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2007年11月30日

●デニス・ホッパー 「イージー・ライダー」(1969/米)

amazon ASIN:B00005LMFE この日もジャック・ニコルソンが出てるっつんでデニス・ホッパーの『イージー・ライダー』を観た。
麻薬の密輸で大金を得た男二人が、ハーレーを買ってカリフォルニアからニューオリンズを目指し、ヒッピーや自分たちをチンピラ扱いする保守的な農夫たちと関わりあいながら旅をする映画である。
ジャック・ニコルソンがガハハと笑いながらバイクを運転している様を想像して観始めたのやけど、彼は不良弁護士の役柄で期待はずれでありつつもこの役もいい感じであった。

いかにもアメリカ的若者の「自由」と保守的な人々との軋轢、ヒッピーの若者やコミューンなど当時の話題を盛り込みつつ、ブレードランナーが近未来未のディストピアSF文化像の基礎となったように、ロック、ライダージャケット、大排気量バイクで表わされるようなアメリカンな文化圏の基礎のようなものなった文化的な意味合いも持つのだろう。

このような雰囲気の人間やバイクを指して「北斗の拳のジャギ」と今までは言っていたのだが、「イージー・ライダー」みたい。と言うほうがよりオリジナルに近くて正確な例えとなるのである。

観戦者にとって、ツール・ド・フランスが自転車レースであると同時にフランス観光案内の側面を持っているけど、このイージーライダーをアメリカ地方観光案内のように観て、アメリカってほとんどが荒野なんやなぁと思った。

2007年11月29日

●ミロス・フォアマン 「カッコーの巣の上で」(1975/米)

amazon ASIN:B0007IOJSY チェコから亡命したミロス・フォアマンの1975年の映画である「カッコーの巣の上で」を観た。観てから知ったのだが、私の好きな「アマデウス」もこの監督が撮ったらしい。
主演はシャイニングを観てからというもの、名前を聞くだけで笑いがこみ上げてきそうなジャック・ニコルソン。さらには舞台が精神病院の隔離病棟と言う事でそれだけでワクワクである。

強制労働から逃れるために精神障害を装い、精神病院の閉鎖病棟に送られたエネルギー溢れる主人公。彼は自分の思うまま感じるままをストレートに表現して振る舞い、病院内で他の入院患者を巻き込んだ騒動を引き起こす。
主人公を中心とした、他の入院患者との係わり合いと婦長を代表とする病院側との対立を軸にして物語りは展開する。
同じような舞台の映画に「十七歳のカルテ」があったけど、これは脆くて繊細な女の子ばかりが出てきて泣きの入る、絵面的にも雰囲気的にもちょっと耽美っぽいのが入ってるけど、この「カッコー」はマッチョで男臭くてしかも弱いというなんとも言いがたい雰囲気である。

夜の11時半くらいから見始めてしまったものの、最初から最後まで目を離す隙も無く凝視していた位に面白い映画であった。
これは久しぶりに自信を持ってお勧めできる映画であろう。

今時「精神異常」と「普通」を分けるのはほんのちょっとした違いでしかないというのは結構一般的な見方であろうと思う。
精神病院で入院治療を受けている人と比べた場合、明らかにこちらのほうが異常にしか見えないという言動で対人関係を取ろうとする人などは誰の周りにも数人はいるであろうし、病気と判定するかどうかは日常生活に支障が出るか出ないか位を基準にするしかないらしい。
そういうわけで、精神病院モノというかそういうジャンルの物語では大抵入院患者と病院のスタッフのどちらが異常だか分からないといったような定番的な表現が確立しているわけやけど、この物語は一見そういう感じではなかった。物語の開始直後、患者は患者、スタッフはスタッフと実に分かりやすい。
しかしながら彼らの精神異常が何かしらの弱さとして表現されるつれ、普通の人間が感じないことを感じて、耐えられることに耐えられないだけの、ただとても弱いだけの人間に見えてくるのがほっこりである。
最近、傾向的には同じような場所の雰囲気を経験したので、その場の空気はなんとなく分かるし、静かに淡々とした時が流れるそんな場所がとても居心地のいい場所であるのも良く分かる。

強さとエネルギーと行動力の塊のようなジャック・ニコルソンの演技がとても良かった。そして彼がトリックスターとして他の患者たちに影響を及ぼしてゆくところもとても自然に見えた。バスケのシーン、釣りのシーン、写っていないテレビで騒ぐシーンなど彼らが一体となってはしゃぐところがとても大好きである。
しかし、どこかで指摘されていたように、彼のようなひたすら強い個性で突き進む人間も他人からはある種の強さとして見えるような精神障害のタイプであるという感じはする。明らかに日常生活に支障も出てるしね。
そう考えると、彼のような人間は本人の幸せはともかくとして周りに影響だけを与えるタイプのように思えてなんだか微妙である。あの有名(らしい)ラストシーンのこともあるしね。

それから、主人公と対立する、静かで規則正しい治療の生活を守らせようとする婦長はネット上では嫌な女の代表やとか権力と体制の権化とかいう意見が多かったけど、哲学で救いを得られればと願う私としてはちょっとやりすぎにしろ彼女の立場と見方に賛成しないでもない。
更にはそれだけでなく、帰り際に微笑んで主人公に手を振ったり、ラスト間際で帰ってきた患者に笑いかけるシーンなど、ちょっとしたしぐさとか表情にとても深い慈愛のようなものを見て、とても良い意味での人間的魅力を感じたのだがどうだろう。

