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2007年06月30日

●スルメイカと鯵で品数だけやたらと多い。

週末恒例のお料理ブログ、今週は安かったスルメイカと鯵を使った料理。
とは言っても小技と捻りの全くない直球勝負である。

スルメイカの刺身と塩辛とエンペラ焼、鯵のタタキと塩焼きとアラと卵の潮汁
小松菜の白和えとおしたしと山葵和えと焼き茄子という感じ。
デザートは焼マシュマロ!

スルメイカの塩辛:
肝だけを分離して細かく切った脚部分とちょっと多い目の塩とお碗で混ぜ合わせる。
本当は二三日おいておくらしいがそんなに待てないので直ぐに食す。

スルメイカの刺身:
胴部分の皮をはいで薄造り、皮をはぐのにこだわったけど、今思えば皮ついたままた赤造りでも良かったかも。

エンペラ焼:
エンペラ部分は皮に切れ目を入れて網で焼く。新鮮なイカでこれは贅沢やろう。醤油もなんも無しでそのまま齧っても美味しい。

鯵のタタキ:
三枚におろした片身のあばらを削いで中骨を抜き、両側を火で炙る。
薄切り玉ねぎを敷いた皿の上に盛りつけておろし生姜を乗せる。
薄切りにんにくとさっぱり目のたれを作るつもりが忘れたので醤油で食べた。

鯵の塩焼き:
三枚におろした片身に適当に塩をふって網で焼く、
おろし生姜をのせてみたがタタキと区別がつかへんやん!!

鯵のアラと卵の潮汁:
捌いてる最中に巨大な卵が出てきたのでこれも食べてみる事にした。
アラと卵を熱湯にくぐらせて血と臭みを抜いて、沸騰したお湯に投入する。
ちゃんと火が通ったら醤油、みりん、塩で味を調えて薄切り玉ねぎと味噌を入れる。
だしを取られた卵は味が抜け切っているので、食べる前に醤油をたらすと良い。


小松菜の白和え:
茹でた小松菜に大目の豆腐と擦り胡麻と砂糖と少しのみりんと醤油と混ぜ合わせる。

小松菜のおしたし:
茹でた小松菜にそのまま鰹節だけを盛って素材の味そのものを。
おしたしと言う割に何にも浸してないが…

茹で小松菜の山葵和え:
鰹節をかけない上のおしたしを山葵で食べる。こ、これは新しい味や。

焼き茄子:
網で黒こげになるまで焼いた茄子の皮をめくり、食べやすい大きさに裂いて鰹節を降りかける。
焼き茄子美味しい…

焼マシュマロ:
割り箸に指したマシュマロを火で炙って食べる。

無駄に品数ばかりが多いが材料はそれほど多くない。和食は冷めても良い料理が多いのでのんびり作れる。

2007年06月29日

●色々ころっと忘れた日

朝にNHK-FMの番組表見てて、-第1597回N響定期公演-の曲目がベートーヴェンの交響曲の6番と7番、しかも指揮者はアシュケナージでこれは絶対聴かなあかんやんけーと思っていたのだが、すっかり忘れて家に帰ってCD聴いているうちに、思い出してラジオをつけたが既に終わっていて残念だった…
と言うか、ヴァイオリンソナタ聴いてる時点で思い出せよと。

職場の某兄が今日で最後だった。その事をころっと忘れてて喋ってた。まーメル友という事になってるので良しとしよう。

2007年06月28日

●問題にするための問題

日々生きていれば、自分の中の嫌な所や悪い所に気付いて、ああこれは直さんといかんわぁ。などと思ったりしてそれなりの努力をするわけやけど、自分自身を観測する度に、直ったと思ったり、やっぱり直っていないと思ったりして、結局直ってないやんと結論づけてがっかりする事がある。
しかしながら、それでもやっぱりその状態を問題だとすら思わない場合と比べて格段の進歩であることは間違い無いと思う。
さらに言えば自分自身を「Aである」と感じるのは容易であるけど、「Aではない」と感じるのはなかなかに難しいわけで、これは何か幽霊なり宇宙人の存在を証明するには一匹連れてくれば済むけど、それが存在しないのを証明するのはとても難しい。って話に似てるわな。
特定の何かが自分の中にあるようにするよりも、無いようにするほうが難しいように見えるのは、観測上の問題もあるように思う。

そういうわけで、自分自身の問題がなかなか直らない(ように見える)のはそんなにたいした問題じゃなくって、自分自身の問題点を問題だと感じ努力することに大きな意義があるに違いない、と自分自身を納得させるのであった。

と、なんでこんなややこしい話になったのだ??

2007年06月27日

●檜垣 立哉 『ドゥルーズ~解けない問いを生きる』(シリーズ哲学のエッセンス)

amazon ASIN:4140093013 お手軽な哲学系入門書の『シリーズ哲学のエッセンス』のドゥルーズを読了した。この手の本の問題点は思想家自身の著作にあたらずに、その人の思想を解ったような気になってしまうところやろうけど、「解ったような気になっている」域を出ないのだとちゃんと認識しておけば、とてもありがたくて為になる本になるはずである。NHK出版の企画に感謝である。

恥ずかしながら、この本を読むまでにドゥルーズについては、彼のが著したニーチェについての小論『ニーチェ』が家に転がっているくらいで(読んだはずだが内容は全く覚えていない…)、他の彼の著作を読んだ事は全く無い上に「ドゥルーズ?ポストモダンの人?」くらいの認識しかなかった。彼自身は「ポストモダン」なる言い方を嫌悪していたらしく失礼といえば失礼な話ではあるけど。

この本はドゥルーズの特定の著作についての入門書ではなく、ドゥルーズ全般の入門書ということらしく、なるほどドゥルーズがどういった考え方と語彙でどういった方向性を目指していたのかがなんとなく解ったような気がした。
定点と解答がグラグラふわふわしたポストモダンな世界の中で「世界」と「個体」をどのように位置づけ、そのなかでの「問い」がどのような発し方をなされてどのような意味を持つのかというところが、なかなかに解りやすくて、スリリングに解説されていたように思う。「解けない問いを生きる」というサブタイトルが最後までちゃんと意味を持っていた。

ドゥルーズは可能性ではない潜在性を秘めて常に生成変化する卵のようなものが世界であるという世界認識を前提に、人間は世界という大きな流れやシステム内の潜在性から生まれた問いのひとつの解答として表現された固体であると言っている。
例えば色々な生物の卵から器官が発現する例を挙げて、受精卵が卵割を繰り返しながら「光の受容」という問いに対して、多くの生物の場合は「目の発現」なる器官の生成という形で解答している。というイメージである。

その世界なるシステムのひとつの表現系であるあまりにも微小な個体は、認識なり特異性なりの定点には絶対にならず、「個人のかけがえのなさ」など存在せず、更には「本当の私のあり方探し」など言った方向性も全く意味を成さず、個人はその流動する卵の中の一部としてのみ初めて認識される。
そしてその個人の発する問いについては、「光の受容」という問いに大して、色々な形で「目なる器官の生成」なる解答をすることが出来るように、問いを解決するのが大事なのではなく、問いを創造すること自体に意味があるのだという。
流動する世界の何らかの解答としてあらゆるものが世界にあるわけであるけど、その解答を答えとして見るのではなく、問いが創造された事の一つの現れであるとして見れば、解答としての「差異性」や「多様性」は流れとしての世界をさまざまな方向性と可能性に分散させたという意味で肯定されることになる。

