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2006年11月30日

●ミラン・クンデラ『ほんとうの私』

子供を失って離婚した高給取りの女性と、年下の知的ダメ男系の熟年カップルの恋愛について書いた小説。
なぜか本国フランスよりも日本語版が先に発売されたと言う、日本をターゲットにしたと思われるこの本。
そこのところの意図は結局わからんままに終わった。まぁ特に訳なんか無かったのかも知れんけど。

小説形式は今までのような小説内に作者が登場したり、何かについて雄弁に語ってみたりと言うことは一切無く、どちらかと言うとストーリー小説のように進行する。
そして他の同作者の小説に比べて「詩」的な表現や感覚に訴えかけるような記述が多いように思った。

日本語のタイトルは「ほんとうの私」となっているけど、原題から忠実に翻訳すると「アイデンティティ」と言うことになるらしい。たしかに、この本のテーマにそういうところを読み取れた。
結局、醜いとしか思えない同意出来ない世界と、そこに生きる自分をどうやって肯定するか。というテーマになるのか?

amazon ASIN:4087732614 主人公の恋人の友人が臨死体験をした後に語る、

死のあとでも、ひとは生きているという考えを払いのけられないんだ。死ぬとは、無限の悪夢の中で生きることだと言う考えをね。

という台詞で、同意できない世界への回答としての死に対する逃げ道を塞いでおいたところは好感が持てた。

人と人が沈黙を埋めるための話をするネタを提供するために世界は必要とされる。という主客が転倒したように見える見方を面白おかしくそのカップルは共有するけど、ほんとうの所は相手を通してしか感情的にも社会的にも世界とつながっておらず、で、そういうのんてどうやねん?という話なのか?

どっちにしろ、読んでて「ぁぁ、こうはなりたくないなぁ…」と思った。

2006年11月29日

●珍曲「地獄篇」

昨日まで4連休だったのだが、折角の連休を全て本読みだけで潰したのは如何なものかと思わなくも無い。
しかし、そういう「いかがななものか?」てな見方で過去を見だすと、この一ヶ月はいかがなものか?この一年はいかがなものか?この数年は?今までの一生は?と際限なく連鎖して変な所に入って浮かび上がれなくなりそうなのでやめておこう。

何ぼ本読んだところで「リートスト」を正当化する理由を探すような読み方は意味が無いで。と覚えたての言葉を使ってみた。
読み始めは「読みたい本がいっぱいあって嬉しいなー」な「本天国」に見えたものの、一冊読めば二冊。二冊読めば四冊と読めば読むほど読みたい本が等比数列で増殖してゆく本地獄巡り。

われ正路を失ひ、人生の覊旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき

と真顔で引用してぁぁ恥ずかし!ってある種の自虐的言葉責めか?コレは。

一冊読めば何かがちょっとわかった様な気になり、何かから一歩遠ざかった自分に気付く。
そして遠ざかったのが哀しくなってまた読み…と典型的な中毒やら依存症やけど、依存症を依存症と判定する基準は「日常生活に支障が出る」ことらしいので…

今日は某CKP先生に「じゃんセンセ!!」と声をかけるチャンスが二度もあったのだが逃してしまって残念。「ジャン期間」がそろそろ終わりそうなので急がねば!!

2006年11月28日

●レベッカ・ブラウン 『家庭の医学』

レベッカ・ブラウンの『家庭の医学』を読了。
この間読んだ同じ作者の『体の贈り物』がHIV患者のホームケア・ワーカーの話だったけど、今回は末期癌となった母を介護する話。
母の体調が悪くなって病院に行き、癌である事、転移してすでに手遅れであることが判明し、様々な延命治療や緩和治療を施し、ホスピスで死を看取る、というところが語られる。
前作と同じような淡々と感情を表さない語り口が読む者の心を揺さぶる。といったところか。

親の死や看護などというものは、突発的な何かで自分自身が死んでしまわない限り避けて通れないものであるからして、末期癌というところは別にして、この本のテーマはほぼ誰にでも該当して関係することであろう。

amazon ASIN:4022577983 この『家庭の医学』と依然読んだ『体の贈り物』はどちらも著者の体験を綴ったノンフィクションということになっているらしいけど、小説家である著者にとって小説という形が一番身近な表現形式だったのやろう。
私自身はノンフィクションで本当にあった出来事だから凄いとか、フィクションだから凄くないとか言う考え方は全く持っていないので、著者の経験が感性やら思考のフィルタを通って小説になったこの本は、純粋な物語や小説としてみた場合でも見事だと思う。

また、細かく分けられた各章に「幻視」やとか「転移」「化学療法」などという名前がついて『家庭の医学』というタイトルの由来になっているように、各章のテーマをはっきりさせて物語る構成というのも、各章のテーマを一点に絞れるだけあって、純粋で一本気な雰囲気を醸し出しているのだろう。

前に読んだ『体の贈り物』同様この本も良い奴しか出てこなく、遺族が遺産相続を巡って争ったり、看病する娘にコップを投げつけたりという修羅場も当然無い。
ファンタジーはファンタジーやけど読んで損は無いだろう。
というか、こういう風に親を見送ることが出来ればどれだけ良いだろうなと思った。

●阿部和重 『アメリカの夜』

最近お気に入り小説家である阿部和重のデビュー作である『アメリカの夜』を読了。
自分は特別な存在ではないか?などと思い描く男を自分の分身として描写する男を描いた、ちょっと聞いた感じではややこしい話。
デビュー作のこの作品も、阿部和重の書く小説を特徴付ける(と思っている)共感も同情も出来ない痛々しい主人公と登場人物のみで構成されている。
人と違うこと自体に価値を認め、身の程を知らず、無根拠な自信に満ち溢れて無意味な映画などを撮ってみたりするアート系なるプチクリエイター達に囲まれた、無根拠に自分が特別な存在だと思い込む、他人と接触を求めない、文学に目覚めた勘違い系の痛い男が語る、小難しいだけで無内容に見える独白と見当外れな自己鍛錬の物語。
と書くと痛々しくて読んでられなさそうやけど、結構面白かった。

amazon ASIN:4062071738 1994年の出版当初は「自己探求の物語に新たな伝説が加わる。「近年読むに値する1冊」と絶賛の嵐。」などと言われたらしいけど、そう言われたんもなんとなく分る。
確かに今までに無いタイプの主人公やけど、現にそこらじゅうに溢れているような人物でもある。しかも時代の悪いところと中途半端なところだけを集めたのが何とも良い。
「とにかくおれは影響を受けやすい。まるでものまね人間だ」という所が個人的にツボ。
個に特有であると思われたものが実は時代的に共通なものであり、それを地に引き摺り下ろして笑いものにするのは何とも小気味よかった。

小説の登場人物をバカにする主人公をバカにして、その主人公を書いている著者をバカにして、その著者の書く小説というスタイルをバカにして、またそれを読む読者をバカにして…と、どんどんバカにする対象が連鎖してゆくのが彼のスタイルであると私は思うのだが、「アメリカの夜」なる内容と全く関係ない同名の映画がなぜタイトルになっているかが最後にわかる訳やけど、それも小説の持つもっともらしいタイトルのつけ方をバカにしているようにすら見えた。

この小説の主人公やら登場人物のような人間に全く関わりの無い人間は馬鹿馬鹿しいだけで全く面白くないだろうし、(多分そういう人はこの本を読まないだろう)
彼らのような人物にかかわりがある、もしくは自分自身が似ていると感じる人間にとっては、その主人公と主人公の周りにいるような人間を鼻で笑って生暖かく見守れ、かつ自分の中にあるそういう部分を否定的に見つめる事が出来て、この小説を本気に受け取らずにパロディーやらネタとして笑い飛ばせる人間でなければ腹が立つだけだろう。

そういう意味で、逆説的なクールさと俗っぽくて毒気の無い嫌味とあてつけと侮蔑と軽蔑に満ちたこの小説は、自分自身を軽く明るく笑い飛ばす為の小説であるといえるし、そういう意味で読者に対しての「教養小説」といえるだろう。(違うか??)

2006年11月27日

●ミラン・クンデラ 『笑いと忘却の書』

最近お気に入り小説家の上位に急上昇しているミラン・クンデラ の『笑いと忘却の書』を読了。

ミラン・クンデラが亡命先のフランスから出版した最初の小説であり、この出版が直接の原因となってチェコの市民権を剥奪されたらしい。
amazonの紹介によると

党の修正により、となりの男に貸した帽子を除いて、すべての写真から消滅した男。一枚の写真も持たずに亡命したため、薄れ行く記憶とともに、自分の過去が消えてしまうのではないかと脅える女…。〈笑い〉と〈忘却〉というモチーフが、さまざまなエピソードを通して繰り返しヴァリエーションを奏でながら展開され、共鳴し合いながら、精緻なモザイクのように構成される物語

ということで、体裁は一応短編が複数個集まっている構成でも、物語の中に突然作者が登場したり作者としての語りが入ったり、写実的な話で突然少女が浮かび上がったりと、今までの小説に無いようなそういう展開に戸惑って、意味とストーリーの流れを掴みにくく、そういうところが読みにくかった。
しかしながらそういう構成はミラン・クンデラ特有のスタイルなわけで、慣れてしまえばそのミラン・クンデラ節は何とも心地よい刺激を与えてくれるものでもある。
確かに「笑い」と「忘却」がテーマになっているのは良く分った。

amazon ASIN:4087731464 この人の本を読んでいつも思うのが精神と肉体(を分けてみた場合)のバランス感覚が絶妙だなという事であり、彼の語る言葉や語彙や感覚はどこと無くニーチェを思わせるものがあると常々思ってきたけど、この本を読んでほぼ間違いないように思うに至った。
後の小説で主題として取り上げられる「不滅」や「重さと軽さ」というテーマもそのままそうだし、この本の主題である「笑い」と「忘却」しかり、さらに「リートスト」なる「ルサンチマン」と「逆ギレ」と「潔癖完璧主義」と「腹いせ没落衝動」が混ざったような他の言語に翻訳できないチェコ語の概念もあまりにニーチェ的やと。

