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2006年01月31日

●『小説の経験』大江健三郎

この本の内容自体は1992年に書かれた物やけど、出版は二年後のノーベル賞受賞の直後のようだ。15日で3刷超えているところを見るとその勢いでよく売れたようで、ちなみに俺は3刷を買っている。
この人の小説は日本がノーベル賞祭りでえらい騒ぎになっているのが落ち着きかけたころにかなりまとめて読んだ記憶があり、「ギー兄さん」のきっついキャラはまだ印象に残っている。同時代の作家ということでなにかと比べられる事の多い安部公房よりはかなり好きなタイプの作家。
最近はまったく読んでなかったけど、この本を古本屋で200円で発見し、本のコンセプトに惹かれて買ってきた。

amazon ASIN:4022641665 そのコンセプトというのはこの本の前半、小説を読む事が好きで意味のある事だと思っている人間が、年をとってもう一度小説というものについて再入門してみようというもの。NHKで放映されたテレビ講座を本にしたものであるらしい。
後半は文芸誌に連載されていた、その月々に発売された小説に対する評論集。

後半の方は俺がほとんど職業的評論家の「批評」というもんを意図的に避けていることもあり、ほとんど斜め読み。「あーそんな本もあったなー」とすごく懐かしかったり「村上春樹褒められてるでー」と驚いたり、その程度の感想。
俺がちゃんと読んだのは前半「小説再入門」の方。
最近俺は自分自身が変わったと感じたせいか、単純に年のせいかわからんけど、とにかく「小説」というもののとららえ方が昔と比べて変わっていることに気づいたこともあり、「小説」というあり方自体に興味を持っていたところがある。そこで、その「小説再入門」というコンセプトにとても惹かれた。
で、なかなか楽しみにしながら読んでみた訳やけど、和洋時代を問わずさまざまな小説を具体例にあげて、大江健三郎自身の小説の読み方と着眼点が丁寧に述べてある。なるほどヤツはこういう具合に小説を読んでいた訳かと、とてもわかりやすい。でも、読めば読むほどいかに自分が本を読んでなくて、いかに薄っぺらにしか読んでなかったかということを思い知らされて少々凹んだ。今までの本読み経験が無駄やった気分。んまぁノーベル賞作家と比べるのもアレやけど…
それでも方法論として小説もアリ。というところを大江健三郎が力説してた所とか(職業的作家やし当たり前か…)、俺が思う小説が目指すべき所とか意味とかが大筋ではそれほど間違ってない。(大江健三郎と比べて)てところでちと気が楽になった。例えば「立花隆」的に突き詰めても絶対たどり着けないところに小説はたどり着けるはずや。ということかな。(余計にわかりにくいか…)

この本の中で大江健三郎が若いころに『罪と罰』を読んで「フーン」という感想しか抱かず、後に読んだ『カラマーゾフの兄弟』を気に入り、それからそれがずっと一番と思ってきたけど、久しぶりに読み直した『罪と罰』はすごかった。てな事を書いていた。
確かに俺もまったく同じような経緯でカラ兄マンセーになってる。ここはヤツが言うように『罪と罰』読んでみるか。十年ぶりくらいになるけど。

熱中度     ★★☆☆☆
考えさせられ度 ★★★☆☆
影響度     ★★★☆☆
総合      ★★☆☆☆

2006年01月30日

●とは言っても「愛少女ポリアンナ」は見たことない。

昨日、洗濯洗剤と灯油でこれでもかというくらいに自転車を洗い、稼動部という稼動部に油差して、ネジというネジを増しじめしたのに今日はあいにくの雨。
職場への往復数キロにしてドロドロになったorz

それでも前から自転車から聞こえていたピキピキ音は増しじめのせいか消えていたので良かったとしよう。
それよりも何よりもSolaris10 X86 01/06がインストールできたのが嬉しい。
詳細はこちら
あまりに嬉しいのでフルトヴェングラー&バイロイト祝祭管弦楽団のベートーヴェン:シンフォニー9番など聞いている勢い。
今日は二つも嬉しい事あったので良い日だ!!

しかし、いい年こいてなにを「良かった探し」してんだか。

2006年01月29日

●また日は昇る

ブートローダーがGrubになった01/06版のsoalris10をノーパソに入れるつもりやったけど、結果から言うと失敗した。で、しょうがないので、旧版Solaris10の03/05をインストール。CSWからKDEとXfceもインストール。

Solaris9の頃にインストールしたきりSolarisをデスクトップクライアントとしてインストールしてなかったけど、10になって昔は日本語通すのに激しく苦労したXfceもちゃんと日本語化されてるし、SolarisでXFceとKDEが普通に使えるし、SUNがgrubを採用するし時代も変わるもんだと感心。
それでも、1/06版solaris10のgrubについてのFAQドキュメントの受け答えを見る限り、いくらGRUBを採用しようとSUNは相変わらず何かを答えているようで実は何も答えていない有様。
たとえばこんな感じ。


Q:
Can I boot from the network without a PXE/DHCP server?
A:
Yes, but only with some kind of local media (floppy or CD-ROM). You can create a GRUB floppy and configure the network via the GRUB command rarp or ifconfig, and download multiboot and boot_archive via tftp.

だからまともにネットワークブートするGRUBのディスクをどうやってる作るのだ?と聞いているのだ。馬鹿にしてんのか?SUNよ?
「淡路に行きたいんですけど?」と聞かれたJRの駅員が「電車に乗ればいい」と答えてるようなもんやで。それは。

soalris10 x86 01/06版の話については技術的な話になるので別エントリにした。
興味のある方はどうぞ。

2006年01月28日

●ねぇミーム、こっち向いて。

ネットを徘徊しているうちに、二回自殺未遂して、三回目にとうとう成功してしまった人の遺書ならぬ遺ブログをいつの間にか読んでいた。
一度目は練炭自殺で失敗、二回目は地下鉄に飛び込んで右腕と左足の指だけを失って失敗、三回目は薬飲んで雪山で凍死。
本人が死んでしまった後もそのブログが公開され続けるというのはなんか不思議な感じがする。死ぬ直前の遺書となった彼のエントリーに膨大な量のコメントがついているのを見ると、リチャード・ドーキンスの言った「ミーム」なるものの存在を感じる。

俺が「自殺はいけない!」などとステレオタイプに言うような人間では決してない事と、どちらかというと自殺願望者の部類に入ることを前提した上で、誤解を恐れずに云うと、彼は自殺を成功させてしまうことで彼のミームをより強いものにした。強力になった彼のミームがネット越しに遺伝し、遺伝先の表現形となってその人を自殺に追い込む。という事も大いにありうるだろう。自殺することで現実的に消えるはずだった人が、本当に自殺してしまったことによってより強い力で非現実的な世界で存在感を増してゆくという絵柄は、一般人でも「表現」の場を簡単に持つことを可能にしたインターネットの存在があるお陰だろう。そのお陰で固体を維持しない方向に働く、本来なら絶対に拡散しない筈の「ミーム」まで簡単に伝播するようになった。
そう考えるとなんだか薄ら恐ろしい。
俺の書いた拙文でも、それを読んだお陰で嫌な気分になるどころか、激しく鬱になったり、彼女(彼氏)と喧嘩したり、柱で小指を打ったり、醤油をこぼしたり、という不幸がないとは言い切れない。いくら現実感のない俺とはいえ、そこは精一杯の想像力を働かせる必要があるだろう。
「私が平和をもたらしに来たと思うな。私は剣を投げ込みにきたのだ」などとは決して言えるような器ではないゆえではあるが、なんだか拙文を読んで下さる有難い方がいらっしゃる事を感謝すると同時に、それなりの責任のようなもの勝手に感じている。
そう考えると勝手気ままに雑文を書き散らすという行為もなんだかバチ当たりな物に思えて恐ろしいものにすら感じる。
何よりも恐ろしいのは、2004年の自殺者が32325人(日に88.5人)いる事と同時に、火鉢で作った「ヤキイモ」を貪り食いながら、自殺した人の日記(ブログ)を読む人間がいるほどに自殺が日常に溶け込んでいる事だろうか…

ご冥福を願っております。

●Solaris10 x86 01/06 インストール成功!!

やっとのことでノートパソコンに対する、solaris10 x86 01/06のネットワークブート&ネットワークインストールが成功したので、詳細を記す。

Solaris10 X86 01/06 ネットワークインストール概要

ネットブート対応のgrubでクライアントを起動
NICに,rarp,ifconigでアドレスを割り当て、
tftpサーバーからミニルートファイルシステム(x86.miniroot)をramディスク上に展開し、
tftpサーバーからカーネル(multiboot)を読み込んで起動。
その後、サーバーのNFSのインストールルートからインストールする。

インストールするノートPCのIPアドレスを192.168.1.x ホスト名をp226
インストールサーバーのIPアドレスは192.168.1.xx
DVDイメージのNFSルートは/mnt/s1
とした。

サーバーの準備
ダウンロードしたDVDイメージをISOファイルに結合。


$unzip -p sol-10-u1-ga-x86-dvd-iso-a.zip > sol-10-u1-ga-x86-dvd.iso
$unzip -p sol-10-u1-ga-x86-dvd-iso-b.zip >> sol-10-u1-ga-x86-dvd.iso
$unzip -p sol-10-u1-ga-x86-dvd-iso-c.zip >> sol-10-u1-ga-x86-dvd.iso
$unzip -p sol-10-u1-ga-x86-dvd-iso-d.zip >> sol-10-u1-ga-x86-dvd.iso
$unzip -p sol-10-u1-ga-x86-dvd-iso-e.zip >> sol-10-u1-ga-x86-dvd.iso

できたDVDのISOイメージをlofiマウント

# lofiadm -a $PWD/sol-10-u1-ga-x86-dvd.iso
/dev/lofi/1
#mount -F hsfs /dev/lofi/1 /mnt/s1

インストールサーバーのセットアップ

#cd /mnt/s1/Solaris_10/Tools/
#./add_install_client -i 192.168.1.x -e MACアドレス(00:00:の形式で) -s 192.168.1.xx:/mnt/s1 p226 i86pc
とすると自動でtftp,rpc.bootparamd,nfs共有などをしてくれる。

クライアントの準備
ブートディスクの作成
PCのLINUXかBSDでネットワークブートのGRUBディスクを作成するのだが、SolarisDVDに入っているGRUBではまともにブートしないので、ソースからコンパイルする必要がある。
土偶はSUSELINUX9.3で作成
ftp://alpha.gnu.org/gnu/grub/からgrubのソースを落としてくる。
grub-0.97.tar.gzが良いかと。grub-1.xx系はちゃんとコンパイルできんかった。
家のノートはIntelPro100のNIC搭載なので、--enable-eepro100 を追加。
その他のNICについてはソースツリーの netboot/README.netbootを熟読すべし。


tar zxvf grub-0.97.tar.gz
cd grub-0.97
./configure --enable-diskless --enable-eepro100
make

make installしてもよいけど、stage1とstage2のファイルが欲しいだけなので
ここは stage1/stage1 stage2/stage2のファイルをどっかにコピーした後、
Linuxでの場合。
# dd if=stage1 of=/dev/fd0
# dd if=stage2 of=/dev/fd0 seek=1

windowsの場合
copy /b stage1 + stage2 grubdisk.img
の後にできたgrubdisk.imgをRawWriteでフロッピにー書き込む。


作るのが面倒な方、X86での開発環境のない方は作成したイメージをアップロードしましたので、
GRUBのインストールディスクイメージ
どうぞ。

ブートディスクが作成できたらそのディスクでノートパソコンを起動。


grubのプロンプトから

ifconfig --address=192.168.1.x --mask=255.255.255.0 --server=192.168.1.xx
root(nd)
kernel /I86PC.Solaris_10-1/multiboot kernel/unix -B install_media=192.168.1.xx:/mnt/s1,install_boot=192.168.1.xx:/mnt/s1/boot
module /I86PC.Solaris_10-1/x86.miniroot
boot
インストール時にアドレスがない旨のメッセージが出てシェルに落ちたら、
ifconfig iprb0 192.168.1.x netmask 255.255.255.0 up
などとアドレスを振ってからexitする。

インストーラーが起動したら成功。


これで完璧!悲願達成!!
なんといっても一番ややこしかったのはGRUBのmakeでした…
でもこのおかげでGRUBのブートプロセスとネットワークブートについてちょっと詳しくなったぞ。

2006年01月27日

●凶戦士くにお君

この日も飲み会。その前にゲーセンにいく。
「熱血硬派くにお君」は何十年振りにもかかわらずボスの勝ちパターンを覚えていたし、(久しぶりに見た「みすず」はこの年になっても怖かった。)rave racerのマウンテンのコースも完璧に覚えていた。
若い頃に覚えたものは結構忘れんもんやね。
若い頃からUNIX触ってる奴との間に越えられない壁があるというのはこういうことがあるからだろう。

