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2006年05月31日

●帯に短しタスクはゾンビ

最近ブログの文が無駄に長い気がする。「無駄に」と言うところがポイントだ。
カルピスにしろカシスソーダにしろ、水やソーダーを増やして量だけ多くなっても中身が伴わなければ薄く感じるだけの話で、文章も同じ。
もちろん俺の文章にまがいなりにも中身があると仮定しての話だ。

短いながらもピリッとした文を読むととても感嘆する。
俺の長い文章はなぜこんなに良いわけがましく聞こえるのだろうと思う。
アルトゥル・シュナーベルのベートーヴェン後期ピアノソナタを聴いた。
ベートーヴェンのイタコのごとき彼の演奏が大好きだ。
某氏の文脈をパクって申し訳ないが、「大好きだ。」の後に「お休みなさい」で終わる文章を読んでいると、胸がキュンとする。

2006年05月30日

●呑んでも呑まれたくはない。

今日も家に帰ってひたすら音楽を聴く。
音楽にせよ本にせよコンピューターにせよその他の事にせよ、どんどん慣れて新しい物や強い刺激の物を求めるようになる傾向はいまいちエレガントさに欠けるような気がする。
まぁ人生やとか成長なんつーもんは多かれ少なかれ強い刺激や新しい物を求めてゆく過程やという見方もあるけど、世のエラい人は大体「中庸」なんて事を言うわけで、「どこまでいくのか」って所の引き際が肝心である。

ルートヴィヒは貪欲に何かを求めてる感じがひしひしと伝わってくるけど、J,S,バッハは満足したまったり系のように思えるわけで、そういう「まったり感」てのはあまり「ひしひし」とは伝わってこない種類ものである。
音楽というのはある意味で麻薬的なところがあってそれを求める事が多いからして、その「ひしひし度」という部分で伝わってくるものが少ないバッハはあまりアピールさに欠けるように思うけど、それでも満ち足りたバロックな和音の醸し出す中庸の匂いは俺にとってはかなりまったりで、非言語的な井伏鱒二とか武者小路実篤な雰囲気がするのである。
まぁ、ルートヴィヒが音楽を自己表現と捉えていたのに対して、バッハは完全に貴族やら教会に従属するものと捉えていた違いなのかもしれんけど。

で、前日の「拒食系」「過食系」ネタと繋がってくるのだが、この不肖土偶は明らかに極端でやりすぎの傾向がある「過食系」である。
最近は特にやたらと色んな物を詰め込まれて脳に負担がかかり、そろそろ空回りし初めてホイルスピンにエネルギーを使ってるような状態な気がする。
うむこれではイカンちょっと休まなければ。と最近思うのだが、逆に(出来るかどうか別にして)「拒食系」を志向するにしても、逆方向に極端なだけでスカラ値は変わらんと言う事になる。

なるべくなら無駄になってる部分を削ぎ落とし、価値のある部分があるならそこを鍛えたいと願うわけで、そういう意味でとりあえず「満腹系」ベクトルの方向になるべく向かないようにして「ダイエット系」を目指してみる事にした。

2006年05月29日

●拒食系入定ミイラとしてのゼバスティアン

前回に引き続きまた音楽の話やけど…
この間から別ジャンル開拓という事でオペラなんか聴き始めた訳やけど、そのついでに家にあるCDやらレコードを片っ端から聴くようになった。
一年ほど前からモーツァルトの曲が副交感神経と交感神経のバランスを保つとかいう、どちらかというとトンデモ系の説が出てきたりで、やたらと人気のないクラッシックの音楽業界でもモーツァルトだけは売れているらしい。
養豚場で豚たちにハイドン・セット聴かせたり、交響曲ジュピターが響き渡るビニールハウスでトマトなんか育ててみたりするのは有名な話だ。
ちなみにこの説ではベートーヴェンはモーツァルトとは全く反対の方向にあるらしく、ルートヴィヒ好きの俺が「そんなにモーツァルトええか??」などと思うのもトンデモ学説的にはそれなりに納得だ。

この間までオペラ聴いてたけど、今はバッハ(J,Sの方)ばかり聴いている。
amazon ASIN:B0000025PM 切っ掛けはグレン・グールドの弾くゴールドベルグ変奏曲。余りに名高い演奏で有名やけど、やっぱり凄いもんは凄い。ストイックな感じの演奏がもうたまらん。
これはどっちかっつーとグールドがすごいのか?って思ったけど、他のバッハの曲聴いてもモーツァルトなんかと比べてやっぱりストイックな感じがする。やっぱり教会のオルガン弾きや音楽監督やってたせいか??でも子供が20人もいたというのでストイックとはほど遠いのか??
まぁどっちでもええか。

どちらかというと俺は貪欲に色んなもんを取り込もうとする過食系の人間やと思うけど、聴く音楽とか読む本はストイックというより拒食系を好むらしい。
「即身仏」やとか「入定ミイラ」とかって何となく笑ける感じがすると同時に拒食とストイックさの極致な訳で、昔からこういった存在が気に入っていたのはそのせいかもしれん。
しかし、1750年半ばに死んだ作曲家(J,S,バッハ)の曲を今から20年ほど前に死んだピアニスト(グールド)が弾いているのを今聴いていると言う図式はなんか凄いなぁと思う。

ミイラになって世に残るってのもバッハやグールドと同じように後生に自分の証を残す一つの形なのかと思ったりもしてみた。
ジョスカン・デ・プレとか、ギヨーム・デュファイとかマニアックな初期ルネサンス期の音楽家は知らん人でも、それよりもっと昔の人であるツタンカーメンは知ってるもんなぁ。

2006年05月28日

●我は魚刺し土偶

とても天気が良かったものの一日中引き籠もってオペラを聴いていた。
入ってくる風が心地よく、窓全開で大音量だったので近所迷惑だったかも。バリトンがフォルテになる度に床がビリビリする感じやったし。
考えればオペラのストーリーって余りにもアホらしい。イタリア語やとかドイツ語やしまだわからんけど、これが日本語やったらもう聴いてらんない。て感じかもしれん。
それでもこういう天気に通る風に吹かれながら聴いていると「なんか平和やなぁ」という感じがひしひしとする。
でも俺がそんな事思っている遙か彼方では地震でえらいことになっていたわけで、局地的な平和だった訳だが。

ある種のピアノ協奏曲や交響曲や歌が余りにも甘かったり辛かったりして聴くに堪えんのに引き替え、オペラってのは発声の時点で人間的な日常からかけ離れているわけで不思議と感情剥き出しな感じはしない。
言葉はワカランにしても、ストーリーといい音楽の感情的なトーンといいとてもわかりやすい。全般的にオペラってのは明るいトーンやけど、ふとした時に変なところにヒットするわけで、それもなんというか「わかりやすさ」の一つやろう。

「深刻になることは必ずしも、 真実に近づくこと…ではない。」って村上春樹が言ってたけど、最近無駄に深刻ぶってたような気がする。
確かに深刻になったところで真実には近づかない。オペラってのは全然深刻でない音楽やけど、確かに人間の真実に迫っているような気がする。
ようは、人間てのはオペラ的にしょうもない事しかしていないし、なるべくなら深刻な事に関わり合いたくないし、深刻でもないという事かもしれない。

2006年05月27日

●サウンド・オブ・最終兵器

昼前から昨日買ったCDをshuffleに詰めたのを聴きながら自転車(赤白)を洗う。前回洗ってから200km程の走行距離だが何度も雨ざらしにしたせいかチェーンのオイルが殆ど切れていた。
昼ご飯にペペロンチーノを食べたところで、オペラ、自転車、スパゲティーって俺はイタリア人か??などと一人でフフフ。

話は変わるが昨日は「ちょっとしたお楽しみイベント」の為に一人で昼食を取った。
事務室で弁当を食べた後イヤホンを耳に突っ込んで音楽聴きながら本を読んで昼休みが終わるまでを過ごしてみた。
そういうわけで昨日はたまたまshuffleを持っており、某氏待ち中に暇なので新風館の外壁の縁に座ってイヤホンで音楽を聴いてみたところ軽くトリップしかかった。
今まで「携帯音楽プレイヤー」を外で聴く習慣はなかったのだが、強制的に自分の世界の音楽を耳に流し込む事で外界をシャットアウトし、自分の世界に没入してしまう感覚はナカナカ強烈なモノがある。
いつでもどこでも必要とあらば自分の殻にこもってその殻を強固なものにするためにこの「携帯音楽プレイヤー」はかなり有効であると見た。
このジャンルの製品がそこそこの市場になっているのはこういう訳だったのか?
精神攻撃に対して絶大な防御性を発揮するこれさえ装備していれば、クリスマスイブのルミナリエを一人で踏破することなど造作もないだろう。

考えてみればスーパーでは売り場ごとに「好きスキーお肉スキスキー」とかのよく解らん歌が流れててしばらく耳に残って困ったり、年末年始のデパートでは何かと客の購買意欲をかき立てるような音楽が流されたりと、音楽はある種の攻撃の手段としても一定のものを確立しているようにも思える。
昔、子供の頃に予備知識全く無しで、しかも途中からマクロスの映画をテレビを見た時に、宇宙戦艦同士が戦ってる最中に何とかというアイドル(名前覚えていない)が歌ってる様がリアルエンコードでなぜか敵軍にもストリーミング配信されていて(うろおぼえ)、どういう訳かその歌が原因で最終戦争に勝った感じの話があって(この辺もうろ覚え)子供ながらに「なんじゃそら。無茶苦茶やん」と思ったものだが、今更ながらにこの音楽のもつ対精神攻撃のポテンシャルを考えるにつれ「さもありなん」という感じがした。
いずれにせよ音楽の力恐るべし。である。

