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2007年05月31日

●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 グルダ アバド ウィーンフィル

今までモーツァルトはオペラしか聴かなかったのやけど、職場の某兄にモーツァルトのピアノコンチェルトの20番以降は中々宜しいよ。と教えてもらったので早速聴いてみた。

この曲に関してはピアニストとオケと指揮者がうんたらと言うレベルに至っていないので、とりあえずamazonでも評価が高い定番らしいのを選んでみる。
フリードリヒ グルダ,クラウディオ アバド, ウィーンフィルという面子でなかなかに強そうだ。

amazon ASIN:B0001FADHY モーツァルトって短調のイメージが全く無かったけど、20番のピアノ協奏曲ニ短調は中々いい感じ。
第一楽章アレグロ、第二楽章ロマンツェ、第三楽章ロンド:アレグロ・アッサイの通り、切迫感のある早くてドラマチックな第一楽章と第三楽章の間に、正にロマンツェな美しい旋律の第二楽章がはさまれる形となる。
モーツァルトらしくない(と俺が思っていた)深刻で内省的な音やけど、モーツァルトらしい旋律と言うか音楽的な語彙も存分に含まれている。
聴いてるとなんかモーツァルト的な劇場的で大風呂敷な感覚と、個人的な弱さとか情念が染み込んで来る感じ。
頼まれ物の能天気な曲ばかりじゃなくって、こういう個人的な曲も書いたんやと、なんかちょっとモーツァルトを見直した。えらそうな言い分やけど。

2007年05月30日

●三島 由紀夫 『奔馬』 (『豊饒の海』 第二巻)

amazon ASIN:4101050228 某レディお勧めのシリーズ『豊饒の海』の第二巻『奔馬』を読了。
一巻を読んだ後に直ぐ読み始めていたのだが、最後まで読むのに結構時間がかかったのは、単純に一日や一週間の中の読書の割合が減ったただけで、読んでいる時間自体は結構短かった。
この第二巻は、第一巻の『春の雪』が感情のままに流される美しい青年のはかない美しさを描いていたのとは全く別方向の話で、主人公は一巻の主人公の生まれ変わりとなっていつつも、爽やかで純粋できりっとした国粋主義の剣道青年が、クーデターである「神風連の乱」を描いた書物の青年たちの純粋さを理想として、昭和の神風連たろうと、同様のテロを起こそうと目論む話である。

大儀の為に、現状の社会に対して異を唱える意味合いで要人襲撃を行い、失敗しても成功しても自分たちの純粋性を示すために切腹する事だけを願う。「花と散る」「自刃」といった単語で表される「死に方の美学」を志向した美の方向性と、タイトルの「奔馬」的な純粋なエネルギーに満ちた美しさを描いており、ほとばしるエネルギーと美しく散ることを望む欲求が混ざり合って、一種独特の歎美な感覚を醸し出している。

主人公の飯沼勲の反社会的にまで張り詰めた危ういまでの純粋さを大人たちはハラハラして見ていられないようで、一巻からの登場人物の本多は、昔の純粋性は歴史的な状況を考えて捉えるべきで、それを今の純粋性としてあてはめるのは間違ってる。今の状況に成り立ちうる純粋性を持て。って感じで、つまりは世知辛い世やねんからもっとしたたかになれ。と忠告し、勲の最も近い人、つまりは親、先輩、想い人もことごとく勲の純粋性を汚すことで世の中に適応させようとする。
結局、彼の純粋性と対立してそれを脅かすものは、自分を否定し自分が否定する絶対的な他者ではなく、自らが直接的に向けたり向けられたりする愛であり憎しみの対象であり、つまりは自分の中にある他者の存在であることはなかなか含蓄深い。

一巻の『春の雪』も二巻の『奔馬』も今から見れば明らかに時代錯誤やし、発表された当時もそういうところはあっただろう。
まぁ彼らの言わんとする事となぜそうするのかを頭で理解できても、感情的に自分がそうしたいかと言うと、そんなことは無いだろう。
しかしながら、確かに今でも通じる普遍性のある美しさってのは確実にあるわけで、そういった人間の美しさって言うのは、どことなく時代遅れなドン・キホーテ的な部分を持っているのかなと感じると同時に、この『豊饒の海』シリーズは「輪廻」「夢」「美」がテーマやと言われるけど、「純粋さ」ってのも外せないところやなぁと思った。

『春の雪』といい『奔馬』といいちょっと俺には感情移入しにくい主人公やけど、理性と世間の代表である本多の存在がその辺をびしっと締めてくれて、そのおかげで彼らの美点がとても浮き立つ。
その辺のあたりのバランスというかメリハリがとても際立ってて、全く違う『春の雪』と『奔馬』の二つの話に同じものが流れているのを感じるし、話としてもとても面白くなり、自分と異なる美にとても興味を持てる。
そんな三島由紀夫の力量のおかげで、下手するととてつもなくチープになりそうな物語が芸術にまで高まっていて凄いなぁと。

前回の『春の雪』を読んだ時に思って書くのを忘れていたのやけど、『春の雪』に出てくる「飯沼茂之」ってカラマーゾフの兄弟の隠れ四男坊「スメルジャコフ」に良く似てるなぁと思った。

2007年05月29日

●FULL METAL 講習会

どういう因果かまたしても仕事で「パソコンの基本的な使い方の説明」をする事になったわけやけど、今回はMS Wordの使い方を主体とするもののため内容が大きく変わり、4月に作ったネタは使えなくて残念。

ネタが無かったので、ハートマン軍曹が私の替わりに講習会をしたらこんな感じかなと、ハートマン語彙で一番上品そうなものを選んで想像してみた。

「どうしたお笑い二等兵?早くログインしやがれ!ベトナムに行く前に戦争が終わっちまうぞ、アホ!」
「Sir!パスワードを忘れました!Sir!」
「なに?パスワードを忘れただと?パパとママの愛情が足りなかったのか、貴様?」
「Sir,No Sir!」
「ふざけるな!ケツの穴を引き締めろ!パスワードをひねり出せ!さもないとクソ地獄だ!」
「Sir,思い出せません!,Sir!」
「上等だクズ肉!ケツの穴がダブルクリックするようになるまでシゴき倒す!分かったか、スキン小僧!」
「Sir,Yes Sir!」
「ふざけるな!大声出せ!」

こんな先生おったら楽しいやろうなぁ…

2007年05月28日

●バイロイトの第九 フルトヴェングラー指揮

第九のCDは掃いて捨てるほどあるけど、その中でも中で12を争うほどに名盤の誉れが高いのは「フルトヴェングラー指揮のバイロイトの第九」である。
1951年に第二次世界大戦後のドイツで初めて開催されたバイロイト音楽祭でのライブ録音ということで、ナチスと戦争に抑圧されてていた楽団と指揮者と客のテンションはこれでもかというほど高い。
しかしながらそこはプロの音楽家ということで、抑えるべきところは抑えてクールに繊細に演奏したりもするわけで、逆にそれが弾けた時のパワーはもう凄い事になってる。特に第四楽章の乗りに乗ってるスピード感は聴いていると完全に引き込まれる。第九のエネルギーとかパワーの要素が最も表されている演奏であろうかと思う。