しかし「くにお君」て今思えば凄いゲーム、各面の最初に主人公のくにお君の舎弟が不良グループだとか暴走族だとかに殴られ、その報復にくにお君が追いかけてゆくというもの。一発も殴り返さずにただタコ殴りにされるだけの存在である舎弟のふがいなさ云々よりもくにお君の男気に感涙するべきだろう。しまいにくにお君はヤクザ者相手に徒手空拳で組事務所にまで殴りこみに行くくらいやし。
即死攻撃である紫スーツ来た雑魚のドスと組長さぶの銃撃をかいくぐって構成員全員を殴り倒し、組事務所を壊滅させて敵を討つわけやけど、なんかもう過剰防衛も甚だしい。事の発端は高校の前で舎弟が刺されただけやん。三面目でセーラー服の少女相手にマウントポジションを取って気を失うまで殴り続けるくにお君を見ていると、彼は敵討ちという大義名分の下にただ殴りたい、ただ血を見たいという欲求を発散させているとだけとしか思えない。ファイナルファンタジーでいえばバーサクとコンフュがかかった状態。近くに仲間がいればそいつも敵味方関係なしに殴るに違いない。だからくにお君は一人で戦う必要があったのだ。
しかし、ただの高校生に構成員が全員叩きのめれてれた組の組長(さぶ)は信用ガタ落ちだろうし、その後の組活動を維持できるのだろうか?くにお君の通う高校の学区内が縄張りに入っていたことが彼の不運だった。
組の総本山から「ドスとチャカ抜きながら、高校生一人に殴りこまれて生きて帰らせるような分派の組長は指詰めろ」とかいわれるに違いない。それが四週目で突如勢いを増すサブ一味の必死の攻撃の原因だろう。なんせ人差し指を失うわけにはいかんやろうし。
そう考えると「熱血硬派くにおくん」で数少ない社会人キャラクターであるサブとその愉快な仲間たちに同情を禁じえない。

帰り道すがら小雨が降ってきてちょっと気持ちよかった。

●Solaris10 x86 01/06 インストール顛末

ブートローダーがGrubになった01/06版のsolaris10をCDもDVDもついていないFDDだけがあるノートパソコンにネットーワークインストールしようという企画。
以前のSolaris10 03/05までは「Device Configuration Assistant」でそれは難なく可能やったけど、01/06でGRUBが採用されるにあたり、ブートフロッピーを作成するのが簡単でなくなった。
SUNのSolaris for x86 Boot Floppy (Device Configuration Assistant)にもイメージは上がっていない。
ブートサーバーをセットアップしてしまえば、後はクライアント側の問題になるから、結論を端的に言ってしまうとネットワークブートとintel pro100に対応したGRUBのフロッピーを如何に作るかというだけの問題になる。
これはSolarisの問題というよりはGNU grubの問題やん…

Solaris10 x86 1/06のDVDをシングルユーザーモードで起動し、SUNのドキュメントの通り、grubのブートディスクを作り、
フロッピーの作成


DVDドライブのついたデスクトップでDVDからシングルユーザーモードで起動後、
# mount -F pcfs /dev/diskette /mnt
# cd /boot/grub
# /sbin/installgrub stage1 stage2 /dev/rdiskette
stage1 written to boot sector on floppy
first 2 sectors of stage2 written on floppy
umount /mnt

作成したFDDでノートを起動後
(tftpサーバーは192.168.1.xx nfsサーバーは192.168.1.xxx クライアントのIPアドレスを192.168.1.xとする)
grubのプロンプトから


ifconfig --address=192.168.1.x --mask=255.255.255.0 --server=192.168.1.xx
root (nd)
kernel /multiboot.I86PC.Solaris_11-1 kernel/unix -B install_media=192.168.1.xxx:/export/setje/boot_74L2 module /x86.miniroot
boot

とやればいいのだろうけど、プロンプトからNIC設定をしようとする時点でifconfigコマンドも、dhcpコマンドも通らない。NICが見つからないようなことを言ってる。試しにローカルにコピーしたmultibootカーネル読んでブートするもminirootのファイルシステムもgenunixカーネルもないからすぐにパニック…
どちらにしろgrubでネットブートするにはドライバみたいなもんを読み込む必要があるのではないか?ということで調べてみた結果、ディスクレスブートと特定のNICに対応させるようにgrubをコンパイルする必要があるらしい。
幸い家には音楽再生用のSUSE Linuxがあるので、grubのソースから --enable-eepro100 --enable-disklessオプションでコンパイルを試みるもmakeが通らない。
もともと開発環境が入ってなかったので急遽gccとbisonを入れただけなのが悪いのか??
なんかSolarisとまったく関係ないところで躓いているのが腹立たしい。いつかGRUBコンパイルしてやる。
でも、誰かネットブート可能で、intel pro100対応のgrubのフロッピーイメージ下され…
とにかくGrubをコンパイルできる環境を探すことが必要なようだ。
また追記してゆく予定。

2006年01月26日

●真実は痛み?

やっと木曜日。明日金曜日やと思うと激しく嬉しい。もちろん土日が来る!という期待ゆえだ。
今でこそ学校とか会社のデフォルト休日は土日やけど、俺が小さいころ、小中学校のころは(多分高校も。)土曜まで学校があった。(若人よ。そんな時代があったのだ。)

土曜日は午前中だけで授業が終わり、家に帰って昼ごはんを食べながら「吉本」を見て、午後から友達と月曜発売のはずの「週刊少年ジャンプ」を土曜日に密売されている本屋で買ってから、誰かの家にファミコンしにいくか、釣りしにいくか。というのが俺の中学時代の典型的な土曜日の送り方やった。
その当時、ジョジョといえばジョナサン・ジョースターで、孫悟空がレッドリボン軍と戦っていたくらいの時代の男子中学生の頭の中の半分は「ジャンプ」の事で、残りの半分は「エロ」に関することに占められていたので、月曜日に学校に言った時点で内容をすべて知っているというのはちょっとした情報通のようなものでなかなか珍しく、月曜日の一時間目と二時間目の休み時間は友人にせがまれて新聞解説員よろしくジャンプの内容について解説していたものだ。
今思えば、漫画なんか解説されても面白くないやろ?と思うけど、別にそれに疑問を持つやつは誰もいなかった。ドラゴンボールやジョジョについてはストーリー漫画なのでまだわかる。でも「両さん」だとか「とんちんかん」まで説明してもらう事にどれくらいの意味があったのだろうか?
こんど同窓会でもあるようなら聞いてみたい。お前はギャグ漫画を解説されて楽しかったのか?もしかして俺が「抜作先生」の真似をしてる馬鹿な姿を見て笑ってただけちゃうんか?と。
久しぶりに中学時代の事なんか思い出したけど、三十路超えたところで休みやというだけで中学生並みに見苦しいくらいに嬉しがったり、中学時代と頭の中に占めるモノの割合も大して変わらんかったり、という事実に愕然とした…

2006年01月25日

●Solaris10 01/06

12月後半から Solaris10 01/06版のダウンロードが始まってたらしい。
日本SUNのページには「Solaris 10 3/05 オペレーティングシステム」って書いてるからずっと見逃してた。なにしてんねん日本SUNよ。
01/06版は初期ロットの「Solaris 10 3/05」の安定版だという位置づけらしいけどKSCやSONYじゃあるまいし、初期ロットで十分安定してるような気がする。
でもまぁ、とりあえず落とし中。すげー遅いけど…
01/06版からX86のブートローダーにはGRUBが採用されたらしく。これはちょっと楽しみ。ノーパソにでも入れてみるか。
ちなみにZFSはまだ…
で、そのZFSってのはSUNの新しく開発したファイルシステムで、SUNいわく、
ブロック単位での64ビット・チェックサムによって、
99.99999999999999999%(9が19個)の信頼性を保ち、

ということらしいけど、きゅうじゅうきゅうてん、きゅうきゅうきゅうきゅうきゅう…って小学生の喧嘩でしか使わんような数値やん、SUNがなんとなく大人気ないと感じるのは俺だけだろうか…

2006年01月24日

●new火鉢購入

今まで陶器の火鉢やったけど、無性に木製のが欲しくなったのでヤフオクで買っ た。
黒檀か紫檀という話やけどなんかちょっとつやがないなぁ。使っているうちに出 てくるのか??
まぁ、前に比べて面積が増えたので、「灰ならし」で模様の描き甲斐がある。ちょっ と研究してみよう。

2006年01月23日

●『カッコウはコンピューターに卵を産む』クリフォード・ストール

アマゾンでは
発端は75セントだった。研究者のコンピュータ・システムの使用料金合計が75セントだけ合致しない。天文学研究のかたわら、新米のシステム管理者となった著者の初仕事が、その原因の究明だった。どうせプログラムのミスさ、と軽い気持ちで調査するうちに、正体不明のコンピュータ・ユーザーが浮かび上がってきた。―ハッカーだ。誰かがコンピュータに侵入している。しかもこのハッカーは、研究所のコンピュータを足場に、国防総省のネットワークをくぐって各地の軍事施設や基地のコンピュータに侵入し、陸軍のデータベースを読みあさって、CIAの情報にまで手をのばしている。この電子スパイの目的は何か。どこからどうやって侵入しているのか。そしてその正体は?世界中に報道された国際ハッカー事件。そのハッカー相手に孤軍奮闘した若き天文学者がみずから書き下ろした、電子スパイ追跡ドキュメント。
とある。1989年にアメリカで発刊され大ベストセラーになり、日本では1991年に初版が出ている上下二巻組みのなかなか長いノンフィクション。
タイトルにもなっている「カッコウの託卵」はバックグラウンドジョブで実行されることを前提にシステムに仕込まれるトロイの木馬の例え。
古典的「ハッカー話」の代表作であり、俺のような人間はあらすじだけでわくわくするけど、実に面白かった。これはコンピューターに少しでも興味を持つ万人にお勧め。

amazon ASIN:4794204302 もうすでに15年以上の前のシステムの話で、書かれている内容は相当に古い。デフォルトアカウントのまま放置するシステム管理者やメールでユーザー名とパスワードを送るユーザーなどの人的な問題点は時代に関係なく現代でも通用する話というのはもちろんいうまでもない。でもこれは「コンピューターリテラシー」のレベルの話。
当然今ではfixされているやろうけど昔のemacsやviにそんなバグがあったとは始めて知った。古い話なので技術的には特に何もないかと思ったけどそうではない。当時にあったこの本に書かれているのと同じようなセキュリティーホールは依然として残ってる。たとえばsendmailのバグ、fingerなどのinetdから呼び出されるプロセスのバグ。最近全世界を覆い尽くしたNIMDAやCODE-REDの蔓延は15年以上の前の話と何の差異もない。対象OSとポートが違うだけ。ようは「バッファオーバーフロー」の問題。
バッファオーバーフローだけに関していえばワードやエクセルが固まるのとなんら変わりなく特にそれほど深刻な問題ではないけど、そのプログラムがはルート権限で動いていることに問題がある。一般ユーザーの暴走でこうむる被害はユーザー領域だけですむが、スーパーユーザー権限のプロセスが暴走すればそのシステムに及ばず、同じネットワークの傘下にあるすべてのノードが破壊される可能性すらある。
sendmailがrootで動かざること得ないことは散々議論されて対策もある程度は立てられているけど、コンピューターである以上、絶対にroot権限で動かざるを得ないプログラムは必要であり、コンピューターであるということは潜在的にセキュリティーホールの原因を残していることになる。
21世紀になっても依然として「バッファオーバーフロー」の問題が根本的な解決を見ないのは、コンピューターという存在自体のそもそもからその問題を内包しているわけで、それは今のようなノイマン型コンピューターである限り解決されることはないのだろう。セキュリティーホールとパッチ、侵入者と防御者のいいたちごっこは終わることなく繰り返されることになる。当たり前のことやけど、完璧なシステムなんか絶対にありえないということだ。
われわれのような立場の人間には頭の痛い話やけど、この作者も言っているように、「コンピューターネットワークはワイヤーと回路の入り組んだ高度に複雑な装置ではなく、人間の相互信頼と協調の上に成り立つひ弱な共同体」でしかない。
インターネット万能、コンピューター万能の世の中ではあるけど、そんなものは一瞬にして崩れ去る。それでもそこにはいろいろな可能性があるし、現に俺はそのことで職を得ている。
悪いやつひどいやつ無作法なやつは多いけど、それでも本気で何事かを考え、善意で行動する人も沢山いる。
この作者も言うように、その共同体という意味でのネットワークやシステムの善性を認め、侵入者やクラッカーによってその共同体の信頼性が失われれてだれもそれを使用するものはいなくなるということが大きな損失であるととらえる者であるなら、われわれのような立場にある人間は技術的な方面のみでそこに介入するのではなく、その善なる部分を守ることのできる力を持つものという自覚をもってそこに関わる必要があるのだろう。
ここは天国じゃないんだ、かといって地獄でもない。良い奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない。
といっているだけでは、少なくともわれわれの立場にある人間は駄目なのだ。
そういう意味では啓蒙的な小説といえるかもしれない。

