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2007年07月31日

●やっぱり変、電池切れ?

一日ひたすら働き続け、無闇に「電池切れ」と言う単語が頭の中をちらつく。特に私がそうであると言うわけではないし、そうなりそうであると言う気もしないけど、気分が良いものではないわいな。
午後に入り、明後日期限、明々後日スタートのシステムの目処がつく。
いくら俺がオラオラしたところで、物事には段取りと担当と言うものがあり、人の代わりに私がオラオラする事はできない。次の日、おそらく私では無い誰かの処理待ちや判断待ちになって手を出せずにヤキモキするであろうと推測される。次の日に有給をとって海に行く事を決定する。

一日黙々とコードを書いたりデバッグしたりマニュアルとの正誤点を確認したりと、自らが単性生殖で生み出した息子とも言うべき、サーバーからシステムからマニュアルまで一手に手がけたシステムの詰めに入り、家に帰ると次の日に備えて黙々と銛先を研ぎ、いつもは遅くまで起きているのに、明日に備えて早寝。

なんか俺ってばいったい何の職人やねん。我ながらつくづく変な人間やと久しぶりに思った日であった。

2007年07月30日

●ツールが終わる、ブラックアウト

前の日に寝るのが遅すぎたおかげで寝不足の一日だった。
寝不足ながらも午前中はオラオラ働き、午後からは学生対応の予備部隊としてすごす。
最近は未知の領域に侵食して行くようにひたすら何かしらを作り続けていたので、知り尽くした可能敵領域で存分に動ける仕事はとても気分が良かった。

前日にツールが終わったけど、やっぱり今年は微妙に不完全燃焼である。
それでもマイヨ・ヴェール対象者がマイヨ・ジョーヌと山岳賞を取ったのは救いがあるような気がする。
来年こそ。という感じで楽しみにしておこう。

家に帰って、うだうだしているうちに気を失うように寝ていた。

2007年07月29日

●なぜ私はかくも真人間への道を着々と歩んでいるのであろうか

amazon ASIN:B000LZ6FQC 本日の「昔の映画を見よう企画」は朝のうちに「シャレード」を。家財道具一式失っても、服だけは出かける時に毎回変えて行きます。というおしゃれさんの心意気に感服する映画であった。

昼過ぎからパフェ大会にエントリーする。慎ましやかな貧しいアジアの一家が摂取する一日分のエネルギー量はあろうかという(あくまで想像)カロリー塊を喰い尽し、高度資本主義経済とカロリー至上主義を満喫する。
6月に出ていたらしい『グイン・サーガ』の新刊と7月に出た外伝やらを買って、遅くまで遊んで帰る。
日付が変わったあたりからそのうちの一冊を読み始め、一冊終わって二冊目をしばらく読んだところで、突如として鳴り出した雷と振り出した豪雨の音ではっと我に返る。気づけば四時くらい。
「ああこんな時間やん。そろそろ寝るかぁ」と思って本を閉じて電気を消して目を閉じた次の瞬間には寝ていたようだ。我ながらなんと寝つきの良い事か。

しかし、なんと私の最近のブログは日記的であろうか?なぜ私はかくも真人間への道を着々と歩んでいるのであろうか?
などと頭がおかしくなり始めた棒ーチェさんのようなことを考えてみた。

2007年07月28日

●ポセイドン御手洗アドベンチャー

amazon ASIN:B0006TPES8 朝起きて「昔の映画を見よう企画」の一環として、「ポセイドンアドベンチャー」を見る。人はまるでゴミのようやけど、ゴミはゴミなりに事情もあれば理由もあるよねーという映画だった。

久しぶりに家でお座敷シューティングをする。夏のガスガンは気持ち良いくらいによく動き、手に伝わるリコイルがなんとも心地良い。窓の上に立てかけてある的に200発ほど撃ち込んだ後、夕方から浴衣を着て御手洗祭りに出かける。

浴衣を尻からげして、草履履いてトークリップなピストに乗っているとちょっと粋じゃね?と思ったけど、結局バスに乗る。公共交通機関をほとんど使用しない私にとって、久しぶりのバスはとても新鮮だった。バスだけじゃなくて、浴衣を着て出かけるのも、足つけ神事も新鮮と言えば新鮮である。
リアルみたらし団子を買って帰り、ツールのTTを横目で流しながら、三ヶ月経とうが何年経とうが、世界は汲み尽くす事なくいつまでも新鮮であり続けるだろうなと思った。

2007年07月27日

●電脳的オラオラ突貫工事

作ったシステムのリリース完了。そもそものスケジュールが無茶だと言う話もあるが、とにかくスケジュールどおり滞りなく進行した。というかさせた。
しかしながら正式版は一週間後にと言う事で、今日はベーターリリースの形をとることに。
もう「最後には何とかする男」を襲名しようかと思うくらいである。

リリース作業後、休むことなく怒涛の勢いでオラオラ。今やらないといつやる。俺がやらんと誰がやる。
とにかく叩き台になる版が完成して一気に仕事が楽になった。真っ暗で先が見えないブラインドコーナーばかりの初めての道を走るより、一度でも走っておいたほうがはるかに楽だろう。これであと一週間走りとおす見通しができた。

今ちょっと無理をしておけば後からとても楽になると言うことは世の中にいくらでもある。
逃げるべきものや拒否すべき事からはなるべく早くさっさと逃げたり拒否したりするべきやけど、踏ん張るべきところはもう何やっても踏ん張る必要があるわけで、そこの見極めが難しいといつも思う。

