≪ 2006年08月 | Top | 2006年10月 ≫

2006年09月30日

●包丁を研ぐ

時間をかけて包丁を研ぐ。菜切1本、出刃2本、柳葉3本、特に寿司屋のバイトを辞める時に店長に貰った柳葉を丁寧に。
この包丁を研いでいると実に色々なことを思い出した。
大した寿司屋じゃなかったけどあの頃は実に楽しかった。色々な可能性が目の前にあってどれをも選択できる気がしたし、未来は実に楽しいものである予感がした。
今思えば予感だけがあったような時代やったけど、結局「手に入れようと思えば手に入っていた」感覚というのは幻想でしかないのだ。

更に何かを失ったような感覚というのも結局思い込みに過ぎない。もともとそこにちゃんとした物なんか何もなかったんやしね。
それでも、共同の幻想を共有しているような感覚、つまりは誰とでも分かり合えるような気がする感覚を共有していた事だけは、貴重だったような気がする。

そういえばその頃、「俺についている客」ってのがあったのだ。
寿司を握りながら時に笑わせ、人の少ない時は結構真面目に話し込んだ。魚に関する講釈からパソコン相談に至り読書指導まで実に色々喋った。
今から思えば信じがたい話やけど、俺は客商売に向いてるとすら思っていた。

怒涛の勢いで人が押し寄せてあっという間に去っていった。
あの頃にあそこで付き合いがあった人の行方を俺は何も知らない。二年ほど前に突然電話がかかってきてとんでもないことをカミングアウトした人がひとりいたけど、結局それが金の無心で激しく凹んだ。

結局幻想はすべて消え、残っているのは魚を捌き、寿司を握る技術と店長に貰った柳葉一本。それでも魚が好きなのは昔から変わらないし、そんな混沌とした幻想から生まれたものもまたある。

そういうわけで、買ってきた「ツバス」を研いだばかりの出刃で三枚におろし、柳葉で刺身にする。
よく切れる刃物を使っていると何とも爽快感がある。
現実の二十日大根の「間引き菜」を添えた、現実の包丁で切った現実の刺身は何とも美味しかった。

2006年09月29日

●前線が上がる

人が少ない時にはちゃんと動作したものが、人が多くなるととたんに不安定になっっていたのだが、施したチューニングが上手くいった用でほっとする。
ほとんど一人で作って一人で押し切って再構成したシステムなもんで、これに不具合が出るといろんな意味で非常に辛い所だった。「前の方が良かったやん」という印象を抱かれるのだけは避けたかった。
別に敵があるわけじゃなし、俺が転んで喜ぶ奴がいる訳でもないけど、「誰のためのシステムか」というところを考えればここを死守する必要があったのだ。
とにかく防衛線は上がり、前線は深くなった。別のオペレーションに力を注げる環境ができたのは進歩やね。

いろんな人と結構長時間喋って気が晴れた。
土日に何かの用事があるわけではないけど、金曜日というだけで何となく嬉しい。

珍しくモーツァルトのシンフォニーをじっくり聴いてみる。
今まで歌劇以外のモーツァルト全般に感じていた違和感のような物がなんとなく分った。モーツァルト全般はなんとも軽薄に聞こえるののだ。
こういうのは印象に端に発する偏見なのだろう。
音楽を「個人の表現として」捉えることがなかった時代の音楽はそれであるが故の良さも当然ある。

2006年09月28日

●いつも心に太陽を

二十日大根がすごい密度でわさわさにょきにょき育ってきた。気は進まないがそろそろ間引かないといけない。
ネットの写真と見比べてみると徒長しているような気がするが、なにぶん初めてなので良く分らない。
とりあえず土を足して地上部を少なくしてみた。
最悪でもカイワレ大根くらいにはなりそうなのでええとするか。

春菊も葱も芽を出したが、菠薐草と三葉はまだ。
それらと比べれば二十日大根だけ伸びるのが異様に早い。

今一番恐れているのはエジプトに襲来したイナゴの大群のごとき、アブラムシと鳥。
土偶プチ菜園は二階の出窓なのでアブラムシはともかくとして鳥が怖い。家帰ってみたら双葉がついばまれて丸裸になっていた。ってことは避けたい。
そういうわけで、鳥よけとして、もう使わないSolaris10のインストールCDをプランターの端の土に刺しておいた。
サーバーも、鳥よけも、デスクトップマシンもソラリス関連で固めるのが土偶クオリティ。

2006年09月27日

●新フィン届く

freefrog.jpg 買った足ヒレが届いた。Cressi-subのFREEFROG。チョイ長めのイタリアのフルフィットフィン。
フットポケットの作りがかなり良い感じ。ブーツを履いて使う用にサイズはちょっと大きめ。

高校時代から気に入って使っている足ヒレはブーツの上から履けない素足onlyのサイズで、一昨年フットポケットが破れて補修しながら使っていたのだが、まぁ長いこと使った奴やしそろそろ引退か。
ということで新しいのを買った。
同じフィンを買うか、短く硬い同じようなタイプを買うか、いきなりロングフィンに手を出すか悩んだけど、今まで長めでしなる感じのフルフィットフィンを履いたことないのでこれにしてみた。かなり楽しみ。

前日夜更かししたにも関わらずこの日も夜更かし。
布団を敷く位置を変えてみた。いつもと違う感覚でなんか人の家でお泊りしたような新鮮さがあった。

2006年09月26日

●ハツカダイコン発芽二日目

Radish1day003.jpg 家のヘチマが大きくなってきたので「ヘチマたわし」の作り方を調べているうちに関係ない園芸情報とやらに触れ、色々読んでいるうちになんだか無性に野菜を作りたくなってきた。
昔から草は好きなので植えたりしてたけど野菜は初めて。
とりあえずネットで情報収集してこの間の土曜日に色々買ってきた。
で、初心者向けということで、ちっこいプランターにハツカダイコンの種を蒔いて、芽が出たので家の出窓に置いてみた。
種を蒔いてから3日経過、発芽して2日目の様子。
外に出すタイミングが少しずれて徒長気味??
しかし肥料やら腐葉土やらおもっきり「エサ」としての有機物入れてるもんで、これで独立栄養生物と言えるのか?

