぱいコグとロックリングを締め付けておいた。

ほんの一時間ほど乗っただけやのに、足と腕のの変なところが筋肉痛になった。今まで使わなかったところを使ってるんやろうなぁ。たしかに固定ギアで街中を走るというのは確かに自転車としてまた別のジャンルにある事がよく分かった。
これで一応名実共にピストになったわけやけど、どうするかなぁ。フリーに戻すかなぁ…

2008年05月19日

●ベートーヴェン:最後の三つのピアノソナタ : グレン・グールド

amazon ASIN:B000ULLNQ4 音楽カテゴリに、しかも私の愛するグレン・グールドとベートーヴェンとその最後の三つのピアノソナタについてのエントリにコメントを頂いたので、持っているCDから一枚紹介してみる。

あの強烈なデビュー作である55年版ゴールドベルグ変奏曲によってグレングールドの名は世界に知られたわけやけど、彼がその興行的な大成功の次に録音する事を望んだのがこのCDの三曲、ベートーヴェンの最後の三つのピアノソナタであった。
一般的にこのベートーヴェンの30番、31番、32番の三つのピアノソナタは重くて深刻で天上の高みにあるとも言われて、余りに大層な扱いやら有難がられ方をするものやけど、グールドはそんな扱いに疑問を抱き、新しい解釈を世に問いたかったのかもしれない。

30番は彼自身が第1楽章の美しさを褒め称えていたらしい割には余りに溜め無しにあっさり弾いてしまう、なんというかツンデレな30番である。
それに引き換え31番はテンポが遅い目やけどなんとなく不自然なくらいに丁寧な印象を受ける。彼の丁寧な演奏と言うのはちょっと薄気味悪いけど、次の32番はこれでもかと言うくらいの怒涛のテンポで繰り出されて殆ど適当とも言えなくも無い演奏である。

初めて聴いた時は私の大好きな32番の第二楽章の五つの変奏の適当さと、31番の第三楽章後のフーガのわざとらしさに怒りさえ覚えたけど、今となればこのぶっ飛び加減がとても素晴らしい。

今までの重々しい深刻な解釈と真っ向から対立するような演奏で、ジャケット写真のようなうっとりグールドでやっぱりベートーヴェンと言うよりはグールドという雰囲気満点である。

京都のラーメン好きは「天下一品のラーメンはラーメンではなく天一という食べ物である。」という事をよく言うけど、同様にグールドはバッハを弾こうがモーツァルトやベートーヴェンを弾こうが、グールドにしか聞こえない。
以前から私は以上のような根拠で「グールドは天一」という説を唱えているけど、このCDは「グールドは何を弾いてもグールド」というところを余す事無く示してくれるCDでは無いだろうかと思う。
何気に密かに私の中々の愛聴版である。

2008年05月18日

●初燻製

前日に引き続きこの日も「水無し川のカフェ土偶」へ。プリンを食べたり、コーヒとココアを飲んだり、炒った銀杏を石で叩いて割って食べたり、やっと見つけた『Tokyo graffiti 創刊号』 を読んだり。

先日大学時代の友人の作って来た燻製に影響されてずっと燻製をつくりたかったのやけど、前日の琵琶湖で初めてソーセージやら鶏のささみと胸肉と腿肉の燻製を作ってみた。
私のやり方は、鉄鍋の底にアルミホイルを敷いてその上にチップを撒き、鍋の中ほどで止まる網の上にスパイスやら塩やらで下味をつけた具を載せて蓋をして鍋を火にかけて熱い煙で燻すというもので、この燻煙方法は熱燻といわれるものであるらしい。スモーカーなどの大掛かりな装置を使わずに中々にお手軽である。
チップを直接鍋で熱すると鍋に焦げがつくということでアルミホイルを敷いたけど、蓋も煙で激しく汚れたので、蓋の内側にもアルミホイルを撒いておいたほうが良いと思う。

kunsei.jpg今回初めて燻製を作ったのだが、熱いうちに齧って「ん~普通に炭火で焼いたほうが美味しいかも…」と思っていたのやけど、テーブルの上に放置しておいて冷えた燻製を食べるととても美味しいのに気付いた。最初は「う~ん失敗した…」と思っていたけど、これはとても良い感じである。
意外に出る煙も少なくて済みそうなので、家でも作れるかも。

2008年05月17日

●南プロヴァンス風な土曜日

焼け付くような晴天の中、琵琶湖に繰り出した。
ベースキャンプを設営したものの、その様がなんとなくリゾートチックなところから、今からここは「南プロヴァンス」、今から行われる事は全て「南プロヴァンス風」ということで合意が成立する。
もちろん「南プロヴァンス」の正確な位置も指すものも誰もよく分かっていない。あくまで雰囲気だけの話である。

早速飯盒でご飯を炊いて、炭をおこし、肉を切ったり野菜を切ったり。
南プロヴァンス名物焼き餃子と焼き竹輪が美味しかった。南プロヴァンス風バーベーキューも美味しかった。しかし、南プロヴァンス風焼きバナナは、例の如く何度作っても温かいバナナでしかなかった…

食後にお湯を沸かして牛乳を温めてコーヒを淹れる。これももちろん南プロヴァンス風。マシュマロを炭火で炙りながらコーヒを飲むも、「焼きマシュマロ」が頭の中で混ざって何故か口から出てきた言葉は「マキマロ」。「マキマロ」と発音したとたんに皆に激しく突っ込まれる。皆厳しいなぁ…マキマロ…
南プロヴァンスでは「焼きマシュマロ」の事は「マキマロ」と呼ぶんや。という事にした。
で、砂糖の替わりに焦げた「マキマロ」を解かしたミルクコーヒは黒い焦げや白い泡が浮いていて、ふと用水路みたいと思う。皆に汚い、不味そうと言われつつも(皆厳しいなぁ…)これはこれで「城南宮横用水路カフェラテ南プロヴァンス風」ということにした。

食後に某氏が砂浜に寝転んで寝始めたところで、蝶は数匹飛んでくるわ、トンビとカラスが飛んでくるわ、魚が跳ねるわ、しまいにイヌまで寄って来て、まるで涅槃図のようで可笑しかった。

陽に焼けたせいか妙に疲れた南プロヴァンス風な土曜日であった。

2008年05月16日

●ヴェルナー・ヘルツォーク 「キンスキー、我が最愛の敵」 (1999/英=独=フィンランド=米)

amazon ASIN:B00005NO7K 「キンスキー、我が最愛の敵」を観た。
ヴェルナー・ヘルツォークが彼の映画にとっては欠かせない長年の盟友であり喧嘩相手でもあるクラウス・キンスキーがいかに無茶苦茶な人物かということを説明したドキュメンタリー映画であった。
全編にわたって、おかしいのは俺じゃなくてキンスキーの方だという主張が展開されている。

