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2006年04月30日

●フライ

太陽の出ている間は鴨川で釣り。日が沈んでからは家で本と、まさに休日と呼ぶに相応しい日。
釣りの方は自分で巻いたフライを使用。「発泡ウレタン・ダン」テールとボディーに発泡ウレタン、ハックルにダウンジャケットから摘出した羽根と安上がり。しかも当然異様なほどに浮力抜群。
ライズを狙って投げるより障害物のある瀬を流した方が魚の出が良いのが解った。
5,6回程魚のアタックがあったのだが、いずれもフッキングせず残念。
ルアーの癖がついているせいか一呼吸おいてあわせるのがいけないのか?それともフックのサイズが大きすぎるのか?

一匹も釣れなかったけど、半袖で十分な陽気で、フライフィッシングらしい釣りが出来ておおむね満足。
ルアーや餌釣りの人は今まで見た事あったけど、この日初めてフライで釣ってる人に遭遇。
しばらく釣ってる様を見学してたけど、俺より遙かにキャストが上手、ダブルホール使ってコンパクトなループで飛距離を出してた。
しばらく見ず知らずのおっちゃんとフライ談義。昔はこのあたりでも上流から落ちてきたアマゴが釣れたらしい。んーちょっとびっくり。

アマゴは別にしてちゃんと狙えばちゃんと釣れる感触を得た。
定期的に通う価値は大いにありそう。もっと小さいフライを巻いてリベンジ予定。
夜に読んだ本、ミシェル・ウエルベック『プラットフォーム』についてはまた後日感想を書くつもり。

2006年04月29日

●白紙の始まり

ゴールデンウィーク初め恒例の「停電祭り」もこの日で終了し、いよいよゴールデンウィーク突入となる。
ヤフオクで業者から色々買ったのだが連休明けにしか対応してくれないようでかなり残念。
当然予定は「タブラ・ラサ」。それでもってやりたい事は山ほどある。
この連休で一気にクラスアップと行きたいところだが、あまりにしたい事が多すぎてどこから手をつけて良いのか解らないのが辛いところ。
とりあえず手近にあったミシェル・ウエルベックの『プラットフォーム』読み始めた。
何やねんこの本…

2006年04月28日

●それでも我思う万有引力は回っている。

前回の文体が気に入ったので、引き続きおなじような感じで書いてみる。

古来から何を「前提条件」とするかについて人々が頭を悩ませ、またその結果何が生み出されて来たのかは、アイザック・ニュートン、ガリレオ・ガリレイ、ルネ・デカルトの例を引くまでもなく、皆の知るところである。
その「前提条件」の諸問題については哲学から量子力学に至り、また我々の日常生活にまで大いなる影響を及ぼすものである事もまた疑いの余地は無いのである。

どこを出発点にするかというのは中々難しい問題であり、また何かしらの物事をおっぱじめるにあたって初期段階で最も注意すべき事柄であるのを我々は解っているつもりであるが、果たして本当に解った上で行動思考しているのかはなはだ疑問に思う事が最近よくある。

たとえばであるが、「ゲルマンは崇高な民族である」であるとか「黄色人種は動物に等しい」「鬼畜米英は人肉を喰らう」などといった大がかりなものであれば「そら旦那おかしいでっせ」と直ぐにでも異議を唱える事は容易である。
しかし、我々の周りにいるそういった事に異議を唱えるのをやぶさかとしない人々の中からも「私はとても仕事が出来る」であるとか「俺は常に正しい」「私以外は全て愚民である」「私が一番不幸」等と言った前提からスタートして「あの人は仕事が出来ない」「私ばかり仕事を押しつけられる」「あの人は根本的に間違ってる」「みんな私の事を解ってくれない」「愚民共のおかげで私は能力を発揮できない」「私の不幸に比べればあの人は愚痴を言う権利など無い」などという帰結に至り、悦に入って他人を小バカにし、愚痴の噴流を迸らせる「困ったちゃん」が出来てしまうわけである。
彼らの間違いは彼らの論理ではなく、彼らの前提条件である事がおわかりいただけよう。
しかるに賢明なる読者諸君(当然私も含む)は果たして彼らを弾劾する義務を有しているのであろうか?
答えは否である。

彼らが下品な花を咲かせるからといって下品な花を上品とは言えないまでも普通の花にするのは並大抵の事ではない。
なぜなら、下品な島の下品な丘に咲く下品な木が下品な花をつけるのであるからして、下品な花を咲かせないためには下品な島を下品でないよう作り替える必要があるのが道理である。
よほど差し迫って必要に駆られて着手するのでない限り、上品で賢明なる読者諸君には少々荷が重すぎるであろう。なにしろ相手は花ではない。島なのである。
我々のなすべき事は、ただただ彼らを座視して自らを省みて下品の萌芽を見逃さない事である。
上品な島に下品な種が舞い降り下品な根を張る事こそ危惧すべき事態である。

先に個人の抱く前提条件が実は前提条件ではないという例を示したがわけであるが、一方巷に溢れる社会的な前提条件とされるモノが実は前提でもなんでもないという事もまたよくある事である。
たとえば「愛は永遠」「基本的人権の尊重」「NHK受信料を払いましょう」「三権分立」などというものは明らかに前提条件ではない。あるものはただの「目標」であり「希望観測」であり、またあるものは明らかに「勘違い」や「思いこみ」に過ぎない。
これらを前提とした邁進の結果何が起こるかは皆の周知するとおりである。
もちろん希望や目標を持つのは結構な事であるし、それが人類にとっても個人にとっても有用である事は否定しない。
しかしながら、本来希望や目標であるモノを前提条件としてしまう事はいかがなものであるかと私は思うわけである。
悲しいながらも認めざるを得ない前提条件というものがあり、そこに立脚する事で万人にとって個人にとって意味のある希望なり目標に着手できるのではないかと考える次第である。

なお、あまりの偏見、あまりの思いこみ、あまり公正さの無さの文章ゆえではないが、
特定の個人、特定の団体、特定の社会を指し、またそういったモノに対して苦情を申し立てる意図が無い事を申し添えておく次第であります。

2006年04月27日

●近頃都に流行るモノ。

自己否定的な感覚というのは倒錯的な選民意識に相違ないと思う今日このごろ。皆様いかがお過ごしでしょうか?
本日のお題は巷で噂のweb 2.0について。
気分を変えていつもと違う文体でお届けしてみる。
別人格のつもりではないが、素のままでもない。ではなんだ?と問われても非常に困る。
ただただ、違う文体である。

乗り遅れたからルサンチマンで言っているのでは決してないのであるが、21世紀初頭に数々の腐れIT長者だのウンコIT株長者だのを大量生産したドットコムバブルなるものが弾け飛んだのは皆の熟知するところであるが、こと最近第2のドットコムバブルの悪寒と噂される「web 2.0」がはち切れそうな程膨らんでいるともっぱらの噂である。
私がその「web 2.0」なるものを皆目理解していない故の言い草では決してないのだが、今や猫も杓子も大企業も個人経営者も、システム屋からコンテンツ屋まで白痴のごとくインターネットの中心でweb 2.0を叫んでいる世の中である。
平氏にあらずんば人にあらず。web 2.0にあらずんばイソターネットにあらず。というわけである。
しかし、悲しいかな当然白痴の戯言である故、意味は皆目不明であるし、叫んでいる本人が理解できているのかすら、はなはだ疑問である。「さいたまさいたまー」とはしゃいでいる様とさほど変わらない様にしか見えないのは私だけであろうか?

