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2006年06月30日

●半年

先日仕事でPCにDVDプレイヤーをインストールしたのだが、動作確認に再生したDVDが「ファインディング・ニモ」だった。
「ちゃんとwinDVD動くかな?」と再生してみたものの…ハッと気がつけば子供のようにじっくり見入っている自分に気づく。
「あかんあかん、仕事仕事…」と泣く泣くDVDを取り出したのだが、それ以来ずっと続きが気になってしょうがなかった。
で、ついに今日、某氏にDVDを貸していただき、自宅で見た。
そらまぁディズニーやから、安心して見られた。映像も綺麗やし海棲生物達も中々おもろかったし誰一人として死なない。最後はちゃんとニモに再会、水槽の仲間も上手く逃げられたようでなにより。
いやー、ニモがフナムシにたかられて喰い殺され、干からびてボロボロになった骸を見てマーリンが発狂する。なんてオチじゃなくって良かった良かった。

「ニモ」の話とは全く関係ないが、このブログを始めてちょうど半年が過ぎた。
驚くべき事に、日付詐称はあれども1日の休みもなく、俺は毎日何かしらのエントリを投稿している事になり、自分の暇さ加減に素直に驚いている。

それでも一方で、ブログのことは別にして、
この半年間よく頑張ってきたと自分でも思う。
今まで生きてきた中で1,2を争うキツい半年だったような気がする。
物事というのは連鎖をなして立て続けに起こるものであるのを思い知った。
ダウナーに落ちきらず、暴走もせず、とにかくじっと耐えて何とか持ちこたえた。
しんどい時や落ち込む事など誰でもある。
それをわざわざ人と会ってる時に持ち出して何の意味があろう?
どうしようもない鬱屈や発狂しそうな衝動も表に出さずにすんだ。
少なくとも人と顔つきあわせている時はそれほど負のフォースを出さずにすんだ。

どうしても一人になってコンピューターに向かって文章を書いていると、黒い波動がほとばしって鬱ブログを書く日もあったと思うが、
不意に飲み会などで沈み込む。などという失態は犯していないと思う。

一人でいる時はどん底でも、みんなといる時はせめて楽しく。そうありたいものだ。

2006年06月29日

●禁煙はネタの泉

暑い。とにかく暑い。
扇風機を「強」にして部屋の空気をかき回す。
高速回転する羽に向かって「うー」と唸ってみた。
今まで梅雨やと思ってたけど、もう夏やん。

タバコ吸わなくなって24時間以上が経過してるけど、不思議な事に特に辛くもなんとも無い。
しかしながら「ちょっとタバコ」なタイミングが体に染み付いてるようで、
何かに集中していてちょっとした区切りの瞬間に「タバコに手を伸ばす」的な感覚がふっと浮かび上がり、
そのたびに「そうそう止めたんやった。」と思い出す。
なんか禁断症状というよりは、「うっかり騙されそうになった」的な不意打ちに近いような、自分で掘った落とし穴を忘れててはまりそうになったような。そんな感じ。

「オラオラ、禁断症状はどうした?正面からこんかい!」と思いつつも、本当に辛いと言われる2、3日目の禁断症状を心待ちにしている。
聴くところによるとこの禁断症状は「色ボケ」やら「恋患ひ」に近いらしく、そういうフレッシュ?な感覚にもワクワクものである。

いずれにせよ書くネタには困らなさそうでフフフである。

2006年06月28日

●禁断のてどんなの?

仕事帰りにネットで買った本を古本屋に取りに行った。
買った本以外に掘り出し物はないかと100円の棚を漁っていたところ、かの有名な『禁煙セラピー』があった。
特に禁煙しようとなどと殆ど思ったこと無かったけど、やたらと絶賛する人が多い本なので、まぁ100円やし買ってみるかー
と言うことで帰って読んでみた。
感想としては、なるほど確かにその通り。ごもっとも。異論はございません。
んじゃ俺も止めようということで止めることにした。

今までタバコを止めようと思ったり、禁煙を試みた事が無かったので、「禁煙の苦しみ」などと言うものも当然味わったことが無い。
いつも巡回している人のページで「トレインスポッティングな禁断症状を体験したい!」てな動機で禁煙してしまった人の顛末記を読んで「ほーそりゃたのしそうやなぁ。」と思ったことがあるので、その噂の「禁断症状」てのがどんな物かちょっと楽しみでもある。
空ろな目で虚空を凝視しながら手をガクガクプルプル震わせたり、「たー!ばー!こー!!」ってのた打ち回りながらLANケーブル齧ったりと、減量中の力石徹とダウナー状態のビル・エヴァンスを足したような状態をイメージとして期待するが、「ニコチンの禁断症状」で肉体的な反応は殆ど出ないらしいので、残念やら良かったやら。

ぶっちゃけ世の中は洗脳の掛け合い、狐と狸の化かし合い的な側面を持っている。
どうせどちらかに洗脳されざるを得ないのなら、当然得になる方を選ぶわな。

2006年06月27日

●for(;;);

図らずも同級生あること、かつ共通の知人が数人いた事が判明した人と話し、お互い「みんないなくなるね」的な感想を述べ合う。
話しているうちに、卒業前後当時の「なんと遠いところに来てしまったのだろう」という感慨を抱いた状況を思い出したが、その当時から見れば今も「遠いところに来た感」を抱くのに十分値する状況だろう。
それでも、俺が変わったのかと言えばたぶん殆ど変わっていないような気がする。
実際にやっていることは全く違うけど、考えていることは殆ど変わらない。
結局何も変わってないなぁ。などと昔を思い、遠い目で自転車を漕いで帰って来た。

「ナベをかぶる」と「ニュース速報板を見る」は全く違う行動に見えるけど、実は「地震だ危ない!」という同じ原因から端を発する物かもしれない。
また、「雪山に行く」という行動でも、「雪が全てを隠してくれるさ」や「ビッグフットを捕まえる」など複数の欲求が原因になりうる。
現象や状況だけを見たところで本人が何を志向しているのかは判らないし、欲求が同じでも全く別の行動を取りうる。
なんとも難しい世界にわれわれは住んでいる。
人に対して「絶対理解されるはず」だとか「絶対理解できるはず」とか期待するのがそもそも間違いであるに違いない。

そう考えれば、楽になるのか辛くなるのかは志向性の問題であり、んでもってどうすべきなんかもまた欲求が求めるところになってくるので、結局振り出しに戻るのであった。

2006年06月26日

●ツール・ド・おフランスまであと5日

たとえば、クーラー、自転車、半田ごて、などなど、
A氏にとってある物は無くてはならない物だが、B氏にとってはそれが無くて何の不都合も無く、
逆にB氏にとって別の何かが無いととても辛いが、A氏はそれが無くても痛くも痒くもこそばゆくもなんとも無い。
依存性、嗜好、好み、などなど色々な言い方はあるが、
この程度の些細なことでも人間同士はかなりの多様性を発揮する。
万人にとって共通であり、かつ万人にとって救いとなる真理など存在できる余地があるのだろうか?

