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2006年03月31日

●JKAの末法、あるいは、JKAの黙示録

一日中ガーッとコード(バッチやけど)書いて、プチプチとサーバー設定して、ザクザク動作確認してばかりいたので気分だけ妙に忙しかった。
途中、失礼にも挨拶回り中に呼びつけて来て貰ったパチ&ブロックのセレブ御二方といつものダルダルトーンで話すも、また一転してガーッ、プチプチ、ザクザクの繰り返し。それでいて熱い抱擁を忘れないところはセクハラおやじとしてのステージの高さ故か。
思えばパチ&ブロックが「まともに」働いてる俺を見るのは最後の日にして初めてでないだろうか??
で、やっとの事で最後のバグを取り、よっしゃー年度末までに仕上げたったぞー(ギリギリやけど)って一人で両手を上げて喜んだものの、気づいたら殆ど誰もいなくなってた…
そういう風に一日気を張っていたけど、帰りの自転車に乗る頃になってやっと気がゆるみ始め、そうなると色んなものが一気にどわーっと押し寄せてきた。

思えば、大学時代から続いていた長い時代が年末くらいから終了の方向に向かって流れ出し、最後まで残っていた大学時代の匂いのする「ツレ」が辞めて行くに至って、ようやくにして今日、その時代が完全に終わったという感覚がする。
村上春樹風に言えば、「音楽は終わった。そして今日メローディーも鳴り止んだ。」という感じだ。

もちろん今生の別れというわけではないし、また自分が望んでここに残る事にした訳ではあるけど、それでも後に残された感覚というのもまたある。
何かの終わりが別の何かの始まりとなるのが一番良い形なんやろうけど、それでも何かが終わったのは確かだ。何が始まるのか、何が始められるのかはまだ判らない。なにしろ今終わったばかりなのだ。
今年初めから緩やかに起こり始めた崩壊(あるいは解体)は今日で完全に終わった。今までの長い時間を思えば、カタストロフといっても良いくらいの急激な変化だった。
辞めてゆくみんなに対して、まだ居残り続ける俺が何も出来なかった事が何よりも悲しく情けなかったけど、それも俺の傲慢と言うものだった。
古い時代が終わった事に救いがあるとすれば、辞めていったみんなが全て、どこかしら行き先を見いだした事であるし、古い時代が終わった事に意味があったとすれば、それは残った人間には全く関係のない部分での、みんなの個人個人の力のたまものである。
得られた救いは全て辞めていったみんなに端を発する原因に依っている。みんなの個人個人の戦闘能力の高さだけが今回の終末に意味と救いを与えた原因であることは、残った俺にとっても本当に嬉しい。

時として組織というものは限りなく残酷に見える。しかしながらその組織を構成しているのは当然ながら人間だ。
今回の終末を引き起こしたのは組織的な事だけど、それでもみんな個人個人の戦闘能力の高さと、こういう形の終末になる事を願い、確信していた組織の長の舵取りが素晴らしかった。と言えなくもない。
もちろん何が原因で何が結果で、何が何に影響を及ぼしたのかなんかは絶対に判らないけど、こういう風に考えてみるのも、世界を肯定的に見ようとする試みの上では悪くない事ではあると思う。
ただ一つ言える事は今回の終末が悪意を持って仕組まれたものではなく、確信とは言わないまでも、少なくとも良い予感と希望を持って決定された事であると推測される事だけは理解して欲しい。

とはいっても、兵卒の戦闘力が高ければ無茶な作戦でも成功するものだ。成功に終わった困難な作戦を指揮した司令官を世間は褒めるかもしれないけど、俺は作戦行動に直接関わった兵士こそに敬意を払いたい。
今回の終末がある意味で良い方向に終わったのは、みんなの個人個人だけのおかげしかないと俺は確信している。
昨日も書いた事やけど、「木はその実により知られる」である。
みんなの素晴らしい戦いぶりは、俺が同じような作戦行動に投入された暁にはちゃんと最後まで戦い続ける事が出来るかもしれないという希望を与えてくれた。

それでも何もかもが終わったわけではもちろん無い。
象徴的に暗喩的に時代が区切られるとしても、依然として月日や時間は区切りのない連続したものである事は間違いないし、明日からも生きるために働き、働くために生きながらも、日常は続いてゆく。
依然として戦場は戦場のままだし、日常は日常のままだ。
そしてある時代が終わったとしてもそこに建っていた建物や土地が無くなるわけではない。
新しい時代というものは建物を壊し土地をならす事から初めて始まるもなのだ。

古い時代の戦後処理は我々が引き受けた。新しい時代が作れるものなら作って見せよう。
みんなは新しい時代の新しい戦場で思いっきり暴れてきてくれ。
みんなの武運を願っている。

2006年03月30日

●方法の方法

先日から、1億円あればおつりをもらうことなく日替わり定食とうどんを食べられる組み合わせの全てを算出する「学食大人買い計算器」を作るのに勤しんでいたわけだが、そのプログラミングを通して気づいた事がある。
このプログラムに限らず、 我々が日常的に直面する何ごとかについて「考え得る限り」とか「あらゆる可能性」てな事を考える場合、一般的には無限とは言わないまでも漠然と膨大な数を思い浮かべるものだが、実のところ「考え得る」や「あらゆる」は何らかの形で限定されているわけで、考える人や考え方によってその数は全く違ってくる。
考えても無駄な事を大量に可能性の範囲内として考慮に入れる人がいれば、最初から一切の無駄なケースを除外した上で考える人もいる。
結果として、同じ語で表される「考え得る」や「あらゆる」は人や考え方によって全く違うモノを指している事になる。その差は、「学食大人買い計算器」で言えば42分と63ミリ秒と言う事になるわけだ。
効率という面から言っても、労力という面から言ってもあまりにも開きがありすぎるのは明白であり、1000分の63秒など現実的に言えば限りなくゼロに近いし、ゼロとあらゆる正の数字の比は等しい。
手段や考え方一つで、生まれてくる結果に限りなくゼロと無限大に近い開きすら生まれ得るのだ。そしてそれは、当然ながら作り手、考え手に全てかかっている。

今まで何事につけ、そういう「考え方を決めてから物事にあたる」という姿勢を取った事などほとんど無かったし、殆どの事を出たとこ勝負で決め、そして処理してきたように思う。
そう考えると今更ながらに、たとえば今まで生きてきたあらゆる局面で自分が42分かかる方の考え方をしていたのではないかと激しく不安になる。考えても無駄な可能性を考慮に入れ、意味のない演算を繰り返していたのではないかと…
同じ労力を何かにつぎ込むにしても、やり方の違いで結果は全く異なってくるし、同じ事をしていても、自分が足踏みをしているようにしか感じられないのに引き替え、どんどん上へ上ってゆくように見えたりする人は、自分が持っていないアルゴリズムで物事を考えていたのかもしれない。

某天一の直営店に社長直筆の「正しい努力」という額が飾ってあるのを見た事がある。42分かかった方のアルゴリズムは確実に「間違った努力」と言う事になるだろう。
しかしながら、幸か不幸か人間の世界はコンピューターの世界とは違って、可能性の範囲内の判定も正誤の判断も激しく難しい。
言い換えれば悪いアルゴリズムは悪いと判りにくくなっているわけやけど、「木はその実により知られる」という言葉もあるわけで、結果が出るまで判らないと言う点ではコンピューターの世界も人間の世界も同じかもしれない。
それでも人間の世界は「あ〜これじゃぁダメやわ」と思った時点で、プログラムを書き直してもう一回コンパイルし直すことが不可能なのは言うまでもない。
それでもまぁ、「考え方の方法」にも気を使っていくしかないのやろうね。
願わくば、Segmentation faultでcore吐いて止まることなく、return 0; 出来ますように。ナムナム。

2006年03月29日

●学食大人買い計算器バージョン2(毒舌アルゴリズム版)

先日作ってみた、1億円あればおつりをもらうことなく日替わり定食とうどんを食べられる組み合わせの全てと、その件数を算出するバカプログラム
その総数を求めるのに42分かかった事を書いたが、昨日、毒舌紳士の某氏がVBスクリプトで同じ機能を持つコードを書いてくれたので、それを実行してみたところ、なんと1秒から2秒の間で終わってしまった。orz

