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2007年12月31日

●ダウナー系内的2007年観

一年を総じて考えて見るに、私を取り巻く内的環境は大きく変わった。ある意味でのなんたらクライシスは過ぎ去ったと言えよう。
この一年で私自身は大きく変わったと思う。一方で全く変わっていないとも思う。明らかにお互いを否定しあう対立する二つの矛盾が幾つも自分の中にあるのを強く感じたし、たぶん人間はそういったものなのだろう。
自分がそういった存在である事がわかったとしても、それが表に出て現象しない限り他人にほとんど何の関わりも無い事も良くわかった。
自分は他人に一貫性を求めるし、他人は自分に一貫性を求める。私は私自身に一貫性を求めつつも、私は今の私を否定して私では無い何者かになりたいと常に思い続けているのが矛盾でなくてなんだろう。

自分の弱さや自分の傷を自分の証として振りかざすのは余り趣味のいい事ではないと思う。
自分の弱さや自分の傷に開き直ってしまうのは何ものかに溺れ何ものかに呑まれる者のする事であると思う。
生きるからには、加齢するからには、私の思う方向に精神的に成長したいし進歩したいと思う。可能なら自分の弱さや醜さを克服したいと思う。なぜならそれが何よりも他人と自分を傷つけるからだ。
それらが本当に克服される事と、それらの克服を試みることは全く別の次元の話である。

自分の欲望はすべからく他人の何物かを傷つけて損なっている。誰しもが喜びそうな「オムレツを作りたい欲求」でさえある場合にはだれかを傷つける事をはっきりと自覚している。
人を傷つける事が人間の本質のもつ属性であると言う事を概念として受け入れられても、おいそれと自分自身にそれを適用できようか。
問題は想像力にある。人間一般としての自分が人を傷つけ得る存在である事を認めるのと、自分が具体的にどうやって人を傷つけているのかを知る事の間には大きな隔たりがある。と思う。

ある人の言う事が信頼の置ける言葉で信憑性と説得力があるかどうかは結局その人自身がそうであるかと言うところに大きく関わっている。
だからこそ、少なくとも自分で自分を納得させるために、自分をある程度信頼できるものと思えるようになりたいのである。

自分自身の矛盾を救いがたいほど強く深く感じた年であり、自分自身の成長をとても強く深く願った年であった。

●黒沢清「CURE」(1997/日)

amazon ASIN:B00005HSIR 2007年最後に観た映画は黒沢清の「CURE」となった。
首から胸にかけてをX字に切り裂かれて殺される殺人事件が続発し、それぞれの犯人がそれぞれの現場ですぐに逮捕される。
犯人たちはお互い何の関係も繋がり無くなぜそういう殺し方をしたのかもわからない。
やがてそれらの事件に関わりがあると思われる男が拘束され、その事件を担当した刑事と精神科医がその男を尋問するうちに事件の裏にあるものに徐々に気づいてゆく。という感じのサスペンス映画である。

映画全体を覆っているなんともいえない緊張した不気味さがたまらん。効果音の無いコミカルな音楽の中、引きの遠景の中で行われる殺人シーンもなんともたまらん。殺人やらなんやらの一般的に「異常」と言われるものが余り日常に溶け込みすぎてくらくらする。
やっぱり一番怖いのは人間だった。っていうホラーが一番怖いと常々思うけど、さらにこの映画は誰でもが一番怖くなりうる。という意味でとても怖い。観ている私までおかしくなりそうである。

タイトルのCUREは「癒し」って意味で、この映画の言う癒しとは、自分の中にある両極端の分裂や矛盾を便宜的に正邪に分けた上で、邪の方向性に自分を位置づける事で「本当の自分」なるものに戻ると言う事らしい。
「本当の自分」なる胡散臭い概念は別にして、分裂した自己をどちらか一方に統合させる事でその分裂やら矛盾の解決とするのは、何の解決にもなっていないのが良くわかった。
そんな感じの安易過ぎる癒しは、ただ社会性やら日常性からのダイビングにしかならなくて怖い怖い。である。
自己矛盾はそれらの対立するものの止揚と言うと安易過ぎるけど、そういった類の方向性で解消させる事が出来ればいいなと。そもそも解消が必要なのか??とこの映画を観る事で今になってそう思った。

まぁ自己の分裂とか矛盾とかいった話は、私にとってとても2007年的と言えるかもしれない象徴的なものかもしれない。

良くあるサスペンスな映画とは全く違った変なところから怖さがじわじわ来るような映画であった。

●リュック・ベッソン 「フィフス・エレメント」

amazon ASIN:B000HKDF00 以前から観たかった、リュック・ベッソンの「フィフス・エレメント」をやっとこさ観た。
未来に地球に迫り来る巨大知的物体から地球を救うために遣わされたミラ・ジョヴォヴィッチと彼女を守り導くブルース・ウィリスが必要となる4つのエレメントを探すために旅立つというスペースオペラである。
リュック・ベッソンはずっとこの映画を作りたかったけど作れず、予算の足しにするためにやっつけで作った「レオン」が大ヒットしてこの映画に巨額の資金を投入できる運びとなったらしい。
世評では高予算B級映画という事やったけど、私自身は逆にB級映画を高予算で作ればB級っぽく無くなる。と言う感じやった。何物かの世界観なり価値なりムーブメントを創造した純粋な映画作品というよりは、今までに雑多にあったB級的な価値やシステムをA級の土壌で結実させたある種の典型であると見ればいいのではないだろうか。
ゴルチェの衣装がとても良かった。その衣装を着たミラ・ジョヴォヴィッチとスッチーと受付嬢の美しさがこの映画をA級の土壌に押し上げている。と思った。なんというか金のかける所がフランス人やなぁと思った。
ストーリ的な予定調和と形式美を楽しみつつ画面の美しさを観賞できる面白い映画であった。

ミラ・ジョヴォヴィッチの超人的な強さを持つけど精神的に脆く泣いて助けを呼んでしまうあたりの演出が痛いリュック・ベッソン風味満載であったものの、天真爛漫白痴系キャラがとても魅力的であった。「レオン」とか「ニキータ」よりはこっちの方がいいや。と思った。

2007年12月30日

●「AVP2 エイリアンズ VS. プレデター」

avp2.jpg レイトショーで「AVP2 エイリアンズ VS. プレデター」を観て来た。

前作で宇宙船に回収されたプレデターの腹から出たエイリアンが増殖することで宇宙船がアメリカの片田舎に墜落し、そこからエイリアンが外に飛び出してゆく。その事態の収拾にプレデターが一人、偉そうにおっとり刀で繰り出してくるというもの。

予告編にあるような高校生の恋の鞘当やハンティングに勤しむ親子やイラク帰りの母を持つ親子や人情保安官を巡る物語はエイリアンとプレデターが暴れるための土台である。美味しいスープを作るための鶏ガラや豚骨に過ぎない。良い出汁ほどラーメンが美味しいのである。
これは殺したらあかんやろという人間がフラグも脈絡もなくあっさり惨殺される様は良かった。そうそうあくまで主役はプレデターだもんよ。

エイリアンとプレデターの人間を巻き添えにしまくるおバカなアクションを期待していたけど、どちらかと言うと「エイリアン1」のようなモンスターパニック映画になっていた。期待していた面白さの方向とは違ったけど、映画としてはとても面白かった。

自分を海中のプレデターと自認する土偶は大のプレデター好きであるので、余りにも不注意すぎるプレデターにハラハラであった。人間に背後を取られるプレデターなんかダメダメである。思わず「志村!後ろ後ろ!!」と言いたくなった。でもいかにもどん臭そうに走るプレデターはとても可愛らしかったし、「エイリアン多すぎやん。参ったなぁ…」と言う感じも可愛らしかった。
余りに増えすぎたエイリアンでもって広げすぎた大風呂敷をどう閉じるのかと思っていたけど、えーそれは無いやろー。と言う感じであった。プレデターとエイリアンのボスのタイマンラストバトルの終盤、最後の最後で二人が「ん??」となる感じが面白かった。

難を言えば、暗闇と雨の中行われるアクションシーンが何をやっているのか良くわからない。出てきたものが一瞬エイリアンかプレデターかの区別がつかないのだけがちょっと残念。

前作のエイリアンVSプレデターがバカ過ぎで面白すぎたので、同じ方向のアクション系B級バカ映画を期待したけど、これはこれで良いんじゃないやろうか。プレデターも出てくるモンスターパニックという事でとても面白かった。
何よりも高校生やろうが麗しい親子やろうが人の良い保安官やろうが妊婦やろうが乳児やろうが人間は等しく、エイリアンの前ではただのエサであり、プレデターの前では狩り甲斐戦い甲斐の無い下等動物でしかない感じが良く出ていた。
それになにより次回策を期待させる作りにもなっていた?

