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2008年03月31日

●アウグスティヌス 『告白』 山田晶訳(世界の名著 14)

amazon ASIN:4124000944 古代から現在に至るまでのキリスト教の最大の教父であり続け、西洋世界に多大な影響を及ぼした偉大な神学者であるアウグスティヌスの自伝という事になるのやけど、当然「自伝」なるものに良くありがちな自己満足的で自己顕示的なものでない。
自分自身の幼年期から北アフリカの小さな町ヒッポの司教に至るまでの人生と罪をそして彼が今何を考えているかを神と人々の前で告白するという趣旨で書かれた本である。

全体としては十三巻の構成であり、私の読んだ山田晶訳の『世界の名著 アウグスティヌス』では上下二段の500ページ超ととても長く、更にその中のどの一センテンスも油断して読めないくらいに内容の濃い本であった。
アウグスティヌスの『告白』の日本語訳としては岩波文庫の服部 英次郎訳と世界の名著の山田晶訳が有名やけど、カトリック信者であり、かつ前に読んだ氏の著作がとても面白かった事もあり、入手のしにくさははちょっとあったけどあえてこのテキストを選んだ。
この山田晶訳の『世界の名著 アウグスティヌス』はアウグスティヌス自身の著作だけでなく、巻頭にあった山田晶の解説が以前読んだ『アウグスティヌス講話』並にとてもためになって面白いものであった。この前半の解説だけでもとても価値があるだろう。

アウグスティヌスの『告白』としての構成は内容的に大きく前半と後半の二つに分かれていると見なされるのが一般的であるようで、前半は彼がカトリックに帰依する事となりヒッポの司教として今に至る所までを、自分の行いと罪を告白するような形で書かれた十巻までを指し、後半は前半のような一般的な意味での告白ではない、主に創世記についての解釈と彼の解釈が語られる十一巻から十三巻までを指しているようだ。
とはいっても後の世の人がつけた区分である後半の部分も彼からすれば前半で述べられる自分の行いと思いと怠りで犯した罪の告白同様に、現在の彼が神とその言葉である聖書についてどう捉えているかと言う告白になるわけで、読んでいても大きく話が変わったと言う印象を持たなかった。
物語としてニュースソースとして彼の回りで実際に起こった出来事について事実関係のみを情報として得ようとする読み方をすれば前半と後半に大きな隔たりが見られるかもしれないけど、彼がこの書物を書くに至った本来の意図である「告白」として、世界の思想の根底の一角を担う余りにも偉大な彼が一個の弱い個人として語る言葉に耳を傾けるつもりで読めば違和感なくひとつながりの話として聴けるし、その前半部分あってこそ後半の考えに至ったんだと感動する事が出来た。

幼年期と少年時代に関する話の一巻、青年時代について書かれた二巻、カルタゴ時代の恋愛とマニ教へ入信する顛末について書かれた三巻、マニ教の熱心な信者として過ごした時代についての四巻、そして五巻ではそのマニ教の呪縛から脱してミラノに移ってアンブロシウスと運命的な出会いを果たしてもう一度洗礼志願者になろうと決心する様が語られる。三十歳になったアウグスティヌスはますますカトリックを深く理解しつつも、初めの女性との離別の後に見つけられた婚約者が結婚できる年齢に達するまで待つ間に他の女性と関係を持ってしまい、自らが肉欲に深くとらわれてとても醜く弱い存在でしかない事を確信するさまが六巻で語られ、七巻では三十一歳の彼が神については良く理解しながらもキリストについては正しく考えていなかった事が告白された後、八巻では信仰を求めてあがいていた三十二歳の彼が何人かの偉大な宗教者の回心と信仰の話を聴いて、激しい霊肉の闘争の末、導きによって完全に肉欲を捨てて修道士になる決心をする様が描かれる。恐らくこの本で最も感動的な涙なくしては読めない巻であろう。
そして九巻は山荘での信仰のみの生活と母モニカの死について語られ、十巻では現在での彼自身の信仰と自分自身について告白する。
十一巻からは創世紀についての解釈の試みであり、十一巻では「時」について、十二巻では「天と地」ついて、十三巻では主に「三位一体」について自分の知る事を告白する。というのが全巻を余りに短く説明してみた内容である。

冒頭の一巻で、子供の頃に勉強をサボって遊び呆けていました。と自分の罪として告白するところで結構驚いたと言うか、こんな偉大な人がこう言う事を言うのだととても微笑ましかったのだが、我々から見れば、彼が罪にまみれたと告白する時期、例えば遊び回っていた青年時代でさえそれなりの信仰を持っているように見えるのやけど、彼にとって信仰とは自分の存在全てで飛び込むものであると捉えられており、そう言う意味ではアウグスティヌスの捉える信仰とは我々の言うようなチャチな信仰とは桁が違う。
そんなアウグスティヌスが信仰の道に飛び込む事を躊躇させ、最後まで捨て切れなかったのが「性欲」であるところがまた何とも言えない。
山田晶が言うように、たしかに今の我々から見れば彼の告白する欲望としての恋愛は「純愛」に見えるし、彼が決定的に自分が弱い存在である事を確信し、神にすがる意外に道はないと確信するに至った自身の醜さである罪は、最初の「純愛」である女の人と別れ、社会的に地位を固めようと結婚するために婚約者が探されて、その婚約者が結婚できる年齢になるのを待つ間についつい他の女の人に手を出してしまった。と言う事実である。
一般的に今から言えば「ギリ浮気」位のレベルであり、この位どころかもっと見るに耐えない事をしながらも何の良心の呵責も感じず、更に自分の浮気や不倫を何か誉のように語る余りに見苦しい人々すらいるくらいで、今から言ってもアウグスティヌスはそれほど非難されるべきでないと言う考えは大きく賛同できる。

彼は若い頃に肉欲にまみれていたのではなく十分立派で好感の持てる成年であったし、ただ今の世ならスルーされるようなレベルの自分の肉欲と素直に徹底的に向きあったと言う事である。
偉大な人は小さな不幸や小さな罪から大きな事を学ぶし、愚かな人は大きな不幸や大きな罪からも何も学ばないものだ。と言う事であろうか。

彼の感じた良心の呵責と、彼の感じた自己否定と、彼の感じた自己の価値の無さは、まともな男性なら身につまされて感じ、また乗り越えられるべきものであると大いに共感できるであろう。
結局、偉大な思想家である彼の本を読んでみて一番印象に残っているのは彼の余りに偉大で余りに清らかで美しいお人柄と言うか魂である。

