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2007年09月30日

●黒澤明 「どですかでん」(1970/日)

amazon ASIN:B000VJ2DPU 黒澤明 『どですかでん』を観た。黒澤明の初のカラー作品ということで気合入りまくったどぎついばかりの色使いのサイケな映像で、ストーリもこれまたサイケデリック。
興行的にはまったく成功せず、これを撮ってすぐに黒澤明は自殺未遂を起こしたらしい。うーん。

ゴミの山の間に掘っ立て小屋を立てて暮らすスラムの人々の間を、自分が電車の運転手だと思い込んでいる知恵遅れの六ちゃんが架空の電車に乗って走り抜けてゆく。

タイトルの「どですかでん」とはその知恵遅れの「六ちゃん」が電車が走る時の擬音として使っている言葉である。
菅井きん演ずる母親がわが息子の回復を祈って気が触れたように法華経の題目を唱える中、六ちゃんが脳内の電車を運転するために家を出て、ゴミの山の間を「どですかでんどですかでん」と言いながら他人には見えない電車で疾走する。子供たちはそれに向かって「電車バカー」と石を投げている。そしてバックには武満徹の音楽。といった冒頭シーンでハートを鷲づかみにされた。
なんやねんこの美しさは…

物語の中でそのスラム街に住む人々の暮らしがサイケデリックなカラーで描かれるわけやけど、まともな人間が誰一人として出てこない。物語だけ見れば全く滅茶苦茶で救いのない物語で、悲惨などん底の状態の人たちと、一般的に人間のクズと言われるようなダメ男がふんだんに登場する。
ありがちに生きる事の素晴らしさなんか主張せず、ダメ男が改心するわけでもなく、悲惨な人が救われるわけでもなく、ダメ男のダメっぷり、悲惨な人たちの悲惨さ、狂った人の狂いっぷりは最初から最後まで変わらないというか酷くなる。ただただ悲惨と狂気とどうしようもない弱さの中、物語らしい物語もないまま進むけど、全篇コメディータッチに描かれている分だけ余計にエグくなっている。
この集落で一番まともに見えるような人でも根本的な所でズレているので、見ていると社会的な意味でも道徳的な意味でも常識と言うもんを根本から揺さぶられるような違和感がある。しかも変に劇っぽくありながらも、生々しいリアルさがあった様に思う。

最後の最後で「君!プールが出来たよ!」と叫ぶ乞食の父親は余りにも鬼気迫るものがあった。狂気と言うか絶望と言うかもうなんともたまらん。妄想の中のみで生き切る事の裏返った強さを垣間見たような気がする。

なんというか後から「ずーん」と来る映画やったし、明らかに受け付けない人が多いやろう。とにかく強烈な映画やった。
この日の夜に寿司を食べたんやけど、この映画を見たせいで好物の鯖を食べるのにかなり違和感があった…

2007年09月29日

●黒澤明 「椿三十郎」(1962/日)

amazon ASIN:B000UH4TTQ この間見た『用心棒』の続編ということになっている『椿三十郎』を観た。
前作は「ごろつきとヤクザ者がたむろする宿場町」という設定だけである程度笑えるものはあるけど、今回は不正を正そうとする城代家老配下の若者たちと、その城代家老を人質に取る悪の黒幕大目付一味の争いと時代劇初心者にとってはちょっと渋い設定。
続編といいながらも主人公が同じというだけで続編的要素は殆ど無く『用心棒』よりはお笑い的要素が多くてエグいシーンは少ない。

全編通してほのぼのした味があるものの、数人の仲間を助けるために、何も知らない小役人侍十数人を一瞬のうちに惨殺するところや、最後の決闘シーンはネタとして受け取った。
しかし、最後の決闘シーンは今までのまったりほのぼのを一気に覆すほどの破壊力のあるネタだった。早すぎて分からなかったので数回コマ送りで観た。

前作同様、結局最後は詰めが甘すぎるわい。と思ったけど、策でどうにもならなくなった場合に、問題解決を優先させるために、敵を皆殺しという力技で切り抜けたり、援護に頼るとかの選択肢を複数取れる事はええ事やなと思った。

バカ映画度は前作より低いものの、90分ほどと短目ながらとても面白い、安心して観られる映画やった。

2007年09月28日

●午後休

午後休ということで昼から古本屋を巡るも、目当ての本は見つからず。
それでも、暑くも寒くも無い丁度良い気候の中を自転車で走り回るのはとても気分が良かった。
昼から崩れると云われていた天気も何とか夕方まで持ちこたえ、小雨が振り出したところで家に帰る。

音楽をかけながらひたすら本を読む。世の中の複雑さに比べて、本の中に展開する世界や人間はなんと分かりやすいことか。
と考え出すのが良くない徴候であるのは経験的に理解しているけど、そう思うものはしょうがない。感情を抱くこと自体を制御できるわけではなく、ただそれを表に出してしまわないように制御できるだけである。ある種の危うさを美とする視点そのものが危ういような気がした。

様々な事を引き起こすと思われる根本的な原因の問題そのものについて直接的に切り込む。というと聞こえはいいけど、逆に言えば実際的に何かしら特定の具体性のある問題について考えるととても精神的にキツいので、その問題が起こりうるための条件であるとか前提を問題にして抽象的に考える。とも言える。
批判する時は後者を、擁護する時は前者を使えば良い。

2007年09月27日

●田辺 保 『パスカル―痛みとともに生きる』

amazon ASIN:4582851630 田辺保『パスカル -痛みとともに生きる』を読んだ。
パスカルといえば、「人間は考える葦である」と言った事でおなじみの思想家の側面と、「パスカルの原理」で圧力や応力の単位として現在に名を残した科学者の側面があるわけで、明らかに早熟の天才であった。
とまぁそこまではこの本を読むまでは知っていて、才気に満ち溢れた天才の言う事は俺にあんまり関わりはないやろうなぁ。と思っていたけど「痛みとともに生きる」のサブタイトルに何か感じるところがあり、思わず読む事に決めてしまった。

で、この本は思想家であり科学者でもあるブレーズ・パスカルの、思想家としての入門書に位置づけられるのやろうけど、前半はパスカルの生涯について、後半は彼の遺稿集である『パンセ』についてという構成になっていた。
しかしながら、これはとても大事で稀有で尊い事やと思うけど、彼の思想がそのまま彼自身をあらわしているわけで、『パンセ』についての話もそのまま彼についての話となるわけである。