「一人プチプチデスマーチ」とか言ってたけど、次の日の仕事のために遊びを諦めるタイプの人間に限って仕事ができないものである。などと思いつつも、仕事後はそれなりにキッチリ遊び、土日の休みがちゃんと取れる状態がデスマーチであろうはずが無い。そもそも一人で歩くのにマーチもくそも無い。あえて言うなら、ゴルゴダの丘を目指す十字架の道行きか。
途中で倒れてたら死に、丘までたどり着いても結局は死ぬ。そりゃ「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と言いたくもなるわな。

と、よく考えれば、人生とてたいした違いは無い。

2007年07月26日

●ドーピングわっしょい

前日驚異的な強さでステージ優勝を飾ったラスムッセンが、所属するチームに解雇されてツールを去ったという報を聞いて驚く。
てっきり昨日「電動アシスト」に乗っていたのがバレたのかと思ったけど、ツール前の自身の所在について虚偽報告を行なったというもので、ドーピング以外にそんな事をする理由が無い。という事なのだろう。
もう一気にトーンダウンである。

木曜恒例の「間違い探し」のために新聞とにらみ合うも、ごらりさんが一瞬の間にすべて見つけてしまいまたびっくりである。「明らかに早すぎる!ドーピングや!絶対ドーピングやっ!!」と騒ぎ立てるも、どこをどうすれば二つの絵の間に存在する差異を特定する能力が向上するのかは謎のままである。筋力も持久力も赤血球の濃度も視力も「間違い探し」には関係ないだろう。

八月と同時にリリース予定から更に早くなって、明日にリリースとなったシステムをへーこらと完成させる。気分は超級山岳を二つほど上った気分。
賽の河原に積み上がった石を前に「よっしゃ~」と喜ぶも、「積むのはここだけじゃないよ」と別の賽の河原に案内されて愕然とする。

オ、オラワクワクしてきたぞ…でも、こうなったら俺もドーピングするしかないやん。ラブラブパワーでも過剰摂取するか。等と意味の分からない戯言をつぶやきながら家に帰って浴衣なんぞ着てみたりした。

2007年07月25日

●水玉の修道僧!恐ろしい子!!

ごらりさんが応援するヴィノが去って見所のひとつ減ったツールやけど、それでもマイヨジョーヌをめぐるバトルは面白かった。
山岳ポイント2位のソレルによる山岳ポイント狙いの逃げを容認したラスムッセンを見て、彼が山岳賞を捨てて本気で総合優勝を狙っているのを感じ、最後の山頂ゴールを目指す上りで逃げ集団を吸収した後のラスムッセンの人間離れした強さに惚れ惚れした。

ほかの人間が激坂でへーこらへーこら立ち漕ぎしてる中を悠々とシッティング。
まるで「電動アシスト」に乗っているようだ。そう、あのラスムッセンの駆るラボバンクのバイクはコルナゴが作った電動アシストに違いない。
さらには総合二位のエースと彼のアシストとが交互にかけるアタックをへらへら流して、最後は逆に彼らを置き去りにする。残り1キロからのアタックで30秒の差をつけるとは恐ろしすぎる。

中世カトリックの修道僧のような体格と風貌は伊達じゃない。
大逃げの一人旅を成功させた去年のこの写真や、ツールで初優勝した一昨年のこの写真なんぞどうだろう。
こういう「宗教的奇人」のような表情のできる人間は結構好きなのである。

ここまで来たら、ぜひ彼には総合優勝してほしい。と思ったのだが…

2007年07月24日

●E.T vs プレデター

amazon ASIN:B000B4NFUC 最近私の中では見ていない古い映画を見よう期間と言う事であり、先日は「ゴッド・ファーザー」を見たのだが、この日は家に帰って今更ながら「E.T」を見た。
あまりに有名な映画で、今までなぜか見る機会が無かったのだが、中々に面白かった。夢と友情と優しさがいっぱい詰まった本当に良い映画ですな。

で、念動に治癒能力に五感で感じた感覚情報の転送など、地球上生命体であることの縛りをことごとく超越しているE.Tから見れば、人類などなんと下等な生命体であろうか。
映画ではアホっぽく振舞っていたけど、E.Tはやればできる子、ドン・コルレオーネなんか指先ひとつでダウンである。戦闘民族のプレデターやサイヤ人でもちょっと勝てないかもしれない。

以前USJで映画を見ないままE.Tのアトラクションに乗って「E.Tとはナメック星人である」という結論に達したのだが、映画を見てそれは間違いであることが判明した。
E.Tは断じてナメック星人ではない。E.Tは地球人に越える事のできない壁の向こう側にいる侵略者である。
エリオット少年はただ単にE.Tを汚れ切った大人から守っただけでなく、E.Tとの友好関係を成立させることで、図らずも汚れ切った地球をも絶対的優位にあるはずの侵略者E.Tから守ったというありがたいお話だった。

次回作ができるとしたら「E.T vs プレデター」以外に考えられないだろう。
ストーリーは、愚かにも見た目の間抜けさにだまされてE.Tの星を偵察していたプレデターに対して、E.Tは特殊能力を駆使して部隊を一瞬で全滅させるものの、母星からそれを見ていたプレデターが脅威を抱き、星間の全面戦争に発展するといった、地球外生命体同士の頂上決戦を描く冒険活劇になるのである。