俺と知り合いにならなければベートヴェンのピアノソナタなど一生聴かなかっただろうし、俺が薦めなければ『カラマーゾフの兄弟』など絶対読まなかっただろうと言う人が何人かいる。
その事実だけで、俺が生きた意味が1/3くらいあったのではないだろうか。とふと思った。

2006年06月25日

●恐れるな若者よ

天気が悪いので今日も引きこもる。日曜日はオペラと言うことで大音量で聴きまくる。
オペラに関する素養が少なすぎるので、聴きながらもネットで色々調べ、冬眠前のリスのごとく色々な知識を溜め込んだ。
家にいながらもちょっとした調べ物なら問題なく出来る世の中と言うのは便利やなぁと改めて痛感。

しかしながらインターネットっつうのは、軽いレベルの共有知の裾野を広げると言う意味では個人の知を範囲を拡大したように思うけど、余りにも簡単に情報が手に入るので、個々の知識から導き出される知恵のレベルでは、個々をバカの方向に引っ張ってゆくんじゃないだろうか?
検索すれば大概のことはわかるけど、大体は表面的なことばかりで蓄積されるのは知識ばかり。何かをわかった様な気になるけど、気ばかりで知恵がついてこない。
考えなくても知識が手に入り、知識だけで事足りるような知しか使わないような生活をおくっていると、「知識バカ」になってしまいそうだ。
他から得た知識と言うのは道具に過ぎないのであって、ようはそれで何をするかが問題なのだ。

色々な物に対する知識の広さと量と正確さと、それらに対するアクセスビリティで言えば、紀元前のギリシャの哲人や19世紀ロシアの文豪より、21世紀に住むわれわれの方がはるかに勝っているのは間違いないだろう。
しかしながら、われわれが彼らより知恵があるのか?と言うことに関しては考える間でもなく明白だ。

情報や知識が多ければ多いほど知恵は育たなくなる。とまで言うつもりは無いけど、
いうまでも無く人間の脳のキャパシティーは有限である。
無駄な知識や情報を頭に詰め込むのだけに精進していては、知恵が生まれる時間も脳に知恵が宿る場所も無くなってしまうだろう。
流行やとか最新情報から遠ざかるのは怖いけど、要らない知識を身につけず、不必要な情報から遠ざかるあり方も検討されて良いのではないかと思った。

amazon ASIN:B000002RUE Otto Klempererが指揮するモーツァルトの「魔笛」を聴いた。
何でもこのCDは「台詞」の部分が無く、普通のオペラとは違う構成なのだそうだ。
いずれにせよ今まで聴いたオペラは「抜粋」なる「台詞」が無い物ばかりが殆どなので、違和感など全く感じなかった。
いかにもモーツァルトらしい派手な歌曲で安息日なる日曜日にふさわしい。
「夜の女王」役、Lucia Poppのソプラノが素晴らしい。一幕の「恐れるな若者よ」と二幕の「復讐の炎は燃えて」のアリアで繰り出される人間離れした高音がなんとも心地よかった。

2006年06月24日

●ライ麦二冊

昨日のサリンジャーつながりと言うことで、「ライ麦」二冊、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』と村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだ。
村上春樹は、どうしても野崎訳が気に食わん。この訳が標準とされていることに我慢ならん。ということで翻訳を買って出て、あえて原題もそのままのキャッチャー・イン・ザ・ライというタイトルにしたらしい。
初めて村上春樹の訳のを読んだ時は、
あーダメダメ、村上春樹は子供を描くのに向いてへんやん。「つかまえて」の方がええわ。
って思ったけど、野崎訳のほうは昔から何回も読んで馴染みきってて、かつ村上春樹の攻撃的な姿勢にちょっと違和感があっただけで、改めて読み直してみて、村上春樹の訳もそれはそれでええやん。どっちが良いとか悪いとか言う話が多いけど、どっちもどっちなりにええやん、「ヨハネによる福音書」と「マタイによる福音書」を優劣のレベルで比較したりせんでしょ?と思った。

amazon ASIN:4560070512 amazon ASIN:4560047642 村上春樹がこだわってた、タイトルの「The chatcher in the Rye」やけど、これは主人公のホールデン少年が妹に、将来何になりたいのか?と問われて、崖のあるライ麦畑のようなところで遊んでいる子供たちが、崖から落ちそうになったら、さっと現れて「catch」する人間。I'd just be the catcher in the rye and all
と語ったところによるようだ。
確かにこれを「つかまえて」と訳すのはおかしいと言えばおかしいと思うけど、ホールデン少年が「ライ麦畑の受止め人」になりたいていうのを、ホールデン少年も崖並みに危険なところにいる自分を受止めて欲しいという願望の現れであると解釈したら、タイトルだけを「ライ麦畑でつかまえて」と訳してもそんなに怒ることは無いかと思うのだが。どうだろう?
いずれにせよちょっとした本好きなら『ライ麦畑でつかまえて』の原題が「The chatcher in the Rye」であることは当然知ってるわけやけど、その事の意味とか問題点を再燃させた村上春樹の功績は大きいやろうと思う。

タイトルは別にして、当然ながら話の本筋としては野崎孝も村上春樹も同じ。
少年時代の潔癖感とか無力感とかそういうことはもうわざわざ言わんけど、とっくに少年ではない筈の俺から見ても世界に「インチキ臭い物」は確かに多すぎる。
世界のインチキ臭さに耐えられずに苦しんでる人や、「インチキ臭い物」にインチキっぽくない人がどんどん取り込まれてゆく様を見るのはなんともつらい物でもある。
俺から見て「インチキ臭い」と見える物と関わりを持ちつつも、俺には関係ないものとみなして、まがいなりにも閉じこもるべき世界に逃げ込んで自分を守っている俺も、ある意味では「インチキ臭い」だろう。

宮沢賢治は『雨ニモマケズ』で、有名なので引用はしないが、具体的な色々な行動例を出して「そういうものに私はなりたい」と言い、
ホールデン少年は「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたい」と言った。
たしかに、そういうものになれたらどれだけ良いだろうと思う。
でも、Nietzscheさんは「人間は汚れた流れである。それを受け入れて、しかも不潔にならないためには、我々は大海にならなければならない。」と言った。
汚れを受け入れてなお不潔にならない大海、そういうものに私はなりたい。

2006年06月23日

●J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』

某氏の座右の本と言うことで読み直してみた。
定番?の新潮文庫、野崎孝訳である。
二十歳になるかならんかの頃に2度ほど読んだので、かれこれ十年ぶりくらいと言うことになる。
ちなみにその某氏を除いて、この本を愛して止まないと言う人と、何が言いたいのかさっぱりわからず受け入れられん。と言う人を一人ずつ知っている。
ちなみに後者の人は安部公房とアンドレ・ジイドが好きだそうだ。なんか変な組み合わせのような気もするけど、なるほどと思う組み合わせでもある。わかるようなわからんような。
仕事から帰ってきて四時間ほどで読んでしまって、何となく作者とこの本を好きな人に失礼なような気もするけど、今更何が失礼と言うこともないわな。失礼なことが出来ると思うことが失礼やわな。と思い直す。

amazon ASIN:4102057013 「ライ麦」のサリンジャーと言えばもう悲しいくらいのナイーブさって感じのイメージがあって、その事はこれを読んでも変わらなかった。
昔はこれ読んで「わかるぞ。わかるぞぉ…」的な感触を抱いていた記憶があるのだが、今回読んで、俺はこんなにナイーブでもタフでもないし、暖かくも儚くもない。中と外の境界をきっちり引く人間になってもうたし、嫌な世界はこちらから拒否してやる。って思ってるもん。これを「わかる」という資格はもうすでに無くなってるなぁ。てな気がした。

今までカラ兄読んだ後は、しばらく何読んでも「効かぬ、効かぬのだ…」てな感じやったけど、この本はカラ兄とは全く別のとこから全く別の部分にヒットしてかなり効いた。
カラ兄的「典型」とは全く別の「典型」になりにくい人物の、ある種典型的な美しさは俺の中の変なトコを刺激して止まない。
結局サリンジャーを気に入るか気に入らんかと言うのは、こういう人物に美を見いだすか、こういう人物が好きかと言うことになるのではないかと思う。

「ライ麦」のような長編でなく、この『ナイン・ストーリーズ』は短編集であるがゆえに、一つ一つの話が「ナイーブさ」のおかげでどうしようもない悲劇になってしまう前や、悲劇が重くなるための前ふりの要素が無い分量で終わっている。
重くて長い「ライ麦」の場合は一つの物語を掘り下げてゆく言わば「質」の構成やけど、『ナイン・ストーリーズ』の場合は、切れ味の良いどちらかといえば同じ方向性を持った短編を九つ並列することで言わば「量」の構成になるわけやけど、単純に「量」だけでなくって、九つ重なることで生まれる効果というもんを実感した。
何となく表現しにくいけど、帰納的というか、こういう人も一杯いるからね。というか、ホールデン君だけの話じゃなくって、みんなの話ですよ。とかそういうこと。