死肉に群がる禿鷲、馬糞に群がるフンコロガシのごとくに一儲けを企む腹黒い輩が「web 2.0」あれ!というTim O'Reillyのご神託に群がり群れをなしているわけだが、ここでちょっと待って欲しい。
そもそもweb 2.0とは何なのだ?google原理主義、O'Reillyエバンゲリズムを取り繕って言い直した方言ではないのか?
百歩譲って、千歩譲ってweb 2.0を有用なものとして、雑多なコンテンツを統括的に統合する概念を含んでいるとしてみよう。
三人寄れば文殊の知恵というが果たしてそうだろうか?小学生が三人寄ったところでウラン235の半減期を測定したり、カントの三大批判書を通読したり、成人男性の性欲に対して同情的な見解を結論づける事など不可能であるのが道理であろう。
私はいくらweb上に散在するゴミコンテンツを統括的に結合したところでゴミはゴミであり、ゴミ以上の価値は決して生まれ得ないと確信している次第であるが、中にはゴミを好んで食する嗜好の御人も存する故、ゴミを集積して並べて悦に入るのもゴミ的に価値があると言わざるを得ないのだろう。
何よりも問題なのは、陳列されたゴミを価値だと説明されて、「ふむぅ。そういう世の中であるのか」などと納得してしまいそうになる私が怖いのである。ゴミを価値だと真顔でうそぶく輩の破廉恥ぶりに赤面を押さえきれないのである。

電子計算機なるモノの基本的な概念にデバイスであろうがファイルであろうが全て同列のモノとして扱うという黄金則が存じ、電子計算機が価値判断を人間にゆだね、エロ画像もプリンタもキーボードも修士論文も同列にファイルとして扱う事で処理速度なり処理ルーチンに没頭するのが電子計算機が電子計算機たる所以であり、電子計算器が「電子考え機」や「電子判断機」でないから計算器なのであるのは言わずもがなであろう。
web 2.0で構成されたインターネットが「電子計算機」の群れではなく、「電子考え機」や「電子判断機」のフィルタを取ったインターフェイスの間口になるのは、思考停止、判断停止、ひいては価値の押しつけインターネット時代が到来し、益々のバカが量産され、バカでないモノまでバカ浸食されるのではないかと懸念している次第である。
「バカはバカ、かしこはかしこのインターネット ゴミの山は ゴミの山なり」
(季語:インターネット)

皆様はweb 2.0をいかがお考え、お感じになっておられるのでありましょうか?

なお、あまりの駄文、あまりの言いがかり、あまりの適当さ、あまりの一貫性の無さの文章ゆえ苦情など言われても困るという事を申し添えておく次第であります。

2006年04月26日

●コイの季節

今日は久々に明るいうちに職場を出て、最近お気に入りの「土手」を通って帰ってきた。
小魚のライズや鴨が餌を探しているところを眺めながら、ぶらぶらと歩くような速度で自転車を走らせていたのやけど、ふと岸の芦際を見ると…

巨大魚。巨大魚。しかも群れ。群れというよりカタマリ。軽く80センチはあろうかというコイが野生のマゴイから異様にデカいドイツゴイまで軽く二十匹はひしめいている。
凄い光景や。こんなん餌に群がるニシキゴイ以外で初めて見た。
ちょっと前から浅瀬にちらちら見える背びれでコイがいる事は予想してたけど、まさかこんなにいっぱいおるとは思わんかった。
そろそろコイの産卵期ということで浅瀬に集まってきたんやろう。もう一雨くらいで産卵か?
一人でテンションあがってじーっと見つめてたけど、通りがかりの人は特に興味も示していないよう。
ルアー少年に引っかけられたり、投網オヤジに一網打尽にされず無事に産卵が終わる事を願う。
しかしこのチャンスを逃すのもなんやねぇ。
ドスト氏やないけど、目の前にぶら下がっている可能性を見過ごすのは非常に難しい。
いきなり銛撃ち込むのは極道の極みやから、練り餌とストーブ持って、コーヒーでも飲みながらラジオ深夜便でも聞きながら夜釣りでもするかなぁ( ̄ー ̄)ニヤリッ

密かに「いきもの」カテゴリの初エントリだったりする。

2006年04月25日

●Solaris11 b37

以前DVDマルチドライブが壊れてDVDが焼けなくなったので、最近Solaris 11 Community Release のb37をメインマシンに入れた時にDVDバージョンではなく、CDバージョンを入れた。
しかしSUNのサイトのどこを探してもあるはずのlanguageCDが無い。
サーバー用途なら最初からCロケールしか入れないのだが、さすがにデスクトップ使いで日本語がないのは辛い。
日本語フォントは入ってて日本語入力も出来るものの、ダイアログというダイアログ。メニューというメニューがことごとく英語。
まぁ、これでも使えん事はないわ。と言う事でしばらく使ってたけど、やっぱり使いづらい。
言語パックのCDが無い以上、日本語パックを使うにははDVDバージョンをインストールするしかないようだ。

そういうわけで職場にDVD-Rを持って行って焼き、帰宅後にインストール。
インストール時にアップグレードインストールしようかどうか激しく迷ったのだが、/exportは別スライスにしてあるし、/opt/cswは/export/pkg-bin/cswへの、/usr/localは/opt/pkg-bin/localへのシンボリックリンクなので、これを再利用する事にして新規インストールした。
インストールする前のバージョンはb33+b37カーネルだったのだが、b37にしたところでちょっとだけdtloginの画面が変わっているだけで、殆どなにも変わっていない。
いつも心に太陽な「さとうタン」情報によればzfsが/で使えると言う話やけど、流石にそれをメインマシンでするのは…
でもやってみたい…

2006年04月24日

●帰納的人間

有名サイトなのでご存じの方も多かろうが「無限回廊 endless loop」というサイトがある。
日本で起こったり日本人が関わった海外の凶悪犯罪を、弾劾するでもなく裁判記録としてでもなく淡々と説明しており、読んでて飽きない。
以前はよく読んでいたのやけど、この日久しぶりにまた読み直してた。仕事終わってからどちらかと言えば鬱系のこういうサイトを読みふけるのもいかがなものかとは思うが、中々面白かった。

このサイトで述べられている凶悪犯罪に対しての記述のスタンスは、冒頭でも述べたように非難でもただの記録でもない。
このサイトに掲載されている文章はサイト運営者が主に書籍を元に、犯人(や被疑者)について生い立ちやら犯行の状況やらをまとめたものである。
作成者の感情や意図を殆どを感じない中立的(と言って良いのか?)な文章になんだか好感が持てるし、サイトの説明ページには「どうしてそのような事件が起きてしまったのか」と「どのような経緯によって生まれるのか」と言う事を主題においているようなことが書いてある。
確かに「本当の犯人像、事件の真相」を捉えようとしている意図は伝わってくるし、文章力というよりは筆力といったものを感じる。
ここで述べられている事も作者の見解の一つに過ぎないはず。とは思いつつも犯人や被害者の感情や様子がリアルに浮かび上がってくるように感じる。
当然のことやけど、個別の事件には個別の事情や理由がある。犯人にとって何がトリガーになるかは解らんし、被害者が被害者となる必然性も当然ながら全くない。
人間の起こす行動に統一性だの一般性だの普遍性など望むべくもない。
小説好きの俺にとっては、そういった犯人や被害者と言った個別的な物語を聞く(見る)のに非常に興味があるし、個別で特殊な事から一般的な(普遍的とは言わない)事が見えてくるのではないかと思っている。
推論の方法としては個から一般へと至るこの「帰納法」は、結論を導く為の手段としては信頼性が薄く、蓋然性の導出にしか留まらんのやろうけど、先に述べたようにそもそも人間自体が確実な意味での一般性を持っていないねんからしょうがない。
逆説的やけど、個別性に注目すればするほど、動機とか欲望とかのレベルでその個人の持つ一般性というか凡庸性が見えてくるわけで、逆にその事こそに人間一般の悲しさを感じる。

「カラ兄」で人類全体を愛せても個人を愛する事は出来ない、と言うような事を言っている医者の事をゾシマ長老が言っていたけど、俺は逆に人類とは行かないまでも人間一般や特定の集団に対して否定的な感情を抱いても、そこに属するだれか個別の人間に対しては同情を感じる事が多いようだ。