とここまでがこの本を読んでドゥルーズについてわかったつもりになっていることやけど、根本的に間違ってたり、大きく外れていることは無いやろうと思う。
こういった感じの、個を徹底的に否定しつつも、個と特異性を肯定する仕方はある意味アクロバチックなように感じるけど、ある意味ではとてもニューマニズム溢れてて結構和んだ。

彼は微分法を哲学に適用することで、人間や人間界の細かい観測点をつなぎ合わせて、関数的に世界を記述しようとしたようやけど、しかし、彼の言う世界という大きな流れの中から一つの問いに対する解答として人間が発現し、その人間からまた色々な問いに対する解答が発現し、またその発現したものから問いが出て…とより微小なものに循環してゆく構造は「コッホ曲線」そのものではないかと。微分法とフラクタルはちょっとそぐいにくいというか方向性逆やん!って気もする…

自然界のあらゆるところにフラクタルな図形が観測されるわけやけど、世界自体は、またそれに含まれる人間はどうしてもフラクタルにならざるを得ないわけで、観測の精度を細かくしてゆけば量がどんどん大きく見えてしまうのも当然である。
ということで、われわれがあまりにも無知であることはまぁしょうがないやねぇ。という気にならないこともない。
しかしながら「個」を全体性の一部として捕らえて軽んじる-言い方は悪いが-思想はやっぱりどことなく似てくるのやなぁと感心した。
ってドゥルーズと関係ないけど…

2007年06月26日

●評価しないことは難しい

自分に対する肯定的なプラスの自意識と自分の事を否定するマイナスの自意識の二つをあわせることで、平均値として何とか他者と自分を区別できるレベルのニュートラルな自意識を"見かけ上"維持するのは意外にしんどいのではないかと思う。
がしかし、何らかの基準をもとにしてプラスやマイナスの評価を下さずに何かを眺めるということはとても難しい。

それでも、プラスでもマイナスでもあり、プラスにしか見えないマイナスや、マイナスでしかありえないプラスの存在を体験することで、評価無しの認識というか受け入れの必要性を感じるのではないだろうか。ある種の分裂は、分裂している事自体が統合された状態であることを教えてくれるような気がするし、そこの認識がちゃんとしていれば、ぐっと抑えて意識のレベルで評価を控えることもできるようになるのではないか。

2007年06月25日

●わらべ、白影、梅雨

amazon ASIN:B000MGBS58 どういうわけか「ドリームガールズ」を見た。特にミュージカル好きでもないけど面白かったのだが、出てくる主役の三人が欽ドコに出てきた「わらべ」の「のぞみ、かなえ、たまえ」とキャラが被りまくって、いつ「めだかの兄弟」を歌いだすかドキドキであった。だけど大きくなっても、めだかはめだか。すいすい。
って、今思えば夢も希望もない歌やな…若人は知るまい…

新しく買ったメッセンジャーバックが異様にでっかくて、これを肩にかけると凧に乗った「仮面の忍者白影」のようになってしまう。
そのうちに「でっかいカバンの人」とかあだ名をつけられそうでビクビクである。
しかしながらこれだけ大きければ、仕事帰りに大根を5本とキャベツ2玉、山芋2本にネギ4把にブリ二匹を買って帰ったところで余裕でカバンに入るやろう…

で、帰りは凄い雨である。おろしたてのカバンはいきなりべちゃべちゃになった。まぁ、そういう風にタフな使い方をするカバンやからええねんけどねぇ。

2007年06月24日

●ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ―バタイユ作品集』

amazon ASIN:4042400019 ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ―バタイユ作品集』を読んだ。
バタイユと言えば一応思想家ということになっているわけやけど、実際に話題に登る場合はネタ的にエロい部分で言及される事が多くって、実際彼がどういう思想を持っているのかというのは良く知らなかったわけである。
大抵エロティシズムを全面に出して小難しい事を言う奴は「ただ、お前がやりたいだけやろう」とか「お前がやりたい事を正当化したいだけやん」とか「何にも考えてないのを感覚の重視と取り違えてるだけやん」って微笑を禁じえないのであるが、さすがにバタイユはそういった御人と一味も二味も違った。確かに思想家と呼ばれる貫禄ときらめきが重量感を持って迫ってきた。

で、代表作である(と俺が思っていた)『マダム・エドワルダ』が入ったのを探して、この「角川文庫クラシックス」を読んだわけやけど、この本の構成は中々見事であるように思う。
前半三つは『マダム・エドワルダ』『死者』『眼球譚』と文学者としてのバタイユが現れている「小説」であり、最後二つは「エロティシズムに関する逆説」という文章と「エロティシズムと死の魅惑」てな講演&討論会の記録で直接的にエロティシズムを軸とした思想が語られている。
最初三つの小説だけでは「この変態!このエロ小説家!」で終わる事も簡単やけど、最後の二つの論文と講演記録を読むと、それ自体が前三つの小説の解説のように機能して、彼の思想である「消尽としてのエロティシズムと死」「最大の逆説、最大の理不尽としての人間存在」が上手く説明されていたように思う。
最初の三つの小説だけでは「エロ小説フラグ」が立って終りという可能性がかなり大きくなるし、最後の二つの論文と講演記録では「はいはい、何言うてんねん意味わからんし…」で終わってしまう事になるだろう。
そう言う意味でこの「角川文庫クラシックス」は中々うまい事作ってあるなぁ…と感心したし、私のように初めてバタイユに触れる人にも良いのではないだろうか。

彼自身の処女作である『眼球譚』はなかなか牧歌的で楽しそうにエロを満喫する球体フェチの少年少女の物語で、楽しそうな割に死とか狂気も満載となかなか笑ける話であった。「皮膚の上を眼玉で撫でまわすのは確かにまたとなく心地よいものだ。」という所が一番笑えた。ぼやっとしてるともう何が一般化されるかわかったもんじゃない世界と言うのは中々に知的にスリリングである。
物語の最後にキリスト教的な神秘と神聖への徹底的な侮辱と冒涜を行ってそれを官能の道具にするわけやけど「神は死んだ」で亡霊と化したキリスト教的価値を踏み台にしたエロティシズムと死を軸にした理不尽で逆接的な、全てを消尽する新たな人間存在の像を描いて見せたような気がしないわけでも無い。
『マダム・エドワルダ』はそんなバタイユ的なエロティシズムの権化たる「超人」でもあるわけやけど、バタイユ自身の言葉の、彼女を神だと言うのは皮肉でも無いかわりに、彼女のような人間を神と呼ぶのは正気の沙汰ではないという、逆説なり理不尽が見事に表されている。
そして『死者』では人間に対する究極の消尽である「死」をエロティシズムの至高の到達点でありかつ、それが発動するトリガーとして描く事で、天国や地獄や煉獄が消失した「神は死んだ」世界で、新たな意味を「死」に付与する可能性が予感されているような気がした。そしてエロティシズムが快楽の到達点ではなく絶望の到達点でもありうる事が上手く描かれていた。

エロティシズムに満ち溢れていても耽美ではない。
そのあたりがジョルジュ・バタイユの真髄ではなかろうか?