2007年07月23日

●自覚、逃げ、黄色ジャージをめぐるアタック合戦

まぁまぁ遅くまで働き、仕事後にお店を追い出されるまでコーヒーを飲む。
自分に問題がある。あるいは自分に問題があるかもしれないと思っている人の引き起こす問題と言うのは本人が思っているほどたいした事は無く、実は自分に問題など無いと思い込んでいる人の引き起こす問題こそが一番酷いものだ。と思うといくらか救いがある。と思った。
年をとる事は成熟の方向に向かう事であるという考え方をする人間なんか今時ほとんどいないやろうけど、かといって衰える一方だけでもない。年をとって成長した部分があり、もう変わらないだろうなと思えるほどに固まってしまった部分があり、いつの間にか融けて無くなっている部分がある。いろいろ話していて、いつの間にか結構年をとっていたのだなぁと変に実感した。

家に帰ってツール・ド・フランスを観戦する。追走集団から逃げ集団に追いつき、その逃げ集団を千切った一人旅でステージ優勝したヴィノクロフの走り、そして、ラスムッセンとコンタドールのマイヨジョーヌをめぐるアタック合戦と、みどころ沢山のこの日のツールはとても面白かった。

2007年07月22日

●TTの次の日に山岳はしんどいやろうと

クライマーのラスムッセンが前日のTTで11位に入ってびっくりし、この日のピレネー初日でトップと同タイムでゴールしてマイヨ・ジョーヌを守っている。
序盤に山岳賞の水玉ジャージを着たTTスペシャリストのミラーに違和感を感じたように、最初は真黄色のラスムッセンに違和感ありまくりやったけど、慣れとは凄いもんでもう見慣れた。

しかし、ひたすら前だけを見て坂を登っていた「振り向かない男、ラスムッセン」が、マイヨ・ジョーヌに袖を通したことでジャージを守るために後ろを気にしながら走るようになり、なんとも複雑な気分である。

自分自身は坂道登るのは嫌いなくせに山岳ステージを見るのは好きで、水玉の山岳ジャージも、水玉が似合う人間も大好きな土偶であった。

2007年07月21日

●切り替わる土曜

社会性と個人性の乖離に苦しむなんつーと思春期の少年少女のようやけど、かと言って我々くらいの年の人間がその問題を解決しているわけでは決して無く、それらが乖離している状態を当たり前のものとして受け入れているだけに過ぎない。
個人性と社会性はどうしても相容れないように見えるけど、個人性を持った個人で構成された社会が社会性を持つというのは考えてみれば不思議である。
個人性を尊重するところに社会性の根拠がある筈やけど、社会性を尊重することも個人性に求められるし、社会性の中で個人性を活かそうとする欲求もまたある。

この年になって言うような事ではないかもしれないけど、社会性と個人性にどう折り合いをつけるかってのは本当に難しい。適度の社会性と個人性のバランスのブレンド具合が難しい。

で、そんな事を思った個人性から出た欲求が社会性の面からも良しとされ、そのことがまた個人性の方にフィードバックするような、今まで個人性の域を出なかったものが社会性の領域に踏み出した、象徴的にも現実的にも何かがカチリと音を立てて切り替わったような土曜日であった。

2007年07月20日

●もうすぐ梅雨も終わる金曜日

今日も一日コード書き書き。いい感じにサクサク進む。
仕事が終わったくらいからすごい雨になり、なんとなく梅雨が終わろうとする気配を感じる。

一年前と比べて私を取り巻く状況は変わったけれど、その変わった状況の中で自分自身を見つめてみれば一年前と大きく変わっているのを感じる。
高速コーナーをいとも簡単に曲がり、耐えられなかった激坂をシッティングで登っている自分を感じる。
当たり前やけど、たとえ自分が変わろうとも状況が無ければ現象する場は無く、状況という場があっても自分が変わっていなければ現象は起こらない。
自分は場で現象してこそ価値があり、場は現象できる自分があってこそ価値があることを痛切に感じる。

もちろん人が変わる事と人を取り巻く状況が変わる事はまったく別の話ではあるけど、人が変わったから状況が変わったということも大いにありうるだろうし、状況が変わったから人が変わったということもある。
たぶん、そのどちらもがそれぞれ独立して変化するのではなく相補的に作用するのだろう。

いくら変わったと思っても、すぐに変わっていない自分を発見してうんざりするのは毎度の事で目に見えているけど、少なくとも状況で変わる事ができず、状況のせいにして変わろうとしない人間からは変わる事ができていればいいなと思った。

2007年07月19日

●彼岸の手前に賽の河原

この週の頭から始まった一人プチプチデスマーチのおかげで丸々一日コード書き。
「7月中にベータリリース」というとりあえずの目標が決まっているので別にデスマーチではないけど。

管轄がひとつ持ち上がり、話が二つほど大げさになり、要求仕様ががらりと変わった。
確かにシステムとしては前よりいいものになりそうやけど、増改築だけでは何ともならずシステムの基礎から作り直す必要が出てきた。

以前のバージョンアップはクラスとテンプレートモジュールを使って作り直したので使いまわせる部分は多いし、誰とも喋らずに黙々とキーボードを叩いてコードを紡いで行く作業はえもいわれぬ至福感がある。それでも、一旦作ったものを破棄して新たに一から作り直すのは賽の河原的無常観を感じ無くもない。
しかしながら、世の中で生きてゆく事自体がそういった無常観に生きる事と言えなくも無いし、象徴的な意味で境界としての川を渡って彼岸を目指すには、賽の河原的状況を抜けてゆく必要があるのだろう。
賽の河原的に見えた状況を繰り返すうちに気づけば彼岸に立っていたということはよくあるし、どちらかというとそういう事を繰り返して成長というものがありうる。そしてこの賽の河原を抜けた彼岸には何があるのだろうと思う。