年末という事で客層はバラバラだった。後ろ一列はちびっ子二人を連れた家族連れでエイリアン出てくるたびに「ギャッ」とか「ヒャッ」とか驚いて、始終「あ!プレデター」とか「手裏剣や!!」とか五月蝿かった。草創期の西部劇か東映漫画祭りじゃないねんから静かに観照させて頂きなさい。と。
前の二人は日本人離れした髪の色のカップルでやたらとイチャイチャ。お互いの肩に頭を乗せあって頭の位置がやたらと低くて画面は見やすかったけど、この映画はそういう雰囲気になる映画じゃないやろう。もうなんでもいいんかいと。
そのカップルの隣はやたらとハイテンションないかにもヲタな二人組み。人が死ぬたびに笑いそうな勢いで最後の大風呂敷を閉じるシーンでは手を叩いて大喜びしていた。B級バカ映画好きなんやろうなぁ…気持ちは良くわかるけどはたから見てるとイタいなぁと言うのが良くわかった。

関係ないけどチケット売り場のお姉さんが「エイリアンズ ばーさす プレデター」とちゃんと発音してたのが面白かった。

●塚本晋也 「鉄男~TETSUO THE IRON MAN~」 (1989/日)

amazon ASIN:B00005G05Z 金属の棘の様なニキビが頬に出来る事を発端に、全身が徐々に「鉄」に侵食されてゆく平凡なサラリーマンの物語である。
金属部品、ボルト、パイプ、そして股間のドリルと痛みを伴いながら「鉄」が体中を覆ってゆく様が圧巻である。

塚本晋也が低予算で作ったこの映画はローマ国際ファンタスティック映画祭のグランプリを受賞し、彼の名を世界に知らしめる事になった。
この映画が世界中にカルトなファンを持つと言うのが確かに良く理解できる。

ちょっとしたシュールな映画やと思って観たらかなり強烈やった。観ていると結構痛い。ひたすら痛い。血の飛び散り方と噴出し方がひたすらえぐい。子供が観たらトラウマ映画という粋を遥かに超えているやろう。
かといってただのスプラッターではない、とにかく強烈な映像の連続である。痛さとかえぐさが二の次になるほどの強烈な映像である。
面白い、というよりは圧倒されるほどに凄いと感じる映画である。
書けば書くほどその凄さが削がれるような気がするのでこれくらいにしておくけど、スプラッターがまぁまぁ大丈夫で映画が嫌いで無いと言う人はぜひとも観ておくべき映画であろう。

2007年12月29日

●部屋を片付け「色々な事」を思う

部屋の大掃除というよりは部屋の片付けである。
ジョスカン・デ・プレのミサ曲をかけて片付けをしながら過ぎ去った一年をそれなりに考える。

色々な事があった。と自分では思うけど、色々な事が無かった一年など今までの一生に一度たりとも無かったし、これからもそうであろう。でも自分の中の「色々な事」は他人から見てとても見えにくいものであるのは不思議なようでいてあまりに当然だ。他人の「色々な事」を私がどれだけ理解しているだろう。
自分の中で色々な事があった。と考える事とは又別に、誰の中でも少なくともこれくらい同じ色々な事があったのだろう。
自分の欲望を追求すればするほど不幸になってゆく人間なる存在は哀れなものである。なによりも、それを理解していながらもそこから脱する事が出来ずにそうせざるを得ないところが余りに哀れである。
そう考えると人間一般に対して同情と容赦の余地は大いにある。ほとんどの場合その同情と容赦は大抵自分にしか向かないものであってもだ。
順番を逆にして言えば、自分にそういう感情を向けられない人間がどうして他人にそんな感情を抱く事が出来よう。と言う事だ。
そういえば最近「人間は哀れなものである」と感じる機会が多くなったような気がする。

片付けの合間に映画を観て、北京鍋でヤキソバを作って食べる。結局ほとんど一日仕事になってしまった、大方付けの日であった。

●カリガリ博士 (1919/独)

amazon ASIN:B0000844E6 1919年製作と古いドイツのサイレント映画であるカリガリ博士を観た。 原題は Das Kabinett des Doktor Caligari という事でカリガリ博士のキャビネットに入っている「未来を予知する夢遊病の男」を巡る話である。
見せ物小屋、香具師、夢遊病者、予言、連続殺人、拘束衣、精神病院、催眠術などといった怪しげな要素満開な上に、ゆがんだ壁、斜めの床、極端に狭い階段、背もたれだけが以上に高い椅子などの妙な舞台装置で、過剰に不気味なメイクを施した登場人物が過剰な演技をするので映画全体としてなんとも言えない不気味な雰囲気を盛り上げている。
今でこそ多いこの手の精神障害な連続殺人な映画の原点と言っても良いのだろう。

これも子供の頃に見るとトラウマ映画になる類のものに違いない。映像が怖いというよりは映画全体に漂う雰囲気がなんとも不気味な、意外に複雑な構造の物語の映画であった。

●デイヴィッド・リンチ 「マルホランド・ドライブ」 (2001/米=仏)

amazon ASIN:B000063UPM デイヴィッド・リンチ 「マルホランド・ドライブ」を観た。この監督の映画を観るのは三本目であるけどやっぱり良い感じ。とても気に入った。

これほど説明しにくい映画は無い上にストーリーを説明する事自体がほとんど意味が無いような気がするけど、ハリウッドの映画業界を巡るラテン系フェロモン女子とブロンド系可愛い女の子の話であるとしか言いようが無い。しかも普通に見ただけではストーリーの流れすら追えない、悪夢と表現するのが一番的確なような気がする。

「イレイザーヘッド」で特に顕著やったおぞましさの中にある美しさというのがこの映画でもとてもよく現れていたように思う。
可愛い系の女の子を演じていたナオミ・ワッツがこの映画を機にブレイクしたらしいけど、確かにぶっ飛んでキレた演技は凄かった。
まともに見えて全くまともで無い人ばかり出てくるこの悪夢のような映画はかなり気に入った。
こういうのを「デイヴィッド・リンチ的」と言うのやろうけど、この系統が好きな人にはとてもお勧めである。

2007年12月28日

●北京鍋と中華お玉

pekinnabe20071228.jpg
先日「似非ナシゴレン」を作った時に使った北京鍋とお玉が余りに使いやすかったのでずっと欲しかったのだがとうとうゲットした。ちゃんと厨房専門店まで行って選んだのだ。一枚の板から作られている深めのものをチョイスである。
しかし厨房専門店ってのは見てるだけで楽しいねぇ。小指くらいのササラからテニスラケットくらいの「おろし金」や熊でも茹でられそうな鍋まで見た事無いようなものが沢山である。余裕で一日ここで遊べるだろう。しかし、鍋を選んでいるだけでなぜかお腹が空いてくる不思議な自分を発見し、人体の不思議すら感じるさせるお店であった。

という事で早速家の子になった北京鍋を空焼きして塗装を飛ばして更に焼く焼く。「焼き込み」終了後にチャーハンを作るのやけどこれはとても返しやすい。鍋の形状は手首のスナップを利かせてゆするだけで綺麗に裏返るし全体に火が回りやすくもある。これでチャーハンを作ればフライパンとは別次元のパラパラの出来栄えである。強火での炒めものはこれに限る予感である。

チャーハンを作って皿に盛った後に、以前買ったフライパンでオムレツを作って上に乗せて切り開き逆さオムライスとすれば、私の料理作りたい欲求を限りなく満たせるのであった。

2007年12月27日

●20T→18T

朝から自転車を洗う。チェーンを外して洗剤と灯油で徹底的に洗う。ピスト君のスプロケットを20Tから18Tに替えて少しだけ高速仕様にした。

この日は殆ど思いつきで決まった忘年会第二部という事でまぁまぁ近所の居酒屋に出かけた。色々な人に囲まれて色々な気遣いを貰い色々な繋がりの中で生きているのだなぁとつくづく思う。しかし色々な人が色々な相関ベクトルを交差させて集団の中にある事は人間の哀れさの一形態でもあるだろう。

自己顕示としての「喋りたい欲求」と興味と好奇心としての「話を聴きたい欲求」のバランスが保たれている場はとても心地が良い。一方、人の話を奪い取って踏み台にしてまで喋ったり、自分の事は全く話さず人にだけ話させるのは、やっぱり対等な者同士間で使う話術ではないよなぁ、俺は大丈夫やろうかなどと思った。

2007年12月26日

●ジャン・リュック・ゴダール 「勝手にしやがれ」(1959/仏)

amazon ASIN:B00006F1UY ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」を観た。前の「気狂いピエロ」に引き続きゴダール二本目であるけど、こちらはこの監督の長編第1作となるらしく、例のごとく「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表作らしい。
車を盗んで追って来た警官を射殺し、警察に追われつつ金策しつつ好きな女を口説いてイタリアに行こうとする男とその男になびきそうになったりそうで無かったりする女の物語。

話としては「気狂いピエロ」に比べればわかりやすかった。初めてロケ中心で映像を作り、「ジャンプカット」を多用した構成で当時は革命的な効果を上げたらしいけど、今となっては良くある手法と言う事でスピード感を感じる程度だった。

最初から最後までタバコを吸い続けるジャン=ポール・ベルモンドの刹那的の粋を超えた滅茶苦茶さとカッコよさ、ショトーカットで色んな服を着て出てくるジーン・セバーグの滅茶苦茶な可愛らしさ。
この二人を見てるだけでなんか納得させられるもんがある。
「海が嫌いなら 山が嫌いなら 都会が嫌いなら 勝手にしやがれ!」
「密告者は密告し、強盗は強盗し、人殺しは人を殺し、恋人は恋をする」
ってこの台詞がこの映画を表わしてるような気がする。