2007年06月23日

●殺意と食欲の水族館

良い天気。朝から須磨の水族園に出かける。大量の魚が水槽で泳ぐ様は魚好きには堪えられない風景であり必然的にテンションが上がる。
ロウニンアジ、クエ、マダイ、いつかこんな奴らの鰓蓋を銛で貫いて押さえ込み、ナイフを脳天に突き立て、三枚におろして刺身とカルパッチョとお茶漬け、煮物焼物蒸し物にして胃袋に収めたい。
次々と現れる魚たちに対して、土偶解説員は市価とどうやって食べると美味しいかをメインに野良解説を加える。見ず知らずのおばちゃんも聞き耳を立ててへーっと感心してうなずいている。
しかしながら水槽の魚たちはそれほど美味しそうに見えないのは残念である。

イルカがせめてきたぞっ 飼いならされた水棲哺乳類のショーを眺める。高度な知能と知性とコミュニケーション能力を持ちながら人間に良いように使われる彼らを見ていると、心の底でさぞかし怒りと憤りを募らせているのだろうなと思う。逆立ちした状態で尾びれだけを水面に出して「八墓村」のポーズを取るのはさぞかし屈辱であろう。
ジャック・マイヨールが彼らに泳ぎを習いたくなったのもわかるような気がする。奴らの身体能力に驚くと共に、彼らが人間に復習を企てる気持ちがわかったような気がした。
知能、身体能力、そしてモチベーション共に彼らが世界征服に乗り出さない理由は無い。彼らならきっと世界性服を果たすに違いないだろう。「イルカがせめてきたぞっ」でお馴染みの画像のような日が訪れるのももうすぐだっ。と思うっ。

水族館から駅までの道のりの海岸を裸足で歩いていて、いてもたってもいられずに思わずズボンとシャツを脱いでパンツだけで泳ぐ。
とても暑い、今年初めて海に浸かり、体が潮味になった日だった。

2007年06月22日

●カオスに良いも悪いもあったもんじゃない

風呂に入ってベートーヴェンの交響曲第五番を聴きながらバタイユを読んでいると、風呂のまったりした心地良さ、バタイユのド変態っぷり、ベートーヴェンの深刻さ、全てを同時に味わうのが余りにちぐはぐなような気がして、混乱するかと思えばそうでもなく、全体として高みから見下ろしてみれば意外にしっくり来ていて、まぁ世の中こんなもんやろうと。

自分の中にある動機の部分と感覚の部分の有無と是非を論理で補足しようとしても殆どが否定的な結論に終わってしまう事が多いのは、自分の中の動機や感覚が実は偽物だったり否定されるべきものではなく、論理でそういったモノを補足しようとする試み自体に問題がある。
自分の中に感じられる時点でそれは「有る」のであり、自分自身の存在を「是非」で評価するのが不毛であるとの同じ理由で、自分の中の感情や感覚を「是非」で評価するのは、「ハイイロガンの刷り込み現象」を量子力学で説明しようとするくらいの不毛さがあるように思う。

特定の感情や感覚が否定的なものだとされるのは、社会性の立場からの話であるけど、幸か不幸か我々は社会から離れる事は難しい。
善悪や是非は大抵社会性のレベルで言われる事が多いけど、そこと自分をどう折り合いをつけるのかが一番の問題のような気がする。

2007年06月21日

●ベートーヴェン:最後の三つのピアノソナタ フリードリヒ・グルダ

ウラジミール・アシュケーナジの演奏でベートーヴェンのピアノソナタに開眼した故に、ベートーヴェンのピアノソナタと言えばアシュケーナジが私の基準演奏である。
最近グルダの二回目の全集録音のCDがばら売りされている中で最後の三つのピアノソナタを買ったのだが、グルダの演奏を聴くと如何にアシュケナージの演奏が美しさと優しさに重点を置かれていたのかが良くわかったような気がした。この辺はアシュケナージがショパン弾きであるゆえんであろうか。

amazon ASIN:B00005FFPV このCDの録音は、今までの重苦しく深刻なベートーヴェンではなく、軽快で軽みのある生命力溢れる演奏だという世評らしく、確かに演奏は軽やかに駆け抜け、重苦しい間は少ない。
31番の第3楽章のがこんな軽やかで楽しげで力に溢れて鳴るとは思わなかった。

しかしながら、彼の弾くこういった生命力溢れる楽しげなベートーヴェンも、強い生命力でもって生き抜いたベートーヴェン自身と被ってくるように見えるのが不思議である。
ベートーヴェン弾きとして名高いグルダの演奏は、ある意味で最もベートーヴェン的である、生命力と生きる喜びに溢れたベートーヴェンの演奏であると感じた、夏至風が吹く夏の世の夢たる夏至の日であった。

2007年06月20日

●命短し恋せよ乙女、乙女老い易く恋成り難し

amazon ASIN:4790250539 百本の足を自由自在に優雅に動かして歩くムカデが「どうやってそんなに上手に歩くのだ?」ってな事を聞かれて、それに答えようとして「52本目の足の次に28番目の足を…」ってな感じで、考えても考えても自分がどう動かしてるのかわからず、更に考えれば考えるほど歩けなくなる。って話が童話だか絵本だかにあると、どこかで読んだか聞いたかしたことがあり、調べてみた結果、おそらくこの『どのあしがさき?―くもとむかでのおはなし』と言う絵本が出典であろうことが判明した。

確かに、二本足の我々でも「この筋肉を縮めてこの筋を伸ばしバランスをとりながら体重を前に移動し、この足を…」などとどうやって歩いているのかを自分で説明することなんかできないし、そういう風に意識してしまうととたんに歩けなくなってしまう。
普段我々が生きている時に色々な感情を抱くわけであるけど、上の話と同様に、それを改めてどういう理由でそうなっているのか、本当にそうであるのか、などと考えてしまうと、その感情自体がどうも怪しく見えてくるし、そう意識していると終いにはその感情自体を抱けなくなってくる。

前に歩く、心臓を動かす、呼吸をする、などといった自律的な要素を含む行動は文字通り自律的な部分があって、自分の意志に関わりの無い所もあるわけやけど、感情や感覚というのも意思して抱くものではなく、否応なく巻き込まれて抱いてしまうものであり、意思を離れた自律的な部分がとても大きい。

自律的なシステムの制御下にある、例えば呼吸などは意思によってある程度制御できるし、訓練によってもその制御の質を向上させることができるけど、自律システムがすべて意思の制御を受け付けるわけでもない。鼓動やホルモン分泌などどうやって自分の意志で制御できよう?
同様に感情的な怒りや憎しみや喜びなどもある程度意思でも制御できるし、訓練による制御の質の向上も可能なように思う。つまり怒らない憎まない喜ばないの方向に近づけるようになるということである。こういう感情の制御の方向性をもって精神的な成長やとか鍛錬とか呼んだりする訳やけど、絶対に意思では制御できない感情もあるのはまた事実である。
その感情を抑えたり、本当で正しいのかを検討しようとするのは、本当にそういったことが可能なのかはどうかは別にして、心臓の鼓動や内蔵からのホルモン分泌に介入しようとするようなものであるように思うし、言い換えれば、自己存在の根幹をなす恒常性に疑問を抱くことでもあると思う。
かといって、感情のままに!となると日常生活に支障が出てくるので、そうは言わないまでも、その感情を開放してやるのもとても大事だと思った日であった。

