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2006年07月31日

●区切る

7月最後の日。密かに自分の中で「区切り」としていた日だ。
2006年が始まると同時になぜか自分の真ん中あたりにポッカリと空いた「隙間」を知識欲で埋めて行こうと思っていたのだが、この区切りの日に振り返ってみても何一つ納得できるものがない。
このまま一生何一つモノにすることなく朽ち果ててゆくのかと思うと底知れぬ恐怖を感じ、妙な焦燥感に追いまくられる。
他人や自分の悪いところばかりが目に付き、他人に対して、何よりも自分に対して容赦ない攻撃性が牙を剥く。これは明らかに良くない傾向だ。

人間の住む世界や人間がどれだけ醜くてどれだけ歪んでいようと、自然界に住む生き物たちを取り巻く世界は、そんな人間の歪みや醜さには何の関わりも無く美しいという事実はなぜか俺をほっとさせる。
しかし逆に、そういう自然に触れた後、人間の世界や自分とのコントラストが際だって、ますますうんざりしたりもする。

家に帰って音楽を聴きまくり、世界に救いがあるとする人たちの、少なくとも救いがあると信じていた人たちの音に耳を傾ける。
カラ兄の末弟アリョーシャはコーリャ少年に、非常に不幸な人間になるとしても全体として人生を祝福しなさい。と言った。
ルートヴィヒの音楽、少なくとも弦楽四重奏とピアノ・ソナタはこの境地を体現しているように思えてしょうがない。
苦悩の中から生まれてくるのは、シンフォニー的歓喜ではなく室内楽的祝福。
どちらかと言えばそれは感情と言うよりは意志の問題のように思えるし、こっちの方が俺にとっては想像力の範囲内に近い。
とてつもない苦悩にありながら人生を祝福する声が聞こえてくるのは何とも言えない感動を覚える。

2006年07月30日

●シロギスで入定ミイラを作る

前日の雨模様が嘘のように良い天気。
昨日海行った時に雨で、今日家にいる時は晴れている。
逆なら良かったのにと思いたくなるけど人生そんなもんだと思い直す。

前日に釣ってきたシロギスを窓の手すりに固定したアミに並べ、モーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を聞きながら、干物になるのを待つ。
殺人的なまでに強烈な真夏の直射日光がガンガン当たるので、薄っぺらいシロギスなど、ものの数時間で干からびる。 太陽の核融合反応恐るべし。

彼らも昨日の今頃は機嫌良く海の中を泳いでいて、よもやこんな姿になるなどとは思っていなかっただろう。
このシロギス達も中々過酷な人生だった。
見事な死に様とは言えなかったけど、少なくとも無駄死にではないはず。せめて私が美味しくいただこう。

2006年07月29日

●激濁りのシロギス

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朝から突然海に行くことになった。 NHKラジオで「夏休み 子ども科学電話相談」を聞きながら車を走らせる。 ちびっ子のナイスな質問と「先生方」が質問に答える様に爆笑するも、海が近づくにつれ暗雲が立ちこめ、そのうちに大粒の雨が降り出す。 海に到着してとりあえず潜るも、最近降り続いた雨のせいか透明度が1メートル少しの激濁り。

濁っているのは表層だけかと思ったけど、深度5メートルを超えても、10メートル付近の海底でも濁りの層を抜けられず、これはこのあたりの海域全体が上から下まで濁っていると判断。
構えたヤス先さえ見えないので魚突きにならず、潜行中に不意に眼前に現れる水底と岩は危険である。

ヤスを短くして二本目に挑む。
濁りの中、なにやら前方を横切った黒い影に向かって銛を撃ち込むと、刺さっていたのは30センチ近い巨大キュウセン
難易度最低レベルの「固定ターゲット」クラスの魚を突いてしまって軽く凹む。スカリに通して続行するも、メバルにヤスを交わされて岩を誤射し、今日の突きを諦める事に決定。
結局スカリに通っているのはキュウセン一匹。一番の突果は、水深3メートルほどで出会い頭で驚いて逃げるところにあわてて打ち込んで一枚だけはぎ取ったクロダイのウロコ。
ちゃんと刺さっていれば50cmクラスだった。唯一のチャンスをモノに出来なかったのが悔やまれる。

突きを諦めて砂浜で釣り。
一日雨が降っていたので泳ぎ客も釣り人もおらず、シロギスが浜によって来ていたせいか良く釣れた。
子どもの頃は、海水浴をしながらシロギス釣りってのが夏のイメージやった。
必死に魚を求めて潜ってゆくのも良いけど、こういう風にまったりと魚を待つのも良いなと思った。
まぁ、釣れる度に開き状に捌くために、余りまったりとは言えなかったけど。

魚が突けなかったおかげで、久々にまったりとした時間を過ごした一日だった。

1枚目の画像は、3本の枝針に仲良く3匹で釣られたシロギス。
2枚目の画像は、開き状の途中経過。

結局30匹くらい釣れたところで、餌のアオイソメをアカテガニに振る舞って帰ってきた。

2006年07月28日

●名刺

働いていれば誰彼に名刺を貰ったり名刺交換するような状況が結構ある訳やけれど、所属先というもんが無い俺は名刺を持っておらず、今までは名刺を貰うだけ貰って、自分が持ってない事を詫びて済ませてたわけである。

前からそういう状況に結構違和感を持っていたけど、名刺を貰うだけで自分は自己紹介だけするってのは、自分を売り込んだり覚えて貰ったり、人脈の芽になるような物をみすみす放棄してたような気がしてきた。

今日も世界のOSシェア97%を誇る某超巨大ソフトウェア会社の人と、もし決まったなら共同プロジェクト的になりそうな案件のヒアリング段階で名刺交換をする状況になったわけやけど、例のごとく名刺は貰うだけで、自分は自己紹介だけと言う事になった。
たぶん俺は職場の組織に所属している人間やと思われてたやろう。
しかしながら、立場として俺は無国籍の傭兵な訳で、その立場をはっきりさせておいた方が、向こうもこちらも話しやすい面があったかもしれん。
職場側ではあるけど、職場の人間でないという立場はなかなか大事だ。
何よりも、一介の傭兵が世界を統べる巨大帝国の小隊長クラスの正規兵と名刺交換する機会なんかそうあるもんじゃない。
もちろん名刺交換したところで何が変わる訳じゃないけど、これから、将来的に、どんな人と関わってゆくかわからないし、俺を高く買ってくれる人がいるかもしれない。
名刺を渡さなければゼロやけど、渡しておけば少なくともゼロではない。

なんというか、俺は裸一貫で自分の戦闘力と任務遂行能力だけを売り物にする傭兵な訳であるから、組織の後ろ盾が無い分、自分の戦闘力やら開発兵器やら戦勝結果やらを宣伝して売り込む必要が大いにある。

ああ、そういえばなんか凶暴でメチャするバーサーカーな傭兵がおったな?と言う時に、俺が名刺を渡しているのといないのとでは大きな違いがありそうだ。

ということで、
名刺の一つでもやっぱり作らんとあかんかな。と最近思うようになってきた。
しかし、名刺を作るにしても、所属も肩書きもない俺は、いったい何を名刺に書けばいいのだ?
「 電脳的傭兵 土偶 dogu@dogu.no-ip.org」
とでも書けばいいのか?