フランス映画は何が言いたいのかわからん。と良く思うのやけど、魅力的な美男美女にオサレな恰好させて恰好良さげな台詞を喋らせたいだけちやうのん。と。
そんな事は無いやろうけど、たとえそうやとしても、それだけで必要にして十分歴史に残ってしまうわけで凄いなぁと思った。

●ザ・シューター 極大射程 (2007/米=カナダ)

amazon ASIN:B000UWZMTC スナイパーものと言う事で結構最近の映画「ザ・シューター 極大射程」を観た。
原作は「このミステリーがすごい!」の2000年海外部門で第1位になったスティーブン・ハンターの「極大射程」なる小説らしい。
海兵隊屈指の狙撃手が何やかんやと陰謀に巻き込まれて何やかんやと罪を着せられ、彼は汚名を晴らすべく立ち上がってなんやかんや…という話。

大抵の狙撃系のゲームがそうなるように、映画館で観て来た同じ職場の某氏によれば「だんだんスナイパーじゃなくってコマンドーになってきた。」という話やったけど、私自身はとくにそんな印象は感じなかった。
日用品を使ってIEDを作ったりサバイバルしたり、途中で相棒になった男をスナイパー兼サポートに仕立てて自分が強襲するところも良い感じであったし、冒頭と雪山での狙撃シーンも中々良かった。

原作は銃と狙撃へのこだわりが渋すぎるという話やけど、この映画はスナイパーだけでない部分も加味されたようで、ハリウッド的アクション娯楽映画として十分面白かった。

●サム・ライミ 「キャプテン・スーパーマーケット(死霊のはらわたⅢ)」(1993/米)

amazon ASIN:B0000AFOMF 「キャプテン・スーパーマーケット(死霊のはらわたⅢ)」(1993/米)を観た。
原題は「Army of Darkness」邦題は「キャプテン・スーパーマーケット」と配給の関係で「死霊のはらわたⅢ」を名乗れなかったものの、ストーリー的にはこのシリーズのパート3にあたる。
「死霊のはらわたⅡ」で中世に飛ばされた主人公アッシュが元の時代に戻るためにアーサー王と共闘して死霊の軍団と戦うと言う話。

前作二つは一応まがいなりにもホラーやったけど、この「キャプテン・スーパーマーケット」になって完全にコメディーになった。
見れば見るほど友人Bっちに似ているブルース・キャンベルのアクションと一人芝居が冴えまくる。コメディーと言うもののアクションシーンも中々恰好良かった。冴えない青年だったはずのブルース・キャンベルがいつの間にかヒーローになっている。

CGで作ればいいところをコマ撮りにしたり、わざととしか思えないちゃっちいマシンとちゃっちいガイコツ軍団が出てきたりとB級テイスト満載。B級の中のB級といった感じでとても素晴らしかった。このシリーズのⅠとⅡを楽しめた人はぜひ観ておくべきだろう。
「くだらね~あひゃひゃひゃ」という感じの映画である。

私の観たDVDには未公開シーン集とDVD版とは別のエンディングが入っており、エンディングについてはこちらの別の方が良い感じであった。

2007年12月25日

●これでいいのだ?

この日で某氏が最後っつんでちょっとした挨拶をする。んでもってちょっとだけ喋る。
死んだ人間に大抵の事は許せるというように、去って行く人間にも大抵の事は許せるものだ。

しかしそれとは別に、その個人の特定の属性を疎ましく思うことでその個人を否定的に思っていても、その個人そのものと向き合って喋っているとその疎ましさや否定的な気持ちがぐらっと揺らいで憐憫の情が湧き上がって来る。
その人本人が変に無防備で開けっぴろげなところが余計にこちらの変なポイントを刺激する。
こうなるのが本当にいい形なのか?こうなる前に何か出来たのではないか?なんとなく限りなく後悔に似た感情を抱く。

特定のある人を概念として憎悪する事は容易であっても、その人個人そのものを面と向かって憎む事は容易ではない。
近づけば近づくほどその個人の憎むべきポイント意外のものが見えてくるし、またその個人の背景にちらつく色々なものが見えてくるからだ。
逆に、印象なりイメージが良い人も、余りに近づいて見ると、良い部分でないところが見えてくる事もあるわけで、人間同士の距離感は難しいものである。

直接的な利害の対立が無かったわけでも無いし、こちらが見て相手を非難すべき点はとても多かった。しかし向こうからすれば私に対してもそうであろう。あるいは相手からすれば私などそうするだけの相手で無かったかもしれない。
真実はどちらにありや?という良い方は簡単やけど、立場の違いとも言えるし、客観的に見ればどちらの言い分も等価である。
たとえ何も出来なかったとしても、何をしても無駄だったとしても。ちょっとした後悔が皆無ではないし、自分の態度やら言動に反省すべき点は非常に多い。
そういう意味でちょっと後味が悪くもあったりした。もう少しちゃんと喋っておくべきだった。とも思ったし、こんな事が無ければ良いのにな。とも思った。

2007年12月24日

●年中行事

クリスマス・イヴに過剰に反応する人間はアレだという事で。過剰に反応してみる。
そこらじゅうがLEDやらムギ球やらでギラギラして眩しい。やたらとフェラーリーが街中を徐行しているのを見た。やたらとサンタ帽子を被った異邦人を見かけた。
そんな何やかやは、クリスマスを宗教行事ではなく年中行事だと捉えれば何の問題も無く理解できる。
年中行事の一環として、サンタさんが各家庭の子供たちにプレゼントをばら撒く事になっているのだと。
しかし、サンタさんがなぜそんな事をする必要があるのか、なにがそんな事をするほどめでたいのか。ってところに疑問を持ってしまうと年中行事だけは根拠として薄すぎるから、やっぱり宗教行事にしかならんやんつうことか?
しかし、なんだか街中はやたらと人が少なくガラガラだった。何故に??

amazon ASIN:B000065E7L 折角なので、J.S.バッハ「クリスマス・オラトリオ」の「クリスマス第1日礼拝のためのカンタータ」 を聴いた。
キリストが生まれたからって、幾らなんでもそれはちょっと喜び過ぎじゃね?と思った。宗教曲でビブラートさせる唱法はあまり好かんなぁ。モーツァルトのオペラやとノリノリやねんけどね。
そういうことで、宗教曲と言うよりはオペラっぽく聴こえた。そういう風に聴くといいかも。

2007年12月23日

●「アンダルシアの犬 」(1928/仏) / 「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006/米)

amazon ASIN:B000J6HYOA 「レディ・イン・ザ・ウォーター」はなんとなくホラーやと思って全くの予備知識無しに観たのやけど、全く怖くなかった。
「水の精」を中心にした創作おとぎ話の映画化であった。裸すら映すのを避けていたので子供向けの映画なのだろう。
何かを評する時に「可も無く不可も無く」と言うと否定的なニュアンスに聞こえるけど、この映画はそういう事は無く本当の意味での「可も無く不可も無く」であった。
このM・ナイト・シャマランなる監督が好きな人は直球勝負で楽しめるらしい。
でも、そうでない人はあえて観る事も無いだろう。かな?

amazon ASIN:B00006GJI7 ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬 」(1928/仏)を観た。ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリが脚本を作り、どちらも作品中に登場している。
シュルレアリスムの実験的ショート・フィルムということで15分程の短い無声映画やけど、映画史的にはそれなりに重要な映画らしい。

道端に落ちている手首を棒で「つんつん」する美少女の死を見て性欲が暴走し、胸を「もみもみ」しながら白目を剥いて血のよだれをたらす男の表情が笑える。
なぜか二人の修道僧とロバの死体を乗せた二台のグランドピアノを引き摺って女性に迫る男が笑えた。
口紅を塗ると口の無い男の口のあたりにも色がついて「はっ」として自分の腋を点検する女性が笑った。

シュールとかカルト映画とか言われててストーリーなんかあってないようなもんやと言われてるけど、ちゃんとストーリーがあってしかもメッセージ性まであって意外に面白かった。更には「くすっ」と笑える点も多く、しかも最後はハッピーエンドっぽくなってるし(w
方向性としては「イレイザーヘッド」やろうね。というか「イレイザーヘッド」がこの映画の方向性と言うべきか。この手の映画はこのくらいの短さで逆にいいのかも。

かの有名な冒頭で女性の眼球を剃刀で切り開くシーンは全く大した事無かった。全然恐く無い。これでビビって観るのを躊躇している人は臆せずに観てみよう。観ておいて損は無い映画である。
観終わってもBGMのアルゼンチン・タンゴが頭の中で鳴り続けている。そんな映画だった。

2007年12月22日

●烏賊牡蠣オムレツ祭り

「筋肉さんお帰りやす年忘れオムレツ祭り」ということでオムレツを作りまくり黒糖梅酒を飲みまくる。
スルメイカ二匹を解体。胴をはずして目を取る時に「アンダルシアの犬」とか言っていのだが誰も気づかなかったのがちと悲しかった。
「イカそうめん」を作っているつもりがだんだん作業が雑になり、気づけば「イカうどん」「イカきしめん」になっていたのもちと悲しかった。
「塩辛く無い塩辛」は名が体を表わしていないにもかかわらず、そのものを指している。言語って不思議である。