私の好きな文学作品の著者、例えばドストエフスキーやニーチェ(も文学者的に見ている)などの場合は、お世辞にも人格的に優れた人間であったとは言いにくいし、恐らくそこには著者を離れた物語性の介在する余地があるからではないかと思うのだが、著者と著作はある程度切り離されて独立しうるような気がする。
しかしながら直接的に自らの思想を語る思想家の場合、彼の思想と人格は密接にリンクしてるのではないか。
パスカルしかり、山田晶しかり、そしてこのアウグスティヌスしかり、偉大な思想家であればあるほどその人格もその思想同様に素晴らしいと最近思うようになった。

彼の余りに素晴らしい人格とあまりにも高潔な魂が、最後の最後まで例えば「性欲」といった余りに卑近でちっぽけに見える苦しみや欲求と戦い、とことんまで打ちのめされた末に神に頼る事で勝利を得た様は、彼が自分の告白で同じ意思に躓く人の助けになるようにと願ったように、多くの人に勇気と力を与えるだろうと思った。

最後に、ちょっと気になった事。十二巻の二十九章に「歌はひびくやいなや過ぎ去ってしまいます」と言う言葉がある。
これは有名なエリック・ドルフィーの台詞と同じのような気がするのやけど、エリック・ドルフィーはアウグスティヌスを引用してたのか?凄いなぁ。と思った。考えすぎ?

2008年03月30日

●非カップル分化圏が心地よい雨の日曜

昼に起きて焼きそばを作って食べる。塩胡椒ベースで味をつけ、オイスターソースで旨味を加える塩焼きそばも中々堂に入って来たと思う。
街に出てCD-Rを買い込んだ後、夕方前からバナナの樹が店先に生えているカフェでケーキとコーヒを。壁の一面全て使った棚に情報誌から絵本から料理本から自転車カタログから旅行本までの色んなジャンルの本がびっしり。カップルばかりの無駄にオサレなカフェと言うよりは一人か友達同士が多いような雰囲気で、なんだか言葉としておかしいような気もするけど、激しくまったりした。
夜からドイツ風ビヤホールな雰囲気を醸し出しているお店に。ソーセージとザワークラウトは良いにしても、フランスワインとチーズフォンデュはちょっと違和感があった。でもまぁ美味しければ何でも良いや。
店員さんが学生バイトではなくおっちゃんで、店自体がオサレな雰囲気を目指す気が全く無いようで、年齢層高めのちょっと落ち着いた客層でとても好感が持てた。
デカンタ一杯分くらいワインを飲んだのでかなりフラフラになったけど、気分の悪さは全く無く逆に気分が良いくらい。なるほどこれが「悪酔い」でない状態なのであろう。と思った。
マッチョなエサ場的なガツガツした雰囲気でもなく、殺伐と喧しい若人のギラギラした雰囲気でもなく、かと言って無意味にオサレでない非カップル分化圏なお店が心地よい年齢になっているのに気付いた。って俺ってもう35やんけ。今更何を…

どうやら私は攻撃的に過ぎ、他人への寛容さが少ないと見えるようだ。たしかに自分でもそう思う。そうでないように努力しているつもりではいるのやけど、それでもカッとしてついつい、そして自己嫌悪。
カッとしたほうもされた方も全く良い事が無い。気をつけよう。

2008年03月29日

●星を見て穴に落ちたくない。と思った洋風野点

アウグスティヌス『告白』の感想を書くためにメモを見ながらちょっと読み返していたのだが、それだけでとても感動した。
例え世界に醜く見るに堪えない人間がいるとしても、いちいちそんな者に関わって心を煩わせる価値は無いし目を向ける時間さえ惜しい。例え書物であっても彼のような偉大な精神に触れる事の方が遥かに有意義で楽しい事であろう。

昼過ぎから今年初めてと言ってももう春やけどのカフェ土偶に出かける。
道中、車でアルバン・ベルグ・カルテットの弦楽四重奏を聴く。ベートーヴェンの弦楽四重奏15番の孤独感と透明感に彩られた静かな至福感が、狂咲く桜のトンネルと化した道路と相まってなんとも強烈な勢いで迫ってくる。
車で走りながら、田んぼの方を向いて路側帯に腰掛けて座りながら楽しそうに喋るギャル三人組を見て「今年のイネの出来具合はどうだろうっぺな?」「良くでけて欲しいだなぁ」「んだんだ」などと台詞を当てはめて遊ぶ。

コールマンのガソリンバーナーでお湯を沸かして牛乳を温め、コーヒとココアを飲みながら山を眺め湖を眺めワッフルの欠片の味見をするアリを眺めダイビングを繰り返すカイツブリ(たぶん)を眺めながらプリンをスプーンで口に運び、ワッフルに噛り付き、マシュマロを火で炙ってを食べる。
日差しは暖かく空は青く湖は凪いで、周りにはカイツブリやアリしかいない。
暖かい陽気に包まれた本当の意味でのオープンカフェとも言えるけど、実際はただ野外でお茶しているだけである。それらしく言えば「洋風野点」ということになろうか。しかし、何とも言えないくらいに気分が良かった。皆も「カフェ土偶」改め「洋風野点」に招待したいなぁと思った。

世や人の矮小さやら醜さに触れて心が荒みそうになったら、書物の中の偉大で真摯な魂や、美しく気高い音楽や、自然の雄大で凛々しい様に触れると何とも気分が晴れてくる。世界も人間も肯定する価値があると思えて来る。
我々の周りには醜いものも多いけど、星空を見上げるまでも無く、すぐ近くに美しいものはたくさんある。

夜空に星を眺めながら歩いていて穴に落ちた馬鹿 哲学者がいたけど、私はそんな偉大な哲学者の抱くような高邁な目標も素質も持っていないので、真似した所で穴に落ちた上に星の事も分からずじまいで似非哲学者として終わりそうである。
「星を見て穴に落ちる」だけがタレスと同じなら、唯の足元疎馬鹿に過ぎないではないか。
私はどちらかと言うと穴に落ちないための哲学が欲しいと思った野点であった。

2008年03月28日

●海に橋はかけられない

昨日、古い先輩を送った。特に仲が良かったわけじゃないけど、共通する部分はとても多いし、言い方は悪いけど、社会的にも心情的にも二人とも同じ「枷」にはまっていた仲間である事をお互いちょっと意識していたような気がする。
彼の行く末を聞き、私が最近読み始めた彼の専門である中世後期の神学者の話を聞かせてもらい、その他色々な話を聞いて何ともしんみりした。

