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2007年02月28日

●振り向けば

なんだか2月も終わりらしい。
2月が終わり3月が来る。そのうちに4月が来て5月が来て、気がつけば年が明けているのだろう。
この間まで25歳位だった気がするのだが気がつけば十年くらい過ぎていた。
次に気がつくとますます後戻りの聞かないところに挟まっているのだろう。

その割には時間が足りない。一日24時間では全然足りない。働く時間と本読む時間と睡眠時間が絶対的に不足している。

sennaでインデックスを作ってみたもののちゃんと動いていないような気がする。
Solaris10でUTF-8という環境が悪いのか?
せっかく苦労してコンパイルしたのにマッタクもう。

久しぶりにvmwareを使ってみたが、あまりの完成度の高さに驚いた。
昔はまともに動かなかったのに、技術の進歩は凄い。

とやたらと時間の流れるのが早く感じる2月であった。

2007年02月27日

●Senna雨

久しぶりに一日中solaris君と戯れる。昼ご飯もそこそこにひたすら戯れる。あな楽しや。
バージョン1になったばかりである組み込み型全文検索エンジンのSennaをなんとかねじ込んでやろうという魂胆だが、バイナリのコンパイルまでは通ったものの、MYSQL5.0.33にバインディングする時点でコンパイルエラーになる。
5系はダメなのか?ということで明日は4系最終のMySQL 4.1.22あたりで再挑戦なり。

ざざ降りじゃじゃ降りだだ降りの雨の中を自転車で帰宅。
最近は雨だからといって何とも思わなくなった。
あえて言えば、チェーンのオイルが流され、鉄のパーツが錆びやすくなるのが気になるくらいのものだ。
学生時代は電車にもかかわらず雨が降っただけで休みたいなぁと思ったものだが、人間変われば変わるものである。
もっとも、通勤中に自転車がパンクしただけで仕事休みたくなったりもするので、一概に進歩したとは言い切れない。
雨よりもパンクの方が怖くなっただけの話かもしれない。

2007年02月26日

●変態の反対はやっぱり変態

集中力保ったままの結構なテンションでミーティング6時間ってのは、良く考えれば無茶である。
6時間といえば大抵の日の睡眠時間よりも長く、一日の定時とされる仕事量の75%であるけど、毎日がデスマーチな人にとっては大した時間ではないのかも。
でっかいシステムの仕様を決める時には、関係者一同を殆ど軟禁状態にして練り上がるまで帰さん。ってのはよく聞く話やしね。

なんつー世界に生きとるんやこの人達は。と思う瞬間である。
それを考えれば私なぞはぬるま湯にした葛根湯に浸かってカラマーゾフの兄弟読みながら弦楽四重奏聴きながら働いてるようなもんやね。

「全部決めるまでは終わらんぞ」という心意気と「明日以降でも良いので今日やっちゃいましょう」という発想は素晴らしい。
なんというか、とても勉強になった。

2007年02月25日

●『重力の虹』の重力

金曜日の夜に9時10時というレベルの早寝をして、次の日の土曜の朝、眼が覚めたのが心底残念になるほどの夢を見ていたことに気付く。これほどまでに眼が覚めたことを後悔したのは久しぶりだ。

起きてから昼過ぎまでに犬の本を一冊読み、感想をブログにアップしていよいよトマス ピンチョン『重力の虹』に取り掛かる。
6ポイントくらいの小さい文字の上下2段組の500ページあまりの2巻構成。ドンキホーテよりは短いやろうけど、これは凄い量だ…
いざ読み始めるものの、これはしんどい。本を読むのは快楽であるだけでなく、苦行の一つでもあるという事を思い知らせてくれる。
と、ちょっと待て。俺は楽しみのために本を読んでいるのではないのか?

読むたびに意味がぽろぽろと脳のしわの間をこぼれ落ち、言葉の渦の中で溺れそうになり、ふわふわした眠気に包まれて気が遠くなる。
これがこの分量続くのかと思うと何ともにんともかんとも。ニンニン。

「トマス ピンチョンに通常の読書術は通用しない。言葉の意味を理解しようとするのではなく、意味を捨てて、言葉を知覚して感じるのだ」などと格闘系少年漫画やセカイ系ロボットアニメにありがちな台詞を自分に言い聞かせながら読み進むも気がつけばぐっすりと寝ていた。

昼日中に目覚めて「あぁ、これは全部読めないかも…」と久しぶりに本相手に怖気づいた。
夜再び『重力の虹』にまみえるも、またしても10時11時のレベルで惰眠の世界に引き擦り込まれて気を失う。

そして日曜日。
早朝に目覚め、昼ごろまで再び『重力の虹』と不毛な戦い。
昼過ぎたので四条まで散歩に出かけるか出かけんかどうしたもんか。特に欲しいもんも見たいもんもないし微妙に天気もわるそうやし、25日やし天神さんにしておくかどうしたもんか。
とうだうだしているうちに夕方。
外出は諦めて再び『重力の虹』に向かう。

なんと幸せな週末であろうか、しかし、また別の見方をすればなんと不毛な週末であろうか。
それ以前にこんな個人的な事をこんな場所に書く事の不可解さと無意味さはどうだろう?俺は世界に対して、他人に対して、親愛なる人々に対して、一体何を知らしめたいのだ?

これら全ては『重力の虹』の難解さや退屈さに対しての修飾語句であるとしておこう。『重力の虹』は週末の全てを幸せにも不毛にも替えうる難解さと退屈さを持っているのであると。
うむ、上手くまとまった。

しかして一体このブログはなんなのであろうか?日記と愚痴と悪口と技術文書と読書感想文と自転車小話とブックレビューで構成されたカオスであろうか?
いずれにせよ、往来にすっぽんぽんになって大の字に寝転んで見せるのを自己表現とのたまい、人目の中での排泄行為をカタルシスと言い張るような輩にも、そんなブログにもしたくないと思う日曜の夜であった。

2007年02月24日

●ポール オースター 『ティンブクトゥ』

amazon ASIN:4105217119 ポール オースターの『ティンブクトゥ』を読了。
普通なら表紙を見た時点で絶対に読もうとは思わないけど、ポール・オースターと柴田元幸コンビ、あとネットでもそこそこ評判が良いようで読む事にした。
オリジナル版は1999年に、柴田元幸の手になる翻訳は2006年の9月に出版された。

内容は、はたから見ればただのホームレスに過ぎない放浪の詩人である主人に先立たれた犬が、犬の視点から世界を語り、殆ど意味を失った世界で新しい生き方を目指すというものやけど、動物が出てくるからといって「ほんわか系」ではなく、「世界の果て」という意味の原題『TIMBUKTU』が指し示すのが死後の世界である通りに、なかなかハードな物語である。
いや、見方によれば、ハードなのはラストシーンだけかもしれない。

『ミスター・ヴァーティゴ』で空を飛ぶ子供、『ティンブクトゥ』で人語を解する犬が主人公になり、子供も愛玩動物の主人公も私が好きな小説のタイプとは正反対であり、内向的で知的で限りなく暗い主人公はどこへ行った?という感もするけど、これはこれでおおありやなと思うようになった。まぁだからこそ読んでいるのだが。

