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2007年10月31日

●マンモンVSスピノザ

以前35歳オーバーの男三人で欲望について語り合うという中々間抜けな状況を体験したのだが、一人は宗教的立場で、一人は哲学的視座でそれに対峙しているのに対して、私は欲望に真正面から生身のまま向かい合っている事に気づいた。
戦うにしろ、仲良くするにしろ、影響力から脱するにしろ、素手のままで向かい合うには余りに手強い相手であった事に今更ながら気づいた。

そしてこの日、再び35歳オーバーの男二人で欲望について語り合う。昼休みの午後のひとときにはあまりに似つかわしくない話題やけど、それでも何かを一つ潜り抜けて新しい景色が見えてきたような気がする。改めて、哲学は人間が善く生きるために絶対に役に立つことを確信した。

直接的に物質的な価値を生み出さないけれど、普遍的な価値を求めるべく歩む人に幸多かれ。
そして躓きの石となるマンモンの神こそ呪われてあれと思った日だった。

2007年10月30日

●ジョスカン・デ・プレ 「ミサ:舌よ、ほめたたえよ」

amazon ASIN:B00005ATCX なんとなくミサ曲が激しく聴きたくなったのでイギリスの声楽アンサンブル、タリス・スコラーズが歌うルネサンス期のフランドル派の作曲家ジョスカン・デ・プレのミサ曲の二つ「Pange lingua」「La sol fa re mi」を聴いた。
このCDに入っているミサ曲の録音は1987年の英グラモフォン誌Record of the Yearに選ばれた(らしい)というだけあって確かに素晴らしく、聴いているといつの間にか引き込まれてしまう。

ルネサンス期の教会音楽は私の好きな音楽のジャンルの一つなので、無伴奏の聖歌やミサ曲というだけでついつい聴き惚れてしまうのやけど、その事を度外視しても、彼らのビブラートしないストレートな発声によって繰り出される和音はなんともたまらん。
聴いていると自分の中にある黒々とした欲求やら煩悩やらが溶けていくようである。確かに「memento mori 」から導かれる方向性の一つであることを感じる。
もちろんそんな気分に聴いている間だけなると言うだけやけど…

2007年10月29日

●結婚式

友人の結婚式に昼前から繰り出し、新郎でもある友人の「全く変わっていないのに全く変わっている」という不思議な大技を目の当たりにしてかなり驚く。
その他にも、「どうやったらそんな事が出来るのだ!!」と驚くしかない事が次々と起こっている様を目撃してただただ驚くばかりである。それでも良く考えれば私達だって自分以外の人間から見れば「全く変わっていないのに全く変わっている」であろう。久しぶりに会ったはずなのに全く久しぶりに思えないのは不思議と言えば不思議である。

官能的なものに生の消尽としての死を垣間見たのはバタイユであったろうか。最大の逆説、最大の理不尽として人間存在を見ていたのもまたバタイユであったろうか。
披露宴で美味しい料理を食べ、美味しい酒を飲み、新郎新婦の晴姿を眺め、「全く変わっていないのに全く変わっている」古い友人達と円卓を囲んでバカ笑いしていると、深く深く限りなくリアルに死が意識される。
carpe diem et memento mori そして日常に帰ろう。

ニーチェさんは「深淵を覗き込むとき、 深淵もまたお前を見つめている」と言った。
彼の考え方から言うと、深遠に見つめられないようにするためには、深淵を覗き込まないのが一番良い。しかしながら深淵となれば覗き込まずにはいられない人種もまたいるのは確かだろう。
そして私は深淵とならば思わす石を投げ込んでみたくなるタイプであろう。もちろん投げ込むだけやけど。

2007年10月28日

●The Lord of the Ring

日曜日。世界に不幸など一つも無いと言わんばかりの良い天気。
昨日の夜の気がかりなメールに返信した後、黄色ピスト君に乗って遊びに繰り出す。
遊びついでになつかしの病院に寄り、入院人の様子を見に行きしばし語らう。
特に何も突発的な懸念事項が起こったわけではなく一安心する。
しかしながら、持参した謎の小袋ベビースターとかっぱえびせんを我慢できずに一袋づつ家で食べてしまった事を激しく非難されるも、宗教的基盤の無いモラリティーは計量的価値の大小によって測られるべきである。つまりこの場合は一般的なモラルとして一袋おやつを食べてしまったがゆえに見舞い品として持ってくるのを諦めるよりも、一袋無くなっても持ってこられたほうが食べられるものが在るという計量的な基準でモラリティーが高いとされるのだ。
などと良くわからない論点すり替えエチカアタックでその攻撃を無力化する。

自転車を止め街中をひたすら歩く。「無知の知」を知っている事がもっとも知恵のある者の証拠だと言う古い話があったけど、そこに何があるというよりも、そこに何が無いという事になかなか気づきにくい事を身を持って知る。例えば、何処にでも売ってそうやけど、買おうとすると中々売っていない事に気付くモノが多すぎる。などなど。
知識では得られない知恵に近づく道は中々険しいと思う。この世を楽しく行きぬく知恵と力を激しく渇望する。
最近本当に酒が飲めるようになってきた。そして、チャーリー・パーカーがドラッグをキメてステージに登った気持ちも少しだけ自分の中にあるものとして理解できるような気がしてきた。
確かに経験的知が知恵に近づくのには一番良いことは理解出来る。しかし、経験の範囲外に在る事は理解しえず、共感し得ないとするならば、論理と想像力の出る幕は何処にあるのだろうか。
感性と経験に賭ける人が多い世の中で、論理と想像力を力として最後まで頼みにしたいと思う。

私のブログはよく深刻になりすぎると自分では思う。
しかしながら、全く深刻になら無さ過ぎるよりはよっぽど良いと自分では思っている。
そして、深刻になろうとしない人よりも、深刻すぎる人の方を、私は遥かに好ましい者であると思っている。

2007年10月27日

●「シャイニング」(1997/米) 「プレスリーVSミイラ男」(2002/米)

amazon ASIN:B000NY14JE amazon ASIN:B000065859 タイトルに釣られて「プレスリーVSミイラ男」を、ずっと前から見たかったスタンリー・キューブリックの『シャイニング』を観た。

「プレスリーVSミイラ男」は好きな人にはたまらんらしいブルース・キャンベルが主演であり、名作の誉れが高い「シャイニング」はジャック・ニコルソンの演技と共に古典的なネタの宝庫であろう。

