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2007年08月31日

●8月最後は自転車のチェーンと

仕事帰りに近所の自転車屋に寄り、チェーンオイルとその他なんでもオイルに使う為にWAKO'S のメンテルーブを、ばら売りされているのを発見したKMCのミッシングリンクを買う。
KMCのミッシングリンクは以前買ったWippermanのConneX Linkに比べると高い工作技術が盛り込んであるような気がする。刻印もくっきり決まってるし、がちゃがちゃくねくねやっても全然外れる気配が無いのに、両横から挟んで押しつけつつ前後にずらすと「すこっ」と外れる溝の構造なんかはスゲーと思った。たぶん単価辺りの技術量はミッシングリンクの方が上だろう。まぁ普通の自転車乗りしてる分にはどちらでもまったく問題も違いもないやろうけど。
しかしながらConneX Linkは言い方を変えれば構造がシンプルっていうことやし、コネクタの穴が機能的ハート型構造をしているのは見た目にもちょっとしたオサレポイント高しであるだろう。まぁほんのちょっとだけやけど。

ロード君はミッシングリンク、マウンテン君はConneX Link、ピスト君は割りピンで簡単にチェーンが切れるようになって、明日こそは自転車を洗おうと思った八月最後の日でもある金曜日だった。

2007年08月30日

●到達点である開始点は到達点を探す

当初は目標点に見えたはずの何かの区切りとか到達地点が、そこまで来てみるとまた別の何かへのスタート地点だったと言うことは良くある。
良くある、と言ったものの思い起こせば今までそんなことしかなかったような気もする。何らかの到達点はすべからく何らかの開始点でもあった。目標に達した時点で何かが終わった事なんか何一つとして無かったのではないか。
おそらく、人生だとか時の流れだとか人間一般に関わる殆どの事がそういったものだとみなされる要素を持っているのだろう。
ある地点ですべてが終わり、そこから先は何も無い到達地点というのは「死」以外に思いつかない。しかしその「死」ですらもある考え方や価値からすれば何らかのスタート地点としてみなされている。

生きる事が無限回廊のような終わりの無い連続したものであったとしても、その無限回廊の中での決定的な到達地点の欠落が苦の終了と楽の到来を約束しないものだとしても、生きる事自体の本質は何も変わらない。
ある見方からすれば人生や生きる事はそう見えるというだけの話である。言い方を変えれば真実らしきものがそのように見えた。とも言える。
それでも、暴力的で絶対的な終わりである死を何らかのスタート地点とみなすことがある種の救いの芽になるように、人生を生きる事の終わりの無さ自体が人生に対するある種の救いの発端になるのではないのだろうかと思えた時に、見えなかったけど実はそこにあった何かに一瞬手が触れた気がした。

2007年08月29日

●黄色い店

自転車に乗っていてたまたま見つけた雑貨屋に入ると黄色いものばかり売っている店で、喜び勇んで物色しているうちに「これなんかええんちやう?」とお勧めされたのが真黄色の「がま口」だった。
物欲が最高に刺激されながらも、値段が2500円で「ちょっと微妙やなー」と思いながら、レジまで行ったり来たりしてひたすら悩む。

という夢を見た。というより夢自体を見たのが久しぶりだ。

この日も妙に疲れ果てていて、11時前には寝てしまった。いったい私はどうしてしまったのだろう。

2007年08月28日

●黒澤明 「生きる」(1952/日)

amazon ASIN:B000VJ2DOQ  「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」の一環として黒澤明の『生きる』を見た。
今となっては「生きる」とか「生きろ」とかいった言葉はどうでも良い文脈で散々使い古されてチープになっているけど、「生きる」や「生きろ」という言葉はこのように使うのだというお手本のように「ただ生きる」が「エウ・ゼーン」の意味合でいの「生きる」となる様が描かれていた。
アマゾンに掃いて捨てるほどの感想と評があり、そのどれもが「べた褒め」に近いように、確かに良い映画だった。

生きる希望を失った主人公に「どうしてそんなに生き生きと生きられるのか?」と問われた活発で生気ある元部下の答えが「ただご飯食べて、ただ働いているだけよ」と言うのが印象的で、主人公の葬式で部下やら同僚が酔っ払って明日になれば忘れるような決意までしてしまうシーンが大好きである。

「いのち短し。恋せよ乙女。」「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」と言った映画だった。

2007年08月27日

●量と質

睡眠を削って自由になる時間の量を増やすか、睡眠をちゃんととって自由な時間の質を向上させるかのジレンマは誰にとっても永遠のテーマやろう。
一般的にはよく寝てしっかり脳を休めて質のいい仕事なり時間を過ごすほうが良いように言われるけど、絶対的な時間が足りずゼロの時間の質を向上させることは不可能なので、結局大体みんな睡眠時間を削って量を増やすということになる。
最近寝るのがやたらと遅い日が続いて寝不足気味だったこともあり、この日は11時にはもうふらふらだった。
以前なら「だが断る」とひたすら起きてヲタオタ作業に勤しんでいたけど、最近は「もう寝るもんよー」と直ぐに折れて寝てしまうようになって来た。

昔は極限まで睡眠を削って色々な事に時間を費やしていたけど、それでも最近はどれだけ深くどれだけ集中して出来るかって感じの「質の向上」を意識するようになって来た。
若いころは食べ物にしろ遊びにしろ知識にしろ何にしろ「量」が正義の基準やったけど、最近は「質」こそが正義というわけで、これは明らかに「加齢」のリアクションであろうなと思いながら、さっさと寝た月曜日であった。

2007年08月26日

●夏の終わりの、遠すぎる

あまりに暑くて目が覚めると太陽は既に南中して昼も大分過ぎていた。
暑さで起きるという目覚めの悪さと、起きた時間の遅さでちょっと嫌な気分になりつつも、部屋の中の異様な暑さにもかかわらず、なぜか夏の終わりのような雰囲気が漂っており、不思議といえば不思議、微妙といえば微妙、ついでに言えば苦行のようでもある。
夕方から自転車に乗って出かけたのだが、それが無ければ本当に苦行のような日曜日だったに違いない。

自分自身に対して持つイメージと人から見た自分の姿のギャップに驚くことが、現時点での自分像と目指すべき方向性の修正に役立つのやろうけど、結局その自己像も自分という他人から見た自分の姿であるわけで、自分自身で自分をちゃんと理解することすら難しいねんから、やりたいようにやったりなりたいようになるのはもっと難しくてしかるべきであるという事にしておこう。