それにずっと同じ地点に踏みとどまっている作家ってのもどうよ?というところもあるし、今まで読まなかった系統のものも読んでみるかというところもあるし、オースターが書いたので読んでみようという事もあった。

いきなり前半の前半の4ページで、主人ウィリーが死につつある事を確信している「ミスター・ボーンズ」が

迫り来る事態をミスター・ボーンズが恐れたのは、単に愛ゆえ、忠誠心ゆえではなかった。それは純粋に存在論的な恐怖だった。世界からウィリーを引き算してしまったら、おそらくは世界自体が存在をやめてしまうのだ。

という独白があって、ふむふむ、これがこの作品のテーマの一つになるのだろうと思っていたのだが、そこのところが掘り下げられるわけでもなく、ミスター・ボーンズがその存在論的な恐怖を克服するわけでもなく、そこだけは非常に残念であった。

2007年02月23日

●アン ファイン 『チューリップ・タッチ』

amazon ASIN:4566024008 YA本(ヤングアダルト)という十代の読者向けのジャンルがあるのを最近初めて知ったのだが、この『チューリップ・タッチ』はそのYA本でも、図書館の資料区分は「児童」となっているくらいの、どちらかというと児童書になるらしい。
作者が児童文学者ということで児童文学の枠に入れられたのではなく、最初から児童書として書かれた本のようである。

私は児童書を読む事はほとんどないけど、色々な本好きサイトで一般的な文芸書やら小説やらのレベルで褒められていたのが目に付き、さらに『チューリップ・タッチ』という芸術的なまでの素晴らしいタイトルが物凄く気に入ったので読んでみた。

内容は不幸な生い立ちの「チューリップ」という名前の嘘吐きで攻撃的で荒み切った問題児の少女と、彼女の「手下」のような形の友達になった少女の8歳から12歳までの話であり、この本の内容が若年層の犯罪とか児童虐待とかそれらしいテーマと結び付けられて、本国イギリスではちょっとした問題作になったらしく、ネットでもそういう文脈で感想や評を書く人が多かった。

悲惨な生い立ちで世界に対して絶望と怒りと悪意しか持っていない子供というレベルでは『悪童日記』と同じではあるけど、『悪童日記』のリュカとクラウスが大人たちを完全に翻弄しているのに引き換え、チューリップはどんどん自分を追い詰めながらも完全に大人の世界に飲み込まれており、そこが我々大人の読者が感じる「痛々しさ」の中心になっている。

当然酷い話ではあるし滅茶苦茶な話でもあるけど、しかしながらそういった真っ当な読み方はあえてせず、子供時代特有の打算的でない攻撃性や残虐性や破壊衝動が含む、ある種の美が表現されたものとして読んだ。

いくら少女チューリップが荒んでいるとはいえ、平気で人を殺して食べ物を奪うスラム街や内戦地域の子供たちの荒み方とは別種のものであるし、そこには形式としての洗練があり、人を傷つけるために絶妙のタイミングと言葉と態度と方法を選ぶ見事なまでのセンスは芸術的なまでの美しさがある。
大人のやる打算的な醜いものとは違って、子供の行うそれは純粋芸術ともいえるだろう。

チューリップの書いた自画像が先生たちを驚かせたりする描写があったけど、こういう反社会的な行動や悪意の成就に費やされるエネルギーと才能を上手く機能させてよさげな方向に向けると、たとえば音楽であるとか絵画であるとか、そういった芸術的と呼ばれる分野の生産性に一役買うのだなと思った。

大人たちが忌み嫌っているチューリップの根本的な欠点とされる悪魔的な部分は、裏を返せば他人とチューリップを隔てる特殊な才能や美点にもなりえるわけで、人間の長所と短所なんか表裏一体でどう使うか次第であると思うわけである。

ネットで見る限り誰も彼もチューリップが絶対悪でありえるか?環境のなせるわざであるか?とか前提としてチューリップを悪と断定しているように見えるけど、私はそれは輝くばかりの才能にしか見えない。そんな才能を無駄遣いせずに別の方向に向けさせるような方向こそ大人にできる事なのではないかと思うのだがどうだろう。

と、最後はまともな感想でしめてみた。

2007年02月22日

●ポール オースター『ミスター・ヴァーティゴ』

私のお気に入りの作家の一人であるポール オースターを久しぶりに読んだ。
彼の小説は『リヴァイアサン』を最後に読んでいなかったけど、この『ミスター・ヴァーティゴ』はその二年後の1994年に出版されていたらしい。
ストーリーを要約すると、1920年代後半、世を拗ねた不良少年の孤児ウォルトは、イェフーディ師匠と出会い「空を飛ぶ」修行を始めた。
波乱万丈の人生、色々な出会いと別れを老人となったウォルトが昔を振り返って語る。
という感じ。

柴田元幸の訳という時点で、彼が訳すに値すると判断したという事で外れであることはめったに無いだろうと言っていいと思う。
形式上は滅茶苦茶な荒くれ不良少年が愛を知り人間的に成長する、といった教養小説ということになり、小説の王道的な作りであるけど、空を飛ぶための修行という内容が入ってくるので読みようによれば限りなく怪しくもなるだろう。

なんとなくパウロ コエーリョ的なスピリチュアルなる雰囲気がするけど、彼よりは「欲望は満たされるために存在する」的な色合いが強かった。
言い換えれば人生の賛歌的なところがあり、これはポール オースターが年をとって丸くなったという事なのだろうか?

amazon ASIN:4102451099 私が彼の作品の中で一番好きなのは『最後の物たちの国で 』なのだが、この社会構造と価値観の土台の部分が無茶苦茶で狂った国の話は余りにも痛々しくはあるけどどこか幻想的であるのと比べて、この『ミスター・ヴァーティゴ』は理解できる社会と理解できる欲望で動く人たちの引き起こす滅茶苦茶な話は、その話に組み込まれた「空を飛ぶ」という事自体もリアリティーを感じるほどの現実感があった。

『最後の物たちの国で』の悲惨ではあるけどあまりの現実感の無さは物語自体の「救いの無さ」によるものなのかもしれない。
かなり昔に「絶望の世界」をあまりに面白くて一気に読んだ時に、凄いリアリティーがあるにも関わらずどこか現実感を感じなかったのだが、今思えば「絶望の世界」の話のどこにも救いが無かったからではないかとふと思った。

とはいっても、この『ミスター・ヴァーティゴ』は差別やら虐待やらリンチやらとエグくて無茶苦茶な話もあり、キレイ事だけでは全く無い。
二転三転するストーリーテリングと含蓄深い話は限りなく残酷ではあるけど、人生の肯定に満ちたお話であり、そこには当然救いは存在するという前提が流れていて心地よかった。