まぁ、他にも色々植えたので観察日記でもつけるかと。

いやいやしかし種から芽が出るというのはなんともカワユスなぁ。生命の神秘なり。
「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」って実ができる前にごっそり食べちゃるけどね。
上手くできるといいなぁ。

2006年09月25日

●真平らが良かろう筈がない場合

最近某tubeで色んな演奏家を見ているけど、大抵の音楽家、少なくとも俺が好きな音楽家は見ていると例外なく変人にしか見えない。
音楽だけを聴いて「あ~すごいな~」と思ってても、実際演奏してるところを見ると「大丈夫か?この人?」なことが多い。
特にglenn gouldなんかは見てるだけで「ああ、この人ヤバい人やねんな」というのが直ぐ分る。
彼の生前のエピソードのどれもが彼がまともじゃない人である事を証明しているだけやけど、それでも彼の「変さ」に引き換え、彼の演奏するピアノは何とも美しい。
彼が自らの内側にある美しい世界にしか興味がなく、そこにしか住んでいないのが良く分る。
こういう風になれたら色々な事が楽になるとはとても思えないし、見ている分には明らかに病的やけど、ある意味での「魂を売る」気持ちは良く分る。
ここまでのものを残せるなら、自分の人生一つなんか安い物だと思う。

でも彼の場合は一度に「魂」を売り渡したわけでなく、彼の「魂」は若いころから時間をかけてちょっとづつ薄切りにされて買われていったわけで、そういう孤独とか苦しみとかを想像すると何ともいたたまれない。

まぁ、いずれにせよ「glenn gould」の「Goldberg Variations」聴いた事ない人はぜひとも某tubeで一度聴いて(観て)みてくだされ。

考えてみれば、音楽家であるグレン・グールドだけじゃなくって、その他のいわゆる芸術家とか言われる人は、(ついでに、哲学者といわれる人も)いわゆる「普通の人」ってのはほとんどいなかったと思う。心理学的とか、精神医学的に見れば皆間違いなく「異常」とか「病気」の方に分類される人たちやと思う。
彼らがその「異常」を捨て「病気」から回復して同じような作品を生み出せるようになるとはとても思えない。
実際おおよそ史上に残る芸術とか思想とか呼ばれるもので普通の人が残したものなど何もないだろう。

精神的に病んでる人とかおかしい人が癒える事は、苦しみから逃れられるという観点からすれば喜ばしいことだろう。
それでもそんな狂気とか孤独とか常ならぬものからすばらしい何者かが生まれるのだとすれば、そんな苦しみも大きな意味があるように思う。

誰もが精神的に癒え、誰もが同じような傾向を持つ世界というのは逆に異様だ。
山と丘を削り、谷と川と湖を埋めてあらゆる土地を真平らにすることが良い事だとはどうしても思えない。

2006年09月24日

●コロコロ

最近自分の趣味の方向とか好き嫌いが変わったことに伴い、生活のパターンが一変したと思う瞬間が多い。
もちろんずっと変わらないものもあるけど、一年前までは思いもしなかったようなことに気づいたり考えたり、とても価値のあったものがどうでも良くなったり、どうでも良かったものがとても大事になったり。
状況が強いたものではあったかもしれないし、環境に対する順応とも言えるかもしれないけど、原因は何であれとりあえず「変化」であることは間違いない。もちろんまったく変わってないところも多いけど、とにかく俺は変わったような気がする。


とはいっても、一年前に肯定していたものを今否定したとしても、更に一年後どうなってるかなんかまったく予想がつかない。
自分の中ではそこへ至る道がなぜそうなったのか理解できるとしても、外から見れば「一貫性」などかけらもないだろう。

その他にも色々理由はあるけれど、自分ってのはあんまり信用できんし油断も隙もあったもんじゃないと最近つくづく思う。まぁ、もちろんそれが好き嫌いの話になる訳ではないんやけど。

2006年09月23日

●ヘチマをめぐる冒険

家の窓の枠に絡み付いているヘチマの実が40cmを超えるくらいの大きさになってきた。
相変わらずクロオオアリがヘチマの樹液を求めて巡回しており、まだ咲いてる花にもクマバチやらマルハナバチやらミツバチが訪れて来る。
よく見れば雄花の脇にお腹がパンパンに膨らんだハラビロカマキリがとまっている。捕まえてハリガネムシでも摘出したい欲求に駆られるが、出てきたハリガネムシの処置に困るので思いとどまる。
働いてる虫やらを見ているとまったく飽きない。気づけば歩き回ったり飛来したりじっとしている虫たちを数時間ほど眺めていたけど、その間ハラビロカマキリは身じろぎもせず獲物を待っていた。
いつ訪れるかも分らぬ一瞬のチャンスを動かずに待ち続けるカマキリをじーっと見ていると、見ているこちらが緊張感に気圧される。
カマキリの方は緊張も集中もしてないやろうけど、そう感じるのは見ている方の感覚を投影しているからだろう。
魚突きの時、海底や根で「待ち」をしている時の俺はかなりの緊張感を持って周りを探っているし、つまりはそれが殺気というものになるのだろう。視界に入った魚が目を動かした瞬間にダッシュで逃げるというのもつまるところそれがゆえかも知れない。このハラビロカマキリのような自然体の「待ち」は俺には無理やと当たり前のことを思った。

ターゲットを待ち続ける狙撃手のようにじっとしているカマキリに引き換え、アリはなんと忙しなく働いていることか。
実は働かずにサボっている奴も相当数いるという研究結果もあるらしいけど、見ている限りとても忙しそうだ。
考えて見れば真社会性昆虫と呼ばれる奴らはほとんど例外なく忙しそうに見える。社会性動物というライフスタイルが忙しさも呼び込むのか。働き者の性質が社会性を形成する方向に働くのか。
しかしながら、俺にはただ群れて好き勝手に草の汁を吸っているだけにしか見えないアブラムシも実は社会性生物に分類されるらしい。
「忙しい=社会性生物」という図式が自然に頭に浮かぶけど、これは単なる思い込みに過ぎないのだろう。
アブラムシ型の社会のほうがなんかまったりして良い社会のようにも思えるけど、これは単に食料がふんだんにあるかそうでないか、お菓子の家に住んでいるか砂漠に住んでいるかの違いではないか、と思わなくもない。
職業軍人(兵アブラムシ)がいる社会と国民皆兵制(アリとかハチ)を敷いている社会のどちらが良い社会かという方面も検討せんとあかんのと違うか?
などと考え出したら際限ない。

一日中地面にはいつくばって虫を観察していたアンリ・ファーブル先生はかなりの変人扱いされてたという。
数時間虫を眺めてニヤニヤしている自分を冷静に振り返って「ちょっとヤバ目かも」と思うくらいなので、ファーブル先生のおかしさ加減は相当なものだっただろう。

いずれにせよ自分の部屋の窓にちょっとした分りやすくステレオタイプな生態系が出来ているわけで、そういうのは何とも嬉しいものだ。

2006年09月22日

●精神的負荷もロードバランシング

やっと金曜日。
調子よく機嫌よく予定通り働き、もう今日は何事もなくまったり終わるか?というところで障害発生。
影響範囲が全windowsネットワークに及ぶも、こんなこともあろうかと夏休み中に仕込んでおいた機能が功を奏して、ユーザーサイドではすぐに復旧。
現象を確認して10分以内で仮復旧させるとはシステム管理者冥利に尽きるというものだ。
しかしながらこの「10分以内」のサービス停止期間を0秒にしたい。
ロードバランスとまではいかなくても、動的に優先順位を変化させるようなモジュールを実装してみようという気になってきた。