2007年11月28日

●ヴィンセント・ギャロ「バッファロー66」(1998/米)

amazon ASIN:B00005FPTM 「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」ということでヴィンセント・ギャロの「バッファロー66」を観た。
しかしながらこの映画はどうもそれほど有名ではなかったらしい。周りの人で知ってる人や観た人がほとんどおらんかった。どちらかと言うと「その筋では有名な映画を観よう企画」と言うくらいの感じか。そのスジがどんなスジかはわからんけど。

ストーリーは5年ぶりに刑務所から出てきた男が両親に電話をかけて、結婚相手を連れてゆくと嘘をついてしまい、たまたま近くにいた少女を拉致して妻のふりをさせるものの、少女は男の中身や過去を知るにつれて男を好きになってゆくという話である。

主演のギャロの演じる男はスタイルが良くてブーツと革ジャンとジーパンが似合うオサレさんの割りに見事なバカでかつダメ人間で痛々しいうえにとてもナイーブ。『ライ麦畑』のホールデン少年を更に世間知らずにして世の中が生きにくくてしょうがなくしたような感じである。
拉致される少女を演じるクリスティーナ・リッチも決して美人タイプではなく、ムチムチでかつケバケバしい化粧が下品にならず逆に好感を持てるところがなんとも可愛らしくてとても良い感じだった。
結構だらだら目に痛々しいコメディータッチに話が進むけど最後の方はとてもほっこりする。そして余りにあっけないラストカット(シーンでない)がとても気に入った。
なんかひたすら変なところにヒットする、しかも後からじわじわ来る良い映画だった。
そりゃ「そのスジ」ではカルトな人気を集めるやろう。「そのスジ」がどこかは相変わらず分からんけど。

この映画は監督、脚本、主演、音楽すべてを、プロ・ボーラー、バイク・レーサー、画家、ミュージシャン、モデルなどいろいろな顔を持つビンセント・ギャロなる御仁が担当している。
当初ミニシアター向けに作られたメジャー路線に乗らない映画だったけど、公開されてから話題を呼んで、一躍ギャロの名を世間に知らしめる事となったらしい。とはいっても、当然私はこの映画を観て始めて彼の名前を知ったわけやけど。

私がこの映画を知ったのは、数年前に同じ職場にいたB氏がこの映画を好きだと言っていたからであるのやけど、確かにこの映画の主人公の他人との距離の取り方とかナイーブさがとてもB氏に似ているように思えるし、彼が何故この映画を好きなのかもとてもよく分かるような気がする。一体彼は今どうしているのだろうか。

2007年11月27日

●加齢と成長は比例しないの法則

雨仕様の服で出勤したものの雨は降らず。喜ばしい事ではあるけど釈然としないものを感じながら自転車に乗る。
最近年を取ったなぁと思うことが多くなった。

若い頃は年を取るにつれて精神的なものが比例して成長すると思っていたものやけど、年を取る事と人間的成長は全く別であることをひしひしと感じる。ただ、年取ると成長している場合が多い。というだけの事である。
結局人間的なものは年齢差によるものよりも個人差の方が差が大きいのだ。

自分が若い頃から全く成長しておらず、自分の変わらなさにうんざりする時に「年を取る事と人間的成長は全く別」と考えるのは慰めになるどころか自分を追い込んでしまうだけだろう。
自分を成長させる事なく無為に過ぎ去った年月を思うにつけやれやれである。

しかしながら、こう思えるようになった事もなにかしらの成長であると思えるところが、ある程度の成長であるような気もする。
と思う事でちょっとした慰めとしておこう。

ローム本社のイルミネーションがすごい事になっていた。

2007年11月26日

●欲求はものさし

この日は映画を観ずにグレン・グールドのピアノを聴きながら風呂で本を読む。
独善的なまでに高慢で他人を軽蔑するピアニストと、神のみを愛して余りに自分と世界を軽蔑するキリスト者は全く対極の位置にあるけど、どちらも私にとって惹きつけられるものがあるのは不思議と言えば不思議、でも無いか。

自分に腹を立てたり自分にうんざりしていると、自分に腹を立てない人間を腹立たしく感じたり、自分にうんざりしていない人間にうんざりしてしまう事がある。
でも実際は本当の意味で自分に腹を立てたりうんざりしている場合は少ない。ただ、何かに対して腹を立てたりうんざりしたかっただけに過ぎないのだ。そんな欲求が自分に向いていただけなのだ。と言う場合も多いだろう。

欲求単位で人を見るのと、現象単位で人を見るのとではかなり見え方が違うなぁと思った。

2007年11月25日

●「ウルトラヴァイオレット」≠「ガン=カタ」 orz

amazon ASIN:B000IJ7N9O ガン・カタでお馴染みの「リベリオン」と同じ監督っつんで期待大の「ウルトラヴァイオレット」を観た。
中途半端なCG、中途半端な世界観、中途半端なキャラクターと3拍子そろったすばらしいB級バカ映画だった。一人の命を守るために大量虐殺を行うところも同じ。やっぱり監督のカート・ウィマーは分かってらっしゃる。

ストーリは良いとして、ミラ・ジョヴォヴィッチの服の色が変わったり髪の毛の色が変わる理由と言うか、変わるとどうなるのかが最後までわからんかった。
まぁ、いろんな服と髪の色のジョヴォヴィッチが見られると好いでしょ?ということか?うん確かに好いや。彼女がこの映画の最高にして唯一の見所でもあるわけやしね。

