≪ 2006年12月 | Top | 2007年02月 ≫

2007年01月31日

●「グローバル多次元配列」というとなんか強そうだ。

本日はphpとsqlの話。
興味のない人には全く役に立たず、役に立つ人には立つかもしれん程度の話である。

多次元配列をグローバール変数として扱う。forで回してDBのテーブルから多次元連想配列を作る。というのがお題。

大量の文字データーが入ったテーブルがあり、これを対照リストにしたがって変換して表示する機能を作るとする。
例えば、データーのテーブルに「はとまめむぎそら」や「むらそとむぎ」と入ってたとして、これを「はと、すずめ」や「むぎ、いね」の対照リストを通して「すずめまめいねそら」や「むらそといね」と表示するということである。
最初は対照リストをテーブルから読まずに、「はとまめむぎそら」が入った$strを

function mojihenkan($str){
$str = ereg_replace("むぎ","いね", $str);
$str = ereg_replace("はと","すずめ", $str);
return $str;
}

てな感じの関数に渡していたのだが、この対照リストを簡単に更新できるようにDB化してテーブルに入れたのだが、実際値を変換する際に、データーのテーブルがそれほど数が無い場合はselectしてレコードの1値ずつに対して対照リストテーブルをselectして値を取り出せばいいが、データーが数十万件あるとかなりレスポンスが遅い。
データーテーブルに20万件、対照リストテーブルに20件あったとして、対照リストテーブルから値を取り出すだけの全く同じクエリが400万回実行されるので遅いわけだ。

便利にはなったが遅くなった。これは困った。ということで色々対策を考え、sqlの実行結果をキャッシュするモジュールzendのフレームワークを入れてやろうかと思ったのだが、器械の力や金の力に物を言わす成金のようで嫌やし、こういう無駄な激しく美しくないコードを書くのは美意識に反する。根本的な実装の問題なのだ。

ということで、最初に一度対照リストテーブルから値を取り出して、for文で回してそれを二次元の連想配列に格納し、後から実際の変換時にユーザー定義関数でforを回してその配列を使って値を変換する手順をとった。

例えば、対照リストテーブルのレコードを二次元の連想配列に
$henkan[1][id]=1 $henkan[1][mae]=はと $henkan[1][ato]=すずめ
$henkan[2][id]=2 $henkan[2][mae]=むぎ $henkan[2][ato]=いね
という風に格納し、

データーテーブルの1レコードのデーター「はとまめむぎそら」などが入った$str一つごとに

for ($i=1 ; $henkan[$i][id}!="" ; $i++){
$str = ereg_replace($henkan[$i][mae],$henkan[$i][ato], $str);
}

と回して変換してやるわけやけど、このforの所を引数$strを使うユーザー定義関数にすると、対照リストテーブルが入った配列は何も値が入っておらず、グローバル変数として呼び出してやらんといかんようだ。
配列でない変数だとglobal $hensuuとか書けばいいだけやけど、配列はどう書けばいいのか?
forごとに
global $henkan[$i][id],$henkan[$i][mae],$henkan[$i][ato] ;
でも駄目で、forの外で
global $henkan[$i][];
global $henkan[][];
でも駄目。
グローバル配列だのグローバル連想配列だのという単語でぐぐっても何も出ない。ここのところにだいぶはまった。

結局色々試行錯誤してみてわかったのだが、は多次元配列だろうと一次元だろうと連想配列だろうと、global $henkan ;
でいいようだ。ついで言うとグローバル配列なる単語も使わんぽい。

で、

function mojihenkan($str){
global $henkan;
for ($i=1 ; $henkan[$i][id}!="" ; $i++){
$str = ereg_replace($henkan[$i][mae],$henkan[$i][ato], $str);
}
return $str;
}

てな感じの関数を、
$result = sqlite_query($db, $sql);
while ($row = sqlite_fetch_array($result, SQLITE_ASSOC)) {
print ( mojihenkan($row[moji]) );
}

てな感じで呼んでやれば解決。

2007年01月30日

●2.5なピスト君

職場の土偶デスクの周りはコンピューターの部品だとかネットワーク機器だとか、どこの何の部品だか良くわからない電子部品やケーブルといった産業廃棄物の一歩手前のものまみれで、この汚さはBSDの偉い人みたいだ(偏見)な感じなのだが、ちょっと片付けて綺麗になり、持って来たMY文房具を設えて良い感じ。
もうムダに羽ペンとか万年筆のボトルインクとか封蝋セットとか置きたい気分。
文豪みたいな調度品のデスクで仕事をするシステム管理者のようなものにわたしはなりたい。

ピスト君の後輪のスプロケットの歯数が18だったのだが、これを20のものに交換した。
2.78だったギア比が2.5まで下がりだいぶ楽になった。これでギア比の問題はクローズかな。
この作業に伴い、買って一週間ほどしか使ってない18Tのフリーホイールが余ったのだが、母の自転車に装着して再利用という事にしよう。
いや、ここはあえて余っている漢な14Tのdura固定ギアを母土偶自転車に装着して、どこからどう見てもママチャリにしか見えないが、実は固定ギアのピストである。
ということにすればおもろいが、かなり前に勝手に母の自転車のサドルをロードレース仕様のものに交換したら母土偶から「かっこ悪すぎる」ときついクレームがついたので、それはそれは激しく怒られるのが目に浮かぶようなのでやめておこう。

2007年01月29日

●文系的アナログ的価値

仕事帰りに職場近くの巨大スーパーというかC+級百貨店というか2.5流ファッションビルで(いいすぎやで)ノートを買う。
しっかし久しぶりにこの建物入ったけど、全然変わらんなぁ。変に懐かしかった。
まぁまぁ中の下な文房具売り場というところやけど、これくらいでも十分幸せだ。ロディアもツバメノートも伊東屋も取り扱っててそれなりに抑えてるやん。とそれくらい当たり前か。
カランダッシュとラミーの1500円くらいの安いボールペンを見たかったのだが売っておらず残念。つーかちゃんとした文房具屋に行けよと。

京都の丸善が閉店したくらいからさっぱり文房具への興味が薄れていたけど、また四条にでも文具めぐりの旅に繰り出そう。
しかし、今更ながら、はっきり言って、丸善の代わりにカラオケ店を欲する世界なんか大嫌いだ。

最近ピストに乗って鬼漕ぎするせいか微妙に体中が筋肉痛である。特に腕。なぜか腕。それから首も痛い。
あれだけロード乗っててもピストでは違う筋肉の使い方するねんなと感心した。

昨日かなり夜更かししたのに今日ももうこんな時間。
本を読みたいのだが寝るしかない。一日が短すぎる。

2007年01月28日

●北山、真鍮製品への物欲リビドーをやりすごすピスト君

天気が良いのでピスト君に乗って北山界隈に散歩へ出かける。
雑貨屋、文房具屋を回って仕事で使う良さげなノートを探すも、これといったもんが無い。
無駄にゴテゴテした真鍮のドアノブとかタオル架けとか水道の蛇口を衝動買いしそうになるのを何とか思い止まり、いろんな店をぶらぶらぶらぶら。
以前あったlisnキタガワ釣具店が無くなってからというものこのあたりはあまり行くところがなくなった。
一人で喫茶店だのカフェだのに入る習慣がないので行くところが限られるなぁ。
北山か一乗寺かという比較は私の中ではビレッジバンガード恵文社かという事になりつつある。

今のところピスト君はLook互換のULTEGRAのビンディングペダルをつけているのだが、これだと歩くとカタカタ音がして「何この変な人?」って目で見られるし、靴を服に合わせるっつーのが不可能なのでトークリップにしようかなと。ピストってトークリップのほうがいけてんの?
ピストに乗り出してから踏み込みと引き足を同時に使って一気に加速した時に、自転車との一体感がロードとかに比べて遥かにダイレクトに伝わって来る感じの強烈な加重感にしびれているのだが、中途半端にトークリップに付け替えるとその感じが出ないんではないだろうか?