手塩にかけて作ってきたシステムが飛躍的に進化ようとする予感は何とも心躍る。
ちょっと誤解を招きそうな言い方やけど、何とはなしに良い意味での進歩史観的な雰囲気がそこにはある。

障害が起こって始めて気づくことがある。そしてその障害を切り抜けたからこそより高い次元に進もうという気にもなる。
別にただのサーバー障害から人生訓引き出すつもりはないが、少なくとも、仕事中だけは前向きな人間であるような錯覚に陥る。
たとえ限定された範囲内であっても、自分が前向きな人間であると思える瞬間があるのは気分の良いものである。

こういう風に自分を見るやり方というのに慣れないといけないのだと最近思うようになって来た。
人間勝手に変化するものでないし、変わろうとする意識なり意思は変化の必要条件であるけど、十分条件ではないことがおぼろげに見えてきたような気がする。

2006年09月21日

●Furtwänglerで夜更かす

この日も前日に良く寝たはずなのに、また本を読みながら寝てしまった。
読んでいたのがウィリアム・バロウズ『裸のランチ』なんで、気分悪くなりこそすれ眠たくなるような本でもないはずなのだが。
仕事で疲れたのか?それとも久々に仕事中プチぶち切れたからか?

そういうわけで早い時間に眠ってしまったけど、なんとなく夜中に目を覚まして活動再開。
一応寝起きなので眠くはないもののぼぉっとして本読めるような頭の具合ではないので、だらだらとネット。
気づけば某tubeを見ていた。

見れば見るほど某tubeすげぇ。
ドイツ第三帝国の旗の下でベートーヴェンのシンフォニーを指揮するFurtwänglerを見ているとなんか複雑な気分ではあるけど、こういうのは人類の遺産だなぁと思う。
オペラとかもやっぱり映像つきやと印象がぜんぜん違う。
こういうのが何ぼでも見られるとはいい時代に生まれたものだとしみじみ思う。
ということで色々見ている内にまたしても夜更かししてしまった…

2006年09月20日

●早寝、年を取ることについて

前日夜更かししたせいでしんどい様な眠たい様なで早々に睡眠。
なんか最近こういう日が多い。疲労のリミット値が下がったというか、要求動作環境が上がったと言うか、着実に年を取っている感覚がある。

年をとると自然に解消してゆく問題があれば、年をとるほどにどうにもならなくなってゆく問題がある。
その見極めはとても大事であるけど、往々にして若いころにそんな事が分る筈がない。
ほおって置いても解消したものを自分で努力して解決したように錯覚し、さて次の問題と取り組んだらもう手遅れになっていることに気づいて愕然とする。

しかしながら、まぁ終わったことはしょうがない。とそういう状態を受け入れてしまうのも年のせいではあるかも知れない。

それでも、年とか年齢てのが相対的なものでしかないのは、考えてみればちょっと不思議な気もする。

2006年09月19日

●音楽見まくり

ひさしぶりに働いた感じ。
とりあえず夏休み中の仕事目標は本日を持って達成。一日を余裕として余したことになる。
職場はノルマを課されたり期限を切られたりといった事が殆どなくて、有難いと言えばありがたいのかも知れんけど、こういうのを自分で設定してゆかんと収拾がつかないもしくは発狂するのだ。

amazon ASIN:4901784501 仕事帰りに古本屋によっていくつか本を買い叩く。
有名で売れに売れた本、早川 いくを『へんないきもの』を読んでへらへら笑う。ヘラヘラヘラ。

最新技術と流行と世間に疎い俺らしく、いまさらながら最近YouTubeとやらを使ったのだが、何ともこれは凄い。
えぇっ!こんな映像が!ってのが盛りだくさん。
映像つき音楽聴きまくり。
で、気づいたらこんな時間。
Glenn GouldのGoldberg Variationsがあった。
おーほんまに唸ってるー。うひょー Glenn Gould かっこえー。
眠れなくて悩んでた貴族の為に作曲された筈の曲を聴いて目が冴えてしまった。

2006年09月18日

●内向

連休最後の日。
この三日間はひたすら引きこもって音楽ばかり聞いていた。
俺にとって本を読むってのはかなり能動的に何かを探す行為やけど、音楽を聴くってのは何かに思考や感覚をゆだねる感がある。
自分でないものの感情や思考が体を駆け抜けていったわけで、気づけば三日過ぎていた。何かに体を明け渡していたような感覚のある三日間だった。
なんというかこれは「イタコ」に近い感覚なのではないだろうか?とふと思った。
今でも感情とか感覚が麻痺して思考だけがあるような不思議な感覚。なんだ?これが離人感つーやつか?

俺は自分というものを開放するとどんどん内向的になってゆく傾向にあるようで、そんな性質は去年から本格的に始めた素潜りでの魚突きによって急激に加速されたような気がする。
外で遊ぶのが何で内向的になるのかと思うけど、かなり単純化して言えば、去年初めて味わった、「マイナス浮力の世界に降りてデカイ魚を突き殺す」ってのは考えてみれば体内回帰と臨死体験と神秘体験と戦争体験を足して8で割ったくらいのインパクトが俺にはあったわけで、ジャック・マイヨールとかそこまで大げさな例を出さなくても、同じように素潜りで魚突きをしたりフリーダイビングしてる人は同じような感覚を持っているのじゃないだろうか?
それは頭では分ってるつもりの事やろうけど、実際経験として体験すると全然違う理解になるし、それは多分「スピリチュアル」とか言われる傾向に片足くらいは突っ込んでる感覚であるからして、内向するのだ。たぶん。

そういうわけで音楽にどっぷり潜ってたけど明日から仕事ということでそろそろ浮上する。
いずれにせよ海底ってのは人間が住むには大変な世界なわけで、当然われわれは地上でしか暮らせない。
悲しいことではあるけど。

2006年09月17日

●ロビン ノーウッド『愛しすぎる女たちからの手紙』

一週間ほど前に読んだ『愛しすぎる女たち』の続編に当たる『愛しすぎる女たちからの手紙 』を読了。
この本は「手紙」って言うくらいなもんで『愛しすぎる女たち』が出版されてから著者に送られた読者からの手紙のいくつかに答える形で、色々な立場の人の症例や快復過程を「依存症」の見地から解説している。

