≪ 2006年09月 | Top | 2006年11月 ≫

2006年10月31日

●主食は二十日大根

午後から妙に仕事がバタバタとする。
バタバタながらも障害対応時に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の文字を見て、つい頭に血が上って我を忘れて村上春樹とサリンジャーと「ライ麦」について熱く語りそうになり、仕事中であることを思い出して二言三言で思いとどまる。
しかしながら某レディは図書館で働いてるくせに『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を「よく分らなかった」とのたまったので、いつか機会を見つけて何が分らんかったんか小一時間問い詰めてやろうと、ホールデン少年の純粋さを小一時間説いてやろうと決意し、今日はこれぐらいにしておいてやる。

微妙に仕事が遅くなり慌てて帰宅。
とりあえず米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れ、モーツァルトのオペラを聴きながら料理開始。
オペラはやかましいとの父のクレームを「クレンペラーはまだましやでー」などとよく分らん答えで切り抜けながら、野菜を洗いパパゲーノ、肉に塩コショウ王子タミーノ、火に鍋をかけ夜の女王。

朝にチリソースのビンを冷蔵庫の奥底で発見したのでこれを使って炒め物をしようと思っていたけど、実際見てみるととても食品と思えない色に変色していたので廃棄、急遽味噌炒めに変更。
で、できた料理は豚葱茄子じゃがにんにく二十日大根葉の胡麻味噌炒め酢橘風味、鶏の腿肉と二十日大根の卵白なしコンソメスープ、二十日大根と玉ねぎのサラダ梅肉海苔鰹節和え、キャベツの千切り、というところ。
自分で言うのもなんだがとても美味しかった。
中でもコンソメスープ内の二十日大根の色が軸の薄い緑、根の薄い赤、根の下の方の半透明の白と、何とも微妙な淡い色で感動的に美しかった。

明日は食べ会ということなので、明日の朝ごはん+明日の父の夕食と言うことで、食後にむいたりんごを食べながら、コーヒーを飲みながら、弦楽四重奏を聴きながら、本を読んだりノーパソでネットしたりしながら、大量のカレーを作る。

いやしかし料理作るのは楽しいなぁ。

2006年10月30日

●二十日大根を収穫してみる

金、土のエントリーを読んで下さった方がたから色々心配をいただいたようで、感謝申し上げます。
特にこれと言った問題は起こっていないので、ご安心ください。

radhish20061030.jpg
二十日大根が一ヶ月たつとだいぶ大きくなり、アブラムシやら青虫がたかり始めたので、家に帰ってから生育の良さそうなのを半分ほどプランターから引き抜く。

残り半分を入念に害虫チェックしたところ、アブラムシや青虫のほかにカメムシまでいた。
こいつらー新芽ばっかり食べてんなよーもう辛抱ならんということで、カメムシは指で遥か彼方に弾き飛ばし、青虫は指でつまんでメダカの餌に、アブラムシは見える限り指でつぶす。

しかし春菊とほうれん草は全く虫がたかっていない。アブラナ科の植物はそんなに美味しいのか??

収穫した二十日大根で、サラダと甘酢漬けを作ってみたけど、どちらもとても美味しい。
なんせ採りたて極まってるし、自分の育てた野菜ってだけで嬉しいやね。
明日はコンソメスープにでも投入してみよう。

今日のメイン晩御飯は冷凍庫から発掘された鶏の腿肉と茸と白葱の大蒜生姜ホイル焼、酢橘風味。
ホイル焼っつーのは美味しいだけでなく食器やフライパンが汚れなくて大変良いのだが、どうも盛り付けに苦労する。
ホイルから出してしまうとイマイチやし、ホイルに巻いたままやとワサワサ感がどうももっさりする。
とても美味しいだけに残念。どうしたものか。

2006年10月29日

●一昔前の青年の如き健全な日曜日

午前中に洗濯物を取り込み、午後前から外出。
気づけば一乗寺の恵文社に入っていた。
日曜日ということで客が小洒落たカップルばかりでとても「本」を扱う店に思えない。

ちょっと高い目の食べ物やさんのように客筋が良くって、店の雰囲気は悪くなく、店にいて気分は悪くない。
置いてある本もテーマがあって、実名を出すのはなんやけど、ビレッジバソガードよりは落ち着いたチョイスがいい感じ。

「自分で本が選べない奴が行く店」とまでは言わないけど、不案内なジャンルへ入門するにあたりこんな店はかなり役に立つだろう。
それでも、血で書かれたモノこそが「書物」と呼ばれるべきだ。などと旧時代的な偏見を持つ目から見ればやっぱり違和感がある。
というところで、自分自身が「本」に対してあまりにも暑苦しい接し方をしているのに気づく。
もっと気楽に接すれば良いやん。と料理の本を立ち読みしながら思った。

健全に夕方に帰宅後夕食を作る。
冷蔵庫に大量に転がる大根を消費し、朝ご飯用おかずを確保すべく、
ありあわせ野菜(大根にんじんジャガイモごぼう豚肉)の煮物と、ありあわせ野菜(大根ナス白菜ピーマン)の胡麻味噌和えと、ありあわせ湯通し野菜(大根白菜ニンジン玉ねぎ)の漬物風サラダを大量生産しておく。
これで数日は食卓に一品増えるだろう。
父が酢橘を大量に買ってきたので、なんとなく茹蛸と蒟蒻のカルパッチョを作る。
蛸は冷凍した状態だと極限まで薄くスライスできるので楽しい。
餃子を焼くついでがあったので揚げニンニクを作ってカルパッチョに振りかけてみる。
酢橘の酸味とパセリの香りと蛸の味にとてもよく合ってかなり美味しかった。
昨日の残りの玉ねぎとキュウリのサラダを味噌汁の具にしたのだが、以外にキュウリが味噌に合っていた。

土偶が作る料理は「雲のジュウザ」のようなスタンスと言えばとってもかっこよさげに聞こえるが、ようはありあわせで適当ということだ。
ありあわせ適当料理のレシピなどというものをブログに書けばネタには困らないけど、レシピになった時点で「ありあわせ」でも「適当」でもなくなるのが難しいところ。

2006年10月28日

●優先順位

自分のテリトリー外の何の音もしない静かな部屋で何も喋らずに見慣れない景色を眺めていると、普段考えないようなことが頭に浮かんでくる。
それは自分の行く末であったり、自分の来た道だったり、また言葉にならない色々な事であったり。
この世の中にあるもので自分が見て感じて認識しているものなんかごくごく一部に過ぎず、俺の知覚できる範囲の外には現実的に無限大とも言える混沌の荒野が広がっていることを強く意識する。
そんな狭い範囲の知覚の僻地に、無限大の混沌も含めた意味など見出そうとするのは無謀でしかないのだろうか。

やけにガラス面の多い窓から入ってくる光と風を浴びながら、頭の中で色々なことを優先順位ごとに並び替える。
優先順位自体が大きく変わったので、それは元とは似ても似つかない綺麗な形になったので驚く。
というよりも、今までの入り組んだ優先順位順に並べられた形が歪すぎたのだ。
人間なんてもの意外にはシンプルな構造をしているのかもしれないと思った。