2007年07月18日

●阿部和重の『無情の世界』

amazon ASIN:4062091313 阿部和重の『無情の世界』を読了。
「無常の世界」ではなく「無情の世界」であるけど、ググると「阿部和重 無情の世界」より「阿部和重 無常の世界」の方がヒット数が多い…

この本は今から10年ほど前の1997年から1998年にかけて書かれた三篇の短編が収められている。
それぞれの話の主人公は、ストーカーのエセ家庭教師にすっかり影響された教え子、気が弱くて妄想たっぷりの高校生、自己中で女たらしのダメ男、等と阿部和重の小説らしく見るに耐えないどうしようもない人物となっている。
それら三つの短編はそんなどうしようもない主人公たちが引き起こす破滅と言うか破綻の物語であるけど、良くある小説のようにそんな物語を楽しむのではなく、醜くて愚かな彼らをブラックに笑い飛ばすのが趣旨の物語であるように思う。
著者の他の小説同様やっぱり読者を選ぶやろうなぁ。

「うわっ。きついなぁ…」という感覚を抱きながら読み進む事になるけど、彼らの喋ったり考えたりする内容が余りにも稚拙やのに変に論理的だったりするところが妙にツボで変に笑いがこみ上げてくる。
彼らの全てが例外なく醜くて嫌悪感を抱くような人物やけど、よくよく考えて見れば彼らは狂気であるとは言い切れ無いけど絶対正気では無いという微妙な狂いっぷりであるし、実際こういう人物はそこらじゅうにいてそうである。
そんなどこにでもいてそうな微妙な狂いっぷりな彼らが引き起こすカタストロフは読んでいて変にリアルに感じるのだが、実はそんなカタストロフもいつでも起こりうるのだと考えると結構不気味でもある。

登場人物の誰もが正気で無く、読者に同情や共感どころか嫌悪感だけを抱かせて、それでも変なリアリティー込みでちゃんと読ませるのは凄いなぁといつも思うのであった。

2007年07月17日

●玉ねぎ的人間観/サーモンピンクな真人間

仕事後に真人間のように遊んだ。
今までの土偶は「「変人の皮を被った真人間」の皮を被った変人」だったのは周知の事実だが、最近いろんな人から「真人間みたいな事をする土偶は土偶じゃ無いやい!」といわれる事が多い。

確かにはたから見ると真人間のような事をしているように見える土偶ではあるが、一番外側の「変人の皮」を脱ぎ捨てたのではなく、さらにその上に真人間の皮を新たに被ったのである。
つまり、現段階では、「「「真人間の皮を被った変人」の皮を被った真人間」の皮を被った変人」という事になる。

大抵の人は自分が変わるというとどんどん皮を脱ぎ捨てて行くような表現をするもんやけど、私は皮を脱いでいくのではなく、どんどん被っていくところがド変人やねーと思わなくも無い。

しかし自分では、土偶を覆う全ての皮を脱ぐとつるつるでサーモンピンクな真人間が変人の下から出てくるはずであると確信しているのである。

2007年07月16日

●グダグダ宵山、ダンボール革命

いつものメンバーといつものように宵山へ繰り出してグダグダする。もちろん良い意味でグダグダ。
我々の間で祇園祭といえばベーコンエッグ鯛焼、玉三郎、そしてフレスコのコロッケである。
このグダグダ感でフレスコのコロッケやミンチカツを食べていると「ああ、そろそろ梅雨も終わって夏だなぁ」と感じる反応が身に染み付いているわけやけど、今年はダンボール入りの肉まんの話がタイムリーなこともあり、ミンチカツを食べながら「あーダンボールカツ美味しいなぁ」などとネタで言っていると本当にダンボールの味なように思えてきて、なんと人間はだまされ易くて自己暗示までにかかり易いのかと感心する。

私がこれをミンチカツだと思うのは大抵の店ではダンボールカツではなくミンチカツが売られているという慣習に従って類推しているに過ぎないし、いま私が食べているミンチカツがダンボールカツでないことを証明するのは実は現実的にとてつもなく難しいはずである。
ゆえに、肉まんと偽ってダンボールまんを売るという行為は、ただ消費者に対する不利益を生むだけでなくって、肉まんが肉まんであり、食べ物が食べ物であり、私が私である、などといった普段何の疑問も抱かない日常的な前提条件を根本から覆そうとする、いわば、ダンボール革命でなのである。
日常的にダンボールまんやダンボールカツや麻婆ダンボールが売られる世界が美しくあろうはずが無い。そこでは肉まんがダンボールで作られ、ダンボールは食べ物であり、私までダンボールであることすら起こり得る。なんとしてもダンボール革命は阻止せねばならないのである。

などとどうでもいい事を思う、グダグダ宵山であった。

2007年07月15日

●麻婆エヌ 水玉

昼から小雨降る中を自転車で走り回り、晩御飯に麻婆茄子を作る。相変わらず豆板醤なんつーハイカラな物は無いので、味噌と刻み唐辛子で代用。今回は茄子をかなりねんごろに揚げたので、茄子の食感がとろけるようで最高だった。
今まで「得意料理は?」と聞かれて、「うーん、アドリブ創作料理??」と答えていないに等しい答えか、「焼き茄子?」と答えて、「焼いてるだけやん。つーか好きな料理やろそれ?」てなことになっていたのだが、これからは「麻婆n (n=任意の具材)」と答える事にしようと思った。