前作は「恋愛依存症」やら「愛しすぎ症候群」なるものが病気であるという認識と、そこから快復できるという事実を提示する事に主な主題を置いていたような感じやったけど、前作がかなりベストセラーになってある程度著者の言う「恋愛依存症」のメカニズムが一般に理解と認知が広まったこともあり、続編であるこの『愛しすぎる女たちからの手紙 』では前作で述べられた事を前提として、その「恋愛依存症」やら「愛しすぎ症候群」から治癒した人、あるいは治癒しつつある人や治癒しようとする人についてを主題としている。

やたらと分厚い本なので全部読むのに結構時間がかかった。

amazon ASIN:4643911212 前作では「こうである」といった「認識」にかかわる部分が主題だったのに対して、続編であるこの本では前作の認識を前提として「ではどうするのか」といった「対策」の部分を主題にしているわけで、前作で自分が病気であること、自分が異常であることはわかったけど、それはただそういう立場の見方から語ったことであり、そうでない状態、つまりは目指すべき具体的な「癒えた状態のイメージ」が掴みにくいという部分があったように思う。
続編は前作であまり言及されなかった「癒えた状態のイメージ」側から同じことを語っているわけで、癒えたいと望む人にとって「癒える」事を主題として読むことができる作りになっているように思われた。

一方でまたそれが難しく苦しい道のりであることと、ほとんどの人が依存症から脱することができない。というなかなかにショッキングな事実と、自分の心理構造がわかったからと言って癒える訳では決してなく、「認識する事」と「治癒すること」はまったく別の問題であることも著者は示しているわけで、依存症から脱することがほとんど奇跡に近いという著者の主張はよくわかったような気がする。

考えてみれば、癌や白血病なんかも昔はただの「不治の病」であり、ごく最近になって病気として扱われるようになったわけで、「境界性人格障害」「自己愛性人格障害」とか「共依存」「アダルトチルドレン」とかいう心理学的な「病気」にカテゴライズされる状態も最近になって出てきた概念で、昔は「個性」の範囲内に収まるもんやったと思われる。

著者のように、殆ど全ての原因を幼児期の体験に帰してしまうのも如何なものかと思わなくもないけど、こういった本で語られることが異常であり、その原因が幼児期の体験に根ざしていることが多く、そういった行為を受けることが後々どのような影響を及ぼし得るのかという今まではあまり一般的に認知されていなかった事が「癌と白血病は病気である」と同じくらいの自明な事実として社会に浸透する事は良い事だと思う。

そういう意味でこの本は、何らかの依存症に苦しむ読者にとって個人的な意義があっただけでなく、ベストセラーになったことで社会的にも一般的な知識として依存症やらのメカニズムを浸透させた意義が大いにあったようにに思う。

2006年09月16日

●九月の連休初日

昼からCDを鳴らしながら掃除に励む。
部屋中に散らばったものをしかるべき場所に詰め込み、はたきをかけて埃を払い落とし、掃除機で床の埃とゴミを吸い取り、雑巾までかける。
雑巾がけなんかどれくらいぶりだろうか?

箪笥の夏服を奥に仕舞って秋冬服を前に持ってきた。
敷布団を増やして掛け布団を厚いものに替えた。

思いのほか掃除にてこずってぜんぜん本が読めなかった。
急に涼しくなって風邪を引きそうだった。
雨が降っていたので自転車を洗えなかった。

amazon ASIN:B0000046ND Helen Merrill「Helen Merrill with Clifford Brown」を聞いた。
夜に聞いたけどやっぱりいかにも「夜」な感じのするアルバムである。
「昔聴いたスタンダードをもっかい聴き直してみよう期間」はまだまだ継続中でこれも「ド」がつくほどのスタンダード。
JAZZをあんまり聞いたことがない人がJAZZと言えばこういうなんを想像するのではないだろうか?

ヘレン・メリルの声とクリフォード・ブラウンのトランペットが何ともいえん雰囲気をかもし出して歌う。
大体みんながこのアルバム褒める時はこの二人とクインシー・ジョーンズのアレンジを褒めるけど、ジミー・ジョーンズのピアノとオスカー・ペティフォードのベースもなかなかいい感じ。
かの有名な「You'd Be So Nice to Come Home To」はピアノソロがあってこそやし、「Falling in Love With Love」のベースソロも素晴らしいぞ。
皆が一丸となって「音」を作ってる感じが何とも心地いい。

2006年09月15日

●早く寝た日

MovableTypeを最新版に上げたのでちゃんとブロックしたスパムコメントとスパムトラックバックがログに残るようになった。
で、確認した結果、一日でスパムコメントが10ほど、スパムトラックバックが30ほど来ているようだ。
ちゃんと動作しているようで、これが多いのかどうかはわからんけど、何だか嫌な世の中や。

仕事から帰り夕食をとる。その後本読み中にいつの間にか寝ていた。十時とか十一時とかそのくらいから朝までずっと。
この一週間は無理に自分をコントロールしようとしたところがある。たぶん、自分で思うより疲れていたのかもしれん。

2006年09月14日

●Cookin' 3,151→3.32 三段飛ばしで駆け上がる

前に進もうとするのは良いにしても、階段を三段とばしくらいで駆け上がろうとするのはよろしくない。
もし足を踏み外したり転んだりしたら、怪我をするだけならまだしも、今まで登ってきたのを下まで転げ落ちてまた最初から。って事になりかねん。
慌ててもろくな事はない。

ふと思い立ってこのブログの環境である「Movable Type」を 3.151-jaから3.32-jaにアップグレードした。
まぁ、作業自体は屁みたいなもんで、アーカイブ展開して上書きしてリビルド。アップグレード自体は一瞬で終わる。

しかしながら3.151時に特定のタグを(例えばMTIfCommentsActiveなどを)閉じてない状態にするとビルドが通り、そのタグをちゃんと閉じるとエラーでビルドが止まる不具合のようなものがあって気持ち悪くてしょうがなかったのだが、3.32-jaではちゃんとFIXされていた。
あとデフォルトのプラグインでコメントとトラックバックのスパムフィルタが入っているので、以前のscodeを外してこのプラグインで対処する事にしてみた。
スパムは無条件で拒否るのではなく、未承認状態になるよう設定できるので、スパムは表示されないけど、どれくらい来てるかは解ると。ちょっと楽しみ。
更に投稿する段階で気づいたが、複数のカテゴリを選択するのがとても便利になっている。
うむ。満足満足。

amazon ASIN:B000000Y7F Miles Davis「Cookin'」を聴いた。
マラソンセッションでの音源で、1曲目の「My Funny Valentine」に代表されるようなバラード主体のアルバム。
人はこれを「甘くない」と言うが、十分甘いと思う。
甘いのは良くないから「甘くない」というけど、大体誰が「甘い」のが悪いと決めたのだ?
甘くてもええじゃないか。
ええじゃないか、ええじゃないか。