熱中度     ★★★★★
考えさせられ度 ★★★★☆
影響度     ★★★★☆
総合      ★★★★★

2006年01月22日

●『不滅』 ミラン・クンデラ

アマゾンでは
美しい女性アニェスと愛に貪欲な妹ローラ、文豪ゲーテとその恋人ベッティーナ…。さまざまな女性たちが時空を超えて往きかい、存在の不滅、魂の永遠性を奏でる愛の物語。20世紀文学の最高傑作。
本の帯には
ジョイス、プルーストで幕を開けた二十世紀の文学は、この小説で締めくくられる。
って書いてある。
この作者は1929年生まれのチェコ人で民主化運動に従事し、「プラハの春」で革命を支持したことから共産党から除名、発禁処分、市民権を剥奪、などと思想犯的に弾圧されてフランスに市民権を得て移住した。そういうこともあり、彼は反体制的な活動家や啓蒙家のような扱いを受けることが多く、彼の本は政治的な色合いで読まれる場合が多いように思うけど、ここではそういう視点を一切度外視する方向で述べる。まぁ俺がそのことに詳しくないというだけの話しやけど…

amazon ASIN:408773143X ちょっと前にこの作者の『存在の耐えられない軽さ』で「これのどのへんが恋愛小説か?」という印象を持ったけど、この『不滅』では「これが愛の物語?」という以前に「そもそもこれは小説なのか?」という印象を持った。それでも今まで読んだことのないようなテーマを扱っているという意味で、20世紀的であるということはわかったし、その問題は20世紀的には(21世紀的にも)大きな問題のひとつとしてあるということはよくわかる。(同時に俺があまりこの本で述べられているような20世紀的人間でないことがよくわかったのは別にして)
言い訳するわけじゃないけど、コンパイルの合間に読んでいたこともあり、ちゃんと意味を追えてないと思うけど、それでも乱暴に言ってしまえば、この小説の大きなテーマは「前時代的な不滅への欲望」「20世紀的な孤独」「価値としての感情」「同意できない世界でどう生きればいいのか?」あたりの順列組み合わせ、とまぁこんなところだろう。本当に乱暴に言ってしまえば。
この小説が20世紀的であるということを言ったけど、それはその中で扱われるテーマだけに限った話ではなく、小説としての成り立ちも、俺が今まで主に読んできたストーリーテーリングでドライブして行くような18,19世紀の小説とはまったく異なる趣を持っている。
18,19世紀的な主人公は主役として「ストーリー」という大きな波の中に飛び込まねばならない理由があったし、主人公を取り巻く登場人物も無二の存在として交換不可能なのものだった。
しかしこの小説では別々の時代の話が断片的に登場し、その話の中で同じ(ように思える)テーマを時代的な視点で扱ってゆくようなスタイルは、この小説の中での「ストーリー」が唯一的で本質的なものではなく、述べようとするテーマの具体例の一つを無造作にどこからから選んできたような印象を与える。ぶっちゃけ読んでてて混乱するし、読了後も18,19世紀的に長い小説を読み終わった後のようなカタルシスとか達成感は皆無であり、最後に収束するかに見えた話は空中分解し、突然現れた別の話がそこに接続される。この小説の主人公は「ストーリー」内にいるのではなく、誰かともわからない「語り」が、ジャーナリズムについて、エロティシズムについて、国家について語る「語り」こそがこの小説の主人公であり、登場人物はそれを説明する手段に過ぎないような感覚を覚える。
前時代的な目的だったものは現代的には手段となる。というように、彼の書く小説としての構成も前時代的な手法を20世紀的なものを表現する手段として使われているわけで、前時代をただ否定するだけではなく、ちゃんと消化た上でそれを使っているように見える様はなんとも好感を覚える。
彼の使う論理や考察に構成されるものが前時代的なモノ(音楽や文学や絵画)であるにもかかわらず、表わされているものはほとんど前時代的ではない。
「ソクラテスから哲学は進歩していない」という言葉を「普遍」の意味合いを含ませて言えば、前史の時代から現代になっても普遍的に扱われるテーマも当然あるわけで、彼はそこを現代的な知性でもって見据えているような気がする。この小説と作者が20世紀的な方法を駆使しているからそういう風に20世紀的に見えるだけで、実は根本的な発端として古典的な嗜好とテーマを持った小説である。という風に俺は感じた。
嗜好やテーマが発端として古典的であるとは言いながらも、それでも前作の『存在の耐えられない軽さ』でも見られた、彼の持つ肉体と精神のバランス感覚は、デカルト的な前時代の産物から築き上げた到達点であるように思う。
Linuxカーネルの開発者であるリーナス・トーバルスは「私がはるかかなたを見渡すことができたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩に乗っていたからだ。」というニュートンの言葉を引用して、自分の業績は先人の上に積み上げられたものに過ぎない。というような事を言っているけど、ミラン・クンデラの姿勢もまさにその方向に乗ってっているように思う。
彼の前時代的なものを破壊することなく新しいものを創造してゆくやり方と、現代を見据えようとした着眼点は、やっぱり彼が政治的な活動をしていた事と無縁ではないのだろう。俺は政治的な作家をどちらかといえば好まないけど、彼のそういった姿勢を見るとやっぱりちょっと複雑な気分になる。
この本で俺は如何に自分が前時代的な考えや価値や論理にとらわれているかという事を悟った訳やけど、それでも現代的に考え、現代的に行動する事は必ずしも醜悪ではないのだということの実例を見たような気がする。

考えてみれば古い物好きの俺はジェームス・ジョイスもマルセル・プルーストも読んだことがないわけで、本の帯の「ジョイス、プルーストで幕を開けた二十世紀の文学は、この小説で締めくくられる。」を信じるとすれば、俺は18,19世紀の文学からいきなり20世紀の締めくくりの文学を読んだことになる。
そら面食らって当然かも。機会があればジョイスとプルーストも読んでみるかな。

熱中度     ★★★☆☆
考えさせられ度 ★★★★☆
影響度     ★★★☆☆
総合      ★★★★☆

2006年01月21日

●認証システムは清く正しく美しく

新しいさらに詳細なエントリーを投稿しました。
以下の内容は古いものになります。

以前までメールサーバーの送信時の認証システムをpostfix&DracdでPOP befor smtpで運用していた。
メカニズムとしてはPOPでメールの受信に成功したリモートホストのIPアドレスをsyslogから読んで、データベースに登録し、そのデータベースにあるホストからのメールの送信を許可するというもの。
これはなんというか、いかにも後付け感というか、増設感があって無理やりっぽくてなんかもひとつカッコよくないし美しくない。
ほかの認証システムにはSMTP-AUTHという技術があり、これは送信時にSMTPサーバーで認証するというもので非常にスマートな方法だが、以前から何度も挑戦するもコンパイルに失敗していて諦めていた。
で、とうとうこれに成功したので、(しかもSUNのccで)インストールの方法を書いてみる。
環境はultra5 + solaris10(デベロッパー)+ SunStudio11 で postfix-2.2.8+cyrus-sasl-2.1.21をビルド

必要条件:openssl(solaris10でデフォルトでインストールされているopensslではライブラリが足りないので、ソースからコンパイルのこと)

postfixでのSMTP-AUTHに必要なもの
postfix(もちろん) cyrus-sasl-2

コンパイルの方針

コンパイラはSunのccで
cyrus-sasl2 は/usr/local/sasl2 以下に、postfixは/usr/local/postfix以下に。

前準備
postfixの動作するユーザー postfix グループpostfix postdropを作っておく


まずsaslのインストール


$export CC=/opt/SUNWspro/bin/cc
$export CFLAGS='-I/include -I/usr/sfw/include -I/usr/include -I/opt/sfw/include -I/opt/SUNWspro/include -I/usr/local/include'
$export LDFLAGS='-L/usr/lib -L/lib -L/usr/sfw/lib -L/opt/sfw/lib -L/usr/local/lib'
$export F77=/opt/SUNWspro/bin/f77
$export CXX=/opt/SUNWspro/bin/CC

解凍したソースツリー上で
$ ./configure --with-saslauthd=/var/cyrus --with-pwcheck=/var/cyrus --enable-login --disable-otp --disable-krb4 --disable-gssapi --disable-anon --with-dblib=none --enable-static --disable-digest --disable-srp --prefix=/usr/local/sasl2 --with-openssl=/usr/local/ssl --prefix=/usr/local/sasl2

$dmake

make時に
/opt/SUNWspro/bin/cc -DHAVE_CONFIG_H -DSASLAUTHD_CONF_FILE_DEFAULT=\"/usr/local/sasl2/etc/saslauthd.conf\" -I. -I. -I.. -I. -I. -I. -I./include -I./include -I./../include -I/include -I/usr/sfw/include -I/usr/include -I/opt/sfw/include -I/opt/SUNWspro/include -I/usr/local/include -c `test -f 'auth_getpwent.c' || echo './'`auth_getpwent.c
"/usr/include/crypt.h", line 36: syntax error before or at: (
"/usr/include/crypt.h", line 36: syntax error before or at: const
"/usr/include/crypt.h", line 36: syntax error before or at: )
"/usr/include/crypt.h", line 36: warning: syntax error: empty declaration
cc: acomp failed for auth_getpwent.c
gmake[3]: *** [auth_getpwent.o] Error 2
gmake[3]: Leaving directory `/home/bbr/src/cyrus-sasl-2.1.21/saslauthd'
gmake[2]: *** [all] Error 2
gmake[2]: Leaving directory `/home/bbr/src/cyrus-sasl-2.1.21/saslauthd'
gmake[1]: *** [all-recursive] Error 1
gmake[1]: Leaving directory `/home/bbr/src/cyrus-sasl-2.1.21'
gmake: *** [all] Error 2

というエラーが出たが、/usr/include/crypt.hなどというファイルはないので、ソースツリー以下のsaslauthd/auth_getpwent.cのcrypt.hをインクルードしている行をコメントアウトしたらコンパイルが通った。無理やりっぽいけどちゃんと動くので問題なし。
具体的には #include <crypt.h> を /* #include <crypt.h> */ に書き換える。

# dmake instal
#ln -s /usr/local/sasl2/lib/* /usr/lib/

#vi /usr/local/sasl2/lib/sasl2/smtpd.conf

pwcheck_method: saslauthd
allowanonymouslogin: no
allowplaintext: yes

#mkdir /var/cyrus
#chmod 700 /var/cyrus
# chown postfix /var/cyrus



postfixのインストール


$export CC=/opt/SUNWspro/bin/cc
$export CFLAGS='-I/include -I/usr/sfw/include -I/usr/include -I/opt/sfw/include -I/opt/SUNWspro/include -I/usr/local/include'
$export LDFLAGS='-L/usr/lib -L/lib -L/usr/sfw/lib -L/opt/sfw/lib -L/usr/local/lib'
$export F77=/opt/SUNWspro/bin/f77
$export CXX=/opt/SUNWspro/bin/CC

解凍したソースツリー上で
$ gmake makefiles CCARGS="-DUSE_SASL_AUTH -I/usr/local/include/sasl" AUXLIBS="-L/usr/local/lib -R/usr/local/lib -lsasl2 -lm -lz"
(LD_LIBRARY_PATHを設定していると起こられるのではずしておく)

$ dmake
# gmake install
#vi /etc/postfix/main.cf
smtpd_sasl_auth_enable = yes
smtpd_sasl_local_domain =
smtpd_recipient_restrictions = permit_mynetworks, permit_sasl_authenticated, che
ck_relay_domains, reject
smtpd_sasl_security_options = noanonymous
broken_sasl_auth_clients = yes

を追加。(その他の設定は各自で調べてください)
/usr/loca/postfix/sbin/postfix start

動作確認:
telnet ホスト 25
として、

220 メールサーバー名 ESMTP Postfix
ehlo test ←ここは入力する
250-メールサーバー名
250-PIPELINING
250-SIZE 10240000
250-VRFY
250-ETRN
250-AUTH LOGIN PLAIN CRAM-MD5
250-AUTH=LOGIN PLAIN CRAM-MD5
250 8BITMIME

などと帰ってきたらPLAIN CRAM-MD5でのAUTHを許可しているということなので成功。

no SASL authentication mechanisms などとsyslogにあがる時はsaslのライブラリが読めていない可能性大。

2006年01月20日

●引きこもり賛歌

やっと金曜日。
就業間際になると帰ったら何をしてくれようと考えるだけでわくわくして来る。
明日も明後日も休み。しかも明日も明後日も予定なし。自由だ!超自由!英語で言うとsuper free!!
などというと自虐的に聞こえるのは何故だろうorz

実際、そういうなんは全世界に向かって「週末の予定まったくナシ!気配すらナシ!」と宣言してるわけやけど、楽しいもんはしょうがない。
「人間は自由の刑に処せられている」なんつてーた、ノーベル賞を辞退したフランス人がおったけど、んなこたない。
何もしなくてもいいいうのは俺のような引きこもラーに取っては至福の時間である。丸まる二日「汝為すべし」がなくって「我欲す」だけがあるっつーの、引きこもり冥利に尽きるというか、引きこもりたい放題というか、引きこもり三昧というか、まぁそういうことだ。
世の引きこもり共よ!世の毒男共よ!週末の予定がないことは恥ずべきことじゃない!自信を持って堂々と引きこもれ!と声を大にして言いたい。
コンパイルするか?半田付けするか?本読むか?自転車で山行くか?火鉢道に邁進するか?写経でも始めてみるか?それとも…そう考えるだけで楽しいではないか。
ただ、往々にして「何するかな~~?」と考えているだけで結局一日が終わってしまいショボーンとすることもある。まるで二つの飼葉桶の前で餓死するロバのようだが、案ずる事はない。さまざまな可能性を前にしながら何一つ手を出さなかったその行いは、同時に、貴方にとっての「引きこもり」が貴方の実存ではなく貴方の本質であることを証明した行いとなるのだから。
でも、そういわれるとなんか嫌やなぁ。遠まわしに死ぬほどバカにされてるような気がする。
うん、やっぱり俺はエセ引きこもりでええや。