個人的には第五部の「リートスト」が一番興味深く身につまされて痛々しく、自称インテリ臭いけど全然もてない諸氏を「リートスト」のどん底に叩き込んでもうそこから浮かび上がらなくてもいいやぁ。と思わせるに十分の破壊力やし、そこのところは<ナニをしないことの、ぞっとするような「リートスト」>この一言に凝縮されているような気がする。

この本の中で「書記狂」なる本を書きたいというやむにやまれぬ欲望は、1,無益な活動に身を捧げられる余裕が多く、2,個々人の全般的な孤立化の度合が高く、3,社会的変化が決定的に欠けている。の三つの状態がそろった時に宿命的な疫病の規模となり、いったんその疫病の規模にかかると症状が条件にフィードバックしてますます症状が酷くなるといった循環機構を持つという。
村上春樹が「文章を書くことの落とし穴」、アゴタ・クリストフが「書けば書くほど病は深くなる」と言った風に表現される症状はこういうことではないだろうか。
そして一人で、毎日欠かさずブログを書き続けるということもまたそういう傾向があるかもしれない。
それが「リートスト」と「笑い」と「忘却」に何の関係があるのかはよく分らない。

2006年11月26日

●イーサン ケイニン 『宮殿泥棒』

イーサン ケイニン 『宮殿泥棒』を読んだ。
ネット上で本好きと言う本好きがそろって絶賛する柴田元幸訳の中編集。
普通の物語では決して主人公になれないような気弱で生真面目な「優等生タイプ」を描く四篇が収められている。
真面目一筋でそこそこの成功を収めた男が大成功を収めた幼馴染と会って心が揺れ動く様を描いた「会計士」、数学の天才で大人たちを煙に巻く兄を持つ、そこそこ優秀な弟の話である「バートルシャーグとセレレム」、会社の上司に妻を奪われて息子も自分を超えてしまったと実感する真っ直ぐ生きてきた男の悲哀を描く「傷心の街」、友人だと思っていた男に裏切られて職を追われた名門高校の堅物教師が、過去の受け持ちの不良少年をめぐる教育上の立場を回想し、老齢を迎えて再びその不良少年に翻弄される様を描いた「宮殿泥棒」

確かに渋いとしか言いようが無いし、職業的文筆家の力というものをつくづく感じた。みんなの言うように文句無く面白い。
特に、自分の世代的なポジションを理解して、若ぶったり若いつもりであると思うことを恥じ、色々なことを諦めるのに半ばほっとしつつも寂しく思うようになった今読むと変なところにヒットする。

amazon ASIN:416316720X 訳者である柴田元幸は「あとがき」でこの本の中には「人格は宿命である」「人は変われない」というテーマが貫かれている。と言うようなことを言っていたけど、確かにこれらの物語の主人公たちは変わりたくても変われない悲哀と、変われなくてもまぁ幸せはあるか。という思いを抱いているように見える。
変わりたくても変われず、それでもちょっとした事に幸せを感じて満足してしまいそうになる自分の凡庸さが腹立たしくも哀しく愛らしくもある。
そんなよく理解できる感覚を見事に描いていた。

結局この本はそういう人たちを勇気付けるつもりなのか、冷や水を浴びせかけてるのか良く分らんかった。
というか、それは俺の受け取り方次第なんやなと。

●池田清彦 『初歩から学ぶ生物学』

enzian氏ブログで紹介されているお勧め本と言うことで、読もう読もうと思っているうちに延び延びになっていたものの、やっとこさ読んだ。
と言うことでenzian氏のブログの該当エントリはこちら

内容は一般向けの生物に関する本や新聞記事を興味を持って深く読みこなす素養がつく位の、生命論、生態学、発生学、進化論、分子生物学などなどの話題。
いきもの好きなのでかなり楽しく読めたが、そうでない人も楽しく読めるだろう。
著者の言うように、ちゃんと読めばちゃんと理解できる話やけど「へぇ~」とか「ほぉ~」とか感心する事しきりだった。

amazon ASIN:404703357X 生態学は結構好きで色々読んだけど、遺伝とか進化とかの話は高校レベル-αで止まっているので、獲得形質が表現系として遺伝するとか、ゲノムの変異はランダムでないとか、大腸菌を人工進化させたとか聞くと「えぇっ??」とかなりびっくりする。
一章の「生命についての素朴な疑問」はわかったつもりになっているような生命観とか環境観を根本の方から揺さぶるものであるし、遺伝、進化、免疫機能などの話も上手い事出来てるな~と感心するしかない。

こういうのをずっと読んでいると「有性生殖」に関わる問題や、獲得形質やら表現系の過不足で悩んだりするのが余りに馬鹿馬鹿しくなって来るし、わかったつもりになっていることがやたらと多く、如何に自分は便宜的な理解をしていたのかと思う。

後半では癌、エイズ、狂牛病のメカニズムも説明されており、巷をにぎわす話題もふんだんで生物学の基礎素養も身につくこの本はお得だと思われる。

2006年11月25日

●吉田満 『戦艦大和ノ最期』

戦後文学、戦記文学の古典として名高い、吉田満『戦艦大和ノ最期』を読む。

軍少尉、副電測士として「大和」に乗り組んでいた著者が、必敗の作戦へ最後の出撃をしたものの、敵の航空部隊と魚雷攻撃によって成すすべなく沈没させられる「大和」から逃げ出し、そして救出されるまでを漢字カナ交じりの文語体でストイックに多弁を控えて淡々とのべられて行く。
緊迫した戦況の記述と悲惨な救出劇の他に、戦友たちの個人的なキャラクターの善意と愛の溢れた描写に多くを割いているのが印象に残った。

凄惨きわまる戦闘に、戦闘員各々が各々の願望やら欲望を抱えて臨んでいったという、当然ではあるけど見逃されがちな事実が胸を打つ。

amazon ASIN:4061962876 この本については戦争礼賛やら自虐史観やら色々な立場の色々な思想を持つ色々な人間が絶賛やら批判やらの言葉をイデオロギーの面から発しているのは知っているし、またこの本に書かれた内容が事実であるとかそうでないとかの議論があることも知っている。
当然そのことについて私は何も言及しないし、何かについて判断を下したり立場を表明したりする気も全く無い。
それでも、著者の言うように、戦争に臨んだ青年たちがどのような事を考えどのような価値を持って戦争の只中で当時を生きていたのかを記すのはイデオロギーの介在する余地の無い事であるし、著者の吉田満は価値の大きく変容した戦後を今までの過去と折り合いをつけて前を向いて生きるために、戦後直ぐにほぼ一日この物語を書き上げ、この体験を語るのがどうしても必要だった。と述べており、その事の意味はやはり大きいだろうと思う。

文語体の文体と語彙とリズムで述べられる記述に、当時の思考や価値はこういった文語体で語られるのがふさわしいのが良く分った。
淡々と多弁を控える語りは決して感情を抑えて感情に関する記述を避けているわけでは無く、それでも何がこれだけストイックな印象を与えるのかと言えばその記述に「感傷」が無いからだと思った。
人間であれば感情を持って当然やけど、だからと言ってそれが感傷まで行ってしまえばそこからは殆ど何も生まれない。と言うところか。
この感傷の無さがこの物語に漂う「品の良さ」を後押ししてるのだと感じた。

この物語の最期の方で、沈没した「大和」の渦から逃げ出してなお疲労困憊で重油まみれの海を漂いながら泳ぎ続けるのを諦めようとした時に、幻聴で聴く「バッハの無伴奏ソナタ」に励まされるシーンがあった。
続きをそのバッハの「無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータ」を聴きながら続きを読み始めるとそのシーン妙にぴったり来たわけやけど、俺がバッハやったら、こういう事言われたら凄く嬉しいし、作曲した甲斐があったと思うやろうし、また、この本を読んで何かを感じる読者がいれば作者は嬉しく書いた甲斐があっただろうし、そういう輪の繋がりでこういう音楽やら文学はできているのだなと思った。

●パウロ・コエーリョ 『悪魔とプリン嬢』

ブラジルのこえぴょんことパウロ・コエーリョの『悪魔とプリン嬢』を読了。
人は七日間で生まれ変われることができるというテーマに貫かれた、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』と『ベロニカは死ぬことにした』に続く「そして七日目には…の三部作」の完結となるらしい。
中々有名なの本でかつ誉める人が多いにも拘らず、ふざけたタイトルとそのタイトルで特定の人物を連想させられることから今までなんとなく避けてきたものの、まぁ兎に角読んだ。