2007年02月21日

●フテ読みアルよ

今日はガテン系作業という事で私服で働く。
モニタを運びPCを運びと中々楽しかった。実際に物が移動するもんで成果なり結果なりがはっきりと出るのでわかりやすい。コンピューター相手にねじ伏せるのは技術力しかものを言わんので無理な事をいくら努力しても前に進まないようなことが多いけど、物を運ぶというのは働けば働くほど結果が出るので安心して働ける。

仕事帰りに図書館で本を受け取って帰宅後、ヤフオクで買った42Tのチェーンホイールをピスト君に取り付けてギア比が2.5から2.1となる。
早速試運転したが、いつも街中でロードに乗る時に使うギア比よりちょっと重いくらいと良い感じ。

何かあったりありそうになったりする度に「もっと色々な事を考えて言動せねばなるまい」と決心し、また何かあったりありそうになったりする度に「結局色々考えたところで言動したところでたいした違いはないや」と思う。
どっちかが正しくてどっちかが間違っているというわけでなく、どっちも正解でどっちも間違いなのだろう。
結局自分自身の想像力の無さとか考えの浅さとか、とにかく自分の至らなさが問題になってくるだけの話やね。
夕食後、フテ寝ならぬフテ読みということで黙々と本を読む。私の逃げ込む場所は今となってはここしかない。黙々、モクモク、モクモク。

古い友人からこのブログを読み始めたとメールが来て嬉しい。どんどん読んでくれたまへ。私は遠いところへ来てしまったアルよ。何もかもがすっかり変わってしまったのコトよ。

2007年02月20日

●ただ消え去るのみ

学生の頃は利用者として使い、働き始めてからも手塩をかけて面倒を見ていた愛着ありまくりのPC35台あまりがようやくにして入れ替えという運びになり、廃棄するって事で息の根を止めてきた。
HDDのすべてのセクタをゼロで上書きしてすべてのデーターを消去。正にタブラ・ラーサ。
生まれた時と同じ様な姿になって天寿を全うしたわけだ。

しかし、壊れて使用できなくなっていたはずの数台が奇跡的に起動したのには驚いた。最後の最期に根性で起動してブートフロッピを読み込む様にPCが高級品と呼ばれた最後の世代のPCの心意気を見た。

すべてのPCのすべてのディスクが消去され、すべてのCRTが青一色に染まる様は、WindowsNT系のシステム管理者なら発狂しそうな風景だ。
部屋全体が青に染まる、滅多に見られない、また二度と見たくないこの風景を自らの命と引き換えに見せてくれた旧世代のパソコンたちよありがとう。

2007年02月19日

●グループポリシーでWindowsXPクライアントのデスクトップに「マイコンピューター」と「マイドキュメント」を強制表示させる。

なんだかWindows事を書くのは久しぶりのような気がするが…
WindowsXPではデフォルトでデスクトップの「マイコンピューター」と「マイドキュメント」アイコンが非表示になっているけど、これをグループポリシーで表示できるように制御したい。
「アイコンを表示しない」なり「アイコンを表示するのを許可しない」ようにはできるのだが、どう頑張っても強制的に表示するよな設定項目は無いようだ。

ということで、該当するレジストリのキーを書き換える、グループポリシーのテンプレートファイル(admファイル?)を作った。

世のActiveDirectoryなシステム管理者で困っている方も沢山おられるであろうということで公開してみる。
Windows2000ServerとWindows2003serverで動作確認し、クライアントに反映されるのを確認しておりますが、レジストリベースのポリシーなので当然タトゥーイングが起こりますのでその旨ご注意ください。

使い方:
以下をXpDeskTP.admとして保存した後に「グループポリシーエディタ」なりなんなりで、「ユーザーの構成」→「管理用テンプレート」→「テンプレートの追加と削除」で読み込まれたし。

; XpDeskTP.adm 2007 2/19 http://dogu.no-ip.org/ ;XPのデスクトップの設定グループポリシー ; Ver 1.0 ;レジストリベースのポリシーです。ご使用は計画的に!!

CLASS USER
CATEGORY !!XpDesktopConfig

POLICY !!ShowMyComputer
KEYNAME "Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Explorer\HideDesktopIcons\NewStartPanel"
VALUENAME {20D04FE0-3AEA-1069-A2D8-08002B30309D}
VALUEON NUMERIC 0
VALUEOFF NUMERIC 1
PART !!ShowMyComputer_Help1 TEXT
END PART
PART !!ShowMyComputer_Help2 TEXT
END PART
PART !!ShowMyComputer_Help3 TEXT
END PART

EXPLAIN !!ShowMyComputer_Help

END POLICY

POLICY !!ShowMyDocument
KEYNAME "Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Explorer\HideDesktopIcons\NewStartPanel"
VALUENAME {450D8FBA-AD25-11D0-98A8-0800361B1103}
VALUEON NUMERIC 0
VALUEOFF NUMERIC 1
PART !!ShowMyDocument_Help1 TEXT
END PART
PART !!ShowMyDocument_Help2 TEXT
END PART
PART !!ShowMyDocument_Help3 TEXT
END PART

EXPLAIN !!ShowMyDocument_Help

END POLICY

END CATEGORY


[strings]

XpDesktopConfig="デスクトップ"


ShowMyComputer="デスクトップにマイコンピューターを表示"
ShowMyComputer_Help="HKEY_LOCAL_MACHINE\"Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Explorer\HideDesktopIcons\NewStartPanel\{20D04FE0-3AEA-1069-A2D8-08002B30309D}のDWORD値を\n「有効」なら0に、「無効」なら1に変更します。"
ShowMyComputer_Help1="「有効」を選択するとデスクトップに「マイコンピューター」アイコンが表示され"
ShowMyComputer_Help2="「無効」を選択するとデスクトップに「マイコンピューター」アイコンが表示されません"
ShowMyComputer_Help3="「未構成」を選択するとクライアントの設定が引き継がれます。"

ShowMyDocument="デスクトップにマイドキュメントを表示"
ShowMyDocument_Help="HKEY_LOCAL_MACHINE\"Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Explorer\HideDesktopIcons\NewStartPanel\{450D8FBA-AD25-11D0-98A8-0800361B1103}のDWORD値を\n「有効」なら0に、「無効」なら1に変更します。"
ShowMyDocument_Help1="「有効」を選択するとデスクトップに「マイドキュメント」アイコンが表示され"
ShowMyDocument_Help2="「無効」を選択するとデスクトップに「マイドキュメント」アイコンが表示されません"
ShowMyDocument_Help3="「未構成」を選択するとクライアントの設定が引き継がれます。"

はみ出てるけど…お気に召されるな…

2007年02月18日

●柏祐賢 『学問の道標―学究者におくる』

先日某レディがちょっと思いつめた顔で「大学の先生を目指すわけでもないのに修士や博士で必死で勉強している人たちが何をしたいのか何を目指しているのかが全く理解できない」と言ったのだが、今までちょくちょく研究室に来る学部生にそういうことを聞かれた事があったけど、そういう疑問自体に久しぶりに接したような気がして逆に新鮮やった。
「彼らのお陰で、知的な意味で世界が利益だけを価値としてては絶対進まん方向に進歩するのだ。」と判ったような判らんような事を答えておいたのだが、ちゃちゃっと大学出てちゃちゃっと就職して日々労働して生きている人たちから見た、彼らの行動の不可解性はまぁよく理解できる。
しかしながらホンマは彼らのようになりたかったけど諸事情でとにかく働かざるをえんかった私のことでもあるから、彼らの思いもよ~く理解できるのである。