何かを目指すこと自体は全く大したことではないし、目指すこと自体は難しくもなんとも無いし誰にでも出来ることである。
しかし、目指す先がとても遠くて難しく苦難の道のりでしかないなら、何かを目指して努力なり我慢すること自体にそれなりの意味がある。とそう思うしかない。まぁあくまで「それなり」やけど。

2007年08月25日

●「ナバロンの要塞」(1961/米)/久しぶりの「寒い」

amazon ASIN:B000BVVFIO  「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」ということで『ナバロンの要塞』を観た。
難攻不落の要塞に海に向けて設置された大砲2門を、味方の駆逐艦が通過する前に破壊するという任務に、それぞれ得意技術を持つ6人の精鋭が挑む話である。古典的な快作やけど、昔の映画の癖に敵やろうが寝返った味方やろうが情け容赦なく殺すのがちょっとびっくり。どこかのサイトでも言っていたように、人を殺そうが大砲を要塞ごと爆破しようが、「はいはい、死ね死ね」「はいはいナバロンナバロン」「はいはい大砲大砲」と特に嬉しくも無いようなサラリーマンの悲哀が滲み出た映画だった。微妙にアドルフ・アイヒマンを思い出した...

夕方から琵琶湖で泳ぐ。日が暮れた後に水に浸かるとなんとも気持ちいい。昼の暑さが嘘のようである。
水はぬるいけど、濡れた体で外に出ると震えるくらいに寒かったので、水から上がってガタガタ震えながら「寒い…」と呟きながら火をおこす。
「寒い」と思ったのも「寒い」という単語を使ったのも久しぶりなような気がする、体中が焚き火の煙で焦げ臭くなった土曜日であった。

2007年08月24日

●テリー・ギリアム「バロン」(1988/英 独)

amazon ASIN:B0009J8E8C  ドイツの童話『ほらふき男爵の冒険』の映画化と言う事になっている、テリー・ギリアムの『バロン』を見た。
地球の反対側の的を射抜くスナイパー、弾よりも早く走る韋駄天、船三隻を振り回す怪力男、口から吐いた息で師団丸ごと吹き飛ばす小人を家来に引き連れたバロンの冒険劇。
妙にシュールで変な美しさのある躁な世界であり、こういうのが好きな人にはたまらんのやろう。
無茶苦茶で不真面目やけど、確信犯的なのでバカ映画ではないと言うところであろうか。

全編通じて何じゃこりゃ?な感じで面白かった。首から下を軽蔑する「頭部」と欲求のままに振舞う「首から下」の二つからなる、頭部が外れる王は全男性がムムっと苦笑するのではないだろうか。
映画が滅茶苦茶好きって人にはもうたまらんけど、普通に映画が好きなだけでは「ハァ?」といった所だろう。文学界でのトマス・ピンチョンの立場に通じるような感じであろうか。

巨費を投じて製作した割に大コケしたらしいがまぁわかるような気はする。

2007年08月23日

●洗足木曜日

光文社古典新訳文庫の『カラマーゾフの兄弟』が古典文学では異例のベストセラーになったと言う事でなんだかとても嬉しい。なんとなく世の中捨てたものじゃないと思う。
『カラ兄』は土偶を構成するもののひとつであるだけに、自分が世界に受け入れられたような気までしてくるのが不思議である。
古典を新しく訳しなおして世に出し、新しい流れをこの世界に引き込んだ光文社の企画はとても素晴らしい。商業的にも成功したようで本当に何よりである。こういう仕事に関われると至福の限りであろうなと思う。

足を火傷してから始めて足を水につける。十日ぶりくらいに石鹸で足を洗いなんとも言えない感慨を覚える。エタノールやらマキロンやらで消毒のみと言うのはあまりに味気なさ過ぎた。
ちゃんと風呂に入って足をつけられるというのがどれだけありがたいかというのが良く分かった。

2007年08月22日

●フリードリッヒ・グルダ「悲愴」 (アマデオ盤)

amazon ASIN:B0009N2VFU フリードリッヒ・グルダの演奏するベートーヴェンの表題付きピアノソナタを聴く。アマデオ盤の全集録音の中から8番、14番、23番、26番の入ったCDである。
グルダは自分のコンサートでベートーヴェンやモーツァルトと一緒に自分の作曲した曲を演奏したり、アンコールで客からのリクエストを受けたり、後年にはジャズへと傾倒して演奏までした異端児であった。
変人好きの私としては、グレン・グールドのように立ち昇るほどの生き辛さの悲壮感を漂わせる変人でなく、完全な変人でありながらちゃんと世間に順応した天才でもあったグルダの立ち位置がとてつもなく眩しいのである。
彼の演奏するベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタをこの間聴いてかなりよろしかったので、有名どころの初期と中期の傑作である「悲愴」と「熱情」を聴きたかったのだ。

で、グルダの演奏の特徴とされるとおりに、どれも明るくはっきりした素晴らしい演奏で良い感じだった。特に8番「悲愴」の第二楽章の若者特有の深刻すぎないあこがれ感が良い感じに出ていたように思う。このCDは愛聴盤になりそうな予感である。

2007年08月21日

●スタンリー・キューブリック 「突撃」(1957/米)

amazon ASIN:B00005EYQ0  キューブリックが監督だということで、「突撃」を観た。
第一次世界大戦で砦を巡ったフランスとドイツの塹壕戦を描いたもので1957年公開と結構古い初期の監督作品である。
カメラワークがどうとか反戦がどうとか言われるけど、私自身は特にそんなことに興味は無く、あんまりキューブリックという感じがしなかった。
この映画はキューブリックや映画を語る上での歴史的な価値があるという言及のされ方をされるような感じで、映画自体はまぁ普通の映画のような気がする。
とはいっても、ネットしながら観るつもりやったけどついつい夢中になって見入ってしまうほどの面白さはあったのやけどね。

カーク・ダグラスが熱演しすぎてネタ部分が殺されている。という世評の通り、もっとふざけた奴がやってるとキューブリックぽくなったかもしれない。
それでも彼が塹壕を出て部隊を率いるシーンはキューブリック的な笑いの萌芽を見たような気がした。

2007年08月20日

●プチ離人

休みの間は某補完計画のようにふやけて溶けきったような、自分と外の境界線が殆どないが如き、自分自身を解放しきった暮らしぶりであっただけに、長い休みの後に仕事をすると自分自身が自分自身で無いような、異物に囲まれたような、変な違和感を感じる。
違和感といいながらも、それは「自分自身が自分自身で無いと感じる自分こそが自分である」という逆説的なやり方で、自分が外部と独立した存在であることを感じさせてくれるわけで、当たり前のことを当たり前に感じているというレベルで、そのこと自体はそれはそれで悪くない気分でもある。