生涯病苦に苛まれて40歳で死ぬ事になった彼にとって「痛み」はあまりに身近な存在であり、世界は痛みと苦しみでしかなかった。彼にとって世界は苦であるという前提と視点からこの本は展開される。
彼自身が「哲学を嘲笑するものこそ、真に哲学者である」というように厳密に言えば彼は哲学者であるというよりは宗教者であった。本の後半は宗教者としての宗教と信仰の話に終始するけど、苦でしかない世界から救いを得ようと、科学者としての地位や名声を捨てて宗教者となった彼の言葉はとても重みがあるし正直感動する。
彼が信仰について、自分の不信に対する対策として、デカルト的な動物機械論を元にしたように、信じているかのように振舞っているうちに信じるようになる。というくだりはとても感心した。

他にも書きたい事はたくさんあるけど、どちらかと言うと『パンセ』からの引用の部分になり、この本自体の感想ではなくなってしまうので控えておく。
それらは『パンセ』を読んだ跡に書こうと思う。

この本の著者のパスカルへの愛と、パスカルの苦しみの軌跡を現代に適用させようとする最終部での試みはとても好感を持てた。
信仰であるとか救いとか言う事を自分の問題として身近に感じている人はとても興味深く読めるだろうと思う。

2007年09月26日

●ナノパスカル

一昨日の睡眠時間は2時間半、昨日は六時間、それでもなぜか昨日より今日の方が眠たかった気がする。
年取ると筋肉痛は一日空けて来るというけど、寝不足が一日おいて症状になるという事はないわな。
人体もまた不思議と不条理に満ちている。
この私の体は、私に属するものでありながら、私の思い通りにも、期待通りにも、予想通りにも動かない。
私に属するとされるものは私の意志に従うべきである。というのは疑うべき既成概念なのか?

帰って『パスカル―痛みとともに生きる 』なるパスカルの入門書を読み始める。
寝不足の事もあり、読みながら寝るつもりで読み始めたものの、面白すぎて一気読みする。
んー良い本だった。感想はまた明日にでも。

2007年09月25日

●サイケ/クライング・ゲーム(1992/英)

昨日うだうだとネットをさ迷っているうちに気づけば朝の四時半、慌てて寝たものの睡眠時間二時間半で出勤する。
朝のうちは結構頭がぐらぐらしてて、色がなんか変であるという報告を受けたプリンタのテストプリントを見て、確かに真ん中に黄色い線が…?動いてる??って寝不足で俺の視界がサイケになってるだけやん。

なぜかご飯食べて昼休みが終わると眠気が消えたのでそのままオラオラ働き、帰ってから15年前の公開当初に観たい観たいと思いつつも今まで観る機会のなかった『クライング・ゲーム』を観た。

amazon ASIN:B00005R22O 今になってネットを調べるとやたらとそこらじゅうで評判良いけど、そんないうほど面白いか?確かに渋い、渋すぎるけど、バカ映画要素があまりにも少ない。
IRAがらみの話でバカ映画にすると洒落にならんとかそういうことじゃなくって、作りが渋すぎる。それでも確かに面白いとこが憎い。なんとなくずーっと尾を引くような佳作というところか。って結構面白がってるやん。

15年来この映画を観たい観たいと言い続けてきたけど、何を持ってこの映画を観たいと思ったのは既に覚えていない。動機が消えて欲求だけが残った状態とでも言ったらいいだろうか。
それでもこの映画を観る事でずっと言い続けてきた事が解消して、なんか煩悩が一つ落ちたような感覚であった。

2007年09月24日

●3歩進んで3歩下がる

最近、何か特定の対象に対する人間の心持が変わるのではなく、それらに対する社会的、個人的な立場が変わる事によって、心持が変わったように見えるだけでないのか?と思うようになってきた。
人間の言動は、感情に端を発するというよりも、社会性を帯びた立場からの妥当性を重視したものが意外に多いうえに、立場の違いによって選ぶ事の出来る選択肢の幅は大幅に変わってくる。
人間の中身がそう簡単にコロコロ変わるわけじゃない。ただ立場が変わってしまってぱっと見変わった様に見えるだけなのだ。

で?だから、だからといってどうする事もできんわな。

人間は思ったよりも社会的生物なのだと、思った以上に感じた連休最後の日であった。

2007年09月23日

●木田元 『ハイデガーの思想』

amazon ASIN:4004302684 以前「哲学のエッセンス」のハイデガーを読んでちょっと興味がわいてきたので、なかなかに評判の高い入門書というか解説書の木田 元の『ハイデガーの思想 』(岩波新書)を読んだ。
ハイデガーに興味を持ったからと言っていきなり『存在と時間』にいかないところが私らしいというかなんというか…

内容としてはハイデガーの人となりからその思想までを網羅していたけど、分量からいくと『存在と時間』で展開されているいわゆる「前期ハイデガー」の話が多く、後期ハイデガーの言語論と芸術論も前期ハイデガーの時間や存在の話の延長として説明されていた。
ナチスとの関わりの話については結構詳しく書かれていたけど、ハンナ・アーレントとの道ならぬ恋については言及がなくちょっと残念であった。
総括して言うと、さすがに世評の高い本だけあってとてもわかり易かった。『存在と時間』の成立過程とその位置、その中で展開される前期ハイデガー思想とその展開形である後期ハイデガーの思想の骨子、そして彼が何を問題にして何をしようとしていたのかが良くわかった様な気がする。

『存在と時間』が仕事上の都合で何か一冊本を書く必要が出てきたがゆえに著された、上下巻組みで刊行予定の上巻のみであるという未完の本であり、しかも下巻で展開されるはずであった主論の基礎付けのような位置づけにあり、その内容が「現存在」たる人間に限っての存在論、「世界内存在」たる「存在了解」が世界である時間性の場で起こる事が「存在」である。というところだろうか。
結局ハイデガーはその「存在了解が現存在に先立つ」という意味で人間存在を規定するものとしての「存在了解」を撤回して、替わりに「存在の生起」なる概念を据える事になるわけやけども、ここの時間性と自ら成る意味での「存在の生起」の話は、個人的にニーチェの「力への意思」やら「永劫回帰」の一つの見方のような気がしてとても興味深かった。

著者はハイデガーを哲学者であると同時に哲学史家としても大きく評価しており、ハイデガー自身もそれを自認した上で西洋哲学史の流れの中で、根本的な意識改革を行うつもりであったという。
つまりは、アリストテレス以来の形而上学としての哲学の基軸となった、在る事は作られたものであるという前提に立った"~である"「本質存在」と、単純にもの自体の存在を指す"~がある"である「事実存在」に分けられた存在論を解体して、"在る事は成ったものである"とも言うべき「存在の生起」を軸にして「事実存在」を問う存在論を打ちたてようとしたらしい。
ナチスへの加担もそのあたりの文化改革を目指してのことだと著者は見るわけやけど…
本質存在の意味がキリスト教圏では大きな意味を持つのは良くわかるけど、存在があって次にその本質があるという日本人的な感覚からすれば、本質存在の解体がそんなに大きな事とは思えないのはしょうがないにしても、そのあたりの解説はなかなかにスリリングに楽しかった。

