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2006年12月31日

●An die Freude

今日、このエントリで丸一年間毎日休むことなくこのブログに投稿したことになる。
日付詐称や本の感想やコンピューター関係の記事での「埋めエントリ」こそあれ、開設当初に目指していた1日1エントリは達成した。
書くことがある日も無い日も、ノリノリの日もとてもそんな気分じゃない日も、ネタを熟成させる間も無く思いつくまま感じるままを、入力された情報を脳で処理せず脊髄で突き返したように投下したので、このブログが質よりも量の、反射運動のごとき文章の集積になってしまったのはまぁしょうがないとしても、とにかく毎日欠かさず何かしらの文章を書き続けられた事は、不肖土偶にとってとても嬉しく自信になったし、ここまで続いたのも読んでくださった皆様のお陰だととても感謝しております。

N響の第九を聴いてじんわりする。去年は敬愛するウラディーミル・アシュケナージが指揮でうひょーやったけど、今回はカリーナ・ババジャニャンなるソリストのソプラノが良い感じでうっとりやった。
今年2006年はモーツァルト生誕250周年のモーツァルト・イヤーと言う事でこの第九の後にウィーンフィルのモーツァルトが年明けまで聞けるらしくありがたや。そういえば、今年はオペラをきっかけにモーツァルトが好きになった年でもあった。
モーツァルトとベートーヴェンのピアノソナタを交互に聴いていると、確かにベートーヴェンがモーツァルトに繋がる古典派の系譜である事が良くわかる。
まぁそんな事はいいとして、とにかく、土偶の一生の中で何かしらの区切りと色々な意味で象徴的な年となるであろうこの一年を、なんとか生き延びられた事をありがたく思うと共に、大いなる何者かと皆様に感謝する。

今年、このブログも土偶自身もダウナー系まっしぐらやったたけど、来年こそは明るい話題と楽しげな文章を書くことが出来ると良いなと願って、
Ludwig van Beethoven Symphonie Nr.9 in d-moll Op.125 第四楽章のレチタティーヴォで2006年の最後としたい。

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
(おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか)

来年も、土偶StaticRouteと土偶をなにとぞよろしくお願い申し上げます。m(__)m

2006年12月30日

●ベルナール・ウェルベル『蟻』 『蟻の時代』 『蟻の革命』

ベルナール・ウェルベルの『蟻』『蟻の時代』『蟻の革命』を一気読み。
それぞれ3冊が連続した物語になっており、「蟻」と「人間」の世界、その二つの世界を説明し補完するような架空の書物「相対的かつ絶対知のエンシアクロペディア」からの引用、と三つの物語から構成されている。
フランスで科学雑誌の記事を書いていた著者が、蟻が好きで好きでたまらないという情熱を全て傾けた末に生み出されたこの物語のメインはやはり蟻の世界。
科学的根拠に基づいたSFとはいえ、単なるおとぎ話やハリウッド的活劇に終わらない。

これは面白かった。面白すぎる。

内容を要約するにも長大な物語であり難しいけど、
がんばってネタバレなしに書いてみると…

amazon ASIN:4042915019 amazon ASIN:4042915027 amazon ASIN:4042915035 伯父であるエドモン・ウェルズの残したアパートの地下へと続く扉の向こうに消えた男を追って、その妻、息子が次々と姿を消す。救助に向かった警察、消防もただ一人発狂してしまった男を除いては誰も戻らなかった。
同じ頃、赤アリ連合の一翼を担う城塞都市ベル・オ・カンが冬眠から目覚めた。食料調達の為に旅立った遠征部隊が瞬時に壊滅し、唯一の生き残りである若き雄アリ327号は敵対勢力の何者かが新兵器を使用した事を確信する。
都市に戻った327号は女王ベロ・キウ・キウニに新兵器の存在を進言するも取り合われず、有性アリ56号、兵アリ103683号と共に独自の調査を開始したものの、新兵器の謎を探る三体に都市に潜んだ暗殺者たちが次々と襲い掛かる。
小型アリに制圧された連合国を解放するための軍事行動である、戦車、細菌兵器の新兵器がふんだんに投入された「ケシ丘の戦い」に参戦した103683号は新兵器の謎を求めて地の果てへと旅に出発し、婚礼飛行の後に56号は女王シリ・プー・ニとなる。
この二体のアリ103683号と56号を軸に新兵器をめぐる謎は急速に動き出す。新兵器の背後には一体何があるのか。城塞都市ベル・オ・カンとアリ達のの運命は。そして56号と327号のロマンスの行方は。

といったところまでが『蟻』の内容であり、次の『蟻の時代』は

科学者ばかりが狙われる連続密室殺人事件が起こる。死因が「恐怖による心停止」であるこの事件の謎を、反目しつつも惹かれあう敏腕警視メリエスと記者であるレシティアが追い始める。
不穏な動きを見せた城塞都市ベル・オ・カンを占領して制圧し、ニ王朝333代女王となったシリ・プー・ニは最大の敵である「人間」を絶滅させるべく「十字軍」を編成した。
地の果てから帰還した英雄103683号に率いられて進軍を開始した「十字軍」は諸国の多種の昆虫たちを打ち負かして編入し、様々なテクノロジーと新兵器を得て膨大な数に膨れ上がっていた。
一方「神」「自己」などの抽象概念を知った城塞都市ベル・オ・カンのアリ達の間で宗教が生まれ、宗教、哲学論争の勃発により対立と迫害が激化する。都市だけでなく「十字軍」内にも飛び火したその宗教論争は軍隊の秩序と士気を大きく乱すこととなる。
十字軍、宗教論争、連続密室殺人事件、そして103683号の運命は驚くべき結末を迎える。

最後の『蟻の革命』は
世の欺瞞や醜さにうんざりしている孤独な少女は森で「相対的かつ絶対知のエンシアクロペディア 第3巻」を拾いそれに没頭する。反抗心の塊のようだった少女は七人の友人を得て、拾った本を読む事でどんどん心を開き変わってゆく。
十字軍の遠征の後、人間と争うのでなく対話と協力が必要だと考えた103683号は、遠征中だったベル・オ・カンの特殊部隊12体のリーダーとなり、共に故郷を目指す。寿命が尽きようとする103683号は延命の為に苦心の末手に入れたスズメバチのローヤルゼリーで女王候補の有性アリへと変化し、小型アリに包囲された十字軍の生き残りの仲間を救うため、また自らの主義を守るために、封印された禁断の兵器「火」を使う。
芸術、技術、著述などのセクションを受け持つ12の側近のサポートの下でニ王朝334代女王となった103683号は、自己、他者、愛、憎しみ、神、自然、世界などの新しい概念に悩みながらも、恐ろしい威力を持つ火の使用と王国に混乱をもたらす宗教団体への対処を決意する。
国内を平定した103683号は数百万の様々な昆虫でなる軍勢を引き連れ、悲願であった人間との対話の大使として出撃する。

三巻を通して、交互に語られるまったく別の物語、フォンテーヌブローの赤アリ都市とそこから6キロ離れたエドモン・ウェルズのアパートを中心として始まった人間たちの物語はやがて交わり一つの物語へと収束してゆく。

と言う感じでいかにも面白そうやし実際面白かった。
宗教問題、核問題、環境問題、戦争、社会体制といった社会問題、そして性、愛、存在論、生きる意味などの古典的な哲学的命題、と掘り下げるまでもなくいくらでもテーマは満載されているけど、そのテーマを掘り下げるのが蟻だと言う事で説教臭さとか押し付けがましさがなくなっている。
しかし、それよりも何よりもストーリーテリングの巧みさと赤アリ王朝の年代記に酔いしれるべきであろう。

昆虫好き、いきもの好き、人間嫌いの皆様はもちろんの事、アリとシロアリとゴキブリの区別がつかない様な人にも、自信を持ってお勧めできる本である。

2006年12月29日

●アントな気分

一昨日、昨日と『レダ』と言う名の「重い重いSF風ライトノベル」の世界にどっぷりつかっていたが、今日からはベルナール・ウェルベルの『蟻』シリーズを読み始め、「蟻」の世界にどっぷり浸かる。
かろうじで「留守番」という接点でのみ外界とつながり、ひたすら蟻の世界に没頭する。この本は面白すぎる。

一日で割り当てる事が可能な時間の全てを本を読むのに使い、頭の中は蟻に埋め尽くされる。
本、本、ひたすら本。薬物やアルコールに依存するがごとくに貪欲に活字を貪り、ひたすら本を読み漁る。
少なくとも本の世界に没頭している時は自分を取り巻く現実とは別次元にあるわけで、現実から確実に逃避する事が可能になる。

本だけに没頭する事が可能な時間と環境があるのは幸せな事なのだろうが、ここまでして現実からダイビングする事を望む必要性がある状況が幸せと言い切れるのだろうか?と思いつつまた本の中の蟻の世界に没頭する。

2006年12月28日

●栗本薫 『レダ』

二日かけて栗本薫 『レダ』を読み終えた。
初版は1983年、今から20年以上前の本であり、文庫本にして三冊分、二段組のハードカバー600ページほどと中々長大な物語だった。
この作者は私が読み続けている『グインサーガ』の作者でもあり、この作者とこの作者の書くものはSFかライトノベルとカテゴライズされるようだ。

