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2007年04月30日

●典型的な休日

昼からSIGGボトルに詰めたお茶を持って、ピスト君に乗って図書館を巡り、職場に一瞬顔を出し、そのまま街に繰り出して時計の電池と朝顔のタネを買い、中心を外れた人の少ない目のスタバでコーヒー飲みながら借りた本を読み、友人にメールを書く。

なんですかコレ。「SIGGボトル」「ピストバイク」「図書館」「スタバ」というありがちキーワードですよ?典型的な都会派エコロジーインテリな休日の過ごし方って奴じぇねぇ?もう俺ってば引き篭もり卒業?この後にデートの予定でも入ってりゃ完璧じゃね?

などと一人で悦に入っている様は、はたから見ればさぞかし不気味であろうと思った、とてもとても暑い休日であった。

2007年04月29日

●金森 修 『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(シリーズ・哲学のエッセンス )

amazon ASIN:4140093080 土偶小屋にはアンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論 』が最初のちょっとだけを読まれただけで転がっており、これからも恐らく半永久的にそのままであろうと推測されるのだが、ベルクソンに興味があれこそそんな本を買ったわけであり、この『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(シリーズ・哲学のエッセンス )は職場の図書館で哲学の本棚のあたりをぶらぶらしている時に目にして思わず借りちゃった次第である。
しかしながら、図書館の本棚に並んでいて目に付かなければ読む事は無かっただろう。積極的に調べて予約したり書庫に入ってまでは借りなかったと思う。
何でもかんでも棚に並べておくのではなく、厳選した物を並べておく事の意味がここにある。
情報は量の多さで情報としての価値を測るのではなく、質の高さで測るべきであり、まさに、この本にはそういう事が書いてあったのだった。
読んでから気付いたのだが、アマゾンではやたらと評価の高い本でもあった。
そして、確かに面白かった。著者の人柄と言うものがベルクソン思想の解説を突きぬけて表に出てきており、そこがまた良かった。

私は殆ど全くと言って良い程ベルクソンについても彼の思想についても知らないので、この本を読んだ範囲内の話にしかならないのを断った上でこの本について書いてみる。

この本はベルクソンとその思想についての入門書という位置づけであり、ベルクソンの著書の「時間と自由」「物質と記憶」をテキストに、時間、知覚、記憶についての彼の思想を入門的に解説したものであるという事になっている。

一章では我々が通常、一般的に理解している、秒や分といった単位で区切られた量的な「時間」の概念に対する、ベルクソンが主張する「質的」な「純粋持続」という時間概念を解説している。
乱暴に言えばクソつまらん何がしはやたらと長く感じるのに、楽しすぎて美しすぎて可愛すぎる時間は一瞬で過ぎるというあれであり、それこそが人間が人間である上での正しい時間認識であるとする話になっている。

二章は一章の「純粋持続」を根拠にした、主に「知覚」を主体とした「過去」「記憶」「自由」の話である。
今まで精神界と物理界に隔てられていた、「コップが机の上にある」などの肉体的な「知覚」と、「カラマーゾフの兄弟を読むと感動する」といった精神的な「知覚」に質的な差異を設定する事で同一の次元にあるものとし、「過去」「記憶」を質的な差異として結合し肉体と精神の境目を放棄する。
さらには概念の知覚のレベルで内と外、精神と肉体だけでなく、自分と他人の境界すら溶解して融合した共通の認識である「純粋知覚」を設定する。
まるで某エヴァの「人類補完計画」のような話であるけど、そこから議論は、生まれて初めて知覚するはずの物でもその「純粋知覚」の影響下から逃れられないうところに展開する。
そこから「人は過去から逃れられない」という話になるわけやけど、だからと言って人間が不自由になるのではなく、依然人間に起こり得る事は予測不可能でどうなるかわからないわけで、逆にそこにこそ人間の自由の根拠は開かれているとする。

ニーチェと同じく「生の哲学」なる系譜に入れられる事が多い(らしい)ベルクソンであり、そのあたりのエッセンスは確かに読み取れたような気がする。
ただこれが正当であり、または正確な理解であるかは全くわからないのも当然といえば当然である。
だから、「ベルクソンさんがこういう事を言っていた」という事を読む話である純粋な読み物として読むのがいいのかもしれない。
そして、読み物としても文句なしに面白かった。

2007年04月28日

●祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル

年に一度のお祭り的業務で遅くから遅くまで働いた後に遊びに繰り出す。
化石燃料を燃やしながら、好きな音楽をかけながら延々と車を走らせ、延々と喋り続ける。

グレン・グールドのピアノを聴きながら、ズスケカルテットの弦楽四重奏を聴きながら、苦しみ自体に意味は全く無いものの、苦しみによって得られたものが後から振り返って見える事があるのはまた本当であると思う。

旧約聖書のヨブ記で神の試練によって子を奪われたヨブが、次に新しい子を得た事で前の子の問題が解決されたかのように見えるあたりの意味が、感情的に論理的にも全く理解できなかったのだが、それでも、最近なんとなくそのあたりの見通しが開けてきたような気がしてきた。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」で始まった試練は「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。 兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。 」で終わる。

そう言うわけで私も友人たちのために祈ることが出来れば。と思ったものの。
確信犯的無神論者である私には、祈る神がいないのに気付くのであった。

2007年04月27日

●土偶の皮を被った「かわうそ」の皮を被った「プレデター」

「親切」とか「礼儀」ってのは人間の性格上の資質に因って得られるのではなく、努力による習慣づけによって得られるのだと、村上春樹が『羊をめぐる冒険』で書いていたけど、確かに「親切や礼儀」が「優しさ」とか「思いやり」などで代表される意味群の概念とは全く違うモノであるように感じる事が多々ある。

「親切」や「礼儀」は現象としての事象を指す単語で、「思いやり」や「優しさ」は人間の内的な傾向性を指す単語であるから、もともとそれらは違うものである筈やのに、なんとなく混同が行われやすいものでもある。
一般的に人間の行為は動機に基づいていると考えられているので、言い換えれば「思いやり」や「優しさ」は動機の部分であり、「親切」や「礼儀」は行為にあたるとも言える。