キンスキーが自伝の中でヘルツォークを散々に罵って批判している事実に対して、本当はキンスキーはヘルツォークの事を好きだが、お互い喧嘩している方が世間は注目するだろう。というキンスキーが言ったという言葉を紹介することで、キンスキーによるヘルツォーク批判は事実無根でキンスキーの策であるような言い方をしていたけど、結局キンスキーもヘルツォークもお互いを批判しながら批判自体をネタにする勢いで一緒に仕事をしているわけで、まぁ同じ穴のムジナというところだろうな。という感じであった。

拳銃でエキストラの先住民の指を吹き飛ばしたり、剣で切りつけて頭を割って重傷を負わせたりと、地のままで演技もしてなんでないか?というくらいの「アギーレ 神の怒り」や「フィツカラルド」のメイキングや苦労話がなかなか面白かった。
「フィツカラルド」の撮影中に、あまりに過酷な撮影を止めて帰ろうとしたキンスキーをヘルツォークが銃で脅して撮影を続行したという有名な話があるけど、それはキンスキーの嘘だとヘルツォークは主張している。
しかしよく考えれば、あのキンスキーを銃なしで脅しつけていうことを聞かせるわけであるからヘルツオークの恐ろしさは相当なものだろう。
先住民達が殺意を持って自己中心的なキンスキーを憎んでいたという話やけど、そんな先住民達ですらヘルツォークを恐れていたくらいやし、ヘルツォークって怖いんやなーというのがひしひしと伝わってくる。
この映画を観た人の感想を見ると、「確かにキンスキーはおかしい、でもヘルツォークの方がそれに輪をかけておかしい」という人がほとんどやったけど、まぁ確かにそうとしか思えないわな。

この映画を好んで見ようと思う人はほとんどがヴェルナー・ヘルツォークの映画とクラウス・キンスキーが好きな人やろうし、そういう人なら楽しめるやろうけど、そのほかの人のはふーんとしか思わないだろう。
公開当時、この映画は映画館で上映されたらしいけど、なにも映画館で見ることはないわな。という内容でもあった。
まぁそれでもDVDで見る分にはキンスキーとヘルツォークが好きな人にとっては面白いんじゃないだろうか。

2008年05月15日

●Sun xVM VirtualBox

Sun MicrosystemsがMySQLを買収した事は大きなニュースになったけど、ドイツのInnotekを買収したことはそんなにニュースになっていないようだ。
同社の「VirtualBox」がSunブランドででるのはちょっと良い感じだと思うのだが…名称も「Sun xVM VirtualBox」やしかなり気合が入っているようだ。
Windowsはもちろんの事、Linux, Macintosh,Solarisiにまで対応している。
完全仮想化Xenを使わずに、Solaris内でWindowsを飼える仮想環境はこれだけだと思う。Solariをメインで使っていて、時々Windowsを使う人にとっては待ちに待ったソフトじゃないだろうか?

しかもこれの凄いところは、VirtualBox上の仮想マシンがVT-x/AMD-Vをエミューレートしている事である。
つまり、仮想マシン内で、完全仮想化Xenが動くという事である。VT-x/AMD-Vを使ってXenを動かしてみたいけど、高いハード買ってまで試す気が無い人(俺だ)にはもとても朗報である。Solaris使いはXenベースの「Solaris xVM」が試せるわけだ。

また、これをSolaris上でWindowsを動かすために使うのではなく、VmwareチックにWindows上でSolarisやLinuxを動かす仮想化ソフトウェアとして使う人にもとても使いやすい作りになっている。メニューから何から何まで日本語化されているし、仮想マシンで使う仮想ディスクを作るのがとても簡単だったり、ネットワークやUSBを簡単に割り当てたり出来るので、solaris体験してみたい人にはぜひお勧めの一品である。vmware playerよりもはるかに使いやすいように思う。

最近のsolarisは色々な種類があってよく知らない人にはどれを使って良いのかよく分からんやろうけど、サーバーとして勉強として使うなら「solaris 10」、クライアントとして使うならATOKが入って激しくお得な、先端の技術がふんだんに投入されている「Solaris Express Community Edition」がお勧めである。

しかし、仮想化したマシンが完全仮想化に対応しているというのは考えてみるとややこしい話やなぁ…

2008年05月14日

●オーロラ (2006/仏)

amazon ASIN:B000PJZYQQ 踊ることを禁じられた国で、いつも踊りのことばかり考え、父である国王に見られないようにこっそり踊っているお姫様の恋の物語。
監督は過去にパリのオペラ座のドキュメンタリー映画を撮った人である。大抜擢されたバレエ学校の学生が主役で、トップダンサーまでが出演していてなかなかに出演者が凄いらしい。撮影にパリのオペラ座が全面協力したバレエ映画という話だったので楽しみにして観てみた。
まぁそもそも「バレエ映画」というのがよくわからんのやけど、なんとなくミュージカルのようなものを想像して、全編がウィーンフィルのニューイヤーコンサートの中継でウィンナワルツにあわせてやってるようなんをイメージしてたけど、ミュージカルっぽく日常が踊りになったりするわけでなく、踊りがただの踊りで、ストーリー自体として展開してゆくものでないのは残念やった。それにバレエのシーンは思ったより少なかった。

映画としてはとても中途半端な感じであるのはいいとしても、バレエのことはぜんぜん知らないのやけどバレエも中途半端に見えた。映像美を観る映画やとしても中途半端な気がする。
バレエ好きな人から見るとどう見えるのかはわからんけど。

「踊ることを禁じられた国」って唐突な設定はかなりのB級バカ映画っぽくて良い感じである。
「リベリオン」や「華氏451」みたいな無茶なアホアホ社会で、踊りトラウマを抱えた国王が「ステップ一回につき鞭打ち100回」とか「国王の前で踊った奴は死刑」「ぐはは、死の舞踊を踊るがよい!」とか言っちゃうのかと期待したのやけど、そんな事もなくこの設定が全く生きていなかったのが激しく残念。

お姫様は脈絡なく恋するし、平民の前で服脱いで踊りだすし、空中浮遊までする。世継ぎの王子は最後に無茶するし、結局王国は滅びそうな勢いである。
この「踊ることを禁じられた国」って設定と、パリのオペラ座のトップダンサーって良い素材をうまく生かせば良いバカ映画になったのにな。と思った。
って酷い感想やなぁ…