こんな名刺なら、渡した時点でネガティブイメージになりそうな…

ってついカッとなって、なんか社会人のような、ビジネスマンのような事を書いてしまった。今は反省している。

2006年07月27日

●銛

これを書いているのは28日。
この日、27日は一日バタバタしていたような記憶があるが、なにをバタバタしてたのかは全く覚えてない。

家に帰って銛を触ってた。
二股のままいくか、試作段階のチョッキ銛を本格的に導入するか悩むところやけど、チョッキが生きてくる回遊魚や60オーバーを狩る域に全然達してないし、穴撃ちが出来なくなるのがちょっと痛いので、しばらくは二股で行こうかと。

ヤス先が焼き入りの高級品になり、一番先端のシャフトがカーボンになり、シャフトの中空部分に発泡ウレタンが詰め込まれ、浸水しても浮力を維持できるようになった。
去年に比べて水中での質量が減ってヤス先が鋭くなっているので、貫通力と初速が大幅にアップしているはず。フルメタルジャケットを装填したライフルみたいなもんやな。
ヤスにストッピングパワーなる概念はないので、これでいいのだ。

そろそろ夏モード。これでいつでも戦える。
で、とりあえずフロで潜ってみた。

2006年07月26日

●クマゼミと海

たしか、今年職場でクマゼミの声を聴いたのはこの日が最初。

昔、子供の頃はクマゼミって結構珍しくって、あの独特の声を聞くとワクワクして声の方向に吸い寄せられていったものの、見つけても高すぎてアミが届かんパターンが多かったような記憶がある。
しかしながら、最近このクマゼミがやたらと多いような気がする。
多いだけでなく余裕で手づかみで捕獲出来るような低いところにゴロゴロいる。

出勤時に構内でセミを見つけると、とりあえずセミの留まっている幹の裏側に回り込んで、そこから心眼で「はっ!」と猫パンチのフォームで捕まえるのが楽しい夏の一日の始まりの予感〜なのだが、
最近はアブラゼミ率と同じくらいのクマゼミ率になってる。
あのオレンジの腹弁を見ると、なんというか、昔すごく憧れてたものを見るような懐かしさがこみ上げてくる。

まぁ昼にこれをすると、三十路過ぎのネクタイしたオッサンがセミ捕獲に夢中になってる。という妙な絵柄になるので、いかんせん朝だけのお楽しみに限られるのが残念であるのだが。

むかしは、ちょっとした高嶺の花やったクマゼミやけど、さすがにこれだけ大量におると最近はありがたみも何も感じない。

ここ数年クマゼミの声を聞く時は「海行きたい」と思っている事が多いわけで、海行きたいと思ってるところにクマゼミ、海行きたいと思ってるところにクマゼミ、を繰り返しているうちに、「クマゼミ」→「海行きたい」と新しい条件反射のサーキットが形成されたっぽい。
今年初めて聞いたクマゼミの声で切ないくらいに海に行きたくなった。

クマゼミの声を聞いただけでなく、さらにダイビング好きの某氏と海と魚について熱く語ったので、海に行きたいリビドーがもうはち切れんばかりである。

勢い余って、家に帰ってこれを熟読していた。
amazon ASIN:4092080026 和名が漢字で書いてあるのが面白い図鑑である。

2006年07月25日

●アンチantinomyのみ

最近「アゴタ・クリストフ」と「パウロ・コエーリョ」なる二人を続けざまに読んだ訳やけど、この二人の人生とか世界に対する見方とか考え方は正反対と言っていいほど異なっている。
アゴタ・クリストフは人生は苦しみでしかなく、世界には醜い物以外に何もない。と確信する一方、パウロ・コエーリョは周りをちゃんと見渡せば世界は美しく楽しく、人生は楽しむためにある。そういった要素など周りにいくらでもある。
と言うような事を言っている。

しかし、考えてみれば不思議な事やけど、
読んでみればどちらもそれなりに感動もして納得もし、どちらにも親近感と同調を覚える。

どちらもそれなりに正しく、どちらもそれなりにずれていると思うし、どちらかが正しければもう一方が間違っている。という単純なものではないのだろう。
それでも、全く違う物を同時に理解しようとして、同時に受け入れようとして、同時に然りとしようとするとやっぱり多少混乱する。
「止揚」などと簡単に乱暴に言ってしまえばどこかに収まったりしそうな気もするけど、もし実際にこの二人が、もしアゴタ・クリストフとパウロ・コエーリョが人生について愛について世界について語り合うことがあったとして、最終的にどこかにたどり着けるとはとても思えない。

真実は一つではないと言ってみたところで、自分の持っているものが真実のうちの一つなのか、間違いのうちの一つなのかを見分ける事は非常に難しい。
何かが真実であったところで、何かが間違いであったところで、その二つの間に大した違いなど実は無いのかもしれない。
それが真実であろうが間違いであろうが、ほにゃららはほにゃららである。と心から強く思った事自体の方がはるかに大事なのでないか?などと思った。

書いてから思ったが、このタイトルはちょっとふざけすぎた。
ついカッとしてやってしまった。今は反省している。

2006年07月24日

●衛星軌道

なんか最近同じトコをぐるぐるぐるぐる回っているような気がする。
毎日同じような日々の繰り返しだとかいう意味ではない。
それは繰り返しであってもループではない。
精神的な意味合いで、A→B→C→D→Aという感じになると回っている感覚がしてくるのだ。

円環をなす世界が肯定される理由がおぼろげに見えて来た気がするものの、こういった細かいレベルの迷路状態に苦しまされているようでは、本当にわかりかけているとは言い難いと思う。

結局こういった事も、一つ大きいループの一部分やと思うと激しく脱力。

2006年07月23日

●パウロ・コエーリョ『星の巡礼』

ブラジルの作家、パウロ・コエーリョ『星の巡礼』を読了。
「星の道」と呼ばれて古来から巡礼の道として有名な、フランスのピレネー山脈バスク地方の町から、スペインの北西部、サンチャゴ・デ・コンポステラまでの道のりを、失った剣を探す為に歩き詰め、その道すがら主人公の青年が精神的に成長してゆくという話。

アマゾンでは宗教色を気にせず読めとか、オカルトとして読むな、とか言われてるけど、確かに言及されるだけあってそういう要素は多い。とういうかそういう要素だらけ。
前に読んだ『アルケミスト』同様、いわゆる「スピリチュアリズム」やら「神秘主義」なる系統の本という事になろうけど、『アルケミスト』よりはるかにその雰囲気が色濃く漂っている。

これはパウロ・コエーリョのデビュー作らしいけど、デビュー作でこういう色を出すのはさぞかし勇気がいっただろうと思う。
それでも、作者が本当に書きたかったのはこういう事で、本当にしたい事をするのはとても勇気がいったと言っている。
そして、この本は大ベストセラーとなったわけで、作者としては本当に言いたかった事が、自分の大事にする物がこれほど世界に受け入れられさぞかし嬉しかっただろうと思う。

amazon ASIN:4885031249 使われている語彙、モノを考える文法、目指す方向性はちょっと古くさく、今から言えばとても受け入れがたいやろうし、一般的には胡散臭く見えるのもよく解る。
俺も自分ではそういった「胡散臭さ」に敏感である方やと思うけど、この本は最後の最後までその胡散臭さに浸りきらない一歩を守りきっているように見えた。
それは、なによりも、作者の真面目さと必死さと、読者に対してその恩恵を分け与えたいと望む熱意と好意、自分の信じる物に対する純粋さ、そういったものにとても好感を抱けた。というのが大きな理由だろう。