2006年09月13日

●暗い題名の曲ばかり集めたアルバムは如何なものかと。

小雨の中出勤し、小雨の中帰ってくる。
さすがに半袖では寒かった。

「昔聴いたスタンダードをもっかい聴き直してみよう期間」ということで、二十歳くらいの時に非常に良く聴いたMal Waldronの「ALL ALONE」を聴く。

アメリカを捨ててヨーロッパに渡り、やっとの事で現地のマイナーレーベルでレコーディングするチャンスを得たものの、当日トリオを組むはずのドラマーとベーシストが現れずにやむなくピアノソロで吹き込んだ、全て彼自身の作曲によるアルバム。
日本ではアホみたいに売れたようだ。
当時はともかくとして、このアルバムは今でもスタンダードな扱いなのか?

amazon ASIN:B0000568JS で、このアルバムはダウナーもダウナ、とてつもなく暗い。
孤高の孤独ではなく、夢も希望もあったもんじゃない打ちひしがれた庶民の不幸と言った感じ。
訥々としたピアノがたどたどしく聞こえ、なんかやたらと生々しい。
そうこれは津軽三味線と同じ音だ。「情念」と呼ぶに相応しい。

「A VIEW OF ST. LUCA」や「BLUE SUMMER」で芽生え始めた「明るい」とか「希望」みたいなトーンが展開するまもなく崩れ、気づけば全く別の黒いトーンになっている様は目眩を覚えるようだ。
こんなアドリブする奴は相当性格暗いと思うぞ。
しかし、こういう深い所に引き摺り込まれてゆくようなトーンは彼しか出せんやねと思う。

若い二十歳そこらの頃、このアルバムを聴いて、何かを表現する場合に、テクニカルでない事が逆に武器になる事を知ったような気になっていたのを懐かしく思い出した。
彼はピアニストであるけど、作曲家でもあると言う事を当時は意識してなかったけど、今更ながらに意識した。

2006年09月12日

●黄金クインテットの「間」を聴け

前に進み出すという事は、現時点や過去の自分を否定する側面を持っている。
否応なく前に進み出す予感は、一方で失われ、あるいは失おうとしている自分というものに対する憐憫をかきてる。
そういった予感が身近なものとなった時に、個人的な意味合いで失われつつある自分のルーツみたいなもんを振り返って確認したくなる事があるけど、何か最近そういう感じになっている。
新しく生まれた、前に進もうとする内燃機関を持つ部分と、古い消えつつある機関の二つのものが分裂した状態としてある。
「新しいの」が前に進もうと躍起になっているのを「古いの」が「まぁまぁ落ち着け、慌てんでも直ぐに無くなるから」となだめながらゆっくり後ろを振り返っている。

そう。慌てる事はない。今度は間違いなく前を向いている。ゆっくり歩けばいい。

そういうわけで突然思い立って今日から「昔聴いたスタンダードをもっかい聴き直してみよう期間」と言う事になった。
1枚目は我が敬愛するMiles Davisの「Round About Midnight」このおかげでMilesが好きになったというレコードである。

amazon ASIN:B00005B58W 某氏が「タモリ?」とのたまったけど、なかなか有名なジャケットのCBS移籍の第一弾。
CBS移籍第一弾ってみんな言うけど、これはPrestigeとの契約ノルマ達成の為のかの有名なマラソンセッション以前にこっそりCBSに吹き込んだ音源であるからして、どっちかというとPrestige時代のものでCBS時代のものとは違うぞといつも思うのだが。
まぁ、細かい事はええとしても、録音はPrestige時代で発売はCSB時代と言ったって混乱するだけやしね。
今録音して数年後に売ってもちゃんと売れるというのは今ではちょっと想像しがたい。今そんな事出来る奴おるんやろうか?
というか、数年寝かせておいて小出しにしながら発売してもちゃんと売れたMilesが凄いんやね。

話が飛びすぎたのでこのアルバムの話に戻すと、
個人的にはこの時代の前後のMilesが、というかJohn Coltrane,Red Garland ,Paul Chambers, Philly Joe Jonesのいわゆる「黄金クインテット」時代が一番好き。もうメンバー全員が完璧。
このアルバムの「All Of You」「Bye Bye Blackbird」で繰り出される「計算し尽くされたハートウォーミング」にわかっていてもやられる。
尖りつつもしっとりしたミュートの高音域が、まったりしたピアノが奏でるブロックコードが、訥々としたテナーの誠実さが、毛羽立ったりささくれたりした気分とか心とかに染みこんでいく。

レコードで聴くMilesのミュートトランペットの音色は素晴らしい。
それがガーランド節、コルトレーン節と絡んでますます良いものになっている。
このアルバムは黄金クインテットの繰り出す「間」を聴くアルバムだ。

2006年09月11日

●勢い怖い

勢いというものは怖い。
たとえば昨日のエントリは勢いで書いて勢いで投稿したけど、こりゃちょっとなんだかイタすぎるぞ。
そこまで書く必要はなかったし、もっと言いようがあっただろうと思う。
個別性と一般性のバランスが滅茶苦茶や。

ブログのエントリなんかはまぁええとしても、その他の事で勢いでなんかしてしまって良かったと言う事なんか殆ど無いねんから、ホンマに気をつけようと思った。
今となっては、勢いつけんと可能にならん事は、不可能な事として扱うべきやで。
いい加減、勢いで何かする年じゃないんやから、全くもう。
と自分に言い聞かせながら自転車で帰ってきた。

2006年09月10日

●『愛しすぎる女たち』

ロビン ノーウッド著『愛しすぎる女たち』を読了。

内容は恋愛依存症について、中でもついつい「ダメ男」をわざわざ選んで別れられずにどんどん不幸になって行くタイプの女性、つまりは「愛しすぎる女」についての精神構造とか、それが病気であるとか、こういう風に男から逃げましょうとか、そういった話。
お前は病気だ、とかお前は間違ってる。とか言うだけの本でもなく、ただの告白本でも啓蒙本でもなかった。
量的には多いけどとてもわかりやすく訴えかけるものがあるので、かなり売れた本やというのがよく解る。
日本語訳の初版は1988年に、オリジナル版は1985年とかなり古い本やけど、古臭さを全く感じないのはある種の普遍性があるからやろう。

amazon ASIN:464393056x 当然小説でもないし、ノンフィクションとかいうジャンルでもない。普通やったら絶対読まん類の本なんやろうけど、百円だったと言うこともあり、まぁ衝撃的なタイトルではあるし、有名な本でもあるので購入。
なんか事例として「なんじゃこれ」と思うくらい読んでて痛々しい人ばかり登場して、これでもかと言うくらいに彼女達に共通の病的な心理状態とそれがれっきとした病気であることを暴き立て、何が戦うべき相手なのかを執拗にはっきり示している。
出来るかどうかは別にして、ある種の物事に対する見通しはよくなるかもしれない。