短い本やけど、ハイデガーの思想を軸にした彼自身の(西洋哲学史の流れを背負った)思想史を潜り抜けてゆく、景色が良く見えつつも爽快なドライブ感がある良い本であったように思った。

でも、アマゾンのレビューで言ってた人もいたように、ハイデガー自身がどんな問題意識や悩みからその問題と取り組むようになったのか、ハイデガー自身の個人的な部分が見えてこなかったのがちょっと残念だった。

2007年09月22日

●黒澤明 「用心棒」(1961/日)

amazon ASIN:B000UH4TTG 黒澤明の『用心棒』を見た。
内容は江戸時代の宿場町に現れた浪人が、争う二つの勢力の両方に用心棒代を競らせつつのらりくらりと両方の壊滅を目指すというもの。冒頭とも言える始まって直ぐの、野良犬が人間の手首から先をくわえて「ご飯~♪」とばかりに嬉しげに歩いているシーンで否応にも期待が高まる。

無法地帯となった宿場町の雰囲気は最高である。人相の悪いやくざ者が得物を持ってうろうろ歩き、毎日が博打と刃傷沙汰で、桶屋は毎日棺桶が売れて大喜び。
もうこれは「北斗の拳」の世界、「ヒャーッハ!ここは通さねぇ!!」の世界であり、当然そこに圧倒的な強さを持ったケンシロウ的存在が現れて一人で町を救うわけである。

三船敏郎が「七人の侍」で演じた侍は愁いと笑いを帯びた野人然としたものやったけど、この「用心棒」では親しみと可笑しみをもつ野性的で圧倒的に強い侍で中々良い感じであった。
色々策略を練って敵の同士討ちを目指すも完全には上手くいかず、結局一人で敵勢力と直接対決で戦うところなどもう北斗の拳である。

等と書くとバカっぽいけど、今の時代から思えば無茶苦茶なバカな宿場町の設定もとても楽しかった。こんな事を書くと怒られるかもしれないけど、「完成度が高すぎてバカ映画に見えないバカ映画」だと思った。普通の映画好きの人は勿論、バカ映画好きにもとても楽しめるだろう。
続編である『椿三十郎』もぜひ見ようと思った。

2007年09月21日

●熊野 純彦 『カント―世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス』

amazon ASIN:414009303X もうすっかりお気に入りのシリーズ・哲学のエッセンスの一つ、『カント―世界の限界を経験することは可能か』を読んだ。
この本はカントの『純粋理性批判』を主とした「アンチノミー論」を主題にして展開されている。
1章で世界の二律背反のあり方を「物自体」と「現象」の区別(超越論的観念論と呼ぶらしい)で吸収する話を、2章で神を存在も非存在も証明できないがゆえに世界の外にいるとしか考えられないという話に展開させ、さらに3章で、人間の精神が不可能性と矛盾性へと近づいてゆく事、つまりは神的なものへの接近の欲求が理性の要請であることを、崇高的や叡知的と言った単語で説明される様は中々読み応えがあった。

この本では主に世界の二律背反を根拠に、精神の要請と目指す先が、絶対に辿りつけない世界の外にある神の存在であることが書いてあったわけやけど、それは、そのカントの主張がとても綿密な論理と理性の導きで成り立っていることの説明でもあった。
我々は過程が大事やと常々言いながら、やっぱりどうしても結果を求める癖がついているけれど、この本を読んで結論だけじゃなくって、それが導かれる過程がとても大事だと言うことを改めて思った。

カントと言えば遥か昔にキノコの某先生の授業で『人倫の形而上学の基礎付け』を講読していたのだが、その時に先生が「カントっていうのはカント先生って呼ばなきゃいけない位のエラい人で、自分の書いた本の中で"人間は道徳的な選択肢と非道徳的な選択肢があれば道徳的な方を選ぶ傾向がある"って自分に照らし合わせて書いちゃうぐらいに良い人でした。」って意味の事を言ってて「そりゃ確かにカント先生や(笑)」と笑ってたのを覚えている。
そういうわけもあり、私の中でカントはカント先生たる立派な道徳家のイメージがあって、有名な一節である「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ」ってな定言命法がカント先生のイメージでもあった。

道徳的である事や神的な存在への憧れが、宗教的な根拠や前提で無く理性的な帰結と要請から導かれ得るものであれば、理性と哲学の存在する意味は更に増すだろう。
人間としてとても道徳的で理性的であったカントのあり方が、宗教ではなく理性によるものからだと考えると、なんとも力づけられる話ではないか。
そして、宗教者が登り行く道を理性で登ることが可能だと考えるのは、ある種の人にとってとても救いになるだろうと思う。

2007年09月20日

●あまりに、あまりにカラマーゾフ的な長い一日

昨日行った「同じ部署の人が翌日する予定のプレゼンテーションのサンプル+αとしてのプレゼン」の本番のプレゼンを私がすることになったもののお客さん少なくて残念な寄席であった。それでも、「噛み噛み系プレゼン」の名に相応しい、「そこで噛むか?」と思わせるほどの見事な噛みっぷりであった。

ビジュアル版 日本さかなづくし (3集) 』『裏千家流茶道教本 続 初歩の茶道』「「ヴァチカン美術館の本」を古本屋で買った後に、某レディーがいまだ京都で生息しているのを確認し、数時間前に急遽決まった飲み会に参加して、あまりに急な開催を意に介さない見事な集まりっぷりに感心した。お互いがお互いを罵詈雑言で罵り合う、まるで『カラマーゾフの兄弟』の第二編でマクシーモフ、ミウーソフ、ドミートリイ、フョードルがいがみ合う、私の大好きなシーンのような楽しい飲み会であった。
更に言えば、アリョーシャもゾシマ長老もいないところがより一層素晴らしかった。いや、アリョーシャは一人いたか。

で、家に帰って買ってきた本を読み「ヒラメ」のページを開けたまま寝てしまった。

2007年09月19日

●噛み噛み系プレゼン、私ずるいんです

「同じ部署の人が翌日する予定のプレゼンテーションのサンプル+αとしてのプレゼン」とちょっとややこしい位置づけのプレゼンをしたのだが、例の如く噛みまくりの滑りまくりの寄席であったものの、それなりに上手くいったんじゃね?と自分では思った。
もうこれは「噛み噛み系プレゼン」という新ジャンルで新境地を開いた気分である。