舞台は観光資源も産業も無く、若者は出て行き、狩と純朴な住民と自然を目当てにやって来る人々に外貨を頼らざるを得ないという感じの典型的な山あいの過疎の村。
そこに金塊を携えた旅人が訪れ、村に一軒あるホテルのバーで給仕を務める、自分ではそう望みながらも村を出てゆく勇気も金も才覚も無い町で一番若いプリン嬢に、村で殺人が起きれば村全体が豊かになれる金を村に提供しようと持ちかける。
そしてよく分らん良心やらダイレクトな欲望やら剥き出しの猜疑心やらで町全体が包まれる。
寓話的な舞台設定の大人向けの童話と言ったところか。

amazon ASIN:4048972022 「神」の前提の無い世界の中で善と悪を位置づけるのは根拠が無い事であるのは自明であるとしても、依然として人間は善なり悪なりで物事を考えたくなるものである。
この本の中で悪魔つきの男が「神にすら地獄がある、すなわち人間に対して抱いている愛だ」とニーチェの言葉を引用しているけど、その言葉はその悪魔つきの男が述べなかった、本来ならその後に続く「神は死んだ。人間への同情のために、神は死んだ」を補うものである。
実際にこの村の信仰は地に落ちていることになっているし、すなわちそれはは神が死んだとも言える状態だということでもある。

「ひとりの人間の物語は全人類の物語」としてこの物語を語る著者は、当然一過疎の村の話ではなく人類全体の話としてこの物語を位置づけているのだろう。
神が死んだ状態で、神を根拠にしない前提で善悪とはどういった状態で定義付けられ、そして実践されるのか。と言う問題で無理やり見てみるなら、結局村の住民たちが悪に「堕ち」なかったのは神への信仰ではなく、現実的な罰と不具合への恐れと他人を信じるのが危険すぎるからでしかなかった。
というところは中々意義深いと思う。

しかしそう良いながらも、「欲望を感じないことはできないが、私は自分を抑えられるだろう」で象徴されるように、「すべては抑えるかどうかにかかっていた。そして、何を選ぶかに。」というところに集約されるように思うし、結局は社会の問題ではなく、個々の問題ということになる。

とまぁ、著者自身も説教臭くなるのを必死で抑え、何かを伝えたがっているのは良く分った。

2006年11月24日

●レベッカ・ブラウン『体の贈り物』

とあるwebページで絶賛されていたレベッカ・ブラウン『体の贈り物』を読了。
柴田元幸が翻訳したと言うことも読んだ一因である。

短編の構成を取りながらもそれらがリンクして連作としての物語になると言う構成の、死を待ちながらもどんどん日常生活が出来なくなって行くHIV患者達と、彼らのホームケア・ワーカーとして身の回りの事を世話する女性の物語。
限りなくチープでありきたりの押し付けがましく説教臭いお涙頂戴な話になりそうな題材を、普通の話なら言及しそうな話題、例えばHIV問題だの人間の尊厳だの死についてなどと言った視点を一切廃して、何を話しただとか何をしただとか何を食べただとか患者との関わりのレベルだけで淡々と語ってゆく。

全ての短編構成の物語が「The gift of ~」で始まるので分るように、ホームケアすると同時にその相手から何物かを贈られているという感覚が根底にあるのだろう。
訳者とweb上のこの作品を褒めている人の殆どの人が「とにかく一度読んでみて下さい。」と言う意味が良く分ったし、「末期のHIV患者とそのホームケア・ワーカーの話」で連想される物語とは全く違うと彼らが言うのも良く分った。
さらに、「この本について語れば語るほど本は面白そうで無くなって行く」と言うのも書いていて良く分った。
哀しいとか感動するとかそういったありきたりの言葉では語りにくい物語であると思う。

amazon ASIN:4102149317 登場する患者の全てが必死に日常生活生活を営もうとする姿は痛ましく、結局彼らの全ては奇跡を起こす事無く死ぬ訳やけど、「苦労して日常生活を営み、やがて死ぬ」と言う図式はHIV患者だけでなく人間であれば誰でもに当てはまるものであり、そこには程度の差くらいしかない。
そういうわけで、体裁は「死に至る病」にまつわる話を扱っているわけやけど、死を免れる人はいないが故に結局は全ての人間に共通のテーマともなるわけである。

淡々と感情を表さない単語で綴られた物語であるけど、その語りの行間から読み取れる主人公の優しさだとか感情だとか愛だとかがこの物語を上に押し上げている。
そういった書き方はリアリズムの手法ではあるけど、結局出てくる人間は全て良い奴で、ケア・ワーカーに当り散らす患者も、患者を虐待するケア・ワーカーも当然出てこない。
もちろん何をリアルだと思うのかは人それぞれやけど、リアリズムの殻を被ったファンタジーのようにも読める。
確かに、こういう風に死に行く人に接し、死に行く人を見送り、こういう風に死ねたらどれだけ良いだろうと思う。
それでも、われわれの住む世界はもっと汚く醜く悪意に溢れている。
と思う俺がそうなのかもしれないと思った。

2006年11月23日

●村上春樹 『東京奇譚集』

東京にまつわる奇譚を集めた短編集の『東京奇譚集』を読む。というか読んでなかったのを思い出した。
2005年の9月初版ともう一年前の本屋で、確か『アフターダーク』を読んで「駄目だこりゃ」と思ったので、次に出たこの『東京奇譚集』はパスしていたはず。
買うのは何やけど、図書館で借りて読む分にはええやと言うことで借りて読んだ。

「新潮」に連載された四作品と書き下ろしの一作品の構成。
ころっと作風を変えた『アフターダーク』の後に出版されたにもかかわらず、入っている作品はすべていわゆる「村上春樹ワールド」で中々心地良い。
三人称を使った一人称語りで、真似しやすそうやけど実は中々難しい文体と読者を引っ張り込むストーリーテリングはもう職人芸やと思う。
私自身は村上春樹を長編作家だと見なしているけど、彼の短編をこそ評価する人も多いように、長編にはない味を出す彼の短編もいいなぁと改めて思った。

amazon ASIN:4103534184 村上春樹の短編は、長編のようにストーリーテリングが無くても余韻のようなもので読ませるし、どの物語にもちょっとした悲哀と警句が必ず含まれていて、短い話であるが故にはっきりとしたテーマを読者に印象付ける効果があるように思う。

そのあたりが村上春樹をして職人芸的短編小説作家たらしめるゆえんだろうし、彼が書いた短編から長編を膨らませることが多いという事は、長編のテーマたるものを短編を持っているということであり、なかなかお得感がある。
彼の書く長編はある程度あたりはずれがあるけど、彼の短編は殆どハズレ無しではないだろうか?

個人的には彼の動物系の話が好きな事もあり、五つの短編の中で一番気に入ったのは「品川猿」である。
是非とも「かえるくん」との共演を期待したい。。

2006年11月22日

●アゴタ・クリストフ『どちらでもいい』

今年の9月に出たばかりのアゴタ・クリストフの短編集『どちらでもいい』を読む。
アマゾンでは

夫が死に至るまでの信じられないような顛末を語る妻の姿が滑稽な「斧」、著者自身の無関心を表わすかのような表題作など、全25篇を収録。祖国を離れ「敵語」で物語を紡ぐ著者の喪失と絶望が色濃く刻まれた異色の短篇集。

と紹介されているが、訳者のあとがきによると、これらの物語は1970年代から1990年代前半のアゴタ・クリストフのノートや書付から発掘されたものらしい。
『悪童日記』が書かれる以前から、三部作をちょうど書き終える頃までの時代のものとなり、アゴタ・クリストフが中々次作を出さないから本来表に出なかった筈ものが世に出たというところだろう。

amazon ASIN:4152087331 三部作と同時期かそれ以前に書かれた文章ということで、例のごとく感情表現の語彙を一切使わない文体が徹底されており、冷め切った視点と諦めきったものの見方と乾ききった感受性は、人生が無であり苦でしかないという立場をはっきり表しており、何度アゴタ・クリストフの文章を読んでもこの息苦しさには慣れることができない。

訳者はあとがきで「この短編集はより完成度の高いA・クリストフ作品と関係づけながら味読されるときにこそ存在価値が上がるのにちがいない。」と延べて、この短編集が単独の書物としてはほとんど価値が無いことを暗に認めている。
しかしながら、逆に言えば『悪童日記』三部作を読んでいるからこそこの短編が三部作の欠片を薄めたかのような味気なさを感じるだけであり、短編としてはテクニカルな職人芸的な部分は殆どないけど、逆にそれが書き手の強烈な個性と思念がダイレクトに伝える効果を上げているように思えるし、アゴタ・クリストフの強烈な個性は伝わってくる。
もちろんこの短編を読んで『悪童日記』三部作を読まないのは薦められないけど、それほど悪いともは思わない。
それでも確かにむやみに人に薦められる本ではなく、彼女の世界に少しでも触れたいと言う人向けの本だという気はする。
って結局同じ事言ってるな…

中々次作を出さない、ほぼ断筆状態に近いアゴタ・クリストフに対して、ファンがやいのやいのと早よ次作書けよというプレッシャーを与えているようにも見える現状だが、三部作の次の作品である『昨日』でも、自伝的散文である『文盲』でも彼女はもう書いてないと言うことをやたらと強調している。
もう燃え尽きたいうとんねんからそっとしといてやれよと、円谷幸吉のような目にあわせたらいかんよ、と思う土偶も次作が出たらぜひとも読みたい。と思うのであった。