某氏なら1秒ほどで終わるところを俺は42分かかっていたわけで、土偶コードのアルゴリズムの馬鹿さ加減がこれほどまでとは正直思わなかった…

そういうわけで余りにも悔し情けなくあり、もう一度書き直してみた。

アルゴリズムを大幅に変更。というか某氏と殆ど同じ、限りなく「毒舌紳士からパクった」に近い「毒舌アルゴリズム」採用である。
標準出力に出すとそこがボトルネックになるので、ファイルに出力するようにしてみた。

で、
cc -native -xO5 otonagai.c で生成されたa.out に対する、
time ./a.out の結果、
real 0m0.063s
user 0m0.045s
sys 0m0.017s

1000分の63秒。前に42分かかっていた事を考えればたいした進歩やと。
しかし同じ機能を持つプログラムでも作り方一つでここまで違うとはびっくりやね。

次はスケールを大きくして、日本の国家予算で「チロルチョコ」と「うまい棒」が幾つ買え、それらを全国民に配ると幾つずつ行き渡るのか、を計算するプログラムを書いてみようかと思ったけど、スケールが大きくなればなるほどアルゴリズム以前にバカバカしさが目に付くので止めておこう…

以下はソース

#include < stdio.h >
int main(){
        int mo,x,c=0;
        FILE *fp;
        fp = fopen("otonagai.list", "w");
        mo=100000000;

        for(x=0; x<mo/350 ; x++){
                if((mo-350*x)%60==0){
                        fprintf(fp,"日替わり定食=%d&セットnbsp;うどん=%d杯 \n",x,(mo-350*x)/60);
                                c++;
                }

        }
        if(c==0){
                printf("can't bye\n");
        }
        else{
                printf("%d 通りの大人買いが出来ます。\n"
                        "総一覧はカレントディレクトリのotonagai.listに出力しました。\n",c);
        }

        return 0;

2006年03月28日

●良いニュースは小さな声で語られる

このブログでは、土偶本人が社会情勢だの時事問題に疎く、またそれほど興味もないので、そういった事に関する言及を意図的に避けているところがある。
避けると言うよりは扱いようがないと言った方が良いかもれないが、とにかく一般的な「オッサンブログ」に比べてそういう「社会情勢だの時事問題」を全く扱っていない事はおわかりいただけるかと思う。
で、ここからが本題。

そういうわけで具体例は出さない(出せない)が、世間ではとにかく肯定的なニュースを声高にヒステリックなほど叫びたてる傾向があるように感じる。
どこぞのスポーツ選手が何々メダルだの、どこそこチームが世界一になっただのと、それを見て傷ついたりする人間がいるのではないか?という可能性を考慮に入れていない事はともかくとしても、とにかく一般的な報道の「これは良いニュースだ!さあ喜べ!オラオラ!」という押しつけがましさに辟易するし、そもそもそれが俺に何の関わりがあるのだ?と俺などはいつも思うわけで、「大げさに声高に語られる良いニュース」が「土偶にとっての良いニュース」だったためしなどほとんど無い。

もうそろそろ解禁になるし、四月になれば公になる事やから書こうかと思ったけど、やっぱり具体的に書かかずにちょっと抽象化して書く。
ある上司にこそっと教えてもらったニュース。社会全体から見ればニュースにもならない、本当に些細なニュースかもしれないけど、俺にとっては本当に嬉しいニュースだった。たぶんニュースになってる本人も喜んでるだろう。
「良いニュースは小さな声で語られる」と言ったのは村上春樹やけど、とにかく今まで「土偶にとっての良いニュース」は小さな声で語られるべき物ばかりだった。
そういうわけで、ここで俺は良いニュースを小さな声で語ろうと思う。

「来年から○○○は○○らしいぞ…」

別に思わせぶりにするつもりはないけど、立場上なんとも書けんので、これで許して欲しい。まぁ、四月になればわかる事やから一々書くまでもないわな。
とにかく、「良いニュースは小さな声で語られる」これが言いたかった。

2006年03月27日

●基次郎、大ショック

職場の送別会で四条に行ったのだが、今更ながら丸善が無くなっているのに驚いた。
無くなるとは聞いていたけど、実際丸善のあった場所に巨大カラオケ店が入っているのを見るとやっぱりちょっとショックやね。
まぁアマゾンなんかが出来てきて「丸善」の存在意義のようなものは無くなってきたから、時代の流れと言えばそうなんかもしれん。
本好きであるとはいえ、洋書を買う事も無いし、丸善にステータスを感じる世代でもないけど、それでも一つのシンボルが無くなったような気はした。
あくまで丸善自身の採算を度外視した上での話やけど、あの場所に丸善があるよりカラオケ店がある方が望ましいと考える人間が多いという事なのだろうか?
「街」と言うのが「様々な欲求を満たす場所」ではなく、「特定の方向の欲求のみを満たす場所」になりつつあるように感じたり感じなかったり。
この間四条に行った時も感じた事やけど、世界がより極端な形で「住み分け」の方向に向かっているような印象を何となく受けた。何となくやけど。

2006年03月26日

●頭につけるだけで驚くほど勢いが増す言葉

米を買いに行った以外は、一日中引き籠もってアルゴリズムの勉強。
数字をソートするだけでもいろんな方法があるもんだと感心。
さすがに一日中目新しい思考法で脳をドライブしていると、夜過ぎたあたりから頭が情報過多で拒否反応を起こしているのに気づいた。
俺が子供の頃に、16連射でゲームっ子のハートを鷲づかみにした、ハドソンの高橋名人という御人がいたのだが、彼が「ゲームは一日1時間!」と言っていたのを思い出す。

骨休めにブックオフで100円で買って来た本を読むも、余りに退屈な内容に辟易する。最期まで読み通すのはかなり辛そうだ。クリフォード・ストールは二作目を出すべきでなかったと思う。
本読むのを諦めてダメ系サイトを巡回していたはずが、気がつけば、世界の絶滅動物を紹介する「戦え絶滅動物」なる子供向けサイトを熱心に読みふけっている自分に気づく。
もはやどういう道筋を通ってここにたどり着いたのかは全く思い出せないが、「グリプトドン」なる亀とアルマジロのキメラのごとき巨大生物に心を奪われ、古代生物の無駄なデカさに「そら絶滅するわ」と妙に感心するも、どのあたりが「戦え」なのかは結局最後まで判らなかった。
何となく「戦え」をタイトルの頭につければ勢いが増すように感じたのだろうか?

「戦え土偶StaticRoute」「戦え三日とろろ美味しゅうございました。」「戦え無抵抗非服従主義」「戦えデオキシリボ核酸」「戦えマザー・テレサ」「戦えフェルマー最終定理」「戦え大無量寿経」「戦えガンと闘うな」
とそれほど「戦い」と縁になさそうな物に「戦え」をつけてみるとそれなりに勢いが出て強そうに感じられるのが確認できた。

2006年03月25日

●学食大人買い計算器

C言語を勉強するにあたり、まずアルゴリズムを勉強する事にした。
アルゴリズムってのは物の考え方や処理の方法論なので、早くて美しくてシンプルなコードに書くには必須の思考法な訳であるからして、これはこれでやってみると中々面白い。
コードを書くにも、その前にフローチャートを書き、設計段階で処理を考える。
一定条件で処理を反復させるにしても、処理前に条件を判断する「前判定型」を使うか、処理後に判断する「後判定型」を使うかで、ソースの見栄えやら処理の速さが変わるので、設計の難しさというか、面白みもあるなぁと納得。
今までは設計も何も無しでいきなりコードを書き、何でもかんでも「前判定型」で押し通す人だったので、この辺はなんとも新鮮な感じがする。

というわけで、練習コードを書くついでに、俺の勤務先に通う学生や教職員の全てに有用なプログラムを作ったので公開してみる。
名付けて「学食大人買い計算器」。
もちろんフリーウェアでGPLライセンス。商用利用も可能で、コードを開示すればソースコードの改変も可能。
ちなみに有用であると感じるかはどうかは「個人差」があると思う。いや、正直言うと、これ以上無いくらいアホなプログラムです…

