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2006年08月31日

●カンパのリアディレイラーを買う

前の日に某オークションで買ったカンパのリアディレイラーを取り付ける。
シフターがエルゴの10S、スプロケットがシマノの9Sなので、カンパ10SのRDが動くか激しくギャンブルな買い物だったけど、とりあえずはちゃんとシンクロする。
シマノのセッティングとは違って、トップ側3段くらいでワイヤーのテンションを調整するのではなく、ロー側3段くらいで調整した方が上手く設定できるようだ。

以前はRDにDura74と絶対に動かないはずの組み合わせで無理矢理使っていたので、カンパの10Sに換えて驚くほどシフトが軽くなった。
おー買って良かった。おーすげー

で、新しい構成は、シフターがカンパのCentaurエルゴ10S、リアディレイラーはカンパのVeloce10S、スプロケとハブとチェーンがシマノの77系dura9S、フロントディレイラーとクランクとブレーキがシマノの74系duraという組み合わせでシマニョーロ度は少し下がった。
今まで74系duraのきっちりエッジの立った工業製品的な造りが好きやったけど、Centaurのエルゴレバーと言い、買ったveloceのリアディレイラーと言い、カンパ製品はアルミの曲線が何とも色っぽい。
銃で言ったら74系duraがSIGのp226、カンパはp210てな感じ。
確かに変に惚れ込んでしまう人が多いのがわかるような気がする。コンポーネントを全部カンパにしたくなってきた…

しかし、たかが自転車の変速機だかレバーを俺は色っぽいとかエロイとか言うわけで、俺の変態度合いは留まる事を知らないなと思った。

2006年08月30日

●隣町のガンダーラ

今日の朝は職場でセミの声を全く聞かなかった。
もう秋だ。そろそろウエットスーツを買おう。

今日もフルスロットルで働く。ちらっと顔を見せる残党の息の根を丁寧に止めてゆくも、殺し損ねてゾンビ化したのが数体。
タイムアップで明日に課題を残した。

定時を一時間余りすぎたあたりで、久しぶりに「電池切れ」な感覚を味わい早々に帰宅。

それでも自転車に乗ると不思議に元気が出て坂を鬼漕ぎで登った。
決して仕事が嫌なわけではなく、逆に楽しいくらいやのに不思議なものだ。

某氏と小一時間有意義に話した。
俺にとっては結構重くてややこしい話を話題にしたのやけど、某氏にとってそれが重かったりややこしかったのかはわからない。
ただ、現在の俺の気にしているところについてストレートに述べてみたが、ちゃんと正確に意味と意図を掴んでいただき、更に真面目に答えて頂いてとても感謝している。

俺が自分自身で「問題」と認識している状態に某氏も同様に置かれている訳やけど、某氏の場合は俺とは違ってそれを「問題」というより「有利な点」と捉えているわけで、たしかに俺はその認識にたどり着きたいと思っている。
しかしながら、某氏がその境地に達するまでは数年の苦行を要したそうで、俺には中々遠い道のりであるし、さらに俺は某氏とは違い、男であると言うところにも道のりを踏み外す要素があるだろう。
いずれにせよ俺と某氏では、その「状態」に身を置いていたキャリアが全く違うわけで、そうなってから一年経ってすらいない俺なんかは「この間そうなったとこレベル」なんだそうである。
つーか、他の人には何言ってるのかサッパリわからんやろうけど、俺にはわかるので良いのだ。

その某氏はパウロ・コエーリョが好きなのだが、パウロ・コエーリョと同じようにスピリチュアルなトコばかり見てる男を彼氏にするのは、「現実を見てー」な感じで嫌なのだそうだ。
確かに、俺はチャールズ・ブコウスキーが好きやけど、ブクにぞっこんのパンクでアル中で競馬狂いで口より手が先に出る女性を彼女にするのはちょっとしんどいかも。

好きとか嫌いとか、気に入るとか気に入らんと言うのはとことん難しい。
出来るならその彼岸にたどり着きたいと思う。

2006年08月29日

●みんなの幸せのために皆殺し

今日も朝からグリグリ働く。
今日一日で、いよいよ五年来の悲願のマイルストーンは目前と言うところまでこぎ着けた。
俺はどちらかというと凶戦士的に武器を振るっていっていただけで、某こぱん氏の前衛になり後衛になりといった丁寧なサポートがなければ、ここまで完璧な形での破壊と侵略と皆殺しは果たせなかっただろう。
某こぱん氏にはただただ感謝するのみである。

残すは残党狩りのみと言うところか。

一日中前線にいて感覚が鋭敏になっていたようで、いつもは見えない物が見え、感じないものを感じられたのだろう。
主担当でも何でもない案件や障害を通りすがりに複数撃破し、攻略ポイントを複数発見する。
某社某チームが集団で掛かっても歯が立たなかった物を単騎の一撃で吹き飛ばし、確実に仕留められる弱点と死角を発見するのは何とも気分が良いし、喜ばれまた褒められると、なけなしの自尊心がくすぐられる。
傭兵の感と戦闘力が研ぎ澄まされていた一日だった。

で、仕事後某氏とスタバでコーヒーを飲みながら、自転車のカーボン製パーツのあり方から、死についてまで色々と語った。

2006年08月28日

●月月火水木金金

土日と出勤すると完全に曜日感覚が狂ってしまうようで、今日が月曜日だという事実に愕然とする。
それでも仕事は大なり小なり中なりと山積みの鈴なりなのでオラオラと働く。
で、気がつけば夜…

日曜日の分の文章を読み返してみたけど、一体何が良いたのかよく解らんし、何を言ってるのかもわからん。他人には言いたい事と表したい事は全然わからんやんやろう。
よっぽど書き直そうかと思ったけど、でもまぁ、俺が何かしらについて考えた場合の混乱ぶりが良く表されてるとは思った。
「日記的」には悪くないと言う事にしておこう。

とりあえず、今やってる事が終わるまでは前進あるのみ。

2006年08月27日

●傭兵は任務遂行力が命

この日も仕事で久々の土日フル出勤と言う事になった。
どうせ日曜日だと言ったってロクな事はしていないし、傭兵稼業であるので大歓迎である。

これでもかと冷やされているサーバー室にいる時間が長かったので風邪を引きそうだったが何とか大丈夫だったようだ。
どちらかというと働き過ぎと言うよりは、なにもしなさ過ぎて疲れた。

俺は傭兵は傭兵でも最前線で直接作戦行動に従事するのに向いているとつくづく思う。
ついでに言うと狙撃部隊より強襲部隊とか突撃部隊の方が向いているとも思う。

なんというか、立場というか責任の所在というのは中々難しいものだ。
大人の世界はみんなでワイワイやればええやん。と言うわけにはいかんもんね。

俺はコンピューター関係の仕事に従事しているけど、それに関しては仕事と言うよりは興味があるものの延長線上にあるわけで、特殊と言えば特殊なパターンだと思う。
他の同業種の人はなるべく他の事はやりたがらない事が多いけど、俺は純粋な興味の方向から何でも首を突っ込みたがりやりたがりるタイプなので、彼らと温度差を感じる事が非常に多い。