だからどうしたと言っても何もないんやけど。

2006年04月23日

●水無川のカフェ土偶

この間ヤフオクでコールマンのシングルバーナー「model 533」というのを買ったのだが、こいつはホワイトガソリンだけではなく、自動車用の無鉛ガソリンも使用できるらしい。
コールマン純正のホワイトガソリンが1リッター缶で900円、4リッター缶で2500円ほどなので、自動車用ガソリンが使えるというのはかなり燃費が安くなる。
とりあえず分解してオーバーホールし、家にホワイトガソリンが無かったので「ハクキンカイロ用ベンジン」で試運転はしてあったものの、ガソリンでは動作確認を取っていなかった。
この日時間が出来たので突如琵琶湖にこのストーブと水とコーヒー豆とポットコップセットを持って突撃。

大昔に高校時代の友人と発見した場所に到着。
車から降りて少し歩き、とりあえず靴と靴下を脱いで、下流になると水無川になる河口にゴザをひいて座る。水無川といっても河口は広く水の流入はあるので、恐ろしいほどの水の透明度、琵琶湖の先に突き出す形になっているので景色も素晴らしい。何よりも国道から遠く離れているので、車の音が全く聞こえないのが良い。

目の前でダイビングを繰り返す「鵜」を眺めながらストーブのポンピング。そして爆発しやしないかとヒヤヒヤしながらおもむろに点火。
気化したガソリンは「ぐぉー」という音と共に気持ちよく燃え上がった。
また更に炎が青く安定するまでひたすらポンピング。
今まではメインにガスボンベ式のEPIのバーナー使ってたけど、なんかこういう手の掛かるのも中々ええもんやね。
ポットに水を入れて火にかけ、コーヒー豆をセットしている間にすでに湯は沸騰していた。
なんか恐ろしいほどに大火力。これやったらご飯でもすぐに炊けそう。
家にある飯盒は普通の形なので、このストーブの上に置くのはちょっと微妙な形。と言う事で次は「丸形飯盒」でも買おうかな。などと考える。
無駄に湯を沸騰させながら、コーヒーを飲みながら琵琶湖を眺め、タバコを吸い、魚を探して潜る鵜を眺める。
とりあえず燃料用ガソリンでもちゃんと使えるのを確認したので、恐ろしい音を立てて燃焼していたストーブの火を止め、白湯とコーヒーを交互にを飲みながらひたすら鵜を眺める。
いっこうに鵜が魚を捕まえている形跡がないので今度は景色を眺め、そろそろ帰るか。
と思いついたところでまた車に乗って帰ってきた。

こういう風に贅沢に時間と労力を使うのは何とも気分が良かった。

2006年04月22日

●中島義道『孤独について 生きるのが困難な人々へ』

なんかこの人の書く本のタイトルは攻撃的やなぁと思う。
この本は、この間エントリにもした『働くことがイヤな人のための本』と一緒に100円で買った。
内容としては著者「中島義道」の半生を「苦しみ」と「自ら選び取った孤独」と言う観点で述べてあるような感じ。
多かれ少なかれ誰でもこの著者に共感する部分はあるやろうけど、ここまで思い詰めるひとは中々いないやろうと。
中途半端なものが多い世の中で、この人ほど徹底しているのは見てて気持ちいい。

amazon ASIN:4166600052 この人の本を読むのはこれで三冊目やけど、どの本も切実でどこか息苦しい。
何となく親近感とか好意のようなものは抱くけど、正直見ているところとか目指しているものは大分違うように感じる。
どちらかというと俺も思い詰める方やけどこの人ほどではない。俺はまだまだ気楽な方やったんやなと。
それから、何かしらについて考えて考え続け、突き詰めて突き詰め続けてゆけば、どうしてもある意味で宗教的になってしまうのは、仕方ない事なのか、それとも必要な事なのだろうか、宗教的だけど宗教者でない人間というのはただひたすら苦しむしか道はないのだろうかと思った。

2006年04月21日

●桜が散る頃「みんなのしあわせ」BSD完成

前に言ってた「みんなのしあわせのためならプロジェクト」のweb-dbサーバーがとりあえず本日をもってテスト機から本番機への移行が終わり、別に頼まれもせんのに俺が勝手に決めていた要求仕様が全て実装されて、めでたくバージョン1.00の運びとなった。
テスト機のPCはハード的にちょい不安定なので、以前俺が作った、今はすでに退役している検疫サーバーだかプロキシだかのフルSCSI機に入れ直し。
NetBSD3をベースにしたapache2,php4,mysql5で構成されたweb-dbだ。おまけ機能のはずが、いつの間にか昇格して目玉機能になっていたのは「出力結果がワンクリックでをpdfに!」というやつ。
こっそり一人で土偶web-db-pdfアプライアンスと呼んでいる。

つーてもPDFlibだのClibPDFはライセンス上グレーになるのでpLaTeXを使ったのだが、変換自体は外部コマンド叩くだけで良いにしても、web-dbを構築するより、TeXのマクロつーかコマンドが一番ややこしくてこれに一番時間を取った。
sql文だとかphpはもうだいぶ慣れてきているけど、なにしろTeXは一から勉強したようなもんやし、しかも目指すところが表組みやったもんで。
いつもはSolarisばっかり、家でもデスクトップ機としてsolaris使ってるけど、さすがに並列処理なんか全くなくって、シングルスレッド性能が発揮されるような使用条件になりそうやったのでムリヤリSolarisで構築する意味は余りなくって、かといってLinuxも使いたくなかったので、NetBSDを使ったということになる。
日常業務をこなしながら並列処理でこれを作ったわけで、開発期間中はマルチタスクどころかマルチスレッドな気分やった。UltraSPARC T1 みたいやな俺ってば。(自画自賛)でも俺の仕様はオープンソースじゃないぞ。

いつもはsystemV系のコマンドやとか構成に慣れ親しんでいる訳やけど、NetBSDを長時間触ってるとそのBSD系のrcスクリプトの構成とかもええなーと思ってくるから不思議なもの。
何よりもインストールの初期状態のシンプルさが良い感じ。(まぁBSD系とは関係ないが…)perlは入ってないけど、iconvは入ってるというセンスが何となく気に入った。
BSDのエラい人はなんだか怖いけど、やっぱりBSDは硬派だなーと思った春。

2006年04月20日

●川

桜が咲き出してから、出勤時と帰宅時にちょっと遠回りして花見がてら桜並木の鴨川の土手を走っていたのだが、ほぼ桜が散りきった今も遠回りしている。
とは言っても土手ではなく河原を走っているのやけど、目的は桜ではなく川、そして魚。
昔からフルカラーでやたらに詳細な『山渓カラー名鑑 日本の淡水魚』を愛読しているくらい淡水魚が好きで、川に架かる橋を渡れば覗き込まなければ気が済まないタチであるから、河原を走っていてライズがあればついつい止まって次のライズを待つし、ちょっと気になる瀬や淵や流れ込みがあればついつい止まって魚体を確認しようと目を凝らすのでなかなか自転車が前に進まない。
帰るのも行くのもいつもより余計に時間がかかるけど、そういう時間はプチ至福を感じる。

川がちゃんと川として機能するには微妙なバランスの生態系だか環境が必要なわけで、そこに住む魚も繊細で華奢である。
一方、海は俺にとって色濃い「死」のイメージが漂う懐の大きい場所で、相手にする魚も大きめの大味な凶暴なやつでどちらかというと真剣勝負なとこがある。
最近海には圧倒的な深くて重い人知を越えた魅力を感じるようになったけど、昔は川の方が好きだったわけで、川の魅力が減じたわけではなく、海には海の、川には川の魅力がある。
海の魅力というのは日常とは全く別のところにあり、川の魅力は俺にとって日常の延長線上にあるように思う。
そういうわけもあり、夕まずめのライズを河原に立って眺めるのは何とも言えん情緒があるやね。
夏の休みの日にこのあたりでフライでカワムツとかオイカワとか釣ってたけど、毎日同じ川を見てれば、めくらめっぽうにフライ投げてた夏に比べて、ここにこうフライを落として、ここを流してこのあたりで魚が飛び出してくるはず。というイメージがはっきり浮かんでくる。
平日なら人も少ないし、出勤時に竿とリールとフライを持って行けば、仕事帰りに釣りが出来るではないか。
仕事後に小魚と遊んで貰うのもありかもしれん。