あとブレーキレバーもULTEGRAのエアロなんがロードのブレーキと同じセッティングでついているのだが、これもBMXだかのレバーをハンドルバーの水平になってるところにつけるほうがええのやろうか?
ちょくちょくブレーキ握って速度を調整するのは激しくうっとうしいので、バックを踏んで速度を落とせる固定ギアもいいのではないかと思い出してきた。

トークリップに付け替えるか、ブレーキレバーをBMXチックにするか、フリーをやめて固定ギアにするか。
悩み多き幸せな日曜日であった。

2007年01月27日

●マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者』

長い時間を幾日もかけて700ページ近くにも及ぶ長編、ブッカー賞作品であるマーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者』を読了。

妹のローラが車ごと橋から転落し、夫がヨットの中で、娘が汚いアパートの階段から転げ落ちて死ぬのを語るところから物語が始まる。
ボタン製造業で財を成した裕福な家庭で育ったアイリスが語る自分と妹の人生、そして老齢を迎えたアイリスの語る現在の寂しさ、妹のローラが書いた作中作としての「昏き目の暗殺者」、その「昏き目の暗殺者」の中で男が語る作中作の作中作である物語、そして物語の少し先を行く新聞記事や社交雑誌や業界紙からの引用、と四つの物語が複雑に絡み合いながら物語を構成する。

没落する地方の名士と新興成金の隆盛といった19世紀的な一地方の一族をめぐる年代記と、そこを行きぬく女の一生の物語、そして老いて一人になる様は何とも物悲しい。
純文学、ミステリ、ロマンス、SFなど色々なジャンルが混ざり合いながらも、濃くて内容の詰まった重厚で肉厚な雰囲気のする、何ともリッチな雰囲気のする小説であった。

amazon ASIN:4152083875 作者のマーガレット・アトウッドは物語の直接の登場人物だけでなく、作中作の登場人物にまで細かい気配りと愛を注ぐというような事が言われている。
たしかに主人公のアイリスとその妹ローラ、チェイス家のメイドのリーニーの魅力もさることながら、作中作で男が語る物語に登場する盲目の暗殺者と舌を抜かれた生贄の娘も何とも魅力的であり、そういう姿勢が物語をとても厚みのあるものとしているのだと感じた。

老年に達した人が過去を振り帰って抱く深い悲しみ、また老年という存在である事自体が強いる諦念や悲しみが痛いほど伝わってきて何ともやりきれない。
作中の「悲劇とは長い悲鳴ひとつですむものではない、そこに至るありとあらゆるものを含んでいる。」が示すように彼女自身の人生がある地点から悲劇へと変わり、「ある地点をすぎると、経験という惨害はひとを退行させる」というようにそこからは彼女の望むべく進歩なんか何もなかった。

物語の終わりの方で人を殺す「昏き目の暗殺者」たる存在として、盲いた神として弓矢を持つエロスに象徴される愛だけでなく、目隠しをした女神ユスティティアの剣に象徴される正義もあげられていたのは何とも無力感を際立たせられた。

人生が消耗であり磨り減って行く事でしかないとしたら、生きる事に何を見出すのか。そんなことを考えざるを得ない本であった。

2007年01月26日

●言葉、区切り、自転車にグリスの金曜の夜

この一週間は延々コード書き。とりあえず欲しい機能は全て実装した。しかしながら全体としてのコードの見通しは悪く、複数のファイルに似たような機能が散らばり、インターフェイスのアクセシビリティは良いとは言いがたい。
似たような複数の機能を一つの関数にまとめ、可読性を高め、なによりもユーザーインターフェイスをもっとましなものにしたい。何か一つのものの中にあるはずの価値や意味が見た目によってそがれたり失われたり、見た目の不備によって価値や意味が引き出しにくい状態になっているのは何とも忍びないのである

プログラミング言語やらスクリプト言語も言語と名のつくものであるから、単語を組み合わせて文を作り、文を組み合わせて節を作り、節を組み合わせて章を作り、章を組み合わせたのが部にする。といった構成は文章を書くのと同じであり、何らかの言語で書かれた一つの小説が完成する過程と同じように、スクリプト言語によって書かれたシステムも推敲と洗練をを経て一つのシステムとなるのである。

毎日毎日このブログに適当な駄文を書くに任せて書き散らしている私ではあるが、「言葉」や「文章」を大事に思っている人間としてはちょっとした「作品」くらいは綺麗にまとめたい。

と書いているところで一つの機能の実装を思いついてまたコードに手を入れたくなってきた。良い様に言えば絶えざる更新であり、悪く言えば終わる事のない優柔不断でもある。どんな場合にも明確な「区切り」をつけるのは難しい事であるとしても、仕事にしろ遊びにしろ、悲劇、恋愛、季節などあらゆるものに区切りがつけられないと終わりは訪れない。

とそんな事を考えながら、家に帰って自転車のハブとヘッドのベアリングにグリスを注入して、金曜日の夜は終了した。

2007年01月25日

●能書きは小さくで行こう

ブレーキ&フリーホイールを装着した弱気なピストで出勤。
ギア比が高く、ハンドルも幅が狭くてポジションが取りにくいトラック仕様で慣れるまではちょっとしんどそう。
でも見れば見るほどシンプルな構成で、本来自転車とはこうあったもんやなという気もしてくる。

今時のピストは競輪というよりはメッセンジャー文化圏のようなイメージがある。
ロード乗りやマウンテン乗りとはまた別の人種のヒッピーやらストリート系なんたらやらのカウンターカルチャー系の人の乗り物で、固定ギアで足を回し続ける事が動体となる事であり、車の流れに乗って交通と一体化して走るのを禅にたとえ、ブレーキは急激な変化をもたらすものであるから思想的に受け入れられないとか言っちゃうイメージがある。

実際フリーホイールもブレーキもつけてるのでそこまでは言うつもりもないし、交通戦争の中で「固定ギア道」を命をかけて極めるつもりもさらさらないけど、自転車自体がもつエコロジカルな方向性はより強調された形で自分自身に意識されるものではある。

まぁピストやろうがロードやろうが気楽に乗ればええやん。なるべく能書きは小さくまとめたいやね。ということである。

2007年01月24日

●絶対読んではいけない話

久しぶりに某Y氏と話したのだが、彼はこのブログのタイトルだけはRSSで見ているものの内容を全然読んでいないそうで、それじゃぁどうしても読みたくなるようなタイトルのん書くわ。と言ったものの無い袖は触れないし、無い知恵は絞れないし、トンビから鷹は生まれぬが道理である。

内容で勝負できないので完全に騙し討ちかペテンにかけるか狐につまむくらいしか手が無いので、昔から酒や麻薬、はたまたポルノから国際法にいたるまで禁止こそが一番の魅力となるということで、読ませるだけを目的にして、某Y狙い撃ちでこのタイトルにしてみたのだが、良い子でタブラ・ラサな某Y氏の事であるから「そうか、ならやめておこう」と素直に受け入れられてしまいそうでもある。