今まで生きてきた中で、俺の無神経さから色んな人を傷つけたり迷惑をかけたりしたやろうけど、その事に対して謝れるものなら謝りたいなぁ。などとしみじみ思った。
とは言っても実際謝れるわけでもないので、そう思っておくだけやけど。

なんだか最後は小学生の読書感想文みたいになってもうた…

2006年06月22日

●クロイツェる1日

いつの間にかもう木曜日。
出勤時に寝ぼけながら自転車で走っていて、土手から大通りにあがろうと減速しながらくさび型のコーナーを曲がったところ、不意に後輪がロックして前輪を軸に120度ほどテールが流れた。
びっくりして目が覚めると同時にかなり恥ずかしかった。何を大層なコーナリングしとんねん。絶対普通に曲がった方が早いし、タイヤにも地面にも優しいぞ。
でもちょっと楽しかったかも…
仕事中もなんか一日中バタバタしてた。幼稚園児やプリンタの相手のかたわら、新兵器の試射と仕込みを黙々と続ける。
仕事が終わってから職場の飲み会に参加。(全く飲んでないが…)
終了後に小雨の中を自転車で帰ってくる。
慎ましやかな小雨の中を走っていると、こっちまで何とも慎ましやかな気持ちになる。

最近はマダイやハマチなどデカい魚を見ると「ああこんなん突きたいなぁ」としか思わない。
もうある種の病気やろう。と自分でも思う。
趣味と言えばまだしも、依存と言ってしまえば聞こえが良かろう筈はない。
「趣味」と「依存対象」を明確に分けることなど不可能なのではないかと思ったりしてみた。

自分の中から色々なものをえぐり出し、えぐり出していけば、最後に何か残るのだろうかと不安に思う。

amazon ASIN:B000091LCD イツァーク・パールマンとウラディーミル・アシュケナージの演奏するベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調op.47「クロイツェル」を聴いた。
パールマンとアシュケナージが弾くヴァイオリンソナタと言えば、エアーウルフにナイト2000のコンピューター搭載したくらいの戦闘力がある。(若人にはわからんか?)
しかしこのCD版のジャケット、アシュケナージはともかくパールマンの写真は修正入りすぎでないか?まぁ良いけど。
このレコードを切っ掛けにルートヴィヒを聴き始めたけど、やっぱり今聴いても素晴らしい。
ビル・エヴァンスとスコット・ラファロなにものぞ!と言うほどの二人のセッションで、
とてつもないテクニックに裏打ちされた余裕ある演奏で、
過剰なまでのヴァイオリンとピアノの会話がなされるクロイツェルはとても心地よい。

2006年06月21日

●すめるじゃ

某氏に最近首からぶら下げてるパンダの小銭入れに「すめるじゃ」と名前を付けていだき恐縮する。

謙遜な人を見るといかに自分が傲慢であるかがよく解る。
もう何も思うまい。と思っていてもついつい不満が噴出する。

傷つきたくない、辛いのはかなんなぁ。と思いつつも、
無感覚であることと、精神的に強いこととは全く違う筈だ。などと思う。

この日はパソコン触っているうちにいつの間にか寝ていた。

2006年06月20日

●キリエ・エレイソン

今日も暑い。
帰りに20km/h以上をキープ!と必死に逆を登る登る。散歩中のおばあちゃんが足を止めて眺め、散歩中の犬が吠え掛かるくらいの必死さ。
なぜここまで必死になるのか時分でもよく解らない。ムルソー君的に言えば、もうすぐツール・ド・フランスが始まるからだろう。
この暑さの中これだけ自転車を漕いだのでオーバーヒートするかと思った。
暑ければ暑さに、寒ければ寒さに、雨なら雨に「かなんなぁ」と思うわけで、人間何とも理不尽で哀れなものである。

amazon ASIN:B000025WXF Deutsche Grammophonの二枚組CD「Gregorian Chants」を聴いた。
再現可能な最古のヨーロッパ音楽と言われるグレゴリオ聖歌は、音楽技法から見ればとても原始的で、楽譜は四線符やし旋律は一つで和音もなく、当然伴奏もない。
指揮、演奏はルチア−ノ・ミリアヴァッカ司教 / ミラノ大聖堂聖歌隊ということで、ブームに火をつけたサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院聖歌隊が繰り出す、耽美に甘い一般的なソレム唱法なるものではないらしい。
少なくとも甘くは感じんし、禁欲的な感じがすると言えばするかも。

ハーモニーなしの男声アカペラのユニゾンはとても単調に聞こえるけど、聴いていると不思議に引き込まれる。
謙遜で確信に満ちた雰囲気が何とも心地よい。
こういう風になりたいものだ。

2006年06月19日

●ふわふわさん

昨日四時前までカラ兄読んでたので今日は寝不足だった。
一日中ちょっとちょっとふわふわした感じやったけど、ふわふわながらもちゃんと仕事はしたぞ。
そういえば昔飼ってたウサギの名前が「ふわふわさん」やった。まぁ関係も脈絡も全然ないが。

カラ兄読んでから1日たったけど、まだカラ兄な余韻が残ってる。
たとえて言うなら…破廉恥なので止めておく…
しかし、こういう余韻がここまで残る本て最近無いなぁ。

この本読んで生まれ変わりました!とかこの音楽聴いて人生決まりました!この映画見て人生が決まりました!とか言う人がいるけど、
本読んでも音楽聴いても、本とか音楽で生まれ変わったり人生が決まったりした感覚が俺には皆無である。これから起こりそうな気配すらない。
いくら本読んでもいくら音楽聴いても俺は全く変わらんやろう。
まぁ読み方、聴き方の問題はあるやろうけど。それはとりあえず置いとく。

何かを探して本を読み、何かを探して音楽を聴き続けてはいても、「これは…」と思うことすら最近はほとんど無い。
人間であれば誰でも変わりたいと思い続けるものやろうけど、外的要因に頼りすぎるのも如何なものか。
変わるのではなく変える。ドミートリーな情やイワンな知の問題ではなく、アリョーシャな意の問題なのではないか?と思いつつ、俺は眠たいのでもう寝る。

2006年06月18日

●『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー

途中中断が数時間あったもののこの日で米川正夫訳『カラマーゾフの兄弟』を読了。
もう何回読んだかわからんけど、何度読んでも読むたびにこれだけ揺さぶられる小説は他にない。
ギラギラした高校生の時に読んでも、くたびれかけた30過ぎになっても、ストーリーをまるっきり覚えていても同じように迫ってくる怒濤の勢いは凄すぎる。
読めば読むほど好きになる本というのは本当に珍しいと思う。
この長大な小説をを最低50回は精読したという某シュタインはさすがにやりすぎやと俺は思う。でもそれくらいは読みたいかも。

amazon ASIN:4002010961 でも一方で、いくら「普遍」である(と俺は言い切る)小説だと言っても、やっぱり古くさいと感じる部分はあるかもと今更ながらに思った。
アリョーシャやゾシマ長老が素晴らしい人間やというのは倫理的な側面から誰が読んでも大体一致するとこやろうけど、
イワンが何を本気でうじうじ悩んでいるのか、ドミートリーが何でそんなにハイになったのか、ってところは「無宗教であるのが正しい」とか「宗教は怪しい」「宗教に行く人は弱い」とかいう事になってる現代的な感覚からはわかりにくいやろうなぁと思うし、
カラ兄で最も有名で深いとされる「大審問官の章」でも、現代から言えば「神は死んだ」どころか「最初から中の神などいない」という前提になってんねんから、「人間は自由の刑に処せられている」とか言う以前に問い自体がおかしいことになる。
こういった信仰とか宗教とか無神論とか自由とか赦しとか言ったテーマでは今の読者は絶対掴めんやろう。
個人的にはそういったことはとても大事で切実な問題やとは思うけど、それでも現代の感覚から言えばそういったことを問題にする人はごくごく限られるわけで、言い方を変えれば完全にずれているとも言えると思う。

今までカラ兄といえば「大審問官の章」てな感じの読み方ばかりされて、そういう読み方が王道のような言い方をされてたけど、もっと現代に即した他の読み方も模索した方が良いのではないかと思った。
「大審問官の章」に凝縮して語れるほどカラ兄は小さくないし、一通りの詠み方しかできないほど懐が狭い事はないと確信している。