「プレスリーVSミイラ男」は医療老人ホームに夜ごと現れる全米各地を巡業していた"ミイラ展"から逃げ出したミイラ男を倒すべく、そっくりさんと入れ替わっていたプレスリーと暗殺から逃れて脳の半分をホワイトハウスに置いてあるというJFK(なぜか黒人の老人)が立ち上がる。という感じのストーリーである。
しかしながら前半半分はプレスリーとJFKが生老病死を切々と語るだけ。申し訳程度に巨大スカラベが出てくるがミイラ男ぜんぜん出てこんやんけー「プレスリーVSミイラ男」にしんみりさせられてどうすんねん…
そして後半、いよいよ姿をあらわそうとするミイラ男を、ダークスーツで車椅子に乗ったJFK、純白のジャンプスーツに身を包んで歩行器にすがるプレスリーが、それぞれの正装で待ち受ける。
車椅子アクションによる高齢者バトルを期待していたけど「え~っ」何よりも最後のシーンで「え~っ」であった。
この「え~っ」はB級テイスト満載の中途半端さゆえであるけど、最初からB級バカ映画として観ているので、なかなか面白かったように思う。

「プレスリーVSミイラ男」と同列に書くのも何やけど、スタンリー・キューブリック『シャイニング』を観た。
妻娘を惨殺して自身は自殺した従業員がいるいわくつきのホテルを、雪深い冬に閉鎖されている間だけ管理するために家族とともに移り住んだ一家。
雪に塗り込められ、外界と遮断された一家をだんだんと狂気が蝕み始める。

一応ホーラーと言う事やけど、ジャック・ニコルソンの演技が怖すぎて可笑しい。斧をせっせとドアに打ち込む姿はなんとも可笑しく、DVDのタイトルになっているシーンや最後のシーンで大笑いした。良く考えれば、ジャック・ニコルソンの顔が可笑しいのかもしれない。
私に言わせれば顔だけで笑わせるのは卑怯である。
しかしながら、怖さで言えばジャック・ニコルソンよりもその妻の方が怖かった。普通に喋ってるだけのはずやのに変に怖い顔やし、バットや包丁持って泣き叫ぶところはゾクゾクする。
こちらのほうも顔だけで怖がらせるのは卑怯である。

この映画はスティーブン・キングが観て「これは酷い」と自分で撮り直したくらいに原作から逸脱しているらしい。
たしかに、原作では生かされているのやろうけど、超能力の意味の「シャイニング」も危機を感じてホテルに現れる料理人も意味無さすぎである。そりゃジャック・ニコルソンの顔を観る映画になってるもんねぇ。
「スターシップ・トゥルーパーズ」同様、原作を無視するってのはバカ映画の王道であろうか。
しかし、ホラーやのに「2001年宇宙の旅」を思い出させるほどやたらと画面が鮮明で非常に凝った作りであるのを感じたし、このへんはキューブリックぽいというところであり、B級には無い手抜きの無さというところであろうか。
A級のバカ映画である「シャイニング」はとても面白かった。
ってバカ映画扱いしたら怒られるがな。

2007年10月26日

●カルトと言われるSF映画二つ

amazon ASIN:B00006AFZ6 amazon ASIN:B00005R22R 「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」はまだまだ続く。リドリー・スコット監督の「ブレードランナー」、テリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」を観た。どちらもそのスジではカルト的な人気を集めている近未来SFである。

『ブレードランナー』はなぜか『ニューロマンサー』の映画化やと思い込んでいたけど、実際の原作はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』である。
「サイバーパンク」で表される未来都市の文化や風俗を形づくる世界観の元となったようで、確かに『ニューロマンサー』の町はこんな感じやった。
『指輪物語』が「剣と魔法の世界」の基盤となったように、この『ブレードランナー』は「サイバーパンク」な近未来SFの文化の基礎になったと言う意味で歴史的な意味合いを持つ映画なんやろうね。
テーマとしてはアンドロイドと人間の区別はどこにあんねんという話から、人間てなんだっけ?というところだろうか?

一方『未来世紀ブラジル』はコンピューター的で官僚的で統制された社会をアナログなデータ端末とデータセンター、シュールな小道具で長い悪夢のように描いていた。
夢オチというか全く救いの無い結末やけど、良く考えれば何処から何処までが妄想で現実なのかまったくわからん。クスクスっと笑いつつもエグくてシュールでくらくらする怖い映画であった。

この映画は二つともディストピアな未来を描いているわけで、クリーンで希望的観測に包まれたSFや未来観を真っ向から否定しているなぁと。確かにカルトになる要素はよーくわかった。

2007年10月25日

● 『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』ミッシャ・マイスキー弦楽三重奏

amazon ASIN:B000HOJDGG 去年の終わりころに十字屋の視聴コーナーで聴いてたまらんかったCDをやっとちゃんと聴く機会に恵まれた。
弦楽三重奏に編曲された、J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲、ミッシャ・マイスキーがチェロ、ジュリアン・ラクリンがヴァイオリン、今井信子がヴィオラである。

グレン・グールドの演奏する「ゴルトベルク変奏曲」は「天一のラーメンはラーメンではなく天一という食べ物」であるように、「グールドのゴルドベルク変奏曲」でしかないわけやけど、この弦楽三重奏はヴァイオリニストのシトコヴェツキーがグレン・グールドの演奏を聴いて感動して彼に捧げるべく編曲したらしく、聴いていると確かにグールドっぽい感じはする。前聴いたアンドラーシュ・シフの「ゴルトベルク変奏曲」はバッハな方向性やけど、この弦楽三重奏はやっぱりグールドな方向性であるように思う。

しかしながら1981年版のグールドの演奏よりも更にテンポがゆったりとしており、演奏も丁寧な印象を受ける。
55年のグールドの演奏時間が38分、81年が51分、そしてこの弦楽三重奏の演奏は80分と時間的にもぜんぜん違う。

グールドはひたすら形振りかまわず内向するような演奏やけど、三人の調和ししつつも刺激しあいつつも軽快さと丁寧さを忘れない控えめでエレガントな演奏はとても良い感じ。第4変奏や第10変奏の微妙なバランスなどどうだろう。そして終わりを惜しむかのような第30変奏から最後のアリアへといたるところはもうたまらん。お風呂で聴いているととてつもなくトリップした。

2007年10月24日

●ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前』

amazon ASIN:4488013511 amazon ASIN:448801352X ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』を読了した。

この本は1980年にイタリア語で出版された世界30ヶ国語以上に翻訳された大ベストセラーであり、中世末期の修道院を舞台にした連続殺人事件をミステリ仕立てにした内容を主軸に展開される物語である。

作者であるウンベルト・エーコの本業は構造主義の流れの上にある(らしい)世界的に有名な記号論の研究者で、ソシュールとパースをつなぐ指導的な立場にある(らしい)。また中世の美学も専門であるらしく、学者としての大雑把な括り方で言うと「哲学者」であろう。

で、私は殆どミステリを読まないけれど、哲学者が書いた中世末期の修道院を舞台にした小説。というだけで私にとってはツボである。更に異端審問、魔女、ヨハネの黙示録、禁書と異端書まみれの図書館なる小道具が加われば、もうそれだけでリビドー振り切れそうな勢いであるのだ。
そういうわけもあり、あまりにも面白くて殆ど一気に読んだ。読んでいた数日間はこの本のことばかり考えていたような気がする。
最近は哲学の入門書ばかり読んでいたけど、やっぱり小説の面白さというのはまた別やなと。