前日にピアノの話をしてからピアノ曲ばかり聴いている。
ピアノを弾ける人からピアノの話を聞かせてもらうだけでムダにうっとりするもので、自分が一番好きなピアノソナタを自分自身で演奏できたらどれだけ良いだろうといつも思う。

2006年10月27日

●そんなに差はない

生老病死の前ではちょっとした楽しみなんか本当にどうでも良いように感じられるのが理解できるような気がした。
楽しみをすべて二義的以降のものとして悟りへの道を歩もうとする気持ちも良く分るし、そんな楽しみが無ければ人生なんかとても味気ないと言う気持ちも良く分る。
どちらが正しいと言うよりも、そんなちっぽけの人間のする事なんか、大きな視点から見ればどちらも大した違いはないのかも知れない。

それでも、感じ考える主体は全体としての人間や大きな視点や部外者からの視点になどあるわけでなく、個々の人間の中にあるのであって、「その人にとって」が何かを感じ考える事の範囲にしかなりえないとすれば、すべては許されると言う意味合いで善くもあり、なん人とも解り合えない、と言う意味では悲しいことでもある。

いずれにせよ、今の時点の自分にとって、何を一番優先すべきなのかと言うところから諸々の方向性は出てくるのだろう。
目の前にあるように見える様々な選択肢を選ぶにあたり、自分の都合と欲望だけを基準にすることなんか出来るわけが無いし、社会生物とはそういうものだろう。

午前、午後に病院での用事を済ませ、夜から鍋会に参加。
魚を買っていって、持ってきたMy包丁で片身を刺身に片身を鍋の具に、残りのアラで潮汁を作る。
料理が不得意で魚なんか捌いたことが無いと断言するギャラリーが取り囲む解体ショーと化した魚おろしに「手術してるみたい」「めっちゃ真剣」と声がかかり、そうか、俺はいつもはそんなに不真面目かと軽く凹む。
とりあえずオペは成功し、満場の拍手をもって綺麗な三枚おろしと綺麗なアラに切り分けられた魚たちの果敢な死に様を称える。
命の移動、従属栄養生物の業とはこういったものである。

集まった俺以外の人間はすべて家でパソコンはおろかネットすらしない人たちで、ネットがないと生きていけない感覚なんか決して理解できないらしい。
俺自身は彼女たちをちょっと変わった奴らだと思っていたけど、どうやら「変わったと思う俺が変わっているだけ」と言う事らしい。
俺は自分自身を変わったほうの人間だと思っているけど、彼女たちは自分が普通の種類の人間だと思っているらしく、そこが根本的に違う。

「何を普通するかはとても難しい」という一般論は別にしても、個々の人間に注目してみれば「変わった人」に見えるし、全体の一人としてみれば「普通の人」に見える。
結局「普通」だとか「変わっている」だとかはそれほど大した問題じゃないし、もしかしてそんなに差なんか無いのかとハマチとトビウオと豚のキムチ鍋を食べながら思った。

いや、やっぱり差はあるか?

2006年10月26日

●トビウオ

土偶謹製の某システムが本日でとりあえずの要求仕様をすべて満たした状態に完成。
メジャーバージョンアップということでバージョン番号を上げた。

今日から晩御飯を作ることになったので、仕事帰りにいつもの魚屋さんで30円の秋刀魚と造り用巨大トビウオ(40cmくらい)が安かった(200円)ので買ってみる。
ご飯を炊いている間に、トビウオの片身を刺身に、残り片身を七輪で焼き物に、残りのアラで味噌潮汁、焼茄子と白菜のおしたしときゅうりの浅漬けを付け合せにする。
大き目の碗から長い胸鰭が飛び出してるのなんか漁師料理っぽい感じ。
刺身はかなりあっさりした味なので、山葵醤油よりも生姜醤油のほうが良い感じ。いやしかし魚おいしすなぁ。
秋刀魚まで食べる余裕が無かったのでこいつは冷凍庫に投入。
新しいマスク、Cressi-subのBig Eyesを買った事もあり、また美味しい魚を突きに行きたいなぁと思ふ。

最近、なんとなく風向きが変わって来た様な気がする。
何もないだろうなぁと確信していた少し前までと一転して、良い事も、悪い事も、とにかく何かが起こりつつある気配が感じられる。
流れに逆らえば疲れるだけだけれど、流れから逃れる為には泳がねばならない。
流れを遡って流される前にいた場所に戻ることは出来なくても、流れと垂直に泳げば流れからは逃れられる。
とにかく、沖に持っていかれる、海中に引き擦り込まれる、テトラの間に吸い込まれるような流れからは一刻も早く逃れるべきである。

2006年10月25日

●unix版otfの穴?

この日は丸々一日殆ど誰とも喋らずにコード書き。
前日の不具合、「\LAGE や \small でサイズが変わらないの」をやっつけるべくtexと格闘。

朝の早い時点でotfパッケージを使用した時にだけ、この不具合が出ることを確認。
otfパッケージを使わず実装しようかと思うけど、ユニコードで簡体字、繁体字、ハングル、JISに無い漢字を扱えるのがおまけ機能にして最大のセールスポイントなのでここは譲れない。
otfパッケージのインストール具合が中途半端なのかと推測されたので、最初からotfパッケージを再構築。teTex、ptex、otfパッケージをすべてソースからコンパイルする羽目になった。
で、結局午前中かけて作業したものの不具合解消せず orz

相変わらずwindowsでは動くのでサーバーをwindows機にしようかという思いを何度も打ち消しながら、午後からもひたすら試行錯誤に励む。

「Unix版Ptexでotfパッケージを使用すると文字サイズを変更するコマンドは使用できない」
そういう仕様ということで諦めようかとかと思いかけていた頃に解決の糸口が見える。

texのソース内の簡体字、繁体字、ハングル、JIS外の漢字をOTFシーケンスに変換するために、Utf82TeXをオプションなしの起動の場合は\UTFKでなく\UTFMに変換されるように改造して使っているのだが、この\UTFM{xxxx}の文字はサイズ変更が利いている。

と言うことで2バイト文字の全てをUnicodeのコード番号で表現すべく、
utf-8で記述された、「utf-8.tex.tmp」内の、漢字、ハングルは\UTFM{xxxx}で、片仮名と平仮名を\UTF{xxxx}として「utf-8.tex」に出力するために、
かな用の拡張変換テーブルとして、utf82texrcで指定された場所、
たとえば/usr/local/etc/utf82tex/contrib/にkana.tblをダウンロードして追加しておいたうえで、


utf82tex -x -c K -f /usr/local/etc/uf82tex/utf82texrc utf-8.tex.tmp|sed s/"UTFK{"/"UTFM{"/g >utf-8.tex

と実行してやると、

\documentclass[a4j]{jarticle}
\usepackage[deluxe, expert, multi]{otf}
\begin{document}

片仮名 カタカナ\\
平仮名 ひらがな\\
簡体字 体发 \\
繁体字 體發 \\
ハングル 한글 \\

\end{document}




\documentclass[a4j]{jarticle}
\usepackage[deluxe, expert, multi]{otf}
\begin{document}