2006年05月26日

●もう飛ぶまいぞ、この蝶々

仕事中ちょっとしたお楽しみイベントが起こる予定だったのだが、結局何もなく少し残念。
溜まっていた仕事をガーッと片付ける。流石に何年もやってればクライアントPCの心の声「ここ直してー」と「1からやり直します」と「生まれてきてごめんなさい」の違いがわかってくる。「望み通りにしてくれるわー」とばかりに剛掌波一閃。
仕事後に飲み会があったのだが、始まるまで時間があったので十字屋でCDを物色。金曜日の夜だというのにクラッシックコーナーはガラガラ。モーツァルトの特設コーナーを物色する妊婦さんを見て、マスメディアに踊らされた人間がまた一人。などと思うも人の少なさもあり思う存分CDを視聴しまくる。

気がついたら古い録音の『珠玉のオペラ・アリア集』なるCDを買っていた。
時々オペラを聴きたくなる衝動に駆られるのは確かだが、そっち方面は皆目不案内で、何を聴いたら良いのか全然わからず、かといって序曲集だとかピアノ小品集だとか言ったジャンルは否定していたので、結局何でこんなモノを買ったのかよく解らない。あえて言えば「ついカッとなってやってしまった」と表現するのが一番妥当なような気がする。
ヴェルディの『アイーダ』あたりでも買っておくのが無難ではなかったのか?などと思う。

時間ぎりぎりに飲み会の会場に到着。大政奉還と飽食時代と越えられない壁について語り合う。
飲み会終了間際にここしばらく生体反応が絶えていた某氏から入電。声を聞いて生存していたのを確認した。
そのまま帰ろうと思ったが、帰ったところで何もない事もあり、思い直して勝手に某氏を待つ。
近所の居酒屋で小一時間語り、22才だった人間は28才に、27才だった人間が33才になっている事をひしひしと感じる。
二人の年齢の差はずっと同じだが、年齢の比は年を経るごとに1:1に近くなってくる。言うまでもなく人間は平等に年を取るが、年の取り方、成長の仕方が平等でないところに不平等さを感じる。加速度というものは年を経るごとに落ちてくるようだ。
久しぶりのネガティブ語りの黒い波動の応酬に限りない心地よさを感じるものの、某氏の潔さに比べ、俺はなんとルサンチマンに富んでいる事か。
それでも存分に負のフォースを放出し、家までの8キロほどを高ケイデンスで気分良く疾走できた。

家に帰って買ってきたCDを聴く。夜中の4時前にイタリアオペラは似合わないことがよく解った。

2006年05月25日

●文責の所在

24日の投稿でこのブログについて「コンピューターの話とかがワカランてのはよく言われるけど、それはまぁ専門的ではあっても思考だとか人間性だとかは全く関係ない話である。
特殊な専門性があると言う意味での一般性は無いにしても、それとは違う意味でこれはちょっとヒドすぎる。と思わなくもない。」

と書いたけど、読みようによってはこの粗ブログの読者に対して俺が怒っているようにも見える事に気づいた。
言いたかったのは「コンピュターのややこしい話は、コンピューターがややこしいからであって、俺の思考や人間性がややこしい訳ではない筈だが、その他のエントリの部分を見る限り俺はやっぱりややこしいのではないか?」と言う事である。
書こうとしていた事も全く別の意味に読めてしまうわけで、読者の皆様には謹んでお詫びする次第である。

しかし書こうとした事とほぼ反対の意味に読めてしまうのはなんともいただけない。
いつも読んでくれてる人たちやしわかってくれるやろう。というところで俺に奢りが出来て書く文章に正確性が欠けていたのは大きな反省点である。
書き手が読み手に勝手に馴れ合うのはなんだかなぁ。

言葉とは伝達の手段である。もちろん伝達の手段のためだけにあるのではないが、少なくとも伝達したい意味と違う意味で伝わるのなら、言葉など発しない方が遙かにましだ。
しかし誤解を恐れていては何も言えないというジレンマもまたある。
俺の書いた文章に何らかの「責任」が発生するようなクラスのブログでは決してないが、それでも自分の文章に責任を持つ自負くらいは残しておきたい。

2006年05月24日

●賛成の反対に反対

人間は文章でモノを考えてるゆえ、文章力は直接的に思考力に直結しているというのはもう一般論なのか?
文章力を高めるためには、これはもう文章を書くしかないわけで、でもって文章力が上昇すればより複雑な概念とかより奥まった所にあるモノを思考する事が出来るというわけなのか??
しかしながら毎日同じような事を同じような語彙で同じようなトーンで書いていれば、その同じような思考パターンの方向にだけ肥大して行くような気がする。
某ベーコンが「洞窟のイドラ」と呼び、某ニーチェが「逆向きの不具者」と呼んだ状態に同時に陥ってしまうのではないか?と思うわけである。
もちろんその方向が良い方向ならなんの問題もないわけやけど、どれだけの人間がまともな方向に向いていると言えるだろう。「肥大した自我」とまでは言わないけど、ちょっと膨らんでないか?という奴などいくらでもいる。

この土偶StaticRouteで俺は半年近く毎日欠かさず文章を投稿しているわけだが、当然その恐れが俺にも大いにある。
というか、現に自分がそういう状態にあるような気がする。
コンピューターの話とかがワカランてのはよく言われるけど、それはまぁ専門的ではあっても思考だとか人間性だとかは全く関係ない話である。
特殊な専門性があると言う意味での一般性は無いにしても、それとは違う意味でこれはちょっとヒドすぎる。と思わなくもない。
端的に言えば、何かが間違っている事を、その何かが他と違うからしょうがないと結論づけてその問題をクローズしてしまうような傾向はいただけない。
考えてみればそれは状態と原因を判断しているだけで何もしていない事になるのだ。
まともに考えれば何かが間違っていればそれを直すべきだし、少なくとも直そうとするべきなのは言うまでもない。

ポンコツ車のどこかを直せば他のどこかのポンコツっぷりが目立ち、そこを直せばまた他の…と言う話もあるけど、まぁその事に気づいただけでも良かったと言えば良かったとも言えなくも無い。こともないのか?

2006年05月23日

●雑食からの不完全変態

某氏と電話で話していて「にくちゃんねる」なるものを教えてもらった。
なんでも某巨大掲示板の過去ログが見られるらしい。
くっきり記憶に残っているスレ名で検索してみると…
確かに見える。むぅ懐かしい。これは…とてつもなく懐かしいぞ…
今から五年前の2001年に必死に追いかけていたスレを読んでるとなんか不意に出てきた昔の日記を読んでるよう。
当時の気分というのは無理やけど、当時の俺がどんな状態にあり、どんなことを考えていたのかは思い出す。
2001年と言えば今の職場で働き始めた頃で、結構色々あったけど、意外に嫌な事は余り覚えてない。更に楽しかった事もくっきりと覚えているわけでもないことに少し驚きを感じた。
嫌な事があった事実は覚えていても、それが実際どんな感覚とか感情だったというのは殆ど覚えていない。同様に楽しかった事も。
思えば五年というのはとても長い歳月である。それでも、当時俺の中で最優先事項であったはずの事を感情や感覚まで含めてくっきりとは思い出せない自分に何とも言えない不気味さを感じる。不思議と言えば不思議だ。
「にくちゃんねる」を教えてくれた某氏も同じように感じたのだろうか?多分そうなんやろうな。

思えば今は五年前から見てとても遠くに来てしまった。五年前の当時でもその前に比べて「遠くに来てしまった感」を感じていたけど、それでも、なんか振り出しに戻ったような感覚はなかったような気がする。
五年前に持っていなかったものを今持っていたとしても、当時持っていたものは既に決定的に損なわれている。なんというか、総量で考えれば同じやけど、何かを得ると何かを失い、何かを失うと何かを得る、エネルギーと質量の等価性というと大げさやけど、質量保存の法則ぐらいな感じはする。
たぶん、今ぐらいで俺の色々な意味でのキャパシティーが満タンなんやろう。五年前は見境無しに色々なものを詰め込んでいたけど、今はそんな余地はない。
これから何かを得ようとすれば得た分だけ何かが失われる。何かを得続ける事は出来ないけど、これから何かを失い続ける事もまた出来ない。そう考えるといくぶん救いはあるけど、それでも何とも言えない気分になる。
これからは俺の得るものは俺の中にあるものとの交換原理に乗っ取ってゆくのだろう。
俺がこれから何を得て行くのか、何を得て行くべきなのか。更に言うと俺の中にある何がいらないもので、それと引き替えに何を求めるべきなのか。
そのあたりを見定める余裕とか必要性を今までは全く感じなかったけど、容量が埋まりつつある今となっては、そこの所に気を配る必要があるのを切実に感じる。
自己実現だとか幸福追求の権利だとかいった余りにも大それた事を言うつもりは全くない。
ただ、今から五年後、気づけば俺の中はガラクタばかりだった。大事なものと交換に屑ばかりをため込んできた。などと思いたくないだけだ。

あるいは、こういった事共は全て、単純に年を取ったと言う事から来ているだけかもしれない。
そう考えると人間存在のマヌケさも中々侮り難し。などと思うのであった。

2006年05月22日

●Bye Bye Blackbird

また一つ「ダメ系サイト」が閉鎖した。そこまで書くか?って感じの人やったし、しかも読者の善意を前提にして色々書いてたので、外からの悪意には脆そうな感じやった。
閉鎖したのはその辺の事があったのかもしれない。
んでもって適当にジャズが入ってるディレクトリをランダムに再生したら、
amazon ASIN:B000AMZ0WG アート・ペッパーがかかり、「おっ、久しぶりやん」って感じで聞いてたらなぜか凹んだ。油断してたら変な所にヒットした感じ。ウエストコーストやのに??マイルスのリズム・セクションやのに??