物語はヨハネの黙示録の天使の喇叭を合図に引き起こされるカタストロフになぞらえて起こる殺人事件を主題に展開するけど、そのミステリとしてのストーリーだけでなく、登場人物たちの交わす会話と彼らの問題意識もとても楽しく読めた。ストーリーをダシにして書きたい事を書く。とまでは言わないけど、それくらい殺人事件に直接的に関係ない話が面白かった。
読んでいるうちに中世終わりのベネディクト会の修道院にタイムスリップしたような気がしてくる。というベタな感覚は、エーコ自身が「私は中世について書いたのではなく、中世のなかで書いたのだ」と言っていた(らしい)ように作者の意図と姿勢そのままなのであろう。
この時代のこのような場所のこのような人たちのこのような状態な話がツボな人にはたまらん小説である。

「オッカムの剃刀」で有名なオッカムのウィリアムがモデルとされる探偵役の主人公ウィリアムが元異端審問官というのはデビルマン的立場というか改心した悪玉キャラであり、群を抜いた知的キャラであるにもかかわらずベネディクト修道会士でなくフランチェスコ修道会士というところが、論理一本槍でないというキャラ作りに一役買っていて、中々良い感じのヒーローに仕上がっていた。
彼が殺人事件の謎を解いてゆくたびに、謎の複雑さが明らかになるのではなく、前提も少なく謎も殆ど無かったことが明らかになってスカッとする様はオッカム的といえるけど、そのあたりも普通のミステリとちょっと違うところではないだろうか?

この時代を暗黒時代と言わしめた異端審問や魔女狩りがそもそもの初めには正義を動機にして行われていたわけで、清貧思想の過激派であるドルチーノ派の生き残りの告白は、ウィリアムの言う「悔悛への愛からも、この世を浄化したいという願望からも、流血と殺戮が生まれる」というテーマを生々しく迫力と説得力あるものにしていた。そしてそのテーマは最後のあの大ボスの話でカタストロフを引き起こす訳である。
彼らの本や知識に対する欲望は時代と状況のせいで更に掻き立てられ、その上で失われた謎の書物を中心に大きな陰謀が起こるわけであり、彼らの本に対して向ける熱意は並々ならぬものがある。
そう考えると、ウィリアムのような人々のお陰で暗黒時代が晴れ、図書館は万人に開かれて本は自由に読めるし、思考と思想は自由に羽ばたける今の世の中はありがたやありがたやである。
そして、最後に頼りとなるのは知性と理性の光であり、真理は開かれてあるべきというウィリアムの立ち位置は、そのスジの人には大きな救いとなるやろう。

しかしながら、いくらカトリック的倫理観ガチガチの中世修道会を描いていても、恋愛を宗教的な神秘体験になぞらえてみたり、正式な宗教的な討論会がつかみ合いに発展したりするのを当たり前に書いているところなどはやっぱり「イタリア的」やなぁなどと思った。
暗黒時代といわれるくらいの暗い時代の中でも更に一番暗そうな題材であるし、アメリカなら勧善懲悪正義が勝つ。なストーリで、日本なら全く救いが無い話になり、ロシアなら話が広がりすぎて収拾がつかなくなり、フランスなら異様にねっとりし過ぎるやろう。
こんな暗い題材が妙にさっぱりした読後感で終わるのはアメリカでもフランスでもロシアでも日本でもないイタリアな雰囲気のおかげであろうと思った。

さすがに大ベストセラーになるだけあって、いろんな読み方が出来る懐の深い良い小説であった。図書館で借りて読んだけど、また読むのは確実なのでとりあえず買っておいた。
いやー面白かった。

2007年10月23日

●饗宴と比喩とホットドッグとプリン

仕事後に申し合わせて病人の見舞いに行ったものの、気づけば面会室でプチ宴会が開催されていた。
何なんだこのノリは?何なんだこのファミリーは?何なんだこのカナンの地は?
「隙があったら饗宴」もっとカッコよく言うと、「隙があったらシュンポシオン」もしくは「数人寄ればシュンポシオン」である。もちろん良い意味の比喩的な意味で。

ホットドッグご馳走様。プリンご馳走様。こちらは直接的な意味で。
しかしながら私は「一人エジプトを襲ったイナゴの大群」のように一人でおやつを食べつくしたのであった。

足の裏のほぼ半分を火傷した事ある私から言わせれば、向こう側から橋に火を放たれているのに、こちらから橋を架けなおそうとする行為は無意味であるばかりか、橋を修復しようとする精神が火傷を負う危険すらある。
こちらが取り得る行為で一番「安全」であるのは、橋のこちら側に火の手が迫らないうちに橋を落としてしまうことである。

しかしながらこの時しばしば問題になるのは、傍観者が当事者に求めるのは「安全」であるけど、当事者本人は「安全」など求めていないことである。
当事者は「愛」の旗印の下に当事者はしばしば「危険」な行為を行う。そして「危険」が大きければ大きいほど「愛」の報酬を多く望むのである。

去ろうとする者は去るに任せようではないか。この地が楽園である保証と必要性は何処にも無い。去る者にとってこの地が旅の途中の一時のオアシスであったならばそれで良しとしようではないか。

もちろんこれらの話はすべて比喩的な意味である。「バーベキューの時、女の人は肉そのものよりもウインナーソーセージを好む」と同列の比喩である。

しかし、比喩とは個別的な事象をまた別の個別的なものに隠蔽しつつ、さらにその事象から普遍的な法則を引き出そうと志向する、とてつもなく貪欲で欲深い試みでもある。

2007年10月22日

●コマンドプロンプトでの環境変数やパラメーターの使い方など

コマンドプロンプト
環境変数やパラメーターの使い方など

バッチを書く度に毎回調べるのは面倒臭いということでココに書いとけば安心。

変数構文

%変数:str1=str2%
変数内のstr1をstr2で置換

%変数:~n%
変数内のn番目以降の文字

%変数:~n,m%
変数内のn番目の文字からm文字


パラメーター構文
ファイルフルパス%1に修飾子Nを適用する場合
%~N1

f フルパス
d ドライブ文字
p パス名
n ファイル名
x ファイル拡張子
s 8.3形式にする(n,xと同時使用)

2007年10月21日

●それでも、「はじめにことばがあった。」

この年になると言語化できる物事は実はそれほどたいした事じゃなくって、非言語的なレベルの智や感覚の認識こそが大事なんだと言う事がわかってくる。
それは大事ではあるけど、非言語的なモノであるがゆえに言葉して他には伝える事が出来ず、個人的な認識のレベルに留まる。更には非言語的であるがゆえに自らの中にすら何らかの概念として定位して留めておく事も難しい。
『カラマーゾフの兄弟』を50回は読んだと言う御仁が「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と語っていたけど、語りえぬものについては、沈黙したくなくても沈黙せざるを得ないわけである。