あまりにも名高い録音なので、色々なバージョンのCDやレコードが次々発売され、例えば、オリジナル盤に何処のテープを使うとか、どういうフィルタをかけてノイズを消したとか、擬似ステレオになっているとか、足音が入っているとか、拍手のバージョンが何であるとか、そういったバリエーションをつけたCDがやたらと多い録音でもある。
そういうニーズがあるくらいなのでこの録音に対するマニアがいるほどで、ネット上に色々なレーベルや趣向で発売されたこの演奏のCDの聞き比べた感想を載せたサイトが存在し、このCDの音は厚みがあるだの、このCDの音は透明感があるだのという情報には事欠かない。

amazon ASIN:B0000TCM3O 私が持っているのは東芝EMIのCE28-5577で、世界初のCD化された録音の再販バージョンであるらしい。
このCDはある人によればなかなか評価の高い「響きや楽器のニュアンスもある程度保たれている」CDであり、ある人によれば「音は広がってしまい、スカスカ」ということやけど、録音の良し悪しのレベルの話をしたら1951年のライブ録音であるというレベルでアウトやし、アルトゥル・シュナーベルの録音のように明らかに聞きづらいことはないので全然問題なし。
良い音質を求めるのがオーディオマニアで、良い演奏を求めるの音楽ファンだとしたら、私は音楽ファンオーディオマニア寄り、という所だろう。
多分、特にオーディオにこだわってない人はどののCD聞いてもそれほどの違いはないかと思われるので、どのCDが良いとか気にせずにこの良い演奏を聞いておいて損はないやろうと思われる。

2007年05月27日

●深読みすれば何でも渋い

市民ホール玄関での無料コンサートでベートーヴェンのピアノソナタ24番をフルで演奏するとは渋すぎる。
一曲目にショパンの「ノクターン」かなんか、二曲目がベートーヴェンの「ピアノソナタ24番嬰ヘ長調」、三番目がリストの「愛の夢」、四曲目が…忘れた…けど曲目を見て考えてもやっぱり渋すぎる。

シャボン玉の膜は光学顕微鏡で見えるほぼ限界の薄さだそうである。シャボン玉より厚い世界はニュートン力学、シャボン玉より薄い世界は量子力学が統べる世界と言うわけで、そう考えるとその全く別の世界を隔てるシャボン玉も凄いような気がしてくる。
しかしながら、シャボン玉が凄いわけではなく、シャボン玉に発現したモノが凄いわけで、そこを計り間違える事が多い。"「わたし」が偉大なのではなく、「わたし」において現れた真理が偉大である"というアレである。

まぁシャボン玉一つ取っても、表面張力、極小曲面、光の干渉など実に様々な真理が垣間見られるわけで、世の中にあるものはなかなか侮れないと思った日曜だった。

2007年05月26日

●閉じた系のエントロピーは減少しないらしい

休みだと言うのに早くから起き、午後から図書館に本を返しに行き、久しぶりに会った色々な人と喋り、図書館でちょっと本を読み、スタバでコーヒーを飲み、夜から魚を食べる。
久しぶりにこんなに美味しい魚を食べたような気がする。

人間関係を自分の努力なしで他人の善意と同情にのみに依存して成り立たせているのは、逆に人徳とも言えるし、そこまでリスクを背負い込んで思うが侭に振舞う様に羨望の念すら覚える。
そういった、自分を他人の目で見てみるという視点の根本的な欠如は、ある意味では自と他の境界線の曖昧であることを表しており、私が鬱になれば世界が鬱になり、私がスネれば世界もスネるといった幼児のごとき世界観に近い。自らの言動が世界に及ぼす影響に関する配慮は皆無である。
自らの狭い殻に閉じこもって、そこから外を世界と見なさず辺境に追いやってしまうやり方は、ある意味では鉄壁の精神的防御となるけど、その代わり内部の廃棄物や毒素も外に出て行かないことになる。
負の生成物が濃縮されてゆくことで、世界が縮小してゆき、そしてまた負の生成物が濃縮され…といった負のフィードバック回路を見るのはなんともやりきれないものがある。

2007年05月25日

●かく扉を叩く

物事は深く考えるべき事と、深く考えてはいけない事があり、意外とその中間のまぁまぁ考えるべきである事ってのは少ないような気がする。

深く考えてはいけない事を深く考えてしまうと、どんどん変な方向に流されて気付けば身動きが取れなくなっているし、深く考えるべき事を考えずにいると、何かの拍子に落とし穴のようなものに避けようも無く落ちてしまう。

しかしながら、何かが起こって、または起こりそうになって、それが深く考えて取り掛かるべき事か、それとも何も考えずに跳びつくべきか、判断はとても難しい。というか、その判断で殆どが決まってしまうようにすら思える。

風呂でクライバーの指揮する交響曲第五番「運命」を聴きながら三島由紀夫を読んでいると変にトリップした。

2007年05月24日

●汝裁く無かれ

他人のいう事と自分の言う事の妥協点が存在しない場合、どちらか一方だけが正しく、どちらか一方が間違っていると判断するのは現実的には間違いである。
他人の言う事と自分の言う事のどちらもが同様に正しいという事は大いにありうる。というか世の中そんな事ばかりである。
しかしながらそういった妥協点を探す試みの際の基準として「正義」や「~べき」を持ち出してくると大抵上手く行かない事が多い。その「正義」と「~べき」は共通の前提になりにくく、立場、年齢、性別、などでいくらでも変化してくる。厳密に言えば各々個人が各々自分の正義を持っているわけであり、正義も~べきも相対的である域を超える事は出来ないのである。
一方、人間である限り「人間的な欲求」の誤差は思ってるほど酷くない。少なくとも大抵の事は「まぁ気持ちは理解できる」以上のレベルに収まってしまうだろう。そこを基準にすれば意外と妥協点が見つかる。
例えば、Aがaしたい場合、「正義によってAはaすべきでない」という言い方より、「Aがaする事はBのbという欲求に反するから止めてくれ」といういい方の方が遥かにわかりやすいしカドも立たないのである。

「欲求Aから行動Bを正義Cに因って抑制する」と「欲求Aから行動BやDを行うのを抑制する正義xは存在しない」の両者をまったく別のものとするのは「正義」を基準にした場合と「行動」を基準にした場合である。しかし「欲求」を根拠に二つを眺めると「欲求A」の存在により両者は同一となる。
日常的に物事は「行動」と「正義」のレベルで見られることが多い。しかしながら、欲求のレベルで人を見ると、同一とされるワクが広くなり、まぁ人間対して変わらんやね。って感じで色々な事が許せるようになるのではないだろうか。

2007年05月23日

●土偶?それとも努力してこうなったのか?

amazon ASIN:B000IU4N0K  「フルメタル・ジャケット」の中古DVDを衝動買い。
久しぶりにじっくり見る。何度見てもハートマン軍曹の罵詈雑言は破壊力満点だ。
もう笑うしかないあひゃひゃひゃ。

以前どこかのゲームデザイナーが、私自身はゲームをする人がゾンビの首や腕が飛ぶの映像を見て笑って欲しいのだが、日本人はそれをシリアスに捉えすぎる。と言って嘆いていたのが印象に残っているのだが、それと同じようにこの映画もシリアスに見るのではなくネタとして見るのが良いのである。
戦争の狂気?戦争の矛盾?そんな事はこの映画で無くても十分考えられる。

この映画はハートマン軍曹の罵詈雑言の切れ味と、どんどん壊れて行く微笑みデブと、狂ったベトナムの兵士たちを見て笑うのである。というか、これが笑えない人はこの映画はちょっと辛いだろう。