人が人を生むことは無く、全ての人間は工場の人工授精により人口胎盤から生まれる、人の帰属先は家庭でも特定の人でもなく社会でしかありえない、家族関係と恋愛関係という人間の弱さと悲しみを生む枠組みを根本から取り払った、「個人」を最重視した社会システムがある。
職業の選択、ありとあらゆる嗜好、またそんな社会に反抗する者ですら受け皿を用意して許容し、全ての人間が平等に尊重されて平等に自由を持つ、全ての人が幸福になる権利と義務をもつ、全てがコンピューターによって計算しつくされた理想社会。
そこに暮らす平凡な少年イヴがある日「レダ」に出会ったことから全てが始まる。自己、性、社会、生、死、様々な事を考えて悩み、様々な人との出会いと別れを通してイヴは大人になってゆく。そして気がつけば平凡な少年であったはずのイヴは行き詰まりを見せかけた全銀河の社会システムを根本から変革するような存在になっていた。

amazon ASIN:4152032251 時代や社会設定はSFであり、キャラクター設定はライトノベルであり、古典的教養小説のパターンの少年の成長物語でもある。
webでは全体主義やユートピア思想への批判であり、自由論であり存在論であり社会論であるという人もいる。
これだけ長大な物語であり、またその殆どが会話であり独白であり思いであるといった、物語自体よりも物の考え方や見方が能弁に語られる構造からも色々な読み方が出来るだろう。
またこの本を「人生に残る本」やとか「人生を決定付けた本」だと言う人が多い訳もよくわかった。
少年の成長物語をこの年になって読んでも、この本が読者の抱えている問題や疑問について主人公が自分の問題として真面目に真正面から本気でぶつかっていこうとする物語である事を、この物語を読む沢山の人が見出すであろう事はよくわかる。

特別な才能や力に恵まれた超人的な主人公でなく、読者自身を容易に投影しやすい、自分が余りにも平凡で取るに足らない何者でも無い存在であると感じ、そして平凡で無力である事に悩み苦しむ少年が主人公であると言うところが多くの人をひきつけたのだろう。

普通になりたいながらも自分が普通でないこと感じ、それでもどこまでも自分があらゆる意味で凡庸である事実を喜べずに絶望的な気分になる人にとって、この物語は何かしらの慰めを与えてくれるのではないだろうか。

「本ばかり読んで何もしていない」と自虐的に言う私が「本を読むと心が豊かになります」とある御仁に慰められて嬉しかった事が最近あったのだが、まさにこの本は心を豊かにしてくれそうな本だった。

2006年12月27日

●土偶ラメンタービレ

年末年始に大量に有給を取ったお陰で今日から正月休みに突入。
銀行を回り、今年最後の図書館でリミット一杯まで本を借り、そこらじゅうを駆け巡って雑用を片付ける。中綿入りのコートを着て自転車で走り回ったお陰で汗までかいた。
用事は全て済ませて引きこもり準備完了。これで年明けの仕事始めまで外に出る必要は無い。

amazon ASIN:B00005L9G9 夕食後に「グラン・ブルー」を観る。
ジャックの言葉「海底は辛い。上がって来る理由が見つからないから」とエンゾの言葉「陸よりも海の中がいい。」に激しく心を揺さぶられる。
その気持ちは痛いほどよくわかる。確かにこんな陸の上で生きるよりも海の中にいるほうがはるかに居心地が良い。できる事なら俺もそうしたい。
お互いを理解しあえない水棲生物と陸棲生物の恋は決して成就する事は無く、水棲生物にとっての陸上の生き辛さは耐え難かった。
水棲生物の二人が海に還ってゆくのは当然だとしても、その様は何ともいえない悲しみを醸し出していた。

その後『レダ』を読み始め、出だしの数段落の尖って脆くて繊細な感受性から語られる言葉が、既に心の変な所にぐっさりヒットしているのを感じる。このいかにも世を生き辛く感じそうな主人公の少年についての、これから綴られるであろう長大な物語が悲しみに彩られる予感を感じる。しばらくはこの悲しい予感に満ちた物語に浸ることになるだろう。

風呂に浸かって終わろうとする今年一年のことを考えてみる。考えれば考えるほど、じわじわと湯が体に沁み込んで来るように、妙な悲しみがわいて来る。
頭を振って考えるのを諦め、湯船に潜ってみる。

というわけで、何をしても何を観ても妙な悲しみを感じる一日だった。まぁ、そんな日もあるでしょう。

2006年12月26日

●ジェフリー ディーヴァー 『青い虚空』

中々に有名で定評の高い「ハッカー小説」もしくは「オンライン犯罪もの」であるジェフリー ディーヴァー『青い虚空』を読了。
文庫で650ページほどと中々長い本やったけど二晩で読み通した。

ドットコムバブル真っ盛りのシリコンバレーで、護身術のwebサイトを持つ著名な女性が惨殺されたことを発端にした連続殺人事件が幕を開ける。被害者に関する情報を、既に消滅したかに見えるボットを仕込んだ被害者自身のPCにから入手し、綿密な下調べと周囲の携帯電話の通信をブロックした上で犯行に及んでいる事を突き止めた警察は、犯人はとてつもない力を持つハッカーと関係があると断定。
警察の手に負えないことを悟った捜査本部長は服役中の伝説のハッカーを仮釈放して捜査に加える。
政府、プロバイダ、電話会社、大学、そしてアングラニュースグループとあらゆるサーバーとあらゆるネットワークを舞台に善玉ハッカーチームと悪玉ハッカーチーム?が死闘を繰り広げる。
どんでん返しに次ぐどんでん返しにストーリーは二転三転する。
息詰まるネット越しのクラック合戦あり、心温まる警官と服役囚との友情ありと中々盛りだくさんで面白い小説だった。

amazon ASIN:4167661101 どっちかと言うと不肖土偶はこういう世界というか業界の「中の人」の側にいる事になっている訳やけど、細かさと言うかリアリティーに関して、オンラインでの侵入とか攻撃の怖さに関しては、同じくそういう業界の中の人が書いた『カッコウはコンピューターに卵を産む』の方が良かった。

ぶっちゃけ悪玉ハッカーの一番派手な技はソーシャルエンジアリングという名の「変装」であり、ハッカー同士の対決はとてつもない威力を持つ魔法のコマンド群やらツール群の撃ち合いであり、この本からこの業界の人間が得られる教訓と言えば、どんな堅牢なシステムやネットワークを作ったところで「スーパーハッカー」なる超人の辞書にセキュリティーなる文字は無いという都市伝説は本当であり、なによりも上司と業者に変装するのが一番敵システムへの侵入が容易であるから気をつけよう。というところだろう。

とはいってもこれは技術書でなくエンタメ小説なわけである。
物語の中で悪玉ハッカーに標的にされた少年ハッカーがふと思った「もしかするとコンピューターのおかげで、世の中はより昔の超自然的な-より魔法がかった-時代に還ったのではないか」という意見がこの物語を如実に語っているような気がする。
不肖土偶の書くスクリプト程度でもコンピューターに詳しくない人からすれば「呪文」や「魔法」でしかありえないわけで、この物語のなかに登場するハッカーはパケットのヘッダを書き換えてデーターを隠すという細かい事から、ありとあらゆる公共システムを暴走させるところまでするわけで、もう白魔法も黒魔法も召還魔法も全部使える魔法使いとしか言いようが無い。
強大な魔法使い同士の放つ火の玉やとか電撃やとか召還獣が交錯する戦いを眺めるのはいくつになっても面白いものであった。

2006年12月25日

●意味テロリズム

「ガルシア・マルケス」をwebで検索すると一番最初に鞄のブランドが出てきて、「世の中そんな事になってんのかー」と最近驚いたのだが、同じような事を感じている人はやはりいるようで、しかもそれが土偶がいつも巡回しているお気に入りの日記サイトの某レディーだという事で妙に嬉しい。
土偶に限らずその某レディーを含めそこそこの本好きにとってガルシア・マルケスといえばノーベル賞作家のガブリエルで、『百年の孤独』の作者としか思い浮かばんやろう。

しかしながら、その某レディーが言うには、そういうオシャレなバックを持つギャルは「百年の孤独」を一生知らず、「百年の孤独」を無人島に持っていく本に上げる人はギャルに人気の鞄のブランドなんか一生知らないだろうという、なんだか物凄いパラレルワールドが展開されてるようだと仰っておる訳で、
そういう全く異なった二つの人種が同じ言葉を共有しているというのは、その二つの人種が「棲み分け」ているというよりは「相容れない」状態にあると言った方がええのか?と改めて思った。
「無人島に持っていくほどではないなぁ」等と考える時点で、土偶がそのどっちに自分がいるのかというとそんな言うまでもないことやし、まぁそういう世界に縁が無くてもしょうがないやね。と思い込んでおこう。

しかしながら今度は『百年の孤独』を検索すると大麦焼酎もヒットするわけで、「百年の孤独みたいな話やな」などと口にするとこれまた違う意味を指してしまいそうで意味の世界もなんだかゆらゆらと揺らぎ始める訳である。

その某レディーは、こうなったら「サマンサ・タバサ」って人にノーベル賞受賞して欲しい。なんて事をおっしゃっておりますが、土偶としてはさらに「アルフレッド・バニスター」って人にもノーベル生理学・医学賞あたりを取って貰ってもう何がなんやらぐちゃぐちゃにして欲しいと思う冬の夜であった。

2006年12月24日

●イタロ・カルヴィーノ 『不在の騎士』

私にとって1959年に発表されたこの『不在の騎士』が初イタロ・カルヴィーノとなる。
1923年に生まれて1985年に没した彼は、20世紀イタリアの国民的作家と見なされているらしい。

アマゾンで

中世騎士道の時代、シャルルマーニュ麾下のフランス軍勇将のなかに、かなり風変わりな騎士がいた。その真っ白い甲冑のなかは、空洞、誰も入っていない空っぽ…。『まっぷたつの子爵』『木のぼり男爵』とともに、空想的な“歴史”三部作の一作品である奇想天外な小説。現代への寓意的な批判を込めながら、破天荒な想像力と冒険的な筋立てが愉しい傑作。

と紹介されている通り、昔ながらの中世フランク王国の十字軍を舞台にした騎士道の物語で、登場人物から設定から世界観から語彙といたるところまで中世的な物語である。

amazon ASIN:4309462618 空っぽの白く美しい鎧だけの存在、或いは強い意志だけ非存在の存在である「不在の騎士」たるアジルールフォ。その従者である、鴨を見れば鴨に、スープを飲めばスープに自分を同一化してしまうグルドゥルー。
その肉体的な存在は無である強い意志だけの存在であるアジルールフォと、自分という意識を持たない肉体的な存在でしかありえないグルドゥルーの対比が際立つようになっていたけど、余りに人間臭く、余りに感情臭漂う『ペテルブルグの文豪』を読んだあとでは、寓話臭く説教臭く仄めかしとわかりやすさに満ちたこの物語がなんとなく鼻についた。
中世騎士道の物語とかを殆ど知らん私にとってはキャラ付けがイマイチわかってないこともあり、この話の面白さが半減していたのかもしれない。
半身浴をしながら一気に二時間半で読んだせいかもしれんけど、リアリティーを露ほども感じなかった。

