≪ 2007年12月 | Top | 2008年02月 ≫

2008年01月31日

●Smartyのエラー「syntax error: unrecognized tag」

PHPのフレームワーク「Smarty」を使っている環境でテンプレート内にjavascriptなどを記述して、「{」や「}」を使った場合に
「Fatal error: Smarty error: [********.tpl line ***]: syntax error: unrecognized tag '****************' (Smarty_Compiler.class.php, line **) in /**********/Smarty.class.php on line ******」
って感じのエラーが出てちゃんと動かない。

これは「 { } 」内が自身に渡るコマンドとしてSmartyに認識されたことによるものなので、テンプレート内で文字列として扱いうには、「{」は「{ldelim}」と「}」は「{rdelim}」と書けば良い様だ。

2008年01月30日

●よく訓練されたPHS

無線を標準搭載しているものにあえて有線接続するというのもおかしいと言えばおかしいけど、アドエス用に有線LANのアダプタを買った。
BUFFALOのLUA-KTXなるもので、チップがREALTEK RTL8150のUSB接続である。
このアダプタはUSB1にのみ対応しているので消費電力が少なくアドエス本体からの給電で動作するけど、バスパワーのUSBハブでマウスなどと一緒に使うと電力が足りないようだ。
ドライバの入手先は「BUFFALO LUA-KTX / REALTEK RTL8150 driver on WZERO3es & sigmarion3(2008/01/03)」やけど、ここはメーカーではなく個人サイト。
ありがたい話である。こういう人たち無くしてコンピューター文化は成り立たないやろうね。

ありがたいついでに、ネット上の有志が作成/公開したドライバで使用しているUSBデバイス各種の紹介。

USB > RS-232Cシリアル 変換ケーブル
アドエスでシリアル接続の機器を使う変換ケーブル。私はpocketPuttyや24などを利用してスイッチやSparcマシンのシリアルコンソールのターミナルとして利用している。
土偶の使っているのはelecomのUC-SGT といものやけど、大体なんでも動くようだ。
これさえあれば、アドエスから外部モデムを経由してダイアルアップ接続したりという訳の分からないことも可能。
シリアル好きとしてはたまらない一品
232usb - RS232 USB Serial Driver
2006/07/27

オプティカルUSBマウス
光学式USBマウスでポインタを使うドライバ。
MAC用やボール式のマウスはポインタが表示されなかった。
SB Mouse driver for sigmarion II and W-ZERO3[es]
2006/09/24

USBキーボード、USBメモリはOSにドライバが入っているので標準で利用できる。

しっかし、この機器を全て接続した状態はとても電話とは思え無いなぁ…

2008年01月29日

●不毛のブートセクタへの旅立ち

今まで仕事で色々な用途の自家製ブートフロッピーを作ってきたけど、FDDがついていなかったり壊れていたりしているPCに対応する時に、そのブートフロッピーと全く同じ機能のブータブルCD-ROMがあればと思う事が時々あった。
過去に何度か一般的なライティングソフトでそのブートフロッピーのディスクダンプイメージを元にブータブルCDを作ってみたものの、なぜか起動するPCとそうで無いPCがあったりしてちゃんと作成出来たとは言いがたく「まぁ無くても良いかぁ」で済ませてきた。
今時フロッピーディスクってほとんど誰も使わんし、結局俺しか使ってないやん。レガシーに過ぎる時代遅れなデバイスに頼っててもイカンということで、今までブートフロッピー意外の起動手段は「あれば便利」なものやったけど、この日新年度に向けて仕事で「必要」な状況にほぼ自分で追い込んでしまった。

たとえ進歩を目指したものであれ、長年培ってきたノウハウと伝統の枠外の不毛の地に踏み出すのはとても不安である。しかもその中の世界がほとんど一人で構築してきたものであれば尚更出難い。

しかしながら、そういう風にすっぱり思い切れた自分にちょっと感心した日でもあった。

2008年01月28日

●「オーメン2/ダミアン」(1978/米)

amazon ASIN:B000O76Z58 「オーメン」を観てあんな終わり方やねんから絶対「オーメン2」見たくなるやんかーという事で観た。
ダミアンが13歳になって自分が悪魔の子である事に目覚めた位の話である。
ダミアンの美少年っぷりと悪魔っぷりが中々良い感じやったけど、ちょっと自ら手を下しすぎなんと、自分が悪魔の子である事に悩んでしまうあたりで微妙に萎えた。
「オーメン」のなんともえげつない人殺しメソッドと、えもいわれぬ怖い怖い雰囲気は鳴りを潜めていたけど、それでも氷の張った湖とエレベーターのシーンは怖かった。中々こんな怖い事思いつかんよ…

最初から「オーメン1が一番面白い」という予備知識を入れて余り期待せずに見たせいもあってか意外に面白かった。
というか、この私のツボである「ヨハネの黙示録」満開の「オーメン」シリーズの面白さかなこれは。
取り合えずここまできたら「オーメン3」も観なあかんなぁ。

2008年01月27日

●ブレーズ・パスカル 『パンセ』 由木康訳

amazon ASIN:B000JBBMQ6 田辺 保『パスカル――痛みとともに生きる』野田又夫『パスカル』の二つの入門書で予備知識を仕入れた後、ブレーズ・パスカルの『パンセ』を読んだ。結構前、2007年の年末には読み終えていたのやけど、余りもヘビーな本やったので、感想を書くのがかなり遅れた。かなり長い上にまとまりが無い感想になった。と言い訳をしつつ書いてみる。

ブレーズ・パスカルの『パンセ』なる文書はパスカルの死後に大量に発見された遺稿の中から、いわゆる「護教書」のために書かれた文章をテーマに沿って編集しなおしたものであり、色々な学者の編集の仕方によって内容の違うポール・ロワイヤル版、ラフュマ版、ブランシュヴィク版などが存在するらしい。
私が読んだ『パンセ』は世界の名著シリーズの由木康訳のもので、現在最も一般的となっている「ブランシュヴィク版」からの翻訳である。

「パンセ」なる言葉自体はフランス語で「思想」や「思考」を意味しており、『パンセ』の邦題として『瞑想録』などを使う場合もある。またこの本の中に多く含まれてあちこちで引用されることの多い「名言」のせいで、この本は日々の思いを書き綴った随筆のようなものであるような捉えられ方がされることが多いように思う。
確かにそれは間違いではないけど、この本はただの随筆ではなく、既に信者の人にはその信仰をますます強めさせ、信者で無い人にはキリスト教に勧誘するのを目的として書かれた「護教書」のための草稿集であるということは結構大事な割に忘れられている場合が多いのではないのだろうか。

『パンセ』の初版の正式題名の和訳が『宗教および他のいくつかの問題に関するパスカル氏の諸考察 ― 氏の死後にその書類中より発見されたるもの』であるけど、今となってはその中の「パスカル氏の諸考察」だけがクローズアップされているように思われる。
彼の生涯を考えてみるに、若いころに天才として現代にも残るほどの功績と実績のあった自然科学よりも、人生を賭けて他の全てを捨てて全力で追求するに値するとしてキリスト教の道に踏み入ったわけであるから、彼の熱意は並々ならぬものがあるだろう。

そういう意味でこの『パンセ』を「護教書」であるとして見た場合、この本の内容は至ってシンプルな構成になって来る。簡単に言ってしまえば、世の中にどれほど醜さと苦しみと不条理しかないか、人間がどれだけ弱く、その理性が脆弱で感情が醜いのかを描き、そして神の偉大さと、その神の道を追求することがどれだけ素晴らしいか、そしてその神に人生全てを賭けることがどれだけ素晴らしいか、を語っている文書集ということになるだろう。

世界と人間への深い洞察から数々の名言が生まれ、それらを世界の人々が引用して利用しているということは、つまりはパスカルの世界や人間に対する見方の正当性を示すことにもなっているような気もする。
パスカルの場合はその世界と人への余りにも否定的な認識が神へと向かう原動力と根拠になったわけやけど、我々はその世界と人に対する認識に同意する事は出来ても、神へと向かう事に簡単に同意できるわけではない。このあたりはパスカルも言っていたように信仰に入るのも神の恩恵であると言う事なのだろうか。

パスカルの信仰の目を通して見た世界や人に対する見方は余りにも辛くて読んでいるほうも息が詰まりそうだった。一言で言えば「一切皆苦」であろう。
現在では一般的に良い事とされるような、自然科学や哲学などの学問の追及や特定の人間に対する愛でさえも苦しみや世の中の不条理さから「気を紛らわす」事に過ぎないというくらい、世の中に追求するべきものは何も無い空しい世界であると見なしているし、人間の人間に対する愛でさえ否定しており、人間に対してもその感性や理性や信仰に対してまでも絶望的と言って良い程の見方をしている。「われわれのあらゆる不分明から結論しうることは、われわれの無価値でなくして何であろうか。」という自虐系ダウナーニートブログあたりに良く見られそうな悲痛な言葉をパスカル自身が発している事はなんとも居たたまれない。
それは、信仰に入っても依然として苦しみはあるし、より苦しくなる事すらある事をリアルに表わしている。信仰に入ってしまえば全てが変わって世界は素晴らしいものになるといったような安直な見方を打ち砕くようなものでもあるだろう。