\UTFM{7247}\UTFM{4eee}\UTFM{540d} \UTF{30AB}\UTF{30BF}\UTF{30AB}\UTF{30CA}\\
\UTFM{5e73}\UTFM{4eee}\UTFM{540d} \UTF{3072}\UTF{3089}\UTF{304C}\UTF{306A}\\
\UTFM{7c21}\UTFM{4f53}\UTFM{5b57} \UTFM{4f53}\UTFM{53d1} \\
\UTFM{7e41}\UTFM{4f53}\UTFM{5b57} \UTFM{9ad4}\UTFM{767c} \\
\UTF{30CF}\UTF{30F3}\UTF{30B0}\UTF{30EB} \UTFM{d55c}\UTFM{ae00} \\

\end{document}


と変換され,

その後,


platex utf-8.tex
dvipdfmx utf-8.div

で作成されたpdfはut8-tex.PNG
右のような感じになる。

otfパッケージをまともに動かさないまま無理やり動作させた感じやけど、とりあえず解決としておこう。
何が一番辛かったってかな用の変換テーブル作るのが面倒くさかった。
いやー疲れた。

2006年10月24日

●texではまる

午前中バタバタ、午後からコード書き。

色々と機能を追加して、一番簡単だと思われた部分でハマった。
pdfに出力するためにtexを使っているのだが、アルファベットや数字は問題ないのに、日本語だけ \LAGE とか \small で文字サイズが変わらない。
windows上の角藤版pTeXでは問題なく動くがunix上で上手くいかない。
フォントの問題かと推測してRyuminフォントを使わずに小塚明朝を埋め込んでみたり、埋め込みフォントを使わないようにしてみたりしたけど駄目。
dvi→pdf以前のdviの時点で現象が出ているのでフォント以前の問題?
仮想フォントとかマップとかになったらもう手が出んぞ。

結局この日は解決せず。原因すら不明ということで仕事終了。
その他の要求仕様は全部実装したので良いと言えば良いのやけど、なんか後味が悪い。

amazon ASIN:4774119407 家に帰っても気分は晴れず、[改訂第3版]LATEX 2ε美文書作成入門を読んでいた。
んーやっぱりこれは良い本やね。

2006年10月23日

●子プロセスが産まれへんらしい

シリアスで性質の悪い障害にもかかわらず、ぐぐっても出てこず、かつしょーもない原因でもあり、ハマるにはアホらしいので、記事にする価値はあるだろうと言うことで久々のコンピューター関係のエントリー。
perl 5.8.4 apache 2.2.0 solaris10 最下位モデル位のsun4uでの話。

業務で使っているwebサーバーがちょっと前からエラーを出すようになった。
機器とOSとシステムの選定から構築まで全部俺がやったというと聞こえはいいけど、用はあまっていた古いハードで、俺の趣味を存分に生かして作ったもの。
むちゃくちゃ古いハードに最新のOSと最新のサービスが突っ込んである。
落ちて当然のような気もするけど、愛着もあるので落としたくない。

症状としては掲示板にアクセスすると子プロセスが作れない旨のエラーを出してエラーコード500で止まると言うもの。
毎回落ちるのではなく、時々正常に動作するのが性質が悪い。

最初はDOS攻撃するワームがどこかで動いているのかと思ったけど、apacheのプロセスは死んでいないし、PHPは問題なくちゃんと動いているし、apacheのプロセス上限にきているわけでもない。
エラーを吐くのはperlのCGIのみ。
apacheに残るログは
「(12)Not enough space: couldn't create child process: 12: xxxxx.cgi ~」
「(12)Not enough space: couldn't spawn child process:/xxx/xxx/cgi-bin/xxx/xxx.cgi,~」
って感じ。何が「Not enough space」なのかと言うと、どうやらメモリらしく、子プロセス作られへんくらいに、実メモリ、仮想メモリを使い切ってるということらしい。

考えてみればこんな状態でも細々と息絶え絶えにでも動いているsolarisとsparcすげーと感心するも、とりあえずファイルベースのswapを割り当ててやるとまともに動き出した。

solarisの場合なら、

# mkfile 256m /export/swap
# swap -a /export/swap
で/export/swapとして256mのswap領域を追加。

# swap -l
# swap -a
でちゃんと追加されているのを確認。

再起動したら元に戻るので、適時/etc/vfstabに追記して起動時に/sbin/swapaddされるようにしてやる。
/etc/vfstabには

/export/swap - - swap - no -
と追加。

/sbin/swapaddが自動実行されるように

# ln -s /sbin/swapadd /etc/rc2.d/S99swap.add
ってのは強引か?

現象としては過負荷なので、本来なら隙を見て物理メモリを追加してやるか、ディスク増設してswap領域作ってやるの正道やと思うけど、手を加えるほどの価値のあるハードでもないので、別マシンにIIS+windowsでサーバーを作り直し、ドメイン統合認証を使いたいという色気が出てきた。

2006年10月22日

●ヘチマを取る

hichimaA20061022.jpg radishA20061022.jpg
ヘチマが巨大に育ったので、ヘチマ束子を作るべく蔓から切り離して水に漬け込んだ。二十日大根もいびつながらも根が膨らんできたし、その他野菜も順調に生育中。

日曜日だと言うのにすっかり早起きする癖がついているのは年のせいだろうか。
昨日今日ととても天気が良く、「海に行けたな」という思いが頭をよぎる。
思えば雨の多い週の週末に海へ行き、雨の少ない週はずっと家にいるのは何とも中途半端だ。

今年はいつも雨だか台風で泥だかプランクトンが舞い上がった透明度の良くない海ばかり。
体が溶け出すような透明度の海で自分が無くなる様な開放感をもって潜ったのはいつだろう。
海は年々汚れてきているし、もう昔のような感受性も無い様な気もする。
と言うよりも、今のような魚突きをするようになって海に対する感覚ががらっと変わったので、昔のような感覚はもう二度と味わえないような気もする。
結局進むだとか、登るとか言うのは後に残す何かを決定的に損なう行為なのかもしれない。

2006年10月21日

●『この国で戦争があった』

色々な業界の著名人38人の戦争についての体験を書いた文章を集めた本。
昨日読みながら寝たものの、今日起きてから残りを読んだ。

一人の人間が「戦争」について深く詳しく語ろうとするのはどうしても質的なものになって書き手の傾向に沿った僻説が入りがちやけど、色々な個人にとって「戦争」がどういうものだったかをその人個人の視点から書いてある文章が多数集まっているのは、文章の量が個人の質的な純化よりも量的な集積になっているわけで、
「モンペを履くのが嫌だった」という人がいれば、「毎日の空襲でどんどん知人が死んで辛かった」という人もおり、終戦にしたところで本気で悔しがった人がいれば心から喜んだ人もおり、そのある種分裂気味の雑多な事実の集積は「戦争体験」としてはリアルに感じた。

amazon ASIN:4569612423 一つの事実に対して一人の人間が深く掘り下げるのではなく、雑多な人間の個人的な印象を集めて何かを浮かび上がらせようとする帰納的な試みは、村上春樹が「地下鉄サリン事件」に対して『アンダーグラウンド 』と『約束された場所で 』で取った手法やけど、「阪神・淡路大震災」に対して彼は『神の子どもたちはみな踊る 』のように全く別の、それにちょっと関係した物語を書く、というアプローチをしている。
誰もがしようとするように真正面から何かの物事に対峙するのではなく、ちょっと斜めから入るようなこういった二つのやり方はなるほどステレオタイプなモノとは違ったモノが見えてくるように思う。
そういう見方からすれば、この本に載っている文章はすべて別の本が出典であり、戦争を主題に書かれた文章ではない。
そういう意味でこの本は「戦争の個人的な経験」だけでなく「戦争に関係した物語」という部分もあり、他の戦争関連の書籍とは一線を帰しているように思うし、本全体から何のイデオロギーも臭って来ないのは気分のいいものだった。