「大審問官の章」的な所は「ふーん」てな感じで読んでおいても、ゾシマ長老とかアリョーシャとかコーリャとその仲間たち、スネギリョフ二等大尉とその家族をメインに読んでも十分偉大な話やと思うし、出てくるキャラもみんなキャラ立ちすぎるくらいにぶっ飛んでる。
凶女と卑屈男を書かせたら世界一のドストエフスキーが描く「ホフラコーヴァ夫人」と「スメルジャコフ」の破壊的なまでの戦闘力の高さだけでなく、完全な脇役陣でありながら一騎当千のグリゴーリイ、リーザ、マクシーモフ、ラキーチン、フェラポント神父、ヘルツェンシトゥーベ先生などの繰り出す弾幕は余りにも厚すぎる。
涙無しには読めない場面あり、もう呆れて笑うしか無い場面あり、気色悪くてぞくぞくするしかない場面あり、キスシーンすら出てこない健全さにもかかわらず、まともな奴は誰一人として出てこない、バカがバカを呼びキティーがキティーを呼ぶ至高の茶番劇『カラマーゾフの兄弟』おまけに「大審問官の章」もついてくるよ。
さぁ読んでない人は読んでみよう!
「それなんてヴィンチコード?」とか言ってる場合じゃないよ!
という読み方はダメ??

アリョーシャが最後に「イリューシャの石」のとこで「ここでこういう尊い感情を持った瞬間があったことを一生記憶しましょう」てな事をいったけど、俺も少年たちの一人に混ざってしかと記憶したし、最後の「カラマーゾフ万歳!」は俺も一緒に唱和した。
小説は純粋に疑似体験しておけばそれで上等。直接的になんか引き出してやろうとか、何かを学んでやろうと思うのは、そりゃぁスケベ心やと思った。疑似体験から学べればそれで最上。
なんで今までこういう詠み方をしてなかったんやろうとちょっとだけ思った。

2006年06月17日

●武装した人

今日も引き籠もって「カラ兄」を読みふける。
昨日の夜と今日の丸1日かかってちょうど半分を読み終える。
「カラマーゾフ万歳!」で幕を閉じるこの世界もたぶんあと1日で終わり。
もう半分か。と残念に思う気持ちと同時に、まだ半分ある。というちょっと嬉しい気持ちが入り交じった複雑な心境。

感想については通読してから書くので、1部から7部までの前半で印象に残った言葉を少しだけ。
かの有名な「大審問官」の章の少し前にイワンが世界と神の計画の理不尽さを述べた後に言った言葉。
「ぼくはずっと前から理解すまいと決心したのだ。何か理解しようと思うと、直ぐに事実を曲げたくなるから、それで僕は事実にとどまろうと決心したのだ」

続いて、ゾシマ長老が死に臨んで、庵室で同宿の僧たちに信仰のレベルでの裁きと許しについての話で出た言葉
「またかりに自分で罪を犯したとする、もしそれが数からなるさまざまな罪にもせよ、心ならず犯したただ一つの罪にもせよ、死ぬまでもその事を悔い悲しむような場合には、自分より他の人のことを思うて喜ぶがよい、よし自分が罪を犯したにもせよ、その代わり、ほかに正直な、罪を犯さぬ人がある、とこう思って喜ぶがよい」

信仰無しでたどり着ける場所があれば、信仰無くしてはたどり着けない場所もある。
信仰無くして決してたどり着けないように見える高みを、信仰無しで目指そうとするのは間違っているのだろうかと思う。

amazon ASIN:B0000060DB Ockeghem: Missa L'homme armeを聴いた。
ゾシマ長老やアリョーシャが属していた僧院やカラ兄の宗教観はカトリック的なものとは違う、ギリシャ正教の流れを汲むものであり、カラ兄で展開されるロシア正教から見たローマカトリック批判の言わんとする事はわからんでもないけど、日本人の俺からすれば、こういうとなんだが、どちらもたいした違いには見えない。
カラ兄を読みながらこのルネサンス期の教会音楽を聴いているとトリップ以上のものを味わう。

ミサ曲に「武装した人」と言うタイトルがついているのにいつも違和感を感じていたけど、それが大天使ミカエルを指しているとすれば判らんでもない。
キリスト教的な信仰の「意」のレベルでは毎日がサタンとのある種の戦いになるわけで、象徴的な意味での「武装」が必要である事はよく解る。
まぁ、どっちにしろなんか深いところに染みこんでいくようなアカペラの和音がなんとも心地よい。

2006年06月16日

●カラ兄にうってつけの日

家に帰る。
ルートヴィヒのピアノソナタが全曲詰め込まれたshuffleの音をダイレクトの耳に流し込み、本棚から『カラマーゾフの兄弟』取り出して読み出す。
イヤホンで外部を遮断し、本の世界に没入する。
外から内から同時に行われる、この離脱感と没入感は強烈だ。
現実逃避の目的から身に付いた、読書と音楽を聴く習慣に再び意識して没頭する。
逃避するほどの辛い現実に囲まれているわけでもなく、離脱したいほど酷い世界だというわけでもないが、とにかく世界から離脱しカラマーゾフ一族が織りなす至高の茶番劇の世界へと逃避して没入する。

amazon ASIN:4003261496 俺が読んでいるのは河出の世界文学全集やけど、当然ながらアマゾンにはないので、同じ米川正夫が訳者である岩波文庫版へリンクを張っておいた。

俺が『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるのを見て、母が何かあったのかと尋ねる。
そういわれて初めて、俺はちょっと何か事あるごとに『カラマーゾフの兄弟』を読んでいた事に気づいた。
混乱するとシャツにアイロンをあてる人や、落ち込むと公園で鳩に豆をまいてやる人がいるように、俺は精神的に大きく揺らいだ時に『カラマーゾフの兄弟』を読むようだ。

かといって今更何かが起こったというわけでもない。精神的に揺らぎを起こしてしかるべき事など何も起こってはいない。ただ読みたくなっただけだ。

ゾシマ長老の言葉が一々心を打つ。カラマーゾフ一族のナイーブさにいたたまれなくなる。
分厚くて字の細かい本が大好きだ。更にそれが二段組みだったりするとなお良い。
本が長ければ長いだけ、その本の世界の終わりは遠い。
さらにその世界が「カラ兄」であれば申し分ない。

2006年06月15日

●プレデター魂

土砂降りの中を帰ってくる。帰ってひたすら音楽を聴く。
浮かんでくる邪念に音楽でフタをし、解けてしまうまで待つ。

暴力的にまで執拗な雨だ。
屋根があると言う事は実に素晴らしい。

ネトラの脇に置いてある「ガジュマル」が異様に茂ってきた。
夏は近い。確実に夏は近づいている。
とりあえず今は夏と海さえあれば他には特に何もいらない。

海に潜りたい。
海に潜ってイシダイの鰓蓋にキジハタの脳天に銛を撃ち込みたい。
冷たい水とマイナス浮力と鰓から溢れて視界を奪う血煙に身をゆだねたい。
深度15mの海底で純粋な殺意と狩猟本能の塊となって岩にしがみついていたい。
何も考えず肉体感覚と肉体感覚外の本能にこの存在を明け渡したい。

amazon ASIN:B000056EVK Miles Davisの「Jazz at the plaza」を聴いた。
コルトレーンのテナーとキャノンボールのアルトがひたすら暑苦しい。
マイルスはもちろんの事、ビル・エヴァンスのソロまで暑苦しい。
炎天下でコタツに入ってどてらを着て鍋焼きうどんを食べているかのような、妙な連帯感で全員一丸となった暑苦しさがなんとも心地よい。

2006年06月14日

●明日はどっちだ

人間生きていれば自己嫌悪やとか自己否定におちいる事も多々あるだろうが、基本的に俺はそういう状態に陥りやすい人間に好感を抱くタチであり、
「私は常に正しい」を前提としたり、「世界がみんな私のようなら世界は平和になるのに」とか言ってしまうような人間にいまいち好意を抱く事が出来ない。