この本で主人公の旅のガイドの賢者は、偉大なる智恵の道と、自らの剣を手に入れる道は、誰もがたどる事の出来る道でなければならず、そしてその智恵と剣は人生に対して実際に応用できる物でなければならないと繰り返し繰り返し語っている。
そして主人公は何のために剣を手に入れようとしているのか、と言うところに思いあたることで悟りらしき物にたどり着く。

確かに、欲求としてのみの知識欲、自己満足としての智恵や力では意味が無く、そういった物は人生なりなんなりに有効に影響を与えて生かされ、なにかしら自分が救われ、自分の指針となるものであるべきだとは思うし、またそれは万人に開放されるべき物だとも思う。

もし、誰かがそういったなにかしらの智恵のような物を目指しているとして、隠遁者のような生活を送りながら、誰も読まないような本を読みまくり、誰も聴かないような音楽を聴きまくり、誰も打ち込まないような事に打ち込み、誰も考えないような事を考えまくって何かにたどり着いたとしても、それがその誰かの人生に直接に役に立つのだろうか?そのプロセスを万人がたどる事が出来るのだろうか?
そして何よりもそういう風にしてたどり着いた智恵に果たして意味などあるのだろうか?

いずれにせよ、ここまで他人に誇り、語り、指し示す事の出来る物があるというのはとても素晴らしい事だと思った。

2006年07月22日

●渡りに自転車

事実上今ツールの最後のステージのタイムトライアルで、最後の山岳で素晴らしい走りをしたランディスが、ステージ三位のタイムを叩き出して、二位のペレイロに一分近くの差をつけてマイヨ・ジョーヌを獲得。総合優勝をほぼ決めた。
スポーツなんか見るのもするのも殆ど興味ないけど、ランディスの奮闘ぶりには感動すべき点も学ぶべき点も多い。
俺の中には、たとえばスポーツに対する物のように、色々な物に対する色々な偏見が渦巻いている。
そういった物が徐々にでも消えていけばどれだけ良いだろうと思う。

ツールを見終わってから、小雨の中を自転車で40キロ程走る。
もう土曜日の夜中の恒例行事だ。

車が少なくなる時間帯とは言え、土曜の夜の街中を走っていると色々な物が視界に飛び込んでくる。
必死に自転車で走っている俺と、楽しげに歩いている彼ら彼女たち。全く違う目的と全く理由でもって同じ場所ですれ違う。
そんな事に意味など全くないけど、そこに意味を探して見いだそうとすればいくらでも推測できるような気がする世の中の成り立ちに、底知れぬ悪意と底知れぬ不気味さを感じる。
結局、本当に逃げたい物からは逃げられないものなのだろうかと思う。

2006年07月21日

●作るために壊す

俺にしては結構遅くまで働いた。

たとえば、五年くらいかかって増築に増築を重ねて築き上げたものの、余りに複雑な関係性と機能性で下手に触る事も出来ないような物があるとする。
しかし、今までの物を捨ててそれらを全くのゼロから作り直してみれば、実現している事は同じでも、驚くほどシンプルでわかりやすい構造で再設計できる事に気づく。

今までの五年間は何だったのだ?と思うも今までの五年間があったからこそ、そんな再設計が出来たのだと思い直し、すべからく破壊は創造の意志に基づかねばならぬと思う。

最近はこんな感じの仕事をしているが、
こんなことは人間関係や人生など、色々な事に当てはめようと思えば、無理矢理にでも当てはまるような気がしてきた。

2006年07月20日

●夏はまだ?

今日はアルプス最後でシーズン最後でもある山岳ステージ。
昨日の山岳で10分以上のタイムを失ってマイヨ・ジョーヌを奪われたランディスの今日の走りはとても素晴らしかった。逃げが決まるのを見ていた日はなんか良い感じだ。
それから昨日マイヨ・ア・ポワ・ルージュを奪い、今日の最後の山岳はサポートに徹したラスムッセンも格好良かった。
ツールも明日の平坦ステージ、明後日のタイムトライアル、そして最終日の日曜日、パリシャンゼリゼをゴールに終了する。

例年であれば祇園祭とツールが終われば本格的な夏って感じやけど、今年は全然そんな気配がない。
夏を過ごすためにその他の季節を生き抜いていると言っても良いくらいなので、夏が遅く始まって遅く終わるのならまだしも、遅く始まり例年通りに終わる、短く気温の低い夏になるのは耐え難い。

今年の海はある程度目標があるので、なんとしても足繁く通いたい。
夏はまだか。

2006年07月19日

●アゴタ・クリストフ『第三の嘘』

仕事から帰ったらアマゾンから届いていて読まれるのを待っていたので、望み通りにしてくれるわ。と早速読んだ。
アゴタ・クリストフ『第三の嘘』を読了。
『悪童日記』『ふたりの証拠』に続く、悪童三部作の完結編であり、前二作の構造が全貌を表し、双子を巡る物語の本当の姿が現れる。
アマゾンでは評の全てが星五つで(7件中やけど)、物語として複雑な構造になっているけど、星五つに相応しくとても面白かった。

前作同様感情的な表現は皆無で、動機や原動力や目標として、自分が抱きうる物としての夢や希望や救いなどと言った概念は気配すら皆無であり、最初からそういった物の存在すら前提していないように読み取れる。
この説明口調から浮かび上がってくる、前作二冊と相まって増大する、深い絶望や虚無感か繰り出す破壊力は抜群である。
並の鬱なら軽く「リストカットの夕べ」や「睡眠薬の夜更け」に叩き込まれるだろうし、耽美的傾向を持つ主観からではなく、論理的帰結として述べられるその結論は、読者に何らかの立場や意見をはっきりさせる事を迫るようでもある。

amazon ASIN:4152077492 何かを書く事は救いや自己療養に繋がると言うような事がよく言われるけど、作者のアゴタ・クリストフはインタビューの中でこの考えを真っ向から否定している。
彼女にとっては、彼女自身の言葉を借りれば「書けば書くほど、病は深くなる」「書くというのは、自殺的行為です」と言う事になる。
『悪童日記』で仄めかされた希望と可能性は、次作の『ふたりの証拠』で否定され、さらに最後の『第三の嘘』で前二つの物語があるゆえに今の絶望が深く感じられ、これからの物語が続く余地さえないくらいにどうしようもないところに追いつめられ、根本的に全てが破綻する。
確かに彼女の言うように、三部作が進むにつれ、書けば書くほど絶望は深くなり、どんどんどうしようもないところに追いつめられてゆく印象を受ける。
そして作者だけでなく、作中の双子も「書く」事によってどんどん自分を追いつめていた。

「書く」事が病的な側面を持ち始め、書けば書くほどその病は治るどころか酷くなってゆく。
「書く」という行為に潜む病理と、「書く」事を続ける事でよってどんどん病が深まってゆく様を、作者と作品と主人公が再帰的に表現しているように思えてならない。

また作者は、これもインタビューで「書く」ことについて先に述べた意見に続けて「それでいて、避ける事のできない、必然的な行為なのです」と言っている。

書けば書くほど病が深まるにも関わらず、書く事は必然的だと言う彼女の意気込みを感じるし、また彼女の書く事に対する真摯で前向きで真面目な態度はある種の信仰者のようでもある。
しかしながら、彼女は明らかに救いなんか全く求めていないようにしか見えないし、何ものも求めていないようにすら見える。