考えてみればこの本にリアリティーを追求すのは間違いなのかもしれない。中世騎士道の寓話的で象徴的な御伽噺として読まなかったのが間違いだったのだろう。
『まっぷたつの子爵』『木のぼり男爵』とあわせてこの本が「自由へと至る三段階」を表す最初の一作であると著者自身が述べている事と、アジルールフォとグルドゥルーの設定の事の二つから、読む前から過剰な期待をしすぎていたようだ。

能書きの多い奴ほど…とは言いたくないけど、本の感想ではなるべく否定的な事を書かないようにしてきたつもりやったけど、そうなってしまって残念。
いずれにせよ、なんか単純に物語を物語として楽しめなくなったのを感じた。

●J.M. クッツェー 『ペテルブルグの文豪』

J.M. クッツェーが1994年に書いた『ペテルブルグの文豪』を読了した。
「ペテルブルグの文豪」とはドストエフスキーのことを指しており、読む前は彼の伝記的な小説やと思ったのやけど全くそうではなく、どちらかというとクッツェー自身の投影にペテルブルグのドストエフスキーと言う設定を与えているだけのようだ。

義理の息子が自殺したと言う報を受けたドストエフスキーがペテルブルグに赴いて、彼の住んでいた下宿で暮らし始める。
愛する息子が死んだ事実を受け入れられず、息子のスーツを着てうろつき回り、息子が死んでいない証拠と、息子が蘇る手段を必死で探す。
息子が胡散臭い革命運動に参加していた事を知り、革命運動家、下宿先の母娘、そして警察に押収されていたものの返却されて来た息子の書き物を通して息子を追体験しようとするだけでなく、息子の変わりに彼の参加していた革命運動を反故にしようとし、息子の変わりに子供を残そうとし、息子の日記の続きを書き、息子の人生の続きを生きようとする姿は何とも痛ましい。

ペテルブルグと言う土地柄に何とも似合った、湿って凍えた暗雲立ち込める灰色の暗いトーンが全編を支配している。
絶対ありえない奇跡にたどり着く事を期待して、不毛に同じところを堂々巡りする、暗くて行き場の無い息詰まるようなこんな思考は、クッツェー自身が経験した「息子を二十歳で自殺によって失う」事に対する彼なりのスタンスなのかもしれない。

これは読むのが中々しんどかった。

amazon ASIN:4582302254 この物語は架空のドストエフスキーの物語という殻を被った、クッツェー自身の「息子を二十歳で自殺によって失う」経験に対する物語である事は間違いないと思う。
一歩引いて言えば、「どうしても受け入れたくない喪失に対峙した時の物語」ともいえるだろう。

クッツェーが史上最も偉大なロシアの小説家の一人であるドストエフスキーに対してこのような役柄を割り当てたのは、「失ったことを悼むのは決まりであって、例外ではない」と言うように、こういった状況に陥った場合にこういった暗い無限ループに陥るといった状況は誰でもに平等に起こりえる事だからであろうし、クッツェー同様に彼も小説家であり、物語を物語る事によってどこかしらに行き着こうとする人種でもあるということではないだろうか?

「これはたとえ話ではない、物語なんだ。物語というのは他の人々に関する話だ。その中に君自身の場所を探す必要は無いんだ。」と言うようにクッツエー自身は自分の体験をドストエフスキーに投影し、他人の物語としてどこかにたどり着こうとしたのではないか。
この物語の最後で主人公は「パーヴェルは死んでよかったのかもしれないという思いが、初めて彼に生じる。そういう考えを持った今、彼はそれを否定することなく、真正面からそれに向かいあう。」という思いを持つ。
愛する息子を死んでよかったと思えるようになるのがどのようなものなのかを想像する事はできないけど、少なくとも私には理解できない到達点の一つではあるのだろうし、様々な矛盾と混沌が一つの形を取った概念のようにも見える。

物語の中でこの苦しみを通り過ぎたドストエフスキーはやがて『カラマーゾフの兄弟』を書く事になる。その事がクッツェーにとって何かしらの救いに見える事くらいは私にも理解できる。

誰も私を好きになってくれない。ふられてばかりで悲しすぎる。などと自分を愛の殉教者のようにのたまう御仁は、愛ゆえに理性を保ちながらも狂気の淵に自ら飛び込む主人公が登場するこの物語を読んで頭を冷やすのが良かろう。

2006年12月23日

●同情するなら…

某ニーチェさんの描く某ツァラトストラさんの言うところによれば、神は人間への同情のために死んだと言う事になっているらしい。
それの指すところの意味なり是非なりは兎も角として、少なくとも「同情は神をも殺す破壊力を持つと考えられる」と捉える事も可能であるに違いない。

往々にして、最後の手段として「同情」に訴えかけようとする輩は多いし、自らの「同情」が主な動機として端を発した行為が上手くいったためしなど殆どないように思われる。

同情がより低いレベルに自分と対象の人間を留まらせておこうとする感情の動きとして働く限り、同情からは何も生まれないだろう。
同情としての反応が得られる閾値はどんどん上がり、同情と言う燃料を補給するために状況はますます酷くなる。と穿った見方をすれば、同情の行き着く先はあまり好ましいものではない場合が多いやね。

とはいっても「同情」の感覚は何とも甘美なものである。
火に飛び込んで自らを提供する兎でも、「この人の血について私には責任がない」と手を洗うローマ総督でもないスタンスで、他人や自分の「同情すべき状態」に向き合うのは中々難しいものである。

2006年12月22日

●全男性の代表としての、十字架上の土偶の弁明

仕事後に「忘年会のようなもの」に参加するために町に繰り出す。
街中を闊歩中に、ここ一年は会っていない中学時代からの友人から夏ぶりに電話がある。道端に立ち止まりしばらく話す。
色々なものが過ぎ去って通り過ぎて行った中で、彼は彼として依然としてそこに在る。
奴と話した事で限りなく「普遍」に近い何かしらを自分の中に見つける事が出来てとても力づけられる。おかげでこの時期特有の町一丸となった白痴のごとき精神攻撃をものともしなかった。

十字屋でゴールドベルグ変奏曲の弦楽三重奏のもの、クラシックギターのものを立て続けに試聴し、何かこみ上げて来るものを感じる。
こういう類のもので俺は出来ている事を激しく痛感し、どっぷり鼻の上まで音楽に浸りきる。

「そろそろつくよメール」の着信で我に返り、会場へと向かう。

土偶が梅酒ソーダーを一杯飲む間に、女性三人は焼酎で出来上がる。
無駄にゲラゲラ笑いまくり、第一幕の終了。

場所を移して第二幕、コーヒーを飲んでいたはずが、気がつけば「何故男はXXであるのか?」「男がXXするのは何故であるか?」式の質問を矢継ぎ早に射掛けられている。
不肖土偶は一般的男性の範疇から著しく離れているから俺の考えを言ったところで何の参考にもならんと前置きした上で、世界の全男性を代表して熟考に熟考を重ねて答えまくる。最大多数の男性の平均的な感覚だと思われる概念の説明をなるべく丁寧に試みる。
しかし、自分の感覚や考え方ではない事を、そういった感覚や考え方があるものだとして話をするのは一般論で逃げまくっているように感じられ居心地が悪い。
俺が答えれば答えるほど、彼女らの謎は深まるばかり、聴けば聴くほど混沌は深まるばかり。

酒の勢いを借りてヒートアップした弁舌は突如として限定された女性的立場からの、男性的でかつ動物的で衝動的で非論理的な物への強烈な攻撃に豹変する。
周りを見回せば、そこはビルの最上階の夜景の見えるカフェ。周りはカップルかイケてる紳士淑女ばかり。
そこで俺は全人類の原罪の贖罪として十字架にかかったキリストのように、全男性の代表として責め立てられ、アテナイの神でない神を信仰し、若者を堕落させたかどで公開裁判にかけられたソクラテスのように弁明を求められる。
答えられたとは思わないが、ベストは尽くした。理由がなく状況しかないものの理由を如何に答えられようか。脇腹にロンギヌスの槍を受け、毒人参の杯を乾した。エリ、エリ、レマ、サバクタニ。アスクレピオスに鶏を頼む。

酔いのすっかりさめた土偶はゴールドベルグ変奏曲を鼻歌で演奏しながら自転車で帰ってきた。

とちょっとクリスマスネタを織り交ぜて書いてみた。

2006年12月21日

●湯煙ペテルブルグ

年賀状を作る。
ムダにSQLightとPHPでTexに出力して作ろうかと思ったけど、素直にアクセスとワードにしといた。
久しぶりにMSオフィスなんかををまともに触ったけど、異様に分り難くてブチ切れそうになった。
「差し込み印刷てどないすんねんもう!!MSオフィスて俺には向いてへんわ。がー!!」と騒ぎつつも何とか完成にこぎつけた。
年末ギリギリではなくまだ早いこの時期に作るなんて生まれて初めてではないだろうか。

そういうわけで今日の半身浴は一時間でがまんする。それでも、汗をダラダラ流しながらペテルブルグの話を読むのはなんか変な感じ。

半身浴をしながら本を読むと、他にする事が無いのでやたらと集中して読めるのやけど、南米とか南アフリカは良いとしても、ロシアとかのやたらと寒いトコの話はちょっと違和感を感じるのに気付いた。