「働いたら負けかな」これは至言であると思うよ。ほんまに。そう。俺は負けていると思う。

2006年01月19日

●一人ツール・ド・堀川通

先日酒を飲んだら異様に力が入って今までありえんようなことが出来てしまうというということを書いたけど、今日もまた飲み会だったので、今日はひそかに帰りに何が起こるのだろうかと楽しみにしていた。
人の全くおらんちょっとした下り坂をまったり流していると後ろからギリギリチャリチャリいうような音が近づいてくる。振り向くと苦しそうな音を立てながらマウンテンが追いすがってくる。

闇夜にぼんやり浮かぶチェレステブルーのボディなビアンキの選択は悪くないにしても、チェーンのオイルが切れてディレイラーの調整が狂っているブロックタイヤなマウンテンに一分の隙もなくセッテイングされたロードが負けるわけにはいかん。シマノカンパニョロのハイブリッド「シマニョーロ」の底力を見せてやる。ということで戦闘開始。とりあえずギアを一段重くして踏み込み、2,3回ほど回したところですかさずもう一段上げる。「おっしゃースピード乗ってきたでーそろそろアウターに入れるか?」とそっと後ろを伺うと既にビアンキはいない…千切れたというよりはどっかの角で曲がったらしい…
人生そんなにドラマチックじゃない。
いきなり競争相手がいなくなってムカついたので頭の中で自分の走りをツール・ド・フランス風に解説しながら帰ってきた。
「土偶選手、京都のピレネー、A級山岳をシッティングで攻めます!!」

雪が舞うほどのクソ寒い中、家に着いた時には汗までかいていた…

2006年01月18日

●時には母のない子のように

この日は家に帰って来てご飯食べてすぐに寝てしまった。
もう八時とか、九時とかいうレベルでお子様並みの就寝時間。
つーか、ちょっと布団に潜りこんだところ、気づいたら朝やったという感じ。
これだけ寝ると日の朝はスイッチ入るみたいにパチッ!と目が覚めた。
PHSの目覚ましがなった瞬間に止めてやった。なんか勝ったような気がしたけど、何に勝ったのかはよくわからん。

2006年01月17日

●zopeは何が良いのか良くワカラン

気づいたらいつの間にかこんな時間。(現在0:40過ぎ)
ご飯食べてオヤジのノーパソセットアップして、pythonとzopeのコンパイルしてたらいつの間にか時間が過ぎていた。

ZopeのREADMEにはGNUmakeが必要と書いてあって二の足を踏んだけど、ここは当然SUNのdmakeでmakeしてみた。もちろん CC=gccでなく CC=/opt/SUNWspro/bin/cc で。
make時に警告吐きまくって危ぶまれたものの、結局最後まで通った。ちゃんとバイナリできたし、ちゃんと動作しているようだ。
で、その際にプチはまりかけたところを書いてみる。

Solaris10+Sparc+Sun Studio 11でZope-2.9.0をconfigureする際に、
./configure --prefix=/usr/local/zope --with-python=/usr/local/bin/python ってやると

./configure: test: unknown operator /usr/local/zope

というエラーで止まり、Makefile が生成されない。
見た感じライブラリとかヘッダがないとかいうありがちなエラーではなく、引数が引数ではなくコマンドとしてconfigureスクリプト内で解釈されているとか、"と'の扱いの違いとかで分割されて二つになる引数がひとつとして渡されてるとか、なんかしょーもなさそうなエラーの予感。
で、結局原因はconfigureスクリプトの不備にあったようで、configure スクリプトの一行目、インタプリタを指定する部分が、デフォルトでは #!/bin/sh になってるけど、これを#!/bin/bash に書き換えてやるとちゃんと動作した。(一応スクリプト内のsedもgsedに書き換えておいた)
/bin/shがbashのシンボリックリンクになってるLinuxではちゃんと動作するのやろうけど、非GNUツールが満載してあるsolarisではちゃんと動かん。
ちゃんとshネイティブのスクリプト書かんかい。と。
結局苦労してzope入れてみたものの、特に使い方がわからんのですぐ消した。

結局仕事帰って来てもやってることぜんぜん変わらんやん…
見る人が見ると虚しい人生に見えるのやろけど、まぁ本人(俺)は(それなりに)楽しくやってるからええとするか。

2006年01月16日

●CSWgcc対SUN純正cc

特に書くことがないのでSun Studio 11でコンパイルしたバイナリと、gccでコンパイルしたバイナリの実行速度の比較結果を書いてみる。
apacheとmysqlとPHPで作ったWEBサーバーなんかは明らかにSun Studio 11バイナリのほうが動作が速い気がするけど、実際に数値で表す為にベンチマークを取ってみた。
作ったバイナリはmysql。ソースツリーの、sql-bench/内にあるスクリプトを使用。
Sun Studio 11のマシンはUltraSPARC-Ⅱi 330MHz mem 256mb、gccのマシンはUltraSPARC-Ⅱi 270MHz mem 512mb
と、比較になるのならんのかわからん構成やけど…今度は同じ環境でやってみる予定。
結果からいうとメモリが半分の256mbしかない「Sun Studio 11」バイナリのほうが35%ほど高速ということになった。
CPUの差はそれほどないけど、メモリの二倍差は大きいやろう…それを覆してこの結果。これは…思ったより早い気がする。
家のサーバー作り直したくなってきた…

詳細結果

Ultra5
UltraSPARC-Ⅱi 330MHz
mem 256mb
Sun Studio 11でコンパイル


Testing server 'MySQL 4.1.16' at 2006-01-15 22:22:22

Testing of some unusual tables
All tests are done 1000 times with 1000 fields

Testing table with 1000 fields
Testing select * from table with 1 record
Time to select_many_fields(1000): 50 wallclock secs (22.35 usr 16.72 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 39.07 CPU)

Testing select all_fields from table with 1 record
Time to select_many_fields(1000): 63 wallclock secs (22.55 usr 16.56 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 39.11 CPU)

Testing insert VALUES()
Time to insert_many_fields(1000): 8 wallclock secs ( 0.88 usr 0.13 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 1.01 CPU)

Testing insert (all_fields) VALUES()
Time to insert_many_fields(1000): 22 wallclock secs ( 0.14 usr 0.14 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 0.28 CPU)

Total time: 143 wallclock secs (45.94 usr 33.56 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 79.50 CPU)

Ultra5
UltraSPARC-Ⅱi 270MHz
mem 512mb
SMCgcc のgccでコンパイル


esting server 'MySQL 4.1.11' at 2006-01-15 22:25:43

Testing of some unusual tables
All tests are done 1000 times with 1000 fields

Testing table with 1000 fields
Testing select * from table with 1 record
Time to select_many_fields(1000): 79 wallclock secs (29.90 usr 29.08 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 58.98 CPU)

Testing select all_fields from table with 1 record
Time to select_many_fields(1000): 95 wallclock secs (30.01 usr 28.80 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 58.81 CPU)

Testing insert VALUES()
Time to insert_many_fields(1000): 15 wallclock secs ( 1.90 usr 0.29 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 2.19 CPU)

Testing insert (all_fields) VALUES()
Time to insert_many_fields(1000): 32 wallclock secs ( 0.43 usr 0.33 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 0.76 CPU)

Total time: 221 wallclock secs (62.26 usr 58.51 sys + 0.00 cusr 0.00 csys = 120.77 CPU)

2006年01月15日

●『悪妻に聞け』池田晶子

先週に読んだ本やけど、読んだ本はすべてここに載せる事にしたので書く。
前に読んだ同じシリーズで『さよなら ソクラテス』の前編にあたる、池田晶子の『悪妻に聞け』。1996年に発刊とだいぶ古い。
これも『新潮45』に載っていたコラムをまとめたもので「哲学者池田晶子」が世相を切っている話
前に読んだ『さよなら ソクラテス』との比較した文脈で書いてみる。

amazon ASIN:4104001023
あまりに古い話なので、細かい内容については割愛するけど、結論から言って『さよなら ソクラテス』よりは面白くなかった。
本人の真面目なところと言うか真摯さがあまり表に出てなかったところもあるし、論理先行で実がない感じ。。
それでもきわどい事は言っているが、自分は安全地帯からいろいろなことについて述べているような印象を受けた。

全般的にこの人の言う精神至上主義的な所は俺にはちょっと受け入れにくいんやけど、それでも「哲学者」と自分を指して言うだけあって必死でやってるのはわかるし、そこら辺は好感を持っている。
『さよなら ソクラテス』ではこの人がどれだけまじめに「哲学」を自分の問題として捉えているかというところが前面に出ていて面白かったけど、この本ではそこが鳴りを潜めて、精神至上主義の部分が前面に出てきてちょっと辟易した。

熱中度     ★★☆☆☆
考えさせられ度 ★★☆☆☆
影響度     ★★☆☆☆
総合      ★★☆☆☆

2006年01月14日

●身も心も太陽に

最近SUNの純正コンパイラ「Sun Studio 11」がライセンスフリーになって誰でも使えるようになったというニュースがあった。Linuxの台頭に押されてSUNはsolarisをライセンスフリーにするだけでなくオープンソースにし、次は開発環境も事実上無制限にしたということらしい。
昔のSun WorkShopの時代に80万くらいした統合開発環境がなんとSun Studio 11になってタダ!いい時代になったもんだ…犬よそしてリーナスよありがとう。
昨日solaris10のCompanionCDに入っているgccとgmakeでコンパイルしたら一度のエラーもなく気持ち良かったという話をしたけど、今度はSUNのgccでなく、正真正銘のSUN純正コンパイラを使ってみようという気になった。

早速あまってたurtra5にsolaris10突っ込んで、Sun Studio 11インストール、Sun Studio 11のデフォルトのインストールディレクトリは/opt/SUNWspro/
CCは/opt/SUNWspro/bin/にccが、makeはdmakeてのがある。コンパイルにこいつを使えばよいのだろう。
c++filt f77 f90 f99CってコマンドがあるということはC++もFortran77もFortran99も入ってるってことやな。なんか知らんけどすげー

ということで早速apache2でもコンパイルしてみる。
コンパイルオプションは --enable-mods-shared=most --enable-ssl=shared --prefix=/usr/local/apache2 --enable-so --with-ssl=/usr/sfw
/opt/SUNWspro/bin/ccと/opt/SUNWspro/bin/dmakeを使った。
うむ、とりあえず上手くいった。ちゃんと動いてる。あまりに簡単に成功したので本当にSUN純正コンパイラでコンパイルできているのか?という一抹の不安は残るが…
sparc上のsolarisでSUN純正コンパイラで作ったバイナリは最強の速度やと言う噂やけど、apacheということもあるけど特によくわからん。まぁこの辺は自己満足の世界。次はmysqlでもコンパイルしてベンチでも取ってみるか。

sparcにsolarisにSUN純正コンパイラ…これで身も心もSun Microsystemsに売ったということになる…まぁ、SUNには一銭も払ってはいないけど…


参考までに
ldd /usr/local/apache2/bin/httpd
の結果は


libm.so.2 => /lib/libm.so.2
libaprutil-1.so.0 => /usr/local/apache2/lib/libaprutil-1.so.0
libexpat.so.0 => /usr/local/apache2/lib/libexpat.so.0
libapr-1.so.0 => /usr/local/apache2/lib/libapr-1.so.0
libuuid.so.1 => /lib/libuuid.so.1
libsendfile.so.1 => /lib/libsendfile.so.1
librt.so.1 => /lib/librt.so.1
libsocket.so.1 => /lib/libsocket.so.1
libnsl.so.1 => /lib/libnsl.so.1
libpthread.so.1 => /lib/libpthread.so.1
libc.so.1 => /lib/libc.so.1
libaio.so.1 => /lib/libaio.so.1
libmd5.so.1 => /lib/libmd5.so.1
libmp.so.2 => /lib/libmp.so.2
libscf.so.1 => /lib/libscf.so.1
libdoor.so.1 => /lib/libdoor.so.1
libuutil.so.1 => /lib/libuutil.so.1
/platform/SUNW,Ultra-5_10/lib/libc_psr.so.1
/platform/SUNW,Ultra-5_10/lib/libmd5_psr.so.1

という感じ。/lib以下のライブラリにしかリンクしていないのは非常に気持ちいい。でもopensslのライブラリにリンクしてないというのはヘッダだけ読んで、バイナリに内蔵したということやろね?たぶん?