だからこの話を正確に言い直せば、「親切」で「礼儀正しい」現象の原因を、「思いやり」と「優しさ」だと推測するのは間違いの場合が多い。という事になる。
つまり、世の中羊の皮をかぶった狼もおれば、狼の皮をかぶった羊もおり、システムエンジニアの皮をかぶった「かわうそ」や土偶の皮をかぶった「プレデター」もいるということである。

しかしながら特記事項として、土偶の最も好むとするところは図書館司書の皮を被った乙女か、図書館司書の皮をかぶったツンデレであることをここに明記しておこう。

2007年04月26日

●情報と感情のインフレとデフレ

色々な対象に対する色々な感情が混ざり合い、自分が何をどう感じているのかさっぱりわからなくなる事がある。
混乱というものは大抵の場合、情報量の過多とその情報の信憑性の揺らぎの相乗効果から起こってくるものである。

そして一方、なんらかに対する情報量が不足する事態が起こると、大抵の場合はその不足した情報を希望的観測に基づいた想像で補完しようとする。

情報のインフレで人は混乱に陥り、情報のデフレでは感情だけが先走りしすぎるということである。

インフレというのは物価が継続的に上昇して、貨幣の価値が下がることであり、デフレはその逆に物価が下がって貨幣価値が上がる事であるから、情報量のインフレが起こり混乱が生じている時、情報の価値が上がると同時にその対価としての感情や感覚の価値が下がっているのである。
逆に、情報量のデフレが起こるとその情報を多い尽くすほどに感情や感覚の価値がとても上がって感じるものである。

悲しい事に、世の中と我々を取り囲む世界の大抵の場合、どうでも良い情報についてはインフレ気味であり、とても欲しい情報についてはデフレ気味である。
どうでもいい事に対して細かい感情を撒き散らし、大事な事に対して暴走気味に空回りしているという事態は如何なものか。
なんというか、自分の感情をもう少し大事にせんとあかんなぁと思った。

2007年04月25日

●適当をちゃんと考えてみた。

「ちゃんと適当に働いた?」という疑問文の意味は、「適当に働く」をちゃんとしたか?ということになる。
詳しく言えば、ほおっておけば思わず頑張って働いてしまうような人に、そうならないように適当さを保つように気をつけて働いたか?と問いかける文である。
逆に「適当にちゃんと働きました」は「ちゃんと働く」を適当にするわけで、ちゃんと働く気持ちやけど、力を抜いて適当に働きました。という事になる。

上の二つ、語用的に中々高度な言葉の使い方のように思える「ちゃんと適当に働く」と「適当にちゃんと働く」は心意気や集中の度合としては違うものの、現実的な仕事の出来栄えとして現れる、仕事の質や量としての「ちゃんと度」は同じになるだろう。
同じような働きぶりの二人がいたとして、達成された仕事の差異も無いとした場合、「適当にちゃんと働く」か「ちゃんと適当に働く」を判定する事はとても難しい。

などと風呂に入りながら考えていたが、「あーもー意味ワカランし。とりあずちゃんと働いとけば文句ないやん」と適当に結論を出しておいた。

2007年04月24日

●『海の名前』 / 時計仕掛けの土偶?

amazon ASIN:4487797055 日仕事帰りに職場の図書館で本を借り、傭兵仲間と少しばかり話し、まだ明るいうちに帰宅する。
そのうちの一冊は海にまつわる色々な名前をテーマにした『海の名前』という写真集のような本で、いかにも腐女子が「癒し系」と重宝しそうな本であるが、海と魚に過敏反応する私の事であり、読んでいるうちに激しく海に行きたくなってきた。
こと海と魚に関して、土偶は腐女子となんら変わるところは無い。

こういう海に行きたいとか夏を望んでいるとかいう感情は、自分で自発的に自らを基点にして起こってくるもののように感じるけど、某氏の指摘によれば、去年の今くらいにも私は夏はまだかとか、海がどうしたとかブログで言っていたようで(ホントだ)、このぐらいの時期のこのくらいの気候のこのくらいの湿度になると海に行きたくなるといったように、実は特定の刺激に特定の反応を返しているに過ぎないのかも知れないとちょっと不安に思った。
ま、思っただけやけど。

この本に出てくる「海」は波の名前とか、潮の名前とか、海岸の地形の名前とかの、上や外から見た場合が多い。
しかしながら私は潜るのが好きだという事もあり、海をイメージするのはどちらかと言うと海底やとか水中やとかの中や内側からになる。

そう言うわけでこの本は、コンセプトとしてはとってもいい本やのに、「海」を中や内側から見た視点がとても少なくて残念である。
でもまぁ、こういう感覚の方が特殊なのはわかるし、本としては中々良かった。海好きにはたまらんやろう。写真も綺麗やしね。

2007年04月23日

●J.M. クッツェー『石の女』

amazon ASIN:4883190358 J.M.クッツェー『石の女』を読了。一週間ほどかけて2/5ほど、残りを昨日音楽を聴きながら一気読み。
最近お気に入りの作家であるJ.M.クッツェーがデビュー作の『ダスクランド』の次に出版した本である。

南アフリカの辺境の地主の娘である、男と世間に全く縁が無い孤独なオールドミスが主人公であり、クッツェーらしい複雑な仕掛けが施された226の文章の断片で構成されている。

一応ストーリーは時系列で進んでいくけど、内容は追い詰められた孤独な女の自我の物語と言った感じで、身の程とプライド、卑屈さと独善、妄想と現実、屈辱と暴力などがふんだんに織り込まれた、悲痛な独白と逃げ場を求める苦悩の論理が展開されており、哲学的であるとか難解であると言われるその文章は、そう言う次元で見るより先に、読んでて何ともいたたまれなくなる。

本の半ばあたりから主人公が本格的に狂いだして、ストーリの事実性までが揺らいでくる。斧で殺したはずの人が銃創に苦しみ、墓に埋めたはずの人がベッドで寝たきりになっている。
現実がつまらないので現実を創作したという主人公の言葉を取っ掛かりに、いくつもの現実が同時多発的に勃発し、完全に現実と物語と作中作の区別がつかなくなる。
とてもクッツェーらしいなんとも狂ってて凄まじい本であった。

「必要とされたいという思いから逃れられない」「私の守護天使は、-中略- たぶんあまり高望みしすぎないように忠告してくれる天使」「自分が生きたかった人生の為に-中略- 私はヘスペリスの涙を流す」「私は体重90ポンドの孤独で気が狂れたオールドミスかもしれないが、人畜無害とはいえない」
などに表される言葉はなんともクッツェーらしい。
哲学的だの文学的だの、エマニュエル・レヴィナスだのモーリス・ブランショだのを持ち出してややこしい解釈を施される本であるけど、わざわざそんなややこしい読み方をしなくても、とりえが無く無価値で取るに足らないけど、自我だけは妙に肥大した醜い人間としての苦悩と狂気を色鮮やかに描く自意識の物語として読むと、結構楽しめる。
いや結構相当キツイか?