他者や外の世界とのコントラストによって自分が一個の存在でしかないと認識されて意識される事が喜ばしい事なのか悲しむべき事なのか、という事は状況に応じていくらでも変わりうるものであるがゆえに、実はそれほど大した問題でないと思うようになった。
それよりも自己の存在を意識すれば意識するほどに浮かび上がってくる他者であるとか外の世界が自分にとって不可避なものである限り、それらと如何に関わるべきかという事の方が、実生活のレベルでは大きな問題になってくる。
それらとの距離感であったり態度であったりなにかしらを、入れ替わり立ち代り押し寄せるそれらに対して決定して修正して調整する事は、演算の方向にエネルギーを使う、実はなかなかに重い処理である事を意識する。

色々な事に不安を感じることは多々あるけど、あくまでそれは不安でしかない。不安を感じることに不安を抱いてしまえばもうどうしようもない無限ループに陥る。
眼前に立ちはだかるものに気圧されて立ち竦んで動けなくなるくらいなら、目を閉じてしまえば良い。
そうすればそれはあたかも消えたかのように見えるだろう。
消えたように見える事と、本当に消えた事の間にどれほどの違いがあるというのか。

「~のように見える」を「~である」の代わりに使う事はある種の生活の知恵であろうと思う、長い休みが明けた月曜日であった。

2007年08月19日

●マナ、蛇口、足の裏

足を火傷してしばらくまともに歩けずおり、ようやくにして治りかけてきて、ちゃんと歩けるということはありがたいことやなーとしみじみ思う。

いつも日常的に食べ慣れている物でも別の人が食べればマナの如きありがたき物となりえることを思いつつ、水道が故障すれば蛇口を捻れば水が出ることが奇跡であることを、そして足の裏の皮が厚く丈夫であるのがどれだけありがたいのかを理解する。
われわれはありがたい事に囲まれつつも、そのありがたみ自体がありがたい事であるのにそれを失ってから始めて気づくのだと思う。失わずしてどれだけそのありがたみを組み尽くし、そして感謝する事が出来るのだろうか。
と、病気や怪我をして謙遜になったり敬虔になって変な感受性が芽生えた頭で考える。

この日でお盆休みも終わり、次の日から日常が始まる。
そして、戻るべき日常があると言うことも、恐らく、ありがたいことなのだろうと思う事にする。

2007年08月18日

●「非日常」を送る火

一昨日久しぶりちゃんと五山の送り火を見た。五山と言っても「大」と「舟形」の二山だけやけど。
「大文字」は遠目ながらもくっきり見えたけど、「舟形」に関しては殆ど麓から見たので全体像が見えず「壮大な山火事」のごとき趣であった。

「送り火」はお盆と言う事で現世に里帰りしていた「ご先祖の霊」をお盆終了に伴って「あの世」に送り返すというコンセプトやけど、テレビで山折哲雄が京都盆地の地図に五山の絵を描いて、京都中心部から見て山の向こうが「あの世」で山のこちら側が「この世」です。と誇らしげに言っていた。
彼の言い分からすると舟形を裏山とする我が家はおもっきり「あの世とこの世の狭間」あるいは「どちらかと言うとあの世」と言う事になってしまうやんか。とちょっとムッとした。

今まで送り火をきっちり見ようと思って見に行く事は殆ど無く、海に遊びに行った帰りに殆ど偶然に目に付く事が多かったけど、それでもやっぱりこれを見ると夏が終わるなぁ。とうら寂しい感覚はある。
お盆が終わる事に伴って死者であるご先祖が黄泉の国に帰るという事は、お盆と言う特殊な状態が通常の状態に戻る事でもある。ある意味で非日常から日常へのシフトとも言える。
そしてこの時期になるとお盆だけでなく、一大イベントである夏やとか夏休みであるとかいった非日常も終わってしまうわけで、五山の送り火を目にして感じるうら寂しさはその辺りも起因しているのかもしれない。

夏と言う非日常が楽しければ楽しかったほど、過ぎる夏を寂しく感じ、待ち構えている日常をわずらわしく思うのである。
しかしながら、非日常がずっと続けばそれが日常になる。などという言い方をしなくても、非日常は日常からある程度の断絶があるからこそ非日常としての価値が生まれるのだ。
この世の中で日常だけを生きるのは何とも辛い物であるがゆえに人は非日常を求めるのやろうけど、しかしながら実際に非日常だけで人生を送ることは殆ど不可能であり、実際そう出来たところで現実を生きているとは言えない。

なんというかこういった迎え火で迎えて送り火で送るといった感じの、何らかの象徴的なイベントを境に日常と非日常を行ったり来たり出来るようなバランス感覚は、精神衛生上とても良いような気がする。
考えてみれば、「海に遊びに行った帰りにラーメンを食べる」と言うわれわれが良く行う行動も、非日常から日常に戻るある意味で象徴的なイベントとしての意味合いを含んでいるような気もしてきた。

そういうわけで、非日常も日常もどちらも大事であるし、その切り替えってのはとても大事なものなのだなぁと思った、足の火傷のせいで古い友人からの「陶器でも焼きに行かへん?」という誘いをパスせざるを得ず、激しく残念で激しく暑い土曜日であった。

2007年08月17日

●スティーブン・スピルバーグ「未知との遭遇」(1977/米)

amazon ASIN:B000H1RGUE  「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」の一環ということでこの日は『未知との遭遇』を見た。
地球外生命体との「ファーストコンタクト物」を描くものであるけど、全編善意と好意に満ちていてなんとも心地よい。
何にも物怖じしない純真無垢な子供のようにでもなく、自分の使命や強さを意識しているエリートや超人の様に地球のためでもなく、沢山の大人たちがお互い寄り集まって恐れと好奇心を半ばさせながら、ただただコンタクトを取る事自体を目的として興味から地球外生命体と接する様が、そして突然の非日常に振り回されてしまう普通の大人たちの姿がなんとも良い感じに描かれていた。

英雄も超人も純真無垢な子供もエイリアンもプレデターも登場しない、UFOにしろなんにしろ、自分より上位にある圧倒的な「夢」のようなものを追いかける、善意の大人「達」が主人公の良い映画だった。
この年になるとこういう映画はなんともたまらん。やっぱり名作やね。