今年度は、先輩も後輩も同輩も去って行く人が多い年であるかもしれない。
色々なものが根本的に損なわれて流れ去って行くかもしれない。
過去にかかっていた橋がいくら焼けてもかけられる限りかけ直せばいいけど、さすがに川が海になってしまえばもう橋はかけられない。焼けた橋に綱を渡してくれた友に幸あれ。

もう会わないかもしれないけど、去って行くみんな、去ろうとするみんな、元気でね。

人気ブログとなると記事をアップするたびにとてつもない量のコメントがつくものやけど、そのブログ主がそのコメントの全てに真面目にお返事を返されている様を見て、そのお人柄に何とも心を打たれると同時に、とても大変そうだなぁといつも思っていた。
そういったブログにコメントを書きたいなぁと思っても、そのままスルーされればいいけど、多分私のコメントにもブログ主自ら丁寧にお返事を下さるだろうから、なんだかそんなお忙しい人に暇人である私への返事で貴重な時間を取らせてしまうのが申し訳ないなぁ。ということでコメントを書くのに二の足を踏んでいた。
とは言いつつも、こちらはコメント頂きつつもこちらからは差し上げないのはとてもとても失礼にあたる(であろうと思う)のでずっと前から気にもなっていた。
しかしながら、最近対岸の火事であったはずが火の粉が飛んできたり熱い風が吹いてきたりする様々な騒動のおかげで色々思う所もあり、思い切ってコメントした。私がそのブログ主をどう思っているのかをどうしても伝えたかったからだ。
そしてやっぱりお返事を下さって恐縮すると同時に、とてもとても嬉しかった。宙に浮きそうなくらい嬉しかった。書いて良かった。

本来の語用を良く知らないうえで、あえてこんな言葉を引用するのもとても失礼に当たるような気もするけど、青二才の言う事なのでなにとぞ御容赦くだされということで、「汝の人格および他のすべての人格の内に存する人間性を、つねに同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行為せよ」というカント先生の言葉をとても意識する近頃である。

2008年03月27日

●「小さな悪の華」「ミネハハ」

amazon ASIN:B00116R1A4 「小さな悪の華」は1970年に公開された映画で、典型的な修道院経営の寄宿学校に住む二人の少女の物語である。こっそりボードレールの詩集を読んでみたり、戯れに色仕掛けで男を釣って見たり、悪魔に信仰告白してみたり、と反骨精神だけが暴走した感じで中々微笑ましい。
反宗教的、反道徳的な内容のために本国フランスでは上映禁止、イタリアやイギリスには輸出禁止、公開されたのは日本とアメリカだけという曰くつきの映画らしい。

確かに教会で貰った聖体をこっそり取っておき、なんか悪魔信仰的な儀式に使ったりするなどカトリックな人にとっては「えーっ」な描写は多かった。
それでもまぁ子供のやる事やからそんなに大した事はない。映画の中でも映画の外でも一番怖くて油断ならんのは必死な大人である。それでも必死な大人に直接的な利害のない離れたスタンスで眺めれば、必死であれば必死であるほど滑稽にしか見えない訳であるからして、少女の怖さと言うよりは性欲に釣られたり、確信的に性欲で釣る大人の醜さが目に付いた映画であった。

amazon ASIN:B000Y0O98A それから「ミネハハ 秘密の森の少女たち」ってのも観た。ネット上ではやたらと駄作と叩く意見が多いけど、余りにも分かりやすすぎるストーリーの割には、最後に頂点として選ばれる女の子が激しくマニアックで余りに分かりにくい所が妙に感心した。

2008年03月26日

●Mac OS X 10.5 Leopard でのPATH

最近仕事でMacを使うことが多いのやけど、独自にインストールしたバイナリにパスを通す必要があった場合、自分のホームディレクトリの.bashrcなどのrcスクリプトに書いてユーザーごとに設定するのじゃなくて、システム環境変数のようにシステム全体として設定したい場合がある。

solarisやったら/etc/profileとか/etc/default/loginとか/etc/default/initでやればいいんやろうと分かるのやけど、MACというかBSDの場合は良く分からん。
ネット上を探してみた限り、ユーザーごとのrcスクリプトで設定するやりかたしか見つからず、システム環境変数やシェルのデフォルト値として設定するやり方は見つからなかったので、macと言えどもUNIXやねんから何とかなるわいということで調べてみた。

で、調べてみた結果、
/etc/profileがログオン時に読み込まれ、そこから/usr/libexec/path_helperが呼ばれ、/etc/pathsなるファイルをもとにしてpathの設定をしているようである。

ということで
/etc/paths を編集し、デフォルトでは

/usr/bin
/bin
/usr/sbin
/sbin
/usr/local/bin

となっている最下行に追加してログオンし直せば問題ないようだ。

確かに、設定の仕方としては分かりやすいけど、動作としては回りくどいような気がする…

でもまぁ 「grep "\/usr\/local\/bin" /etc/*」 って感じでヒットするような作りは探しやすいと言えば探しやすいかもです。

2008年03月25日

●急がないのは結論

「世の中には誤解というものはない。考え方の違いがあるだけだ。」と言ったのは村上春樹だった。
一方で彼は「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」とも言っている。
この二つの命題をあわせれば、「理解というものは、つねに考え方の違いによる異なった捉え方の総体に過ぎない」という事になる。
これが正しいかそうでないかはとりあえずおいておいて、その見方からすれば、例えば、一つの事象を五つの視点から見て五つの真実が見える場合はどれか一つを真実とみなすのではなく。「五つの見方が出来る」とだけ捉えておくのも一つの理解である。とも言えるだろう。

結局それは真実を知る事ではないけど、真実でない事を真実だと思い込む危険を避ける事だけは出来る。
理解することは必ずしも真実を知る事ではない。と開き直るつもりはないにしても、それ以上にある種の便宜的理解として判断保留の立場をとるのに結構使えるんじゃねぇの?などと思った。

でもまぁどうでもいい事に関しては真実など度外視して「一番笑ける説」か「一番エグい説」を積極的に採用するのもおつなものである。だってほんまにどうでもいいやもん。

2008年03月24日

●オタール・イオセリアーニ 「群盗、第七章」 (1996/仏=スイス=伊=露=グルジア)

amazon ASIN:B000EULVJU オタール・イオセリアーニの「群盗、第七章」を観た。
「群盗」と言えばフリードリヒ・フォン・シラーのデビュー作である有名な戯曲なので、五幕からなる構成のこの戯曲の何らかの続きを「第七章」として撮ったのやと思っていたけど、どうもそうではなさそうだ。
戯曲の『群盗』の原題は『Die Räuber』であるけど、映画の「群盗、第七章」の原題は「Brigands, chapitre VII」とニュアンスが違うような気もするし、物語の方向性としても違うような気がする。ネットで調べて見た限りシラーの『群盗』とオタール・イオセリアーニの『群盗、第七章』を関連付けて語っている人も見つからなかった。