まとめ
Sun Studio 11でのapacheのコンパイルの仕方。


#Sun Studio 11をインストール
CD1/installer

#ソースの解凍
gtar zxvf httpd-2.2.0.tar.gz && cd httpd-2.2.0

#コンパイル用環境変数設定(zshがシェルの場合。bashでも)
export PATH=opt/SUNWspro/bin:/opt/SUNWspro/prod/bin:\
 /opt/sfw/bin:/usr/sfw/bin:/usr/bin:/usr/sbin:/usr/ccs/bin:/usr/ucb
export CC=/opt/SUNWspro/bin/cc
export LD_LIBRARY_PATH=:/opt/SUNWspro/lib:/opt/SUNWspro/prod/lib:\
 /usr/lib:/usr/ccs/lib:/opt/sfw/lib:/usr/sfw/lib:/usr/lib:
export LDFLAGS='-L/opt/SUNWspro/lib -L/usr/lib -L/usr/ccs/lib -L/opt/sfw/lib -L/usr/sfw/lib -L/opt/SUNWspro/prod/lib'
export CFLAGS='-I/opt/SUNWspro/include -I/usr/include -L/opt/sfw/include -L/usr/sfw/include -I/opt/SUNWspro/prod/include'


#Makefile作る (好き好きでオプション変えれ)
./configure --enable-mods-shared=most --enable-ssl=shared --prefix=/usr/local/apache2 --enable-so --with-ssl=/usr/sfw

#makeとインストール
dmake
su
dmake install

2006年01月13日

●コンパイルはお通じが大事

仕事でsparcマシンにsolaris10入れてwebサーバー作ってるのだが、デフォルトで入っているapacheはDSOをサポートしておらず、phpは2バイト文字などないものとして扱われ、mysqlに至ってはlocalhost以外のネットワークに対応してない。
こんな腐れdaemon使いもんになるかーということで、ざくざくパッケージ消して枯山水の趣すらある侘びさびの効いたコンパイルオプションと、幽玄であるとしか言いようのない美しいツリー構造にソースからmakeしなおすことになるのは犬使いや悪魔使いには決して味わえない太陽使いだけの醍醐味な訳だ。(根本的な欠点だという噂もある…)

コンパイラは例のごとくSUN純正のccは使えないので、soalris9までやったらsunsiteとかから落として来たgccでコンパイルする事になるんやけど、solaris10コンパニオンのgccは使える!という風の噂も聞いたこともあり、たまにはSUN純正?のCompanionCDに入ってるgcc使ってやろう。ということで初めてCompanionCDから厳選に厳選を重ねたパッケージをインストールしてサードーパーティーのパッケージなしの環境を構築してみることにした。
もちろんgccだけじゃなくってgmakeとかautoconfとかも入れたけど、/opt/sfw/ とか /usr/sfw/とか訳わからんとこにバイナリを蒔かれるのはこの際目を瞑ろう。
で、今までのgccやったらちゃんと動くバイナリできるまでLD_LIBRARY_PATHとかLD_RUN_PATHとかCFLAGSとかと延々と格闘して、しまいにはブチ切れて ln -s /usr/local/lib/* /usr/lib/ & ln -s /usr/local/include/* /usr/include/ とかやってしまう羽目になるはずやねんけど、CompanionCDのgcc使ったら一回目のmakeが全て通った。apache proftpdはまだしも、mysql php postfixまで一回で通るとは気持ちよすぎる。ヘッダとかライブラリとかのリンクがちゃんと設定されてるだけなんやろうけど、それにしても凄すぎる。なんとお通じの良いコンパイラや!サンマイクロマンセー!!

というわけで、これからsolaris10でサーバー作る人は(すでに作った人も)ぜひともCompanionCD(のgcc)をインストールしよう。

2006年01月12日

●弦の音は脳に染みる。何?SUSKE?

昨日が延々と誰かに何かを説明し続けたのに引き換え、今日は一人で殆ど誰とも喋らず黙々と作業。なんと言うか落差が激しい。
サーバ作りながらその合間にバッチ書いたり、なんやかんや解析したり。複数の作業を同時進行でオラオラオラと、詳しく書くとアレなのでこれくらいしか書けませんが…
いくら古いPCだといえコンピューター相手だと反応が早いので思考を停止させている暇がない。一日中何かに追いまくられている感じ。コンピューターはうまくいっても喜んでくれへんし、暖かい言葉の一つもかけてくれへん。「パソコンに使われる」とかよく言うけど、まさにこのことやろう。
まぁ、こういうのが「楽しい」とある程度は思えなければこの仕事は務まらんのやろうけどね。
デスマーチとは程遠いけど、それでもさすがに疲れた。しかも変な疲れ方。ということが言いたかった。
で、ここからが本題。

そういう感じに疲れて家に帰ってご飯食べてからベートーヴェンの弦楽四重奏の14~16番を聴いた。演奏してるのはSUSKE-Quartetって誰も話題にせんような弦楽四重奏団。十字屋のワゴンに捨てられてた、異様に安いという理由で買ったCD。三枚組みで1500円くらいやったはず。演奏者に疑問は持ったけど、そもそも俺はカルテットていうてもMJQくらいしか知らんしまぁええかということで。第一安いし。
ドイツの輸入版で解説はおろか曲名まですべてドイツ語、しかも「弦楽四重奏の何番」とは書いてなくて、作品番号と何の短調か長調か、としか書いてない。作品番号と照らし合わせてみると、一枚目に11番と13番、二枚目に12、14番、三枚目に15,16番が入ってる。って順番に入れろや!多分いろいろな演奏家を聞いてみたいという欲求のみ満足させるための、ベートーヴェンオタのドイツ人をターゲットにしたCDやと予想される。そんなもん日本では売れんやろうし、当然のことながら俺にはあまりに敷居が高すぎる…
で、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏は「シンフォニーとピアノソナタと並んで彼の深淵と思想を反映する最もシリアスで重要な音楽」というようなことがよく言われてるけど、実際このCD聴いて「ふーん、そんな言うほどええもんかいねー」てな感想やった。
いつもやったら大体本読みながらかパソコンしながら音楽聴く事が多いけど、今日は変な疲れ方してたもんやから、スピーカーと俺で二等辺三角形を作るようなちゃんとしたリスニングポジションに座布団ひいてそこで聴いてみた。
俺が変な疲れ方してたせいもだいぶあると思うけど、改めてちゃんと聴いてみるとやっぱり凄い音楽やというのがよくわかった。
この辺は作曲家の個人性やろうけどアンダンテになってもぜんぜん甘くない。これは気に入った。さすが癇癪持ちドイツ人の作る音楽。こういう言い方が適当なのかわからんけど絢爛豪華さとは程遠い切実さがある感じ。なんつーか大げさに言うとこれはもう「純粋経験」やね。
今までピアノソナタばっかり、シンフォニー時々って感じで聴いてたけど、たとえば何小節にもわたって同じ音を同じ音量で鳴らし続けるってのはピアノには無理なわけで、当然ながらピアノには絶対できない表現てのが弦楽器にはある。まぁもちろん逆もあるけど。
今日初めてシンフォニーとピアノソナタと弦楽四重奏がベートーヴェンの三本柱といわれる理由がなんとなくわかった。正確には弦楽四重奏の良さが、やね。
シンフォニー的、ピアノソナタ的、弦楽四重奏的と、他には絶対できず、それしかできない表現てのが確かにある。今日はその弦楽四重奏的ってのにちょっと開眼した。
ネットで調べてみたところ俺の聞いた「SUSKE-Quartet」ってのは叩き売りされるくらいやから少なくとも日本ではかなりマイナーなようだ。そいつらがどのへんのポジションにあるのかすらわからんかった。
ベートーヴェンの弦楽四重奏については「ベルリン弦楽四重奏団」か「ラサール弦楽四重奏団」が上手いらしい。「SUSKE-Quartet」でこれだけやねんから、ベルリン~とかラサール~とかの演奏はさぞかし凄いのだと予想される。すぐにほしい情報が入るとはいい世の中だ。まぁとりあえず次はそれを聴いてみよう。
他にこいつらの演奏がええよとか「SUSKE-Quartet」ってこういうやつらですって情報をお持ちの方、よろしければご教示ください。m(__)m

ってここまで書いて「何?サスケ?」ってフレーズが頭に浮かんだ。
知ってる人いるんやろうか…

2006年01月11日

●北斗神拳破れたり

今日職場の新年会のようなものがあった。某先生の話がツボにはまって大笑いし続けてた事に加え、ほとんど酒の飲めない俺なのでカシスソーダ一杯だけでご機嫌さんになったこともあり、帰りは機嫌よく鼻歌交じりに自転車で車道を走っていた。
しばらくすると原付に乗ったレディーが大声で歌を歌いながら俺を追い抜かしていったんやけど、何の歌かはわからんけどとりあえずヘタクソな事だけ分かったので、思考停止していたこともあり、とりあえず無意味に追いかけてみることにした。

前傾になって空気抵抗を減らし、絶妙のタイミングで変速しながら、渾身の力を込めて自転車を漕ぐ漕ぐ。イメージはツール・ド・フランス第一ステージのタイムトライアル。でも足だけはパタリロ並みにくるくる回ってたはず。
で、あろうことか、広い通りの直線でぐんぐん原付に追いつき、そのうちに追い越してしまった。自転車に追い抜かされた瞬間のそのレディーの顔が「ええっっ!?!?」という感じでなかなかおもろかった。多分45キロくらいは出てたと思う。
以前飲み会帰りに自転車を力任せに漕いだらハンドルと車体を繋いでるの棒のところ(ステムという)が綺麗に折れ、トイレ我慢しながら家についてトイレのドアを勢いよく開けたらドアノブがすぽっと抜けたという、ドリフのコントのようなことがあったのだが、酒が入るとたぶん普段使わない力が無駄に出てくるんやろうね。
北斗神拳の奥義は通常使用している30%の力とは別に潜在している残りの70%を使うところにあるらしいけど、自転車のハンドル(正確にはステム)をへし折り、ドアノブを引っこ抜き、自転車で原付を追い抜かす俺は、秘孔さえ覚えれば北斗神拳伝承者やん。酔拳と北斗神拳のハイブリッド。
で、この世の終わりの如くに必死で自転車漕いだので、家に帰った瞬間どっと疲れた…
70%の余剰の力を使うと70%分余計に疲れる。これが北斗神拳の弱点に違いない。

2006年01月10日

●休みボケのイデア

今日から仕事。
朝起きた時にそのこと思い出して、何かの間違いだと首を振って二度寝しようとしたけど、何とか思いとどまった。「二度寝は死刑。二度寝は死刑…」と某○○ジナ氏の名台詞を呟きながら起床。
もうこれだけ休んでると自分が何してる人か思い出すのに大分時間がかかる。職場のPCに家のシステムのアカウントでログオンしようとしたり、職場の給湯室で「どれが俺のコップやっけな…うむぅ…」と悩んでみたりするのはまだしも、「明けましておめでとうございます。」と声かけられて「ごちそうさま」と答えそうになった時にはもうどうしようかと思った。まったくもって意味がわからん…
なんか休みボケで一日ふわふわしてたような気がする。結局今日何してたのかいまいち思い出せない。32桁が…とか呆けたように口走っていたのだけは覚えている。

2006年01月09日

●ブックオフVS三月書房

昨日楽天で買った古本屋さんが思ったより近かったので、直接取りに行って来た。
七冊で1300円と非常に安い。エーリッヒ・フロムからガルシア・マルケスから大江健三郎と脈絡がないのはいつもの事にしろ、ここまで安いとあほらしくて新刊なんか買ってられへんなぁ。まぁ俺が貧乏性なだけかも知れんけど。

古本屋というと、古本屋それぞれに得意分野があって、本一つ一つに難しそうな顔した店主のオヤジが渋く値付けしてるイメージがあって、とんでもない値段のついた仏教書とか美術書とかを見るたびに、なんかわからん世界のわからん原理の存在を感じたし、ある意味値付けも職人芸やった。でもブックオフは明らかに本を新しいか古いか、綺麗か汚いかでしか値付けしてないように見える。それはバイト君でも誰でもマニュアルさえあればできる事やしね。システマティックに値付けされるということは、結果として大量の本が早く店頭に並ぶことになるし、商品の回転も速くなる。ブックオフ商法の成功はそのわかりやすいシンプルさにあるのやろう。
どっちかと言うと古臭い本が好きな俺にとっては欲しい本が安く買えるようになったのはありがたい事やけど、昔のような古本屋がなくなってきた寂しさはあれ、それ以上にそんなブックオフ的なやりかたは爽快感のようなものすら感じる。古くて汚い本は100円で、新しくて綺麗な本は原則として定価のの半額と非常にわかりやすい。
ブックオフは昔の古本屋のような値付けをせずに、「本」を紙としての商品であるとだけとらえ、「本」自体の価値を判断することを放棄することで新しいシステムを作ったわけやけど、考えてみればそもそも「本」の価値なんか人それぞれ。カントの初版本と松本人志のサイン本のどちらが欲しいかは人によるもんね。
ブックオフは紙としての価値で「本」を値付けするけど、それは「本」の中身の価値を表してるわけじゃない。それを判断するのは(つまりはどれを買うかは)購買者ということになる。
多様な価値を許容しうるという意味でそれはいいことやと思うけど、こうなってくると自分の価値というもんが大事になってくるし、自分の価値がない奴はブックオフで本すら選べないということになる。
なんでも均一化するということはなんか門戸を広げるような感じがするけど、実は物事を選びにくくすることでもあるのかもしれない。
ブックオフで本買うのがなんか頭の悪い行動のように言う人がいるけど、んなことはない。三月書房で当りを引くよりもブックオフで凄い一冊を見つけるほうが尊敬できるではないか。って、明日から仕事やな…

2006年01月08日

●UNIX的といふこと

だいぶ前に音楽再生用PCってのを作った。こいつはキーボードもマウスもモニタもつながってないのでリモートからVNCで操作していたんやけど、わざわざVNC使うのもなんかいけてないやん。とふと思った。cygwinでXサーバー立ち上げて、そこに再生PCの再生ソフトをXクライアントとして起動したらスマートやん。 ではやってみようということでやってみた。