母船と音とパネルで会話を試みるシーンはなんとも感動的だった。

2007年08月16日

● 『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』アンドラーシュ・シフ

アンドラーシュ・シフの『ゴルトベルク変奏曲』を聴いた。
グレン・グールドでない『ゴルトベルク変奏曲』を始めてちゃんとゆっくり聴いたのだが、『ゴルトベルク変奏曲』についてはネット上でいろいろな人が色々な演奏家の物を聴き比べて色々な評をしているけど、このシフの演奏についても大体私もたいてい言われるような印象を持った。
つまりグールドのものと比べて、変な緊張感とか切迫感とか差し迫った所は無く、とてもまろやかでエレガントで、聴き疲れしないということである。
音と音が繋ぎ目無く綺麗に敷き詰められて、反響音が大きく、刺激的な音は少ない。グールドの演奏とはまったく違う印象である。
まったく違う印象ではあるけど、とても心地よい。

amazon ASIN:B0000QWZPM しかしながらやっぱり個人的にも世間的にも『ゴルトベルク変奏曲』についてはグールドの演奏が基準になっているので、「グールドの演奏と比べて・・・」という評価が多くなってしまうけど、この曲はもともと不眠に悩まされていた貴族が聴いている内に眠くなるように作られた曲であるので、シフのこの演奏は本来の曲のコンセプトに沿っているのかもしれない。
こうったリラックスした心地よい演奏は、この曲はもともとこういう曲なんじゃないかと思わせるところがあった。

シフの演奏したり発表したりしている録音やライブのリストを見れば彼がバッハ弾きであるのは良く分かるし、彼のまろやかでエレガントな演奏は宮廷音楽家であったバッハ的と言えばバッハ的なのかもしれないけど、私にとってのこの曲はやっぱり強烈に情念的なグールドのピアノになじみすぎていて、シフの演奏を「この演奏は違う」と思ってしまう。
グールドの亡霊の憑依がいかに強力であるのかが良く理解できた。

グールドの演奏は常に自分自身をしか意識せず自己表現に徹しているけど、このシフの演奏はとてもバッハを意識しているような気がする。何度も何度も聴いていると、グールド的ではない、この曲自体が本来持つ素晴らしさが染み込んで来る。

「天下一品のこってり」がラーメンででありながら「ラーメン」でなく「天一」とカテゴライズされるように、グールドの弾く『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』や『モーツァルト:ピアノソナタ第8番イ短調』は『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』や『モーツァルト:ピアノソナタ第8番イ短調』ではなく「グレン・グールド」でしかありえないのだ。

そういう意味でこのシフの演奏は『ゴルトベルク変奏曲』をじっくり味あわせてくれる、グールドの亡霊を成仏させるにふさわしい端正で素晴らしい演奏である。
もちろんグールドの演奏は変わらず大好きやけどね。

2007年08月15日

●「フィッシャー・キング」(1991/米) / 「アンジェラの灰」(1999/米 アイルランド)

今日も暑い。クーラーの無い我が部屋で続けざまに『フィッシャー・キング』『アンジェラの灰』を観る。
amazon ASIN:B00005M931 テリー・ギリアム監督の『フィッシャー・キング』はその名の通り漁夫王の聖杯伝説をモチーフに、落ちぶれた人気DJと精神を病んだホームレスの友情、そしてそれぞれの恋愛と癒しを描く物語である。
と書くとチープやけど、中途半端なリアルさを追求しない荒唐無稽なストーリーと展開がギリアム的というのだろうか?
個人的にはロビン・ウィリアムス演じるパリーのお相手である、孤独で不器用で自信が無く、ちょっと変でドジなリディアがツボだった。
とにかくこう言った系統の映画にありがちなクサさが全く感じられずに妙に感動した。

amazon ASIN:B00005HXWN 続いては第二次大戦前後のアイルランド人家族の物語を描いた『アンジェラの灰』、アイルランドの貧民街で、入った金を直ぐに飲んでしまうダメ親父と兄弟と苦労症の母と暮す少年の成長物語である。
色々な場所でこの映画について語られる「貧しさ」については、私から見てそれほど貧しいとは思えなかったけど、アイルランド的なじめじめして常に道路が濡れているような気候とカトリック的な倫理観や価値観が印象的だった。なんというか、深い感動を呼ぶ映画。と言うやつなのだろうね。確かに感動した。
フランク少年が聖フランシスコとキリストに今までの自分の中の罪と過ちを告白して悔いて祈り、そして晴れ晴れとした表情になるシーンはなかなか感動的であったけど、私のように何でも自分で背負おうと意気込んでいるのって傲慢じゃね?と思った。

2007年08月14日

●変容の祝祭

好むと好まざるに関わらず生きていれば人間は変化するものであるけど、一方では全く変化しない部分もまたある。全く矛盾するような話ではあるけど、まぁ当たり前の話ではあるし、大抵のことはそうであるように、変わって欲しくない物ほど直ぐに変わり、変わりたいと望む物ほど変わらないのもよくある話である。
そしてそれは悲しいながら、人間の変容に関する大前提の一つでもあるように思う。

人が自分自身に対して変わりたいと思う時、また変わる必要性を感じた時、また何をやっても同じだと半ば諦めてしまう時、でもやっぱりもっかいチャレンジしてみるかと思う時、否定的にしろ肯定的にしろ自分自身が変わりうるという可能性を念頭においているわけである。
経験的に言って、意識的に変わろうと努力すればするほど凝り固まり、変わらざるを得ない状況になって初めて自分自身でも驚くほど鮮やかに変化するものである。
しかしその環境への適用である変化は、無駄骨折に見える日々の努力によって円滑さを与えられるものでもあるように思う。
敵がいないのに剣を研いでも意味が無い、しかし、敵が来てから剣を研ぐのでは遅すぎる。グズグズしてるとベトナムに行く前に戦争が終わっちまうぞ!というわけである。

この日で私は一歳年を取った。誕生日というものはそれ自体が楽しかったり悲しかったりするのではなく、誕生日と言うことで引き起こされると期待される何ものかが、引き起こされたり引き起こされなかったりすることによって楽しくもあり悲しくも寂しくも虚しくもなることを理解した。
当然ながらこの一年で私はそれなりに変った部分もあれば変わっていない部分もある。
外的要因、環境の変化、他からの影響、色々な言い方が出来るけれど、この一年で私自身に起こった状況の変化による内的な変容は外からの事によって引き起こされたように見える。
しかしながら、外的要因や外的な影響が内的な物に刺激を与えたのではなく、外的な要因としてある刺激を内的な受容体が選択的に受け取ったとも言える訳である。
自分自身の変容について、外的なものと内的なものとして分けるのは余りフェアで無いような気がする。完全な外的要因のみによる自分自身の変化の可能性を認めるならば、その変容に対しての責任の所在はどこにあるのか?外にでもあると言うのだろうか?