「学食大人買い計算器」

概要;
某大学の学食で「同窓会うどん」と「日替わり定食」が人気メニューである事は疑いようのない事実であり、もし1億円でこの「同窓会うどん」と「日替わり定食」を買い占めるとすればいくつ買えるのだろう?という疑問もまた学食を利用する全ての人間にとって切実なものであると断言できる。
しかしながら、上記の疑問を二次方程式や鶴亀算で計算するにはいささかややこしすぎるわけで、「まぁ、死ぬほど食べられるのは確かやろうなぁ」という結論に落ち着いている方が大多数だと思われる。
そこで、「土偶しょーもないことを考えてみようプロジェクト、ハッカーチーム(総員1名)」がその疑問に答えを出すべくプログラムの開発に乗り出した。
開発環境は抜群の安定性と高速なカーネルを誇るSolaris11 b33、そしてSolarisに最もネイティブなCコンパイラであるSunStudio11である。

仕様:
100000000(一億円)で、
日替わり定食(350円)と同窓会うどん(60円)をあまり(おつり)が出ることなく、購入できる組み合わせを全て表示し、
最後にその組み合わせの総数を表示する。
どうしてもおつりが出る場合はその旨を表示する。

結果;
おつりを受け取ることなく1億円で「日替わり定食」と「同窓会うどん」を大人買いする組み合わせは47619通りあり、
「日替わり定食」が最も少ない場合の組み合わせは、「日替わり定食」2セット「同窓会うどん」1666655杯であり、
「日替わり定食」が最も多い場合の組み合わせは、「日替わり定食」285710セット「同窓会うどん」25杯
である事が判明した。
いずれにせよ「死ぬほど食べらるのは確かやろうなぁ」という事実に疑いの余地は無いようである。

問題点:
ちなみに、Intel Xeon 2.8Ghz RAM2GB 64bit環境のsolari11でこの計算に42分と10.26秒を要した。
処理は考え得る全ての組み合わせを試しているわけで、明らかにアルゴリズム的に悪いコードであるのは明白な事実である。
より一層の最適化が望まれる。

今後の課題:
現在「土偶しょーもないことを考えてみようプロジェクト、ハッカーチーム」は総員1名であり、明らかに参加者土偶の技術上の限界にある。
「土偶しょーもないことを考えてみようプロジェクト、ハッカーチーム(現在総員1名)」に対する参加を広く呼びかけ、より一層プロジェクトチームの充実を図り、コードの洗練が望まれる。
誰かこれより早いコード書いて下さい。m(_ _)m どう?>某Y氏、某カテジナ氏


ソースコード:


#include <stdio.h>
int main(){
        int mo,x,y,c;

//              printf("所持金は?"); //コメントを外せば任意の金額で計算する。
//      scanf("%d",&mo); //コメントを外せば任意の金額で計算する。

        mo=100000000;   //↑で金額を入力する場合はコメントアウトする。
        c=0;
        for(x=0 ; 350*x + 60*y <= mo ;x++){
                for(y=0 ; 350*x + 60*y <= mo ;y++){
                        if( 350*x + 60*y == mo){
                                c++;
                                printf("「日替わり定食」が %d セット「同窓会うどん」が %d 杯 \n",x,y);
                        }

                }
        y=0;
        }
        if(c==0){
                printf("%d円ではおつりが出ます。\n",mo);
        }
        else{
                printf("%d通りの大人買い/n",c);
        }

        return 0;

}

2006年03月24日

●「中の小人さん」的C言語考

以前「Cが使えない癖にUNIX使いを自認するのは如何なものか?」というような意味の事を某巨大掲示板のUNIX板で読んだ事がある。
煽り文句だというのは判っていたけど、「そういわれればそうやな」と妙に納得して勉強し始め、C言語入門者が往々にしてそうであるように、俺も「ポインタ」がいまいち理解できずに挫折していた。
で、最近再びC言語に再入門しようと思いたったわけやけど、今回は「ポインタ」がメモリのアドレスを指しているのは判る。だから何?そんなややこしい事せんでええやん。という当時の疑問に答えを与える所から始めてみた。

本を立ち読みしたり、WEBで情報を探したりして、「ポインタを使わないと出来ない事」、「ポインタを使う事で処理が高速になる事」を「なんとなく」知るにあたって、「なんとなく」C言語の「作り」が判ってきた。

C言語で記述されてコンパイルされたバイナリが、文字や文字列、数値などを表示する場合、それは表現の形式だけで、バイナリの内部では1文字ならそのアスキーコードの数値として、文字列ならアスキーコードを値に持つ配列として扱う訳で、究極的には処理の段階で「文字」を直接扱う事は無く、文字だろうが文字列だろうが全て何らかの形で変換された数値として処理する方向にあるということに気づいた。

今まで俺が色々な言語やインタプリタで作って来たコードは何かしらの文字列を扱う事が殆どで、PerlだとかPHPだとかバッチファイルで言うような A='abcdef'って感じの直接的な表現に慣れすぎてたせいでそこのところが判りにくかったようだ。
実際にその「A='abcdef'」の命令の場合はperlやPHPやcmd.exeの中の小人さんが、文字列を数値に変換して覚えておき、「Aを表示」と言う命令に対して、数値をまた文字列に再合成して「abcdef」と言う答えを返してくれていたという事で、命令する側、つまりはコードを書く人間が内的な処理を意識していなかっただけにすぎない訳だ。

システムコールを使ったり、メモリから直接入出力したりする命令を持つC言語というのは、たとえば、perlやPHPやPythonでは中の小人さんに任せる所を直接扱うという意味で、よりハードウェアに近い動作な訳で、
かつ、中の小人さんに任せずに自分でCPU命令を直接叩くアセンブラよりは、ハードやアーキテクチャ依存の少ない言語という事になる。
これが何を意味するのかというと、perlやpythonよりは動作が速く、アセンブラよりは移植性が高いと言う事であろうかと思われる。
C言語が強力であるという所以は、移植性と動作速度が最適なバランスであるという部分にあるだろう。

と言ったものの、まだまだ入門者の入門者な訳で、根本的に間違っている部分があればご指摘下さい。

2006年03月23日

●devaliasで設定できるのはdisk,net,cdromだけではないらしい。

SUNのultra5やultra10などのPCIスロットを持ったワークステーションに、CMD649系のコントローラーチップを積んだATA-100カード(玄人志向ATA100PCI、Syba SD-SIL649など)が使え、ディスクアクセスが遙かに高速になるというのは有名やけど、
そのままの状態ではPROMからディスクが見えない。(いや、正確に言えば見えない事はないのだが…)
これをprobe-ideでリストする方法を書いてみる。

先ずデフォルト状態でprobe-ideコマンド。
当然のことながら、


ok probe-ide
Device 0 ( Primary Master )
Not Present

Device 1 ( Primary Slave )
Not Present

Device 2 ( Secondary Master )
Not Present

Device 3 ( Secondary Slave )
Not Present


てな感じになる。

一応これでもbootはするのだが、どうせならprobe-ideで見てみたい。
そこで


ok devalias ide /pci@1f,0/pci@1/ide@2
ってideデバイスエイリアスに挿したATAカードの実デバイス値をセットしてやると、
ok probe-ide
Device 0 ( Primary Master )
ATA Model: HOGEHOGE-DISK

Device 1 ( Primary Slave )
Not Present

Device 2 ( Secondary Master )
Not Present

Device 3 ( Secondary Slave )
Not Present

ok


ってな感じで見えるようになる。(実デバイスはshow-devsで探す)
ただこのままだと再起同時にideの値がリセットされてしまうので、そんなの嫌だという人は、

ok nvalias ide /pci@1f,0/pci@1/ide@2
ok setenv usr-nvramrc? true

としておけばいいのかな?