何事もシリアスに捉えすぎると逆に色々な事から遠ざかってしまうと思った。

2007年05月22日

●人間なんてララららら

真実を知りたくないと言うのは、結局その個人の弱さの問題なのであろうか?
多くの人間が真実に耐えられないのは、多くの人間が真実に耐えるほど強くないという事であろうか?
真実を知ることは最終的には良い結果をもたらすというのが歴史的な見方だとしても、それほどまでに強い人間などどれほどいるだろう。
それでも、生きていればいやおうなく色々な事を知ってしまう。知って良かったと思う事なんかそれほど多くないし、大抵は知ってしまった事を後悔し、知らない方が良かったと思い悩む。
知ってしまった以上どうやったってその記憶を消す事は出来ないので、何とかしてその真実を抱えてサバイバルするしか道は無いのである。

しかし「知」が「力」である限り、真実も力である。一個の真実の持つ力は一個の人間を再起不能にする程の破壊力を持っているけど、それに耐え抜いて乗り越えると見えてくる地平もまたある。
だからと言ってなんでも真実と対峙しようとするのは良くないのではないかと最近思うようになって来た。
それは余りに自分の力を過信しすぎた傲慢な行いであるし、往々にして耐え難い真実を告げられた時のリアクションは、真実自体ではなく、真実を告げたものに対しての攻撃性として現れるからだ。
そしてなによりも、そうやって自分を鍛えてみたところで、自分がどれほど成長するのだ?というところだろう。毎度同じダメージを食らっていながら何も成長していないと感じるのは、そのダメージ以上のダメージがあるのだ。

しかしそれでも進まなければいけない所に人間の悲しさがあり、救いもあるのだと思った。

2007年05月21日

●フェロモン主義世界の底辺でルサンチマンを叫んだだけだもの。

「富める者はますます富み、 貧しきものはますます貧しくなる」ってのは、某マタイの言う宗教的な話じゃなくって経済学的な文脈でもよく言われるけど、何かしらの特定のものを持つ事自体が、その何かしらの特定のものを持つための有利な条件になると言うことで、金銭とか材とかいう意味での富だけじゃなく、ありとあらゆる「富」の性質を持つものに適用される。例えば環境、知識、教育、などなど。

これらはほとんどポール クルーグマンの受け売りやけど、最近身近にそれを感じることが多い。
「バカはますますバカになり、まともな奴はますますまともになる」これは自分がまともな側にいると自惚れているので、歓迎すべきことではないにしろ将来的にまともになる可能性があると言う点でまぁ受け入れられるけど、「モテる奴はますますモテるようになり、もてない奴はますますモテなくなる」になるともうどうしようもない。
最近ではもう自分のモテ無さ加減を受け入られるようになってきたけど、それでも、ひたすらにモテまくっている人間を見ると心穏やかではいられない。

これだけ必死でバタバタして伸び上がってみても、存在だけでその次元を遥かに凌駕している「フェロモン資本家」のような奴などいくらでもいる。
「働けど 働けど なお わが暮らし 楽にならざり ぢっと手を見る」自体は受け入れられないことは無くっても、その状態で濡れ手に粟の資本家を見ると怒りを覚えるのと同じである。
巷で言われる資本主義的格差社会が否定されるべきなら、このフェロモン主義的格差から生まれるルサンチマンも否定されないだろう。フェロモン的スラムに住む住人が、フェロモン的セレブにルサンチマンを抱くのは当然で、私のルサンチマンも正当なのである。ごく当たり前の事をごくあたりまえに叫ぶのは当然だもの。というわけである。

しかし、いくらフェロモン革命を起こしたところで、フェロモン資本家とフェロモン小作人の間には覆しようの無いフェロモン壁があるので、もうぢっと手を見るしかない、フェロモン小作人であった。

2007年05月20日

●内省的内向サバイバル

生きる中で起こるさまざまな出来事について、鬱要素にとらわれてしまうか躁要素にとらわれてしまうか、どちらに比重をおいて感じてしまうかは、もうほとんど先天的に決まっているのではないか?
欝と躁の要素が半々でも気分はどん底の人がいれば楽しそうな人もいるし、人前では躁気味でも、一人になると欝になる人や、人前で好んで欝状態になる人もおり、欝のあり方は色々である。

「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか」って言った人がいたけど、他人の誤差レベルの「あら」がとてつもなくくっきりとしたコントラストで見えるのに引き換え、自分に潜むバグを発見するのは至難の技であるし、ほおって置けばそのバグは自らのシステムに融合してしまい、どこからがバグかすらわからなくなる。
自分を正確に認識するのは激しく困難である。その試みの達成はほとんど絶望的にであるようにも思える。そして往々にして自らを正確に知ろうとする試みは、自らに対して意味と価値を減じさせる結果にもなる。
本気になって自分を追い詰めてゆけば逃げ道なんか絶対に見つかるはずはないし、自らを知るという事は自己批判の試みであると言っても良いかもしれない。

自己認識の難しさと苦しさとはまた別に、自己を認識するのと自己を改善して行くのが全く別の次元の現象である事実もなんともやりきれない。当然バグを見つければデバッグしたくなるけど、バグを取り除くのはバグを発見する以上の困難を伴うのだ。
自分のバグを発見しつつもそれを摘出する事が出来ずに存在を感じ続けるしかない。というのはある種の地獄であろう。

批判あるいは救いという形で自己批判を避ける方策を他人や外部に求めるのは簡単ではあるけど、結局自分に跳ね返ってくるのは確実であり、結局そのリバウンドは遅い早いの問題でしかなくなる。
交通事故で死ぬ人間が年間1万人いるのに引き換え、自殺で死ぬ人間が年間3万人であり、福井県小浜市の人口と同じ数の人が毎年自殺している計算になる。もう戦争並みの死者数である。
そう考えれば、色々な条件が重なってしまった人にとって日々死なずに生きてゆくことがどれだけ難しいかと思わざるを得ない。

毎日生きているのが、戦場を行き抜いているのと殆ど変わらないという視点から、生きているだけでありがたや。という見方も出てくるかもしれない。

2007年05月19日

●三位一体麻婆

もう毎週恒例になりつつあるお料理ブログ、土偶適当お料理順列クッキングの時間です。
今回は豆腐、茄子、合挽きミンチ、ニラ、小松菜が安かったのでこれを使ったお料理を。考えた料理にするために春雨を買い足す。

複数の材料を組み合わせて品数を増やす方式で出来上がったのは以下の通り。
「冷奴」、「スペインの魔女風焼き茄子」、「小松菜と春雨の胡麻和え」「春雨とニラと肉団子と豆腐の中華スープ」、そしてメインは麻婆なんとかのメージャーどころを全て投入した麻婆豆腐春雨茄子である。「トリニティ麻婆」、又は「麻婆トリニティ」と大層な名前にしておこう。

作り方:

下ごしらえ:
生姜、にんにくをみじん切り、豆腐の3/5をさいの目切り、茄子を乱切りにする。
茄子を切って水にさらしてあく抜きしておく、鍋に湯をわかして春雨を投入、ぬるま湯で戻すなどと悠長な事はしない。
春雨がアルデンテになったらざるに取り出して小松菜を投入。湯であがったら取り出す。

冷奴:
切って更に盛るだけ、本日の薬味は七味のみ。

小松菜と春雨の胡麻和え:
小松菜を絞って五センチほどに切って春雨と絡め、すり胡麻:醤油:みりん:砂糖を2:2:1:1位の割合で混ぜる。特に芸は無い。春雨を入れるのが芸と言えば芸か。
春雨も短く切った方がいいかも。