酢牡蠣、牡蠣フライ、牡蠣ホイル焼き、まで作ったものの、牡蠣フライを所望されて予定の牡蠣雑炊は牡蠣フライへと変更。
雑炊予定のご飯は筋肉さんが現地から持ち込んだ「ナシゴレンの素」で「似非ナシゴレン」に。

結局、卵15個ほどを消費してひたすらオムレツを作りまくったが、自宅のフライパンに慣れきっている自分を発見した。

確かに時間は過ぎて、我々はそれぞれ日常的に交差しようの無い遠いところに立っている。気づけば我々皆が色々なものに隔てられたところに運ばれている。
しかし一方で、我々皆はある特定の時間から全く変わっていないようにも感じる。実は本当はなにも起こってなんかいないのではないか?とすら思う。

ある面から見れば人間は「移り変わり」である。「今日の私は昨日の私を否定する」とまでも言わなくても、人間は日々変わり続けている。
しかしその特定の個人がその個人で無くなるわけでは無い。
土偶は日々変わり続けながらも土偶である事は永遠に変わりが無いのである。
私は日々変わり続けながらも存在としての私は不変である。ゆえに私をその属性たる言葉で説明する事は不可能であるし、そこに人間存在の根本的な分裂の根があるような気がする。

そんな事はともかく、「縁」とはつくづく不思議なものだ。と思った病み上がりの夜であった。

2007年12月21日

●屍で無いなら返事があるとは限らない件

朝起きると、昨日風邪で臥せっていたのが嘘のようにほぼ治っている。
今日は休む事になっていたので、嬉々として二度寝の安楽の淵に潜る。

昼ごろに起き出してオムレツを作り昼食とする。
コタツとパソコンの電源を入れてその前に座る。
年賀状作成、ヤフオク、年賀状印刷、ヤフオク。
そういう感じで病み上がりの午後は過ぎて行く。

ラーメン部二代目部長に触発されて買ったウェスタンなブーツが届く。
だがロングブーツを履きこなす程の技量なしの故にショート丈を履く。

«返事が無い、ただの屍のようだ≫と思いつつ。
宴会お誘いメールの返信は結局無かった件に欝。
人が変ったのを知るのは何とも悲しい物である。
しかしながら私はなにも変らず前と同じである。

これからも相変わらず屍に向かってメールを送り続ける事になるのか。
そう考えるとやりきれないけど本当にやりきれないのはどっちなのか。

2007年12月20日

●肉体的アラート

この日は朝からお腹がちょっと痛かった。
「寒い」「お腹すいた」「村々」意外の久しぶりの肉体的アラートやと思いながら出勤するも、昼前ごろから急激に頭がフラフラする。
これは絶対風邪やんけ…これは明日来ない方がいいかもと言う事で、関係者一同に「明日休むし宜しくメール」を送信した後に限りなく定時に帰宅する。

フラフラして帰宅してご飯を食べたもののあまり食欲が無い。三大欲の二つまでが限りなく肥大した私であるけど、その中の一つが減衰していると言うのはとてつもない非常事態である。
風呂にも入らず葛根湯を飲んで直ぐに寝た。

二方向から剛掌波と銛の挟み撃ちを食らった某氏の萎れっぷりに微笑を禁じえなかった。
しかし、世の中にはありとあらゆるトラブルの種が満ち満ちており、それを完全に避けて歩く事は不可能である。結局依るべきものとなるのは己の心であり、己の信であり、対象に対する愛の度合いである。「魚心あれば水心あり」といったところだろうか。

2007年12月19日

●岡本喜八「座頭市と用心棒」 (1970/日)

amazon ASIN:B0000AXM2M 岡本喜八「座頭市と用心棒」 (1970/日)を観た。
「少林寺 VS 忍者」から「プレスリー VS ミイラ男」まで「何々 VS 何々」なる系統の映画があるけど、これはレンタル屋で見かけて「むむ、絶対見とかんと!」って事で借りてきた。

シリーズとしては座頭市シリーズになるらしいけど、その座頭市の賞金首を狙う用心棒は黒澤明の「用心棒」と「椿三十郎」の桑原(椿)三十郎そのままのキャラで三船敏郎が演じている。
座頭市シリーズとしてはちょっと異色らしいけど、三船敏郎だけでなく若尾文子も出演していることもあり、当時は「時代劇頂上対決」として大きな話題となった座頭市シリーズ劇場版最大のヒット作らしい。

ストーリは黒澤明の「用心棒」に似ていて、町に居ついた対立するヤクザもの達を戦わせて自滅に追い込むという話である。
私自身は座頭市シリーズを見たことがないんやけど、勝新太郎の飄々とした演技はいい感じであったし、群がる雑魚どもを逆手に持った仕込み杖の変則的な型で切り捨ててゆくタイプの殺陣もいい感じであった。
太刀で受けて脇差を刺すって感じの三船敏郎の二刀流が「おおっ!」であった。

用心棒と座頭市の直接対決もあるけど、どちらも一瞬で相手を斬る居合斬りのタイプのこともあって大立回りは無く、まぁそうなるわなぁ…って感じの対戦結果であった。

でもまぁ「用心棒」や「椿三十郎」に比べると作りが中途半端なような気がするのは当然か。黒澤明の静と動のメリハリというか、ピリッとした雰囲気はあまりなくてごちゃごちゃしたような印象を受けた。
お互い強すぎる個性が余り良い方に生かしきれなかったような、例えば「刺身のマーボー」や「カレー鰻丼」などのような感じだろうか…

タイトルも「座頭市と用心棒」で何処にもバーサスやVSとも書いておらず、本来なら勝新太郎と三船敏郎の対決がメインでなく、あくまで座頭市の話のはずやけど、見るほうはどうしてもそう観られず、やっぱり二人の対決を望んでしまうわけで、そのへんが期待はずれになってしまうのが損な役回りの映画であるなと思った。

2007年12月18日

●パリは燃えているか

無いこと無いこと言われて、特定の個人の特殊な個人的欲求と推測される動機によるものが私の意図ということになってるのは決して気分の良いものではない。
その特定の個人が何も無いところから何物かを創造するのはいつもの事ながら、今までそれはその特定の個人について多少なりとも理解している人たちのだけの輪の中であった。
しかし今回のようなパブリックな場でのそんな出来事は、その特定の個人と土偶をよく知らない人たちは当然私が意図した出来事であると本当に思っているだろう。
人の数だけ真実があるという見方もあるし、言った言わないの話は不毛でしかない。しかも、釈明するのもバカらしく、釈明すればするほどバカらしさの上塗りになる事でもある。だから釈明はしなかったし、今もするつもりは無い。真実は我にありと念じつつやれやれと首をすくめる他は無い。それでもこれはあんまりである。と私にとっての真実はそう告げる。

仲間内ならネタで済む事も別の関係性ではちょっと洒落にならない事もある。正直「助かった…」と言う他は無い。まあいいだろう。この事が私の意図によるもので無いとしても、全く私に非が無いわけでもないのだから。私が学ぶところが無いわけではない。
まだ大丈夫である。と思う。しかし、何事にも程度と限度というものがある。

なによりも、何処の世界にも誰の世界にも自分だけは、我々だけは特別という前提は絶対に成り立ち得ないのを忘れてはならないのである。

と某氏の炎上と燃料投下に誘爆してみた。

話は変わる。
我々は世界にある色々な事象を理解したいと望みつつも、実際我々の周りの世界には理解を超えたものが数多くある。むしろ理解できるもののほうが少ないと言ったほうが良いだろう。
理解し得ない欲求から端を発する理解し得ない動機に基づく理解し得ない言動は、理解しようとするからこそ混乱が起こるのであり、理解しようとする試みを放棄していればなんと言うことは無い。それが自分の利害と対立しない限り、私には係わりの無いことだからだ。
しかしながら、降りかかる火の粉は払わねばならないのもまた事実である。善意からであろうが悪意からであろうがそのどちらからでも無かろうが、火の粉は火の粉だし何らかのトラブルは何らかの方策によって除去しようと、あるいは解決しようとするのは当然である。
そして、こちらにとって脅威になるとしか思えないものは、本当の脅威になる前に先制攻撃しておくべきだとする「先制的自衛権」なる考え方もまたある。

また話は変わる。
迷惑をかけ続けて、あるいは相手を拒否し続けて、どれだけ受け入れて許して貰えるかを物差しとするような人間関係は好みではない。またお互いのダメさ加減や弱さ加減を是認し合うことでバランスを取って成り立つ人間関係も好みではない。さらには相手の寛大を前提として成り立つような関係も可能なら避けたい。それらは関係性の前提を断ち切る事が出来ない肉親同士で成り立つ荒業である。というかそんな人間関係は子供から大人になるにつれて脱するべき関係性であると思う。
「弱さ」はそこに溺れて開き直る為にあるのではなく、自らを謙遜にさせてそれを克服しようと試みることで自分を高める為に使うべきであると、個人的には思う。あくまで個人的に。