まぁ、だからといってどうということは無いんやけど。

2006年12月20日

●G・ガルシア=マルケス 『エレンディラ』

例のごとく風呂で半身浴をしながら読破した。

農家の鶏小屋で見世物として飼われる、天使と呼ばれる翼の生えた老人、世界中から人を呼び寄せるほどの薔薇の匂いが漂ってくる、腐った蟹と海草に埋め尽くされた海、誰しもが好きにならずにはいられず、見る人全てを魅了せずにはおれない程の感じが良い水死体、自分の死ぬ日をはっきり知っている、紙を蝶のように舞わせる上院議員、自分を町の皆に認めさせるために、幽霊船を誘導して自分の町の浜に座礁させる男、ペテン師の行商人を生きながらに墓に葬る、治癒力を持った占い師、そして屋敷を家事にした弁償をさせるべく孫娘に客を取らせる砒素でも刃物でも中々死なない緑色の血を流す祖母。
と同じ場所と共通の登場人物が登場する7編の短編が収められた、“大人のための残酷な童話”と言う事である。
1972年にオリジナルが書かており、以外に古い本でびっくりした。
読んでからネットで調べて始めて知ったのやけど、最後の『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』は1983年に映画にもなったらしい。

amazon ASIN:4480022775 マジックリアリズムと言う言葉を多用するけど、ガルシア・マルケスが老人の天使やの緑の血を流す殺しても死なない老婆だの、振れるガラスの色を変える程の恋煩いだのといったストーリーや設定といったいわば外面的な部分だけでその手法を使っているわけは無く、「始めはミミズのように、ついで兎のように、最後は海亀のように愛し合った。」「女はまもなく亡くなったが、先妻のようにばらばらにされてカリフラワーの野菜畑のこやしになるという幸運には恵まれなかった。」などのように内面的な感覚の部分で「魔術的リアリズム」をもって世界を眺めているのが良くわかる。

言うまでも無くそれはラテンアメリカのリアリティーであり、その文化圏の外にいる我々がそれを眺める時には、関西人がサウンド・オブ・ミュージックのように1から10までの数を数える時に節をつけるのに、関西の家庭にスイスの各家庭に支給された小火器のごとくにもれなく「タコヤキ器」が配備されている事実に関東人が理解できない摂理の働きを感じて驚愕するように、我々はラテンアメリカでは人が空を飛び、死人が蘇り、海の中で会話をするのに驚くわけである。

昨日読んだ『愛その他の悪霊について』もそれなりの胡散臭さはあったけど、それは魔女狩りやら悪魔憑きやら錬金術といったどちらかと言うとスペイン風味なヨーロッパ的胡散臭さであり、今日読んだこの『エレンディラ』は純粋なラテンアメリカのマジックリアリズムな胡散臭さやと思う。
どう見ても胡散臭いこういった話が、ある世界では確固たる信憑性を容易に抱き得る程の客観的事実として受け入れられている様を読むと、現実ってのは結構脆弱なもんやねんなと思わざるを得ないわけであり、
こんなはずじゃなかったことは、あんなはずでもなかったんだよ。ということである。

2006年12月19日

●G・ガルシア=マルケス 『愛その他の悪霊について』

ガブリエル・ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』を読んだ。

愛は成就されず、成就されるのは愛でないものばかり。十二月の最初の日曜日、十二歳になる侯爵のひとり娘シエルバ・マリアは、市場で、額に白い斑点のある灰色の犬に咬まれた。背丈よりも長い髪の野性の少女は、やがて狂乱する。狂犬病なのか、悪魔にとり憑かれたのか。抑圧された世界に蠢く人々の鬱屈した葛藤を、独特の豊饒なエピソードで描いた、十八世紀半ば、ラテンアメリカ植民地時代のカルタヘーナの物語。

とアマゾンでは紹介されている。
死後も伸び続ける22メートル11センチの髪を持つ少女の頭蓋骨、死人を還して寿命を延ばす薬を開発し、死の日時を予言して古典ラテン語で思考する医者。とマジックリアリズム全開の物語で、これぞラテンアメリカ文学と言う感じ。

奴隷制度が横行し、異端裁判の嵐が吹き荒れる時代のいかにも怪しげで胡散臭さげな雰囲気が何ともいい。
扉に引用されたトマス・アクィナスの「髪の毛は、体の他の部分よりもずっと生き返りにくいもののようだ。」という言葉がそんな雰囲気をなんとも盛り上げている。
カトリックでは聖人とされているスコラ哲学者の言葉であると言うところがまた何とも良い。

amazon ASIN:4105090070 愛というもんによって人はどれだけ変わってしまうかというところで、娘の父である伯爵、娘を愛する修道士デラウラ、そしてデラウラを愛するようになる娘の三人が詳細に描かれるわけやけど、伯爵は娘を修道院に入れてしまったショックでおかしくなってハゲタカに喰われて死に、悪魔を祓いに近づいたはずの少女を好きになってしまった修道士は異端と悪魔に屈服した烙印を捺され、修道士から引き離された少女は半狂乱になって典型的な悪魔憑きに見えるようになる。

結局「愛に燃えた」状態がはたから見れば「悪魔憑き」にしか見えないと言う事と言う事になるし、また、そんな彼らを断罪する狂信的な司祭や修道院長も何かに「憑かれている」点では彼らと変わる事はないように見えるわけである。

その他にも、娘を憎み男奴隷を侍らせるも醜くなって男奴隷にすら逃げられて絶望して酒に溺れる伯爵夫人、同僚を二人刺し殺して人殺しの自由と信仰を両立させる修道女など、何か悪霊に取り付かれているとしか思えない人物がふんだんである。

『愛その他の悪霊について』で描かれる、「愛」を筆頭にしたその他色々な「悪霊」が飛び回って人に悪さをする時代は現代に比べれば確かにわかりやすいといえばわかりやすい。
しかしながら、「愛は悪霊である」とか口を滑らせると、いつの世でもどえらい目にあわされるてのもわかりやすい話ではある。
と、この時代なら異端でかつ悪魔憑きのレッテルを貼られるであろう土偶は思うのであった。
当然「ルサンチマン」も悪霊の一種である事は間違いないけど、あー現代に生まれてよかった。あーはんぱねぇ。

2006年12月18日

●J.M. クッツェー 『夷狄を待ちながら』

もうすっかりお気に入りのJ.M. クッツェーが1980年に書いた『夷狄を待ちながら』を、半分は日曜日にうつらうつらしながら夢うつつ状態で、残り半分を風呂で半身浴しながら読んだ。
原題は「Waiting for the Barbarians」という事で、アマゾンの紹介を引用すると、

静かな辺境の町に、二十数年ものあいだ民政官を勤めてきた初老の男「私」がいる。暇なときには町はずれの遺跡を発掘している。そこへ首都から、帝国の「寝ずの番」を任ずる第三局のジョル大佐がやってくる。彼がもたらしたのは、夷狄(野蛮人)が攻めてくるという噂と、凄惨な拷問であった。「私」は拷問を受けて両足が捻れた夷狄の少女に魅入られ身辺に置くが、やがて「私」も夷狄と通じていると疑いをかけられ拷問に…。

という事になる。

帝国主義と植民地、老人の性、人間の尊厳、ともう渋すぎる激シブテーマ目白押し。なんつーても「老人の性」つーほど渋いテーマは中々無い。
しかも、こういう風な老人になっても飽く事の無い性欲の乾きに苦しむ様を読むとなんか絶望的な気分になる。滑稽であれば滑稽であるほど絶望的やね。
あーやだやだ。

amazon ASIN:4087604527 この本をgoogleで検索すると一番に出てくるのはアマゾンでもBK1でもなく、山形浩生がこの本に対して書いた書評である。
んでもって、その書評でこの本はボロクソに言われているわけやけど、そのボロクソに言われる根拠は、現実の状況なり問題を浮かび上がらせて提示するものとしての小説/文学は圧倒的有利さでテレビやネットに取って代わられており、この小説に新しい思考材料や独自の答への試みが読み取れない限り(実際読み取れない)、著者の個人的な問題を知的意匠で一般化して逃げただけの文章の集積に過ぎない。と大体こんなところだろう。

んー確かにそうやなーさすが山形浩生と思わん事も無いけど、しかしながら、同じような事件や史実があったとして、テレビやネットがこの民政官を、この小説で語られているような形で語り得る事が可能だろうか?と私は疑問に思う。
史実や事件をリアルタイムにそのままの形で伝えるのは確かにネットやテレビが有利やろうけど、歴史的な史実や事件を語るふりをして、実は老人の欲望であったり迷いや絶望や自己嫌悪や憤怒を描く事は小説という形でしか取れないだろう。(まぁ、そういう形で語る事に意味があるのかどうかは置いといて。)

考えてみればこの小説は、個人の名を残すつもりで歴史を語ろうとして歴史に取り込まれ、敵国主義に反対したつもりでいつの間にか帝国主義の片棒を担がされ、娘を夷狄に返して感謝されるはずが娘の率いる夷狄に侵略される(予定の)民政官の物語である。
物語の構造としてミイラ取りがミイラになる話であり、歴史を語るふりをして個人をしか語っていないというところがミソなのである。
大きな歴史や波乱や物語を個人に帰すという贅沢な構成は、小説のみに取り得る形態であり、この小説はそれを体現してるのだと土偶は思うわけである。

クッツェーはサミュエル・ベケットの研究をしていたので、この本は『ゴドーを待ちながら』と関係があったりパロディー的な要素があるのか?と思われるけど、あまりそういうことは無く、どちらかというと、アレクサンドリアのギリシア詩人カヴァフィスの邦題「野蛮人を待ちながら」という、野蛮人が攻めてくるのを待つ古代ローマの話を下書きにしているらしい。
というのが定説になっているようやけど、「ホンマか?マジでか?絶対か?命かけるか?」とも土偶は思う。

なんとなれば、「ゴドーを待ちながら」では結局最後まで「ゴドー」が何物かわからんのがミソの話しやったし、そこのところを考えると、結局最後まで「夷狄」が何物を捉え切れんかったこの話は『ゴドーを待ちながら』に似た構造を持ってるといえなくも無い事はない事ない事ない事…
そろそろ寝るかな。