それでも我々の中には形而上的な荒野が広がっており、そこに生まれる非言語的でしかありえない語りえぬものを語ろうと勤めてきた。その度に語りえぬものは結局どこまでも行っても語りえぬものでしかない事に、語ろうとした方は絶望的になる。

それでも、語りえぬものが語りえなかったとしても、語りえぬものが語られようと試みられたこと自体に、語りえぬ部分で価値を感じることもまたあるし、そこには語りえぬ理由があるわけである。

2007年10月20日

●鉄フライパン

flypan00.jpgオムレツを作るために厨房用品店で業務用の直径20cmの純日本製鉄フライパンを買った。
値段も1000円ほどとお買い得である。
買った時はただの銀色やったけど、強火でひたすらあぶり続ける「焼き込み」を行ってシリコン塗装皮膜を焼き切って除去し、更に空焼きし続けると良い感じの玉虫色になった。

とりあえずオムレツを作ってみたけど確かに上手く出来る。良い道具って言うのは上手く出来てるし、使っても見ていても惚れ惚れするねぇ。テフロン加工に無い味があるですな。

2007年10月19日

●黒澤明 「羅生門」(1950/日)

amazon ASIN:B00006AUUZ 黒澤明の『羅生門』を観た。世界に日本映画と黒澤明の存在を知らしめる契機になった、世界的にも有名な作品ということである。

内容は芥川龍之介の『羅生門』と『藪の中』をミックスしたようなもので、一人の盗賊によるある検非違使に対する殺人事件に関しての、容疑者の盗賊、被害者の妻、被害者の検非違使、目撃者のそれぞれの証言としての回想シーンがメインになっている。
しかしながら、その証言がまったく違っているというところがこの映画のキモであり意義であるのだろう。

死んだ検非違使が死にながらもイタコに乗り移って証言する状況とイタコの演技がなんとなくツボであったけど、事件に直接的に関係する、容疑者、被害者、被害者の妻の三人の主張するところが、被害者を殺したのが私であるというのもツボであった。
しかしながらこの映画の一番のツボは、どの証言でもぶっ飛んだ凶女として描かれ、真実(であるらしい)として語られる目撃者の証言の中でこそ一番の狂いっぷりを見せていた京マチ子の怖さであろうか。
この時代では特に女性は現実的に非力であったにもかかわらず、女性が持つ超現実的な力と怖さが圧倒的に他を圧していて「ひ~怖いよ~」である。そういえばこの人は「雨月物語」でもたいがい怖かった。

でもまぁ、この映画のように一つの物事の見方が人によってまったく違うことも良くあるし、意図的に嘘をつくことも無意識に嘘をつくことも嘘を本当だと信じ込んでいる事も良くある話である。
人間の語る事なんかこれくらいええかげんなもんやし、自分の見たいように物事を見て、自分の信じたいように物事を信じるものであるし、往々にして本当の真実よりも、自分にとっての真実が大事にされるわけである。
「真実」と名のつくものが相対的なものでしかないという事は、我々が自分の形に世界を捻じ曲げていることやけど、それでも自己を省みる段階では本当の真実に近づこうとする視点は大事であろう。
自分を曲げるのが耐え難い人は世界を曲げ、世界を曲げるのを躊躇する人は自分を曲げるのを厭わない。
ってなんか全然映画と関係ない話になって来たけど、「マチ子 vs 節子」の頂上決戦を観てみたいと思った。

2007年10月18日

●carpe diem

「死を思え」「死を忘れるな」と言う意味の「Memento mori」と言う言葉は、当初の古代ローマ時代では「carpe diem」(今を楽しめ)の方向性を持った趣旨の言葉だったらしい。いずれ死ぬから、今を存分に楽しんでおこうというわけである。
しかしながら、その「Memento mori」はキリスト教世界の価値観に触れて、大体今使われるような「世の中は全て空しい」を含意するようになったそうである。

で、人生や世界が苦でしかなく生きる意義や価値が本質的に無いとすると、今述べた、何故かこの世の楽しみは全て空しいとするペシミスティックなユダヤ/キリスト的な方向性に行くパターンが多いけど、古代ローマ式に「carpe diem」の方向性にも行ける筈である。

この二つの方向性を分けるのは「空虚」であるものはなにもいらないとするか、「空虚」でも楽しいからええやんとする方向性の違いであろうか。
まぁ、ルネサンス的、バロック的とか言えなくないにしても、いずれにせよ「空虚」であればいらないとする価値は、まだ空虚でないものがある筈だとして求めていると言う事になるわけである。
当然そこでユダヤ/キリスト教的には「空虚」でない価値がある場所として世界を超えた世界が設定されているわけであるけど、それだけを除外してペシミスティックな見方だけを取り入れてしまうと本当に救いが無くなってしまう。意味が無い上に苦しいだけではなんともやりきれない。

そういうわけで、一切皆苦な世の中で「carpe diem」を体現するために、前後不覚になるまで浴びるように焼酎を飲んだり、オムレツ製造するだけのために鉄フライパンを買い込んだり、自転車をの部品を取り付けるために仕事を休んだり、そういった行為はむしろ称えられてしかるべきであると思った。

2007年10月17日

●片隅でオムレツ朝風呂ヘチマチャンプル

昨日は早くに寝てしまったので、目が覚めたのも早かった。風呂に入らないまま寝てしまっていたので起きてすぐに風呂に入る。
休日の朝日に満ちた風呂に浸かると、このまま世界が終わればどれだけ幸せだろうといつも思っていた。
私にとって朝の光の中で湯船に浸かるのはそれほどの至福の瞬間なのである。

多幸感に包まれ、余りに現実から乖離した感覚のまま自転車に乗って出勤する。しかしながら余りの多幸感に現実離れすればするほど対峙しなければいけない現実が辛くなるゆえ、本来は平日の出勤前には避けるべきである。

家に帰って例のごとくオムレツ道に精進し、家に出来たヘチマを「ヘチマチャンプル」にして食べてみる。
ゴーヤと同じような感じやと思ってたけどまたぜんぜん違った。種が出来切らない大きさのもので、実の内側のちょっとしたヌルヌルがアクセントで美味しかった。

最近「オムレツ道」などと言っているけど、世の中をざっと見渡しただけでも余りに多種多様な道がどこまでも続いているのが見える。
私から見えない範囲に私など想像も及ばない道が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、そしてそのそれぞれがどこまでもはるかに続いているのだろう。
世界を汲み尽くす事など誰にも出来ないとわかっていても、余りの世界の広さと多様性の実感にクラクラするし、自分の歩き得る道、また歩いて来た道を見て、余りの狭さになんとも絶望的な気分になってくる。
などと、この年になって思っている事自体こそが問題にされるべきなんだろうと思った。