パスカルはこのような世界と自分のありように何らかの価値と意味を付与するには信仰しか無いと言ったわけであるけど、その信仰の対象としての神も、我々にもわかりやすいような「たんに幾何学的な真理や諸元素の秩序の創造者にすぎないような神」ではなく、贖罪の象徴であるキリストを有するキリスト教であるところに意味があると言う。そして人が信仰に入るのは神の恩恵意外に無いと言う事に対して、結局日本人に根付いているような「一切衆生・悉有仏性」な見方からすればなんかちょっと怖いものを感じた。

一旦信仰に入ってもその信仰を守るためにも色々苦労があるわけで、パスカルがそういった信者に対してミサに行ったり祈りを捧げたりと言った習慣的なものとても重視していて、何も考えずに自らに宗教的習慣を課す事で、肉体的な習慣性が精神的なものに結実するような事を言っていたけど、そのあたりの人間の信用の出来なさと無価値の認識が徹底してるなぁと思うと同時に「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」に通じるものがあるなぁと。
宗教となればキリスト教やろうが仏教やろうが相通じて似ているところがあるのは当然の話やけど、最も東洋的な部分と最も西洋的な部分が似ているのはちょっとした驚きやった。

たぶん「たんに幾何学的な真理や諸元素の秩序の創造者にすぎないような神」に対する信仰のようなものなら私も持っているだろう。しかしそういった神はパスカルがきっちり否定しているわけで、信仰に限りなく近いようなメンタリティーを持っていると思っている(と思っている)私が信仰に至らないのは結局神の恩恵が無いと言う事なのだろうか。
この本の世の中や人に対する見方は私にとっては痛いほど共感できるものだった。この本が「護教書」である事を冒頭で書いたけど、そのキリスト教への勧誘の書としての側面は、ここに来る気ならそれなりの覚悟で来やがれ。という風に読めた。しかしながら私は哲学的な救いがあるはずであるという感覚を捨ててはいないし、そこを目指す気概は残っている。
それでも、「プラトンが少数の選ばれた教養ある人士にさえ説得しえなかったことを、あるひそかな力がわずかな言葉によって幾百万とも知れぬ無知な人々に、したのである。」というパスカルの言葉には「うっ・・・」と詰まってしまうやね…

何れにせよ、「世と人に対するニヒリズム」への一人の偉大な男による一つの回答がここにあるだろう。

2008年01月26日

●ミニAミニB切り替え式USBホストケーブル

usbhostcbl00.jpgこの間、アドエスにUSB機器を接続するために、ミニBのケーブルとUSB延長ケーブルからUSBホストアダプターを作ったけど、職場用にもう一本欲しいので作ってみた。
とは言ってもただ前と同じに作っても面白くない上にケーブルを二本無駄にするのもためらわれたのでちょっと趣向を変えてみた。
ピンアサインから言えばミニBの4と5番がショートしているかしていないかの違いでミニA結線になったりミニB結線になったりするわけであるから、ミニBケーブルの4ピンと5ピンにリード線をつけて外に出し、そこにディップスイッチを取り付けてホットボンドで固定し、ミニAとミニBの切り替え式のケーブルとした。

スイッチがOFFの場合はPCとアドエスをActiveSincで繋ぐミニBのケーブルとなり、スイッチがONの場合はアドエスとUSB機器を繋ぐミニAのホストケーブルとなるわけである。
ミニAとしての実際の使用時にはこの写真のようにAメス-Aメスの変換アダプタが必要になるけどこれは便利。

2008年01月25日

●北野武 「ソナチネ」(1993/日)

amazon ASIN:B000UMP1G6 この「ソナチネ」の公開当初は1週間で上映が打ち切られる映画館が出るほどの人気の無さやったけど、欧州に輸出されて、イギリスのBBCの「21世紀に残したい映画100本」にも「東京物語」や「椿三十郎」などと並んで選ばれほどの熱狂的な人気を得た。日本でもとりわけ北野映画をバイオレンス映画として観る向きの人の評価が高いようだ。

ストーリーはヤクザ稼業がちょっと嫌になって来た男が親分の依頼で、繋がりのある組が巻き込まれている抗争を収拾すべく手下を引き連れて沖縄に向かうも、彼たちが来た事で抗争はより激化し、彼らは海辺の家で暑い日差しと碧い海に囲まれて、来るべき「何か」を待つ。というもの。

前々作の「3-4X10月」の発展系と言う位置づけのように、たけしが演じる男のキャラクターと突然訪れる暴力描写と死は健在である。「3-4X10月」でのたけしの演じた強烈な利己性を持った男の役柄の利己性はかなりまろやかになったけど、有名なリボルバーの銃口を頭に突きつけるシーンで感じるような狂気はよりいっそう強烈に強くなっている。
「3-4X10月」では暴力性がとても強く印象付けられたけど、この「ソナチネ」は暴力性よりも「死」の雰囲気がとても強く深く漂っている。暑い日差しと青い海と空といった沖縄的で夏的な雰囲気の中であっけなくあっさりと人がバタバタ死んでゆく様は余りに違和感が無く、夏的な雰囲気とその「死」が不思議なくらい上手く溶けあっている。「キタノブルー」と呼ばれる「青」の色使いも確かに印象的である。
この映画に監督の「死生観」が強く反映されているというのが良くわかるような気がする。

結婚式で深く死を思うように、友人たちやビキニの女の子達と夏に海ではしゃぎ回るシチュエーションに死を感じずにはいられないように、暑い夏と海と空といった絶対的な生の楽しみにその逆の死を深く思う感覚はとてもよく分かる。素潜りで海に潜って水圧を感じながら銛を構えて魚を狙っている時に感じるものはそれを一人の方向にシフトさせたものである。それらは日常をちょっとだけ踏み越えた先に無限に広がっている世界でもある。と私は思う。

そういう意味でも、この映画のパッケージ画像である、ダイバー達の一二を争う人気魚であるナポレオンフィッシュが、水中銃のシャフトに貫通されているという、ミーハーなスキューバーダイバーなら発狂しそうな「矢ガモ」的なニュアンスのある図柄はとても象徴的である。
ハコフグだけは可愛すぎて撃てないけど、マンタだろうがナポレオンだろうが水中で出会えば容赦なく銛を撃ち込むぞと密かに思っている土偶にはなんとなく複雑な気分にさせる画像である。

「鬱映画」と言われるように、奥の方に深く突き刺さるようなとてつもないダウナー系映画であった。

2008年01月24日

●北野武 「3-4X10月」(1990/日)

amazon ASIN:B000UMP1FM 北野武の「3-4X10月」を観た。
前から見ようと思っていたのになぜか機会が無かったのやけどようやくにして観る事が出来た。

ある無気力でぼんやりした男がヤクザに因縁をつけられた事を発端に、その男の所属する草野球チームとその暴力団が抗争を始める。その男は友人と銃を買うべく沖縄に旅立ち…という話である。
と書くと如何にも娯楽映画的に面白そうやけど、「難解で不条理なストーリー展開」という世評どおり、本筋からすっかり脱線したような話が淡々と続く。

しかしただ淡々としているだけでなく随所にシュールな笑いと突然訪れる暴力やとか死がちりばめられていて、淡々としている割に安心して見ていられずなんともいえない緊張感が全編を通して漂っている。
なんかこんな不思議な映画初めて観た。

柳ユーレイのやる気も覇気も能動性も無い言われた事だけをする無気力な主人公にかなりびっくりしたけど、その他の登場人物の誰もがリアルに怖かったり不気味だったりする。
中でも、たけし演じる沖縄のヤクザのキャラクターが強烈やった。利己性にのみ貫かれた、サドですらない暴力性は圧巻である。余りの暴力の突然さが余りに日常に溶け込んでいてなんともいえない気分になる。

淡々として静かな雰囲気であるがゆえに暴力と狂気がとても引き立っていた。
んでもってそんな暴力や狂気は自分たちの直ぐそばにも当間のように漂っている事を感じさせるような、なんとも強烈な映画やった。

2008年01月23日

●自作USBホストアダプター

usbhostadp.jpg
アドエスにUSB機器を接続するためのUSBホストアダプタを作った。

これでちゃんとUSBメモリやマウスが使用できた。たぶんUSBキーボードも利用できるだろう。ものの情報によるとプリンタやジョイスティックも接続出来るらしい。
実際これにマウスやキーボードやUSBメモリを繋いで使う事なんかほとんど無いやろうけど、デジカメからデーターをアドエスに退避させる事が出来るのが一番実用的な気がする。
ん、まぁちょっと汚いけど…キーボードもちゃんとスライドするし。