恐らく、彼らからすれば俺は面白みのない人間やろうしどちらかというと変態に属するだろう。
しかしながら俺は正規の訓練を受けた事もないし、どこかの正規兵でもなく、ただ自己流で実戦で腕を磨いただけの野良傭兵である。
「最後には何とかする」突破力のような物はどこかの正規兵より後ろ盾のない傭兵の方が強いように思う。

どこかで何かが起これば飛んでいって首を突っ込んできたけど、そのおかげで自分が鍛えられもしたし、また楽しかった。
常にそういう種類の戦いに身を置いていないと、またそれを楽しいと感じなければ、傭兵であるというのは非常にしんどいやろうと思う。


弁当を持って来ていたのは俺だけだったので一人で昼食を食べた。
食後に音楽を聴きながら本を読んでいたのだが、イヤホンでグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くと彼の唸り声がとても鮮明に良く聞こえた。
グレン・グールドの奇声を聴き、彼の奇行を思う。
んー俺以上に後ろ盾のない傭兵稼業で、俺以上に変な奴はなんぼでもおるやん。つーか俺と比べる事自体がおこがましい程のぶっ飛びぶりやん。
などと、とてもまったりした気持ちになった。

2006年08月26日

●後の祭り

今日は仕事だったのだが、出勤時間がいつもより一時間ほど遅く、自転車で家を出る頃には日差しが恐ろしい事になっていた。
太陽が傷口にしみたことって今まで無かったような気がする。

その傷口だが、出勤前にサドルの高さを少し上げようと家を出た瞬間にすっころんで左腕をすりむいて出来たもの。
傷口からじんわり溢れて流れる血を見てたり、鼓動にあわせて痛む傷を感じるとあー生きてるなーと実感して妙に落ち着く。
リストカット少女の抱く気持ちはこんなんだろうか。などと思いあたるも今更リスカ少女の気持ちがわかってもなぁ。

最近色々な事に思いあたるけど、ことごとくわかるのが遅すぎる。
というか、色々な事が終わって大分経ってからわかる事が多い。

もう少し早く気づいていたり早い段階で理解できていれば、色々な人が傷つかずに済んだり、色々な事が上手く行っていたような気もするけど、まぁ後からでも「思いあたる」のは、いつまで経ってもわからないよりはよっぽどマシだと思えなくもない。

2006年08月25日

●はじめにロゴスが?

「言葉で表された何か」ってのが表している(と思われる)意味をそのままで信用してしまうのは結構リスクが大きいのではないか?と思うようになってきた。
一つの事に多面性があるとか、言葉は記号であるとかそういう事じゃなくって、言葉はただ言葉であって本質ではないと言うくらいの意味で。

言葉自体は非常に不安定であるから、ちゃんと正確に意味を伝えるのは非常に骨が折れる。
今まで性格的にも傾向的にもやたらと言葉に頼りすぎたところがあったけど、結局のところ言葉は言葉でしかない。
そう考えるとちょっと微妙やけど、まぁそう捉えているだけで大分マシなような気がしないでもない。

一方で自分の感覚とか論理を信用していない場合、見たり聞いたりした事が嘘臭く思えれば、認識した対象でなく認識した自分の方を疑わしいものとして捉えがちだ。
なんというか、もう少し感覚を信用してやらなあかんなぁと最近思う。

2006年08月24日

●逃避的代償的プラシーボ旗印

最近昼ご飯をオニギリだけにしているのでお腹の具合が非常によろしく、変に平坦な気分が持続している。
肉を食べないと攻撃的な気分になる事のが少なくなると言う迷信は本当かもしれないと思い、プラシーボな自己暗示を二重にかける。

仕事帰りに閉店ギリギリに行きつけの自転車に飛び込み、タイヤを買い込む。

夕食後、明らかにサイズが合っていなかったマウンテンのタイヤチューブを2本交換し、パンクしないのが不思議なほどひび割れていたロードのチューブラを1本貼り替え、メーターのリモートスイッチの不具合を直した後、ご近所に西瓜と真桑瓜を配達する。

新しいマスク、スノーケル、フィン、リアディレイラー、ブレーキアーチ、最近やたらと物欲がムラムラ沸き上がってる。
新しいPHS、時計、デジカメって言い出したらキリがない。

明らかに逃避的で代償的な物欲やけど、そういう類の欲求は世の中の成り立ちとかあり方から見れば、あまりに空虚で意味がないと思いつつも、こんな世界やねんからせめてそれくらいの楽しみがなければ。とも思う。
言い換えれば、本質的な事ではないと思いつつ手を出すのなら問題ないという事になるんやろうけど、本質的でないとわかっている事にわざわざ手を出すのはそもそも如何なものか?と思わなくもない。

人間が弱いもんやというのは当然の事であるにしても、人に対してはともかくとして、自分の弱さとか醜さを最初から計算に入れて指針とか旗印にするのはいかがなものかと思う。

2006年08月23日

●夏の終わり

最近セミの死骸がやたらと目につくし、夕方頃になると何となく秋の予感を感じるようになった。
梅雨明けが遅かった代わりに夏の終わりも遅いと言う事はなさそうで、着々と季節が流れているのを感じる。
去年は夏が終わりそうなのを感じると異様にブルーになったけど、今年は特にそんな事はないようだ。

というよりは、夏が終わる前からブルーになっているのでこれ以上ブルーになりようがないと言えばそうかもしれないし、夏が終わったとか秋が来そうとかそんな事で一々ブルーになってる場合でもない、と言う事もあるかもしれない。

川にたとえると、水位が下がった代わりに堤防までの高さが相対的に高くなり、洪水までのリミット値が上がって見えているようなものかもしれない。
洪水の危険はないものの、水がなければそれはそれでまた別の問題があるわけだ。

2006年08月22日

●伸び縮みものさし

我々は鬱になったり躁になってはしゃいだり、悲しんだり喜んだりを繰り返しながら毎日を死なずに生き抜いており、概してそういう状態を「日常」などと呼んでいるわけである。
しかしながらそういう「日常」が危うい基盤と奇跡的なバランスの上に成り立っている事も、当たり前と言えば、当たり前であるし、ほんのちょっとした事でその基盤は崩れてバランスは狂い、「日常」が完全に崩壊することなど良くある話だ。
またそういう脆くて危うい「日常」のあり方というのは崩れて初めて気付く事が多いようだ。