2006年11月21日

●阿部和重『シンセミア』上・下

阿部和重『シンセミア』を読了。
毎日出版文化賞、伊藤整文学賞をダブルで受賞したこの作品は、総ページ816、原稿用紙にして1600枚の長大な物語であり、一気に読ませるストーリーテリングの力を持っていた。
「神町」に住む複数の人間の視点から語る物語が重層的な構造をなして「神町サーガ」を形作る構成を取る訳であるが、過去に読んだ阿部和重の作品と同じく、この作品の中に人間的な魅力を感じられるような登場人物は誰一人として登場しなかった。
登場人物は全ていわゆる「鬼畜」か「狂人」、もしくは「鬼畜の狂人」である。
サドのロリコンで自分を好きになった中学生を弄びつつも近所の小学生に惚れ込んでいる正義感が強いつもりの警察官がまともな人間の代表格だという時点でこの物語のぶっ飛び具合が理解されよう。
そのロリコン警察官と、近所中を盗撮して回った映像を商品にする盗撮サークルを主催する暗い野望を胸に秘めるレンタルビデオ店の経営者の二人をそれぞれ中心にして起こる暴走を二つの軸にして、激化した町の裏社会の対立が絡み合い、町中の住民たちが卑小で醜悪な欲望と狂気を剥き出しにして大きな流れに巻き込まれ、駆り立てられてゆく。
UFO、霊媒師、新興宗教、麻薬、マスコミなどの大量に投入された胡散臭げなものを燃料にして燃え上がる物語は、終盤に差し掛かって町が一つの大きな悪意の塊となるかのような様相を呈し、満を持して起こるカタルシスの一片も無いカタストロフで幕を下ろす様は、もう圧巻としか言いようが無い。

amazon ASIN:402257870X amazon ASIN:4022578718 本の装丁とは正反対の、ひたすら陰湿で邪悪で悪意に満ちた人間が陰惨な悲劇や破滅に陥る様をひたすら描きながらもその悲劇と破滅はユーモラスですらある。
陰陽師を名乗る男が火達磨になって倒れ、近所の子供たちに「ドロドロお化けだ!」とはやし立てられるシーンはこの小説でもっとも笑えるポイントではないだろうか?

「場」を主人公に据えるガルシア・マルケスや大江建三郎、中上健次と比べた場合の、「神町」を主人公にする阿部和重のもっとも特徴的な点は、最低な人間しか登場しないと言う以外にも、嫌悪感を交えることなく人間の醜さのみを抽出して見せ、悲劇とカタストロフの物語をただの喜劇として描く方向に持っていこうとする点ではないだろうか。
純粋に献身的に誰かを愛そうとする高校生が笑いを誘う愚か者にしか見えない様に描ける作家は中々いないように思う。

だからと言って作者の視点にルサンチマンや独善も見えず、高みからも低みからも見ているようにも、熱くも冷たくも見えない、不思議なニュートラルさを感じる。
創世記の引用から物語が始まり、神町を東北弁で「ノアの箱舟」になぞらえ、ネズミを語り手として据えたり、阿部和重自身が物語に登場したりと、古典的な作品や小説と言うメディアすら小馬鹿にしてふざけ切っているようにも受け取る事ができる姿勢は、彼自身や彼の書く小説に対する何かしらの定位を拒むようですらある。

これだけエログロで「うわっ…」としか思わない人間や事件しか無い物語に関わらずも、その読後感が変に爽やかなのはかなり不思議であるけど、
逆に、これだけの物語を見せ付けられれば、自分の醜さとか中途半端さとか大したことないなぁ…とちょっと一瞬でも自分が好きになれそうな予感がする不思議な物語であった。

2006年11月20日

●アゴタ・クリストフ『文盲』

アゴタ・クリストフ『文盲』を読んだ。
110ページとあるものの1ページあたりの文字数は少なく読破に30分くらいしかかから無い。
自伝と言うことになっているけど、「読む事」「書く事」に関するテーマについて年代順の記憶に沿って書かれており、そんな短い文章の組み合わせの構成は「自伝的随筆」と言ったところか。
母語であるハンガリー語ではない「敵語」で書かざるをえなかった苦しみと不自由さからこの『文盲』というタイトルはきている。

相変わらずの感情の起伏の無い冷たく乾いて取り付く島の無い文体は深い悲しみと諦念を漂わせている。
こんな最初から最期までダウナー系な自伝は中々お目にかかれないだろう。

また、『悪童日記』三部作、『昨日』を読んだ人間にとっては、アゴタ・クリストフ自身の体験として話される物語は、作者はどういう体験から物語を作り、どういう風に語ったのかといった、今までの作品の創作の背景を詳らかにするものでもある。

amazon ASIN:4560027420 本を読むのが、文章を書くのが好きで好きでたまらない人間にとっては、彼女の言葉は重く響くだろう。
そしてそうであるからこそ、彼女が母語ではなく「敵語」で文章を読み、そして書かねばならない苦悩もまた理解できると言うものだ。

しかしながら、アゴタ・クリストフは新しい物語を書けば書くほど高みに登ることを目指すタイプの作家、つまりは書く事や物語ることで救いを目指すようなタイプの作家ではないと言うのが良く分った。
過去に根ざす強烈な物語、つまりは『悪童日記』三部作を物語り終えた時点で、彼女にとっての文章を書く意味が殆どなくなってしまったのではないだろうかと言う印象を受けた。
現にこの本の一番初めの章の最後で、「そして、何よりも重大なことに、書く事をしない。」と彼女は語っている。
書かずにはおれなかった、書くことが苦痛しか感じなかった彼女にとって、「書かなくても良い」という状態はある種の救いなのだろう。

「デビュー作を超える作品を書くのは難しい」とよく言う。
自分の過去を救おうとする事は誰でもするけど、自分の未来を救おうと試みる人は少ないような気がする。
そういう観点からも、本気で本を読み、本気で文章を書こうとする人間にとっては、この本は薄い短いながらも重みを持っているように思えた。

読み始めていきなり「わたしは読む。病気のようなものだ。」と言う文章が目に飛び込むが、思わず「病気で悪かったな」と心の中で悪態をつくような、『悪童日記』三部作を読んでいる人間にお勧めできよう。

2006年11月19日

●平野啓一郎 『葬送 第二部』

『葬送 第二部』を読み終えた。
ショパンが久しぶりに多くの聴衆の前で行う演奏会から二部が始まり、二月革命のあおりを受けてイギリスへ旅立ち、体調を崩してフランスに帰り、姉と友人たちの見守る中息を引き取る場面で物語は終わる。

一般的には中々好意的な感想が多く、重厚で骨太な正統派の小説であるという意見が多く見受けられるが、webで見る限り発売された当初の大掛かりな取り上げられ方に引き換え、それほどは話題にされなかったような印象を受ける。実際に何々賞を受賞したと言う話も聞かないし。

とはいっても私自身はこの本にかなり良い印象を持っているし、とても面白かった。誰かが「筆力」って言葉を使っていたけど、まさにそんな感じだった。
大体どの長編にもストーリーに起伏が無くなくなりそうになる中だるみの状態があるもんやけど、そんな時でもそのショパンの繊細な優美さとドラクロワの濃い独白は読者の目を離させない著者の筆力を感じた。

読み終えた達成感は中々のもので、本読み冥利に尽きる読み応えのある大作だった。
もともとショパンを好きなわけじゃなかったけど、これを気にちゃんと聴いてみようという気になったし、ドラクロアにも興味が出てきた。

ショパンやドラクロワが好きな人は当然な事として、クラシック音楽や絵画が好きな人にもお勧めできる本やと思う。
ただし、本を読む訓練が成されていない人にとってはちょっと辛いかも。

amazon ASIN:4104260045 一番印象に残っているのはショパンのパリでの演奏会の描写で、一々引用はしないけど、今までにこういう風なコンサートやら楽器を弾く時の描写を読んだ記憶が無い。
実際には平野啓一郎のオリジナルなスタイルじゃないのかもしれないけど、とにかく、ピアノを弾く優美なショパンとその音楽の様子とコンサートの感動と熱気が伝わってくるような描写はもういかにもショパンとかなり良い感じやった。
ショパンと彼に思いを寄せる腐女子は切っても切れない関係やけど、彼女たちならこの描写を読めばうっとりするどころか、失神失禁するくらいにもうたまらんのではないだろうか?

物語の後半に入ってショパンに死の影が付きまとうようになり、テーマは明らかに「死」と言うものになってきているように思う。
歴史にその名を残し、作品として生き続けるというクンデラ的な「古典的不滅」にあるショパンでも、結局会いたいと望んだジョルジュ・サンドと母親には見えることなく死んでしまうわけで、いくら友人たちに囲まれた最期であったとしても幸せな死であったような印象を受けない。
ドラクロワもなんだかんだと葛藤したり、芸術に対する思いをぶちまけて見たりと、死であるとかエゴであるとか芸術であるとか実に様々なテーマとして中々に熱い独白を語ってくれる。
繊細で優美なショパンの描写と、熱く語るドラクロワの独白がの二つがあってそこの作品は厚みと優美さを保っているのだなと思った。

平野啓一郎のいう「ロマンティック三部作」は「15世紀末フランス」「明治時代」と続き、「19世紀フランス」を描いたこの本で終わった。
彼はこの本の後に「現代」を書き始めたらしい。

現代でも中世でも人間の頭を悩ませるテーマに代わりは無いわけで、彼は古典的な思考や感覚パターンでそれに取り組み、そして現代の状況でもって同じテーマに取り組むのだろう。

「個体発生は系統発生を繰り返す」と言うけど、古いスタイルを潜り抜けた彼が「現代」をどういう風に描くのか読んでみたいと思った。

2006年11月18日

●炬燵と火鉢を出して本を読む

炬燵と火鉢を出して部屋に据え付ける。
炬燵に這入り、火鉢で手を炙りながら本を読む。

昨日、遠まわしながらも明確な意図を持った様に聞こえるお誘いを気付かなかったふりをして黙殺した事を思い出し、自責と後悔の念を少し覚える。
一体自分は何故こんなに臆病になってしまったのだ?何をそんなに恐れているのだ?と思うも、そんな想念を振り払って本に没頭する。