16歳の少女が斧で父親を惨殺したニュースについての、おっとりまったり美しい感じの某レディのコメントが「もう死んじゃえって思うのは良いけど、斧で首切っちゃいけませんよねぇ?」で「ええーっ」である。
さらにそれについての某氏のコメント「私ずるいんです(原節子風に)」がツボにハマりまくる。

而して、おっとりまったり美しい感じの某レディーは中々に人間というものを良くわかってらっしゃるし、東京物語はネタの宝庫である。と思った。

2007年09月18日

●万年筆には青いインク

帰りに職場の近所の大型店舗でPilotのブルーブラックの万年筆のボトルインクを買う。何気にここの文房具屋は品揃えが良かったりするのだ。
先月発売されていたにもかかわらず気づかなかったグイン・サーガー115巻も同じ場所で購入する。

万年筆を風呂に持って入ってお湯で洗い、ブラックインクを完全に抜く。空きカートリッジに化粧用スポイトでブルーブラックのインクを充填して装着。
パイロットのブルーブラックは発色が良くて乾きが早いという特徴を持っているという評判らしく、確かにそんな気がする。しかし、その分粘度が低いのか、同社ののブラックに比べた場合Fニブでのカリカリ度がちょっと上がったような気がする。どちらも気がするだけやけど。
それでも、やっぱり万年筆のインクは青いほうが良いと思う。

となると家にあるwatermanとmontblancの黒インクはどうしたものか。ブラックのままでは多分絶対使わないので、青インクでも混ぜてブルーブラックとして使うのが一番よさそうだ。しかしボトルなのであまりに量が多すぎる。これだけの量のインクを使い切るのに一体どれくらいかかるのだろう。
色々なブランドのブルー系インクを試してみたいのやけど、こんなに大量にインクがあれば買い足すのに二の足を踏んでしまいそうだ。

買ってきたグイン・サーガ115巻を読んでから寝た。

2007年09月17日

●睡眠の合間に

ひたすらダラダラと過ごした日。
昼くらいに起きて音楽を聞きながら布団に寝転んで本を読み、眠ったり起きたりを繰り返す。
普段働いているからこそこういう時間を至福の時間であると感じることが出来るけど、引きこもっていたり無職だったりすると、こういう時間の過し方は自己を苛む原因にしかならないのだろうとふと思う。
「毎日が日曜日」と自虐的に言ったりする人がいるけど、幸福感であるとか開放感であるとかいった「快」の感覚は、起こりうる頻度であるとか日常に対する割合であるとかの時間的な希少性だけで測られるのでは無く、自分の置かれている外的な環境も大きな要因になっているわけである。

まぁ当たり前の話ではあるけど、そう思っておけば、たとえ不満しか抱き得ない現状にあったとしても、世界をそれなりに柔らかく見る事はできるんじゃないだろうかと思った。

2007年09月16日

●栗原 隆  『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』(シリーズ・哲学のエッセンス)

amazon ASIN:4140093064 最近お気に入りのシリーズ本「哲学のエッセンス」の『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』を読んだ。
一回目は一気に読んで微妙に判りにくかったので、二回目はちょっとゆっくりめに読む。余りにお手軽でこんなんでいいのか?と思うのは気にしないことにする。
ヘーゲルといえば弁証法というイメージやけど、この本はそのヘーゲルの弁証法を、自己否定や自己矛盾、「あれか-これか」の状態を解消し、高次の概念や存在にするものとして説明していた。
そしてその弁証法が、概念や自己への否定、同一性と非同一性、無媒介的な知と媒介的な知、などを契機に「悟性」の段階から「否定的理性」の段階、そして「肯定的理性」へと如何に止揚するかという様が描かれていた。

生きていて日常的に遭遇する自己矛盾であるとか自己否定を、懐疑論的に答えの出ないものとして判断保留の立場で置いておくのではなく、どちらも否定されずどちらも肯定されない超越的な高次の次元で解消されるのを目指すのが弁証法であった。
ある前提だけを頼りにする判断、つまりは悟性的な状態に則った判断は有限的な認識であり、その有限性を否定してその有限性を乗り越えるところに弁証法の意義がある。

われわれの陥るのっぴきならない絶望的な状態を有限性に囚われた状態として、その有限性から解消される形でその状態を克服することをこの本では直接的な弁証法の発現の場として扱っていた。
その絶望的な状況とは例えば自己矛盾であり、葛藤であり、自己否定であるけど、弁証法的に言えばそれらはただの避けられるべき苦しみに過ぎないのではなく、自らをより高次な存在として「なる」為の契機として捉えられるわけである。

そして、如何にしてそのより高次な形で解消される「止揚」なる状態が訪れるのかと言うと、矛盾や否定の先に、自分の望むべく状態や認識があることを前提としてその矛盾や否定にあたり、そこを目指すような形で投機する事によって展開されるのだと言う。
それは結論を前提として展開されるいわば循環論法的な構造であるけど、その循環論法を論理的手段として使うべきでないという有限性を乗り越えること、つまりはその「循環」を引き受けることこそ「思弁」なのだという。

常識や一面的な見方に凝り固まって疑いも矛盾も抱かない状態よりも、自らの有限性に絶望する弁証法的な契機の多い状態のほうが良しとされる見方は、惑いや迷い、悩みや憂い、葛藤や自己矛盾や自己否定を常とする人間にとってとても救いに見えるだろう。
たしかに自己矛盾や自己否定を抱えて絶望しながらもあるヴィジョンに投機して思弁し、以前の有限性を越えた認識や存在に「なる」ことで弁証法的に解消されたり止揚されてゆく様はなかなか感動的なものである。

哲学が卓上の空論ではなく、生活や世界に密接にリンクしている、リンクしていなければいけないと常々私は思うわけやけど、この弁証法の話はとても直接的に生活のレベルに根ざしているような気がする。
タイトルである『生きてゆく力としての弁証法』というタイトルはそういう意味でとてもいいタイトルだし、タイトルがちゃんと内容を表しているいい本だと思った。

しかしながら、「我々の人生は弁証法的に止揚される」ということもまた有限性の範囲内であるように思った。

2007年09月15日

●小津安二郎「東京物語」(1953/日)

amazon ASIN:B000VRRD20 小津安二郎の『東京物語』を観た。もちろん「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」の一環で、日本だけではなく、世界的にも評価の高い傑作の一つとみなされる事の多い映画である。
年老いた老夫婦が尾道から東京へ子供たちを訪ね歩くも、日々の生活に追われる子供たちはちゃんと相手をする事ができない。老夫婦は戦死した息子の未亡人の親切さに触れてそれなりに満足して尾道に変えるも、事態は急変する。と言う感じのストーリーである。
野望も陰謀も血も暴力もない、日常の良くありそうな話が淡々と綴られる、透明感と静かさに満ちた映画であった。