2007年04月22日

●J.S.バッハ 「ブランデンブルク協奏曲」

昨日買ったCDを聴きながら本を読む。
音楽と言うものはすべからく「感情」を刺激する側面があるわけやけど、「聴いた時」の心情的な状態もその刺激の大きな要因となるので、特定の音楽が、特定の人や状態や場所と結びつくという事が起こりうるのだろう。
そういうわけで、何年か過ぎればこの「ブランデンブルク協奏曲」も多分特定の何かに結びついた音楽という事になるような予感がする。

J.S.バッハが作曲し、ブランデンブルク公クリスチャン・ルートヴィヒに献呈された、6曲の合奏協奏曲を総称してブランデンブルク協奏曲と呼ぶらしく、このCDは6曲全てが入っている。
私がこのCDを買ったのは単純に1575円という安さやったという理由やけど、 このバウムガルトナー指揮、ルツェルン弦楽合奏団の1978年に録音されたブランデンブルク協奏曲といえば枯れに枯れまくった名盤という扱いらしい。
最近は輸入版を買うのが殆どやったので、日本語のライナーノーツが入っているのが何とも嬉しかった。

amazon ASIN:B000JVS3NQ バッハと言えば、宮廷に使えた召使としての音楽家であり、貴族の食事や舞踏会のバックミュージックとして明るく朗らかな雰囲気の曲を多く作る事が多かったけど、そんな中にも巧妙に自己表現であるとか何ともいえない悲哀を忍ばせている。というイメージを持っている。
んで、このブランデンブルク協奏曲で一番気に入ったト長調の4番はそんな私の思う「バッハらしさ」が一番全面に出ているように思う。
ト長調の第1楽章、独奏楽器のリコーダーのどことなく悲哀を含んだようなアレグロが何ともいい感じ。そしてホ短調の第2楽章はアンダンテでちょっと落ち込み、ト長調に戻った第3楽章のプレストで復活してシャキっと締める。もう文句無しやん。

しかし、職場の某兄に言わせれば、バッハはアーノンクール指揮の古楽器演奏が逆に新鮮で最高らしい。今度聞いてみよう

2007年04月21日

●CDを買う、お笑い三段論法

久しぶりに街中に出かける。ビレッジバンガードで本を読み漁り(読むだけ)、服屋を巡り(見るだけ)、CD屋を巡る(視聴するだけ)。
試聴するだけのつもりやったけど、なんとなくCDを買った。前からちゃんと聞きたかった、J.S.バッハ ブランデンブルク協奏曲の全曲集である。
2枚組みで1500円と一番安いのを買ったのだが、もう少しリサーチしておけば良かったとちょっと後悔。

必死で何らかの欠乏に苦しんだ挙句「もういらねぇや」とか「もう無くても良いや」などという心境に達した瞬間に、今まで得られなかったものが得られそうになるという事は良くある。
悟ってしまうと「別に悟らんでも良かった」と思うそうやけど、私の場合は「あ、いらんとか、無くても良いとか言うのは嘘、めっちゃ欲しいし!」と直ぐに手のひら返したようになるので、悟りには程遠いのが良くわかる。

推論規則としての三段論法はなにかを結論付ける上でとても有効とされているらしい。
例えば、AはBである。CはAである。ゆえにCはBである。という具合だ。
しかし、世の中大抵の場合はこんな感じである。

大前提:Aさんは知的な人が好きである。
小前提:AさんはBさんを知的であると思った。

結論
1:ゆえに、AさんはBさんでない。
2:ゆえに、Aさん自身が知的かどうかは謎である。
3:ゆえに、Aさんは「Bさんって知的ですね」と言った。
4:ゆえに、Bさんでないなら知的でないとはとても言いきれないAさんであった。
5:ゆえに、Aさんは「Bさん以外に知的な人なんかいくらでもいるわ、ふん!」と思った。

意図的に特定の答えを除外しているような気もするけど、この複雑な世の中ではどれもが同時に結論となりうる。
世の中三段論法では結論付けられない事が多すぎるし、計り知れない論理が張り巡らされているとしか思えないのであった。

2007年04月20日

●突付きかけた藪から恐竜が

藪を突付いたら蛇どころかティラノサウルスが群で出てきてボーン。な感じで自らボリュームの多い仕事を増やしてしまった。
「いつでも良いですよ~」と言って頂いてはいるが「んじゃ秋くらいに」とは流石に言えんやろう。

私の担当部分は早々に終わったものの、前々からその後の進捗状況を見ていて「もしかしたらアレも俺に回ってくるんやないかぁ?」という香ばしい臭いが漂っていたのだが、実際その通りになってしまいちょっと慌てている。
今の段階で既に予定していた期限は既に過ぎており「ええっ!過ぎて良かったの?」と驚いているのだが、その辺の匙加減でいいのだろう。

「大丈夫ですか?」とは聞いたけど、「私がやりましょうか?」と言った覚えは余り無いのやけど、いつの間にかすっかり任せられている。もう殆ど騙し討ちの一本釣りである。
まぁ、そういう予感がしていたんやから、もっと早くに引き受けておけば、期限にも間に合ったかもしれんし、皆が幸せになったかもしれん。
判ってて釣られたところも大いにある。でもどうせならもっと早く引き受けておけば良かった。

自分に回って来そうな仕事はさっさと着手してしまうに限ると自分に言い聞かせておこう。
開発したら開発だけ、構築したら構築だけ、設定したら設定だけっていうやり方はなんか性にあわん。できる事ならリボン結ぶところまでやりたいと思った。