スペインの魔女風焼き茄子:
火をつけたコンロに茄子を転がしておき、スペインの魔女のごとく火炙りにする。時々裏返す。皮が炭化してぶよぶよしたら取り出して流水で皮をはがす。適当に絞ってへたを取って縦に割いて盛りつける。おろし生姜と鰹節をのせて茹でた小松菜の葉を飾りに。
焦げ臭い焼茄子テイストが最高。おろし生姜は少なめに、鰹節は多めに。
流水で皮をむかない方が美味しいらしいがそんな面倒な事はやってらんない。

春雨とニラと肉団子と豆腐の中華スープ:
コンソメをベース出汁に塩醤油みりんで味をつける。
微塵切りの生姜とニンニクと片栗粉とミンチを塩コショウ醤油で味をつけてつみれ状にしてお湯に放つ。
ミンチの味が出てきたらごま油で風味を出して、切ったニラと春雨と追加。
片栗粉でとろみをつけた方が良かったかも。

麻婆豆腐春雨茄子:
上のスープの出汁に味噌:醤油:砂糖:みりんを2:2:1:1の割合で混ぜて出汁とする。
フライパンで大目の油のとろ火でニンニクと生姜を炒める。色がついてきたら茄子を炒め、茄子が揚がったら取り出して、ごま油を足してミンチとニラを炒める。
ミンチがばらけたら出汁を入れて、茄子豆腐春雨を加えて混ぜ、水溶き片栗粉でとろみをつけて終了。

自分で言うのも何だが美味しかった。お料理タノシス。

2007年05月18日

●待ちながら待つ

サミュエル・ベケットは『ゴドーを待ちながら』でいつかしら来るであろうと思われる「ゴドー」なる何ものかを待ちながら無駄話を続ける二人の男を描き、J.M.クッツェーは『夷狄を待ちながら』でやがて現れて自らを滅ぼすであろう野蛮人を待ちながら享楽にふける民政官を描いた。

人間にとって何かを待つという行為は色々な意味で象徴的なのだろうし、そう言う目で見て見れば、確かに皆何かしらを待っているように見える。
特定の何か、漠然とした何か、日常を超越する何か、日常を固定してしまう何か、などなど。

この日の飲み会で色々なわけのわからないノリに肩の上まで浸かってシンクロし、わかり易くも無茶苦茶な様々な欲望が渦巻くのを渦の直ぐそばで眺めていると、何故か非言語的な個人理解の視点が開けるような気がしてくる。
至高のものを求めているはずの、日常を超越する何かを漠然と待っている人は、はたから見ていると破滅を待っているようにしか見えないのがとても不思議だった。

2007年05月17日

●放射性崩壊的個人史観

自転車に乗ろうとしたらパンクしていたけど、替えチューブを持っていなかったので自転車を押しながら歩いて帰ったのだが、いつもなら15分ほどの道のりを一時間かけて歩くと実に様々ないつも目に付かないものが見える。
風景しかり町並みしかり。そして金星。昔持っていた星座板はどこへ消えてしまったのだろうと思う。

時を経るごとに失われてゆくものと、時を経るごとに獲得されてゆくものがあるけど、これは「時」自体の持つ対人影響性ではなく、人間が常に変わるからであろう。
変わる事が無ければ失うものは無い代わりに得るものも無い。「変わる」というのは元素でも分子でも人間でも大抵の場合外部からの刺激によるものなので、異物の少ない狭い世界をぐるぐるループしていれば外部からは安定した分子のように見えるだろう。

しかしながら生きているだけで失うものがあれば得られるものもあるのはもうどうしようもない。そのことを肯定的に捉えるか否定的に捉えるかは自分の一生を進歩史観的に捉えるか衰退史観的に捉えるかの問題やろうね。
どんどん変わろうとする人がいれば、全く安定を保つ事だけを考える人もおり、他人から多くを取り込もうとする人がいれば、他人に影響を与える事だけを考える人もおり、他人と全く接点を持とうとしない人もいる。
そのあたりは分子運動のようなもんである。

見ていれば、どんどんヘリウム原子核を外部に打ち出してどんどん細って行くアルファ崩壊のような人もいれば、ガンマ線だけ出して自分は変わらずに他人を替えてしまうガンマ崩壊のような人もいる。
私の場合は色々な物を取り込みつつも私自身は何も変わらない、電子を取り込んでニュートリノを放出する、質量自体は変わらないベータ崩壊のようなものであろうか。

2007年05月16日

●三島 由紀夫 『春の雪』 (『豊饒の海』 第一巻)

amazon ASIN:410105021X 傭兵仲間の某氏のお勧めの一品である、三島由紀夫『豊穣の海』シリーズの第一部『春の雪』を読了。
この本は「浜松中納言物語」に題材をとる壮大な輪廻転生と夢がテーマの『豊穣の海』の第一巻であり、大正時代の華族と宮家を巡る、世にも美しい公爵の若様とこれまた美しい伯爵の令嬢の禁断の悲恋の物語で、春の雪のようにはかなく美しいものがテーマであるというところであろうか。

恥ずかしながら今まで三島由紀夫は『潮騒』と『仮面の告白』しか読んだ事が無かったのだが、どちらもある意味では極端に三島由紀夫っぽ過ぎるわけで、逆に三島由紀夫の小説なるものをつかみきれていなかったのだろう。
そういうわけもあり、三島由紀夫の最高傑作と評する人も多いこの『春の雪』を読んで素直に驚いた。

クラクラするような三島由紀夫の美や雅に対する感覚が体感的に伝わってくるし、何よりも日本語の表現が美しい。世界のミシマというけど、これを上手く翻訳できるのだろうか?
日本語表現の美しさは翻訳文学や現代文学ではありえない、ある種の日本語表現の到達地点であるように思う。

物語というかメインの恋愛に関するストーリー自体はまぁ言って見ればチープではあるけど、そのあり方は確かに美であるし『豊穣の海』の一巻であるとするととても意義があるだろう。

主人公の性格であり生き方でありあり方である美と醜の同居が醸し出す芸術的効果、これから本シリーズを貫いてゆく事になるであろうと推測される輪廻と唯識思想への言及、明らかに後の伏線となるであろう印象的な箇所など、全体像から個々のパーツから思想的バックボーンまで隅々まで緻密に計算されつくした、ある種の日本庭園的な構成美を感じた。

結構この本は高校生とか中学生がチャレンジする事の多い本のように思うのやけど、果たしてこの美が理解できているのだろうか。と少し不安に思うと同時にこの歳になって初めて読んで良かった。とも思った。

一冊の本であるとは言え、『豊穣の海』シリーズの1/4が終わっただけなので感想はこれくらいにしておく。

2007年05月15日

●嫌よ嫌よも桃のうち

最近はもうすっかり図書館派の本読みになったけど、ついつい古本でトマス・ピンチョン『重力の虹1』を買ってしまった。自分ではそんなに意識していないけど、途中で読むのを挫折したのをよっぽど根に持っているようだ。
しかしながら現在はまったく方向性も種類も違う本を読んでいるので読むのはもっと先になるだろう。というか、このまま本棚の肥やしになりそうな予感である。これは所有という形での報復であろうか?

