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2007年03月31日

●海浅く空低い

昼前から出かけるっつんで早起きしてJ.M.クッツェーのデビュー作を読む。
んー久しぶりに読んだクッツェーは良い感じや。自意識の過剰っぷっりと卑屈さの混ざり具合が何ともいえん美味なブレンド。

昼前から出かけて、生まれて初めてのダーツを。
現在10あるうちの10でハマり中の某氏を絶対に負かしてやる。泣いたり笑ったり出来なくしてやる。と言うモチベーションがビギナーズラックを呼び込む。
久しぶりにビリヤードをして面白かった。余りにも久しぶりだったので殆どビギナーズラックのようにバンクショットが決まった。
遥か昔、まだ高校生の頃、殆ど生活の半分をビリヤードがを占めていたような時期があったのだが、その時のことを思い出してなんだかノスタルジックな気分になり、前向きなのか後ろ向きなのか良くわからない精神状態に移行し、激しいリバウンドを覚悟する。

人前で欝状態に簡単に移行してしまう人間を見た時に湧き上がる攻撃本能に似た感情がルサンチマンである事に気付く。
他人の気分を直接的に害して、鬱陶しがられたり嫌われたりする事を全く恐れずに、人の同情だけを頼みとして自分の弱さと感情を剥き出しにする、ある意味での勇気に嫉妬しているのだ。
そして、何かに依存していないと自分を保てない人間を見た時に感じる居心地の悪さも同様である。

なんだか前日あたりから、喪が開けたような不思議な感覚に包まれている。
しかし、底が見えたと同時に、とても低く感じる天井もまた見え始めたのはとても微妙な気分だ。

2007年03月30日

●池田 晶子 陸田 真志 『死と生きる―獄中哲学対話』

amazon ASIN:410400104X ちょうど一ヶ月ほど前に死去した池田晶子と、拘留中の死刑囚である陸田真志の往復書簡を集めた本である。
この本が出版されるに至った事の発端は池田晶子の著作を読んで感動した陸田真志が出版社に対して礼の手紙を書いた事に始まる。

体裁が陸田真志の文章を池田晶子が助言して導いていくような形になっているけど、メインは陸田真志の展開する思考になるのではないだろうか。
人を殺し金を奪い店を乗っ取って死刑判決を受けた人間が、自らの行為を悔いて振り返った上で哲学的な土俵の上で展開する、死、善、生、罪などのテーマはかなりヘビーである。
しかし、いわゆる一般的な犯罪者のお涙頂戴な懺悔手記とは全く趣は異なっている。

一番重きを置いて語られるテーマは「善く生きる」と「死について」という事になろうけど、これは読みようによっては激怒する人間が多いに違いない。おそらく、彼の立場の彼のような人間がそのような事を言うのは、一般的にはかなり「不敬」な事になるのやろう。
しかし、彼の真摯な姿勢からは真実を見ようと己の生命と存在の全てを賭けようとするものの迫力がひしひしと伝わってくるし、彼の手紙に対する池田晶子の返礼も容赦なく真剣で切り伏せるようで、読んでいて息詰まる緊張感に満ちていた。

昔、私が大学生の頃に「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが流行った事があったが、池田晶子はその問いを発した時点で殺してはいけないのを知っている。てな事を言っている。
その問い「なぜ人を殺してはいけないのか?」は「殺してはいけない」のを前提にその理由をたずねているだけであり、それに答える事が出来ないのが「人を殺すのは正しい」と言う結論を導くのではなく、「なぜ殺してはいけないのかは論理的には説明できない」という結論を導くだけである。
そして、理由は言えないにしろ、その論理を超えた次元で、「人を殺してはいけない」と先天的に知っている事こそが、人間の善性であるというと言うところがキモになるのだろう。
そしてその「人を殺してはいけない」という命題が、善性によってのみ導かれる論理性をもたないものであるがゆえに、人を説得する効果はなく、自分に対してのみしか働きかける事が出来ない。
だからこそそこで紀元前500年もの昔から叫ばれている「善く生きる」が必要となってくるのである、と言うところの論理がわかりやすかったと思うし、人を殺し、自分もまた死刑になろうとする人間がそういう事を語るのは重みがあるだろう。

池田晶子は語りを騙りと称して人の口を借りて自説を展開するのが得意だと良く述べていた。
そういう意味で、彼女の良く言っていたことである、死は恐怖ではないというところの言わんとすることは良くわかったし、論理を超えた認識であるとか、善の知覚であるとか。
そういったところが理解しやすかったのではないだろうか。

2007年03月29日

●「非」で規定される存在が「在る」こと

「ハッカー」ならびに「ハック」という言葉がある業界と業界の外では殆ど正反対の全く違う使われ方をしているのは有名な話である。

同様に「ソフィスト」と言う単語は古代ギリシャの職業的哲学者を指す用法が一般的であると私自身は思っていたけど、実際の所ソフィストはソクラテスにボロクソに批判された詭弁家の側面もあるわけで、人に対して「ソフィストのようだ」と言ってしまった後で、それが思いっきり失礼にあたってしまう言い草であった事に気付いた。

何も知らない人が言うのなら兎も角、哲学の基礎素養があると自称している人間の言うこっちゃ無いわな。
更には私は言葉を大事にしていると自称している人間でもあるにも拘らず、余りにも適当に言葉を使いすぎである。
もっとちゃんと物事を考えて言葉を選んで喋らんとあかんなぁと激しく反省したと同時に、自分の思う哲学の基礎素養が偽物かも知れないという疑いを強くした。

話は全く変わる。

以前から私は引きこもり、フリーター、ニートなどと呼ばれる方向での社会不適合者を自認する者の味方であると公言している。というか私自身がそういう傾向性を持つ人種であると考えている。
彼らに対して、彼らがそういう状態にある責任のすべては、そういう状態を選択した彼ら自身にあり、同情と理解は必要ない。という言い草を他人が行うのは絶対に受け入れられないのである。
また、立場の弱い被雇用者が不利な就業条件を受け入れて働かざるを得ない状況は、本人が納得して雇用契約している以上不満や苦痛に思うのは間違っている。とする見方も受け入れがたい。

論理としてはその通りだとしても、心情的に正義とか善とかシンパシーとか同情の段階で受け入れられないのである。
なによりも、そういう責めを行っているのは当事者自身であろうというのが良くわかるし、ただでさえ自分で自分を責めてるのに、それ以上に同じ事で他人に責められるのはちょっとしんどすぎるし可哀相過ぎる。

しかし、引きこもりやニートやフリーターは怠け者であると断じ、貧乏や底辺を余儀なくされている人間は環境や条件の悪いところで働くから悪いと断じる人間にとって、私のこういったどちらかと言うとウェットな見解は論理的には勿論、心情的にも全く理解できないものであるらしい。
そして、彼らにとって社会は、それを構成する個々の人間が変わることによって「変わる」ものではなく、外圧的な何らかの力によって「変える」ものであると認識されるらしい。「正しい必要悪」は形容矛盾とはならないらしい。

私の感じた所を言えば、富に始まる様々なものの不均一な分配が彼らを潤す限り、私たち弱き小さな人間が、彼らの側の人間に隷属せざるを得ない社会が変わることは殆どありえないだろう。
しかし、そんな彼らに対して敬意を払い、同情を注ぐのが我々の美点でもある。