我々に理解できる事は余りにも限られている。理解し得ないものが、理解しようと骨折るだけの価値があるのかどうかを見極めるのはとても難しいし、色々なパワーバランスの中で怪我をせずに世界を歩くのはとてつもなく難しい。だからこそ人はなるべくギャンブル性が少なく有用性と即効性の高そうな真実を求めようとするのである。
それは求める真実のレベルの差ではなく、考え方の違いでしかない。と思う。

そして、無からにしろ有からにしろ、何物かを創造するならせめて意義のあるものを作りたいし、作られるところを見たいと思った。

2007年12月17日

●カーティス・ハンソン 「L.A.コンフィデンシャル」(1997/米)

amazon ASIN:B00005FPME 「L.A.コンフィデンシャル」観た。以前ごら氏に進められて観ようと思っていたのやけど、レンタル屋さんにはビデオだけでDVDが無かったのでビデオで観た。

米アカデミー賞で史上最多タイ記録となる11部門を受賞した「タイタニック」と同じ年に公開されたおかげで、同賞2部門のみの受賞となったけど、見た人の殆どが褒める評判のいい映画である。刑事を演じたラッセル・クロウとガイ・ピアースの出世作にもなったらしい。

ストーリーはロサンゼルスで起こった被害者に元刑事を含む殺人事件を発端に、個性ある三人の刑事が色々な物語にかかわってゆくというもの。
ストーリーも演出も役者も素晴らしい、まさに映画らしい素晴らしさを持った面白い映画であった。

警察組織を「公営のヤクザ」と呼ぶような見方があるけどまさにそんな感じであった。拷問はあるは私刑はあるわ「おーすげー」である。
特にラッセル・クロウの尋問シーンは滅茶苦茶であまりにヤクザで大笑いである。疑いなく「正義」といえるような刑事が誰一人としていないのがなんとも良い。それでいて警察がこうであってくれれば頼もしいなと思わせる描き方も素晴らしい。
そして、主演女優賞を取ったキム・ベイシンガーは自らは何も語らずに、結果としてラッセル・クロウに陰謀を巡る真実を教える事になるわけで、そのあたりの構成もうむーと感心した。
ガイ・ピアース、ラッセル・クロウ、ケビン・スペイシーのお互いに食い合わない三者三様のキャラの立ち方がよかった。
ごら氏の言っていたケビン・スペイシーの死に際の演技と死んでからの演技はすざましいまでに凄かった。
新米のガイ・ピアースが成長して最後に自分の悪さだったものを正義のために使うところはグッと来るものがあった。
なによりも三人が三人とも何らかの形で報われているのも良かった。

これといった欠点が皆無の、面白い上に中々に深い、そんな映画であった。

2007年12月16日

●スタンリー・キューブリック 「アイズ ワイド シャット」(1999/米)

amazon ASIN:B00007HS8J スタンリー・キューブリックの遺作となった「アイズ・ワイド・シャット」を観た。
倦怠期にさしかかろうかという夫婦を巡る性的、浮気「的」騒動にまつわる話を描く映画で、トム・クルーズとニコール・キッドマンのリアル夫婦が主演であるところが話題になったらしい。
普通ならあえて観ようかと思うタイプの映画じゃないけど、監督がスタンリー・キューブリックということで。

結局この映画は、特定の個人の、特定の問題に対する解答を提示したものという事になるのではないだろうか。例えばキューブリック個人の思う「夫婦」や「性」についての問題のある種の回答である。という風に。
しかしながらこれは映画的というよりは文学的なテーマであるようにも思う。
年取るとなんか説教臭くなるというのは本当だなと思ったけど、聞いててうるさいような説教でもない。説教臭いにもかかわらず最後の最後で言い放たれた単語が良かった。

事件が起こりそうで起こらず、巻き込まれそうで巻き込まれず、陰謀のように見えて陰謀でなく、道を踏み外しそうで踏みはずさない。というのが続く、全体的には盛り上がりそうで盛り上がりきらないストーリーでもある。
そういうストーリーにすると映画としては全く面白くなくなりそうなものやけど、完璧主義のキューブリックらしく、逆にそこがリアルに生々しかった。確かに現実なんかそんなもんであると思う。人生そんなにドラマチックじゃない。
他人から観ればあまりにも些細な事を問題にしたり悩んだり、知らない内に危機を回避していたり、結局は最後の一歩を踏み出さずモラリティーに頼ってみたり、そんなモラリティーに頼った自分を誇らしく思ったり。現実の人間はそんなものである。
乱交シーンや夫婦間の話があまりにチープすぎるという指摘がweb上の感想で多かったけど、そのチープさが逆に生々しいのだ。現実は往々にして余りにもチープなものやと言う意味で。
トム・クルーズの格好よくて小金持ちでモテモテやけど至ってノーマルで常識的な凡人。てなキャラクターの彼の演技は変に真に迫っていて良かったと思う。

幾つもの伏線を寸止めで最後まで引っ張っておきながら最後の最後まで何も起こらず、それでいてそれなりのカタルシスを得られる映画も珍しい。
役者が豪華であるがゆえに逆にそこに目が行くけど、ミニシアター系の映画としてみればいい感じなのではないだろうか。

でも良く考えればこんなに時間と金を使ってミニシアター系を作る事は無いわな。と言えなくもないし、大体2時間半は長すぎる。
とは言ってもこんなに大量に感想を書いてるって言う事は、それなりに気に入ってるのかも…

2007年12月15日

●ジョン・ウー 「男たちの挽歌」(1986/香港) / 「男たちの挽歌II」(1987/香港)

amazon ASIN:B00005FPSQ amazon ASIN:B00005FPSR ジョン・ウーの「男たちの挽歌」「男たちの挽歌II」を観た。今までずっと見たかったのやけど、やっと念願叶う事になった。
カンフーとコメディばかりだった香港映画に「香港ノワール」なる潮流を作り、また後のハリウッド系のガンアクションにも決定的な影響を与えた、元祖ハンドガン両手撃ちの映画であり、監督のジョン・ウーとチョウ・ユンファの出世作ともなった。
原題は「英雄本色」、英題は「A Better Tomorrow」であるけど、語呂としても題が内容を表わしていると言う面でも邦題の「男たちの挽歌」が一番良いように思う。

今まで見て無かった私が言うのは何だが、少年漫画的三大要素の「友情、勇気、任侠」が過剰に詰まった、男の子たるものこの映画を観ておかなければお話になるまい。と言うような映画であった。

ひたすら撃ちまくり殺しまくる映画やと思っていたけど、アジア映画特有のやたらと馴れ馴れしい親子愛やとか兄弟愛やとか友情を描く部分が多く、組織を抜けて堅気に戻ろうとするけどヤクザものばっかり纏わりついてきて困った困った。てなかんじのウェットな描写も多かった。映画全体の雰囲気としてはもうダサくて熱くて恥かしい。
しかしながら、出てくる役者の「漢」度合いが最高に素晴らしい。「Ⅰ」のチョウ・ユンファとティ・ロン、「Ⅱ」はそれに加えてディーン・セキとタクシー会社の社長のケン・ツァンまで加わって最高に漢臭い。
狙撃は行わない、敵の銃は拾って使わない、急所は狙わない、一人につき5発は打ち込む、銃は全弾打ち尽くすまで使う、ホールドオープンしたらマグチェンジせず捨てて次の銃を使う、という美学が貫かれているところが余りに漢である。ショットガンのスパス12まで8+1発を打ち尽くしたら捨ててしまう。あ~勿体無い。

出てくる銃器でサブマシンガンやアサルトライフルや自動拳銃は使用弾薬が9mmパラベラムのもので統一されて弾薬の互換性を保ち、ハンドガン両手撃ちは左手撃ちにも配慮してあるベレッタのM92を使うという事で銃器マニアにも納得できる設定である。
しかしながら「Ⅱ」の最後の殴りこみシーンで残り弾数を予測するために撃った弾の数を数える野暮は禁止である。デコの後退しているティ・ロンに「志村~マグチェンジ!マグチェンジ!!弾切れるって!!」と心の中で呟くだけにしておこう。

「Ⅱ」の階段を背中で滑り降りながら両手撃ちするシーン、チョウ・ユンファが中野浩一似の男(私は心の中で「エージェント中野浩一」と呼んでいる)と対決するシーン、血と死体の海で三人そろってソファーに座っているシーンは余りも「漢」心をくすぐって止まない。
ひたすら男心をくすぐり、見終わった後にはガスガンを二丁構えてティッシュの箱を穴だらけにしたくなるような、そんな素晴らしい映画であった。

「男たちの挽歌」シリーズとしては「Ⅰ」と「Ⅱ」がストーリーとして連続しており、「Ⅲ」は話としては「Ⅰ」の過去であるけど、チョウ・ユンファが出てるものの監督はジョン・ウーでなく、「Ⅳ」に至ってはジョン・ウーにもチョウ・ユンファにも関わりが無いらしく、観たものかどうしたものか考え中。

2007年12月14日

●黒澤明 「乱」 (1985/日)

amazon ASIN:B000086F7U 黒澤明の「乱」を観る。ウィリアム・シェイクスピアの『リア王』を下敷きにした人間の業を描く物語と言う事になっており、なんだか「娯楽映画」では無かった。芸術や思想であると呼ばれる映画を目指しているように見えた。このあたりがイマイチ古くからの黒澤明好きに評価されないゆえんだろう。
「黒澤明」で想像されるものを望んで見ると期待はずれになるけど、そう思わないで見れば悪くは無いと思う。これは面白かった!という印象は無いけど不思議に目の離せない映画だった。ただちょっと長すぎる。