そういうわけで(でもないけど)前から読もう読もうと思っていた、enzian様のトコのブログと、同氏が「哲学科教員ブログ」に投稿された同記事で紹介されていたこの本を読んだ。

著者は元京都産業大学の学長で京都大学名誉教授でもある農学の研究者ということでバイオテクノロジーなバリバリの理系な人ではなく、農学は農学でも社会科学系の農学、社会と農業の係わりについて研究した人なので、この本はどちらかというと文系寄りな雰囲気がある。
研究者を目指す人を対象に、その心構えについて書かれた本ではあるけど、研究者でなくともちゃんと真っ直ぐに人生や仕事を生きたいと願う人にとっても意義のある本であるといってしまっても、研究者ではない私の曲解ではないと思っている。

amazon ASIN:462440016X 一章で「学究者」としての人格的なあり方と心意気と何を学究すべきかを、二章で「科学」を自然科学、文化科学、実践科学の三つに分けた場合の科学的認識としての「研究」のとるべき態度、三章で認識する者と認識されるモノの係わり、全体的認識と部分的認識を包括するような「哲学的全体観」について述べられる。

氏は「学問研究」について述べているわけであるけど、学問研究が自らの人格やら人間としての水準やらを発達させる道でも媒体でもあるというくだりは、「学問研究」だけでなく仕事でも生きる事自体にでもそうあるべきだと思わずにはいられない。
成果や仕事量をすべて金に換算して評価されて価値付けされる世界に私は生きているわけでもあるけど、仕事として毎日何かしらの労働をこなし、労働とはまた別の何物かについて考え、深めてゆく過程が自らの人格と人間の水準を発達させる過程でもあって欲しいと願って止まない。

生きる事の目指すところが欲望の充足と追求であると公言するのが恥ずかしい事でも何でもない事になっている世の中で、自らの人格やら人間性を鍛える方向性を目指す欲求がある世界はなんとしても死守したいものである。

真面目に物事を見て、本気で何物かを知りたいと願い考え続ける人にとって、この本にある彼の言葉は良く心に響くやろうと思うし、またそうでない人にとってもそういった彼らが何を目指しているのかが理解できるかもしれない。

著者の言葉である

実在は、単に「在る」ものではなく、「作る」ものとの全一的統一体である

という主張を、価値のみにも無価値のみの世界にも落ち込まない、優しくもあり厳しくもあり、慰撫的でもあり鼓舞的でもある、良い感じのトーンで言えるのは素晴らしいと思った。

2007年02月17日

●ブリジッド オベール『カリブの鎮魂歌』

フランスの作家ブリジッド オベールの五作目の長編で1997年にオリジナルが発表された『カリブの鎮魂歌』を読了。
借りてきたその日の夜のうちに四分の三ほど読んで次の日の朝に残りを一気に読んだ。
以前に同じ作者の『マーチ博士の四人の息子』を読んでその感想をこのブログに書いたけど、それを某毒舌紳士が読んでくださっていたようで、ブリジッド オベールが好きだという彼に色々と教えてもらったのだが、彼が言うには、私の読んだ『マーチ博士の四人の息子』は一番面白くなく、一番いいのが『カリブの鎮魂歌』と言う事らしい。
んでは読んでみるかという事で一気に読んでしまったけど、毒舌紳士の某氏がこの著者の好ましい特徴として挙げていた「独特のユーモア感」がデビュー作の『マーチ博士の四人の息子』より色濃く出ていた。
確かに、某毒舌紳士の言う冗談に感じが似ている。例えば、こっそりつぶやく毒舌とか…

amazon ASIN:4151708057 今時はジャンル分けをする事自体が時代遅れとなった感もあるけど、著者のブリジッド・オベールはミステリー、サイコ・スリラー、サスペンス、スラップスティックホラーと作品ごとに色々なジャンルで小説を書く人であり、この小説はハードボイルドな私立探偵ものということになる。
麻薬、銃、殺人、マフィア、そして私立探偵と依頼人の美女ということでこのジャンルの王道を行ってるのかな?
内容は結構エグいというか痛い。異常性のある猟奇的殺人の話になるから当然としても、これはあかんやろって人物の指が飛ぶし、もう日常的にボコボコのボキボキ。なんじゃそれやりすぎやんというくらいに人が死にまくる。
血なまぐさくて暴力的やけど、なんというか不思議な品の良さが漂ってるような気がする。というてもマルキ・ド・サド的な上品さやけど。

なんというかこの作者がやるような、持っている知性とか知識とか美意識とかユーモアを中途半端な純文学としてではなく、エンタメ系の方向性で使おうとするのを見ているととても気分がよい。
まぁまぁ面白い佳作映画とか言われるのを見るくらいならこういう細かく気を使われた質の良いエンタメ本を読むほうがよっぽど良いやと思った。

2007年02月16日

●戦場にかける橋

土日挟んでも何やってたか忘れない程度に何とか仕事を片付けて、文字どおり飛ぶように図書館に駆け込む。
蛍の光が流れる閉店(館)作業中の中、借りていた本を返し、予約していた本を受け取る。
普通のお店のように図書館の人に「有難うございます。」と言われる度に違和感を感じるのだが、自分が給料を貰っている納税者に対しての「ありがとう」だと勝手に解釈しておく。
そうは言っても有難いのはどちらかというとこちらの方なので、図書館の人ではなく、税金を払いながらも図書館を利用しない人々に礼を言っておこう。
皆さんの税金のお陰で私はタダで本が読めるわけでありがたやありがたや。

私の後輩にあたる某氏が「給料分だけしか働かないようにします」てな事を言っていると人づてに聞いてとても悲しい。
その某氏と一緒に遊んだり話をしたり立ち振る舞いを見ているだけでいつも「おー立派やーええ奴やー」と感心しているのだが、俺なんかよりよっぽどまともな人間である彼がそういうだけに一層悲しいのである。

私も昔はそんな事を思ったりもしたし、その気持ちは良くわかるけど、結局「給料分だけしか働かない」ような考え方をしていると給料分の価値しかない人間になってしまう。
人脈であるとか、ノウハウであるとか、何かしら勉強になったり次に繋がる点を給料とは別にぶん取ってると考えれば良いのではないかな?と老婆心ながら言いたい。

若くて有望でええ奴が後ろ向きになっているのを見ると、若くも有望でもないどうしようもない人間としては「ああーこっちの黒くて暗ーい世界に来んなーって」と思うのであった。