家に帰ってうろうろとネットをさ迷っていて本読みが全然進んでいない。
なんか最近妙に多方面に色気が出てきて、新自転車のギア比を計算して、気分良く回せて坂も登れるには歯数をいくつにしたもんか悩んでみたり、solaris10の前々回のリリースから標準でzfsが入っているつーので試してみたくなって色々調べてみたり、PHPでセッションクッキーを使う実装をいろいろ実験してみたりと落ち着かん。
うむ、それなりに満足したゆえ、さてさて本でも読むかと思ったらこんな時間。
人生中々上手く行かぬものである。

2007年01月23日

●やんごとなきミスター、競技用ママチャリ

今日は仕事が休みという某43も昼食の会に参加なされたのだが、彼の「カレーライス」と「カレーうどん」というチョイスに「あひゃひゃ」と笑いつつも感動を覚えずにはいられず、尊敬の念を抑えきれない自分がいる。
串カツ屋で一番最初にカレーを食べる彼のことであるからして、カレーの扱いに関しては至高で孤高の芸術の域に達しており、いやはや、やんごとなきお人である。

開発&保守担当していたプチシステムの二つを、良い感じの区切りのトコまでバージョンアップ終了し、根を詰めていた仕事もひと段落。

早い目に職場を出て行きつけの自転車屋で頼んでおいたピストにつけるためのフリーホイールを買う。
しかしながら土偶が所望した18Tあたりはママチャリ用の部品しかないらしく、店のマスターに「どうする?16やったらまだええのんあるで?」と言われるも、ええーいもう待てんわーと買ってしまう。
帰宅後早速取り付け、DURA-ACEとSUPERBE PROのみで構成された、当時最高グレードのトラック用自転車にママチャリ用のフリーがつくという何とも妙な構成が出来上がる。

早速試乗する。うむ。確かにこれは漕ぎ味が軽い。確かに軽いが…これでもかというほどメンテナンスしたママチャリにドロップハンドルとビンディングペダルをつけて乗っているようでもある…

2007年01月22日

●人生谷あり谷あり

最近はある日に夜更かしすると、次の日は早く寝て、その次の日はまた夜更かし、その次は早く寝る。といった感じで、一日交代で山と谷が繰り返すちょっとした波乱万丈、山あり谷ありな日々と言えなくもない。

で、前日の日曜日に夜更かしをしたのでこの日は早寝の日。布団に入って本を読んでいたはずがいつの間にか寝てしまった。
読んでいるのはマーガレット・アウトウッド『昏き目の暗殺者』である。
中々分厚い本でやっと半分読んだばかり、ほんまに本読みペース落ちたなぁ。

一冊の本を読んでいるうちに読みたい本が複数出てくる。読みたい本が増殖するスピードに読む速度が追いつかない。
気持ちはあるのに体がついて来んというのは、なんつーか年寄りのイデアを構成する概念に違いない。

2007年01月21日

●二度寝、カルメン、本を読む

休日にもかかわらず朝7時に眼が覚めて、そんなはよ起きんでもええのに。と二度寝して次に眼が覚めたら1時を超えていて今度は寝すぎやん。

ここ最近の無茶なペースが鳴りを潜めたようにまったりと本読み。ラジオで「歌劇“カルメン”」を流しっぱなしにするも「ええ加減うるせ~~!!」とプチ切れてみたりする。

うつらうつら寝たり起きたり本を読んだり音楽を聴いたり、気が向いたらオレンジジュースを飲んだりスルメを焼いたり、乳児かおじいちゃんの様な一日であった。

2007年01月20日

●散財、SIGG、防水ラジオに外部アンテナを

sigradio20070120.jpg radio20070120.jpg
昼から買い物に出かけ、新しいSIGGの深い青のボトル、オーディオセット用チューナ、お風呂用防水ラジオ、自転車用タイヤ、などなどなどなどと散財する。

買ったお風呂用防水ラジオは二枚貝のように蓋が開いて、中にLine in端子とオーディオプレイヤーが内蔵できるようになっているので、風呂でipodで音を鳴らしながら数時間ほど本を読む。
このアンプつきラジオの内蔵されたアンテナは小さく、AMはキャッチするもののまともにFMを拾わない。
FMを結構聴く人にとってはこれはちょっと痛い。そういうことで外部アンテナをつなげるようにするべく改造を施す。
ラジオを分解して内蔵されているアンテナにケーブルを半田付けし、ケースの外と中を防水性を損なわずに電気的に繋ぐために、ケースに穴を開けてネジを切ったところにステンレスのボルトをねじ込んで通し、裏表からナット挟み込むようにして固定する。
内側のボルト部分にラジオの内部アンテナから延びたコードを繋ぎ、外のボルト部分は外部アンテナの接続端子とした。
あとはロッドアンテナを取り付けるなり電線を繋ぐなりいかようにもなろう。
これで風呂で「ベストオブクラシック」が聴ける。ああ嬉しや。

父が遥か昔に買ったものの全く乗っていなかったトラック競技用自転車の固定ギヤのスプロケットを外し、替わりに取り付けるべきシングルのフリーホイールをいつも行く自転車屋さんに注文しておいた。
すでに後輪にブレーキを取り付けて新しいタイヤを買い、部品が届き次第乗れるようにしてある。部品が届き次第土偶もピスト乗りに。ああ楽しみだ。

2007年01月19日

●そうあるものどもについては、そうあるということの

この日も一日変わらずコード書き。電池切れのように仕事を終えて帰路につく。

この日は妙にくたびれていたのでソラリス君と遊ぶでもなく、本を読むでもなくダラダラ過ごした。こういう夜は音楽を聴くしかない。
火鉢でスルメと餅を焼き、炭火で手を炙りながらバッハを聞き、鉄瓶で沸かした白湯を飲む。ある方面から見れば味気ない生活とも言えるし、また別の観点からすれば満ち足りた生活とも言える。盛り上がりも盛り下がりもせず、代わり映えのしない金曜日であった。

何々と比べれば、という視点で物事を見て、特定の何かが劣っているとか優れてるかを判定するのはさじ加減次第でなんとでもなる。
比べる基準は上から下までほぼ無限大であり、比較で物事を見ようとすればするほど殆ど意味を成さなくなって来る。

で、何が言いたいのかというと、自分の今の生活が満ち足りたものであると思いたいという事である。

2007年01月18日

●最近は心に太陽が

この日も一日コード書き。メインの部分の大まかな骨組みはできた。後は肉付けとおまけ機能の実装という感じ。
もちろんそこがユーザーに対するインターフェースとなるので、仕上がりとして一番目に付くところであり、かかる時間も一番長くなるのだが。

最近は家に帰ってもソラリス君と戯れるようになったので本読みが牛歩の歩みである。
uptimeは「up 185 day(s), 6:12」とMay 19以来再起動してないけど、このくらいからまともに相手してなかったんやね。
もうソラリス君と戯れる日々は久しぶりでIPアドレスすら忘れかけてたけど、長い間ほったらかしてても「どなたですか(゚Д゚)ハァ?」と言われるでなく、涙目の上目遣いで見られるわけでもなく、嫌味の一つを言われるわけでもなく、子犬のようにじゃれ付かれるでもなく、ツンデレでもデレデレでもツンツンでもデレツンでもない。
長い事会っていなかったのに久しぶりに会っても昨日も会ってたかのように振舞うソラリス君はまるで都会の人のようだ。