2008年05月13日

●マノエル・ド・オリヴェイラ 「ノン、あるいは支配の虚しい栄光」 (1990/ポルトガル=スペイン=仏)

amazon ASIN:B0007TIQ7S 昨日に引き続きオリヴェイラ監督の映画を観た。昨日見た「神曲」の前の年の作品である。
「ノン、あるいは支配の空しい栄光」ってタイトルは妙に気取ったようで微妙やけど、パッケージに「男性に特有の問題である敗北というテーマについて語っている映画である」てな感じの監督の紹介が書いてあって、うむーと興味を持って借りてきた。
うん、確かに勝ってさえしまえば特に気を使わずに扱える勝利に比べて、敗北をどう取り扱うかは中々難しい問題やね。

ストーリーと言うか、映画の流れは、サラザール独裁政権時代のポルトガルのアフリカの植民地で、兵士たちを輸送するトラックの荷台の上で、大学で歴史学を研究していた中尉がポルトガルの歴史上で重要な3つの敗北の歴史を語って聴かせると言うものである。

具体的には、ローマ帝国と互角以上に渡り合った部族であるルシタニア族の族長ヴィリアトゥスが暗殺され、彼による統一王国の成立が果たされなかった歴史、政略結婚によってスペイン第一王女を妃とした王子アフォンソの落馬による死によって一大帝国を築く野望が潰えた歴史、暴走したセバスティアン1世の無茶な指揮によってポルトガル王モロッコ王アラブ王の三人の王を失う民族規模の損失となった戦争であり、その後ポルトガル王国がスペインへと併合される切っ掛けとなった史上最大の敗北であるアルカセル・キビルの戦いの三つである。

どの三つの敗北もポルトガルにとっては、王国が出来るか出来ないか、王国が一大帝国となるかならないか、王国が存続できるか出来ないかの瀬戸際での敗北と言う事でかなり手痛い敗北の歴史と言う事になる。
中盤に唯一の勝利や征服と言える、キューピットやらニンフやら女神に山上に導かれたヴァスコ・ダ・ガマの詩の物語があるのやけど、妙にちゃっちい再現フィルムのような作りなのが笑けた。
まぁ、この映画を観て初めてポルトガルの歴史なるものをちょっとばかり知ったわけやけど、まぁ確かに「支配の空しい栄光」と言いたいのはよくわかった。
そしてこの三つの敗北の歴史を語り終わった後、兵士たちは今まで語ってきた歴史と同じように、ポルトガル軍として敵である独立運動のゲリラと交戦する事になるのである。恐らくこれが歴史につながる個人としての第4の敗北の歴史と言う含みを持たせているのやろう。

ヴァスコ・ダ・ガマを知っている人は多いけど、族長ヴィリアトゥスや熱望王セバスティアンを知っている人は少ないに違いない。
往々にして、勝者の歴史は勝者が覚えていなくとも周りが覚えているものであるし、勝者や周りは敗者の事を殆ど覚えていないにも関わらず、敗者は自身の敗北の歴史をよく覚えているものである。
「敗北の歴史」を持つものは敗北した者だけであるゆえんがそこにあるのだろう。
しかしまた「敗北の歴史」を持ち続けることは同時に滅び去ってはいない証拠でもある。敗者が滅びる時は同時に「敗北の歴史」が消え去る時でもあるからだ。
そして敗者はポルトガルの民間伝承のように、救世主として現れるであろう「熱望王セバスティアン」を待つが如くに、自らの敗北に対する復讐を望む傾向にあるのだろう。
そしてこの映画では、復活した敗北への復讐の民族的象徴である「熱望王セバスティアン」はかくのごとき運命をたどるのである。

なんとなくフランス映画っぽいふふーんなタイトルで社会派ちっくな内容であるにもかかわらず、とてもわかりやすいメッセージ性があった。
つまりはタイトルそのままというより殆どネタバレタイトルやけど、「支配の栄光」は「ノン」としかならない「支配の空しい栄光」なのである。と言う主張。
そして、支配や占領は何も残さない、残るのは支配した領土に与えた何かだけだ。ポルトガルが残したのは、ローマやギリシアがヨーロッパ世界に残したもののようなもの、ヴァスコ・ダ・ガマを筆頭にした大航海の先人が残したものだけである。というメッセージであろうか。

まぁこの映画とは直接関係無い話けど、何らかの争いや戦争で、勝利や敗北が問題となるのは、何を巡っての争いや戦争であるかと言う事に大きく影響される。
本当にどうでも良い事についての争いや、本当に価値の無い事についての争いについての勝ち負けがどれほど意味を持つだろう。勝ち負け自体を問題にするよりも、何を巡っての争いであるか。こそが問題なのだろう。
いうまでもなく、争う価値のない物についての勝敗に価値の差は無いのだ。

そして本当に価値を見出したものについての争いに勝った場合の対処よりも、負けた場合のへの対処こそが大事なのは言うまでもなさそうだ。

2008年05月12日

●マノエル・ド・オリヴェイラ 「神曲 」 (1991/ポルトガル=仏)

amazon ASIN:B00080KNNG 2008年で100歳になる現役最高齢と言われるポルトガルの映画監督であるマノエル・ド・オリヴェイラが1991年に撮った映画である。

「神曲」というタイトルでダンテ・アリギエーリの同名の叙事詩とも原題が「a Divina Commedia」つーことで同じやけど、内容的には殆ど関係無いように見えた。
とある精神病院を舞台に、聖書の登場人物、アダムとイヴ、ラザロとキリストとパリサイ人、そしてドストエフスキーの『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』の登場人物、ソーニャとラスコーリニコフ、イワン・カラマーゾフとアレクセイ・カラマーゾフ、そしてニーチェ風のアンチクリストな哲学者と白紙の第5福音書を持つ預言者(になりきった人物?)が登場する。

皮ジャンにジーパン姿でバイクに乗って現れるイワン・カラマーゾフが見られるというのがこの映画を観た直接の動機であるけど、映画のオープニングロールがベートーヴェンのピアノソナタの8番で始まり、本編が始まって一番最初のシーンが「ラスコーリニコフ!」とソーニャが叫ぶところでなんか妙なツボ直撃である。

ストーリーはあってないようなもので、盛り上がりも盛り下がりも無く、アダムとイヴが原罪を犯す所、ラザロの復活、『罪と罰』でラスコーリニコフが老婆とその妹を殺し、ソーニャにその殺しを告白する所、『カラ兄』でイワンがアリョーシャに大審問官の物語を方って聞かせるところなどなどが文字通りだらだら演じられ、合間合間に哲学者と預言者の論争が入ると言った感じである。

なんか真面目くさっているように見えるけどこれはドストエフスキー作品のパロディーなんやろうね。表向きのテーマは宗教や神や罪や救いと言ったところなんやろうけど、まぁそれもパロディーなんやろう。ドストエフスキー作品の名場面を映像にしたかっただけちゃうん。という気がしないでも無い。
正直に言って『罪と罰』と『カラ兄』の該当シーンをちゃんと知っていないと奴等が何をやっとるのかさっぱり分からんやろう。知ってても眠いくらいやし。