言うまでもなく生物としての人間は自己保存本能を備えているわけであるから「利他的」なるモラリティーから外れた言動を取るのは、極端な事を言えば、他の動物を殺して喰らったり、草や木の実をむしって食べた時点で「汝殺すなかれ」 的にはアウトであるからして、突き詰めて見るまでもなく当然と言えば当然である。

人間同士で「あいつは悪い奴だ」とか「こいつはサイテーだ」などと問題になるのはその人が悪いかサイテーであるかどうかではなく、告発者や一般的な度合いから見た「悪い度」や「サイテー度」が高いかどうかを問うているわけで、ようは「程度の差」が問題になっているわけだ。
逆の言い方をすれば「悪い度」や「サイテー度」がかなり低い人間を我々は「良い人」やとか「人格者」などと呼んでいる事になる。
「悪い値」や「サイテー値」がゼロの人間などいないと言う意味で、真の意味での「良い人」や「人格者」も存在しないのは言うまでもなかろうと。

おおむね他人から見て「あいつはヒドい奴やなー」とか「こいつはもうどうしようもない」などと思われる人間は大抵自分自身の事をすばらしい人間であると思っているパターンが多いわけで、逆に殆どの他人から見て悪い人どころか良い人にしか見えないのに自分を卑下するする人も結構いる。
なんか最近心理学とか精神医学的な見地から「自分はダメな人間だ」とか「自分自身が嫌いだ」とか言うのは鬱病とかナントカ性障害とかの典型的な症例としてオススメ出来ん事のように言われるけど、俺はなかなか謙虚で偉大な認識の一つやと個人的には思うぞ。

「私は何も知らないが知っているとも思っていない」
「あなたがたの中で罪のないものが最初に彼女に石を投げなさい」
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
などと昔のエラい先人たちは、いかに自分自身が至らない人間であるかをきっちり自覚しなはれと仰っておるわけで、自分は知恵者である、自分には罪がない、自分は善人である。などとのたまう偽善者を批判したのである。

とういわけで、自分自身を嫌ったり、自分自身を否定したり、自分自身を呪ったりする人間に対して、「あなた方はおおよそ全ての人間と同じように至らない人間であるけど、自分自身を厳しく見たり、厳しく評価したりした意味で他の人間より偉大である。」
と言いたい。まぁもちろん自分自身に対してもそう言ってみたいてのもあるけど、それでもただただ自己否定だけでは確かにしんどい。

某ーチェも「あなたが何を否定したのかなど、私には何の関心もない。君の目が私に告げなければいけないのは「何を目指しての否定なのか」と言う事だ。」(かなり意訳…)
と言っているように、自分を否定する事でドコを目指すのかというのがなければ、ただただ自分を無くすだけやわな。
ある人に取ってはそれがギリシャの神々への愛や智への欲求であったり、エホバへの信仰や神の国の到来であったり、阿弥陀仏の本願や浄土やったりする訳やけど、そういうものを持たない人にとっては、何を求めてドコを目指すかってのは確かに難しい。
そういう価値を自分で作ろうとする人間は傲慢と言えば傲慢やけど、真面目と言えば真面目ではないかと思う。

まぁ、結論としては、まぁ多かれ少なかれみんな悪い奴やったりサイテーな奴やねんから、自分がそうなんも大して気にする事もあるまい。と言う事になる。

とエラそうな事を言ってみた。

当初は某氏の某ブログにトラックバック予定やったけど、なんか間接的に晒してしまう事になりそうなので控えておく。
その某氏は定期的に見てくれているようなので、本人も気づいてくれるやろうかと思ふ。

2006年06月13日

●そして都市伝説へ…

今日もロードで出勤。
今までマウンテンで川を眺めながら川沿いの未舗装ダートを走るのが気持ちよかったけど、ロードもやっぱり気持ちいい。
朝のさわやかな空気の中、並木道を車の流れに乗って気持ちよく走る。
ギアをアウターに入れ、前傾で空気抵抗を減らしこれでもかと漕ぐ漕ぐ。
高速巡行時独特の風を切る音、タイヤから伝わるロードノイズが心地よい。
前方に風よけにちょうど良い原付を発見。
急いで追いつき、後ろに張り突く。
前を行く今どきの大学生風原付レディーは、俺が後ろに突くとやたらとミラー越しにちらちらとこちらを見る。「なに!振り切れない!!」とでも思ってるようだ。
「ふふん。化石燃料の50cc燃焼エンジンごときにはまだまだ負けんぞ、俺の燃料はアデノシン三リン酸、エンジンはミトコンドリア」などよく解らん事を思いつつプチニヤニヤしながらひたすら風よけにする。
やたらとペダルが軽いのでメーターを見ると、時速48km、ケイデンス94。
「うっしゃーええ調子で回ってるーまだまだ回るでー」ということで、隙があれば追い越してやろうと思ったのだが、やむなく職場に向かうため測道に出てレディーの視界から消えることになり、朝一番のバトルは終了。

しかし、よく考えてみれば、前のレディーは今日の朝の出来事について友人や家族に、
「気持ちよく河原を走ってたら、気がついたら後ろにニヤニヤ笑う黄色い自転車がぴったりついてきて、いくらスピード出しても振り切れず、気づいた時には後ろにいなかった」
と語るだろう。

そのレディーは振り切れない事に驚いていたのではなく、「変な黄色いのが追いかけてくるよー(泣)」と思っていたのではないか?と言う事に思い当たる。
そういえばなんか俺とミラー越しに目が合いそうになると直ぐ逸らしたし、明らかに俺は「変なもの」として扱われたかも…
つーか「ターボばあちゃん」の話のちょっとスケールが小さくなったようなもんやん…
そうか…ある意味俺は妖怪変化魑魅魍魎の類に思われていたわけか…
自分が都市伝説なった事を感じ、また都市伝説とはこうして生まれるのかと思った、うららかで頬をなでる風の気持ち良い、梅雨の晴れ間の朝だった。

2006年06月12日

●既に梅雨入りという事になっているらしい

朝から遇う人遇う人に「お疲れですね」「まだ月曜日ですよ」などと言われる。
昨日あれだけダラダラしてたのに疲れている事はあり得ない。
俺はそんなに疲れて見えるのか?既に「くたびれた中年」をかもし出しているのか?
久々にロードで舗装道路を疾走。夜の風とペダルを踏み込むたびに感じる加速感が気持ちいい。
帰ってふと「ゴールドベルグ変奏曲」聴いて本気で凹みそうになった。いやぁ危ない危ない。

父がサッカーを見ていたので俺も見る。わずかに数人ほど知ってるのみで、もう誰が誰やらさっぱりわからぬ。慣れぬ事はせぬものだと反省。
散り出すと止まらぬ勢いに、なるほど日本の国花は桜であると納得した。

amazon ASIN:B00002MY2W 大西順子の「WOW」を聴いた。
一時期は「ジャズメッセンジャーズ」に入りかけた、京都府城陽市が生んだ最も偉大なピアニスト、世界の大西の初リーダーアルバム。
全く「泣き」が入らない、中低音を主体としてゴリゴリと弾くスタイルは、ロマンチシズムやリリカルなど犬に食われてしまえと言いたげで、饒舌に弾きまくる彼女はとても楽しそうで気持ちよさそうだ。
パワフルな彼女のピアノから出る音はなぜか濁って聞こえる事が多いのだが、しかし時折見せるクリアな高音にハッとさせられる。
垣間見えるツンデレが侠気溢れる演奏を引き立てて心地よい。

2006年06月11日

●さまよえるサマリア人

なぜか早くに目が覚める。
音楽を聴きながら1日を過ごし、午後には昼寝までする。
自ずから何かをするでなく、耳に入ってくる音楽にのみひたすら心を傾け、沸いてくる感情やら思念が語る言葉にのみ耳を傾ける。
目に見える「反応」も「行動」も何も無き廃人のごとき惚けた1日なれども、このような時間を送れる事はありがたきかな。などと思う。