2007年02月15日

●トマス ピンチョン『競売ナンバー49の叫び 』

某毒舌紳士をして「アメリカ文学の旗手のような言われ方をしている割に、限りなくつまらんかった」と言わしめた作者である。
そこまで言われるからにはぜひともこの作者の作品を何かを読もうと思ったまのではいいけど、ネットの評判を見るに確かに敷居が高そうだ。原色の幻視な視覚的サイケデリック肉体感覚な感じ?
で、このトマス・ピンチョンなる作家の作品で一番最初に読むものとして、正攻法では代表作的な扱いを受けている『重力の虹』を、もしくは試食的に短編集の『スローラーナー』を選択するところやけど、それをやるとと駄目らしい。
どっちも余りにトマス・ピンチョン的であり、かなり判り難いらしく、空きっ腹にいきなり原液でカルピスを飲むようなもんなんやろうね。
ということで、事前の情報収集の結果、最も一般向けというかストーリがーあるというレベルで小説の体を成していると言われる本作品、『競売ナンバー49の叫び』を読む事にした。
しかしながら、原液ではないものの、カルピスをヨーグルトで割った位の濃い作品であった…
この作品のストーリを説明するほど意味の無い事は無いやろうけど、昔付き合っていた男の遺産、高い価値を持つ収集用の切手を相続する事になった女性がその切手から地下社会社会の陰謀に巻き込まれてゆく?というストーリーなのだが、ストーリーを追って物語を楽しむという読み方はほぼ不可能であろう。

amazon ASIN:4480831290 このあたりは訳が悪いというよりは原文がそういう雰囲気なのだろうと推測されるけど、まず文章自体が読みにくい、一文がやたらと長いし、意味や語句がどこにかかっているのかがわかりづらく、リズムに乗ってストーリーをドライブしてゆく事は不可能である。
さらには言葉の使い方や比喩が特殊すぎて何が言いたいのかを意味として理解するのが難しく、感覚的な知覚に近い読み方をさせられる。
例えば、

-ドアに気がついた。入ると、柔らかい、エレガントな混沌だった。そこにいる一人一人の末端神経が剥き出しになっていて、その末端神経の小アンテナから放射されるものがあり、それが相互に干渉しているという印象だ。

という感じで、これは知覚を一般化無しに言葉にしたような印象を受ける。

こういうなんは一歩間違えばある種の精神疾患にありがちな表現になるゆえに、並みの人間なら一般化した折り合いをつけたレベルで表現しようとするのやろうけど、トマス・ピンチョンはこの作中でもあるように「幻想」を個人のアイデンティティーに近い位置においている。
何かを文章にするというのは個別的なものを一般化して理解しやすくするための方向性を持つものやけど、この作者の方向性は全く逆、特殊性を特殊性のままに表現するところにあるのではないか、作者の目指すところは作者自身の言葉を借りれば「精神に肉体を与える事。言葉なんてどうでもいい」というところではないのだろうか。

この作者の感性と同一化して、一緒に既存の何物かを解体し、一緒に不安であるとか幻視であるとかの同じ感覚を共有する。そういった読み方しかできない本、というか作者であろうと思った。

本自体は読みにくかったけど、この作者が疑いを持ち、解体しようとしているものは、一般性やら普遍性を持たせようとすることで逆に限界あるものとして自らを規定してしまった既存の文学の枠組みであり、この作者の新しく打ち立てようとしているものは、そんな既存の文学の限界を取り払ったスタイルであるように見える。

そこらあたりが、アメリカ文学の旗手なるゆえんであろうかと思った。

わけわからんし、ものすごくつまらんけど、激しく瞬く一点がある。
やり方は兎も角、この作者の破壊しようとするものと目指すところにも共感できる。
とにかくまた別の本を読んでみようと思った。

2007年02月14日

●風向きが変わる

今日は何とかデーという事で亡霊どもがまわりをウロウロ歩き回っており(もちろん比喩的な意味で…)そんなもの見たくも聞きたくも無いので、ヘッドフォンを被ってひたすらSUSKE-QUARTETTの演奏するルートヴィヒの後期弦楽四重奏を聞きまくる。
もうたまらんね。ああたまらん。ほんまにたまらん。マジたまらん。もうはんぱねぇたまらん。特に15番の第三楽章。
このニ長調の最初の一小節ほどの価値がある人間なんかどこに存在するのだ?

いくら世界がこれほど醜くてもこれほどまでに美しいものがあれば、世界にとってそれで十分とだ感じさせてくれるし、この音楽の価値に比べれば、私に属するすべてのものなど余りに些細過ぎる問題でしかないように感じる。
自分の価値の無さが心地よく感じられる稀有の音楽であり、少なくともベートーヴェンが一人でも偉大であれば世界にとってそれで十分でないのか?

某氏の頭の中で「右から左へ受け流す」がぐるぐる回っているように、頭の中で「大フーガ」の主題がカノンになってぐるぐる回っている。
私もノイローゼである。色々なものに起因する色々なものに対するノイローゼである。

今日になって色々な風向きが一気にがらっと変わった。
背中に風を受けた瞬間怖気づきそうになったくらいの風である。
大海へ漕ぎ出し大空へ飛び立つのに、この追い風を使わない手は無い。

結局最後には何とかする土偶に不可能は無いはず。タイタニック号やツェッペリン号や戦艦大和のように前進あるのみである。
失敗したところで沈没したり炎上するくらいのものだ。

モノを作った人がモノを欲しがっている人にそれを売って、買った人も売った人も作った人も幸せになる。
モノを売ったりサービスを提供したりといったビジネスであるとか商売であるとかは「狐と狸の化かし合い」でも「大農園主が小作人を搾取する」でも「チンピラが金持ちを強請る」でも「ダニが巨象に寄生する」でもなくって「みんなが幸せになる」が根本原理であるのを、当たり前ではあるけど忘れがちである。

これは私の社会経験の少なさに起因する事なのやろうけど、俺たちはこれだけお前を利用したんやから、お前も俺たちを利用しろ。という意思表示をする誠意というのはあまり接した事が無かった。
出来そうの無い事を言って期待を持たせたりせず、嫌われてもいいからきっぱりと言い切る誠意、自分の立場で出来る範囲で最大限に考えてくれ、自分が相手を利用した分は相手も自分を利用してくれという、なんというかクールな優しさも良いものだ。大人というのはこういう事を言うのかなと思う。
なんにせよ人との縁てのは有難いものである。ナムナム。

というところで、さぁ戦じゃ戦じゃ!!

2007年02月13日

●食わば皿まで

ちょっと毒を吐いてみると自分の事だと思う人が続出したり炎上の火種になるぞとか言われたりして、ああもう二度とブログで毒など吐くものかと決心する。

自分で言うのも何だが、私は手負いの野ウサギの様に臆病で、樹液に群がるカナブンの如くに逃げ腰な属性であるから、誰かに攻撃的に噛み付くなどあり得るわけが無い。
誰かに「コレ!」と怒られるとすぐにしゅんとして落ち込んでしまう性質なのである。

ゆえに、誰かがアンブッシュしているかもしれない茂みに電動ガンやガスガンでBB弾を撃ち込んだり、機嫌よく泳いでる魚の鰓蓋にチョッキ銛を突き刺したり、十時間もかけて自転車で琵琶湖を一周したり、読むかもしれない本人の悪口をブログに書くはずが無いのである。

しかしながら、どれだけ注意していても無人の野に向けて放ったはずの矢が誰に当たるかなんか本当に想像がつかん。思いも知らんところにマルチキャストしていくつものルーターを超えて、思いがけない場所に刺さってしまったようでとても反省している。
矢など撃つものではないが、いない筈の獲物をおびき寄せて、見えない筈の獲物のこめかみに見事に得物が刺さる手ごたえを感じるのは狩人冥利に尽きる、そんな気持ちわかるでしょ?