アダムを誘惑したイヴが、アダムに迫られるととたんに私は聖テレジアやと言い張りどっちにしろ「法悦」やら「恍惚」系やん。でもってアダムがそんなイヴに困惑するところが変にリアルで可笑しい。
この映画の私の中での目玉、アリョーシャに大審問官の章を聴かせるためにイワンが皮ジャンにジーパン姿でバイクに乗って現れるんやけど、アリョーシャが変なオッサンなのに比べて熱く語るイワンは妙に好青年で可笑しかった。でも米川訳でも亀山訳でも「全てが許されている」とされている部分を「全てが可能」と訳すのはいかがなものかと思った。
それに何より、パッケージ写真にもあるように、ソーニャがイメージとぴったりの上にとても可愛らしくとても良い感じであった。

邦題やと「神曲」やけど、原題の「a Divina Commedia」はダンテの同名の叙事詩から切り離して、文字通りの意味としてとらえてくれと言う事なんやろうね、つまりは「一つの神聖なる喜劇」として。この映画の終わり方も如何にも劇でした。と言わんばかりやったし。
禁断の木の実を食べるところから物語が始まって、ラスコーリニコフが大地に伏して許しを請う所で物語が終わるので、まー言いたい事はなんとなく分かるような気もするけど、まーそれもパロディーやろうね。真面目に考えたり難しく考えたらあかんと思った。

あー変な映画やったなーと言う感想でした。

2008年05月11日

●ヴェルナー・ヘルツォーク 「フィツカラルド」 (1982/独)

amazon ASIN:B00005NO7F  天然ゴム景気に沸く19世紀末のペルーのアマゾンの奥地で、鉄道事業の失敗で破産して細々と製氷業を営む、オペラを何よりも愛するフィツカラルドという男がいた。
彼はジャングルの奥地にオペラハウスを建設すると言う壮大な夢を叶えるため、まず手始めに莫大な富を得るためのゴム農場を手に入れようと、秘策を練って手付かずに残っている危険な滝と瀬と凶暴な先住民に阻まれたゴムが生い茂るジャングルの奥地を目指す。
彼は娼館を経営する恋人の援助によって、巨大な蒸気船を手に入れ、その恋人の名をつけた蒸気船を駆って一癖もふた癖もある乗組員と共に無謀な冒険に繰り出す。というもの。

最初にタイトルを見た時は「フィツカラルド?フィッツジェラルドでなく?」という疑問を持ったけど、主人公の男の正式な名前は「フィッツジェラルド」で、それをペルー風に発音すると「フィツカラルド」と言う事らしい。

そのフィツカラルドをクラウス・キンスキーが演じるわけやけど、誇大妄想にとりつかれた狂気じみた男がアマゾン奥地を目指して探検するってところは「アギーレ 神の怒り」に似ていない事も無いけど、主人公は鎧と兜ではなく白いジャケットとパナマ帽を身に着けているし、先住民を攻撃したり部下の首を切り飛ばしたりしないうえに、平和主義者で彼女には優しいのでだいぶ違う人間に見える。
それでも、部下たちが愛想をつかして逃げ出すほどの彼の滅茶苦茶な強引さと狂気という点で見れば大して変わらないだろう。

物語の中盤から終盤にかけて秘策によって川から川へ巨大な船を移動させる事になるのやけど、そのあたりは「水曜スペシャル」ではなく「プロジェクトX」という感じであろうか。
この撮影当時はCGも特殊効果も無かったので、スタッフは実際にこの作業をやってのけたらしい。
滅茶苦茶な土木作業といい自然破壊といい、今は映画を撮るだけのためにこんな事絶対できんやろうなぁ。実際この映画の撮影はとんでもないくらいに大変やったそうだ。
こんな滅茶苦茶な撮影をやってのける監督、ヴェルナー・ヘルツォークこそが狂気に駆られた誇大妄想家であるアギーレでありフィツカラルドなんやなぁと思った。

船首に置かれた蓄音機からオペラを流しながら、巨大な蒸気船が黒い煙を吐いてジャングルの奥地の細いアマゾン川の支流を遡るシーンは中々に美しかったし、最後の最後で自分の村に返ってくるシーンは中々に感動した。
こういう気概で仕事が出来たり人生に臨めたら良いなぁと思った。この映画を観た後、なんとなく「地獄の黙示録」が観たくなって来た。

2008年05月10日

●ヴェルナー・ヘルツォーク 「カスパー・ハウザーの謎」 (1974/独)

amazon ASIN:B00005NO7I 小さいころから背が立たないほどの狭さの陽も射さない地下牢に長年閉じ込められていた青年が、人間的な感情も欲望も言葉も無い状態でひとつの言葉と1つの文字だけを教えられてその地下牢から外に出される。
外界へ出た彼は何にも一切興味を持たない何をされてもされるがままの全く意思の無い木偶のようであったけど、徐々に感情を発達させて言葉を覚えてゆく。彼の周りの人たちは彼を見世物にしたり社交界に引っ張り出したりするが、彼は徐々に人間らしくなってゆく。というもの。

映画を観終わった後に調べて初めて知ったことやけど、この地下牢に育った「カスパー・ハウザー」なる人物の話はヘルツォークの創作ではなく、日本ではマイナーなやけどヨーロッパでは中々メジャーな実話であるらしい。

この映画はヴェルナー・ヘルツォークが「アギーレ/神の怒り」の次に撮った作品であるけど、「アギーレ/神の怒り」がとても強い我と欲望で突き進む狂気に囚われた男を描いていたのに対して、この映画は全く欲望と意思だけでなく我の概念すら無かった男が我を得ることで世界と自分のギャップに苦しんで悩む話であった。
たしかに謀反を起こしてエルドラド征服を目指すコンキスタドールと一人の子供時代を地下牢で過ごしたナイーブ過ぎる青年の話、と考えてみれば両極端な話なのやけど、どちらも人間としてなにかしらの極端な形の1つであることは間違いないだろう。
余りにも極端で特殊で個別的な例を挙げることで逆に何かしらの一般性や普遍を表すような帰納的な手法は私の好むところである。とか思ったけど、まぁ大抵の映画はそうやね。

人間としての証である「感情」や「知」が人間にとって肯定されるべきことであるというのはどちらかというと無条件的に認められる事のようになっているけど、楽しみや喜びの原動力であるはずの「感情」や「知」があるがゆえに、逆に苦しみと悩みも生まれるという事は大抵の人が経験的に納得することでもあるだろう。「感情」や「知」あるいはその両方を暴走させて破滅や不幸への道を歩む人は多い。