A端子メス-ミニA/B端子オスのアダプタなので、真ん中で切断したA端子の延長ケーブルとミニBのケーブル同士をA端子メス-ミニBオスの状態で、赤-赤、緑-緑、黒-黒、白-白と同じ色に結線すればいいだけのような気もするけど、ネットで拾ったピンアサインによると、ホスト側のミニA端子は4と5ピンがショートしているので、A端子メス-ミニBオスだけでは使えない。
そこで、ミニBの端子のハウジングを分解して黒線GNDの4ピンを5ピンにハンダなり線でショートさせておけば、ミニA結線のミニB端子となる。完全に仕様を無視したモノやけど。

ケーブル同士で繋ぐとちょっとかさばる上に芸も無いので、ミニB端子部分を分解してハンダ付けし直し、ホットボンドで固めてA端子メスのハウジングと一体化させてみた。

でも、これはこの間の充電器とは違って下手すると一瞬で機械壊すから、素直に「USBホストアダプタ」なり「USBホストケーブル」を買うほうが絶対良いと思う。
作っておいて言うのも何やけど…

2008年01月22日

●アドエス、W-ZERO3メールの「送受信」へのショートカット、その2

この間MortScriptでW-ZERO3メールの送受信をするスクリプトを紹介したけど、これはW-ZERO3メールを起動後にキーコードを送ってメールの送受信コマンドをメニューから選ぶという、どちらかと言うと洗練には程遠い泥臭いコードやった。
しかしながら起動しているプログラムに対してMortScriptで「コマンドID 」を指定してコマンドを送りつけてやればその機能が実行出来るらしい。
そこで、以前のメニューを選んでキーコードを送っていたメール送受信スクリプトをこの「SendCommand」で実装すると、


Run("\Windows\STMail.exe")
WaitForActive("W-ZERO3メール", 5000)
SendCommand("W-ZERO3メール", 2568)

の三行で済む。これはエレガント。
ちなみにコマンドID2568は「送受信」で「"受信」は2558、「送信」は2567である。

ここでプログラムのコマンドIDはどうやって調べるのか?という問題になるけど、これは簡単に調べられる。実行形式のファイルをダンプして文字列を検索するだけ。
一応リバースエンジニアリングになるので詳しくは書かないけど「DumpRC」なるソフトを使えばあら簡単。

2008年01月21日

●アドエスに紙クレードル

アドエスを充電するには本体下部のコネクタに特殊仕様のACアダプタを接続するのやけど、なんともゴムのカバーが引き千切れそうで怖い。
充電台で充電も出来るように端子も二つあるけど、充電台は別売りらしくちょっとムカツク。
折角本体をタダ同然で手に入れたので充電台にお金を払うのはなんか負けた気がするので作ってみる事にした。
どうせ5Vを本体下の端子に接触させるだけやろうし当初は紙粘土で作ろうと思っていたのやけど、ネットで調べると同じような事を考える人は多いようで、台の紙型まで公開されていた。ありがたや。
「紙クレforアドエス」

ades00.jpgades01.jpg
部品はACジャックとなぜか家にあったJ-PHONEの充電器から接点周りの部品を取り出して小さく加工したものを使用した。 倒れにくいようにこれもそのあたりの鉄板に両面テープで貼り付けてます。 電源は転がっていた電圧5Vで電流1AのACアダプターで。 純正ACアダプタと同じ電圧と電流なので大丈夫でしょう。

テストのつもりで作り始めたけどうまく行きそうやったので途中から本気に。しかしながら最後の最後で接点を可動式にしていたのを忘れてホットボンドで固めてしまった…
ドライヤーで溶かして動くようにした頃にはもう台はボロボロに…
でもちゃんと充電できるし…

いっちょ私もやってみようという方は自己責任でね。

2008年01月20日

●リチャード・ドナー 「オーメン」 (1976/米)

amazon ASIN:B000FGG2PQ 今まで見る機会は何度もあったはずやけどなぜか観ていなかった。
「獣の数字666」やら「ダミアン」をネタ的に不吉なものとする文化の発祥もとの映画であろうか。
直接的にホラー的なシーンは数少ないけど、そのシーンのどれもが大概強烈であるうえに、全編を通してゾクゾクするような怖さである。最後の最後も「え~ん怖いよ~」であった。

登場人物で顔の怖い人はことごとく怖い人か怖い事をされる人でとても分かりやすかったけど、それが故にこの人どうなるんやろーとハラハラビクビクしっぱなしであった。
今まで見たホラーの中で本当の意味で異次元の怖さである。脚本家だか監督だか知らないけど良くこんな怖い事考えるわー

映像の美しさと音楽の良さがとても怖い。どこかで見たようなシーンがとても多かったのはこの映画が後の映画に与えた影響と言う事になるのやろう。
今となってはダミアンは悪魔の子なのは決定事項になっているけど、実は神父こそ悪魔で子殺しをそそのかしたとも受け取れない事はない。
悪魔がしたとされる殺人がただの偶然だとしたら、この父母は妄想で自分の子を悪魔の子だと思い込んで殺人を犯そうとした事になるわけやしね。
公開当初はそのあたりの含みも加えた怖さがあったんじゃなかろうか。

いずれにせよ、これはとても面白い映画であった。

2008年01月19日

●成長したけど変わらない

久しぶりに古い友人にあった。もう何年ぶりか分からないくらいやけど彼が彼であることには変わりなかった。
考えていることや見ている事やそれらに対するスタンスはお互い全く違うようにも見えるし、それぞれの方向性にそれぞれのやり方で根と枝をめぐらせているのが良く分かった。

昔から日常的に人に聞くことにしている質問で、殆ど初めて私の聞きたい意味でのちゃんとした答えを聞いてとても驚いた。
また、具体的でない問題を具体的なモノのレベルで扱う感覚にとても感心した。
今まで彼にはとても色々な意味で感謝の念を抱いて来たけど、彼の個人性による部分に大してこれほど感心したのは多分初めてかもしれない。
色々なことに対する自分の立場や意見は、それらの内容の是非よりもそれらを持っていること自体に意味がある。という価値の方向性も見た気がする。

逆説的やけど私とは全く違う彼への肯定の念が自分自身への肯定の感覚を生み出すのは不思議である。「自分は間違っていなかった」とか「これでいいのだ」は同時に「これではいけない」という感覚を伴って当然なのだ。
それは人間存在の矛盾ではなく、人間の使う言語が先天的に含んでいる矛盾と表現の限界に過ぎないように思う。我々が言語として意思伝達と思考に使う論理はある特定の「系」や「次元」をのみ表現できる手段に過ぎないのだ。
「成長したけど全く変わっていない」が人間が自力で論理と倫理を用いて目指し得る最高地点ではないだろうか。そしてその人間存在の「全く変わっていない」部分に当たる次元を言語のレベルで取り扱うのは無理かもしれない。
結局我々がそれを問題にする場合、それは取り扱えないものとして論理で受け入れてしまうか、論理を捨ててそこを目指そうとするかの二つの対応しか出来ないのじゃないだろうか。

ワインをハーフボトル1本以上の量は飲んだだろうか。私にしては致死量ともいえる量を飲んで結構よれよれした土曜日であった。

2008年01月18日

●アドエスの「W-ZERO3メール」関係の各種ショートカット

アドエスは一応電話やから日常的にメールを使うことが多い。
しかしながらメールソフトはパソコンに入っているようなものと同じなので、テンキーだけで操作するにはかなり使いにくい。
しかしながら、日常的にメールを使う際の操作は殆ど決まっている。この「殆ど決まっている操作」を簡単に実行できるようになればそれだけで大分使いやすくなる。

ということで、アドエスのメールソフトで良く使う機能へのショートカット二つである。

W-ZERO3メールを起動してメールの送受信をする。
何かの拍子にメールが自動受信できず手動で受信/送信する必要がある場合に、W-ZERO3メール起動してメニューから送受信では煩わしいのでこれをショートカットにした。
STMail.exeのコマンドラインオプションでありそうやけど不明なので、Windows Mobile用のスクリプト言語MortScriptで「送受信.mscr」を作成した。
MortScriptがインストールしてあれば以下のように記述した拡張子mscrのファイルを実行すれば、自動でW-ZERO3メールを起動してメールの送受信を行う。
STMailを起動して(既に起動時にはアクティブにして)キーコードを送って送受信させている無理やりなスクリプトである。


Run("\Windows\STMail.exe")
WaitForActive("W-ZERO3メール", 10)
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendLeft("W-ZERO3メール")
SendRightSoft("W-ZERO3メール")
Sleep(600)
SendKeys("W-ZERO3メール", "A" )
Sleep(600)
SendKeys("W-ZERO3メール", "C" )