色んな方面で名を成した人も、戦争時代は一兵卒だったり一市民だったりするわけで、なるほど「戦争」ってのが個性を埋没させて個人を均質化し、「戦争」っていう特殊な状態も慣れてしまえば日常になってしまうのが良く分った。
そういう経験を潜り抜けてきた人は絶対的に強くなってずっとそのままかといえばそうでもなく、差し迫った状態ではそれなりの強さを発揮するし、強くなくてもそれなりに生きていける場合では弱くもなる。
五木寛之がこの中で「人間の心理状態を決めるのは、一つの状況であって、論理ではない。」と言っている様に、人間とは案外その程度のものだろう。

一個の人間は一つの区切りのついた混沌に過ぎず、その人間たちが集まった社会もまた混沌でしかありえない。
とよく分らんことを感じた。

●最近気に入っている音楽

2006年秋更新

amazon ASIN:B000002RUE Wolfgang Amadeus Mozart
Die Zauberflöte (The Magic Flute 魔笛)
Conductor: Otto Klemperer
Performer: Gundula Janowitz, Nicolai Gedda, Lucia Popp,他
Orchestra: Philharmonia Orchestra of London

モーツァルトがその生涯の最後に完成させたオペラ。
何と行っても一幕No.4二幕No.14の「夜の女王」のアリアでのLucia Poppのソプラノが素晴らしい。
関係ないけど、卒論のテーマであるツァラトストラが出てくるのが土偶的にマル。


amazon ASIN:B0000025PM J.S. Bach
Goldberg Variations
Piano : Glenn Gould

何度聴いてもたまりません。
「内向」を通り越した先に見えるものがここにはある?

2006年10月20日

●いつの間にか終わる金曜

週末ということでバタバタと走り回って仕事を片付け、色々な人に誤爆の御心配を賜り感謝する。
「普通」やその他について話したり、「blue man」に驚いたり、大人しいヤモリを愛でたり、人同士の距離感について考えさせられたり。

あれだけ若くて可愛らしくて魅力的であるにもかかわらず自己否定的な言動になるのが常々不思議でしょうがない。
まぁ、だからこそムダに自信と元気と自己肯定が過剰な人物にはない「深み」に見えたりもすることもあり、結局冷静に人間存在を見つめれば全肯定できるはずも無いわけで、そこの認識があるかないかの違いでは無いのかと思う。
「人間こんなものだ」という理解があったとしても「これではいたくない」と思うのは善であってほしいと願う。

色々なことは氷解しつつあるのか、それとも膠着の方向に向かっているのか。
今まで見えなかったことが見えて来たとは言えども、それら現れた物は決して気分の良い種類の物だけでは無く、
取るにしても取らないにしても、全部を取るか全部を取らないかの選び方しか出来ない。
とはいっても、ありとあらゆる物が目の前に並べられた状態で「やっぱり全部いらないです」などと言える訳が無い。

仕事帰りにいつもの古本屋で本を漁る。
夕食後に布団に潜り込んでクレンペラーの魔笛 を聴きながら『この国で戦争があった 』を読んでいたらいつの間にか寝てしまったようで、
こうしていつの間にか金曜日が終わっていた。

2006年10月19日

●阿部和重『グランド・フィナーレ』

阿部和重の作品は今までに一冊だけ『インディヴィジュアル・プロジェクション 』を読んだことがあるだけで、この『グランド・フィナーレ』で二冊目になる。
内容はどうしようもない(とされる)ロリコン男の話である表題作の「グランド・フィナーレ」を中心にした、架空の町「神町」で展開する物語群、いわゆる「神町サーガ」なるものの中篇+短編集と言える構成で、2004年下半期の芥川賞受賞作である。

アマゾンやらwebの評を見ていると『インディヴィジュアル・プロジェクション』の方が評価が高いようやけど、個人的には『グランド・フィナーレ』の方がはるかに良かったように思う。
『グランド・フィナーレ』を批判する人は予定調和か破滅かが現れる前に幕となる終わり方に不満を持っているパターンが多いようで、確かに俺も唐突に終わった「グランド・フィナーレ」に唖然としたものの、そこは小説に何を求めてるのかってだけの話になるんやろうと思う。
こういう終わり方でしか表現できないものもある筈やぞと。

amazon ASIN:4062127938 この本の中の半分以上の量を占める中篇である「グランド・フィナーレ」の主人公は、昔の小説ではありえないような、人間的な魅力も力も無く、シンパシーも尊敬の念も抱きにくいだけでなく、限りなく地味でかつ読者に嫌悪感をもよおす様に設定されたタイプの人物である。
最近でこそ作者が主人公の力で物語を引っ張ってゆくのを放棄するような、こういったタイプの主人公は多いけど、阿部和重の場合は物語の舞台であり、他の小説でも頻繁に登場する(らしい)「神町」を物語の中心でかつ核心におくことでこういった「最低な主人公」を動かすことが出来るのだろう。
最低な主人公が神町で動き回る中で、「最低」から脱する予感が描かれるのは、伝統的な小説のスタイルを踏襲している訳で、現代的な手法で伝統的なカタルシスを描きかけていきなり終わる、といった構成は、新旧色々なテーマだけじゃなくって文体とか語彙とかも色々な物がミックスされ、全体としてかなり不思議な雰囲気がする。

古くでいえば(古くも無いか)、中上健次が「熊野の路地」を、大江健三郎が「四国の谷間の村」などの特定の「場」を中心に据えて物語を物語っていたけど、阿部和重の場合は「神町」がこのポジションにあたるわけであり、個人的にはこういう雰囲気は良く理解できるし大好きである。

村上春樹は初期に「鼠」とか「羊」とかの「場」を捨てて、最近は新しい「場」を模索しているように見えるんやけど、すでにしっかりした「場」と確固としたスタイルを持ってる阿部和重は凄いなぁ等と思うわけである。
この本の帯には「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」などと大層な事が書いてあったけど、ここまで言わせてしまう雰囲気というか風格は確かにあるように思う。
で、次はその「神町サーガ」の『シンセミア』『ニッポニアニッポン』あたりを読もうと思った。