凄いと前評判のあった馬での合戦のシーンはそれほどとは思わなかったけど、銃と矢での攻城シーンは凄かった。それからワダ・エミの衣装も良かった。
原田美枝子演じる「楓の方」の毒婦ぶりが怖くて凄かった。いきなり脇差を抜いて突きつけるシーンは「ひょぇ~」である。
仲代達矢演じる老いた大殿が黒澤明にオーバーラップして見えてなんだか悲しかった。
この大殿を三船敏郎が演じていたらまた違う映画になったんやろうなぁと思った。

2007年12月13日

●黒澤明 「赤ひげ」(1965/日)

amazon ASIN:B000UH4TU0 黒澤明の「赤ひげ」を観た。
原作は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』で、江戸の貧民たちの診療所に配属された若いエリート医師が、「赤ひげ」なる所長や様々な人間たちとのかかわりの中で成長してゆく様と、貧民たちの様々なエピソードが語られる。というもの。

デヴィッド・リンチの映画を観た後のこの映画を観るとあまりにまとも過ぎてくらくらしてくる。
「どん底」の貧乏長屋のように「貧乏」が病の直接的な原因になり、また「貧乏」自体が病ともいえるような状況、そして何よりもそこから生まれる「心の病」の描写というか演出いうか演技がなんともたまらん。
三時間過ぎと途中休憩が入るほど長いけど、最後まで目を離すことなく観てしまった。
黒澤明の映画は娯楽としての方向性を突き詰めたがゆえにすごいと言われるのやと思うけど、この「赤ひげ」もヒューマニズムの方向性で娯楽を目指したが故に良い映画となったのであろう。
監督が黒澤明というだけでなく、三船敏郎がいてこその映画である事も間違いない。それから子役の「どですかでん」の六ちゃんも中々いい味出していた。
ちなみにこの映画は黒澤明の最後の白黒、最後の三船敏郎の出演作でもあるらしい。

この映画の中の世界では結局のところ病気になるのも病気が治らないのもすべて貧乏から来ているわけで、病気から完全に治癒するには貧乏から脱却すること以外に無いように見える。

医者はある程度の病気の治療は出来るけど、貧乏を治療することは出来ないわけで、根本問題は医学とか薬学の問題ではなく、貧困や富の配分の問題になるわけである。
根本的な問題は貧困やけど、医者である「赤ひげ」はそこに手をつける事は出来ず、自分に出来る最大の力である医術を振るって表面上の問題である疾病に対峙するしかないわけである。当然根本の部分には何の手も入っていないので、彼自身も言うように、やってもやっても殆ど意味が無いし、彼はそれをわかっていながらもやらざるを得ない。

個人の世界や社会に対する関わりというのはこのようなものにしか成り得ないのではないか。世界や社会の根本の問題に直接的に関わることが出来なくても、現象としての部分に自身の仕事や特殊性を生かして関わることで世界の問題に関わっていることになるのではないかと。
例えばちょっとしたWebDBシステムを作ってみたり、壊れたパソコンを直してみたり、スピノザを研究してみたり、仏法を説いてみたり、お香を売ってみたり、図書館で本の相談にのってみたりといったことは直接的に社会や世界の根本問題に関わることは無くても、現象としての部分に関わることでその根本問題に繋がっているのだと。
仕事ってのはこういう風であるといいなと思った。

2007年12月12日

●デヴィッド・リンチ「ブルーベルベット」(1986/米)

amazon ASIN:B00008ILLF デヴィッド・リンチの「イレイザーヘッド」を観た次の日に、同監督の1986年の作である「ブルーベルベット」を観た。
ストーリーは父の病気のために帰省した大学生が野原で人間の耳を拾い、その耳の謎を解こうとする所から変な世界に巻き込まれてゆくというもので、「イレイザーヘッド」に比べればとても普通の映画に見えるけど、やっぱりこの監督はどうかしてると思わせるところは盛りだくさん。

デニス・ホッパーと無理やり彼の愛人にならされているベルベット彼女の変態具合が「うへぇ~」なんやろうけど、よく考えれば主人公の爽やか青年も中々の変態やと思う。
このくらい簡単にアブノーマルとノーマルを行き来するのはあまりにバランスが良すぎて逆に変態としか思えん。主人公のそこはかとない不気味さはその辺から来るのやろう。
映画自体も主人公同様にノーマルな部分とアブノーマルな部分の切り替わりの妙でなんとも言えん雰囲気であった。

「イレイザーヘッド」にあったようなカフカ的不条理さと不気味さはプロローグとエピローグともいえる最初と最後でとても強かったし、陰謀やら秘密にまみれたメインストーリーよりも、明らかにハッピーエンドな後日談であるエピローグの方がシュールな夢のように思える。
ストーリーとしてはサスペンス映画やねんけど、それだけじゃないあまりに混沌とした変な印象を残す映画であった。
この映画を見ると「イレイザーヘッド」はある意味でとても純粋な映画やってんなーと思った。

そういえば「スターシップ・トゥルーパーズ」を勧めてくれた昔同じ職場だった映画好きのY氏に「土偶君はデヴィッド・リンチとかええんちゃう?特にブルーベルベットとか?」と言われていたのを思い出した。確かにそうかも。

2007年12月11日

●デヴィッド・リンチ 「イレイザーヘッド」(1977/米)

amazon ASIN:B00005G047 デヴィッド・リンチのデビュー作というか卒業制作である「イレイザーヘッド」を観た。
女友達に呼ばれて家に行くと、子供が出来たことを告げられて結婚することになり、子供の泣き声に耐えられず実家に帰った妻の代わりに気持ちの悪い子供を世話する事になる主人公の話だった。

とは言ってもストーリーなど無いに等しい。おまけに台詞も殆ど無い。
気が触れたように笑い踊る「こぶ女」、そしてこれは作り物ではなく実際何かの生物の胎児ではないかという噂のある明らかに人間には見えない泣き叫ぶ子供、頭部から作られる消しゴム付き鉛筆、など直接的に不気味なものはもちろんとして、登場人物全ての笑顔がゾクゾクするほど気持ち悪いのがなんともたまらん。
見てるだけでこっちもおかしくなりそうな人たちしか出て来ず、生理的な嫌悪を抱かせる映像と小道具だけで構成されていて、脈略も何もあったもんじゃないひたすら生理的なところにヒットしまくる映像が次々と出てくる映画であった。
この映画を悪夢のようだという人が多いけど、確かに悪夢としか思えないかも。
しかも私は寝不足で観ただけあって破壊力抜群であった。

ひたすらスプラッターな首が飛んだり血が流れたりするだけのものはただ気持ち悪いだけやけど、この映画の気持ち悪さは美によって刺激されるツボを裏から刺激されているような変な感覚がする。
とはいってもジョルジュ・バタイユやマルキ・ド・サドなんかと違って、性的なものを殆ど介さずにその刺激が生まれているところがポイントである。
フランツ・カフカの小説の不条理で不気味な面だけを煮詰めてゆけばこんな風になるんじゃないかという感じやった。
多分このあたりの感覚がこの監督の好き嫌いになってくるのではないやろうか。

これは今まで見た中で1,2を争う気持ち悪い映画ではないだろうか?ただ気持ち悪いだけでなく引き込まれてしまう気持ち悪さであるところがたちが悪い。子供のころに見ればトラウマ間違い無しであろう。

あー変なもん見てもうたーという印象であるけど、それでも「むむ、これは…」という感じである

2007年12月10日

●多様性と解釈の違いと人と人との溝は紙一重

前日の夜中、日付が変わったくらいから新しく出たっつんで買ってきたグイン・サーガの118巻を読んでしまい、読み終わったあともだらだらしており寝たのが5時前ということで、この日は寝不足かと思ったけども、そうでもなかった。

原子核分裂の連鎖反応と臨界状態になぞらえて自分の事を書いたつもりやったけど、他の人や自分の事だと思う人が多かったようでちょっとびっくりする。しかしながらおもろいのであえてそのままに。

仕事後に久しぶりに「いいちょ」の塩ラーメンを食べて美味しかった。寝る前にデヴィッド・リンチの「イレイザーヘッド」を観てなんとも言えない気分になった。

最近の科学というか量子力学の世界では「観測」が「存在」に直接的な影響を及ぼしているらしく、ある事がAであるかその逆のBであるかは未観測の状態では二つの状態が交じり合った状態であるとしか言えないらしい。
有名な思考実験である「シュレーディンガーの猫」でいえば、箱の中の猫は観測するまでは生と死の中間、あるいは生と死の混ざった状態にあると言う事らしい。
我々の意思や観察に関係なく真理は存在するという見方が根底からひっくり返ってしまうような話であるけど、結構人間はそんなものだと思う。
自分について、他人について観測して初めてその事実が発生する様に見えるし、また自分自身で認めて初めてその事実が存在する事になる。
自分自身がAである。というAの存在は自分自身が自分自身を観測し、また認めて初めて存在となる。言い換えれば認めなければ存在しないと言い切る事が出来るわけであるけど、他人の目と言うものがある限り、他人にとっては自分と認めないBは自分の中に存在するわけで、エヴァレットの他世界解釈からすれば分岐した別の世界に存在するという事になってしまう。
それを多様性と呼ぶか、解釈の違いと呼ぶか、人と人との溝と呼ぶかは難しいなと思った。