ストーリーは監督の故郷であるグルジアの歴史と現在のパリの出来事を断片的に繋ぎ合わせたような感じである。
戦争と陰謀と毒殺と処刑に明け暮れる中世の王、市民がビルの屋上からドラグノフで狙撃され、装甲車と榴弾砲が街を行き交う内戦状態の街をタフに生き抜く浮浪者、革命前はスリだったものの、革命後には密告と拷問と処刑が渦巻く社会の中心に位置する政府の高官となった男、を中心にした3つの時代の物語が断片的に混ざり合う構成なのやけど、それぞれの時代の人間を同じ役者が演じているところが面白い。

映画全体として共産党独裁時代の話が多く、拷問だの密告だのなかなかヘビーな部分が多くて全体的にちょっと暗いような気がする。
時代の移り変わりだの、人間のやってる事の変わらなさだの、色々な要素はあるやろうけど、人間の愚かさとか野蛮さをクスクスっと笑える味付けにしてあるのが良い感じで、面白い映画やった

それからもう一つ今までにないフランス映画の特徴として、ほんの少しやけどパリに暮らす黒人たちが出てくるところではないだろうか。
パリと黒人を同時にフレームに入れるフランス映画を初めて観たのやけど、このへんもちょっと監督の意図のような気もした。

とここまで書いて、権力に反抗する崇高な犯罪者を主人公として描いたシラーの『群盗』と逆説的にも直接的にもちょっと引っかかる要素ありそうやん。と思った。

2008年03月23日

●岡本喜八 「殺人狂時代」(1967/日)

amazon ASIN:B000CFWN62 岡本喜八の「殺人狂時代」を観た。
公開当時のかなりの興行成績の不振で公開期間が短く、某単語が連呼されるが故に地上波で放送される見込みがなく、どちらかというとカルト映画の位置付けをされているらしい。
パッケージの写真と流布する映画の評判「尋常な精神の登場人物が皆無の稀代のカルト映画」なるものから、仲代達矢が追い詰められて精神を病み、勢いあまって銃を手にする。って感じのジメジメしたのを想像していたけど実際は全く違った。

うだつの上がらない水虫に悩む犯罪心理学を教える大学講師である主人公が物の弾みで命を狙われ…
という所から物語りは始まるのやけど、ちょっとびっくりするくらいに二転三転どころか四転五転もする。良く考えればちゃんと伏線も引いてあり、最後の最後までどんでん返しに告ぐどんでん返しで、カルト映画というよりは純粋な娯楽低画としてとても面白かった。というよりは何かのアニメの実写版という趣ではあるのやけど。

最初から最後までドイツ語喋りっぱなしだったはずの天本英世の「スペイン式決闘だ!」の唐突さに思わず笑ってしまった。
しかし「大菩薩峠」と「斬る」を見たいなぁ。

2008年03月22日

●ミヒャエル・ハネケ 「カフカの「城」」 (1997/オーストリア=独)

amazon ASIN:B000LE136U この映画はフランツ・カフカの未完の長編である『城』をミヒャエル・ハネケが忠実に映像化したものであるらしい。
フランツ・カフカは私にとって大好きな小説家の一人であるけど、『城』を読んだのは十年以上前の話なので内容の細部を覚えているどころか殆ど何もかも忘れているのでこの映画が原作に忠実であったのかどうかは良く分からない。
私が覚えているカフカの『城』は村の何処からでも見えるけど絶対にたどり着けない城のイメージと、ただただ息苦しいような閉塞感だけである。

この映画が原作に忠実であったのかどうかは良く分からないけど、不思議な堂々巡りの感覚と当初の目的がすっかり忘れられているところは確かにカフカ的と言えばカフカ的という気もするし、主人公である測量技師Kの恋人と助手の双子の意味不明っぷりは確かにそんな感じやった。という気はする。

一方この映画を文学作品の映像化という見方ではなく、単体の映画として見た場合も中々にぶっ飛んだ作りでもある。「善き人のためのソナタ」のケビン・スペイシー似のウルリッヒ・ミューエ演じる主人公が映画に現れて最初にする事が寝る事であるし、カフカの原作同様に映画もストーリー的に未完のまま中途半端ら所でぶちっと終わる。
主人公が寝る所から始まり、未完のまま突然終了する映画なんか無いのじゃないだろうか?

この映画は劇場公開用ではなくテレビ映画として作られたらしいので、純粋な映画作品と言うよりは「映画で観る文学」的なコンセプトがあったのかもしれない。

で、この映画を観て、カフカの『城』についてネットでちょっと調べてみたのやけど、とても面白いページを発見したので紹介。

overQさんのAZ::Blog「カフカのK(カー)」カテゴリ中でも
「カフカの「城」、完結部分見つかる」と旧版と新版のカフカ全集について書かれた「ふたつのカフカ」を面白く読ませていただきました。

で、その記事によると私が若い頃に読んだマックス・ブロートが編集した版でなく、マックス・ブロートの死後に解禁された、カフカ自身の自筆ノートからのテキストによる全集があるらしい。
その新版から直接に訳出されたカフカ小説全集が白水社から出ているという事でとても読みたくなった。

最近「光文社 古典新訳文庫」とかで新しい訳で古い作品を再評価する試みがとてもブレイクしているけど、ブロート版の旧訳が新しく自筆ノート版からの新訳になって、暗くて重くて深刻で不条理なカフカ像がどうなっているかとても面白そう。
これはちょっと読みたいなぁ。

2008年03月21日

●毎日がevery other day

一日おきに働いて休んで働いてを繰り返すのは中々変な気分だ。朝目が覚めて今日は仕事?休み?と迷うのはちょっと不思議な感覚である。
アラームが鳴って目が覚めても「ふふふふ」と余裕で止めて幸せに浸りながら再び寝入るような確信的平日休みではなく、休みだったか出勤だったか一瞬迷ってしまうところがいただけない。
それよりも休みじゃなかった事に気付いた時のガッカリ感は世界の終わりのようなどんより感でもある。

週末に休みがあるという生活を繰り返していると、休みの日を何かしらの区切りとするような身体感覚がついているせいだろうか、やたらと一週間が長く感じる。
しかもその「働いて」が結構忙しいとなると尚更逆に疲れるような気がする。「毎日がエブリディ」ならぬ「毎日がエブリアザーディ」な一週間であった。