窓から見える満月が綺麗だ。
一流の音楽家が演奏する一流の音楽を聴きながら、俺もなにかしらで一流の人間になれたらどれだけ良いだろうかと思う。
普通では無いと言われるにしても、ただ普通でないだけではありたくない。
迷ってばかり、彷徨ってばかりではどこにもたどり着けない。
迷うほどに選択肢があるのか、彷徨うほどに道は広いのかと言うのは別にして、そもそも俺は何処を目指せばいいのかと思う。

amazon ASIN:B000000Y7P Eric Dolphyのリーダーアルバム 「Eric Dolphy at the Five Spot, Vol1」を聞いた。
Eric DolphyとBooker Littleという若くして死んだ二人の演奏はとりあえず置いとくとして、一曲目、Fire WaltzでのMal Waldronのアドリブを聴くために俺はこのCDをかける。
寡黙すぎず饒舌すぎず、ただただ語りたい事だけを訥々と語る彼のピアノが、DolphyとLittleに刺激されて彼なりに弾ける様が何とも言えず素晴らしい。
羽目を外してなお上品さと羞恥心を忘れない人を見るのは何とも心地良いものだ。

amazon ASIN:B00008KKTC Eric Dolphyの辞世のアルバムとなった「LAST DATE」をレコードで聴いた。
彼のバスクラリネットとフルートの音色に死の予兆を…などという人がいるけど、俺は全然そういう風に思わない。
いつものドルフィー節、いつもの「馬のいななき」、死の予感など微塵も感じない。
このアルバムを聴く度に死の訪れの突然さにただ驚くばかりで、いつ死んでも良いような生き方をしたいと切に願う。
迫り来る死を知る事もなく、彼の出す楽しげで自由奔放なバスクラの音が心地良く、孤高のフルートの音がどこか哀しい。

2006年06月10日

●岡田節人&南伸坊『生物学個人授業』

昨日の生物学つながりで、岡田節人を先生、南伸坊を生徒とした、雑誌『SINRA』上での生物学に関する連載を単行本化した『生物学個人授業』を読了。
昨日の本は1970年初めまでの話やったけど、この本は基本的なところから入って、1970年半ばから1980年代までに解明されてきたミクロなレベルの生物学の話。

amazon ASIN:4104144010 具体的には、細胞の分化に関わるホメオボックス、細胞が自ら死を選ぶアポトーシスなど、どちらかといえばDNAとか染色体とかいった分子レベルでの生物学の話がメインになるかと思うけど、体細胞と生殖細胞の違いに関連して、遺伝子組み換え技術に対する偏見がどれほどの物かと言う事が熱く語ってあった。

よく納豆食べる時、パッケージに「遺伝子組み換え大豆は使用しておりません」て書いてあるけど、見るたびに「遺伝子組み換え植物の何が悪いねん?何をそんなにビビる?農薬の方が遙かに怖いぞ。」などと思っていたのだが、これを読んで「遺伝子組み換え技術」に対する一般的な嫌悪感が中々根強い事がよく解った。
極端な話、変に遺伝子が組み替えられた食物を摂ると自分の遺伝子が変異して、ある日突然羽やしっぽが生えてきたり、自分がよく解らんキメラになるようなイメージを抱いていたんやね。
それやったら毎日ヨーグルトを食べてる俺なんかはもーもー鳴きながら食べ物を反芻するビフィズス菌やら乳酸菌の塊になってるやんか。日本人やアメリカ人は全員イネ科、ドイツ人はナス科の植物になってるぞ。
などと思うのだが、パッケージにわざわざ「この〜には遺伝子組み替え技術を使用していません」などと書くくらいやから偏見は強いのやろう。
さらに、パッケージにこういう事を書く事によって「あー遺伝子組み換えってヤバいんや」などと思う人も出てくるに違いない。
「マイナスイオン」などと同じく、「知らない事」から来る偏見と「未知なる物」に対する恐怖というのは中々侮り難しと思った。

とは言ったものの、全くの素人向きの本にもかかわらず、「アポトーシス」やら「ホメオボックス」なるものが何を意味するのかだいたい知ってはいた上で読んでも、新たに知った事は多かったし、生命や発生に関する事に対する自分の偏見や思いこみに気づきもした。
生物学に関してはいうまでもなく、自分の得意分野(たとえばソラリス)に関しても自分の知と一般的な知も程度の差しかない訳で、知らない事と知ってる事の差が問題になるのではなく、偏見や無知によって傷つく人が沢山いる事が問題だと言う気がする。

「生物の仕組みって凄いなぁ」とひたすら感心する本であったけど、生物好きにとっては細かい話が余り無く、ちょっと物足りないかも。
でもまぁそれがこの本のコンセプトな訳やしね。

2006年06月09日

●ブルーバックス『新しい生物学』

読みかけで放置してたのを帰ってきてからガーッと読んだ。
例のごとくいつぞや古本屋で買い叩いてきた本。
野田春彦、日高敏隆、丸山工作の三人の共著。ヨー・ヨー・マとフジ子・ヘミングと訪内晶子のトリオくらいの豪華さ。もちろん微妙…という意味じゃないよ。
タイトルこそ『新しい生物学』ってなってるけど、この本の初版が出たのが昭和49年で、その当時に「新しい」とされた事なので、内容は1980年代終わり頃の高校で教えたような生体内の物質交換や遺伝、動物行動学や生態学、進化論や生命の起源の話。

amazon ASIN:4062572419 アマゾンに写真がなかったので改訂版の方にリンクを張った。
たぶん内容は同じやと思われるので。
冒頭でも述べたように、この本は高校時代にまじめに生物の授業受けてたらだいたい知ってるような事が書いてあるわけやけど、三人の著者はそれぞれ中々有名で本も沢山書いている人なので、話はとても面白かった。
今となっては誰でも知ってるような話やけど、30年前は結構最先端の話やってんなぁ。と思うと科学の進歩を感じる。

高校の頃まではずっと分子生物学をやりたかったので、当時こういう話を聞いたり読んだりすると無駄にワクワクしたものだが、結局哲学を選んだ今となっては、普通よりちょっと興味がある話だという程度で、当時ほどの熱意は全くない自分にちょっと違和感を覚える。
しかしながら、 ある種の歌や映画が特定の時期やら季節やら、人やら出来事を連想させるように、トランスファーRNAとかメッセンジャーRNAとかATPとかクエン酸回路とかいう単語は高校時代の事を思い起こさせる。
つーか高校の時に好きやった女の子を直接的に思い出してビミョーな感覚…3Dさんどうしてるんやろう…元気にしてるかなぁ…

って、本の感想じゃねぇや。

2006年06月08日

●雨ネトラ2

帰りは雨降ってたけど気にせず疾走。
自転車に乗ったとたんに大降りになるのはお約束だが、今となってはもう何とも思わない。
しかし帰って部屋に入ると、窓際に置いてあるnetraの天版にプチ水たまりが出来ていて激しく驚いた。どうやら窓越しに雨が吹き込んだらしい。
空調設備もなく雨風に晒される環境下のテストなど、流石のSUNもしていなかっただろうが、特に問題なく元気よく動いていた。
どこでも戦える!!netra!!

amazon ASIN:4150308519 夕食後買ってきた『グインサーガ 108巻』を読んだ。
最近は新しい巻ごとに新設定とか新複線が出てくる。読んでる分には良いが、ちゃんと作者は最終巻を書き上げる事が出来るのか??