まぁとりあえず、気分を害した人に向かって謝っておこう。すいませんでした。

ああもう二度と毒など吐くものか。もう飛ぶまいぞこの蝶々。毒盛らば皿にまで!

というか、本当に適当に書き散らしているだけなので、真面目に取られても結構しんどい。
文責というもんが発生するのはわかるけど、出来れば話半分で聞き流しておいて欲しいなぁ。
というのが本音であり、希望でもある。

2007年02月12日

●星に願いを

昨日仕事後に一年以上ぶりくらいにカラオケに行ったのだが、密室の中で引っ切り無しに吸われるタバコの煙のせいでちょっとでも声を出したら咳き込んでとても歌なんか歌っている場合ではなかった。
一緒にいたタバコを吸わない某松氏にその事を言ったら「そうですよ、家帰ったら服がタバコ臭いですよ」と言われて果たしてその通り、タバコ臭いわ呼吸器系は痛むわと、二日続いた休日出勤の締めくくりとしては最高であり、もう二度と密室でタバコが吸われるような場に行くものかとお星様に誓う土偶であった。

不肖土偶は元喫煙者であるからして他人の喫煙には寛容な方であると自分でも思うし、ヒステリックで攻撃的な禁煙者に対して如何なものかと思うけれど、密室でのタバコは暴力以外の何物でもないことを認めるのはやぶさかでない。

こんなことはタバコを止めてから初めて気付いた事であるけど、いままで俺はこんな事をタバコを吸わない人に対してして来たのかと、火の点いた薪の上に座しつつ切腹してお詫びしたい気分になった。
意図せずして人を傷つける、とか言う甘ったるく生易しいものでは無いやねこれは。

やめて初めてわかる事、振り返って初めて見えるものが世の中には沢山ある。そこには想像力の及びもつかない地平が広く広がっているし、当然ながら汲みつくす事など不可能である。
今まで自分のして来た事、これから自分でするであろう事に思いを馳せて絶望するのはあまりに簡単だ。
しかしそれでも、そんな荒野を一歩一歩進んで行く事が、現実的にはゼロを積み重ねるような行為に過ぎないとしても、数学的にはゼロではないという部分において救いがある。
現実的にものを見るよりも、数学的にものを見ることで得られる救いがそこにはあるはずである。

昼からピスト君で出かけたが、求めても得られなかったもの、求めるには遅すぎるもの、今得られなけば一生得られないであろうもの、そういったものでのみ世界は構成されているように見えて、参ったねこりゃ。

2007年02月11日

●半端体dump態

この日も仕事。
勉強になった。激しく勉強になった。しかしそれと同時に自分の卑小さも大いに思い知った。
ただそれが努力や経験ではいかんともし難い部分に属する事が残念ではあるが。

三連休のうち二日働いたけど毎日休みなしでも無問題。私がいくらガレー船奴隷や綿摘み奴隷のように休みなしで働こうとも、悲しんだり文句を言ったり寂しがったりする嫁や子供や恋人がいるわけでもないし、私には仕事の時間を削ってまで過ごしたいと思う嫁や子供や恋人がいるわけでもない。

人間存在一般に共通する交換可能性や価値の希薄性の恐怖に引き換え、自分が一番判っている、これだけは私以外にあり得ない。という点が巨大なシステムの中に一点でもあることは、えも言われぬ充実感をもたらすものであり、この感覚が後々大きな罠となる事を判っていてもなお、求めて止まない感覚でもある。

人の言うところによると、私は色々な意味で後戻りの出来ない時期に差し掛かりつつあるらしい。
確かにあるものはもう二度と元には戻らない形に変容して駄目になっているのがわかるし、またあるものは今ならまだ間に合うかもしれないように思える。
しかし、だからといって、一体どこに踏み出せばいいのだ?

2007年02月10日

●酩酊ワーカホリックIT戦士達の群れ

この日も仕事に繰り出す。
徹夜は当然で2、30時間寝ないのは当たり前、仕事とはデスマーチであり、デスマーチが仕事であり、午後6時に帰るのは午後休、定時は日付が変わるくらい、のような感覚のワーカホリックな人たちはそれを楽しんで誇りにしなければ勤まらんのだなと彼らの話を聞いていて思った。
そういうなんは一般的な感覚からすればありえん話でズレまくってるどころの騒ぎやないけど、なんと楽しそうな世界なんだ。俺も混ぜてくれ。とも思った。

いずれにせよ、自分が何かから代替不可能な意味で激しく必要とされる感覚ってのは麻薬的なものであり、それに慣れてしまった人はそれ無しで暮らすのはとても苦痛なのだろう。と他人事のように言ってみる。

2007年02月09日

●文房具としてTexを使う日

最近ずっとTexを触っていたのだが、それはPDFを出力するシステムのためのブラックボックスの作成作業であるといえば、今時Texを扱う作業の意義としてある程度納得できるものではある。

しかしながら、仕事でちょっとしたプレゼンをする事になり、その資料を作るのにTexで書こうとするのは時代への逆行、或いは意固地と呼ばずになんと呼ぼうか。
パワーポイントやワードを使えばええやん。早いし簡単やし。と自分に突っ込みながらもひたすらTexで書く。

Texで書けば書くほど、表組みで苦労すればするほどWindowsってMicrosoft製品て便利やなぁと感心する。作成途中に視覚で認識できるものと実際の出来上がりの差の少なさによる想像力の消費量の少なさは、生産性を拡大し、疲労と手間を縮小させてくれるのである。
そのMicrosoft製品は文字と情報を扱う施設、会社や学校の様子を一変させただけでなく、広大な市場を生み出して膨大な需要と雇用をも発生させたわけで、そのお陰で私も職にありついているわけなのだが、確かにこれが社会のある側面に革命をもたらした意義は計り知れないのだろうと。
とそんな感心しをしながらTexを使う。

2007年02月08日

●ステータスどく

この話は特定の個人をさしているわけでは決して無く、あくまで誰にでも当てはまり得る一般的な話としての話である。

だから、「あー誰々の話やねー」というよりは「あーそういう人いるよねー」という感じで聞いていただきたい。

でもまぁ、どちらかというと毒を吐いていることになるのか。
と、前置きが長くなってしまった…

何かを聞くと答えの後に、ストⅡで立ち上がりに波動拳をあわせるかのように、「私には判断できない」という意味の事を必ず添えてくるような人がいる。
本人は控えめなつもりでそういっているのやろうけど、自分の逃げ道を作って責任を回避しているようにしか聞こえない。
みんな自分の責任で何かしらを賭けてやってるのに何で自分だけ逃げるかな。といつも思うのである。