人間、知らず知らずのうちに変わってしまい、また、いくら努力してもなかなか変われないものである。
私自身は常に変わろうと努力し続けて来て、それなりの成果と全くの徒労の二つを経験したわけであるけど、完全に変ってしまえないのをおぼろげに理解しながらでもそこに向かって変るように苦悩して努力し続けること自体に意味があるように思えるようになった。
私が変わらないことで迷惑を被る私の周りの人を度外視して自分自身に対してだけ言えば、変る事そのものよりも、変ろうと試みること自体に意味がある。
変ろうと努力し、変れないからこそまた変ろうと努力する。そういった無限ループは一種の循環論法である「思考の祝祭」に似た「変容の祝祭」である。
手段を目的とすること、それこそオタク道の第一条件である。

そしてなによりも、この身とこの身に関わる事に対して、この身で背負ってゆかねばならないと思った日であった。

2007年08月13日

●スタンリー・キューブリック 「2001年宇宙の旅」(1968/米 英)

amazon ASIN:B000IU4MYC  暑い最中に「有名やけど見ていない昔の映画を見よう企画」の一環として「2001年宇宙の旅」を観る。実は観るのは始めてである。
パッケージの絵は宇宙ステーションやし、タイトルも「宇宙の旅」やし、とりあえずは宇宙の映画らしい…という程度の予備知識で見たのやけど、冒頭でいきなり類人猿が出てきて「えっ?宇宙の映画やんなぁ??」
しかしながら類人猿が崖上から豹に襲われるシーンは私の中で変にお気に入りである。なんとも言えない間抜けさと生存の大変さがミックスされていて大変よろしい。全編こういった類人猿だけが出てくる映画でも文句は無いかも。

リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』が効果的に使われているのが有名やけど、人間が超人へと進化する事に言及した物語である『ツァラトゥストラはかく語りき』の曲が効果的に使われていたのはなるほどである。
全編「静的」な雰囲気に包まれたこの映画はとても面白かった。言葉や文字を使わずに映像でこんな感じに何か広大なものを表現できる映画的な魅力満載の映画であろう。
映画が芸術であることの証明である良い例であろう。

やっぱりキューブリック大好きである。Sir yes Sir !

2007年08月12日

●古くて遠かった海

海三連戦最終日は、両親に小学校の頃に良く連れて行ってもらった場所、15年くらい前に古くからの友人と行ったのを最後に訪れていない辺鄙な遠い浜へ繰り出す。
一年で一番海水浴人口の多い時期と曜日だったこともあり、記憶にあるような秘境感溢れる雰囲気と人の少なさは無かったものの、相変わらず辺鄙で開発の手は殆ど無く、石英質の砂は綺麗で、そして何より、記憶にある中でダントツに透明度の高い、不気味なくらい綺麗な海水であった。何しろ4メートル下の海底を泳ぐシロギスやホウボウがはっきり見えるくらいである。

この浜自体だけではなく、この浜の付近の地域は、遠い事もあり最近殆ど行っていなかった。
しかしながら小学生の時に両親に連れられて海に来た記憶の中では何故かこの付近の映像やら雰囲気が多く、この辺りを車で走っていると色々な事をフラッシュバックするように思い出した。

本格的に魚突きを始めてからの「海」は突き自体の成果となる魚影の濃さとアクセスしやすさと言った地理的要因を鑑みて、私自身の経験と感性と理性によって選び、また海から招かれた場所であるけど、この「海」は私の経験や感性や理性から先天的に先立って私にとって「海」である。
直置きしたバーベキューコンロで熱せられた砂の上を素足で歩いて足を火傷すると言うアクシデントがあったものの、海三連戦の最後を飾るにふさわしい素晴らしく綺麗なあまりにも懐かしい海であった。
海底まで潜って辺りを見渡す。見渡す限り延々と続く綺麗な砂浜と海面は視界の限界で真の青に混ざり合い、海底と海面は8月の太陽が作り出す漣が写って美しい。
ウシノシタ、ガザミを申し訳程度に捕獲し、ちびっ子ヒラメが沢山いるのを確認する。

水も浜も砂も綺麗、そして辺りの景色は絶景である。私が心臓手術を終えて外に出られるようになり、生まれて始めて浸かった海がここであり、初めて水中眼鏡とシュノーケルを使って海の中を眺めたのもここである。この海は私にとって「海」の原風景のような場所でもあり、プレデター土偶の本当の原点とも言うべき場所かも知れない。

そう考えると、何か様々な経路を辿って、色々な海や何やかやを知って大きく成長してスタート地点に戻ってきたような気もして、色々な意味で感慨深い。
帰り道、これまた最近殆ど使わなくなった「懐かしい」に属する道を通って京都へ向かい、カーステから流れるマイルスの「BYE BYE BLACKBIRD」に合わせて口笛を吹きながら人生の不思議さを思った。

2007年08月11日

●海の幸料理

海三連戦二日目は昼から出動。ドライブと新規漁場開拓をコンセプトに。中々良い感じのスポットを発見。
日暮れ前に「いつもの海」波消しブロック前を捜索するも、寸前に人が入っていたためにまともなターゲットに殆どで合えず。通りすがりのカワハギとカサゴを捕獲するのみ。
結構なサイズのキジハタとわたりあったのやけど、上後方からの死角のシチュエーションで慎重になりすぎて気づかれ、向かい合ってからの横を向いたタイミングでヤスを打ち込めず、そのうちに岩間に入られて消えた。残念。キジハタに苦手意識が芽生えて来そう…

ゴロタ石の浜辺で料理を開始するつもりが地表を埋め尽くさんとするくらいのフナムシの大群に遭遇して撤退を余儀なくされる。
まるでヒッチコックの映画のようである。こんなところで悠長に料理してご飯食べてられるかい!
ということで、場所を移動して港の岸壁の護岸で料理開始。

タコ焼きそば:
前日捕獲したタコを塩揉みしてぬめりを取り、大胆にぶつ切りにする。
玉葱、茄子、南瓜を塩胡椒で炒めた後にタコを投入、しばらくした後に「そば」を投入。
さくさくっと手早く炒める。
タコ一匹を使った贅沢なやきそばやね。これが美味しくないわけが無い。