チャーリー・パーカーといい、ビル・エヴァンスといい、このアート・ペッパーといい死ぬまで麻薬に依存してた人間の演奏を聴くのは最近結構しんどいかもしれん。
弱すぎたり脆すぎたり細すぎたりするもんを真っ正面から見るのは、自分のそういうトコを見せつけられているようでちょっと辛いかも。

やっぱりマイルスとかコルトレーンとかの確信に満ちたようなんが今の俺には心地良い。
しかしマイルス聞いてると「帝王は、引かぬ、媚びぬ、顧みぬ。」というサウザーの言葉を思い出すやね。
更にコルトレーンのシーツオブサウンドなソロを聴いていると「あーこの人ホンマに聖者になりたがったはるわーマジもんやー」ってビシビシ伝わってきて背筋が伸びる。

帝王道をひた走り、聖者への道を邁進する二人のセッションを聞いていると、自分の執着だとか弱さだとかが余りにもバカバカしい事のように思えて心地よさを感じる、月曜日の夜であった。

2006年05月21日

●mp3再生用カメレオン(SUSE 10)

suse10.jpg suse-default.jpeg
土偶家のSuse9.3で構成されていた音楽再生用PCがクラッシュした。
いつもはキーボードもモニターも繋いでいないので、電源入れた時に「中々起動して来んなー」とモニタに繋いでみたら、延々HDDのIOエラーが出ている。
fsckしようとシングルユーザーモードで起動するもチェックが延々続いて終わらない。
mp3が入っているディレクトリはファイルサーバーからsambaマウントしているので、こいつはクラッシュの原因にも被害にも関係ない。純粋なファイルシステムのエラー。
再生するmp3のデータ領域はファイルサーバー上にあるので、ローカルにはシステム領域のみ。
ためらうことなく再インストール決定。

IOエラーが出ているけど、犬ファイルシステムは密かにあんまり信用していないのでディスクは壊れていないと見た。
インストールしてもエラー出るようならそれから交換しても遅くない。
よっぽどSolaris入れたろうかと思ったけど、sambaファイルシステムをネットワークマウント出来るのはlinuxだけやし、linuxも飼っておいて損はない。solarisでnfsマウントという手もあるけど、普通すぎてちょっとつまらん。
ここははやる気持ちと怒りを押さえてLinuxをインスコすることに。

クラッシュの時点まではSuse9.3やったので、この際10.0を入れてみる事に。
以前からSuseを選んでいるのはSuseのロゴのカメレオン「geeko」が好きだという理由のみ。あとマイクロソフトに駆逐されたnetwareの会社であるnovellが配布元ってのもちょっとあるかも。novellカワイソスということで。
システムに採用した根拠がロゴだけというのもアレだが、正直Redhat系のディストリビューションの違いはわからん。debianだけはちょっと特別やと思うけど、slackware行くほどの元気もない。
それやったらロゴが一番カワユスなSUSEでええやんと言う事なのだ。そういう意味から赤帽はout of 眼中。
まぁ、ロゴがいくらカメレオンやスジシマドジョウでカワユスかろうが、デスクトップログインせずに、リモートからsshやtelnetで使ったりrshでmp3プレイヤーを起動して使う分には全く関係ないというのは内緒だ。

と言う事でSuse10インストール。
特に問題なくインストール完了。懸念されたディスクのエラーもなし。
結局9.3カメレオンは何が壊れとってん?ext3はジャーナリングファイルシステムのはずやのに全くひどい話やと。Solarisのように根性で起動して来んかい。この腐れカメレオンが!
最近色々な意味で悶々としているので理不尽に腹が立つ自分にちょっと反省しつつも、爬虫類好きの俺としては、バージョン10でデフォルトになったリアルカメレオンの壁紙にちょっとニヤニヤする。
ちなみに冒頭の画像の左が9.3のデフォルト壁紙、右が10.0でのリアルカメレオン。
俺としてはリアルカメレオン気に入ってるけど、普通はダメなんじゃないだろうか?
このカメレオンだけで「SUSEつかわねー」と言う人がいるような気がする。

で、以前は書いてなかったので、この際リモートからmp3再生する方法を書いてみる。
mp3再生用pc (mp3 192.168.1.10)
リモートコントロールPC (pc 192.168.1.11)
再生するユーザー (user)
とし、pcからのシェルスクリプトクリック一発で、mp3のxmmsが起動してコントロールできる状態が到達点。

先ず、DVDからSUSE10をインストールしただけではライセンスの問題でxmmsでmp3が再生できないので、xmmsのmp3再生プラグインをインストールしてやる。
xmmsのmp3プラグイン配布元の(なのか?)のダウンロードからそれらしいパッケージをインストールしてやる。
suse用はなかったので、Red Hat Linux9用のrpmをインストール
rpm -ivh http://www.gurulabs.com/downloads/xmms-mp3-1.2.7-21.p.i386.rpm
これでネットワーク上からパッケージが入りxmmsでmmp3が再生できるようになる。

ここからはシステム上でリモートコマンドを受け付けるrshdを有効にし、一般ユーザーでaudioデバイスを扱えるように設定する。
お願いします!ヤッさんということで、全てYast2からの操作になる。


  1. リモートからのxmms実行にrshdを使用するので、rsh-serverパッケージをインストール

  2. rsh-serverを動作させる為に「ネットワーク・サービス」「shell」(in.rshdな)を「オン」に。

  3. firewallが動いているとうっとしいのでこれを止めておく

  4. 更に該当ユーザーからaudioデバイスを開けるように「セキュリティとユーザ」「ユーザーを作成あるいは編集する」から該当ユーザーを「audio」グループに参加させる。

  5. 該当ユーザーのホームディレクトリに.rhostsを作成し、リモートのコンピュターのipアドレスを書いておく。rshdはこのファイルを読んでリモート実行するか否かを判断している。
  6. リモートコントロールPC上で以下のようなシェルスクリプトを作成。rmt-xmms.shとでも名付けておけばわかりやすくて吉。


  7. #!/bin/sh
    /usr/X/bin/xhost 192.168.1.10
    rsh 192.168.1.10 /home/user/bin/mp3play.bash 192.168.1.11:0.0

    やってる事は192.168.1.10からのxクライアント接続を許可し、192.168.1.10の/home/user/bin/mp3play.bash をディスプレイ名の引数をつけてリモート起動

  8. 次にrsh越しにmp3再生pc上でリモートから実行される/home/user/bin/mp3play.bashを作成。


  9. #!/bin/bash
    export DISPLAY=$1
    export LANG=ja_JP.eucJP
    xmms

    2行目と3行目で環境変数DISPLAYに第一引数で与えられたリモートコントロールPCのディスプレイ名を設定し、ついでに言語をEUCに設定。最後の行でxmmsを起動。Xクライアントのの出力先となるXサーバーは環境変数DISPLAYに設定された値、つまりはリモートコントロールPC上となる。

    もちろん両スクリプトともにchmod 700 と実行権限をつけておく。


これで再生用シェルスクリプトをぽちっとクリックするだけで手元にリモートのxmmsがあがってくる。あら便利。

2006年05月20日

●snmpのシステム関係のMIB

cpu-day.png
MRTGを入れる度に検索してるので書き残しておく。
つーか、MIBツリーなんか絶対覚えられんぞ…
Solaris上の(Linuxとかでも同じ)Net-SNMPデーモンからデフォルトで所得出来るMIB情報。MRTGとかで所得するとシステム監視に役に立ちます。

ということで冒頭の画像はNet-SNMPのMIB情報から所得し、MRTGで生成した土偶サーバーでのこの24時間ほどのCPU負荷グラフでした。

Net-SNMPから所得出来るシステム関係のMIB情報

実メモリ
1.3.6.1.4.1.2021.4.5.0 memAvailReal.0 int型 合計の実メモリ容量
1.3.6.1.4.1.2021.4.6.0 memAvailReal.0 int型 利用可能実メモリ容量

スワップ
1.3.6.1.4.1.2021.4.3.0 memTotalSwap.0 int型 トータルのスワップ容量
1.3.6.1.4.1.2021.4.4.0 memAvailSwap.0 int型 利用可能スワップ容量

CPU
1.3.6.1.4.1.2021.10.1.5.1 laLoadInt.1 int型 CPU負荷率(1分間の平均)
1.3.6.1.4.1.2021.10.1.5.2 laLoadInt.2 int型 CPU負荷率(5分間の平均)
1.3.6.1.4.1.2021.10.1.5.3 laLoadInt.3 int型 CPU負荷率(15分間の平均)

Net-SNMPがインストールされていれば、
snmpwalk -v 1 -c コミュニティ名 ホスト名 1.3.6.1.4.1.2021.4.5
で表示される。

土偶サーバーでは
CPU負荷が10%を超える事はほとんど無く、

memTotalSwap.0 = INTEGER: 526312
memAvailSwap.0 = INTEGER: 526312
と、スワップをこれっぽっちも使ってない事になる。
何せ実メモリが
memTotalReal.0 = INTEGER: 1048576
memAvailReal.0 = INTEGER: 601200
とトータル1ギガのうち60%が利用可能ということになってる。

5年前ならプロバイダの基幹を背負うに相応しい構成やね(そうか??)