手元のPC WindowsXP
再生用PC SuseLinux9.3

1 まず手元PCでcygwinでXを起動
startxwin.sh

2 Xサーバーとxtermが起動するのでXクライアントの接続を許可するホストを設定
xhost playerpc

3 プレイヤーを起動するためにXtermから再生PCに接続
ssh playerpc

4 ログインしたらXクライアントの出力先を指定
export DISPLAY=手元PC:0.0

5 再生ソフトを起動
xmms

これで手元のPCにxmmsが起動する。んーなかなか便利。手元に巨大なVNCの画面じゃなくて、xmmsだけが起動しているてのが良い。
これらの手順をスクリプトにでもしとけば簡単かと。

しかし、こういう使い方すると音楽再生用PCってのはこの手元PCからすれば「音楽再生用モジュール」のように見えなくはない。
「X window system」てのはソフトの演算やらはクライアントで、GUIの画面表示だけをサーバー側に送るサーバークライアントなシステムやけど、何でもサーバークライアントで処理してしまおうとするUNIX的な手法は、すべてを自分の延長としてつなぎ合わせる考え方でもあるのだと再認識。ユーザー主導なUNIX文化をちょっと感じた。ようは「便利になりそうやったら何でもええやん。」ということやね。

2006年01月07日

●『アフターダーク』村上春樹

俺が勝手にやっていた「中期以降の村上春樹を読み直そう企画」もこの本『アフターダーク』で終了。この本は2004年発刊。これも初版を買ってる。一回読んで「駄目だこりゃ!」という感想を持った。
話としては午後11時56分から午前6時52分までの限られた時間の複数の人間の話が映像的に綴られて行くような感じ。
この本に関してはやたらとボロクソにいうやつが目に付くけど、全体に共通していることは村上春樹が新しく変わろうとしているという事。
褒める人は変わり方が良いと言い、けなす人はその変わり方が気に食わないようだ。

amazon ASIN:4062125366 確かに村上春樹がこの本で明らかに文体を変えている事は俺もわかった。「僕」が一人称として「僕」を語るのではなく、「僕」が「誰か」について語る三人称の視点でもなく、「カメラ」や「介入できない傍観者」として「浅井エリ」の部屋や心象風景を、「デニーズ」や「アルファヴィル」での出来事を描写している。この描写で村上春樹の意図するところはもちろん「映像的」ということもあるやろうけど、どちらかというと「映像的」になるのは結果としてそうなったというような気がする。一人称で表現すれば「僕」の感性のフィルタを通った世界が表現されてしまうことになるし、三人称で表現するとしても語り手の感性なり捉え方のフィルタがかかってしまう。一人称や三人称の視点ではどうしても読者は誰かの目を通した世界を見ることになる。村上春樹は誰かの目を通してではなく、読者自身の目で見ているような感覚を抱かせるために、純粋な何の感情も考えも持たない傍観者の視点として「架空のカメラ」から見た描写という形をとり、表現者の感情や捕え方が表に出てこない効果を狙って体言止めが多用されているように感じた。
村上春樹は作者や登場人物の視点ではなく、読者の視点で物語を見て欲しいという所を意図してこういう文体にしたのではないだろうか?その結果として「映像的」になったのではないかと。

この小説では誰も死なず、誰もセックスをしない。誰かが述べていたように物語の終わりは確かに美しいし、良い人は救われ、悪い人は罰せられる予感に満ちている。つまりは物語り全体が希望に満ちている。これは村上春樹自身がデビュー当初に目指していた小説の形ではあるけど、ヤマもないしオチもないし物語としては限りなく凡庸でつまらん。
その凡庸でつまらん物語を読者の視点で見せることにどういう意味があるのかは実際俺にはさっぱりわからん。「おいお前らこいつらとコミットしろよ」とでも言っているんやろうか?

この本の文体とか表現とか描写が実験的であることはわかった。とにかく村上春樹は何かの実験をしてるんやろう。言うならば読者は実験台にされているのだ。それでも読ませどころを何個か用意しているところが村上春樹の実力であるのは間違いない。
この本での実験が村上春樹にとって成功なのか失敗なのかはわからんけど、村上春樹が次、あるいは次の次でどんな作品を書くのか期待したい。そういう期待を抱かせる本ではある。この本を読んで「もう村上春樹読むの止めた」という気はなくなった。次の作品でごろっと変わってしまって戸惑わないために緩衝材の役割をこの本が果たすことになるのではないかと思っている。

2006年01月06日

●『海辺のカフカ』村上春樹

2002年発刊。前の長編小説『スプートニクの恋人』から3年ほど後に発売された。初版本買ってるけどたぶんこれも一回しか読んでない。限りなく大雑把な言い方をすれば15歳の少年が家出をし、最後には家に帰ろうとする話。発刊当初はその前の年に映画の『千と千尋の神隠し』とか『ハリー・ポッターと賢者の石』が公開された事もあってか「少年が成長する話だ」とか、下火になりかけてはいたが「15歳の少年少女問題のひとつの見解」だ。とかいう扱われ方をしていた記憶がある。
一般的には賛否両論真っ二つに分かれてるようで、(まぁどんな本でもそうか…)「文学史に残る傑作だ!」って言う人が『ねじまき鳥クロニクル』より多く、この本について書いている人も非常に多い。という印象。けなす人に特徴的な傾向としては「大島さん」の衒学的な知識を振り回すかのような口調を批判しているパターンが多くいように見えた。確かに「大島さん」の喋りが心地良く聞こえるかそうでないかでこの本の印象は大きく変わるやろうなとは思うけど、単語の意味が分からなければ調べればいいし、そういう話し方に違和感を感じるのはどちらかと言うと聞き手の方の問題もあるのではないか?わからんかったらわからんままでええやん。第一本人は真面目で必死に見えるし。と個人的には思う。

amazon ASIN:4103534133 amazon ASIN:4103534141 この本が発売される段階で村上春樹は発売元の新潮社と相談して「宣伝をしていくときに、本のあらすじや内容がわかる方法はやめたい」と言ってチラシには「猫の話らしい。」「15歳の話らしい。」「四国の話らしい。」「図書館の話らしい。」「中野区の話らしい。」と言った大雑把過ぎる事しか書かないという販売戦略を取った。なんつー傲慢な…ハリウッド映画でもそこまでやらんぞ…と今思えばそんな感じがするけど、出す前から村上春樹ブランドで爆発的に売れるのはわかってたし、固定読者はこれ以上ないくらいにがっちり掴んでるし、実際に売れたし、まぁ、それでも売れる人やししょうがない。良い悪い以前に事実やしね。ようは村上春樹は読者にこの本を先入観なしに読んで貰いたがっていた。ということが言いたかった。
さらに「読者から感想や質問を送ってもらってそれに答えるホームページを作りたい。マスコミの人もよければそこに入ってこれるようなそんなイメージで」ということも村上春樹は希望したらしい。(そしてそのやり取りはその後『少年カフカ』と言う形で発売されるがこちらは未読。ぜひとも読もうと思う。)これに関してはドラゴンが同じようなことをやっていたけど、そういう一つの問題に対して語り合う社会派の方向とはまたちょっと違って、『海辺のカフカ』を媒体とした著者と読者のあくまでも個人としてのやり取りになる。
この二つの方法は宣伝効果という意味でも、後に『少年カフカ』が発売されると言う形でも商業的にも成功したし、村上春樹にとっても得るものがあったのだろう。
それでも、こういう販売戦略とかアフターサポート?をすることができる作家はあんまりいないやろうと思う。前提として出版社に対して商売として儲かると思わせるだけの必要があるし、出版社に言うこと聞かせるだけの文壇というか社会的な地位も必要やろうし、またそれを裏付ける圧倒的な人気も必要やろう。まぁ、それを可能にしたのは言うまでもまでもなく村上春樹の実力と努力の結果なんやろうけど。
「いったん書き上げれば本は著者の手を離れて一人歩きする」と言う意味のことを村上春樹はよく言うけど、こういう販売戦略とアフターサポート?からもこの本を書いた村上春樹本人も、一人歩きするはずの自分が書いた筈の本を図りかねて、読者の先入観なしの率直な意見を聞いてみたいと言うところがあったんやと思う。またそれが村上春樹にとってコミットメントのやりかたの一つなんやろうけど。
上のようなことから村上春樹のこの本に対するスタンスだけでなく、意気込みとか、気合の入りようもが伝わってくるような気がする。村上春樹も書き上げた自分の本を読んでみて「これは…」と思うところがあったんやろうね。まぁ一読者である俺も実際そう思ったわけやけど。
で、この本を途中まで読んでて、俺は何らかの結論とか何らかの見解を読み取ろうとする意図を完全に放棄した。書いた本人が目指してないところをわざわざ目指すこともないし、第一この本の言葉を借りればあまりにも「メタフィジック」やった。それでも、村上春樹が明らかに前までの作品と変わったのは分かったし、この本は彼にとっての偉大な到達点の一つや。ということも分かった。その辺のところについて書いてみる。

まず驚いたというか目を引いたのがこの本の中には夏目漱石とか井伏鱒二とか源氏物語とか雨月物語の古い古典と呼ばれる日本文学についての言及や引用が多数見られること。今まで村上春樹はそういう種類の文学とは違う枠組みで小説を書き文章を書こうとしてきたはず。いったん逃げ出したり捨てようとした筈の物を積極的に取り入れてそれを消化しようとする姿勢は、それらの枠組みから外れようとしていた村上春樹が、そのつながりにある人間として自分を、少なくともこの本を意識し始めたように感じられた。それは多分今まで自分の中で抱えてきた問題なり苦しみが「個別的」であるにしろ十分「日本的」であり、古来からのテーマにつながるものであるという捉えるようになったためではないだろうか。
次に今までに村上春樹が絶対に描くことはなかったようなタイプのキャラクターが準主役級の扱いで登場すること。具体的にいえば猫と話のできる知的障害者とされる「ナカタさん」とドラゴンズファンのトラック運転手「星野さん」がそうなる。これはよく言われることなので、あまり他の人が言っていない部分に限って述べると、「ナカタさん」は一見猫と話ができるという部分で村上春樹的なキャラクターに見えるけど決してそうではない。実際にすぐに猫と話ができなくなるし、彼は抽象的な概念を決して理解しない。これは言い換えると今までの比喩とウィットと抽象概念を駆使した村上春樹的な文法や語り口がまったく通用しないキャラクターとなるし、彼の目を通して世界を見、彼の口を通して世界を語る事は、村上春樹にとって今までのスタイルの枠を出た所での試みであったように思う。そして一介のトラック運転手「星野さん」が最終的に物語の収束に大きな役目を担っていた。という事。そして彼が「ナカタさん」の力を借りず、自分だけで「大公トリオ」の良さを理解し、そしてベートーヴェンに同情してゆく様が描かれるけど、それは村上春樹自身が「星野さん」にその「大公トリオ」の良さを説明しているかのような印象を与えた。今まで村上春樹が自分の世界のにある良いと思われる事(たとえば百万ドルトリオの「大公トリオ」)を外の世界の人(たとえば星野さん)に対して理解してもらおうと熱心に説明するような姿勢は無かったし、自分の世界(田村カフカと佐伯さん)の収束にほかの世界の人(星野さん)の手を借りることはなかったのではないかと思う。そのあたりも村上春樹自身の大きな変化ではないかと思った。
先にこの本は日本文学に連なるものと意識されていると述べたけど「田村カフカ」についての一番の直接的な大きなテーマはギリシャ悲劇、もっと細かく言えば『オイディプス王』と共通することは説明するまでも無く明らかやと思う。「オイディプスコンプレックス」を通して人間の自立を描くとかのありがちな解釈は度外視して、「田村カフカ」が明らかに自分が殺したのではないのに、自分が殺したのではないかと苦悩する様は『カラマーゾフの兄弟』の次男である「イワン」と驚くほど似ているように俺には思えた。古代ギリシャに書かれた古典中の古典とテーマを同じくし、ロシア文学の古典中の古典と同じように主人公が苦悩をするということは、「日本的」である枠を超え、人間としての普遍的なテーマとなるものを扱ったことになる。それがちゃんと扱いきれているかどうかはまた別の問題やけど、村上春樹はとんでもない大風呂敷を広げてみせたなという印象を持った。
結局最後に「田村カフカ」が「森の奥」で」「二人連れの兵隊」に会うことで物語が何らかの収束を見せるわけやけど、「大島さん」ではなくその兄のサーファーである「サダさん」が兵隊に会った事があるという事は村上春樹的な一つの教訓を示しているのだと思う。それでもその「サダさん」と「田中カフカ」の「ことばで説明しても正しく伝わらないものは、まったく説明しないのがいちばんいい」と言う言葉は村上春樹の小説を書く大きな意味での理由であり、小説を書く際の基本的なスタンスであると読み取った。まぁ、逃げと言えば逃げと言えない事も無いとは思うけど。