2007年10月16日

●オム・土偶・オム

自己流では限界があると言うことで、オムレツの作り方をインターネット上にある動画で研究しまくり、実際に作って見た。
残念ながら土偶家は包丁の品揃えは良いものの、フライパンの品揃えは悪く、オムレツに使用されるような小さいフライパンなど無いので、しょうがなく巨大な炒め鍋で巻いてみた。
omelet071016a.jpg
と、こんな感じに、とりあえずオムレツの形に巻けるようになった。オムレツ道は始まったばかり。精進あるのみである。
どっちにしろ巨大な炒め鍋なので作れるオムレツにも限界があるやろう。早いトコ小さいフライパンを買おうと思った。

早い目に布団に入り、本を読んでいるうちに気を失っていた。
意識しないものの、この一週間ほど意外と疲れていたのだと思った。

2007年10月15日

●野田又夫 『パスカル』

amazon ASIN:4004120217 以前読んだ『パスカル――痛みとともに生きる』に引き続き、某キノコ先生がお勧めするパスカルの入門書、 野田又夫『パスカル』を読んだ。
絶版になった古い本なので漢字が旧字体であり、頭で新字体に変換しながら読むので中々リズムが取れずちょっと苦労した。たとえば「辯證」が「弁証」だと気づくのに数テンポ遅れて「ん~??あ~ベンショウね」な具合である。

しかしながら内容のほうはとても良かった。著者のお人柄は前面に出さないけど、堅苦しくなりすぎない文章は中々良い感じである。特定の解釈を主張するのではなく、パスカルにとても好意を持ちながらも、なるべくフェアーに全体像を提示しようとするのに勤めているような印象を受けた。

前読んだ『パスカル――痛みとともに生きる』はパスカルの人生と信仰についてに重点が置かれていたけど、この本は数学者、科学者としての彼についても詳しく書いてあった。
その科学者としての彼の業績がとても偉大である事がちゃんと説明されていたからこそ、神の存在は理性には証明できず恩恵によって真実と知るしかない。といった他力的な言葉が重みを持って感じられたのだろう。
パスカルは世界を正義が成り立ち得ない苦しみだけの場として、そこに住む人間を悪でしかありえないとしたけど、そんな彼のペシミスティックな世界と人間の見方は読んでいてとても息苦しいほどに強烈である。
しかしながら、無信仰者を信仰に導くよう説得するために彼は著作を残そうとしたわけで、人間一般に対して何らかの愛を向けていたのだろう。そしてその愛はやっぱり神なる真実への信仰に基づいているところがこの本で良く見て取れたような気がする。
結局、パスカルの思想や人となりについて語ったり知ったりするにあたっては、彼の「信仰」は気っても切れないものであることが良くわかった。

そういうわけで、次はいよいよ『パンセ』かな。

2007年10月14日

●スタンリー・キューブリック 『バリー リンドン』(1975/米)

amazon ASIN:B00006585H スタンリー・キューブリック 『バリー リンドン』を見た。
18世紀、七年戦争前後のヨーロッパを舞台に、農家の平民が嘘とペテンを武器に世渡りし、富と名誉を求めて上流階級へと這い上がる、山あり谷あり波乱万丈の物語である。
と言うと、めまぐるしく場面が展開する息もつかせない物語を想像するけど、実際は淡々と、退屈なくらいに物語は進行する。
蝋燭の光や窓から挿す光の自然光のみで撮影するために、NASA開発の非常にF値が低いレンズを使用して18世紀の風俗を忠実に再現したキューブリック的拘りの作り出す映像が劇的に美しいという評判どおり、確かに映像はレンブラントとかフェルメールっぽい明暗があってとても綺麗やった。

特に人間的魅力を感じない小悪人である主人公の波乱万丈の人生を、全くドラマチックでもないように、変に綺麗な映像で描いた映画。という感じであろうか。

物語としては大きな起伏で展開しているはずやけど、決闘や戦争や親友や肉親の死のシーンやからといって過剰な演出をしたりせず、全てのシーンを同じテンションとトーンであっさり描いているから淡々とした印象を受けるのやろう。アマゾンの評では主人公に血が通っていないという意見が多かったけど、私は描かれている主人公を結構リアルだと感じた。
しかしながら主人公を見る視点が同情も共感も軽蔑も嫌悪も無いような観察的なものであるのはその通りなので、そこが血が通っていないように見える原因なのではないだろうか。

主人公に魅力が無い物語は結構好きやけど、それでも黒澤明のサービス精神旺盛な映画に慣れた頭には少し退屈やった。
結局この映画を素晴らしいと思うかどうかは、リアリズムの発現の場として映画を捉えているかどうかになるのではないだろうか。
私は映画をエンタメとネタ要素として映画を見ているし、私にとってのメインカルチャー的なメディアは本であるからリアリズム的なものは小説の中に求める。
と言いつつも、妙に映画のトーンや映像が印象に残る映画であった。多分また先に見たくなるような気がする。

2007年10月13日

●秋刀魚、オムレツ、秋の空

この日も秋刀魚を刺身で食す。
秋刀魚は三枚におろした後に腹骨をすいただけで、血合も小骨も取らず皮も引かずにそのままそぎ切りで十分食べられるので、作る側としてはかなり楽である。
秋刀魚なのでとても脂が乗っており、そのままの刺身だけではちょっときついので、ネギ生姜、大葉と三パターンの味に分散させると結構大量にあっても飽きが来なかった。

そしてオムレツ。何度作ってもなかなかうまく巻けず、「限りなくスクランブルエッグに近いオムレツ」になってしまう。
こればかりは自己流の試行錯誤だけでは如何ともしがたいようだ。この秋は綺麗なオムレツを作るれるように基本からやり直そうと決心した、万物肥ゆる秋であった。

2007年10月12日

●戦場に架ける橋

この日をもってクラッシュしたシステムの機能はほぼ完全復旧した。土日もちゃんと動いていてくれることを願って自転車に乗って仕事場を後にする。
ツバス3匹、秋刀魚3匹、豆腐、ゴーヤー、合挽きミンチ、卵を買い求め、気分良く宴会に繰り出す。
六匹の魚を持参したmy包丁で全て刺身にする。これだけの量のを捌いたのは久し振りだ。秋刀魚は当然ながら、小さいながらもツバスまで良い感じに油が乗っていた。

他人の善意を前提としつつ他人を拒絶する行為は、他人から架けられた橋を焼く行為である。三顧の礼を以って迎えねば成らぬものを果たして友と呼ぶ事が出来ようか?それ以前に、この世の中に三顧の礼を持って迎えてくれる人間と、迎えるべき価値があるものなどほとんどないだろう。