ジョヴォヴィッチを筆頭にみんなが近接戦闘で持って暴れまくる切先の無い刃物が蛸引き包丁に見えてしょうがなかった。最後のボスはボスらしくマグロ鋸だった。
「このタコが!」「このマグロめ!」

●スタンリー・キューブリック 「ロリータ」(1962/英)

amazon ASIN:B0007Z9YAU スタンリー・キューブリックの「ロリータ」を観た。かの有名なナボコフ同名の小説が原作やけど、原作は未読。
ロリコン、つまりはロリータコンプレックスの語源ともなった物語やね。
しかしながらセクシャルなシーンが全く無かったが故か、主人公のおっさんは今で言うところのロリコンに見えなかったし、ただの親バカお父さんを突き詰めて行った方向性にしか見えなかった。
この映画を観た事ある人やネット上からは「気持ち悪い」という感想をよく聞いたけど、特に気持ち悪いとも思わなかった。どちらかというと紳士的なくらいであると思った。
今時もっと気持ち悪いやつは何ぼでもいるし、この映画のおっさんは気持ち悪いと言うよりはアホやなーと言う感じである。
これで少女ロリータが魅力的であればそれなりの見所にでもなったのやろうけど、彼女自身は典型的で凡庸なアメリカ的ビッチ高校生と言う感じでそれも無し。まぁそこがキューブリックの狙いなんやろうけどね。

要所要所に出てくる人物がDr. Strangeloveチックなキューブリックっぽい狂いっぷりでおもろかった意外に特になんということはない映画であった。

2007年11月24日

●黒澤明 「蜘蛛巣城」(1957/日)

amazon ASIN:B000UH4TS2 シェイクスピアの『マクベス』が原作で、それを翻案して作成された「蜘蛛巣城」を見た。
全編通して怖ーい雰囲気が充満していて中々いい感じ。おまけに役者が着ている鎧や着物などの衣装も見ごたえがあった。
山田五十鈴が「洗っても洗っても…」って手を洗うシーンな中々ぞくぞくするものがあったし、パッケージの三船敏郎の矢のシーンも中々のものである。
なんか雰囲気が「雨月物語」に似てたけど、「雨月物語」が幽霊とかの超現実の怖さなのに引き換え、この「蜘蛛巣城」は人間の欲望の怖さが目だった。

しかし、やっぱり山田五十鈴より京マチ子の方がダントツに怖いなぁ。

マクベスで言うところの「魔女」である物の怪の老婆が怖がらそうとしてるのか笑わそうとしてるのか良くわからんかった。
で、その老婆のハスキーボイスで歌われる歌が結構気に入った。

「あさましや あさましや  
などて人の世に生をうけ 虫のいのちの細々と 身を苦しむ愚かさよ 
あさましや あさましや 花の命は短くて やがて腐肉となるものを
それ人間のなりわいは 五慾の炎に身をこがし 
五濁の水に身をさらし 業の上には業を積み
迷いの果てに行きつけば 腐肉破れて花と咲き 
悪臭かえって香を放つ 面白の人の命や おもしろや おもしろや」

2007年11月23日

●清くて純粋で脆くて尖った風

昼前に起きてオムレツとパスタを作って食し、繕い物とボタン付けをして、ヘチマを収穫してから黒澤明の「蜘蛛巣城」を見る。
夕食後ヲクで物欲を見たし、風呂でポリーニを聞きながらパスカルの『パンセ』を大量の汗を流しつつ読む。
日付が変わるころに自転車に乗ってレンタル屋に繰り出す。

寒いのは好きではないけど、身を切るような冷たい風の中を自転車で走るのは好きだ。コートとマフラーと手袋と伊達眼鏡と帽子を装備して寒さに立ち向かいながらも、顔を吹き抜けてゆく風の冷たさが好きだ。
冬の空気の刺々しいまでの冷たさは清らかで純粋で脆い何ものかを連想させるからだ。

普段我々を取り囲んでいる世界の余りの汚濁に引き換え、清くて純粋で脆くて尖った風に身を切られるのはなんと心地好いものだろうか。

2007年11月22日

●小判の雨でも降ればよい

amazon ASIN:B000UH4TSW 黒澤明の『どん底』を見た。
この映画はゴーゴリーの同名の戯曲が原作で、舞台を江戸時代の棟割り長屋に移したもの。様々な事情でこの長屋に流れ着いた最底辺の人々の人間模様が描かれる。
同監督の撮った「どですかでん」と同じようなテーマであるけど、「どですかでん」では各自各々の個性で貧乏と現実と苦しみと戦い、また逃避しているのに対して、この「どん底」では長屋一体となってそれらから逃避している。
集団で行われる現実逃避はもう楽しそうですらあり、それが極まったのがかの有名(らしい)な馬鹿囃子である。
出てくる役者が全員いい感じやけど、特にお遍路さんの役で出演している左卜全がなんともたまらん。
あと、駕籠かきの津軽が何気に気に入った。棒読みで発せられる「夜は、寝るだ!!」なんかかなりツボである。
黒澤明は棒読みの役者の使い方もうまいなぁと思った。

雨に打たれながら自転車に乗ってシュンとしながら家に帰り、黒澤明の『どん底』を見てどんよりし、パスカルが哲学者なる存在を手厳しく批判するのを読み、なんとも言えない気分のまま早々に眠りについた。やれやれだぜ。