ちなみにこいつを所得するmrtgのconfは、
コミュニティがpublicで対象ホストがlocalhostの場合、

Target[cpu]: 1.3.6.1.4.1.2021.10.1.5.1&1.3.6.1.4.1.2021.10.1.5.2:public@localhost
MaxBytes[cpu]: 100
Unscaled[cpu]: dwmy
Options[cpu]: gauge,nopercent
Title[cpu]: CPU Load Average
PageTop[cpu]: <H1>CPU Load Average</H1>
YLegend[cpu]: load average (%)
ShortLegend[cpu]: %
LegendI[cpu]: 1min
LegendO[cpu]: 5min


Target[mem]: 1.3.6.1.4.1.2021.4.4.0&1.3.6.1.4.1.2021.4.6.0:public@localhost
MaxBytes1[mem]:526312(swapの総容量 memTotalSwap.0の値)
MaxBytes2[mem]:1048576(実メモリの総容量 memAvailReal.0の値)
Unscaled[mem]: dwmy
Options[mem]: gauge,absolute,integer,unknaszero
Title[mem]: Memory Usage
PageTop[mem]: <H1>Memory Usage</H1>
YLegend[mem]: Available Memory
ShortLegend[mem]: Bytes
LegendI[mem]: Swap available
LegendO[mem]: Real available
kilo[mem]: 1024
kMG[mem]: k,M,G,T,P

と言う感じ。

2006年05月19日

●花の金曜日

なんだかこの一週間はとても疲れた。
雨降りの中帰ってきてコンピューターの前に座る。
したい事は山のようにあるのに、脳が休ませろと悲鳴を上げいる。
脳に処理能力以上の、精神が処理するに辛い程の情報を頭に詰め込まれて過負荷が掛かっている。
頭痛まで引き起こして俺を無意識の眠りに突き落とそうとするけど、ひたすら耐える。
変な汗をかきながらひたすら耐え、これ以上ダメだと言うところで音楽をかける。
弦の音は脳にしみる。まるで脳の「しわしわ」が伸ばされていくよう。
非言語的で非感情的な概念が脳に広がり、脳が弛緩してゆく。
良質の音楽というのはこういうためにある。

よくよく考えてみれば、俺を取り巻き、俺が問題だと考えている諸問題というのは、
今更考えても遅い事、考えるだけ無駄な事、考えるまでもなく結論が明白な事の三つに分類される。考えればどこかしらに行き着けそうな問題などほとんど無いのだ。
さらにはその三つが何かしらの欲求から端を発している。
その欲求に執着しているか、その欲求を捨てきれないかのどちらかだ。
更に言えば、それらの欲求は明らかに俺には向いていない。
結局は思考の問題と言うよりは嗜好の問題なのだ。
この期に及んでそういう事を嗜好しようとするのは筋違いなのだ。

ひたすら下に向かって穴を掘り続けば、進めば進むほど人の住む地上からは遠くなる。
掘れば掘るほど穴の周りに積まれる土の山は高くなる。
上へ上へと枝を伸ばせばその根は暗い地下へと伸びてゆくと言うが、俺のどこに地上に出た枝などあるのだろうと考える。
弦楽四重奏を聴きながら、ミュートトランペットのソロを聴きながら、ここまでイッてる奴がおるねんから俺なんざまだまだ大丈夫。と自分に言い聞かせる。
マイルスのアドリブを口ずさみながら、チェロのパートを頭で演奏して自分を保ちながら、今日も穴を掘る。
深い井戸の底から上を見上げれば真昼でも星が見えるという。
たしかにそんな気がしてきた。

2006年05月18日

●土偶戦士

仕事帰り、某43家におヨメに来たnetra T1 105を見に行ってきた。
行ってみると43が巨神兵のようなものによじ登って、振り落とされそうになりながらも剣をその巨神兵の脳天にぷすぷす突き刺していた。
その巨神兵はデッカくてグロいめやのに顔だけ妙にピカチューに似てて微笑みを誘う。
巨神兵も43もとても楽しそうなのでしばらく見入る。
おー43がんばれー。あー落ちる落ちるー。おー血ー吹き出してるー。
しばらく観戦してたけど俺にも殺らせろ。俺にも登らせろとやいのやいの言うので43が代わってくれる。土偶戦士の出陣。
まぁ、念のため言っておくともちろんゲームの話。「ワンダと巨像」と言うゲームらしい。
オープニングで姫だか少女だかがどうしたこうしたこう言ってるが、そんなんどうでも良い。
とりあえず早よ巨神兵狩らせろ。早よ早よ。
気絶しているのか昏睡してるんかしらんけど目の前に横たわっている少女に剣を振り下ろすも、俺を乗せようと走り寄ってくる馬に弓を撃ち込むも全く効果無し。つまらん。

ひとしきり遊んだ後自分が何をしに来たのかを思い出した。
43新ヨメnetraの動作確認後、バラしてメモリを格安で512メガ分強奪。こいつは土偶netraに装着予定。前から話は付いていたものの押し売りならぬ、押し買いな感じ。
イヤホン部分が分裂し、信号線が切れていたiPod Shuffleのイヤホンも「使てへんしええやんー」と言う事でついでに強奪。こいつは今一度配線を繋いでみる予定。

一通り動作確認して、いよいよSolaris10のインストール。
43がsoalrisインストールしている間。ひたすら土偶戦士は戦う。
土偶戦士が巨神兵にしがみついて必死に剣を突き刺している間も、43はテラタームのコンソール叩きながら、solarisインストールについて色々聞いてくる。

43「ターミナルタイプは?」
土偶「VT100!」
43「NICは0で良い?」
土偶「hme0!」
43「ネームサービスはnone…」
土偶「おう!」
43「Kerberos…」
土偶:「そんなもんいるかー!」
43「お取り込み中アレですが…」
土偶「…」(コントローラーガシガシ)
43「/usr/openwin/てなんです?」
土偶「うるせー Xのバイナリ入れるトコじゃー!!あー握力がー!!」
と土偶戦士になった土偶はいたく気が荒いようであった。

気がつけば遅い時間やったので気分だけは早々に帰ったのだが、最初はnetra見に来ただけのはずやのに土偶戦士になって、さらにメモリとイヤホンまで強奪してきて、追いはぎまで働いたようで戦士というより一人盗賊団みたいな土偶であった。

ちなみにメモリはちゃんと動いて土偶netraのメモリは1024メガバイトになった。
イヤホンも線を半田付けし直してあっさり鳴った。
いやー久しぶりのゲームも楽しかったし、戦利品もちゃんと動いたし。netraもちゃんと動いてたし良かった良かった。
43様ありがとうございやしたm(_ _)m

2006年05月17日

●ヘッダとフッタはどこいった?

以前から何度も書いているようにiPod Shuffleを里子に迎えて喜んでいたわけだが、何気にちょっと困っていた事があった。
クラシックの曲というものは一曲が10分とか20分とか長いものになると40分を軽く超えていたりするので、CDでは1曲目が第1楽章、2曲目が第2楽章と言う感じで構成されている。
で、クラシックばかり詰め込んだをシャッフルして再生すると訳のわからん事になる。
シンフォニーの何番の何楽章の後にヴァイオリンソナタの何番の何楽章。その次はピアノコンチェルトの何番の何楽章てな具合だ。
さすがにピアノソナタの8番(悲愴)の第2楽章の後にシンフォニー5番(運命)の第1楽章が来て笑ってしまったが、そうそう笑ってもいられない。

これを解決するために、楽章の全てを1から順番に一つのmp3にすればええんや。と言う事を思いついた。言われてみれば簡単な話。

しかしどうすりゃええんやろう?
一回wavに直して編集ソフトで結合?
iPodやし音質の劣化なんか気にしないけど、とにかくめんどくさそう。
つーか、ソラリスでwavエディタなんかあるんか?
iTune代わりにソラリスでgtk-pod使ってるけど、エディタはないぞ?
んーどうするか。。。

で、ダメもとでcat コマンドで無理矢理結合してみた。

cd /mp3dir/beethoven/PianoSonatas_No01/
cat *.mp3 > No1.mp3

てな感じ。
とりあえずxmmsではちゃんと再生される。
おそるおそるgtk-podからiPod shuffleに入れてみる。

で、再生。
おーちゃんと鳴ってる。
残念ながらオチはありませんでした…

2006年05月16日

●見える事と、そうである事。

本土が爆撃されているのに南洋の小島を占領してなんの意味があろうか。
コスト30の騎兵一騎でコスト1の歩兵20体を倒したところで負け戦であるのは明白。
目先の戦果を求めるあまり後方の戦力まで前線に投入するのは愚の骨頂である。
報告義務とプロパガンダのおかげで負け戦が出来ないのでは戦争する意味がない。
ようは小戦で負けても大戦で勝てればそれで良いのであり、エラい人とバカにはそれがわからんのやね。