2007年06月19日

●スターシップ・ロワイヤル

先日から「SAYURI」「カサブランカ」「風の歌を聴け」等と脈略なく色々映画を見ているのだが、以前から最も好きな映画の一つ「スターシップ・トゥルーパーズ」の続編を見た。
「スターシップ・トゥルーパーズ」の原作は「パワードスーツ」なる概念を作ったSF小説の金字塔らしいけど、監督のポール・バーホーベンは原作も読まずにただ「虫と人間との戦いがやりたかっただけ」というコンセプトで作った、青春物語、恋愛物語、戦争物語、人の死、そして最後には映画という媒体まで全てをバカにし切った壮大なバカ映画という事になろう。この監督の目指す所は唯一つ。どこまで無茶をしてどこまで全てを笑い飛ばす事が出来るか、そこに私はいたく感激したわけである。

amazon ASIN:B0002VYM8S で、その続編の「スターシップ・トゥルーパーズ2」だが、まず監督がポール・バーホーベンではなく、何でも初監督となる前作の特殊効果担当だったフィル・ティペットという人らしい。しかも全作の5%と低予算で撮影日数は26日、劇場公開は日本のみ…
これは、期待するだけアレだろう…
最初の方は前作を髣髴とさせるバカ映画度が高くいやがおうにも期待が高まる。でもって、出てくる登場人物がことごとくキャラがわかりやすく、ああこれはショーン・コネリーのつもり?これはアンジェリーナ・ジョリー、これはミラ・ジョヴォヴィッチ、これ将軍やのにハートマンやん!てな感じでどこかで見たようなモドキっぽい俳優ばかり出てきて、良い感じにB級感たっぷり。
しかしながら本編のストーリーが始まるとちゃんとした映画を見るように見入ってしまった。金曜ロードショーとかでやってたらまぁ面白い部類の映画になるやろう、密室エイリアンホラー映画として…あくまで金曜ロードショーやけど…
とにかくバカ映画度は低めやけど、低予算B級としては面白い映画やった。低予算B級映画としては…
ってこんなんスターシップ・トゥルーパーズ違うやん!

amazon ASIN:B000GQMJBQ とここまで書いて勢い余って「007 カジノ・ロワイヤル」を見た。これはおもろい。おもろすぎる。目を離す暇さえない。映画はこうでないといかん。これこそ映画。いやーおもろかった。さっき見た「スターシップ・トゥルーパーズ2」ってなんやねん…

で、某氏のご質問、007が最後に持ってたアサルトライフルは何?ですが、ドイツ Heckler & Koch社の UMP やと思われます。デフォルト装備から、アッパーレシーバにレールを乗せてダットサイト、マズルにサイレンサーというところでしょう。

2007年06月18日

●モーツァルト:ピアノソナタ第8番イ短調K.310 グレン・グールド

私は常々自閉的な人間に惹かれる傾向があるようで、このグレン・グールドなんかはそういう観点からいって最高に自閉的で魅力的なピアノを弾く人間やと思っている。
しかしながら自閉さえしてれば誰でも良いと言うわけでもなく、その自閉的な人が自分の中に持って閉じこもっている美しい世界をチラッと見せてくれて、それを我々が垣間見る瞬間が良い訳で、その各々の閉じこもっている世界が美しくないといけないのである。
例えば、このグレン・グールドやビョークやボリス・ヴィアンの世界は良いけど、猟奇的殺人などをやっちゃう人が閉じこもっているような世界はちょっと駄目である。となかなか難しい。(難しくもないか)

というわけで、このグレン・グールドといえばバッハ、しかもゴールドベルク変奏曲ということになるけど、今回は毛色が変わった彼の演奏するモーツァルトのピアノソナタ集のCDを聴いた。

amazon ASIN:B00005HMOZ グレン・グールドはモーツァルトのことを余り好きでなかったようで、「モーツァルトは早く死にすぎたというより、死ぬのが遅すぎた」とか「あんな退屈な作曲家はいない」とかボロクソである。
彼がモーツァルトを弾く時は「彼の悪い所を直してあげながら弾いている」とオレ様的に心がけているらしく、持っているクララ・ヴュルツのCDと聞き比べてみると、ワザと全然違うように弾いてるんと違うか?ってくらいに明らかにテンポが異様に速すぎで、モーツァルト好きが「モーツァルトへの冒涜」というのも良くわかる。
しかしながらもう「W.A.モーツァルト作曲 グレン・グールド編曲」とでも思って開き直って聴いてしまえば良いのではあるまいか。

で、このCDの聴き所は「ピアノソナタ第8番イ短調K.310」だろう。
モーツァルトのピアノソナタでたった二つの短調の一つであり、彼がパリで母を無くした時期に作られたとあってその悲しみが反映されているという事らしい。
激しく始まるイ短調の第一楽章はアレグロ マエストーソな激情で突っ走り、ヘ長調の第二楽章はコン・エスプレッシオーネな美しいメロディーがアンダンテ カンタービレにソナタ形式で展開して行く様はなんとも感動的である。再びイ短調に戻った第三楽章でプレストに曲がしめられる。

グールド臭はCD全体に漂っていて、聴けば、グレン・グールドの世界が充満する。グールド的心地良さに満ち満ちているCDである。何を弾いても自分色と自分味に染めてしまうあたりは、本当に感心する。
しかしながら、モーツァルト的な音楽的語彙でグレン・グールドの世界を語るのは以外にしっくりきているのではないかという気がするのも不思議なものである。

2007年06月17日

●麻婆ゴーヤ豆腐

週末恒例のお料理ブログ、今回の献立は、「麻婆ゴーヤ豆腐」、「小松菜の白鰹節あえ」、「焼き茄子オルレアンの乙女風」、「豆腐とワカメとシメジの直球味噌汁」となります。

麻婆ゴーヤ豆腐というものの、ゴーヤチャンプルを作るつもりが調べもせずに以前食べた記憶だけを頼りに作って、これはゴーヤチャンプルというよりは麻婆ゴーヤやな。ということで、そういう名前になった。まぁ美味しかったのでよしとする。

見ればわかるとおり手間も時間もかからないメニューばかりで今回も早く作れた。
次回の料理からは創作料理的な楽しみ(適当ともいう)の他、タイムアタックの要素も入れてみようかと思う。(思うだけ)

麻婆ゴーヤ豆腐:
たて二つに切ったゴーヤを種もワタも取らずにそのまま薄切りにしたものを水にさらし、フライパンでミンチとピーマンを塩コショウで炒めた後に投入。
コップ一杯に対しティースプーン1杯のコンソメ、醤油2、味醂1、味噌2くらいの割合のタレを投入して煮る。七味をこれでもかと振りかけた後、賽の目切りにした豆腐を投入し、よく混ぜた後に溶き卵を投入。
ゴーヤチャンプルではないけど、これはこれでアリアリ。種のゴリゴリ感もアクセントでいい感じ。最後にごま油で風味を出そうと思っていたけど入れるのを忘れていた…
味に変化が出るかな?と思ってピーマンを入れたけど、これはなんだか余計だったような気がする。それから、だしは片栗粉でとろみを出したほうが良かったかも。そのかわりゴーヤチャンプルからますます遠くなるけど…