サザエとアサリの白ワイン蒸し:
サザエの殻を叩き割って中身を摘出する。叩いて割るのが結構大変やったので、素直にナイフ入れて貝柱を切る方法ですればよかった…綺麗に水洗いした後適当な大きさに切る。
塩コショウで下味をつけてオリーブオイルで炒め、サザエを投入、アサリはそのまま。
良い感じに煮立ったら出来上がり。
白ワインの甘みが貝と合って良い感じ。

※サザエもアサリも海で採るとたいていは密漁になります。
食べたいなら地元のスーパーで安く売っているので買いましょう。
突き人は貝獲りと間違われないように細心の注意を払って気をつけています。

カワハギの肝と卵巣の味噌汁:
お湯を沸かしてカワハギのアラでだしをとり、味噌を入れて味噌汁にしてから肝と卵巣と投入。
これは普通に美味しい。

ヒゲダイの塩焼き:
以前に捕獲して冷凍しておいたヒゲダイに濃い目の塩を振って炭火で焼く。
シンプルでとても美味しい。ヒゲダイってめっちゃおいしいやん。

白ワインとしょうゆの貝出汁野菜炒め:
焼きそばを作るつもりが多すぎた野菜を塩胡椒、白ワイン、しょうゆで炒めた。
上の白ワイン蒸しの出汁が効いていて良い感じ。

2007年08月10日

●海三連戦、初日

午前二時より海三連戦が始まる。暗いうちから車を走らせ、夜明けと同時に海へ。
平日と言う事でほとんど誰もいない海。雲ひとつ無い強烈な日差しが照りつける中、二本ヤスを持って海に向かうもさらっと近場の沈み岩を流しただけで突果はなし。

ガザミを捕獲して味噌汁を作り、シロギスとネズミゴチの干物を製作する。
砂地でタコの食べ後の残骸らしきものが散らばる付近を捜索した結果、砂に埋まった岩場の隙間にタコを発見。目が合った瞬間に奥に潜られるも岩の隙間に肩まで手を入れて手探りでつかんで引きずり出してナイフアタック。
今年の初タコは小さなマダコであった。

いつものように求道的な潜りと突きは無しで、一日お風呂のように海に浸かって漂い、浜で料理を作って食べてばかり。
海は地表の70%を多い尽くす広大なお風呂であり、洗い場であり、食料庫であり、あるいはトイレですらある。
「あらゆる汚れを引き受けてなお清くある大海」と言ったのはニーチェさんであったけど、海に受け入れられるという感覚は心地よいものだというのを再認識した。

誰よりも早く海に来て誰よりも遅く海から帰った。海さん今年からもよろしくお願いいたします。

2007年08月09日

●黄色い自転車、サラリーマンのミイラ

黄色のフレームのピスト君のタイヤをこの間黄色にしたのだが、チェーンも金色にしてみた。
殺人的な炎天下の中、こんな派手な自転車で出かけた。
走っていると大丈夫やけど、信号待ちがダメ。苦行としか思えない。
久しぶりの平日休みで銀行やら図書館やら本屋を回り、スタバで休憩した後帰ったのだがとにかく暑すぎる。
木陰のベンチで寝転ぶ営業と思しきリーマンを見て、このまま一日置いておけば綺麗なミイラになるやろうなと思う。
この暑さは都会に向いてない。家の前で円形のビニールプールではしゃぐちびっ子を見て本気で羨ましかった。
こういう日は海やら琵琶湖やら川に行くべきやと思った夏の日であった。

2007年08月08日

●だけど大きくなっても土偶は土偶。Born to kill !!

仕事中にゴラリさんと喋っていて「ごらりひょん」という単語が頭に浮かび、自分は天才ではないかという恐れを抱いた。もちろん杞憂で終わったのだが。

ゴラリさんに教えてもらった自転車のセレクトショップのようなお店で「ConneX Link」とミシュランのハブグリスを衝動買いした。
飲み会時に隣の席に向かって「剛掌波」を放ちまくるゴラリさんを見て、「ゴラリ」が「ごらりひょん」に進化しているのを感じた。あのトミーが押されている!スゲェ!
「自転車ブラザーズ」の片割れが進化したのでそろそろ私も進化せねばなるまい。

土偶の兄弟がサーバー室で、大きくなったら何になる?
多くなったら木偶になる、大きくなったら埴輪に?
Born to kill !! Born to kill !! Born to kill !!
Born to kill !! Born to kill ! !Born to kill !!
だけど大きくなっても土偶は土偶。Born to kill !!

土偶は不完全変態をする生き物なので、このまま大きくなり続けるだけかと思います。

それから、色々色々頂いてとても感謝しております。ありがとうございました。

2007年08月07日

●「楽」のための苦行

前の日に花火青年が戯れる様を見てというわけでもないけど、中学生のときによく遊んだ公園で花火をする。
「花火ってこんなに煙出たっけなぁ?」と言うくらいの量の煙が出てちょっとびっくりだ。

「花火なんか物を燃やすだけで勿体無いだけである」という発想がある事を最近知ってちょっとした衝撃を受けた。
そういうレベルで人生を徹底できたら人生は楽になるのか苦しくなるのかまったく想像できない。
それから無駄に強い我で攻撃的に周りと接して自分のやりたい事しかしない人も、人生楽なのか辛いのか微妙なところである。
自分を「快」の方向に導こうとして、いつの間にか「快」から放れていっているってことは意外によくある話で、「健康のためなら死んでも良い」に通じるところがあるなと思った。

2007年08月06日

●「何で月曜日やのにこんな人多いねん」な真夏の夜

仕事帰りに鉄板焼きを食べる。お好み焼きとか焼きそばを食べに行く事って今まであまり無かったのだが、最近は良く行くようになったし、梅酒も飲むようになった。自分の殻が溶けつつある事実をこういった細かい事がきっかけになって感じる場合が多いように思う。

鴨川の床で涼しい風に吹かれながらシアトルなコーヒーを飲み、等間隔に並ぶカップルの後ろで傍若無人な若人が花火で戯れる様を眺める。友人の輪の中にねずみ花火を投げ込んでパニックを誘発し、打ち上げを地面でバウンドさせ、奇声を発して逃げ惑う友人に大笑いする様子になんとも言えない甘酸っぱいような懐かしさを覚える。
打ち上げ花火のパラシュートを先を争って取り合うのはお決まりとしても、隣の店の床にパラシュートを打ち込んで店の女将に睨まれ、一気にトーンダウンしてそそくさと撤収してしまう様を見て、「分別のある若者は魅力が無い」というようなことをドストエフスキーが書いていたのを思い出す。いや、この場合は分別ではないやろうけど。
とにかく、睨んだ女将に笛ロケットを打ち込むくらいの、金と分別は無いけど制御できないエネルギーと時間と勢いと性欲だけはある若人の心意気を見せて欲しかった。あくまで心意気だけね。