で、そういう物の見方からすれば、当たり前の事を有り難い事として感謝する方向にも考えられれば、当たり前の事を特殊な事だとして拒否する方向にも考えられる。

人間がどういう人であるかを考える場合、その人の「ものさし」はそれほど関係ないのかもしれない。
というよりも、その「ものさし」自体が危ういもんやねんからと思った。

2006年08月21日

●グイン・サーガ 109巻

いつの間にか発売されていたらしく、仕事帰りに買って夕食後に読んだ。

後書きで作者自身が言っているように、作者自身が楽しんでいるのが伝わってきたし、読んでいる方も楽しかった。
この本を読むのは高校前からの習慣になっているので、読むとやっぱり時間が流れているのを感じる。
この世とまったく違う時間が流れ、全く違う人たちが生きているのを感じられる世界があるというのは良いものだ。
現実にあるはずのどこか他所の国よりも、完全な虚構であるこの本の中の世界の方がリアリティーと勝手を知っているように感じるのは読む度に不思議な感覚がする。

こういう感覚を周期的に味わっていると、そうでない人と比べて、きっと世の中とか現実に対する感覚が変わってくるだろうと思う。
どう変わるのかはわからんけど。

amazon ASIN:4150308578 本の話とは全く関係ないけど、我々の回りでは30才という年齢は高いものとして扱われる場合が多い。
当然それはこういった20そこらの人間が多い環境であるが故の相対的な見方なんやろうけど、年配の人から見れば俺なんかまだまだひよっこな訳である。
で、「まだまだ若いやん」と言われると結構違和感を持つものの、25才の人間が「もう年やし」とか言ってるのを目の当たりにすると、俺も年配の人のように「まだまだ若いやん」としか思わないので、そういう意味では一生そういう違和感は消えないのだろう。
当然、世には自分より若い人と、年を取った人はいくらでもいる。

結局だれしもが「〜〜するには若くない」という評価を一生涯の間、自分に課しているわけやろうけど、それでも俺は34才に相応しい言動をしているかと言えばそうでなく、言動が若いと言えば響きは良いけど、幼いと言えばとたんに否定的な雰囲気になってくる。
それでも34才という年は手当たり次第に色々な物を試してみる年ではないし、その年に俺は全然相応しくないやん。と自分自身でも思った。

とまぁ、本とは全く関係ない話やけど。

2006年08月20日

●チヌ尽くし、土偶鉄工所

昨日の夜ラーメンを食べてもお腹具合が大丈夫だったので、昨日突いたチヌを食すべく朝から料理に励む。
刺身、霜皮造り、湯引き皮と肝臓のネギ醤油和え、カマと兜の塩焼き、潮汁、黒鯛茶漬け、アラ炊き、アラ味噌汁と思いつく限りのものを作る。
作っていないのはカルパッチョと鯛飯くらいか。

活け締めと血抜き処理済みなので臭みは全くなく、一日置いたせいで刺身の歯ごたえはイマイチなものの、旨味が出てきている。夏という事で脂も薄くあっさり上品な味。
時期的にも旬であり美味しい。これは美味しすぎる。
勢い余って三食ともチヌ。それでも美味しい。

夜からチョッキ銛のチョッキ部分と先端部分のシャフトを作成。
弾頭にあたるチョッキ部分はステンレスの無垢材とパイプを組み合わせてグラインダーで削り出し、ドリルでワイヤーを通す穴を開け、今までの最高の物が完成した。
もはや土偶鉄工所を名乗れる域に達しているような気がする。

2006年08月19日

●初チヌ突き

本日も大所帯で海に。

お腹の調子が悪いせいで、みんながQをしている中、焼き肉の煙を浴びながら一人でご飯と梅干しと焼き海苔を食べ、余ったご飯をお茶漬けにして、うどんを茹でて食す。
なんとも海らしくない食事…

chinu20060819.jpg 台風の影響で波が高く、浜付近は透明度2m程の濁り。
それでも、低い透明度と、一般的な海水浴場で狩り場がほとんど無いという二重の悪環境の中でも、千載一遇のワンチャンスを逃さずにものにしてなかなかの獲物を狩れた。

クロダイ45cm。実はチヌを突いたのは初めてだったりする。

透明度2m程の悪コンディションの中、水面下直ぐは波で大荒れなので、水深3.5メートルほどの浅場の水底を根に沿って空潜りを繰り返し、進みながら沖を目指す。

今日はダメやなー。場所が場所やし、濁りも酷いし。
などと思っているところに、前方に動く黒い影がゆっくりと根の方に視界から消える。
ゴムをゆっくり引いて水底を慎重に進み影を追うと、根の底の水底で波に漂いながら、動きながら何かを食べているらしきクロダイ風の輪郭確認。
この濁りのせいでこちらからは輪郭しか見えず、向こうはこちらには気づいていないよう。
濁っているので正確な魚種は確認できないけどクロダイっぽい。
お互い波に揺られ、向こうは動いているので、波が来るたびにチラチラ見える距離。
気づかれたら終わり。二度目のチャンスはないと言う事で、魚が見えた瞬間、ギリギリ射程距離内やったけど、心眼で鰓蓋あたりらしきところにフルパワーの一撃。
気持ちのいい音を立ててヤスが突き刺さったのは胴体のど真ん中。恐ろしい勢いでクロダイが暴れる。
狙いは兎も角とりあえずヤスは刺さったので、とにかく慌てて水底に押さえつけ、エラと口をがっちりつかんで浮上。
腰から抜いたナイフを鰓蓋から入れて、大動脈と脊椎を切断して勝負あり。

索敵と接近は前回の反省点が生きた感じやけど、まぁチヌに出会ったのもヤスが刺さったのも実際殆ど運やね。

2006年08月18日

●プチ断食芸人

久しぶりの仕事。
長い休み明けにはいつも思う事やけど、休み中我々が遊び呆けていた間も、サーバー達パソコン達は文句も言わず働いていたわけで、なんとなく申し訳なく思う。
まぁそう思ったところで労をねぎらう事も、仕事を手伝ってやる事も出来ないわけで、そもそも、コンピューターに同情する必要など最初から無いのだ。

昨日腹痛に襲われて病院にまで行った訳やけど、見ず知らずの赤の他人に対して、客であると言う事を度外視するにしても、なぜここまで同情することが出来るのか、と非常に驚くと同時に、色んな人にひたすら感謝した。

診察後に点滴しながらベッドに寝ていた訳やけど、なんかとても懐かしい感覚に包まれていた。
俺は3才の時に心臓の手術をしており、そのためにずっと入院していたわけで、そのころの記憶は無いにしても、潜在的な何かが刻まれているのかもしれない。なんかこの感覚を久しぶりに思い出した。

で、病院から帰ってきてもまだ、ほぼ一日腹痛に呻きながら寝ていた訳やけど、致命的でなく一時的な病気というのはなんだか人間を謙遜にするものだ。
周期的に痛みが襲ってくる度にひたすら何かに謝ってたような気がする。
まぁ状況的には全然違うけど、何となくフランツ・カフカの『流刑地にて』を思い出した。
なんか腹に罪状が刻まれるつーかそんな感じ。