2007年12月09日

●本多猪四郎「マタンゴ」(1963/日)

amazon ASIN:B0000TCKRM 有名映画というよりはどちらかと言うとカルト映画の部類に入るらしい「マタンゴ」を観た。
ストーリーは、ヨットで漂流した青年たちが食糧がほとんど見つからない無人島に流れ着き、危ないと理解しながらも危険なキノコ「マタンゴ」を食べておかしくなってゆくというもの。
しかしながらそれにいたるまでのエゴむき出しでの人間同士の我のぶつかり合いが中々いい感じであるし、キノコとキノコ人間の造形、漂流した登場人物全ての人間のキャラがすべて立ちまくっているところも素晴らしい。

ゴジラシリーズと同じである本多猪四郎が監督で円谷英二が特撮担当、しかも当時は全く逆のヨットの話である「ハワイの若大将」と同時上映でプログラムが組まれていたらしく、色々な意味で中々に気合が入っている。

ボルトアクションのライフルをボルトで装填後にセミオートで撃ちまくるのが銃器マニアとしては「えーっ」であるものの、おどろおどろしい雰囲気とエゴむき出しの人間の醜さがうまく描かれていたように思う。
マタンゴ自体が恐ろしいと言うわけで無く、自ら理性を放棄して欲望の赴くままキノコを口にして、怪物となってゆくところが「いやーん」のツボである。

この映画を子供の頃に観たある年齢以上の人にとって、しばらくキノコが食べられなくなったり人間不信に陥ったりと言うトラウマ映画であるらしいのも頷ける。

死霊よりも妖怪よりも毒キノコよりも、何より人間が一番恐ろしいというホラーの王道を行きつつも、青年の一人が言う「バカッ!あいつら半分キノコだ!!」という台詞の通り、この手の映画につきものの笑いのポイントも抑えてあって中々素晴らしい映画であった。

2007年12月08日

●アルフレッド・ヒッチコック 「サイコ」(1960/米)

amazon ASIN:B00024Z40A アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』を観た。
いわゆるサイコ・サスペンスの元祖とも言うべき作品で、かつネット上のあらゆる情報でもべた褒めであるということもあり、さらにはこの間観て面白かった「モーテル」もヒッチコックに影響を受けていると言う事らしく、これは是非見んとあかんやろーと言うことで。

パッケージを見る限り、ジャック・ニコルソンのように顔で怖がらせる(笑わせる?)映画かと思ったけど、最初から最後まで一体話がどう流れてゆくのかさっぱり予想がつかんかった。ひたすら観るものの予想を裏切り続ける映画ではなかろうか。
中盤の有名なシャワーシーンの後、ますます展開が読めなくなり、映画自体をどう落とすつもりなのかが最後までさっぱりわからずそればかり気になって余り映画を楽しめなかったような気がする。

「怖さ」自体はそれほどでもなかったし、最後の落ちは「え~それはないわ~そんなん絶対わからんもん」であるサイコなものであった。
今でこそこの映画のような手法と概念は洗練されて最大限の効果を観客に与えうるようになったけど、この映画を機にこの系統の映画が作られるようになったと言うような意味で、この映画は意義深いのであろうと思った。

どっちにしろ、田舎にある寂れたモーテルは怖いなーと思うようになった。

2007年12月07日

●エロスのオムレツ/欲望アトミック/山上の木

快気祝いである「饗宴」でオムレツを作りまくり、卵10個を一時に消費する。それでもまだ足りなかった。
この日は形重視ではなく味重視で少々崩れても気にせず「ハムチーズオムレツ」とか「出汁巻き風オムレツ」とか直球勝負である。
オムレツを作る自体が楽しく、また作られたオムレツを食べる人も喜ぶ。このように作る側も作られる側も、あるいは提供する側もされる側も、またあるいは相対する人間のどちらもが幸せになる事、つまりは関係する全ての人間が幸せになる事こそ愛の神エロスのイデアに適う事である。
ゆえにこのオムレツは食べた人の全てをして、「オムレツのイデア」なる至高の高みを目指したものと思わせしむる、「エロスのオムレツ」といえよう。
などと古代ギリシャの詩人アガトンの祝賀会の演説大会のように語ってみる。

世の中には理解は出来ないけど、その存在を認めざるを得ないものが多くある。自我が欲求によって形を取るとしても、私の全く理解し得ない欲求を持つ自我が、私に理解できないかと言えばそうではないだろう。
少なくとも理解しようと試みる事はできるし、闇を覗き込んで闇から覗かれず、ミイラを取りに行ってミイラにならず、ニーチェを学んでニーチェにならずに戻る事は可能であろう。
対象を理解する事と対象の存在を認める事が別で、対象を理解する事と対象を理解しようとする事も別であるとするのは、人間の不完全さと醜さを前提とした見方によるだろう。

ある種の反応は一度開始してしまうと何者にも止める事は出来ない。
余りに大きなカタストロフの前でちょっとした臨界突破は余りにも目立たないけど、それでも個人的な臨界突破は臨界突破に違いない。
充満していた「場の可能性」の中で、周りにあった反応抑制因子が減って最初の反応が起こってしまうと、もはや反応抑制因子は役に立たなくなり、外部からの制御を一切受け付けず、あたりに放射能を撒き散らしながら一方向に反応が進んでゆくだろう。その反応はその反応のエネルギーを上回るエネルギーでしか止められない。幸いまだ最初の反応は起こっていない。と思いたい。きっとそうだろう。

「高く明るい上の方へ、伸びて行けば行くほど、その根はますます力強く、地の中へ、下の方へ、暗黒のなかへ、深みの中へ、-悪のなかへとのびてゆく。」
というニーチェさんの言葉はある種の呪いであると思った。なにしろ、彼からすれば余りに高く伸びた木は雷に打たれて破滅する事しか望まなくなるわけやし。
などと思った、星の綺麗な夜だった。

2007年12月06日

●オタク属性/蛇にピアス

オタク属性と言うのは何か物事を追求するための日常的な訓練としても、非常事態に自分の世界に逃げ込むための場所の構築であるとしても、それなりに意義深いものであると思う。
そういうわけでオタク属性の少ない人がオタク的方向性を持って何かにのめりこもうとするのを見るのは嬉しいものである。

amazon ASIN:4087746836 仕事時になぜか衝動借りした、金原ひとみの『蛇にピアス』を読んだ。
イメージどおりのどちらかと言うとエログロな方向性やけど、痛みや破壊が人を理解したり同調したりする試みの一つだと捉えるとがらっと印象が変わるような気がする。普通はそういう類のやつを理解したりしようとせんもんね。題材と著者の一般的イメージからすれば、思ったよりまともな小説だった。
この著者は同時に芥川賞を取った綿矢りさなんかと違って、潰しが効かないというか自分自身で自分を追い込んだような逃げ道の無いがけっぷち感を醸し出しているように見えて、逆にちょっとだけ好感を覚えた。
でもあえて追いかけて読んで行こうと言う気は無いかな。

2007年12月05日

●『パンセ』マフラーいとをかし

風呂で『パンセ』を読む。ゆっくりゆっくり読んで、もういつの間にか11章まで終わっていた。残り3章やけど、12章の「イエス・キリストの証拠」は今ここで読むのは止めようと本を閉じて湯船に肩まで浸かり、あれだけ世と自分を憎んだパスカルのはさぞかし辛かったであろうと同情する。

相変わらず私の中に物欲の嵐は吹き荒れている。とはいってもオークションで落札するだけなので可愛いものである。
それでも規模の差はあれ私の中で欲求が走り回っている事には間違いない。

そしてその『パンセ』を読もうとする欲求と、マフラーを買おうとする欲求は同じところから端を発しているのは、いとをかし。であると思った。

2007年12月04日

●ある程度寒い日

朝起きて「今日はあまり寒くない」と思ったので薄着で出勤したものの、働き始めてしばらくして明らかにいつもより寒いことに気づく。
思い込みとか先入観とは恐ろしいもので、自分の周りの外界を自分の受容体に合わせて補正しながら感じ取っていることを改めて意識する。
例えば有名なこの画像を目をチカチカさせずに見ることは不可能である。顔だと認識せずに見ればチカチカしない筈やけど、脳の自動認識と自動補正機能を意識的に止める事は出来ない。しかしながらこんな思い込みや先入観のパターンニングともいえる機能で我々は大量の情報を一次処理して取捨選択することが出来るわけで人間なにもかも都合よく行くわけじゃない。
あるがままを見るという意味では基本的に自分など全く信用できないけど、そういう自分を見ているのもまた自分であるから逃げ道は全く無い。
「暑い寒い」から「正しい正しくない」まで考えてみれば認識から生まれる判断なんか、もうなんでも程度の差でしかないと思う、ある程度寒い日であった。