2008/01/22 追記
もっと良い方法が見つかりました。このエントリを参照してください。


W-ZERO3メールのメール作成画面を、宛先、件名、本文などが既に入力された状態で起動する。
\Windows\STMail.exeの起動オプションで以下を指定する。
mailto:メールアドレス?cc=CCのアドレス&bcc=BCCのアドレス&subject=件名body=本文

例えば、x@x.com宛に件名testで、本文にテストと書かれた状態でメール編集画面を起動するには
\Windows\STMail.exe mailto:x@x.com?subject=test
となる。

上記のMortScriptでコマンドを叩いてやれば、日付を入れたり、そのまま自動送信したりと便利そう。

2008年01月17日

●調教を強いる「ドエス」

ネット上で見る限り、新しく機種変更したWILLCOMの端末Advanced/W-ZERO3[es]は最初と最後の音音を取って「アドエス」となる愛称で呼ばれているようだ。更に省略して「ドエス」と呼んでいる人もいて不覚にもちょっと「プッ」と吹きそうになった。

デフォルト状態では誰かにメールを送るのにも電話をかけるにも結構な操作量を要求されるなど電話としてはとてつもなく使いにくいので、ひたすら自分好みのカスタムを強いられるわけやけど、「調教を強いるドエス」は中々ハイレベルな概念ではなかろうか。

今までPHSを何台も機種変更して来たけど、夢中になって端末を触りまくるのは大抵最初の二日ぐらいやった。
しかしこの端末は違う。電話でなく「パソコン」ということもありブログの更新を忘れるくらいに何日も夢中になっている。久しく忘れていた「モノ」に対する没頭である。
これは今までに無い夢中になれる端末である。

2008年01月16日

●「電話機能のついたパソコン」に替えた。

前日の話であるけど、もう何年使っているか分からないPHSの「京ポン」ことAH-K3001Vをとうとう機種変更した。
ades.jpg社名がWILLCOMになる前からずっと使っていた機種なので3年は遥かに超えていると思う。充電台に乗せても充電しなくなり、直接USBに繋いで充電していた上に、最近電池のもちが極端に悪くなった。
まだまだこの端末を使うつもりで、土偶の上司が持っている使っていない同機種の電池と交換してもらっても劇的に改善したとは言いがたかった上、腐ったはずの電池は上司の端末で特に問題なく動いているという事で、もうこの端末ダメかもと悟ったのが大きな理由である。

この京ポンで中途半端にPCっぽいことが出来る電話はもうこりごり。結局そんな機能使わんやん。ということで、当初は電話として最も完成されているPHSと評判の高い東芝のWX320Tなる機種にするつもりでお店に行ったのやけど、お店で店員さんと話をしていてWindows mobile 6が搭載されたAdvanced/W-ZERO3[es]を激しく薦められ、「え~」と言いつつも、実際に動作しているお店の端末を触らせてもらっいるうちに衝動的にこれに決定してしまった。

現在「W-VALUE SELECT」なる分割払いによる2年間保障のついた端末購入サービスで機種変更すると、1月末までの期間限定サービスで機種変更手数料がキャッシュバックされるらしい。
更にこの機種は学校関係者向けのアカデミック割引期間中ということで、「W-VALUE SELECT」なるサービスの端末代月々1150円が0円になるらしい。

つまり、今この機種にすると、2年使えば端末代が実質0円、1年で13800円、2年保障つきの諸費用なしと、丸々タダに2年の端末保障がついてくるという事になる。
これは今買わずにいつ買うっていう事で機種変更。まぁ、実際は一円も払ってないねんけど…

確かにこれは「パソコン的機能のついた電話」ではなく「電話機能のついたパソコン」である。しかも私が持っているノートパソコンよりスペック的に上である。無線LANも標準搭載やし…

電話としてはデカくて重いけど、やっと人並みに、それなりのカメラを搭載した、外部メモリと動画対応の、赤外線通信、QRコード、MP3再生が可能な電話になり、今までちょっとした疎外感を感じていた赤外線での電話番号交換の輪に入れることが出来るようになってめでたしめでたしである。

2008年01月15日

●デヴィッド・リンチ ストレイト・ストーリー (1999/米=仏=英)

amazon ASIN:B0000A4HSJ デヴィッド・リンチの「ストレイト・ストーリー」を観た。これは同監督の「ロスト・ハイウェイ」と「マルホランド・ドライブ」の間に作られたものやけど、それらの狂気と不条理の物語とも全く違う、ヒューマンドラマと位置づけられるものだった。
老いで体の自由が益々効き辛くなってきていることを感じた老人が、昔ちょっとした事で仲違いした兄が心臓発作で倒れたことを聞き、時速8キロのトラクターで500キロ離れた兄に会いに行くというもの。

老人の名前もタイトルどおりStraightで、物語りも目的地に向かって道をひたすらまっすぐ進む、全くひねりの無い、ジャケットの写真どおりストレートにほのぼのしたロードムービーである。
道すがらに出会う家出少女や自転車ロードレースのグループなどの人々との交流を織り交ぜながら、淡々と話は進む。
途中で会う「鹿が好きなのに、鹿ばかり轢いてしまう女」が唯一デヴィッド・リンチっぽいキャラクターであろうか。

全般的に彼の作品の登場人物は、見るからに如何にもヤバそうやったり、如何にも腑抜けっぽい顔をした人物などの「顔」で演技をしている人物が多いように思う。
この映画は全体を通してリンチらしさはあまりないように思うけど、このストレイト老人の表情の良さがこの映画を良いものにしているのは明らかであるし、そういう「顔」の力を存分に使っているという意味でこの映画もリンチ的なのかもしれない。

ピカソや岡本太郎などで思い出されるような抽象絵画で名を馳せた人物の描くデッサンが概して素晴らしいのと同様に、狂気と不条理と悪夢を描くこの監督のような人物のストレートな表現もとても素晴らしかった。
盛り上がりに盛り上がるタイプの映画ではなく、まったりゆっくりほっこりするような良い映画であった。

ストレイト老人を演じたリチャード・ファーンズワースは末期がんを患っており、この映画でアカデミー賞主演男優賞にノミネート中に短銃自殺で世を去ったらしい。というニュースは、ジャック・マイヨールが自殺で死んだのと同様の種類のショックを受けた。

2008年01月14日

●マジッド・マジディ「運動靴と赤い金魚」(1997/イラン)

amazon ASIN:B000A16QG6 この間から「サイクリスト」「カンダハール」とモフセン・マフマルバフ監督のイラン映画を観たけど、次はマジッド・マジディの「運動靴と赤い金魚」である。

アリ少年はお使いの途中に修理したばかりの妹の靴を無くしてしまう。貧乏である上に厳格な父母に言い出せず、兄の靴を妹と二人で共有することになる。
午前の登校では妹が、午後からは兄が靴を履いて学校までの道のりを全力疾走で登校する毎日が続き、やがて小学生対抗のマラソン大会の三位の景品が運動靴である事を知ったアリ少年は「三位」になるべくマラソン大会に出場する。というストーリーである。
日本はもちろん世界的にも有名な映画らしい。動物と子供をメインにするのは卑怯やと思うけど、ここまでやれば文句はあるまいというくらいにその卑怯さを存分に出し切った良い映画であった。

ほのぼのした映画ながら隅々まで伏線を張り巡らせて、中だるみしない様に時々ちょっとしたイベントを挿入し、ちょっとした映像で観客に情報を知らせる演出がとてもテクニカルな印象を受けた。そう来るだろうなと期待せておいてわざと外すラストシーンなどはとても詩的に美しい良い感じであった。
海外向けの英題が「CHILDREN OF HEAVEN」にも拘らず、邦題が「運動靴と赤い金魚」となっているのはこのあたりの良さを汲み取った所以であろう。

周りの危険など気にせず疾走する少年少女はとても絵になる。一方でやたらと急ぐ大人は見苦しい。
子供はモノに執着しながらも醜く見えないのがとても不思議やったけど、疾走し執着する自分自身を他人の目で見ずに没頭するからこそ美しく見えるのではないかと思った。
客観的に自分を見る。という大人にとって日常的な行為は、社会に自分を適合させる試みであると同時にある種の醜さを伴った行為なのだと思った。

●アレックス・コックス 「レポマン」(1984/米)

amazon ASIN:B000G7PSIG この映画はいわゆる「パンク映画」という括りになるらしい。
パンクといえば、商業主義的なものに飲み込まれることでテクニカルで理論的な方向に偏重した「ロック」への反発を基盤にした、テクニックよりも勢いを重視した攻撃的な演奏がメインとなる音楽ということになるらしく、確かにテクニカルで理論的な商業主義的映画とは趣の異なる勢いのある攻撃的なこの映画がパンク映画と呼ばれるのも分かるような気がする。