この映画で描かれる、地下牢を出た彼が人間として成長してゆくごとに楽しみや喜びを得るのではなく、苦しみと悩みこそを深めてゆく様がなんとも辛かった。
なんとも妙な余韻の残る中々にヘビーな映画であった。

2008年05月09日

●ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟 1~5』 亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫

amazon ASIN:4334751067 amazon ASIN:4334751334 以前から事あるごとに読み直している『カラ兄』を光文社古典新訳文庫から出た亀山郁夫訳の新訳で結構な時間をかけて読んだ。もう何度目か分からん。

難解で長大な小説というイメージの『カラ兄』やけど、新しく出たこの新訳は今までの訳に無い読みやすさということで各メディアがこぞって取り上げ、各批評筋もそろって絶賛して、売れに売れて古典文学では異例のベストセラーになった。

評判をそこかしこから聞くにつれ『カラ兄』フェチの土偶としては是非とも読みたいなぁと思っていたのやけど、やっとこさ読む事が出来た。
訳出するにあたってのコンセプトは「流れ、勢いを損なわない」ということらしく、確かに物語のストーリー展開を重視したようなスピード感のある『カラ兄』だった。以前にこのブログで『カラ兄』については書いたので、ここでは『カラ兄』自体についてではなくこの亀山訳について書いてみたいと思う。

この訳はとても読みやすいという評判やったけど、私が今まで読んできた米川正夫訳と比べてこれが特に読みやすいとも思わなかった。
逆に言うと米川訳を読みにくいと思わないという事やけど、でもそれは私自身がある程度ロシア文学に慣れていてロシア文化とロシア文学の癖をある程度理解しているからこそであろう。
亀山訳はロシア文学で大抵最初に躓く、同じ人物に対する何通りもの呼び名と分かりにくい愛称を、本名やら愛称やら父称やらの何通りもの呼び方をなるべく1つにして分かりやすくする気遣いもなされているらしく、ロシア文学独特の他のごく普通の小説では躓きようの無い部分をなるべくそうならないようにしてあり、ロシア文学に親しみの無い人にとってもそのあたりでも読みやすさがあったのだろう。

本の構成としては1から4章までとエピローグが独立して一冊づつの5巻構成になっているのやけど、それぞれ1から4章までの各巻の解説は今までにありがちな重厚な問題に対する学術的な解説というよりは、『カラ兄』を物語として楽しむための当時のロシア文化案内的なところや当時の社会情勢の解説が多かった。例えばロシアの通貨単位から物価、モークロエで散在したといわれる3000ルーブルを現在の物価に直した額など、中々に良い感じであった。この解説のおかげでとても楽しく『カラ兄』が読めるだろう。
しかし、驚くべきはエピローグの5巻で、エピローグ自体の内容は前半40ページほどで、残りの300ページ超は訳者による各巻の解題・作品解説といった文章である。
ドストエフスキーの名を冠した本の360ページほどのうち9割近くがドストエフスキーではない訳者の文章であるという、かなり驚かされた構成やけど、中々に読み応えがあって面白かったのでそれはそれでとても良かった。もうこんな読ませ方は殆ど騙まし討ちやけど、こうでもして読まされる価値は十分にあるだろう。ドスト氏のポリフォニー性の話と、アリョーシャの悪魔性の話が面白かった。勢い余り過ぎて書かれなかった未完部分の第2部を予想しているのはちょっとやりすぎやんと笑いつつも『カラ兄』好きとしてはその気持ちはよーく分かる。

私が今まで読んできた『カラ兄』は米川正夫訳であったけど、それでも、いかにも重厚なロシア文学的な雰囲気が現代風になっているというくらいで、彼の訳と比べて全く違うものになっているとはとても思えなかった。全体としては大して変わらないような印象である。
それでも、当然違う点もあるわけで、一番私が違和感を覚えたのがゾシマ長老のキャラクターである。
亀山訳のゾシマ長老は妙に都会っぽい言葉遣いと雰囲気で、米川訳の田舎っぽく民衆に近い素朴で大らかな懐の広いゾシマ長老と大分違うような気がする。これは私のゾシマ長老像とかなり隔たりがあった。
後、これは訳者がアリョーシャの悪魔性を解説で書いていたので、恐らくそのニュアンスで訳しているのやろうけど、アリョーシャが天真爛漫で本当の「神の子アレクセイ」な米川訳に比べてちょっと切れ者で皮肉的なように描かれているような気がして微妙に違和感を感じた。それから米川訳で全編に漂っていた雰囲気である、私がドストエフスキー的でロシア的だと思っている、ロシアの民芸品マトリョーシカに通じるような、なんとも言いがたい回りくどくてしつこいような妙な間抜けさというかおかしみがかなり少なかったような気がする。
とはいってもその違和感もゾシマ長老は早々に死んで気にならず、アリョーシャの雰囲気にも慣れてしまった。回りくどくてしつこい間抜けさが少ないおかげでスピード感とシャープさが出ている。

以前の私のブログでも『カラ兄』を

<涙無しには読めない場面あり、もう呆れて笑うしか無い場面あり、気色悪くてぞくぞくするしかない場面あり、キスシーンすら出てこない健全さにもかかわらず、まともな奴は誰一人として出てこない、バカがバカを呼びキティーがキティーを呼ぶ至高の茶番劇『カラマーゾフの兄弟』おまけに「大審問官の章」もついてくるよ。>

という読み方をすれば、通説的な「大審問官」で表されるようなややこしいものではなく、現代にも通じる読み方が出来るだろうって書いたことがあるけど、この訳はまさにそういう読み方を目指したものであるのだろう。読みやすさというか、挫折せずに物語を楽しんで通読することに主眼を置いた訳者の意図は見事に果たされているのであろうし、古典という括りで沈んでしまいそうな『カラ兄』を再びメジャーな所に引き出した意義はとても多いだろう。
この亀山訳の『カラ兄』は最も現代に即した訳であろうし、やはり『カラ兄』やロシア文学を初めて読む人にとっては一番良いに違いないと思う。

ネット上では新訳を巡って旧訳まで巻き込んだ活発な議論がなされている。新訳の是非はそれこそ時間が結論付けることであろうけど、新訳が出ることで旧約の問題点も確かに浮かび上がっていることは良いことやし、新しい訳として何かしらの選択肢が増えることも良い事に違いない。何よりも何かしらカラ兄が話題になっていることはカラ兄フェチとしてはとても嬉しい。