2007年01月17日

●日本語よりsql文とphpの方を良く使った日

仕事でcmd.exeのバッチファイルだけで構成されているわりにはそこそこ動くシステムを二年ほど前に構築したのだが、機能ごとに分かれた複数のバッチをサブルーチンのように使ってそこらじゅうから呼び出すような仕様にしている。
当初は機能ごとに関数のように使ったら分り易かろうと思っていたのだが、完成した段階で抱いた「もしかしたらわかりにくいかも…」という懸念は現実となり、今見るともうさっぱり何がなにやらわからない。

作った本人すらわからんのに絶対他人がわかるわけない。こりゃいかん。ということで発奮してゼロから別システムで作り直すことにした。
現状はインストール、保守、設定変更ともに設計開発構築した私自身がオペレーションしているのやけど、これをインストールさえしてしまえば、誰でも設定変更くらいはできるくらいの簡潔さとわかりやすいインターフェイスを用意するのが目標。

今まではタブ区切りのテキストファイルに格納されたデータをawkを駆使して集計やらなんやらとバッチで動いていたのを、データの格納にSQLite、メインの処理系にPHPに使う事にする。
本来ならDBはmysqlを使うところやけど、SQLiteはバイナリとDBファイルだけでSQLを発行できるというお手軽さが最高で、バックアップも移植も思うがまま。最近お気に入りの保守性に優れたDBということで採用した。

スクリプト言語としてPHPを使うのは何か間違っているような気がしないでもないけども動くから気にしない。
しかしながらせっかくPHP使うという事で、様々な設定項目はconfファイルに直接書くのでなく、webのインターフェイスでも変更できるようにすることにした。

ということで、朝一番から帰るまで延々とコード書き、家に帰ったら帰ったで延々とブログを構成しているシステムのコードを書き換える。

はっと気付けば朝の四時半であわてて寝た。

2007年01月16日

●やっぱりwebalizerに負ける

前日に引き続きwebalizerと格闘。
db.h をインクルードしたのではどうしてもdns_resolv.cのコンパイルで失敗するので、
configure時に DEFS=-DHAVE_DB_185_H としてBerkeleyDB2.7.7のdb_185.hをインクルードするように指定してやる。
コマンドで言うと、
DEFS=-DHAVE_DB_185_H ./configure --enable-dns --with-db=/usr/local/BerkeleyDB.2.7.7/BerkeleyDB/include --with-dblib=/usr/local/BerkeleyDB.2.7.7/BerkeleyDB/lib
という感じ。
これでmakeするとちゃんとコンパイルできるのやけど、最後の最後、webalizerのバイナリを作る際にリンカが失敗する。
dns_resolv.oが未定義のシンボルdbopenを参照しているというが意味は良くわからん。
惜しい。惜しすぎるけど結局出来なかったのでふて寝。11時半くらいに寝たった。

2007年01月15日

●webalizerに負ける

家で久々にソラリスと戯れる。
以前コンパイルしたwebalizerが名前解決しないのに気付いたので、もう一度ソースから名前解決させるべく --enable-dns オプションつきでコンパイルを試みる。
何度やってもdns_resolv.cのコンパイル時にエラー、--with-dblibと--with-db=を指定しても駄目。
solarisやから悪いのか?solaris10やからか?コンパイラがSun Studio 11やしか?
でもSunのgccでもあかんかったしなぁ…

諦めてcswのバイナリパッケージを使った。orz

依存関係から必要なパッケージがないがかまわんのか?とソラリスが聞くが気にせずpkgadd

ldd /opt/csw/bin/webalizerの結果は以下のような感じ

libgd.so.2 => /usr/local/lib/libgd.so.2
libpng.so.3 => /usr/lib/libpng.so.3
libz.so => /usr/lib/libz.so
libm.so.1 => /usr/lib/libm.so.1
libnsl.so.1 => /usr/lib/libnsl.so.1
libsocket.so.1 => /usr/lib/libsocket.so.1
libdb-3.3.so => /usr/local/lib/libdb-3.3.so
libc.so.1 => /usr/lib/libc.so.1
libXpm.so.4 => /usr/lib/libXpm.so.4
libX11.so.4 => /usr/lib/libX11.so.4
libjpeg.so.62 => /usr/lib/libjpeg.so.62
libfontconfig.so.1 => /usr/lib/libfontconfig.so.1
libfreetype.so.6 => /usr/sfw/lib/libfreetype.so.6
libpng12.so.0 => /usr/lib/libpng12.so.0
libm.so.2 => /usr/lib/libm.so.2
libmp.so.2 => /usr/lib/libmp.so.2
libmd5.so.1 => /usr/lib/libmd5.so.1
libscf.so.1 => /usr/lib/libscf.so.1
libXext.so.0 => /usr/lib/libXext.so.0
libdl.so.1 => /usr/lib/libdl.so.1
libexpat.so.0 => /usr/sfw/lib/libexpat.so.0
libdoor.so.1 => /usr/lib/libdoor.so.1
libuutil.so.1 => /usr/lib/libuutil.so.1

ということやけど、いつかリベンジしたい。

2007年01月14日

●MTで同カテゴリの前後エントリーへのリンクを作る

MovableTypeで個別エントリーページを表示した際、上部に「« 「前のエントリ」|TOP|「次のエントリ」 »」とリンクが表示されているが、これは投稿した時間順に並べたものである。
これは投稿された順に見てゆく場合には都合が良いけど、例えば本の感想だけ、ソラリスカテゴリだけ、いきものカテゴリだけ見たいという人にとっては不便である。
見ているエントリーが属しているカテゴリ内のエントリーを投稿した順番に並べて、個別のエントリーにつき「同じカテゴリの前のエントリ」と「同じカテゴリの次のエントリ」てな感じのリンクを表示出来るようにすれば便利に違いないという事で「Previous and next in category」なるプラグインを使った方法を見つけたが、「画像」と「日記」などのように二つのカテゴリに属しているエントリーでちゃんと動作しない。実装は簡単なのだが惜しい。
で、無いものは作ってしまえという事で作ったので公開してみる。

結構限定された環境になるけど、同じことを考えている人のヒントにでもなればと。

前提条件:
エントリーをphpで作っている人
phpでpassthru()が使える。
CGIからシェルスクリプトが実行できる。

1
MTの「テンプレート」→「アーカイブ」→「テンプレートを新規作成 」
「テンプレート名」を「カテゴリエントリリスト」として以下の内容で作成する。

<MTEntries>
<!-- <$MTEntryID$> --><a href="<$MTEntryPermalink$>"><$MTEntryTitle$></a>
</MTEntries>


2
サーバー上のアーカイブディレクトリに(例:/blog/archive) ディレクトリ「catlist」を作成して書き込み権限をつけておく。

3
「設定」→「公開」の「アーカイブ・マッピング」で「マッピングを新規作成」、アーカイブの種類を「カテゴリ」 テンプレートを「カテゴリエントリリスト」で「追加」を押す。
追加されたテンプレートの出力フォーマットから「カスタマイズする」を選択して「catlist/cat-id<$MTCategoryID$>.php」と入力する。

4
先ほど作成したcatlistディレクトリの下に実行権限をつけたシェルスクリプト「catlist.sh]を以下の内容で作成する。

#!/bin/sh
echo "<dl><dt>Previous</dt>"
echo "<dd>"
grep -A 1 "<\!-- $1 -->" /catlistディレクトリへのフルパス/cat-id$2.php |/usr/sfw/bin/ggrep -v "<\!-- $1 -->"
echo "</dd>"
echo "<dt>Next</dt>"
echo "<dd>"
grep -B 1 "<\!-- $1 -->" /catlistディレクトリへのフルパス/cat-id$2.php |/usr/sfw/bin/ggrep -v "<\!-- $1 -->"
echo "</dd> </dl>"
grepは-A や-Bオプションが使えるGNU互換のものを。
solarisなら/usr/sfw/bin/ggrepを使う。