著者は心理療法家とかセラピストとかそうった類の職業に従事する人である。
そういった職業を選ぶ人は往々にして自分自身も彼らのクライアントと同じく内的な問題を抱えていたり治療を必要としていたりといった事が多いわけで、御多分に漏れず彼女も彼女自身の言う「愛しすぎる女」であったという。
そういう彼女の患者としての経験と、セラピスト側である社会的な彼女のキャリアが上手く生かされている。
ただ事例を並べてゆくだけでは、ただ同情するだけで帰納的に何かを引き出せる可能性は少なく、逆に心理的な側面を論理的に組み立ててゆくだけではただ味気ないだけで帰納的に自分がそれに当てはまると感じ、それを自分適用するのは難しい。
ケーススタディーな側面とロジカルな側面が絶妙な比率で組み合わされ、その二つが交互に相補的に出てくると言った、構成のテクニカルな面でも彼女の個人的な経験と社会的な経験が生かされているのを感じた。

どんな人でもこういった類の本を読んで多かれ少なかれ自分の一面を本の中に見つける事は当然あるやろうけど、そういった事とはまた別に、ハッとするものはあったし、大いに反省したり同意したりする事も多かった。

以前タバコを止め始めたくらいに「禁煙は失恋に似てる」とか「タバコの禁断症状は色ボケに近い」てな事を言うてたけど、それは図らずも自分が恋愛依存の傾向を持っている事を表していたわけである。
考えてみればタバコを吸い始めたくらいからちゃんとした彼女にしろそうでないにしろ付き合ってる人がいないという状態が一度もなかったわけで、恋愛依存とは言わないまでも、自分の回りからそういう存在がいなくなるという事がある種のストレスになるというのは容易に想像がつく。
当初は酷い状態に陥ったような感覚になったけど、実際そんな事は酷くも何ともないわけで、要はただの慣れの問題なのだ。
独り身と言えるような状態になってほぼ一年が過ぎようとするけど、一人は辛いという風潮でそう思いこまされていただけで、冷静に考えれば一人は一人で結構楽しいし、俺にとって全くマイナスにしかならん女性と付き合っててもしんどいだけやわな。
タバコを止めたくらいから自分を取り巻き、自分がしっかり絡め取られている色々な種類の「依存」について考えはじめ、真正面から恋愛依存の問題に取り組んだこの本を読んで、自分の取った方向性は間違ってない事に気づいた。
つーか、何よりもこういう事をこういう場所に書けるようになったという事がある種の成長かもしれん。まぁ開き直りとも取れるけど。

この本は確かに「イタい本」ではある。題材も内容も文章もかなりイタい。
それでも素直に偏見を捨てて他人の言葉に耳を傾けるのも時には必要だ。
「今の恋愛が辛い」あるいは「恋愛状態に無い状態が辛い」と感じている人には新たな認識の一つが得られるのではないか?と言う意味でお勧めする。

まぁ精神構造としては「ワーカーホリック」も「買い物依存」も「アルコール依存」も「セックス依存」も同じなわけで、そんな人は私の回りにいくらでもいる。「我こそは依存者である!!」と豪語できる猛者にもお勧めできよう。

長々と書いてしまった。失礼。

2006年09月09日

●秋の蚊、商店街

最近暑さがぶり返した来たせいか蚊の襲来が多い。
秋が迫って子孫を残すために必死になる様に哀れさと同情を抱くも、容赦なく叩き潰してメダカかスジシマドジョウの餌にすべく水槽に投入する。
食物連鎖ではないけど、少なくとも喰う喰われるの関係ではあるこの絵面になんとなく「もののあはれ」を感じる。
梶井基次郎の作品に『冬の蝿』ってタイトルの時点で暗く、内容もタイトルを裏切らない程にダウナーな短編があったけど、「秋の蚊」て言葉もそれなりのポテンシャルやら破壊力は秘めているだろうとなんとなく思った。

昼からいくつかの物を買い物しようと出かけたものの、結局商品を目の前にする度にそれをそんなに欲しくも必要でもない事に気づいた。
欲しい物はともかくとして、本当に必要な物なんかほとんど無いのは当たり前と言えば当たり前やけど、そんな事言ってたら買い物なんか出来ない。
でも、結局何も買わずに帰宅。
昔ながらの「商店街」なるものをゆっくり見て回ったけど、小さい頃にそういう場所でそれほど遊んだ事は無いにもかかわらず、ずっと言いようの無い懐かしさを感じていた。
いったい何が自分の何を刺激しているのかわからんけど、ある一定の年代、一定の文化圏、一定の傾向が一致した時に、外部から与えられた自分の物ではないはずの感情や感覚を、自分のものとして感じたりするのではないかと思った。
その一例として特に思い入れの無いはずの商店街に懐かしさを感じると。
それを何かに囚われていると感じるか、何かを共有していると感じるか。
まぁどちらもありえるわな。

買ったものの読んでない本がええ加減多くなってきたので、夕方からその中の一冊を読み始める。
結局朝の五時過ぎまで本を読み続け、耐えられなくなって睡眠に落ちる。
日曜日は早い目に寝て一気に昼型に戻そう。

2006年09月08日

●ブラックアウト

この一年ほどの俺にとっての金曜日は「好きなだけ夜更かしできる日」と言うことになっている。
そういうわけで仕事から帰ってきて朝の五時前まで起きていた。
東の空が明るくなり始めるころに気を失うように、ブラックアウトするように睡眠に落ちる。
水中でのブラックアウトは死に直結するけど、陸上ではある種の心地よさがある。

わざわざ書くほどの事もしていないし、自分自身で確固としてこれをしていたと言う事も無い。
どこぞのwebページ見ていたとか、あの本をチラ見していたとか、あの音楽聴いていたとかというのを断片的に組み合わせただけ。
夢遊病のような感じやけど、ダラダラしてたと表現するのが適当か。
ダラダラしてたら朝だった。と、そんな感じ。

まぁそういう風な時間の使い方をしても日常生活にとりあえずは支障が出ない事はありがたいことではある。

自分自身が嫌になったり「俺なにやっとんねん...」と思ったりすることは昔から常にあったけど、最近ふと「俺ってば良く頑張ってるなぁ。良く耐えてるなぁ。」と自分自身に感心することが時々ある。
他人からそうは見えなくても、「誰でも悩みの一つや二つ抱えてるわい」というレベル以上に、特定の点に関してだけは自分自身を評価しているわけであるけど、そんな事はこっそり思っておけば良い事で、一々こういうところに書くことではないやろうけど、まぁ書いとく。
うん、俺良くがんばっとるよ。と。