考えてみれば俺は古い小説が好きなわけで、最近の作家で惹かれるこの阿部和重だとか平野啓一郎からなんか古っぽい雰囲気を感じてるだけなのかと思ったりもした。

2006年10月18日

●自陣を誤爆

今日はほとんど丸々一日コード書き。
昼休みに部屋の外に出ることすらせずコードを書きながらおにぎりを食べた。
自分で壊してしまった物を治すためだけど、結局丸一日費やしたあげく元通りにはならなかった。
自分で作ったので、治すのも自分しかおらず、自分が止めれば終わるし、自分が進められればどこまでも突き進む。
誰が足を引っ張るわけでもないけど、誰が助けてくれる訳でも決して無い。
あらゆる限界が自分個人の限界と等しいということになる。
その事実に激しく凹むものの、自分を呪った所でどうなるものでもない。
このままでは埒が明かないので、壊れたところを放置したまま要求される機能拡張と仕様変更に注力。
こちらの方はおおむね終わり、壊れた部分の修復作業だけが依然として残っている。

そういうわけで、今日の日常的な業務はほとんどすべて放棄。
そのおかげである人に迷惑をかけ、またある人には迷惑をかけたかもしれず、非常に申し訳なく思う。

それでも、こういった作業に一日没頭するのは楽しい事でもあった。
ご飯を食べる暇すら勿体無いほどの熱中は久しぶり。
色々反省し、思うこともあるけれど、とにかく今は目の前のに集中するしかない。
もちろん今日で終わったわけじゃないけれど。

で、家に帰っておでんに入れた蛸の柔らかさに驚き、この間古本屋で買ってきた、阿部和重『グランド・フィナーレ』 を食後になんとなく読み始め、なんとなく読了した。素直に面白かった。感想はまた明日にでも。

2006年10月17日

●蛸の適当カルパッチョ

メバルが煮凝っていたので、冷たい料理繋がりということで、タコのカルパッチョを作る事に。
しかしながらオリーブオイルが無かったのでサラダ油を使い、その分風味がないのでオレガノを多めに振りかけて誤魔化す。
塩、胡椒、パセリ、七味、オレガノ、レモン汁は味を見ながら適当に振りかけて混ぜ混ぜ。
玉ねぎは良いとしてもカイワレ大根と人参の薄切りが大量に投入されたので、材料だけではあまりカルパッチョぽく無い。
それでも見た目はかなりおいしそうやったけど、最後に絞りすぎたレモンの分だけちょっと酸っぱ過ぎた。
で、食べてからにんにく入れるの忘れた事に気づいた。なんかカルパッチョのイメージとぜんぜん違う味やったけど、これはこれで美味しい。
カイワレのピリピリがかなり良い感じのアクセントになってた。
カルパッチョと言うよりはサラダやけど、色が赤白なのでカルパッチョということにしておく。
しかし西洋の料理つぅのは何というか、シンプルさに欠けるなともつくづく思う。

なんかすげー適当に作ったけど、料理っつーのは一定のテーマに沿ってあるもん適当に組み合わせてソレらしく作れてなんぼやと思うわな。
土偶の辞書にレシピなど無い。などと思う今日この頃。

そういうわけで今日も魚を堪能した。

2006年10月16日

●茹蛸なら土偶に

20061016tako.jpgメバルの刺身にメバルの煮付け、茹蛸を刺身に。
茹蛸の茹で具合が絶妙で上手く柔らかく仕上がった。

今年はやたらと蛸を茹でたので、茹蛸に関してはもう絶妙の域に達してきた
コツは足から徐々に浸けて、沸騰が止まれば上げて、沸騰が始まったらまた浸ける。
なので、鍋が大きければ大きいほど湯の温度が下がらず良いということになる。
蛸が全部浸かり裏返して再沸騰して一分くらいで引き上げて、直ぐ水に浸けて冷やせば何とも柔らかい茹蛸になる。
用は茹ですぎない、鍋の湯の温度をなるべく下げないって事ですな。鍋の湯に酢をちょこっと入れれば腕が綺麗な赤色に発色する。
塩揉みせずに片栗粉でもめば良いとか大根で叩けば良いと言う話もあるけど、土偶は塩揉みオンリーひたすら15分以上もみ続ける。モミモミと。

茹蛸ってのは何ともプリチーな形やといつ見ても思うけど、蛸からすれば怖い絵なんやろう。
蛸が俺に見つかり、かつ俺がスルーしなければ、ほぼ100パーセントの確立で茹蛸にされるので、蛸にとっては土偶はウツボよりも恐ろしい存在に違いない。

某氏が四苦八苦しながら長い期間をかけて一つの文章を練っているのを実際に見ていると、ブログに書かれるような数分から数十分でひねり出される自分の文章が、以下に薄っぺらで詰めが甘いかと思うことが多い。
自分のブログの文章を後から読んで「あーもっとこここういう風にかけるやん」と思ったりするけど、それでも中々ザクッとええ感じに書けていると思うのもほんのたまにあるわけで、薄っぺらで詰めが甘い大半の物の中にもきらっと光るのも無くは無いようだ。
一つの文章をきっちり時間をかけて書いてゆくのと、ブログで短期間に書き散らしてゆく事の違いは、一つの曲を延々練習して解釈を深めて表現力をあげるクラシックの演奏家と、ライブのアドリブにすべてをかけるジャズのミュージシャンの違いようなもんかと。
某氏の書いている文章はスタジオレコーディングのようなものやけど、俺のブログはライブの一発勝負みたいなもんやね。

最近きっちりした文章を時間をかけて書くことがほとんど無い。
最近で思いつくのは自分が作った某システムと再構成した某システムの仕様書くらい。
仕様書を文章の括りに入れるのも微妙な感じやけど、それでもTexで仕様書書いても、文書をきっちり作るのは結構楽しかった。

自分はよっぽど文章を書くのが好きやねんなと自認すると同時に、なんかきっちり書きたいなと切に思った。

2006年10月15日

●初心に帰ってメバルと遊ぶ

20061015A.jpg 20061015B.jpg
本日も海へ行ったのだが、最近はいつも同じところばかり行っているので近場の海へ。
俺が魚突きに開眼した場所だ。

今まで行った事の無い岸から見える磯場を攻めてみたが、泳げど泳げど浅場。対象魚がいないし、濁りもひどい。
また違う場所に移動するのも何なので、諦めて同じ場所の浜のいつも潜っていた浜でメバルを突く事に。
チョッキ銛では長すぎ、かつゴムが強すぎるので、三本繋ぎの所を二本にして全長が2mの二股ヤスにする。
ヤスは昔と同じ条件やけど、昔よりはるかに上手くなっているようで、ザクザクとメバルに刺さる。
藻の間から、岩陰から、ホバリング中を真横から下から、もう外す気がしない。撃った瞬間に逃げるメバルに苦労していたのが嘘のよう。
結果、2本潜ってメバル7匹、タコ2匹。
1枚目の写真は1本目の獲物。2枚目の写真は2本目のメバルの下ごしらえを終えたところ。タコも獲ったけど写真はなし。
一番大きい黒メバルを刺身にしたけどコリコリで中々の食感。片身のさくを冷蔵庫に寝かしてあるので、明日食べる方が美味しいやろう。まぁメバルなので残りは煮付けにするのが無難かな。