スーパーを首になったパンク少年がひょんなことでローン未払いの客の車を回収する「レポマン」と呼ばれる仕事に就き…
という感じで物語は始まるけど、先輩レポマンとの人情ものになるのかと思えばそうでなく、出会った少女とのラブストーリーになるのかと思えばそうでなく、対立組織との抗争になるのかと思えばそうでもなく、ストーリーは全く脈絡無くあらゆる方向へ中途半端に伸びてゆく。しかも伸びたまま伏線でもなんでもなく伸びっぱなしで、途中から宇宙人だのUFOだの秘密組織だのまで出てきてますます訳が分からなくなる。
最後の最後にいたっては全く訳がわからないとても素敵な終わり方である。

頭と柄の悪い人しか出てこない、頭と柄の悪い、面白ければ何でもええやん。という姿勢が存分に伺えるB級、バカ映画テイストのみで構成された映画であった。
「死霊の盆踊り」や「スターシップ・トゥルーパーズ」などのようにある程度まじめなものを撮ろうとしてB級バカ映画になってしまったのではなく、最初からこれを撮ろうと狙って作られたところが知的に洗練されているところなのだろう。という所を見せないのが素晴らしいと思った。

この映画にはコアなファンが多いという話やけど、なるほど納得できたような気がする。

2008年01月13日

●モフセン・マフマルバフ「カンダハール」 (2001/イラン=仏)

amazon ASIN:B00006HBRB この間見た「サイクリスト」と同じ監督のイラン映画「カンダハール」を観た。

舞台はアフガニスタン。現地の社会に絶望した妹から間近に迫った次の日食の日に命を絶つという内容の手紙を受け取ったカナダへ亡命したジャーナリストが、妹に会うべくアフガニスタンを旅するというもの。
監督自身は世界中から全く関心を払われず、国際社会から見捨てられた貧困にあえぐ地雷だらけのアフガニスタンの現状を知らしめる事で、この国への無関心を告発する。と言う意図があったらしい。

冒頭のパラシュートで義足が空から降りてくる余りにも美しいシーンが、我々の想像力を大きく超えてていると言う意味で、この映画の多くの部分を語っているだろう。
砂漠の風紋に映える色とりどりのブルカ、ブービートラップについて教える先生、金と食べ物の事しか考えていない子供と大人、空腹を病気とだ思っている人々、旅の途中で会う人々と風景が異国情緒満開のロード・ムービーであった。

冒頭の難民キャンプで先生がアフガニスタンに帰ろうとする生徒たちに言う言葉「たとえ塀が高くても空はもっと高い。」が印象的であった。

2008年01月12日

●ジェームズ・L・ブルックス 「恋愛小説家」 (1997/米)

amazon ASIN:B0000CD7P0 ジャック・ニコルソンが出てるつう事で「恋愛小説家」を観る。ちなみに原題は「as good as it gets 」で邦題と全然違う。

潔癖で偏屈で頑固で口の悪い恋愛小説家のおっさんがお気に入りのウェイトレスと隣人とその犬との関わりによって変わってゆくと言う話だった。
逆から言えば余りにも個性がありすぎる人間はそのままでは受け入れられないという話であるとも言える。

面白かったけど、ちょっとした違和感を覚えるのは彼のようなタイプの人間を私がそんなに嫌いではないからだろう。逆から言えば彼の個性が無くなって行きつつあるとも言える。
とは言っても、遠くから見ている分にはいいけど、隣人として付き合うのはしんどいやろけど。

この話を「シャイニング」エピソード1だと捉えるとちょっと可笑しかった。やっぱり、ジャック・ニコルソンには斧が似合う。

2008年01月11日

●ヤン・シュヴァンクマイエル 「オテサーネク」 (2000/英=チェコ)

amazon ASIN:B00006JOY9 先日観た「アリス」が中々に気に入ったので、同じ監督であるヤン・シュヴァンクマイエルの「オテサーネク」を観た。

チェコの「オテサーネク」なる民話を下敷きにした物語で、不妊症に悩む妻を喜ばそうと、赤ん坊の形に切り出した木の根っこを妻に見せる夫と、これを本当の赤ん坊のように扱って自分の子として溺愛し始める妻を中心に物語は始まる。
赤ん坊のように扱われるうちに木の根は命を持って動き始め、恐ろしい食欲で周りのものをどんどん食べ尽くしてゆく。
パッケージからはちょっとポップな印象を受けるけど、何でこのシーンがパッケージになっているのか全く不可解なくらいに中身は全く別物。
冒頭の、赤ん坊を水槽から網ですくって量り売りをするシーンで一気に期待が高まるものの、シュールさはその方向性とは別の方向にエスカレートしてゆく。

木の根っこでしかない赤ん坊を溺愛する妻と、赤ん坊の服を着せられた木の根っこの怖さを筆頭に、やたらと野菜を育てている夫婦のアパートの管理人、いつも性に関する本ばかり読んでいる少女、その少女を見かけるとメガネをかけてまじまじと見る老人、登場人物は皆そろってなんとも生理的な気味の悪さと怖さを持っている。

さらに、一般的に醜いものとして扱うとダメなものををわざと生理的な不快感を抱くように撮るのがこの監督の趣味なのか、赤ん坊と食べ物はグロテスクなものとしか見えず、物を食べるシーンは更に気持ち悪く、さらに人の顔と口元のアップが多用されて、生理的な所から来る不愉快さを感じる。
なんというか「キモ可愛い」を焦げ付くまで煮詰めたような映画であった。個人的には結構好きな感じである

2008年01月10日

●モフセン・マフマルバフ 「サイクリスト」(1989/イラン)

amazon ASIN:B00006HBRE モフセン・マフマルバフのイラン映画「サイクリスト」を観た。
たぶんイラン映画なるものをそれと意識して観るのは初めてである。モフセン・マフマルバフなる映画監督も一応有名らしいけど初めて聞いた。

隣国アフガニスタンから難民としてイランに流れてきた男が、瀕死の妻の入院費を稼ぐために「一週間自転車に乗り続ける」という興行の「サイクリスト」となり、賞金を目指して走り出す。広場をぐるぐると回る彼の周りには人集りができ、屋台が軒を連ね、彼は英雄として祭り上げられてゆく、彼がどうなるかを賭ける金持ち連中や興行主の陰謀や妨害、彼を助けようとする彼のような貧乏人、彼を取り巻く人々のドラマが展開する。
「すべてのイラン人が見た」とまで言われる、本国イランでは空前のヒットとなった、この監督の代表作である映画らしい。

主人公は自転車に乗ってぐるぐる回っているだけなので、彼を巡る人々の物語が主であると言えよう。
国民すべてがみるほど面白いか?と言えばそんなことはないように思えるけど、やっぱり面白かった。
山もなく谷もないけどなぜか目が離せない。結構大げさな演出の割になぜか淡々としているように感じるのがとても不思議。いつの間にかなぜか感動している自分がいる。

レンタル屋さんでパッケージを見た時に抱いた違和感である「ただ自転車に乗り続ける」という特殊技術でも何でもない行為がなぜ興行として成り立つのかという部分が、映画を観ているうちに当たり前のように納得できていることと、そんなただ貧乏であるとしか言いようのない彼が英雄として祭り上げられてゆく課程が当たり前のように理解できるのは不思議と言えば不思議かもしれない。

あまりに凡庸である彼が英雄になったのは彼を助けた仲間がいたからこそであり、そう言った部分がイランで爆発的なヒットとなった原因であるかもしれない。

しかし、この映画のラストの、今まで観たどんな映画でもしそうなタイプの演出が全くない、あまりのあっけなさと胸苦しいような哀しいような感覚は何だろう?これがイランの国民性か?

この監督、というよりイラン映画をもう少し観たくなってきた。

2008年01月09日

●デイヴィッド・リンチ「ロスト・ハイウェイ」 (1997/米)

amazon ASIN:B00005V2MG デイヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」を観た。
サックス奏者の主人公がある朝インターフォンに出て「ディック・ロラントは死んだ」という謎のメッセージを聞いた。それをを切っ掛けにして自分の家の玄関先や寝室が映っているビデオテープが届いたり、パーティで奇妙な謎の男にあったりと変な出来事が立て続けに起こる。そして主人公は精神的に追いつめられていって云々…という感じやけど、そこから一転してまた別の話になったように見える。

シーンごとの単体をとって観れば変にリアルでいかにもありそうなことやのに、その繋がり方が全く想像の範囲外にあって理解できない。しかしながら映画の中の世界や登場人物は当たり前のように受け取っているように見える。
観ていて全くストーリーの繋がりが分からず困ったけど、ネットで誰かの書いた感想やらレビューを見る限りどうやらこういう映画らしい。
さらに、この映画に限らずこの監督の撮った映画は、ビデオテープは自分の客観の象徴やとか、アレの意味するところはコレに違いない。などと議論が活発である。