夜に小雨降る中を琵琶湖で泳ぐ。今年初めて水着で泳いだけど、これはちょっと寒すぎた。
台風一過の空は澄んでいて、小雨が降っている割に星が良く見えていたものの、星座早見表を持ってくるのを忘れてて何じゃそら。焚火で焼くマシュマロはいつでも美味しい。

帰ってからツールの結果をチェックする。マキュアンは遅れすぎてタイムアウトとなったらしいけど、ラスムッセンがステージ優勝したらしく、山岳ジャージどころかマイヨジョーヌまで取ってびっくりである。阿修羅男爵のように右半分が黄色で左半分が白地に赤の水玉のジャージとか着て欲しい。

とにかく、水玉は素晴らしいと思った日だった。

2007年07月14日

●宵々々山

宵々々山ということで繰り出すが、酷い雨である。
山の中には「これ?」っていうくらいにしょぼい、ただの杉が生けてあるだけのようなんがあるけど、この雨で幕やら部品やら装備品を全て外した、唯でさえしょぼい「○○山」がワイヤフレームみたいになってて笑った。

昔は祇園祭となればそこら中の飲食店という飲食店が祇園祭価格で異様に値段を高騰させたものやけど、最近はそうでも無い。これはこれで嬉しいけど、なんとなく祇園祭でも日常性というか恒常性が保たれているのはちょっと微妙な気がしないでもない。
辻利でコーヒーを頼んだ事のある私が言うのも何やけど、スタバでココアを飲むのは、天一で餃子とチャーハンだけを食べているのと似たようなものであるし、天一の「あっさり」は全然あっさりしてへんやん。
日常性と非日常性や、何が通常でそうで無いかってのは立場によっても時間によっても環境によって何ぼでも変わると当たり前の事を思った。

雨の中、鉾を見て山を見て、旧家や老舗の美術工芸品を見て、服屋を見て回る。さすがにこの雨では人も少なく、人が溢れる夕方の車が通行止めになるタイミングで逃げるように帰ってきた。

2007年07月13日

●Eric Dolphy at the Five Spot, Vol2

以前感想を書いた「Eric Dolphy at the Five Spot, Vol1」と同じ時に録音された「Eric Dolphy at the Five Spot, Vol2」を聴く。

一曲目の「AGGRESSION」が良い感じ。ブッカー・リトルが作曲したこの曲自体はロボットアニメのテーマソングのごとく中々かっちょ良くメロディアスな曲で、最初のブッカー・リトルのアドリブはオーソドックスで良い感じ。そして二番目のドルフィーのアドリブもドルフィーらしい馬の嘶きサウンドで申し分なく、次のマル・ウォルドロンのアドリブも「Vol1」の「Fire Waltz」に勝るとも劣らない良い出来である。
このライブが伝説であり、エリック・ドルフィーの一つの頂点であるように言われるのが良くわかる。

amazon ASIN:B000NO28XK エリック・ドルフィー、ブッカー・リトル、マル・ウォルドロンと当時の主流から少し外れて、ちょっと歪んだ様な人達が織り成すサウンドは素晴らしい。
エリック・ドルフィーとマル・ウォルドロンが一緒に演奏していると、彼らの混沌やズレっぷりを気にせずにそのままで楽しんでいるように聞こえる。
特に、マル・ウォルドロンがドルフィーと組んだ時のアドリブは素晴らしすぎる。

「俺これで結構楽しいもんねーこのままで行くもんねー直す気なんか無いもんねー」という人を見るのは中々勇気付けられる。
本来音楽というのはこういうもんでないかと思わなくも無い。

2007年07月12日

●どうでも良い話。良い意味で。

新聞やテレビのニュースの見出しや日常で使う言葉の最後に「いわんや悪人をや」をつけるととてもしっくり来た上に面白くなる事が判明した。
「****」に不正アクセス、全サービスが一時停止、いわんや悪人をや。
台風4号が沖縄に接近へ、西日本中心に大雨の恐れ、いわんや悪人をや。
今日雨やし自転車乗るのかなんわー、いわんや悪人をや。
あずきフラペチーのって美味しいらしいで。いわんや悪人をや。
という具合である。

それから今度は、そういった文章の最後に「いい意味で」をつけると全然良い意味に聞こえないどころか余計バカにしているように聞こえるのも判明した。
**さんって、キン肉マンに似てるよねー、良い意味で。
てな感じが基本的な用法やけど、
「****」に不正アクセス、全サービスが一時停止、良い意味で。
台風4号が沖縄に接近へ、西日本中心に大雨の恐れ、良い意味で。
今日雨やし自転車乗るのかなんわー、良い意味で。
あずきフラペチーのって美味しいらしいで。良い意味で。
っていう風にも使える。

日本語って面白いなぁ。いわんや悪人をや。良い意味で。

2007年07月11日

●擬人化MTB

MTBにつけていたスリックタイヤがひび割れてやたらとパンクするような状態になっていたので、仕事帰りに激安タイヤを買って装着。フレームのカラーと合わせて前輪は白で後輪は赤ともうハデハデである。
でもってだいぶ磨り減って伸びていた安物チェーンもここ数日の雨で油が抜け切って錆かかっていたので交換した。