本にしろ人にしろ音楽にしろ、最初から滅茶苦茶気に入る場合はなんら問題ないけど、逆に最初からやたらと否定的に見て毛嫌いしてしまう場合も、自分の中の何者かを何らかの形で強烈に刺激するという意味では気に入ったもの同様に絶対値は高く、ベクトルとしては逆でも、スカラー的には等価になるのである。

経験的に言って、最初はとても嫌いやったりムカついたりしてけど時間がたつととても好きになっているという経験が結構多い。例えば、中学時代からの某友人、Miles Davis、村上春樹など。
自分が極端に嫌ったり嫌がったりすることをよくよく見ると、それが自分の問題と密接に関わっている場合が多い。その自分自身の問題を、獲得であったり征服であったり無力化であったり放擲であったり何らかの形で克服すると、また克服されないまでもそれを認識できた時点で、自分自身が何らかの成長を伴ってその嫌ったり嫌がったりしていたものを強烈に好きになることがあるのである。

キリストも人間に対して、中途半端にぬるいなら口から吐き出してしまうので、むしろ熱いか冷たいであって欲しいと言ってるくらいである。

そういうわけで、マイナスの価値がプラスの価値に転じるほど美しい変化は無いのである。と思った。

2007年05月14日

●オレオレ定言命法

倫理的に非難されるべきであるとされる行為に設定される罪深さの度合いは、その行為を行う人間とその行為を判定する人間の両方の立場にかなり大きく左右される。
例えば、AとBが行為Cを行う場合、Cという行為がAにとっては何の問題でなくても、BにとってはDとの関係性から問題が生じる場合がある。
言うまでもなくこれはそこら辺で日常的に勃発している問題の単純化された図式である。
となると、AはBとDの関係性を考慮した上で行為Cを行うかどうかを検討する必要があるわけやけど、結局その判断もAとBあるいはAとDとの関係性のレベルでの話となってくる。つまりは行為Cの道徳的な判定はA、B、D各々の関係性の次元に集約されてしまう事になる。
有効的な倫理観が個人的な関係性に大きく影響されているのが事実だとしても、それを前提にした判断、他人同士の関係性ではなく、自分の直接的な関係性からのみ判断すべきであるというのもまた別の倫理的な基準に乗っているわけで、結局はモラリティーなんてものは人からウダウダ言われたところでどうにも違和感がある。自分の道を信じて歩むしかないということだろうか。

とはいっても、ごく一般的に流布している道義性なるモラリティーに絶対的な基準が無いのは、まぁあたりまえではあるので、法律や条令などの縛りが無い道徳レベルの事どもを「全ては許されている」と解釈してしまうことが多いわけやけど、これは逆に言えば「全ては許されない」ということにもなりえる。
道徳的に正しいとされる行為は、特定の範囲内でのみ善とされる行為であるという妥協の産物でしかありえないわけであるし、許さない人が一人でもいれば「全ては許されている」状態は成り立たないわけで、構造的に全ての人間にとって道徳的なレベルの行為は「全ては許されない」事になってしまう。
それはそれで、他人に「全ては許されない」状態は非常に悲しいわけやけど、どうせ他人から許されないのなら、自分が納得できるようにやりたいのも人情である。

そういうわけで土偶は「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律」以外ではテコでも動かないのである。
でも「色仕掛けならいとも簡単に動く」という仮言命法も私の意志の格率に定言命法として入っているので、なんだかやっぱり破綻している。ってのが本当の土偶の姿のようである。

2007年05月13日

●外で遊ぶ土偶は良く訓練された引きこもりだ

日曜日なので自転車で出かけ、スタバでコーヒーを飲んだり、文房具屋や図書館や本屋を冷やかしたり。
このままでは引きこもりを脱してしまうと言う危機感を感じたので、夕方から引きこもって本読みに励む。

途中、某氏と電話で喋る。奴とは疎遠になっているイメージがあるのだが、よくよく考えれば定期的に電話で喋っている事になる。この腐れ縁はどこまで腐ってゆくのだろうと末恐ろしくなる。
腐敗もある一定段階を過ぎてしまえばまた別の物になりそうやし、まぁそれはそれで名実共に腐女子ということで面白くはあるのだが。(酷い事言うなぁ俺ってば)
いつも思うのだが、いつも我々が話す時は楽しく無い話題の場合が多い。いつか奴と楽しくて明るい事どもについての話ができれば良いなと思う。

しかし、本の中で勃発する派手ながらもシンプルな出来事に引き換え、現実の出来事はなんと地味で込み入っているのだろうか。不確定要素と雑多な事が多すぎて、とても因果関係だけを抽出する事なんか不可能なように見える。

2007年05月12日

●適当順列組み合わせ料理

この日はどういうめぐり合わせか料理をする事になった。スーパーで安いものだけを買ってきた後に適当に考えて作る企画。
安かったのは豆腐、水菜、小松菜、もやし、鳥の胸肉、さらに山芋が大量に余っているのでこれも使えという指令である。

結果、完成した物は以下の通り、
水菜の白和え山芋添え、山芋と温野菜の豆腐サラダぽん酢風味、味噌田楽風冷奴、鶏胸肉のカピタにんにく醤油和え、納豆と紅海老とてんかすのオムレツ、山芋ともやしと小松菜の味噌汁
あえて水菜をサラダにしないところが土偶なりのポイントである。

という事で、久々のお料理ブログ。土偶の適当順列組み合わせお料理レシピである。

なるべくめんどくさくないように、下ごしらえ意外の茹でる炒めるなどはワンアクションで全部の料理が出来るように。がコンセプトである。

豆腐は四等分して一つを白和え、一つをさいの目切りにしてサラダに、残りの二つを冷奴に、山芋は皮をむいて短冊形に。水菜と小松菜ともやしは別々に茹でるなどという事はせず、一度に切らずにそのまま煮立った鍋に投入し、湯で上がり順、水菜、小松菜、もやしの順に箸で引き上げて水で冷やし、絞った後に切る。
胸肉だけは適当な大きさに切って火が通りやすく味が染みやすいように切れ目を入れにんにく薄切りと塩胡椒醤油みりんをまぶしてしばらく放置。

作り方:

「水菜の白和え山芋添え」
茹でて絞った水菜に豆腐を潰して加え、すり胡麻:醤油:砂糖:みりん=3:1:1:1位の割合で混ぜるだけ。
こんもりと盛りつけて、上に短冊の山芋を立体的に載せて七味でもふっておけば見栄えがする。

「山芋と温野菜の豆腐サラダぽん酢風味」
茹でた野菜をこれでもかと良く絞って短冊の山芋と混ぜた上に、さいの目に切った豆腐を乗せてぽん酢だしをかけるだけ。

「味噌田楽風冷奴」
冷奴状に二つにならべた豆腐の上にちょっと味噌を盛って、その上の一つに水菜の葉の切れっぱし、残りの一つに紅海老を乗せるだけで色の組み合わせでそれらしく見える。
ようは冷奴を醤油と薬味ではなく、味噌で食べるというだけの話である。

「鶏胸肉のカピタにんにく醤油和え」
傾けたフライパンにオリーブオイルを入れてにんにくを弱火で炒め、良い色になったタイミングでにんにくを取り出す。
にんにくチップは後から使うのでお皿にとって乾燥させる。
つけておいた胸肉にちょびっと小麦粉をまぶしてフライパンに投入。弱い目の火のまま、みりん醤油を投入して蓋をして蒸し焼きに。
両面に焦げ目をつけ、焼きあがり寸前に溶き卵を少したらして、皿に盛りつけた後に最初に作ったにんにくチップをのせる。
にんにく醤油みりんのこってりした味にカリカリにんにくチップという感じ。