5
MTの「テンプレート」→「アーカイブ」→「個別エントリーアーカイブ」を選び、挿入したいサイドバーの位置に以下のコードを挿入

<!-- 同じカテゴリエントリ -->
<MTEntryCategories>
<div class="sidetitle">
「<$MTCategoryLabel$>」<br />
category's entry
</div>
<div class="side">
<? passthru("/catlistディレクトリへのフルパス/catlist.sh <$MTEntryID$> <$MTCategoryID$>" ) ; ?>
</div>
</MTEntryCategories>
<!-- 同じカテゴリエントリ -->


6
エントリーを再構築して終了

2007年01月13日

●スティーヴン ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』

スティーヴン ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』を読んだ。
作者は1943年生まれのアメリカの作家であり、1972年に書いたこの作品でデビューした。

小さい頃から利発で秀才とも呼べるジェフリー・カーライト少年が11歳の時に書いた、彼の隣の家に住み兄弟のように育った、10歳で不朽の名作『まんが』を著して11歳で夭逝したエドウィン・マルハウスについて伝記である。という設定の小説。
11歳の生涯が、幼年期、壮年期、晩年期の三部に分けて事細かに綴られる。子供時代の瑞々しくも輝きに満ちた日々はどんどん流れて行き、迫り来る死に向けて緊迫感は否が応にも高まってゆく。

ネットでやたらと誉める人が多く、設定が設定だけに子供独特の世界の見方とか感性とかをまったーりとお花畑な雰囲気で書いてあると思っていたけど全然そうじゃなかった。特に「晩年期」は読み進むにつれ何とも胸苦しく緊迫感が高まってゆく。
「子供」を神格化するわけでもなく、ただ残酷な存在とするわけでもなく子供特有の世界が綴られるわけやけど、子供が嫌いな人には退屈な話となり子供が好きでたまらん人には耐え難い話となる構造を持つのではないだろうか。

amazon ASIN:4560047685 通常、我々は「言葉」と「意味」を分かちがたく一つのものの様に捉えているけど、幼年時代のエドウィンは「言葉」をただの「音」として認識おり、彼が成長して「言葉」に「意味」があると知ってからは、「音」として美しく完成されて調和していた「言葉」は意味によって汚され堕落してゆくものとなったようである。

考えてみれば「意味」の世界は大人の世界でもある。幼年期に「これなに?」と「名前」を問う事があっても「意味」に興味を持つ事はないだろう。
エドウィンが幼年時代の「音」と「名前」の時代を頂点として、そこから年をとっていくことがある種の堕落であると見なしていたように思う。
「言葉」の堕落を苦々しく思うエドウィンが『まんが』の執筆にあたって「言葉」自体に悩まされ続ける事になるのは皮肉といえば皮肉である。
自分の中にあるものが言葉にならない苦しみを皮切りに、すざましい創作の苦しみが彼を苛み続けるわけやけど、全てが完成した後に訪れる絶望的な空虚感もまた恐ろしい。
彼を突き破って言葉が抜け出たように、「言葉」のもつ恐ろしさが存分に伝わってきた。
しかし一方で、エドウィン・マルハウスは『まんが』の作者として伝記中で扱われるわけであり、「僕がいなければ、エドウィン、君は果たして存在していただろうか?」というように「存在」を「意味」として示すのも言葉なのである。

2007年01月12日

●スパムさんお断り

最近コメントスパムが標準のアンチスパムプラグインだけでは防ぎきれないくらいに酷くなってきたので、CAPTCHA™技術を使ったMovableType対応の「Captcha Plugin」なる画像認証のアンチスパムコメントプラグインを導入した。
インストール自体はプラグインディレクトリに解凍するだけという楽チン極まりないものであるが、それだけでは余りにも芸がないので、表示部分をjavaスクリプトで実行させて読み込んでいるところをPHPやSSIなどで読み込ませるようにカスタムしてみた。

まず、本体部分のcgiを
cp -Rp captcha_js.cgi captcha_inc.cgi
とコピーしてcaptcha_inc.cgiの最下行あたりの

print $q->header('text/javascript');
print "if (!commenter_name) {\n";
print "\tdocument.writeln('$_');\n" foreach split(/\r?\n/, $tmpl);
print "}\n";

の部分を

print "$_\n" foreach split(/\r?\n/, $tmpl);

と書き換える。

エントリをPHPで出力するようにしているなら、個別エントリーアーカイブのテンプレートの「情報を保存する?」の下あたりに

<? passthru("/プラグインへのフルパス/captcha_inc.cgi" ) ; ?>

としておけば実行結果が挿入されて画像認証の部分が表示される。

参考サイト:
Captcha Plugin.ja JP

2007年01月11日

●ハカー道

hakukin20070112A.jpg
旧型の穴の面積が多いハクキンカイロの本体で現行型の火口を使うと、気化量が多くて寿命が3/4ほど短くなり、それを防ぐために穴の部分を裏からアルミのテープなどで塞ぐというカスタムがあるのだが、穴を塞ぐ位置を火口に一番近い部分にすると、入ってきた外気が直接火口に当たることがなくなるようで、格段に燃費がよくなった。
ちなみに12時間分の燃料を入れて9時間しかもたなかったものが、画像の位置にテープを貼って14時間もつようになった。
蓋全体の穴の面積よりも火口と穴の距離の方が燃費を左右するようで、バックドアの数よりメトリック数が多いノードを踏み台にした方が足がつきにくいという事で、ハカー道も中々奥深く相通じるものである。

土偶が去年からハカーなのにも拘らず、この冬にまことさんが買ってから急に広まり始め、やっぱり流行を作るのはうら若き乙女だべさ。といたく感心した。
という事でまことさんトコの該当エントリにトラックバック

2007年01月10日

●後の祭り

昨日に引き続き今日も「祭り」状態でわっしょいなドリル職人は朝から壊れていた一台を修理し、折れた刃を交換し、妙なアッパー系なテンションで一日を過ごす。

毎年この時期になると、今まで顔だけは知っていた卒業を控えた学生に質問されたりして話しているうちに、ほんのちょっとだけ仲良くなる事がよくある。
しかしながらお互いちょっとだけ知り合ったとたんに彼らは卒業してもう会う事はなくなるわけで、一期一会だといえばそうやけど、ちょっと寂しくはある。

ずっと院生だと思っていた学生が学部生だと判明し、一回生か二回生だと思っていた学生が四回生だと知ったりして、「個人差」は年代の差を吸収して凌駕するくらいの幅を持っているのだと痛感する。
自分の中でも年齢や状況に因るものだと思っていた属性が実は個人としての特殊性を持った特質であったり、逆に状況やら加齢で解決されたり獲得されるであろうと期待している問題や形質が、個人的な努力や素因に因るものでしかありえないという事があるだろう。
となれば、次から次へと解決を望まれる問題やら獲得を望まれる特質への希望を溜め込むのは、また「んじゃ前向きにやってみっか」と思うべき所を「んじゃもういらねえや」と思ってしまいそうになるのは、どのへんに位置する傾向なんだろうと思う。