以前ブレーキのワイヤが切れたりチェーンがギシギシいって回りにくいからママチャリを買い換えるという話を聞いてとてもびっくりした事がある。
ママチャリではチェーンやタイヤの寿命が自転車の寿命という事になりがちであるけど、タイヤは路面で、チェーンはスプロケットで磨耗するので一応どちらも文字通り消耗品である。

という事で、多くのママチャリが寿命を終えるところを、消耗品を交換して新品同様の軽い乗り味となって復活した梅雨で出番の多いMTBも心なしか喜んでいるようである。

2007年07月10日

●ツール・ド・おフランス 2007

週末からツール・ド・フランスが始まっている。
自転車好きとしては嬉しくてしょうがないのだが、今年は去年のように全年度の上位五人がドーピングで欠場という事がなくそれなりに知ってる選手が結構いるのでいい感じ。
しかし、ウルリッヒが引退していた事を初めて知ってびっくり。さらに、リクイガスがビアンキじゃなくなって、キャノンデールになったらしい。これは何かショックだ…
そして今年のツールで一番残念なのは、去年に引き続き大好きなチームTTがないことである。

しかしながら、プロローグのTTは明らかにぶっ飛んだ走りを見られて素直にびっくり。
第1ステージでは残り15キロ地点で転びながらもいつの間にか、ただ乗りトレインからの恐ろしい加速でトップでゴールしたマキュアンてもうアシストいらんやん…
第二ステージのゴール前では二段トレインの二段目が発射できずにアシストがエースより先にトップでゴールして、お前が先に入ってどうするって感じで笑った。
第三ステージは残り1キロで1人でメイン集団から飛び出して逃げ集団をパスしてゴール、プロローグの異次元の走りと合わせて余りにカッコよすぎるマイヨジョーヌのカンチェラーラはちょっと喜びすぎやぞお前って感じ?
と、今年のツールは中々面白い。

今年はウイリーと頭突きとトレインただ乗りが得意で坂登るのが嫌いなマキュアンを応援するという事にしよう。坂登るのが嫌いというところにとてつもなく親近感を覚えるが、スプリンターのくせに山岳ジャージを取りに行くデヴィット・ミラーの心意気をちょっと位は見習って欲しいものだ。

そういうわけで、この時期はツールを毎晩見ているから寝不足になるのであった。

2007年07月09日

●門脇 俊介 『フッサール ~心は世界にどうつながっているのか』 (シリーズ哲学のエッセンス)

ツール・ド・フランスも始まったという事で、もう乱読も乱読、読書の夏!
amazon ASIN:4140093110 ということで門脇 俊介『フッサール ~心は世界にどうつながっているのか』を家に帰ってCD聴きながら一気に読んだ。
この間の 北川東子『ハイデガー 存在の謎について考える』を読んで、「よ~しパパ、ハイデガーでも勉強しちゃうぞ~」という事で、彼の方法論のベースとなっているらしい、彼のお師匠さんでもあるフッサールの現象学をごくごく基本的なところだけでも。てな動機で読んでみたのだが、正直言って良く判ったとは言いがたい。
それでもフッサールが「クオリア」と「信念」と「志向性」なる語彙で世界をどのように記述しなおそうとしたのかがおぼろげに見えたような気がしたし、またそれらの心的な方向性は、言語表現の指す「意味」に心的な「意義」をも付与して文に何らかの志向性を持たせる。てな感じに読み取れた。
でもって、フッサール自身の方向性としては、デカルト的な手法である、その存在を疑うことができない絶対的な「純粋意識」まで「現象学的還元」をなそうとしていた、と言うところだろうか?
なんか大きな勘違いをしているような気もするのだが…

全く予備知識無しで読みはじめ、しかも短時間で一気に読むような読み方をしたわけやけど、心で感じる「リンゴのあの赤い感じ」「海がまぶしいあの感じ」の「感じ」を表す言葉のクオリアの説明、クオリアが精神的活動として人を駆るシステムとしての志向性、~~が正しいとした上で言動を行う、その正しいと信ずる「信念」などの前半の話は、良く考えればフッサールの話じゃ無いやん…
んでもって、その「信念」の集積たる信念システムで世界を認識して描くってのが前半の骨子のようやけど、次の言語表現の話が、比較されているフレーゲの言ってる事なのか、フッサール自身が言ってる事なのか、それとも著者が思っているのか、更には内容も判り辛かった。

しかしながら、世界に対立して立つのではなく、「真理」に向かって「志向性」のある相互に影響し合う信念システムでもって世界を表象すると言うやり方は、なるほどハイデガーにつながって行くのだなという所は判ったのでよしとしておこう。

2007年07月08日

●都筑 卓司 『四次元の世界―超空間から相対性理論へ』

amazon ASIN:4062573806 都筑 卓司『四次元の世界―超空間から相対性理論へ』を読了した。
初版は1969年とかなり古く、私が読んだのは2002年に出た新装改訂版である。

更にはなんとなく微妙なタイトルやけど、新装版が出るだけあって、ブルーバックスの中でも中々有名で、名著の扱いを受けているほどである。
著者は以前読んだ『マックスウェルの悪魔』と同じである。内容はタイトルどおり四次元とはどういうものであるかを表現し、そこからアインシュタインの特殊相対論と一般相対論の骨子が説明されている訳やけど、さすがに有名な本だけあって文章が絶妙で例えも判りやすい。