つーわけでこの二日はお粥か白米と極々あっさりした消化の良さげなものしか食べていない。
以前腸炎になった時は治ったら一番に「焼きそばパン」が食べたい。と思ったものだが、今回は「貪るなかれ」としか思わないので、まぁちょっとくらいは昔から進歩したなという事にしておこう。

2006年08月17日

●村上春樹『羊をめぐる冒険』

これも下巻だけ某氏に貸していたもので、数年ぶりに読んだ。
村上春樹が専業作家になって初めての小説で、「鼠三部作」の完結編であり、ストーリー的に「ダンス・ダンス・ダンス」へと続く作品でもある。

「僕」が「鼠」と羊の関わる陰謀に巻き込まれることで始まる「羊をめぐる冒険」のストーリーテリングと、彼独特の言い回しや世界観で読者を飽きさせずに最後まで引っ張ってゆく。
彼の小説の中でかなりの人気の上位に入る本でもあり、この本のおかげで村上春樹の実力が世に認められた事になるだろうと思う。

単行本の初版は1982年の10月。
腹痛が癒えた後一気に読んだ。

amazon ASIN:4061836072 amazon ASIN:4061836064 久しぶりに読んだけど、この本てこんなにひたすら悲しい本やったか?
「僕」と「鼠」のひたすら失い続ける様は読んでて痛ましいとしか言いようがない。
最初、村上春樹独特の言い回しがやや違和感があったけど、慣れてしまえば逆にこの文体と言い回しが、失い続ける状況に対して、世の中に大事なものなんか無い、と言い聞かせる事で対処しているような悲壮感を表してるように感じた。
そういう風な読み方をしたの初めてやけど、なんかやたらと変なところにヒットするフレーズが満載やった。
読んだ時の精神状態が読む本に投影されるにしても、ここまではないやろう。
本当にこんな本やったか?
としたら、俺は今まで一体何を読んでいたんや?と不安になる。
俺がこう感じるようになったのはもしかして単純に年のせいか?

「弱さ」を体現する存在である「鼠」とその親友の「僕」。
この二人が主人公の鼠三部作のテーマは「弱さ」とか「喪失」とか言う事になるだろう。
「弱さ」の象徴たる鼠は自分や世界の弱さを愛するが故に、絶対的な強い存在である羊を否定して、誰もが成せなかった事を成し遂げたと言う事になり、そして鼠はこの三部作の舞台を降りる事になる。
その事の意味を問わないにしても、アショーシャ的人生観とも言うべき「不幸な人間であっても全体として人生を祝福する」から言えば立派なものだ。

ひたすら失い続けてもなお、最後に鼠は「救われた」と「僕」に言ったし、「僕」にはその事実が残されたわけで、それだけで十分と言えば十分なのかもしれない。
誰かから「救われたよ」と言われたり、誰かに対して「救われたよ」と言ったりする事が人生に一度でもあれば、それだけで生きた意味の半分くらいはあるような気がする。

「鼠」と「僕」がひたすら失い続けるとか書いたけど、よく考えてみればそんなに俺と状況が違うわけでもないし、見ようによれば俺の人生も失い続けているように見えんことも無いわけだ。
それでも、俺の人生はどう見てもドラマチックで無いのは非常に残念でもある。
この本で言うところの「現実的に凡庸」なタイプだろう。
「ボラをめぐる冒険」にでも巻き込まれればドラマチックになれそうだ。

2006年08月16日

●チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』

某氏に貸し出していたまま4、5年が経過していたはずだが、果たして彼女は読んでくれたのだろうか?
まぁ、当時は本を貸すという行為に意味があったので、読んでくれたのかそうでないかは今となっては大した問題ではない。
いずれにせよ数年ぶりにこの本が家に帰ってきたので、なんとなく読み始めるうちに引き込まれてしまった。

本の内容は、作者が最近買ったコンピューターに向かって、死までの数年を日記体裁で綴って行くというもの。
実にさまざまな物に対する彼の見方と立場が垣間見れる本である。
たとえば、「死」「書く事」「競馬」などについてだ。

amazon ASIN:4309203094 この本は日記でもなく、エッセイでもない。
コンピューターで文章を書くことの意味とかそういうのは別にして、ここに書かれている文章の集積は当時なかったジャンルである「ブログ」に近いように思う。

この土偶StaticRouteなるブログを始めるにあたって、参考にしたり、影響を受けたりしたものはいくつかあるけど、久しぶりにこの本を読んで、明らかにこのブログは、この本に書かれた文章やテーマに色々な意味で大きな影響を受けているのを感じた。

日記でもないし、エッセイでもないし、小説でもない。読まれることを意識して日々思ったことを書き殴ってゆく事で、どこかにたどり着けないにしても、書いた本人には何かは得るものがある。
他人から見て、作者に人間的な魅力なり意義があるなら、他人から見た文章もそれらしいものになる。
この本もチャールズ・ブコウスキーの魅力と彼のものの見方が文章に乗り移っており、彼の小説とはまた違った文体がとても魅力的だ。

テーマの触り方とか、日記風な話の持って行き方とか、こういう風な感じで書きたいと思っていたけど、俺の書く文章が魅力的で意義のある物になれば、俺自身の存在もそういったものに近づくだろうと漠然と考えていたけど、結局そんな事のは虫のいい話だったのだと。
なんというか根本的な問題はゴロゴロと俺の下に横たわっているのだ。

職業的作家自身が文章を書く事についての「救い」的な側面に直接的に言及する事はそれほど多くないような気がする。
村上春樹はそのことについて不可能ではないが落とし穴も多い。的な言い方をしているし、アゴタ・クリストフは書くことで病は酷くなる。と言い切っている。
しかしチャールズ・ブコウスキーはこの本の中で文章を書くことで救われる。という事を前提にして話を進めているし、そのことを疑ってもいない。
彼の魅力は他人を信用せず耳を貸さず、自分の感覚と自分の論理だけで物を考え、それでいて魅力あふれると言うところによるのだろう。
彼のように考えられるようになれたらどれだけ人生楽になるだろう。と思うのは毎度のことやけど、それでもそう思うのは彼に対して失礼と言う物だ。
彼は「よく俺の文章を読んで救われましたなどと言うやつがいるが、俺は他人のために文章を書いているつもりは全く無いし、完全に自分のために文章を書いている。他人がどう思おうが、俺には関わりの無い話だ。」
と言うような意味の事をよく言う。
しかし、それでも、救いを求めてもがき苦しむ人を見ることは、ある種の孤独の感覚を緩和してくれるものだ。
なんというかこれを読んで、人生そんなに思い煩うことは無いのではないかと、なんとなく思った。