2007年04月19日

●「お笑い的世界観」と「筋トレ的世界観」

今日で私が担当する最後の新入生向けの「寄席」であった。時間が短すぎて「客いじり」の余裕が殆どなかったけど、お客さんはちゃんと聞いてくれていたので満足である。

昔、力仕事をなんでも「筋トレ筋トレ」と喜んでやる友人がいた。
仕事でモニタ運びやPC運びを頼んでも、一緒に別の友人の引越しを手伝いに行っても「筋トレ筋トレ」と嬉しそうであった。
この「筋トレ的世界観」からすれば、力仕事は楽しい作業で、世界に存在する「重たい物」の全ては自分を鍛えてくれるために存在するわけである。
世の中や世界と言うのは、まともに向き合えば何とも判断しがたく、考え込んだり頭を抱えたりせざるを得ないものである。おおよそ我々の理解を超えているし、どう見ても醜いとしか思えない。
「筋トレ的世界観」はそんな世界を優しく見るための世界解釈の一つである。価値転換によって世界を変換する試みの一つである。

同様に、人生にはどう転んでもトラブルと対立にしかなりえないような事が起こりうる。
善か悪か、正しいか間違っているか、敵か味方か、損か得か、YESかNOか、そんな判断基準と価値基準では、どうやっても対立は深まり、トラブルは増え、事態が好転する事がありえないように見える事がある。
そんな時に世界の全てを「笑けるか笑けないか」で判断してしまおうという方向性を持つ「お笑い的世界観」はどうだろう。
全てのトラブルはコントと化し、罵倒や反論はツッコミと化す。
仕事が出来ないのも遅いのも、性格が捻じ曲がっているのも腐っているのも、全てはツッコミ甲斐のあるボケである。何物をも、自分をも笑い飛ばそうとする限り、世界はバラ色である。

とりあえず、色々なものがくすぶりつつある今、それを「壮大なネタ」として解体する事で、武装解除を目指す事ができるのは「お笑い的世界観」以外の何物でもないのだ。

「わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。―かれによって一切の物は落ちる。怒っても殺せないときは、笑えば殺す事ができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!」
フリードリッヒ・ニーチェ『ツァラトストラはこう言った 上』 p65(氷上英廣訳、岩波文庫)

2007年04月18日

●春の嵐

本日も新入生向けの「パソコンの基本的な使い方の説明」であった。
前回の「こんなパスワードは嫌だ」でクスクス程度の笑いは取れたが、もうこれ以上ひねりようが無い。
これ以上捻ると捻じ切れて元も子もなくなる。
私ごときでは「説明要綱」を逸脱せず、かつ脱線なしでクスクス以上の笑いを取るの不可能である。

残された道はもう「客いじり」しかないというわけで、
「大丈夫ですか?」「どうですか?パソコン難しいですか?」「どこがわからないですか?」
と言う感じに説明の合間の実作業中に学生にマイクを向ける。
今までキャッキャ言ってた学生もマイクを向けられたとたんにシャイになる事が多く何とも微笑ましい。
というわけで、今日は声が枯れるほど喋ったものの、「客いじり」で結構笑いを取れて満足である。

芸人としての伸び悩みから、新しい方向性を見つけて、一つ壁を突破したような気がする。
が…そもそも私は芸人でもなんでもない事に今気付いた。
というか、何で私は「パソコンの基本的な使い方の説明」で無理やり笑いを取ろうとするのだ?

午後からは昨日に引き続き「電脳なまはげ」に勤しむも、傭兵仲間に後ろを捕られて不覚であった。
色々な意味で修行が甘いのか甘くないのか、気に入ってるだけなのか好きなのか、おいおいちょっとそっち行ったらアカンがな俺。
と自制したり照れたり混乱した、冷たい雨の降る一日であった。合掌(謎

2007年04月17日

●電脳的「なまはげ」凶戦士

今日も朝からトリガー引きっぱなしで撃ちまくる。
一台の端末からネットワークにジャックインしてサイバースペースのセルを一個ずつ「悪い子はおらんかぁ!!」と制圧してゆく。「SWAT」ではなく「なまはげ」のイメージで。
その後、直接踏み込めないところは職人技バッチ攻撃の機銃掃射で薙ぎ払い、マーカー代わりの爆薬投下で丸ごと焼き払う。
朝のナパーム弾は格別だ。
気分は『ニューロマンサー』な「地獄の黙示録」である。当然気分だけ。

実際はごっついトラブルのはずだが頭の中では「さあ、盛り上がってまいりました!」「オラ ワクワクしてきたぞ!」である。
障害のはずなのに何故かニヤニヤしている位やないとこの仕事はやっておられぬ。
こういう状況になればアドレナリンくらいは誰でも出るやろうけど、ドーパミンまで出るくらいの域の特異体質になれば、凶戦士の資質十分であり、言い方を変えれば「人間やめますか、それとも…」という事である。
まぁ、あとは戦闘力しだいではあるのだが。

いずれにせよ、ああやっぱり俺って変態やなぁ。と感じ、半ば自分が不安になり、半ば自分に安心した、うららかで肌寒い春の日であった。

2007年04月16日

●傭兵の用兵

某氏の日記にヘルプデスク的業務でいつも椅子に座っているだけで質問もなく、暇で暇で申し訳ないくらいだ。と書いてある。
色々な輩に髭の垢でも煎じて飲ませたいくらいの心意気であるが、待機業務と言うものもまたあるので気にする事はあるまい。と申し上げたい。
何かあったときの伏兵である。動かずにターゲットを待ち続けるのも狙撃手の仕事である。と私は思う。

何事も一方だけが全面的に正しいという事はありえないし、何事にも良い面と悪い面が対になって存在している。
既存の組織に新しく入ってきた風が既存の物を裏返そうとするのではなく、ゴミのように見えるモノだけを吹き飛ばそうとはなぜ思えないのか。
しかし、その風が完全に正しいとは思えなくても、その吹き込んで来た新しい風のお陰で今まで見えなかった事が見えてくる事も当然ある。