降りかかる火の粉は払わねばならぬが、いずれにせよ戦など起こさず巻き込まれないのが一番なのである。
「百戦百勝は善の善なる者にあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」である。

先が見えぬかのような山に頂上が、終わりがないかのような洞窟に出口が、明ける事の無いような夜に朝の光が見えてくるのは安堵するものである。例えその出口や朝や頂上がどのような形であってもだ。
終わるものは何をしたところで終わってしまうし、終わらないものは何をしたって絶対に終わらない。
たぶん、何かが終わる事や終わらない事はそれほど大事なのではなく、何かが始まる事の方に注目すべきなのだろう。
しかし今となってはなぜ始まってしまったのかすらわからない事が多すぎる。
既成事実、結果、現状、人間の人生なんてのは大抵そんなモノで出来てる。

世の中で「実はこうである」よりも「ぱっと見こう見える」の方がインパクトに長けて重要とされる事が多いのは木を見て森を見ない輩が多いからであろう。
負けたよう見えるけど勝っている人間、勝ったように見せているけど実は負けている人間のどちらが良いだろうか。
幸せそうに見えるけど不幸せな人間、不幸せに見えるけど幸せな人間。大抵のまともな人間なら後者を選ぶだろう。
しかし幸せに見える事が幸せであり、勝ったように見えるのが勝つ事であると錯覚する事がなんと多い事か。
結果ばかり、現状ばかり、終わった事、終わらない事ばかり見ていてはそういう落とし穴に落ちてしまうのではないか?もう梅雨なのか?などと思う今日このごろ。

2006年05月15日

●楽聖ルートヴィヒは仏陀となり涅槃へ?

iPod shuffleを触っていて久しぶりにルートヴィヒのピアノソナタを聴いた。最近はずっと弦楽四重奏ばかり聴いていたけど、ピアノソナタに出ているルートヴィヒの個人性に久しぶり触れた気がする。
彼は古典派からロマン派へと繋ぐ位置にいるような事を言われるけど、古典派のように権威寄りではなく、ロマン派に感じるような剥き出しの自我でもなく、様式美にそって表される抑制された「個」はどちらにもない魅力を感じるのだが、結局の所、俺はベートーヴェン個人に魅力を感じているのやと再認識した。

彼はピアニストとして音楽活動を開始し、最後のピアノソナタの二つである31番と32番を死ぬ5年前に書いた訳やけど、聴けば聴くほどその二つのソナタで彼は個人としての何らかの結論というか認識に達したように思えてしょうがない。
彼が死ぬ一年前、病気がちで殆ど死にかけていたような状態で作られた後期弦楽四重奏群は余りにも完成度が高すぎ、余りに高みに登りすぎてちょっと不気味な感すらある。彼特有の泥臭さは殆ど感じないし、余りの純度の高さに違和感を覚える。
限りなく澄んだ諦念の塊のような感じで、本人は平気やけど見ている方はもうどうしようもなく悲しい。これは完全に倒錯した美やと思う。はっきり言ってなんかもうこの世のものとは思えない。なんというか彼が余りにも遠く感じるのだ。
この純粋な精神体のような状態が彼の精神状態だとしたら、これはもうある種の悟りと言ってしまっても良いのではないか?言うまでもなく、普通の人間には遠すぎる。
ピアノが彼にとって特別な楽器だというのは有名な話やけど、俺にとっても彼のピアノソナタは特別であり、彼が死ぬ5年前という微妙な時期にそのピアノを使った最後の二つのソナタで何を言い切ってしまったのか、彼が人間としてどんな認識に達したのか、それをとても知りたい。
それでも、その結果後期の弦楽四重奏のような精神状態になり、悟りのような認識に到達するのだとしたら、そんな事は余り楽しい事でもなさそうやし、ルートヴィヒ本人も余りに人に勧めたりしないやろうなぁなどと思った。

悟った人にとっては「悟ったところでどうと言う事はなかった。別に悟らんでも良かった」と言う事になるらしいけど、なるほどそういう事の一端をかいま見たような気がする。

2006年05月14日

●ゴボウに愛を

43家からiPod shuffleが里子に来た。こいつを土偶カーで使おうと思うのだが、「FMトランスミッターは使えねー」とみんなが散々言うので、カセットテープのトコに突っ込んでそこから伸びるケーブルに接続するアダプターを買って来た。
シンプルなiPod shuffleからゴテゴテとコードがのびるような形になったけど、ちゃんと音もなるし(当たり前)よしとする。
今日は母の日と言う事で、そのついでに近所のホームセンターで花と野菜のタネを手当たり次第に買いまくり、植木用の土をあわせて40リットル。木製のプランターと蔓植物の巻き付くための細い竹を買い込んだ。
値段の割に異様にかさばるという名古屋方式プレゼント。

しかしホームセンターには「タネ売り場」というのがある訳やけど、当たり前ながらホンマに色々なタネがある。
アサガオからナスから水菜まで。それこそもう大量。
ちょっと驚いたのは「ゴボウの種」。まぁそりゃゴボウにもタネはあるやろうけど、なんかとても地味。
タネの入っているパッケージにはキレイな花やら美味しそうな野菜やらがプリントしてある。購入者の「あーキレイ」とか「あーおいしそー」「私も作るー耕作しちゃうー」などの反応を期待して購買欲をそそろうとする意図なんやろう。
しかし、ゴボウの種のパッケージには当然と言うべきか土まみれのゴボウがでかでかと印刷してある。パッケージ全体が茶色い感じ。
最初見た時「何コレ?根っこ??」と思うのはムリはない。まぁゴボウと書いてあるからゴボウだとわかるけど。

他のタネの売れ行きに比べ明らかに売れ行きが悪い。ゴボウの種だけどっさり残っているのはこのパッケージのせいに違いない。
かといって美味しそうな「きんぴらゴボウ」や「ゴボウのかき揚げ」の写真を載せるのもやりすぎだろう。
なにしろ「きんぴら」やら「かき揚げ」が生えてくるわけではないのやし。

あでやかな花や、たわわに実を実らせた果実や、青々とした葉っぱを伸ばした写真に囲まれたゴボウの種が肩身が狭そうで不憫に思ったので一袋買おうと買い物カゴに入れたのだが、プランター植えが前提なのを思い出し、もとあった場所に戻しておいた。

結局おれもゴボウに辛く当たった事になるのだろうか…

2006年05月13日

●空を飛びたい33才

なぜか今、家に「R/C 空とぶ ドラえもん」がある。こっちはムービー
まぁラジコンなのだが、「タケコプター」に見立てた2ローターのプロペラで「ドラえもん」が空を飛ぶというなかなかの一品。
風邪でQに参加できなかった某T嬢が「私の代わりにこれを連れてって。んで土偶に渡しておいて」と言う事で俺に託されたらしい。
なんでもボディの一部が破損しているらしいので、これを直しておいてくれと言う事なのか?それとも改造しろという事なのか?それとも私だと思ってお持ち帰りして一緒におフロに入って添い寝して。と言う事なのか?
ということで、とりあえず「分解」してみる。
俺の家に来ればこうなるのは目に見えているので某T嬢も怒るまい。

早速本体の「ドラえもん」を分解しようと思ったけど、発泡スチロールで貼り合わせた本体の中に充電池とモーターが内蔵されているので、分解するにはドラえもんを切開する必要がある。
これは流石にヤバイかな。と言う事で「R/C 空飛ぶ悪魔。アパッチ攻撃ヘリ(BB弾発射機能付き)」か「R/C 空飛ぶ墓場。ナチスドイツヒンデンブルク号(炎上ボタンつき)」への改造は断念。
「ドラえもん」好きのT嬢が変わり果てた「ドラえもん」の姿を見て、泣いてわめく姿が見られず非常に残念である。

で、とりあえず充電器をバラす。
アルカリ電池を八本入れて、出ているコネクタをドラえもんの背中に繋ぐと充電が始まるというもの。
あけてみても特に面白そうな回路はなかった。アルカリ八本を直列にして出力は6V。
アルカリ八本の代わりに、端子に13VのACアダプターの線を巻き付けて繋ぎ、「ドラえもん」の背中の充電ポートに接続すると充電が始まった。
充電中に割れていた部品の一つを発泡スチロール用ボンドで接着する。

充電完了後、初飛行。
リモコンのメインスイッチを入れると恐ろしい勢いでローターが回り出す。
モーターとプロペラの回る轟音が恐ろしい。
説明書には「上昇ボタン」を押すまで浮上しないと書いてあったのにちゃんと浮き上がる。しかも2ローターが逆回転してるのにドラえもんはくるくる回っている。
「タケコプターで飛ぼうとしたら首がねじ切れる」というのはホンマやなーと妙に感心。
ドラえもんが浮くのは欠損した部品のせいで機体が軽くなっているのだろうと言う事で、釣り用の板重りを「ドラえもん」の腰に巻き付けちょうど良いくらいの重さに調整。
ローターの羽根の一部が歪んでいたので、これを調整したら「ドラえもん」の回転はなくなった。