2006年08月15日

●ボラを辻撃ち

平均年齢が30を過ぎた男四人で昼くらいから海に繰り出す。

長さが大幅にアップし、シャフトにカーボン取り入れ、パイプ内に発泡スチロールを内蔵し、銛先が高級品になったヤスの事実上のデビュー戦。
遠目に見える海底で餌を漁る巨大ボラに向かって試射してみる。
かなりの初速と射程と貫通力を発揮し、一瞬後には綺麗な直線を描いて胴体のど真ん中に深々と突き刺さっていた。
体をくねらせてもがくボラを見ながら「おー届いた」と驚く。
60オーバーのボラがもがく感触がヤス先からガンガン伝わってくる。
慌てて押さえに入ろうとするも一呼吸遅れ、ボラはヤスを振り払って手傷を負ったまま沖に逃げ去った。
ボラには悪いが、全長が上がり、浮力と材質で水中での重さが軽くなり、ヤス先が鋭くなったことでかなり強力になったのを感じた。
ただ、長くなった分押さえが難しくなったかもしれない。

ということで次は押さえを意識して、二匹目のボラに辻斬りならぬ辻撃ち。
視界に入った通りすがりのボラの群れ。10匹足らずの群れの中で一番大きい運の悪いボラにゴム引きMAXフルパワーのヤスを撃ち込む。
気持ちの良い鈍い音ともに鰓蓋下付近にヤス先の根元まで突き刺さる。
ヤスが刺さった瞬間強烈に暴れ出すも、刺さった瞬間にフィンキックして、腕を上にヤス先を下に振り、もがくボラを強引に水底に押し付ける。
ヤスが長い分押さえにくいけど、押さえられないことは無いようで、暴れるボラを水底に持って行き、固定出来るほどの頑丈さは余裕であるようだ。

後はいつもと同じ動作。水底に釘付けになってるボラに更にヤスを深く押し込んで、鰓蓋に指を入れてがっちりつかんで浮上。
腰から抜いたナイフを鰓蓋から入れて脊椎と大動脈を切断して活け締めし、鰓を毟り取る。
ドクドクあふれ出てあたりに広がる血煙と、暴走した生体電流が筋肉を痙攣させるピクピク、青い海と水面でギラギラ輝く太陽の相乗効果がえもいわれぬ至福感をもたらす。
夏だ。海だ。太陽が暑く、水が冷たい。なんというか歯車がかみ合ったような感覚がする。

結局この日の突果は小型アカエイ、アナゴ80くらいと30くらい、ボラ70くらいの計4匹と言う感じ。
メバルを突こうかと迷ったけど、30cm以下だったのでなんとか我慢した。
対象魚外のスコアやけど、今日はヤスの試射と慣らしと割り切っていたので満足。
この場所は海水浴場なので対象魚自体に殆どお目にかかれないけど、いつもの場所に行けばその性能を存分に発揮できるだろう。
二股ヤスでなくチョッキ銛にすれば押さえの問題はクリアされる。
チョッキ銛の試作品は去年数匹のイシダイを突いているので問題は無さそうだ。
二股ヤスを本気でチョッキ銛に乗せかえるのを検討することにした。

水底から顔を出すアナゴに打ち込んだヤスは、地中に引きずり込もうとするアナゴの強烈な引きにも問題なく耐えた。
心配されたカーボンシャフトの強度も問題ないようで何より。

今日見たヤス対象魚は遠い岩場で何かを齧るクチグロと化した巨大イシダイとクロダイ数匹の群れ。
どちらも殆ど出会い頭に近く、完全に射程距離内やったけど、こちらが身構える間もなく海の彼方に消えた。
あるいはもっと用心深く索敵すれば、遠くからその姿を確認していれば狩れたかもしれないと少し反省。

ヤスの性能以前に自分の能力をあげるのが大事だと思った。

2006年08月14日

●Waltz for

夜中の3時ごろに体のかゆみで目を覚ます。
部屋の三方向の窓を網戸までフルオープンにして寝てしまったので蚊が入り放題だったようだ。
とりあえず網戸を閉めて体中にムヒとシーブリーズを塗りまくり、蚊取り線香をつけて再び寝入るが、朝早くにとてつもなく嫌な夢で目を覚ます。

起きてしばらくは、風呂に入ろうがご飯を食べようがその嫌な夢の余韻を振り払えずに気分が悪かった。なんとも言えないどんよりとした気分の中、今日を境に自分が34才になっていることに気づく。

amazon ASIN:4003363922 昔からの知り合いの某レディーに「最近これ読んでんねんでーほら」と『ツァラトゥストラはこう言った』を見せられた。
一般的なレディー(そうでもないが...)が日常的なレベルからその手の本に対して興味を抱いたり手に取ったりするとはとても思えないので、その本が彼女の手元にある理由は、その本が俺の卒論のテーマだったという以外に無いのだろう。
そう考えるととても嬉しい。自分が良書と誰かを繋ぐ一つの切っ掛けになれたのを感じるのはなんとも言えない。
「そーかー」と言いながら久しぶりに手にとってパラパラめくるととても懐かしい。
殆ど覚えるほど読んだフレーズが頭に流れると、ざわざわっと感情が波立ち、何かがこみ上げそうになる。
これは人前で読むとやばい。久しぶりに一人でじっくり読まねばと思う。
昔出せなかった答えを最近出せたような気になったけど、もう一度考えてみたいと思う。

amazon ASIN:4309203094 amazon ASIN:4062749130 さらに前から誰かに貸していた筈の、村上春樹『羊をめぐる冒険』のなぜか下巻のみ、チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』が帰ってきた。よくよく考えれば4、5年ぶりになる。どちらも俺の大好きな本だ。

今日で34才になったわけだが、結局何が変わったわけでもないことをひしひしと感じた。
ある種の「懐かしい」と言う感覚は、古い形の自己嫌悪の感情も引き連れてやってくる。
自分の見苦しさや自分の醜さなど見飽きるほど見てきたと思ってきたけど、それでも、この期に及んで見せ付けられるとなんとも言えない。
結局のところこれを追い払うことは出来ないようであり、残された手段はどうすればこいつとうまくやって行けるのか。という所に集約する。
「Aでありたいと望む」事と「Aである」事は全く違うし、「Aである」事は「Aに見える」と言う事とも違う。
少なくとも他人から見た姿である「Aに見える」位はクリアしたい筈だったのだが...
そういう諸々の事が、結局ふりだしからのスタートになってしまったことを感じた。

amazon ASIN:B000066JLO Bill Evans 「Waltz for Debby」を聴いた。
今更ながら、やっぱり、Bill Evansとこのレコードが大好きなのを認める。

2006年08月13日

●有為の奥山今日越えて

この夏休みは激しくまったりしている。
例年なら「海!海!」と鼻息荒くなってるけど、ウエットスーツ買う事にしたので夏じゃなくても秋やろうが冬やろうが潜れるのであわてる必要が無くなった。
ダイモンさん背中押してくれてありがとう。