2008年03月20日

●ジャンプ依存症

観ると影響されてジャンプしたくなってしまうらしい「ジャンパー」を観た。観るものに息つく暇を与えず、画面に釘付けにしてしまうほどの面白さの「ジャンプ依存症」の青年の話であった。大義のためでなくひたすら自分の煩悩の為だけに特殊能力を使うというスケールの小ささにとても好感が持てた。
私は非力ながらも頑張るパラディン側をずっと応援していたのだが、予想通りジャンパーを狩る事は出来ずにとても残念であった。
観た後に何も残らない良質の麻薬のような映画であった。娯楽映画はこうでないといけない。

夕食後に行きたい店に行くも、ことごとく「本日ウェディングパーティーのために貸切」で「えーっもう結婚なんかすんなやープンプン」と思い、人間の身勝手さを自分を見る事で教えられた春分の日であった。

2008年03月19日

●自転車馬鹿の毎日

仕事から帰り、長過ぎるMTBのハンドルを切り詰め、雪用に装備していたブロックタイヤを街乗り用のスリックタイヤに付け替えた。以前から銛を作るためにグラインダーを回したりするのは日常茶飯事であったけど、夜中に隣家から聞こえる「ゴリゴリ」というノコギリの音をお隣さんは何だと思ったであろう。
流石に「死体を切断している音」とは思わないだろうが、「何か怪しげなものを作っている」位には思われていそうだ。

この一週間の出勤、休み、出勤と繰り返す飛び石の毎日を踏み外しそうな毎日を生きる毎日の毎日を生きる自転車馬鹿の毎日である。

喧嘩は売り手と買い手がいて初めて成り立つものであると思う。売り手ばかりいても買い手がいなければ喧嘩にすらならないのである。喧嘩を安売りする人もいれば、いくら安くても買わない人もいる。
罵倒でなく因縁をつけるでもなく、問題解決であったり融和を目指して目的的により高次なものを志向して行われる対立はたぶん「喧嘩」とは呼ばない。
喧嘩はするものじゃない、売ったり買ったりするものだと思う自転車馬鹿であった。

2008年03月18日

●梅に鶯

月ヶ瀬に梅を見に行った。
初めて行ったのやけど、そこら中が梅の木だらけであった。
梅だらけであっても全体的に7分咲き以下だからというわけでも無いやろうけど、桜に比べるとだいぶ地味な印象であった。
でも、地味がならもなんとも渋い控えめな美しさは、桜にはない梅ならではの日本的なものだろうか。
とは言っても桜が日本的ではないと言うつもりでも無いのやけど。

鶯の声を聞きながら梅を見ていると何とも風流な気分になって来る。
桜のように派手に咲き乱れて吹雪いて直感的に感情に訴えかけてくるのではなく、梅の美はちょっと理性的なところに訴えかけてくるようなものがある。様な気がする。みたいな?てな感じ?てな事はない、こともない。

2008年03月17日

●無限は始まらない

一日中かかると予想された仕事が午前中に終わり結構余裕が出来た。それでもやる事はいくらでもある。前倒し前倒しで片付けて行っても一向に仕事が減ったように見えない。無限から任意の数を引いても無限のままだと言うのと同じ。いや余りにも大げさすぎるな。うん大げさにも程がある。
仕事が無限であるのではなく、それなりの有限数が無限数に見えるのは私のキャパシティーの問題だ。
それでも「いち、に、さん、し、ご、いっぱぁ~い」と言っていたらしい、6以上が無限大であった子供の頃よりはより大きな数を扱えるようになっているわけである。

余り知り合いにいない業界出身の人や余り話す機会のない人と結構まじめに話した。
ある特定の人を人間一般として捉えるのではなく個々の人間として捉えるととても興味深い。
「自分は大抵の人間より不幸だ」を「自分は大抵の人より精神的に優れている」の十分条件として前提しない話し振りは中々感じのいいものだと思った。

2008年03月16日

●ダニー・ボイル 「28日後...」 (2002/オランダ=英=米)

amazon ASIN:B0000AIRN4  人間の血液を介して感染する、感情や知性が消えて凶暴性だけになるようなウィルスが蔓延してゴーストタウンと化したイギリスを舞台に、生き残った数少ない人が襲い来る感染者たちと戦いながらサバイバルする話である。
一応ゾンビ系ホラーな括りになっているけど、襲ってくるのは「ゾンビ」ではなく「感染者」なのがミソ。
ゆっくりじっくりと恐怖が這い上がってくるようなホラーではなく、どちらかというと包囲された感が持続するモンスターパニックな雰囲気であった。
不意に突然結構なスピードで襲ってくる感染者はゾンビというよりはエイリアンな感じである。
しかしながら感染者は知性を失っているので、エイリアンのように物陰や背後からこっそり襲ったり、尖った尻尾でさくっと刺したりと言った知恵も武器もなく、「ガーッ!」と叫びながら真正面から飛び掛って(あるいは後ろから)噛み付く。というだけなのが中々に微笑ましい。

そんなエイリアン系パニック映画の要素とはまた別に、世界崩壊後の世界でサバイバルするための、外面的にも内面的にも人間の極限状態を描いているという側面があるだろう。
正常である方の人間が感染した人間を何のためらいもなく鈍器や刃物で惨殺し、自分の仲間でさえウィルスに感染したと知るや、マチェットで襲い掛かって切り刻んで瞬殺する。と言ったような、自分が生き残るために一般的に「人間性」と呼ばれるようなものをことごとく廃したある種のエゴの拡大の側面とでも言おうか、ただのゾンビ風モンスターパニックではなく、イギリス映画っぽいというかやたらと暗くて陰鬱な雰囲気が漂っていたような気がする。状況もメディアも違うけど、ポール・オースターの『最後の物たちの国で 』と雰囲気が似ていてとてもいい感じ。でもそれも中盤までで、後半からアクション映画になって来る。

屋敷から逃げ出した主人公が上半身裸で奮闘する様は見た目までそのまま感染者やん。と思うとちょっと可笑しかった。途中からわけわからんくなって来て、感染したほうも感染してないほうも「俺は人間をやめるぞ! 」って感じでした。

イギリス映画にはこのジメジメ感と麻薬がつきものなのやろうか。人間が怖いホラーが一番怖いと常々思うけど、この映画は主人公が一番怖かったような気がするなぁ…
テンポ良く目を離せない面白い映画でした。

しかし、ウィルスに感染してようがなかろうが、映画の中だろうが現実の世界だろうが、自分とは違う人と見るや罵倒して飛び掛って噛み付かずにおれない存在と言うのは中々に難儀やなぁ。