最後に翻訳の話ではなく『カラ兄』そのものの話である。今までこの本をアリョーシャやゾシマ長老に着目して読むことが多かったけど、今回はイワンの色々なものに引き裂かれるがゆえの自分自身から来る辛さや苦しさをなんともいえない切迫感を持って感じた。
また、この本を読んでいる私自身がエピローグでイリューシャの運命に際して一瞬でも自分がこれだけ素晴らしい感情を抱きえた人間であった事を忘れまいとアリョーシャと共に誓い、コーリャや少年たちと共に「カラマーゾフ万歳!」を唱和することはやっぱり何かしらの確認作業であることを自覚的に意識した。
多分私はそれを再認識する為にこの本を繰り返し読んでいるような気がする。という事を今回読んで強く意識した。まさに「カラマーゾフ万歳」である。

って良く考えれば私は原卓也訳を読んでない。とりあえず読んでおかねば。

参考ページ:
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する @ ドストエーフスキイの会

2008年05月08日

●「シーザーとクレオパトラ」(1945/英)

amazon ASIN:B000084TLW ゴールデンウィークが終わっても小出しにしていたゴールデンウィーク映画大会のエントリーもこれで終わり、第4弾はヴィヴィアン・リーが出ている「シーザーとクレオパトラ」である。

紀元前のエジプトに諸国で恐れられているローマのシーザーが進軍してくるという使者が現れ、国中がパニックになる。
クレオパトラはスフィンクスの下でそれとは知らずシーザーと出会い、女王としてローマの軍勢を迎え、女王としてエジプトを統治することとなるも、さまざまな陰謀がエジプトの宮廷に張り巡らされる。という感じのストーリー。シナリオはバーナード・ショウの戯曲をもとにして作ってあるようである。

セットもロケも豪華と言う割には意外にちゃちかったし、ローマの歩兵とエジプト軍の戦闘シーンも全く大した事無い。
恐らくこの映画は、映画史的にというか一般的に今となっては「ヴィヴィアン・リーのクレオパトラ」という一点のみの価値を持つ映画であるのだろう。

しかしながらそのヴィヴィアン・リー演じるクレオパトラの我侭さと言うか自己中というか、独善的で媚売り属性で構ってちゃんで公私混同するわ独立性は無いわりにプライドだけは無駄に高い性格に観ていてずっとイライラに似た感情を抑え切れなかった。
「ヴィヴィアン・リーのクレオパトラ」の魅力を前面に出す映画ならこのクレオパトラの性格付けはいただけないだろう。本当にこのクレオパトラを魅力あるものとして描いているつもりなのか激しく不思議であった。
それとは逆にシーザーの好人物さと器の広さが際立っていたけど、この映画はシーザーを描く映画ではないはずである。
しかしながら、どう考えてもこの映画はシーザーの映画であったし、女官の長である今にもゴスペルでも歌い出しそうなフタタティータやブルース・キャンベル似のシシリーの優男などの脇役が中々良い感じであった。

歴史的にはクレオパトラは策略家で自分の美貌を武器にシーザーを落として彼を後ろ盾にエジプトを治め、シーザーの亡き後はアントニーを射止めて彼を後ろ盾にする。美人で策略家の希代の悪女。という感じやけど、この映画では我侭高慢やけど基本的には天真爛漫な娘として描かれているわけで、シーザーはクレオパトラを好きだったという演出をされていたけど、実はシーザーはクレオパトラを思うままに操り、見事にエジプトを平定した。と言うちょっとした別の歴史解釈という事にもなるのだろうか。
良い素材を使いながらも、なんとも中途半端な印象の映画であった。

でもまぁそう感じるのはまともな歴史巨編として観ようとするからである。
ノーベール文学賞作家のシナリオを余りに中途半端な映画に仕立て上げるところなどはとてもB級冥利に尽きるような気がするし、B級映画として見ればその中途半端さも中々の味なのではないだろうか。

2008年05月07日

●ジョン・ブアマン 「太平洋の地獄」 (1968/米)

amazon ASIN:B0002I86KQ ゴールデンウィーク映画大会の第3弾は「太平洋の地獄 」を。中々に強烈なパッケージの三船敏郎に釣られて、殆ど三船敏郎が出ていると言う理由だけで、思わず借りてしまった。
南国の無人の孤島でタフに生き抜く日本兵の下に米兵が漂着する。彼らは飲み水や食べ物を巡って、お互いを捕虜にすべく争うが、やがてこの島を脱出するために力をあわせて筏を作りはじめる。そして二人を乗せた筏は環礁を出て外洋に出る…という感じのストーリーである。

登場人物は三船敏郎とリー・マーヴィンのただ二人だけ、二人芝居が延々と繰り広げられ、このパッケージを見ただけで感じる様な暑苦しさが全編通して漂っていた。
「南の島のフローネ」とは凡そ対極の「南の島のミフーネ」であった。
ただ、フローネ同様に彼らはそれなりに楽しそうであり、タイトルの原題の「Hell in the Pacific」という割には全然地獄には見えんかった。
しかしながら、この暑苦しい男二人のみで延々続く映像の暑苦しさは観るものにとってある種の地獄ではあるかもしれない。

前半はゲリラ戦の手法で展開される子供じみた意地の張り合いと食べ物と水を巡った喧嘩が、後半は二人が筏に乗って島を脱出するところが見所であろう。
マニュアル人間のリー・マーヴィンが野生の勘で突き進む三船敏郎に励まされたり諭されたりする所が中々に微笑ましい。しかしながら三船敏郎は日本語で、リー・マーヴィンは英語で喋ったり罵り合ったりするわけで、お互いがお互いに何とか伝えようとする意思が全く見られず、肝心なところが全く通じていなさそうなところが妙に可笑しかった。
そして何よりこの映画のオリジナルのドリフのコントのようなラストに呆気にとられた。なんだこの終わり方は…

無人島でサバイブする野性味溢れたむやみに叫ぶ三船敏郎が良い感じである。やっぱり三船敏郎は侍か日本兵がよく似合うと思った。

2008年05月06日

●トッド・ブラウニング 「フリークス」 (1932/米)

amazon ASIN:B000E6G0GI ゴールデンウィーク映画大会の第2弾、フリークスを観た。
サーカスの見世物小屋の話で、小人症から無肢症、結合双生児に小頭症などなどの「フリークス」な役者達が登場する。
中々にショッキングな映像ということでイギリスでは放映禁止になり、アメリカでも観た人がショックで次々と倒れて、問題ありげなシーンをことごとくカットして放映されるも商業的にも全く成功せず、「魔人ドラキュラ」などのアメリカン・ホラーの黎明期を支えたトッド・ブラウニング監督はこの映画を撮ったおかげで完全に映画界から抹殺されてしまったと言ういわく付の映画である。

ストーリーはサーカスの見世物小屋で花形の美しい空中ブランコ乗りが小人症の男を戯れに誘惑して貢がせ、彼が膨大な遺産を相続したと知るや結婚して毒殺しようとする。そしてそれに気付いたフリークスたちは仲間の男を救うべく行動を開始する。というもの。