2006年10月14日

●葉ですら中々出ない

radishA20061015.jpg syungikuA20061015.jpg
家の野菜も育ってきた。 今のところ害虫も病気もなし。

天気が良かったが一日家でだらだら。
夕方から誘われたので出かけ、ひたすら喋って夜中に帰ってきた。

自分自身が自分をこうであると確信してるのにもかかわらず他人には逆に思われていたり、ある人は自分を指してこうであると言っても、また別の人は全くこうではないと言ったりする。
それは見方の違いであったり、見る場所の違いであったり、見えるものの違いであったりするわけやけど、それはどれか一つのみが正しいと言うわけではなく、一つの存在の多様性という風に捉えた方が良いように思う。

シンプルなことをややこしくする必要は無いけど、混沌としか形をとりえないものを無理に分りやすくすしてしまえば意味も価値も無くなってしまうことがあるだろう。
もちろん、何かがどちらに属すべきなのかなのかちゃんと判断できるはずも無いので、
結局、納得できるか出来ないか、面白いかそうでないか、美しいかそうでないかを自分の基準で図るしかないし、結局ぶつかり合うのは正義でも論理でもなく、個人の価値ということになる。
判断保留の立場をとる事も可能だけど、一般的にそれはかなり難しい事でもある。

概念でも実態でも、何か自分に扱え、何を扱うべきなのか。
そしてそれがどんな価値をもたらすのか。そんなことは試みてみるまでは絶対判らないと思った。

とここまで一般化して言ってしまえば、いったい何を指してるのかサッパリわからんけど、何にでも当てはまってしまいそうで、何かを言っているようで結局何も意っていないようにも見え、言葉って怖い。

2006年10月13日

●グインサーガ110、波風立たず

一人で黙々と弛まなく絶え間なく働き、予定どおりの領域を予定通りの時間で制圧。丸一日働いて誤差は10分と上々。
まぁ丸腰の都市を爆撃機で空襲するような作業ではあったけど、とにかく計画通り物事が進むと言うのは気分が良い。
しかしここでしか通用しないと言うのが最大の難点ではある。

グイン・サーガ 110巻が10月発売と言うことで仕事帰りに買って帰り、夕食後に一気読み。
酒もタバコも嗜まず、金曜日だと言うのに本を買って家に一直線に帰る。
趣味は読書に音楽に魚突きにコンピューターに自転車。たまに骨董とか野菜栽培に興味を向けたりもする。
なんかこう書くとなんと面白みの無い人間かとつくづく思うねぇ。
精神的に波風立つことは極限まで抑えられるけど、同時に極限まで女性が寄り付かなくなる。
そうそう何でもうまいこといくもんじゃないわな。
でも、幸か不幸かこういうべた凪な生活に完全に慣れつつある。

amazon ASIN:4150308632 そう、『グインサーガ』の話しやったけど、特に取り立てて言うことは無いし、話は着々と進んでる。新たな複線が膨らんで、大立回りの予感が漂う。
有無を言わさぬストーリーテリングの価値は、中途半端な小難しい本を軽く凌ぐと思う。
この『グイン・サーガ』が「物語」として面白いのは当然の事として、とてつもなく長い物語なので、その世界の奥行きと深みが他の小説に比べて桁違いであると言うこともあり、自分のいる世界からの「異化」と、どこか違う世界への「同化」が同時に行われる感が強いように思う。
日常にいる時は全く「グインサーガ」の世界のことは考えないけど、読み始めれば隅から墨まで覚えてるし完全に没頭してる。
非現実な部分で現実的な世界と平行して進む、自分が介入出来ず傍観者でしかない世界があるような感覚は不思議なものである。
前にも書いたけど、こういう感覚を持ってると言うことが、現実的に何かしらの傾向を生み出すような気がするけど、それがどんなだかは全く想像はつかない。

2006年10月12日

●自分が埋めた地雷を踏みそうになった秋

ほとんど誰とも喋らずひたすら明日の仕事の仕込み。
テストに数十台のPCで実験するも「代わりは幾らでもいるもの」ってやつはことごとく無事で、「これだけは予備が無い」というのだけがこれでもかと見事に壊れた。

一人で発案して一人でやってることなので、援軍も武器の補充もない泥沼の戦闘状態に。
結局そこを切り抜けて望んでいた状態に持っていくのに15分で終わる予定が午前中いっぱいを使ってしまった。

まぁそのおかげでひょんな事から今まで一年ほど「刺さった棘」状態でチクチクとずっと気になっていた現象が解明されて良かったと言えばよかったのかもしれない。
更に戦略核でも戦術ミサイルでも本戦前に実験しとかんとえらいことになるわけで、テストせずに本戦で撃っていたら殆どのPCが起動せず。ってな具合の焼け野原で被害は甚大だったやろう。
午前中つぶれたくらいで良かったとも言える。

今日はかなりのピンチを上手く切り抜けた以上の成果を出して対処できたけど、次に同じような事が起こるとどうなるか分らん。

考えれば本戦前の実験や演習ですらかなりの被害を出したわけで、一人だけでちょっと大げさな事をすることの限界や危険が始めて見えたような気がする。
一人での戦闘は一点の破壊力は大きくてもリスクが拾いきれない。一人の弱点が全体の弱点になり、一人の非戦力化が全体に対する非戦力化になる。

どちらにしろ自分の首をかけてデカ目の事をやってる意識は常にあるし、友軍に被害を出して負けた時は俺の終わりでもあるので、いまさら突破力や機動力を犠牲にしてまで組織戦闘メインにスイッチすることも無いだろう。

傭兵稼業もなんだかね。と久しぶりに思った。
つーか、単純になんか弱気になってるだけかもしれん。秋やしね。

2006年10月11日

●意思して恵みの雨だと思えば良い

朝起きると「なんじゃこりゃ」と言うほどの雨。
最近は雨だからと言って腹を立てないように、「この雨のおかげで土偶家のヘチマも大きく育つ。ありがたやありがたや」と思うことにしている。
この振り具合で出勤できたらどんな天気でも大丈夫やわなと半ば感心、半ば呆れながら自転車に搭乗。。
雨は雪なんかと違ってちょっとの踏み込みでホイルスピンしたり低速でタイヤがロックしたりしないので何ということはない。

良く「知・情・意」てなものが人間の言動とか教育とか信仰を語る文脈で使われる。
こういうブログに文章を書いたり、何らかの決意をしたり、本を読んでうむなるほどと思ったりといった生活のほとんどの場面では「知・情」のレベルまでしか到達していないわけで、そんなことは「意」のレベルに持っていかないとほとんど意味はない。
「考えてる」とか「思ってる」とか「その予定である」は進捗度でいうと全体の10%行ってないぐらいなのではないかと思う。

で、自分が何かを思ったり、何かを考えたりして出たある程度の結論のようなものは、殆ど全て「意」が無いように見える。
よくよく考えれば、思って望んでいる事と実際やっていることが絶望的に違っている訳で、なんについてでも「意」の段階とか、「意」の問題が一番難しいというけど、実際その「意」で実践できてないと意味がない。
というわけで、「情と知」の段階に「意を意識する」というのを意識してみる。

2006年10月10日

●浮上清々不毛

昔に忘れていた記憶が蘇る。というような話を良く聞くけど、自分のそういう記憶や内省とかの死角や盲点に気づいて驚いた。
大した事ではないけど、二十年ぶりくらいに思い出した事実があることに驚きつつも、人間の記憶とか脳のメカニズムに激しく感心した。