ちなみに、


ok devalias ide2 /pci@1f,0/pci@1/ide@2
ok probe-ide2
probe-ide2 ?

ok


ってのは効かないようだ。

2006年03月22日

●土砂降りじゃ、濡れて参ろう

土偶サーバーでは「土偶お天気サービス」なる物を運用していて、設定した時間に天気予報がメールで送られるようになっていて、自分で言うのも何だが、なかなか便利である。(実際には某お天気サービスの内容を丸投げしているだけなのだが...)
で、この日は出勤前に送られてきたメールの時点で、午後から降水確率が90%と言う事になっていた。

普通なら、「じゃぁ傘でも持っていくか」もしくは「自転車で行くのは止めておくか。」となるはずなのだが、前にも言ったとおり土偶の辞書には「電車、バスなどをご利用下さい」の文字もないので、「ふーん」と思っただけで、気にせず自転車で出勤。
出勤途中、事前に天気を知った所でそれに対応した行動を取っていないのでは、「お天気メールの意味が全くないではないか」という事にふと思い当たったが「情報化社会に振り回されるのはゴメンだ」と言う事にとりあえずしておいた。

で、帰宅時。
降水確率が90%でなく、大気中の90%が水でねえの?というような状態。
しかしながら家に帰るだけなので、これだけ雨が降ってれば嫌になるどころか、逆に爽快。無駄にスピード出したり、無駄に水たまりに突っ込んでみたり。
「あひゃー雨!雨!」「水たまり!水たまり!」と声に出すとアブナい人になるので、心の中で叫びながら帰ってきた。
我ながら、こういう部分だけはタフになったものだと思う。

2006年03月21日

●混み込み

某43と四条に行く。いつもなら欲しい物をちゃっちゃっと買って、すぐに逃げるように帰るのだが、この日は久しぶりに無目的にぶらぶらぶらぶらするつもりだった。
自転車で行ったのは良いにしても、アメ底ワラービーの靴底にビンディング用ペダルが食い込んでちょっと痛かった。

しかし、絵に描いて糊で固めて額に入れて玄関にぶら下げたような、典型的な休日の過ごし方。
スタバでコーヒー飲んで河原町通りを歩いていると、「デフォルトはコンパイルか自転車メンテな休日」に引き替え、自分が余りにも普通な休日の過ごし方をしているのに、なんか「こそばゆく」なってくる。
しかし祝日と言うだけあって異様に人が多かった。まさに「人ゴミ」。
まぁ、もちろん俺とその隣を歩く某43も「人ゴミ」を構成する要素の一つなのだが、とにかく「人がまるでゴミのようだ」とはよく言ったもので、これだけ人が多いと視界に入る人間の一人一人に、人権と人格があるというのが、激しく疑わしくなってくる。
当然、近代社会では、個人に対して人権が保証され、人格も尊重される事になっているので、そこに疑いを挟む余地も無い事になっているけど、それでもよくよく考えてみれば、目に見える全ての人間の頭の中で、割合とか程度の差はあれ、食欲だの性欲だの物欲だのといった欲望が渦巻いており、 またそういった、言わば正の方向の思念だけでなく、負の方向にも悩んでみたり、落ち込んでみたり、自己否定してみたりしているはずであるという事実は、当たり前と言えば当たり前の事やけれど、余りに不気味で、俺の想像の範囲外にある事のように思える。
なんというか、質を感じさせない他者の存在が、圧倒的な量で満ち溢れているのを見ていると、俺が見ず知らずの人間を量でしか見られないのと同様に、自分の質も他者にとっては量にしか感じられないであろうし、また自分の質を良くしたいと思う方向が、なんか余りにバカバカしい行動であるような気までしてきた。
俺と彼らの明確な違いを説明する事は出来んけど、根本的に俺がなんかおかしい事だけは確かだ、と感じるのはあんまり気分の良いもんじゃない。
まぁ、何が言いたいのかというと久しぶりの人混みでちょっとびっくりしたと言う事やね。

この日、Ultra5に搭載するつもりで買った、ジャンクのATA100のカード。
どうやら思ってた「玄人志向のATA100PCI 」だったようで、R63抵抗をニッパーでむしり取ってBIOS(PNP?)殺すと、ちゃんと認識、ブートまでした。
いやー良かった良かった。儲けた儲けた。

2006年03月20日

●あなたの知らない世界

今日、良い意味でも悪い意味でもプチハッカーと呼ぶに差し支えのない某Y氏が来ていた。
就職が決まったのは良かったにしても、なんでも彼は、俺をしてサーバー筐体デザインの頂点だと言わしめる、Sun Netra T1 105を買うつもりだとという。
「俺を差し置いてヌケヌケと〜なにがネトラじゃー、ウルトラ1で十分。つか家のウルトラ1邪魔やし持って帰って」という必死の俺の説得も空しく、彼はより一層ネトラ購入の決意を強めたようで、目出度きかな目出度きかな。

以前電車に乗っていた時などによく聞こえた話。(驚くべき事に昔は電車にも地下鉄にも乗ったのだ。)
うら若き乙女や、青春真っ盛りの青年達が、携帯電話の型番で会話が成り立っているのを聞いて、全く理解できず、外国語を喋るヨソの国の人か、 暗号コードと乱数表片手に会話する工作員の様に見えた事があった。
彼らの言うNだとかSだとかDが何を意味し、50xだとか90xが法則性のある数字である事を知ったのはつい最近の事やけど、今日俺が某Y氏とSUNのワークステーションやらサーバーの話やらコンパイラやリンカの話で盛り上がっていた話も知らない人には同じように聞こえたに違いない。
「ssは32ビット、ultraから64ビット」「SS20のマザボには熊さんの絵が、SSIPXのマザボにはネコの絵がシルクプリントしてある。」「エンタープライズ450いっとけって。CPUホットスワップで1kwオーバーリタンダント電源やぞー」「/usr/ucb以下のゴロツキは使わずに/usr/ccs/以下を使う」等々
明らかに意味がわからんのはまだ良いとしても、携帯の話題なんかに引き替え、絶対女の子に好感も興味も持たれへん会話である事だけは間違いない。
ある意味で自宅にSparcを飼うと言う事を視野に入れるのは
「人間やめますか、それともSparc止めますか?」
に近い選択肢であることは私が経験から保証する。

引き返すなら今のうち…
とは言っても、入ってしまえば入ったで楽しい世界。
砂漠のごときスパークの荒野の天空には、沈まない(はずの)太陽が燦然と輝く。
さぁ皆様もおいでやす。さぁ、さぁ。

2006年03月19日

●G.パスカル ザカリー『闘うプログラマー』

アマゾンでは
ビル・ゲイツの野望を実現するために、マイクロソフトに「伝説のプログラマー」が引き抜かれた。デビッド・カトラー。屈強な肉体と軍隊顔負けの厳しい職業理念をもつ、闘争心のかたまりのような男だ。そして、彼を追って移籍した腹心の部下たち。新プロジェクトを担う外人部隊が秘密裏に結成された。自由闊達なマイクロソフトの「キャンパス」内で、異分子たちによる空前のパソコンOS開発作戦「NT」の幕が切って落とされた…。
と紹介されている。
今から20年前程の話を発端とし、結果的に五年がかりのプロジェクトとなったWindowsNT開発に関するノンフィクションで、「コンピューター書の古典」みたいな扱いを受けてる本。
上下刊合わせて500ページほど。アメリカ日本とも初版は1994年に出ている。
原題の『SHOWSTOPPER!』は、「致命的なバグの出現」と言う意味の業界用語で、邦題とは少しニュアンスが違う。邦題の『闘うプログラマー』はデビッド・カトラーやその率いるチームのいわば人間側に視点を置き、原題は彼らの陥った悲惨な状態に視点を置いているような気がする。
この辺は「物語」の扱いの文化の差かなと思う。当然、日本人の俺は、登場する人物に感情移入して読んだため、結構しんどかった。
以降の感想は、先日読んだリーナス・トーバルスとデビッド・カトラーをリーダーとして比較する文脈で書いてみたい。
かと言って、頭の悪い勘違い腐れビジネスマンが言うような「リーダ論」なんかを述べるつもりはさらさら無いのでご安心あれ。