相変わらず先は見えないけど、苦しさは薄れてきた。
人はそれを「慣れ」と呼ぶのかもしれないけど、苦しいよりはよっぽど良いと思う。

2006年09月07日

●魚四日目

本日の夕飯も魚。ええ加減飽きるかと思えばそうでもない。
まぁ読んでる方はうんざりするだろうが。

最後の魚はヒラメとカワハギの煮付け。
繊細で上品でエレガントな肉質とムチムチでプリプリの派手な肉質、身近にもいそうな真逆のタイプが同じ鍋でぐつぐつと煮られる。
同じ鍋で煮られたからにはお互い足を引っ張り合うような状態になるかと思ったけど、両者を交互に食べれば、お互いがお互いの良さを教えてくれる感じで中々良い。

この日、マイナス浮力に引かれて沈んでいった気分は最下層まで落ちたようだ。
一番底まで降りてしまえば上に上がる事自体はそんなに難しくない。
海底を蹴れば幾分楽に水面に到達できるけど、当然海底は荒れるし、水面より上に上れるわけでもない。
気分は元に戻ったとしても、圧力の変化の余韻は残っている。
もういい加減にしてくれと思う。
とにかく、海底を蹴って明るい海面を目指す。


2006年09月06日

●魚三日目

毎日食べ物の事ばかり書いているが、この日もまだ獲った魚が残っている。
イシダイの煮付けは煮凍りになっておりもうたまらん。
砂地で捕まえたシロギスを前日干物にしておいたのだが、良い感じに干からびていたので味醂醤油を塗って七輪で焼いて食べる。
これも唸ってしまうほどの味。この甘みはどこから出てくるのか。

やっぱりリバウンドが顕著になってきたっぽく、ちょっとした事で深い穴にすぽっと落ちてしまう瞬間が多くなってきた。
大丈夫か俺。一体どうすりゃええねん俺。

2006年09月05日

●美味し幸せリバウンド

起きると全身がまんべんなく筋肉痛になっていた。
前日ひたすら潜っていたからやろうけど、いつの間にか治っていた。
頬のあたりをクラゲに刺された部分が傷になっており人相が悪くなっている。
誰もクラゲが原因だと思わないだろう。

前日から寝かせておいたイシダイ切り身を刺身にし、イシダイの煮付け、茹でたガザミ、茹蛸、烏賊の耳と蛸の吸盤の焼きそばを二時間ほどかけてきれいに食べ尽くす。
ガザミはメスだったので中に卵がいっぱい詰まっていた。イシダイの刺身は旨味を増し、煮付けは脂が染み出している。茹蛸はしょうゆだけで食べ、ただの焼きそばが焼きそば以上のものになっていた。
これは美味しすぎる。幸せだ。

しかし余り幸せ気分に浸っているとリバウンドして気分が落ち込むというのが急激に訪れ、またそのダメージがきついので、ほどほどにしておけと体の中で警笛がなっている。
最近はそういうセンサーというか警報が自分の中に芽吹いてきた。一種の精神的な防衛機構の分化なのかもしれない。

まだ大学生だったころ、すべての感覚器官を触手いっぱい伸ばしていた若い頃は絶対になりたくなかったような人種、たとえば、なるべく傷つかないように振る舞ったり、決して羽目を外さないと言ったタイプの人間に、今の自分が向かっているのを感じる。

大学生だった自分が間違っていたのか、それとも今の自分が間違っているのか。
あるいは間違いや正しいものなど最初から無いのかもしれない。

などとこういうことも書くのもリバウンドの一つなのかもしれないと考えた。

2006年09月04日

●なんとも地味な結果に終わる

20060904.jpg 今日は休みを取っていたので海に繰り出した。
ウエットスーツとチョッキ銛のデビュー戦やったけど、やっぱりウエットスーツはとっても楽。水に体温を奪われる事がほとんど無いし、岩場や藻場に腹這いになるのに何の躊躇もないし、クラゲの密集地帯に突入しても顔を刺されただけで済んだ。これは良いかも

殆ど魚影が見られず、微妙な濁りの中、二本潜った。
写真の下からから順にモンゴウイカ、カワハギ、タコ、イシダイ、一番上のアミに入ってるカニはガザミ。
写真に写ってないけどちっこいヒラメも突いた。

全て押し棒まで貫通したのでチョッキが効く場面はなく、チョッキ銛がチョッキ銛として活躍するのは次回まで持ち越し。
というか、もっと魚のおるとこ行かんとあかんで。

タコ:
岩場を歩いているのを発見。銛をナイフに持ち替えて潜行し、頭を掴んでナイフアタック一閃。
足一本を刺身にして残りを茹でる。茹でた足一本を酢蛸にした。美味しい。

イシダイ:
30ギリギリくらいと、殆ど禁止サイズやけど今日唯一見たイシダイ。出来るならこんなサイズは突きたくなかったのだが、これを突いていなければイシダイなしだった。水深6m程の地点で。
セオリー通り、根のトップにいたのを寄せて、反転した瞬間にワンダッシュアタック。
イシダイらしく刺した瞬間は硬直して鳴いていたのでチョッキ銛で無くても良かった。
サンバソウレベルではなく、クチグロや銀ワサレベルを突きたい。
片身を刺身に。脂が少なくコリコリした食感。やっぱりもう一日くらい置いて置いた方が旨味が出て美味しいかも。

モンゴウイカ:
5m程の海底でボーッとしているところを真上から狙撃。
砂地に釘付けになったので潜行して回収。あたりが墨だらけになった。
刺身にして食べたがとっても甘かった。取れたての烏賊は何でこんなに美味しいのだろう。

カワハギ:
カワハギは肝が絶品であり、「肝」を絶対傷つけない為に腹部への射撃は厳禁で、口元へのヒットが基本である。
カワハギ自体の難易度は低いがこのピンポイント射撃が難しい。
このカワハギも今日見た中で一番大きく、水中で見た瞬間「でかっ!」と思った。
ずっと岩を背にして移動するので銛を打ち込めず、しばらく追跡。カワハギのやや下方から岩が切れた瞬間に目の下を狙ってサクッ!
の予定やったけど、刺さったのは身体の真ん中少し上。肝に傷が付かなかったのは不幸中の幸い。
肝を半分生のまま山葵醤油で、残り半分は煮付けて食べた。美味しい、美味しすぎる…

ヒラメ:
超巨大シロギス(推定30センチ)を発見して撃ったら交わされて、下の砂地にいた20センチほどのヒラメに刺さったのだが、運が悪いとしか言いようがない。
20センチのヒラメなんか食べるとこほとんど無いけど、刺してしまったので美味しく頂きます。