市営の図書館と職場の図書館で本を借りて読みまくる、ここ一週間ほどの本の読み方は異常であるとしか思えない。
職場の方の図書館に本を帰す時に「読むの早いですね」と言われる。
しかしながら、自動貸出機で「状態エラー」になったその本をカウンターにいる彼女に貸し出し処理をしてもらってから、読んで返すまでにその本含めて三冊読んでいる。
もちろん彼女はそんなことは知らないが、一冊読むのに早いと言われる時間で三冊読んでいるわけで、そう言われて自分の本の読み方が本当に異常である事に気付く。
生活の合間に本を読むのではなく、本を読む合間に生活しているような感覚がする。
現実との乖離の感覚すら薄れてきている。

逃避行動としての読書に駆り立てられていたところで、この自分に逃げ出さなければならない程の何物かがあるとでも言うのだろうか?
火鉢で手を炙り、焼いた食パンを食べていると季節が一巡りしたことが実感させられる。
去年の冬、火鉢で手を炙っていた冬の頃から、自分は一体何を手に入れ、どれだけ進んだというのだ?
依然として一歩たりとも前に進めずどこへもたどり着けない自分に嘆息しつつも、前の冬には聴かなかった音楽を聴きながら、前の冬には読んでいなかった本を読み、その前の冬との差異で自分を納得させる。

丸一日かけて読みかけの本を最後まで一気に読んでしまう。
それでも読むべき本、読みたいと思う本はいくらでもあるのは喜ぶべきなのか?
或いは「べき論」で物事を考えるのがそもそも間違いなのか?
と今度は「そもそも論」に落ち込む冬の初めの土偶であった。

2006年11月17日

●ナディン・ゴーディマ『ゴーディマ短篇小説集 JUMP 』

長編を読み進む合間に骨休め的にナディン・ゴーディマの『ゴーディマ短篇小説集 JUMP 』を読んだ。

著者は南アフリカのユダヤ系白人の女性作家で、1991年のノーベル文学賞を受賞している。
白人側の立場にありながらも一貫して反アパルトヘイトの立場を取り続け、著作が発禁にもなった多作な作家で、短編小説の評価が高いとされているらしい。

この本はノーベル文学賞受賞後に書かれた短編集で、人種隔離政策が全廃され、政治犯が釈放され、「弾圧」が緩み始めた時期の物ということになり、また、私にとっては初めて読んだナディン・ゴーディマの本である。

出た時期や内容から見て、この本が明らかなアパルトヘイト批判の書であるというよりは、そういった状況に暮らす人々の日常をリアルに描こうとした純粋な文学作品の傾向が強いのだと思う。
しかしながら、人種や性別や年齢がまちまちであるそれぞれの短編のの主人公の口を通して語られる日常と化した人種差別は、読むもの感情をダイレクトに刺激し、どんな立場から見ても人種差別は酷い物であるとする著者の信念と主張は容易に読み取れるし、どうしても彼女の今までの活動と扱っている題材からも、そう言った社会的なテーマを抜きにして書かれ、そして読まれる事は不可能であると思う。
信念が価値を定位するような、そんな意志の力に貫かれているような短編集だった。

amazon ASIN:4000028898 現在読んでいる長編の箸休めとしてこの短編集を読み始めたものの、読んでいる長編の革命前後のパリの芸術家とブルジョア階級を巡る物語と、この短編集の人種差別のが吹き荒れる南アフリカの世界の余りの落差にしばしクラクラする。

パリの芸術家やブルジョア達からすれば、南アフリカの黒人たちのような人々は芸術も美も解さない卑しむべき者であり、南アフリカの黒人たちからすればパリの社交界に集うような連中は打倒すべき搾取する側の人間である。

パリの芸術家たちの作る作品も、南アフリカの黒人達の叫びも、どちらも真実であるのは言うまでも無く間違いないところだが、その二つが相容れる事のない矛盾した概念であることもまた真実である。
とは言っても、それは搾取される側からの視点からは出てこない見方であり、その立場からすれば結局芸術などというものは搾取する側の余剰の産物である用にしか見えないだろう。

もちろんナディン・ゴーディマがそんなことを言おうとしているわけではないけど、そう考えると、なんとも複雑な気分になってくる。

って、作品とはまったく関係ない感想になってもた…

2006年11月16日

●自失

最近は家に帰ると本ばかり読んでいる。
あまりに一日が短く感じられ、久しぶりに一日が24時間であることに不満を覚える。

読みたい本が山ほどあり、それら全てが市の図書館に所蔵されているのはなんと幸せなことか。読みたい本を検索してそれをいつでも借りて読むことが出来るという事実にニヤニヤしてしまう。

今日も引き続きショパンとドラクロワの物語に文字通り没頭する。
ラジオからモーツァルトのレクイエムが流れるに任せながらショパンの物語を読んでいると、なんか変に混乱した。

本を読んでいる時は完全な自失状態と言ってもいいような感じやけど、その時俺は一体何と向かい合っているのだろう?
そう考えるとちょっとだけゾッとした。

2006年11月15日

●平野啓一郎 『葬送 第一部』

平野啓一郎の三作目の長編『葬送 第一部』を読む。
553ページと恐ろしく長い本だが、第二部は700ページ超と更に長い。あわせて原稿用紙2500枚の大作と言うことらしい。
19世紀半ばの二月革命前後のパリを舞台にフレデリック・ショパンを中心にして、その友人ウジェーヌ・ドラクロワ、その愛人のジョルジュ・サンドの三人の芸術家たちを主軸に物語が展開する。
彼のデビュー作である『日蝕 』や二作目の『一月物語 』で駆使された擬古文体と特殊な語彙は鳴りを潜め、直接的でも品の悪くない文体はとても読みやすかった。
とはいっても、暑苦しくて重苦しくて息苦しい位の質量共に濃い文章であることには間違いない。

この一部の内容は、ジョルジュ・サンドとショパンの恋愛、ジョルジュ・サンドの家庭内を巡るゴタゴタ、ドラクロアの芸術に対する思い。と言うところになるだろう。

amazon ASIN:4104260037 ジョルジュ・サンドに綺麗で美しい物ばかり相手にして世間知らずで子供っぽい現実的には何の役にも立たないと見なされ、彼女の家族にただ愛人でしかない自分にはとても超えられない親子と言う壁を感じながらも、ひた向きな思いを向けるショパンが、結局はその親子と愛人の立場の違いによって破局を迎える様はなんとも物悲しいし、
その破局の発端となるジョルジュ・サンドの子供たちを巡る人間の愛憎劇はなんともややこしい。
フランス文学というと個々の人物に対しての精緻な心理描写というイメージがあるけど、まさにそんな感じで、ショパン、ジョルジュ・サンド、彼らを巡る人々の心理と独白で物語は続いてゆく。

そして最後のシーンのドラクロワが自分自身が完成させた下院図書館の天井画を眺めて受けた圧倒的な驚愕とそれに払った犠牲を実感する場面で一部が終わるわけやけど、
登場人物達の愛憎劇の心理描写と並行するように、ドラクロワが折に触れて語る芸術や天才についての、歴史に名を残したいと言う野望への思いや考えはとても含蓄深かった。

人の心を揺さぶる何物かを生み出し、普遍を目指して登り続ける、常人には理解できない孤独と苦しみを背負う芸術家にも、誰でもが理解できるような憎しみや愛情やといった人間的な感情が宿っているわけで、芸術家という存在に宿るそういう人間的な面と非人間的な面を対比させる形で、芸術であるとか芸術家であるとかそういったものをテーマにしているものとして読むことにした。

二部に入ってどういう風に展開して行くのか楽しみである。

2006年11月14日

●鯵・フランス

帰りにいつもの魚屋でお造り用鯵が売っていた。
「これは安い!」と言い切れないほどの微妙な値段だったが、造りにできる鯵が出ているのは珍しいので買って帰ることにする。
片身を刺身、片身をタタキに、残りのアラは味噌汁か煮物に投入予定。
最近はどんな魚でも刺身とタタキを食べ比べるとタタキの方が美味しく感じるので両身ともタタキにすればよいのだが、タタキの串に刺して火で炙るという調理法に比べて、刺身で皮をひくというテクニカルな包丁捌きが結構好きなのでついつい刺身を作ってしまう。
中世ヨーロッパ魔女狩り風火炙りよりもアジアンテイスト溢れる生皮剥ぎの方が大好きというわけで、うまうまと鯵を食す。

ご飯を食べるとラジオを聴きながらドアクロワとショパンとジョルジュ・サンドが出てくる本を読む。
何とかビッチだの、何とかーニャなどのロシア風の名前の飛び交う小説は慣れているけど、フランス読みの名前の飛び交う小説は余り慣れていない。
そういえば最近はミラン・クンデラだとかアゴタ・クリストフだとかフランスにかかわりのある小説ばかり読んでるなと思い当たった。
まぁ、だからなんだと言うことはもちろん無いのだが。