そんな感じで、何で月曜日やのにこんな人多いねん。と思った真夏の夜であった。

2007年08月05日

●"海中の通り魔、「抜け道ナイト」の称号を賜る" の巻

いつものメンバーでいつもの海に出かける。もう年中行事の一環である。
この日は中々に透明度が高く、泳いでいて気持ちよかった。
何度もキジハタを見かけたけど、横向くまで我慢できずに正面から撃ってしまい、弾かれたり避けられたりして逃げられるパターンばかり。
30センチクラスのキジハタをまともに狩れないのではお話にならん。
最初の二回くらいの出撃でカワハギ、ボラ、メバルを獲るも、結果として無駄殺しっぽくなりちょっと後ろめたさを感じる。
他の命を弄ぶ人間の業とはこのようなものであるし、それは自分自身で背負うしかない。砂で作った前方後円墳とピラミッドで丁重に葬ったので良しとしておこう。

そして、次の漁獲は家に持って帰って食べる為にと言う事で再び出撃する。

水面から海底5メートルまで一気に落ち込む岩場がメバルマンションになっており見ていて中々爽快である。中層の大岩を背にした30センチはあろうかという巨大メバルを発見してフルパワーでヤスを打ち込むも、見事に避けられて岩を誤射。時々存在すると言われる、ゼロ距離からの銛の一撃を避けるという赤い体色のニュータイプメバルであろう。
二本ヤスの一本の先が曲がり「あちゃ~」な所に数匹のクロダイの群れが視界に入る。とりあえず群れに近づいて一番後ろを泳いでいた大きい目の奴に斜め後ろから打ち込むも、曲がったヤス先では刺さり切らず、押し込んだり抑えたりする間もなくバタバタバタくらいで振り切られて逃げられる。
水中で「くそ~!」と一人悔しがるところに巨大ボラ御一行様の大編隊の登場。
悔しさのあまり群れの中で一番でかい70オーバーの巨大ボラに至近距離から鰓蓋の上を狙ってゴム引きMAXでフルパワーの一撃。もうほとんど通り魔である。
ヤス先の曲がりをものともせずヤス先は根元まで突き刺さり、そのままの勢いで岩に押し付けるものの、巨大ボラはヘッドショット気味にピクリとも動かない。
左手の指を鰓と口に入れて握り、ボラからヤスを引き抜いて、代わりに止めと血抜きをくれてやろうと太ももからナイフを抜いた時点で猛烈に暴れだした。多分ヤスが刺さった時のショックで脳震盪のように一時的に気を失っていたのだろう。
逃げようとガンガン暴れるボラの大動脈と脊椎を切断するために鰓蓋にナイフを入れかけたところで、どうせ無駄殺しになるやろうなと思う。一瞬の躊躇で手が緩み、ボラは手を振り払って一気に泳ぎ去って視界から消えた。
内臓と脊椎を傷つけていないので致命傷ではないけど大怪我ではある。外科手術という概念が存在しない自然界ではいずれは死ぬやろうな。でもまぁ野生の生き物にとって死の問題は、遅いか早いかの話でしかなくて当然か。とも思う。


帰りに渋滞に巻き込まれ、ナビを駆使して抜け道を走り出す。運転手と後部座席のギャラリーの不安気な「え~ここ行くの?」「まじっすか?」「おいおいだいじょうぶか~?」な声に「ダイジョブダイジョブ!!泥舟に乗ったつもりで任せておけ!」「黙って言う通りに走りやがれコノヤロウ!」と悪態をつき、ひそかな不安を内に秘めながらも抜け道の指示を飛ばす。

山あり谷ありUターンあり、山道あり生活道路あり畦道あり、砂利道あり獣道あり崖崩れありのハードな道を駆使して渋滞ポイントをパスし、目的地点に出たときの喜びは、アルプスを越えたナポレオンやカルタゴのハンニバルもかくやというものだった。そして不肖土偶はこの功績を称えられ「抜け道ナイト」の称号を賜ったのであった。ありがたやありがたや。

2007年08月04日

●無いものは解消されない

七月に出ていたらしい『グイン・サーガ』の外伝がなんかつまらないので半分しか読めずに断念。
朝から明日の海企画の買出しに出かけたけど、何かを大量に買い込むとなんかスッキリしている自分を感じる。
自分だけのものじゃないけど、こういう買い物でもそれなりにストレス発散の効能があるのだなぁと思う。まぁ私に発散されるべきストレスなど皆無やけどね。

今一番のストレスは昼間に自分の部屋がとても暑い事である。四方向の窓を開けて風を通せば涼しくて良いのやけど、風がやんだときが暑い。
暑ければクーラー入れろよという話やけど、土偶家ではクーラーのコンセントにはUPSが刺さっており、クーラーとUPSのどちらを選ぶかと言えばUPSということで、「そら部屋が暑いのは自業自得やん」と言い換える事もできる。
私としては「まー夏やし暑いのはしょうが無いよねー」ということであきらめているので、おそらく一般的にこれはストレスと言うレベルでは無いだろう。まぁ土偶の変態度合いを表す心温まるエピソードのひとつではある。

しかし、自分にストレスなど無いと言いきれることはなんと幸せで有難い事であろうかとつくづく思う。
逆に何も無いところから自らストレスを作り上げてうだうだ言ってしまうような人はさぞかし辛かろうなと思うのは当然やけど、ある意味「無からの創造」でもある。
「ストレスあれ」「創造主はストレスを見て良しとされた」って感じ?ちょっと言いすぎ?