2006年12月17日

●未定は予定

hechima20061216.jpg土曜日、完全に冬になってもうこれ以上大きくなりそうに無いので、ヘチマを回収する。完全に枯れていたようでヘチマ水は回収できず残念。
一緒に移ってるマスクは新しく買ったCressi-subの「Big Eyes」だな。視界が広いと言う話やけど風呂に潜っても全くわからんのではよ海行きたい。
しかしながら下方向の視界の確保が格段に優れたこのマスクは、最近立て続けに目の手術をした父と母が術後に目の周辺を濡らさずに風呂へ入る際に大活躍した。
人生何が役に立つかわからんやね。

日曜日、午前中に家に一番近い図書館に行く。本を一冊返して二冊借りる。金曜日に仕事から帰る時にも感じた事やけど、道路も図書館もやたらと人が少ない。こんな時期の金曜日に真っ直ぐ家に帰ったり、こんな時期の日曜日に図書館に行く人間は少ないと言う事だろうか?
まぁ理由は兎も角として、人が少ないのはとにかくありがたい。
本を読みながらうつらうつら。本を読みながらうつらうつらを繰り返し、夢の内容と本の内容が混ざって変な気分になる。
最近は「物語性」なるものの入力過多に過ぎるのではないか。久しぶりに脈絡のある夢を見たのは物語性が出力の方向に欲求されている兆候なのではないかと思う。

季節柄ということもあってか「クリスマスはなんか予定あります?」もしくは「年末年始のご予定は?」と聞かれる事が最近多く、どう考えても本読んでるとしか思えないので、回答として読みたい本の名前で答える俺ってちょっとイカすやん。しかも、ベルナール・ウェルベルの『蟻』シリーズですって文句なしにイケてるやん。
で、最大にして唯一イケてへんのは俺以外の誰もそういう風に思ってくれへんところやね。

2006年12月16日

●レベッカ・ブラウン 『若かった日々』

レベッカ・ブラウン『若かった日々』を読んだ。
父と母を失い、自分がレズビアンであると認識した現在から見た場合の「若かった日々」、つまりは母と父に関する事、自分がレズビアンなのに気付く事に関する自伝的な連作短編集。
三島由紀夫と志賀直哉に代表されるように、まぁ、よくあるテーマではある。

原題である「The end of Youth」の地点に収束する「若かった日々」を語る事で母の人生と死を受け入れ、自分たちから去った父の死で彼の存在を受け入れ、自分が同性愛者であることを受け入れる事が、自分自身に対する肯定につながってゆく様が、彼女の細やかな視点と描写、クールでシンプルな文体で語られて何とも心地よい。

この本で日本語訳が出ているレベッカ・ブラウンの本を全部読んだ事になるけどそのどれもがすばらしかった。
それらは体験を下書きにした物語ではあるけど、デビュー作やデビュー直後に已むに已まれず書いたような類の物ではなく、デビューから10年以上たってからの創作活動の波に乗り始めた時期に書かれた物であり、それがゆえに激しく強烈な自分の感情を抑制の効いた慎ましやかな表現として表す事が可能になっているのだろう。

しかし一方で、デビューから20年たった後に書かれたこの本で、人が物語を書く事で癒されたいと願うような事が何一つとして解決していないと言う事を我々は目にする。
最後の数編の短編から見える、未だ癒える事無く心を苛み蝕み続ける強烈な「物」はもう読んでるだけでしんどい。

amazon ASIN:4838714661 レベッカ・ブラウンが「The end of Youth」に繋がる「若かった日々」を語る訳やけど、全てが正確にあった通りに書き、またそういう風に書こうという意図を持っている訳では決して無いようだ。

あとがきで訳者の柴田元幸が言っているように、それは過去の記憶を現在に幻視しているだけかもしれないし、この本の中で海軍のパイロットだった死んだ父の灰が空母から撒かれた事実が、海軍の制服をつけて甲板から海に向かって飛び込むという風に理解されたように、明らかに現実とは異なった事実が書かれている事が多い。
あえてこういった事実の捏造を行うといった事は、現実に起こった事を自分なりに理解すると言う一つのプロセスであるのだろうし、恐らく、こういった自分に関する神話体系の構築の欲求が、物語や小説を書く原動力の一つとなっているのだろう。というところが見て取れた。

2006年12月15日

●文体キメラがあらわれた!

昔から古い儒家とかギリシャの哲人とかが言い続けてきたおかげで「中庸」はとても大事なものとされているようだ。
私自身も性格的に極端から極端に走りがちなので「中庸」には常に気を使っているつもりやけど、最近の本の読み方を振り返ればやっぱり「中庸」とは程遠い。
変態性欲や薬物やアルコール、はたまた仕事や恋愛などの中毒になるのとは違って、本読み依存になった所でそれほど人に迷惑がかかるわけでもないけど、それでも中庸に越した事は無いと思う。
だからといって今、本を読むのを控えてしまえば、考えたところでどうしようもない余計な事を考える時間が増す事になって、結果的に精神的な均衡に破綻を来たすのもまた本当だろうし、今の段階で本をあまり読まないようにするのはちょっと危険な気がするので、あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。

ある種のバランスをあえて崩す事で、また別の場所のバランスが極端に傾かないようにする。
おそらく私自身のバランスが崩れかけているがゆえに、ある種の偏重が全体としての平均を取らせる事になるのだろう。友よ、しようとしていることをするがよい。

私自身の歪みは確かにある。その重心の狂いはある種のモノの欠落から来るように感じられる。その空白感はある種のモノの欠損から来るように感じられる。
その自分自身の重心を回復し、その自分自身の空白を埋めるような、そういったそのある種のモノを得る行為が拒否されて忌むべきものだとするなら、何をもてか之に塩すべき、後は用なし、外にすてられて人に踏まるるのみ。

まぁ、土偶を巡る2006年の冬は、本を読み続けなければ潜り抜けられない程の脅威だということになるのだろう、ラマ、サバクタニ

と無理やりドジョウにアジアアロワナの尾鰭をつけたような、土偶の書いた本にドストエフスキーが解説をつけるような、土偶の書いたコードののデバッグをデビッド・カトラーがするようなキメラ感満開の文にしてみた。

2006年12月14日

●OpenPneでSMTPを使う

仕事でオープンソースのSNSであるOpenPneを検証した。
インストール自体は特に何の問題もなく簡単に済んだのだがちょっと困った事があった。
それは、招待メールだのお知らせメールだのが送信される際にローカルのメール送信コマンド(PHPのmail関数から呼ばれる)を使うという仕様。
これのおかげでメールが送信できない。

検証したサーバーではセキュリティ上の配慮からリモートだろうがローカルだろうがメール配信という配信をことごとく拒否している。
このホストからメールを送信するにはsmtpサーバーに接続して送信する必要があるのだが、OpenPNEのシステムはデフォルトでSMTP送信に対応していないようだ。

google先生に聞いても答えは無いので、しょうがなくコードを読んで該当箇所を発見。
ちゃんとメールが送信できるようになったので公開してみる。
つーても、全然大したものではないけど…

ソースというかパッケージが解凍されているディレクトリ、
OpenPNEの公式セットアップガイドで言うところの「OPENPNE_DIR」が
/usr/local/OpenPNE だとすると、
/usr/local/OpenPNE/webapp/lib/util/mail_send.php がメールを送信しているスクリプトであり、こいつを編集する。

そのmail_send.phpの60行目

return mail($address, $subject, $body, $headers, $params);



include_once('Mail.php');
$recipients = "$address" ;
$headers = "" ;
$headers['From'] = $from ;
$headers['To'] = "$address";
$headers['Subject'] = "$subject";

$mail_options = array(
'host' => 'SMTPサーバー', // SMTPサーバー名
'port' => 25, // ポート番号
'auth' => false, // SMTP認証 true false
'username' => "", // ユーザー名
'password' => "", // パスワード
'localhost' => 'サーバー名' //送信元サーバーのFQDN名 HELOに使う
);
$mail_object =& Mail::factory("SMTP",$mail_options);
$mail_object->send($recipients, $headers, $body);

#return mail($address, $subject, $body, $headers, $params); //オリジナルをコメントアウト


と書き換えればOK。

修正:2008/02/21 「include('Mail.php');」 を 「include_once('Mail.php');」に 山下様のご指摘よる

2006年12月13日

●ブリジット・オベール 『マーチ博士の四人の息子』

たまには趣向を変えてミステリなど。
ブリジット オベール『マーチ博士の四人の息子』を仕事から帰って一気に全部読んだ。
アマゾンでは

医者のマーチ博士の広壮な館に住み込むメイドのジニーは、ある日大変な日記を発見した。書き手は生まれながらの殺人狂で、幼い頃から快楽のための殺人を繰り返してきたと告白していた。そして自分はマーチ博士の4人の息子―クラーク、ジャック、マーク、スターク―の中の一人であり、殺人の衝動は強まるばかりであると。『悪童日記』のアゴタ・クリストフが絶賛したフランスの新星オベールのトリッキーなデビュー作。

と紹介されている。

読んだ動機はもちろんこのアゴタ・クリストフが絶賛したと言う点。
確かに、帰った時間がそんなに早かったわけでもないのに一気に読んだくらいで、なかなか面白かった。

amazon ASIN:4151708014 村上春樹の『風の歌を聴け』で好きなシーンに以下のようなものがある。

僕が時折時間潰しに読んでいる本を、彼はいつもまるでハエが蝿叩きを眺めるように物珍しそうにのぞきこんだ。
「何故、本なんて読む?」
「何故、ビールなんて飲む?」
僕は酢漬けの鯵と野菜サラダを一口ずつ交互に食べながら、鼠のほうも見ずにそう訊き返した。
鼠はそれについてずっと考え込んでいたが、5分ばかり後で口を開いた。
「ビールの良いところはね、全部小便になって出ちまうことだ。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、何も残りゃしない」
鼠はそう言って、僕が食べつづけるのを眺めた。
「何故、本なんて読む?」
いまだに私が何のために本を読んでいるのかさっぱりわからんけど、少なくとも今読んだ『マーチ博士の四人の息子』は鼠がビールを飲むのと同じく「後に何も残らない」良さがあった。
読み終わったあとで鬱屈が増したり、ハイになったり、妙な決心をしてみたり。そんな気分には一切ならない。