甘すぎる?ルサンチマン?本当の苦しさを知らない?贅沢病?
大いに結構であるが、ルサンチマンだけは丁重にお返しする。

2007年03月28日

●布団で本で吹っ飛んだ問い

上司が蓄えていた髭を剃っていて、見ているだけで思わず顎に手が行くのを感じつつも、その行為の意味するところを考えるにつけ朝から胸が熱くなる。

前日に送別会から帰った後、直ぐに寝りゃぁ良いものをあれやこれやで結局寝たのが朝方だったので、今日はまぁまぁふらふら寝不足気味である。

まだ暗くなり切っていないうちに仕事を終え、あたりの薄明かりに後ろめたさを感じつつ家に帰り、激しく眠たく睡眠に魅力を感じつつも、激しく本を求める私がいる。
この場合、睡眠を求めるのは肉体であるのか精神であるのか。本を読むのを求めるのは精神であるのか肉体であるのか。
というのは究極的にどうでも良い問いに思える。

「我思う、ゆえに我あり」はそれらしく感じられても、精神と肉体を分けるととたんに話がややこしくなる事も沢山ある。
とりあえずこの場合に限っていえば、布団で本を読めばそんな問い自体が吹っ飛ぶのである。

2007年03月27日

●惑い多き春の日

前日に実稼動しだした構成や環境の威力を思い知って、「おーすげー。これは、よー出来てるわー」と感心すると共に感動する。
これの完成を彼岸から眺めていただけやけど、シンパシーだけは感じているので喜びと嬉しさもひとしおである。

この間一緒に卒業生を見送った某氏を、今度は私が見送る事になったのは目出度いばかりである。
何事も遅すぎるという事は無い。春という欝の季節を巡る良いニュースの最たるものである。
とにかくわっしょいわっしょい。

送別会で今まで殆ど話したことがなかった人と本について共鳴する波長で語り合う。世界は広い。こんな小さな世界でも色々な人間がいる。色々な人間がいるけど、その色々で同じカタチのものは殆ど無い。
珍しい人間は本当に珍しい。そしてその事に気付いた時に色々な事は大抵遅すぎるのである。

色々な人が色々な事を言う人を、私はどうしてもその「色々」だとは思えない。
その人と私の利害関係が皆無であるという事もあるやろうけど、個人と個人の関係性を条件判断の材料にするのが何がいけないのだ?
私にとって、私との関係性において好ましい部類に属する人が、他人にとっての他人の関係性の範囲で好ましく無いとしても、結局その人が判断されるのは私との関係性のレベルである。
そして大抵の場合相手が歪んで見えるのは、自分の目が歪んでいる場合が多い。他人の歪んでいる可能性がある視点と自分の確実に歪んだ視点なら、自分の歪んだ視点の方がまだ良い。
もっと自分の感性とものの見方を信じた方が良いと思った。もっと自分の感覚器官と判断機関を信じてやれよと。

最近忙しくて殆ど喋る機会のなかった人と喋る。知らない間に大きな環境の変化を報告され、その重みにとてもとても激しく動揺する。明らかに言外に含まれるであろうと拡大解釈したくなる意味が大きく膨らむ。
混乱、迷い、希求が一気に押し寄せてくる。その人にとって外面的にはお悔やみするべきはずである事であるけど、驚きと共に肯定的な言葉を思わず口にしてしまう。不意打ちで思い止まる暇もなかった。
そして、それは口にするべき言葉ではなかった。
とっさに反応して薬室に弾を送り込んで撃ち返しそうになる自分を抑えつつも、ちょっとした流れに飛び込みたくなる自分を感じる。
とにかく私には相応しくないのだ。それだけははっきりしているし、既に結論も出ている。彼岸は彼岸であるべきなのだ。
彼方と此方を感情だけで連結するのは良い事ではあるはずがない。

何かについて遅すぎるという事は決して無いのを感じた日であるし、色々な事はもうすでに遅すぎると感じた日でもあった。自分の感情を信じようと思った日であるし、自分の感情だけに従ってはいけないと思った日でもあった。
そのどれもが正しいし、どれもが間違っているとも言える、惑い多き春の日であった。

2007年03月26日

●急斜面

前日、追い詰められるところまで追い詰められて、逃げ道さえないような悲惨としかいえない状態になったように見えたものの、次の日来てみると前線はかなり回復していた。
ワーカーホリックIT戦士たちの「時間までには何とかしてしまう」心意気と戦闘力に心底恐れ入ったし、ちょっとした感動すら覚えた。

彼らの戦いを前線の遥か後ろから眺め、ちょっとした残党処理だけをしたくらいだけど、とても勉強になったしとても考えさせられた。
そう、「等しく価値がない」と「等しく価値がある」は同じ事実を指しているのだ。

家に帰ってゆっくりと本を読む。
等しく価値のない世界で、等しく価値のある世界でもある中の、唯一の至福の瞬間である。
本を読みながら、揺れ動く心を感じながら、自分を自分でない何物かに明け渡す離脱感に身をゆだねる。
等しく価値がない生活であるが、等しく価値がある生活でもある。こんな日がいつまで続くのだろうか。
しかし、本当にこれと同じ生活が永遠に繰り返されるとしたら喜んで受け入れよう。よしもう一度。
遥か遠く、遥か彼方の高みに向かって書こうと思った。

2007年03月25日

●週の真ん中日曜日

今日も引き続き出勤だったにも拘らず、仕事前に図書館へ寄る時間があったのでやっとこさ本を受け取れたのだが、殆ど敵前逃亡や戦場放棄のごとく逃げるように帰ったのが日付が変わる頃だったので、優雅に本を読む時間などなかった。

『重力の虹』を図書館に丁寧に突き返し、ちょっとした開放感と惨敗間の入り混じった感覚を味わいつつも、借りてきた本の装丁を見て満足しておく。どいつもこいつも面白そうだニヤニヤ。

最前線で戦った訳では全くないのだが、それでもなんだか良くわからん疲れ方をして帰って来て、風呂に入りながら明日からまた新しい一週間が始まると思うとなんだか気の遠くなるような香ばしい感覚である。

この業界はなんと楽しい業界だろう。そう思った、週の真ん中の日曜日であった。

2007年03月24日

●流血沙汰癒し系

今日も出勤だったのだが、昼休み中に2分でオニギリを食べ、某シンポジウムでの某有名宗教学者の基調講演を聞きに行く。
最初壇上に上がってきた時はちょっと貧相な感じだったのだが、いったん喋りだすと堂々とした雰囲気に包まれてさすがやなぁと。
一時間ほどの講演を最後まで聴いた時点で昼休みはタイムアップ。
続いてのジャン先生が司会を勤めるパネル・ディスカッションも見たかったのだが、仕事中という事で断念で残念。

図書館に行けなかったのは予想通りだとしても、仕事中にレールで中指の先をざっくり切ったのはいただけない。
結構深かったのでえらい勢いで血が出たが、余りにも切れ味が良すぎたので、いったん止血すれば直ぐに傷口はくっついたようだ。
ピアニストなら演奏家生命が危ぶまれるところだが、中途半端SEと中途半端プログラマを足して円周率で割ったくらいの私の場合は特に問題ない。
バンドエイドがあるくらいでキータイプに支障が出るくらいの勢いで打つ訳でなし。

しかし、久しぶりに血を見てるとなんだかほっこり落ち着いた。それに血の赤はとても綺麗だ。なんだかリスカ少女の気持ちが良くわかったような気がする。
などとアブナイ事を考えた土曜日であった。