組織とは個人が部品として構成される構造物である。しかし当然ながら人間が何かしらの部品とされるのは良くないとされているし、個人は個人の独立性を保障されてるという事になっている。
あるとき、個人は組織戦闘の一つの駒となり、またある時は組織の利益になる目的だけを与えられたミッションに単身で取り組む事もある。
どちらかしか出来ない戦闘員はやはりその程度のものではないかと思った。

2007年04月15日

●ベートーヴェン チェロソナタ Pierre Fournier & Wilhelm Kempff

この日もいい天気だったが、一日引き篭もっていた私には直接的な恩恵は無し。
引き篭もりつつ本を読み音楽を聴き、ウトウトして目を覚まし、本を読みつつ音楽を。

こういう休日の過ごし方を、どれくらい繰り返しているのだろう。誰とも接しないでひたすら内へ内へと内向する。自分の井戸を掘ったところでどこにたどり着けると言うのだ?
某レディの「外に出ないと!」という言葉が頭に木霊する。

しかし、開けっ放した窓からは爽やかな風が吹き込み、部屋には好きな音楽が満ち、目を下ろせば好きな本がある。
もう、私の人生これで十分と言えば十分である。他に、この私に、一体何が望めよう?

amazon ASIN:B000001GY1 ここしばらく弦楽四重奏ばかり聴いていたけど、先日からベートーヴェンのチェロソナタばかり聴いている。
聴いているのはピアノがケンプでチェロがフルニエと、ガメラ対ゴジラのごとき豪華キャストなドイツ・グラモフォンの名盤であり、二枚組みで5つのチェロソナタの全てが入ってる中々お得なCDである。

焼けきれるほど聴いた懐かしいCDで、私の中で余りにも特定の人と時間に関連付けられた音楽やけど、聴いているうちにそんな感覚も解けてくる。痛みを伴った懐かしさを心地よく感じる年になった事を嬉しく思う。

ベトベンのチェロソナタと言えば3番が有名やけど、今は作品102-2の5番が一番好きである。
弦楽四重奏の15番にも通じるような、静謐、ドラマチック、そして内向的と三拍子そろって文句なし。第3楽章のフーガがもうたまらん。
そして、如何にも「ドイツ」なケンプのストイックなピアノと、いかにも「フランス」らしいフルニエの華麗なチェロの相性もばっちりである。

2007年04月14日

●カズオ イシグロ 『わたしを離さないで』

amazon ASIN:4152087196 長崎県出身の日系イギリス人で、ブッカー賞作家であるカズオ・イシグロの2005年に出版された『わたしを離さないで』を読了。

内容は「介護人」や「提供者」で仄めかされる秘密を中心に、その秘密ゆえに色づけされる、ある施設の子供達の成長物語である。
直接の物語として話される内容が余りにもありがちでどこにでもある物語であるだけに、逆にそれがその秘密とのコントラストで重くのしかかってくるという逆説的な構造となっている。
私は映画でも本でもネタバレを全く気にしない人間で、読む前からその「秘密」を知ってた訳やけど、その「秘密」から当然来るやろうと予想された重さに比べれば全然大した事なかった。

「読書メモ」を取りながら読んで行きたいタイプの小説ではなく、ストーリーテリングでリズムに乗せて引っ張ってゆく感じで、もっとエグくて救いのない最悪の読後感を予想していたのだが、読後感はダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』に似ているように思った。
つまりは『アルジャーノンに花束を』が好きな人にはお勧めできるという事である。
そして読むなら予備知識なしの方がいい。

巻末の柴田元幸の解説によればカズオ・イシグロの中心的テーマは「記憶は捏造する」「運命は不可避である」らしい。
私にとっては初のカズオ・イシグロであり、そのテーマ自体は感じはしたものの、作家の個性を強く感じることはほとんどなかった。
その作家の個性を感じるには、代表作とされるブッカー賞受賞作の『日の名残り』を読むほうが良いのだろうか?

「何のために生まれてきたのか」てのは根本的かつ不可避的で殆ど無意味なほどの問いであり、だれでも一生かかって、おそらく一生かかっても答えが出なさそうな、紀元前から今に至っても答えの出ないとてつもない問いである。
しかしながら、この物語に出てくる少年少女たちは生まれた瞬間からその難問に回答が与えられており、自分自身で問いを発する前に答えを知っている。さらに「とても他人から不可欠なほどに必要とされている」「他とは全く違う特別な選ばれた存在である」というおまけつきでだ。

勿論、はたから見ればその答えや理由はとてつもなくグロテスクで受け入れがたいけど、彼らはそれに反発するでもなく従順に受け入れている。
そんな運命を黙って受け入れる彼らの感覚はおおよそ理解しがたいような気もするけど、特別な選ばれた存在であり、人類史上から続く難問の答えを知り、自分が存在する事自体が他人にとって意味があると、まるで救世主か預言者を例えるような言葉を自分の形容とされれば、以外に受け入れやすいものなのかもしれない。

それほどまでに「何のために生まれてきたのか」という問いは問い続ける事自体が苦しい。
子供のためであるとか恋人のためであるとか仕事のためであるとかは勿論、9の交響曲と16の弦楽四重奏と32のピアノソナタを書くために生まれて来た。といったような意味を自分の中に持っている人間がとても強いように見えるのは当然かもしれない。

2007年04月13日

●男前は軍縮を

職場の爽やか過ぎて眩し過ぎる某氏(男)がいつぞや、濃紺のブルージーンズに洗剤のCM並みに白い無地の長T、そして黒の2つボタンのジャケットといういでたちをしているのを目撃してカッと頭に血が上った事があった。
もう卑怯すぎると言うか、ゴルゴ13にレミントンM700、弘法にエクスカリバーな勢いである。
並みの腐女子が迂闊に見れば網膜が焼け切れ、良く訓練された腐女子でも、ポケモンフラッシュを見たちびっ子並みに倒れてしまうだろう。

もう頼むから基本戦闘力の高いモビルスーツはせめて通常兵器で戦ってくれよと。
シャアの操縦するS2機関内臓のエヴァンゲリオンは素手で十分強いやろうと。
右手にポジトロンライフル、左手にロンギヌスの槍まで持って誰の首取るつもりやと。世界を腐海に変えるつもりかと。
悪くてボール、良くて緑の旧ザクでハンマーしかも持たずに日々戦う我々の身になってみろと。

で、唯でさえ力のある強国が核武装すると、どれだけ回りの弱小国家が脅威に思うかが身を持って良くわかった。

2007年04月12日

●でも、花よりネタ

仕事後に傭兵仲間と円山公園で桜を見る。
狂い咲きとは良く言ったもので、染井吉野の咲き具合と散り具合の中にいると本当に狂ってしまいそうであるというかもう狂ってる?