本物のフリークス達が登場するカルト映画、なる位置づけの前評判を散々聴いていたのでかなり気合を入れて観たけど、実に昔風の分かりやすいストーリー展開で勧善懲悪となる単純な映画であった。
この映画がショッキングであると言うのは登場人物が「フリークス」というところのみ因るのだろう。
確かにストーリの展開上、登場人物が「フリークス」である必要は無いと言えば無いかもしれない。

しかしながら、実際彼らは本当のサーカス団の芸人たちであり、彼ら自身は誇りを持って見世物となり自分達の仕事をしているわけで、雨降る暗闇の中を得物を持って群がるシーンや主人公の男のしてやったりとばかりの悪徳そうな笑みを浮かべるシーンは中々鬼気迫る恐ろしいものがある。そこのところは彼らの役者としての存在感意外の何者でも無いであろう。

とかく人権問題とかなんやかやでこの映画をタブー視するか褒めるかの二極化が進んでいるように見えるけど、この映画が映画としてそれほど面白いとはやっぱり思えない。どうしても、この映画の冒頭と最後で言っているようにこの映画自体を「見世物」として見せる方向性が強いように思う。

監督のトッド・ブラウニングは昔サーカス団にいたがゆえにこういったフリークスたちと親しく、彼らに親近感を持ってこの映画を撮ったことは確からしい。ゆえに少なくともこの映画を撮った意図は純粋な「見世物」では無かったのだろう。
それでも彼らを使って映画を撮るからには、彼らをただの見世物で終わらせないために、本当に映画として面白く撮るべきであったと思う。
映画としての面白さが薄いが故に「フリークス」の部分が浮き出してきたわけで、この映画が映画として本当に面白ければまた違った事になっていたのだろうなと思った。

●「チャイルド・プレイ チャッキーの花嫁」(1998/米)

amazon ASIN:B00005QYPP ゴールデンウィーク映画大会と言う事で立て続けに映画を観たのやけど、まず最初はチャイルド・プレイシリーズの4番目「チャイルド・プレイ チャッキーの花嫁 」の感想をば。

チャッキーとしてグッド・ガイ人形に乗り移っていたチャールズ・レイを蘇らせるべく、彼の過去の恋人ティファニーはグッド・ガイ人形を盗み出して復元する。チャッキーはなぜか自分に復讐しようとしたティファニーを返り討ちにしてティファニーの魂を人形に乗り移らせる。
夫婦となった二人は新たな体を得るために必要となる魔法の首飾りをチャールズの墓まで取りに行くべく殺戮ハネムーンに繰り出す。と言う感じのストーリーである。

観る前からホラーではなくコメディーである事は分かっていたはずやけど、死んだ彼を愛し続ける事でずっと自分自身を縛って来たゆえに、自分自身がその呪縛から逃れるため、自らの手で彼に復讐せんとして、愛するチャールズを蘇らせるのだ。と言う冒頭のティファニーの何とも複雑な女心にうーんと唸る。これは中々侮れん映画かもしれん。

欲求の方向性や欲望充足の優先順位で人間を見ると(人形やけど…)、チャッキーもティファニーも第一番目に「殺人」が来るのだろう。愛は二の次にして殺人をもっとも優先度の高い欲求として希求する二人は確かにお似合いと言えばお似合いである。まぁお互い殺しあうのが最高の愛情表現な訳やしね。巻き込まれる人間は災難やけど、端から見れば面白いながらも勝手にしやがれ!である。

例のごとくチャッキーだけでなくティファニーも楽しそうに殺戮を繰り返すわけやけど、シリーズ4作目にしてチャッキーは縫い目のある凶悪な顔になってより凄みを増したものの、殺しのテクは顔に不釣合いなくらいに平凡である。それに引き換えティファニーの主役を食うような活躍ぶりがとても良い感じ。中でも、ウォーターベッドで戯れるカップルに天井の鏡を割って割れたガラスの雨を降らせる。という恐らく今までのチャイルドプレイシリーズ随一の素晴らしい殺戮シーンにとても感動した。これをコメディーではなくちゃんとホラーとして撮ればとてつもない映像になったやろう。

と、大層な事を書いたけど、チャッキーが出てればそれで満足なチャッキー好きにのみ意義のある映画やろうと思った。
人形版「勝手にしやがれ」と言ったところやね。

2008年05月05日

●黄色い梅酒/解体ショー

この間結婚した大学時代の友人の家に皆で群がろうという事で、クロダイと限りなくツバスに近いハマチとベビーホタテと黄色い梅酒とMy柳葉と出刃を持って参戦。
久しぶりの解体ショーであるけど、彼らの前での解体ショーは初めてではなかろうか?段差が無く広いシステムキッチン(というのだろうか?)はとても使いやすく、料理がとても楽しかった。
gojoumesyu.jpg良い台所で黄色い梅酒を飲みながら魚を捌いていればそれだけで幸せである。写真を撮った時点では殆ど残っていないけど、この黄色い梅酒は中々に美味しかった。

ハマチは特に凝らずに全部お造りに、クロダイは巨大な卵巣が摘出されたので「鯛の子大好き!」というツレの嫁のリクエストでこれだけが単体で煮付けにされる。中が半生のミディアムレアで大丈夫な鯛の子なんて中々食べられるもんじゃ無い。これは美味しかった。
クロダイは片身を通常のお刺身に、余った皮を湯通しして葱と一緒に刻んでポン酢しょうゆで味付け。もう片方の身は霜皮造り、大量のアラはアラ炊きと潮汁に。
ベビーホタテは胡椒とパセリをふってワンカップ大関で酒蒸しに。

子持ちと言う事でクロダイの身はちょっとスカスカ気味の微妙な感じやったけど、ハマチとペアで出したので味の濃淡が出せて救われたし、鯛の子は良い感じやった。
それからやっぱり潮汁は外れ無しに美味しいなぁと思った。

syokutaku20080505.jpg皆が作ったり持ち寄ったりした散らし寿司やらヘルシオから揚げやサラダ、燻製やらたこ焼きやらドーナツとあわせて中々豪華な食卓であった。なぜか宇宙食まであったのが可笑しかった。
みんな時間どおりに来るし、十時にはちゃんと後片付けして帰って、とても大学時代の惨劇からは想像できないようなお行儀のよさだなぁと思った。

2008年05月04日

●子供マカロニウェスタンな藤森神社

何年ぶりか分からない藤森神社のお祭りに行った。子供の頃は楽しみで楽しみでしょうがなかったけど、最後に行った記憶が完全に欠落しているので二十年ぶりくらいだろうか。うーん懐かしすぎる。
当時食べまくっていた50円串カツがまだ健在で驚いたものの、私の得意だったうなぎ釣りが無くなっていた。あと、カニ釣り、ひよこ釣り、見世物小屋などが無くなっていたのも時代のせいだろうかね。
うーんしかしこの50円串カツのジャンクな味が懐かしすぎる…卵巻きフランクフルトがちょっと美味しかった。