今日も寒かった。そろそろ火鉢か。

2006年11月13日

●アゴタ・クリストフ 『昨日』

『悪童日記』三部作に続く、アゴタ・クリストフの四作目の小説となる 『昨日』を職場の図書館で借りて読む。ものの数時間で読み終わりちょっと量少ないぞコノヤロー。
内容は悲惨な家庭環境と祖国を捨てて逃げ出し、異国で工場労働者として孤独に暮らす、理想の女性を夢見る青年の物語。
と言うとありきたりやけど、流石にアゴタ・クリストフだけあって、「死こそ安らぎ」的な心象風景と、「何も感じない何も見えない」的な冷たい諦念に満ちた生活が綴られる様は明るい要素など皆無で相変わらず破壊力抜群。
この『昨日』は前作までのシリーズとはとはまったく関係ない別の話となるらしいけれど、雰囲気やテーマや語彙は同じような感じ。
とにかく暗い。どうしようもなく暗い。もうひたすら暗い。この人の書く本はなぜこんなに暗いのだろうと思うと同時に、この暗さを「ちょっと心地良いかも」とか思ってる俺ってどうなん?と思う。

amazon ASIN:4152079754 前作までの、内から見た感情を表す単語を使用せず、説明や記述の口調で書くという原則は薄れて来てはいるものの、主人公の無感覚を目指そうとするような傾向は変わらない。
主人公と同じ祖国を持つ、亡命したり出稼ぎに来ている知人たちは「砂漠」と表現される単調で孤独な日々に耐え切れず、自殺したり刑を受けるのを覚悟で祖国に戻ったりするけど、主人公は「書く」事で何とか自分を繋ぎ止めている。
そしてあまりの絶望に「愛」に救いを求めざるを得ない状況になり、結局それも破局に終わって更なる絶望に叩き込まれ、好きでもない女性と結婚して子供をもうけ、書く事を止めるわけやけど、明らかにこれは全てを諦めて絶望の底で生きているようにしか見えない。

結局どんな絶望の底にあっても表面上は幸せな人間として生きて行き、少なくとも死なないで済む事は可能だと言う風にも読み取れる。

アゴタ・クリストフは「書く事」について、書くと言う行為は救いでもなんでもなく、書けば書くほど病は酷くなり、絶望は深くなるが、書かざるを得ない。と言い、「愛」についても男女間の愛と呼ばれるものに性欲以外の何者をも認めない。と言い切っている。

確かに、最終的な絶望とカタストロフを引き起こしたのは愛のおかげと言うことになるだろうし、その愛が無ければ破滅は起こらずに「プチ絶望」が続く日に変わりは無かっただろう。
そういうところは某サウザーのように「愛ゆえに!!」という所か。

さらに、そういう一般とはちょっと違う「愛」と「書く事」に関する著者の観点からすれば、絶望的な状況から更に愛を失って決定的に絶望の底に行き着いた主人公の選んだ、書く事を止めて嫌悪していた女性と結婚して子供をもうける。と言う道は、愛に絶望して一般的に愛の行為とされる「結婚」なる行動をを精神的でないものに定位したが故に正しい認識に達したと言うことになり、病の進行と絶望の増長でしかない書くという行為をしなくてもよくなったと言う意味で、アゴタ・クリストフにとってはある種の救いにすらなり得るのかもしれない。

そんなものすら救いになりえるような状況は何とも深い絶望なんやとは思うけど、それでもそんな認識もある種の真理を含んではいるだろう。
しかしながら、それより悲惨なのはそんな主人公の諦念の材料にされている妻であり子供であるだろうし、そういう絶望は一人で対峙して一人で処理すべきなんやろうなと、嫁子供を出汁にしてはいかんぞ、とモラリストを自認して止まない土偶は思うのであった。とアゴタ・クリストフもそう言ってるのか?

いずれにせよ「愛ゆえに!!」は永遠のテーマであると言うことは良く分った。

2006年11月12日

●ミラン・クンデラ『冗談』

ミラン・クンデラ『冗談』を朝起きた瞬間から読み始め、夕食後に読み終わった。
いつぞやのエントリに書いた「図書館司書の精」のような女性に教えてもらった図書館の棚から借りてきたもので、分厚い二段組のハードカバーであったけど、とても面白かったので一気に読んだ。
『存在の耐えられない軽さ』『不滅』と比べて、ストーリーテリングで読者を乗せてどんどんドライブして行く感じの、王道の小説作法に則った本でとても読みやすい。
リンク先のアマゾンにあるものは新しい装丁やけど、実際読んだものは画像の通りのちょっと古めかしい装丁。内容自体は同じ(だと思う。)

amazon ASIN:4622048671 この本のオリジナルは、今まで土偶が読んだ二冊『存在の耐えられない軽さ』と『不滅』のパターンである、フランス語で書かれてフランスで出版されたものではなく、彼が亡命する以前にチェコ語で書かれ、一年にもわたる検閲を潜り抜けた後チェコで発売されたものであるけど、後に彼が共産党を除名されてフランスに亡命した後はチェコで禁書扱いになった。

以前『不滅』を読んだ時の感想で書いたように、この作家は彼の社会的な変遷ゆえに全体主義やイデオロギーとの関わりのレベルを含ませた社会的な意味合いで語られる事が多く、この本は禁書とまでされたことで、そういった社会的な意味合いを多く含むように思われもするけど、作者自身は「まえがき」で「あなたのいうスターリニズムは勘弁してください。『冗談』はラヴ・ストーリーなのです!」と述べて、そこの所をなるべく否定しようとしている。

しかし、この物語がスターリニズム批判をテーマとしていないとしても、ラヴ・ストーリーをラヴ・ストーリーとだけ書いている訳では決して無いわけで、以前彼の作品を読んだ時きから感じていた、古典的テーマ、例えば、憎しみ、愛、民族などなどと真正面から向かい合い、それを現代的な感性で捉えようとしている。てな感じの印象はとても強くなった。

『存在の耐えられない軽さ』で彼はニーチェの言う「永劫回帰」や「重力の魔」に言及するわけやけど、この本の第7章でゼマーネクが肉体的利己主義的な世代が彼ら自身のエゴイズムで世界を救うだろう、と言うようなことを述べており、なるほどクンデラが目指しているのはそういうトコなのかと思った。
彼の属する没落する旧世代と、旧世代の遺物に全く興味を抱かない、世界を救う事になる筈の自己自身の肉体を愛する新しい世代の対比。
なんとなくツァラトストラと超人の関係に似ていないだろうか?

この小説のタイトル「冗談」は小説自体を現しているわけやけれど、主人公ルドヴィーク(Ludwig、ルードヴィヒのチェコ語読み?)の破滅はほんの絵葉書に書いた冗談から始まり、始終胸に抱き続けた憎しみと愛は結局冗談のように終わり、そういった主人公を巡る全ての悲劇すら悲劇になりきらず冗談で終わる。というか、そういった悲劇の構図すら新世代の他者の視点から見れば冗談にしか見えない。
それも最高に笑えない冗談であり、救いのようなものは殆どない。
クンデラはこの「冗談」という概念をニーチェ=ツァラトストラの言う「没落」として捉えているのではないだろうかとふと思った。

本を集中的に読んでいる期間は本に対する抵抗力やら免疫が上がっててちょっとやそっとでは何とも思わんもんやけど、金曜日からずっと本を読んでいたにもかかわらず、今日この本を読んだ事はちょっとした体験やったし、骨太で深みのある構成は二十世紀的な大作であることには間違いないと思う。

2006年11月11日

●阿部和重『ニッポニアニッポン』

阿部和重『ニッポニアニッポン』を読んだ。
この本は第125回芥川賞候補作となった作品で、2001年に単行本が発売された。
「神町サーガ」の一つを成す物語で、時系列で並べれば、依然読んだ『グランド・フィナーレ』の前の物語にあたる。
アマゾンでは
「17歳の鴇谷春生は、自らの名に「鴇」の文字があることからトキへのシンパシーを感じている。俺の人生に大逆転劇を起こす!―ネットで武装し、暗い部屋を飛び出して、国の特別天然記念物トキをめぐる革命計画のシナリオを手に、春生は佐渡トキ保護センターを目指した。日本という「国家」の抱える矛盾をあぶりだし、研ぎ澄まされた知的企みと白熱する物語のスリルに充ちた画期的長篇。」
と紹介されているけど…このままの物語を期待して買った(読んだ)人は殆ど「ハァ?」で終わると思う。
主人公はキモい上に傲慢で勘違いな引きこもりのどうしようもない奴で、物語はその主人公の視点なり記述として進行する。
当然、その主人公が語る「国家の抱える矛盾」は薄っぺらいし、知的企みというよりは妄想といった感があり、動機と欲求の全ては醜い嫉妬と憤怒とルサンチマンの情からということになる。
かといって主人公が成長するのかと言えばそうでもなく、これだけの膨らみ様のある題材を使っていながら、古典的小説パターンから言えば、限りなく中途半端な物語になるだろう。

とはいってもこの中途半端さは阿部和重の意図するところだろうし、ようは出版社の書いた内容紹介文が悪いのだ。

amazon ASIN:4101377243 この『ニッポニアニッポン』では『グランド・フィナーレ』のロリコン男とはまったく別の種類の、同程度かそれ以上に最低だと思わざるを得ないタイプの人間が主人公になっている。
元ストーカーで両親に横暴で独善的で引きこもってネットばかりしているこの主人公の言うこと成すこと考えることの全てに「うわっ」と思い、彼に共感のかけらすらも感じられない人が殆どではないだろうか。
主人公に嫌悪を抱かせておいて、後からその主人公が生まれ変わったように良い奴に代わるという常套手段や王道の展開を、彼に心を開く中学生が現れた所で読者に予感させつつも何も無く終わる。物語のラストも「!?」と思わせておいて結局何も起こらない。
考えてみれば、ベタベタな展開にしておいてベタベタな終わり方にしない「何もひっくりかえさない」が阿部和重の持ち味で、なんとなく「実際人生ってこんなもんやね~」的な変なリアルさを感じるし、なんとなく小説的感性の解体を要求されているようである。と言うとあまりに大げさか。