かの有名な枝垂桜はちょうど満開であった。こういう風にちゃんと見に行ったのなんか本当に何年ぶりだろう。

桜を見ても、あたりの人間が携帯でパシャパシャやってる中「ほー」と見上げるしかせんのに、丘の上の東屋にあった「野宿禁止」の看板をPHSのカメラで取ろうとして、暗くて写らないのを本気で残念がっている私は、やっぱり人としてどうなのかと自分でも思った。

歩きながら色々と色々な事を喋り、しょうもないこだわりとかあほらしい構えがとろけてゆく。なんだか元気付けられてとても嬉しかった。

2007年04月11日

●FF的大人考

このくらいの年になると「子供っぽい」という言葉は使っても「大人っぽい」という言葉を使う機会なんか殆どない。。
そういうわけで久々に聞いた「大人っぽい」と言う言葉は逆に新鮮だった。
しかし、私くらいの年代が「大人っぽい」となると、それは「年相応」を指すのではないか?

「大人っぽい」とは逆から言えば「大人ではない」という事である。
この年代で大人ではないのはどちらかと言うとダメなんじゃねえのと思うのだが、同年代の某氏に言わせれば我々の年代が大人っぽくなると「黒木瞳」になるらしい(女性の場合)。

とりあえずそれを聞いた段階では「ふ~ん」で話は終わっていたのだが、良く考えてみれば「黒木瞳」と同じ年代の人間からすれば「黒木瞳」は色々な意味で年相応ではないような気がするのだがどうだろう。

「大人」という言葉は人間のある段階までを指して使う言葉で、そこから先の上位概念はまた別の言葉を使うのではないかと思う。
我々の年代が「大人」であることは当たり前の事であって、「大人」はそこから先を目指すのではないかと。
カラマーゾフのゾシマ長老とか井伏鱒二を大人かそうでないかの次元で見たりせんもんね。

某ロールプレイングゲームの戦士系キャラクターで例えてみると、
「たまねぎ戦士」が子供であり、大人になるのはクラスチェンジして「ナイト」になることを意味する。
「たまねぎ戦士」から見て、「大人っぽい」とは「ナイトっぽい」ということである。
ゆえに「ナイト」になってしまうと、他のナイトに対して「ナイトっぽい」とは言わない。なぜならナイトはナイトそのものであるからである。
同様に「たまねぎ戦士」に対して「あいつ子供っぽいな」や「あいつ若いな」と言うのも不当なのである。

で、戦士系たまねぎ剣士がすべからくナイトを目指していたのに引き換え、いったんナイトになってしまえば、そこから先は人それぞれである。
「パラディン」を目指すナイトがいれば、「竜騎士」やら「暗黒騎士」やら「魔剣士」を目指すナイトもいる。
ナイトとは自分のクラスの行く末を選ぶ最初の分かれ道であり、上位クラスの土台クラスでもある。

というわけで、上の例の「黒木瞳」は「ナイト」を土台として特定の方向に極めていった上位クラスの何物かであるように思うのだがどうだろう。
戦士系たまねぎ戦士にとってナイトは共通の目的たり得るけど、パラディンを目指すナイトにとって、竜騎士や暗黒騎士は目標でもなんでもないし、ジャンルが違うのである。

ただ、ナイトに対しては「あいつたまねぎ戦士っぽいな」と言うことはあるだろう。つまりはこれが子供っぽいという事である。
一旦ナイトにクラスチェンジしてしまうと、つまりはこの年代になってしまうと、欠点とされる部分の殆どが「幼さ」や「子供っぽさ」のワクに収まってしまうのは不思議といえば不思議である。

2007年04月10日

●120の瞳(多っ!)

毎年恒例となりつつある、入学したての新入生向けの「パソコンの基本的な使い方の説明」を一年ぶりに行ったわけやけど、プレゼンの中にネタを仕込んで笑わせようと言う魂胆で、パスワード変更とパスワードの例などで、「○ドン!良いパスワード、悪いパスワード、普通のパスワード」とやろうとしたのだが、絶対わからへんやん。相手は平成生まれやもんなぁorz
ということで諦めて「こんなパスワードは嫌だ」でお茶を濁しておいた。

これでも部分的にクスクスと笑いを取れていたので気持ちよかったのだが、一度は教室中がゆれるくらいにどっかーんと笑わせてみたいものである。
いやーしかし緊張した。

2007年04月09日

●シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』

amazon ASIN:4900833193 amazon ASIN:4900833207 この間の送別会で同僚の某氏がブロンテ姉妹大好きっ子だという事が判明し、中でも一番は『ジェーン・エア』との事なので、久しぶりに読んでみるかという事で読んでみた。
過去に一度読んだ事はあるけど、読み直すのはかれこれ15年以上ぶりになるかと思われる。

読んだのは、昨日返却に行った時にたまたま図書館にあった、発行所:京都修学社 発売元:英伝社 ブロンテ姉妹集4 翻訳 田中晏男 『ジェーン・エア』と結構マイナー(?)だと思われる版である。
ギャンブルと言えばギャンブルやけど、出版社も訳者もブロンテ姉妹集なるシリーズとか作ってそこまでブロンテ姉妹が好きなんか。という心意気を買った。
それに以前読んだのはベタに新潮文庫だったと思うので、まぁいいかという事で。

でも、まぁ、読むのが初めてなら新潮文庫のほうがいいかも知れんなぁと思った。原文を読んだ事無いけど、訳もちょっと硬いと言うか流暢でないような気がするし、解説も無いしね。

で、久しぶりに読んだ『ジェーン・エア』は素直に面白かった。殆どストーリーテリングの力とドライブ感だけで500ページ近い文庫本の上下巻、合わせて1000ページほどを1日で読破させるくらいやし。
少年ジャンプ的な「勇気と愛と希望」が満載であるにも拘らず、主人公のジェーンとお相手のロチェスターが美男美女ではなく並の容姿であるとされているところが読者の感情移入を存分に促し、熱狂的なファンを呼び込む一因であるだろう。

たしかに時代を超えた古典的な名作やというのが良くわかるし、古典的であるけど普遍的なテーマ、たとえば愛、勇気、知性、価値、美、醜、自立などなど子供から大人まで楽しめる要素が満載である。

しかし、そんな『ジェーン・エア』にも気になることが一つ。
女性の方から男性に愛を打ち明け、家庭教師が主人と結婚して一般的な社会通念からすでに逸脱してるはずやのに、なんでバーサの存在に拘るのか?好きどうしやったら最悪でも結婚という形式にこだわらんでもええやん?
いくら考えてもジェーンがロチェスターの下を去る訳が感情的にも論理的にも理解できんのはどうしたわけでしょ?