2007年03月23日

●下に飛ぶ

今日は何物にも邪魔される事なく丸一日コード書き。
タバコを吸わなくなってニコチン補給のサイクルから脱し、簡単に数時間ぶっ通しでかなりの集中力を一つの事に向けられるようになっている。
一日中結構な集中力を保っていて、自分自身でも「おぉっ格好ええやん」とか「これは美しひ」というコードが書けて結構満足した。

今日こそは仕事帰りに図書館に寄るつもりで三十分前に仕事を切り上げようとしたものの、不測の事態で時間オーバー。
予想された事ではあったけど、昨日に引き続き、またしても仕事帰りに図書館の閉館時間に間に合わなかった。
昼にかなりの欝要素溢れる話を話を聞いたこともあり、色々な事の相乗効果で一気にダウナーなテンションに突入。
こうなったらこのダウナー系脳内麻薬を楽しむしかない。ということでネガティブ思考のループに全面的に身も体も任せる。

しかし、よくよく考えればこんなダウナー状態がすべからくバッドトリップという訳ではない。
妙に緩やかな時間の流れと、よくよく考えればアホらしいネガティブ思考はなんとなく笑いを誘うものであり、自分が望んで身を任せてみれば、そこは典型的な状態を楽しむ逆説的な負のテーマパークとなる。
この状態へのトリガーとなったのが「二日連続で図書館に行けなかった」ということであれば、馬鹿馬鹿しくもアホらしいお笑い要素も満開である。

自分が余りにも貧乏だったり、自分が余りにも不幸で逆に笑けてきたという話を聞くが、このダウナーへのトリップがその心意気の萌芽のようなものであって欲しいと願う夜であった。

2007年03月22日

●シュレーディンガーの土偶

蟻一匹逃がさぬ絨毯爆撃でなんとか仕事を片付けて、帰りに図書館に寄ったら閉館時間が過ぎていてがっくし。
単調で低空飛行で息絶え絶えの毎日から殆ど唯一の楽しみが奪われて何ともモチベーションが下がり、とぼとぼと自転車を漕ぐ。

別に誰かが悪いわけでもないのだが、あえて責任の所在を探すと自分が悪いくらいしか思いつかず、思考と感覚のループは負の方向へ核分裂のように加速する。
誰かのせいにしようとするのをやめればよかったと思うも時すでに遅し。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」

正の感情や負の感情やら中間的な感情やらをぶつける相手が自分しかいないというのは、やれやれのよれよれである。
こんな事くらいでダメージを食らってる自分もやれやれのよれよれであるが、エネルギー準位が低い状態にあるものは、外部からのほんの小さな力によって状態が大きく揺らぐものなのだ。

特に図書館で予約していた本を受け取る事ができなかったところで現実的なダメージがあるわけでもなく、予定していた事ができなかったという事実が気に食わないのであろう。
何も考えずにあるがままを受け入れていれば痛くも痒くもない状態のものを、内に内に向かってつきつめてゆく事でダメージが生まれてくるようなこの感覚は、自分を「見る」ことによって自分の状態が決定されてゆくような変な感覚だ。
自分がどういう状態にあるのか。というのを思い出した出来事であった。

2007年03月21日

●都筑卓司 『マックスウェルの悪魔』

amazon ASIN:4062573849 著者の都筑卓司は入門書やら啓蒙書を多く書いている統計力学の研究者であるけど、読めばわかるとおり話も文章も面白く上手でしかもわかりやすい。
この本は初版が1970年発行と結構古く、今では名著とかベストセラーとか古典のような扱いであるようだ。
ブルーバックスということで一応科学に関する本なのやけど、出だしのプロローグから長屋のバラックだの母ちゃんのいない父子だのと、プロレタリア文学のような場末の路地の風景の描写から始まって結構びっくりしたし、また文中に登場する挿話も6,70年代風でかなりノスタルジックでいい感じ。

メインテーマは、熱力学の第二法則、エントロピー増大則を分子や原子の運動やエネルギー準位といったミクロな視点から統計力学的に説明するところにある。
総じてこの本の例えや話は面白くてわかりやすく、終始楽しく読めた。しかも読みやすさと面白さだけでなく、エントロピー増大という題材が良かった。
量子論や生態学から人生訓やら道徳律などをひねり出してしまうような、「それってどうよ?」な人が結構多いしそういう話を聞くのは笑えて結構好きなのだが、この熱力学の第二法則やエントロピー増大則、世のすべての事物は複雑さを増して行く方向に不可逆に流れて行くといった話はそういった見地からも魅力たっぷりである。

熱力学の第一法則、つまりはエネルギー保存則が保たれた状態で、温度は熱いものから冷たいものに自然と移動するといった熱の拡散、或いは、二つのものを混ぜるのは簡単やけど、混ざったものを分けるのは大変というような、世の中にあるすべての事物は複雑さを増す方向へ自然に不可逆的な流れをして、逆にそれらと逆行するような動きをする事はかなりエネルギーの要る仕事である。
しかしながら、我々の住む世界は、水に落としたインクが自然に混ざるようなエントロピー増大の力だけでなく、その力と外部からの磁力や重力などの何らかの力が拮抗した微妙な状態であり、空気が上空に行くほど薄くて地上に近いほど濃くなったり、または合金の作成と言ったエントロピー増大側に反するけど我々にはとてもありがたい現象が起こる世界でもあるというところが前半で説明される。
普通では全く見ることが出来ず想像の範囲外にあるミクロの世界で起こっている出来事をマクロな我々の世界の出来事で説明する手腕は素晴らしい。

気体が満たされた中央に仕切りがある部屋で、早い分子が右、遅い分子が左に行く時だけいつも閉じている仕切りの穴を開けて、「仕事や運動」をすることなく右の部屋の温度を上げ、左の部屋の温度を下げて反エントロピーを作り出す存在が思考実験で考え出され、それがタイトルの「マックスウェルの悪魔」となったわけやけど、後半で述べられる複雑性の爆発としてのエントロピー増大が、宇宙や世界の終焉や人間社会の崩壊を招くであろうと言う予言、そしてそれを食い止めて救えるのが「マックスウェルの悪魔」であるという所はちょっと科学の入門書を超えて面白かった。

2007年03月20日

●「ながら」で獲得された時間はどこへ向かうか

昨日、忙しいのでコピーロボットがいれば便利と言うような事を書いて、コピーロボットがいたところで喧嘩になって余計に仕事は進まない。という結論に達した。

昨日の上記のアプローチは時間1で量が2の仕事をするのに、時間あたりの仕事量1の働き手を2つ使うというものであるけど、しかしながら、時間当たりの仕事量を2に増やせばコピーロボットがいる状態と同じになるわけで、同時に二つの仕事をすれば良いわけである。
ラーメンを食べながら週刊誌読んだり、ご飯食べなら新聞を読むのは決してお行儀がいいとは言えず、同様に大量のコンピューターを自動操縦でアップデートしながら別の仕事のコード書きをするのはけっしてエレガントな仕事の仕方であるとは言えまいが、なりふりかまわず時間を節約したいという事もあるのだ。

で、その結果、休日前日の余剰時間を早く仕事が終わるという形で獲得できるわけであるけど、しかしながらその時間を統計力学の入門書を読むのに使うよりは、ちゃんとした服を着てちゃんとした場所に出かけて、美味しいご飯やら心地いい音楽やらその他諸々の美しいものどもと過ごすのに使いたいと思うわけであるが、思うだけで実際に誰かを誘ってみる事も無く、何故かモチベーションが上がらないのは何らかの呪いのせいに違いないと思うのであった。