と言う事で毎日家族の用事や家の仕事を手伝ってる。
さらに家や家族だけじゃなくって、
南にキーボードにお茶をこぼして起動しなくなったと嘆くレディーがいれば、カフェに連れて行って紅茶を飲ませてパソコンなんか捨てちまえと言ひ。
東にサーバーダウンに気づいて火事を心配する人があれば、pingも飛ばないのに切り分けようがないから諦めろと言ふ。
と、まぁこれはどっちかというと暴言やけど、とにかく、自分を殺すというところまでは全然無いにしろ、自分の欲求がゆっくりとしか沸き出してこない生活が心地良い。

あれだけ必死で貪るように求めていた「海」もそこまでせずともただ楽しめばええやんと思えるようになった。
無ければ無いで良いし、あればあったで楽しい。

「海」を執着の対象として見なせるようになったのは中々大した進歩やと自分でも思う。
他にも色々な事に大して俺は執着している訳やけど、色々な事に対してこのように「無ければ無いで良く、あればあったでよし」と思える用になればどれだけ良いだろう。
色々な事に対する執着が無くなればどれほど良いかと思う。

先に書いたパソコンにお茶をこぼした某レディーは昨日紅茶を飲みながら「お金が無い時は服とかカバンが可能的現実の範囲になく、物欲自体が殆ど沸かなかった」と言うような事を言っていた。
なるほどと感じると同時に宗教者が「清貧」であれと求められる意義をかいま見たような気がする。

可能的現実の範囲から物事を閉め出してしまえば欲求や執着は減じるし、ウエットースーツを買う事にした話のように、何かに対してそれの持つ限定性や希少性を無くしてしまう手段を講じてしまえばそれに対する執着や欲求も薄くなる。
アクセスを絶つ方向とアクセスしやすさを増やす方向。
手段としては全く別やけど、結果としては同じものが得られそう。
まぁ、何事も道は一つじゃないと無理矢理にまとめてみた。

2006年08月12日

●パウロ・コエーリョ『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』

密かに俺が「ブラジルのこえぴょん」と呼んでいる、またしてもパウロ・コエーリョの著作、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』を読んだ。
このパウロ・コエーリョの本は古本屋に行くとなぜか100円の棚に収まっているのが目に付き思わず買ってしまう事が多い。
で、そういう感じでついつい買ったこの本。

真実の愛(恋?)とやらに落ち、人生の意味とやらを見いだし、そしてその人を失う?というお話。
作者お得意のスピリチュアル恋愛小説と言ったところ。

タイトルは旧約聖書、詩編の一節「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。」から取ったもの(だろう)。
バビロン補囚で異国にあるイスラエルの民が破壊し尽くされた故郷を思って泣く様を、失った恋しい人を思って泣く様になぞらえている(に違いない)。
で、後に続く「もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌は上顎にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムをわたしの最大の喜びとしないなら。」

という意味も込められているという事やね(たぶん)。

さすがにまもなく34才という毒男が読むような本じゃないなぁ…と思わん事もないが、読みやすい分厚さと文章であっという間に読んでしまった。

amazon ASIN:4042750036

スピリチュアルな神秘主義路線をひた走るパウロ・コエーリョが胡散臭くなりきらないのは、その路線を普通の恋愛話に持ってきて一般化してしまうところと、普段の日常生活に役に立つレベルで話をすると言うところやと思う。

そういう意味であまりに普通な恋愛感情から来る苦悩とか歓喜を宗教的というか、スピリチュアルな方向や神秘主義に結びつける様が非常に巧みだし、確かに前向きな考え方ではある。
たしかにこの年になって、色んな本に対する耐性がついて、ややこしいひねくれ方と歪み方をしてもなお、この本を読んで感動するところはある。

この本を読んで失った恋を肯定したり未来の恋に向けて歩き出した。てな感じの事をアマゾンの評に書いてる人が結構多いけど、なるほどそんな気分になるのは解るような気がする。
恋愛が宗教的で狂気の側面を含んでいるのはわかるけど、結局その対象を失ったり得たいと望んだ場合、それをどう処理してどこに持って行くのかという事なんやろうね。

でも、無理矢理恋愛するくらいなら、加茂川で魚釣ったり、良い本を読んだり、良い音楽を聴いたりする方がよっぽど「エウ・ゼーン」やと、個人的には思うぞ。
とこの本を読んで思った。
そういう話じゃ全然無いねんけどね…

2006年08月11日

●『52人を殺した男』

暑い中、部屋で寝ころんで読んだ。
ソ連がロシアに変わろうとする時代くらいの、52人に対する猟奇的快楽殺人について書かれたノンフィクション。
モスクワ在住のユダヤ系ロシア人ジャーナリストが英語で出版したものの翻訳になる。
訳者の小田晋って人を昔テレビで始めてみた時は「これが心理学者の典型かー」と軽く驚いたけど、まぁ色んな意味で偏見やわな。
で、初版が1993年と結構古くアマゾンに画像がない。

糞暑い中でこういう感じの本を読めばかなり読後感が悪いだろうと思ったけど、さほどでもない。
まぁ、こういう事件に慣れっこになってるんやろうね。

amazon ASIN:4900568872 人は常人の遠く及ばない領域に至ってまで色んな歪み方をするし、どんな事でも原因にしたり動機にしたりする。

何かを持ちすぎている事で悩む人がいれば、何かが足りない事で悩む人がいる。
かといって十分な人でもそれなりに悩んでる。

人間なんか大差ないと言いつつも、実際全然違う。
一皮剥けば同じなどと言い放ってみれば、後天的な属性は全て否定されてしまう。

とは言っても、この手の本で「心の闇」とか言われてもあまりピンと来んのだ。
作り事である筈の小説の中に、ドストエフスキーとかアゴタ・クリストフが描く人物の方がはるかにリアリティーがあるように感じる。

まぁ、この本を読んで、色んな人がいるなぁ。
俺なんか普通な方かも。と無難過ぎるほどに無難な感想を抱いた。

2006年08月10日

●フライ用品を買い叩く

夏休み一日目だが、完全休みというわけではなく家の仕事の助太刀。
仕事回りの運転手を勉める為に車に乗ったのだが、高校野球のせいで「夏休み 子ども科学電話相談」をやっていなかった。
ちょっと残念やったけど、待ち時間中に釣具屋を巡る。

スーツを着てカバンを下げたサラリーマンが釣具屋で放送されている「釣りビデオ」を食い入るように見つめているのがなんとも哀愁が漂ってて良い感じ。
ハッと気づけば俺も「釣りビデオ」を凝視する「営業サボり中のオッチャン」の群れに混ざっているのに気付き、「俺は違うねん。俺は違うねん。」と自分に言い聞かせる。

で、某釣具屋が自社ブランドのフライフィッシング関連製品の取り扱いを止めるような雰囲気で、在庫を投げ売りしていた。
25本セットのフックに26円の値札が付いていて値札の付け間違いかと思ったけど、本当にこの値段のようで、大量に買い込んできた。
恐らく一生分のフライが製造できるであろう。
その他にも、ハックルプライヤーやハーフヒッチャーのセット、ウィップフィニッシャーなどのタイイング用品も100円とか180円とかの捨て値だったのでこれも購入。
今までハーフヒッチャーはボールペンの先で、ウィップフィニッシャーはスポークを曲げたのを使っていたのだが、やっぱり専用工具は使いやすいやね。