2007年04月08日

●ジョージ・エインズリー 山形 浩生 (訳) 『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』

amazon ASIN:4757160119 この本を読もうと思ったのは、本の内容が面白そうというのもあるけど、結局、訳者が山形浩生だからという事になるのだろう。
柴田元幸などと同じように、この人が訳したいと思うなら間違いないやろうというところか。

酒やタバコ、ギャンブルや浪費、はたまたダイエットや勉強の挫折など、目先の欲望にとらわれて結局は損をして後で後悔するのがわかっていても自滅的な行動を取ってしまう経験は誰にでもある。
そういった人間の行動や欲求を、双曲線的な傾きで目先の報酬は価値が増大し、遠い地点の報酬は価値が減少するという「双曲割引」なる概念で「価値」「財」「報酬」「欲求」をキーワードに「意志」をターゲットにして説明したものである。

著者は精神科の臨床医として働いているものの、上記のようにこの本の手法と語彙は経済学的なものが多い。
専門外と言えば専門外の手法を用いているけど、巻末の訳者の解説によれば、この「双曲割引関数」なる概念は一部の領域ではほぼ揺ぎ無いとみなされている確立された理論でもあるらしく、いい加減なものではないらしい。

神学から哲学から文学から経済学から心理学まで多種多様な引用が頻出し、「意志は器官として働くのではなく交渉状態である」「欲求そのものは財である」などなど結構刺激的な概念がぼんぼん出てきて圧倒されるものの、文章自体は結構読みにくいように感じた。
巻末の訳者の解説がとても丁寧で本全体の理解を促進させてくれたのがとてもありがたかった。

本来ならこの手の本の目指すところは「欲求」と「報酬」と「価値」の折り合いをつける場や交渉状態としての「意志」とはどのようなものでどのような働きをするのか。と言うのを説明するところにあるのやろうけど、この本はさらに進んでその意志が完全なコントロール状態に置かれてしまうと「欲求」が感じる「価値」と得られる「報酬」が減ってしまう、つまりは人間が完全な理性的な判断のみをする存在になってしまうと、な~んも楽しくなくなってしまう。というのをその「双曲割引関数」で説明してしまっている。
訳者も言っているけどこの何処までも突き進む大風呂敷度合に私も結構感心した。

自分の感覚や経験や欲求と照らし合わせて読んで行くと、自分の中の隠れていた部分がかなり明白になってくるような気がする。
自分の作った変なルールにとらわれて逆に動きが取れなくなって自分を追い詰めている事に気付いたりもする。
そして、欲望だけ、或いは理性だけの存在の行き着く先は「価値」が激減した「報酬」の期待値が限りなく低い地平であることも見えてくる。

理論整然と述べられた本であるけど、結構常識的というかヒューマニズム溢れる着地点になるのが笑けると言えば笑ける。真実が平凡であるのは当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。

昔から人間は「汝自身を知れ」「中庸」とか言ってたわけやけど、この本はその効能を細かく説明してみただけと言えなくもない。
結局、人間自身はその時代からほとんど進歩していないねんなぁ。というところか??

2007年04月07日

●J・M・クッツェー 『ダスクランド』

amazon ASIN:4883190293 ジョン・マックスウェル・クッツェーのデビュー作である『ダスクランド』を読了。
タイトルの意味は「薄暗い国」或いは「斜陽の国」というところだろう。

本の構成は綿密な計算と練りに練った構成を感じさせる二部構成になっている。
ベトナム戦争での架空の「神話作成部門」なるプロパガンダに関する部隊に所属する構成員を、主に彼の自意識のレベルで描いた物語が前半で描かれ、
後半では南アフリカの入植者の中でも特権的な自由市民がアフリカの奥地を旅してコイコイ人と出会う冒険談が描かれる。

前半部分のベトナムの話では直接的なベトナム戦が描かれるわけでもないけど「神話作成」にのめりこんでベトナム戦と関わった若者はある不幸に出会うわけであるし、後半でのアフリカ原住民と入植者の相容れない違いはどちらもが間違ったように見えないという割にどちらも不幸になってしまう。

タイトルの『ダクスランド』はちょっと見では列強諸国の文明国に目をつけられて亡国の憂き目に会いそうなベトナムや南アフリカの原住民を指しているようにも見えるけど、もう少し踏み込んで考えれば、このようにだれも幸せにならない不毛な行為を繰り返す世界自体を指しているとも見られるだろう。

職業的な作家がデビュー作を越える作品を書くのは難しいと言うくらいに、デビュー作は大事なものと捉えられているけど、クッツェーは『夷狄を待ちながら』『敵あるいはフォー 』など、未開人と文明人の避けられない対立を文明人の側から文明人として描く事が多いけど、この傾向はこのデビュー作の後半部分のテーマであり、『マイケル・K』『恥辱』に代表される「自我」やら「自意識」の問題は前半部分のテーマでもある。
そういう意味でこのデビュー作は作者の問題意識というか興味の方向性をはっきりと知らしめるものでもある。