2007年03月19日

●RAID 0のドッペルゲンガー

良く考えると後十日で4月やんか。
なんとまぁ年度末年度始めという事でやる仕事が山ほどある。
まぁどちらかと言うと、やるべき事というよりは、やりたい事になるのだが。

絶対4月までに終わると仮定して、優先順位なんかつけんと順番に片付けていきたいところだが、ドツボった時の事を考えるとやっぱり優先順位をつけざるをえん。

子供の頃にパーマンに出てくるコピーロボットがあれば便利やと本気で思っていたけど、今更良く考えてみれば、

私:「俺コード書いてるし他の事任せるわ。」
コピー:「ええよ、俺コード書くし」
私:「いや、俺コード書きたいねん。他の事やってくれって」
コピー:「俺も書きたいつーねん、お前が他のやれって」
私:「いや、お前がやれ」
コピー:「お前がやれ」
私:「やかましい、機械のくせに」
コピー「やかましい、有機物のくせに」

って自分のやりたいことだけやろうとしてほかの事を押し付けあって喧嘩になるに違いない。
なんせ自分と同じ言動するわけやしね。

ということで、コピーロボットと押し問答して先に進まん位なら一人でやるほうがましだと思いつつも、別に同時に仕事しようとせんでも、片方が寝てる間に働いたり本読んだりして、交代する時に同期とって共有できればすごいやんかと。
結局子供じみたことを考えるのであった。

2007年03月18日

●ツンデレエントロピー増大の第二法則

このあいだブログで本の感想を書いた柏祐賢氏が亡くなったそうでお悔やみを。

昼は出かけたので、朝に少しと夜にまぁまぁ本を読む。
複雑系やらエントロピー系やらなる熱力学の本を風呂で半分のぼせながら読んでいるのは、身をもってエネルギー準位の人体実験をされているようでなんだか変な気分だ。

昨日は経済学、今日は統計力学やら熱力学と数式が出てくる本を読んでるとなんだか自分が賢くなったような錯覚に陥る。もちろん錯覚に陥るだけなのであるが、本当に賢くなれればいいなと願うのであった。
しかし、本を読むだけで賢くなれるなら何の苦労もいらない。
そんなのはひねればポンジュースやカシスソーダーやわらび餅が出てくる蛇口のようなものである。

とにかく、色々な本を読めば読むほど『重力の虹』が如何に読みにくい本であるかと言うのが良くわかる。と、また一つ賢くなり、折に触れて、読みにくいだのつまらんだの繰り返すこの本を、実は愛しているのかも知れないと自分のツンデレ属性に気付きまた一つ賢くなった。

2007年03月17日

●ポール クルーグマン 『クルーグマン教授の経済入門』 (訳 山形 浩生 )

amazon ASIN:4840200017 この間の某銀行レディとの会話と上司との対話でちょっと経済に興味を持ち始めたところで、やたらと評判の良い、しかも山形浩生がべた褒めして翻訳までしているこの本を読んでみることにした。

著者のポール・クルーグマンはその筋ではとてつもない著名人であり、スタンフォード、MIT、プリンストンの教授を歴任し、大統領経済諮問委、IMF、世銀、EC委員会のエコノミストを務める、ノーベル経済学賞確実との下馬評も高い、錚々たる経歴と実力を持つ、様々なジャンルに及ぶ経済学者である。
そんな彼が今からちょうど十年前の1997に経済学と経済の知識の殆ど無い一般読者の為に、マクロ経済学と当時の時点でのアメリカの経済について著したのがこの本である。

そして冒頭で述べたように、訳者が山形浩生である。
彼の桃尻口語翻訳に苦言を云々する人が多いけど、彼の訳が原文のトーンに近いらしいという事は度外視しても、ネット上のブログや草コラムに慣れた目には、彼の文章が大して馴れ馴れしいともふざけきっているとも思えなかった。
そしてなにより、原題は『The Age of Diminished Expectations』(期待しない世代)と、クルーグマンがある時点でのアメリカの世代を、彼らが経済に対して取る態度とかリアクションから評した言葉である。
このある国のある一時点のある集団を指す言葉であるこのタイトルを無視して、ある時代の具体的なモデルケースの一例として固定し、時代からの風化と陳腐化の勢いを削ぐ事である種の普遍性をもつ経済の入門書と位置づけしてしまったのは訳者の功績だろうし、この本が日本でもよく売れたのはこの戦略ににあったのだろう。

たしかにネット上でもどこでもすこぶる評判が良い、文庫本が発売されるくらいの勢いであるくらいで、経済音痴というか経済文盲と言っていいような私でも良くわかった。(ような気になった)

巷に溢れるビジネス本の類に目を通したりするのを、まだこっそりエロ本を読む方がましなくらいの浅ましい恥ずべき行為であるように思い、経済学を金勘定と金儲けについての学問として下品なものであるかように思っている、上品な(を自認する)人が私の周りは結構いる。(当然私もそういう傾向は大いにある)
しかしながら、そういった上品な(を自認する)人達であればあるほど「知」の領域のレベルで下品な部分に首を突っ込むのには意外なほど寛容だったりするわけで、これは結構面白い現象というか習性ではないか?と私は常々思っている。
乱暴に言ってしまえば、ドメスティックバイオレンスやオタクや少女売春の当事者であることは恥ずべき事であっても、それらの研究者である事は恥ずべき事ではないという論理ですな。

その論理から言えば、たとえ金勘定とか金儲けがどちらかといえば下品である部類に属する事であると仮定しても、それらを研究する事は下品ではない。という事に当然なるはず。
別にそういう言い訳をしなくても、読む人はビジネス本も経済本も文芸書もじゃんじゃん読むのだが、やっぱり経済学や経済は私には関係ないし興味もないという人は、少なくとも私の周りには多い。

そういう人にとってこの本は、前者のビジネス本の話は別にして、少なくとも経済学が何について考えているのか、そして当たり前やけど中々わかりにくい、経済とか金儲けは大事やなぁという感覚やとか、経済学もなかなか真面目で真摯な学問やなぁという事が良く判ると思うし、基本的な経済の動きとか、概念とかを理解させてくれると思う。

例えば、経済が発展するとはどういう事か。インフレと失業率、財政赤字と貿易赤字の関係、またそれらが上がったり増えたりする事の何が悪いのか。などなど。
しかし、この本の良いところは、経済がどういうものかというのを理論として理解しようとするの方向にあるのではなく、国全体や国民のいる社会が経済的にがどういう動き方をするのかが実感として理解できるとこにあるように思った。

もちろんそれが「判ったつもり」のレベルに留まっている段階の理解なのかもしれないけど、それはそれで直接的な投機的利益に生かしたり結びつけたりは出来なさそうだという部分で学問的な理解でもあるともいえる。

そしてなによりもこういう人達が見えないところでつむぎ車を回して、国と自国の経済を守るために色々がんばっているのだなぁと変に感心したのが一番大きいのかもしれない。

参考:
YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page

Wikipedia : ポール・クルーグマン

2007年03月16日

●卒業した君へ / 戦え欝と戦うな

卒業式ということで仕事は休みだったが、朝早く起床して昼までコードを書く。
早い目の昼食を取って友人と卒業する面々を見送りに職場へ行った。
この場所でのこの繋がりをもつこの世代の最後の生き残りである我々である。
今まで彼と何人の卒業生を見送ってきた事だろうか。後になればなるほど、見送ってくれる人が少なくなるなと、ふと思う。