2007年12月03日

●ジャン・リュック・ゴダール 「気狂いピエロ」(1965/仏 伊)

amazon ASIN:B00006F1UZ ジャン・リュック・ゴダールの1965年の映画「気狂いピエロ」を観た。
この映画は今までの映画の手法と異なった、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などを行う1950年代末から1960年代中盤くらいまでの「ヌーヴェルヴァーグ」なる映画運動を代表するものらしい。

確かにいわゆる娯楽としての映画とはかけ離れてる。良く言えばオリジナリティあふれるアート系、悪く言えば他人に理解出来ない自己満足。良くも悪くもフランス映画と言えば私が想像するような雰囲気であった。
本で言えばアルベール・カミュの『異邦人』とかミラン・クンデラの(チェコ人やけど…)『存在の耐えられない軽さ』と良く似た感じであろうか。
タイトルからなんかとてつもないアングラ映画を想像してたのやけど全く違った。

ネットしたり調べものしたりしながら見たので、ひたすら出てくる何処かからの引用と詩のような台詞の字幕をほとんど見ておらず、大まかなストーリしか理解出来ずに終了。
しかしながら一回目はこの映画はこういう言葉と雰囲気を楽しむねんな。というところは理解できたので今度はちゃんと観るべく二回目を再生。
でもやっぱり観ているうちにネットしたり調べものしたりしてちゃんと見る事が出来なかった。さすがに三回は観てられへんわ。これで観た事にしておこう。

この映画のヒロインでもあるアンナ・カリーナがなかなかに可愛らしかった。最初に出てきた時の髪形とシャンソンを歌う様がいい感じである。
最初の方で彼女が「"その他大勢"は悲しいわ」「それぞれ人生があったはずなのに…」「人生が物語と違うのは悲しいわ」「明確で論理的で整っていてほしい」とか言ってるけど、結局それは自分がその他大勢で無く特別な人間で、特別な人生を送り、そこには明確で論理的で整った意味を持つ物語がある。という望みを表わしているのだろう。

しかしながら、結果としてこの映画のヒロインと主人公は望んだ事の真逆である、「その他大勢」的に感情的で支離滅裂な物語とも言えない人生を送って破滅してしまうわけで、結局主人公のジャン=ポール・ベルモンドの言う「それが人生だ」てな事になるかもしれない。
ってなんじゃそら。

フランス的お国柄とも言えるような、とても感情と欲求と美を良きものとして優先するけど、常に論理的でもあろうとするような、カミュ的ななにかしらを強く感じた。
しかしながらそんな傾向は一歩間違うと、何の意味も無い感情とか欲求から大層な意味を捻り出してしてしまう事になるのやろうけど…

イヤな言い方をすると、こういった類の映画を面白かったと誉めておくと、インテリジェンスでアートな感性と知性を持ち合わせた人と言う事になるような雰囲気の映画ではあったけど、そんな部分は思ったより鼻につかなかった。

でもまぁ、とりあえず、もう一本ゴダールの映画を観てみようかな。と言う気にはなった。

2007年12月02日

●「死霊の盆踊り」(1965/米)

amazon ASIN:B0009S8G3G 「死霊のはらわた」「死霊のはらわたII」と同じホラーの棚にあった「死霊の盆踊り」を借りてきて観た。
異常なほどのつまらなさが逆にカルト的な人気を博したらしく、違う意味での怖いもの見たさとも言えるかもしれない。
ホラーの棚にあったけど怖さのかけらも無いし、ホラーなのは「死霊」の単語だけ。かといってこの笑えなさはコメディーでもない。映画が満たして目指そうとする要素が何一つ無い映画であろう。
「史上最低のハリウッド映画」「Z級ホーラ」「あまりにもつまらんと言う意味でA級のホラー」の呼び名は伊達じゃなかった。

観たところたしかにありえないほどつまらなかった。これが映画館で上映されていたというのがにわかに信じがたい。
夜に墓場へドライブしたカップルが事故を起こし、墓場で催されていた夜の帝王を楽しませる宴で女が踊るところを目撃すると言うものである。
とはいってもストーリなど無いに等しく、全編通して色々な「○○の女」、例えば「黄金だけを愛した女」や「闘牛と男を愛した女」などが次々とそれらしいコスプレをして交代で現れて、いつの間にか直ぐに服を脱ぎ捨てて無意味に裸で踊るシーンが延々と続く。
原題は「Orgy of the Dead」で乱痴気騒ぎや乱交のニュアンスがあるけど、実際の内容は「死霊の裸踊り」であろう。
しかしながら黄泉の国から呼び出されて、かつ踊るところはたしかに盆踊りでもある。

演技やストーリーや演出などの何もかもが中途半端にすら到達してないほどで、メインの踊りですらみんな適当である。余りにもバカバカしくてため息が出るけど、「猫を愛する事は、猫になる事」と「猫はムチで打たねば」のフレーズには不覚にも笑ってしまった。
「蛇と炎と煙を崇拝する女」「ゾンビとして生き、死してもなおゾンビであった女」「羽飾りのために命さえ捨てて準じた女」とか言われても全く意味がわからん。
この映画に隠された何物かを発見し、何物かを理解しようとかいう試みは一切放棄すべきであろう。

最後の方で夜の帝王を楽しませるために「○○の女」達を呼び集めた闇の女王が踊るのやけど、何でお前だけ着衣やねん。と思わず心の中で突っ込んでしまったのが不覚であった。

って、こんな長く書くくらいやから実は結構気に入って好きだったりする。絶対人にお勧めは出来ないけど。

●サム・ライミ 「死霊のはらわた」(1981/米) 「死霊のはらわたII」(1987/米)

amazon ASIN:B00009XMN3 amazon ASIN:B000666PRK 映画好きの某氏から「素晴らしきバカ映画」とお勧めされて、スプラッターなるジャンルの先駆けとなったサム・ライミの「死霊のはらわた」「死霊のはらわたII」を観た。

邦題は「死霊のはらわた」やけど原題は「The Evil Dead」である。どこにも「はらわた」なるニュアンスは無いけど、邦題の「はらわた」って語感がちょっと間抜けっぽくてホラーなこの映画の雰囲気をうまく表わしてるなーと感心した。
カルト映画にも分類される事の多い、中々に評価の高いシリーズの映画らしい。

過剰で勢いとノリのある演出と演技は製作現場はさぞかし楽しかっただろうなーと想像できる面白い映画であった。

まずは「死霊のはらわた」の感想。
斧でバラバラにするはその辺の棒で串刺しにするわで、やたらと血やら妙な液体が飛び散ったり、ありえん量の血が流れ出したり、余りの過剰な演出が笑いを誘う。
鎖で出入りできないようにされた地下室への扉の隙間から顔を覗かせてギャーギャー叫んだりガタガタやったりするゾンビ化した主人公の姉がおかしかった。床に座り込んでゾンビ化して白目をむいてけたたましく笑う主人公の恋人がなんか変に可愛らしかった。
なんについてもそうやけど、何かをやりすぎている人を見るとこみ上げてくるような可笑しさが在る映画だった。
何でもこの映画は、「低予算でも面白い映画を作れるんだ!」と全世界の映画青年に希望を与えたらしく、そういう意味でも意義のある映画であろう。

で、次の「死霊のはらわたII」やけど、ゲームやら何やらで刷り込まれている「アンデッド」についての基礎素養から言えば、ゾンビになるのは咬まれたり怪我させられたりしといった血液感染ぽい結果であると思っていたのやけど、この映画を観た時点でこのシリーズでゾンビ化するのは死霊に憑依された結果である事に気づいた。
すると憑依されただけの友人とその恋人、姉、恋人を斧とチェーンソーでバラバラにした主人公って一体…

で、内容はおおむね前作同様の低予算な雰囲気漂う感じやけど、過剰な演出は更にパワーアップしていた。
前作同様地下室の扉の隙間からギャーギャーなゾンビは顕在でおかしかった。悪乗りが過ぎてあからさまに笑いの部分に注力しすぎたあたりは減点ポイントか。
しかしながら全編通して笑いっぱなし。特にブルース・キャンベルが自分の右手と戦うシーンは素晴らしかった。お腹痛い。

二作ともブルース・キャンベルの演技が映画全体の過剰な演出ととてもあっていた。それに顔も過剰な感じの濃さやし。
ずっとブルース・キャンベルが友人の某ビンゴさんに見えてしょうがなかった。

2007年12月01日

●やっぱり一番怖いのは人間

映画1000円の日と言う事で街中に繰り出して映画を観た。
どうやらこの日は「椿三十郎」の公開日だったらしく、ふーんと言う事で観たのは「モーテル」なる密室系のホラーである。
なんかホラーな映画らしい。という予備知識だけで、ほとんど期待せずに見たのやけど予想以上に面白かった。

オープニングとエンディングのスタッフロールが古っぽくオサレでカッコよかった。CGも特殊メイクも無い、変にストーリーに凝ったり音だけで怖がらせたりしない、シネコンよりはミニシアターが似合う直球勝負のホラー映画で、低予算B級映画としてはとても面白かった。
ひねりの無さが逆にひねりになっていると言えなくも無い。こともない。ことはないか。

そういうわけで、帰りに死霊系なお笑いホラーをレンタル屋で借りて帰ってきた。