一方で、他人の前で自分を曝け出す行為は、いうなれば他人に橋を架ける行為である。架かった橋を軍隊が通るのか隊商が通るのか、それともただの酔っ払いが通るのかはまた別の問題である。その先は当人と言うよりも橋をかけられた者の問題になるであろう。いずれにせよ手段はともかく橋を架ける事自体はほむべきかな。可能性に臆することなく「開かれる」精神はほむべきかな。最高のモノと最低のモノのちゃんぽんであるカラマーゾフ精神はほむべきかな。

とにかく、食べきれない程の食べ物と、飲みきれないの程の飲み物、無駄に罵り合い罵倒しあいゲラゲラ笑い合いとても楽しかった。
そしてそんな愉快な仲間のケダモノ達がいる私は果報者である、と思いつつ家の前の劇坂を登った。

2007年10月11日

●見えない理由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる

この日もグリグリと遅くまで働く。前線で一人撃ちまくる私に回り込む敵をことごとく粉砕してくれている同僚の援護射撃に気づいた。
一人で戦えるのも援護射撃があってこそである。ありがたやありがたや。ということで思う存分撃ちまくり、自転車にいたずらを仕掛ける輩は地獄の火の中に投げ込む者たちである。と某マタヨシの台詞をもじった言葉を頭に木霊させながら家路についた。

次の日は宴会と言うことで刺身を作る事になった。そういうわけで風呂に柳刃と出刃と砥石を持ち込んでねんごろに刃をつける。

包丁を研いでお休みなさい。

2007年10月10日

●振り出しに戻ってどですかでん

前日遅くまで働いて疲れ切って帰り、ぐったりしつつも夜中の一時くらいから『グイン・サーガ』の116巻をおもむろに読み始め、読破する頃には朝方になっていた。一体私は何やってんだ…
そういうわけでこの日は寝不足。寝不足であったけど、コンピューターを相手に大阪のおばちゃんか琵琶法師が喋り続けるがごとくにぐりぐりとコードを書きまくる。主催者側として参加したプレゼン会場ですらコードを書き続けるくらいの勢いである。

ほとんど丸一日書き続けた甲斐あって、一般利用者から見れば障害が復旧したように見えるレベルまで何とか漕ぎつけた。とは言っても進捗度で言えば30%くらいでしかないのやけど。
それに、どうせならと全部オブジェクト指向に書き直したのでとても見通しが良くなった。更にどさくさにまぎれて機能もいくつか追加してやった。おまけに今までの動作時に隠れて発現していたかも知れない、新しく発見されたいくつかの予想外の動作仕様に対処出来たのは不幸中の幸いかもしれない。

そして、こういう状態でヒーヒー言いながらも結構テンション高くて結構楽しんでいる自分を発見してちょっとびっくりである。
事故を機会にして、不幸を幸せにする気概が無いと、どんな状態でも中々楽しく働けないなぁと思った日であった。

2007年10月09日

●人外魔境人失格

休み中に職場に回ってきていたメールを見ていやんな予感がしていたのやけど、出勤してびっくり。
私の作ったシステムがディスクごと吹っ飛んでいた。ストライピングなRAID-0のディスクの一本の物理エラーである。

見事な事にシステムのバックアップもなし。
RAID-0なディスクにシステム構築しておきながら、どこにも何のバックアップもしていなかった土偶はダメダメである。何の申し開きも出来ない、ただ平謝りしかない。この業界人失格である。人外魔境人失格である。
システム構築したのは私一人だけ、全責任は私にあるわけで、とてつもない脱力と欝ウエーブに揉まれながら被害の状況を調べる。
思った以上に被害は甚大で、何一つとしてまともなファイルがみつからない。RAID-0やし当然か…被害状況が明らかになるにつれ目の前がだんだん暗くなってくる。

簡単に言うとシステムとデータの全滅である。エリ・エリ・レマ・サバクタニ

RAID-0であろうとRAID-6だろうとディスクである限り壊れるのは当然。システムであればクラッシュするのは当然。この被害の甚大さはバックアップを取っていなかった事がすべての原因である。どこからどう考えても私のせいである。
RAID-0にシステム入れるのは1000歩譲って可としても、バックアップ取ってねぇってありえんやん。なんだか自分自身に無性に異様に腹が立ってくる。
壊したのが私だとしても、作ったのも私一人なので直すのも私一人しかない。頼るものは私以外の何もない。
腹を立ててる場合でも無いし、欝になっている場合でもない。私がなんとかせんとなんともならん。

しばし放心した後、最初からすべてを作り直すことを決心する。
システムとデータがドライブごと電子の藻屑と消えたものの、我がシステムがどちらかと言うと集計システムであった事が幸いした。
何とか集計元の生データからデータを最初から抽出しなおせばデータを再構築できるという目処がついたところで、本当に最悪な最悪の事態だけはなんとか逃れた事を意識した。

コードとプログラムはまた書けばいいけどデータは二度と戻って来んからね。と強がってみたものの、システムを何も無い所からもう一度作り直す事を考えると気が遠くなる。
しかしながら気が遠くなってもいられないので、とりあえず他の業務はすべて放棄してオラオラとコードを書く。
こんな私を生暖かく見つめてくれ、こうしてコード書きに没頭させてくれる職場環境はとてもありがたいものであると思った。

そういうわけで良い子はRAID-0に注意してバックアップを忘れちゃダメだぞ!

2007年10月08日

●可もなく不可もない日本の私

大丸ミュージアム京都での今森光彦写真展 『里山』に行って来たのだが、なかなかいい感じであった。自然に対する一体型の文化はいいものだ。

大丸に行く途中に錦市場を漬物を試食しながら通ったのだが、そこでチョココロッケと焼きそばコロッケなるものを発見してとりあえず食べてみた。
焼きそばコロッケは焼きそばをコロッケにして鰹節と青海苔とソースで味がつけてあった。説明と言うよりそのままであるが…見た目どおりの味でなかなか美味しかった。
チョココロッケはやはりコロッケの中にチョコレートが入っていたのだが、甘すぎないチョコレートを使っていたので想像していた味よりはまろやか。不味いかと言えば不味くはないけど、美味しいかと言えばめちゃくちゃ美味しいと言うこともない。
甘さと油濃さ、サッカリンとサラダオイルのコラボレーションなエグい味を予想していたのでかなり拍子抜けである。
名前のインパクトの割りに可もなく不可もない味であった。
あえて喜んで食べるほどの事はないけど、現にこうしてブログのネタにはなった。
しかし、おそらく、この「チョココロッケ」はブログのネタとしても「可もなく不可もなく」であろう。

とは言ったものの「チョココロッケ」を食べ、それについてブログを書く私自身が「可もなく不可もなく」なのではないだろうかと思った。

ってこんなタイトルにしたら怒られるで。

2007年10月07日

●Movable Typeをlighttpd + FastCGI +PHP +Perlで

当ブログのWEBサーバーをapache2からlighttpdに変えてみた。
でもって、PHP、PerlをFastCGIで動かしてみる。
確かに、管理画面と投稿が早い。