自分が卒業した時の事を思い出し、あの時と比べて自分がどれほど進歩したのだろうと思う。
あの時持っていなかったものを今持っているけど、あの時持っていたものはすでに無い。人生なかなか皮肉なものである。
殆どのものは流れ去った。流れ去らなかったものでも殆どのものは原形をとどめないくらいに変わってしまった。
それでも、変わらないものも確かにある。ゼロではない、でも虚数であるというオチでもない。
それは実数として、観測や測定できるものとしてそこにある。

卒業した皆様、特にここをいつも見てくださっている皆様。謹んでお祝い申し上げます。
この卒業があなたにとって良いものになる事を願っています。

この年まで何とかこういう生き様を潜り抜けてきて、何とか死なずに生き残っている状態である私が、前途洋々たる諸氏に向かって特にはなむけるべき言葉はなく、ただこういう風になるなよ。としか言えないのが残念ではある。

どのようにすればこのようになってしまうのかは、このブログを読めば良くわかる。
このブログに書いてあるような事を考え、行い、実践すれば、あるいはそういう願望を持って進んでゆくとこういう風になるわけである。
それははたから見るよりも暗くて狭くて痛くて寒い道でもある。はたから見るとそうは見えないどころか楽しそうに見えてしまうだけである。しかし、楽しそうに見せるのも芸の一つである。
くれぐれも、諸氏がこのような袋小路的人生に迷い込んでしまわない事を願っている。

この袋小路的人生を爆走する私から言わせれば、人生とは絶え間なき欝との戦いである。勝てる見込みのない戦を日々戦い続ける日常である。
殆どの場合、金、地位、名誉のあるなしよりも、欝のあるなしが主観的人生の殆どの部分を決する。
人が金、地位、名誉を求めるのはそれらがある種の欝を緩和してくれるからではないか?とすら私は思っている。

しかしながら、三十数年間欝と戦い続けてきた私に言わせれば、欝に勝つ事は不可能である。
この先何十年戦い続けたところで勝利の瞬間は訪れないであろう。
つまり欝とは戦う相手ではない、脅威ではありながらも外交努力によってなんとかバランスを保って付き合ってゆくしかない相手ではないかと思う。
欝とは一気に侵略して制圧したり、ミサイルを撃ち込んで機能停止させたりする事は不可能な相手である。どんな攻撃も確実に数倍になって帰ってくる。最悪の場合その反撃で人命すら失われる。
欝とは冷戦時代のNATOとWTOのように、ずっと隣人として付き合ってゆかざるを得ない隣国なのである。

しかしながら、逆説的ではあるけど、欝と付き合うだけの人生だけでは味気なさ過ぎるのもまた事実である。
すべからく「何かとの戦い」は「何かを目指しての戦い」であるべきである。
諸君が戦ってまで勝ち取りたいと思う、人であれモノであれ状況でもありえる「何ものか」をこれからの人生で見つけることが出来るのを、草葉の陰から願うしだいである。

2007年03月15日

●人外魔境の巨神兵はバケモノか!?

外部の会社の人と、ミーティングというか会議というか、話し合いというか意思確認というか、とにかくそういうのが8時間続いてもフーンな私はドMに違いない。
国会の牛歩でももっと早くおわるやろうと思うが、揉めた訳でも押し問答になったわけでもなく、自分の人生と生活に関するあれやこれやもこれくらいにサクサク決まれば気持ちいいだろうなというくらいにサクサク進めてこれである。
一般企業の中でも飛びぬけて人間扱いされない業種であるこの業界のなかで、さらに人外魔境な会社といわれるところの戦闘員である彼らのなせる技だろう。
彼らの仕事に向ける鬼畜度合と職場全体に雰囲気として漂うモノとの温度差が余りにも激しすぎて面白い。
○○の○○はバケモノか!と伏字だらけでさっぱり意味がわからんが、そういう感じである。
一兵で見渡す限りの大地を荒野に変える、兵器と呼ばれるほどの巨神兵のような傭兵になりたいものである。

「掛け違えた感」をずっと抱きながら生きてきて、何かの拍子にふっと振り返ると今まで気付かなかったはずの「最初に掛け違えた瞬間」が見えることがある。
あの時ああなったお陰でこういうことになっているのかというのが一瞬にして理解できるわけやけど、当然ながらその時に戻ってやり直す事なんか出来ないわけで、今更感というかもどかしさというか焦燥感だけがひたすら募るという事になってやれやれである。

2007年03月14日

●πの日は白い

今日は3月14日ということで円周率のπ(パイ)の日らしく、あー目出度い目出度い円周率である。(謎
円周率は3.14159265...と無限に続く超越数であるってのは誰でも知ってるけど、考えてみれば、直径が1メートルの円を作ったら、その直径は円周率*1メートルの長さになっているわけで、その円周の正確な長さは超越数なのでπ(パイ)としか言えずに、書き記す事も測り切ることも出来ないってのは激しく違和感があるように思う。

現実として超越数である円周率の数を直径1の円の直径の長さとして見る事が出来ても、それを理解できない。
この円の直径は1です。とは言えても、この円周の長さはπ(パイ)です。としか言えんわけである。

普段我々は1000円を3人で分けるとかいった場合に2人が333円で1人だけ334円といったふうに対処して循環小数を回避するような、割り切れる世界を作りながら住んでいるわけやけど、実際、無理数は有理数よりも多いわけである。というか世の中の殆どが無理数で出来ている。

昔、高校の数学の時間に、1が 0.999...と無限に続く少数でもある、といった、整数が循環小数の和であるという禅問答のごとき証明の式を見せられて愕然としたのを今でも思い出す。

いかに我々が限定された世界に住んでいるか、いかに理解しやすいものだけを便宜的に理解して生きているかというのが良くわかる。
世の中割り切れることなんか殆ど無いのが当たり前である。
我々の周りには想像もできない世界が遥か彼方まで広がっているのである。
と言えば、何らかの慰めになるかもしれない。

そういう意味で、3月14日は如何に自分が限定された世界にしか住んでおらず、外の世界が広いかというのを知らしめるために制定された白い日に違いないと思うのであった。

2007年03月13日

●めんこい、車輪がついてない

考え出すとキリがないこと、いくら考えても無駄な事、この二つは似て非なるモノであるけれど、当事者にとっては殆ど区別のつかないモノでもある。
どちらも無限ループやら堂々巡りに陥っている点では全く違いはないとも言えるけど、キリがないところにキリをつけ、無駄に見えることを無駄に終わらせない着地地点を見出すのが精進であると思う。

着陸地点ということで思い出したけど、この日、飛行機が胴体着陸してその模様が中継されていたらしく、(現在3月14日)そんな事は全然知らずに次の日にその事を知るわけである。
しかし、皆そんなのを大層な事のようにいうけど、私の場合は毎日が胴体着陸みたいなもんやで。
とい言いたいところであるが、良く考えれば私が飛行機であるなら、そもそものはじめから着陸用の車輪など余計なものはついていないに違いないと思った。

昔、某レディが「なーんもすることがないから、10時くらいに寝るねん」と言っていて、なんとめんこい奴やねんこいつは。と、とろけそうになった事があったのだが、最近私もこの域に達してきて、たしかに何もする事がないので10時くらいに寝ることがある。
しかし、だからといってめんこくなったわけでは決してないのはご存知の通りであり、直前の胴体着陸の文章とあわせるとなんと自虐的な文章になるのかと、いたく感心した。