amazon ASIN:4822740161 先日読んだ『ぼくにはそれが楽しかったから』のリーナス・トーバルスの、どちらかと言えば「オタク系」のスタンスとは違い、デビッド・カトラーのプログラミングに対する姿勢はどちらかと言えば「軍人系」になると思う。全ての時間を仕事に使い、部下にも当然のごとくそれを要求して、軍人らしくデスマーチの先頭を歩いてゆく。
両者の性格も本やニュースやインタビュー記事を読んだりする限りでは全く違うように見える。
軍人系とオタク系、お互い相容れない様に見えるけど、リーダーとして巨大プロジェクトを率いていく才覚と、部下を掌握するカリスマ性に関しては、どちらも突出した物を持っているのは間違いない。
カトラーはDECでVMS、MSでWindowsNTを開発する巨大プロジェクトを率い、リーナスはLinuxカーネル開発プロジェクトを率いている。
リーナスは巨大プロジェクトを統率するコツは「統率しようとしない事。みんなに全部任せる事」と言うような事を言っている。
同じようにプロジェクトを率いていても、カトラーとリーナスでは全く別の事に主眼をおいていると言う事になる。
全く違う二人に、プロジェクトに対しての関わり方に共通点があるとすれば、まず、自らが先頭に立つような現場主義である事。そして自らがプロジェクト内でも随一のプログラマーである事。そして最後に自分はリーダーなんかになりたくないと思っている事。
カトラーもリーナスも率先してコードを書くし、そのコードはみんなが惚れ惚れするようなものだという。
ようはやり方なんかどうでも良くって、自ら先頭にありそのプロジェクトの分野で第一人者であれば、勝手にリーダーになってて、あとは勝手についてくるという事なんやろうね。
いずれにせよそういう人は極めて希である事はよくわかる。そういう上司なり、リーダーに巡り会う事も一つの幸せであるんやろうと俺は思う。今の俺ならどっちでも喜んでついて行くぞ。(チームに入れてくれるかどうかは別にして…)
一人で立ち上げて一人で行進するようなプロジェクトでは、実際ちょっとしんどいし何よりも空しい。モチベーションも保ちにくいしね。(そもそもそれはプロジェクトなのか?)
一人で行動する殺し屋といえば聞こえは良いけど、ちょっと裏返せばただの鉄砲玉。
部隊長のリーダーについて組織戦闘する方が遙かに楽というのはあるわな。

まぁ、カトラーとリーナスって、なんというかラオウとケンシロウの違いみたいなもん?
どっちも中々おらんわなぁ。たしかに。

カトラーは現在60歳くらいで、驚く事にまだ現役のプログラマーであるという。
何でもWindowsXPの64ビットカーネルの開発に関わり、現在も次期windowsの開発チームにいるらしい。
曾孫の代まで遊んで暮らせるほどの金を持ってるはずなのに、まだコード書いてるとは…まさしく戦闘マシーンやね。
あと、ビル・ゲイツを中立的に書いてあるのがちょっと好感持った。大体ゲイツって悪の帝国の総統チックな描き方されるもんな。カイオウみたいに…

それから最後に一つ判った事は、俺は何でも「北斗の拳」に置き換えて物事を見る癖があるようだ…

熱中度     ★★★★☆
考えさせられ度 ★★☆☆☆
影響度     ★★☆☆☆
総合      ★★★☆☆

2006年03月18日

●もし 死なば、多くの果を結ぶべし

前回自転車のチェーンを洗ってから250キロ以上走っていたので、昼から自転車のメンテをする。
雨風に晒されてなんかえらい事になってた。各所がもうどうしようもないくらいに汚れていたのはともかく、フレームの上から見えない部分に、 土と一緒に何かのタネがひっついていたのにはちょっとびっくり。
各可動部を灯油で洗った後にブレーキクリーナーを吹いて、乾いてから注油。
フレームにしがみついてたタネは、とりあえずひっぺがして、植木鉢の桜草の隣に埋めておいた。
しかしこのタネ、何処でひっついたんやろう?木曜日の雨の中も洗い落とされずにひっついていたのだとすると、相当「根性のあるタネ」に違いない。
この「根性のあるタネ」が桜草の隣でどんな「根性のある芽」を出すのかちょっと楽しみになってきた。
でも、意外と自転車にひっつき続ける事で根性を使い果たして、すでにタネとしては燃え尽きてるような気がしないでもない。

2006年03月17日

●日本の技術力は世界一ィィィ

今日の昼は自転車で走り回ってたのだが、夜になって久々に車を運転した。
車の走行距離よりも自転車の走行距離の方が遙かに多い様な人やけど、土偶カーがミッション車だと言う事もあって、車の運転も中々楽しかった。
しかし、いつも毎日自転車ばかり乗ってると、車を運転した時に当たり前の事でいちいち感心する。

まず、そのスピード。巡行速度60キロなんて当たり前。自転車で60キロ出そうと思えばどれだけ大変か。30キロ巡行ですら相当厳しいのに…そして自転車では上りたくないなぁと思うような坂でも余裕で上るし、自転車だとオーバースピードになりそうで怖いような下りも、ギア一つ落としてエンジンブレーキ効かせればラクラク。さすがに自転車ではエンジンブレーキかけられへんもんなぁ。ペダル逆転させてもカラカラいうだけやし。
そして最後に何よりも凄いのは、漕がなくても前に進む事。上の二つは体力とブレーキさえ充実してれば何とかクリアできるけど(そうか?)、これだけは絶対自転車ではありえん。さすがに自転車にまたがるだけでは前に進まない。クルマってスゴい!

ほんまに自分でもしょーもない事で感心してると思うけど、なんか初めて黒船を見た町娘にでもなった気分。でも、実際俺ってある意味で鎖国やもんなぁ。色々な意味で。
毎日パソコンだのワークステーションだのサーバーだのといじってる俺が言うのもなんやけど、なんつーか現代科学の勝利というか文明社会の栄光をひしひしと感じた。
俺の体にもエンジンついてたらええのに。

2006年03月16日

●オッサン、エースママチャリパイロットに撃墜さる

出勤時は雨など降っていなかったのだが、終業時はもう唖然とするしかないような勢いで雨が降っていた。
しばしポカーンと惚けたように雨を見つめ、意を決して自転車に搭乗。目指すは飲み会が開催される河原町三条らへん。
端から見れば無謀、命知らず、キティガイのどれか、あるいは全てに当てはまる行為だろうが、土偶の辞書に「公共交通機関をご使用下さい」の文字は無い。
途中すれ違ったママチャリパイロットのマダム、傘をさすのを放棄してずぶ濡れになりながら、それでも誇らしげに胸をはって堂々と両手で操縦する俠気に、正直負けたと思う。orz

しっとりズボンとぐっちょり靴下で飲み会、ボーリングとそつなくこなして帰宅。
玄関で服を脱いでそのまま風呂に直行。
積もる雪に自転車のタイヤでシュプールを描けるほどの寒さ、一昨日のコバンザメ日和、そして今日と風邪を引いてもおかしくないような状況をこの冬はことごとく乗り越えて来たなぁと。職場では「風邪ひきキャラ」なのだが、それももう卒業だ。それもこれも自転車に乗り始めてからのような気がする。ありがたやありがたや。などと湯船に浸かりながら考える。
さらに風呂から出ると、某レディーから「風邪に気をつけてねメール」が来ていた。ありがたやありがたや。
感涙にむせびながら、すっぽんぽんで返事を書く。まさか某レディーも送られてきたメールが全裸で書かれたものやとは思わんやろなー等と思った事で、自分がオッサンになっているのを確信した。

2006年03月15日

●えろいむえっさいむ

この日は始業から終業まで延々スクリプトを書いていた。(プログラムのソースではないところが悲しい…)
某所で「土偶ソフト」等と呼ばれる奴のバージョンアップ作業だ。
今風にWebDBにもリンクさせるかと思ったけど、SQLインジェクションうんたらでカカクコムみたいな目に遭うのは嫌なので諦め、コマンドコム上でフルスクラッチじゃ!!って自慢にならんか…
研究室の某氏が、サンスクリット語のデバナガリ文字で書かれたでっかい本を読んでいるのを見ると、恐ろしげな魔法書を読んでる魔法使いにしか見えないと常々思うのだが、俺が自分でも訳が分からんくなってくるような意味不明コードを書いている様を、誰かが後ろから見るとスーパーハカーに見えるに違いない。

って、見えるだけではしょうがないし、それ以前に自分ですら何をしてるのか分からんようなコード書く時点でどうだか。
魔法使いで言うと、自分で自分に魔法をかけて若返るつもりが、間違えてカエルとかになってしまうタイプだな。