そんな言動ばかりをしているから、その人は何をするにも上の立場の人間にお伺いを立て、何事も自分で判断したり意思決定できない上に、全てについて責任をひたすら回避するタイプの人間であるという見方が定着してしまい、その人に判断を伴う事を任せようという気に誰もならない。
ずっと一兵卒で、決して指揮官にはなれないタイプといえばわかりやすいか。

それはその人にとって明らかに損失なのやろうけど、あえて指摘して訂正なんかされたら面白くないので、これからもそのままで歩いて行って貰おう。

俺もそういう風に見られているところがなにかしらあるのだろうかと思うとゾッとするし変な不安に駆られる。
そういうわけで皆様、私に悪いところとか、これはあかんやろう。というところがあればどんどん指摘してやってください。お願いします。

2007年02月07日

●異次元へと続く長電話

昨日久しぶりに「長電話」なるものをした。
しばらく音信不通の間に、前向きかは後ろ向きかは別にして、かなり色々なものが進行しているのに驚かされる。
住む世界が違ってしまって数年、共通の世界の橋は焼け落ち、塔は崩れ、あちこちから名も知らぬ草が生え始め、そこはもう知らぬ世界にしか見えぬ。
若さが時間の流れに及ぼす影響はかくの如きかとしばし驚くと同時に、自分が一歩も進んでいないのに改めて溜息をつく。
本人はもうええ年やと思ってるけど、電話の相手は私からすれば若い人ではあるので、ほー若いもんは元気やのーって感じでお年寄りにでもなった気分だった。
色々な話をして、本当に既に過ぎ去ったものは多いとしみじみ感じた。

惜しみなく与える事は、惜しみなく捨てる事でもあると最近思うけど、若さゆえんのそういう属性は既に無い。板につかなかったと言うべきか。まぁ私の場合は最初からあったのかどうかすら怪しいけど。

2007年02月06日

●アンリミテッドアイロンの死によって死人使いが得た教訓

土偶家のアイロンが壊れて電源が入らなくなったので分解してみた。
温度調節は今時の製品なら温度センサーと電流や電圧が変わる回路でも使ってるのだろうけど、なんせコレは10年以上前の製品らしく、熱によって曲がり度合が違う二枚の板を張り合わせた金属の反り具合によって電源がON/OFFする機械式のサーモスタットで、ダイアルを回す量に応じてサーモスタットとの接点の距離が替わるといういたってわかりやすい方式。

わかりやすいのはいいのだが、いかんせん古いので、金属という金属が腐食しており、故障の原因は金属の腐食で張り合わせ式の板バネが曲がり、どのダイアル位置でも接点が接しない状態になっていたというもの。とりあえずこれをペンチで戻そうとしてみたところ、予想通り綺麗に折れた…
とりあえず電源だけは入るようにその板バネをその辺にある金属片を曲げて無理やり接点に触れるようにしたものに交換して電源を入れてみる。

とりあえず電源は入ったものの、サーモスタットが無い状態なのでどんどん温度が上がる。電源を切るにはコードを抜くしかない。
アイロンが炎上するか部品が焼けきれるまで温度は上りる続けるだろう…
お茶を飲みながらどんどんヒートアップしてゆくアイロンを眺める。
やがてプラスチックの溶ける嫌な臭いが…あわててプラスチックの取っ手を掴むと異様に熱い。しかも変に柔らかい。ヤバいのでとにかくコードを引き抜く。
んーこれは危険すぎる…こんなん使えん…つーかもう寿命や。まぁ、この際だから新しいのを買おう。
という事で我が家に十何年ぶり新しいアイロンが来る事になった。

しかし、予想される障害、つまり部品の脱落か欠損か変形によって電源が切れなくなるのではなく、電源が入らなくなるような設計ってのに素直に感心した。
なんにせよシステム設計思想ってのは深いなぁと、最後の最後で自らの体を焼き尽くすほどに燃え上がって天寿を全うしたアイロン君が身を持って教えてくれたような気がした。
生涯最高の高温に達したアイロン君がコードを抜かれた瞬間にその生涯を終えて徐々に冷たくなってゆく様は、まるで春の嵐に桜が散るようであり、線香花火が最後の瞬間にひときわ激しく燃え盛るかような、見事な死に様であった。

しかし、見方を変えれば、サーモスタットが壊れた時点でひっそり死んでいたアイロン君を無理やりよみがえらせて暴走させた私は典型的な死人使いと言う事も出来よう。
アイロン君は天寿を全うしたのではなく、ゾンビ化して暴走した果てに崩壊したのであるともまた言える。

見方によって事実などいくらでも変わり得るのを何度も経験しているし、実際にわかっているはずなのにいつまでも慣れる事が出来ない。というのがアイロン君の死によって得た今日の教訓であった。

2007年02月05日

●書は捨てないで街に出てみた

金曜日に連休なんか嬉しくも何とも無いとか書いたけど、好きな事だけに時間を使えるというのはやっぱり嬉しい。
天気も良かったので昼前からピスト君に跨って図書館に行って本を借り替え、その足で街に繰り出す。

ピストで街中を走り回っていると、ハンドル幅が狭くホイルベースが短く車重が軽いせいか意外に小回りが利く。さらにハンドルのドロップ部分に何もついてないので、ガードレールや冊にひょいっと引っ掛けられるのもかなり便利。
見た目にしてもフレームもステムもリムも薄くて細くて上品。ぶっといカーボンフレームで仰々しいディープリムにつきもののいかにもって感じの下品さが無くて良い感じ。
田園風景が似合いアップダウンに強いロードや、未舗装道路なマウンテンと違って、ピストは性能も見た目からも都会の乗り物やなというのがわかる。
それにトークリップはちゃんとした靴もで乗れるからやっぱり良いやね。ピストがオサレアイテムになっとるのも判るような気がする。

服屋や靴屋を巡り、文房具屋を巡り、カフェで図書館で借りた本を読み、本屋を巡り、LOFTを冷やかし、なんかこういう時間の過ごし方は久しぶりだ。我々の時代の健全な中高生が行ったデートのようだ。
平日で人も少ないせいで、店員さんもちゃんと相手をしてくれるし、モノも見やすく、人口密度の低い街は心地よい。
絵に描いたような「四条でブラブラ」っぷりであった。

2007年02月04日

●ブレーキのドミノ移植

昨日Campagnoloのcentaurグレードの2006年モデルのブレーキが届いたので早速ロードに取り付け、ロードから取り外された前輪のduraの初期デュアルピボットブレーキをピスト君に移植。
さらに余ったduraの後輪用と、ピストに取り付けていたの105グレードのシングルピボットブレーキを母のママチャリに移植しようとしたところタイヤ幅が太すぎて適合せず拒否反応が起こり、とりあえずブレーキシューだけdura-aceと105を移植し、ブレーキのゴムだけで定価で五千円オーバーな変なママチャリになった。
この見事なドミノ移植の結果、ロードも、ピスト君も、母ママチャリも「何コレ?」って言うくらいにブレーキが利くようになった。