しかし、釣りキチ三平じゃあるまいし、釣り竿背負って仕事に行くというのは如何なものだろうか…

2006年04月19日

●清々しくて鬱なりけり

今日、某プ○ン嬢の就職活動苦労話を聞いて存分に負の波動を味わった。
どちらかというと俺の方から「どうやってん?」「どないなっとんねん?」とムリヤリ喋らせたのだが、死人返しの魔法なら4人分くらい、召還士ならイーフリートくらいは呼び出せそうなほどの負のフォースごちそうさまでした。m(_ _)m
俺やったらもうどうしようもなく凹んでるやろうなぁと思う。

しかし負のフォースとは言っても、よくありがちな、自己憐憫と他人の悪口が半々で構成されている、聞いてて面白くも何ともない「ただのグチ」なんかとは違って、中々聞き甲斐があった。
こういうとなんだが、比較的せちがない価値の中で生きてるおっちゃんにとっては、初めてぶつかる社会の壁に打ちのめされている若者を見るのは、なかなか清々しいモノなのだ。

でもまぁ就職活動ってのは本人からすればある意味で限界状況なわけやけど、自分の無力さとか有限性を自覚したところで、ヤスパー某ではないので、絶対者の存在なんか確信せずに、ただ鬱になるように見える。
それでもムリムリに頑張る人が多いわけやけど、そういうところに追いつめられて初めて「なぜ働くのか」とか「仕事とは何か」「どこかに所属するのは必要なのか」なる問いを発する人もいるわけで、
「そこまで行かんとそんな事考えへんのか?」とは思いつつも、そういういわば「比較的根源的な問い」を発して自分で考える事自体は、鬱になる事とは別にして良い事であるとは思う。
どんな事にも良い面と悪い面がある。などと一般論を吐くつもりはないけど、就職活動ってのを全くと言っていいほど経験していない俺にはなんとも助言しようがないのやけど、上手くいくにしろいかないにしろ得るモノがあればいいなと願う次第である。

2006年04月18日

●108の瞳(推定)

毎年新入生を見るたびに、こいつら全員windowsアカウントとメールアカウントを一個ずつもってんねやーと無駄に驚いていたものだが、今年になって初めてその新入生と直接的に関わることになった。
職務上の守秘義務に引っかからない話だと思うので書くが、この日と何日か前と合わせて二度、入学したての新入生向けにパソコンの基本的な使い方を解説する事になった。
今まで数回アシスタント向けの講習会を開催したことはあるけど、これは聞いてくれる人が見知った人間ばかりなのに引き替え、今回のは全く知らない新入生、しかも50人くらいと中々大がかりな感じ。
まぁ俺のスタンスとしては説明要員な訳だが、学生からしてみればパソコンの授業な訳で、無駄に緊張するタチの俺としてはかなりドキドキ体験やった。

しかし実際には最初の一言が若干緊張するだけで、始まってみれば中々楽しい。
二回目となればもう緊張することもなく楽しさだけが前面に出てくる。
なんというか俺の言うことをみんながちゃんと聞いてくれているというのは嬉しいもんやね。
更に彼らに使い方を説明しているシステムの構築に俺が一枚も二枚も噛んでいて、彼らの使っているPCは俺が手塩にかけて作ったものだという事実は、もう心地よさ以上の物を感じる。
いつもは「中の人」的な存在な訳やけど、こういうのも中々楽しい。
満員になった大教室で講義をするのも気持ちいいやろうなぁ。と想像する。

しかしながら俺はシステム屋さんな訳で、こういう風に特定のソフトの使い方を大勢の一般ユーザーに説明することで、システム屋として見えてくる事もある。
俺にとっては整然としたロジックにしか見えない事も、一般ユーザーからすればブラックボックス以外の何ものでもないと言うことがよく解った。
とかく俺のような仕事、あるいは立場にいる人間は一般ユーザーの利便性よりも、システムの整合性だとか美しさに目を向けがちだと思う。
ユーザーが簡単に快適に使えるように我々がややこしい事を引き受けているわけで、ユーザーがシステムにぶら下がるのではなく、システムがユーザーに仕えるのだ。
システム第一主義ではなく、ユーザーを第一とするのが本来的な姿だと思う。
今回の事は俺にとってある種のお祭りみたいなもんやったけど、そこの所を再認識したのは良いことのような気がする。

しかし、大勢の前で話している自分を客観的に見てみれば、なんだか4割増しで頭悪そうに思えるのは何でやろう??

2006年04月17日

●普通って難しい。

この日はネットしているうちに、東京でOLをしている、いわゆる「ごく普通の人」の日記を延々読んでいた。
自分自身を「負け犬OL」だとか読んでるのでそうでもないのか?
「セカチュー」のキモさにゾクゾクしながらも思わず全部読んで後悔してるというのでそうでもないのか?まぁいいや。
話の内容としては、ランチだとかクラブだとか、海外旅行だとか買った服の話だとか、見たテレビだとか見た映画だとか。
なるほどこれが普通人の生き方か。これが普通人の時間と金の使い方か。と、とても感心したと同時に、いかに自分が普通とはずれているのかがよく判った。

以前までみんなが何をして、何が楽しみで毎日を生きているのかがよく判らんかったけど、そのホームページを見て何となく理解できた。
なるほど、普通のOLはWebサーバーを作ったり、古いロシア人の本を何度も読み返したり、雨の日に自転車で疾走したり、火吹き竹を作ってみたり、火鉢で食パンを焼いたりはしないのだな。
普通のOLは素潜りで魚を突くために水深15メートルを目指したり、より効果的な銛先の形状やシャフトの長さなどや、コンパイラの最適化オプションやccとgccの生成するバイナリのサイズなどにも全く興味がないらしい。
上記のようなことならもう何時間でも眼をキラキラさせて喋る自身があるのだが、特に普通のOLはそんなこと聞きたくもないのがよく判った。
平行線どころかy=2x+1 とy=-3x-2 (x>0) の二つのグラフみたいなもんやな。xが増えれば増えるだけ離れて行くみたいな。
そら誰も俺に寄りつかんわな。

しかし、そのホームページの人だが、『ジェイン・オースティンの読書会』を読むのはまだ良いにしても、「人文系ヘタレ中流インテリのためのマルクス再入門」なんてキャッチコピーがついた本を買う人はやっぱりちょっとおかしい人かもしれない。
って、どう考えても普通やないやん。
とまぁ俺が言うのも何やけど、いずれにせよ俺がもう後戻り出来んところに来てるのはよく判った。

2006年04月16日

●「超ひも」二冊

「相対性理論」と「量子力学」を統一し、素粒子同士の運動から宇宙までを統一原理で記述する理論になると期待されている「超ひも理論」の入門書二冊の『超ひも理論』『超ひも理論と「影の世界」』。
買ってから気づいたのだがどちらも同じ著者で広瀬 立成という人。
本の構成も章立ても述べてある内容も挿絵までこの二つの本は酷似している。
出版社が違う本なんやけど大丈夫なんやろうか?
明らかに何も知らない一般庶民向けの本なんやろうけど、とてもちゃんと理解できたとは言い難い。
本の半分までは「超ひも理論」で統合される一般相対論と量子力学の話。余りにもさらっと流した感はあるけど、それなりにまとまっている感じはした。
でもそれぞれについては前に読んだ二冊の方がよく理解できるような気がする。
一つ大きな勘違いをしていたんやけど、まだその「超ひも理論」てのはは完成していないらしい。
なんやらスゴい統一理論が出来たものやと思ってたけど、重力以外の三つの力を統合する「大統一理論」ですらまだ完成していないそうで、まだまだ先の話と言うことになるらしい。

amazon ASIN:4569618839 amazon ASIN:4061327895 で、結局「超ひも理論」のキモはクォークやレプトンなどの物質を構成する粒子と、物質、時空界に働く四つの力が伝わる際に交換される、フォトン、ウィークボソンなどのゲージ粒子の全てを、閉じたヒモや開いたヒモの振動する姿だとモデリングすることで重力に対して「くりこみ」を導入して、重力以外の3つの力を統合した「大統一理論」に統合させ、時間や空間もその振動するヒモで記述すると言うことになるんやろうか??
いずれにせよ複雑な物理運度がどんどん細部に迫っていくことで、どんどんシンプルな図式になってゆく様は美しい。