2008年03月15日

●ジャック・ルーシェ 「ゴルトベルク変奏曲」

amazon ASIN:B00005FEJ6 ゴールドベルグ変奏曲が好きなんかグレン・グールドが好きなんか分からん状態やけど、ゴールドベルグ変奏曲を見るとついつい反応してしまう。
ということで「プレイ・バッハ 」が有名なバッハ弾きのジャズピアニストであるジャック・ルーシェのジャズとして演奏される「ゴールドベルグ変奏曲」を聞いた。

ジャズでクラッシックの曲と言えば私の中では「オイゲン・キケロ・トリオ」なのやけど、ジャズとして比べると彼らのパワフルで畳み掛ける様な演奏とは違い、ジャクル・ルーシェ トリオの演奏はとても端正な感じである。
グールドのように暑苦しくなく、マイスキーのようにウェットでもない演奏は、ネット上でよく言われているように「余り面白くない」という事になるのかもしれない。

ピアノトリオの割にドラムもベースも殆ど目だって無いのもちょっとなぁ。クラシックではないけど、ジャズといえばちょっと違うような気もする。中途半端と言えばそうなのかもしれないけど、この立ち位置はなかなか良いと思う。特に第四変奏なんかはジャズやけどゴルトベルク変奏曲やという感じがして中々好きである。

2008年03月14日

●いいえ、ゴドーです

週末の休みだけを待ちわびて毎日を生きるのは余りに味気なさ過ぎるし、気付くとそういう人になっているのも何とも哀しい。と昔はそう思っていた。
しかし今になって思えば、そこにはある種の真理があると思う。多かれ少なかれ皆ゴドーを待っているんだろうなと。

こうはなりたくない。と昔思っていたような者に自分が近づいて来ているのを感じるのは余り気分の良いものじゃない。
それでも避けようの無いものというのもまたあるし、そんな姿だってそう捨てたものじゃない。とも思う。

終業少し前に舞い込んだ仕事の目処を付けているうちにすっかり遅くなった。

2008年03月13日

●明治屋、老兵

無理やりっぽく仕事を切り上げてホワイトデー用の物資を買出しに明治屋に行く。ネタになりつつも意外と嬉しいやん。という物を選んだつもりだ。蜂蜜とかナンプラーとかオリーブ漬けとかパンに塗る黒豆ペーストとか。

私もこの戦場(業界)で言えば既に老兵である。老兵は死なずに消え去るんやんな?などと思いつつも、自分よりも老いた人が同じ戦場(業界)で一兵卒として若い仕官に率いられて塹壕掘りや線路をひいたりしているのを見ると何とも複雑な気分になる。
最近ちょっと余裕が無いな。と思う。と同時にこんな状況ごときで余裕が無くなる自分自身にもチッチッと思ったり、色々な事を色々と反省したりした。

2008年03月12日

●ルサンチマンman

仕事から帰り、ご飯を食べ、なんとなく思いついて11時まで開いている本屋というか雑貨屋というかそんな店に行き、ひたすら「Tokyo graffiti」なる雑誌のバックナンバーを立ち読みしていた。やっぱりこの雑誌は面白いわぁ。
この店には良く来る割に何かを買う事なんか殆ど無いのやけど(何かを買っている人も余り見ない…)、まぁたまには買うかということで一冊買って帰った。

寝る前にお布団で買ってきた雑誌を読んでいて、数組の眩いばかりの高校生カップルのインタビュー記事が草原で腕相撲をしていたり公園のベンチでアイスを食べていたりとそれらしい写真と共に掲載されているの読んで何とも言えない哀しい様な懐かしいような妙な気分になったので殆どフテ寝だ。

関係ないけど、先日紹介した「雛壇」或いは「癒し系HDDデュプリケーター」が115万円もする事が判明して愕然とした。

2008年03月11日

●IT賽の河原

朝、出勤しようとピスト君に乗るとパンクしている事に気づいたのでロードに乗り換えて出勤。
遅くまで働いて帰って来てからパンクしたピスト君のタイヤの修理。チューブラなので中々大変。
パンク箇所を特定し、フラップを剥がし、糸を切り、チューブを引きずり出し、パッチを張り、チューブを入れて縫い、フラップを貼り付ける。と中々大変。で、気づいたら11時前でびっくりした。

この日で二月半ばから始めた某システムのコードの(ある程度の)正規化が完了した。とは言ってもこの仕事が終わるわけではなく、一通り動作確認した後に機能拡張のためのバージョンアップ作業が始まるだけの事だ。

複数の仕事を細切れにして短時間ずつ順番にこなして行くような集中の仕方というか気の使い方が出来るようになって来た。
一日単位くらいの見方で見れば並列に仕事を処理しているように見えなくも無いだろう。
世間で並列して起こるような出来事も、実は直列的な事が並列的に「見える」だけの場合も多いに違いない。と思った。

2008年03月10日

●見た目は「雛壇」で鳴き声は「虫の息」。癒し系HDDデュプリケーター

月曜日、皆が皆、山のように仕事を抱えて殺気立ち、ギリギリのラインで踏みとどまっている様はいとをかし。
多分今までに無いくらい色々な事と色々な要素が重なっている年度末年度始めだと思う。
定時が終わってから自分だけの仕事が始まる。というのは中々にくらくらするものである。

「雛壇」のような構造のHDDコピーマシンが可愛すぎる。
殺気立った空気の中、コピー終了をお知らせする力の抜けるような脱力系ブザー音に和みっぱなしである。

2008年03月09日

●アレクサンドル・ソクーロフ 「エルミタージュ幻想」 (2002/露=日=独)

amazon ASIN:B0000AJG7Q 前代未聞の90分ワンカット、しかもエルミタージュ美術館でのロケを行ったという事でかなり話題になったらしい。
ストーリなんてものは端から無く、19世紀のエルミタージュに迷い込んだ男がフランス人の外交官に案内されるまま、ロマノフ王朝を巡る300年の歴史の端々を垣間見て、エカチェリーナ2世の収拾した美術品を鑑賞し、宮内で催される舞踏会や演劇に参加しつつ現在から過去の入り混じった不思議な幻想のような光景をエルミータジュ内をさまよいながら観る。
という感じである。

まさに「エルミタージュ幻想」というのがうまい事つけた題名やなーって感じやけど、ロシア語の原題を(たぶん)直接的に訳した英題は「Russian Ark」であり、「ロシアの約櫃」または「ロシアの箱舟」という意味になるだろう。