本とは関係なく、作者自身への感想や印象になってしまったけど、更に関係ない話として、
何ものも求めない事が、苦痛を取り除く手段の一つであり、あらゆる物の否定が何ものかの創造への準備の一つである。
そういった事はもしかして根本的に間違いなのだろうか?
などと思った。

2006年07月18日

●書くほどの事はない事などない

この日はブログを書こうかと思ったのは覚えてるけど、いつの間にか寝てしまったようだ。

何かを書こうと思っていたのは覚えてるけど、何を書こうと思っていたのかは覚えていないので、思い出してまで一々書くほどの事でもなかったのだろう。
しかし、「書くほどの事はない」などという言い方をすると、このブログに書いている事など殆どあえて書くほどの物でもない事になるので、
「書くほどの事はない事などない」と言っておこう。

などと、これこそ一々書くほどの事ではないような気がする。

2006年07月17日

●毒ではないが食べ物でもない

昨日、本を読み終えた後の夜中にロードで街を疾走した。
交通規制が解除されたばかりの宵山の烏丸通りに紛れ込んでしまい、鉾と山、散らかったゴミと人の群れの間の低速走行を余儀なくされるも、概ね高速な巡航速度を保って数十キロを走る。

走っていれば鬱屈した気分と湧き出てくる邪念が消えている事さえ気づかない。
そのまま消えて無くなってくれれば良いのだが、さすがにそういうわけにも行かないらしい。
それでも、一時でも、綺麗な気分と空っぽの感情で肉体感覚の塊になる状態は何物にも換えがたい。

今日も自転車で走ろうと思ったがあいにくの雨で断念。
気がつけば「自転車で疾走依存症」なんかになっていない事を願う。
もしそんな依存症になってしまったとしても、見苦しくて醜い別の何らかの依存症であるよりはよっぽど良いかもしれない。とも思う。

自分の書いた文章を読み返して羞恥と屈辱の念を抱く事が最近になってやたらと多い。
それでも、それが今まで自分が受けてきた、あるいは今まで自分が人に対して与えてきた羞恥や屈辱と比べて、今感じるそれが如何に取るに足らないものであろうかとも思ったりもする。

「口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚す」と言った偉人がいたけど、
既に書いてしまった文章は、書いた当時の言葉としては口から出たものであっても、時間が経ってしまえば俺にとって「口に入るもの」になるわけで、そういう意味で俺自身に対して有害なものではないのだろう。と言う気はする。
しかしながら、害があろうが無かろうが、そんなのは読んで気分の良いものでもないし、書いて気分の良いものでもない。
なるべくなら、可能ならそういう書き方は避けようと『悪童日記』を読んでから思うようになった。

2006年07月16日

●アゴタ・クリストフ『悪童日記』『ふたりの証拠』

アゴタ・クリストフの『悪童日記』三部作の内の前二つ、『悪童日記』『ふたりの証拠』を読了。
作者のアゴタ・クリストフはハンガリー生まれの亡命した女流作家。
この本は彼女の亡命先のスイスでフランス語によって書かれ、フランスの出版社から1986年に出版された。
その後、日本語訳が出たのは1991年やけど、今から20年前に書かれた本という事になる。

第二次世界大戦のハンガリーに生きる双子が、疎開先で独特の彼らなりの倫理観とシステムでもってタフに生き抜く様が日記として綴られる。
アマゾンの評を読んでいると、既に「古典」のような扱いになっているようで、ほぼ全員べた褒め。
みんなが褒めるだけあって確かに面白かった。確かにお薦めできる本である。
古本屋には三部作のうち前二つしかなかったので、アマゾンで残りの一冊を注文しておいた。

amazon ASIN:4152077042 amazon ASIN:4152077298 双子は既成のモラルや価値からは超越した自分たちなりの倫理と基準のみに従って行動する訳で、そのために周りの大人達に「悪童」とされ「殺人鬼の卵」「ごろつき」等と呼ばれる。
必要とあれば躊躇いなく人を殺し、物を盗むけど、隣家の一家を助けるために司祭を恐喝し、脱走兵に食料と毛布を惜しげもなく与える。
この本がベストセラーとなる原動力となった、つまりは彼ら双子が主人公として魅力的に見えたのは、彼らが自らの律法を作って、それにのみよって動き、しかもその律法が大人達の振りかざすモラリティーとは根本的に異なったヒューマニズムに溢れているからだろう。

双子は生き抜く技術を身につけるために、「残酷さの習得」と称して気の進まない殺しの練習を動物たちに行い、「精神の鍛錬」として、日頃自分たちに浴びせられる、赤くなって震えさせられるような言葉に慣れるべく、お互いを汚い言葉で罵りあい、思い出すだけで目に涙を溢れさせる言葉に何も感じなくなるように「私の愛しい子」と呼びあう。
そこまでしてそんな世界で生き抜こうとする双子に「生きる意味」やとか「自分の価値」なんかを問うのは余りにも馬鹿げてるし、そういった問いを発する事自体が間違っているような気にさせる、そんな事を超越した何ものかを感じる。

表現力や記述力はある程度語彙に左右されるものやろうけど、実のところ語彙と言うよりは単語の使用の正確さに左右される。
三部作の内の一番最初の小説である『悪童日記』で用いられる、真実のみを記述するために曖昧さを廃して感情なるものには言及しない、と作品中で説明されている乾いた文体にかなり驚いた。
使用される語彙は少なく、文が記述する意味は単一で、表現と言うよりは説明や記述といった方が良い。
双子は感情を表す言葉を全く記述しない訳やけど、逆にその事によって、感情として説明されたものではなく、客観的に読み取れる他人の感情なるものが解釈として浮かび上がってくる。
それは言うまでもなく読み手の側のリアクションなわけやけど、「文体」であるとか「語彙」なるものについてかなり考えさせられた。

2006年07月15日

●我が世誰そ常ならむ

買い物があったので今日も四条に繰り出す。
自転車を駐輪場に預けて宵々山に浮かれる街を闊歩する。

途中「ニューバランスな某レディー」と邂逅す。
しばらく話して連絡先を交換する。いや、正確には「交換」はしていないか。
いずれにせよ、人が着飾っている様を見るのはなんとも良いものだ。
着飾る事自体だけでなく、着飾って行くべき場があるという事も、着飾って一緒に歩きたい人がいるという事もまた素晴らしい。

一人で自分のペースで歩くのはとても気分が良い。
そこには俺の前に立ちはだかって俺を押し止め、俺を後ろからつかんで引き留める何者もなく、後ろから俺を押し、前から俺を引っ張って俺を急かせる何者もない。
そこには協調すべき世界も他者もなく、世界と他者はただ自分に何かしらを与えるべき存在となり、条件付きながらも世界と他者は自分の意のままとなる。

しかし、隣に好きな人がいて、その人のペースにあわせて人の群れの中を歩く事が出来れば、どれだけ幸せだろうと思う。
以前は望めばいくらでも身近にあったはずの物が、気がつけば全く手の届かない所にある事に愕然とするも、それほど気分は悪くなかった。
何となく、俺は自分の「現状」を受け入れ、なにかしらの折り合いをつける事にしたようだ。