2006年03月14日

●コバンザメ日和

別に仕事が嫌なわけでも、それほどに家が恋しいわけでもないのだが、仕事が終わって自転車に乗って体に風を感じていると、本当に「ほっ」とする。
しかしながらこの日は「ほっ」とか言っている余裕もないくらいに寒かった。
いつもは自転車を漕いで体が温まったくらいでちょうど良いくらいの「薄着め」なのだが、この日はとうてい寒さに見合った服ではなく、漕いでも体が温まる前に、スピードが出た分余計にあたる風の冷たさに耐えられない。
かといってゆっくり走ったところで体は冷えてゆく一方で、「ゆっくり」を楽しむほどの余裕もない。
しまいには雪まで降ってきて寒いというよりは痛い。

そういうわけで、中途半端なスピードで前を走る、風よけに適した幅のマダムが操縦するママチャリの後ろにぴったり張り付く。
こうなると、前をゆくマダムが吹き付ける雪と風をすべてブロックしてくれるので遙かに楽。
当然ながら先頭交代もなく、体を低くしてマダムの数十センチ後ろを無音でひた走る。

しかしながらそのマダムと俺の家は違う場所にあるわけで、俺が曲がらないと家に帰れない角をマダムは真っ直ぐ行ってしまった。
いくら快適だとは言え、さすがについて行くわけにも行かないので角を曲がり、視界に入った中で、一番風よけに適した自転車を見つけると、またすぐにぴったり後ろにつける。
その自転車がどこかの角で曲がると、また次の風よけを探し、後ろに張り付く。
そんな事を繰り返し、コバンザメのごとく風よけを転々としながら家まで帰ってきた。

そうでもしないととても家に帰れないくらいに寒い、コバンザメ日和の夜だった。

2006年03月13日

●『それがぼくには楽しかったから』リーナス・トーバルス

ビル・ゲイツでもスティーブ・ジョブスでもない「新しい形のヒーロー」として、コンピューター界だけにとどまらない知名度と人気を誇る著者。
この本は彼がLinuxカーネル開発に至り、そしてOSとしてのLinuxが爆発的に広まってゆく様を彼の視点から述べたものであり、そして彼自身の生活や考え方饒舌に述べたものでもある。
なぜLinuxがこれほどまでに世界を覆い尽くすようになったのか。Linuxが採用したオープンソースという概念が一大ムーブメントとなったのか。それはLinuxのシンボルであり、広告塔が人間的な魅力に満ち溢れたリーナス・トーバルスという一個人であった事が最も大きな要因の一つと言って良いだろうと思う。
リーナス・トーバルスはシャイで話し下手でペンギン好きなただの世捨て人のオタクではなく、実に人間的かつ「まとも」であるという事が読み取れるのがこの本である。また、商業主義でも、拝金主義でも、厭世主義でもない別の生き方やら価値やらの1モデルを提示している点でも大きな意義があると思う。
というと大げさすぎるけど、ぶっちゃけIT関連書籍でもなく、ビジネス書でもなく、偉人伝でもなく、どちらかと言えばタレント本に近いコンセプトと構成で作られた本なのではないかと思う。
まぁ俺は彼を「尊敬」に近いほど好いているので、かなり好意的に読んでるのは確かやね。
土曜に読んだ本やけど、この本と言うよりは彼、リーナス・トーバルスについて書いてみたいと思う。

amazon ASIN:4796880011 俺が彼に好感を持つのは一言で言うと「足を知るバランス感覚に根ざした中庸」と言う事になる。
彼がLinuxやオープンソースの行く末や目指すべき所を決して語らず、大企業や大学などの講演や会談依頼を断り続け、いわゆる「ビジネス」のスタンスから離れたところに身を置き続けているのは有名な話だ。
GNUやフリーソフトウェアの思想も、その提唱者であるリチャード・ストールマンの言うようなある種のアナーキズムを感じる「ソフトウェアはすべからく人類共通の財産とすべきである。」などと荒い語気で熱く語られるのではなく、
「みんなで知恵を公開しあった方が良いものが作れるじゃないか」という口調で、ストールマンのそれよりも、一般人にも判りやすく受け入れやすくなっている。
Linuxをある時点からビジネスに変えてしまえば、彼はビル・ゲイツに勝るとも劣らない富豪になれたはずだ。
と言うのもよく言われる事やけど、そうしなかったのは決して彼が清貧思想家だったというわけではなく、redhatに貰ったストックオプション(未公開株譲渡?)の株価に一喜一憂しているこの本に書かれたエピソードからも彼自身の「足を知るバランス感覚」と共に彼の人間らしさを表しているように思える。
彼がインタビューに答えて言ったGPL3やOpenSolarisへの批判も「僕は使いたくない、僕には興味がない」というスタンスを貫いている。
彼は決して「べき論」で何かを語る事はなく、彼にとって面白いか、彼にとって正しいと思えるかという個人性のレベルだけで物事を語る人物であり、彼のカリスマはそこに端を発しているように見える。
押しつけがましくなく、控えめで、言っている事はまともで判りやすい。しかも金と女には余り縁がないように見え、実はすごいカーネルハッカー。そりゃある種の人間のツボを北斗神拳並にダイレクトに突くって。

彼はこの本の中で人間が成長してゆく段階というのは「生き残る事」「社会性」「楽しむ事」の三つにあると述べている。
プログラマの例を挙げれば「生き残る事」は生活のために雇われてプログラムを書く状態で、「社会性」は特定のコミュニティーに参加して名を成したり有名になろうと良いコードを書こうとする状態で、「楽しむ事」はただ自分の楽しみの為にソフトを作る。
と言う事になるらしい。
彼がLinuxカーネルを開発した動機としては、彼の言う最後の段階、この本のタイトルにもなっている「それがぼくには楽しかったから」というただ一つの理由を挙げている。
このリーナスの言う三つの段階を読んで、ニーチェの言う「三段の変化」と似ているのにちょっとびっくりした。
ニーチェが言うには精神は「重荷を担わされる事を望む驢馬」になり、次に「自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする獅子」へ、最後に「おのれの意欲を意欲し、然りを発語する遊戯する小児」となるらしい。
リーナス・トーバルスが余りに普通の人であるように見えながら、あまりに普通の人とは遠いところにいるように感じたのは、そして俺がこれほどまでに彼に好感を寄せるのは、それは彼がニーチェの言う「小児」の段階にいる、ある意味で超人なのだからなのではないだろうか?
などと強引に結んでみた。

熱中度     ★★★☆☆
考えさせられ度 ★★★☆☆
影響度     ★★★★☆
総合      ★★★★☆

2006年03月12日

●日記的な、あまりに日記的な

DVD±Rドライブが壊れてマウントしなくなった。読みに行ってる気配もない。
新しく買おうか激しく迷ったが、DVD焼く事なんかSolarisインストールする時くらいしかないし、先日PCを買ったばかりなのでとりあえず今は諦める方向に。

夜にいつもの巡回コースでサイト巡り。
巡回サイトの一つが閉鎖していた。最近とことんな状態になっていたのでどうした事だろうと草葉の陰から心配する。一方でいったん閉鎖したかと思われた某カリスマ日記サイトが正式復活していた。

なんとなく懐かしくなり、過去日記を読み漁る。
久しぶりに読む文体から感じるスピード感と勢いと滲み出る人柄に心躍らせる。
職業的文筆家にはない、日記的に素晴らしい文章というのは確かにある。
単純に言えば、職業作家のとは違う心の揺さぶらせ方をするという事だ。
たしかにその某日記サイトは赤の他人の俺が読んでも感じるものは多いし、一気に大量に読ませるほどのエネルギーを持っている。
しかし、実際の所、この俺のブログの日記的文章は俺を直接的に知らない人間が読んで何か少しでも得るところがあるのだろうか?
客観的に読んでみても、ネット世界に満ちている草ブログと何ら変わるところはない。つまりはそれが俺が世に満ちる草ブログ作者と何ら変わるところがないという事を意味しているだけの話なんやけど。

最近、相対的ではなく、絶対的に自分の価値を定位させろ。てな感じの事がよく言われている。
しかし、往々にして絶対的に自分に価値を見いだしているかのように見える人間は「根拠のない自信」を持っているようにしか見えない場合が多いし、見ててあまり気分の良いものではない。
そういった人たちが自分自身で自分の価値付けを行っている人なのかどうかは判らないけど、自分で自分に価値を付けるという行為は、自分の座っている座布団を持ち上げる事のように思えるし、正直どうやったらそんな事がが出来るのか想像が付かない。
自分で見て、自分に属するもので「これで十分!」だとか「これが私の証!」など思えるものを持っている人などどれくらいいるのだろう?