「山芋ともやしと小松菜の味噌汁」
味噌汁の具に山芋ともやしと小松菜を使うだけ、土偶の作る味噌汁にはみりんと醤油が入っているのだ。

「納豆と紅海老とてんかすのオムレツ」
このあいだの納豆オムレツが美味しそうだったから是非作ってくれと言うので作った。
かといって前と同じでは芸が無さ過ぎるので、納豆と紅海老とてんかすを投入。卵を固める為に水溶き小麦粉を加えたので、表面がちょっと茶色く焦げた。
てんかすと納豆のお陰で非常に量が多く見える。その代わり崩壊しやすい。

というわけで料理するのは楽しい。

2007年05月11日

●ボリス・ヴィアン 『北京の秋』

amazon ASIN:4152002549 ボリス・ヴィアン『北京の秋』を読了。
タイトルと本の内容に全く繋がりがないのがこの作者の特徴であるけれど、この本は北京にも秋にも全く関係が無いが故に『北京の秋』であるらしい。まぁこのへんはなんとなく心和む逸話ではある。
確かに北京にも秋にも全く関係ない話であった。比喩的にもかすりもしなかった。

エグゾポタミーなる砂漠の真ん中の土地に鉄道をひこうという人達の話ということになるのやろうけど、別にその鉄道が出来たらどうなるとか、出来なかったら何が起こるとか、そういった常識的なところは全く眼中に無い。「砂漠のど真ん中に鉄道をひく」というのは目的でもなんでもなくただの環境である。

例のごとくストーリーなどあって無いようなもので、一応のストーリーのようなものを口実にして余りにもヴィアン的な有機的耽美世界が延々と続く。そしてその耽美な世界に浸って楽しむというのがこの本の正しい読み方であろう。

このヴィアンの文章は読めば読むほど混乱してくる。ナチュラルにこういう状態で無いと、書こうと意図して書けるものではとても無いだろう。
恐らく原文のフランス語では言葉遊びなり韻を踏んだりしているのやろうけど、日本語に訳された段階で何の脈略も無い文章になっているのだとしか思えない。

普通と違った事をしたり言いさえすれば、普通でない事自体を目的とすれば、普通と違った価値ある人間に見られるに違いない。という子供じみた欲求を持つ人間を時々見かけるけど、ヴィアンのような余りにもぶっ飛んだ才能と感覚と表現を前にすれば、その考え方自体が余りにも凡庸すぎて救いがたく、その救い難い事自体がさらに救いがたさを固着させているように見えるのであった。

『日々の泡』は「美しさ」が際立っていた用に思えるけど、この「不条理さ」が際立った『北京の秋』は余りにヴィアン的過ぎて私にはついていけない。
私にとってやっぱりヴィアンは『日々の泡』が最高である。

2007年05月10日

●それなり以上

前日とはうって変わって寒い日だった。
雨が降るということで錆びないアルミフレームのマウンテンで出勤、マウンテンで出勤ということでブロックタイヤだと楽しい加茂川の未舗装の川原を走る。
ここまでは良かったけど、途中でいきなり前輪がパンク、おそらく空気圧が低すぎたゆえのリム打ちだろう。幸い替えチューブと空気入れを持っていたので、土手の草っぱらでチューブ交換。
作業途中、工具入れにドライバが無いことに気付き、この間家で出したまま戻すのを忘れていた事を思い出す。チューブ交換には必要ないけど、気付いてよかった。有事の際にこれでは困る。
で、慣れたもので10分かからないうちに、帰ったらドライバを入れておこうと思いつつ再スタート。

帰りは小雨が降る寒い大気の中を走る。久しぶりに手がかじかみ、寒さで体がこわばる。クランクの回転数を無駄に上げて体を暖めて走ると、逆にちょうど良い気温に感じられる。

トラブル、あるいは悪環境、しょうも無いことでも対処しなければそのままやけど、それなりに対処すればそれなりにはなるし、逆に、良い事や良い芽を育ててやれば、当然それなり以上のものになるはずである。色々な良い芽が、それなり以上のものに育てばいいなと思った寒い日であった。

2007年05月09日

●交響曲第9番ニ短調「合唱付」 作品125

この日もなんじゃこりゃな暑さ。
仕事後にラジオでシチェルバコフが弾く、リストが編曲したピアノのみのベートーヴェンの第九ってのを初めて聴いた。
一万人の第九ってあるけど一人の第九ってのはやっぱりなんとなく無理矢理感が感じられるような気がした。

そう言うわけでオケの第九が聴きたくなったので風呂にLine inにipodを接続したお風呂ラジオを持ち込んで聴く聴く。

amazon ASIN:B0002CHOIC 第九と言えばフルトヴェングラーからカラヤンまで数多くの名盤があるけど、ベーム最後の録音となったこのCDは十年以上昔になんとなく買って以来、私の中では第九の基準の演奏となっている。もうCDが焼け切れるくらい聴いている。

今から思えば、ゆっくりめの演奏でなんとなくまろやかでソフトな印象を受けるけど、楽曲の持つ勢いやエネルギーよりも美しさに主眼を置いたような演奏は、この曲がニ短調である事を思い出させてくれる。
なんというか、無理矢理外部から揺さぶられると言うより、中から自然に揺れて来るという感じで、独自の解釈や独自オーケストレーションのヒステリックに感情的な暴走機関車のような第九に食傷気味な耳には良いかも知れない。

この演奏は第九としても、カール・ベームとしてもどちらかと言うとマイナーな版やけど(たぶん)、土偶にとっては色々な意味で思いで深いCDなのであった。

2007年05月08日

●暑いと頭に何かが湧く

まるでもう夏が来たかのような暑さ。これから梅雨になるというのが嘘臭い。
毎年毎年梅雨なんか来なくても良いよ。と思うのだが、来れば来たで鬱陶しいけど、来なければ来ないでちょっと困った事になるのは、梅雨もIPv6もアレも同じである。都合の良い話といえばそうであるけど、人間的といえば余りに人間的である。

自分が変わったり成長したように思っていても、実は全く変わっていない事に気付くのは何とも気分が滅入る。人の事をうだうだ言ってる暇なんか全くない。
自分が変われないから他人を変えようとするのは、結局「人の変わりにくさ」の問題からは脱していない。それならば、自分がよい方向に変わってしまう方が遥かにお得である。

理解は出来るけど受け入れられない事など世の中にいくらでもある。理解する事と受け入れる事は全く別の次元の話であり、なんとなれば、それは自と他を分ける境界ともなりえる。
受け入れられるものが自分に属するものだとしても、「他」は理解できる範囲を遥かに超えた辺境の彼方まで広がっている。
そして、逆から言えば、自分が「他」から理解されたからといって、受けいられたとは言い切れない事も確かである。

2007年05月07日

●祭りの後

五月に入るとゴールデンウィークという事になっているけど、世の中にはゴールデンでもなんでもないウィークだった人も沢山おり、クリスマス、バレンタインデーと発語するだけで欝のどん底に叩き落される人間がいるように、ゴールデンウィーク、ゴールデンウィークと発語するだけで傷ついてしまう人もいるという事もありえるわけで、そこまで考えるともう虫や花を踏みつけないように歩んだゴータマ・シッダールタの如き慈愛レベルを目指す入り口に差し掛かるのではないかと凡人の私には思えるので、ゴールデンで無かったウィークを過ごした方々、別の良い方で言うとゴールデンウィーク中もみっちり働いていた私の周りにも少なからずいるような方々が、うろたえようが傷つこうが涙に暮れようが、そういった事を意に介さず、2007年のゴールデンウィークはまことにゴールデンなゴールデンウィークであったと言っておこう。