3+1次元のこの世界にある時間軸は一方向にしか流れない。過去を望むのは不合理であり、過去を実現するのは次元の崩壊でもある。
否応ながらも我々は時間軸に沿って「前」に進まされているわけで、
「過去」をひたすら求めて「現状」であり続けるつもりはないにしても、「現状」でなければどこでも良いというつもりは無い。
前に行くにしろ、後ろに下がるにしろ、少なくともそれは「現状」からの改善であるべきだし、もしその何かしらの変化が改悪となるなら、その「現状」がいくら悪いとしても「現状」であり続ける方がまだマシだ。
それでも、「現状」であり続ける事は今の「現状」の状態からすれば悪であるのは間違いない。
人間には、「思い」「行い」だけでなく「怠り」でも罪を犯すとされる見方もまたある。

夜、雷と雨が凄かった。
どこかに近くに落雷する度に低音の衝撃波が家を揺らし、強く稲光る度に窓から見える街灯が一瞬消える。
人間の一群を殺すのもこのエネルギーを持ってすれば雑作もないだろう。
電子の移動だけでこんなとてつもないエネルギーが放出されるのに驚きつつ、雷を神の御手になぞらえた昔の人の発想に納得する。

自然が作り出す雷のエネルギーは桁違いやけど、雷と同じく約90万メガワットの電力量を1/1000秒で実現するのも、現代の科学を持ってすれば不可能ではないだろう。
雷のエネルギーを感じるにつれ、これと同じ力を人間が持ちうる事に驚く。
自然が恐ろしい力を持っているのは当然の事であり今更驚く事ではないけれど、それに対峙しうる力を人間が持っている事実を感じるにつれ違和感を覚える。
人間たる自分の存在の弱く脆く醜くある様と、自然の力に匹敵する物を持ちうる人間たる存在の懐の広くある様のギャップに違和感を覚えざるを得ない。

しかし、その違和感はそのような力の由来となる自然法則たる摂理が凄いのであって、そのような力を抱く人間が凄いのではない。と考えれば解消される。
力を持つものが偉大なのではなく、力自体が偉大なのは考えれば当然の話ではある。

人間一個人は弱く脆く醜くある。
経験上から言えば、少なくとも俺の中にあるその弱さ脆さ醜さは決して解消されるものでも減じるものでもなかった。
一個人の人間が全体としてある程度の偉大さを体現するためには、自分が偉大に変化するのではなく、偉大なる何ものかを身にまとう以外にないと言う結論になるわけだ。

世界に秘められたる偉大な智恵は単体として存在し得ない。
それはそれを体現した人からしか見いだせず、その人を通してのみ現象する。
そして、そういった構造を担うものとして、人間存在の偉大さもまたそこに存在する。のか??

2006年07月14日

●色は匂へど散りぬるを

毎年恒例の宵(*n)山に行った。

圧倒されるしかない人の量を見ていると、事実上、世界が万物の霊長たる人間の支配するところとなり、世界が人で満ちている事が実感される。

物心ついた頃から祇園祭に繰り出していれば、この梅雨時特有の暑さを感じ、祇園囃子の音を聞き、鉾や山を見れば無駄に何かがかき立てられるように条件付けされている。
人生のあらゆる段階であらゆる人とそこに行ったわけであり、祇園祭に行くってのは「今」に対する「現状」の繰り込み作業のような所がある。

俺は人混みに必要以上にうんざりするタイプの人間であるけど、この祇園祭の人混みだけはなぜか大丈夫。
とてつもなく大げさに言うと、祇園祭の人混みと自分にある種の「共時性」を感じたりするわけだ。
まぁ、今時シンクロニシティとか共時性とか言う奴も珍しいが。

めまぐるしく変わり続ける物があれば、全く変わらない物がある。
前者を良しとして変化を繰り返す価値があれば、頑なに一つの所に留まることを良しとする価値もある。

進みも引きも、改善も改悪も、どこへもたどり着いてもいない自分を見せつけられ心底うんざりする。
「生きる理由」ではなく「死なない理由」しか持っていないとは言え、決定的な「死ぬ理由」があるわけでもない。
一切諸行皆悉是苦などと言い放ってみても、俺の方こそ「エウ・ゼーン」はどこへ行ったのだ?と思う。

いずれにせよ、祇園祭の終わりと共に梅雨が終わって夏が始まる。
夏が始まれば風向きも変わるだろう。

2006年07月13日

●レイヤ1で分解な日

仕事でひたすらノーパソを分解して過ごして家に帰ってきたら、
なんだか自転車を分解したいリビドーが発生したので、自転車を分解しはじめる。
自転車の方でそこそこ気が済んだら今度は時計を分解。

精密ドライバーとルーペを使い、引き返せない禁断の領域まで分解し始め、
気がつけば結局後戻りできなくなった…
まぁ壊れてた時計なので良いとするか。

勢いというか慣性てのは何にでもつくらしく、仕事上のエネルギーの方向が帰ってまで残っていたようで、今日は一日「何かを分解したい日」だったようだ。

ついでに俺も分解すればいいのに。などと思ってみた。

2006年07月12日

●Goldberg

今日は今ツール初めての山岳ステージ。長い大逃げが決まって良い感じ。
逆登るのは嫌いやけど、見てる分にはおもろいわな。
いやーツールはおもろいなーって実は無理矢理思いこんでるような気がしてきた。
それでも熱中してる間は余計な事考えないので良いとしよう。

最近はグレン・グールドのゴールドベルク変奏曲ばかり聴いている。

amazon ASIN:B0000025TP これは彼自身のデビュー作とも言える、1955年の初アルバム録音のものになる。以前のエントリで紹介した1981年録音のものとはやっぱり全然違う。
こっちの方が1981年のより唸り声が聞こえる。って当然そういう違いだけじゃないけど。

変奏曲ってのは同じ主題が繰り返して変奏されるわけで、ずっと聴いているうちに変にトリップしてしまう要素は満載だ。
なんかええ感じに凹むけど、凹みきらんところがよい。
聴いてるうちに傷に薬が染みこんでゆくような、何しても大した違いは無いわな的な、そんな感じの感覚がなんとも心地良い。

2006年07月11日

●チャールズ・ブコウスキー『HOT WATER MUSIC』

土曜日(7/8)に読了していたけど、今になって感想を書く。
この本は、孤高のパンク詩人(作家)チャールズ・ブコウスキーの、どちらかといえば最後の方の作品にあたる。
例のごとく、下品で下卑ていて、破壊的で暴力的なブクテイスト満載の無茶苦茶な話が集まった短編集。
全部で36話もあるので、短編集やのに読むのに結構時間掛かった。

amazon ASIN:4880081817 既にこの本は廃版になっているようで、内容的に全く同じの別の本にリンクを張っておいた。
この本に関しては本自体はそれほど面白いものではないだろう。
チャールズ・ブコウスキーが好きという人間にとってのみ読む価値があると思う。
ブクの本を読んだ事のない、またはそれほど読んでいない人間にとっては他の本をお薦めする。文庫になっているものなら外れはないだろう。

ブコウスキーの本を読んでいると、何ものを失っても悔やまず、何ものを得ても喜ばず、それでいて感情を失わずに、何ものにも拘らないようなバランス感覚に惚れ惚れする。
彼のようになれたらどんなに楽になれるだろうと読むたびに思う。
そして、無茶苦茶な中にもキラリと見え隠れする知性がなんとも自然であり、知性とはかくあるべきで、知性とはこのように使われるべきだ。とも読むたびに思うのであった。

2006年07月10日

●振り向けば塩の柱に?