読者に対して主人公へのシンパシーを要求せず、書こうと思えば書けるはずの古典的伝統的小説的カタルシスも使わない彼は何を目指しているのかとても気になる。
「ほんまは書けるけど、ほら書けそうやろ?でも書かない。」ってのがそろそろ浸透してきて次にどんなものを書くのか楽しみである。

でも、素直に「小説」を読みたい人には全くお勧めできない本やと思う。

2006年11月10日

●稲垣足穂『一千一秒物語』

稲垣足穂『一千一秒物語』を読了。
著者は1900年生まれで1977年没、1971年には社会現象となるほどにもなったらしい。
某上海氏に薦められて読むまで全く知らん人やったけど、上司の一人は全集を持ってて、そのまた上司も当たり前のように喋ってるし、父は桃山に住んでた奴でえらい高い本があるらしいでと言う。知らぬは俺ばかりで自分教養の薄っぺらさや偏りを自覚する。いや。時代のズレだと思っておこう。

で、この本は稲垣足穂の初期作品、1920年代のものを集めたものとなり、内容は、宇宙や飛行や月や星や天体などの語彙で構成される表現やら比喩やらが作り出すファンタジーとも御伽噺とも言い切れない不思議な無機的な世界を描いた『一千一秒物語 』を筆頭とする短編群と、その感覚と美意識で綴られた私小説的な『弥勒』、彼の性的傾向をまたその感覚と美意識で表した『A感覚とV感覚』となる。

全編に共通するのはストーリーらしいストーリーが全く無いこと。純粋な概念と描写が生み出す「印象」にすべてをかけているように取れた。
ぱっと読んだだけでも明らかに作者の非凡で稀有な芸術的な才能が見て取れる。ボリス・ヴィアン的な耽美を髣髴とさせるところがあるけど、そこまで有機的で感情的ではないし、何よりも求めているものがボリス・ヴィアン的な主人公と全く違うように思う。

amazon ASIN:410108601X おそらく作者の美意識やら欲求の根源的な部分に、有機的で汚らしい俗なる物としての「自然」では無く、その対極にある無機的で聖なるものとしての天体或いは星や月を最善なものとする感覚があるように思われた。
そして彼の求めているのは、例えば肉体や欲望の放棄であるとかいったような、究極のダイエット系の方向にあるように思われる。

性欲であるとか食欲や睡眠欲であるとか自分の意思とは関係なく自分に内在されている嫌悪せざるを得ないものを放棄して、理性や感覚で美しいと思えるもののみをを自分の欲求としたいという感覚は良く分るし、『弥勒』の中での悲痛なまでの肉体や欲望に対しての対決と、個としての人間に秘められた善性と全体性の認識には胸を打つものがあった。

それでも、俺が自分の一部として持っている感覚と欲求「海に潜って魚を突き刺し、鱗を剥いで内臓を引きずり出し、体を切り刻んで生のまま食べる。」と言うのは、野蛮で有機的で、洗練とエレガントの対極にあると、稲垣足穂的には見做されるに違いない。

空や宇宙よりも海や山、星や月よりも虫や魚に対して愛着を持ってきた俺にとっては、彼の感覚と美意識と欲求は、「確かに綺麗やね」と思いつつもやはりちょっと感じ切れてないんやろうなぁという違和感がある。

今まで、自分の属性である、虫や花や海や山を好く「自然好きタイプ」の人間と、空や天体や星を好く傾向がある「宇宙好きタイプ」の人とがはっきり綺麗に分かれてるなぁと常々思っていたけど、俺にはあまり近しくなかった「宇宙好きタイプ」の人の感覚もなんとなく垣間見れたような気がする。

この稲垣足穂の描く世界は「宇宙好きタイプ」の人々にとっては卒倒失禁するくらいに綺麗な世界なのではないかと思った。

2006年11月09日

●市営図書館

ほぼ15年ぶり位に利用した市営の図書館にて、読みたくはあれどもかなか古本屋に見当たらぬ本どもたいそうありて(あたりまえ)妙にテンションなどあがりたる。
フランス文学の棚にミラン・クンデラが見当たらず、変なテンションのまま、わざわざ遠くにいた一番魅力的で雰囲気のよさげなメガネっ娘司書のお姉さんを呼んで聞いたら、フランス語で執筆してフランスで出版したからと言ってフランス文学ではなく、チェコ人なので「その他の海外文学」の棚にある。てな事を「なんなんだこの笑顔は」レベルでにっこり微笑みながら教えて貰い、流石図書館司書と感心すると同時に一瞬で目がハートになった。

勢いと言うものは恐ろしく、読みたい本が沢山あったので思わず二週間で絶対読めんやろうというくらいの量を借りてしまった。
いやー図書館ってええですね。

某上海さんお勧めの稲垣足穂を読みながらいつのまにか寝てしまった。

2006年11月08日

●顔面セーフ文化圏

「人と違う自分」などとのたまう場合は、ほぼ例外なく「人より優れた自分」の意味を内包しかつ隠蔽しているのであって、しかるに、たいていの場合それが指している地平は、独自の方向や独自の量で持って築いたものではなく、「人より少しは先んずる」程度の地点でオリジナリティーのかけらすらないやんかこの野郎と他人に対しても自分に対しても思うことが多い。

考えてみれば、純粋な意味での「人と違う自分」なんてものはわざわざ宣言するまでも無く自明で当然のことであって、誰にとっても等しく前提条件となるレベルの話ではある。
だって自分は自分で他人は他人で、たいていの人は自分と他人を識別することができるんだもの。というわけである。

とはいっても、いくら個人同士が異なっているのが当たり前だとしても、その異なり方にも限度と言うものがあって、共有している部分のいうのもまたあるし、明らかにおかしい奴やら変わった奴は普通ではないと言う風にはみなされる。別の言い方で言うと、通常と見なされるのはかくかくからしかじかまでの範囲である。境界は含む(含まない)。と言うことになる。

普通などと言うもんは恒等式的には存在しないと以前に(たぶん)言い切ったわけやけど、不等式の解のような形式であれば容易に表現できるわけで、「俺ってぎりぎりセーフの普通やな」などと思っている輩は大抵アウトであると言えるし、セーフだとしても本当はアウトのいわば「顔面セーフ」の範疇であり「二度殺され」の可能性を背負い込むだけでご愁傷様と混乱気味の土偶は結局何の話か分らんままに今日の日記を終えるのであった。

2006年11月07日

●エーリッヒ・フロム『愛するということ』

だいぶ前に古本屋から連れて帰ってきたまま肥やしになっていたエーリッヒ・フロム『愛するということ』を昨日と今日で読了。
彼はフランクフルト学派の新フロイト派、フロイト左派とか分類されるユダヤ系ドイツ人の社会心理学と言うことになるんやろうけど、後年は仏教や禅の研究にも勤しみ、鈴木大拙とも関わりが深かったらしい。
タイトルと装丁と帯はかなり恥ずかしい痛い系の本のようでイヤイヤだが、オリジナルが1956年に出版された結構硬派な本。
「恋愛」の本やと思って読むといきなり「恋愛」を否定されてびっくりするやろうね。
さすがに有名な本だけあって面白かった。
なんというか、この本がベストセラーであると言うことは、この本に書いてあるようなことを皆が読んで「善し」としたり「然り」と思ったりしているわけで、そういう見方からすれば世界もまんざらでもないなと思った。

amazon ASIN:4314005580 一般的に「愛」などというと大体「恋愛」を指す事が多く、「恋愛」を含む「愛」の能力が世間ではどちらかと言うと先天的なものであるとされているいう筆者の指摘は確かに頷ける。
そういった一般的な見地に立って見た場合の色々な具体的な事実や象徴的な出来事から、自分には人を愛する能力が根本的に欠落しているのではないかと疑わしく思っている人間にとって、筆者であるフロムが言い切る「愛とは技術である」と言う主張は、少なくとも技術である以上訓練によって上達することができるという意味合いから、ある種の救いとして捉えることができるだろう。

Aと非Aは同時に存在しないという大前提を持つアリストテレスの論理学に始まる西洋的な思考体系が「論理」を重視したのに引き換え、東洋思想によく見られるAかつ非Aが同時に成り立つ「逆説論理学」なる体系は理性での知覚を放棄しているので、最終的な段階として「道(タオ)」や「道諦」や「八正道」で表現されるような「行動」を重視するという例をひいて、その「愛」は逆説論理的な概念であるからして、「愛する技術」を習得するには、思考パターンや日常生活の習慣と言ったレベルでの行動を積み重ねる以外に無いとしている。
それでもその「技術」は、例えば世界との一体感を経験したり、対立概念を同時に肯定したりするような手法を技術と呼ぶレベルで「技術」であり、考え方や視点の転換と言うよりは、自分自身のかなり大きな変革を起こす、もしくは起きるのが前提になった技術であると言うことになるように思う。

結局言い切ってしまえば神秘主義的な話やけど、最初から最後まで神秘主義的な語彙で埋め尽くされた同じような内容の「真実の愛」なるものを扱ったエセ科学だかエセ哲学だかエセ宗教だかわからんような本は多分多いと思う。

それでもこの本の目指している(と思われる)逆説論理的なるところを想定される読者に合わせて論理的なアプローチで説明しきろうとしている所の意義はかなり大きいのではないか。

結局、Aかつ非Aなる体系も確実に存在するって事で、それは論理で理解できない以上実践と行動によってしか体験できないと。

まぁ、いずれにせよこの本を読んで、自分の行こうとしている所と自分がやっていることは間違ってないと勇気付けられたような気がする。
とにかく土偶の行動の根本原理を「エウ・ゼーン」としておこうという気にはなった