ゴールデンウィーク明けのこの日は、体がゴールデンであろうと欲するのを「いやもうゴールデンじゃないんやって」と言い聞かせ続けた日である。言い換えれば休みボケを日常に引き戻すための日であった。
というわりには、それなりにバタバタしていたような日でもあった。

2007年05月06日

●向山 貴彦/宮山 香里 『童話物語』

amazon ASIN:4344401298 amazon ASIN:4344401301 兵仲間の某氏が一押しだというので図書館から借りてきて読んだ。

架空の大陸の架空の村に住むひねくれにひねくれて世と人を呪う孤児の少女が、世界は滅ぼすに値するかどうかを査定に来た妖精と出会うところから物語は始まる。
宮崎アニメを彷彿とさせる世界に、どんどん成長してゆくヒロインの少女と少年、少女を家族のように愛する花屋の家族と少女に地図を送って大きな世界に送り出す老婆、姉御肌の機関車運転手に、世界に復讐しようとたくらむ世と人を呪詛する魔術師のような男、少女を執拗につけねらう、倒しても倒しても蘇ってくる敵、そして悪玉妖精と善玉妖精等と個性的なキャラクターが目白押しである。

愛、勇気、希望、友情、冒険、そして世界の果てと世界の終りの日と世界を滅ぼさんとする強大な悪。少年少女文学に要求される全ての物が詰まっていると言っても良いすぎでは無いだろう。
しかも、長い物語にも拘らず登場人物が多すぎないところも良い。

文句なしにお勧め。
というか、四の五の言わずとりあえず読んどけ (・∀・)つ『童話物語』
という感じでしょうか。

この本はどちらかと言うとYA書籍と言う括りになる児童文学で、ジャンル的にはファンタージーになるらしいけど、これは子供向きでも大人向きでもなく、その両方が没頭して楽しめる要素満開だろう。
しかも、平素で読みやすい文章は本読み経験の多少にも関わらず、本読みのドライブ感と没入感をもって楽しめるはず。

この本に関してはあまりぐたぐた言わずに「とにかく読め」というのが一番いいような気がする。
上巻400ページ、下巻540ページほどの文庫本を今日の朝から8時間ノンストップで一気に読みきった。
なんというか数10ページごとに、次々と、これでもかと心の一番柔らかい部分に深々と突き刺さるような物語であった。
これだけのものを読むと、しばらくは何読んでも味気ないやろうなぁ。

しかし、この本を読んで、童話という枠とか関係なく、人間の持つ物語性の意味とか意義とかが計り知れない威力を持つのを感じた。
薦めてくれた某氏に感謝である。

2007年05月05日

●自転車でたどり着く所

久しぶりにちょっとまとまった距離を自転車で走る。
アップダウンの無い街中を30kmと距離とコース自体はそんなに大した事は無いけど、間に自転車を降りてのちょっとした山登りが入ったので運動量としてはかなりの物のはず。

しかし、特筆すべき点はこんなところにあるのではなく、これだけ走り回って山登りまくって足を酷使したのに、足に全く疲労の後が見えないという事である。
なんというかもう既に土偶は古いからを脱ぎ捨てて別種の変態に変態したんだなぁと感じた。

レース志向でもなく、コレクター志向でもなく、ただの乗り物志向でもなく、無理せず楽しんで自転車を有機的に生活に組み込むことで、自転車を手段として目的にするという境地が開ける。確実にモノの味方が変わるし、考え方も変わる。
そういう生活スタイルをずっと変態扱いされ続けてきたし、実際にそれが変態である事は確かに間違いではないのだけれど、最近、自転車に対するこういう感じのバランス感覚への賛同者が現れて自転車通勤を始められ、とてもうれしい限りである。

2007年05月04日

●J.M. クッツェー 『少年時代』

amazon ASIN:4622046806 J.M.クッツェー『少年時代』を読了。タイトルからもわかる通り、著者のクッツェーが自身の少年時代を振り返った自伝的な小説として書いたものとされている。
しかしながら、クッツェー自身が自分の小説を語る時に「記憶は捏造される」「あらゆる自伝は物語であり、書かれたものはすべて自伝なのです」などという事を強調している事もあり、この小説に書かれてる外的な出来事や内的な事物がクッツェー自身に実際起こったものであるとして読むような読み方はいただけないだろう。
この本を、捏造されて再構築された記憶をベースにした、自伝的な物語と捉えるのが正統的ではあるにしても、とうぜん彼の書いた小説の中では最も自伝的要素が強いものであるに違いない。

「少年時代」と言う言葉だけで、純真無垢で朗らかで明るく自然と仲間と家族に囲まれた、白のタンクトップに半ズボンと麦わら帽子を被った少年が出てくるノスタルジックな物語を思い浮かべそうになるけど、当然クッツェーはそんなものは書かない。

彼の書く「少年時代」はそんなものとは正反対の、アパルトヘイトの風が冷めやらぬ南アフリカの片田舎を舞台に展開される、内弁慶で内向的で横暴で傲慢で、ゆえに孤独である白人少年の自意識と身の程と暗い欲望のせめぎ合う内的なオディプス物語である。

「少年時代」という言葉自体が、少年や子供が美しいものであるという前提で、何故か失われた美しい物を連想させるものであるのが一般的な見方であるように思う。
しかしながら、クッツェーの描き出す「少年時代」は、子供が不完全で醜いと言う前提で、その後のクッツェーの物語に出てくる人物としての、現在の自分に観測される「歪み」がより抑制が無く、より純化された形で噴出する最初の時期で、最も見苦しい時期であると見なす事も出来る。

三つ子の魂百までというけど、人は歳を取って子供っぽい欲望や自意識を克服して成長するのではなく、歳を取ってそういう見苦しいものを上手く隠蔽して無い物として振舞う術を身につけているだけである。というのがクッツェーの感覚なのであろう。

物語らしい物語は無く、ひたすら未成熟な内向的で暗い欲望や衝動や自意識を中心に物事が記述されて何とも暗い気分になる。よっぽどクッツェーが好きでない人で無い限り、これはお勧めできないような気がする。
それでも、クッツェー好きとしては、彼の根本的な欲求であるとか事物認識のパターンが垣間見れてとても興味深い本であった。

2007年05月03日

●「福田平八郎展」@京都国立近代美術館 に行く

とても天気が良くお散歩日和でその他色々日和でもある。京都国立近代美術館へ「福田平八郎展」を見に行ってきた。
お向かいの京都市美術館でやっている「大エルミタージュ美術館展」にチケット買う行列が出来るほどの人が押し寄せていたのに引き換え、「福田平八郎展」は控え目に言ってガラガラ。お陰でゆっくり見られたが、ちょっと複雑な気分である。

福田平八郎は私が好きな日本画家の一人で、彼の京都市立美術工芸学校の卒業制作が同校の買い上げになり、宮内省買い上げの作品を出して画家として認められるなどそれなりの地位の画家としてあったけど、師と画塾に属さない孤高の画家として過ごし、日本画壇の最高峰でありつつも今までの作風をかなぐり捨てた絵を描いたりと常に変わり続ける姿勢は、ジャンルは違えど「帝王マイルス・デイビス」のようでもあった。