2007年03月12日

●ソフト苦行ライト

この日図書館に予約した本が届いていたけど、仕事帰りに行きそびれて15日までお預け。うむぅ。
しょうがないので『重力の虹』を読む。まるで苦行のようだ。
苦行のようではあっても、何処へもたどり着けないのが残念なところであるが、それでも生きる事の困難さに比べれば、この本を読む程度の事など何ということはない。
火山の火口に住むバクテリアやマリアナ海溝に住むヨコエビが苦行しているようには見えないのと同じようなものであり、頭を空っぽにしてしまうとロクな事が沸いて来ないので、常に何かしらを注ぎ込む必要があるのだ。

前日、電気をつけっぱなしで寝てしまい、ほとんど寝た気がせず一日寝不足気味だった。
そういうわけでこの日は早く寝た。

2007年03月11日

●「ラリホー」の書

もうずいぶん前から、かれこれ二週間以上『重力の虹』を読んでいるけど上巻の半分も読めていない。
10数ページ読むたびに激しい眠気に襲われて気がつくと寝ている。というのをもう何回も繰り返しているせいでまったく先に進まないのである。

既にストーリーも殆ど忘れかけ。というか、この本にストーリーがあるのか?ストーリーを追う事に意味があるとはとても思えん。
文章を一文だけ取り出して読んでみるととても良い感じなのだが、それが何個も繋がって続いて行くと不思議な催眠効果を及ぼすようだ。話がどんどん脱線してゆき、気がつけば全く違う話になっている様は、カウチに寝そべって自由連想しているようでもある。

そういうわけで、この日も夕御飯後に『重力の虹』を読み始めてすぐに朝まで気を失っていた。
恐るべし『重力の虹』、不眠症の人にお勧めの本である。
もう二週間読んでみて、上巻を読み通せないようなら読むのを諦めよう。

2007年03月10日

●スローなだけにしてくれ

昼前に起床して、ブログを書いたりご飯を食べたり風呂に入ったりしたのちに図書館へ向かう。
上下巻で借りていた『重力の虹』の下巻を返却して上巻の延長手続きをした。
二週間かかって上巻すら通読できないとは何ともいえない屈辱であるが、英語圏でも最大級の小説であり「読めない小説」の代表格とあらばしょうがないと納得しておく。

返却されたばかりの本が置いてあるワゴンにターシャ・テューダーの庭の写真集がおいてあったのでふと読んでみる。
うぉーすげー確かに綺麗な庭ではあるけど…逆にこれはちょっと引いた。
「夢の王国」というレベルでは「ネズミの国」と同じライン上にあるけど、庶民には手が出ないというレベルではアルハンブラだのヴェルサイユだのの宮殿を建設するのと同じであろう。
今時のこの世の中で「自然のままに」とか「自然と一体になって」とかいうのはとてつもない贅沢を表す言葉になっている。
こういった類の本をして癒し系という枠にあてはめてしまう事になるのやろうけど、こういった所に住んでいる本人は、この状態を維持するのに癒される暇が無いほどに忙しいやろうし、こういう本とかをはたから見てあまりに癒されてしまうとか言う人間は現実に帰ってくるのが辛いだけだろう。
彼女は絵本作家であるけど、その本業以外のところで変にブレイクして本人もちょっと当惑しているに違いない。

家に帰って、部屋を音楽で一杯にして『重力の虹』を読む。
前日の夜に、某氏からの「最近何してるの?」に対する質問に対する答えとして説明され、「え~っ"~そんなんあかんよ~」と言わしめたような、癒し系でもなんでもないスローなだけの休日であった。

2007年03月09日

●串串串

五人でLANケーブルを拭いている時に、車輪の発明やサルが芋を洗うといった文化革命や文明の進歩の瞬間を目の当たりに経験した。自己の存在を揺るがすかごときの大発明であった。

仕事後に食べ会の為に街に繰り出す。中学時代からの友人が勤めている会社の店の前を通り過ぎ、奴のことを考えていると信号待ちでその彼に肩を叩かれてびっくりする。人生満更捨てたものではない。変わらない事がここにある。

いつもの友人たちといつものように騒ぐ。変わらないいつもの風景。変わらない事が善である場合の具体例である。
そんな喧騒の中、傭兵仲間の近況をちょびっとだけ聞く。聞いていればいつもどうしてわざわざそんな宜しくないものばかり選ぶのかと思わざるを得ない。自分の価値を求めずにはいられない人間は不幸である。「私は欝である」と表現することができず、いつも明るく社交的に振舞う人間は果てしなく不幸である。
どんどん追い詰められる様を見るのは何とも辛いものである。「一定の集団の中における幸福の和は一定である」という言葉が頭に浮かぶ。
変わらない事が悪である場合もまたあるのである。

経験的に言って、大抵の場合「自分は優れた人間である」とか「自分には価値がある」という大きな勘違いから、結末は千差万別にしろ殆どの不幸と破滅は生まれる。
数多くの宗教が「自らの卑小さの認識」を強調するのは、直接的に人生役立つアドバイスとしての意味としても受け取れる。

しかしながら死なずにいるために、自分を肯定して生き残るために、それは一番簡単で陥りやすい平素な道でもある。
抱える地獄の形は人それぞれでも、自分を焼き尽くそうとする地獄の火の勢いが人それぞれでも、地獄を抱えない人間などいない。

当然、愛するべきものと愛するべき事だけが人生と世界と自分に満ち溢れているのかといえば否というしかない。
愛するべきものは確かにある。しかしそれは余りにも少ない。
その愛すべき一つのために、その他憎むべき数多くのものの存在が必要なのだとしたら、そんなものは最初からいらない。
某ニーチェーさんの言うように、生きる事を愛するように見える人は、生きる事に慣れたのではなく、愛する事に慣れているからのように、私にも見える。

食べ会後、冷たい風を切って家に向かってゆっくり自転車を走らせる。
参加者各々の背負う十字架と、歩んでいるゴルゴタの丘への道行きと、その内に煮えたぎる地獄に思いを馳せて祝福を贈る。
自分が卑小であり無価値であるところから来る価値付けの原理が激しく求められると、楽しい楽しい食べ会の後、自転車のペダルを回しながら思った。

2007年03月08日

●「カジュアル捏造」と「情報操作」

良く勘違いされるようなので但し書き程度に書いておくと、私はブログに何か何までホンマの事を書いているわけではない。

何かを一つの事をきっかけにある事無い事、無い事ある事を適当に喋り散らしているだけで、真実の度合としては「カジュアル捏造」ぐらいのレベルであると思っていただけるとありがたい。
面白みの無いところに面白みを注入しようと勤め、毒まみれの事物の毒気を抜き、一グラムの金を疊一疊に広げるといった具合である。

当然、火のないところに煙は立たない。というレベルで完全な捏造ではないけど、このブログの場合はマッチ売りの少女の擦ったマッチがユトランド半島を丸ごと焼き尽くしたというくらいの嘘大げさ紛らわしいが含まれているわけである。

こんなブログにでもいったん文章にして書いてしまえば、ある意味での情報発信のダークサイドである情報操作ももれなくついて来るわけで、暗黒面が色んな所に染み込んで少なからず周りに影響が出てしまい、土偶…恐ろしい子!!となってしまう。
で、なるべくそういうリスクを避けようということで、最初から当方の発信する情報に信憑性が殆ど無いといっておくのも情報操作の一つである。あれ?