ガザミ:
エギジット時に砂地で発見。
銛を撃ち込むと「カニミソ」が出るので手づかみした。
おもっきり挟まれて、軍手越しでもかなり痛かった。

2006年09月03日

●Bill Evansな日曜

Bill Evans 「His Last Concert in Germany」を聴いた。

この頃の彼は最悪の健康状態であり、ボロボロの体で医者にかかるのを拒みながらドラッグで気を張って演奏を続けていたようで、この録音のほぼ一ヵ月後、彼は演奏中に倒れてそのまま回復することなく死亡してしまった。
なんか遠まわしな自殺じゃね?という印象がするけど、こういう死に方は彼の望む所やったろうし、そういう死に方はピアニスト冥利に尽きるやろう。

彼の半身の如きベーシストのスコット・ラファロが事故でこの世を去り、離婚した彼の妻が地下鉄に飛び込み、アルバムを献呈した実兄が拳銃自殺したりといったことが起こる中で、彼の死に対する感覚は常人と異なっていったのかもしれないし、それは自分の体と命を粗末に扱い、ピアニストを貫き通した彼の生き様を作り出したのかもしれない。

amazon ASIN:B0000281SS マイルスやコルトレーンのように多くのミュージシャンが自己変革を重ねてそのスタイルを大きく変えていった中で、彼がそのスタイルを殆ど変えていないというのは有名な話である。
結局彼は「自分」だけを表現し「自分」だけを見つめ続けた音楽家であり、彼が絶大な人気を誇るのも、不完全で病的であるのを超越した彼の「自分」の魅力による物だろう。

彼が生涯変わることなく抱いていた感覚は「クールに感じなければ、知性的に捉えなければ、何よりもロマンチストとして見なければこんな世の中やっていけないや」と言うところだろう。
死の一ヶ月前の1980年に録音されたこのアルバムも、1960年代前半の録音も彼のスタイルはそれほど変わっていないし、彼のそんな無常観に近いトーンは確信的により研ぎ澄まされ、色濃く漂ってる死の予感とあいまって不思議な感動を覚える。
「命を燃やす演奏」と言う感じが伝わってくるし、こういう瞬間を自分で作り出すことが出来るなら一個の人間の命の価値など軽いものやという(恐らく彼が考えていたであろう)感覚が良くわかる。
最後の「Walts For Debby」が「Walts For Debby」に聞こえないけど、やっぱり「Walts For Debby」でBill Evansでしかありえんねんなと変に納得した。

2006年09月02日

●プレデター度アップ

morisaki20060903.jpg
ウェットスーツを買った。
4mm表裏クロロプレンジャージの激安ツーピース。
黒一色で色気もそっけもなく、安さと頑丈さだけが取り柄やけど、春秋に潜られれば良いなと言うことで。
ダイビングでもなくサーフィンでもなく、魚突きのために買ったというのが何とも。
ウェットを着て海に潜るなんざ季節感を無視してるという見方もあるけれど、旬の魚を狙うという意味では季節感アリアリやと思うぞ。

そしてチョッキ銛の銛先の生産に入る。回るグラインダー、飛び散る火花、蒸発するドリルオイルの臭い。
決して一般家庭からはしない音と振動を立てながら、ここで警察に踏み込まれたら「魚突く銛作ってるんです」と言っても信じてもらえないだろう。などと考えながら土偶鉄工所フル回転。
近所の皆さん御免なさい。m(__)m

で、完成したのが冒頭の写真。素人仕事にしてはなかなか良い出来だと思う。
長くした二股ヤスの押さえに不安を残し、「押さえテク」を磨かないまま、チョッキ銛に転向するのも本来の本意ではなかったのだが、銛を撃ち込めばほぼ確実に取り込めると言う魅力は捨てがたい。中層付近の魚も押さえの場所を考えることなく突けるだろう。
バラしが減って無駄殺しを減らせると言う意味でも、数少ないチャンスを有効に生かせるという意味でも手銛の行き着く先はやっぱりチョッキ銛になるのだろう。

試行錯誤を重ねた手銛製作も、名実ともに「ヤス」から「銛」になりこれでほぼ完成形に至ったと思う。
後は潜り技術を磨くのみなのだが、ここで新しいマスクとフィンが欲しくなって来るのが辛いところ。シーズンオフになるのでネットオークションなら安く買えるかもしれない。

ウェットスーツとチョッキ銛という装備が整い、装備の力で俺の攻撃力は上がっただろう。
しかし、魚つきとか素潜りを趣味としない人から見れば、俺の変態度合いがレベルアップしたようにしか見えないのは痛いところ。
それでも、家で無地で黒一色のウェットスーツを装備して腰にナイフとスカリとウェイトを装着したベルトを巻き、手銛を片手に鏡の前に立って見ると、「何やねんこいつ...これが俺なんか?これが俺か?」と軽い眩暈すら覚える。
まぁ、なんと俺は遠い所に来てしまったのか。とは思う。

いずれにせよ、夏が終わって装備がそろい、俺の魚突きシーズンが始まった。
あとは海へ行くだけだ。

夏であることに拘らず海を目指せると言うのはなんと幸せなことか。
これも拘りからの開放の一つの形であると思う。

2006年09月01日

●九月になったけど当然何もない

二週間休み無しで働いた訳やけど、ちゃんと定時+3時間以内には仕事終わってるし、デスマーチでもハマってるわけでもなく、着実に前に進んでいるので、仕事後に遊んで帰りが12時過ぎたり1時過ぎたりってのが数回あったにもかかわらず全くしんどい事はなかった。
なんというか、働き続けていれば特に余計な事は考えず精神的に安定するし、ある程度の肉体的な疲労は精神的な充足になるような気までしてきた。

とは言ってもそれなりに疲れていたようやけど、これはたぶん慣れの問題とか、リズムの問題の部類に入るように思うので、しばらくこういう生活を続ければ慣れてしまうような気がする。

これぐらいの働き度合いなら、一週間が14日でも全然問題ないと思う。

先日と言っても一週間前やけど、仕事帰りに職場の門を通る際、門衛所のおっちゃん達にいつも通り会釈したら、そのうちの一人が「待った」という感じの身振りをして慌てて出てきた。
何でも定年で最後の出勤日と言う事で、俺に挨拶をしにきてくれたと言う事らしい。
今までは挨拶を交わしたり一言二言喋るくらいやったけど、最後の最後で結構色々喋った。

何でも「これで最後」というか一期一会やと思うと、人とのつきあいにしても何にしてもなるべく最善を尽くしてちゃんとするけど、普段生きてても大抵の事はいつの間にか最後の事を最後と意識せずに見逃してしまう事が多い。
最後だった時をちゃんとわかるならまだしも、どの時点で最後だったのかすらわからないままに色々な事を失ってしまう事が多く、そういう事を振り返ってみて後悔してみたり自責の念に駆られたりと言う事ばかりである。

で、その門衛のおっちゃんとは「最後」ってのを意識して話してたけど、中々こういう事はあるもんじゃなし、誰とでもこれで最後になっても良いという意識を持って接したいなぁと思った。