またしても昨日寝てしまい、ツールを見逃した。
結果を見る限り「逃げ」が成功したようで、リアルで見られなかったのが非常に悔やまれる。

ブログのエントリを書く際に、これは記録として残しておくべきだ。と思う事があっても、
直接的に書いてしまうと非常に問題があるので、結論だけとか、思ったり感じた事だけとかを、おもっきり一般論に変換して書いてみたりするけど、
結局、そんな事は他人には全く違うことを言っているように読めるわけで、そうなるなら最初から書くべきじゃなかった。などと思うことがちらほら。

言いたい事と書いて良いことは違うし、考えた事と書いて良い事も違う。
最近ちょっと書きすぎた、というか暴走しすぎた。
たとえ暴走の原因にいくらか思いあたったとしても、それこそ書くべき事ではないわな。
反省するのはまだましだとしても、日を追うごとに反省すべき点が増殖してゆくのはいかがな物か。

年を経るごとに失われる物があり、季節によって咲く花や実る果実は違う。
若さと若い者にこそふさわしい物にしがみ付こうとする様は大抵見苦しく見えるものだ。
自分の考え、自分の嗜好、自分の欲求、自分の感情がこのような様をしているのは、
ただ未熟さの故ではないかと思いあたり薄ら寒くなる。本当に俺は、俺の思う「前」に進んでいるのだろうか。

まぁ、今更後ろを振り返ったところでしょうがないわな。
逃げてきたソドムとゴモラが後ろで炎上してるとでも思っとく。

2006年07月09日

●パウロ・コエーリョ『アルケミスト』

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』を読んだ。
作者のパウロ・コエーリョって人の本は、以前『ベロニカは死ぬことにした』以来、この本で二冊目に読んだ本となる。
解説を読むまで全く知らなかったけど、この本はかなり有名で売れた本で、本国ブラジルを初め、各地でベストセラーになったらしい。
この本によってパウロ・コエーリョは日本に紹介された事になったそうで、こちらの方が『ベロニカは死ぬことにした』よりも古い事になる。

内容は『星の王子様』とか『かもめのジョナサン』と同じ系統で「大人向け童話」と言った扱いのようで、一般的にどう思われているのかはアマゾンの評を見ればわかりやすいかと。
アマゾンではほぼ全員絶賛している。こういう本も珍しい。

amazon ASIN:4885031184 『星の王子様』と『かもめのジョナサン』的な系統にある本という事やけど、『星の王子様』はともかくとして『かもめのジョナサン』はそんなに好きな本でもない。
『かもめのジョナサン』にある種の胡散臭さを感じる人なら、この『アルケミスト』にも同じような胡散臭さを感じるかもしれない。

それでも、その胡散臭さは扱っているテーマがそうなのであって、全体がそうなのではない。
ある種の事を本当に真面目に語ろうとすると、どこかしら胡散臭く見えてしまうのはある程度避けられないのかもしれない。
一つの事をちゃんと真面目に素直に考えている本であるけど、ただ、この本を全肯定してしまうと、逆に何らかの物の見方が一方向に固定される傾向になってしまうような気がする。
その一方向に関しては文句のつけようもないし、人間にそんなに沢山の方向が試せるとも思っているわけでもないんやけど…

とは言っても、全体としては中々面白い本であった。感動する所もあったし、将来的に「古典」になると目されるところもあるので、読んでおいても悪くない。
どちらかというと読んでおいた方が良い本のような気がする。
若い時に読まず、この年になって読んだのが逆に良かったのかもしれない。

2006年07月08日

●動機と手段は兎も角

昼ぐらいに起きてツールの結果を確認し、ご飯を食べる。
自転車に空気を入れ、刷毛で汚れと埃を落とし、オイルを差しなおし、バーテープを内から外へ、最後はエンドキャップで止めるやり方で巻き直す。

コーヒーを飲みながら昨日の分のエントリーをアップ。
今読めば色んな負のフォースが充満している。ついカッとなってやってしまった。今は反省している。と言ったところか。
タイトルまで救いようのないくらいにイタい。
激しく消したくなったが、まぁ書いたものはしょうがない。

後は本を読んで過ごす。久しぶりにCharles Bukowskiを読む。
気がつけばいつの間にか寝ていたようで、起きてツールを見るも、50kmのタイムトライアルはなぜか余り面白くない。

電話に着信があった事に気づいたので掛け直す。
飛行することなく部屋にあった「ドラえもん」が引き取られ、部屋が広くなった。

日付が変わろうとする時間帯から自転車に乗る。鬱屈した気分と、どうしようもない感情を吹き飛ばすために自転車を漕ぐ。
下ハンを握り、とれるだけの前傾姿勢を取って、何も考えず肉体感覚の塊となって、汗をボタボタ落としながら、肩で息をしながら、何かを振り払うかのように、何かから逃げるように必死にペダルを回す。
車が少ない夜の町を疾走するのは気分が良かった。車に乗っているカップルに笑われようが、暴走族を追い抜いて怒鳴られようが、自分の肉体で風を切って前に進む感覚は何物にも換えがたい。まるで何かの比喩のようだ。

必死で数十キロの距離を自転車で疾走していると、肉体が酷使されて失われたエネルギーが精神的な所から補填される感覚で、段々邪念が消えてゆく。
生きていれば否が応でも、考えたくもないような事まで考えねばならないし、考えたくなくても勝手に頭が考えてしまう。しかし、少なくとも自転車に乗っている間は何も考えなくて済む。
どうせ自転車から降りればまた何事かを考えざるを得ないので根本的解決になっていないにしろ、一時の波さえ凌げば大丈夫な事もある。

今まで、おおよそ体育会系と対局の位置にいた人間であったが、自転車に乗り始めてから無駄に身体を酷使する事で何が生まれるのかを知った。
それはマゾ的感覚であり、自分に限界がある事を使ったトリップである。おまけにカロリーまで消費する。

とは言っても、俺は体育会系的発想で草レースに出たり、休みごとに山を攻めたりする気はない。
人と競う気もないし、人と自分を比べる気もないし、完全に自分自身で完結している。
俺にとっての自転車はライフスタイルのパーツの一つであり、生活の一部である。
自転車がなければ、俺はもっと酷いところにいただろうと思うし、今より自分自身を持てあましていたと思う。
自転車があって本当に良かった。そう思った一日だった。

2006年07月07日

●Waltz For Debby

久々に京都駅へ繰り出すものの、金曜日とあって凄い人の数。
どういう因果か普通のOLなる人種と話す。
なるほど彼女たちのうちの特定の人間が服やらカバンやら化粧に凝るわけが理解できた。
おおよそ彼女たちを話の内容と考え方で識別する事は非常に困難である。しかもそれが短い時間に限られてしまえば尚更個性なるものが見えてこない。
同じテレビを見て同じ歌を聴き、同じ週刊誌を呼んで同じ映画を見ていれば、当然と言えば当然か。
一番手っ取り早く個人を他人と識別して差別化する事になるのが見た目と言う事であろうか。
見た目によって人の個別化がなされ、その見た目によって個別化された個人の善し悪しや価値も決定される。
そういう基準と判断に決定を任せた世界に彼女たちは同意し、そして住んでいる。

いずれにせよこれは俺の言いがかりである。
少し話しただけで見た目以外で個人を識別する、微妙な差異を見分ける才能のない俺の言いがかりである。
該当するOLの皆様にくれぐれもお気を悪くなされないようにお願いする次第である。