ネット上では美容院を経営する長女が図々しい嫌な女を醸し出しているような意見が多かったけど、私には欲望をストレートに出して現実的であるだけで決して悪い人間には見えなかった。
登場人物が悪人善人にきっちり分けられるのではなく、誰でもが等しく善人であり誰でもが等しく自分の事しか考えていない、善悪混ぜ合わされた存在としてリアルに描かれていたのが、人物描写として分かりにくいようでありながら、実はリアルと言う意味で分かりやすいような気がした。
最後の方で原節子演じる紀子が心情を吐露するシーンは中々のものがあった。このおかげで紀子はただの良い人で無く人間味を持った良い人になったのだ。
結局、人間の表層に分かりやすく見えてくる部分は、中でドロドロ流れているどの部分が浮かび上がっているのかと言う話なのかもしれない。

誰も悪くないけどかと言ってとても上手くいっているとは言えない、年老いてから感じるちょっとした違和感が、世代による感覚の違いであるとか時代の流れによる価値の変容だとか言うのは分かりやすい。
でもそれは特別な時代や特別な世代によってのみもたらされる特殊な事ではなく、いつでもいつの時代でも避けようも無く起こりうる事なんだろう。

誰もが善意を向け合って生きていたとしても、生きているだけでこの映画のようなちょっとした哀しみのようなものを味わうわけで、それは避けようとしても避けられるものではなく、そういうものとして考えておいたほうが良いのだろうなと思った。

2007年09月14日

●僕らはみんな歪んでいる

嫌な夢で目覚める。最近は時々夢を見るようになった。
昨日は午前中はのんびりで午後からいきなりバタバタだった。
色々なものが目まぐるしく変わってゆく。古い色々なものは過ぎ去ってしまってもう無い。
新しくなるのは良いことだけれど、古い物には死すら訪れずただ消え去ってしまうのみ。
今目の前にあるものも今すぐ掴んでおかなければ直ぐに流れ去ってしまうだろう。それでも悲しい事に私の手は二本しかない。

家に帰って昨日に引き続きsolaris君と戯れる。味気ない16色のキャラクターベースのコンソール画面への没入感が心地良い。
このsolaris的世界の、ただ自分のためだけに世界を使って良い、欲望が可能的現実に直結する全能感は格別だ。
プロンプトが震え、カーソルの点滅が鼓動し、私の訪れを歓迎しているかのようにすら見えてくる。
あまりにも象徴的な数文字からなるシンボリックな言葉を黒一色の画面に打ち込んで何かを生成して表現してゆくのはとても楽しい。このsolaris的世界にあっては16色で大抵の事が表現できる。いや、16色で表現できないような事は表現する必要の無い事なのだ。

自分の形にへこんだ布団や自分の尻の形にへこんだサドルの様に、このsolaris的世界で遊ぶ事の歪みや厚みは自分の歪みや厚みにあまりにもフィットする。この心地良さは真っ直ぐな人と違う形に歪んだ人には理解されないだろう。

人には色々な歪み方がある。歪みある自分から歪みある他人を見れば、その他人の歪みは自分と他人を合わせた程度の歪みに見える。
そして、まったく歪んでいない人も、歪んだ人から見れば自分の歪み程度に歪んでいる人のように見えてしまうというわけだ。

それでも、見てて気持ちの良い歪みと、見るに耐えない歪み方があると言うのもまた本当だし、他人から見た自分の歪みを気にしすぎるのもあまり意味が無いと思った。

2007年09月13日

●movabletypeでmod_perlは本当に早いか?

このブログをapache上のmod_perlで動かそうと、1.3系apacheとPHPのDSOモジュール、そしてmod_perlモジュールをコンパイルする。
ネット上に溢れる情報どおりに設定してmod_perlは動いた。しかし早いのはperlのCGIを使う管理画面だけで、やたらとメモリを食ってhtmlやphpの応答が遅くなったような気がする。しかも再構築中にブラウザへの返答が無くなる現象が見られるようになった。

perlの初期実行時のオーバヘッドは緩和されたものの、HTTP-KeepAliveが使えなくなったお陰でブラウザによる静的コンテンツの連続読み出しが遅くなり、結果として多数のファイルから成り立っている我がブログの閲覧は遅くなった。
しかも殆どのmod_perlのセッションが、スパムのためにCGIを叩く接続に対する拒否なり廃棄なりの応答や処理に使われているわけで、殆どmod_perlの意味ねーやん。
投稿者が使用する管理画面だけが早く、閲覧者が見る通常の静的コンテンツは遅くなる状態と言うのはいかがなものか。
そういうわけで、我がブログにはmod_perlは必要ないと言う結論に至った。

しかしながら、そのまま元の環境に戻すのもなんなので、mod_perlを使わずに1.3系apacheだけの通常のCGIとして運用するようにした。それでも、2.2系のapacheに比べてメモリ消費量が抑えられている。結果としては、最新版の1.3系apacheへの移行だけ言う事になろうか。

まぁ、久しぶりのソラリス遊びはとても楽しかった。
みんなsolarisではgccつかわずに/opt/SUNWspro/bin/cc使おうぜ。

2007年09月12日

●焼き茄子は焼きすぎるくらいが丁度良い

焼き茄子を作ったものの、慎重に焼きすぎて焼き具合は良いものの焦げ目が少なくて独特の焦げた香ばしさが少なかった。忘れるくらいにほおって置いたほうが良く焼けて香ばしくなるようだ。
あまり手をかけたり気を使いすぎたりすると物事が上手くいかなくなる例の一つであろう。

適当にやっておくくらいで結果として良くなることは世の中に結構あるけど、往々にして我々は何かしらの事どもに挑む際に結果だけでなく過程や動機も重視するから、「適当やけど良い結果」と「手をかけたけど結果はイマイチ」の二つの価値がありえるわけで、救いがあると言えば救いがある。

しかしながら、適当に事を行って結果が出せない場合はもう救いようが無いわけで、とりあえずは手をかけて置けば、結果はどうあれ無難であることには間違いない。
モラルの問題を利便性に還元してしまうのはなんとも味気ないけど、そう考えたほうが楽だったり分かりやすい場合も多々あるのであった。