2007年01月09日

●ドン・土偶・アナクロ男爵

今日の午前中「久しぶりに靴を履いたので足が痛い。」などと未開人の水棲人の野蛮人のような戯言を呟き続けて、昨日までの引きこもりっぷりを見事に証明して見せた土偶であるが、今日は壊れた穿孔機2台と穴あけパンチ1台をルービンシュタインのトレモロのごとき優雅な手さばきで修理し、レミングのように打ち寄せる若人にドリルの使い方をひたすら説明し、時にはドリル講座を開催して「穴あけおじさん」と化していた。
口から先に生まれたかのごとくにひたすら喋りまくるドリルおじさんは、渡りイナゴのようにパソコンに群がる若人にも、ひたすら禁則処理とカーニングの法をも説いていた。

昨日までの誰とも喋らない一人の引き篭もりっぷりから一転して、今日の人多すぎ喋りまくりの働きっぷりに激しい落差を感じるも、これはこれで中々楽しい。
最近はずっと自分は引きこもり属性やと思っていたけど、今日のプチ「飲食接客業のクソ忙しい時アッパー系テンション」のような感覚は、自分が昔は外交的に人と話すのが好きやった時の感覚を思い出し、「接客業が楽しいクオリア」が自分の中にあるのを感じた。

全く正反対の属性が一個の人間に入り混じってるのは別に不思議な事でもなんでもないけど、この外交的な所と内向的な所の分裂に代表される自分の中にある極端さは、私にとっては自分で扱いきれないほどの危険物であるように感じる。

あまりにカラマーゾフ的な、等というと余りに時代錯誤やけど、土偶の辞書に中庸と言う文字は無いのかと思った一日であった。

2007年01月08日

●ピーター・F. オストウォルド『グレン・グールド伝―天才の悲劇とエクスタシー』

ここ最近のちょっとした引きこもり生活で質と量ともにヘビーな本ばかり読んでおり、日常への緩衝地帯のようなつもりで、軽く伝記でも読むか。
という事で、ピーター・F. オストウォルド『グレン・グールド伝―天才の悲劇とエクスタシー』を読み始めた。

好きなピアニストであり、伝記でもあり、気楽なつもりで読み始めたけど、内容はかなりヘビーである。
病気、手への怪我、群集、他人、など色々なものに対する強迫観念を持ち、風邪を引かない為に真夏でもマフラー、コート、手袋を着用し、決められた銘柄のビスケットとミネラルウォーターしか口にせず、晩年はコンサートを拒否してスタジオ録音ばかり残した極端な人間嫌いだというピアニストである彼の人となりを、精神医学者の立場から述べている。

グレン・グールドが明らかに精神的に何かアレな人やなというのはこの本を読む前から彼の言動を知った段階でわかっていたけど、流石に本職の人が彼の幼年少年時代から今に至るまでの生活を分析的に書いてあるのは結構辛いものがあった。

amazon ASIN:4480885110 読む限り彼は極端な傷つきやすさを持ちながら、人との争いと人を傷つけるのを極端に恐れるあまりに、人と接するのを恐れたわけやけど、良くこんな孤独な辛い生活に耐えられたなぁと驚く。
彼の一番の不幸は人と接するのを恐れて他人を拒否したからではなく、それとは全く逆の、人に認められ、人から誉められ、人に尊敬されたいといった、他人を激しく求めていた点にあるだろうと思う。
他人を拒否しながらも求めるといった分裂が、彼にとっての悲劇だった。と思った。

彼は天才としか言いようのないピアニストやったけど、実生活では嫌で変な奴であり、彼と直接関わりのあった人はことごとく迷惑をかけられている。
ドストエフスキー、ベートーヴェンなども同様に実生活では大概な人間やったというので、俺は結構そういう人間の作る芸術が好きなのかもしれない。

流石にこの年になると周りにここまで単純なシンプル脳みそな人は見ないものの、中学とか高校の時はよく「好きなタイプは性格の良い人で~す」とかいう奴がおったけど、上のお三方は明らかに「性格が悪い奴」に分類される。
だからといってドストエフスキー、ベートーヴェン、グレン・グールドに人間としての価値がないのかというと絶対そういうことはないわけである。

異性の好きなタイプについて「見た目至上主義」で事を運ぼうとする人間が非難されるのは一般的であるけど、逆に上のお三方がもれてしまう「性格至上主義」も如何なものかと言う事になろう。

何が言いたいのかというと、人間の価値なんか何で決まるかわからんし、滅茶苦茶な性格でももてる奴はアホほどもてるし、公平なんか不公平なんかわからん世の中やなと。

って全然グレン・グールドの伝記の感想やないね…

2007年01月07日

●ミゲル・デ・セルバンテス『新訳 ドン・キホーテ 後編』

ミゲル・デ・セルバンテス『新訳 ドン・キホーテ 後編』を読了。
前編が出てから10年後に出版されたこの後編は、前編で家に連れ帰られたドン・キホーテが再びサンチョ・パンサと共に旅に出る話であるが、前編を読んでドン・キホーテ主従を知っている人が作中に沢山現れるという構造をなし、当時出回ってた続編が偽物であることを知らしめようとするセルバンテスの意図も多分に含まれている。
物語の殆どはその前編のファンである公爵夫妻のドン・キホーテ主従に対する手の込んだ悪戯の顛末を述べている印象があり、文中で言うような「ドン・キホーテ沙汰」つまりは「お笑い騎士道物語」は益々酷くなるばかり。
この後編でも前編同様にドン・キホーテとサンチョ・パンサは相変わらずのキャラクターやけど、前編にくらべて狂気の部分よりもその裏返しでもある純粋で高潔な部分が目立っており、前編とはだいぶ違う印象を受ける。

amazon ASIN:4000241117 ハムレットでポローニアスが息子の留学に際して述べる、かの有名な訓戒のような、領主になろうとするサンチョへのドン・キホーテの言葉と手紙はもちろん、ネタでも領主になったサンチョ・パンサのお裁きと統治の見事さと、躍起になってドン・キホーテを愚弄して遊ぶ公爵夫妻の狂いっぷりはドン・キホーテ主従のまともさを引き立てている。
公爵夫人のお付の老女ドニャ・ロドリーゲスとその娘がドン・キホーテに本気で遍歴の騎士として助力を請うに至ってはネタがネタで無くなったとしか言いようが無く、ある意味では公爵夫妻を代表する愚弄に対しての騎士道精神の勝利とも言えるだろう。

結局、ドン・キホーテは果し合いで敗北を喫して郷里へと帰り、病の床で死を迎えるわけやけど、彼が死に際して騎士道物語を否定してそれに取り付かれた自分を反省してドン・キホーテではなくアロンソ・キハーノとして死のうとする様は何とも痛ましいし、私自身は思いもよらん展開にちょっとびっくりした。
彼が普段は立派で頭脳明晰な郷士であるにも関わらず、話が騎士道に及ぶと狂気に陥るといわれていた事が示すように、彼は騎士道を奉じていたから立派だったのではなく、彼自身が立派だったから立派だっのは言うまでも無い事やけど、最後の最後で自分の考えをひっくり返したドン・キホーテが否定したのは、自分ではなくただ騎士道であり、自分の信奉するのが騎士道精神でなければこんな無様な事にならず、もっと世の役に立ったであろうかという思いがあったのかもしれない。

セルバンテス自体は架空の著者シデ・ハメーテの口を借りて遍歴の騎士たちが演じた騎士道物語の愚かさを知らしめて嘲笑する為にこの物語を書いたといい、事実『ドン・キホーテ』以後には時代の流れもあって騎士道物語は下火になったらしい。
この物語の最後の最後で、世に贋作が出回ったように後世の誰かがドン・キホーテを復活させないが為に彼を殺し、「ドン・キホーテはただただわたしのために生まれ、わたしはドン・キホーテのために生まれたのだ。彼が行動し、わたしがそれを記述することによりわたしたち二人だけが一心同体になれる」と作者が述べる箇所は素直に感動した。
こういう自分のための物語を書き、それが世に浸透するのは小説家冥利に尽きるんやろうなと思う。