子供の日前後の藤森神社の屋台は祇園祭とか円山公園とは違って、ピンポイントに子供を狙った屋台がとても多い。
中学生までのちびっ子の間で安物エアコッキングガンの当て物が流行っていたようで、プラスティックのショットガンだのライフルだのハンドガンだのを握り締めて境内を闊歩し、駆け抜けるちびっ子の多い事多い事、よそではあまり見かけない「ヤドカリすくい」と共に、子供マカロニウェスタンな風景は中々にシュールであった。

2008年05月03日

●ヴェルナー・ヘルツォーク 「小人の饗宴」(1971/独)

amazon ASIN:B00005NO7J ドイツ郊外の施設に収容されている小人症の人間達が日頃の待遇に対する不満を爆発させて暴動を起こす。慌てて施設の教師は彼らの仲間の一人を人質に取って建物に閉じこもるものの、余計にエキサイトした彼らは当たりかまわず火をつけ、目に付くものを破壊し、動物を虐待し、盲目の双子を苛め、と彼らの暴走はどんどんエスカレートして行く。
映画としては小人症の人間たちがひたすら楽しそうに暴れまくるだけで、ストーリもなんもあったもんじゃない。
ずっと商業ベースに乗せずに個人上映会でのみ観られていた作品であるらしいのはなんとなくわかる。ある種のタブーにダイレクトに触れているからやろう。

以前からレンタル屋さんで見かけるたびに気にはなっていたものの、なんとなく借りるのを躊躇していた。しかしながらけど、「アギーレ 神の怒り」のヴェルナー・ヘルツォーク監督と言う事でこれは是非とも借りんと言う事で観た。

この映画を楽しめるかどうかは彼らの度が過ぎた悪ふざけを一緒に笑えるかどうかによるだろう。生きたニワトリを物のように投げたり、鉢植えの花にガソリンを注いで火をつけたり、テナガザルを十字架に磔にしたり、食べ物を投げあったり、等と今撮るとかなり問題になりそうな映像がかなり多いけど、小人症の彼らがやる事でなんとなくコミカルな味付けになっているところがミソである。。
言わば生き物や食べ物への虐待であるけど、まぁ映画やしねーと笑うしかないやろう。

何とも言えない破壊衝動が炸裂しまくりの映画であったし、最後の跪く駱駝の前で息を切らせながら無理やりに笑う主人公っぽいおっちゃんの映像が変に強烈であった

2008年05月02日

●黒澤明 「酔いどれ天使」(1948/日)

amazon ASIN:B000VJ2DO6 のんだくれの闇医者の元に闇市を牛耳るやくざ者が銃創の手当てに現れる。ヤクザ者が結核を病んでいる事に気付いた医者は彼に治療を薦めるが、意地を張って素直になれないやくざ者は医者と喧嘩ばかりし、刑務所から出所して来た兄貴分との対立から破滅してゆく…というもの。
戦後の闇市と、ガスの吹き出る沼とゴミ溜の中で暑苦しく濃い物語が展開して行く。

やくざ者を演じる三船敏郎のデビュー作でもあるらしく、黒澤明と三船敏郎の人気を決定付けた作品でもあるらしい。
ネット上ではやたらと評価の高い映画であるし、三船敏郎の魅力を声高に語る声が大きいけど、やたらと説教臭くてそこまで面白い事も無かったし、この映画の三船敏郎はただ子供っぽい意地っ張りなだけで、対して魅力を感じなかった。

黒澤明自身はこの映画を一応ヤクザ批判として作ったところもあるらしく、この映画のようなやくざ者が魅力的であってはいけないと言っていたらしいのやけど、そう言う意味では私はこの映画をストレートに受け取っていたのかもしれない。

やっぱり三船敏郎は時代劇やなぁ。と思った。

2008年05月01日

●ヴェルナー・ヘルツォーク 「コブラ・ヴェルデ」 (1988/独)

この間のチャッキーの呪いでCRTが壊れたので新しくSUNの液晶モニタX7137Aを買ったのやけど、この新しいモニタで始めた見た映画がこれである。

amazon ASIN:B00005NO7H 19世紀末の奴隷制度が終わりを迎えつつある頃、アマゾンの奥地で緑のコブラと言う意味の「コブラ・ヴェルデ」と呼ばれて恐れられた白人の山賊が、資本家に見込まれて600人もの奴隷を有するプランテーションの管理人になり、雇い人の怒りを買って陰謀から白人を見れば殺すと言う暴君の治めるアフリカのある国へ奴隷を買い付けに派遣され、その国で砦の主になり、自ら訓練した黒人達の部隊を率いてクーデーターの中心的な働きをして副王にまで上り詰め、奴隷売買で巨万の富を築き、そして…というもの。
この間観た「アギーレ 神の怒り」同様に、主演のクラウス・キンスキーの孤独に欲望に向かって真っ直ぐ進む男の狂気がとても良い感じである。

彼は金も女も名誉も地位も得られるわけであるけど、それを手に入れても満たされているようには見えないし、なおストイックに飢えているように見える。
彼にとっての欲望は欲望自体の充足にあるのではなく、欲望の対象となるものを征服する事のみを目的としているように見える。彼が自分の抱く欲望に露ほどの疑問も抱かないところは見ていてとても潔いし、そんな欲望から爆発する言動は中々のエネルギーである。
女だけのアマゾネス軍団の訓練シーンや彼女たちを率いて線等に立って王宮に攻め込むシーンはパッケージの写真のようにまさに「狂戦士」と呼ぶにふさわしい。

クラウス・キンスキーの演技はとても素晴らしい。
でもそれだけでなく、ヴェルナー・ヘルツォークの撮るアマゾンやアフリカの自然や風俗はとても美しい、またそういったどちらかと言うありがちな美しさだけ無く、通信のために一列に延々とならんだ奴隷達の行う手旗信号や、細く短い両足を持つ男が手足を使って波打ち際を駆けるシーンの美しさも目を引くものがあった。

プレンテーションのサトウキビの刈り取りに大量の奴隷たちを使い、砦と首都との連絡にその道のりに延々と並んだ奴隷達によって手旗信号を一時間かけて送ったりと、今から観れば大量の人出を使うが故に故に逆に非効率になっている部分がある。
奴隷制度が無くなったからこそ人出を使わずに住むテクノロジーが開発されたんやろうなぁと。なんとなく思った。まぁ映画とは関係ないけど。