焼き茄子オルレアンの乙女風:
ガスコンロの直火で黒焦げになるまで炙った茄子をその辺に転がしておき、今回は流水でなくそのまま黒焦げの皮を剥ぐ。
茄子一個を4つに裂き、それらしく並べて盛り、鰹節とおろし生姜を乗せて完成。
焼き茄子ってば何でこんなに美味しいのやろう。
「オルレアンの乙女風」ってのはジャンヌ・ダルクのように火炙り…

小松菜の白鰹節和え:
かなり硬い小松菜やったけどこれでもかと言う位に煮て柔らかくする。もう煮崩れ寸前。
絞って適当な大きさに切り、半分を擂りゴマ1、醤油1、味醂1、砂糖1の割合のだしと豆腐を混ぜ合わせて白和えに、残りを茹でたままプレーンな状態で鰹節を乗せて同じ皿に盛る。
なんてことはない料理やけど、二つが一つの鉢に盛ってあるのがポイント。白和えの部分は白和えの、プレーンな部分は小松菜自体の渋みと甘みが出て良い感じ。それぞれそのまま食べるだけじゃなくって、二つを一緒に、白和え大目で鰹節プレーン少な目、白和え少な目で鰹節プレーン大目、てな感じで色々食べられる。

豆腐とワカメとシメジの直球勝負な味噌汁:
ちゃんとだしをつくってワカメとシメジと豆腐を具に。もっともスタンダードで直球勝負なメニューなゆえ料理人の力量が問われよう…

2007年06月16日

●三島 由紀夫 『天人五衰』 (『豊饒の海』 第四巻)

amazon ASIN:4101050244 三島由紀夫『豊穣の海 第4巻』の『天人五衰』を読了。今度は本自体が薄いせいもあり、あっという間に読み終わった。
『豊穣の海』最後のこの巻は80才となった本多が、松枝清顕の3人目の転生(だと思われる)青年を見つけるところから物語が始まる。そして本多が自分自身で悪だと思う自分の自意識と全く同じものを持つ、人並み外れて賢く、虚無感と諦念を含んだ悪意で世界を眺める透が中心となり、破滅の動きが加速して行く。

仏教的な無常観と、日本的な美と、三島的な美が混ざり合った何ともいえん雰囲気が全編を覆っていた。
そして主人公の透と本多のキャラも強烈過ぎるほど強烈やし、さらには、後半の「天使殺し」たる恐ろしさを十二分に発揮する慶子と、自分は絶世の美女だと思い込んでいる世にも醜い狂女の絹江とキャラも破壊力抜群である。
この巻もとても面白かった。

という事で、以下からはこの巻の問題「透は清顕の転生か?」と「最後のアレはどういう事か?」という事について書いて見る。おもっきりネタバレなので、該当者は注意してください。

清顕を巡る転生の姿はある種の「純粋さ」の体現でもあった。清顕は純粋な愛の、勲は純粋な志の、ジン・ジャンは純粋な肉の体現者であった。そして透も本の中で述べられているように「純粋な悪」の体現者である。
透は転生した姿なのかという疑問に対して慶子は透の余りの凡庸さを指してただの偽物であると言っているけど、「純粋な悪」という時点で清顕の転生たる資格十分では無いだろうか?
清顕と清顕の転生の「純粋さ」がことごとく何かしら大きなものに打ち砕かれて破滅したわけやけど、透の純粋さの破滅、つまり「純粋な悪」の破滅が「天使殺し」慶子によって引き起こされたと捉える事も出来る。慶子自身が特別美しかったり悪である人間は自然が見逃さずに根絶やしにするって言ってるくらいである。
そして透自体は20歳で死ななかったけど、その「純粋な悪」は文中に出てきた話である自分を猫だと思い込んでいる鼠と同じ手段で、自らの行いで自らの死を持って証明される事になる。
自分の純粋さを守るために死に望んだ彼ら、清顕と勲とジン・ジャンの死に様と、透の自分の純粋さを守るための死に臨む態度に決定的な相違を見出せない。結果、肉体の死でなく精神の死が訪れるわけやけど。

タイトルの『天人五衰』は六道の最高位である天人が死を向かえる前兆、つまり、衣服が垢で油染みる。頭上の華鬘が萎える。体が薄汚れて臭くなる。脇の下から汗が流れ出る。自分の席に戻るのを嫌がる。の五つの衰えをを指す言葉らしい。
そのタイトルが指すのは『豊穣の海』シリーズの語り部であり見者である本多繁邦が、理性と論理でこの世を汲み付くし、年老いて死を向かえようとしている事の比喩というよりは、余りにも直接的な表現であるわけやけど、それは同時に天人の死をも意味しているわけで、本多がこの物語後に死ぬ暗示でもあるだろう。
この本の最後で本多が聡子に会うことで、清顕を巡る転生自体が本多の「夢オチ」であるような捉え方が主流になっているような気がするけど、ホンマにそうか?
確かに本文中の所々で、登場人物が本多の伊のままに動きうる可能性を示唆してこれが本多の夢の中であると言う含みがあるようにも思える。でもこれら全てが夢オチであるよりは聡子がボケてると考えた方がわかりやすいし、そこまで言わなくても、聡子自身の言う記憶のあいまいさが自分自身を指しているとも取れる。
60年に及ぶ転生の秘密といった無常観溢れる世界の理が、これまた根底からひっくり返されるわけで、無常観の認識が強烈な無常観によって更にひっくり返される事で無常観がなくなるわけでは無いだろう。多分そこは無常観を超えた認識であるに違いない。

最後に本多自身の自意識は清顕の転生の一つの姿であることに気付く。
見るものであった本多が見られるものである清顕の転生へと融合してしまうわけで、ここに流れ自体であるアーラヤ識と自意識であるマナ識の関係が上手く現れているように思う。
見る物と見られるものの融合、そして無常観の認識の根拠すらひっくり返す更に強烈な無常観の訪れといった事を経験した本多は死に望むわけであるけど、天人も死ななければ輪廻からの解脱は無いのである。この「豊穣の海』の物語は本多の死によってこのあたりに結びつくようにも思えた。
ここで純粋さを失い、死すら失った透の姿は、逆説的な意味で象徴的なものとなるのである。

2007年06月15日

●俗人五衰

家に帰って『天人五衰』を読み始めるも、ちょっと本を読む気分では無くなったので、本を閉じて音楽に聴きいる。
先日買ったフリードリッヒ・グルダの二回目のベートーヴェンのピアノソナタ全集録音の中の最後のCD、つまりベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタ、30番、31番、32番、私が世の中で一番好きな曲の一群、言い換えれば最も慰めとなる曲の一群でもある。
収拾がつかない自己の分裂と断絶は世界が混沌である事の表象であり、とてつもない喪失感はそもそもの最初から何も無かったということの現れであり、全ては赦され得ない認識は逆に全てが赦されている証拠でもある。
世界がそういった不毛のあり方をしていても、それでも、そんな世界は美しい。世界に祝福あれ。とする精神性は素晴らしい。