2006年11月06日

●廿日大根第二世代

土曜日の昼に残った廿日大根をすべて収穫し、その夜に種を蒔いた廿日大根が今日の夜に見るとすでに芽を出していた。
「廿日大根セカンドジェネレーション」もしくは「廿日大根セカンドチルドレン」よ、大きく育つが良い。
現在、土偶入れて会員二名ではあるけど、「廿日大根友の会」発足と言うことで目出度きかな。

今日もお造り用秋刀魚が安かったので買って帰る。
片身を刺身に、片身の皮を引かずに直火で炙って「たたき」にする。
程よく脂が燃えて焦げた皮が香ばしくとても美味しかった。葱生姜酢橘に最高に合う。
秋刀魚の刺身は脂っぽ過ぎると言う人にはたたきがお勧め。

amazon ASIN:B000F5GJL4 某氏よりプロデューサーズ を借りて見る。
古い映画を舞台化したものを更に映画化したという少しややこしい作品やけど、まともな奴が誰一人として出てこず、不真面目極まりないのがとても良かった。色んなものをバカにし切った不謹慎まで行かないふざけ度合が良い感じ。
アメリカンなミュージカルな文化圏に全くいない人やけど、そういうのは関係なしに面白かった。
でも好き嫌いがはっきり別れるやろなぁ。俺は好きやけど。

2006年11月05日

●ボリス・ヴィアン 『日々の泡』

ボリス・ヴィアン 『日々の泡』を読んだ。
フランス人である著者のボリス・ヴィアンは39歳で死に、生前は作家と言うよりはジャズトランペッターや作詞家、歌手としての方が有名だったように、生前の彼の作品は誰にも見向きされなかったが、死後にコクトーやサルトルやボーヴォアールによって発掘されて人気と名誉が回復した。と言うことになるらしい。
この本のオリジナルは1947年にフランスで刊行され、今から36年前の1970年に日本語への翻訳の初版が出版と結構古い本である。
なんでも「うたかたの日々 」と言う名前で漫画化もされているらしい。

帯に"「20世紀の恋愛小説中もっとも悲痛な小説」と評される最高傑作"と書いてあったが、誰がそう評したのかは兎も角として、悲痛な恋愛小説であることは間違いなかった。

描かれる世界はシュールで耽美で何ともいえん世界で、本作のクライマックスとなる「悲痛」の原因である肺の中に睡蓮が咲くという奇病と遺体を物の様に扱う「貧乏人のとむらい」に処される主人公の美しい妻「クロエ」の運命も中々趣があってよろし。

amazon ASIN:4105005014   この本が気に入るか気に入らんかはこの作者の描く世界観が気に入るか気にいらんかだけにかかってくるやろう。ぶっちゃけストーリーはおまけのような物やと思う。

美しいのか醜いのか良く分らん世界やけど、現実も大して変わらんような気にもさせる現実との入り混じり具合が絶妙で、本の最後で自殺しようと猫に噛み殺してくれるよう頼み込んでいる二十日鼠がなんとも変なところにヒットした。

この本のまえがきに「かわいい少女たちとの恋愛、デューク・エリントンの音楽。他のものは消え失せたって良い、醜いんだから。」ってあまりに恥ずかしくてごっついことが書いてあるけど、表現と内容こそ違いはすれ誰でもそういう風な感覚は持ち合わせているわけで、誰の中にでもある普段は表に出てこないそういう風なところにぴったりはまる小説だと思った。

余りにも現実離れした世界とストーリーと描写に満ち溢れたこの本を、ガチガチの現実である家事の合間に読んだので余計にギャップが激しく、蛇口から鰻や鱒が出てくればどれだけ便利だろうかと思った。

2006年11月04日

●秋刀魚料理色々

いつもの魚屋さんでお造り用サンマが安かったので秋刀魚尽くし。
秋刀魚の刺身、秋刀魚と蛸のカルパッチョ、秋刀魚の肝と茄子の吸い物、鰤大根ならぬ秋刀魚アラ大根柚子酢橘風味。
カルパッチョだけ手間かかるけど、どれも簡単なわりに脂の乗った秋刀魚にぴったりで良い感じ。
秋刀魚大根は聞いた事の無い料理やけど、アラを煮る前に熱湯に軽く湯通しして血合やぬめりや余計な脂を取っておくと、生臭さは殆ど無くっている筈。
柚子があるとないとではぜんぜん味の雰囲気が違うので、煮上がってからちょっと削った柚子の皮を煮汁に入れておこう。

父と退院した母はお腹の調子が悪かったので、おかゆと焼たらこと梅干と海苔と漬物のみで、一人だけ丈夫な私が全ての秋刀魚料理を食べ尽くす。
やっぱり魚料理は作ってて楽しいし見た目も綺麗に仕上がるし何よりも美味しいやね。

と、最近お料理ブログになりつつある。

2006年11月03日

●日常で埋める

母の様子を窺いに病院へ行く。
現在は入院者専用の病棟になっている、上野伊三郎がデザインした旧島津邸の院内をゆっくり歩き回り、細かいところにまで気を使い、ふんだんに資金を投入した徹底振りとモダニズム建築の名残に一々感心する。
床と壁の境界が無いような丸みを帯びた大理石、全面ガラスと全面網戸の二重ドアになったベランダ、明らかに病院には必要の無い中二階のテラス、ドアの金具、階段の手すりや滑り止め、やたらと高い病室の天井などなど中々見られないようなものばかり。
無機質でそっけないはずの病院のところどころが変に豪華で洗練されていておかしみを誘う。
こういった建物の存在は「富の集中」の意義となる数少ない一例かも知れないと思う。

術後の経過も良く、家事もちゃんと楽しんでやっている事を理解してもらえたようで安心する。
夕方まで話し、近所の商店街で野菜を買って帰る。

食べたいものを作られるのが自分で料理を作る利点の一つではあるけど、今日は冷蔵庫の整理をして悪くなりそうな野菜を処分すべく、もやし、えのきだけ、レタス、きゅうり、長いもをすべて料理の材料として選抜し、更に大量に作っておいたカレーもまだ余っているのでこいつも積極的に使うことにする。
結果、もやしえのきとパセリの胡麻酢醤油和えカレー風味、レタスときゅうりと長いものサラダ酢橘ドレッシング、長いもえのきもやしの味噌汁、カレー酢橘風味芋豚コロッケとトンカツの卵とじ。と言うことになった。
自分で言うのもなんだが、美味しかった。

毎日毎日働いてご飯を作って洗濯をして掃除をしてアイロンをかけて風呂に入って、と仕事と二人分の家事に追われて日常に埋もれて生活していると変に気持ちが平安になる。
余計なことは全く考えないし、余計なことをしようとする気持ちも余裕も生まれないし、不思議な充実感でいっぱいいっぱいになる。
逆に今までふんだんにあったはずの、夜に一人で自分の為だけに過ごす数時間がとても貴重で意義のあるものになった。
ゆっくりコーヒーを飲みながら音楽を聴きながら本を読むことができるのがなんと幸せなことか。
八正道が苦から逃れる唯一の道だと説かれる所以がなんとなくわかるような気がする。

2006年11月02日

●力場

なんだか知らんが、自分が正しいと思う方、自分が好きだと思う方、自分がおもろいと思う方、自分がまともだと思う方を信じようと思った。
「万物の尺度は人である。あるものについては,あるということの。あらぬものについては,あらぬということの」と言うわけで、人の尺度も自分の尺度も精度の上で同じなら、自分の感覚の方を信じてやるべきである。
自分が見、自分が聞き、自分が考えたものだけを根拠として、なるべく耳に入ってくる諸々の雑音を聞かないようにして諸々の判断と評価を決する方がよっぽど良い。

「このくらいの年になると社会的なんが邪魔して中々人と仲良くなれへん」「近くにいてくれへんくなるのが怖くてほんとの事が言えへん」といった人が最近いて、聴いた時はそれはどちらかと言うと年のせいと言うよりは個人の資質の部分に因るものではないか、こいつはええ年こいて何を言うとるのかと思ったのだが、社会に出て働き出すにつれ個人であることよりも社会的な立場で言動する時間の方が多くなるわけで、個人の個性を必要としない仕事に自分の社会的なアイデンティティーをおこうとすると中々大変でややこしい事になるのやなぁと今更ながらに思った。

そういうわけで、社会的な立場や関係、影響や評価といった力学的な事を考慮に入れないで個人として話すことは、精神衛生上とても意義のあることなんだと思った。

2006年11月01日

●11月

AとBが同時に真であることが無い場合、Aが正しければBは偽となるし、Aが間違っていればBが真となる。
しかしながらどう考えてもAもBも正しい、又はAもBも間違っているとしか思えない場合の方が多く、人間って難しい。

いつの間にか11月でびっくりした。一年前の事なんか太古の昔のように思える割には時間が流れるのが早く感じたりもする。
この時間感覚の狂いは何かが混乱し、何かが歪んでいる所以だろう。
今更それを確かめる間もなく自明であるといえばそうなるのか。
結局…と言いたくなるが言いたくは無いので止めておく。

自分を物指しにして周りを測ってみると周りが歪んでいるような気がするし、周りの物指しで自分を測ってみると自分が歪んでいるような気がする。
実際のところまっすぐな物指しなんかそれほど無いと言う事なのだろう。
一番いいのは、何も測らない。と言うことなのだろうけど、ご飯を炊く時の水の量から、足のサイズまで、生きると言うことはすべからく測ると言うことに深く結びついている。
測って出た結果を信用しすぎないようにするくらいしか、我々にできることは無いような気がする。