2006年03月11日

●プチ寝込む/ON 20060307

朝目が覚めると猛烈に気分が悪い。某氏の鬼太郎姿の雄姿を見に行くつもりだったのだが断念して寝込む事にする。
なんだか嫌な夢ばかり見て汗をかきまくったのが良かったのか、夕方前に起きてみた時に少々回復したのを感じた。

で、少し持ち直して先ずした事と言えば俺らしくOpenSolaris Currentのビルド。
寝込んでいる間に届いていたリーナス・トーバルスの『それがぼくには楽しかったから』を読みながら、20060307版のOpenSolarisのOSベース/ネットワーク部分をビルドする。
Changelogを読むとe1000gドライバのバグがいくつか潰されているようで、楽しみ。
しかしながらリリースノートには、デバッグモードでカーネルを動かさないとATAドライバが動かないと書いてあった。
なんかデバッグモードやとカーネルの動作が遅いような気がするんやけどなぁ。
さすがにATA読めないと激しく困るし諦めるとするか…

bfuインストール時にいくつかエラーが出て激しく焦ったが、ちゃんと動いているようで良かった良かった。

2006年03月10日

●『風の歌を聴け』村上春樹

村上春樹のデビュー作で群像新人文学賞の受賞作、単行本の初版は1979年。
確実に俺の持ってる中で一番読み返している本。事あるごとに何かの確認作業のごとく読んでいる。
風呂から出た後に気づいたら読んでいた。読んだものはしょうがないので感想を書いてみるけど、なるべくアマゾンや書評サイトにない切り口にしたい。
つまり、この小説がクールでもドライでもなく、ウェットなヒューマニズムを目指した本だという視点で書いてみたいと思う。

amazon ASIN:4061317776 村上春樹は『風の歌を聴け』の段階で目指していた、「セックスシーンが無く、人が死なない小説」と、リアリズムをことごとく拒否するかのような文体を後にあっさり捨てる事になるけど、それが妥協や屈服ではなく、手法だとか展開の発展であり、村上春樹自身の成長であると捉えられているのは、村上春樹の非凡さであると思う。
作家が自分自身のデビュー作を超えるのは難しい。というのはよく言われる事やけど、一般的に、この『風の歌を聴け』は村上春樹の作品群の中で代表作であったり、一番であると位置づけられてはいないのは疑いないだろう。
しかしながら、初期の村上春樹、つまりは鼠三部作の段階の村上春樹にとっての「文章を書く意味」が、いわば作家としてのコアな部分が最も直接的に切実に語られると言う意味で、この「風の歌を聴け」を、(少なくとも鼠三部作の中で)一番評価している人は村上春樹好きの中には多いと思う。

物語らしい物語は全くと言っていいほど展開しないのはこの本についてよく言われる事であり、氏の他の小説に比べて、登場する女性が魅力的ではない。と俺は思うのだが、それらの事は逆に登場人物である鼠のナイーブさと、ジェイの懐の広さや暖かさを際だたせる結果になっているように感じられる。
既存の小説の手法や価値を使わずに、ある種のヒューマニズムを表現し得ているのは一つの大きな成果だとは思うが、何よりも村上春樹自身がインタビューで言っているように、この本の一番の価値はチャプター1に、文章について書かれている部分にあるだろうと思う。
文章を書くのが好きな人間にとっては、その氏の言葉は先人としての真摯な警告であり、後の氏の姿と考え合わせてみるなら快癒の具体例でもあるだろう。

2006年03月09日

●god bless you

帰宅時に「空き缶集め」を生業としているらしきおっちゃんが、自転車の荷台に山と積んだ空き缶の入った袋の一つを落としたらしく、道路にぶちまけられた空き缶を必死に拾い集めている場面に遭遇して軽く凹む。
夕食後、いつものダメ系サイト巡回コースを外れ、それらからリンクを張られている先の、同じくダメ系サイトへと飛んでみた。
気が付くと数時間巡っていたようで、負のオーラにあてられ、見ているこっちまでなんとも言えない気分になる。

「社会が悪い」などと言うつもりはないけど、なんだか無性に腹立たしくなり、風呂に入って早々にふて寝。
そういうわけで就寝時間は九時半時くらいだったような。

2006年03月08日

●とは言っても火は吐けないし時間も止まらない

昨日することが無くなって夜の九時という幼児並の時間に寝たせいか、起きるとやたらと節々が痛い。
寝過ぎで間接が固まったのかなんかは判らんけど、とにかくオイルの切れたチェーンというか、20年間開いたことのない鉄の扉というか、体がギシギシ言う感じで、自転車で出勤するのも一苦労。

とりあえず職場についてもまだ痛いので、誰もいない事務室で体操でもしてみる。
とは言ったものの文化系純粋培養の俺はストレッチも何も知らないので、「筋」らしきところを思いつくまま適当に伸ばすくらいしか出来ないのだが…
手を上げたり足を伸ばしたり腰をそらしたり「うー、心地よい痛みー」などと身もだえしながらはっと窓を見ると、怪しげなポーズでこちらを見つめる自分の姿が映っている。
この姿…どこかで…ダルシム?ザ・ワールド?

で、仕事が始まった瞬間からエンジン全開で忙しく、バタバタ走り回ったりパタパタとキーボード叩いているうちに体の痛みはどこかへ行ってしまっていたようで、そのことに気づいたのは仕事帰りに自転車乗っている時。
せっかく機嫌良く自転車乗ってたのに、帰り道の上り坂で電動自転車に乗ったマダムに、惚れ惚れするほど綺麗にゴボウ抜きされ、ちょっと凹んだ。

●携帯版を設置しました

某氏からの要望により携帯版を設置してみました。
URLはhttp://dogu.no-ip.org/i/
となっております。

2006年03月07日

●世界の終わり

今日は休日。起きると激しく良い天気。魚たちに餌を、植木達に水をやる。
魚たちをぼんやり眺めているうちに数時間が過ぎていた。冬になって株数が減っていた「ネジレモ」も暖かくなるにつれ芽を出してきた事に気づく。
フナもメダカもスジシマドジョウもエビも元気に餌を食べている。この閉じた生態系の中で一人の犠牲者も出さずに春を迎えられた事にほっとした。
昼過ぎまでに自転車でお役所や銀行など土日には閉まっている機関への用事を済ませ、そのまま近所を走り回って汗をかいた後、午後から引き籠もる。
好きな音楽を大音量でかけ、部屋の四方の窓をフルオープンにして風を部屋に入れると何とも心地よい。
明るく暖かい部屋の中でウラジミール・アシュケナージのピアノを聞いてるとなんか鬱屈した気分なんかちょっと吹っ飛んだ。

人間生きていれば「不快」や「苦」などいくらでもある。もちろん積極的に行動すれば回避したり乗り越えられたりするものもあるけど、当然時間が過ぎるのを待つしかないような種類の、立ち向かったところで全く意味のない台風や雨降りのようなものもある。
少なくとも俺の場合はそういう時期が訪れると無理に悩んだり嘆いたり何とかそれを取り除こうと奔走したり、またさらに強大な「快」の要素でそれを打ち消すために趣味に打ち込んだり、無理して恋愛したりとすることが多かったような気がする。
こういったことは、たぶん感情や気分を含めた自分に関することは、すべてコントロールできるはずやという感覚から端を発しているのだと思う。
結局の所、なにかを意図的にコントロールしようとすることは逆に自分がコントロールされることになることが多く、無理して外的要因に頼ろうとしても思ったほどの効果が得られないことが多いようだ。

部屋に吹き込む風が気持ちいい、明るい日差しが心地よい、魚がよく餌を食べ、「ネジレモ」が新しく芽吹いて嬉しい、アシュケナージのピアノが素晴らしい。
こういう事は、自然発生的に訪れる極小さな「快」の要素やけど、それらが重なるとそれなりの量の「快」になる。一番重要なのはそれが自然発生的であると言うこと。つまりは不自然な外的要因に頼っていないと言うことだ。
無理してテリトリー外にまで略奪に出かけなくても、ちょっと力を抜いて周りを見回せばいくらでも楽しいことはある。ただ小さすぎて中々目に付かないだけだ。