「超ひも」は英語では「スーパーストリング」というらしく、ぶよぶよと震えるヒモを想像するよりは振動する弦を想像した方が解りやすいような気もするけど、いずれにせよビッグバン直後のプランク時間のプランク距離だとか、十次元だとか二十六次元だとか、ダークマターたる超対称性粒子だとかもう完全に想像すら出来ん。
「超ひも」と言われてなんか具体的な何かを想像するのも根本的に間違ってるのやろう。

そういうわけで、こういう事を説明されても「へー」とただひたすら感心するしかない。
どうしても何かしらの概念は何かに置き換えて理解するしか俺には出来ないので、重力もその他の3つの力も粒で伝わっているとか、時間も空間も次元の軸として理解されるとか、反物質の存在とか、エネルギーなり質量がプランク係数の倍数値しか取り得ないとかを説明するためには数式やら実験結果が必要になるわけで、そんな「X粒子交換による物質の消滅の式」やとか、「スーパーカミオカンデの観測結果」を見せられても俺には全く理解できない。
ここは言う相手を信用して「へーそうなんですかー」という意外にないやろうね。
俺にとって世界生成の秘密も「アマゾン奥深くに住むらしい地底人の地底帝国の税制制度」に対する知識と殆ど変わらない。
それとも俺には想像力もロマンも欠如しているのか?かといって現実的であるとはとても言えないような気もするのだが…
ぶっちゃけ相対性理論も量子力学も大統一理論も超ひも理論も俺にとっては現実生活と何も関わりがない。と言うことになる。
更に言えばそれを知ったところで俺が「知恵」を増大させたとは思えず、ただの「知識」が増えたと言うレベルで終わる。

言うまでもなく時間は有限である。プランク係数は俺には何の関わりもない。「知」の対象をを選ぶのも大事やなと思った。

2006年04月15日

●中島義道『働くことがイヤな人のための本』

久々に土日休みと言うことで思う存分引き籠もって本ばかり読んでいる。
にもかかわらず夜に数時間所用で出かけ古本屋で見つけた本。
タイトルだけ見ると絶対読みたくないような本やけど、著者が「中島義道」だと言うこともありちょっと立ち読み。いきなり引き籠もり属性だとか、高等遊民を願う人向きだと言うところで一気に持って行かれた。
ただ一つ最初に誤解を解いておくと、こういうタイトルを持つ本を買ったからと言って俺が今の仕事をイヤだとは思っていないと言うことを強調したい。俺は今の職場では恵まれている方だと思うし十分満足もしている。
何が言いたいのかというとこういうタイトルを持つ本を買ったのは、仕事がイヤなわけでなく、本の趣旨が気に入ったからだと言いたかった。
「土偶さん仕事イヤなんですか?」と聞かれたりしないためにわざわざこういう事を書いている。
かといって、職場が絶対的に良い場所であると言い切っているわけでもない事を付け加えておく。

amazon ASIN:4532163749 この本を一言で言うと、自分が人間関係のレベルで社会不適合者であると認識し、逆説的な自己否定と自己憐憫と自己陶酔を抱き、知的な方向で高等遊民でありたいと願った引き籠もりの人間(著者)が、同じような傾向を持つ読者に向けて、主に「仕事」の事に関して語りかけている本。
引き籠もりや無職は何も悪くない。それはそれで思索的な仕事だと言うレベルで価値があるという主張は俺も大いに賛同する。
成功者やとか才能のある人間が声高に、世界の中心で何かを叫ぶ、世の中で、こういった類の弱者とされる人間が同じようなタイプの弱者に向かって語る言葉は珍しい。
今でこそ著者の中島義道はすでに「成功者」の部類に入っていると思うけど、それでも自分が「落伍者」であることを確信していた時期を大事にし、過去の自分のような人間に真摯に語っているのは感動的ですらある。
なんというか本全体に行き渡っている息詰まるような切迫感はなんとも息苦しくもあり心地よくもある。
この本は俺にとってとても大事に思っていることが余りにもふんだんに述べられているので余り内容については語りたくない。
この本を読んで、俺には「幸福」やとか「幸せ」が向いていない事を認めるのに、ようやく踏ん切りがついたような気がする。これで心おきなく俺の道を歩む心づもりになった。

そういうわけで某Yよ。お主にもこの本を心からお奨めする。
すでに読んでたら失礼。

2006年04月14日

●量子、光子、陽子というと女の子の名前やと思う

最近、コンピューター→C言語→CPU、メモリ→半導体と興味が移ってきた訳やけど、そこから明らかに極端な飛躍として現在の半導体やらなんやらを設計する基礎となっている量子論に興味がわいてきた。
今まで俺が持っていた量子論、あるいは量子力学の知識と言えば「光、電子は波の性質と粒子の性質を持つ」てなところ止まりで「シュレディンガー方程式、プランク定数」てな言葉を知っているだけで「だから何?」と言う感じやった。
それでは殆ど何も知らないのと変わりなく、まぁ概要の概略でも理解したいなぁ。というわけで、楽天で落札した本を取りに行った古本屋で「量子論」に関係した捨て値の古いブルーバックスを二冊買い叩いてきた。
今更量子論と相対性理論とは古くさいにも程があるような気もするけど。

amazon ASIN:406117679X amazon ASIN:406117701X 『相対性理論の世界』ジェームズA・コールマン 『量子力学の世界』片山泰久
どちらも昭和40年代初めに初版が出ているにもかかわらず今でも売られていると言う事はかなりのロングセラーと言っても良いやろうと思う。どちらかと言えば定番の本に入る部類か?
ブルーバックスというと高校まではよく読んでいたけど、本読みの傾向が一変してからは、理系コンプレックスだとか文系純粋培養な人間が読む、科学的な知識を「解ったような気になる」類の本やという偏見が何となく出てきて今まで敬遠していたところがある。
しかしながら、量子論をちゃんと正確に理解しようなどとも理解できるともこれっぽっちも思っていないので、こういう概要の概略入門てな用途にはブルーバックスは最適かもしれない。
量子論を理解するにはその先駆けとなった相対性理論からというわけやけど、この『相対性理論の世界』はとても解りやすかった。
だいたい「光速度普遍」を基準とする「特殊相対論」は時間も質量も体積も、光に対しては可変的であると言う結論を導く意味で、実体験の範囲外にありながらも理解しやすいものやと思う。(実際俺もそこまでは知ってたし)
しかしながら特殊相対論が言おうとする事はそれとは全く違う、エネルギーと質量の等価性を結論づける話であり、一般相対論とはそこに重力と加速度の等価性を前提したうえで、速度が可変の加速系を扱う理論ということになる。
そのあたりの事がこの本ではちゃんと理解できたように思う。
次の『量子力学の世界』は俺の知識と理解力不足のせいもあるやろうけど中々解りにくかった。原子のスペクトル解析から量子論が生まれ、原子核を構成する素粒子の話あたりまでを歴史的な発展段階で説明しているような感じやけど、対話形式というか妙な例えのおかげで余計に解りにくかった。
結局理解できたのは量子力学て言うのは分子とか原子とか原子核だとかの非常に細かい世界の話で、原子やら電子の運動はハイゼンベルグの「不確定性原理」に基づいており、ニュートン力学的な予見的に予測できる物ではなくって、ある「状態」の範囲内としか理解できず、非連続なエネルギー特性を持つ。ということであり、なんかそういう電子やとかの性質を理解する事で発展的な事が出来た。ということやろうか?
それでも、マイナスエネルギーを持つ騾馬電子やら反陽子やら反物質の話まで出てくるともう完全に想像の範囲外にある。
昔、数学で虚数てのを習った時にこの世の中には訳のわからん事が沢山あんねんなぁ。てな事を思った記憶がある。
コペルニクスの地動説やら、チャールズ・ダーウィンの進化論やら既成概念を変えてきた科学的見解というのは沢山あるわけやけど、相対性理論や量子論の話なんかも自分のいる現実を根底からひっくり返すような感覚がある。
それは原子やとか光速度に限りなく近い条件下といった日常生活にはない状態での現象の話やけど、それでも現在の世界モデルというか物質モデルであるニュートン力学が現実的には正しく見えても、小さなところで根本的に間違っているという認識は大事な事やと思う。
質量も時間も体積も光速度からすれば可変な訳で、その光すら重力の影響で空間のゆがみという形で進路を変える。それはもう不確定性原理を持ち出すまでもなく絶対的な尺度は何もないと言う話になる。
とはいっても、量子と光速度の世界は余りにも想像の範囲外の世界にある。いくら言葉で説明されても、記号で説明されてもその説明されている物がそうなることは理解できない。言葉や記号で表されているはずの物をちゃんと想像できないのだ。
結局そういった事実を解った気になっているだけで、ちゃんと解ったとはとても言いがたい訳で、俺にとっては「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という事になりそう。
文系的な事実については「へー」と自分の理解が深まったような感覚を抱く事が多いけど、こういう科学的事実とされる事を知った時はその仕組みと構造美にただ驚くくらいの反応しかできない。
でも考えてみればそれは 「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである。」という感覚なんやろう。
とまぁ文系である俺は最後にヴィトゲンシュタインの話に持って行ってみた。ムリヤリ??