2006年06月07日

●咳とカメレオン

風邪は治ったものだと思いこんでいたがどうやらそうでもなかったらしく、90分にわたる「土偶ネットワーク寄席」ではやたらと喉がいがらっぽく、ひたすら咳が出て噛みまくった。「どめいんこんとろかふぁkっごあdfじゃlsk」
しかし咳すると今まで何を喋ってたのか7割方忘れてしまうんだなこれが…
咳と一緒になんか飛んで行ってるのだろうか。

ということで、今日は帰ったら早々に布団に潜り込んで本でも読んで早々に寝てしまおう。などと思っていたのだが、
mp3再生LinuxマシンをSUSE10.0→10.1にアップグレードしようか?いやいや、マイナーアップグレードでデスクトップのリアルカメレオン壁紙がなくなったらしい。やっぱり評判悪かったのか?でもリアルカメレオンでなくなったので止めておこう。
そしたらSUNが正式サポートしそうな勢いのubuntu Linuxに乗り換えるか?いやいや、やっぱりカメレオンも捨てがたいなぁ。どうしよう…
などと不毛な事を考えながらwebを彷徨っているうちにこんな時間になっていた。(現在午前2時)

amazon ASIN:B00005B58X 最近はMilesのLive音源ばかり聞いているが、今日もLive録音のMiles Davis のMiles Davis at Newport 1958を聞いた。
ミュートせずにご機嫌さんにオープンでブリブリ吹きまくるMiles。
一転してあちらの世界にいるかのような内向的なソロをとるBill evans。
そのソロに割り込むように自分のソロを始めるMiles。
消え入るようにリズムセクションに戻って行くBill Evans。
一見Bill Evansを虐めるように聞こえるが、Bill Evansをこちらの世界に連れ戻すかようなMilesの漢気溢れるトランペットが心地良い。

2006年06月06日

●mt-isbnlをハック、mt-isbn++に。

らぐなななさんの所の「MovableTypeのプラグイン」で紹介されているmt-isbn.plという物がある。
この土偶StaticRouteでも「本」カテゴリで使用しているもので、たとえば、エントリ中に
amazon ASIN:4784098933 と書籍のISBNコードを入れると、
amazon ASIN:4784098933 と言う風に、勝手にアマゾンの画像を表示して、更にアマゾンへの商品紹介ページへとリンクを張ってくれるという便利なものだが、便利ながらもいくつか不満点があった。
具体的には、
1,画像の読み込み元がアマゾンなので無駄にトラフィックが発生している。(はず)
2,アマゾンのイメージサイトが落ちると画像が表示されない。
3,古い本で、アマゾンに画像がない場合いかんともしがたい。
というものだ。

一番良いのは全て手動で自サイトにイメージを置いて、リンクだけアマゾンに張るというのが理想的なのだが、いちいちアップロードもタグ打つのも面倒くさいので、ずっとそのままにしていた。
もっと便利そうなプラグインを探してみたのだが、結局見つからず、昨日アマゾンのイメージサイトがダウンしたのを切っ掛けに amazon ASIN:xxxxx と入力するだけのインターフェイスはそのままに、mt-isbn.plをハックして欲しい機能をいくつか実装した。
手前味噌ながらも、思った以上の便利なプラグインになったので公開してみる。
いやー自分で言うのもなんやけど便利やわー

目玉機能としては

1,自動でアマゾンから該当画像をダウンロードしてキャッシュとして自サイトにコピー
2,画像の読み込み元は自サイトで、リンク先はアマゾン
3,アマゾンに画像がない場合に表示する画像を指定可能
4,アマゾンから持ってくる画像を大、中、小から選択可能
アマゾンに画像がない場合は こういう感じに表示されます。

必須条件:
Movabletypeが動作している
perl上からファイルをダウンロードするのにLWP::Simpleモジュールを使用しているので、これがインストールされていること。
インストールされていない場合、レンタルサーバーの場合は管理人に頼んでみて下さい。
自鯖の場合はcpan から install LWP::Simple で入るはず。

設置方法:
mt-isbnpp.pl をダウンロードしてMovabletypeのpluginsディレクトリに置く。
既にmt-isbn.plを設置している場合はこれを削除する。
mt-isbnpp.plの


#サムネイルの画像サイズを設定します。
#小 1 中 2 大 3
my $IMG_THUMB_S = "2" ;

#アマゾンの画像置き場URL 画像の所得元URL
my $RMT_URL = "http://images.amazon.com/images/P/";

#自サーバー上の画像置き場URL(ブラウザ上から見た自サーバーのURL)
my $LOCAL_URL = "http://サイトのURL/img/isbn/";

#自サーバーの画像置き場フルパス(実際のファイルへのパス)
#相対パスでなく、絶対パスで指定して下さい。
my $LOCAL_PATH= "/サイトイメージへのパス/img/isbn/";

#アマゾンに画像がない場合の代替イメージのURL
my $NO_IMAGE_URL= "http://サイトのURL/img/isbn/no-image.png";


の部分を自サイトにあわせた設定に書き換える。
当然/サイトイメージへのパス/img/isbn/のパーミッションは777とか707とかにしておいて下さい。
後は、らぐなななさんの所の「MovableTypeのプラグイン」を参考に
設定する。


・アマゾンに画像が無いけど、自分で画像を持っている場合は
ISBNコード.09.MZZZZZZZ.jpgと言う名前で(中サイズの場合)該当ディレクトリにアップロードしておけばちゃんと表示されます。
・「画像無し」用の画像は自分で用意するか、http://images-jp.amazon.com/images/G/09/icons/books/comingsoon_books.gif を使用すると良いかも。

ライセンスは GPLです。(って一回言いたかった…)

2006年06月05日

●落ちても墜ちない

なんだかこのBlogの左側の画像が表示されないなぁ。と思ったら、リンク元のimages-jp.amazon.comがダウンしていたようで、激しくimages-jp.amazon.comの中の人に同情した。
こんな「ビジネスライクにクリティカル」とか言われるようなサーバー落としたら悲惨やろうなぁ…
過去に職場できっちり11日周期でメモリリークするプロキシサーバーがおったり(結局俺が一から作り直した)、間違えてファイルサーバー再起動してもうた事(もう平謝りするしかなかった)があったけど、そんなんアマゾンのイメージサイト落とすのに比べたら遙かに可愛いもんやったなぁなどと思う。

死なない人間がいないように落ちないサーバーは無いわけで、落ちる事を前提に考えた方が良いんやろうね。ただ、死に際が大事なように、如何に落ちるか。と言うのが大事。
昔のNTサーバーはちょっとずつメモリ使い果たして何十日かで刺さるってバグがあったもんで定期的に再起動。ってのが基本やったけど、それも落ちる前に落とすと言う意味で良かったのかもしれん。
最近のサーバーOSは無駄に頑丈でちょっとやそっとでは落ちんけど、そのうち全ての出力がファイルシステムに行ったりしてデーターが全部消えても、メモリ内のカーネルだけで動いて絶対落ちんようなサーバーとか出てきたりして、個人的には「根性のあるサーバー」という意味合いで好きになれそうやけど、実際最悪やろうね。
データだけはなにがあっても死守せなあかん領域やから、昔風のオーバーフローしそうになったらとりあえずコア吐いて落ちる。と言う設計は、考えてみたらとても理にかなってる。
最近の世の中はサーバーダウンに神経質になりすぎでないかと思う。
ちょっとくらい落ちてもエエやんか。データー消えたり流失したりするよりよっぽどマシやん。
みんなどうかしてるよ。まったく。

amazon ASIN:B00009KU7L Miles Davis のIn Person Friday and Saturday Nights at the Blackhawk(DISK2)を聞いた。
世のMilesマニアには「ヌルい」「手抜きライブ」などと言われるけど、最先端を走り続ける緊張感ありありなスタジオ録音とは無縁のような、饒舌ゆるゆる吠え吠えで、ある意味無責任な吹きっぱなしMiles Toneがとても心地よかった。
そうそう、人間テキトウにやるのんも大事やんね。

2006年06月04日

●ルネサンスで風邪気味な日。

あれだけ寝たにもかかわらず、いつも通りに寝ていつも通りの時間に起きた。
昼夜逆転するかと思ったけど特にそういう事も無し。どうなってんのや?俺の身体は?と思ってたらなんだか風邪気味。
と言う事で引き籠もってうつらうつらしながら音楽を聴く。
今日の気分は、ルネサンス期の教会音楽、ということで、
オケゲム、デュファイ、ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナとかを聴きまくる。
まぁ、こういう音楽は「聴きまくる」類の物ではないとは思うが…

amazon ASIN:B0000013U6 パレストリーナの「聖木曜日のためのエレミア哀歌」を聴いた。
神の怒りに触れて滅亡したエルサレムを嘆き、罪に対する悔い改めの念と神への信仰告白の歌だと言うが、キリストの受難をエルサレム滅亡になぞらえて歌う深い哀しみが何ともたまらない。
俗人には至れない境地が見え隠れするこの曲がとても心地良かった。