絵画というのは、何らかの対象に対して我々常人や凡人が見過ごすような美(或いは醜)をスポットライト的に浮かび上がらせたり捉えたりして表現するものやと個人的には思うのやけど、福田平八郎が何らかの対象の中の着目した点が私にとってもツボである事が多い。
ちなみに私が好きなのは作風の変わった「漣」「雨」あたりからで、彼の作品からは、自然や日常や周りに対する慈愛に満ちた眼差しが伝わって来てなんともほんわかするのである。

で、今まで彼の作品は画集でしか見た事が無く本物を見たのは始めてであり、さらにはこの展覧会は予想してた倍くらいの数の作品があってもう感動もひとしおであった。
かの有名な「漣」の本物はかなりデカく、遠目から見ると本当に水面のように見えるので、当たり前やけど「おー」となった。近寄った時と遠目から見る印象が全く違うってのは画集では味わえんやね。
彼がずっと題材にし続けてきた「鯉」も時代ごとに変わって来ていてその様を見るのも中々面白かった。
なかでも「雀と葱」(葱と雀やったかも)がたまらんかった。苗を植えたばかりの葱畑で遊ぶ雀を遠近感を無視したように平面的に描いたものやけど、なんというか雀の雀らしさと、葱の苗からちょこっと青い芽が出てるところに癒されまくった。

あと、この展覧会では主要な作品に平八郎自身の解説文が付さされており、それを読むと彼のお人柄に触れたようで妙に和んだ。

2007年05月02日

●小泉 義之 『レヴィナス~何のために生きるのか』(シリーズ・哲学のエッセンス)

amazon ASIN:4140093056 この間から余りのお手軽さに戸惑いを覚えつつも、ついつい手に取ってしまう『シリーズ・哲学のエッセンス』であるけど、今度は『レヴィナス~何のために生きるのか』を読了。
なんというか「何のために生きるのか」という思いっきりなタイトルに惹かれた。市立の図書館で何故か欠本状態だったので、職場の図書館で借りた本である。

で、タイトルにもなっている「何のために生きるのか」と言う問いはレヴィナス自体が立てたのではなく、この本の著者である小泉義之がレヴィナスの思想、つまりは「生殖の存在論」なる他者や欲望や性に対する思考のたどり着いた所から答え得る問い、として逆に立てた問いという事になるようだ。

しかしながら、私にとってはかなり難解であり、とても理解できたとは言いにくかった。この事自体は私自身の理解力の問題もあれば、レヴィナス思想の深遠さという側面もあるだろう。
ただ、レヴィナスがどういう事を考えようとしていたのか、どんな事をテーマとしていたのかは良くわかった。そして、こういった入門的な本にとって、ある意味ではこの到達点で十分なのかもしれない。

著者の小泉義之は冒頭で出し惜しみせずにレヴィナスのその問いに対する答え「死ぬために」を提示して、それが「自分のために、他者のために、人類のために、死ぬために生きる」という帰結になる所を説明して行く。
一章では記憶以前に前提されている「契約」たる生存本能や運命や自然法則を前提に、生きている事自体が「享楽」たる肯定的な状態であるとする所が説明され、二章では言葉の利用で自分自身を他者として分裂させ、「言葉の受肉」によって私が他者と連結され、そこから自分のために生きるが人類の為に生きるになる論理が説明される。
そして三章で今までの二章と、「敵すなわち神」による殺人たる「自分の死」、肉体的存在の肉体的享楽の善たる側面の生殖、一人の人間は一個の存在ではなく、自分に生殖細胞が加えられた1プラス0.5の存在であるとする話から、生殖を前提とした人間の存在論が展開され、人間存在のリレーとして死んで行く事に生きる意味があるとする結論に至る。
という構成になっている。

「何のために生きるのか」ってのは考えない人にとっては問いを立てる必要性自体がない問いやけど、考える人にとっては余りに切迫した問いであるだろう。
しかしながら「何のために生きるのか」という問いは、構造的に「生きる事に意味があるのか」と言う問いに「ある」という答えを前提した上での話になるはずである。
「生きる事に意味は無い」と前提する人にとって「何のために生きるのか」という問いは問いとして成立しないし、逆に、「生きる事に意味がある」とするためには「何のために生きるのか」に答える必要が絶対にあるはずである。
「生きる事に意味は無い」とする人に対して「生きる事に意味がある」事を証明するには「生きる事の意味」を提示して見せる必要があるのである。

この本での小泉レヴィナスのいう「何のために生きるのか」に対する答えは「生きる事に意味がある」と前提する人にとっては何らかの答えの一つとしてありうるやろうけど、「生きる事それ自体に意味は無い」とする人の考えを突破するだけの威力は、正直言って無いのではないかと思った。

2007年05月01日

●ボリス ヴィアン 『心臓抜き』

以前同作家の『日々の泡』を読んだけど、その時は「シュールで耽美で何ともいえん世界」という感じでそれほどのインパクトは無かったような気がする。
でも読んでだいぶ時間がたってもクロエの肺の中に睡蓮が咲くという奇病とか「貧乏人のとむらい」とかの彼の描くモチーフがずっと印象に残ったままどんどん大きくなるような感じで、どうやら私はこの作家が好きらしいという事に気付いた。

amazon ASIN:4151200053 そう言うわけもあり、ボリス・ヴィアン『心臓抜き』を読了。やっぱり私はこの世界が大好きなようだ。
今から50年ほど前の本やけど、全然そんな感じがせん。
彼の描く歎美な世界は一見、稲垣足穂に似たような感じがするけど、稲垣足穂が無機的で宇宙的で透明な感覚であるとすると、ボリス・ヴィアンは有機的で生物的でカラフルな雰囲気がするのだ。

例のごとくストーリーはあって無いようなものやけど、生まれた時から空白のままの成人で、他人の欲望で自分の空白を補おうとする精神分析医が変な村に迷い込む。
その村は老人が市場で競にかかっているわ、子供や家畜を虐待するのが習慣であるわ、司祭と悪魔がボクシングをするわ、木は抜かれる時に泣き叫ぶわ、青ナメクジを食べると空を飛べるわ、金を貰って村人の恥を恥辱で消化する河原者がいるわ、もう滅茶苦茶シュールな世界。
空白の精神分析医は空白の割には誰よりも一番まともであるにもかかわらず、猫を分析して猫的になったかと思えば、いつの間にか村の習慣にどっぷり浸かって通りすがりの小僧に平手打ちを食らわしたり、空を飛ぶ子供を鳥だと思ってうっとり眺めたりと、身分証明書に「埋めるべし」と書かれた自分の空白を埋めるどころか、精神分析もせずぶらぶらしているだけやけど、結局最後はやっぱりこうなるかと言うところに落ち着く。

しかしながら、三つ子の母親クレマンチーヌの狂いっぷりがこの本の中で最高である。腐った肉と腐ったチーズを食べ、子供たちを「白くも黒くも無い色も何もない無の壁」で子供たちを監禁し、子供たちに及ぶであろう、妄想としか言いようの無い災難を身を切るように心配する様はもう圧巻である。

冷静に読めば滅茶苦茶残酷でエグくてグロい話のはずやけど、全然そう感じさせないバランス感覚は絶妙である。その中にある美を描こうとする視点がそうさせているのではないかというような気がする。