2006年04月13日

●穴掘りモグラ的反省

知人に「宇宙好き」あるいは「空好き」がけっこういるのだが、なぜか俺は宇宙にも空にもそれほど興味を持たなかった。
子供の頃は家に子供向けながらも天体望遠鏡も顕微鏡もあったけど、どちらかと言えば顕微鏡の方をよく見ていた。
高校時代は生物的に細かい物の代表のような分子生物学を志望していたし、結局興味が移った方向の哲学も誤解を恐れずに言えば、社会や他に対する関係性というレベルでは非常に「細かい」物だと思っている。
コンピューターに関する興味の傾向も、グローバル化だとか次世代ネットワークだとかには殆ど興味が無く、ずっとシステム自体に興味があった。最近ではカーネルとかプロトコルとかいった、どちらかと言えばシステムの内部構造の方向に進み出しているような気がする。
今まで経てきた趣味なり嗜好なりを考えれば、俺は「より細かく」の方向を目指す人間であるのは間違いないように思う。

たぶん俺は「より高く」を上へ上へと目指すタイプではなく、「より深く」を目指して真下に穴を掘っていくような感じのタイプなんやろう。
んでもって広い空や宇宙に思いを馳せて美だとかロマンだとかを感じるのではなく、細かい物事を詳細に眺める事で「仕組み」やとか「システム」に美を見いだすタイプなんやとも思う。
ケプラーの超新星よりも細胞のアポトーシスの仕組みの方が心惹かれるし、グリッドコンピューティングよりも並列CPU技術の方が興味ある。
宇宙だとか巨大コンピューター群てのは自分の外側にあり、 かつスケールが大きすぎてあまり自分に関係の無いような気がして興味を持てない。
たぶん自分の手の届きそうにない範囲の事は無いものとして扱おうとする傾向にあるのやろうと思う。
一人で趣味とかに打ち込む程度ならこれでも別に悪くないやろうけど、人間関係でこれを前面に出すとあかんやろうねぇ。もちろん人間関係だけじゃなくって日常生活一般でも。
細部とシステムとしての美しさにこだわり、自分に関係ない物には全く手を出さない。
こう書くとなんか最悪の奴やん。
でも実際、俺はこんなことやってるもんなぁ。ということでちと反省。

2006年04月12日

●グイン107+

昨日読んだ本と今日読んだ本をまとめて掲載。
まず昨日読んだのが『グインサーガ』の107巻、そして今日読んだのが『オトナのハッカー読本』
両方ともいちいち感想を書くようなもんではいような気もするけど、とにかく書いとく。

amazon ASIN:415030842X amazon ASIN:488321303X 最初の『グインサーガ107巻』は、かれこれ二十年近く読み続けているシリーズ物。新刊が出るたびに売り上げランキングに入るのだが、周りに読んでいる人を全く知らない。
どちらかというと「恥ずかしい」部類に入る本なのでカミングアウトしないのだろうか?
高校時代に友達に勧めて、唯一彼だけがその本を読んでいるのを知っている直接の知人やけど、その友達のおばあちゃんも『グインサーガ』を気に入って「豹頭王の花嫁が誰かを知る前に死ぬのは嫌だ」と言っていたのを今更のように思い出した。
あれからちょうど15年過ぎたけど、そのおばあちゃんはまだ存命だろうか?
面白いシリーズであるとは思うけど、さすがに107巻(外伝入れると127巻)あるのでなかなか人にお勧め出来ない。

次の『オトナのハッカー読本』は古本屋で安いという理由だけで買った本。
発行年度が1996年と今から十年前で、当時のアングラ模様軽くかいつまんだような感じ。
当然、余りにも内容が古く、書いてある事も稚拙なので、なんか読んでるだけで恥ずかしくなってくるようで、まともに読む気にならずぱらぱらとナナメ読み。
やたらと違法だとかイリーガルだとか強調してて、そこの所を強調すればするほど、逆に法にとらわれてるように見えた。
なんというか「何ものにもとらわれない」というのは難しいやね。
しかし同じ百円なら植木屋でアサガオの苗でも買う方が遙かに有用やったと思った。

2006年04月11日

●海に塩をまくような仕事

昨日一日引き籠もってたのに引き替え、今日は一日中飛び回っていた。
何の因果か久しぶりに90分間授業のアシスタントをして、とても楽しかった。
いつもコンピューター相手やし、こういう風にひたすら人と接する仕事も楽しいねぇ。

授業にいた一回生に年齢を聞かれて教えると「ええーーー」ってドン引きしてたのにちょっと傷つくも、「オマエらも間違いなく33歳になって18歳にオッサンオバハン呼ばわりされるから心配するな」と嫌がらせをしておいた。
んでもって俺を「先生」と呼ぶので、「俺は先生ではない」というところを説明する際に「じゃぁなに?」と聴かれても「システム管理者なりネットワーク管理者」という仕事を若者に理解して貰うのはとても難しかった。
パソコンが壊れたら直す。てのは判りやすいけど、どちらかと言えばそれは単純作業に入る部類だし、実際彼らの使う環境を、彼らが見えない形で整備することがメインな訳で、特に意識しなくても当たり前の環境を死守すると言う意味で、どちらかというと電力だとか水道だとかに近いような気もする。
当たり前のことを当たり前として維持するのも、端から見てれば確かにわかりにくいやろうなと、確かに思う。
だからといって判りやすくする必要は全くないのやろうけど。

2006年04月10日

●ぼくの体なんか百ぺん焼いてもかまわない事はない。

この日も日本語よりsqlとphp言語を使った日。ひたすら引き籠もって、某上司と密かに「みんなのしあわせのためならプロジェクト」と呼んでいるweb-db作りに専念。
まぁプロジェクトつっても仕様だけ聞いて、設計からコーディングから実装からデバッグのどこまでも一人なのだが…
とにかく丸々一日引き籠もったせいもあって、この日のうちに殆ど完成。
何を作ったのかってのは余りおおっぴらに言えないが、結局とにかく知らない人にはそれなりの見栄えのするweb-データベースシステムを、着手から三日で仕上げた事になる。ちゃんと3重にjoinしたリレーショナルデータベースになってるもんよ。よくやった俺!