2006年06月03日

●ゼロの発見、車輪の発明

起きたら夕方の六時。せっかくの休みがもったいないとかダメ人間まっしくぐらとか言う以前にただただ驚いた。
15時間もの間ひたすら惰眠を貪っていたという事になるし、何一つ見た夢を覚えていない。睡眠と言うよりは昏睡という方が近いかもしれない。

睡眠とか夢は体や脳を休息させると同時に記憶の整理を、いらない物は捨て、いる物は残してと言う感じで行っているらしいけど、これだけ寝ればせっかく覚えたり思いついた色んな事を「あーこんな余計なもんいらんいらんー」とばかりに脳が勝手に捨てたりしたのではないかと不安になったが、何を忘れたかを覚えている道理はないわけで、まぁ心配してもしょうがない。

最近大学院で研究生活に励んでおられる諸氏のホームページなどを読むにつけ「一つの事をゆっくりじっくり勉強するような事が無くなった。なるべく早く何かの結果を出してそれはそれで終わりと言う事ばかりだ」と思うようになり、その事を某氏に言ってみたところ「それはそういう事を求められているからではないか?」と言われ「うむぅなるほど」と思った。
確かに次々とこなすべき事が現れ、発生する問題に対処し、何ものかを創造し続ける仕事という物はある意味では「なるべく早くなるべく正確に」が求められるわけで、いくら大学という環境であってもある程度はそういう事になる。
そういう世界にいると「到達感」よりも「スピード感」に快感を覚えるようになるわけで、せめて仕事をしていない間はそういう風になりたくないなぁ。と思う。

言うまでもなく人間の記憶に使用できる領域は有限である。コンピューターを使う上での知識や記憶や知恵の方向性というものは、いかに有限の自分の記憶領域に余計なデータを置かずに、外部記憶領域のナレッジデーターベースに効率よくクエリを発行できるか。と言う事にあると思う。
余計な事は覚えるだけ損。使える知識と知恵は必要に応じて外部から持ってくる。車輪から発明する必要はない。頭は創造的な所に使おう。と言う事で言ってみればオブジェクト指向なんかな??
コンピューターの世界では何とかサーバーやなんとかシステムの構築にしろ、詳しいconfやパラメーターを暗記せずとも「マニュアルやwebで調べれば出来る」と言うレベルでもある程度「デキる」レベルに認定されるわけで、それは「細かい事はいちいち覚える必要はない」と言う事もあるけど、根本には「出来ればいい」という見方があるように思う。

しかし、日常生活や深い探求のレベルでオブジェクト指向であれば、それはただの受け売りとかパクりとか呼ばれるし、出来ればいいというレベルで片の付くような事は少ない。
「個体発生は系統発生を繰り返す」という真理もあるわけで、人間の成長とか精神の発達には、ゼロの発見、車輪の発明を自分の中で行う必要があるのだろう。

amazon ASIN:B00008KJU5 Keith Jarrettの「The Koln Concert」を聞いた。
コンサート会場での即興曲であるゆえの深い緊張感があったからこそ、深く内面に降りて行くかようなトーンが生まれた。
人間の哀しさと偉大さを体現するかのような、このピアノの音が大好きだ。

2006年06月02日

●固茹で世界

一般的に世の中はぼんやりとではあってもその中に価値や目的があるように捉えられているのは間違いないわけで、人間のそういう物があって欲しいという感情や欲求の傾向から言ってもそれは至極当然の事であるように思える。
価値も目指すべき物も無くなった世界でどう生きていけばいいのかって事を本気で考えてあげくに発狂してしまった、自分をデュオニソスになぞらえていたドイツ人がいたが、考えてみれば、世界を根本的に無価値で無目的的であると捉える事がそこの出発点であるからして、そこの所の認識がない限り、スタート地点にすら立てないと言う事になる。
強く意識しないまでも世間の大多数の人は世界に意味も目的もあるようにぼんやりとでも思って、ある程度受け手入れているわけで、そもそもニヒリズムの玄関すら見えていない事になる。価値はあるはずだ、目的もあるはずだと潜在的に感じているからこそ、問い自体が妥当性を持たず、そういった事の欠落感からの困窮も、創造の必要性も感じないわけである。
一方で世界や自分自身に一般的に言われるような価値が見いだせず、また一般的に言われるような目的も望めない人もいるわけで、そういう意味だけから言えば「ニートが第三の変化を経てニーチェになる」という話もあながち間違いではなさそうだ。

しかしながら季節ごと、時代ごとに変わる流行という何ものかに作られた価値を追い(後れた価値は惜しげもなく捨て)、特に目的もなくだらだらとただ日常を生きる生活を送る人は、逆にニヒリズムを体現しているとも言えなくもない。
価値や目的の本質に鈍感であるがゆえであるが、その人にとって価値に見える物は余りに流動的であり、目的のない事自体が目的になっているような様は、価値がある事や目的がある事を否定する以前に、価値自体、目的自体の語用的な意味を否定しているように見え、価値や目的などという概念がそもそも存在しないとする立場に見えるのだ。

宗教的な立場と見解が世界にある事を度外視した上で、誤解を恐れずに言えば、世界には本来的に絶対的な価値や目的などありはしない。別の言い方で言えば、絶対者を設定することなく、万人に共通する価値や目的は原理的に成り立たない。
一つの価値や目的をひねり出したところで、それらを根本から否定する理由などいくらでも思いつく事が出来るし、一人の人間の幸福は何人もの不幸の土台の上に成り立っているわけで、一つの目的と一つの価値には百の反証と百の害悪があることになる。
想像力を働かせてみれば、なにかしらの価値、目的はすべからく「自分にとって」あるいは「特定の集団にとって」の域を出ないことになる。
なんと自分や自分の属する集団の価値や目的が普遍的であると吹聴する輩の多い事か。それに引き替え自分の価値と目的を秘めたる物として慎ましやかに恥ずかしげに追い求める人の健やかで美しき事よ。

言うまでもなく、世界は本来的には醜い側面を持っている。強者が弱者を採って喰う根本原理からしても、実際に目に映る事実としてもそれはある程度疑いようはない。
だからといって「この醜い世界に価値や目的などあるものか」と結論づけてしてしまうのも間違いである。それはただの認識であり結論ではないからだ。
世界や自分に対して持っていた価値を失う事。世界や自分に課していた目的を失う事。そして世界の無価値さと無目的さへの確信。
そういった物を抱いて初めて立てる地平、目指せる大地があるのではないか。ニヒリズムの地平は結論ではなく、それらの大地を目指すのスタート地点ではないだろうか。
また本来は結論であったはずのそういった価値や目的の喪失から目指せる場所を設定したニーチェはなんと偉大なことか。
などと思った花の金曜日の夜。

2006年06月01日

●まいっちんぐローレンツ先生

ヴァイオリンソナタの「クロイツェル」を聞いて「昼ドラみたいや」って言った人がいて、「なんつー非連合学習や。」と感心した事しきり。と言う事が昔あったが、久々にJ,S,バッハの「無伴奏チェロ組曲の1番を聞いて「人類補完計画」という単語しか頭に浮かばなかった俺も相当イタい条件付けが見られる。
おそらく行動可塑性が確認されるレベルまで反応形成されているので、この先正常な反応性は回復しないと予想される。
刷り込みアヒルもパブロフの犬も、フェロモンで無駄に刺激されるカイコガも人間も全く変わらんやん。
しかしながらこんな感じの非連合学習は一つの刺激に対して人の数だけ起こりうる可能性を秘めているわけで、人間同士分かり合えないのは当然か。と言う気がしないでもない。

しかしながら1番のPrelude(第1楽章とは言わんのか?)で「うぉー上手いなぁ」と思わせるヨー・ヨー・マは凄いと思った。