2007年11月21日

●マウリツィオ・ポリーニ 「ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ集」

amazon ASIN:B00005Q7R3 マウリツィオ・ポリーニの「ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ集」を聴いた。
ミラノ生まれのポリーニの弾くピアノは技術的に完璧すぎて冷たいとかサイボーグとか言われることが多いらしい。
18歳でショパン国際ピアノコンクールで全員一致で優勝をした後、直ぐ演奏活動に入らずに10年近く勉強を続けたらしいというエピソードからも、彼は一般的なイタリア人のイメージにない真面目さと勤勉さを持っているような印象を受ける。
一方ベートーベンの28番から始まる後期ピアノソナタはベートーヴェン的、ドイツ的深刻さと重々しさを突き詰めた先にある音楽のような気がする。言うまでもなくイタリア的で連想されるものとは遠い位置に在る深刻で重い音楽であろう。

そして、そんなポリーニのキャラクターとベートーヴェンの後期ピアノソナタははとてもあっているように思えるのだ。

ポリーニがベートーヴェンのピアノソナタの全集録音を始めるにあたって一番最初に録音したのが、この重い重い最後のピアノソナタ群で、それがこのCDである。
確かにサイボーグ的で冷たいという見方もあるけど、個を捨てて演奏機械となることで譜面から伝わるベートーヴェンの息吹を最優先するという側面もあるような気がする。
全てを自分の音楽として弾くグレン・グールドとは全く逆の方向性やけど、「ベートーヴェンの音楽を聴く」という意味ではとても素晴らしいと思う。

何らかの感情が芸術として表現される場合には知的な制御が不可欠であるとする立場を突き詰めたような演奏であると思った。
それでいて、ラテン的な明るさも忘れていないところが最高に知的であると思った。

この音源はポリーニが33歳から35歳にかけて録音したものであると言うところも私のツボである。

2007年11月20日

●初ハクキン/あまりにフランス映画的な

この冬初めてハクキンカイロに火を入れる。なんか冬が来た感がふつふつと湧き上がってくる。
冬になるといつも冬ってこんなに寒かったっけ?と思うし、夏の暑さなんか嘘のように感じられる。毎年毎年こんな感覚を抱いているけどいつまでたってもこういう感覚を抱く事に慣れる事が出来ない。

amazon ASIN:B000HKDEZQ 家に帰って「ニキータ」を観た。デザートイーグル撃ってた。ステアーAUGも撃ってた。
この映画の後はニキータってなんか女性名ってイメージになってるけど、ニキータと言えばフルシチョフでないか?
しかし、.50AEで装弾数7+1、.357Magnumで9+1あるはずのデザートイーグルに6発だけ装填して、替えマグと一緒に渡す意味が最後までわからんかった。
まぁ意味わからんのはフランス映画と言う事で?ってこんな感想ダメ?

2007年11月19日

●傲慢ニング俺の道?

ここまで来ておいてパスカルの選んだ道を選ばないのは傲慢としか言い様が無いのは良く分かる。
そもそもの最初から興味も無くその道に近づきもしないのならともかく、ここまで来ていながらそこに行かないと言うのは確信犯的なものがある。
もしそれが超越者による他力からでしか得られないものだとしたら、それを自らの力で求めようとするのは、また自らそれを生み出そうとするのは傲慢以外の何物でもないだろう。
そしてそれは、結局、苦を除く事が出来るものでは無いかもしれない、それはたぶん苦を苦として当たり前だと感じる事が出来るだけのものではないかと言う気がしてきた。

神に反乱を起こして堕ちた全天使の長の属性が「傲慢」でもある。然るに傲慢とは大罪の長とも言うべきか。傲慢こそ智を愛するものが最も陥りやすい罪であり罠であろう。
自力で得られるモノは、自力で得られる程度のものでしかないだろうし、累々と積み重なっている同じ道を歩んだ人の屍もそれを表している。
そしてなによりも、そう思っていてもなお自らを頼みにする戦列から離れようとしない私は、そんな私自身をこそ問題にするべきであると思った。

2007年11月18日

●寒い兵法日曜日

アイスを持って謁見に馳せ参じ、卓球にオセロに五目並べに興じる。ほとんどやった事の無いオセロで、包囲戦でありかつ殲滅戦でもある、最初から最後まで一方的に撃ち捲くられるような気分を味わった。「十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め」とは良く言ったもので、圧倒的な兵力の差では小細工は何ともならん。ゲリラ戦では艦砲射撃と空襲には勝てません。

異様に寒く、身を切るような風の中自転車に乗って出かける。
お気に入りの服にお気に入りの靴と鞄と手袋と時計を身につけてお気に入りの自転車に乗っているとなんとも幸せである。
冬はコートやマフラーや手袋を身に着ける事が出来るが故に肯定されるべきであるという見方もまたあるし、たとえ物欲が悪になったとしても、モノが悪ではないのは当たり前である。
などと思った嘘臭いまでに寒い日曜日であった。

2007年11月17日

●真人間 VS エイリアン VS プレデター VS 俺?