2007年09月11日

●夜半から雨

激しい雨の中自転車を漕いで帰宅する。このくらいの雨でも今の気候なら「気持ち良い」と感じる部類に入るけど、これが冬なら泣きそうになりながら帰る羽目になるところである。
季節や時期の違いで同じ刺激でもまったく正反対のものとして捉えられるわけであるし、晴れた日は当然楽しいけど、雨の日も楽しみがあるわけで、なんとも世の中は不条理と二律背反に満ちている。

激しく対立する二律の狭間で自分の分裂を意識しつつも、その分裂をどうすることもできないのは、自分の中にある分裂が特殊なものでなく標準的なものだとみなす契機にする意外に無いではないか。と開き直りかけた、雨の日の火曜日であった。

2007年09月10日

●ウィリアム・ワイラー 「ベン・ハー」(1959/米)

amazon ASIN:B00005LK12  「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」の一環で『ベン・ハー』を見た。
紀元後数十年あたりのローマ帝国に占領されたエルサレムで、かつては親友であったメッサラにガレー船送りにされた、有力貴族のベン・ハーの復讐物語をキリストの磔刑までの話とリンクさせて描いた、4時間近い一大スペクタクル史劇ということである。まぁ史劇といっても架空の物語やけど。

この映画は古典として不動の位置を築いているようやけど、なんというか作りこみが中途半端な微妙に雑なところも見受けられたような気がする。
例えば、感情を表現するシーンがやたらとあっさりしていたり、演技のわりにやたらと音楽が大げさやったりという感じで、ベン・ハーのローマでの活躍が殆ど描かれないなど唐突に話が変わる部分が多く、長い映画といっても、作るほうからすればこれでもまだ時間が足りないのやろうなと感じる部分は多かった。
切り詰めて切り詰めてこの時間やし、それ以上に丁寧に描くのも限度があるということやろう。

とはいっても戦車競争のシーンは世評どおりの面白さだったし、映画全体としても古典的名作な面白さは十分やった。
さっき言った事と矛盾するようでそうでないつもりやけど、昔の映画の作り方は小細工無しで正々堂々としてて良いなぁと思った。

2007年09月09日

●「その気になれば」世界観

昨日疲れて海から帰り、風呂でナイフとヤスの塩抜きをして直ぐに寝た。
昼くらいに起きると全身が満遍なく筋肉痛になっていることに気づく。
心地よい筋肉痛のまま昨日使った諸道具類の手入れをし、夕方からこの間買った鞄を持ってピスト君に乗って街中へ出かける。
足でペダルを漕ぎ、前傾姿勢を背筋で支え、腕でハンドルを引きつけて走っていると体中が痛み、自転車に乗るのは意外に全身の筋肉を使っていることが分かったけど、到着する頃には殆ど筋肉痛は治まっていた。
街中を夜中までぶらぶらして土砂降りの中帰って来た。
買ったばかりの、しかも革の鞄を雨に濡らすのは嫌なのでナイロン袋に容れて雨を防ぎ、思う存分走りまくった。

筋肉痛もその気になれば何かを教えてくれる指標になるし、土砂降りの雨もその気になればとても楽しい。
「その気になれば」大抵の事の価値は転換する。
と同時に、遊びに対しては随分とタフである自分がいる事を感じた日曜日であった。

2007年09月08日

●2007最後の夏海

いつものメンバーで海に繰り出すも台風の影響で波が凄かった。
今回は「海でつくらへん料理を作ってみよう企画」ということで、通常のバーベキューのほかに「海水で茹でたペペロンチーノ」「現地調達採りたてたこ焼き」のメニューが追加される事となっていた。

激しい波が打ち寄せる中、某レディの焼いたパンを頬張って、日の出と同時に海に入る。
海に入って直ぐに20センチほどのチヌの群れを水深3mほどの極浅の地点の砂地で発見する。捕獲対象サイズがいないもののとりあえず潜行して根に隠れて様子を伺う。
すると目の前を岩陰から出てきた50cm近い巨大チヌが横切った。ヤス先ほんの30センチほど先である。アドレナリンが出まくる中をゴム引きMAXのフルパワーで体のど真中に打ち込むも、あまりのパワーに二本ヤスが止まらずにシャフトまで貫通してしまう。しかも体の中心より少し後ろを貫通している。
慌てて押さえに入るも体に大穴の開いたチヌは激しくもがいてヤスを振り切って海の彼方に。
あれだけの怪我やから多分助からないやろう。なんとしても捕獲するべきやった。ちゃんと頭を撃つべきやった。悔やんでも悔やみきれないけどどうしようもない。開始早々の大チャンスを逃して水中でしばし慟哭する。

20070908A.jpg気を取り直して再出撃。岩場で餌をついばむ巨大カワハギを真横からの綺麗なヘッドショットで、戻る途中に砂地で見かけた小さいチヌを斜め上から慎重に狙って、これも綺麗に脊椎にヒットさせ捕獲。25センチと小さいけど塩焼きが一番おいしいサイズなので良いのだ。

たこ焼きの蛸を現地調達という激しいプレッシャーの中、二本目の出撃。
おったら蛸取るしと言いつつも、魚を探しつつ岩陰を除いて明らかに蛸探しモード。しかし蛸は何処にもいない。こんな荒れたらどこかに引っ込んでるのだろう。
しばらくするうちに水深六メートルほどの根の中腹に巨大カサゴを発見して潜行する。潜行中、根の一番上に蛸がでーんとのっているのを発見。迷わず蛸を捕獲対処に変更。
通常ならナイフアタックで勝負を挑むところやけど、どうしても逃がせないということで念には念を入れてヤスを打ち込んで岩に固定した上で掴んで浮上、その後にナイフアタック。タコ相手にヤスまで使った、小銃を持って昆虫採集をするようなものである。
巨大チヌを逃がしてちょっとショボーンとしていたものの、プレッシャーを跳ね返して期待通りの働きをした嬉しさに大喜びである。蛸を取ってこれだけ嬉しかったのは初めてであろう。
塩と小麦粉でぬめりを取ったタコの足四本をぶつ切りにして、わさびと少量の海水と醤油で味をつけて「たこわさ」を、残りを海水で茹でてたこ焼きの具に。
任務を果たした後の「たこわさ」と「たこ焼き」の味は格別であった。

潮が満ちてきてうねりが出てきて波が恐ろしいことになってきた。
足ひれとマスクとシュノーケールを装着し、落ちていた発泡スチロールの板でボディーボード風に遊ぶも、入れそうなチューブが出来るほどの巨大な波に乗りながら、野営地点が津波に襲われる様を眺め、自然の恐ろしさを思い知る。しかしながら、あまりの波に慌てて高台へとダッシュで避難するハマダンゴムシたちがなんともプリティであった。