上の鼠の言葉を読むだけで彼の真面目さだとか真剣さに胸苦しい思いがする。世界のあまりの無神経さに比べてみれば、人に質問して逆に質問されても必死に答え、答えた事で自分が質問をする資格を得たように思うような彼の感覚はなんとナイーブな事だろう。
そんな彼にとって心を乱されもしないけど、熱中もさせてくれるものというのは稀有なものに違いない。退屈はさせないけど押し付けがましくは無いものは本当に珍しい。
ミステリってのはそういう良さがあるやね。

って本の感想やないなぁ。しかも引用で逃げました…

2006年12月12日

●J.M. クッツェー 『敵あるいはフォー 』

この本でクッツェーを読むのも三作目。1986年に書かれた作品であり、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』のパロディという言われ方をするけど、当然そんな単純なものじゃない。
日本語のタイトルは『敵あるいはフォー』だが、原題は『FOE』で古英語で「敵」、ダニエル・デフォーの本名と言う二つの意味を指すらしい。

英国の女性が漂流して島にたどり着き、島に住み着いた「クルーソー」とその下僕の「フライデイ」に助けられる。
とここまでは「ロビンソン・クルーソー」のパロディやけど、フライデイは舌を切られて喋れないし、クルーソーは全然働かんし、冒険やサバイバルとは縁遠い生活をするうちに通りかかった船に助けられる。とここまでが序盤の序盤。
英国に帰った主人公はゴシップ作家のダニエル・フォーに自分の体験を執筆するように依頼するが、フォーは行方不明になり、作品の完成だけに執着する主人公がだんだんおかしくなってくる所から本当の物語が始まる。

中盤以降は主に「書く事」「物語」「体験」などをテーマとした何とも緊迫感に溢れた読み応えのある物語。
なんかアゴタ・クリストフっぽい鬼気迫る雰囲気があった。

amazon ASIN:4560044716 イギリスに帰ってきた主人公は終盤に差し掛かるまで、喋る事の出来ないフライデイだけを相手にしている。
それは自分の中の言いたい事や表現したい事があってもそれを受け止めてくれる相手がいないという事であり、その自分を表現したい衝動が時間がたつにつれ狂気の方向に向かって行く様が、主人公がフォーに書く手紙という形を取って表現され、何ともいえない緊迫感を生み出している。

最後の最後でフォーに会ってその衝動が爆発するわけやけど、漂流という強烈ではあるけどちょっとした経験を物語にするという欲求のために「私の全人生が物語になってしまって、私の手元には何もなくなってしまいました」と主人公の過去と未来の人生が犠牲になりかねないわけであり、それは主人公が強烈な経験をして、それを自分の手ではなく人の手で物語にしようとする、という二つの原因から成り立っているように見える。

しかしながら、これはその主人公だけの話じゃなくって、誰でも多かれ少なかれ強烈な経験をするわけで、その経験だけに引っ掛かって留まって前に進めない、例えば肉親の不幸やとか失恋から立ち直れないなんてのもまたよくある話でもある。

その「強烈な経験」から脱して日常生活に戻るためには色々な方法があるけど、その方法の一つとして「強烈な経験」を「物語化」することでそれを乗り越えるとする見方がある。
それは世界と自分の係わりである体験を通してその係わりの形を検証する、いわば「いつか世の中に対して自分を清算」する行為であり、この本の話は殆どがその事について語っているように読めたし、また本の中の他人の経験を自分の「物語化」にいかに結び合わせるか。というところも語っていたように思う。

他人に言葉を伝える事が出来ないからといってフライデイに物語が無いわけではないように、誰にでも物語はある。
そしてその物語は自分自身でしか書くことは出来ないものの、他人の物語は自分の物語よりはるかに大きく偉大に見えるのは当然といえば当然で、また少なからず本などというものを読んでいると、その本の物語性の偉大さに比べ、いかに自分の人生の物語が取るに足らないものか。というところに慰めを見出す傾向が出来上がりそうになる。

しかしながら結局それは自分の物語を拒否している事に変わり無く、自分の物語を自分自身で作ろうとしない方向性の上では、物語に耐えうる経験をすれば他人に物語を作って欲しくなるような主人公の状態と同じと言えなくはないだろう。

人生について感じる疑いの集積とも言える自分の物語をなぜ書くのかについて、作中の作家であるフォーは、それが自分が迷った標しであり、またそこに戻ってやり直すための目印であると言っているのは何とも含蓄深いような気がした。

なんか意味のわからん文章になったけど…いやいやクッツエーおもろいです。

2006年12月11日

●阿部和重 『ミステリアスセッティング』

2006年の11月30日に出たばかりの新刊、阿部和重の『ミステリアスセッティング』を読んだ。
アマゾンでの紹介はかなり気合が入っていて、

ある老人が語りはじめた、一人の少女の運命――ハムラシオリという、歌を愛してやまなかった女の子をめぐる、痛いほど切なく、あまりにも無慈悲な新世代のピュア・ストーリー。なぜ彼女だけが、苛酷な人生を歩まなければならなかったのか? この未知なる感動の物語は、21世紀版「マッチ売りの少女」として広く語り継がれるだろう。芥川賞受賞後に初めて書かれた、極限の純真小説。全く新しい阿部和重!

となっている。
これを発売日に見て、おいおいそこまで言うて大丈夫か?阿部和重含む出版社陣はファンをだましてひっくり返すつもりか、とにかくミーハー読者層にも売ろうと必死なんやな。とニヤニヤしたわけやけど、実際読んで見て逆の意味にひっくり返された。
確かにアマゾンの紹介の通りで、計らずとも一気読みした挙句に感動までしてしまった。

映画に造詣の深い彼らしく、物語の始まりから、まるで映画を見ているような展開で読者をストーリに乗せて引っ張ってゆき、最後の最後の終わりにいたるまで読者を飽きさせない。
あまつさえ「ここは泣くトコ」という地点やラストのカメラの目線まで用意してあり、彼のストーリーテリングと読者扱いの上手さに本当にびっくりした。
そのまま映画にしても何の違和感も無い。客の半分は喜んで泣くやろう。そんなに映画化して欲しいのか?と疑りたくまでなってくる。

いずれにせよ、これは文句なしにお勧め。

ただ、サブカル方面にも詳しい彼の事であるから、似たような設定とストーリーの漫画なりからの影響なんてものもあるかもしれない。俺には思いつかんけど。

amazon ASIN:4022502444 彼は常に自分の作品を作り変えてコロコロとスタイルを変えて行くタイプの作家やけど、この作品は明らかに今までの彼の作品と方向性自体が全く違うし、主人公も今までのタイプと全く違う。
全く同情も感情移入も出来ないタイプの主人公ではなく、ムイシュキン公爵の伝統を引く文句なしに美しくて同情と感情移入をせざるを得ない、現代的な「文学系白痴」が見事に描かれていたし、コレでもかと主人公を弾圧して利用しつくす、今までの小説の主人公級に邪悪で小物の人間も登場するし、彼の小説では稀有である存在の主人公の味方をする「良い人」まで登場する。
主人公並みの存在感を持った脇役が容赦なく主人公をいたぶる様は何ともすざましいし、彼の過去の作品が、過去の作品とは全く形を変えた現在の形の作品にとても上手く生かされていたように思える。

この作品は携帯電話用の電子書籍サイトに連載小説として掲載され、阿部和重はこの作品を書くに及んで「気軽にというか、気負いを抜くとか、余計なものを削ぎ落とす、要するに単純化へ向かう試み」のようなものを意識していたらしく、この作品は次の大作に向けてのリセットのようなものであるらしい。
確かにストーリーテリングの方向に単純化されたこの本を読んで私の阿部和重への見方は一変したし、またこんなものを彼が書けることに本当に驚いた。
これがリセットなのだとしたら、次の大作とやらはどんな事になるのだろう…

彼にとっては一過性であろうこの作品も、後には代表作の一つやと呼ばれるのやろうな。
そう思うと不思議な気もする。

2006年12月10日

●図書館、グイン・サーガ111

クッツェーの『恥辱』を読み終わってからその本を返し、リクエストして買ってもらった本を借りるためにに市営の図書館に行くと、思いがけずいつも職場で見る学生が本を読んでいるのを見かける。
友達といるのを見た事が無く、いつも一人で行動し、必要以外に人と接したり話したりせず、控えめで礼儀正しく真面目そうでおとなしく勉強ばかりしている。
害が全く無い故に、おそらく一般的には「変な奴」で済まされるであろう人間ではある。
なんとなく修行僧か世捨て人のような印象を与える彼は、友達と羽目を外したり、ドキドキしながら女の子に迫ったり、といった事からはおおよそ縁遠いように見えるけど、それでも休みの日までこんなところで本を読んでいるのかと思うと何ともいえない気分になる。

彼は一体世界をどう眺めているのだろう?彼は世界の意味をどのように捉えているのだろう?他者を必要とせずに達観した様に見えるその立ち振る舞いからは決して図ることの出来ない欲望だとか感情がその心中で渦巻く事がありえるのだろうか?
というか、どうすれば彼のようになれるのだろう?俺がなりたいのは彼のような人間なのか?と自分でも驚いた。

amazon ASIN:4150308721 図書館を出て本屋でグイン・サーガーの111巻を買って帰り一気に読んだ。
記憶を失っていたグインが自分が自分である感覚を取り戻した箇所は変に感動した。彼の記憶が戻りそうになる予兆があり、何とも爽やかな新キャラも登場し、新たな伏線も張られて物語の網の目は更に広がってゆく。
個人としての「栗本薫」は決して全面的に大好きになれそうな人間ではないけど、彼女の書く『グイン・サーガ』は間違いなく本物だと思うし、彼女は天才の語部だと思う。
彼女の書いた『レダ』を人生に残る本としてあげる人がとても多いので読んでみようと思う。

●J・M・クッツェー 『恥辱』

私にとって二冊目となるJ・M・クッツェー『恥辱』を読了。
1999年に発表された本作は同年度のブッカー賞受賞作となった。

内容は一言で言うと南アフリカを舞台にした一人の男の転落物語である。
52才の大学教授がセクハラで大学を追われ、娘が営む農園に身を寄せて暮らし始めたものの、穏やかな暮らしに慣れ始めた頃に突然事件が起こる。