そういう事でこの日もフライを大量生産。
細かい作業で何個も同じようなフライを巻いていると変にトリップしかけるが、そこに突然ダイモンが「ウエットースーツを買え。」と囁いたので決心し、ウエットースーツを買う事にする。
「俺のエラい人」と呼ばれているダイモンは、タイ行った時や外で遊んだ時に「これ食べても(飲んでも)大丈夫」という感じの事を教えてくれる場合が多かった。
俺の中のダイモンは古代ギリシャの某哲人のそれとは違って、「何かを止めてくれるタイプ」ではなく、「何かを勧めるタイプ」のようだ。

2006年08月09日

●夏休みの抱負

家に帰ると部屋が激しく散らかっていて軽く凹む。
散らかる原因を作ったのも、散らかしたのも、散らかるままに捨て置いたのも、もちろん全て俺である。
色々な事を人のせいにしたくなる時もあるけど、こればかりは俺から始まって俺で終わる全ての原因と結果が俺に因るわけで、人のせいにするどころか自分にループバックしている。
今日、仕事中にActiveDirectoryでループバックはなるべく使わんでおこう。という話に落ち着いたので、俺もこれからはそうしよう。いや全然関係ないけどね。

今日は色々な人に色々な質問を投げてみたけど、俺からすれば、まぁそういわれればそうやけどそういう事じゃないねん。と言いたくなる答えを聞く事が多かった。
まぁ俺がそう感じるのも謙虚さが足りないのだろうし、一々そんな事気にする俺が悪いとも言える。
でも、しかし…

明日から夏休みが始まるわけだが、戦闘行為に時間給という形で報酬が発生する身分であるがゆえに、無邪気に「わーい休戦休戦ー」と喜んでもいられない。
第一、仕事の量ってのは一定であるから、休めば休んだ分だけ、休んでいない日にする仕事の量に充填されるだけである。
まぁ、仕事の事は別にして、長い休みだと言っても、ダウナー要素がありこそすれ、アッパーな要素は何一つとしてない。これだけアッパー要素がない夏は初めてではないだろうか?

下降しようとする気分を上昇させるべく機首をムリヤリ上げると失速するだろう。
例え降下中であったとしても、滑空してさえいれば、自由落下してしまうよりははるかにマシである。
少なくともどこかは目指せるし、上手く行けば上昇に転じられるかもしれないからだ。

そういうわけで、この夏休み、無理に操縦桿を引いて失速して墜落するような真似はしないでおこうと心に誓う土偶であった。

2006年08月08日

●今いまし、昔いまし、やがて来る

仕事帰りにボタン電池を買いに貧民の味方100円ショップに立ち寄っていたのだが、店から出てびっくり。
空がなんじゃこりゃと言う具合に変な色。

まぁ台風のせいやろうけど、やたらと低くて動きの速い雲がセピア色に染まっていて、よく見れば雲だけじゃなくって、あたり一面がセピア色に染まっている。夕焼けとも、単に暗くなったのとも違う異様な色合い。
風一つ無い変な静止状態とやたらに早く動く雲が不気味な雰囲気をかもし出してて、静かやのにやたらとエネルギーに充ち満ちてる感じ。
「その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。」って事はないけど、なんか世界の終わりってこんな感じ??って思った。
なんつーか、七つの教会に書き送りたくなる気持ちがちとわかった。

いつかは確実に地球ごと世界が滅ぶのは疑いようのない事実であって、そう考えるとなんか不思議な気もするけど、地球が滅ぶ瞬間ってのを見られるもんなら見てみたいと思う。

まぁ、太陽の寿命とか膨張宇宙とかそんなスケールのデカい話をしようというのじゃなくて、たとえば地球の存在とかのようになんとなく確実であると思っている事も、視点を変えれば地球は確実になくなると言う事になるように逆の意味で確実になる事が殆どなのではないかと。

常々解っているつもりではいるけど、「確実性」なんつーもんは程度の差しか無いんやなと自分に言い聞かせた日。

2006年08月07日

●インドア飯盒炊爨

この日は母が出かけており、私が晩ご飯係だった。
しかしながら微妙に帰るのが遅くなってしまい、帰ってから炊飯器でご飯を炊いていては遅くなってしまう。
と言う事で早くご飯を炊くために、おかずを作る間、蒸らし込みで20分足らずで炊ける筈の丸形飯盒で作る事にした。
いつも飯盒を使う時はガソリンストーブか焚き火なので火力の調節が難しいけど、ガスコンロならとろ火から大火力まで自由自在。
少しも吹きこぼさず、全く焦げを作らず、カニの穴が出来る完璧なご飯が炊けた。
炊飯器で炊くよりはるかに美味しいやん。しかも早よ炊けるし。

一人暮らしの皆さんはたまに鍋でご飯炊いてみると美味しいかもよ。
炊くだけでそれなりに楽しいし。

あ、ちなみに俺は途中でフタ開けて炊け具合を確認する派です。

2006年08月06日

●very very京都、very very夏

numamutu20060806A.jpg 今日も西日がきつくなる時間帯くらいからフライを持って加茂川に。
昨日の場所よりちょっと北に足を伸ばす。
堰堤に座って背中に水を受け、下流に向かってフライを投げて流れを横切るようにしながらフライを流す。

流心で釣れる魚は魚体が美しく、流れに乗って良く引く。
画像の魚はオイカワのメスかヌマムツ(旧カワムツA型)だと思われる。サイズの割に良いファイトを見せてくれた。

今日は沢山フライを巻いて行き、色々なパターンを試してみた。
で、結局一番魚の出が良かったのが、見た目、蛍光グリーンの毛糸の玉にしか見えないモノ。
何らかの虫のイミテーションと言うよりは、二本の尻尾がある限りなく小さいマリモに近い…
バッタにしようと巻き始めたもののいつの間にか形が崩れて失敗し、うーん、これはカメムシだ、カメムシ。
と言う事にして巻き終えた、名付けて「ウールボディ・カメムシ」
まぁ、形云々よりも、魚からの視覚性が一番良かったのではないかと推測される。

半分水に浸かり浸かりながら堰堤から流れ落ちる水音を聞き、無心で竿を振ってフライを投げて魚と遊んでいると、他の何ものでも決して得られないような、何とも言えない心地よさを感じる。
堰堤の多い加茂川でしか出来ず、川の中に座るという夏にしか出来ない釣り方で、とても京都らしく、とても夏らしい午後だった。

2006年08月05日

●日本の魚はカワユス

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昼から鴨川でフライで釣り。 上半身裸で川の中に入る。炎天下の中、川に浸かりながらフライを投げてるととても気持ちいい。 暑くなると肩まで水に浸かり、頭から水をかぶれば涼しくなる。