2007年08月03日

●バッハ:主よ、人の望みの喜びよ マイラ・ヘス

マイラ・ヘスという人のピアノを始めて聴いたけど、なんというか、内向的やけど後ろ向きじゃなくって、前向きやねんけど外交的に押し付けがましくない。前向きに内向するような演奏がなんとも良い感じである。

私の中でバッハと言えばグレン・グールドという事になってるんやけど、彼女の弾くバッハもいい感じで、また彼女の弾くベートーヴェンも良い感じ。
私の好きなベートーヴェンとバッハといった、ちょっと毛色の違う作曲家の曲の両方を良い感じに聞かせてくれる人ってそれほど多くないんじゃないかと思った。

amazon ASIN:B0007INZPC 一曲目の「主よ人の望みの喜びよ」はバッハの教会カンタータ147番「口と心と行いと生命」のコラール部分の旋律を彼女自身が編曲したものらしいふーん。という予備知識はまったく関係なしにしても、ネット上でこの演奏に言及するたいていの人がとても感動しているのよく分かった。なんだかとても深い部分で自分の中の感動中枢を揺さぶられるような気がするのだ。

そしてベートーヴェンのピアノソナタ30番と31番は私の大好きな曲であり、端正で内向的な演奏がとても気に入った。
そして次の曲、久しぶりに、イ短調のバガテル「エリーゼのために」を聴いて、なんかとてつもなく変なところにヒットした。

2007年08月02日

●お魚尽くし一日目

昨日の潜りで全身が軽く筋肉痛になり、焼けた背中がピリピリする。ギシギシする体を駆って「もー好きなように良きに計らっちゃうよー」とラストスパートをかける。とりあえずリリースできたという事でひと段落。めでたしめでたし。
しばらくSQL文など見たくもない。ということは全く無いのが変態の証である。

昨日狩ってきた魚を下処理済で冷蔵庫で寝かせてあったので今日は魚尽くし。
イシダイ、ヒゲダイ、カワハギにカサゴと美味しすぎる。
メニューというかレシピというか献立は以下の通り。

しかし、ヒゲダイがエリック・ドルフィーに見えてしょうがなかった。

イシダイとヒゲダイの刺身:
冷蔵庫で一日寝かせた魚は歯ごたえは落ちるものの旨みは良い感じ。
魚屋では買えない、ちゃんと〆て血抜きしてある魚の刺身は純な味でたまらん。
イシダイよりヒゲダイのほうが美味しいぞ!

イシダイの塩焼き:
魚は塩焼きが一番味が良く分かると思う。脂が乗って磯臭い香ばしさのイシダイの味が良く引き立ってとても美味しい。

カワハギとカサゴの煮付け:
上品な白身のあっさり系お魚を一緒に煮付けに。
カワハギから摘出された肝臓、卵巣、精巣などの臓器も一緒に薄めの味にする。白身に肝を少し乗せて口に運ぶともう絶品。

イシダイとカワハギ卵の大葉巻き:
イシダイの塩焼きとカワハギの卵巣の煮つけを一緒に大葉に巻いて、醤油ではなく塩で食べる。
シンプル系塩焼きと複雑系煮付けとフレッシュな大葉が合わさってなんとも複雑な味で良い感じ。

イシダイの皮茶漬け:
そして最後は熱いご飯に塩焼きのイシダイの身と皮を多めに乗せて、わさびと塩を効かせて熱いお茶を注いで食べる。
お茶が脂でギラギラするくらいの脂の乗りにわさびが良い感じのアクセント。こんなお茶漬けはめったに味わえんわー

2007年08月01日

●スナイパー冥利に「だけ」尽きる。

今年初めてのいつもの場所での魚突き。
天気も良く、波も低く、人も少なくて良い感じ。魚影は薄いものの、魚突きというより、海と対峙するコンディションとして申し分なかった。

20070801ishidai.jpg20070801higedai.jpg20070801killshot.jpg
30センチクラスのイシダイ、20センチクラスのヒゲダイ、カワハギ少々、カサゴ、シロギス、メジナとこの世界では捕獲対象外ばかり。 漁獲自体は全く大した事無いけど、初めて見る魚と完璧に決まったヤス撃ちがあったのでシーズン初としては上出来としておこう。

チョッキ銛での一本目:
よく晴れて海中は明るいものの、魚影はとても少なく捕獲対象魚をほとんど見ることも無い状態である。
6~7メートルほどの隠れ根の海底周りを捜索中、前方をこちらに興味を示しながら横切ろうとする30センチほどのイシダイを発見。スルーするかどうか激しく迷ったけど、魚影の薄さを考えて捕獲決定。
目を逸らしながらゆっくり距離を詰めてダッシュされる前に斜め後ろから銛を打ち込む。後ろから撃つのに頭を狙う余裕なんか無く、無難に胴体の真ん中にフルパワーの一撃。綺麗に真ん中を貫通して難なく捕獲。
画像一枚目。よく見ると幼児体型やなぁ。

二又ヤスでの二本目:画像二枚目
魚影が薄いので小物&カワハギ狩りに変更し、二又ヤスを持って海に入る。
海面を移動中、深度4メートルほどの岩陰に背中部分が見えた魚を発見。魚種を確認できないけど、魚種を確認するために顔を見ると逃げられそうなので、背びれと鱗の色と形からクロダイと推測して完全に死角から銛を打ち込む。
脊髄にヒットしたらしく、ほとんどキルショットに近い刺さり方で一気に水底に押し付けて、暴れられることなく回収。捕獲してみてびっくり。初めて見るヒゲダイだった。
そして砂の上でたそがれるシロギスの巨大さに驚いて思わず突いた。
一緒に海に行った父が一番驚いていたのがこのシロギスだったりする…

場所を変えて二股ヤスでの三本目:
去年40オーバーのイシダイを捕獲した波止めブロック回りを攻めるもここも魚影が薄い。
唯一発見した巨大クロダイは遠目の距離にもかかわらず斜め前からヤスを放ってしまい鱗にはじかれてしまう。後ろ目から撃って逆目で鱗の隙間に食い込むようにヒットさせれば刺さったかもしれんのにー、と水中で一人で激しく悔しがる私はさぞかし間抜けだっただろう。さすがに20センチあまりのイシダイはスルーした。
しかしながら次に出会った巨大カワハギに極限の集中力で放ったヤスは肝どころか身さえも傷つけない口先を貫く芸術的なショットだった。そして「理想的な突きポイントってばこの辺やなー」とヤスを向けて遊んでいたグレを思わず撃ってしまう。狙い通り、鰓蓋の上端と背鰭の基部の間から反対の目の上へと抜ける完璧なヘッドショットやった…
画像三枚目


久しぶりの本気潜りで一年が経過したことを実感したけど、今までより海に依存していない自分を感じてちょっとびっくりした。
プレデター度とマイヨール度は低く、スナイパー度だけが高い、2007初の魚突きであった。
そして私レベルではチョッキ銛より二又ヤスが向いているなと思った。