シマノのコンポーネントは昔からdura、ultegra,105と独立したラインで作っていたらしいけど、カンパニョロは上位グレードの新モデルが出ると、旧モデルは下位グレードに金型を使いまわしてして採算を取り、新規開発はなるべく頂点のrecordのみというビジネスモデルを取っているらしい。
という事で、私の買った2006年モデルのcentaurは最後の肉抜なスケルトンでないアルミブレーキであると同時に2003年くらいのrecordと同じという事になるのだろうか。アームの描く曲線と表面処理はなんかもううっとりするほど美しいねぇ。

しかしながら最近のカンパは全グレード同時にモデルチェンジしたり、下位グレード専用の金型を作ったりと変化しつつあるらしく、どこの業界も一人勝ちしているトコ以外は大変やなぁと。

今日はトークリップつきのペダルに替え、エアロなロードのブレーキレバーをBMXチックなちっこいのに替え、サドルをロード用に替え、見た目は完璧な今風ピストになったピスト君に乗って四条に繰り出す。
やっぱり爪先を下げた状態でて引き足を使う癖がついているので、不意に足がすぽっと抜ける。フラットペダルよりはいいけど、慣れるまでもう少しかかりそうだ。

2007年02月03日

●岡田 暁生 『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』

寝る前にちょっと読みを繰り返す事数日で半分を、お風呂で半身浴しながら残り半分を読んだ。
著者は19~20世紀音楽が専門の、現在は京都大学人文科学研究所の助教授である。書いた論文のタイトルを見る限り、リヒャルト・シュトラウスやオペラが好きなようだ。

本のコンセプトとしては「まえがき」にあるように音楽の素養が全くない人でも平素に読み通すことの出来る、作曲家個人や個々の作品には深く立ち入らない、当時の時代と音楽のかかわりに重点を置いた「クラシック音楽」の通史という事になる。
時代で言えば中世のグレゴリオ聖歌からルネサンスを経てバロックへ、ウィーン古典派から啓蒙派に至り、ロマン派の19世紀から20世紀の現代音楽へと至る歴史なのだが、この本の一つの特徴として著者の個人的で主観的な見方で歴史を語る。という点である。
例えば、作曲される芸術音楽としての古典的な「クラシック」は20世紀にいたってモダンジャズがその役目を肩代わりし、いわゆるポピュラー音楽はロマン派の系譜を受け継いでいる。という部分は恐らく正当なクラシック音楽史ではないやろうけど、時代と音楽の対比という観点からの見方からすればなるほどというところである。

西洋音楽史の本といえば読むだけでも一苦労のかなり分厚いようなものか、特定の作曲家か特定の時代を中心に書かれた、それなりに気合をいれて勉強するつもりのような読者層をターゲットにした専門書のようなものをイメージするけど、新書ということもあって手軽に「通史」を駆け抜けられるこの本はお徳ではないだろうか。

amazon ASIN:4121018168 ジョヴァンニ・ガブリエリやアントニオ・ヴィヴァルディを聞けば、うんバロックって感じがするけど、音楽の父であるヨハン・セバスティアン・バッハがバロックを代表する作曲家と呼ばれるのに感じていた違和感は、「過剰な真珠」を意味するいわゆる「バロック」とは思えないバッハの渋地味さ所以であった。
しかしこれはバロックの中心となったフランス、イタリア、スペインのカトリック文化圏と、バッハの属するプロテスタント文化圏が全く違う性質を持っていた所以である、というところで非常に納得がいった。

土偶が好きなヨハネス・オケゲム、ジョスカン・デ・プレなどのルネサンスのフランドル楽派の楽曲、後期古典派からロマン派への兆しとなったのベートーヴェン。
最近好きになりつつあるバッハとモーツァルトのオペラ。
なんか統一性がないように思ってたけど、それなりに共通するところがあるなぁとこの本を読んで思った。

個人というものはその生きた時代を抜きには絶対に語れないし、時代精神は個人を通して象徴されるものでもある。
歴史の流れにある特定の時代精神を体現する特定の個人に特別な思い入れを抱くという事は、その時代精神に応じた何物かに思い入れを抱いている事でもあるし、そこで歴史を通して個人としての自分を考える事が出来る。
そんな感覚を音楽の歴史を通して呼び起こされたような気がした。

2007/2/21 トラックバック頂きましたので、こちらからも差し上げます。

2007年02月02日

●Don't来い自己批判

昼を半ば過ぎ、もうひと頑張りで定時というところで、次の日から4連休になっている事を知る。
もっと前から知っていれば、4日空けた方がいい仕事の仕方にもっていったやろうけど時すでに遅し。
中4日あけての出勤後に何をやっていたのか思い出すのに一苦労。という中途半端な状態にしておくのだけは避けたかったので、同時進行の幾つかの仕事をある程度の区切りまで「4日空いても大丈夫」程度に持って行くくらいしか出来なかった。

なんか最近ワーカーホリックな感覚が良くわかる。4日休めるからといって嬉しくも何とも無い。有給も一月半ほど休めるほど溜まっている。
同時進行プロジェクトどんと来い、デスマーチもどんと来い。凪の日々だけはDon't来い、な人なのだ。
サメのように常に泳いで鰓に水を通さないと酸素を取り込めないように、何かに熱中していないと自分を保てないのは困った性格だと最近思う。

いつも自分自身にがっかりやれやれする人生ではあるけど、この日も自分自身に反省点が非常に多かった。
仕事関係だけでなく対人関係でも「そりゃ無いやろう。」ということばかり。
こんな酷い土偶でも暖かく受け入れてくださる皆様がいるのはいくら感謝しても感謝しきれない。
と4連休を控えた金曜日であった。

2007年02月01日

●睦月物欲、如月マンモン

いつの間にかもう2月だ。何も無いまま終わった2006年の次に来た2007年の1月もまた何も無いままに終わり、2月も何も無いだろうことはほぼ間違いないだろう。
まぁその事に対して文句を言うつもりはないし、あえて文句を言うにしても自分自身に対してしか言えないのでやめておこう。

何かの代償欲求としか思えない激しい物欲が吹き荒れて、イタリアCampagnolo社の自転車用ブレーキの2006年モデルが2007年で大幅にモデルチェンジしたってので半額以下で叩き売りされているのを買い、新聞の折り込み広告を見てママチャリが同じ値段で買えるのに今更ながら驚く。

往々にして趣味というのはこのようなギャップや乖離を伴うものであるけど、価値とか妥当性などというものが相対的でしかありえないのをまざまざと見せ付けられて、世界は偏った志向と嗜好をもった怪物どもで溢れているようにしか見えず、それでは私もと、LAMYの四色ボールペンが欲しくてしょうがない。
がボールペンに1万円出すのもいかがなものか。まぁ中高生ならともかく、ええおっちゃんやから可かな?