場面自体は変にリアルやのに、場面同士の繋がりとか展開の仕方があり得ない。にもかかわらず当事者は違和感を感じていない。
これは何かの構造に似ている。と思いついた。

そう。寝ている時に見る夢やね。
夢日記というジャンルがあるけど、この監督の作る映画はどちらかというと夢映画という感じのものが多いような気がする。

「夢」的に因果関係とか整合性とかを超越(あるいは無視?)することで人間の根源的な何ものかがより明確で純粋に表現される面も多いだろう。人間が欲求を極端の方向に向けて暴走した時の得体の知れなさと不気味さなどは、この「夢」的な雰囲気によってよりリアルにエグく見えてくるように思える。
そしてなによりも、こういった映像自体とその雰囲気を最大限に楽しむ映画であろう。

「実話を元にした」とか「ノンフィクション」であればそれだけで物語の価値が増すと考えるタイプの人にとっては、他人の見た夢の訳の分からなさを楽しむ事は価値がないかもしれないけど、そういうのが好きな人、さらにはその感性にハマってしまう人にとってはどうしようもなく価値のある映画になってしまうというのはよく分かる。
この監督の映画は訳が分からない。とよくいうけど、その訳の分からなさが、自分の訳の分からなさと同調した場合さらにその価値は増すだろう。

この監督が「カルトの帝王」たるゆえんはそこにあるのかもしれない。
自分の訳の分からなさをそのままに表現するのも、実はとてつもない才能やと思った。

2008年01月08日

●solaris上でXorgの設定

土偶のPCは画面の解像度を1024x768で使用しているのやけど、VMWare Player内で動作させたXのログイン画面(xdmのdtloginとも言うのか?)がデフォルト1280x1024になって画面からはみ出してすこぶる使いにくい。
これは画面いっぱいの1024x768で使いたい。

通常のソラリス使いならXの設定はkdmconfgを実行し、Xsun serverを選んで行うのが基本やけど、VMWare Playerの場合にXsun serverをXサーバーとして使うと最高解像度が800x600までにしかならない。
ゆえにVMWare Player上のsolarisではXorg serverを使用する必要があるのやけどちょっと迷った上にはまりかけたので書いておく。

Xサーバーが起動していない状態で( コマンド行ログイン状態からsshかコンソールで)
/usr/X11/bin/Xorg -configure
を実行し、(現在の設定を元に出力された?)xorg.conf.newを/etc/X11/xorg.confにコピーした後これを編集する。

「Section "Screen"」からEndSectionを

Section "Screen"
        Identifier "Screen0"
        Device     "Card0"
        Monitor    "Monitor0"
        SubSection "Display"
        DefaultDepth 24
    Subsection "Display"
        Depth       8
        Modes       "1280x1024" "1024x768" "800x600" "640x480"
    EndSubsection
    Subsection "Display"
        Depth       16
        Modes       "1280x1024" "1024x768" "800x600" "640x480"
    EndSubsection
    Subsection "Display"
        Depth       24
        Modes       "1024x768" "800x600" "640x480"
    EndSubsection
EndSection

とする。Identifier Device Monitorの値はそれぞれに。
これでログインが面が色数24bitで解像度1024x768になる。

●xVM!いわゆるSolarisのXen!

solaris関係の事を色々調べていて、Solaris Express Community Release Build 75 からXenのsolaris上の実装であるxVMなる仮想化技術が搭載されているらしい事を今更ながらに知った。

つまりは、特に何も考えずにSolaris Express Community Release Build 75以降をインストールすれば、起動時のGRUBメニュー内で「Domain-0」としてのSolarisを選んで起動出来ると言うわけだ。
Domain-0が起動してしまえば「Domain-U」内でwindowsだろうがNetBSDだろうが飼い放題、悲願である「Solaris内でWindowsを飼う」がやっと叶うでは無いか。これはやるしかない。

という事で久しぶりの「Solaris/Sparc」カテゴリである。

という事で少しxVMなる技術について勉強してみたものの、どうやらその仮想化のレベルが二つあって、エミュレーターに近いような仮想ハードウェア環境を提供する「準仮想化(ParaVirtualization) モデル」と実在のハードウェアをエミュレートしてDomain-Uには実際のハードウェアに見せる「完全仮想化(FullVirtualization) 」の2タイプがあるらしい。
でもって、土偶の目指す 「Solaris内でWindowsを飼う」は完全仮想化Domain-Uで無いと動かないらしい。
順仮想化Domain-UのOSは順仮想化に対応したカーネルを持っている、つまりはXenに対応したOSが必要という事でwindowsXPはダメ。つまりはSolarisかlinux位のものである。

じゃぁ完全仮想化で動かせばいいやんと言う事やけど、今度はCPUが「Intel VT」か「AMD-V」なる仮想化技術に対応してないといけないらしく、土偶のメインマシンのCPU、Xeon 2.8GHz(Nocona)が対応してるのか調べた結果、「Intel VT」対応のCPUはXeon 5000番台(Dempsey, Woodcrest)からという事で三世代古く非対応 orz
激しく残念である。

余りに残念なのでWindowsXP上のVMWare Player内にSolaris Express Community Release Build78、nevada78をインストールしてみた。(飼い方はこのあたりで)
Windows内の仮想マシン上でSolarisが動いたところで嬉しくもなんとも無い。ああ、虚しい…

VMWare Player内Solarisの起動メニューにDomain-0のSolarisである「Solaris xVM」があったので、「VMWare Player内の仮想マシンでXenを動かすとどうなるんや?」ってことで起動してみるとカーネルを読み込んだ時点で落ちたのがちょっと笑った。

VMWare Playerfor Solaris なんてものがあれば良いんやろうけどねぇ。

参考(どっちもblogs.sun.com内やけど…):

Xen ベースの仮想化技術 Solaris xVM @ やっぱり Sun がスキ!

Windows Guest on Solaris xVM (Nevada 75a) @ ささの豆知識ブログ

2008年01月07日

●「カルトの帝王」と「教会博士」の落差

デイヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」を観た。ネットしながらチラ見だったこともあり、さっぱりストーリーの繋がりが分からなかった。「はぁ?」と思った瞬間にちょっと戻って見直したりしたけどやっぱり分からなかった。でもどうやらそういう映画らしい。

寝る前にアウグスティヌスの『告白』を少し読んだ。『世界の名著』で読んでいるので山田晶の読み応えのある解説を読み終わり、この日から『告白』本文に入る。
殆どが祈りのような文の中に自身の告白が混入したような文体に最初は少々面食らう。キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥスとまるでミサのようだ。西洋思想にとてつもない影響を与えた史上最大クラスの思想家であり、最高クラスのラテン教父がこれほどまでに敬虔で謙遜である事にかなりびっくりと同時に感動した。

デイヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」とアウグスティヌスの『告白』の落差にびっくりした、2008年初仕事の日であった。

2008年01月06日

●ヤン・シュヴァンクマイエル 「アリス」 (1988/チェコスロバキア)

amazon ASIN:B00077DAYE ヤン・シュヴァンクマイエルの「アリス」 を観た。言うまでも幾度と無く映像化されたりミュージカルになったりしているルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の映画化である。

しかしながら、一応子供向けとされている原作に引き換え、実写とコマ撮り人形アニメで構成されたこの映画はとてもグロテスクな悪趣味さを持っている。なんというか原作の持つ倒錯した部分を別の方向に捻った感じで、ジャケットでもその不気味さが存分に出ているけど、隅々にまで気を使った悪趣味さがこたえられない。
悪趣味な映像が連続する中、アリスを演じる女の子が妙に可愛らしいのが余計にグロテスクである。
取っ手が抜ける度に分かっていながらもクスクス笑ってしまう。
どこかでのこの映画を「不気味の国のアリス」と評していた人がいたけど、なるほどそんな感じである。

私の中でチェコ映画と言えばなんとも言えない不気味なグロテスク無さを持つ「ファンタスティック・プラネット 」であるけど(アニメやけどね)、この「アリス」も同じような臭いがした。
チェコスロバキアというのはこういう国民性なのやろか?さすがはフランツ・カフカを生んだ国やなぁと妙に納得した。

●「ブレアウィッチプロジェクト」 (1999/米)

amazon ASIN:B00005FX2U ブレアウィッチプロジェクトを観る。映画の卒業制作でブレアなる森に住む魔女(ウィッチ)にまつわるドキュメンタリーを撮りに森に入った三人が行方不明になり、後に発見された彼らのビデオの映像を編集した。と言う設定の映画。
本家アメリカでは公開前からこういう話があったらしい、こういうビデオがあるらしいとWEBやらでテレビの特別番組やらで散々盛り上げておいて公開とういう事で、映画単体ではなく複合的な盛り上がりをしたようだ。

私は昔から真夜中に森に入ってクワガタ取りをしていたので、怖い森とそうでない森については中々詳しいと自認している。
怖くない森は無問題やけど、怖い森は本当に理屈ぬきで怖いのだ。クワガタ取りに途中からついて来た山に捨てられたらしき犬が突然けたたましく吠え出し、その吠える先を懐中電灯で照らした瞬間でっかい木が見えて、何も怪しいものは見えないのに全員が同時に「これはヤバい…」と直感するくらいに怖いのだ。
で、この映画はそういう意味の森の怖さは感じられなかったけど、確かに張り詰めつつある怖い雰囲気を盛り上げてゆく手法はリアル路線でとても怖かった。壁を向くマイクをみてゾーッとするものの、最後のエンドロールで「え~っ?」である。