MovabletypeのPerlスクリプトをFastCGI上に乗せるやり方やらラッパーやらはweb上にいろいろな方法が解説されていたけど、結局ココのやり方が一番いい感じ。
これを参考にして作った、PerlとPHPをFastCGIで動かすconfは以下で。

lighttpd.conf のFastCGIの該当部分はこんな感じ。

fastcgi.server = (
  ".fcgi" => (
        "localhost" => (
                "socket" => "/lighttpd_path/fcgi-fastcgi.socket",
                "bin-path" => "/MTpath/fcgi-perl",
                "bin-environment" => (
                        "PERL5LIB" => "/MTpath/lib",
                        "MT_HOME" => "/MTpath",
                        "MT_CONFIG" => "/MTpath/mt-config.cgi"
                )
        )
  ),
   ".php" => (
        "localhost" => (
                "socket" => "/var/lighttpd/php-fastcgi.socket",
                "bin-path" => "/usr/local/bin/php-cgi"
        )
   )
)

上のfcgi-perl は参照したサイトのdispatch.fcgiと同じ。

これで *.fcgi はFastCGIとして動く。
Movabletype関連のcgiを拡張子fcgiでシンボリックリンクを張ってfcgiとしてアクセスして動かす。
mt.fcgi, mt-comments.fcgi, mt-tb.fcgi, mt-search.fcgi, mt-view.fcgi, mt-atom.fcgiとすれば良いようだ。
ラッパーのおかげで、再構築するとブログ内のcgiのリンクがすべてfcgiに書き換わるうえに、新規投稿、再構築だけでなく、コメントとトラックバック時にもFastCGIが使われるようになるのでなかなか快適。

2007年10月06日

●lighttpd、apacheでないwebサーバー

WEBサーバーと言えばapacheやけど、巷で軽い、早い、柔軟と噂のlighttpdを使ってみた。
さらにFastCGIでPHPとPerlを動かす。

FastCGIをコンパイルした後に…


PerlのFastCGI対応のモジュールとしてFCGIとCGI::Fastを入れる。
CPANなコマンドで言うと、

perl -MCPAN -e 'install FCGI'
perl -MCPAN -e 'install CGI::Fast'
とこんな感じ

PHPのFastCGI対応版は以前のエントリな感じで。

lighttpd本体のインストールは特にややこしい事はなく、

./configure --prefix=/usr/local/lighttpd

#confのコピー
cp doc/lighttpd.conf /usr/local/lighttpd/etc

#rcスクリプトのコピー
cp doc/rclighttpd /usr/local/lighttpd/sbin

●apache1系のコンパイルオプション

apacheのコアプログラムも DSO ライブラリとしてコンパイルする時はこんな感じ。
./configure --enable-rule=SHARED_CORE --enable-module=so --prefix=/usr/local/apache

2007年10月05日

●Sun Studio 11でPHP5をコンパイル

PHP5系のコンパイル apacheのsoモジュールを作った後に、fastcgi対応版も作成。
solari10 sparc 8/07 コンパイラはSun Studio 11

コンパイラの指定
export CC=/opt/SUNWspro/bin/cc
export CXX=/opt/SUNWspro/bin/CC
export F77=/opt/SUNWspro/bin/f77

コンパイルオプションの指定
export CFLAGS="-Xa -fast -native -xstrconst -mt -xarch=v8"

ライブラリ検索パスの追加
export LD_LIBRARY_PATH=/usr/local/lib:/lib:/usr/lib:
/usr/ucblib:/usr/sfw/lib:/opt/sfw/lib:/usr/dt/lib:
/usr/openwin/lib:/usr/xpeg4/lib:/usr/ccs/lib
(実際は一行で)


#apache1.3系のsoモジュールをインストール
通常のPHPバイナリの他に
/usr/local/apache/libexec/libphp5.so
が生成される。

#with-apxsを指定してconfig
./configure --with-apxs=/usr/local/apache/bin/apxs --with-mysql=/usr/local/mysql --enable-zend-multibyte --enable-mbstring --enable-mbregex
GDを使う場合は追加
--with-gd=/usr/local --with-jpeg-dir=/usr/ --with-png-dir=/usr --with-xpm-dir=/usr --with-freetype-dir=/usr/sfw --with-tiff-dir=/usr --with-xml=/usr --with-zlib=/usr --with-xpm-dir=/usr

#make とmake install
dmake
dmake istall

#fast-cgi版のPHPインストール
apach1.3のsoモジュールを作った後、
lighttpdなどで使用するfast-cgiで動作するバイナリを作る。
通常のPHPバイナリの他に、
/usr/local/bin/php-cgi
が生成される。

#ソースディレクトリ内の生成されたconfigとバイナリを消す

dmake distclean

#enable-fastcgiを指定してconfig

./configure --enable-fastcgi --enable-force-cgi-redirect --enable-discard-path --with-mysql=/usr/local/mysql --enable-zend-multibyte --enable-mbstring --enable-mbregex --enable-discard-path
GDを使う場合は追加
--with-gd=/usr/local --with-jpeg-dir=/usr/ --with-png-dir=/usr --with-xpm-dir=/usr --with-freetype-dir=/usr/sfw --with-tiff-dir=/usr --with-xml=/usr --with-zlib=/usr --with-xpm-dir=/usr

#make とmake install
dmake
dmake istall
(./sapi/cgi/php がcgi-phpの本体なので、
cp ./sapi/cgi/php /usr/local/bin/php-cgi
としても可)

#iniファイルのコピー
cp php.ini-dist cp php.ini-dist /usr/local/lib/php/php.ini

#後は/usr/local/lib/php/php.iniをそれらしく編集
default_charset="UTF-8"
mbstring.language="japanese"
とかはいるんでね?