休みになると付近が渋滞するような、郊外にある巨大ショッピングセンターはなんと中産階級的な雰囲気に満ちていることか。
私の得られなかった、そして今から得るにはもう遅すぎる何ものかがここには満ちている。胸苦しくなるような人込みに羨望と哀愁の入り混じった不思議な感覚を覚える。
駐車場から車を出すだけで渋滞に巻き込まれたり、駐車場に止めた車の中で寝ているお父さんを見ると、つくづく生きる事はなんと大変な事であるのかと思う。

amazon ASIN:B0009YGWRM 久しぶりに「エイリアンVS.プレデター」を観た。
一度映画館で見て以来であるけど、やっぱりこのバカさ加減は大好きである。今回のツボは炎をバックにプレデターと人間が走っているシーンと、プレデターが仲間を担架に乗せて運んでいるシーンであった。

2007年11月16日

●一本の一握の葦

仕事から帰り、布団にもぐりこんで本を読んでいたけど、気づいたら九時とか十時とかのレベルで寝てしまっていた。
『パンセ』が無信仰者をカトリックに勧誘するために書かれた文章の集積であると言うことを今更ながらに意識する。
信仰のない人生がどれだけ無意味で苦しみに満ち、そして真理から遠ざかる事になるのかについてのパスカルの言い分を聞いてくるとなんだか居た堪れなくなる。
冷静に自分の周りを見回して見れば、おおむねパスカルの言うとおりである事は間違いないだろう。
しかしながら、私は信仰なしにそこを突き抜けようと試みる一派でもあるのだ。

人間存在の深刻な面だけを見るようなものの見方は中々しんどいものである。しかしながら私はそういうタイプの人に同調し、惹かれる人間である事も間違いないなぁと思った。

2007年11月15日

●とやかくドッペルゲンガーは本に影響されやすいタイプ

自分の特定の言動が他人にとやかく言われるのではないか?と仮定する時点でその特定の自分の言動が他人からとやかく言われる要素があると自身で認定しているわけである。つまりは他人からとやかく言われる以前に、自分自身で自分の事をとやかく言っているようなものなのである。
とやかく言っているのは他人ではなく自分自身であり、そしてそれは一番の敵は他人でなく自分自身である事をよくあらわしている。

多かれ少なかれ人間は自分の中に在る感情や感覚を他人も同じように持っていると想像して他者を推し量るわけであるから、自分自身の感情や感覚の鏡像として他者やら世界を見ている部分はあるだろう。
例えば、他人を全く信用しない人間は自分も他人から全く信用されないだろうと思うし、誰でも好きになる人は誰でもが自分を好きになるだろうと想像するから、その人の性格によって世界や他者は全く違うものとして捉えられがちである。
しかしながらこういった余りにシンプルな他者や世界認識は明らかに破綻してくるので、他人との感覚やら感情やらとのズレにいろいろな修正を加えて判断を行う事になるわけである。

一方で、過去に自分の中にあったけど今はもう無いものを他者の中に見つけることの簡単さに比べ、自分の中に最初から全く存在しなかった感情や感覚を他人の中にあると予想するのはとても困難である。それは深い知性と広い想像力をもってしかなされえないだろう。余りに人間的な不完全性から超越的な完全性を志向するにはその道しかないのではないかと思う。

って、最近パスカル読んでるから、なんか考えの筋道の作り方までパスカルっぽくなってきたような気がする…

2007年11月14日

●こんな事もあろうかと用意なんか出来ない

私の使用しているメッセンジャーバックはTIMBUK2というのだが、この鞄の肩掛けストラップに携帯電話を入れるための純正ポーチが高いうえに微妙なデザインでイマイチ買う気がしなかったのだが、ふと軍モノのコンパス入れだとかグレネード入れが使えるんじゃないかと思い立って仕事帰りにミリタリーショップに行ってきた。
で、いろいろ物色した結果、主に米軍のM203やM79で使用されている、40mm擲弾用のポーチがぴったり、俗に言う「40mmグレネードポーチ」と言うやつですな。米軍のものは蓋はスナップで留めるようになっているので、サバゲ用のベルクロ式の方が使いやすい。TIMBUK2純正と違って縦にも横にもつけられるし、デザイン的もあっさりしていて良い感じである。

しかし、サバゲとか銃とかに興味がなかったらこういうのは中々思いつかんかったであろう。どんな知識が後からどんな役に立つかなんか全く想像できないものである。

しかし、ニヤニヤしながらベレッタのクーガーを撫で回して試射して、全弾撃ち尽くして恍惚の表情でスライドストップを開放している仕事帰りのサラリーマンはやっぱり不気味ながらも微笑ましかった。

2007年11月13日

●「アメリカン・ビューティー」(1999/米)

amazon ASIN:B000EZ82WE 某氏が一番好きな映画らしい(又聞き)「アメリカンビューティー」を観た。
予備知識ほとんどなしだったのでパッケージやら何やらで最初は「アメリカの美女」だと思っていたけど、観ているうちに「アメリカの美」やら「アメリカ的美」でもあった事がわかった。観終わってからネット調べているうちにバラの品種であることも判明。うむたしかにバラも出てたね。

私の大好きな「逆噴射家族」に似ているような気もするけど、「アメリカンビューティ」は逆噴射ではなく、欲望に忠実に正方向に噴射してみんながバラバラになる。つまりはみんな違う方向向いているというだけの話やね。個人主義を追求してゆけば当然の帰結であろう。などと社会派のコメントになりそうなので止めておく。

コメディーと言うことらしいけど、出ている人間が変にリアルすぎて、わかりやすいコメディー要素ですぐに笑えず、後からこみ上げるような変な笑いである。
この間見た「シャイニング」はホラーの皮を被ったコメディーやったけど、これはコメディーの皮を被ったホラーに見せかけたコメディーであろう。と言うか人間存在自体のコメディー性が笑いの要素である映画だと思う。なんかややこしいけど。

変にリアルな人間ばかりなのに誰一人としてまともでないのもいい感じ。私の知る限りの世の中もそんなものだ。
確かに、宙に舞うナイロン袋は美しい。世界で一番だとまでは思わないけど。
そして、ケビン・スペイシーの死に顔演技は「シャイニング」のジャック・ニコルソンにも勝るとも劣らない見事なものであった。
過剰に見えるけど全然過剰でないリアルさが限りなく絶妙な、とても面白い映画であった。