冒頭から余りにも豪華な衣装を身につけて着飾った多くの人物と、余りにも豪華なセット(美術館やしね…)と、見る側の教養と知識を前提にされたような台詞回しに「むむこれは凄いなぁ…」とただただ圧倒され、そういう意味ではまさに「エルミタージュ幻想」である。

しかしながらそれほどロシアの歴史に詳しいほうでもないから目の前に展開する一コマが歴史的にどういう意味を持つのかがそれほど掴み切れているわけじゃないけど、滅んだロマノフ朝やらロシア帝国の歴史であるとか、ロシアの誇る美術品の数々が次々と現れるという所はたしかにロシア人やロシア文化的には「箱舟」やら「約櫃」でもあるのだろう。

特にストーリなど無いのやけど、それでも、案内役のフランス人外交官がヨーロッパの模倣とヨーロッパ性の収集であるエミルタージュに代表されるようなロシア的美を馬鹿にしたり、ペテロとパウロが何たるかを知らずに彼らの描かれた絵を褒める少年にやたらと食ってかかる割には、絵を心で感じる盲目の女性や絵と会話する女性をやたらと気に入るのが妙に印象に残っている。
目の前に展開される光景はたしかに「幻想」であるのやけど、ただ幻想じゃなくって色々な歴史の重みと意義のある史実の一つの見方でもある。しかし美は美単体でも価値を持つがゆえにその意義は美の光でぼやけてくる。
意義を見れば美は見え辛いし、美を見れば意義が見え辛い、と言うわけである。
「関心は美そのもの?美の概念?」と案内者のフランス人外交官が質問する台詞があるけど、「いや両方」と言いたくなる私は失格なのか?失格というよりはどっちもまともに捉えられないよ。と言う事か。

何れにせよひたすら映像に圧倒される映画であった。この映画のように火薬と役者と画像処理ではない別の物に対して金を使う方向性は中々に好感が持てる。
この映画こそ劇場で観たかったなぁと思った。

しかしながらこういった「富の集中」によってしか生まれ得ないものを見せ付けられると、比較的に貧富の差が埋まっている現代の文化はいったい何を生み出しているのだろう?と思う。科学技術くらいの物では無いだろうか?
完全に搾取される側の人間であるけど、極端な身分社会を完全に間違っていると言い切る事も間違いであろうと思ったりもした。

2008年03月08日

●氷の海に眠りたい(1999/仏)

amazon ASIN:B000068WAN アメリの人、オドレイ・トトゥが出ているなんか良くわからんフランス映画の「氷の海に眠りたい」を観た。
パッケージには、冷蔵庫を愛し氷の海で死ぬ事にあこがれる、オドレイ・トトゥ演じるちょっと精神を病んだ若妻が、自分の家の地下から子供の白骨死体が見つかった事を発端に徐々に狂気に蝕まれてゆく様が圧巻!
てな感じの事が書いてあって、キティ系映画大好き人間としては「ウホ!面白そう!」という事で借りて来た。

冒頭からしばらくして「冷蔵庫って猫みたいにゴロゴロいうから好き。うふふっ」っと妖しくもコケティッシュに笑うアメリ(の人)を見て、その冷蔵庫が真黄色なのを見て「むぅこれはたまらん」と期待したのだがそれもそこまで。
そこからはB級っぽいサスペンス刑事物な物語が延々と続き…そのまま最後まで…

なんでもこの映画はフランスではテレビ用の番組であったらしく、かつ原題も「Le Boiteux」と「足をひきずった男」の意味で、過去に足を撃たれた事がトラウマになっている主人公の刑事を指している。明らかに日本での「オドレイ・トトゥ」を中心にした紹介のしかたと全く違う。
事件をきっかけに狂って行くアメリ(の人)を中心にした物語を期待して観たけど、実際はちょっと頭がおかしいけど可愛らしい人が巻き込まれた事件に関わる刑事の人情物語である。アメリ(の人)はちょっとした脇役に過ぎんもんなぁ。なんかだまされた感満開である。

という事で、この映画の良い所はオドレイ・トトゥと黄色い冷蔵庫の可愛らしさに尽きる。
出てくるヒロインの魅力や映画に出てくるモノのみに頼り切ってそれだけで映像を成立させてしまうのはとてもフランス的だと腹立ち紛れに思った。プンプン。

2008年03月07日

●パン、雑誌、たこ焼き、ラーメン

お昼から北山でパン食べ放題のあとの夕方からたこ焼きラーメン大会に参戦。
自転車で現地に向かい、電気屋さんで時間を潰しつつ合流を待ち、たこ焼きとラーメンを食した後に「んじゃ!」っと解散。
なんか高校生の学校帰りのような遊び方でとてもノスタルジックに良い感じである。こういう遊び方が出来るのはいい事だ。と思う。たこ焼きもラーメンも美味しかったし。

北山のパン食べ放題大会後に「ヴィレッジヴァンガード」で立ち読みして見つけた「Tokyo graffiti」なる雑誌が面白かった。
一応、道行く一般人の写真を撮ってファッション雑誌風な体裁になっているのやけど、その対象がオサレな若者だけでなく、巣鴨のお年寄り、客引くアジア系女性、秋葉系ヲタやコスプレイヤーなどと良い感じ。更に別のコーナーで「原爆投下について思うこと」「こころに残っている言葉」「何のために生きていますか?」などというテーマに沿って若者からお年寄りまでの学生やサラリーマンから僧侶などの色々な人に、フリップに書いてもらった答えを一挙公開と中々凝っていた。
ファッションだけ、生活だけ、主義主張だけ、趣味だけと何か一点に特化するのではなく、それらがびみょーにミックスされた雑誌としての作りがとても良い感じ。

私は普段全く雑誌を読まない人間なので、この雑誌が有名なのか無名なのか全く分からんけど、これは久々に定期購読したいなぁと思う雑誌であった。

2008年03月06日

●Outlook

Outlookが便利だと言う事に初めて気づき、週報をOutlookで書く事にした。でもって職場のメールをOutlookで管理する事に決めた。
書いた予定表、メールと電話に使うアドレス帖などはアドエスとPCを繋ぐと自動で同期される。これは激しく便利だ。
まるで良くありがちなデキるビジネスマンのようではないか。

ということで、何かを教えると言う事はすべからく何かを教えられる事でもあると言う当たり前の事実を改めて再認識した日であった

2008年03月05日

●nの集中 (n=任意の価値)