最後に俺の個人的で感情的な部分で気にいらん所と気にいった所を一つずつ述べると、「大公トリオ」について百万ドルトリオのハイフェッツ、フォイヤマン、ルービンシュタインの三人の演奏が最高とされているけど、個人的にはルービンシュタイン自体は決してベートーヴェン弾きではないと思う。彼はどっちかというとショパン弾きやし、ショパンとベートーヴェンの間にはかなりの隔たりがあると思う。そもそもベートーヴェンは「華麗」に弾いてはいけないのだ。もっと泥臭くイモっぽく汗臭く弾くべきだ。と個人的には思うしここだけは譲れない。俺の中で大公トリオを弾くに最も相応しい三人はピアノがアルトゥール・シュナーベル、ヴァイオリンがイツァーク・パールマン、そしてチェロがスコット・ラファロもしくは、いかりや長助のどちらかだ。(ゴジラ対ウルトラマン的なノリで)

最後にいちばん気に入ったところ。「大島さん」がアリストテレスを引用して言った言葉「人はその欠点によってではなく、その美質によって大きな悲劇の中にひきずりこまれいく。」この文章にやられました。

2006年01月05日

●『スプートニクの恋人』村上春樹

また本の話になるけど、本しか読んでないからしょうがない。
日記的には「今日も一日引きこもって本を読みながら、餅とミカンばかり食べていた。外は雪が降っており寒い一日だった。」となる。

村上春樹『スプートニクの恋人』を読了。登場人物はもとよりストーリーの大筋すら覚えていなかった。これで「読んだ事がある」と言うのは語弊があるかもやけど、過去に一度は読んでいるはず。読み返した記憶がないところを見ると当時は面白くなかったんやと思う。
この本の出版は1999年で、俺は初版を買ってる。長編小説では前作である『ねじまき鳥クロニクル』から四年後の出版で、その間には『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』『アンダーグラウンド』『約束された場所で』などの重要な(と俺が思う)対談、ノンフィクションが出版されている。

amazon ASIN:4062096579
で、肝心の村上春樹がどこへ向かおうとしていたのか。どういうテーマを扱おうとしているのかという話になる。
『ねじまき鳥クロニクル』と『スプートニクの恋人』の長編の間に出版された村上春樹の作品で重要なものとして『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』『アンダーグラウンド』『約束された場所で』の三つをあげたけど、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』はその名のとおり、小説家の村上春樹と心理療法家の河合隼雄としての対談集になるわけで、その中で村上春樹はデタッチメントの段階からストーリー・テリングの段階に移り、今はコミットメントの段階にいると言っている。そして象徴的な言い方やけど、「個人性の井戸」を深く深く掘ってゆくことで底の方で他者とコミットするようなあり方に興味を持っている。というような意味のことを言っている。
『アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件の被害者に村上春樹自身がインタビューしてそれを個人的な話としてかなりの量を掲載したものであり、『約束された場所で』はその対象がオウム信者となっている。これらは村上春樹が始めて手がけたノンフィクションであり、インタビューの対象者自身が経験した「地下鉄サリン事件」と「オウム真理教」の物語を、体験者自身の「個人としての物語」にすることで追体験し、その個人を超えてその二つの現象である「地下鉄サリン事件」と「オウム真理教」とコミットし、その対象を捉えようとした意図を持って書かれたものだと思う。というか、今ではそういう風に理解している。当時はお前がノンフィクション書くかーそんなん村上龍に任せとけやーとか思ってたけど、今となれば、まったくドラゴンとは違うアプローチやなー。確かにの村上春樹らしいやん。と思うようになった。
そういう「個人としての物語」や「コミットメント」をキーワードにした方向性から『スプートニクの恋人』を見ればなんとなく見えてくるものはないだろうか。
ストーリはばっさり省略するけど「すみれ」が「ミュウ」に恋をして、ミュウの「観覧車の話」を聞いた後に行方不明になる。そして最終的に「すみれ」は戻ってくる(とされる)わけやけど、これは村上春樹の言う「井戸に降りる」と「壁抜け」に対する当事者ではなく傍観者から見た見方ではないだろうか。現に「僕」は「すみれ」の行方不明について「井戸のような深い場所に落ちて」というイメージを拭う事ができないし、その問題は「あちら側」と「こちら側」の関係にあるといっている。「すみれ」が象徴的な意味で井戸に入り壁を抜けた時点で「こちら側」から姿を消した。そして抜けた先の「あちら側」は「ミュウ」の「観覧車から見た外」の世界と「母がいる階段の上」の世界でしかないのではないか?そしてそれは「ミュウ」自身、「すみれ」自身にとっての物語の世界でもある。それは「すみれ」が「ミュウ」とコミットしたいと望んだからであり、母とコミットしたいと望んだからだった。そして「すみれ」はおそらく「あちら側」の世界で何事かを成し、そして戻ってきた。傍観者から見れば誰かが突然消えて、そして帰ってきたという風に見えるだろう。
最初の三人称語りが「すみれ」が消えた時点で放棄されて、「僕」の一人称語りに変わっている事で「すみれ」が「あちら側」で何をしたのかは明らかにされない。まぁそもそもあちら側に行ったことすら明らかにされてないわけやけど、それはそれとして…
『ねじまき鳥クロニクル』では井戸に降り、壁を抜け、あちらの側に行き、そして帰ってくる、のは「僕」だった。しかし『スプートニクの恋人』では「僕」ではない「すみれ」がそれを行った。それはいわば「井戸」と「壁抜け」を他者の物語として見る「僕」の物語とも受け取れるのではないだろうか。
おそらく、『スプートニクの恋人』は『ねじまき鳥クロニクル』に含まれるテーマのうちの何か一つ(あるいは複数)を村上春樹が意図的に純化させた物語なのではないかと思う。それは大雑把な言い方をすると「個人の物語性」に関連した意味での「あちら側」と「こちら側」の問題に関係する事である。と俺は思う。それからどういう結論が導かれるのかはまだ俺にはさっぱりわからんけど。
さらに言えばなんか俺はこの本についての見方で根本的な間違いをしているような気もするけど…

2006年01月04日

●『さよなら ソクラテス』池田晶子

「読んだ本の感想をまとめておく」てのがこのblog開設した一つの動機でもあったので、本の話続くけどみんな怒らずに見逃してくれぃ。生暖かく見守ってくれぃ。m(__)m

で、
以前この人の『14歳からの哲学―考えるための教科書』てのを某copan氏から借りて読んだことがある。なかなか面白い人やけどちょっと詭弁的なきらいがあるなぁという印象だった。この本はブックオフで100円で買い叩いてきた本。『ねじまき鳥クロニクル』読了後『スプートニクの恋人』を読み始める前の箸休めのつもりで気軽に読み始めた。
最初のほうこそソクラテスとその妻クサンチッペの夫婦漫才風でおもろかったけど、最後のほうになってくるとなんか喉元に刃物突きつけられたような緊迫感があった、というか切迫感を要求された。これじゃ全然箸安めになってないやん…コース料理の魚料理と肉料理の間にちょっとしたシャーベットでも食べるつもりがバケツで作ったような巨大なプリンが出てきたような感じ…もちろん良い意味で。
とにかく今日はこれ以上ちゃんと本読むのは無理やな…orz

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アマゾンの説明を借りれば、<不倫ブーム、家族崩壊、がん論争、拝金主義、高齢化問題、オリンピック…。一体この世の真実はどこにある? 史上最強の論客ソクラテスが窒息寸前の日本の難問をテーマにくり広げる対話集。シリーズ完結篇。>ということで取り扱われている内容はちょっと古い。いや、かなり古いか?まぁ、言ってることは至極当たり前。当たり前すぎて誰も語らんことを論理的に対話という形で表現してみせてる。この本に登場する「ソクラテス」のいう「当たり前」を当たり前と捉えるか、詭弁と取るかでこの本の評価は分かれるやろうと思う。まぁ俺は前者になるわけやけど、この本に俺が感じた緊迫感とか切迫感は池田晶子の哲学に対してとっている姿勢なんやなと思った。彼女の生真面目さとかストレートさに感応するような形で俺の不真面目さとか一貫性の無さを揺さぶるのやと。まさに池田晶子の狙いもそこにあるわけやけどね。
それから本来の哲学っつーもんはこういう生活に根付いた問いの立て方をせんとあかんのやとも。なんか希望に満ちて大学に入ったころのことを思い出したけど、こういう方面にこういう手法でもって知性とか知識を展開している人がいるというのは本当に見てて気持ちいいし爽快。すごいエンジンとすごいタイヤ積んだすごい軽い車に乗ったかのようなドライブ感すら感じる。でも、まぁ実際俺から見ればこの池田晶子という人は超人に見える。これだけ学歴にも文才にも容姿にも恵まれていて、それでもなおそういう「エウ・ゼーン」なるところを目指すというのはちょっと俺からは信じられん。躓きの要素はいくらでもあるわけやし。でも逆にそうであるからこそ、ある種の人にとっては(まぁ俺もやけど)多少なりとも励ましになるのだろうなとは思う。でも実際の所は「ああ!眩し過ぎる!」というのが正直なところやね。
よく考えれば不思議なことやけど『14歳からの哲学―考えるための教科書』よりもふざけた本であるはずのこの『さようならソクラテス』の方が著者の気迫とか真摯さが伝わってきた。これもこの本の最後の方で言及されてたけど、プラトンの取った「対話法」という体裁のなせる効果のせいだろうか?
まぁ、とにかくこれ読んで彼女の他の本も読んでみたいと思った。

熱中度     ★★★★☆
考えさせられ度 ★★★★☆
影響度     ★★★☆☆
総合      ★★★★☆

●『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹

この本は三部、三冊に分かれた長大な長編ということになっており、一部と二部は1994年4月12日火曜日発行と珍しく曜日まで書いてある。これはこの本の下書きにされた短編の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を意識してあるのはわかるけど、三部の1995年8月25日金曜日はよくわからん。金曜日がなんか繋がりあるんか?フライデー?なんで??
発行された時期は丁度、一部・二部と三部の間に「阪神淡路大震災」と「地下鉄サリン」事件をはさむことになる。だからといって別にその影響があるって言うんじゃなく、そういう時期に書かれた本だという事が言いたい。つまりは大分前の本だということ。
先日「村上春樹の中期以降の作品を読み直すことに決めた」って書いたけど、その趣旨は村上春樹がどう変わったか。『ダンス・ダンス・ダンス』以降で扱おうとするテーマが何になったのか。という所に興味を持ったから。他人の評論を読んで解った気になるのではなく、実際に読んでみて考えようと思ったから。本読みとしては不純な動機かも知れんけど、まぁこの本の感想もそういう方向で述べられる事になる。