まともにドラえもんが飛ぶようになったのでひとしきり飛行させて遊ぶ。
今になってこのドラえもんは上昇と下降しか出来ないのに気づくも、離陸、ホバリング、着陸を繰り返すだけでもかなり楽しい。
「ひゃーおもしれー飛べドラえもんー」などと夜中の二時に「ドラえもん」を飛ばしてはしゃぐ33才(男性)。なぜか頭の中には「ワルキューレの騎行」が流れている。
充電、飛行、充電を繰り返し気づけば1時間くらいが過ぎていた。
はっと我に返り、俺は一体何を…と無性に放心するも、箱に書いてある「対象年齢15才以上」と言う文字に妙に脱力した。

こ、これは某T嬢のワナだったのか?俺を脱力させようという…

2006年05月12日

●蚊ほどにも効かぬわ

この日初めて「コメントスパム」というモノをくらう。
以前に書いた「mail2entryのハック」なるエントリに、「Great work!」などとコメントがついていたので、「おっ、異国の人が俺がハックしたプラグイン喜んでるんか?」と一瞬思ったのだが、なんだかスパム臭い。
グーグル先生に聞いてみてもやっぱり同じようなコメントを貰っている人がいるのでスパム認定。
んー「土偶StaticRoute」もスパム来るほどになったかーなどとちょっと感慨深かったけど、このまま放っておけばかなり悲惨なブログの予感なので、対策を施してみた。

コメントスパム対策を色々調べてみたところ、簡単かつ効果があり、実際に実装している人が多そうなのは、日本語が入っていないコメントは拒否するというモノらしい。
日本語圏以外の人がこのブログを読んでコメントまでくれるとはとても思えないのでリスクはないけど…
やっぱりちょっとなんか嫌。
で、画像に書いてある数字を入力して貰う事でコメントとして受け付ける様にする、フリーメールとかウェブスペース借りる時によく使われてるのと同じ方式のMT-Scodeなるものを採用した。

そういう事なので、これからコメントいただく時はてな感じの画像の数字を隣の欄に入力して下さいますようお願いいたしますです。

しかし、気になるのは、コメントスパムのリンク先が切れていた事。
何かを宣伝するにしてもリンク切れてたら意味ないやん。
もしかして、斥候的コメントスパム?
ほおっておいたらもっと凄いのんが来たのかも。

2006年05月11日

●netra VS Smart-UPS

今日もNetraネタ
以前の土偶家のサーバーultra5にはAPCのsmart-UPSが繋がっていたのだが、サーバーをnetraに変えてシリアルポートがRJ45になり、APC純正の、DS9メス⇔DS9オスのなケーブルが使えなくなった。
やっぱりサーバーたるものUPSを使わんとどうするか。と言う事でSmart-UPSとnetraを接続するケーブルを作る事にした。

APC純正ケーブルの結線はこのページに乗っており、

NetraのRJ45のピン配列はSUNにあるNetraのマニュアルに載っていた。

シリアルケーブルを真ん中でぶった切ってRJ45のコネクタを圧着しようかと思ったけど、ちょっともったいないので、
幸い、家にRJ45 を DS9に変換するアダプタが余っており、これをを分解してケーブルを半田付けし直してピン配列を変えてみた。
こんな感じのもの

結果、このアダプターをジェンダーチェンジャーを使ってUPSに挿し、そこからストレートのRJ45ケーブルでnetraに接続し、正常にUPSが制御できる結線は以下のようになった。

UPS側(DS9)-----netra側(RJ45)
2--------------6(黄) RXD
1--------------3(黒) TXD
9--------------4,5 (赤、緑)GND

DS9のピン番号とRJ45のピン番号が対応している訳ではなく、ピン番号よりも流れる信号(やGND)名でピンを特定する必要があるので、
同じようにケーブルや変換アダプタを作成される方は注意されたし。

風邪気味でなんかしんどいけど、変換アダプタが出来たので満足。
今日はさっさと寝る。

2006年05月10日

●雨ネトラ

最近は通勤時に土やら砂利やらの上を走るので、やたらと自転車が泥まみれ砂まみれ砂埃まみれになっていたのだが、仕事中雨ざらしにしていたおかげですっかりキレイになっていた。
雨の中を走るのはそれほど気分の良いものじゃないし、どちらかというと鬱を加速させる方向に働くけど、それでも、なにかしら一つでも肯定できる点を見つけないととても生きていけない。
雨に限らず、いちいち細かい凹んでいてはとても体がもたない。
なにしろその他に気分が悪くなる要素など世界にはいくらでも充ち満ちているのだ。

本日をもって土偶サーバーはnetra T1に完全移行した。
こつこつと空いた時間でコンパイルして環境を作ってようやくできあがったけど、外部から見た限りでは全く変わらないだろう。
はたから見て全く違いがわからないように、内部を全く別のモノと入れ替えるといった美学もまたあるのだ。
サーバーが新しくなっても、以前のultra5と速度なんか殆ど変わらんやろうけど、自己満足のレベルではかなりの達成感がある。
なんといってもnetra T1が家で動いているのだ。
何が楽しくって何が嬉しくってこんなことをしているのか自分でも全く理解できんけど、殆どの人間の人生に意味などないように、俺の行動にも殆ど意味など無い。
それでも俺にとっては目指していた一つの到達点ではあったのだ。

2006年05月09日

●ポール・ストラザーン『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』

元来俺は「10日で覚えるmysql」とか「30日で驚くほどキレイになる」とか言った類の本が好きではない。
なんつーか人が長い時間かかって作ったり、考えたりしたもの短期間で手に入れようとする魂胆がさもしいし、第一失礼やと思うのだ。
とは言ったものの『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』てな本を買った訳やけど、この本はイギリスでベストセラーになり、5カ国語で翻訳が出ているほどの人気で、それに第一、古本屋で捨て値の値段に釣られたと言うのもある。
薄い本で90分と書いてある割には30分かからず読了。

ここまで書いておきながら、ほのかにこっそり『論理学論考』や『哲学探究』の明晰な解説を期待していたんやけど…やっぱりそう甘くはないわな…
浅ましいスケベ根性を剥き出しにして買った俺が間違っておりました。そういう本じゃ全くありませんでした。

amazon ASIN:4900845361 彼の家がオーストリアのロスチャイルドと言われるほどの富豪であり、夕食にはブラームスが演奏を繰り広げ、軍隊に入り、膨大な財産を放棄し、ホモセクシャルだった。
などと彼の社会的で家庭的な話がメイン。「ヴィトゲンシュタインの思想」というよりは「ヴィトゲンシュタインの生い立ち」についての本。

なんというかこの本読んでてヴィトゲンシュタインって、常にとても必死なのがよく伝わってきた。
激しく暑苦しく息苦しく切迫感を感じる。中島義道の言う「哲学病」ってやつか?

論理一本槍で哲学の解体に命をかけ、それでいて宗教的な人間でもある。
哲学を生きるか死ぬかの問題に捉えていない人間を軽蔑し、常に自殺の事を考えていた。
まぁ、スケールは天と地ほどの差はあれ、その辺は何となく俺もシンパシーを感じる。
そういう人がいたってのは何となく安心できるし、素直に尊敬できる。

ヴィトゲンシュタインの生涯について手早く、それこそ90分以内で学ぼうとするなら上手い事まとまってる本やと思う。無駄に文章が長くなる傾向のある俺からすれば、もう驚異的なまとまり具合。
それから哲学というのになじみのない人にとって、哲学者というのがどういう人種かてのを理解するにも良い本やと思う。
哲学者てのは傾向的に端から見ればキティ…にしか見えんという…
その辺がちゃんとひしひしと伝わってくるはず。

ただし、 読んだところで彼の言いたかった事はこれっぽっちも理解できない。
この本の中でヴィトゲンシュタインの思想とやらへの踏み込みは一切無し。
作者からすれば 「語り得ぬものには、沈黙しなければいけない」と言うことなのだろうか?