2007年06月14日

●寝だめモルターレ

朝から雨だが喜び勇んで自転車に搭乗。「水溜りドリフト」「排水溝ホイルスピン」を満喫しながら出勤。
前日やたら睡眠時間が少ないにもかかわらずなぜか全然眠たくなく、しかもそれなりに忙しかったので、妙にテンションだけが高かった。
そして職場は祭りであった。いろいろな意味で祭りであった。さぁ盛り上がってまいりました。

帰りに予約していた本が届いたという事で図書館に立ち寄る。
司書のレディがずぶ濡れの私を見て本を渡すのを一瞬躊躇したような気がしたが、安心召されい。本は鞄の奥深くで絶対濡らさぬゆえ。と心の中でつぶやきにこやかに頷いて本を受け取る。

夕食後、音楽を聴きながら布団に潜り込んで借りてきた本を読み始め、いつの間にか意識を失う。おそらく9時半くらい。
ということで、死んだような寝だめをした夜であった。

2007年06月13日

●肉球、そして生命の神秘

日曜日に火傷をしてちょこっと水ぶくれが出来て、普段なら針で突いて中の組織液を出すのだが、今回はなんとなくそのままの状態にしてあり、右手人差し指の先は某宇宙人のように膨らんでいる。
事あるごとにその水ぶくれを親指でプニプニし、プニプニ感に酔いしれる度に、水ぶくれがその下の傷口へのクッションになっているのを感じて生物のしくみスゲーと思うわけである。

てな事を、沖縄料理を食べながら梅酒を飲みながら話し、例のごとく水脹れをプニプニと押していたら、酔いの勢いも手伝って、人間にも犬や猫と同様に肉球を生じせしめてこれを体験する可能性に思い当たり、向こうで六人テーブル席に横並びに座っている痛カップル客にも教えてあげたいくらいに一喜。しかしながら各指と手のひらに水脹れを作ることの苦労を思い一憂。

で、コーヒーを飲んで酔いを覚まして自転車に乗る頃にはいつのまにか肉球がぺったんこになっている事に気づいてちょっとした寂寥感に襲われる。
だがしかし、肉球の中の組織液は何処へいったのだ?生物のしくみスゲーと思いながらハンドルを握る手にもう肉球は無かった。

2007年06月12日

●戦えドラッグストア(生老病死と)

日曜日にスパゲティーを茹でていて、熱くないと思い込んでいた取っ手をつかんで右手人差し指を火傷し、自分の無様さに鬱スイッチが入りそうになったのだが、この日の仕事帰り、「指の火傷」と「しょーもない事で鬱スイッチ入りそうになる精神性」のどっちが人間が生きる上で不利となるのだろう?火傷はすぐに治るが精神性はなかなか直るまい。火傷や怪我は治った状態を想像できるものの、精神状態のあるべき姿なんかそもそも分からない。
てな事を考えながら、普段入ることなんぞ殆ど無いドラッグストアを物色し、ものめずらしさで「ほへー」と呆けたような顔でいろいろな商品を見て回っているうちに、人間の生老病死に抗う執念にクラクラ来た。
ということで、オサレな缶の傷薬「キップパイロール」と切らしていた「BAND-AID」を買って逃げるように帰って風呂でボーっとレッド・ガーランドを聞いた火曜日の夜であった。

2007年06月11日

●三島 由紀夫 『暁の寺』 (『豊饒の海』 第三巻)

amazon ASIN:4101050236 『豊穣の海』シリーズ第三巻『暁の寺』を10日ほどかけて読了。
前半は唯識を中心とした、ヒンズー教と混ざり合った仏教思想の話が、タイとインドを主な舞台として語られ、後半は58歳になった本多の倒錯した性的な冒険と言うか企ての物語である。

タイの「ワット・アルン」を指している『暁の寺』が舞台という事やけど、これが出てくるのは前半少しだけ、松枝清顕の転生したタイの王女ジン・ジャンが主人公ということになっているけど、松枝清顕、飯沼勲と濃いキャラクターが主人公だった1巻と2巻に比べて、ジン・ジャンはキャラが薄いし、明らかに本多繁邦が主人公だろう。三巻にしてやっと主人公の座を勝ち取ったという感じか?

いずれにせよ、この歳をとったがゆえの、思想的にも性倒錯的にも濃厚な濃さとキャラは主人公に相応しい。

読み初めていきなり、冒頭からの大理石寺院に始まるタイの描写に圧倒される。なんやねんこの描写スゲーとひたすら驚いた。凄い、これは凄すぎる。

そして前半、一部で展開される仏教思想もとても興味深く面白く読めた。唯識思想での、アーラヤ織を巡る種子と薫習の関係を「世界の存在理由」にしている辺り、つまり、アーラヤ識を通じて芽吹いて実った「種子」が「薫習」によってアーラヤ識に還元され、アーラヤ識が浄化されるという輪廻からの解脱のプロセスの発現する場として、迷界としての「世界は存在しなければならない」という部分に結構驚いたのだが…
これは一般的な唯識論なのか、三島由紀夫独特のものなのだろうか?
そしてインドのベナレスの風景でそれらの思想が根底から覆って無常観に置き換えられたように見えた。

そして二部の後半は、大金をつかんだ本多の、タイ王女ジン・ジャンを巡る、濃くて倒錯して見苦しい性的な欲望とその企ての物語やけど、直接的でなくやってる事もそんなに大した事は無いわりに、キャラ的に滲み出す無駄なねっとり感と、前半の唯識思想を語っていたギャップがあるから余計に凄みが出てくる。
本多自身が言うように「正義の前科がある」わけで、確信犯的であるからこそ救い難い、つーか喜んで次は畜生道に参りましょうという感じの悲壮感と凄みと無常観が何とも言えん。

「夢と転生」がテーマと言われるこのシリーズやけど、松枝清顕から飯沼勲へと転生し、次にタイ王女ジン・ジャンに生まれ変わった訳やけど、転生やと言い切れる部分が薄くなって、なんか「転生」色が薄くなって来たような気がする。
この物語はどこへ向かおうとしているのか?