巷に溢れる相対性理論を解説する「相対性理論本」の類であるけど、やはり一味違う本でもある。

前半、半分まではこれでもかと「次元」に関する話が繰り返される。3次元空間に住む我々が四次元で表現される「空間」を直感的にも作図の上でも絶対理解できないことが読者に叩き込まれた後に、非ユークリッドな幾何学系、時間軸を交えた系、光速度不変と特殊相対論が説明され、一般相対論の重力場と空間の歪みが説明される。
流れるように見事な論の運びでとてもわかりやすくて感心するけど、この本の特徴は時間を含めた軸がどういう風なものであるのかに説明を多く割いていたのと、一般相対論の重力場に寄る空間の歪みによる距離の短絡や伸び縮みを、三次元空間が四次元目の軸方向に傾いたものとして説明してあったところにあるように思う。

日常的には限りなく近似値的な3次元に住む我々に対して、我々の世界が実は三次元でなく光速度と時間と虚数を掛け合わせたiCT単位を軸に取るもう一つの軸を合わせて4次元になっていることが説明されるわけやけど、こういう風に世界の本当の姿を描いて見せることで、「世界は判らん事だらけやん、絶対俺には理解できん。もう何やっても一緒…」と不安をあおったり足元をすくうのではなく、「そうか世界はなんとスバらしいのか。ここに私が在るという事は幸せやん」という雰囲気に持って行くのは中々いい感じである。これも著者のお人柄と世の中の捉え方が出た結果であろう。

最後のエピローグで、色々な紆余曲折を経た男女の出会いが、ただの三次元で起こった出来事ではなく、時間軸の方向を一つ加えた次元の一つ高い事であると力説される様は「これほんまに相対性理論本か?」と笑ってしまいつつ感心する事請け合いである。
そしてしめの言葉は「宇宙を眺めてその広さに驚くならば,時の流れの悠久なるさまにも,畏懼の念をもって接しなければなるまい。」といい感じである。

ただの相対性理論本でない変な面白さがあるのはこの辺のお陰であろうと思った。

2007年07月07日

●夏半分だけ真っ盛り

夕方までに本を一冊読んで夜から琵琶湖に出撃。
ガソリンコンロでコーヒーを淹れ、焚火で竹輪、笹かまぼこ、クロワッサンを焼き、チーズを齧る。デザートにプリンと焼きマシュマロと、狩猟民族か騎馬民族かジブシーのような晩御飯を食す。ウィンナーとサツマイモ&アルミホイル持ってくりゃ良かった。
コーヒーを飲みながら焼きマシュマロを食べると、某バックスの「コーヒーフラペチーノ」の味がするのは凄い発見だ。
ひとしきり食べて飲み、お腹がいっぱいになったので琵琶湖で泳ぐ。
生ぬるい琵琶湖に浸かりながら対岸の夜景を眺め、夏が来た事を実感する。

ツール・ド・フランスが始まり、山鉾巡行までは後十日となった。
京都の夏は祇園祭、自転車乗りの夏はツール・ド・フランスで始まるという事で、夏半分だけ真っ盛りである。
本当の夏はこれからである。

2007年07月06日

●金曜日は現実逃避、テュラテュラテュラテュラーラー

この日も団扇ピストで出勤。信号待ちや走ってる最中に他の自転車乗りにぶしつけなくらいに見られる事は多々あったけど、自転車に関係なさそうなおじいちゃんに信号待ちで直ぐ隣から穴の空くほど見つめられるのは初めてだ。
半ズボンに何語か判らない謎の文字のプリントしてあるTシャツ、巨大なカバンを背負って自転車に乗り、後輪には団扇が。おじいちゃんは私の事をなんだと思ったのだろう。とても興味がある。

amazon ASIN:4768701086 帰って借りてきた本を読む。『重力と力学的世界―古典としての古典力学』を開いてみる。「重力を認めないデカルト主義者」「オイラーと啓蒙主義」「ケルヴィン卿の悲劇」など章のタイトルは面白そうやけど、積分方程式だの数列の和だのフーリエ級数だのが満遍なく登場するのでこれをちゃんと理解するのはちょっとムリであろうとためいきをついて本を閉じ、また別の本を開いて読む。ひたすら読む。私にはブルーバックスくらいがちょうど良い。

しかしながら、私にとって知識欲への没入は現実逃避の手段としてしか機能していないのでは無いかと改めて不安に思う金曜日の夜であった。

2007年07月05日

●神社、古戦場

良く晴れた。後輪に団扇を装備した「団扇ピスト」のデビュー日でもある。ポストカードを後輪に挿しているピストは見るけど団扇を挿しているのは見た事無い。夏らしくて良いと思うのだがどうだろう。横風には弱くなるけど、暗い時間帯での横からの視覚性は格段にアップしているはずだ。

仕事後に車で繰り出す。中学時代に丑三つ時でもどんな山だろうが神社仏閣だろうが臆せず分け入った良く訓練されたクワガタ取り仲間の間でも「ここだけはマジでヤバい」と夜には決して誰も行こうとはせず、昼でも行くのを拒否する人間が多かった神社、そして爆竹の投擲とロケット花火と打ち上げ花火での射撃戦が日夜繰り広げていた幕末の古戦場でもある公園と懐かしいポイント巡りまくりである。
20年以上前の中学時代と比べて自分は殆ど何も変わっていないと感じたり、全く別の人間になってしまったと感じたり、変わらなかったり変わったりするのは自分であったり周りであったりと感じたりした日だった

2007年07月04日

●北川東子『ハイデガー 存在の謎について考える』(シリーズ哲学のエッセンス)

amazon ASIN:4140093005 北川東子『ハイデガー 存在の謎について考える』を読了。とは言っても分量としてはほんの100ページほどなので、読み始めれば一瞬である。
今までハイデガーに関しては何となくわかってるつもりでいたけど、良く考えてみれば『存在と時間』の著者で、存在について考えた人で「存在とは時間性である」って言った人。くらいの認識しかなかった。なんじゃそりゃ?