今日も色々な人と喋り、また色々な人が色々な何かに没頭している様を見ていた。
彼ら彼女たちに比べ、なんと自分は嫌な事を拒否して好きな事ばかりしているのか、また自分がどれだけ恵まれているのかと言う事に今更ながら驚いた。
別に自己嫌悪とか鬱に陥ったと言うわけでなく、何故か妙に清々しい気分になった。

仕事帰りに面識があると言う程度の人と遇ってなぜか立ち話を始める。
気づいたら道で二時間ほど喋っていた。
何も育たない痩せた土地に塩を撒いているような、まさに不毛としか言いようの無い会話だった。
不毛であることは本人の罪ではないが、そこに塩を撒くような事は罪ではないのかと思った。

2006年10月09日

●5拍子

ネットを巡ってるだけで特に興味の無い情報が勝手に押し付けられてくる。
興味のある事を読んだり調べたりしてるつもりやのに、いらん事がどんどん頭に入ってくる。
インターネットが情報過多で収拾がつかんという事を昔から言うけど、なんか久々にそういうのんを痛感した。
記憶力とか情報処理能力とかは有限やねんから、なるべく知りたくも興味も無いどうでも良い事は頭に入れたくは無いのだが、それでもちょっと面白いのもあった。
日本には「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」ってのがあるらしく、
その中に「核爆発を生じさせた者は、七年以下の懲役に処する。」って条文があるようで読んだ瞬間ちょっと笑った。

amazon ASIN:B000002AGN 同じ本ばかりを読み返すタイプではないけど、音楽に関しては最近同じ曲ばかり聴いている。
有名やけどほとんど聴かんと言うのも沢山あるわけで、そういうのもちゃんと聴いてやろうと言うことで、Dave Brubeck Quartetの 「Time Out」 を聴く。
これは一回聴いただけで聞き返すことは無いもんの代表でないかい?
かの有名な「Take Five」の入ったアルバムでそのイメージしかないけど、聞いてみたら他のんもなかなか良かった。
本流から外れた良さと言うのもまたある。

今日も早起き。タバコ止めてから不思議に早起きになってような気がするが、単純に年のせいだという意見もある。
早く起きた分夜は早く眠くなるのが道理で、このアルバムを聴いてたら寝そうになった。
だからと言って退屈だったとか馬鹿にしてるとか言ってる訳じゃ無く、それほどリラックスできたと言うことで。

2006年10月08日

●自転車でフラフラ

どうせすること無いから昼まで寝とけば良いのになぜか朝早く起きる。
なんとなく思いついて昼前から自転車で出かける。最近はどこへ行くのも一人だ。
色んな店を冷やかし、街中をぶらぶらしていただけのわりには、気づいたら30キロほどの距離を走っていた。
その後宝ヶ池の狐坂をダッシュで駆け上がったら足がいっぱいっぱいに。
足弱くなってるなーと思うも、ホームセンターをうろうろしている内にだるかったはずの足が復活。
やっぱりそうでもないやと思い直す。

最近は色とりどりの色鉛筆のセットが「癒しグッズ」扱いを受けているが、俺にとっては色々な種類と径のネジの売り場の方がよっぽどいい。等とぼんやり考え、なんとなく帰ってくる。
考えてもきりの無いことを考えたり、考えなければいけないことを考えなかったり、
すべきでない事をしたり、するべき事をしなかったり、
と言い出したらきりが無い一日。

まだもう一日休みだと言うのに驚きつつうんざりもする。

2006年10月07日

●スイッチ

某有名日記が一瞬読めたので九月分と十月分読む。
ちゃんと生きていたようで何より、そこで述べられていた、一周して戻ってきて年だけ取っていた。という感覚は良く分る。
その間に成長したり進歩していれば良いんやろうけど、そんなのは自分で言うべき事じゃないし、そうそう人間なんか変わるもんじゃない。
結局、徒労、焦燥、閉塞、そんな感覚だけが残る事になる。

野菜達に水をやり、自転車を時間をかけて洗い、銛先を研ぎ直し、音楽を聴きながら本を読む。
酢の物にして柔らかくなった蛸、煮凍ったイシダイのカマと兜のアラ煮にて獲った魚は完食。

ネットを巡っているうちに「佐藤初女」なる人の事を知り、いろいろ調べているうちに変なスイッチが入る。
こういうスイッチの入り方はなんか久しぶりで、こんなことでスイッチが入ることに驚き、自分が日本人であることを強く意識する。
西洋的な自我観とか精神観てなものは、実は自分自身にしっくりきていないのではないかと思った。

2006年10月06日

●今日も魚が晩御飯

今日はイシダイの塩焼き。
香ばしい厚い皮が絶品。酢橘と醤油を弾く程の脂の乗りもなかなか素晴らしい。
こってり目の身と香ばしい皮の取り合わせが何ともいえん。
イシダイと交互に茹蛸の刺身を食べる。
最後にイシダイの皮と海苔と番茶の香ばし茶漬け。
美味し(略

水曜に休んだので今日の金曜で明日が休みやという感覚に違和感がある。
だからといって明日出勤するわけでもないので、夕食後はひたすらネットを巡る。自虐的な意味で贅沢な時間の使い方だ。
某日記サイトで語られた理不尽な出来事に怒りがわく以前に何とも虚しくやりきれなくなる。
しかし考えてみれば他にももっとひどいことがそこかしこで行われているわけで、いまさらそんなことを思うのもどうかと思い直す。
いずれにせよ想像力の問題というのは良い意味でも悪い意味でも難しいと思った。

2006年10月05日

●魚食べ日記の二日目

一昨日の夜に首を寝違えたようで、首を下に向けると痛い。
潜ってると首を上にばかり向けてるので「痛っ!」という瞬間はあまりなかったけど、地上にいると何かにつけ「あたたっ」となり、下を向く機会が結構あるのだなとしょうもないことで感心した。
もう水棲生物になりたいくらい。

「さく」にして寝かしてあったイシダイの背側の身を、昨日に引き続き刺身で食す。一日寝かせると何とも旨みが出てる。
イシダイの肝とカワハギのアラと茗荷の吸い物。カワハギの顔がお湯の中でゆらゆらしてるのはシュールな光景やけど、イシダイの肝とカワハギの頬肉やカマと茗荷が何とも絶妙。
カワハギとメバルの煮付けは、どっちも白身やけど結構違うムッチリムチムチタイプと繊細でエレガントなタイプの取り合わせで良い感じ。
最後は山葵醤油に漬け込んだイシダイの皮茶漬け。
美味しすぎる…

海に行った日からしばらく美味しい魚が食べられて幸せである。

2006年10月04日

●イシダイ40オーバー(初)