三本目は味噌汁の具を調達ということで、大き目のウミタナゴと通りすがりの運の悪いカワハギ君をどちらも綺麗なヘッドショットで捕獲。
やっぱり二本ヤスはこう使わないといかん。

波のせいで皆が泳げたわけでもなく透明度も低くて残念やったけど、楽しい海遊びで夏が終わったのを意識した。
次回からはウエットスーツ着用の秋冬海である。

2007年09月07日

●クラシック界、前代未聞の驚異の1枚(らしい)

amazon ASIN:B0000C4GKA サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院聖歌隊の『グレゴリアン・チャント・ベスト』を聴いた。
このCDは「ベスト」と銘打ちながらも、15年ほど前に大ベストセラーになった、発売からわずか3ヶ月で25万セットを売りつくしたという「クラシック界では前代未聞の驚異の1枚」であるらしい『グレゴリアン・チャント ~グレゴリオ聖歌』 の全ての14曲と、そのCDから三枚目のCDにあたるクリスマス聖歌の収められた『チャント・クリスマス(グレゴリオ聖歌)』 から11曲が収められたとてもお得なCDである。

プロではないスペインの聖地の修道士たちが歌う和音無し一旋律のユニゾンはストイックでありながらも不思議な没入感を生み出す。
音楽にしろ何にしろ、激しく訴えかけようとするものばかりに溢れた世の中で、まったく押し付けがましさのない確信と平安に満ちたこの信仰の音が受け入れられたのは良く分かるような気がする。
抑制と熱狂の中庸、抑制寄りというスタンスはそうそう見られるものじゃない。

夜中の1時からいつものメンバーで海に行くという事で、このCDを聞きながら少しだけ寝ておいた。

2007年09月06日

●根性のある虫

台風は直撃しなかったものの風がとても強かった。
部屋の四方の窓を開け放していると部屋の中に風が吹き込んで、紙類が吹き上がったりカーテンがばたついたり髪がなびいたりする。そんな中、座ってパソコンに向かっているのは、なんかコントのような状況である。
そのうちにだんだん風が強くなってきて、あまりの風の強さに恐れをなして窓を閉めに行こうと窓に近づいたら、大きくなったヘチマの実がもげそうな勢いで風に揺られていた。

しかしながら、こんな暴風の中でまったく臆することも気にすることもなくメスを探して鳴き続けている秋の虫たちに鬼気迫るものを感じながらも、ちょっとだけ感心した。

2007年09月05日

●黒澤明「七人の侍」(1954/日)

「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」と言うことで、実は見た事が無かった『七人の侍』を見た。

amazon ASIN:B000UH4TRS 盗賊団と化した野武士に略奪されている村落が、野武士を返り討ちにするために傭兵として侍を雇い、集まった個性豊かな7人の侍が村を率いて野武士と合戦を行う。と言う長い話やけど、まったく退屈しない。中だるみすらない。
砦の場所と味方の数を自白させた敵の捕虜を鍬でもって敵討ちする老婆、落馬させられて逃げまくる野武士に農民が群がって竹槍で刺し殺し、敵の数だけ紙に書き付けた丸印を一人殺すごとに×印をつけてゆく志村喬が中々良い感じに怖い。
単純に戦闘シーンもエグくて良い感じやし、7人の侍や農民のキャラクターも良い感じで、良いも悪いもごっちゃにした人間の姿つーのが良い感じに出ていたように思う。

ドストエフスキーの『罪と罰』は高校出た直ぐ位に読んでもそれほど面白くなくって、結構歳いってから読み直すと面白さが分かったのに引き換え、『カラマーゾフの兄弟』は高校出た直ぐでも今でも読んだ時代に合わせた面白さが出てくると思うのやけど、『七人の侍』はそんな「カラ兄」のように高校生が見てもおっちゃんが見てもまた別の面で心躍りうーんと考えさせられるような面白さがあるように思えた。

しかし、私なら、半数を弓部隊に仕立てて柵で足止めされてる所にロングボウのごとくに矢の雨を。とか、折角敵軍の種子島を2丁鹵獲したんやから、スナイパーの一人や二人配置するな。とか、とりあえず敵の進入路にトラバサミ地雷を多数、自陣近くに振り子式丸太発動のワイヤートラップを仕掛けつつ、木陰に馬の足を引っ掛ける縄を手動で引っ張るように農民を伏せておくな。とか時代考証とか武士道とか無視した奇策ばっかり考えてた。

2007年09月04日

●ローランド・カーク 『溢れ出る涙』

amazon ASIN:B000IJ7IYY ローランド・カーク『溢れ出る涙』を聴いた。
このローランド・カークって人は盲目のマルチ・リード奏者で、一度に三本のリード系楽器を咥えて吹き、更に鼻でホイッスルを鳴らし、時には歌ったり唸ったりと、グロテスク・ジャズやとか言われて、奇人変人の類にカテゴライズされることが多いようだ。
この人の他のアルバムは私の中では思い出深いものにカテゴライズされている『ドミノ』 というの持っているのやけど、それに比べてこの『溢れ出る涙』は彼の変人度が低いような気がする。

このアルバムの中にはいわゆる「ジャズ」っぽいのもが入っていて、そういうのと一緒に「息継ぎ無しの三本同時吹き歌入り」なんてのを聴くと、それなりにまともな人がちょっと変わった事をしてみたようにも聞こえない事もない。

しかしながらこの人はまったくまともじゃない。
この人のぶっ飛び具合が奇をてらって人と違うことだけをするのを目的としたものでないのは聴いていると良く分かるし、生まれながらの変人は美しいとすら思える。
アルバム名にもなっている「The Inflated Tear」はどうだろう。情念と言うか叫びと言うか訳の分からないものが彼の溢れているように聞こえる。
これが彼の言う涙なのか?