2008年01月05日

●ワインのジャケ買い

canosur.jpg 梅酒でも買うべかーと酒屋さんをうろうろしているうちにふと目に止まったこのワイン。
チリ産、有機栽培のピノ・ノワール種、赤のミディアムーフルボディ、という事らしいがそんな事はどうでも良く、ラベルが自転車という理由だけで思わず買ってしまった。ワインのジャケ買いである。

お味は
「ストロベリーやプラム等の香りと、フレンチオークに由来するヴァニラのようなニュアンスが感じられ、みずみずしい果実味溢れる豊かな味わいをお楽しみいただけます。」
と書いてある。

ふーん、やけど、美味しいです。

2008年01月04日

●山田晶 『アウグスティヌス講話』

amazon ASIN:406159186X いわずと知れたアウグスティヌスの『告白』を読む事にしたので、その前にそのアウグスティヌス本人と『告白』の入門書として名高い、某キノコ先生のwebページでも紹介されている 山田晶『アウグスティヌス講話』を読んだ。

去年最後に読破したのがパスカルの『パンセ』、去年から読み始めて今年に入って最初に読破した本がこれだったので、本来ならパスカルの『パンセ』が2008年の最初の本カテゴリのエントリに来るのやろうけど、余りの大作つーことでまだちょっとまとめ中の考え中なので、この山田晶『アウグスティヌス講話』の感想を先に書いてみる。

この本は1987年度の大佛次郎賞も受賞しており、今でこそちょっとマニアックな学術文庫やけど、一般書としても中々に評価されているのだろう。当時は違う出版社でもあったしね。
本来は書籍として書かれたのではなく、カトリック信者である著者がプロテスタントの北白川教会で講話として何度か話した内容を文章に起こして編集したものらしい。
そういうわけもありとても平素で読み易いうえにとても含蓄深く面白い本であった。アウグスティヌスの入門書のつもりやったけど、キリスト教全般の話としてもかなり良かったうえに、著者というか語り手の山田晶のお人柄で「ほんわか」とまでするとても素晴らしい本であった。

本の構成としては一回の講話を一話としてまとめ、それを六話まとめて一冊の本としてまとめたものである。
第一話から「アウグスティヌスと女性」「煉獄と地獄」「ペルソナとペルソナ性」「創造と悪」「終末と希望」「神の憩い」と中々興味深いお題が盛りだくさんで、それぞれの話が主に著者の専門であるアウグスティヌスに関連付けられてわかりやすく述べられる。

アウグスティヌスと言えば、「横に女が寝てないと眠れなかったくらいに遊びまくり」という何処からか聞いたイメージがあったけど、この本の一話で確かに彼が一途に一人の女性を愛した事と、たった一度の過ちで自分が淫蕩である事を認めて改心に至った事が良く分かった。
この本が大きな反響となったメインコンテンツでもある今までの一般的な「放蕩部類の徒」のアウグスティヌス像を覆すような一話の話を初めとして、
二話の「煉獄と地獄」の話では人間ごときが何をしても最後には救われるのではなく、自らの意思で罪をなして地獄に落ちる事も出来るほどの、自分の行為に責任を追った個人として認められていると言うところ、
三話の「ヒュポスタシス」なるギリシャ語に端を発する「ペルソナ」と言う言葉を西方教会が使う事で、東方教会と違った三位一体の教義が生まれ、そこから「理解し、愛する主体である」人格神たるペルゼーンリッヒな神の話になってゆくところはとても感心した。

四話の「創造と悪」では道元の「全てのものが仏性を持っているのになぜ修行する必要があるのか」と言う問いに対する「全ての中に私が入って私が成仏する」なる答えを引き合いに出して、まだ創造が続いている世界で神の意思で善をなし悪をも善用する事で自らが創造される世界の一部となり創造する。なる見地や、
五話の「終末と絶望」の話での世の終わりである世界の終末と、個人の死である個人の終末を、集団ヒステリー的なペンテコステ運動でも、世界と個人を切りななして個人にのみ耽溺するでもなく、目覚めて祈り、終末を待つ事自体で自身が浄められてゆくのだと言う話は感動的ですらあった。

最後の六話では「神の憩い」と題して創造の七日目で休んだ神を引き合いに出して、休みの日に予定を詰め込んだり、また働くための休息のみであるとして空間と時間を埋めるべくあくせくしている現代人を描いて見せ、日曜日に同じ神を信仰する人たちが集まって祈りを唱える事で空間と時間を使う事の素晴らしさを説いている。確かにそれはとても美しくて崇高やと思った。

最近は小説ではない思想系や宗教系のよく読むようになったけど、結局こういった類の本は文字の行間から漏れる著者のお人柄にかなり内容の受け取り方が左右されるなぁと思う。もちろんそれはそうあるべきではないのやろうけど。
例えば、むちゃくちゃな生活をしていたドストエフスキーは小説を書いたから良かったけど、思想書を書いていても「お前が言うな!」と言う感じやったやろう。

そういう意味で、この本の行間から見える著者の山田晶のお人柄はとても素晴らしかった。なんか『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老のようで本当にほっこりした。
「しかし、現実にわれわれ被造物の立場からいいますと」
というとてつもなく胸キュンな言葉を発する事が出来る人なんか世の中にどれだけいるだろう。

そういうわけで巷に蔓延するキリスト教に対する誤解をあたらめるにもぜひぜひお勧めの一冊である。

と、ついつい興奮して長いエントリになってしまった…

●精神的成長は都市伝説か?

「精神的成長は都市伝説」なる言葉にちょっと笑う。確かにそうかもしれない。うまいこと言うなぁ。
しかしそうなら同じ意味で「精神的転換も都市伝説」であろう。
同じ文脈で言えば、人間がおおよそ変化なり転換なりするとはとても思えない。

私の言う精神的成長とはある方向性を前提としたベクトル的なものではなく、ただ単に、人間が単純に変わる事、何らかの自分の意思やら努力やら加齢やら、外的やら内的要因によって精神的に変わる事を指している。
つまりは成長にしろ退化にしろ、人間は変わりうるか?という話やね。

もちろん、人間は精神的成長をするものやとされているし、それは一般的に子供から大人になるとも言う。当然それだけではないやろうけど。

精神的成長なる概念が余りに意味を成さないのはこの自分を見れば良くわかる。俺はこれだけ成長を望みつつもどれだけ成長したのだ?何も変わっていないと言っていいのではないか?と言う意味でだ。たぶん、おそらくほとんどの人間は指摘されるまでも無くこの事を実感しているだろう。
誰でもが等しく「三つ子の魂百まで」と思っている中、精神的成長に血肉を注ぐのは結局「精神的成長は都市伝説」と言うためなのかもしれない。悟りを開いた高僧の言う「別に悟らんでも良かった」と同じ事なのかもしれない。
それでも本当に悟った人なら、「悟りたいです!」と言う小僧に「悟りは都市伝説」とか「悟りは意味が無い」とか言って小僧の出鼻を挫いたりせずに「よーし坊主じゃあとりあえずやってみろ」と言うような気がする。悟りを目指す事や精神的成長を望む事が悪い事だとはどうしても思えないからだ。
あくまで気がするだけであるけど。

無意味である事を目指す事自体が無意味であるかはどうかはまた別である。自分がとことんまで目指してみて挫折する事に意味がある。自力を突き抜けた他力とはそういう事だろう。
ニーチェの言う「没落」とはあるいはそういう意味かもしれない。

パルカルは「理性はあらゆるものに屈する」と言った。しかしこれはパスカルが言うからこそ重みがあると思う。
ニーチェは「人間とは克服されねばならぬ或る者である」と言った。しかしこれはニーチェが言うからこそ重みがあると思う。
私のようなオムレツバカがどちらを語ったところで「はいはい、オムレツ作ってろ」という答えしか帰ってこないだろう。
しかしパスカルやニーチェがオムレツの事を語るよりも、このオムレツバカである私が語るほうが重みがあるのも又事実である。

そういうわけで私は今日も精神的成長と遥かなる悟り的なるものを目指して八正道的に日常を過ごし、本の感想を書き、ブログを更新するのであった。

そんな事は兎も角、考える切っ掛けとネタ提供してくれた某上海氏に感謝である。

2008年01月03日

●菊水若水

夜に城南宮に行く。初詣シーズンにも関わらず誰もいない。
賽銭箱に小銭を投げ込んだ後、右手に二つ、左手に二つ鈴緒を握り鈴をガラガラ鳴らして「(戦車競争の)ベン・ハーの真似」と呟き、映画を観る事でオヤジギャクの幅も広がったと自認した。