個人的に興味があるのは「肥大した醜い自意識」とかの方である事もあり、主に彼の前半部分の文章で「おー、すげー」と率直に感心したり驚いたり舌を巻いたりする事が多かった。
ベトナムの神話作成部門の主人公がブルーカラー労働者に対して抱く感情「ぼくは彼らを心から尊敬する。だからそのお返しに ~中略~ 彼らに尊敬してもらいたい。」と言うところは知的な方向に自意識の重きを置く人間の痛々しさを何とも絶妙に表してる事だろうか。
そして、この本の出だし、
「ぼくの名前はユージン・ドーン。ぼくにはそれをそれをどうすることもできない。さあやるぞ。」
これほど読者の自意識と自己否定の感情を刺激して度肝を抜く出だしは中々あるまい。

2007年04月06日

●IT漁師、別世界を垣間見るの巻

今日も朝からバタバタと働く。
以前から話してみたかった人と結構まとまった話をした。
それぞれの道にはそれぞれのヴィジョンと目指すべき天上界がある。
身近にあっても、どちらかと言えば憧れの世界であった別業界の異世界の価値を垣間見て、やっぱりええ世界やぁ、と羨望の念を強くする。
そしてその世界の価値を良しとする、その世界の住人と個人的に話をしてとても楽しかった。ちょっとばっかし親密になれたと勝手に思っておこう。

出張作業の後、数個のスイッチングハブとタップからぶら下がる色とりどりのLANケーブルと電源ケーブルをまるで網のように背負って引きずりながら歩いていると、この格好ってパソコンの人つーよりはどっちかっつーと漁師やんと思う。
そのへんどうよ?と同僚の某レディに尋ねてみたら「うん、確かに漁師っぽくって似合ってる」との事でことのほか嬉しかった。

今日も明るいうちに仕事を終え、花見がてら遠回りして帰ってきた。
染井吉野のトンネルを自転車で走っていると、えもいわれぬ感覚が体に降りてくる。
自転車に日常的に乗り出し、「桜ポイント」を積極的に走るようになってから、春が欝の季節である度合が減ってきたように思う。

2007年04月05日

●ネゴシエーション

最近一日遅れの更新が続いており、これも次の日に書いている。
明るいうちに帰宅すると何故か罪悪感を感じるのだが、そんな必要は全くないと自分でも思うぞ。
と思いつつも薄暗い時間帯に後ろめたさを感じながら帰宅する。

久しぶりに久しぶりな人と久しぶりな話をする。まだリンクは切れてなくってネゴシエーションは保っている。と言う感じか?
お互いの距離が離れていない事を確認するかのような、良い感じの時間の過ぎ方だった。

早く帰ったので今日こそはと本読みに勤しむも気付けば意識を失って寝ていた。
なんと無様であろうかと思いつつも、なんと幸せで贅沢な時間の使い方であろうかとも思った。

2007年04月04日

●反省してみる

新年度ということで無駄にバタバタ。
帰るのが遅くなって本を読む時間が作れないのが残念ではあるけど、ワーカホリック体質というか、何かしらへの依存状態であることにへ依存する体質としてはこういう状況は望むところである。
しかしながらちょっと無茶をしすぎて色々な方に迷惑をかけた。

直接的に巻き込んだ人もいれば、私が帰るのが遅くなったばっかりに早く帰れなかった人もいる。迷惑のかけ方など多種多様である。
見る人見る人、同僚のほとんどはなんか疲れた顔をしているので、本当に気の毒なことをしたと反省である。

仕事帰りに雨だったが、濡れながら自転車を漕いでも全然寒くない。春なのか?と思った

2007年04月03日

●怖いゲーム

仕事が休みだったので昼に起きて、ネットでだらだらだらだら。
だらだら中にふと見つけた怖いと評判のゲームをやってみる。
その名も「愛と勇気とかしわもち

一見普通の落ちものゲーに見えるし絵柄も可愛らしい。なにこれどこが怖いん??とやっているとだんだん雲行きが怪しくなってくる。んんん?
そして…「ギャース!!」マジびびった。これは怖すぎる…

minikashiwa で、六時間もの間、廃人のように延々とかしわもちかしわもち…そして、685670と中々のスコアを叩き出して、ハッピーエンドを見ることが出来た。
しかし、ハッピーエンドで終わらなければこれほど後味の悪いゲームはないやろう。
あー怖かった。

テトリスやぷよぷよが好きな皆さん。ゲームが好きな皆さん。これはおもろいからお勧めである。

2007年04月02日

●一家に1枚

前日殆ど寝てないのでけっこうへろへろ。一瞬遅れて知覚が来る様なこのふらふら感は久しぶりだ。
そういえば高校生や大学生の頃、「私は昨日数時間しか寝てない」という事をなぜか自慢のような口調で言う人がいたが、その根拠が未だに良くわからん。
寝不足だから同情してくれ。という事なのだろうか?でもなぜ自慢気?

年度始めという事で比較的バタバタする。
ヘロヘロだろうがピヨピヨだろうが日常業務なので自然に頭と体が動いて動きが鈍る事はない。もう自動操縦で自動応戦するイージス艦のようなものだ。

一家に1枚 宇宙図 2007」が出たっつんでダウンロード。
PCで見るにはちょっとサイズが大きすぎて部分的にしか見えない。やっぱりA2とかで印刷せんとあかんかな。
しかし、どちらかと言うと世界を広げて行くというより、深く穴を掘るタイプの私であるから、外に対する広がりとして捉えられる宇宙に対しては、昔からそれほど関心がなかった。
そういうわけで「一家に1枚 宇宙図 2007」よりは「一家に1枚周期表」「一家に1枚ヒトゲノムマップ」の方が興味深いのであった。

2007年04月01日

●マリンスノー

昼くらいに起きて本を読み始めていたはずが、本を読んでいてちょっと気になった調べものをするためにネットをさまよっているうちに、ふと読み始めた「天下一無職会」をどっぷり肩まで浸かってを貪り読んでいる自分に気付く。

とてつもない負のパワーに圧倒されつつも、その後もダメ系サイト、ダメ系まとめサイトなどを転々とし、気分がどん底まで落ち込む。
これはヤヴァい。何よりも彼らの思考回路と感覚が手に取るようにわかるのがヤヴァい。
ああ、もう、マリンスノーが見えそうだ。

気がつくと空が明るい。このままでは翌日の仕事に差し障るということで、慌てて布団に潜り込むも、色々な事を考えすぎて眠れず、眠りに落ちたと思ったらもう朝になっていた。