しかしながら、殆ど内部で使用する事を想定されているので、SQLインジェクションなどの対策は全く施していないのがなんともいただけないし、sqlに対して発行してるクエリもひよっこの俺から見てもなんともダサい。
まぁこのSQLインジェクション対策に関しては後ほどPOSTなりGETなりの入出力を走査する別関数を作成する予定。
後はphpかデータベースからの出力をpdfに変換する機能を実装すれば完成。これはとにかく追加機能なのでそんなにあわてる事もないだろう。とにかく納品出来る状態になったってのが大事。

しかし他の仕事を殆ど全てうっちゃった状態だったので、帰る頃には別の仕事が山積み状態…
でもまぁ暇よりやる事がいっぱいある方が楽しいのでいいや。

それよりも何よりも、前まで苦手意識があって避けていたところのあるsqlやデータベースの世界に、業務命令としてムリヤリでも投入してくれた上司のおかげで、まがいなりもsqlでリレーショナルデータベースを設計して実装して使えるようになったのは何ともありがたい。
一人だけやったらこっち方面なんか絶対手出しせんかったもんな。
いやこれありがたい話ですよ。ホントに。

2006年04月09日

●野生の悟性

冬の間に作った「火吹き竹」は今まで火鉢や七輪相手のお座敷専用機だったのだが、今日バーベキュー&焚き火の新兵器として鮮烈なフィールドデビュー戦を飾る。
数キロの肉と野菜を焼きつくし、数キロの炭を灰燼に帰し、数々の木々とコンビニアルバイト雑誌を跡形もなく焼き払う破壊力を発揮して予想以上の戦績を叩き出す。初戦にていきなりええ感じの焦げ具合になった。
去年の夏に買ったヘキサタープの虫干しも兼ねたお披露目も滞りなく行われ、対風性能と対陽性能の強さをを遺憾なく発揮していた。なんつーても一人で設置できるのが良いやね。

昔よく使っていたコールマンのワンバーナーストーブ「ピークワン」を久しぶりに触った。
あのポンピングの感覚は何とも懐かしい。昔は特に何も思わんかったけど、触れば触るほど上のヒートパイプとかタンクの内圧を上げるポンプの仕組みとかが、上手いこと出来てるなーと感心する。
ワンバーナーの主流はLPガスボンベ式に移り、土偶家でもメインに使っているのはEPIのバーナーやけど、やっぱりこっちのホワイトガソリン式の方が性に合う。
土偶家の「オプティマス8R」ではさすがに使いにくいという事で購入決定。

なんか「外グッズ」の話ばっかりやけど、久々にちょっと野性に返って素足で歩き回り、なかなか気持ちよかった。一歩自然に歩み寄ったような感覚。
日頃はコンピューターばかり触ってるけど、どっちかというとこっちが俺の本性なんやろうなと再認識した。
春になってこういうことが出来る季節になって来たというのはとても喜ばしい。

いやこれホント!(上半期流行語大賞)

2006年04月08日

●日本語よりスクリプト言語を多く使った日

仕事で延々web-db作ってて、家帰ってもphp触ってた。
さすがにC勉強してるだけあって昔に比べてサクサクとコードが出てくる。
条件分岐とかループとか配列とかが特に何も考えなくても自然に出て使っているのを感じると、やっぱりプログラミング言語も「言語」なんやなぁと思った。
日常とはまた違う論理体系でものを考えてその世界に浸るもの中々楽しい。
後は語彙を増やすように「関数」を覚えてゆく感じかね。

次の日にバーベキュー大会なので早く寝ようと思ってた割には寝たのが2時半頃やった。

2006年04月07日

●やっぱりムリヤリ以外の何者でもない

何か一つの事実に対して誰かは肯定的な意見を持ち、また誰かは否定的な意見を持つだろうというのは、そのことは間違いではないと言う意味で「事実」に関する事やけど、
特定のあの人はその事実に対して肯定的な見方をし、また別のあの人は否定的な見方をするだろうと予測するのはあくまで予測に過ぎない。実際ホンマの所はどうか判らんからだ。
その人の見方を実際に聞くまでは、その人が肯定的に思っているのか否定的に思っているのかは、生死が未決定な状態の「シュレディンガーの猫」のようなコペンハーゲン解釈にとどまるしかない。(たとえの使い方間違ってるな…)

しかしながら実生活のレベルの感覚に捉えられる事実では、「未決定」なんつーものはないわけで、捉えられない、あるいは判らない事は単純に「未知」に過ぎないわけやけど、
結局、聞いたところでその人が本当の事を言っているかどうかは「事実」として示せないわけで、完全な意味での「事実」が判るわけでは決してない。
「未決定」が「決定」されて理解される事はそもそもなくって、かといって「未知」であった事が「知」になる事も難しいというわけだ。

何かの事実が明らかになるまではそれが「未決定」だとするのは感覚的に違和感があったとしても、それが「未知」だとするエヴァレット解釈のような世界観は多世界的解釈を派生させるわけで、これもすんなり受け入れられるわけでもない。
結局、自分にとって何が「真実」であるかは、その事実を教えてくれた人物が自分にとってどれだけ信用できるか。だけに因っていると言う事になるように思う。
「俺が気に入ってるあいつならこういう風に思う奴やと思うし、そう思うに違いない」という事実を、余り自分が信用していない人間から否定されたところで、自分の考えが変わるわけではないし、結局の所どれだけ自分の好きな人間を信用するかと言う話になるような気がする。

量子力学の話を無理矢理下世話な話にこじつけたのは全くの無理矢理というわけではなく、
量子論、少なくとも現在では正しいとされるエヴェレット解釈では事実を理解すると言う意味で「わかる」ことは必ずしも必要ではなく、現象を再現できると言う意味で「操作できる」ことが全てだという。
さらに、量子力学では前提としてニュートン力学のように絶対的な物理法則を超越した観測点から眺めるのではなく、量子的な力学内の観測点から量子的な現象を観測する立場を想定しなければいけない。

我々は(少なくとも俺は)とかく何事も事実関係を事実として理解しようとつとめるけど、量子論ではそんな事は重視せずに操作性だけを追求する、つまり、人間関係だろうが人生だろうが上手くいけばそれで良いのだ。
そして自分自身を絶対的な視点や観測点として物事を眺める傾向にあるけど、これは量子力学からすればそもそもの間違いなのだ。自分の曖昧さや中途半端さや一貫性の無さ以上に他人や世界を理解する事は絶対に出来ないのだ。

そういうわけで結局理解できんし信じるしかないような事に関して、誰々がああいったこういった。誰がどう思ってるこう思ってるとか、なるべく考えたり気にしたりせずにまったり生きようと思った。それ以前に観測者としての自分をしっかりさせようとも思った。
そういうわけで皆様ももちついて行きましょう。

小学校の時に「二酸化マンガン」と「過酸化水素水」の「触媒反応」から「相性が良いと仕事がはかどるので、相手を選ぶのはとても大事だ」などという人生訓を結論づけた奴がおって、なんぼムリヤリやねん。と思ったものだが、俺もそれ以上にムリヤリやな…などと思わなくもない。

でも量子力学を持ち出した事で、土偶が言ったと言うよりは、アルベルト・アインシュタインやヒュー・エヴェレットが言ったような感じがしないだろうか?そうでもない?
まぁ少なくともこんなに長々と書くような事では無かったな…

2006年04月06日

●夏はどっちだ?

家に帰ってみると父が見ていたテレビで「よゐこ」が海で「突き」をしてたので思わず見入る。
まぁ「竹ヤス」なので捕獲対象が「固定ターゲット」や「スルー魚」になるのはしょうがないなぁと思いつつも、さすがにメバルへのキルショットは気持ちよさそうやった。
そうそうあの「ピクピク」がたまらんやねー
で、番組の最後の方でコロダイ狩ってたけど、「あかんあかん、追うな追うな。寄せろって」。刺した瞬間には「あー底に押さえんとー抜ける抜けるー」キャッチした時には「エラむしらんとー逃げるてー、あー血抜きせな不味いてー」などと一人で突っ込んでた。
俺やったら、あんだけ潮あたりも良くって鰯の群れもまわってくるねんから、コロダイごときを狙わんと回遊魚待つなー等ともう自分が潜ってる気分。
なんせテレビ見るのが久しぶりやし、力道山の試合を街頭テレビで見ている小市民のような騒ぎっぷりだったと自分でも思った。
しかしこんなん見てるとますます海に行きたくなる。夏はまだか?