何処もかしこも恐ろしい数の人と車で満ち溢れて、人がゴミのよう、ゴミが人のようであった。
助手席で眠りこける嫁と後部座席でぶーたれて暴れる子供たちを遊び場につれてゆくべく運転手を務め、渋滞に巻き込まれ疲れ果てた世のお父さんたちの哀しみが車のガラス越しに伝わってくる。嗚呼、生きるって大変だ。

それだけに静まり返った神社は清清しい。菊水若水を飲み、御神木のようでそうで無さそうな(たぶん)老木をぺしぺし叩いて帰ってきた。

2008年01月02日

●久しぶりに本を読む

昼に起きてチャーハンを作り、雑煮とおせちを食べて「12モンキーズ」「華氏451」「鉄男Ⅱ」「肉弾」と立て続けに4本の映画を観て、CDを聴きながら1/3だけ読んだ読みかけの本『アウグスティヌス講和』を読んでしまう。
正月らしくウィンナワルツでも聴きたかったけどそんなCDは家には無いので、バッハの「新年のためのカンタータ」と第九にしておいた。

『アウグスティヌス講和』を読んでとてもほっこりする。
俺は何を慌てて映画を観たり本を読んでいるのだ?なんかちょっと正常ではないなぁとはっとした。
今日は早い目に寝よう。

●岡本喜八 「肉弾」 (1968/日)

amazon ASIN:B0009S8G0E この日の四連続で観た映画の最後は岡本喜八の「肉弾」である。
太平洋戦争末期、洋上に浮かぶ魚雷に括り付けたドラム缶の中で特攻攻撃をするために敵の船を待ち続ける男が、爆薬を抱いた肉弾となって敵の戦車に特攻攻撃を仕掛ける事が決定した日から今までを回想する。

戦争に疑問を持ちつつも戦争反対を叫ぶわけでもなく戦争から逃げるわけでもなく従順に戦って死のうと思い続ける一人の男の物語。死ぬ為の直接的な理由となる特攻するべき相手と、死ぬための精神的な理由となる守るべき相手を探す様が喜劇のタッチで描かれる。

海に浮かぶ魚雷に括り付けたドラム缶、その中でメガネの兵隊が番傘をさしているだけで映画としてとても絵になっていると思う。

監督自身の戦争に対する個人的な思いが多分にはいっている映画であるという事らしい。

一人の文系大学生が戦争をどう捉えていたのかと言うのがとても良くわかった様な気がする。
泥沼の戦争を続ける世を否定するでもなく、諦念を抱くでもなく、ニヒルに見るでもなく、知的過ぎず、飄々と周りを見る男。
もうすぐ負ける戦争を続ける事に意味を見出せないながらも、特攻隊に任命されてそれを受け入れる。
特攻隊となる事で神になる。と言われて「人間が良い」と思いつつも、自分の状況を受け入れながらも納得しきれず偶然出会った少女を無理やりっぽく愛する事でこの少女のために死ぬと叫ぶあたりはなんともたまらん。
そういう風に自分が死ぬべき戦うべき個人的な理由を無理やり作り上げて皆戦争をしてたんやなと言うのが伝わってきた。
結局守るべき者を失った挙句に敵を見つける事も無く死ぬ事も出来ず、挙句に戦争に負けた事を知った主人公の「バカヤロー」の叫びがなんともブルーであった。

いつも行くレンタル屋に岡本喜八作品が全然無くて残念やなぁ。もっと見たいなぁと思う。

●塚本晋也 「鉄男II ~BODY HAMMER~」(1992/日)

amazon ASIN:B00005HPZ1 塚本晋也の「鉄男Ⅱ ~BODY HAMMER~」を観た。
「鉄男」が余りにも凄すぎたので、その続編であるこの映画はぜひとも観ておかんと。という事で観た。
続編とはいうものの前作とストーリーや設定上のつながりは無い。

平穏に暮らす三人家族を賊が襲い、怒りによって機械の体と化した主人公は暴走して子供を殺してしまう。
怒りと自責の中苦しむ主人公を誘い出すべく、今度は妻が誘拐される。
主人公はますます怒りを募らせて賊達に復讐すべく立ち上がる。

という感じやけど、前作の勢いとエネルギーと破壊衝動が全く無かった。
前作が勢いとエネルギーと破壊衝動のみが結実した見事なものだっただけにとても残念である。
八方美人の感想を書いているけど、これは酷い。と書いておく。褒めるべきところが無い…

●フランソワ・トリュフォー「華氏451」 (1966/英=仏)

amazon ASIN:B0000QWX86 フランソワ・トリュフォーの「華氏451」を観た。
社会の政策として本が法律で禁じられている未来の話で、過去には火事を消す役目を負っていた「fireman」はこの時代、密告やら垂れ込みやらで本の所有者を特定しては消防車で駆けつけ、マルサのように本を探し出しては火炎放射器で燃やしてしまうという役目である。
中でも勤勉で容赦無く本を狩っていた出世街道まっしぐらの「fireman」の主人公が知り合った女性から本の楽しみを教えられて…
と言う感じのストーリである。タイトルは紙が発火する温度を表わしており、「fireman」の肩に描かれている象徴としての数字でもあるらしい。

本好きとしてはなんとも堪らん社会やけど、フランソワ・トリュフォーはロボットやとか宇宙船が出てくる映画を毛嫌いしているらしいせいか、この映画は未来を描きながらも古き良き片田舎のようなまったりしてほのぼのした雰囲気が漂っている。このヌル過ぎる空気から社会の圧制を全く感じないのが笑った。

主人公が本に目覚めてからやたらと偉そうになったり、テレビばかり見ている嫁とその友達を罵倒したり、エドガー・アラン・ポーの小説を守るために上司を焼き殺したりと、本を読むと傲慢になって社会不適合街道まっしぐらな主人公がちょっとばっかりプリティーであるばかりか、見ていて胃が痛いぞ…

最後に自身が本になる話になるのやけど、ここで本好きは自分なら何になるか自然と考えてしまうのだが、私の場合は『カラマーゾフの兄弟』(米川正夫訳)に間違いないやろう。しかし『カラ兄』ではちょっと長過ぎて困るなぁ。とどううでも良い上に余計な心配をした。

この映画は本来、圧制された社会を描いてその醜さがどうしたこうした…って話になるのやろうけど、そんな事はどうでも良くって本好きの嫌な部分ばかり見えた。本好きのクレイージーさを見せ付けられて本好きにはちょっと耳と胃が痛くなる映画であった。
って変な感想。

●テリー・ギリアム 「12モンキーズ 」(1995/米)

amazon ASIN:B00005V2R0 テリー・ギリアム 「12モンキーズ 」(1995/米)を観た。
蔓延した致死性ウィルスで人口の99%が死に絶えた後の世界から、ウィルス散布に関わった12モンキーズという組織を調べ、ウィルスの抗体を作るための純粋ウィルスを持ち帰って生き残った人を救うためにブルースウィリスが過去の世界に送られる。

同監督の「未来世紀ブラジル」に通じる暗さが良い感じ。全然恰好良くないブラッド・ピットのぶっ飛んだ狂った演技とブルース・ウィリスの過剰な暴力性が良い感じ。ストーリー的にもウィルス散布を阻止するのではなく、ウィルスの原体を持ち帰るのが任務であると言うところがミソである。
ブルース・ウィリスといえば「世界を救う」男であるけど、そう思わせておいて…と、その配役の妙が中々であった。

私は結構気に入った。暗いSFが好きな人は楽しめるのではないだろうか。

2008年01月01日

●元旦ということがめでたいのか?

皆様新年明けましておめでとうございます。
2007年から2008年になって何も変わっていない土偶です。いや変わっていないのは私を取り巻く世界も同じ。結局何が変わったのだ?
2007年が2008年になったのは10進法と60進法と12進法を組み合わせた、ただの時間的な区切りと言う約束事に過ぎない。と新年早々世界にいちゃもんをつけるような事を考える。

めでたい日は日自体がめでたいのではなく、多くの人がめでたいと思うからこそめでたいのである。
めでたいと思う、祝福されるべきであると思う人が一人でもいれば、その日はめでたく祝福された日となるのだ。
そういうわけで、この日一月一日はめでたく祝福されてあれ。
という事で、本年も土偶をなにとぞよろしくお願い申し上げます。m(__)m

amazon ASIN:B000K0YGXM 雑煮を食べ、おせち料理を食べ、ケーキを食べ、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを見て、デミ・ムーアが出演している劇場公開されていなかった(らしい)「ゴースト・ライト」なる2006年のイギリス映画を観る。
荒磯に面した燈台に住む燈台守と海に面した一軒家で小説を書く小説家の物語だった。
静かな欝の黄昏のごとき時間が流れている映画であった。海に行きたくなった。
火鉢で餅を焼き、戯れに蜜柑を焼いて食べる。星がとても綺麗。オリオン座がキラキラしてた。