画像は文庫版やけど実際読んだのはハードカバー版(アマゾンに画像が無いので…)
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『ねじまき鳥クロニクル』は今までの「失う物語」から「取り戻す物語」へと変化したという文脈で語られることが多い。まぁそれは村上春樹自身がそう言っているから。というところもあるけど、主人公の「岡田トオル」は首尾一貫してその妻である「クミコ」を取り戻そうと奮闘しているわけやし、実際にそういうことになるだろう。でもクミコを「取り戻した」って言ってもちゃんと帰ってきてるわけではないし、終わりの時点で笠原メイ以外の人間は全員どっかに行ってしまっている。これを本当に「取り戻す物語」だけで括っていいのか?と個人的には思う。確かに方向性としては「取り戻す物語」やけどね。
そして第一部と第二部で完結するつもりだったのに、「つけたし」のような形で第三部が刊行されたという点。確かに一部、二部で登場した加納マルタ・クレタの姉妹は三部ではまったく登場しないし、三部になって現れる赤坂ナツメグ・シナモン親子の登場といい、やっぱりちょっと一貫性の無さというか唐突な感じはする。
世間的には読売文学賞を受賞したこともあり、なにか完結した一番の代表作とか、村上春樹にとっての『ねじまき鳥クロニクル』は、ドストエフスキーに対する『カラマーゾフの兄弟』のような扱いを受けている感があるけど、これでもまだまだ中途半端やん。と個人的には思う。方向性のようなものは定まってきたように見えるけど、それをまだ扱いかねているような印象を受ける。だからといって面白くなかったというわけではなく、本としてはかなり面白い部類に入ると思うし、量も申し分なかった。ただ、この本で村上春樹が頂点を迎えたのではなく、まだ何かしらの途上にあるのではないか?と言いたかった。というか、途上にあってくれ。と俺が思ってるだけかも…でもこのまま村上春樹が新しい長編書くことなく死んだら実際にこれが代表作にになるんやろうなぁ…
前作の『国境の南、太陽の西』は『ねじまき鳥クロニクル』を執筆中に派生した形で出てきた物語だと言う話やけど、それは『ねじまき鳥クロニクル』で家を出て行くクミコの側に立った物語ではないかとふと思った。まぁあくまで思っただけやけど。
で、この『ねじまき鳥クロニクル』は前作の『国境の南、太陽の西』と比べると、比喩も言葉の選び方も論理の展開も、そして主人公の社会的な地位も登場人物のキャラクターも『ダンス・ダンス・ダンス』以前の村上節が戻ってきているように思う。もちろん鼠とか羊男とかの人物が出てきているわけじゃないけど、それに通じるような変わったキャラクターはふんだんに現れるし「僕」の社会的地位とか性格とかもよく似ている。そういう意味でこの作品は、ちょっと実験的な意味合いを持った『国境の南、太陽の西』とは違い、いわゆる「村上春樹ワールド」の延長線上にある話だと思う。
村上春樹は『ダンス・ダンス・ダンス』まで延々と独自世界を築き上げ、そこに読者を引き込むと言う手法をとってきたように思う。それは現実的なリアルな世界とは全く繋がりの無い世界であり独自で成り立つ世界だった。それは村上春樹自身が述べているように外部世界とのデタッチメントを目指すものであり、いわば個人としての「神話」にあたる物の構築を目指すものだったといえると思う。実際に彼はこの小説の中で個人に属する物語に対して「神話体系」という言葉を使っている。
そして村上春樹がコミットメントへの方向を取り始めた(らしい)時期のこの作品ではその個人の「神話」を「現実の歴史」に結びつけようとする試みが見られる。間宮中尉の戦時中の物語、ナツメグの父である獣医の物語、それらは実際にあった事かどうか別にして、現実の歴史として語られ、それらは密接に「僕」の物語と関ってくる。ストーリーテーリングとしての個人ごとの「神話体系の構築」は歴史的な意味で現実と繋がってくる。それは暴力の象徴としての「バット」と跳躍の意味での「井戸」がそのリンクとなるものではないだろうか?
その現実とのリンクという点とはまた別にこの本の中で「新しい世界を作る」ということについても少し言及されている。それは笠原メイの口を通して、新しい世界、新しい自分を作ろうとする試みはその捨てようとした世界、捨てようとした自分自身から仕返しされることになる。と言うことだ。
おそらくこれが村上春樹の感じていることなのだろう。つまりは新しい世界、新しい自分は前の世界や前の自分を捨てることなく構築されねばならないということになる。村上春樹はその手段の一つとして、新しい世界や新しい自分の構築に歴史的なコネクションを持たせようとしたのではないだろうか。
この物語がデタッチメントを目指した「神話体系」としての「村上春樹ワールド」の延長であり、その世界が歴史的な史実とどのような形にしろリンクしているということは、その世界をデタッチしようとした世界を否定することなく、その世界から仕返しされること無く存続させるための試みと言えるような気がする。
いわゆるデタッチメントの結果として構築されたはずの「村上春樹ワールド」は実は歴史的な繋がりとして現実世界とコミットしていた。またそれを意識することで「壁」を抜けて別の世界に行き「クミコ」を取り戻すことができた。これが村上春樹の考えている「コミットメント」の一つの形なのだろう。
しかしその歴史的史実とされる物も実は個人にとっての「神話体系」の域を出ない。それは間宮中尉の「神話体系」であり、ナツメグとシナモンの「神話体系」であるからだ。村上春樹が個人ごとの神話体系にコミットしてそれを結びつけることをコミットメントと捕らえているのか、それともこれがとりあえず何らかの一段階であると捕らえているのか。そこはまだまだはっきりしていないように見受けられた。
この辺がまだ途上にある話なのではないか。という印象を受けた理由かなと。
この本を読む直すのは多分四回目やけど、まぁ今読んでもかなり面白い本やった。家にある本は一部・二部が初版本やのに、三部だけ初版が出てから一年半ほど過ぎた後の7刷を買ってる。多分当時は一部・二部だけ読んで「お前の言うことはツマラン!!(ようになった)」と思ってたんやろうなぁ…

2006年01月03日

●走る引きこもり

年末から延々と引きこもって本読むか音楽聴くかで一歩も外に出ていない。しかもその間中ミカンと火鉢で焼いた餅ばかり食べていたので「こりゃ太る」ということで『ねじまき鳥クロニクル』を第三部まで読了した区切りもついたので、夜から自転車で走ってきた。

気づけば京都駅まで行ってて、「そろそろ引き返すかー10キロ走っているしー」などと考えながら駅ビルの下に座ってぼーっとタバコ吸って水飲んで休憩。
周りは着飾った紳士淑女ばかり、たぶん俺すげー虚ろな目。おもっきり不審者やん。地面に座っているし、自転車も前と後ろが無駄にピカピカ点滅してるし…このままでは署まで同行願われて痛くもない腹探られる。そんなカフカ的状況を潔しとしない俺は、これはヤヴァイ。という事で早々に慌てて引き返す。

で、このまま帰るのもなんやので途中でブックオフに寄る。お客のねーちゃんが一心不乱に唐沢寿明の『ふたり』立ち読みしてるのを見て、「邪魔やなー「か行」見られへんやけー買って帰れやー100円やねんからー」と思ったけど、もしかしたらその彼女はその本は読みたいけど、レジに持って行って買い、自分の家の本棚に並べるという行為が恥ずかしいのかもしれない。買うのは恥ずかしいけど読んではみたい。うんうんその気持ちわかるぞーエロ本と一緒やなー。(注)とちょっと同情したので「か行」の本棚はそのレディーに譲ることにしてその他の本棚をあさる。特に目ぼしい本はなかったのでブックオフを後にする。
(注)唐沢寿明『ふたり』を決して馬鹿にしているわけではありません。この作品の文芸的なポジションとして一般的に言っているだけです。私自身も実際に読んだこともありますし、なかなか面白い本でした。
途中でショップ99に寄って兵糧を補充。家についてメーターを見ると20キロちょっと走ったらしい。足と腕もええ具合に軽い筋肉痛になっている。

ひとしきり走って満足した俺はショップ99で買った「おかき」を食べながらこれを書いている。さっき走った分のカロリーはこの「おかき」で相殺されるんやろうな。たぶん…
しかし久々に外に出た筈やのに、本とおやつて引きこもりグッズばかり探してた。隙があればボケようとする奴っておるけど、俺は隙があれば引きこもろうとしているような気がした。

2006年01月02日

●まず土偶よりはじめて下さい

年の瀬気分とか正月気分とかにはあまり無縁な人間やけど、N響の第九とウィーンフィルのニューイヤーコンサートをテレビで見るとなんとなく、年の瀬、新年てな気分になってくる。第九の作曲者であるルイードヴィヒとN響の指揮者になったウラジミール・アシュケナージ(某Mixiの名前の由来だったりする)については激しく敬愛するお二方にてとても語りつくせないので、とりあえず今は割愛。

ウィーンフィルを指揮したマリス・ヤンソンスはさすがに人気者といわれるだけあって見てておもろかった。動きが派手やけどメリハリがはっきりしてる。なんつーか、オケのドライブ感?聴衆に対する指揮のわかりやすさ?そういうのはすごかった。と分かった様な顔をして言ってみる。つかどっかwebに彼の特徴として、そういう風に書いてあった…確かにそういわれれればそんな気がする。あくまで気がするだけやけど…
まぁ、そんなことはどうでもいいとして、そのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は「比類なきオーケストラ」とか言われてるけど、こいつらみんなが公務員やという事実はなんか日本と比べて違う意味の「国力の差」というのを感じる。
日本に純粋に芸術性だけを求められる公務員がいるか?そういう存在を認める国家や国民でありうるか?国営の能楽堂とか文楽劇場とかのハードはあるけど、ウィーンフィルほどに認められるようなソフトは皆無ではないか?
「近代化は西洋化ではない!!」とかいうつもりはまったくないけど、オーストリアという国が国家をあげて、国民をあげてその誇りとして内外ともに認める最高の芸術的集団を持っているのはかなりうらやましい。日本が誇れる芸術家と呼ばれるような人間はみんな日本が嫌になって飛び出し海外で成功した人たちばかりだ。本来なら国あげて応援すべきやのに、応援するどころか「ここにおっても駄目や」と思わせるような雰囲気を作っているのはいかがなものかと。
ハードだけ適当に用意してそれで何かをしたような気になり、ソフトを大事にしない。逆にソフトを軽んじるような方向にある風潮はいただけない。ソフトあってこそのハードではないかと。このままではどんどん優秀な人材が海外に流失してしまう。いいのか??本当にいいのか??ええわけないやん。あかんでしょ??
ということで、とりあえずどっちかと言うとソフト屋である俺に日本国家は手取りで年収1000万を約束汁!「まず隗より始めよ。」という諺があるではないか。とこれが言いたかったorz

2006年01月01日

●『国境の南、太陽の西』村上春樹

いきなり初めての投稿が本の感想(書評とは言わない)というのも何やけど、まぁ読んだもんはしょうがない。
思うところあって村上春樹の中期以降、つまりは「ダンス・ダンス・ダンス」以降の作品をもう一度読み直すことに決めた。幸い本はすべて手元にあるし、正月休みも大量にあるのでこれを生かさない手はない。まず最初は『ダンス・ダンス・ダンス』の四年後、1992年に発表された『国境の南、太陽の西』だ。
当時この本は「村上春樹」ブランドの勢いで大ベストセラーとなったわりに、そこらじゅうでボコボコに酷評されてた印象がある。今となってはあまりに古すぎる本やけど読んだものはしょうがない。この本について書いてみる。

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たしか某○○ジナ氏はこの本が村上春樹の中で一番気に入っている。といっていた記憶がある。その某カテ○○氏がどのへんを気に入ってのかはよく知らんけど、とにかく、最初にこれを読んで酷くがっかりした記憶がある。予想されたことではあったけど鼠も羊男も双子の女の子も出てこなかったし、登場人物は俺の知らないキャラクターばかりだった。それになにより、村上春樹自身がこの本について「あの封筒がなくなるようにしたのはまずかった」というようなことをどこかの雑誌のインタビュー記事に載せて「言い訳」をしていた事を聞いた事が一番大きかった。「書いた本人があかん言うてる本がええ訳ないやんか。」と。実際読んでみてもセンチメンタルなただの不倫話やし、呼んでて恥ずかしくなるようなセリフが飛び交ってるし…
アマゾンの書評でこの作品について「10年以上経って,読み返してみると,印象は全く異なっていました。」と書いている人がいたけど、俺も十年ぶりに読み返してみてやっぱりまったく印象は違って見えた。
まず、一般的に恋愛小説と呼ばれるものを読んでも、主人公に感情移入して読んだり、「恋愛小説」として読むことはほとんどなくなったということがある。
さすがにこの年になれば恋愛とか性欲というものが自分でも制御できない恐ろしいエネルギーで自分や自分の周りのものをいやおうなく押し流してゆくということを知っている。つまりはそれに押し流されることで、現実的に社会的にいろいろなリスクを背負い込んでしまうということだ。だからおっさんおばはんの領域に差し掛かった人間は無茶な恋愛をしなくなるし、決まった人がいればその人と細々と付き合ってゆくような方向を選ぶようになる。それが良い事か悪いことかは別にして。
これは俺が年を取ってそういうことから遠ざかるようになったからかもしれないけど、この間ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んだ時に感じたような「これのどのへんが恋愛小説なん?」という感覚をこの本に抱いた。恋愛の面よりもただ怖さだけが先に立った。俺がこんなんなったら怖いなーと。

次に、その「恋愛小説」の「着ぐるみ」なしでこの小説を読んでみると村上春樹が驚くほどストレートに特定のテーマについて語っていることに驚いた。それも何度も繰り返してだ。それは一言で言うと「悪意のない行動が結果として誰かを酷く傷つけてしまうことがある」ということだ。イズミとの関係が島本さんを傷つけ、イズミの従姉との関係がイズミを傷つけ、島本さんとの関係が有紀子を傷つけたようにだ。それは特に恋愛の場合に限ってではなく日常生活のあらゆる場に潜んでいる可能性といって良いと思う。
そのことに対して村上春樹はなにか方策を示しているわけではないし、それが解消されるとも言っていない。もちろんそれが良い事であるとも言っていない。ただそうあることを理解して、変わろうと努力する以外にないと言っているように読み取れた。ただひとつのことについてひたすら具体例を示しているかのように見えた。

一個の小説としてみれば、これは間違いなく「駄作」であると思う。誰かほかの小説家のデビュー作がこれなら俺は一生その小説家の文章を読もうとしないだろう。村上春樹が特に好きではない人間はこの本を読む必要はまったくないと思う。むしろ読まないほうが良いと思う。ほかによい本はいくらでもあるし、この著作が村上春樹の多くを表しているとは思えないからだ。
村上春樹はこの次の長編『ねじまき鳥クロニクル』の執筆の合間にこの著作を書き上げたという。今までのスタイルはなりを潜め、主人公のキャラクターはまったく今までと異なっている。今まで決して触れられる事のなかった子供時代のことについても深く言及されている。それに何よりこの作品は比喩やウィットで読者を煙に巻くことなく、あまりにもベタベタな小説手法で直球勝負をしている。そしてそのことは今までにないあまりに明確な「わかりやすさ」を読むものに印象付ける。
これは村上春樹自身がこの小説の主人公に明言させているように小説家としても「変わろうと努力する」ことの表れではないだろうか。事実この小説のあたりからデタッチメントからコミットメントへと興味が移行したと村上春樹自身も『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(1996年)で語っている。
村上春樹を特に好きではない人間にとって確かにこの本は価値がないだろう。それでも村上春樹の考える事、村上春樹が文章を書くことで目指すものに共感できる者にとってこの作品は、彼の作品群の中で転換的な意味を持つ作品として、彼の新しい方向を示す作品として、彼の作品群を理解するのに意味のある一冊となるのではないだろうか。少なくも俺はそう感じた。
ん、まぁ、結局褒めてないわな…

●ごあいさつ

かねてより予定しておりましたblogを開始いたしました。
どうかよろしくお願いいたします。m(_ _)m