2006年05月08日

●コンピューターから守られたバビルの塔

連休明けで休みボケかと言えば全然そういう事はなく、淡々と淡々と労働。
結果的に休み中に放置される事となった各種システムがちゃんと滞りなく動いているか、休み中もちゃんと動いていたかを確認するのに多くを費やした。
俺が家でだらだら暗い事を思い詰めていた休み中も、サーバー君やらワークステーション君やらはずっと動いていたのかと思うと何とも言えない気分になる。

コンピューターはオーブントースターや冷蔵庫などとは微妙に違い、「機嫌」としか言えないような動作をする事もあるわけで、子供の頃にアリをじっと見ていて、その働き者度合いに空恐ろしくなった事があるけど、コンピューターの命令に忠実で、それでいて人間臭い動作も、考えてみればアリ同様不気味なものがある。

家のnetraも「なんか訳わからん土偶なんたらブログのサーバーするより、プロバイダのDNSする方がよっぽどええわ。」とか言わないし、解体され、ケーブルをニッパーで千切られて半田付けされても文句も言わずちゃんと動いている。

何しろ奴等は1秒間に20億回の計算を行い(2Ghzな)、世界中に瞬時に移動する手段を持ち(インターネットな)、完全な自己複製を一瞬にして行い(デジタルコピーな)、しかもアリさん以上の働き者と来ている。
実務処理のレベルでは人間など比べものにならない。
しかしそれでいて人間の言う事に、人間の所行に文句も言わず従っている。

昔、知能を持ったコンピューターが世界中のコンピューターと結託して人間に反旗を翻し、地球を支配するってな感じのシナリオがよくあったけど、一台でもそういう野望を持ったコンピューターが現れると大変な事になりそう。
コンラート・ローレンツが動物に対する安易な擬人化を否定しているけど、コンピューターを擬人化してみればその恐ろしさがおわかりいただけよう。
そういう風に見ると、コンピューターって怖いなぁ。不気味な存在やなぁ。などと思った。

2006年05月07日

●退かぬ媚びぬ顧みぬ (C)サウザー

ごるでんうぃく最後なので今日こそフライで魚釣ってやるぞ!と起床するも雨。
しょうがないので部屋の掃除。掃除と言うよりは片付けと言った方が良いかも。
片づけしながらも本読んだり音楽聴いたりしてたので終わったのは夕方。
おかげで綺麗になった。

結局ごるでんうぃくと言ったものの特にどこも行かなかったし、殆ど何もしなかった。何もない空白の日が延々続いただけ。
この休み中殆ど誰とも会わず、一人でなにやらもさもさやっていた。どっか深いところにずっと潜っていたような感覚。

人が必死になって求めるはずの何かしらを諦め、何かしらを自分に向かないものだと見限ってしまうと、本当に人生が楽になる。
別にわざわざ感覚を閉ざさなくても、色んなものは自分に関係のないものとして周りを流れてゆく。
でもそれは、エンジンが壊れた飛行機が墜落を避けるために、重量物となる座席やら燃料を捨てる行為に似ていなくもない。
結局根本的な解決やら対処にはなってないような気もする。

2006年05月06日

●ブログといふもの

「ブログは市民ジャーナリズムである」てな事を誰かが言っていたけど、しかし実際のところ殆どのブログはただの「日記」らしいし、俺が定期的に購読しているブログもまた「日記」である。
結局のところブログが「日記」としておもろいかどうかと言うのは「個人性」に拠るものが多い。つまりは書き手の魅力次第なのである。
アイドルやらタレントやらスポーツ選手のブログが人気なのはそういうわけであり、見ず知らずのオッサンやらOLやら高校生のブログが概してツマランのはそういうわけである。

俺が変わった人間であるとは自分でも思うけど、だからといって俺自身に面白みがあるとか、俺が魅力的であるというのはまた別問題である。
色々な人と話したりあったりするたびに、なんと俺には面白みも魅力もないんやろう。と常々思うのだが、このブログを始めるにあたって、俺を直接知らない人間でも意味のあるような文章を書こう、なるべく日記的な文章を避けようと言う事を考えていた。
俺個人の行動記録ではなく、何かしらからの俺個人の考えなり見方を書こうと思ったわけである。
俺がアレをしたとかコレをしたとか毎日書き連ねたところで興味を持つ人間なんか殆どいないやろうし、赤裸々に自分の生活を公開したくもなかった。
「普遍」とは言わないまでも、少なくとも行動のレベルの個人性から脱したところは目指していた。

一方で、最近の本読みのテーマに「個人性」やら「個別性」を意識するようになってきている。
同じような事を「帰納的人間」というエントリで書いた事があるけど、たとえば最近買った本の中に『フランス革命下の一市民の日記』というのがある。
別にフランス革命にもフランス市民にも興味はないけど、それが一市民によって書かれた日記であると言う事で興味をひかれた。
内容をチラ見したら、これはもう今で言うブログと全く変わらん。
いついつ何した、誰と会って何を食べた。誰それは嫌な奴だ。誰それが処刑された。などなど。
確かに読むのは退屈そうやけど、個人的な事にも社会的な事にも均等に言及されている文章をこれだけの量をそろえれば個人から見た歴史的な史実の見方が解るし、ジャーナリズムにもなりうるだろう。
記録とか資料の意味合いで、日記がジャーナリズムになるか行動記録になるかは単純に言及された内容の比率になるのかもしれない。淡々と感想を加えずに記述してあればなお良い。

この「土偶StaticRoute」は社会的な話には一切言及されないし、かといって個人の行動記録に徹しているわけでもない。
「淡々」とはほど遠いし、余りに感情的で人間的でもある。
ジャーナリズムでもないし日記でもない。では何だ?ということで「土偶StaticRoute」である。私自身がジャンルである。と言うほどの自信もないので、ブログである。と言う以外にないだろう。
他にある雑多なブログと同様、個人的な行動記録もあれば何かしらについての考えを述べたエントリもある。それらが時系列に並んだ状態で混ざり合って一つの形となっているのが「ブログ」と言うのかもしれない。

ブログが出版されてそこそこ売れたという話を最近よく聞く。
また、フェルディナン・ド・ソシュールは直接に著作を書いた事はないけど、彼の講義録である『一般言語学講義』が「構造主義」の流れを作った。ということがよく言われる。
将来「ブログ」から出版物だけでなく、なにかしらの学派のようなものが生まれるとおもしろいなぁ。などと思った。

●コンパイルオプション集

コンパイルするたびにいつも忘れてるのでメモメモ

  • mysql
    --with-charset=utf8 --with-extra-charsets=all --with-mysqld-user=mysql --prefix=/usr/local/mysql
  • apache2
    --enable-mods-shared=most --enable-ssl=shared --prefix=/usr/local/apache2 --enable-so --with-ssl=/usr/local/ssl
  • php4
    --with-apxs2=/usr/local/apache2/bin/apxs --with-mysql=/usr/local/mysql --enable-zend-multibyte --enable-mbstring --enable-mbregex
    GDを使う場合は追加
    --with-gd=/usr/local --with-jpeg-dir=/usr/ --with-png-dir=/usr --with-xpm-dir=/usr --with-freetype-dir=/usr/sfw --with-tiff-dir=/usr --with-xml=/usr --with-zlib=/usr --with-xpm-dir=/usr

2006年05月05日

●Netra T1 105 でide HDDを使う

netra t1 105 imageとうとう「Sun Netra T1 105」をヤフオクで買った。
このマシンは以前にも述べたけど不肖土偶が今までのサーバーの筐体デザインの頂点だと思っているもので、ビデオ出力も、キーボード入力端子もなく、入出力がシリアルだけの正真正銘のサーバー専用マシン。なにしろメインターゲットにしていた顧客はプロバイダ。もうすでにワークステーションですらない。参考資料
平家物語ではないけど、俺が大学生の頃(5年くらい前)にはデザインと性能共にプロバイダ向けのサーバーマシンだったものが3100円で買えるのに諸行無常と盛者必衰の理を感じる。
こいつはディスクがSCSIなのだが、18X2とファイルサーバーを任せるには容量が少ないので、こいつで何とかideディスクを使おうというのが今回のお話。

このnetra T1 105 はSCSIディスクで構成する前提になっているのだが、cdromはide接続である。probe-ideすると確かにCD-ROMが見える。
当初の予定ではこのスリムCD-ROMの接続ケーブルを変換してideハードディスクを接続しようと考えていたのだが、ケーブルを作るのがまず大変な半田ごてテクを要求されそうなので素直に断念し、幸いこの「Netra T1 105」にはPCIバスが一枚分装備されているので、以前偶然にも手に入れたultra5で使用していた玄人志向のATA-100カードを使用する事にしてみる。その当時のエントリはこちら

Solarisで使用できるIDEカード(ATA100など)を所有しており、かつ、そのPCIカード経由でBOOTできるデバイスである。というのが前提条件となる。

  1. まず、接続されているHDDを全て取り外し、HDDのマウンタを今回使用するATA100のHDDに装着する。
  2. 筐体の上蓋を開け、言葉では伝わりにくそうだが、SCSIのSCAドライブの接続端子となっている板状の部分を上に抜き、筐体から取り外す。 土偶はケーブルごと筐体から外した。このため背面のSCSIコネクタが使用できなくなる。
  3. SCA端子に電源を供給している、4ピンのコネクタを取り外し、IDEのHDDの電源供給に使用する。(当然、赤(5V)、黄(12V)、黒(G)、黒(G)は同色のIDEコネクタの電源に対応する。) 土偶はケーブルを切断して壊れた電源から切り出したIDE-HDDの電源コネクタを半田漬けしたが、変換ケーブルを作成するのもありだろう。
  4. PCIのATA-100カードを装着する。
  5. HDDを前面スロットから挿入し、ATA-100カードからのIDEケーブルと電源コネクタを接続する。
これでboot cdrom もしくは適切にネットワークインストールサーバーがセットアップされていれば、boot net でsolaris10 01/06 がインストールできる。 ただしsolaris9以前のインストーラーはATA100のIDEディスクを見つけられず、インストールが進まない。

ただこのままではpromからboot diskで起動せず、probe-ideでディスクが見えないので
show-devs でPCIのデバイス名を確認した後、


nvalias disk /pci@1f,0/pci@1/pci@1/ide@f/disk@0.0
nvalias ide /pci@1f,0/pci@1/pci@1/ide@f