2007年11月12日

●グレン・グールドのベートーヴェン三大ピアノソナタ/パンセを読み始める

amazon ASIN:B00005GB4M
グレン・グールドの演奏するベートーヴェンのピアノソナタ23番はとても遅くて、全然「熱情」に聞こえないけど、これもアリアリ。
しかしながら8番はベタベタにとってもいい感じ。こういう内向的で自己愛に満ちたような演奏は彼向きだ。

グレン・グールドの引くベートーヴェンは全然ベートーヴェンという感じがしない。
それでも、ベートーヴェンでなくグレン・グールドの演奏とだけ思えば、何ともいい感じである。
ベートーヴェンだからといって物怖じするどころか、逆に大暴れするような彼の演奏の弾けっぷりが素晴らしい。
でも、大好きなグレン・グールドが、大好きなベートーヴェンのピアノソナタを弾いたからといって、私にとってベストにはなり得ないところが人間の不思議さである。

ようやくにしてパスカルの『パンセ』を本格的に読み始めた。
口を開けば罵詈雑言なニーチェをして「血をもって書いたもの」と言わしめただけあって、何とも重い本である。彼の真摯さや真剣さがひしひしと伝わってくる。
とりあえず第1と第2章を読んだけど、一度にがーっと読むような本じゃないや。これは

2007年11月11日

●ジャン=ジャック・アノー 「薔薇の名前」(1986/独 仏 伊)

amazon ASIN:B0002GD4HI この間本で読んでとても面白かった『薔薇の名前』をDVDで観た。
大抵の映画は原作よりもイマイチやけど、これは原作とはまた違った面白さがあって良かった。修道院長だけがちょっとマッチョすぎるような気がしたけど、ウィリアムもアドソも他の修道士たちも結構イメージどおりやった。
映画自体はウィリアムの博学ぶりが少なめで、ミステリの要素にオッカムの剃刀的な切れ味は余り無く、例の少女の運命が全く違っていたけど、それはそれでもとても面白かった。

昨日観たポネットで「タリタ・クム」を死者をよみがえらせる言葉として使っていたけど、これはキリストの言ったアラム語の「少女よ起きなさい」という意味を持つ言葉であるのは有名な話であろう。
言葉が力を持つのだとしたら、言葉自体が力を持つのではなく、言葉に含まれる意味が力を持つのである。
そして意味を正しく伝えるためには、正確な言葉が必要になるし、正確な言葉を選ぶためにはちゃんとした感性と思考が必要になるだろう。

「過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり」

2007年11月10日

●急降下爆撃

DVDで「ポネット」を見た。なぜか「母を訪ねて三千里」のようなものだと思っていたけど、ある意味で「母を訪ねて三千里」であった。
結局、ちびっ子の「死」の受け取り方は35を過ぎたおっちゃんには余り参考にならなかった。
それよりも、子供に適当なことを言うと後が大変だなと思った。

オムレツ馬鹿といわれるくらい毎日狂ったようにプレーンオムレツを作っているけど、今日は趣向を変えて納豆オムレツを作った。
牛乳ではなくだし汁と溶き卵を混ぜる。洋風のオムレツと言うよりは、和風な出汁巻きの味付けだ。
納豆は卵に混ぜてしまうより、フライパンに卵を広げた後、卵で巻き込んでしまったほうが見た目も綺麗に出来るようだ。

酒が飲めるようになったので梅酒を飲みまくる。ドーンと沈んだり、キーンと舞い上がったり。
浴びるように梅酒に呑まれてお休みなさい。

2007年11月09日

●観覧車

やっぱり私は人として根本的に絶対的にずれているのではないか。という思いを強くする。
私は私以外の何者でもありえないし、私以外の何者も私ではありえない。
などと思っているのは自分だけだろう。結局のところ、大抵の人間は社会から見た場合代替可能な存在である。

私にとっての闇は他人から見て全く闇に見えないらしい。
他人から見た私は私自身が最も遠いと思っているものに見えるらしい。
他人から見た私と、私から見た私の分裂の度合いが甚だしい。すなわちそれは私自身の分裂でもあるのだろう。
しかし、分裂としての自己認識も自己認識であることには違いない。

観覧車なる建造物はやたらと青空に映えるし、夜景の一部を成しても趣がある。そしてなによりも、一周回って降りてくるだけという目的の無さが素晴らしいと思った。

2007年11月08日

●人生、ティッシュペーパーのように?

目を閉じても開けても全く差のない暗闇の中で目を開けているのはとても辛い。
どうせ先なんか何も見えないのだからと目を瞑りたくなる。
なんか後戻りの出来ない一歩を踏み出しかけてしまったような気がする。
人間一人の人生をティッシュペーパーのように浪費することなどとても簡単だと思う。

「汝の人格および他のすべての人格の内に存する人間性を、つねに同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行為せよ」なるカント先生の言葉は、他者が手段でしかないことを前提した上で、なるべく目的にもなるように心がけようね。って位の重さで使われたらしい。と言うことを読んだような気がするのだがどこで読んだのだろう??