さすがに夏だけあって良く釣れた。
デジカメを持って行ったのだが、中にCFが入っておらず撮れなかったので、やむなくPHSのカメラで撮影。故に画像が汚い…

カワムツ(旧B型)はやたらとフライに食いついたけど、結構バラし率高し。結局釣り上げたのは3匹だけ。
最初の二枚の写真が一匹目と二匹目の画像。

コイの群れが通りがかった時にいきなり竿がひったくらるようなあたり。
あわせた瞬間にあり得ん勢いで走る。一気にラインの殆どが持って行かれたけど、幸いな事に障害物はなにもない開けた場所。
#5用のフライロッドは一番太いところでマクドのストローくらいなのでまともに相手をすると確実に折れる。
ロッドは根本から曲がるし、獲物が走ったら俺も川の中を追いかけて走る。
いつの間にか通りがかりの観光客と近所のオッチャンが観客になっていた。
観客が見守る中、コイが走るたびに走り、ゆっくりラインを巻き取り、徐々にラインの先の獲物との距離を詰める。
追っては離れ、寄せては離れを繰り返す、釣りキチ三平のごときバトル。
一番深いところで胸までなので、徐々に獲物を浅瀬に追い込む。
獲物が疲れて動きが鈍くなったところで 竿を捨てて獲物に飛びつき、鰓蓋をつかむ。獲物が水しぶきを上げて暴れるも、両手で抱き抱えるようにして岸に引きずり上げた。
苦闘の末取り込んだ獲物はおおよそ60cmのマゴイ
3枚目、4枚目の画像がそれである。見よ!この疲れ切った面構えを!俺も疲れた!

で、今日はカワムツとコイに遊んでもらって中々楽しかった。
やっぱり何とかバスや何とかギルと違って、日本の魚はカワユスな。
しかし、日差しがとてつもなかったので、日焼けが痛い…

2006年08月04日

●土偶部屋のオーパーツ

前日にオーパーツなるものを初めて知った。
化石の中にやたらと精巧な機械としか思えないものが入っているのが発見されたり、脳外科の様子や人間が恐竜に乗っている絵が描いてある古い時代の石が発見されたり、などという系統のものをオーパーツと呼ぶらしい。
なんというか、男心を刺激して止まない激しく心躍る何ものかがある。
Out Of Place Artifacts 頭文字を取ってオーパーツ。日本語で言うと「場違いな工芸品」という事である。

で、某毒舌紳士が「ヤンキーの家から参考書が発見されてもオーパーツだ。」と言って、その新しい見解に笑ったのだが、たしかに身近にオーパーツはたくさんある。

過去に友人(女)のパソコンを直していたら、不意にとんでも無い画像が出てきてオーパーツ。
友人(男)の車を掃除していたら後部座席の肘置きの下からパンストが出てきてオーパーツ。
昔の土偶部屋では箪笥の裏からいつの間にか逃走していたイモリとザリガニのミイラが数体折り重なって発見されてオーパーツ。

amazon ASIN:4102091017 で、現在の土偶部屋のダントツのオーパーツは、
マーガレット・ミッチェル著『風と共に去りぬ』全巻セットではないだろうか…

2006年08月03日

●浮かべる城こそ頼みなる

最近昨日の分のエントリーを書く事が多い。
一応昨日あった事や昨日考えた事や感じた事を基にして文章を書いているけど、当然の事ながら今日書いた時点で昨日の文章ではない。
さらに、自分の書いた文章を読み直してみて内容が余りに鬱ダウナーに傾いてるのもどうよ。

自分の文章なので贔屓目フィルタが掛かっているとしても、読んでて「大丈夫か?この人?ナニ言ってんだ?」てな感じやし、さすがに他の人からすれば読んでて気分の良いものじゃないだろう。
無駄に負のフォースを吹き出すくらいならいっそ書かない方がよっぽどマシだと思わなくもないけど、それでも、ある種のリアリティーは出ているようにも思う。

この粗ブログを読んで下さる方がいるのはとてもありがたい事で、とても嬉しくもあり感謝もしているけど、だからといって読んでくれる人のために書いているわけでは決してない。
じゃぁ何のために書いてんのというのは別にしても、少なくとも自分に由来するもののためを志向して書いているわけで、読む人だけの事を考えれば書かない方がマシなエントリーでも、書く側には書かないよりはマシなのである。

考えてみれば、2006年に入って、こんな駄文を毎日切れ目無く敷き詰めて来たわけやけど、そんな事は時間とエネルギーの浪費でしかないという見方もまたある。
このエネルギーと時間を別の方向に向け、別の事に使っていれば、もっと生産的で意味のある事が出来ていたのかもしれないし、少なくとも彼女くらい出来ていたかもしれない。
そういう見方からすればそれは正論やけど、逆に、時間とエネルギーというとても価値のあるものを、殆ど意味のないものに費やすのは、ある見方からすればとてつもない贅沢でもある。
一般的にそれは「無駄遣い」と呼ばれるのかもしれないけど、それが「無駄遣い」か「贅沢」のどちらになるのかは、結局俺がここに文字を敷き詰める事でどこにたどり着くのか。と言う事にかかっているに違いない。と思った。

2006年08月02日

●守るも攻めるも黒鉄の

心理学的な文脈で「自分を責めるな」とか「自分を嫌いになるな」とか言うけど、だからといって明らかに自分が原因の事を他人のせいにしたりするのはいかがなものかと思う。
他人を責めたところで、責めた事が後から悔やまれるようなら最初から責める必要などないし、他人にしろ自分にしろ責める行為が何らかの問題の解決をもたらさなければ、最初からそんな事をする意味は無いはず。

日常生活のレベルで、責任の所在であるとか何かしらの原因を特定する事が役に立つ場合などほとんど無い。
とにかく不自然な強いられた攻撃性なるものを抱いた状態で何かをするのはとても疲れるものだし、良い方向に解決されそうなもんも悪い方向にややこしくなるパターンが多いなぁと思った。

2006年08月01日

●夏八月

8月が始まった。
夏になれば、海に潜れば何か楽になると思いこんでいたわけだが、今更ながら特にそんな事は無いという事に気づいた。
何かに期待しすぎるのも、逆に何かに絶望しすぎるのも余り意味がない。

夏だからこそ余計に欠落が目立つものもある。
沈み込む気持ちを蹴り飛ばしながら、暴走しようとする衝動を押さえながらも、既に自分から決定的な何かが損なわれてる事を認める。

何かの否定は、何かへの肯定であらねばならぬし、何かからの逃走は、何かへの志向であらねばならぬが、後戻りできないのはわかっていても、それでもと願わずにはいられない。

逆に、期待すればこそ、それが外れた時のショックが大きいと言う事もあるわけで、夏に凹んでしまうような条件付けがなされてしまえば、一体俺はどうなる事か、この八月と夏はなんだか今までにない未体験ゾーンやぞ。