と筋だけ読むとチープすぎる内容やけど、チープすぎると言う事は逆に言えばどこにでもある話だと言う事でもある。
若く美しい女性だけが価値を持つとする若くない男の醜さであるとか、どう転んでも滑稽でしかありえない性欲のあり方であるとか、自らの欲求と衝動を憎むしかない惨めさであるとか、そういったわかり易くありきたりなテーマだけをこの本が語っているのではない。
そのどこにでもありそうな話は、ただの悔恨の物語でも贖罪の物語でもなく、男は反省の色も無くただ諦念の中で暮らしてゆく物語として進む。
そしてその物語の着地地点がなんともたまらんのである。

amazon ASIN:4152083158 読み始めた頃はストーカーじみた勘違いセクハラ男の主人公に対して「うぁ~」としか思わないやろうけど、物語を読み進むにつれその娘のおおよそ理解できない考え方や選択肢を見るにつけ、主人公の方がまともで娘が間違っているように見えるて来るのは不思議な感じがする。
その男を狂わせたのは、結局充足して解消される事の無かった性欲やと簡単に言い切ってしまってもいい程度の理解のしやすさにも関わらず、その娘の理解できない考え方と行動を目にした時に感じる感覚は、我々の住む近代化やら西欧化(っぽく)された世界から南アフリカ世界の論理であり考え方であり行動を見た場合の、おおよそ理解できない違和感であろう。

南アフリカという場所を舞台にしているこの物語でお互い理解し得ない世界と言うのは当然白人世界と黒人世界と言う事になるやろうけど、前に読んだ『マイケル・K』同様に既存の世界を拒否し、既存の世界から拒否されればどうなるかと言う事も、J・M・クッツェーの書こうとするテーマの一つであるように思う。

主人公は西欧的な社会から爪弾きにされ、その娘は望んでその社会を拒否した。
娘は拒否して落ち着いた先の社会の異常に見える論理を受け入れるものの、主人公の男はどうしても受け入れられない。

物語の最期で、引き取り手の無い子犬が懐き切った主人公の男に抱かれて命を終える事になる様が暗示されているけど、この子犬の運命がどこの世界にも受け入れられない存在の象徴であるとクッツェーが言いたがっているような気がしてしょうがなかった。

2006年12月09日

●プレデターランド

人間の中にある色んな感性と欲求と傾向やらが単一の要素として構成され、その人によっての単一の要素のあり方が人間の多様性の可能性だとするなら、同じ刺激に対して同じ反応が求められる世界や状況は多様性の放棄と個性の単一化が望まれる場でもある。
しかしながら、そういった感性や欲求や傾向が単一のものとして人にあるのではなく、全ての要素が混ざり合っている割合のあり方を多様性とするのなら、同じ刺激に対して殆ど全ての人間が同じ反応をするのは多様性の放棄ではありえないし、同じ反応を求める世界や状況と言うのは特定の部位を刺激する世界や状況と言う事になる。
つまりは、人間の多様性は特定の刺激に対する反応の有り無しではなく、反応の大小として観測されるわけである。

特定の有機化合物が特定の物質の存在を触媒として急激な反応を起こすように、特定の部位だけがひたすら刺激される世界もあるわけで、世の中色々、仕事も色々にも拘らず、人間なんか大して変わらんなぁと、初めて行ったUSJで思った。

例えば私が「エイリアン VS プレデター」のアトラクションが無いではないかと憤慨し、「プレデター VS E.T」のアトラクションを作ればUSJは黒字経営に転じられるに違いなく、USJを「プレデターランド」に作り変えればその他の世界のテーマパークやネズミの国は再起不能な経済的大ダメージをこうむる事になるに違いない。
と確信する事は、特定の欲求と傾向と感性の有無ではなく、それらの割合の大小として現象したわけであり、なんら土偶の変態性の増加と通常性が減じる話ではないのである。

2006年12月08日

●レーモン・ルーセル 『ロクス・ソルス』

昨日書いたどっちが著者でどっちがタイトルかわからん、レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』を読了。
某サイトで面白いと書いてあったので読もうと思ったけど、それまで名前も作品も聴いた事も無かった。

著者のレーモン・ルーセルは1877年にパリの富豪の息子として生まれて音楽を学んだものの、財産を後ろ盾に細々と詩と小説を書いて生計を立てていたようだ。
彼の作品は世間からは殆ど無視されていたけど、一部でコアな人気があったようで、中でもアンドレ・ブルトンやとかサルバドール・ダリやとかが絶賛したようにシュルレアリスム的な色彩が強い。
しかしながら彼自身は芸術家とかインテリとかの筋の人に認めてもらう気は全く無かったようで、大衆に受け入れられるのを望んでいたらしい。
1933年に殆ど自殺のような死に方をしてもなお大衆に認められる事は無く、コアなファンだけを異様に弾きつけているらしい。

この本のタイトル『ロクス・ソルス』は「人里離れた場所」という意味のラテン語で、この本はその人里離れた場所にある研究所で、そこに住む科学者カントレルが客たちに見せる敷地内にある様々な発明品の描写とその説明の話である。
耽美的で悪趣味で有機機械的で錬金術的な怪しげな発明品がかもし出す雰囲気は何とも不思議な世界である。
誰かが言っていたように、小説と言う形式の一つの極であるというのはわかるような気がする。
これはたまらん人にはたまらんのやろうなぁ。

amazon ASIN:4582765114 この本が出た当初は「文体が無い」と言う批判が出たらしいけど、文体どころかストーリーすらないのは明らかやろう。
この本の一番重要なテーマは発明品の数々の描写とそれにまつわる物語と動作原理の説明であり、ストーリーは奇怪な発明品の数々を語る為の妥当性を増す役目しかなしていない。
人生やら愛やらといったものに対する考察、というか、何に対する考察も一切無く、ただ図鑑のような説明が延々と続く様と、その発明品にまつわる物語や動作原理は読み手の想像力というよりは狂気に近い領域を刺激する。
なんというか、人間の感情とか生命力なんてものは一つのシステムに過ぎんと言う割り切り方がなんとも思い切ってて気持ち良い。

しかしながら、彼の死後に発表された本で彼はこの本の著作方法を明らかにしており、それによると文を分解して単語に区切り、別の意味になった文を記述するという同じ単語で複数の意味を表す単語が多いフランス語特有の性質を利用した方法を取っているらしく、そういうのは確かにシュルレアリスムの自動筆記に近いものがあり、それ故に間の想像力を突き抜けた領域を描きえたのだろう。

著者のレーモン・ルーセルは稀代の変人、キティ以外の何者でもないと言われるだけあって、この『ロクス・ソルス』も奇書である事は間違いない。
それ系の人が読めばまたとない本になるだろうし、そうでない人にとってもこの稀代の奇書を読んでおいても損は無いだろう。

読んでからwebで知ったのやけど、この本とこの作家はどうやらサブカル的な文脈で言及される事が結構多いようで、押井がどうのとか言うそっち系の人が良く口にするようだ。
フーコーとレリスの二人のミシェルにべた褒めされた時は「ふん!」と思っていた筈のレーモン・ルーセルも、今になってフランスから遠く離れた僻地の日本で大衆に受け入れられつつあり、草葉の陰でさぞかし喜んでるだろう。

2006年12月07日

●二重括弧のある世界

レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』を読んでいるのだが、ラテン語を解さない私は初めて見た時にどっちがタイトルでどっちが作者の名前かわかりにくいな、ふーん。と思ったのだが、よく考えれば、考えるまでも無く、直前に読んでいた、どっちも人名なJ・M・クッツェー『マイケル・K』の方が余計に著者と書名の区別がつかんやんかと。
もし私が『埴輪』や『木偶』と言う本を書いたら、土偶『埴輪』、土偶『木偶』となってややこしい事この上ない。

我々が二重括弧が無ければ書名と人名の区別すらつかない世界に住んでいる側面を持つのは当然と言えば当然。
例えば「私は落ち込んでいる」と「落ち込んでいるのは私」では文自体の意味が微妙に違うし、またそれをどういう文脈やら状況で使うのかによっても意味は全く異なってくる。
言葉を記号として使う世界では…とかは言わないけど、言葉自体の意味よりもその言葉が関係性のレベルで持ちうる意味の方が範囲と影響力が広く大きいわけで…
とか言うと話がややこしくなるので止めておいて、
とにかく言葉というもんに頼ったり信用しすぎるとロクな事にならんと思いながらも、言葉で表されなければ無にも等しいと言う側面もまた真実なわけで、結局はある意味での信仰の問題みたいなもんになるような気がする。

2006年12月06日

●0.5転0.7転日記

無駄に駄文を載せるならいっそ何も書かない方が良いという気がするのだが、私ごときが何を書いたところで駄文以外の何物を生み出せ得るのだ?
という見方もまたあるわけで、こうなると「毎日書き続ける」ところの価値を捨てないためにも書き続けようと思ふ。

経験的に何物かを発語することでその何物かが現象する事は事実のように思われるからして、「今日は一日何も無かった」とここに書けば、本当に今日は一日何も無かったという気になるし、書いた文章を駄文だと思った瞬間からそれは駄文になるわけだ。

だからといって因果律の崩壊だとか主客の逆転だとか言うわけじゃなくって、ただ単に「経験して感じる自分」を「自分を観察する自分」が見た場合の認識作業で事実が形作られるだけの話で、結局、私の場合は「認識しようとする自分」の方が「経験して感じる自分」よりも優勢であると言う事になろうか。
そんな事はどっちかというと良い傾向じゃなさそうな気もするし、その自分に対する認識作業でさえ贔屓目というか、自分は悪くないと言う前提で見たがるものであり、中途半端でため息が出るよマッタク。
となんか自分のことばかり語ろうとするのもいかがなものかと思うが、まぁ日記なので…
と思ったけど、これは日記なのか?