2007年03月07日

●銀行レディ大いに語る

平日休みという事で金融機関とか役所関係とか平日昼間にしか空いていない所を自転車で色々と巡る。
時々行く銀行で、いわゆるきっちりした窓口トークでなく、京都弁でまったり喋るとても感じのよい窓口レディが覚えていてくれて何とも嬉しかった。

んで、しばらくお待ちください。ということになって窓口の前に座ってそのレディがさくさく働く様を眺めていたのだが、いつの間にか銀行員というよりはアパレルの人のようなパンツスーツの着こなしをした、また別のカコイイ銀行レディが奥から「定期預金いかがっすか?投資信託いかがっすか?金融商品いかがっすか?」って感じでやってきた。
そのレディは私の隣に座って資産運用についてしばらく話してもいいか?ってことをと満面の笑みで問うてくるので、猫の額で雀の涙を資産と呼んでバカにしてるのかこいつは?この美しき残酷な悪魔めエロイムエッサイム(違)とカッとなりそうになるものの、何とか抑えて、どうせ暇だし、美しきことは素晴らしきかな。ということで話を聞いてみることにした。

非現実的な凡庸人を自認する私のことであるから、投資だの国債だの株だのには全く関心が無いわけであるが、定期預金でも余りにもアホらしい利息であるし、興味を持ってやるならまだしも、どうしても興味をもてそうにない国債だの株だのの金融商品もリスクがある時点でなんかイマイチ。濡れ手に粟保障ならいいけどそんなんありえんでしょ?
話を聞いてるぶんにはへーすごいねー、そう上手い事行くといいやねー、楽しそうではあるやねーと思うのだが、熱心に勧めてくれるけどどうしても興味がもてん。
どうせやるなら自分できっちりやりたいし、中途半端にんじゃお任せしますって程は信用できん。

自分の業種と傭兵的立場を考えるならその金を自分に投資すればもっとハイリターンであるに違いないと言い放ったものの、確かにそれもありかも、有望やけど資金がない人にチャンスを提供するのが投資なわけやから、れっきとしてちゃんとしたビジネスやもんと思った。
なんというか、いかにも切れ者な感じのあまり周りにいないタイプのレディーと喋って、自分が余りにも非現実的で商売っ気無しであるのを改めて痛感した。

まぁ一応はまた考えておきます。せっかくお話してくださったのでその気になったら指名して相談します。ってことで名刺だけを貰っておいたのだが、私としてはそんな金融商品よりもその金融商品なるものに興味を持つ銀行レディのあり方の方が遥かに興味深いわけで、なぜそういうことに興味を持ったのか?どういうところが面白いのか?昔からそういうことに興味を持っていたのか?小さい頃はどんな子供だったのか?など聞いてみると思いのほか熱心に誠実に答えてくれた。
向こうは向こうでこの業界のことを知りたがったので色々話して結構長く喋りこんでいたわけやけど、結局、彼女にとっては殆ど仕事に直接関係ない話だったし、世間知らずの非現実的凡庸チョイオヤジの生態を知る上では役に立ったかも知れんけど、仕事として直接的に得るものは殆どなかったはず。

奥から「何とか長」っぽいおっちゃんが妙に盛り上がってる我々をちらちら見てたし、そんなんは営業としてはありなのか?後から怒られへんのか?つか営業やろ?とちょっと心配になった。それで良かったのか?
まぁ、俺は楽しかったから良いのだが。

なんというか、仕事を自分の中で大きな割合を占める一部と捉えていて、仕事と非仕事という意味での公私の区別は殆ど無いけど、遊びと仕事の切り替えだけはきっちりしてるというバランス感覚に痺れた。
自分の仕事に誇りと自信を持っている人と話すのはとても良いものやし、それだけでも魅力的に見えるものやなと感じた日だった。
仕事が休みの日なのに。

2007年03月06日

●なんとなく、ファンダメンタル

言わずもがな、当然のことではあるけど、世の中は広い。
全く理解できない理由から全く理解できない言動をする人間に関して、一体何を知りえるのだろう。
それでも殆どの場合が「程度の差」で吸収されてしまう程度の個人性しか持ち得ない人間が殆どであるは幸なのか不幸なのか。

私か或いは私以外のどちらかしか正しくないと仮定される場合に、自分が正しいと思うことになんとエネルギーが必要とされることか。
毎日毎日これでよかったと自分を肯定するだけで疲れ果ててしまうのに、一体どこにたどり着けるというのだ?

世の中いたるところに落ち込みそうになる深遠が口を開いているし、いずれの場所とも深い溝で隔てられている。
普段我々が見ずに過ごしている様々な事をちゃんと見ようとすると何とも絶望的な気分になるだろう。

どこから来てどこへ行くのか?
本当のところは、何処からも来ていないし何処へも行かないのであろう。
ただあり続ける事に意味をつけるのはとてつもなく難しい。

2007年03月05日

●よ~しパパPHPでオブジェクト指向しちゃうぞ

現在、仕事で一人で開発中のものが何個かあるのだが、PHPやらなんやらのベタ書きで激しく見通しが悪い。
勢いでガリガリ書いてゆくのはいいにしても、コードが増殖してファイルも複数になり、関数も1ファイルにまとめきれず、「んも~~」となってくる。
私自身が思いつきでどんどん機能を追加するものだから、プロジェクト自体が巨大化して既に収集がつかなくなりそうな予感である。
今の時点でちょっと機能を修正するだけでちょっと大変になりつつあり、カスタムにカスタムを重ねて誰も触れなくなった大昔のメインフレームのような事になりつつある。

そういうなんをこわごわデバッグしながら修正するのは精神衛生上にも時間的にもよろしくない。精神と時間は創造的で有効な物に対して使いたい。
そこで、プロジェクト自体にとっても私自身にとっても将来的にプラスになればということで、思い切って私にとっては苦手意識というレベルで禁断の領域であるオブジェクト指向の考え方でざっくり書き直すことにした。

システム全体をUMLちっくにモデリングした後…
ムダに多い現在の機能をいるもんだけクラスごとに分類してメソッドにして…
んでもって、そいつらをMVCモデルにあてはめて再構築…
と先は長そうである…

が、今まで苦手意識のあったクラスだのメソッドだのプロパティだのオブジェクト指向な語彙への拒否反応が克服されれば願ったりかなったりであるし、現在の、なんですかそのブログのようで随筆のような仕様書は??ってのをUMLな仕様書で書き直したりするとかなりかっちょええはず。

そこで、よ~しパパ、エクリプスでコード書いちゃうぞ。というわけである。

しかし、しかしながら、オブジェクト指向で書くというのなら、わざわざ最初からPHPを選んで書かんでもええがな。という話でもあるわな。

2007年03月04日

●人形遣い

この日は暑いような陽気の中、ひたすら部屋に引きこもってソラリスと戯れる。
前日に布団に入らずに力尽きて寝てしまったせいかなんだか体がだるかった。

最近ちょっと落ち込み気味というか気分が良い状態とはとても言えない。
そういう状態で自サーバーのアクセスログを見るとなんだか人間不信になりそうである。
延々とftpに辞書攻撃してくるやつとか、手を変え品を変え不正中継のメールを送信させようと試みている奴が生IPなのは微笑ましい限りであるが、ブログのスパムコメントとスパムトラックバックが試みられる様を生ログで見るとなんだかなぁ。最近はボットの仕業と見受けられるのがちょくちょくあるけど、そこまでしてそこまでしたいのかと。