三月から、今まで私が日常業務としていたある程度の事を私でない人に引き継ぐ仕事が増えた。ただでさえ忙しい年度末に今年は更に幾つものイベントが重なり、そのうえ自分の仕事も抱えた状態であるから中々に大変である。
余りの忙しさゆえに教えるより見て学んでくれとか盗んでくれ。と言いたい所だがそうも言っていられない。
ある程度の業務を単独で担当して貰えるようになれば、私はより創造的な視点で発想と行為に注力できるようになるであろう。そしてそれこそが今回の件の本来の趣旨であるはずだ。

一方で全く誰も知らず、全く何も知らないところに飛び込んで来て、訳の分からない事を詰め込まれるのはさぞかし大変であろうと同情する。しかも相手が私とあっては尚更だろう。
前に属していた世界を捨ててまで、この世界へこの立場で来る程の価値が本当にあるのか?と思わずにはいられないけど、それは私が言ったり思ったりする筋合いでは無いのだろう。

「個人の意思の尊重」は一見するととても人道的な概念に見えるけど、使い方によっては完膚なきまでに人を叩きのめすとてつもなくグロテスクな現象を引き起こしたうえに、その責任の所在の矛先をすら変える前提にもなりうるような気がした。

2008年03月04日

●ミヒャエル・ハネケ 「71フラグメンツ」 (1994/オーストリア=独)

amazon ASIN:B000JVS598 ミヒャエル・ハネケの初期作品、「感情の氷河化三部作」なるシリーズの最後にあたる「71フラグメンツ」を観た。
物語の初めに大学生による銀行強盗事件があった事が示されたのち、その二ヶ月前から事件当日に至るまでの数組の家族と数人の生活の日常がが断片的に淡々と描かれてゆく。
ホームレスの子供、娘に邪険にされる老人、子供が出来てギスギスし始めた夫婦、養子を貰う為に施設を回る夫婦、賭けパズルばかりに興じる大学生、などなど、どの登場人物もぱっとしないだけでなく、生活する事自体の苦しさとか閉塞感が妙ににじみ出ていて変なリアルさがある。

やたらと挿入されるニュース映像がとても印象的であるのやけど、こういったニュース映像を映画に組み込む事で映画自体を時間的な区切りにの中において普遍性のようなものを減じさせるのかと言えばそうでなく、逆に時代性というか歴史性なるものを感じさせるのが不思議であった。

「セブンス・コンチネント」「ベニーズ・ビデオ」と同様に行動だけをとって見ればかなり突飛で想像の範囲外にある事をする人間がこの映画にも出てくるわけやけど、その行動を映像の中で見ている限り彼の行動が理解できるし自分も何かの拍子でそういう事をしてしまいそうだ。と思わせるようなところがこの監督の怖いところだと思った。

2008年03月03日

●ぶちっと切り替わった日

数日前に大事に思っていた人間関係が、心情的な方向性とは全く逆に、思いがけなくぷっつり切れていたのを知ったのを切っ掛けに、この日、人間関係であるとか仕事であるとか個人についてであるとか、そんな色々な事に吹っ切れるものがあった。
もう音を立ててぶちっと何かしらかが切れるか切り替わるかの位の勢いである。

言ってみれば、個人性のレベルではいくら稀有な存在に見える人間でも、社会性のレベルでは完全に代替可能な存在であると言う事だ。
自分のいない世界など想像できないけれど、自分がいなくても世界は何の問題も無く機能し続ける。

逆に言えば、世界にとって代替可能不可能な人間が存在すると言う事は世界にとっては損失になる。なぜなら、死なない人間が存在しないが故に、その人間の死によって世界から永久に何かが失われてしまうことが既に決定しているからだ。

社会性の部分の発現としての仕事であるとかなにかしらの人間関係では、自分がいつ死んでも滞りなく自分の持ち場に誰かがすぐにつけるように、少なくともちょっとした労力で自分の代わりが勤まるように準備しておくことの価値は、自分がより高い価値を持つ仕事をすればするだけ高まってくるのだと思った。
一代で終わる文化はただの作品であり、一代で終わる王国はただの統治でしかない。

2008年03月02日

●ネタばれの予兆

amazon ASIN:B000HOL87I オーメン4を観た。前作までの「悪魔の子」ダミアンは登場せず、同じく悪魔の子「ディーリア」なる女の子が登場。
ダミアンの女の子版という事で私としては「ダミ子」と心の中で呼んでいたのだが、「悪魔の子」というよりはただの「いけ好かない嫌なガキ」だった。
最後の最後でどんでん返しというより伏線も何も無い滅茶苦茶なオチのつけ方でびっくりである。
映画全体としてはオーメン1に2の要素を少し混ぜ合わせて8で割ったくらいの、限りなくB級でVシネマな面白さだった…

んな事はともかく、
レンタル屋さんで邦画のコーナーを見ていたのだが、かの有名な「幸福の黄色いハンカチ」のパッケージを観て愕然とした。
amazon ASIN:B000YDBVBU パッケージを手に取って見た時点でネタばれやん!!しかもご丁寧に「もし、まだ待っていてくれるなら、黄色いハンカチをぶらさげてくれ…」ってネタバレの解説と説明まで書いてあるし…映画を観なくても手に取って眺めた時点で全てが理解できるパッケージは如何なものだろう?と思い、「ネタバレパッケージ」は一つのジャンルになりうるだろうとも思った、暖かくて五部咲きの北野天満宮の梅が綺麗な日曜日であった。

2008年03月01日

●三月初めの日

山田晶氏が死去、『アウグスティヌス講話』、アウグスティヌスの『告白』の翻訳と最近氏の本を読む機会が多かった。「しかし、現実にわれわれ被造物の立場からいいますと」ととてもステキな言葉を書く、行間からそのお人柄がにじみ出るような人だった。
早く、山田晶訳のアウグスティヌス『告白』の感想書かんとねぇ。

昼過ぎから古本屋、電気屋、服屋さんを巡って、午後から飲み会に参加する。
全然サプライズじゃないサプライズあり、生まれて初めての赤外線通信によるアドレスを交換あり、店を出てから店員さんにみかんを貰ったのも初めて。前から話したかったり前から言いたかった事を言えてよかった。
しかし、自分自身についていうと、ある程度の歳までなら許された事が、ある歳を超えた瞬間に罪になると言う事はある。ある歳までは魅力として人の目に映っても、ある歳を超えてしまえば醜悪で愚かであるとしかか見えない言動なんかいくらでもあるだろう。
凡そ自らが何物かに否定され拒絶されていると思うものは、自らが何物かを否定して拒否するものでもある場合が多い。と思う。
自己否定は自己をより良くする為の動因としてなされる限り、良い行いであって欲しいと思う。

最近本当に飲み会が多いなぁ。