有給を取って海へ。
曇りで日は照らず、海は薄暗い。
潮あたりの良い岩場はプランクトンだかゴミだか細かい塵のようなものが舞ってすこぶる透明度が悪い。
魚影の濃さもいまいち。もう完全に秋の海。ぞっとしないクラゲの群れがどこかに消えたのは良かった。

others20061004.jpg ishidai20061004.jpg

一本目:
濁りが酷いので4m以浅の浅場で新足ヒレに馴れがてらオカズ取り。
さすがに長いだけあってスピードは出る。カワハギくらいなら追いつきそう。
フットポケットもちょっと余裕ありそうな感じにもかかわらず全くずれたり脱げそうな気配は全くなしで良い感じ。

いつの間にかクサフグが5匹ほどずっとついてきてうっとおしいのなんの。
銛先を突付いたり眼前をウロウロするのはまだしも。
隙あらば腰にぶら下げた獲物を齧りとろうとするので油断も隙もならない。
追っ払っても追っ払ってもついてきて、俺がグラディウスでフグがオプションのようだ。
で、獲物はカワハギ2匹に蛸1匹にメバル1匹。
メバルらしく上向いてホバリングしてる大きい目のを発見。水底を手で歩いて近づいて海草に隠れつつ、隙間から手と銛を出して狙撃。
鰓蓋の上から斜めに入り、脊椎を削って逆側の鰓蓋を貫通。脊椎断裂のヘッドショット。
刺さった瞬間にピクリとも動かずに死んでいた。今までで一番綺麗なキルショットやね。
カワハギは肝に惹かれて小さいながらも獲ってしまった…
蛸は例のごとくナイフアタックで墨を吐く間も与えずに捕獲。

二本目:
場所を変えて波止テトラ付近で。
明らかに50オーバーのメジナとか30オーバーのキュウセンベラとか40近そうなフグとか対象魚外の変な奴がいっぱい。
うおーすげーと水族館状態で喜んでる所で、遠めのテトラについてる何かを齧り中のイシダイ発見。ボリボリ音が聞こえた。
泡音が出ないようにシュノーケルを口から外して潜行。上手くテトラの影にイシダイの体前半分が隠れるような死角に回り込んで渾身のフィンキックで一気に距離を詰める。
体の後ろ半分を見ながら慣性で進み、気づかれる間もなく胴体の真ん中後ろにフルパワーの一撃。
イシダイらしく突っ込みはなく硬直。すかさず掴んで脳天ナイフ&血抜き。
イシダイ初めての40オーバー。なんとなくクチグロ。微妙に縞も消えかけ。すげー歯。体分厚っ。
30前後のクロダイを何匹か見掛けたけど、遠巻きにこっちを見つめてるだけで寄らなかった。
劇濁りの海底でアマダイののような40あるかないかの魚影発見。濁りではっきり見えず確認できたのは赤地にうっすらの黄色いライン。頭はシイラちっくに四角い。
頑張って距離を詰めて撃って当てたもののチョッキまで刺さり切らず暴れられて逃げた。銛を押し込む暇もなかった。
始めてみた魚なのでかなり残念。アマダイ?イトヨリ?

家に帰ってカワハギ生肝、イシダイ刺身、茹蛸、イシダイの茹で皮の葱ミョウガ醤油和えを食べた。
美味しすぎる…

2006年10月03日

●最初で最後のカットアップ日記

余裕がないような気がするが、今それがなければいつ出来るというのか。
黄色いゴミ袋にしがみ付く愛らしいキャラクターが増殖し、腐敗臭はおでん君にジャンクションする。
無い物を指して「余裕」と呼び、あるはずの場所を指差して「余裕」だとあざ笑う。
カラスどもは無我夢中で繰り返し繰り返しおでん君にくちばしを突き立て、おでん君はその傷口から色とりどりなカラフルゴミを撒き散らす。
黒い塊がどんどん水を吸って大きくなり、そこに濃紺の雨が降り注ぐ。そこから生えるニガヨモギの芽は百の棘と百の毒を持ち、百の害虫どもを呼び寄せる。
ゴミ袋は歓声上げながら逃げ回り、猫は毛を逆立てて物憂げにゴミの中から這い出る。
追い立てられた緑の逃走衝動が勝利を収め、銛と水中眼鏡を掴んで走り出そうと身構える。

っとバロウズちっくに書いてみたが無理。
絶対脈絡あるもん。

2006年10月02日

●ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』

ビート・ジェネレーションとやらを代表する作品でありその中でももっとも有名な(やと思われる)ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』を読了。
映画にもなった有名な本やけどまだ読んでなかった。
ビート・ジェネレーションなる範疇に入る作家は以前にジャック・ケルアックを読んだことがあり、これと同じ様な感じかなと思っていたけどまったく違った。
麻薬中毒の幻覚や混沌としか言いようのないイメージが「カットアップ」なる手法でフラッシュバックするように羅列され、幻覚そのままも、混沌そのままも、何かの比喩としても捉えることができず、最初から最後までまったく理解できなかった。
それでも麻薬中毒の幻覚とか意識や経験の範囲の拡大とかはこういうもんなんかというのがわかったし、麻薬中毒であるとか無いとか、同性愛であるとか異性愛であるとかの倒錯した美というのも確かに感じた。
あまりに今までに読んだ事のない種類の本で、かつまったく意味が理解できず、読んでる最中に何度も寝てしまい、読み通すのにかなり時間がかかった。

amazon ASIN:4309200974 バロウズ自身はこの本の中で作家という存在が書く事の出来る物は「書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけ」であると語り、「ストーリー」や「プロット」や「連続性」は押し付けるべきではないと言っている。
そういう見方からすればそれが確かに今までの小説とはまったく違うことのエクスキューズにも理由にもなっているし、それが故の倒錯した混沌が作るある種の美は確かになにかしらの完成された物を感じる。

実際この本が様々な範囲に大きな影響を与えたのは明白で、「液化主義者」「送信者」とかこのイメージがオリジナルかと感じる部分が多々あった。
後にこういう手法とか見方が広まるわけで、こういう肉体的で欲求的で性的で原形質的で依存的な描写は人間の生理的な何者かをダイレクトに刺激するエネルギーがあるのだろう。
麻薬でもなんにしろ、常人には見えない何物かを見て、そこから美なり醜なりを抜き出して、そこから本なり音楽なり絵画なりの一つの形にするという段階のすべてを備えて初めて才能と呼べるのやろうと。

社会的な影響とか手法の話は別にして、個人としての本読み的な対象として見た場合、
大体、本とか小説とかは何かしら読み取ろう、感じ取ろうとして読むわけやけど、この本に関しては別にそんなことを考える必要も無いように思う。
考えてみれば他人が麻薬中毒時に拡大された意識と経験の中で見る幻影にそんな事を探すのが無理があって間違ってるわけで、ここは素直に「おーすげー」「ぶっ飛んでるなー」と意味も分らず、ちょっと引き気味に驚いておく、「仮想体験系」として捉えるくらいが正解なのかもしれんと思った。

2006年10月01日

●野菜栽培日記2006/10/01

photo-20061001-055431-0.jpg photo-20061001-055431-1.jpg春菊がだいぶ大きくなってきた。
二十日大根は第一次間引き終了。
葱も順調に伸び中。
毎朝どれくらい伸びたか見るのが楽しみ。野菜達カワユス。
蒔くトコ無いのにまた種を買ってしまった。イタリアンパセリにタイムにチャイブに水菜、いったいどこに植えるよ。