それでも、見た目で悪い方に差別化されるのは望ましくないだろうし、美しくないよりは美しい方が良いのだろう。と言う事が確かに間違いないのは同意する。
しかし、ある種の美しさは純粋な力でしかないものがあり、時にそれが暴力的なまでに力を発揮する。
暴力は暴力を駆り立て、暴力は暴力を生む。
そして、当然の事ながら、暴力からは何も生まれない。
上手く行って数日間の痛みを、下手すれば一生ものの傷跡が残るだけだ。

しかしながら、「何も生まれない」事自体が価値を持つ事もまたある。
不思議な事に、そういった事が必要になる瞬間もまたあるものだ。

変わらない日常、どんどん消耗してゆく実感、日を追うごとに軽んじられる自分の価値と存在、旅行するためにただただ生きている?負け犬?売れ残り?年を取る事は悪なのか?
なるほど、日々そういう負い目を追い続け、そういう目で見られていると思うのは辛いものだろうと想像する。
しかし、そんな事は世間が言う事であって、それが正しいかどうかなんかわからない。
少なくとも本人が言うべき事ではないし、そんな価値を本人が認める必要は無い。
押しつけられようとする認める事の出来ない価値は否定するしかないし、ふざけた価値を否定するのは善ですらある。と思うしかない。
紀元前に「エウ・ゼーン」(善く生きろ)なる価値を作った哲人がいたが、もはやその価値は死に絶えたのだろうか?もう痕跡すら残っていないのか?
などと思った長い長い夜だった。

2006年07月06日

●逃げ集団が逃げ切れない時期

ツールのストリーミング放送だが、昨日に引き続いて今日も高解像度な方に接続できた。
高解像度と言っても、ブレーキ&シフトレバーがシマノのSTIかカンパのエルゴかが判別できる程度なのだが、ちゃんとゼッケン番号が読み取れるので、観戦には全く問題ない。
もうこれで十分。

ただどうしても走ってる選手を写すと景色が流れるので、流れる景色の部分の画像が荒くなったり、ブロックが出る事になる。
ツール・ド・フランスは自転車ロードレースであると同時にフランス観光案内でもあるので、田園風景や町並みが綺麗に見られないのがちょっと残念と言えば残念。

しかしこういう自転車ロードレースってのは、恐ろしいスピードで走って、人間離れした運動量の筈やけど、試合としてはかなりまったりしてる。
試合を観戦中に余裕でお茶汲んできたり、トイレ行ったり、風呂まで入ってきたりしても無問題。サッカーのように戻ってきたら点が入ってた。てな感じの事は殆ど起こらない。
特にゴール前とか何ちゃらポイント付近とかでない限り、派手な動きは起こらないし、試合の殆どはずっと駆け引きしてるに等しい。

全体としてはまったりとしてるので、ゼッケン見てからネットの一覧で名前を調べたり、気になった選手を詳しく調べたりしながらレースを見る余裕も沢山ある。
大体、競技として戦略的な要素が多いので、選手がどうとかチームがどうとかの情報が無いとそんなに楽しくないので、ネットに繋ぎながら、情報を仕入れながら観戦というのが、俺みたいな「詳しい訳じゃないけど、全く知らないわけでもない」人に向いているような気がする。

今日の時点でプロローグ+第5ステージが終わったので、後15ステージ残っている。
とりあえずツールが続いている間は何となく気分的に楽しい。

2006年07月05日

●中毒無し中毒症状

今日でちょうど禁煙一週間になった。
まぁタバコを止めたのは俺の身体なのであって、その事に対して喜んだり褒めてくれたりする筋合いの他者はいないわけであり、そういう意味でも一週間と言ったところで淡々としたものであるけど、それでも区切りがつくという事が、まぁ気分が悪かろう筈はない。

元々区切りなんて無いところに無理矢理区切りのようなものをつけて達成感を味わう。というある種錯覚のようなものを感じているわけだが、いずれにせよ区切りがないと人生あほらしすぎてやってられんのは事実かも知れん。
真っ平らで平坦な道を延々と歩き続けるなんて事は苦痛以外の何ものでもない。
次の区切りはまぁツールが終わったくらいの時期かな。

タバコを止めることで健康や金銭的な利益が生まれるのは容易に想像がつくけど、なぜか、どういうわけか、タバコを止める過程の段階で実に色々な事を、今までほとんど考えた事の無かったような事を日常的に考えていた。
口にするにも書くにも恥ずかしかったり煩わしい事ばかりが一日中頭の中にあり、一人になるとその訳のわからん思考の淵にどっぷり鼻の下まで浸っていた。
よく解らん変な深い所に意識が固定され、逆に表面的に見ればはボーッとしたように見えるような、中毒症状が無くなる事が逆に中毒症状に見えるような、そんな変な感覚。
さすがにそれも一週間たてばだいぶ薄れてきてるけど。

「タバコを止める事で色んな事を考えてしまう」てのは実際始まるまで全く予想しなかった事であり、かなりびっくりすると同時に、俺にとっても何かしら収穫はあったような気がする。
タバコというのは自分にとって肉体的な繋がりのあるものやとずっと思ってたわけやけど、実際思っている以上に、殆ど精神的としか言えないような繋がりしかなかったように思う。
禁断症状やとか中毒症状って精神的な形でしか出てきてないもん。
タバコって言うのは思った以上に精神寄りのものやったんやなと、今更ながらに思った。
世の中、精神寄りではあるけど精神的に良いもの、というのが非常に少ないのではないか。などとも感じた。

2006年07月04日

●クンデラ的不滅的問題

依存性を減らしてゆく事が前進なのか?
依存性を獲得してゆく事が前進なのか?
それとも依存性の種類を変えてゆく事が前進なのか?

判断を誤れば、成長しているつもりが実は後退していたという事も大いにありうる。
何かを目指していたつもりが全く見当違いだったと言うこともありうる。
俺には全く判らない。考えれば考えるほどわからない。

というよりも、依存性を前進か後退かという問題で捉えるのが間違っているのか?
それを苦楽の問題として取り扱うとしても、前進的な苦と後退的な楽を苦楽の基準のみで判断するのが妥当だとはどうしても思えない。
それとも、何でもかんでも、どちらかに振り分けようとするのが間違いなのか?
とにかく自分が何かしら混乱していると言うことだけは良くわかる。
こんな時に急いだところでロクな事は無い。
水を飲めゆっくり歩け。と言ったのは誰だったか?

amazon ASIN:B0000041LE Vladimir Ashkenazyの演奏する、ベートーヴェンの「表題つき」ピアノソナタを聴いた。
俺にとってアシュケナージの演奏がベートーヴェンのピアノソナタの基準となる演奏。もうCDが焼け切れそうなくらい聴いている。
聴けば聴くほど、つくづくルートヴィヒは苦悩の人だったのだと感じ、背筋が伸びる。
いくら時間が流れても変わらないものがある事を感じ、古典的不滅を愛する自分がいる事を感じる。
そう感じるのはなかなか心地良い物である。

2006年07月03日

●ツール・ド・おフランス

とっくにツール・ド・フランスが始まってるけど、ドーピングスキャンダルで去年の上位5選手が出場しておらず、もともと選手を知ってるわけでもないのに、ますますもって知ってる奴が殆どおらん状態になってる。
観戦しながら覚えていくしかないわな。

日本では中継をJSportsでしかやっておらず、当然ながらうちでは見られんので、やたらと画像の荒いルクセンブルグのストーリミング放送を見てるのだが、喋ってる言葉が「ヒンカピー」とか人の名前しかわからんので、テキストライブを見つつ観戦。ということになっている。

ストリーミングの動画が見るに堪えんほど荒いので、個人の識別は不可能やけど、何も見えないよりは遙かに良い。
テキストライブの配信サーバーがやたらと重く、時々ダウンまでするけど、これも何もないよりは全く良い…
金を払っているわけでもないので文句を言う筋合いもないので、まぁこれはこれで結構楽しいと思わんと。
つーか、自転車がいっぱい走ってるのが感じられれば、それだけでおおむね幸せだ。

こういう長丁場の自転車競技は、インターネットで色々情報にアクセスしながら観戦するのが中々楽しいやね。

しかしこの荒い映像で見ると赤の水玉の「山岳ジャージ」が変な病気にしか見えないのが微妙。

2006年07月02日

●禁煙サウザー!禁煙十字陵!タバコゆえに!!