で、とても短い本やったけど、俗に言う前期ハイデガーが何を目指してどういう事を言おうとしていたのか(と著者の北川東子が思う)、という所が良くわかった。
この本は卓上の空論になりがちな「存在論」を一貫して我々の生活と人のレベルで語っていたのがとても良かった。

そして、なんというか、読んでいてとても感動した。道ならぬ恋、ナチズムとヒトラーへの傾倒など余りに人間臭い状況に投げ込まれたハイデガーだからこそ到達した「存在」の姿はちょっと感動的やった。
というか、これはハイデガーと言うよりは著者の北川東子のお人柄のせいかも知れんけど、こういう系統の本を読んで感動したのは久しぶりである。

存在論と言えば最も古典的で概念的な哲学のジャンルであり、「存在するとはどういう事か?」とか言って余りに生活のレベルと乖離していると見做される事が多いわけやけど、存在については「なぜ存在するのか?」って問い方もあるわけである。
「存在するとはどういう事か?」って問題を真剣に悩む人はそんなにいないやろうけど、「なぜ存在するのか?」については、生きる意味とか死ぬ意味とか、身近な人との別れや出会いの問題に関わるわけで、意識しないまでも結構だれでもがシリアスな問題として対面しているのは間違い無いやろう。

存在論を「存在という言葉の意味」と「存在する事の意味」の二つに分けながらも、世界に投げ込まれる形で現実問題として存在している我々の次元で、それら二つの存在の意味を統合して問い続ける事こそが、循環論法である「思考の祝祭」として、自らが途上にある事を真に受け止める事こそが自己存在の認識であるらしいけど、それは結果として今まで試みられてきた定量的な観測が放棄された事でもある。
自分を中心にして自分と対立するものとして世界を眺めるデカルト的なやり方で私が世界を見るのではなく、自分にとって現れるのが世界であり、自分は世界の中で選択の自由に対して開かれている存在であるという認識は、デカルト的ではっきりした事実認識である古典力学な世界観から、異なる結果の重ね合わせの状態を事実であるとする量子力学的な世界観への移行と似てるなぁと。

と『存在と時間』も読まずに入門書だけ読んでそこまでいうのは危険やなと思いつつもそんな事を思った。

2007年07月03日

●ピストにメーターは邪道なのか?と優柔不断に考えた

晩御飯を食べてからマウンテンのタイヤをブロックからスリックに交換して、メーターも余っていたケイデンスも計れる物に交換する。
でもって余らせたシンプルなメーターをピスト君に装着したのだが、ピストはステムのクランプ部分のすぐ脇を握るので、ハンドルの通常の位置にメーターをつけると激しく邪魔になる。
ということでトップチューブに横向きにメーターを無理やりっぽく装着、これでハンドル回りはすっきりしたままやけど、やっぱりピストにメーターは邪道だという気はする。
しかしながら邪道か邪道で無いかというレベルの話になるならフリーホイールの時点で邪道極まっているので、まぁメータくらい気にしないでおくかな。しばらく走って気になるようなら外せば良いんやし。ってどっちやねん。

2007年07月02日

●お子様時間に就寝

やたらと寝不足でちょっと気を緩めるとへろへろしてくるような状態で一日を過ごす。
とは言っても仕事中にへろへろしている場合ではなく、それなりに集中していたから良かったものの、気の緩んだ昼休みは魂が抜けたような状態で「そのザマで午後からの講習会の講師ができるのか?」と心配される。
しかしながら良く訓練された土偶は少々の寝不足くらいは無問題である。土偶の目指す「フルメタル講習会」とは程遠い、噛みまくりで呂律の回り具合が微妙なグダグダ講師なのは、寝不足のせいではなくいつもどおりなのですサー。
家に帰って気が抜けて穴の開いた風船のようにくたっとなったので、もう11時前にはお布団に潜り込んで寝てしまった。

2007年07月01日

●炬燵、鍋焼きうどん、夏が始まる

部屋を掃除して、そわそわして落ち着かないくらいに綺麗になったのだが、7月に 入ってから炬燵を片付けたというのはかなり間違っているような気がする。
さらに、お昼ご飯に鍋焼きうどんを作って食べたのだが、これもだいぶ間違っていることに気づいた。

七月に入ってまた急に物欲リビドーが全開である。物欲だけがあるのに具体的に欲しいものが思いつかないあたりは老人の性のようでもある。
暑いと欲望がそそられるのか?それとも行き場の無い欲望が物欲に向かうのか?世界は謎に満ちていると感じた2007年の後半の始まりであった。

ピスト君に乗って街中に出かける。もう最近の休日は立派な真人間である。
博物館、カフェ、無印、服屋、洋食カレー屋さんと巡り、何処からどう見ても真人間のようである。