2006年04月05日

●春の日の妄想

今日も一日バタバタしていた。
仕事中のバタバタの合間に色々な人と喋り、一呼吸おいてまたバタバタ。新年度と言う事でみんな殺気立ってて中々おもろい。
俺はどちらかというと、忙しくなればその時はテンションがあがる人間なのでまだ良いけど、あからさまに不機嫌な顔で押し通し、自分だけが不当に忙しいような気になっている奴までいて見てて飽きない。なんかもう見てるだけでニヤニヤしてくる。まぁ本人にこんなこと言ったら怒るやろうけど。
仕事後某氏と喋るも新環境でバタバタしている事には変わりないらしい。まぁ、バタバタの種類はちょっと違うが、とにかくバタバタには変わりない。
いずれにせよ奴も新環境にも馴染めそうな雰囲気なので良かった良かったとしておこう。

しかし、話を聞けば聞くほど女性ばかりの職場で唯一の男である奴の上司が激しく羨ましい。周りは大学か大学院出たばかりの婦女子ばかりで…
そういうとこでパソコンやサーバーやネットワークの管理をしたらさぞかし楽しかろう。
うら若き乙女に「ヤフーに繋がらないって思ったら、あそこのL3スイッチから先にトレースできなくなってますー、ペヤング(ping)してもお返事ないしー」とか言われて「確かに。ボード一枚死んだかな?業者来るまでとりあえずタグとVLAN書き換えて直接基幹に繋いで凌ぐわー」とかオサレな会話を交わしたり、構内のカフェで「土偶さん、ソラリスとコンパイラのお話聞かせてー」とうるうるした眼で上目遣いに見つめられたり…
などと妄想に妄想を膨らませてみた。
しかし結局そうなったとしても、サーバー室なりどこぞの小屋に軟禁状態にされ、完全に「中の人」状態にされるに違いない。

やっぱり今のところがいいや。

2006年04月04日

●マイナス1/2時間な世界

気づけばまた「底辺系サイト」を巡っていた。
もう何ともやりきれない。読めば読むほど無駄に沸々と怒りが沸き上がる。怒ってもしょうがない先に対して腹を立てる。
家にあった「ココナッツサブレ」を怒りにまかせて一気に食べ、火鉢の灰を火箸でガシガシかきまぜてちょっと落ち着く。

色々なサイトをリンクからリンクへと飛び回っているうちに、何故か「し○こたん☆ぶろぐ」なる某タレントのブログまで見ていた。
こんな事いうとファンの人から叩かれるかもしれんけど、なんか読んでてとても悲しくなった。なんでやろう。とにかくタレントってのも大変そうやなぁ。と思う。

今日はいつもより30分早く仕事に行ったので、一日中時間感覚が狂っていたような気がする。午前中は腹時計がいつもより早い時間を指し、午後からは「まだ○○時?」と思う事が何度もあった。
人の余りの多さに目眩がし、終業時の人の少なさとのギャップが激しかった。
朝は殆ど咲いていなかった桜が帰る頃にはだいぶん咲いていた。
帰りだしたちょうどくらいから、勢いよく雨が降り出した。
やたらと冴えてて、障害箇所と対応の方法が心眼で見えたような気がする。
そして利用者がいないので、ためらうことなくやたらと働いたような気がする。
そういうわけで疲れたので。もう寝る。

2006年04月03日

●アホウドリなら巣立てそうな日

この日は感覚的に水曜日くらいの感じで、まだ月曜日だという事に2時間に一回くらいの割合で驚いていたような気がする。
それにやたらと風が強かった。自転車で追い風になるか向かい風になるかハラハラしてたけど、帰る頃には止んでいた。ちょっと残念。
いつの間にか出ていた、solaris用のCisco Aironet 340/350ドライバを試してみたがちゃんと動かなかった。Solaris10 03/05なのが悪いのか?
C言語の本を読んでいるうちに寝てしまった。

2006年04月02日

●藤原正彦『国家の品格』

最近の有名書だとかベストセラーは読まないんやけど(古本でも高いし)、父上が何を思ったのか何を間違えたのか買ってきたので、村上春樹の言う「スパゲティー小説」ならぬ、トイレのついでに読む「トイレ本」として読んでみたところ、一気に読了。
アマゾンでは196件も評がついていて、どちらかというと「ボロクソ」に言われているように見える。
俺としては全体として大いに賛同できる内容やったけど、受け入れられへん人にはとことんダメな本やろなぁと思う。

amazon ASIN:4106101416 「平等」とか「自由」とか「人権」とか「民主主義」が作られた幻想であるのは俺も大いに賛成やけど、実際の所、今それがなかったらちょっと辛かったかなとは思う。
コンピューターと哲学はお友達で大好き。という立場上、そこまで「論理」を否定されると辛いものがあるけど、自然や日本的な情緒や美を否定する日本人にロクな奴はおらん。というのは賛成。
ベストセラーというだけあって中々楽しく読めたけど、どちらかといえば、この本は世相なり特定の個人や組織をバッサバッサ切り捨てるタイプの勧善懲悪的な「痛快本」だと思うし、「そうそう!俺(私)が考えてたのはそれ!」などと読者に思わせてしまう類の本やろうと思う。まぁ著者本人も論理で説明できん事は押しつけるしかない。と断言しているので…

とは言っても、これがベストセラーになっているという事はこういう考えに共感できる人が多いと言う事なんやろう。それはそれで俺としては良い事だと思う。
しかしながら、自転車に乗って季節や自然に一喜一憂させられ、団扇で涼を、火鉢で暖を取り、取り付かれたように古典的な本を読み、毎日文章を書き殴り、ニートや引き籠もりに限りない共感を寄せる「ある意味で徹底していると自負している」俺なんかは、これをベストセラーとして持ち上げる世間を見るにつけ、「オマエらホンマにそう思ってんのんか?ああ?(゚Д゚)ゴルァ」と感じ世間に対して無性に腹立たしくなった。
「あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」というキリストの言葉を思い出した。

最近「気が短くなった」と評判の土偶ですが、なるほど納得。年やね。

熱中度     ★★★★☆
考えさせられ度 ★★☆☆☆
影響度     ★★☆☆☆
総合      ★★★☆☆

2006年04月01日

●春、生ぬるい春

久しぶりに明るい時間帯に職場を出る。
空気の生ぬるさ加減は「春」になりかかっているのを暗示させる。
「春は鬱の季節」てな事を常々言ってきたけど、実際の所「春」はそれとは逆の扱いを受ける事が多いわけで、そんな事は俺が経験則で言っているに過ぎず、全く普遍的でも一般的でも判りやすい事ですらない。
「春」というのは一般的に色々な意味で「新しい」事が起こる季節であるとされているし、春になると鬱になる人種にとって、大気に似満ちているそういう雰囲気と自分とのコントラストが耐え難い。ということであるけど、まぁ、そんなものは言いがかりであるし、ルサンチマン以外の何者でもない。
職場が職場だけに毎年知り合いの誰かがいなくなるわけで、毎年多少の差はあれ何かしらの「卒業ブルー」的な雰囲気を感じていた事もあり、「春ならば鬱の季節である」と決めてかかっていた所はある。

結局の所「春」が気分が良く肯定的な季節であるという事実自体が逆説的に俺にのしかかっていたわけで、それが「鬱」だと感じるのは受け取る俺の方の問題という事になる。
春が気分の良い季節である事は確かに間違いないわけで、今日、御所や円山公園に咲いてる桜を見て素直に「おー」って思ったし、自転車に乗ってても寒くもなく熱くもない気候はとても気分が良かった。
そういうわけで今年は新しい時代の始まりという事もあり、花見とか釣りに行ったり、自転車で遠出したりと、春を満喫してみようかという気分になってきた。

そういうわけで、関係者の皆様、花見企画でもたてようかと思いますのでよろしければご参加下され。