タバコを止めて気がつけば、いつの間にか禁断症状が一番キツいとされる三日目を過ぎていた。
たしかに「禁断症状」らしきものは出たし、それが「色ボケ」と「恋患い」の性質を同時に併せ持っている事もよく解った。
ある種の身体的な痛みが生きている事を実感させるように、ある種の精神的な痛みも精神の存在を実感させてくれるわけで、これはこれでなかなか楽しい。
禁煙から来る禁断症状はまさに精神攻撃であり、確かに人間的でフレッシュな感覚を抱いている自分自身に気づいた。
しかしながら現在、もう止めて5日目に突入するので、すでに禁断症状は殆ど無くなってしまっているのだが…
このまま風化させてしまうのも忍びないので、記録として書いておく。

「あの人と付き合っていてもお互いのためにならないわ」ということでこっちから一方的にさよならしたものの、
「別れてからと言ふもの、寝ても覚めても思ひ出すのはあの人の事ばかり」
無理にあの人の事を頭から追いやっても、ふとした時に思い出して「嗚呼、もう逢へないのだつた」と悲しくなる。
ご飯を食べてほっとした後などは「あの人さえここにいてくれれば」と切なさに涙目になり、「嗚呼、あの人のいない生活に慣れないといけないわ」と溜息。
「唇と身体があの人を求めて止まない。あぁもう身体がウズウズするわ」ってムラムラっと来るあたりなんかはとても「色ボケ」に似てる。

と、一番禁断症状が酷い時はこんな感じだった。
まさしく「色ボケ」と「恋患い」が同時にやってきて、頭の中は盆と正月と、ツール・ド・フランスとワールドカップがいっぺんに来たような(あ、来てるか)騒ぎだった。

タバコを止める辛さというのは、ジャンキー的で圧倒的な欠乏感ではなく、こういう細々と切なさがつのるような精神的喪失感に似た状態であると言って良いだろう。
肉体的な中毒症状というよりは精神的な依存症に近い状態かもしれない。
感覚としては「失恋」に近いような…

しかしながら、日常の辛さに引き替えこの程度の辛さなどなんと言う事はない。
世の中に充ち満ちる辛さに比べ、タバコを止める辛さなどどれほどのものがあるだろう?と思った。
はっきり言って、もっと辛くて耐えるべき事など世の中にいくらでもあるだろうし、もっと強烈な依存症もあるだろう。
ニコチン中毒の禁断症状よりも、ちょっとした失恋のほうが遙かに辛いし、自分自身を嘘偽り無く真っ直ぐに見つめる方がよっぽどしんどい。

それでも、禁煙が失恋に似ており、タバコが恋に似ているのは間違いないだろう。
某聖帝のセリフを当てはめてみると…

タバコゆえに人は苦しまねばならぬ!!
タバコゆえに人は悲しまねばならぬ!!
こんなに苦しいのなら、こんなに悲しいのなら!!
タバコなどいらぬ!!

と、実にしっくり来るではないか。
「タバコ」=「恋」、「禁煙」=「失恋」と捉えれば、
失恋に慣らされた土偶にとって!!
エセ失恋の禁煙など痛くも痒くもこそばゆくもないわぁ!…
  orz
o…rz

と強がりと自虐の入り交じった、
タバコ止めども、ちょっと悲しき日曜日の夕暮れであった。

●土偶家のナノ琵琶湖

土偶家には60cmX20cmX20cmの水槽と金魚鉢があり、その中で琵琶湖で捕囚してきた生物たちが住んでいる。
どちらも、ろ過装置、ポンプなしで、水草&巻貝&魚orエビで、アクアリウム状態になっており、水草が光合成して酸素を出し、それを魚や貝が吸い、魚や貝の糞が水草の肥料に、生えてくるコケ&アオミドロは貝が食べてくれる。とミニマムな物質交代&食物連鎖が進行しているようだ。
明るい目のところに置いておけば、餌やらずにほおって置いてもなかなか死ぬことはないので、ドジョウ、モエビはプランクトンでも食べているのかもしれない。

中にいる生物のコンセプトは琵琶湖水系。いつかワタカとタナゴ飼いたい。

sujishimakukn01.jpg琵琶湖固有種の「スジシマドジョウ小型種琵琶湖型」。
琵琶湖に流れ込む、泥の多いある河川で網で採集した。
絶滅危惧種に指定されているらしいが、その河川に潜ってみるとうじゃうじゃいた。ほんまに絶滅危惧種??
必死に水底を突っついて餌を探す様はなんとも愛らしい限り。
この水槽には同じ場所で採集した、これも琵琶湖固有種の「ネジレモ」が生い茂ってる。

moebi00.jpg モエビは自分以外の他者を小突きまくりの挟みまくりと、とっても凶暴なので、一匹だけで金魚鉢に隔離。
体が透明で光学迷彩のようだが、食べたものがそのまま透けて見えるのでちょっとわらける。

2006年07月01日

●「フナ吉」死す

気づいたらフナが死んでいたので、アジサイの根元に丁重に葬った。
五年近く生きていたような気がするけど、死ぬときは一瞬だ。
水槽で生かされたフナに意味など見いだせないように、水槽での死にも意味など全く無い。
本来あったであろう意味と理由を判らないままに剥奪したのは飼い主であるけど、
剥奪したからと言って、新たな意味と理由を与えることが出来るわけでは当然無い。
ただ、その飼い主に意味と業がのしかかってくるだけだ。
飼い主は少なくとも死んだフナ一匹分は、余計に意味のある存在にならねばならない。
いずれにせよ「一匹のフナが死んだ」それだけの話だ。

それでも、一匹のフナが死んだことを覚えている人間が一人くらいいてもいい。
多分、少なくとも近所で一番ベートーヴェンのピアノソナタとMiles Davisとルネサンス期の教会音楽に詳しいフナであった。
シュナーベルとアシュケナージとギレリスくらいは聞分けられたんと違うか?

フナを構成していた炭素や窒素原子はアジサイの根から吸収され、来年の今頃は花になっているだろう。
生きている間は自然の生態系から外れていたけど、せめて死んでからは地球レベルの物質交代のサイクルに乗ってくれ。
と言うことで、フナにしてはたいそうな葬送やけど、フォーレのレクイエムで盛大に見送りだ。

funakichi.jpg在りし日の「フナ吉」