飲みに誘われたりラーメン大会に誘われたりしたけどこの日は行けずにとても残念だった。
誘ってもらえるのはとてもありがたい。

2007年11月07日

●スタンリー・キューブリック「スパルタカス」(1960/米)

amazon ASIN:B00024Z400 スタンリー・キューブリック「スパルタカス」を前日に前半、この日に後半を見た。
トラキア人の剣闘士奴隷スパルタカスと、彼の起こしたローマに対する反乱を史実に基づいて描いた物語である。
主演のカーク・ダグラスから雇われ監督として呼ばれたキューブリック自身は思ったように好きなようにこの映画を撮れず、これを死ぬまで自分の監督作品として認めなかったらしいけど、それでも面白かったことは間違いない。個人的には同じような系統で名のある「ベン・ハー」よりもこっちの方が好きである。

少林寺三十六房のような剣闘士の訓練、よく訓練されたローマ兵のレギオン陣形に烏合の衆スパルタカス部隊がなだれ込むシーン、街道に累々と続く磔の十字架、感情的なシーンをやたらとクールに描いているところなどはキューブリックぽかった。

自由を求めて戦った「ものをいう道具」とされる奴隷である彼らの運命はやっぱり観ていていたたまれなくなる。
しかしながら、自由を求めて巨大な力に先頭に立って立ち向かったスパルタカスの生き様と死に様は中々に見事に描かれていた。
彼が最強戦士でも、最も賢い人間でもなかったのが良かった。

ローマにとってスパルタカスは奴隷の反乱の象徴であり、反乱軍にとってスパルタカスは自由の象徴であった。
捕虜になったあと「スパルタカスを指し示せば命を助けてやる」という言葉に数千人の人間が「I'm Spartacus!」と立ち上がるシーンがあるけど、それはスパルタカスを庇うと同時に、奴隷として生きるなら自由人として死ぬ方を選ぶ事の象徴的な意味での意思表示であるだろう。

I'm Spartacus!

2007年11月06日

●電気羊の夢を見る傲慢

夜遅くからローマの剣闘士の物語「スパルタカス」を見始めたものの、結局時間の都合もあり半分の休憩の時点で止めた。
どこまで行ってもモノとして扱われる、彼らの奴隷としての境遇にいたたまれなくなる。いくら強く賢くても奴隷は所詮奴隷でしかない。
いくら自立制御のオートパイロットで良く働いたとしても、所詮機械は機械である。
忘れがちであるけど、よく働く機械は、あまり働かない人間のために存在するとされるのである。
二者の間に「働き度合い」を価値基準として適用させる以前に、人間と機械の間には先天的に越えがたい価値の差が設定されているのを忘れてはならない。
昔も今もなんら変わるところは無い。余りに醜くはあれど、残念ながらそれが世界だ。

例えば、明日は晴れて欲しいと願って実際そうなったからといって、その人が雲を散らせて太陽を昇らせたといえるだろうか?
例えば、電車よりも自転車で通勤したほうが健康に良いと予想して実際そうだったからと言って、その人が健康についての電車に対する自転車の優位性を作り出したと言えるだろうか?

それはただ希望がそのとおりになったり、正しく物を見る目を持っていたというだけの話に過ぎない。願いや希望や予想や予見がその通りになったからといって、その結果がその人のもつ力と関わりがある場合はほとんど無い。

往々にして、運や勘や論理的思考を自分の自由に使いこなせる力であると錯覚することはとても多い。しかしながら大抵の場合それは自分自身で制御できないし、自分とは独立した何者かであるようにすら見える。
そして自分の制御できないエネルギーを自分の力であると錯覚することは殆どの場合悲劇に終わる。
希望が叶い、予見が適った場合は、運がよかった事を喜び、正しく物を見る目を持っていた事を喜ぶ事で十分ではないだろうか。

2007年11月05日

●黒澤明 「白痴」(1951/日)

amazon ASIN:B00006RD6E 黒澤明の「白痴」を観た。これはタイトルどおり、黒澤明も大好きらしいドストエフスキーの同名の小説の映画化である。
ドストエフスキー原作で黒澤明が監督で原節子と三船敏郎が出てるとなればもうそれだけで私のツボを直撃である。

舞台はペテルブルグではなく札幌で、登場人物も日本人になっている。舞台や登場人物こそ違えど、いかにも寒々しい雪と吹雪と白い町並みの環境的な状況、登場人物の雰囲気と物語のトーンはとてもドストエフスキー的であった。
どうでも良い話が長々と続いたり、二人の異性の間でふらふらゆらゆらしてみたり、欠点とも問題とも思えないことで悩んでみたり、変なポイントに感受性が強かったり弱かったり、そういうところまでドストエフスキーやった。
なんというか同人誌的ですらあるように思う。
彼の小説が好きな人間にはとても楽しめるのではないだろうか。

登場人物も原節子、森雅之、三船敏郎、東山千栄子に志村喬と申し分なし。そこに京マチ子でも入れば最強であったろう。
始まって直ぐの気のふれた様な叫び声、それに続いて自分は白痴で「発作で何べんもひっくり返っているうちにバカになった」という自己紹介で大笑いである。いきなり何なんやねこの映画、ということでもう画面に釘付けである。

森雅之の白痴っぷり、原節子の「私ずるいんです」っぷり、そして三船敏郎の健康的に発狂という見事な狂いっぷりも文句なしに素晴らしかった。この三人の演技は薄ら寒く怖いほどに真に迫ってた。

しかしながら、ドストエフスキー的と言うのは必ずしも映画としては面白い方向性ではないのだと言うことが良くわかった。
私自身はとても面白く見られたのやけどね。

2007年11月04日

●黒澤明「隠し砦の三悪人」 (1958/日)

amazon ASIN:B000UH4TT6 黒澤明「隠し砦の三悪人」を観た。ストーリーは戦に破れて落ち延びた姫を、お家再興のために膨大な軍資金と共に、武将の一人が道中で会った百姓二人と同盟国まで送り届ける話である。黒澤明的に典型的な娯楽時代劇という感じであろうか。
スターウォーズがこの映画からたくさんのヒントを得て作られたというのは有名な話らしく、世界的にも評価が高いらしい。しかしながら私はスターウォーズを見たことが無いので、そのあたりは全く分からない。
「カラマーゾフの兄弟の第二編をヒントに飲み会をしてみました。」程度のものではないのだろうか?