●Sun Studio 11でmysql5をコンパイル

今更ながら mysql5系 のコンパイル方法を…
solari10 sparc 8/07 コンパイラはSun Studio 11

コンパイラの指定
export CC=/opt/SUNWspro/bin/cc
export CXX=/opt/SUNWspro/bin/CC
export F77=/opt/SUNWspro/bin/f77

コンパイルオプションの指定
export CFLAGS="-Xa -fast -native -xstrconst -mt -xarch=v8"

ライブラリ検索パスの追加
export LD_LIBRARY_PATH=/usr/local/lib:/lib:/usr/lib:
/usr/ucblib:/usr/sfw/lib:/opt/sfw/lib:/usr/dt/lib:
/usr/openwin/lib:/usr/xpeg4/lib:/usr/ccs/lib
(実際は一行で)

#とりあえずconfigure
./configure --with-charset=utf8 --with-extra-charsets=all --with-mysqld-user=mysql --prefix=/usr/local/mysql

#make とmake install
dmake
dmake istall

#mysql用のグループとユーザー
groupadd -g 3306 mysql
useradd -d /usr/local/mysql/var -u 3306 -g mysql mysql

#myqldのDBディレクトリとDBインストール
mkdir /usr/local/mysql/var
chown mysql:mysql /usr/local/mysql/var
./scripts/mysql_install_db --user=mysql

#デーモンの起動
/usr/local/mysql/bin/mysqld_safe &

#rootのパスワード変更
/usr/local/mysql/bin/mysqladmin -u root password '新しいパスワード'

2007年10月04日

●op25b環境でPostfixのメール再送間隔を設定してみた

最近土偶サーバーが配信している「お天気メール」が15分以上遅れることが多い。
土偶家が加入しているプロバイダは「Outbound port 25 Blocking」を採用しているので、土偶家のメールサーバーは内部ネットワークから外部ネットワークへのメール送信時に、プロバイダーのSMTP経由しなければいけない状態になっている。
で、ログやらメールキューを見ていると、プロバイダのSMTPサーバーが接続された時に、時々「今無理やしまた後から試してね。」てな感じで土偶メールサーバーの接続を拒否していた。
土偶の環境ではリレーホストがプロバイダのSMTPサーバーになっているので、リレーホストの無いSMTPサーバーのようにエラーのキューは後回しにして次のキューをというわけには行かず、この状態になると先頭のキューが処理されるまで全てのメールキューが待ち状態になってしまう。
拒否された一通の後の全てのメールがその影響をこうむって遅延してしまうわけである。

拒否されてはいるものの今までメールが遅延はしても非着になった事は無いので、次の接続時には拒否されずに送信出来たということなのやろう。
この遅延時間が、数秒とか最悪数分ならまだいいものの、ログを見る限り16から20分ほどの遅延とちょっと長すぎる。
そういうわけで再送信までの間隔を変更しようと調べてみた。

結果、Postfixは相手SMTPがエラーになった場合、「minimal_backoff_time」に設定された値だけ待った後に再送信を繰り返し、それが「maximal_backoff_time」の値になると、以後は「maximal_queue_lifetime」の値になるまで、「maximal_backoff_time」間隔でリトライする。という仕様になっているらしい。
デフォルトではminimal_backoff_time=1000s、maximal_backoff_time=4000s、main.cfに明示的な設定は無いものの、postconfコマンドで見ると確かにそうなっている。
つまりエラーがあると16.6666...分後にリトライするようだ。

時間的にも土偶サーバーの遅延時間と合致する。でもってこれでは長すぎるので、main.cfにはとりあえず、minimal_backoff_time=60s maximal_backoff_time=600s maximal_queue_lifetime=6000sと書いておいた。
送信エラーがあった場合1分間隔で10分までリトライし、それ以降は10分ごとに1時間までリトライする。
という感じである。
とやって見たものの、それほどメールの遅延は改善されていないっぽい…

「Outbound port 25 Blocking」なISP内の野良メールサーバのメールの遅延に困っている人は試してみてはいかがだろうか?
postfix reload した後に、postconfでちゃんと値が設定されているのを確認しておこう。

2007年10月03日

●電動式移動書架トラップ

仕事ではこの施設がある場所に何度も入っているけど、初めて利用者として入り、電動式の移動書架を動かした。
ボタンを押せば警報が鳴って押した所の書架が開いて通路になる。光学センサーと物理センサーで動作する安全装置がついて人を挟んでしまわないようになっているものの、基本的に機械を信用していない人間なので、突然動き出して挟まれる事ばかり考えてしまう。
映画とか漫画なら、主人公を追い詰めた敵を最後の最後で挟んでやっつける為の施設であろう。

光学センサーの受光部に別の書架から赤外線を誘導しておき、足元にあるバーの様な物理センサーの裏側に硬いものでも挟んでおけばセンサーを無力化する事は可能だろう。
んでもって書架の真中らへんの本を持ち上げると別の通路を開くボタンが押されるような仕掛けを作れば立派なトラップになる。
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』でも取った時に作動するようにしておけば、それらしい事件になりそうだ。

などとどうでもいいような事を考えた。

2007年10月02日

●ソラリス君、人災など気にしないでござるの巻

この日も前日に引き続き体がだるい。
家に帰って早々に葛根湯を飲んで布団にもぐりこんで本を読んでいると、突然土偶サーバーのあたりから「ピピピピピ…」という電子音が。
サーバーに電気を供給しているUPSがバッテリー異常の警報を発していた。土曜日ににも同じ警告が鳴ったものの、いつの間にか警告が止んで忘れていたので、この際バッテリーのチェックをしようとテストボタンを押すつもりが、何をトチ狂ったのかおもむろに電源ボタンを押してしまう。
当然UPSの電源が落ちて、土偶サーバー、スイッチ、コンソール端末と土偶ネットワークの基幹システムが一瞬にして電遮断。あー!一番やったらあかん事をやってしまった…

やっちまった感にがっくししながらも、もう電源落ちてしまったんやし…とUPSのテストを電源入れるところから数回繰り返し、特に問題は見られないのを確認する。
あの警告は何やねん…やっぱり機械は信用できん。というよりもいきなり電源ボタンを押す自分こそ信用できんやん…

一通りのUPSのテストを終えて「ファイルシステム壊れてませんようにナムナム」とつぶやきながら土偶サーバーにコンソール端末を繋ぎ、こわごわ電源を投入。

とりあえずは順調に起動する、でも、ホスト名が表示されたあとのファイルシステムのチェックがやたらと長いような気がする。もうどきがむねむねである。むむむ…
とりあえずコンソールにログインして、ログやらプロセスやら見る限り特に問題なく起動してちゃんと動いているっぽい。fsckも問題なし。さすがsolaris。ジャーナリングファイルシステムは伊達じゃない。
solaris7以降の人は mount option に「logging」を指定しておこう!!

人的災害が一番危ないと言うのが良くわかった日だった。

そういうわけで安心するととたんに眠気が襲ってきたので、お子様のような早い時間に寝た。

2007年10月01日

●やだやだ肉体

急に寒くなって体調を崩しそうになったのか、朝から風邪をひいたようなだるさがあった。
仕事を終えて帰り、早い目に寝ようと思ったけど、家に帰ってご飯を食べ、風呂に入ってパソコンの前に座ってみるとだるさを感じなくなる。
とは言っても、具合が良くなったとか、治ったとかいうのではなく、コンピュータ特有の変なトリップ感で身体的な無感覚に陥ったような感じになっただけ。これはあまり健康的でないような気がする。

ひたすら16色のシェル内でソラリス君と戯れる。早い目に寝るつもりが気づけば大概な時間になっていた。
寝なければいけないのも、体の不調を気にしなければいけないのも億劫である。あー肉体やだやだと思いながら寝た。