なんというか、こういうのを聴いていると俺はいったい何をしているのだろうとつくづく思う。

2007年09月03日

●上野 修 『スピノザ―「無神論者」は宗教を肯定できるか』 (シリーズ・哲学のエッセンス)

amazon ASIN:4140093331 スピノザといえば『エチカ』というイメージがあるけど、この本はその『エチカ』ではなく『神学・政治論』の方をメインに解説した入門書である。

自由の国であったはずのオランダでの宗教と哲学の衝突を憂慮し、その混乱の解決を目指すべく著され、自然の世界と宗教の世界の分離をどちらも守る形で推し進めようとした『神学・政治論』の意図が分かったような気がする。

宗教は啓示と服従を、哲学は真理を解くもので、神学と哲学は全く相容れない全く独立したものであるべきであるというスピノザの主張が、聖書は論理も解さず啓示も得られ無い、哲学者でも預言者でもない一般大衆向けに伝承的に述べられたものであるから、哲学が扱うべき真理や論理とは無縁であり、預言者の得たものが隠されているわけでもなく、ただ啓示を示して神への服従を解いているに過ぎないという文脈で説明されていた。

確かに当時の彼が異端の無神論者とされたのは良く分かった。聖書はただの言葉に過ぎない。聖書は真理を述べていない。といえばそらもう恐ろしいことになるのは良く分かる。ゆえにでも聖書もキリスト教も必要である。と付け足したところで、何じゃそら。ということにしかならないだろう。

それでも、正統的なキリスト教的ではないにしろ、信仰心のようなものは彼の主張から強く感じるような気も個人的にはする。その信仰は恐らく『エチカ』で展開される「汎神論」といわれるものになるのだろうか。

キリスト教的な意味では無神論者と看做されるやろうけど、汎神論的な意味での信仰者であることを自認している感覚は、キリスト教的な服従という意味合いでの敬虔ではなく、理性によって感じられる大きなものの存在に対して敬虔さを抱く感覚であるだろう。
だからといってキリスト教的信仰を否定するのではなく、それは大いに肯定されるべきであると感じる感覚が、自己矛盾に陥っていると感じられないのは不思議といえば不思議やけど、感覚的には良くわかる。
敬虔であるとか信仰であるとかいった感情や状態に対する敬意を持つというのは、真面目な物に対する態度としてもっともまともな感覚じゃないだろうか?

哲学といえば、論理の正当性を前提にしているわけで、まぁ、論理に対する敬虔であるとか信仰であるといってしまっても完全な間違いではないやろう。
そしてそれを突き詰めてゆけば、世界を世界として成り立たせている自然法則や自然自体がその敬虔の対象になるであろうことは自然な流れであるような気もする。
「正しく行う人は、宗教に教えられてそうしようと、理性に教えられてそうしようと、隣人愛の教えにかなっているというだけで等しく敬虔なのである。」という言葉はまさにそれを言い表しているわけで、とても印象に残った救いのある言葉であった。

後に、スピノザをして『エチカ』で一般的に「汎神論」と呼ばれる思想がまとめられることになる必然性というか、動機の根のようなものがこの本でよくわかったような気がする。

2007年09月02日

●幸せのサンドイッチ

朝起きて「幸せのサンドイッチ」を作る。
「幸せのサンドイッチ」と言っても黄色くも青くも無い、特に大層な事は何も無いただのホットサンドである。
玉ねぎとベーコンを炒めたもの、スクランブルエッグ 、レタスとトマトとキュウリのスライス、の三種類の具材をマヨネーズと塩胡椒で味付けしたものを、4枚切りの食パンを更に半分にスライスして焼いたもので挟んだ三色ホットサンドである。
本来なら潰したゆで卵を使うところをスクランブルエッグで代替するところが土偶ゆえの適当さである。
おまけに「幸せのサンドイッチ」に挟みきれなかった「玉ねぎとベーコンを炒めたもの」をケチャップを塗った食パンの上に乗せ、オレガノを振ってチーズを乗せてオーブンで焼き、簡易ピザトーストとした。

ロード君で濡れた路面と埃っぽい道を高い目のアベレージで30キロほど走った。
ミッシングリンクにまったく問題は無く、メンテルーブを塗布したチェーンへの埃の吸い込みも殆ど無く、漕ぎ味のしっとり感は変わらなかった。本当は30キロくらいではまだなんとも言えない筈やけど、これは良いんじゃないだろうか。

2007年09月01日

●洗/油/茄子/苦瓜

早起きして自転車を洗う。
チェーンを外してペットボトルに投入して灯油とシェイクして浸け込んでおき、スプロケット、ディレイラー、クランク、ブレーキについた黒い油汚れを灯油を使って大きなペンキ用の刷毛でガシガシと落とす。
油汚れが完全に落ちて部品がピカピカになったら、バケツで泡立てた家庭用洗剤を使って車体を丸ごと洗い、水で洗剤を流して、乾いたら駆動部にオイルを注す。
灯油から引き上げたチェーンにディグリーザーを吹いて灯油を飛ばし、組み付けた後に注油。
というのが土偶の自転車の洗い方である。

今まで自転車用のオイルにホームセンターの純シリコンオイルを使っていたのやけど、今回からWAKO'S のメンテルーブに変えた。ディレイラーやブレーキの駆動部に使った場合の違いは分からんけど、チェーンオイルとして使った場合は妙にしっとりした漕ぎ味に変わった。これは良い感じである。
性能には関係ないけど、いろんな方向に向いて折り畳める細いノズルが気に入った。

加茂茄子を焼き茄子にする。これは美味しすぎる。現段階での「好きな食べ物ベスト1」たる「焼き茄子」の位置であるけど、秋になってますます茄子が美味しい季節であり、当分この座は揺るがないだろう。
ゴーヤチャンプルを作った。もう何度も作っているので、味付けから材料の量、投入のタイミングや火の通し方など完璧であった。
作り方は以下の通り

焼き加茂茄子ピカドン風:
丸っこい加茂茄子をコンロの上に載せた網の上の直火で、時々位置を買えながら表面が炭になり真っ黒でブヨブヨの何の物体か分からなくなるまで焦がし、触れるくらいまで冷やした後に皮を剥ぐ。
手でへたを取って裂いて器に盛った後鰹節を添える。ごく少量の醤油で焦げ臭さを味わおう。

ゴリゴリゴーヤチャンプル:
豚ロースのブロックを5x3x1cmくらいの大きさに切り出して塩胡椒で炒める。
豚肉に焦げ目がついた時点でゴーヤを投入。ちなみに種もワタもとらない厚さ0.5~1cmくらいの輪切りである。
ゴーヤがしんなりしかけてきたら、豆腐を崩して入れて更に炒める。
豆腐の色がきつね色になりかけてきたら出汁(土偶の場合は隣のコンロで作っておいた味噌汁の出汁の部分)を入れ、醤油、塩、砂糖、みりんで味をつけて煮る。
割合は、出汁:醤油:砂糖:みりん:塩が3:2:1:1:0.5くらいであろうか。全部で具の三分の一がひたひたになるくらいの量である。
ゴーヤが程よいくたびれ加減になったら卵を入れて混ぜ合わせ、ごま油を入れて風味を出して完成。
種をとらないゴリゴリした食感が良い感じ。