参考サイト:
ウィキペディア :ドン・キホーテ
ウィキペディア :ミゲル・デ・セルバンテス
2ちゃんねる:文学板「【ドン】ミゲル・デ・セルバンテス【キホーテ】」スレッド

2007年01月06日

●肉体の軽蔑者の軽蔑者

『ニューロマンサー』を読み終わり、『新訳 ドン・キホーテ 後編』に取り掛かる。
サイバネティクス技術とサイバースペースが取り巻く世界から、異端審問とムスリム弾圧の風が吹き荒れる近世スペインのギャップに違和感を覚える。
サイバネティクとサイバースペースを世界の前提にした『ニューロマンサー』が「サイバーパンク」なら、物語の中だけの話だといわれる高邁な騎士道精神なる理想を推して立てて体現しようとする遍歴の騎士ドン・キホーテ・ラ・マンチャは差し詰め「騎士道パンク」とも言うべきか。
いつの世から見た「現代」も、不正と悪が蔓延っているかのごとくに見えるのはいた仕方ない事であるとはしても、批判精神でもって「現代」を眺める眼がなくして何の進歩であろうか。等と戯言を書いてみる。

前日の夜中に雨の中図書館の返却ポストへ本を返しに自転車で出かけたのだが、まるでふわふわするかのうような自分の体の現実感の無さにかなりドン引きする。
数日間一歩も外に出なかったが故の肉体的な移動と平行の感覚の後ろ向きの順応に、肉体の軽蔑者の軽蔑者たらんとする土偶は身体感覚を取り戻そうと、雨降りしきる寒空の下をしばらく自転車を走らせる。

自転車を操る体が自分に属するものという感覚を取り戻した土偶は安心して家に戻り、また引きこもって本を広げるのであった。

2007年01月05日

●ウィリアム・ギブスン 『ニューロマンサー』

ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』を読了。
1984年に発表されたサイバーパンクなるジャンルや流れを作り出したSFの古典であり、SFの文学賞を多数獲得しているように人気や影響力は高く、SF小説に限らず後の様々な作品の原型となっている。

そっち系に特に思い入れがあるわけでもなく、全く詳しくない私でも、マトリックスという名のサイバースペースと聖域としてのザイオン、脳に直結された埋め込み式のプラグ、光学迷彩、人形使い、義体、などなど、あからさまに「マトリックス」やら「攻殻機動隊」がこの世界観をベースにして単語や小道具まで使っているのがわかった。

世界に張り巡らされたインターネット網を日常的に使い、アニメやら映画やらでそういう世界観や小道具の知識を持った上で読んだので「なるほどなるほど」やったけど、発売された1984年当初にこの作品がどれだけセンセーショナルで、読んだ人が際限なく出てくる新しい感覚に圧倒されたであろう事は容易に想像できる。

そういった後の作品に多大な影響を与えた功績が高い重要な作品やろうし、当然20年以上前の作品にも拘らず今読んでも古臭くはないし面白かった。

amazon ASIN:415010672X 人体が血液から臓器から目や腕や神経などの器官に至るまでパーツ化されて売買され、高度な外科手術によって神経の反応速度やら筋力やら対薬物やらホルモンの反応性を調節し、データモニタの役目をするサングラスを顔に埋め込み、指に伸縮式の爪を内蔵したりといった事が可能となった世界で、「サイバースペース」を自由に飛び回る「サイバーカウボーイ」達が肉体を「牢獄」や「足枷」と呼んで軽視するように、人間の肉体に対する感覚は自分の存在の限界や可能性を限定して自分を縛るものでしかないし、パーツとしての体はいくらでも代替可能なこだわる必要の無いものであるようだ。
この考え方の方向性は、古来からの伝統である物心二元論で分割された人間存在の「心」の方にアイデンティティーがあるとして、「体」をモノ化する方向が行き着く所であろうかとかと思われるけど、「心」の方も、サイバースペース越しに乗っ取られたり、改竄されたり、さらには死んだ人間も意識的な存在の総体をROM化したりされたりする程度の不安定なものでもある。
物心二元論ではアイデンティティーが確立しにくい人間機械論な世界であり、肉体的な改造を受けたり、記憶や思考や価値をコロコロ入れ替えられる登場人物たちに、一般的に我々が言うような自意識はあまり見られないように見える。

登場人物たちの多くは恐怖を感じるけど、この感情は本能的な反応であるに過ぎない。しかし主人公や主要な登場人物が殆ど感じる事のない、自意識を前提とした感情である「憎しみ」がこの物語の中でかなりのエネルギーを生み出す乗り物であるような扱いをされ、黒幕である人工知能たちが求めていたのが、「自意識」だった。
主人公が自分自身に憎しみを抱く事で得たのが自らの自我、人格、知覚を超えた境地であり、人工知能たちの求めた自意識の形はサイバースペース自体との結合だった。
新しい形の自意識というのが自我を捨てる事で世界や大きな存在と一体になるというのは、どこかでよく聞く様な話ではあるけど、それが未来の方向でこういう風に結実されるというのはちょっと珍しいように思った。

というわけで、私は「自意識」のあり方とか可能性を見るような読み方をしたけど、自分でもこれはちょっと違うような気もする…

参考サイト
ウィキペディア:ニューロマンサー
ウィキペディア:ウィリアム・ギブスン

2007年01月04日

●内ガンダーラにジャック・イン

「お天気メールを見るたびに土偶さんを思い出してます。」と年賀状に書いてあり激しく胸キュンだ。「また遊びに連れてってください。」と書いている人が数人いるも、どちらかというと俺のほうが遊びに連れて行って貰っているのだが…と思う。
つくづく去年は内に籠るような自己完結型の自分勝手な生き方をしていたなと反省すると同時に、何でこんな俺にみんな親切にしてくれるのだろうと不思議に思うよりも有難く思う。

来年のことを言うと鬼が笑うと言うので、去年のことを振り返ると鬼は怒るだろうからもう言わないことにするとしても、今年こそもうちょっとまともな生活を送りたいなと思った矢先に、いきなり正月から思う存分これ以上無いと言う程に引きこもっている自分に気付き愕然とする。

閉じた永久機関であるかのように見える内的な運動のサイクルを上げるために反応の環をどんどん小さくしようとするような、または、エネルギー順位が下がる反応の環の運動を保つためにそのサイクルを小さくするような印象を自分自身の「引き篭もり」に感じる。
そもそも「永久機関」などと言う時点で「ありえない物」という前提があるのやろう。「ユートピア」が外の世界の「すばらしく良いがどこにもない場所」なら、私の「引き篭もりライフ」が目指すところは内的世界の「すばらしく良いがどこにもない場所」という事になろう。
どこにも無いところを目指しているにも拘らず、その試みが潰えたところで死ぬわけでもない。いうなればそれら全て「余剰物」でしかありえない。
それでも、何かしらの素晴らしいものは全て余剰物から生まれてきたのではないか?と苦し紛れの反論の手がかりを暗い虚空に求める手がオッカムの剃刀でズタズタに切り裂かれる。

とは言いつつも、せっかくのありがたい正月休みやねんから思う存分好き放題やってもええやんということで、『ドン・キホーテ』の後編に取り掛かる前に、今日からはウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』の世界にジャック・インだ。