三船敏郎の馬上の殺陣と槍での決闘はベタに「おー」やけど、それよりもこの映画に出演した2年後に「私には才能が無い」と引退してしまった「雪姫」の甲高い声と棒読みチックな台詞と怖いメイクが妙にツボであった。
なんか人に偉そうに言う時に使いたくなる口調である。「いらぬ!もうパンは食べ飽きた!」「どうなっておるのじゃ!インターネットに繋がらぬでは無いか!」
大根やとかド素人とか散々な言われようやけど、三船敏郎や百姓コンビに張り合えるくらいの強烈なキャラクターであるのは間違いない。「隠し砦のエキセントリックお姫様ツンデレ」である。

なんか映画作る度に本筋と全く関係ない「ツボ」を用意する黒澤明は偉大だと思った。

2007年11月03日

●ケーキが無ければ、パンを食べればいいのに

仮退院のお手伝いをし、パン食べ放題と化したお食事会に参加する。
主催者の某氏がデザートを選ばせろと店に電話で交渉しようとしていたけど、この店はパンお代わり自由なのであり、私に言わせれば「ケーキが無ければ、パンを食べればいいのに」である。
そして同氏から肥やしとなっていたらしいDIATONEのDS-66Zを奪ってくる。
おおーいい感じ。結構憧れのスピーカーやったので嬉しいなぁ。ボリューム大きめでブリブリ鳴らす。モーツァルトの弦楽五重奏が凄いことになって嬉しい。
お食事もスピーカーもありがたやありがたや。

amazon ASIN:B000H4W1II  リュック・ベッソンが監督した「アンジェラ」を見た。いかにもフランス映画らしい、フランス礼賛パリが世界一な感じのオサレ系な映画であった。
とりあえず何でも批判するような子供っぽい斜めから観る様な嗜好からは恰好のボロクソターゲットな映画であろう。しかしながらこの年になって観ればなかなかに面白かった。笑いの要素があればもっと良かったのやけど。
このブログを書いてから思ったけど、ある意味で「ケーキが無ければ、パンを食べればいいのに」とも言える良い映画だった。

リュック・ベッソンてのはグラン・ブルー、レオンなどのように一芸に秀でているけど根本的に絶対的に間違ってる男を描くのが上手いと思った。まぁこの映画のダメ男の場合は何にも秀でていないけどね。

しかし、どうしようもない口だけのダメ男つーのは見ているだけで胃が痛くなるものである。

2007年11月02日

●ベートーヴェン:最後の三つのピアノソナタ バックハウス、内田光子

amazon ASIN:B000CBNZ5O amazon ASIN:B00005FLK0 ベートーヴェンの最後の三つのピアノソナタ、30、31、32番を満を持して録音された内田光子の演奏と、古典的名演であるバックハウスの二回目の全集録音で聴いた。

内田光子の演奏は全体的に没入感と感情移入たっぷりでとても雄弁な感じがする。とても丁寧で気を使っているのが感じられ、ちょっと端正過ぎるような気もするけど32番の第2楽章はこんな風な演奏にとても合ってて良い感じやった。

バックハウスの弾く後期ピアノソナタを初めて聴いたけど、余りにあっさりさっぱりしていてびっくりである。
これだけ感情とか情緒を極限まで省いた最後の三つのソナタが演奏されるとは思わんかったし、さらにはそうであるからこそ32番がこんなにノリノリな音楽になっていてびっくりである。
しかしながら何度も聴いているうちにクールな演奏の底から浮かび上がってくる何ものかが胸を打つ。演奏家の持ち味と言うよりは曲の持つ力を意識した演奏であることがわかって妙な感動を覚えるのだ。
演奏当時の80才に近づこうとするバックハウスの謙遜さはどうだろう?たしかにこの録音が名演と呼ぶにふさわしいのが良くわかる。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。

2007年11月01日

●人の話を聞かない力

誰かが誰かの事をとやかく言うのを聞く時、もともと自分の中にあったその人に対する見方や評価を変えずにいるのはとても難しい。
他人の言うスキャンダラスな「事実」とされるものはなぜか不思議と信じやすいものである。
しかし、ある人のまたある人への見方はある人の立場から見たものであって私から見たものではない。
真偽のレベルが問題になる事はもちろんあるとしても、それ以前に私では無いある立場のある人のまたある人への見方が、私に役に立つ場合が果たしてどれだけあるだろう?
AがBの話をする場合、それはBがどうであるという真実ではなく、AがBをどのように見ているかと言う現段階の事実しか指していない場合が多い。

何かしらの判断や評価に迷ったり、二つの真実らしい対立する事実に引き裂かれそうになれば、自分の見方や捉え方を信用して優先しようと思った。結局そのほうが精神衛生的にもいいような気がする。
こうなると判断と言うよりは信念のレベルの話になってくるけど、結局自分を信じられない人間に人を信じる事は出来ないし、人を信じられない人間に自分を信じる事は出来ない。
明らかな循環論法であるけどせめて正のスパイラルであって欲しいと思った。