日記的ではないにしろ、余りに人間的ではある土偶の日記であった。

と、内容はともかくとして毎日何かを書けるというのも芸のうちだということにしておこう。

2006年12月05日

●J・M・クッツェー『マイケル・K』

ジョン・マックスウェル・クッツェーは南アフリカ出身の白人で、大学卒業後はイギリスでプログラマーとして働きながら修士論文を書き、アメリカに渡って言語学の博士号を所得、大学で教えながら作品を書き始め、1972年に南アフリカに帰国。
1983年と1999年と史上初となる二度のイギリスのブッカー賞を、2003年にはノーベル文学賞を受賞とキャリアは十二分。

一度目のブッカー賞受賞作となったこの本の内容は
激しい内戦が続いている南アフリカで庭師として働く兎唇のマイケルが、家政婦を解雇された母の望みを叶えるべく自作の手押し車に母を乗せて故郷へと旅立つところから始まる。
なぜ自分は生まれてきたのかという問いに答えを持っていた彼は突然その答えのより所を失って失意のどん底へ落ちる。彼は野菜を育てて動物を狩り、野生に戻って生きる事だけをただ望むが、社会は彼をほおっておかず、人との関わりの中で彼はますます深い孤独と諦念と衰弱に陥ってゆくといった、原題の『Life and Times of Michael K』通り、マイケル・KのLifeとTimesが描かれてゆく。

amazon ASIN:448042251X この本は、母に疎まれて生まれ、兎唇と知恵遅れと被差別階級ということで散々な目にあうマイケルの語る、難しい単語を一切使わない語りと、全体に漂う何とも重苦しい雰囲気を読むものだろうし、美しい人としての「文学的白痴」を味わうものだろう。

物語の序盤の数ページで「三年後、公園管理局をやめてしばらく失業した。その間、彼はベッドで横になってじっと手を見てすごした。」と「つまりなぜ彼がこの世に生まれてきたのかという問いには答えが出ていた。母親の面倒を見るためにこの世に生まれてきたのだ。」の二つ文章に度肝を抜かれて本の中に一気に引き擦り込まれた。

善意を知らない故に死にそうになって担ぎ込まれた病院でなぜ自分が手当てされて食べ物を与えられているのかが理解できず、人を信じず自然にだけ心を開き、人と離れて野菜を栽培し狩りをして暮らしたいと望む以外の欲を持たないほどになる、彼の孤独さと世界認識が何ともやりきれず、彼の草花や「種」への態度が心を打つ。
それでも、というより逆にそれゆえ「マイケル」に魅力を感じるわけやけど、結局誰も彼を理解できず現代社会の中に彼の居場所があるはずも無い。

ムイシュキン公爵からアリョーシャからアメニモマケズなどと色々な「文学的白痴」がおったけど、「マイケル・K」は彼らにも劣らないキャラクターだろうと思う。

きっつい内容のはずやのに、なんともさわやかな読後感が残る不思議な本やった。

2006年12月04日

●早寝、クッツェー

FMで豊嶋泰嗣の無伴奏バイオリンをやるってもんで、ちょい楽しみにしてたのだが仕事が遅くなってほとんど聴けなかった。まぁ、どっちかというと残念という程度の残念さやけど。

家に帰ってジョン・マックスウェル・クッツェーの『マイケル ・K』を読む。
初めてこの人の作品を読んだがとても面白い。
この本だけが面白いのかこの人が面白いのかわからんけど、この本を読み終わったらほかの本も読んでみようと思う。

ちょっと風邪気味でしんどいめなので日付が変わる前に寝た。

2006年12月03日

●エアポケット

朝起きてから本を読み始めたものの、読むペースがだんだんと落ちて集中力が途切れがちになり、昼になって本読みを諦める。
だからといって特にする事もしたい事も出かける用事も無いのでひたすらダラダラと音楽を聴く。
レコードもCDも再生後に新しいものと入れ替える気が起こらず、MP3を音楽再生マシンから延々再生する。ひたすら聴く、聴きまくる。

聴いても聴いても何も変わらない。下方へ向かわないものの気分が良くなる事もない。
今日は受動的に音楽を浴び続ける以外に何もする気が出なかった。

本を読もうとする気力すら出ないと言うのはちょっとヤバいと自分でも思う。
だからといってどうする事も出来ないのでまたひたすら音楽を聴く。

2006年12月02日

●阿部和重 『プラスティック・ソウル』

阿部和重 『プラスティック・ソウル』を読んだ。
1998年から2000年までの連載小説が2006年3月に単行本化されたもので、明らかに芥川賞を取った後の阿部和重需要が上がったために世に出ることとなった本のようである。
この連載中に「シンセミア」の連載が始まったこともあって、とても苦しんだ連載だったようであり、阿部和重自身がこの本の出版を渋り、あまり自身のある作品ではないといっているところは巻末に詳しい。

で、その内容は毎日引きこもってドラッグ漬けになってセックスばかりしている、作品を一つも書き上げたことの無い作家志望のどうしようもない男の話。
妄想癖が激しく、何一つとして物がまともに覚えられない、テレクラ通い以外には一つの事を続けられたためしの無いその男がメインの語り手である故に、物語の本筋がつかめず、どこまでが妄想でどこまでが本当かがわからず、膨らみかけた複線も勝手にしぼみ、メインの本筋も自然消滅する。

amazon ASIN:4062102609 タイトルが『プラスティック・ソウル』と言う事でか、本のカバーまでプラスチックが使われている。
さらにカバーだけに著者の名前と影つき文字になった前景タイトルの文字だけが印刷されているのでカバーを外すと作者名は消え、影部だけのタイトルは文字が潰れて何の本だかわからん。
深読みさせようという意図の装丁なのはわかるけど、ここはその装丁に関して「華麗にスルー」すべきだろう。

巻末で著者自身はこの物語を「僕にとっての一種の切断線」であるといっており、それは著者自身が言っているように、物語の背景であるべき「手法」的な部分が前面に出て、前景であるべきストーリーが後ろに後退している形の作品から次のスタイル、つまりは『シンセミア』的なものへ移り変わる境目にこの作品は位置づけられると言う事やと思う。

なぜか読んでて連載小説って大変やなぁと思った。
全然本の感想ではないけど…

2006年12月01日

●ふたりはブリュギア

耳と頬を通り過ぎる風が身を切るように冷たい。街を埋め尽くす白痴のごとき赤と緑のハレーションと、色りどりのLEDの狂気じみた光が目を射る。
「12月24日なんか消えて無くなればいいのに」
土偶はそう一人心地て自転車を漕ぐ足に力を込め、点滅する赤い尾灯の尾を引いて渋滞した車の間を縫うように走る。
いつもならすっと大気に溶けてゆく筈の悪意は、まだ引っかかったようにしがみついている、漕げども漕げども気は晴れない。
土偶は諦めて12月が来た事を認める。悪意と軽薄と残虐に満ちた12月が来た事を。

っていきなり妙な文で始めたけど、12月ですね。
最近小説読みまくってるせいで、見るもんを何でも小説ぽく置き換えたくなる癖がついて来てということで上の文。

最近読んだ本の中に度々出てくるモチーフに「触るものが全て黄金になるミダース王」てのがあって、どんな話でも下ネタにする奴とか、どんな材料使っても「コレ食べ物?」って味にする女の子とか、どんな話でもオチをつけようとする関西人とかも、どっちかと言うとこのジャンルに入るやんなー等と思いつつ、なんでも小説チックに見える俺もやんけー。

でそのロバの耳のミダース王にもっとも良く関係するギリシャ神話の登場人物といえばやっぱり「デュオニソス」というわけで、こちらも某ーチェさんに関係の深い陶酔的・激情的なるものの象徴なわけで、これも今の私の本の読み方に近い。

で、この二人、ミーダス王とデュオニソス。

何が言いたいのかというと深い意味など全く無く、なぜか思いついたフレーズ
ふたりはブリュギア
を言いたかっただけだったりする…

※ ミダースはブリュギアの王

●レベッカ・ブラウン 『私たちがやったこと』

レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』を読了。
最近読んだ二作『体の贈り物』『家庭の医学』のいわるゆる「介護文学」なるものとは全く色合いも雰囲気も違う話であり、基本的には「私」「あなた」の一人称と二人称で語られる、カップルを巡る七編の短編で構成されている。

安全のために、私たちはあなたの目をつぶして私の耳の中を焼くことに合意した

と中々ブッ飛んだ出だしで始まる表題作のように、狂気じみた、というか狂気でしかない恋愛が描かれてゆく様は中々凄みがあった。

個人的には、「ナポレオンを殺したい」と言うよくわからん脅迫概念に追いまくられた女性が、夢で何度もナポレオンを殺し、現実でもナポレオンのことばかり考えてばかりいて、恋人との関係に破綻をきたしてしまう物語の「ナポレオンの死」が一番良かった。
ナポレオンを駅のホームから突き落とすとか、羽根ペンでうなじを何度も突き刺すとかいう変にリアルな夢や、現実で映画を見てもアートの作品を見てもナポレオンを思い出して、恋人はそんな彼女にナポレオンは何かの投影だとか不安や抑圧の表れだとか理由をつけたがり決して理解できない様は可笑しかった。
突拍子も無い話やのに、読んでて妙に薄ら寒いリアリティーを感じた。

amazon ASIN:4838713622 レベッカ・ブラウン特有の淡々とした感傷も美化も無い語り口調は、狂気を描くことでよりエグさを増しているように感じた。

この本を読んでいる限り、七編の短編に共通して、恋人同士の二人の世界とそれを取り巻く社会の世界のギャップをテーマとして扱っているように思えた。
この作者はレズビアン作家と言うことになっているらいので、確かにそういった「レズビアン」な立場からすれば、自分たちの恋愛と社会の関係には敏感にならざるを得ないだろう。

しかしながら、異性愛者同士の恋愛と社会の関係でも片方から片方を見れば狂気にしか見えん場合も多々あるわけであり、某ーチェさんからすれば、

愛の中には、常に幾分かの狂気がある。しかし狂気の中には常に又、幾分かの理性がある

ということだそうで、まぁそういうことだ。(言いっ放し)