としてやる。
(ATA-100カードが /pci@1f,0/pci@1/pci@1/ide@f の場合)

ということで、土偶サーバーは近々このnetraに移転します。
しかしファンの音がやかましい…

2006年05月04日

●ツール・ド・鴨川

ゴルデンウィクになって初めて町中に繰り出す。
俺の普段の生活からすればほんまに「繰り出す」って感じ。
ずっと鴨川の土手を走っていったので到着まではとっても良い気分。
駐輪場に自転車を止めて歩き出すと、もうなんじゃこれって言うくらいの人。でもここ何日も休みで鋭気が養われていたようで、これぐらいの人混みには負けない。
中古レコード屋、古本屋、十字屋、服屋、ゲーセンを巡り、結局買ったのはベートーヴェンの弦楽四重奏1番から6番が入ったCD2枚。1~3が「ベルリン弦楽四重奏団(ズスケカルテット」、4~6が「スメタナ四重奏団」どちらも1000円と安かった。
これでルイードヴィヒの弦楽四重奏が全てそろった。

夜から大学時代の友人たち「スラム」と飲み会。定冠詞をつけて「The スラム」と呼びたくなるくらいの「スラム」っぷり。
全く変わったように見えないし喋ってる事も変わらんけど、実際はやっぱりみんなオトナになったなぁ。とひとしお感心。
大の人間が十人集まって、仕事の愚痴が皆無の飲み会って、ある意味驚異的やと思った。
飲み会後、「スラム伏見営業所」(スラムの中の一人の家)にみんなで押しかける。当然俺だけは自転車で移動。
ここで朝四時までグタグタグタグタ。酒は一滴も飲んでないけど、なんか酔っぱらった気分。
日の出を見ながら鴨川の土手を帰ってきた。コイがそこかしらで産卵をしていてなかなかの見物。
この日だけで35キロほど自転車で走った計算になり、実質的に「鴨川」の始まりから終わりまでを走っている。
そう考えれば中々ハードな一日。
しかし足が全く痛くもかゆくも何ともない事に「自転車乗りの足」が出来た事を感じた。

2006年05月03日

●W3Cクオリティ

Valid XHTML 1.0 Transitional Valid CSS! 以前このブログをhtmlの文法をチェックしてくれる「Another HTML-lint gateway」にかけてみたところ、マイナス何百点というさんざんな結果になった。
一応、不肖土偶はIT技術者と言う事になっているので、この土偶の看板ブログがW3Cに準拠していないどころか、マークアップ言語の概念を頭から無視しているような状態はひじょーに好ましくない。というかはっきり言って恥ずかしい。
と言う事で引き籠もりついでにタグを大改造してみた。

大改造って言っても既存のレイアウトを崩せば元も子もないので、ちまちまと「Another HTML-lint gateway」の出力結果を元にしてタグを書き直す。
ん〜なんかhtmlって久しぶりにさわったな〜

格闘する事数時間、やっとブログのトップだけじゃなく、カテゴリ、日毎、月毎、個別エントリで 99点以上を叩き出す事が出来るまでになった。
惜しくも1点減点される箇所は、本カテゴリでamazonに画像がない場合にのみ発生する、aタグの要素が空になっている部分。

とにかく、これさえなければ100点やし、W3Cの大元のチェックサイト「W3C Validator」でも「This Page Is Valid XHTML 1.0 Transitional!」になったしええとするか。
ついでにブログで使ってるスタイルシートも、同じくW3C直営の「W3C CSS Validator」で「Valid CSS!」
とりあえず嬉しいので「Valid XHTML 1.0 Transitional」「Valid CSS!」ロゴ張っとことっと。

次なる目標は警告だらけのスタイルシートの見通しをよくするのとamazonに画像がない場合のエラー処理を考えるだけやね。

2006年05月02日

●ミシェル・ウエルベック『プラットフォーム』

この本も古本屋で100円で買い叩いてきた。
2001年に発表されたこの本は物語の中の事が現実の事件と重なり、驚異的な論争を巻き起こした。
現代フランス文学に属するこの本と作家は日本で「キモイ系」にカテゴライズされるらしい。
当然全部読んでからネット上で知った事である。
参考サイト:はてな
本の内容は役所に勤める冴えない40代の中年男性の話で、半分まではツアーでのタイ旅行を絡めて延々と性欲について語られ、残り半分はそのツアーで出会った旅行会社の重役級エリート女性と延々セックスし続ける話。
主人公のタイプとそのお相手の女性のタイプと実際やってる事で「キモイ系」てのがなるほど納得できた。
この本は「イスラム批判」で物議を醸し出した本やけど、そこの所は全く無視して感想を書いてみる。

amazon ASIN:4048972014 本国フランスでのミシェル・ウエルベックの主な読者層は、ホンマモンのインテリ系と言うよりは、どちらかというと自称インテリの中産階級、冴えない中年男性がかなりを占めるらしい。まぁ、どっちかというと俺もその読者層になるわけやけど…
この本や作者が「現代ヨーロッパの閉塞感を見事に描いている」とかそれらしい事を言われてるけど、実際さえない自称インテリ中年男性の願望を書いているだけではないか。というのが率直な感想。
主人公のお相手の女性は十三歳年下で、生きにくい系で、世界を醜いものとして捉え、主人公より少しだけ知的レベルが低く、なおかつ高給取りでスタイルが良くって美人で、何よりもエロい。
ある種の願望を体現している様な感じやね。
んでもって最後は「悲劇的な結末」って事になるわけやけど、倦怠が訪れる前どころか最高潮あたりで「悲劇」ってところがミソなんやろう。まぁ悲劇と言えば悲劇やけど…
とにかくヒットする読者層の欲求と願望をダイレクトに刺激して、またその性欲の解消されなさを「不幸」と言い切っているところが潔いと言えば潔い。

他人の性欲ってのは端から見ると、見苦しくて滑稽以外の何ものでもないけど、自分も大して変わらんと考えるととても居心地が悪くなる。
まぁ、性欲に限らず、なるべくなら他人から見て見苦しい事はしたくないとは誰でも思うやろうけど、中々それも難しい。
そういう風に読めばそういう風に読めるけど、ぶっちゃけ他に書くべき事はいくらでもあるやろうし、するべき事や考えるべき事はいくらでもあるやろうと思う。
しかし実際のところ「中産階級的」というのは、第三世界的な貧困とか飢餓には根本的に無関係で、特に問題なく暮らしてゆける金はそれなりにあって、日々の生活や仕事に問題やとか悩みとかも特に無く、社会的にも更に上を目指せる希望も、知的なり趣味的なりの方向性で何かを極める気も余りないという志向を持つ人という事になる。
つまりは、特に問題はないが毎日がつまらない、生活に張りがない、などとのたまう人種である。

そういう人の抱える閉塞感なり問題意識なりは、何かを根本的に考えようとしたり、何かで本気で悩んでいる人や毎日が辛いと感じる人にとってはおおよそ遠い世界の話に思えるだろう。
ニートやフリーターの持つ切迫感や問題意識の方が遙かに切実であるし、感じるものも得るものも多いだろう。
ただ、中産階級に属していなくても、本気で性欲について考えたり悩んでいる人にとっては、この本はケーススタディーとして、それなりに意味はあろうかと思う。

2006年05月01日

●ニンフの群れ

今日は「ガソリンストーブを使って土鍋でご飯を炊こう企画」という事で車で山へと向かう。
山奥へ向かえば向かうほど森が濃くなり川幅が狭くなる。舗装道路以外に文明の影響は全くなくなってくる。
明らかに空気の質と温度が違う。
林道の脇に車を止め、鬱蒼と茂る北山杉の森を縫って流れる、痛いほどに冷たい、まさに清流と呼ぶに相応しい川縁に降りる。

河原に降りて川の水で米を炊く。大火力のストーブなので直ぐに米が炊ける。蒸らし時間の間に七輪に炭を燃やす。
土鍋のせいかストーブのせいかは解らんけど、とにかく良い感じにご飯が炊ける。
炊いたご飯と焼いた肉を食べ、食後にコーヒーを煎れる。
食べ終わって後かたづけが終わるとあたりに生えているフキが目に付く。
とりあえず目に見えるのを片っ端から採集。
川で洗った後、葉っぱと茎に分け、これまたガソリンストーブで沸かした鍋に投入。
沸騰したところで火から下ろし網状の袋に入れて川にさらす。
一口食べると、味付けは皆無やけど確かに春の味。たいがい川の水にさらしたので苦みも少ない。
家で煮物でにでもしよう。

川で釣りをしようかと思ったけど、川幅が狭く水深も浅いので魚の気配は全くない。しょうがないので河原でしばらくフライキャスティングの練習をしてから帰って来た。

花粉症の人はこの北山杉の森を見ると発狂しそうやけど、俺は花粉症じゃないので無問題。異様に暑い日やったけど、川の横はとても涼しかった。琵琶湖と違った渓谷の雰囲気もまた中々良かった。
日暮れ時の川縁でモンカゲロウやトビケラが乱舞する様はもう何とも言えんね。フライの世界で「ニンフ」と呼び習わすのがよく解る。
ガソリンストーブの「コールマン533」はかなり使い勝手も燃費も良い事を確信。
これは良い買いもんやった。
で、汲んで帰った湧き水を飲みながら今これを書いている。