次はいよいよこのシリーズ最後の『天人五衰』ということで楽しみなような残念なような…

2007年06月10日

●モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 内田光子

このCDは世界的に実力者として有名な内田光子の出世作となったモーツァルトのピアノ協奏曲の全曲録音のひとつ。このシリーズ録音を機に内田光子は一気にブレイクしたらしい。
内田光子の出世作であると同時に、モーツァルト弾きの彼女にとっては代表作のひとつだろう。
この人がテレビ喋るのを初めて見た時は「音楽家っておかしな人種やなぁ…」と思ったけどやっぱり変ながらもとてつもない魅力のある人であり、その辺のビジュアル系クラシック演奏家と一味も二味も違う。

モーツァルトのピアノ協奏曲で短調であるものは、この間感想を書いた20番とこの24番の二つだけである。
Wikipediaで『多くの人がイメージするような「モーツァルトらしい」明るい曲ではなく、暗く情熱的な作品である。しばしば「ベートーヴェン的な」作品と言われる。』というように、20番同様この24番のハ短調も、モーツァルトらしい旋律と言うか音楽的な語彙も存分に含まれている、20番よりも深刻で内省的で情熱的でかつ個人的な曲であるように思う。

amazon ASIN:B0009N2VE6 深刻で不安げなハ短調アレグロの第一楽章、弦楽器と管楽器で盛り上げておいてゆっくりと入るピアノソロが何ともたまらん。
第二楽章の変ホ長調のロンドがラルゲットに演奏される様は何とも内向的な広がりを感じる。妙な落ち着きと透明な孤独さというか諦念のようなものが漂っていて何とも心が洗われる。
第三楽章は一転してアレグレットなハ短調の変奏曲である。提示された主題が徐々に変奏されつつ高まって行く様はなんとも言いがたい感動を覚える。

モーツァルトの20番以降のピアノ協奏曲について言われる事やけど、モーツァルトがどこぞの貴族に「こんな感じでお願い」って依頼されて書いたのではなく、これは自分の書きたいように自分の思うままに自分が演奏する為に書いて作られた曲である。
前にどこかで書いたような気もするけど、この曲を聴いていると、ベートーヴェンがモーツァルトに繋がる系譜である事をとてもよく感じた。

2007年06月09日

●ふわサクカリお好み焼き:真人間フラグ

本日は「お好み焼き」なのでお料理ブログと言うほど書く事は無い。
キャベツと山芋と桜海老と小麦粉と卵をガーっと混ぜてホットプレートでジューっと焼くだけ。途中でペタっと裏返し、焼きあがり後はダーっと醤油ソースマヨネーズをかけて、青海苔だの鰹節だの紅生姜だのをハラハラっとふりかける。
ただ、生地に水を入れずに小麦粉を最小限にして山芋でふわふわ感を、すりおろした山芋だけでなく賽の目切りにした山芋を混ぜてサクサク感を、三回裏返して食べる時に豚の面を下にして豚にカリカリ感を出して見たところが土偶風。「ふわサクカリお好み焼き」と言ったところか。
書いてて思ったが、お好み焼きは擬音語が似合う食べ物である。

SIGGボトルをもってピストに乗って図書館へ行き、前から見たかった『雨月物語』のビデオを見る。
図書館が閉まるとコーヒーを飲みながら借りた本を読んだりメールを書いたり、ちょっとした買い物を済ませて帰宅。これが俺か?もう爽やか系エコロジーインテリ真人間フラグ立ちまくりである。
しかし、狂った人間が自分を狂っているとはみなさないように、真人間は自分をまともだとみなさないのも当然である。

amazon ASIN:B00005GEAW 雰囲気があって日本独特のあの世とこの世の境界線の薄さとか、庶民のタフさとか男のアホさが良く出て良い感じ。んでもって、出世や金より家庭や平和、戦争反対、つつましく生きよう、などと言ったスローガンが押し付けがましく無くって良かった。
琵琶湖の湖上のシーンや野あそびのシーンは、美しくてかつゾクゾク来るものがあった。こういうのを「幽玄」つうわけやね。

2007年06月08日

●ほっこり

「市職員と専門学校のサッカー部がグランドで乱闘」というなんとも牧歌的な記事にほっこりする。なんか日本も捨てたものじゃないね。多分こんな感じだったのだろう。

専門学校生ボス:「ヒャッハー!!ここは使わせねぇ! 市長に最後の挨拶は済ませたのか?」
市職員ボス:「弱いカマキリほどよくしゃべるようだな」
専:「無駄無駄無駄無駄ッ!!」
市:「オラオラオラオラッ!」
専:「君がッ 泣くまで 殴るのをやめないッ!」
市:「クリリンの事かーっ!!」
専:「ヒャハハハ、切れろ切れろぉっ」
市:「イオナズン!イオナズン!かいしんのいちげき!!」
専:「マ、マホトーン…」
市:「諦めたらそこで試合終了ですよ。」

双方コメントを出してるけど、本音はこんな感じだろう。
市側(建前)「乱闘騒ぎの報告は受けた。現在、事実確認を急いでいる」
(本音)「生きて返すとは何たる腰抜け!じじいのファックの方がまだ気合いが入ってる!」

専門学校側(建前)「市職員は社会人としてあるまじき行為だ」 
(本音)「えぇい、連邦のモビルスーツは化け物かっ。俺がゲルググで出る!」

2007年06月07日

●ラーメン!しかし業!

相反する概念が自分の中にあって、それが命ずる欲求と、それ自身の存在に引き裂かれるような、葛と藤がくんずほぐれつするような、まさに「葛藤」と呼ぶべきものに、我々は日々日常的に責め苛まれている。
例えば身近な例で言うと「太りたくないが食べたい」から「泳ぎたいが水着になりたくない」等と単純な構造の葛藤、さらには「醤油ラーメンが食べたいけど塩ラーメンも食べたい」「海に行って泳ぎたいけどクーラーにあたって本読みたい」などと少し複雑な葛藤などといくらでもあるだろう。
直接的な欲求と理性の対決や同時に両立しない欲求の片方を理性的に諦める場合など、形はどうあれ葛藤というのは、結局は自分の欲求と理性のせめぎあいといった構造を持っている場合が多いわけである。
しかしながら、それを突き詰めて行ってしまうと、矛盾する二つの欲求を抱く自分自身を理性の段階すら突き抜けて生理的に否定する「欲求」が沸いて来る。
葛藤自体はともかくこれはヤバい。もう激ヤバの予感である。

こうなると良くわからん暗いループに陥ってどんどん下降しながら自らを食い尽くしてしまうので、そこから浮かび上がるには、人間なんかそう言う存在やねんからしょうがねえべ、という基本的な認識が必要になる。
でもその認識を土台にして自分の中にある対立する欲求の両方を自分のもつ正当なものだと認められれば、その対立する欲求は善悪を超えた業であり、それが在るのも業ゆえであると捉えられれば、人間一般に対して、更には自分に対して「許し」を与える事が出来るようになれるような気がするのだがどうだろう。
思いつくのと口で言うのは余りにも簡単やけど、いざそうなろうとすると中々難しいんでないかい?
という事を思ったラーメン大会であった。

なんかすんげー大げさな話になってるけど…

2007年06月06日

●正義の味方の見方

「~すべきである」てな感じの文脈で述べられるような「偉そうな事」とか「正しそうな事」は意外に論理構造が単純である。
絶対的な視点からもって、日常生活で考慮するような細かい誤差や要素、例えば個々人の強さや弱さ、感情であるとか立場であるとか状況を考慮の対象から切り捨てて、しまいには私自身はどうよ?という視点まで切り捨ててて、ほとんど一元的なまでの言いっぱなし視点と言う所が単純極まりない。
つまり、世界をAかBですらなく、Aか非Aとしてしか捉えない見方である。

で、大抵そういうことが口にされる場合、そういう事を恥ずかしげも無く口にする人のAが「正義」なのかと言うとそうでもなく、「正義の皮を被った好き嫌い」でしかない場合がが殆どで、そんなの「正義」に失礼ですっ!正義に誤りなさいっ!