番号通知でいたずら電話しているような輩は可愛らしいものであるけど、人形遣いや死人遣いは見るに耐えん。
技術ではなく物量投入の量で勝負が決するような世界は美しくないと思ふ。

2007年03月03日

●夢三夜

私はもともと夢を余り見ない(覚えていない)タイプの人なのだが、なんだか最近良く夢を見る。
三日連続で変にリアルなんからそんなんありえんやろうというのまで盛りだくさんだ。
夢の機能やとか役割については昔からやいのやいの言われているが、最近では記憶の整理の段階で起こる現象だというのが有力らしく、そういう面から見れば、最近色々と夢を見るのは、色々な事をせっせと頭に詰め込んでいるがゆえに整理する情報や記憶が多いせいだといえない事もないかもしれない。

しかし、頭に詰め込んで、また詰め込みたい内容がわかりやすい形で夢に出てくれば、記憶の整理だと簡単に納得できるのだが、データベースも仮想フォントも擬人化ソラリスたんもまったく夢に出てこないのだが大丈夫なのだろうか?
フロイト的にもユング的にも解釈するまでも無く、余りにも直接的に願望を表しているとしか思えない夢ばかりなのだが大丈夫なのだろうか?
自分の見る夢を記憶の整理というラインで考えてみれば、しょうも無い事ばっかり覚えて大事な事は忘れようとしているようにしか思えないのだが、本当に大丈夫か俺??

見る夢自体は楽しいものばかりなのでドンと来いなのだが、余りにも楽しい夢ばかりなので本当にちゃんと役に立ってるのかいまいち信用できないのであった。

2007年03月02日

●プチプチデスマーチプチ

勝手に一人で「プチプチデスマーチプチ」も金曜日ということで中休みにはいる。
一人でやるっつーことは、私がわからんくなったり「うーん」となった時点で暗礁に乗り上げることになる。
乗り上げなくても良い暗礁に乗り上げたり、見えている暗礁に吸い寄せられるように突っ込んでいったり、暗礁を上手く避けたと思っていたら実はバミューダトライアングルのまっただ中にいて「うぇーん出られへんよー」ということは良くある事である。

とはいっても一人なもので気楽と言えば気楽であるし、暗礁だと思って困っていたら実はそこが新大陸だったりすることもあるので面白いものだ。

とりあえずこの日で移植作業自体はほぼ終了。
終了したのが「移植」なので、これからはバージョンアップ作業と言うことになる。
別に無理にバージョンをあげる必要はないのだが、同じようなことをする機能が複数のスクリプトの中に複数個あったり、増設したインターフェイスや機能に最適化されたコードに書き直したいのである。
必要性から生まれたバージョンアップと言うよりは美学的な要請によるバージョンアップというと格好良すぎ。

とは言ったものの、コンピューターの世界で美学的な完成度が高まる方向性というものは、速度が早くなりサイズや使用メモリが小さくなるといった現実的な利点がある方向性を志向するものでもある。
美しいコードというものは、すべからく早くて小さくて少ししか食わないコードでもあるのだ。

機能を考えて、実装すべくコードをガリガリ書くのは至福の時間ではあるけど、そればかりしていると、 インターフェイスを作ったり、全体の流れとシステムをデザインしたり、デバッグしたり、語法や関数や変数の仕様を統一したり、というのがおろそかになる。
特にインターフェイス、システムの顔であり、利用者が目にする一番インパクトが強い部分でもあるにも関わらず一番おろそかにしてしまう作業である。
「インターフェイスなんか飾りですよ。それがエラい人にはわからんのです。」とは言ってられない。

何から何まで一人でするのは辛いというのがよくわかる。
少なくともデバッグとインターフェイスのデザインだけは誰かに任せたい。出来ればシステム仕様のマネージメントも任せたい。

でもまぁ一人でやるのは楽しいし勉強になる。勉強になるし楽しいし給料までもらえて幸せである。
モノを作って、作った人も使う人も買う人も幸せになる。
コンピューターで作られるシステムとは言っても、そこには古来から変わらないモノ作りの精神があるのだ。

某毒舌紳士と小一時間データベースについて語り、DBMSで使用されるn-gramや日本語インデックスについての教えを請うた。
彼の作るシステムはいつ見ても凄い。
原理は何となくわかるけど、実装が全く思いつかないシステムばかりである。

私の不得意分野は彼の得意分野であり、彼の不得意分野は私の得意分野である。
彼と私が組んで、彼と私が一緒にシステムを作ればどんな事でも出来るし、どんなものでも作れるのではないだろうか。

2007年03月01日

●Sennaがちゃんと動いた@solaris10

この日は昼休み以外ほとんど誰とも喋らなかった。
以前にnetbsdに作ったシステムをSolarisに移植するべく、ひたすらソラリス君と戯れる。
前日にまともに動作しなかったsennaがちゃんと動くようになった。
インデックス作成の故であると推測される、レコードの追加に少々時間がかかるが、一度出来てしまえば日本語インデックスによる全文検索の効果は絶大である。
んもー like %ほげほげ% とか使ってる場合じゃないっすよ。

MYSQL5系でがコンパイルエラーとなっていたのはsolarisに入っているSSL関係のライブラリ臭いが、考えるのもややこしいので、バージョンをMySQL 4.1系にすることで回避。(逃げとも言う…)

動作確認するもちょっと動作が微妙、その「微妙」の原因はMYSQL、mecab、PHP、が文字コードにUTF-8を使うように設定したにもかかわらず、なぜかsennaだけデフォルトのEUCのままになっていただけの話。これに気づくのに数時間かかった。orz
平仮名と片仮名はちゃんとヒットするのに漢字がヒットせんのはそういうわけだったのね。
仮名はヒットするが漢字がヒットしにくい場合は文字コード関係の不整合の可能性が大である。

sennaを中心とした全文検索システムの構築に関しては「Senna 組み込み型全文検索エンジン」のページを見れば全てわかる。
インストール」の手順に従って操作してゆけば全く無問題。
と、私のように書いてある手順をちゃんと読まずに設定をすっぽかす人間がいうのも何だが…

当方の環境はsolaris10 11/06 32bit-X86の「開発者サポート」であるが、上記のページで必須とされているけどデフォルトでは入っていないautoconf(SFWaconf)、automake(SFWamake)、libtool(SFWltool)をCOMPANION CDから入れてやればちゃんと動いた。

ちなみに作業時のLDFLAGSの値は -L/usr/sfw/lib -L/usr/ccs/lib -L/opt/sfw/lib -L/usr/local/lib -L/usr/ucblib -R/usr/sfw/lib -R/usr/ccs/lib -R/usr/local/lib -R/opt/sfw/lib -R/usr/ucblib
LD_LIBRARY_PATHの値は/usr/local/lib:/usr/lib:/usr/ucblib:/usr/sfw/bin:/opt/sfw/lib: \ /usr/dt/lib:/usr/openwin/lib:/usr/xpeg4/lib:/lib:/usr/ccs/lib:

細かい話やけど、solarisのtelnetがUTF-8を通すようになっていて、 LANG=ja_JP.UTF-8などとしている時にviでもcatでもちゃんと日本語が使えてかなり良い感じ。
昔からそうやったか??