霞を食べて暮らす道教の仙人のように、ある種の「割り切り」さえあれば、それだけで結構人生が楽しく過ごせるのではないかと思った。

2006年03月06日

●降って沸いた停戦

今日仕事に行って初めて気づいたのだが、明日は休みだそうである。
傭兵稼業であるから単純に「お休みわーい」とも言えないのだが、最近ちょっと気合い入れすぎの働き過ぎなような気もするので(当事者比)おとなしく引き籠もっておこう。
モニターを凝視しすぎだとは思うけど、なんだか頭が痛い。

2006年03月05日

●何がまともなのかはよく判らない。

今日も天気は良かったけど一歩も外に出ず引きこもる。
ひたすら無駄にsolarisカーネルをビルド。
nevada33で、隙があれば1000fullでネゴシエーションしようとしていた?動作の怪しかったIntelギガNICのドライバe1000gがON 20060228 nightlyのカーネルに入れ替えてちゃんと100fullとしてまともに動くようになった。
いや、Linkup Linkdownを自動検出しないからまともとは言えないのか…
とりあえず動いてるしまぁええか。

Nvidiaのsolarisドライバについていたreadme読んで、デュアルディスプレイにしてみる。
二つのモニタにまたがった横長の仮想画面に「おーダライアスやんけー」などと一人で喜んでいたものの、実際の所使いにくい事にふと気づき、また元に戻す。一体デュアルモニタはどういう風に使うのが正しいのだ?

情報収集のためにOpenSolarisプロジェクトから、カーネル開発者blogを辿っていると、不意に10人のレディーに囲まれて満面の笑みを浮かべる、とあるSolarisカーネルハッカーの写真に行き当たる。
なんでこのオサーンはblogにこういう写真まで載せるかー?などと思いつつも、心の底から沸々とルサンチマンが沸き上がる。
英語のページなのでいまいち意味はつかんでないけど、どうもこの人は普段は医者をしていて、趣味でカーネルハッカーやってるようだ。
「ご職業は?」「医者です」
「ご趣味は?」「solarisカーネルハッカーとドライバ書きを少々」
んーカッコええやん。俺が女やったら惚れてるかも。

2006年03月04日

●惑星ソラリス

昼から四条に自転車で買い出し。音楽再生用パソ用に3comの3c905B-TXを500円で、黒い土偶マシン用にDVDx12 Wx16 RWx10な東芝製コンボドライブを1680円で買い、早々と逃げ出すように帰宅。
帰宅後、早速部品を取り付けるも、黒い本体に白いドライブはミスマッチということで、ドライブのベゼルを分解して、「つや消し黒」で塗装。
塗装したことで一週間の保証期間を無に帰したことに気づくも、時すでに遅し。まぁ見た目はなかなか良い感じやしこれでええとするか。
しかし、使えば使うほど黒い土偶号の恐ろしさが見えてくる。X起動して、Web見ながら、音楽再生しながらsolarisカーネルのフルビルドに 1:52:19 。二時間かかってないとはあなオソロシや。

寒いながらも良い天気だったので自転車で走るのは気分よかったけど、さすがに町中は人が多くて走りづらかった。

最近はパソ部品か電子部品か本を買うためだけにしか四条に行かないようになった訳やけど、考えてみればなんだか美味しい食べ物屋や喫茶店探したり、変わった店を探し回っていた頃が懐かしい。
町中を自転車で走り、手を繋いで歩くカップルとすれ違ったり追い越したりする度に、なんと自分は遠い所に来てしまったのだろうと思う。俺はいったい何処の星に住んでいるのだ??
某レディーは引きこもっている俺に「たまには外に出て遊ばんとあかんよー」と言った。かといってその某レディーが俺と遊んでくれるわけでもないのが辛い所だが…
しかし一方でガイドブック片手に女の子と町屋の料理店巡るのと、OpenSolarisのcurrentを追いかける事のどちらが楽しいのか分からなくなってきた。
こういう感覚が激しく「ズレて」いるのは自分でもよく分かる。
それでも今日は自転車で町を走りながら、いったい俺は何処に向かおうとしているのだろう?この先に何かあるんだろうか?とも思った。
決まり切った毎日をおくっている限りそんなことを考えないけど、ふとした拍子に「外」に触れてしまうとそういう風に思うようになってきのは、たぶん悪い傾向なんだろうと思う。

2006年03月03日

●OpenSolarisでx86とx64の選択boot

OpenSolarisのX86でかつx64限定の話やけど、デフォルトで64ビットカーネルになってるものを32ビットカーネルで起動する方法。
sparcの情報は結構あるけど、X86のは探したところ無かったので載せてみる。

32ビットでの起動方法と言うよりは、grubのブートローダーにカーネルオプションを渡す方法と言った方が正確かも。

起動時にgrubのstage2のメニューが出たら、

Solaris Nevada snv_33 X86
を選択した状態でeをしてエディットモードに入る。
kernel /platform/i86pc/multiboot
の行を選択した状態で もう一度eを押してエディット。
kernel /platform/i86pc/multiboot kernel/unix -B
に変えてエンターで確定。
bを押してbootする。
起動すれば32ビットカーネルが読み込まれているのが確認できる。

ちなみにハードウェアの再検索の場合は
kernel /platform/i86pc/multiboot -r

grubのメニューに表示したければ、

/boot/grub/menu.lst

title Solaris Nevada snv_33 X86 32-bit kernel
kernel /platform/i86pc/multiboot kernel/unix -B
module /platform/i86pc/boot_archive

を追加して
cd /boot/grub
installgrub -m stage1 stage2 /dev/rdsk/起動ディスク

「起動ディスク」は/etc/vfstabの / にマウントされてるデバイスでおおむねOK。

でも考えればsparcとほとんどカーネルパラーメーターが同じというのは良い作りやとほんまに思うぞ。

2006年03月02日

●64エクサのメモリなんか使わないと思う

この日もひたすら黒い土偶solarisいじり。

64ビット環境がうれしくて仕方ないのだが、isainfo -vk で見てみると、
64-bit amd64 kernel modules
となってる。
intelの64bitでもamd64なアーキテクチャということになるんやろうか?ちょっと不思議。ほんまに大丈夫か??

2006年03月01日

●黒いマシーンでこの街を♪

Solaris専用デスクトップ機を作ろうと前から思っていたんやけど、とうとう毒舌紳士こと某氏から安く譲ってもらった。
Dell の precision 470ていう黒いヤツだ。
ホスト名つけるのに悩んだけど、里子元の某氏にちなんで「sampo」(散歩)と命名。
黒いボディのモンスターに似合わずなかなかかわいらしい名前。

里子話が出た時はあまりにも最新のテクノジーがふんだんに使われているハードなのでSolarisがちゃんと動くのかと心配したのだが、SUNのHardware Compatibility ListsでTest Suite Level 2の互換性、しかもSubmitter CompanyがSUN。つまりは完全互換だ。
スペックをずらずらと書くと頭悪いみたいに見えるので書かないが、Solaris11 b33を突っ込み、シリアルATAもちゃんと認識し、カーネルも64ビットネイティブで、サウンドもUSB2もギガNICも動く。
SUNもUltra20なんか売るよりこっちを売った方がええんちゃうか?というくらいのデキだ。
某氏よありがとー

しかし、「new土偶黒いマシン」はIntelチップセットにIntelのCPUが乗ったdellのハードやけど、IntelもdellもハードウェアベンダーとしてのSUNの敵の再たるもの。
どちらもSUNがウェブ上で引き合いに出して、他社比てな感じで比較してる。
SUNのSPARCプロセッサはIntelのXeonよりこんだけ早い。とか、SUNのUltra20はDellのワークステーションよりこれだけ早い。とか。

IntelとDellのハードに金を出して、そこにフリーライセンスのSUNのSolarisを入れてる…
SUNからサポートを買う気は全くないし…

よく考えれば、SUN贔屓でSolarisマンセーな行動をしたようで、実はSUNには一銭の特にもなってないような気がしてきた…