2007年06月05日

●postfixで OP25B対策 & Submission Port対応

先月の終りくらいから土偶メールサーバーから諸氏に配送しているお天気メールが届かなくなっていたのだが、予想通り、プロバイダのOutbound Port 25 Blocking対策によるものだったので、土偶メールサーバーのPostfixの設定を変更して対応した。

以下は、メールサーバーの送信時にrelayhostとしてSMTP AUTHされた別のメールサーバーをSubmission Portを使って経由するような設定である。

土偶メールサーバーは既にSMTP AUTHをsasl_authで実装しているので、
main.cfに

relayhost=[プロバイダのSMTPサーバー]
smtp_sasl_password_maps = hash:/etc/postfix/conpasswd
smtp_sasl_mechanism_filter = plain, login


んでもってプロバイダの接続アカウント名とパスワードを格納している。/etc/postfix/conpasswdを

プロバイダのSMTPサーバー アカウント:パスワード

と言う書式で書いて、

postmap /etc/postfix/conpasswd

として

/etc/postfix/conpasswd.dir
/etc/postfix/conpasswd.pag

を生成する。
当然、
chmod 600 /etc/postfix/conpasswd*
位はしておこう。

さらに、Submission Portの設定として、master.cfの以下のコメントを外し、

submission inet n - n - - smtpd
-o smtpd_etrn_restrictions=reject
-o smtpd_client_restrictions=permit_sasl_authenticated,reject

とする。

んでもって、
mailq
でキューを見て、不要なキューを
postsuper -d キューID
として消した後に
postfixをリロードで終了

2007年06月04日

●バッハ:イタリア協奏曲 グレン・グールド

グレン・グールドと言えばバッハ弾きでまぁ間違いないけど、ゴールドベルク変奏曲のイメージが強烈に焼きついているせいもあり、その逆命題である「バッハ弾きといえばグレン・グールド」という回路も俺の頭の中で出来上がっている。
そういうわけで、古楽器でもチェンバロでもない、グレン・グールドのピアノでバッハを聴くのは俺の中ではありありである。

このCDでバロックの舞曲(らしい)をグレン・グールドが弾いているわけやけど、舞曲という事で同じ事の繰り返しの多いシンプル曲調が、彼のいかにも内向的な様をありありと示しているようで、なぜかとても落ち着く。ただし鬱な時に聴くと心地よすぎて抜け出せないかも。

amazon ASIN:B0002ZEZU4  CD全体がダウナー系なトリップに誘うかのような趣があるのやけど、特にイギリス組曲イ短調の2番がなんともたまらん、内向的に自分の中に向かって行くかのような演奏は、見えないほどに深い螺旋階段をどんどん下に下りて行くかのようである。

彼のピアノを聴くたびにいつも思うのだが、ちゃんと自己表現として伝わるほどに、自分以外の作曲家が作った曲を弾いているピアニストって余りいないのではないかと思う。

2007年06月03日

●真人間、虐待一歩手前の可愛さ

この日の目覚めはもうどうしようもないくらい幸せだった。このまま世界が終わってもいいくらいに幸せだった。
昼から街中に自転車で出かける。街中をうろうろしてコーヒーとケーキを食し、ロフトを冷やかし、色んなお店でメッセンジャーバックを物色し、オッサレーなお店で晩御飯を食べたり、まるで真人間のような日曜日の過ごし方であった。

amazon ASIN:479749476X ビレッジバンガードでパラパラめくってるうちにツボにはまり、買わずにはおれなかった。
このカエル達はプリティーすぎる。ここで内容を紹介できないのが残念である。是非本屋さんでこの写真の動物虐待一歩手前のカエル君たちの雄志を見て欲しい。

2007年06月02日

●お料理ブログ:ピーマンの肉詰めごぼう風味

土曜日恒例のお料理ブログのお時間です。
本日のお題は、ピーマン、ごぼう、水菜、合挽きミンチ、人参、豆腐、そば。
これを組み合わせて作ってみましょう。

結果、完成したのは、
ピーマンの肉詰めごぼう風味、付け合せは人参と茄子と扇ごぼう
水菜と人参と豆腐とそばのサラダ、おろし生姜ぽん酢
ごぼうと茄子の汁蕎麦、コンソメ風味
おろし生姜蕎麦の冷奴

となりました。これは作るの早かった。

おろし生姜蕎麦の冷奴:
冷奴の薬味に茹でた蕎麦とおろし生姜をのせるだけ。
蕎麦→豆腐→蕎麦→豆腐のさっぱりコンビネーションがなかなイケてる。

水菜と人参と豆腐とそばのサラダおろし生姜ぽん酢:
水菜と茹でた蕎麦を適当な長さに切り、人参の薄切り、豆腐のさいの目切り、おろし生姜を混ぜ合わせてぽん酢をかけるだけ。
水菜のシャキシャキ感と蕎麦のプツプツ感が合わさって不思議な食感。でも美味しい。

ごぼうと茄子の汁蕎麦コンソメ風味:
ごぼうのささがきと茄子の乱切りが具の汁蕎麦、出汁は「だしの素」が切れていたのでコンソメを使ってみた。
沸騰したお湯で具を茹で、薄いめの出汁に塩醤油みりんで味を整えて蕎麦を投入。
コンソメと蕎麦もありありですな。

ピーマンの肉詰めごぼう風味:
みじん切りのごぼうとにんにく、合挽きミンチ、すり胡麻、片栗粉、塩、醤油、コショウを混ぜ合わせる。
半分に切ったピーマンに詰めて、肉の面を下にしてフライパンに入れ、料理酒で蒸し焼きにする。
焦げ目がついたら裏返してピーマンの面を焼く。
茄子、人参を長細く切り、ごぼうを末広切りにしてミンチから出た出汁と油で炒めて付け合せに。
水洗いして適当な大きさに切った水菜を皿に敷き、その上に盛りつけると見た目も綺麗で、肉詰めから出た油で敷いた水菜も美味しくいただける。

ポイントはごぼう風味のミンチのはずやけど、あまりごぼう味がしなかった。次はもっと大量に投入してみよう。

いやーお料理タノシス。

2007年06月01日

●バカ映画として見る力

仕事帰りにスタバでコヒーを飲んだのだが、やたらと店内がガラガラ。金曜日の夜にコーヒー飲む奴なんかおらんという事か?

amazon ASIN:B0001A7CZK 帰って戦闘シーンがリアルだという評判の「ブラザーフッド」を見る。最初ちょっとびみょーやなーと思って見ているうちに、
「ははーんそういう事か、スターシップ・トゥルーパーズと同じやねんな」と思って見だすと面白くなってきた。
交戦したり人が死ぬたびに「あひゃひゃー」とゲラゲラ笑っていたのだが、後からネットで調べて見ると、どうやらそういう映画では無いらしい?感動巨編??

俺は「スターシップ・トゥルーパーズ」と同じノリで見たのだが、何か間違っていたのか?
ちなみに戦闘シーンはリアルと言うよりはグロいという感じで、「スターシップ・トゥルーパーズ」程の不毛感は中々出ていない。
amazon ASIN:B0009Y29F6 まぁ孤高の域に達している、世紀の傑作「スターシップ・トゥルーパーズ」と比べるだけ酷というものであろうか。