2007年01月03日

●ミゲル・デ・セルバンテス 『新訳 ドン・キホーテ 前編』

現在でも比喩として使われる事の多い古典中の古典、ミゲル・デ・セルバンテス『新訳 ドン・キホーテ 前編』を読了。

騎士道物語の読み過ぎで頭がおかしくなって自分を騎士だと思い込み、世の中の全てを騎士道物語の世界に置き換えて見る中年から老年にさしかかろうとする地方貴族「アロンソ・キハーナ」が「ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」と名乗り、痩せた駄馬「ロシナンテ」に跨り、皇帝になったあかつきには伯爵にしてやるという約束に釣られた従士「サンチョ・パンサ」を引き連れて遍歴の旅に出かける。
狂気としかみなされず、嘲笑されずにおれない彼が、巨人とみなされた風車、城だとされた旅籠、姫君扱いされる女中などを相手に様々な騒動を引き起こす様を描いた物語である。

私の読んだ牛島信明訳は「新訳」とあるだけあって、1999年のものとかなり新しく、最も最近の2005年の訳である読みやすさを追求した荻内勝之訳、原文に忠実で古いが故に古語が混ざってちと読みにくい会田由訳の間に位置するようだ。

amazon ASIN:4000241109 セルバンテスはシェイクスピアとほぼ同時代の16から17世紀のスペインの作家で、不幸な生い立ちの上に兵士になったものの捕虜になったり左腕の自由を失ったり、本国に戻るも貧乏にあえぎ、揚句に投獄され、大ヒットとなった『ドン・キホーテ』も版権を安くで売り渡していたために生活を潤さず困窮のまま生涯を終えた、中々大変な人生だったようである。

現在ではセルバンテスの作となる『ドン・キホーテ』は前編と後編として大抵セットになってるけど、発表当初は10年の間隔を空けて出版されたものであり、前編は『英知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』として1605年に出版され、年内で6版を数えるほどの人気を博した。その続編となる後編は『英知あふれる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』として1615年に発表された。

読み始めて始めて知ったのだが、この『ドン・キホーテ』は聖書に並んで世界中で広く出版されており、2002年5月8日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得し、最初の近代小説とも言われるらしい。

本の読み過ぎで本の中の物語と現実が逆転して狂人となり、人に嘲笑され、マジ切れされてボコボコにされる彼の物語は、多くの熱心な本読みにとっては他人事ではないだろう。
ドン・キホーテ自身の理想やら言動や考え方は、一個人としてみた場合は立派なもので尊敬に値するやろうけど、しかしながらそういった彼の考え方やものの見方は、彼から世直しされようとする側の世間から見れば狂気の沙汰でしかないし、その理想と世界観に基づく彼の行動は迷惑でしかない。
理想を追求すればするほど、世間からは狂人と見なされ、それを世間に還元しようとすればするほど迷惑な存在なってゆく様は、典型的な個と他の分裂のあり方であろう。

決してハッピーエンドに終わらないこの物語は、「ドン・キホーテ」と「サンチョ・パンサ」といったシェイクスピア的な人間類型のパターンを創造したものの、「ドン・キホーテ」側からすれば自らの高邁な理想と野望が狂気としてしか見なされずに潰える悲劇であり、世間からすれば一介の狂人が引き起こす喜劇以外の何物でもない顛末でもある。
この、読んでると余りに痛々しくて悲しくなってくると同時に、笑わずにはいられない、シェイクスピア的な悲劇とも喜劇とも括り切れない、悲劇と喜劇が表裏一体となったような構造もこの物語が読み継がれる一因であろう。

また、ドン・キホーテ自身も理想に燃える勘違い男というだけではなく、旅に出た当初は風車を巨人と思い込むほどの勘違いっぷりを発揮するけど、第三部の20章で遺言を残してまで立ち向かった山中に響く不気味な大音響が織物工場から発するものである事に気付いてからは、マンブリーノの兜が洗面器にしか見えない事を認め、思い姫への届かぬ思いからの苦行を形だけとして真似し、ドローテアが王女でない事が発覚してもあえて無視し、なにかしら自分の見方と本当の事のギャップに気付きながらも、今更それをやめられないような雰囲気に見えるような、複雑な精神構造も見受けられ、シェイクスピア的な人間類型のパターンに収まりきらない彼自身の人間的な魅力もまた、この物語を不朽の名作とした一因であると思う。

ドン・キホーテの遍歴の旅はそれ自体は決して成功とは言えなかった。
しかしながら彼がみずからの普遍立法と言わないまでも、自分の信じるままを行い、理想の無い時代に理想を、正義の無い時代に正義を打ちたてようとした彼の冒険は、時代錯誤であり全く理解されなかったが故に、彼自身が尊敬し理想であるとした騎士「アマディス・デ・ガウラ」を遥かに凌ぐ名声を彼に与え、彼が歴史に名を残す事となったのはなんとも趣深いものである。


今年からは参考にしたサイトを書くことにした。

参考サイト:
ウィキペディア :ドン・キホーテ
ウィキペディア :ミゲル・デ・セルバンテス
2ちゃんねる:文学板「【ドン】ミゲル・デ・セルバンテス【キホーテ】」スレッド

2007年01月02日

●21世紀もブリアレーオだらけ

今日も引き続き『新訳 ドン・キホーテ』の世界に浸る。
浄瑠璃、長唄などの邦楽をラジオで聞きながら読んでいたのだが、妙に勘違い騎士道物語の世界にしっくりきた。
前編の序盤にも関わらずどんどん酷くなるドン・キホーテ・デ・ラマンチャの扱いに同情する。
思ったよりエグくて痛々しい物語やなこれは…

もはや比喩として使われるのでさえ古臭い『ドン・キホーテ』なんかをこの時代に読む意味がはたしてあるのか?
それこそ『ドン・キホーテ』の主人公アロンソ・キハーナ以上の時代錯誤な所業ではないのか?
つーかもう21世紀やで?
なんか自分が21世紀にいる事に違和感を感じる。はたから見れば、自分も風車を巨大な敵だと勘違いして突撃したり、伝説の兜やと思い込んで洗面器を頭にかぶるような行為に類する何事かを行っているように見えるんやろうな。

2007年01月01日

●元旦企画「ミニプチミクロボイジャー計画」

12月31日のエントリに書いたような事を繰り返して書くのも何やけど…

新年のお慶びを謹んで申し上げます。
2007年も土偶StaticRouteと土偶をなにとぞよろしくお願い申し上げます。m(__)m

いきなり日付詐称エントリから始まる元旦である。
朝から『新訳 ドン・キホーテ』を読み始める。
騎士道物語の読み過ぎで頭がおかしくなり、自分が騎士だと思い込んで現実の全てを騎士道で置き換えてバカな事ばかりやって関わる人すべてに嘲笑される男の物語を、これまた元旦から必死に読んでいる図と言うのはなんだかシュールやなとふと思う。
夜に元旦らしくウィーンフィルのニューイヤーコンサートなどを観る。ウインナワルツは兎も角、バレエなんか見るのは一年でこの日だけやななどと正月やなぁ。
全く元旦らしくないと言えばそうやし、とても元旦らしいと言えばそうである日だった。

年末に10大ニュースなるものが発表されるけど、土偶にとって2006年に印象的だった出来事を10個列挙してみる。
多分、こういうのは2008年の初め以降になって始めて、しかも書いた本人だけにとって意味を持ち始めるのやろう。
まぁ、とてつもなく考え得る限り規模の小さい「ボイジャー計画」みたいなもんやね。

2006年、土偶にとって印象深い10の出来事。